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【6月30日・月曜日】 しかし、月日の経つのは早いこと。今年からもう、翻訳仕事に戻っているはずがまだ何も出来ないまま、7月になってからやっと家の中の大掃除とプチ改装に取り掛かろうとしている私。宣言しない方がいいかも。だって守れてないんだもの、この半年間。 ただ、例年7月8月は私を訪ねてくださる方々が多く、今年も今分かっているだけでもほぼ毎週1人か2人の方が来られる予定。会う約束をしている現地の友人もいるし。 そこで食べ物シリーズのご飯ブログもせめてきちんと、オンタイムに追いつくようにしておこうと思う。 6月7日:挽き肉と玉ねぎだけのカレーを煮ました。 今日のカレーもタマオが合格点を付けたので大丈夫! 同じく6月7日、沢山じゃがいもを茹でました。 これで美味しいコロッケを作りましょう。 ノルマル・エクメッキ(バゲット)を薄切りにし、コロッケ・サンドを作ってみました。何しろ美味しい、と翌日もコロッケ・サンドを食べた私。 2回カレーを食べた後、残りでカレーラーメンを作りました。 さて、コロッケ・サンドも美味しいのですが、あんまり続いたので少し別なものが食べたくなり、チキンのモモ肉をおろし生姜とおろしにんにくで甘辛く煮込んでメイン・ディッシュに。と言っても山のようにコロッケの半製品があるので副菜はやっぱりコロッケ。 ここで初めて、大切に隠しておいた美由紀さんの友達Yさんのお土産に入っていたサッポロビールをいただきました。ウ~ン、喉ごしさわやか。(あれ、これ他のビールのキャッチコピーだったかな? だったらご容赦を!) 6月9日の夜は万里子さんのお宅に押しかけコロッケ配達。帰りにお土産をたくさんいただきました。 6月10日朝:伊久子さんのお土産の戸隠蕎麦に、天カス(揚げ玉)をたっぷり入れてたぬきそばです。 6月10日昼:堀先生にいただいたうなぎの蒲焼(国産の逸品)です。 6月10日はちょうど4月23日に98歳で逝去された堀先生の母堂の七七忌だったので、頂く前に法華経の方便品第二を念じながら献杯し、ありがたくご馳走になった。また、時の記念日である10日は、千葉県流山市のゆき伯母の満89歳の誕生日だったので昼前に電話をし、堀先生の母堂のように長生きしてほしい、と願ったのだった。 そしてこの日は、夕方から旧日本総領事館の広間で、室内楽の夕べがあり、日本の思い出にたっぷり浸かることの出来た日でもあった。 6月12日朝:とろろ汁、納豆、ポテトサラダ、キュウリのパリパリ漬け。 6月12日昼:お好み焼き、とろろ芋かけ。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月30日
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【6月29日・日曜日】 土曜の夜はしばらく新しいテレビでチャンネル・サーフィンしてみた。何となく映像が焦点を結んでいない感じがする。写真で言うところのあとピンのようで、背景の方がよくピントが合っているチャンネルもあった。 それに、新しいパーツを付け直してシグナルをしっかり受け取っているはずなのに、相変わらず、画面がモザイク状に乱れて動かなくなったり、ビリビリ、と音声にも乱れが入るのだった。 土曜の夜のラマザン・スペシャル番組「Attila」、さすがに迫力ある画面です。 それよりなにより、日曜日の朝、薄型になったことを理解していないタマオが、本立ての上からテレビの上をめがけジャンプして、ドッス~ンと後ろ側に落ちて床に転がってしまったのである。幸い怪我はしなかったが、何が起こったのか分からず、鳩が豆鉄砲を食らったように(懐かしい比喩です)、目をまん丸にして私を見つめた。 あいにく宙に跳んで落ちた瞬間の写真はない。まさかの出来ごとで、デジカメの用意などしていなかったからである。ところがタマオはどうして落ちてしまったのか、理解出来なかったとみえ、二本目の跳躍にかける走り高跳びの選手のように、また本立てに乗って機会をうかがっているのである。 私は今度はカメラを構えてタマオの跳び上がるシャッターチャンスを狙っていたが、待っていてもそう簡単に跳ぶものでもなく、もうやめた、とカメラを下に置いた瞬間、すごい勢いで本立てより下のプリンターの上から大ジャンプした黒い影があった。 アルスだった。さすがに運動神経抜群、タマオのように床に落ちてしまったのではなく、テレビの後ろのアームの間に落ちて、とてもふに落ちない顔をして、覗きに行った私の顔を見た。が、次の瞬間、アルスはまたも弾みをつけて後ろからテレビを跳び越し、もとのプリンターの上に戻って行った。 一度テレビの反対側に落ちたのに、懲りていないