全16件 (16件中 1-16件目)
1
![]()
ブログで紹介しようと思いながらのびのびになっていた本があります。「注文したよ」というのが2009年07月07日の日記に書いてありました。この本の読書メモをこれから書いていこうと思います。もうずいぶん忘れているし、読み返すのにちょうどいい時期です。(^^;) 『子どもを伸ばす共育コーチング 子どもの本音と行動を引き出すコミュニケーション術』(石川尚子 /岸英光、柘植書房新社、2007、1700円)(アマゾンでは、6人の評価が全員★★★★★!)=============================『子どもを伸ばす共育コーチング』1千々布 敏弥 推薦の言葉 より・――答えは相手の中にある。 相手の無限の可能性を信じる―― この理念は、教育界で常識とされながら、 多くの現場で忘れられがちになっている。岸 英光 監修者の言葉より ・子どもの本質を感じる観点や、 子どもたちに相対する立ち位置や、 関わるときのあり方を、 ぜひ感じ取りながら 読み進めていただきたい。目次より 第1章 『認められていない子どもたち』との新鮮な出会い第2章 『枠を作っている子どもたち』との前進しない対話・"答えは自分の外側にある"という枠第3章 『無気力・無関心を装う子どもたち』が自発的になる "存在承認"のアプローチ・「それって長所だよ!」~スポットライトを当てる~・ダメ出しの前にまず”受け容れる”第4章 『"わからない"で片付けようとする子どもたち』が "自分で考え始める"アプローチ・「じゃあ、どうすればいいんだろうね?」 ~ただ 受けとめて 聴く~・やる人として待つ第5章 『本当は背中を押してほしい子どもたち』が 一歩踏み出し"行動"を起こし始めるアプローチ・”プチ成功”を体験させる・「何があればやれるの?」 ~”原因追究”よりも”解決構築”~・「きっとうまくいくよ」 ~”心配”よりも”信頼”~・「どうしたらできたの?」 ~”資源”を発掘する~第6章 『無限の可能性を持っている子どもたち』が 未来に向かって"夢"を描き出すアプローチ・「こうなったら”超サイコー!”っていう状態は?」 ~未来を明るく語ってもらう~・「これができたら どんな気持ち?」 ~”危機感”よりも”ワクワク感”~・「仕事はめちゃくちゃおもしろい!」 ~コーチが常に熱い存在でいる~第7章 『これからの世の中を変えていく子どもたち』からもらった感動・”ここがあなたのいいところ”と言ってくれる存在・自分の存在価値を見出すこと第8章 『だからコーチングが大事!』 ・自分で気づくと 自発的になれる・最初からすべての資源は備わっている・この人だけは自分を見捨てないという存在=============================今日は目次までで終わり。続きはまた次回。(^^;)でも、この「目次」、ここだけで かなりいいことが書いてあるように思うのです。僕は目次に線を引きまくりました。30個所ぐらいは引きました。 子どもが自発的になるのは、一番目指しているところです。子どもだけでなく、大人もですが。そのために使えるのがコーチングとかファシリテーションだと思っています。僕が今、教師として一番身に着けたいスキル・考え方です。 ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 ↓よろしければ応援のクリックをいただけるとうれしいです。 ブログ王ランキング ▼にかとまの読書メモリスト ▼にかとま日記全件リスト
2011.10.30
コメント(0)

今日読んだ教育関係の会報とか新聞とかから、自分のためにメモをとっときます。 1か月ぐらい前に届いたものを今頃読んでいます。(笑)読んでみると、けっこう役に立つことが書いてあるんだよね。==========================・子どもの話で、「さっき言ったことと矛盾してない?」と思っても、 それを指摘しない。 理屈でなく、魂で聴いてほしい。(清水将之(神戸親和女子大学教授)の講演「養護教諭に役立つメンタルヘルス」 の記録より ~「教育ひょうご」2011年10月1日号)==========================なるほど、と思いました。子どもの話って、論理が破たんしてたり、脈絡がない、話が通じてないこと、よくあります。「それっておかしくない?」としょっちゅう思っていたんですが、矛盾を指摘するより、その裏にある気持ちを推し量る方が大事ですね。=============================○姿勢保持の問題 姿勢保持のむずかしさから、足を組んだりして体に緊張を与えている。 姿勢をよくする指導の前に 筋力をつけることが先。○鉛筆の持ち方、書字の問題 鉛筆の持ち方を矯正するには、鉛筆にダブルクリップを装着し、 つまみの部分で人差し指を挟むように持つとよい。○好きなことと、そうでないことの取り組む姿勢の違い 「やらされ感」を「やったらほめてもらえる」に。○鉛筆は右手で持つが、小さいブロックは左手でやる 左右の混乱がある場合、 旗揚げゲームなど、瞬間的に左右を判断するゲームでトレーニングする。 その時、リストバンドや腕時計を片方の手につけて左右を意識させる。(山田充先生勉強会「読み書き・算数障害への気づきと支援」報告より ~兵庫県LD親の会「たつの子」機関誌2011年9月28日号)=============================山田充先生のようにはなかなかいきませんが、僕も似たような仕事をさせてもらっているので、具体的な支援についての報告、大変勉強になりました。姿勢や鉛筆の持ち方については、授業を観察させてもらったときにとても気になるポイントです。ただ、なぜそうなるか、どうしたら今後のためになるか、ということについてはもっと勉強していかないといけないと思っています。 ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 ↓よろしければ応援のクリックをいただけるとうれしいです。 ブログ王ランキング
2011.10.30
コメント(0)
![]()
今日は音楽会の職員劇のために昔のアニメのことを調べていました。ネットで注文した「ヤッターマン」の実写映画ガイドブックを見たり、「タッチ」のマンガを買ってきたり・・・(^^)。劇の準備って、ただの余興にしか過ぎないんですけど、凝ってしまうんですよね。さて、それはともかくとして、いつもの読書メモいきます。今日は斎藤孝さんのオムニバスものです。斎藤孝さんと言えば、「声に出して読みたい日本語」。この本も、それと同じように、古今の名作を部分的に収録しています。おもしろいのは、マンガも2作入っていること。子どもの頃好きだった「まんが道」も入っていたので手に取りました。斎藤孝さんが読むときの視点を整理してくれるので、生き方・考え方を考えるうえで、なかなかいいです。『斎藤孝 人間劇場』(斎藤孝、新潮社、2002、1300円) ================================【内容情報】(「BOOK」データベースより)小林秀雄からイチローまで。21の名文をからだに響かせて生きる力を強くする。【目次】(「BOOK」データベースより)1 おくりもの/2 ともだち/3 ひとりで、やってみる/4 自分は...だ/5 こころの弱さ/6 その人はどんな人間か/7 わかっちゃいるけどやめられない================================では、いつものように、個人的に響いたところをピックアップしていきます。『人間劇場』の一端を垣間見てみましょう!================================『人間劇場』・見る眼を心得ていさえすれば、 出会う人たちが役者に見えてくる。・優れた文学は、日常において人間を見る眼を養ってくれる。・私にとっては、人間を見る眼を養ってくれるものが文学なので、 これらの文章はすべて私にとっての文学だ。・テキストは1つではなく、 2,3のテキストを比較しながら読むのが効果的。 1つのテキストを読み込むときには得ることの出来ない視点が、 テキスト相互の響き合いによって得られる。 ・「君は友にとって、 超人を目ざして飛ぶ1本の矢、憧れの熱意であるべきだ」 (ニーチェ・中公文庫『ツァラトゥストラ』より)・「刎頸(ふんけい)の交わり」(司馬遷『史記』より) その友人のためならば、たとえ首を斬られたとしても後悔しない、 それほど強い信実の友情を表現した言葉。 ・賢治にとっての自由とは、 何も負担がなかったり、抑圧がない状態ではない。 技があることによって自由を獲得するのだ。 どんな仕事にも技がある。 生まれつきの才能だけで、そこそこに楽しんでいる人間には、 強い仕事はできない。 ・アイデンティティは1つではない。 単純に、社会的な地位や民族などで答えるのではなく、 心の「張り」を持って答えることのできるものが アイデンティティだ。 逃れがたく自分の本質になってしまっているもの、 しかもそれが誰か別の他者とどこか共有されているもの。 これがアイデンティティである。 自分1人きりのものでは、他者との繋がりがない。 ・「自分が弱い人間であることを知られるのが、 死ぬほどいやだった」 「中学に入って、周囲であまりにも日常的に目にする 子どもっぽい幼稚ないじめによって、 小さないじめや嫌がらせに対する感覚がまひしていったように思う。 自分もかつて陰湿ないじめにあったことから、 人の痛みがだれよりも分かるはずなのに、 環境に慣れてしまった。」 (豊田充『「葬式ごっこ」8年後の証言』より)・かつても救いようのないいじめは歴然としてあったのであり、 子どもは放っておけばいつでもいじめに走るということだ。 いじめをなくすカギは、 大人が子どもに対して いじめは絶対にいけないという 断固とした決意を示し続けることだ。 ・「お前は、自分で自分の欠点を並べたてて、 自分の気休めにするつもりなのか。 そんなことをする隙(ひま)があったら、 なぜもっと苦しんでみないのじゃ。 お前は、本来自分にその力がないということを 弁解がましくいっているが、 ほんとうに力があるかないかは、 努力をしてみた上でなければわかるものではない。 力のない者は中途で斃(たお)れる。 斃れてはじめて 力の足りなかったことが証明されるのじゃ。 斃れもしないうちから、自分の力の足りないことを予定するのは、 天に対する冒涜(ぼうとく)じゃ。 なにが悪だといっても、 まだ試してもみない自分の力を否定するほどの悪はない。 それは生命そのものの否定を意味するからじゃ」 (下村湖人(こじん):『論語物語』の中で孔子が語る言葉)================================ 『「葬式ごっこ」8年後の証言』は、いじめを考えるうえで、学校関係者は読んでおいた方がいいと思える本です。もうかなり古い本になってしまいましたが、こうやって斎藤孝さんの本に部分的にでも収録されることで多くの目にふれることができるのは、社会的にも意義深いと思います。 それでは、また! ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 ↓よろしければ応援のクリックをいただけるとうれしいです。 ブログ王ランキング ▼にかとまの読書メモリスト ▼にかとま日記全件リスト
2011.10.29
コメント(0)
![]()
今日は気がつけば20時でした。どうも最近学校で仕事をしていると、知らぬ間にめっちゃ時間が過ぎています。時を忘れて仕事ができるというのも、ひとつの幸せでしょうか。いろいろ変化があり、それに振り回されている気もしますが、楽しんでいきたいと思います。ずっと紹介してきた本の読書メモ、今日が最終回です。いい本に出会わせてくれたことに感謝します。『障害があるからこそ普通学級がいい 「障害」児を普通学級で受け入れてきた一教師の記録』(片桐健司、千書房、2009、1600円) 今日は、最終話「いろいろな子たちとの出会いから」を参照していきます。(第1回はこちら。)================================『障害があるからこそ普通学級がいい』6(p207~。緑文字は僕のコメントです。)「教室に入れなくなった子」について・教室に戻ってこられるかどうかはともかく、 子どもたちが必要としているのは、 その子の気持ちになって いっしょにそばにいてくれる人なのではないだろうか。・それがいけないことではなく、 それがその子が自分を表現した絶好の機会であるととらえて、 その子とのかかわりをそこから問い直していくこと。僕も教室に入れなくなった子に関わることがずいぶん多くなったのですが、 1つ目の「その子の気持ちになる」が重要だと感じています。 担任の先生やクラスの友達が、そういうふうになってくれたら ずいぶんクラスにも戻りやすいのでは、とも感じています。 実際、その子の気持ちを考えようよ、という時間を学級でとっていただいたりして 子どもたちがそれからことあるごとに誘いに来たりと、 うれしい変化も感じています。 たとえ本人がクラスに戻れなかったとしても、気にしてもらえる、 誘ってもらえるということは、うれしいことなのではないでしょうか。 2つ目のことは僕にはちょっと難しいです。 まだまだ「いけないこと」と考えてしまう自分がいます。 「自分勝手にみえたFくん」について ・こちらが真剣に伝えようと思って言ったことは、 そのときはけんかになっても、 彼は心のどこかでその言葉を受け止めている。 そのときは結局けんかになってやらなかったことを、 何日かして「先生、ほら」などとやって持って来ることがよくある。僕は個人的に「音楽」が大好きなこともあり、 「音楽」の時間にリコーダーを吹かずウロウロしている子について まず自分が音楽の主指導に回って活動に誘ってみたものの撃沈して(^^;) 授業の終わりに隣の部屋で1対1でかなり真剣に思いを伝えたことがあります。 わりと最近。(^^;) 普段はほとんど厳しいことを言わないのですが、 「ここは」というポイントだけ絞って、ビシッと言うべきことを言うのは 必要だと思っています。でも、子どもとの関係が崩れないかとか、 いろいろ心配の方が大きくなって、後になると「やりすぎたかな」と反省します。 実際やりすぎたり、言い過ぎて失敗したこともたくさんありました。 でも、音楽のリコーダーについてかなり激しくやりあったときは その後4~5時間後に会ったときに笑顔で「通級に行っていいか」と聞いてきたので 「あ、関係が崩れてなかった」と思い、うれしかったです。 あのときのこちらの気持ちは、通じていたと思うのですが・・・。・彼にとって、新しく出てきたものを受け入れることは、 大変なことであるようだ。・彼の心の準備ができるまでに、ある程度時間がかかることは確かである。 だからそこはゆっくり待つ。・(エピソードを綴った学級だよりより) もう少しで、今度は私とFくんでものすごいけんかが始まりそうだった。 私も、だんだん かっかしてきたからね。 でも、そのとき、Fくんの目の奥に 「ぼくもちょっと悪かった」ってマークが見えたのね。 だから、今日はこれ以上言わないでおこうと思ったの。このへんは非常に感覚的なものなのですが、 だんだんつきあいが長くなってくると、わかってくること、 感じられることって、ありますよね。 僕はそのへんかなり鈍感なほうですが、 「あ、これは・・・」と思う兆候が見られると、 そのカンを信じて、指導や支援をがらっと変える、ということがあります。 これは本当に子どものことを見ようとして見ないとわからない、 自分のさせたいことに固執したり 子どもと自分の関係で子どもをイヤだなあと思ったりしていると わからないことだと思います。 だからこそ、「あ、今 あやまろうという気持ちになったんじゃないか」とか、 そういう気持ちの表れが感じられたときは、 嵐の中に一筋の光を発見したような気がして、うれしくなります。 「あとがき」より・もし「障害」をかかえたお子さんをお持ちの方がいたら、 そういう子でも普通学級でやれるんだ、ということを 知ってほしい。・「障害児が普通学級にいていいんだ」ということが 当たり前になったらいいなあと思う。こういう思いがあるからこそ、こんなに素敵な本ができたんだと思います。 本当に、それが当たり前になるといいなあ。 「障害児を普通学校へ・全国連絡会」について・すべての子どもに差別のない生活と教育を保障する・就学先の決定に際しては、 すくなくとも本人と親・保護者の希望を最優先させる上の2つは特に心に残ったところです。 この会には、少し前に入会させていただいたところです。 会費を振り込む前に、会報の見本をいただいたのですが、 非常に勉強になることが多く書いてありました。 特に今は「インクルーシブ教育」に向けての過渡期ですので 国際法や国内法などの情勢もふまえて最新情報を入手できる こういった会の会報は、勉強になることばかりです。================================みなさんもよかったら読んでみてくださいね。 それでは、また! ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 ↓よろしければ応援のクリックをいただけるとうれしいです。 ブログ王ランキング ▼にかとまの読書メモリスト ▼にかとま日記全件リスト
2011.10.28
コメント(0)
![]()
今日は土曜参観の振り替え休日です。といっても、図工研究会準備のため15時から出張ですが。(^^;)先ほど、インフルエンザの予防接種を受けてきました。今から、久しぶりに読書メモの続きを書きます。『障害があるからこそ普通学級がいい 「障害」児を普通学級で受け入れてきた一教師の記録』(片桐健司、千書房、2009、1600円) 今回が第5回。第4話「理紗さんと仲間たち」を参照していきます。================================『障害があるからこそ普通学級がいい』5(p129~206(第4話の終わり)まで。緑文字は僕のコメントです。)この章は、比較的最近に片桐先生が担任された子で、 1998年入学の理紗さんのことが書いてあります。・(3学期に)就学時健康診断も、就学相談も受けない「重度の障害児」が、 突然「この学校に入りたい」と来たのだから、確かに学校はびっくりした。・知らないということは、それだけ人を不安にさせる。・介助員の存在について、 その子と他の子たちとの壁になってしまう心配があったり、 担任が介助員任せになってしまったり、 あるいは教員ではない人が教員と同じ場所で仕事をするときの立場の難しさ (などの心配がある。) しかし、理紗さんは女の子。 着替えやトイレの介助も必要になってくる。 1年生とはいえ、女性の誰かが介助するのが自然である。私の勤務校にも多くの介助員さんがいてくださいます。 肢体不自由児学級の担任を持っていた時は 特にお世話になりました。・(介助員の先生に最初に言ったことは、) 「クラスの子たちが 理紗さんだけの先生というふうに思わないように」 「理紗さんべったりにならないで。 みんなで助け合えれば それが一番いいし、 そういう意味では、何もしないのが 一番良い介助だと思ってください」私も似たようなことを介助員さんにお願いしたことがあります。 介助員さんは介助員さんで、「責任をもってしっかり仕事しないと!」と 思われる方が多くおられるので、 「何もしなくてもいい」というのは、 なかなかすんなり受け入れられないことも多いです。 でも、子ども同士の関係づくりを大事にしたい、ということは 分かってもらえます。 具体的には、言葉がなかなか出ない子の介助員についていただいた時に、 友だちと介助員が、その子本人を飛び越えて会話していることを多く見かけ、 それはよくないのじゃないか、という話をさせてもらったことがあります。 「声かけ」については後でも話が出てきますが、 言葉を話せないから、分からないからと話しかけないのは、 大変これは重大な問題だという気がします。 本当は話せなくてもずいぶん分かっているものですしね。・(私からクラスの子に対しては、) 特別理紗さんのことをみんなに説明することもなく、 何をしてほしいとか、何をしてはいけないとか言うこともなく、 自然な流れにまかせて 子どもたちの様子を見ていた。・4月17日 3時間目の生活の時間に、 「友だちができましたか? だれと 友だちになりましたか?」 と聞くと 2,3人の子が理紗ちゃんの名前をあげていました。・(5/13の学級だよりの中で) 「”こういう子にはやさしくしてあげなければ” などとよく言われますが、 ”には”ではなく、誰に対しても本当はやさしくありたいし、 ”あげなければ”ではなく、普通につきあえば良いのかなと思う」・(授業について) 特別なことをしなくても良いから 普通に授業をしていればよい。・こんなことはわからないだろうとか、 言っても通じないだろうとか、 やっても無駄だろうとか、 決して思わないこと (理紗さんの可能性をいつも信じて教える)。・決して「障害」児がいるからすることではない。 クラスの子どもの誰に対してもそうあるべきことなのだ。・「障害」児をクラスの1人として受け入れる(大切にする)ということは、 実はその子だけでなく クラスの一人ひとりを大切にする ことなのだ。この塩梅が、僕は最初の頃は分からなくて、 1人の子の味方になってクラスのほかの子と 敵対するような関係になったこともありますし、 今でも、難しいな、と思っています。 特に「障担」としてその子についた時には、 その子中心でどうしても考えてしまうことがあって、 いわゆる普通学級での「交流」を考えたときに、 「この子ばっかりで、おれらのことを考えてくれてるのか」と アンケートに書かれたこともありました。 口先では「一人ひとりが大事。みんなを大切に思っている」と言えても、 みんな一人ひとりを大切にする、というのは、本当に難しい。 いや、実は簡単なのかもしれないけれど、自分としては難しいなと 感じています。・授業中、理紗さんのことばかり考えていたわけではなく、 それぞれの子のことを考えている中に理紗さんがいたわけで、 理沙さんの関心をひこうとしたこともあるが、 同様に他の子に対しても、いろいろその子に応じての声かけや、 興味をひくやり方をしていた。・声をかけることで 子どもと自分の関係がつながっていく。・(周りの子たちも)わからないから、伝わらないからといらいらすることもなく、 実に楽しげに理紗さんに話しかける。・誰かから話しかけられているということが、 そしてそういう友だちがいるということが、 理紗さんにとって(というか理紗さんだけでなく誰にとっても)、 とても大事だし、必要なことだと思う。 「個別に丁寧に」教えてもらっても 関係は育たない。自分の経験で言っても、友達に囲まれて笑顔でニコニコしている姿ほど ほほえましいものはない、と感じます。 「学校」が最も学校らしい時間は、 そういった友達と笑顔で過ごす時間にある と思います。・(障害児学級の子の交流について) 少し工夫すれば何とかなるのに、 頭から無理と決め込んでしまうことはけっこう多い。・どんな行事でも、その学校(学級)にいる子は誰でも参加するのが 原則であると思うし、危険や難しさがあるから「だめ」ではなく、 参加できない子が一人も出ないように まず教員たちは考えなければいけないだろう。 車いすの子がいたら、車いすでも参加できるような演技種目を 考えるというのも必要なことだ。・とにかく、みんなといっしょに参加できるということを まずは大事にしたい。友だちとの関係が良好だと、友だちが自然と、 一緒にするにはどうしたらいいか、を考えるようにもなりますね。 運動会のかけっこの練習で、 速く走ることには全く興味のないBくんに対して、 両側から手をつないで走っていた女の子たちの姿を思い出します。・理紗さんは、いつの間にか クラスの1人として、 欠かせない存在になっていた。・1学期の終わり頃、母親からの連絡帳で、 クラスの子どもたちが(校区外の)理紗さんの家に遊びに行ったことを知った。僕が最も気にしているのが、実は学校での友達同士の様子ではなくて、 家に帰ってから遊びに行く関係かどうか、ということです。 小学校を卒業してちがう中学校に行ったにもかかわらず、 今でもBくんの家に遊びに行くと言っていた友だちのことを思い出します。 また、阪神淡路大震災のときに、「障害」のある友達のことを心配して まっ先にかけつけた子の話も、聞いてからずっと忘れられない話です。 「障害」のある子が、地域の中で共に育つ、ということは、 簡単ではありません。 もし周りとの壁や距離があれば、 家に遊びに来る子もいない、何かあったときに気にしてくれる友達もいない、 そういうことが普通に起こりやすい状況にあります。 だからこそ、「昨日、Bくんの家に遊びに行ったよ」と子どもたちから聞いたり、 親御さんから家庭訪問で「よく友達が遊びに来てくれます」と聞くことは、 本当にうれしい、喜ばしいことだと感じています。 そういうことは普通のことかもしれませんが、 それが一番うれしいことなのです。・(介助員がいなかった日について) Tさんがいないなら自分たちがやらなければと、 子どもたちは、理紗さんに必要な手伝いを自然にやっていく。 介助員がいないことで、新たなかかわりが生まれてくることも確かだ。 (第4話「理紗さんと仲間たち」より)================================文章量としてはこの章が一番多いです。ここで紹介できなかった部分もたくさんあります。「ともに学ぶ」際に気を付けるべきことや具体的な実践事例について、大変詳しく書いてあり、勉強になりました。 次回が最終章第5話「いろいろな子たちとの出会いから」です。では、また 次回!
2011.10.24
コメント(0)
![]()
今日初めて知りましたが、喜多川泰さんの新刊が先月発売されていたんですね。喜多川泰さんの本はこれまで読んできてとてもよかったので、今回もとても楽しみです。さっそく注文しました。 『母さんのコロッケ 懸命に命をつなぐ、ひとつの家族の物語』(喜多川泰、大和書房、2011/9、1400円)今回は「ベストセラー作家が贈る究極の家族小説」ということ。家族の物語は感動するツボなのです。読む前から、泣きそうです。(^。^;) 喜多川泰さんの本で今まで読んだ本はこちら。 ▼『心晴日和』~第1部 美輝 十四歳 (読書メモ) ▼喜多川泰『賢者の書』1 ~まずは、受け入れる。 ▼喜多川泰『「また、必ず会おう」と誰もが言った。』 ▼喜多川泰『手紙屋』~あなたが成功した後に出会う大応援団僕が一番最初に読んだのは『心晴日和』。今でも、これが一番好きです。 ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 ↓よろしければ応援のクリックをいただけるとうれしいです。 ブログ王ランキング ▼にかとまの読書メモリスト ▼にかとま日記全件リスト
2011.10.20
コメント(2)
![]()
『障害があるからこそ普通学級がいい 「障害」児を普通学級で受け入れてきた一教師の記録』(片桐健司、千書房、2009、1600円) 読書メモの続きです。今回が第4回。第3話「和彦くんがしゃべった」を参照していきます。(第1回はこちら。)================================『障害があるからこそ普通学級がいい』4(p95~128(第3話の終わり)まで。緑文字は僕のコメントです。)筆者は前回の「直ちゃん」の後、 また1年生担任となり、「和彦くん」を交流先の担任として 受け持つことになります。・(和彦くんはそばにいる人に頭突きをするが、) 周りの子たちが慣れて、よけ方がうまくなったりして、 そのことが生活上での大きな問題ではなくなった。・子どもの数が少なければそれが一番子どもにとって良いかというと、 そうとも言えない。 みんなでいっしょに考え合うような授業をするときには、 人数の多い分、いろいろな意見が出されたりして、 かえっておもしろい授業になったりする。これは僕も同じことを感じていました。 去年、僕は新学習システムという立場で、中学年の算数を担当していました。 担任の先生と、子どもたちを半分ずつの人数にして違う教室で教える 「少人数授業」をするのか、それとも担任と一緒にクラスに入って教える 「同室複数指導」をするのか、その判断基準はなんなのかということを ずいぶん考えました。 出た結論が、ここで書いてあることと同じことです。 意見交流など、多様な意見を出してほしい内容の時は「同室複数」、 問題をどんどん解くなど、交流よりも各自が練習問題を進めるようなときは 「少人数授業」というふうに、一応思っていました。 本当は全く分けなくてもいいとも思っているのですが、 一応、ハーフ(半分ずつの人数)での「少人数授業」も することになっているので・・・。・給食当番だけでなく、掃除当番も、係り活動も、 和彦くんはみんなと同じように必ずどこかに入った。 決して特別な存在ではないということを、 和彦くんにも周りのみんなにも意識してほしかったし、 できないからやらないではなく、 やっているうちにできることが必ず出てくるという思いもあった。・それでなくても1年生の給食指導は大変で、 そういう中に和彦くんがいたら、もっと大変になるだろうということは 想像できる。 でも必ずしもそうではなかった。 これは不思議なことだが、 子どもたちの中になんか「しっかりしなくては」という気持ちが 生まれていたのかなという気もする。・(この話の目玉となる「和彦くんがしゃべった」エピソードは、 省略します。臨場感のある記録が載っているので 本書を参照ください。(^^;))・分けられた空間で「訓練」して いくつかの言葉が言えるようになったとしても、 それを聞き合う関係がなかったら、意味はない。 でも、いっしょに生活していれば、聞こえない言葉を聞くことができる。・我々の予期しないところに 彼の可能性はあった。この章の中で、「勉強ができないというだけで その子の人間性まで否定されてしまいそうな世の中で」 という記述があります。 この章を読んで、「できる」「できない」ということを、 非常に考えさせられました。 ちょうど今日、3年生に向けた「理解教育」がありました。 3年生全員を一堂に集めて、特別支援学級や通級教室について 説明したり、そこに通っている子のがんばっていることを伝えたりする会です。 そのまとめの時間に、特別支援学級担任でコーディネータの先生が こんなことを言われました。 「できることはいいことだけど、できないことは悪いことではない」 「できない」ことを悪いこととみなさない価値観。 「できない」ことを笑顔で受け入れられるクラスや学年。 世知辛いこの世の中で、こう言い切られた先生のすがすがしさ、 軽いショックと感動を覚えました。 自分自身、「できないことは悪いこと」とずっと思ってきた気がします。 「できない」ことを受け入れられたとき、 自分にも、他人にも、寛容になれる。 それこそ、共生社会への第一歩なのかもしれません。(第3話「和彦くんがしゃべった」より)================================第4話は「理沙さんと仲間たち」です。では、また 次回! ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 ↓よろしければ応援のクリックをいただけるとうれしいです。 ブログ王ランキング ▼にかとまの読書メモリスト ▼にかとま日記全件リスト
2011.10.19
コメント(0)

『障害があるからこそ普通学級がいい』の読書メモを書いていた途中でしたが、乙武さんの『希望』の読書メモをはさみます。3年間の小学校勤務の経験を活かし、被災地でおこなった特別授業、そして始球式・・・心に残ったところがたくさんありました。 『希望 僕が被災地で考えたこと』(乙武洋匡、講談社、2011/7、1300円)================================『希望 僕が被災地で考えたこと』・(震災に遭って)僕は、おそらく人生ではじめて、 自分自身の障害を眼前につきつけられ、 その境遇に胸がつまるような数日間を過ごしていた。・ずっと気になって仕方がなかった。 被災地に暮らす障害者の存在が。 東京に住む僕とは、比べものにならないほどの恐怖を感じていることだろう。 不安を抱いていることだろう。 いま彼らはどんな生活をし、何を感じているのか。・使いやすいように工夫された居住空間。 日常的に服用している薬。 あたたかく見守ってくれる理解者の存在 ――障害者の生活は、これらの環境が整うことで、 ようやく成り立っているケースがほとんどだ。 障害のある人にとって、 慣れない避難所での生活は、 精神的にも、肉体的にも 負担が大きすぎた。・一方的に浴びつづける善意は、 やがてボディブローのように効いてくる。 相手に「してもらう」ことは本当にありがたいことだが、 その関係性があまりに一方的だと、 いつしか自分を卑下するようになる。 それは、物理的に「してもらう」ことの多かった僕が、 小さな頃から闘ってきた葛藤でもある。・(被災地の小学生たちへの特別授業。終わりの場面を引用↓) 「今日、僕がこの教室に入ってきて、この体を見たときに、 ボールが蹴れたり、バスケのドリブルができたりなんて 想像できた人いる?」 子どもたちは、だまって首を横に振った。 「いないよね。 ところが、実際にやってみたら、どうだった?」 「できた!」 「すごかった!」 サッカーやバスケの場面を思い出しているのか、 子どもたちは目を輝かせながら答えてくれた。 「だからね、みんなにもあきらめないでほしいんだ。 これから先、つらいことや苦しいことがたくさんあるかもしれない。 そんなとき、『もうムリだ』とか『できっこないよ』なんて言わずに、 この日の授業のことを思い出してみてほしいんだ。」・(GWの東北楽天ゴールデンイーグルスの始球式のところから引用↓) 「手足がないのに、そんなことができるなんて」 僕の”あたりまえ”に目をうるませ、 「私も頑張らなきゃ」と自身を奮い立たせる人々がいた。 そんな視線を、僕は幼い頃からずっとわずらわしく思ってきた。 「障害者だから、どうせたいしたことはできないだろう」 そんな前提があるからこそ、まわりと同じことをしただけで 「すごいね」とほめられるのではないか。 僕は、ほめられていながらも、どこかバカにされているようで悔しかった。 (略) みんなと同じことをしただけで「すごい」と評価されることを 複雑に思う気持ちは、いまも変わっていない。 だからこそ、自分の気持ちの変化におどろいていた。 今回の始球式で、僕がボールを投げる姿を目にした被災地の人々は、 いったいどんなことを感じてくれるのだろう。 やはり、これまで僕の周囲がそうだったように、 おどろき、涙を浮かべ、「私も頑張ろう」と みずからを奮い立たせてくれるのだろうか。 それならば、それでいい。 いや、「それでいい」などというあっさりとした感情ではない。 「ぜひ、そう感じてもらいたい」 そう強く願っている自分がいることに、 僕自身がおどろかされた。・炊き出しや瓦礫の撤去、ヘドロの掻きだしなど、 物理的なボランティアをすることができず、無力感にさいなまれていた。 「みんなと同じ」支援をすることばかりを考えていたのだと思う。 支援の仕方だって「みんなちがって、みんないい」はずなのに。================================乙武さんだからこそ感じられたこと、たくさんあると思います。この本を読んでよかった、と心から思います。こういった本を読むことで、いろいろな感じ方、いろいろな人のこと、そして今回の震災にあった人たちのいろいろな生活や思いがかなりずっしりと感じられると思います。おすすめです。ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 ↓よろしければ応援のクリックをいただけるとうれしいです。 ブログ王ランキング ▼にかとまの読書メモリスト ▼にかとま日記全件リスト
2011.10.16
コメント(2)

昨日のブログアクセス数が1153を記録しました。1000を超えたのは初めてです。ありがとうございます!この土日は、音楽会で職員が演奏する曲の楽譜づくりをしています。昔から今までのアニメソングというテーマで選曲から苦労しています。今の子どもも知っているものがいいなということで有名どころやリバイバルしたものをチョイス。今のところ・ヤッターマンの歌・鉄腕アトム・タッチは楽譜を用意しようと、せっせと作業中です。ヤッターマンがえらく楽器が増えて演奏も難しくなってしまったのだけど・・・まあ何とかなるかな?(^^;)イチから作るのは大変なので、ヤマハのMIDIデータショップというところでヤマハの人が作った音楽データを購入して、それをアレンジしています。ハ長調に移調したり、パートとパートをくっつけたり、難しいところの音をけずったり。がんばります。(^0^) ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 応援のクリックもいただけるとうれしいです。 ↑ブログ王ランキング
2011.10.16
コメント(0)
![]()
先ほど『障害があるからこそ普通学級がいい』の読書メモ(第3回)をアップしました。10月10日に書きかけていた記事をアップしたので、日付が10月10日になっています。(^^;)それから、 『通常学級の特別支援セカンドステージ-6つの提言と実践のアイデア50』という本を、今しがた読み終えました。 『通常学級の特別支援セカンドステージ』 / 佐藤 槇二 著最近は、読んでいる本・読んだ本は、ブクログに載せるようにしています。今回は簡単なレビューも書きました。通常学級の特別支援セカンドステージ―6つの提言と実践のアイデア50佐藤 愼二日本文化科学社発売日:2010-12-25ブクログでレビューを見る»著者の佐藤先生は知的障害の娘さんがおられる。「親」の立場でもある方からの、あたたかい「特別支援教育」についての提言である。特に、保護者への支援について、学ぶべきところが多かった。中核としては、通常学級の学級づくりやルール作り、誰も見捨てない教室づくりについて具体的な提言がされている。また、子どもたちと実際にやってみるととても盛り上がりそうな「ミニネタ」も満載。巻末には疑似体験具体的プログラムも。職員のための理解研修で使える。 ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 ↓よろしければ応援のクリックをいただけるとうれしいです。 ブログ王ランキング ▼にかとまの読書メモリスト ▼にかとま日記全件リスト
2011.10.13
コメント(0)
![]()
先ほど、僕のブログへのコメントで、小林正観さんの訃報を知りました。一瞬、目を疑いました。書き込んでくださった方には大変申し訳ないのですが「本当に??」という気持ちで、いてもたってもいられず、新着ニュースを検索できる「フレッシュアイ」に行って「小林正観」とキーワード検索し、新着ニュースをチェックしました。・・・十中八九、事実のようです。ネットでの情報を総合すると、本日 10月12日未明 午前5時41分山梨県富士吉田市の病院にて62歳にてご逝去されたとのことでした。いただいたブログコメントへの返信でも書きましたが、小林正観さんには、苦しいときに著書を読んで助けられたり、感謝の心の大事さを教えていただいたり、肩ひじ張って生きなくていいんだよと優しく諭されたり、非常に恩を受けた、と感じています。今後も、著作を購入させていただいたり、一度は講演に伺わせていただいたり、しようと思っていました。それだけに、非常に残念です。残された小林正観さんの著書をもう一度読み返したい気持ちでいます。(ちょうど今、書棚に読みたい本の1つとして『啼かなくていいホトトギス』があります。) 今日は本当は別のことを書こうと思っていたのですが、そんな気が一気に吹き飛んでしまいました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。 P.S.正観さんは講演や著書出版以外に、歌も歌われていました。 「お礼の歌」というCDがあります。 僕は車の中に入れています。 ご存じなかった方は、ぜひ一度聴いてみてください。 『お礼の歌』( 株式会社SKP、1000円)
2011.10.12
コメント(0)
![]()
『障害があるからこそ普通学級がいい 「障害」児を普通学級で受け入れてきた一教師の記録』(片桐健司、千書房、2009、1600円) 読書メモの続きです。今回が第3回。第2話「みんながいっしょがいいとあらためて思わされた直ちゃんとの6年間」を参照していきます。第1回はこちら。 ================================『障害があるからこそ普通学級がいい』3(p47~(第2話の終わり)まで。緑文字は僕のコメントです。 文中の「特殊学級」は、1970年代当時の言い方で、 現在は「特別支援学級」です。)筆者は1年3組の担任となり、 「直ちゃん」を交流先の担任として受け持つことになります。・うまくいくか、いかないかの問題ではない。 もうこの子は自分のクラスの子だと思わなければ、 中途半端になってしまう。 何があろうと、何が起ころうと、自分はこの子といっしょにやっていく、 そう考えた。・できたら担任1人でやってみたい。 だから特殊学級の担任はあまり教室にも来てほしくないと思っていた。・部分的な「交流」で、クラスの人間関係がうまくでききらないことは、 それまでの3年間の「交流」の実態から見ても明らかなような気がした。このあたりから、この学校での「交流」の取り組みが、 「全面交流」に向かっていきます。 通常学級担任の意識の高さ、 どんな子でもクラスの中で見ていくという意気込みが 校内に波及していった結果だと思います。 日本の学校制度では、特別支援学級の在籍児童は、 通常学級には本当は「籍がない」ことになっています。 これは非常におかしなことです。 おかしいということがわかっているので、 法制度はどうあれ、通常学級の名簿に載せたり、 あたかも「通常学級の一員である」ように振る舞っている学校は いくらでもあります。 子どもたちは当然、クラスの一員だと思っています。 そして、クラスの友達として、友達のことを考え、 一緒にやっていくのにはどうしたらいいか、工夫を凝らすのです。 通常学級担任は、 「この子の担任は僕じゃない。この子は交流できているだけ」と思う人と、 「特別支援学級の担任も担任だけど、僕も担任だ」と思う人に分かれます。 僕は、後者でありたい、と思っています。・まるで関係ない感じでいた子が、実はその子のことをしっかり見ていて、 いざというときにその子を助けたり、 表面ではわからない子どもたちの関係がつくられていく。・私の方が、時間を気にして、着替えなど手伝おうとすると 「先生、だめだよ。 直ちゃんはそれは自分でできるんだから」 と言われたりした。 先に、子どもたちの方が 直ちゃんのことをわかっていた。・私が子どもたちに、直ちゃんについて ああしろ、こうしろと言ったことは ほとんどない。 子どもたちは、全く、勝手気ままに お互いの関係をつくっていく。・入学後しばらくの記録を見ると、 こちらがお手上げ状態でも、 その子自身も周りも確実に変わっていくことがわかる。 あせる必要はない。・記録を取って良かった。 子どもの小さな変化や成長がそこに見つけられる。僕も、記録はなるべくとるようにしています。 汚い字で走り書きするので後で読みにくいのですが。 このブログのように、他の人に見せるときには デジタルで打ち直します。 この方が見やすくて、自分のためにも役立っています。(^^) ・直ちゃんとのこの体験から、私は、 何かうまくいかないことがあっても、まずゆっくり待とう、 子どもは必ず変わる、ということを 心にしっかり留めておくことにした。僕の好きなブリーフセラピーの考え方に 「変化は必然である」というのがあります。 子どもの場合は特に、短時間でどんどん変化します。 そのときそのときのできないことや悩みにこだわってしまうのは あまり意味がないかもしれませんね。 ・先生が「個別に丁寧に」教えなくても、 周りの友だちから学んでいく。・周りの子たちもなんの意識もせずに、 いろいろな友だちとのかかわり方を学んでいる。・いつまでも親切にしたり、 「障害」があるからとやさしくしたりはしていられない。 つきあうことの面倒くささもいっぱい体験する。・つい、面倒くさくなると「いいよ」と許してしまう私に比べて 子どもは実に厳しい。 給食時の手洗い、給食当番、掃除当番など。 「やらなきゃダメ。直ちゃんは当番でしょ」 2,3人がかりで、背負ったランドセルをもぎ取り、 ぞうきんを持たせてカラぶきをさせる。 私が手出しをするより、子どもに任せたほうがスムーズに運ぶのである。・ 「専門性」よりもその子を受け入れる姿勢が、その子を変えていく。 (第2話「みんながいっしょがいいとあらためて思わされた直ちゃんとの6年間」より)================================自分も、特別支援学級担任をしていた時に、同じように通常学級で周りの子からの積極的なかかわりがあったなあ、と思いだし、友達を思うやさしさや強さ、一生懸命さを思い出して、感無量です。たぶん、こういう子ども同士のかかわりが、学校の先生としては一番うれしい場面ではないでしょうか。 次の第3話は「和彦くんがしゃべった」です。この本の各話は、すべて実際にあったことの詳細な記録なので、読んでいて面白いです。自分もその場に居合わせて、子どもたちや先生と一緒に泣いたり笑ったりしている気分になります。 では、また 次回! ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 ↓よろしければ応援のクリックをいただけるとうれしいです。 ブログ王ランキング ▼にかとまの読書メモリスト ▼にかとま日記全件リスト
2011.10.10
コメント(0)
![]()
『障害があるからこそ普通学級がいい 「障害」児を普通学級で受け入れてきた一教師の記録』(片桐健司、千書房、2009、1600円) 読書メモの続きです。前回はこちら。 ================================『障害があるからこそ普通学級がいい』2(p11~46(第1話の終わり)まで。緑文字は僕のコメントです。 文中の「特殊学級」は、1970年代当時の言い方で、 現在は「特別支援学級」です。)前回の最後に出てきた「交流」の提案以後、 学校内で少しずつ「交流」がはじまりました。・交流が始まって1か月くらいたった頃 男の子「のぶって、変なやつかと思ったけど そうでもないね。 俺たちと同じだね」 筆者「そう、自分もそう思った。 のぶちゃんもみんなも同じ子どもだよね」・いっしょに生活してみて初めてその子(人)の本当のことがわかる・けんかもあるが それだけ対等な関係ができてきて、 のぶちゃんは、着実に4年3組の1人になっていった。・いくら学校で繰り返し教えてもおぼえられなかった文字を、 彼は友だちと遊びに行った体験を通してあっさりおぼえてきた。★個別に丁寧に教えればできるようになるとよく言われるが、 たった一度の友達との体験のほうがずっと彼の中では意味があった。・マニュアル化されたノウハウよりは、 子どもとつき合いながら得ていくもののほうがずっと大きい。 まずは いっしょにやってみることから始まる。・(のぶちゃんを一番前の席にしていたら、 特殊学級担任が、そんな様子を見て ぽつんと言った。) 「なんで一番前にするのかなあ。 これじゃあ 他の子の様子が見えないじゃない」この言葉、なかなか言えないですよ。 今の教育現場でも、配慮の必要な子は一番前にして 教師の目が一番届きやすいように、声掛けがしやすいようにするのが セオリーです。 ところが、この先生は「周りの子を見て学ぶ」という 大人が見過ごしがちな学び方について、ちゃんと見取っている。 ここは、自分としてはかなりの驚きをもって読んだところです。 「なるほど、そういうことも言えるのか」と思いました。・授業がわからないと子どもがかわいそうとかよく言われるが、 本当にそうだろうか。 わからなくても 楽しければ それで良いではないか。 喜びは自分で感じるもので、 人から押しつけられるものではない。 習ったことをすべて理解しなければならないというものでもない。ここもまた驚きをもって読んだところです。 僕も「たのしい授業」という雑誌を読んだりして 楽しい授業を追求したりしてきましたが、 「わからなくても楽しければよい」とはなかなか思い切れませんでした。 いや、もちろん、「わかる授業」かつ「楽しい授業」が ベストなのですが。 じゃあ「わかる」のと「楽しい」のとではどっちをとるの? と言われたら・・・これは非常に悩みます。 ただ、「わからない授業」の中にいても、とても楽しそうにしている 「のぶちゃん」の様子を見て、筆者の片桐先生が 「のぶちゃん」が授業中にクラスの中にいる意味を感じられたのは、 僕は、けっこうよくわかります。 ここは、でも、竹を割ったようにそうとは言い切れない、 いろんな意見がある部分だと思います。・授業時間のことだけではなく、 みんなといっしょに生活していると、 生活そのものがさまざまな学習に結びついているということを 思わされる。・算数の時間ではわからなかったりできなかったりする数や計算が、 生活の中ではできていたりする。・何かができなくても それを補う別の力を発揮できることがある。・いろいろな子がいていい。 いろいろな生き方があっていい。 みんなが一律にそれ(文字や計算)をできなければいけないというものでもない。 でも、教師はそれをめざしてしまうんですよね。 「できる」ことにこだわるのが、教師という職種だと言えそうです。 僕の場合は、できることが非常に少ないお子さんを担任させていただいて 「できる」こと以外の目標を少しずつ感じ始めたところですが、 それでもやはり「できる」ということにはこだわっている自分がいます。 「できなければいけない」と思うか、 「できなくてもかまわない」と思うか、 微妙なところですが、僕の場合7:3で前者ですね。 このあたりも、ちょっと突き詰めていきたいところです。 「できなければいけない」は、できない子を排除する論理にもなりがちです。 でも、「できない」ことを「できる」ようにするのが学校だという気もします。 大切なのは、その子によって違う、ということを受け入れること。 しかし、それでも、クラスや学校の中で折り合いをつけていく そのたびごとのしんどさというのは、生じてきます。 個別で、別室で、分けてやった方が、よっぽどラクなんですよね。 そういう、いろいろな側面があるということを感じながら、 それでもクラスの中で「いろいろな子がいていい」とはっきり思える強さというのは、 子どもたちにとって格別の安心感と連帯を与えるでしょうね。 非常に、難しいテーマだと思います。・体育館でマット運動をしたとき、 特殊学級の担任は、驚きの表情で 「のぶちゃんは、五組ではマット運動をやろうとはしなかったよ」・「個別に丁寧に教える」より、 仲間の力が、彼を変える。 彼の存在がまた、周りを変える。・(6年生になってリレーをやることになって) のぶちゃんも含めて、みんながどうリレーに参加できるかを、 真剣に考えた。 お互いの違い、能力の差を乗り越えた関係の大切さを知り、 みんなが協力して何かを作り上げるということのすばらしさを 知ることができた。乙武洋匡さんの『五体不満足』に出てきた 「オトちゃんルール」を思い出します。・1人として、いてはいけない子はいない。 どの子も、かけがえのない、貴重な存在なのだ。 何かが少しできるようになることより、 そういうお互いを大切にしていく心の方が ずっと育ってほしいことのように思う。(第1話「普通学級にいついてしまったのぶちゃんから教えられたこと」より)================================エピソードについては非常に断片的にしかふれていませんが、そのエピソードが感動的なのです。本を実際に読んで感じていただきたいです。 第2話は「みんながいっしょがいいとあらためて思わされた直ちゃんとの6年間」です。今回と同じように、次回、読書メモ(部分的な抜粋・引用・感想)にてまとめたいと思います。では、また 次回! ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 ↓よろしければ応援のクリックをいただけるとうれしいです。 ブログ王ランキング ▼にかとまの読書メモリスト ▼にかとま日記全件リスト
2011.10.09
コメント(0)
![]()
木曜日に、私が主催する「障害児教育部学習会」に講師の先生をお呼びして「特別支援学級とホームルーム(「交流」学級)のつながりをどう作るか」というテーマで学習を深めました。その席で僕は、前回の日記で書いた『障害があるからこそ普通学級がいい』の本について、冒頭で紹介しました。そうすると、講師の先生と、その本の著者の片桐先生につながりがあることが分かり、びっくりしました。片桐先生からはメールでお話しすることもでき、ブログで紹介することも快諾していただきましたので、これから何回かに分けて、本の中身を紹介していきたいと思います。文部科学省は、障害のある子とない子の「交流及び共同学習」をすすめています。しかし、世間一般には「障害のある子には特別な対応が必要」という意識が根強く、「ともに学ぶ」ことは非常に難しいことだと認知されている気がします。この本で出てくるような「ともに学ぶ」実践は、本として書店に並ぶことも少なく、「そういう学校があるんだ」「そういうケースもあるんだ」ということがほとんど知られていません。だからこそ、「ともに学ぶ」実践における工夫やメリットについてこういったブログで広めていきたいと思っています。ブログでは断片的な引用・紹介になりますので、興味をもたれたら注文してくださいね。『障害があるからこそ普通学級がいい 「障害」児を普通学級で受け入れてきた一教師の記録』(片桐健司、千書房、2009、1600円)================================『障害があるからこそ普通学級がいい』1(p10まで。緑文字は僕のコメントです。)・「障害」があろうとなかろうと みんないっしょが良い・「子どもは子どもの中で育つ」 どんなに専門的な教育や訓練よりも、 周りの子どもたちとその子の関係の中で子どもたちは育つ。 上の2つについて、僕もそう思いますし、 非常に大事な点だと思います。 すなわち、裏を返せば、 ・「障害」を理由に排除するのはよくない。 ・「学校は勉強するところ」というけれど、 勉強するだけなら家でも塾でもできる。 「学校」の最大のメリットは子ども集団の中で学ぶという点にある。 ということです。 「友だちの中で過ごす」という権利は最大限に尊重したい、 それが僕の願いです。 そういっておきながら、通級の担当として 別室の個別指導をすることもあるわけですが、 やはり「クラスでみんなと学ぶ」ことを基本にしたいという気持ちは 変わりありません。・私が教員になったばかりの頃 同じ学校内にある特殊学級について、 そこで何が行われているのか、 そこがどんな状況なのかも知らずに私は過ごしてきた。 特殊学級というのは、はっきり分けられた存在としてそこにあった。僕の子ども時代でも、そうでした。 神戸の小学校に通っていましたが、特に交流はなかったように思います。 ただ、僕の場合「周りを気にしない子」であったのと、 すぐに忘れる、という特性があったので(^^;) 本当は実は交流や理解を図る学習があったのかもしれません。・私が教員になって4年目、 特殊学級担任が「交流」の提案をした。 (1973年) 「普通学級と特殊学級では、やっていることが違うのに いっしょに勉強できるのか」 「特殊学級の教員は特別な手当をもらっているのに、 普通学級の教員に子どもを教えさせるのはおかしい」 などなど、反対意見が次々に出てくる。 特殊学級担任の話はこうであった。 「5組(特殊学級の名称)の子がろうかを通るときにですね、 普通学級の子とすれちがうと、 普通学級の子は何かきたないものが来たかのように 体をよけて通るんです。 (略) 5組の子が使った蛇口には誰も並ばなくなるんです。 これは、子どもたちが理解しあえていないからでは ないでしょうか」ここに出てくる反対意見は、今でもよく聞かれます。 実際にどうするのかを考えた時に、こういった反対意見も汲み入れて、 そのうえで工夫したり、職員が協力することが求められます。 僕の経験では、「やっていることが違うのに、一緒に勉強できるのか」 については、できます。 詳しいことはまたおいおい書くことになると思うので今は割愛します。 特殊学級(特別支援学級)教員の手当については、 僕の前の勤務地域では「この手当はおかしい」ということで 手当を受給した教員がその分を出し合って、子どものために役立てる、 ということをやっていました。個人的にはこの手当はなくしたほうが 余計な職員間の対立を生まなくていいと思っています。 とはいえ、今は僕は普通にこれを受給しているんですよね。 「特別」なことをしているつもりはないのにこれを受給しているのは 大変心苦しいのですが、教材や専門書を買うのに使っています。(つづく!)================================この後、「交流」をすることになって、それがどんどん進んで行って・・・という展開になりますが、それは次回のお楽しみということで。教育者以外の方が読んでも、実際にあったドラマとして大変おもしろいですよ。 ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 ↓よろしければ応援のクリックをいただけるとうれしいです。 ブログ王ランキング ▼にかとまの読書メモリスト ▼にかとま日記全件リスト
2011.10.08
コメント(0)
![]()
片桐健司先生の書かれた『障害があるからこそ普通学級がいい』を読みました。 『障害があるからこそ普通学級がいい 「障害」児を普通学級で受け入れてきた一教師の記録』(片桐健司、千書房、2009、1600円)============================【目次】(「BOOK」データベースより)第1話 普通学級にいついてしまったのぶちゃんから教えられたこと/第2話 みんないっしょがいいとあらためて思わされた直ちゃんとの6年間/第3話 和彦くんがしゃべった/第4話 理紗さんと仲間たち/第5話 いろいろな子たちとの出会いから============================心に残ったところがたくさんあります。今回はそれは置いといて、この本の巻末で知ったことについて。「障害児を普通学校へ・全国連絡会」というのが、あるのだそうですね。永六輔さんらが呼び掛けて出発した会だそうです。会のホームページにくわしい紹介が載っています。http://www.zenkokuren.com/aboutus/aboutus0.htmlここで作成されている就学相談のリーフレット、これがとてもきれいで、よくできていました。(下に、部分抜粋しました。全部見るには、上のリンク先からどうぞ。) 恥ずかしながら、僕はこのことを知りませんでした。「校区の普通学校(公立学校)」に入れるのは知っていましたが・・・。実際、今日読み終わった本には、「重度の障害児」と言われた子が特別支援学級ではなく、「普通学級」に入った話が載っています。もちろん他の子と全く同じ対応ではなく、その子に必要な支援が講じられての入学ですが。「障害」についての考え方は人それぞれいろいろあると思いますが、リーフレットの最初に書かれているように、「障害があるから」ということで決めつけていたり、思い込んでいたりすることが、かなりあるのではないかと思います。この会のリーフレットを読んで、「就学」の流れがかなりよく分かりました。いろいろな子に対応できる教員をめざすためにも、「こうだからこうなんだー!」という決めつけではなく、「こういうことあるんだな」と知っておける存在でありたいです。『障害があるからこそ普通学級がいい』の本の中身については、ぜひ広く紹介したいと思いますので、またあらためてブログでふれたいと思います。 ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 ↓応援のクリックもいただけるとうれしいです。 ブログ王ランキング ▼にかとまの読書メモリスト ▼にかとま日記全件リスト
2011.10.04
コメント(0)
![]()
ちょっと前からネットオークションをやっています。ずっと探していたものを発見し、落札できたときにはとてもうれしかったです!探していたものというのは音楽座ミュージカルの曲「ドリーム」。この曲が入った子ども向けのベストアルバムがあるのですが、それを楽譜付きで落札できました。出品者の方にはとても親切に対応していただき、本当に感謝しています。 【送料無料】メッセージ・ソング ハッピースマイル ともだちのうた 2363円 ↑新品でも手に入ります。このCDは 「すいかの名産地」「ドリーム」など、 なかなかお目にかかれないレアな音源を多数収録しています。 「ビューティフル・ネーム」をゴダイゴが歌っていたり、 「原曲」と呼ばれているバージョンでの収録が多いのもうれしいです。 僕が超おススメの「きみにあえてうれしい」も収録。 現存する子どもの歌オムニバスアルバムの中で最高水準の収録内容です。このCDを含め何回かヤフーオークション(ヤフオク)を利用しました。そして昨日は初めて楽天オークションも使ってみました。楽天は匿名での取引ができるのがメリットのようです。今回はさだまさしのトークCDを落札しました。送料はヤフオクのほうが安いような気がします。 ブログを読んでいただいて、ありがとうございます。 応援のクリックもいただけるとうれしいです。 ↑ブログ王ランキング
2011.10.02
コメント(0)
全16件 (16件中 1-16件目)
1
![]()

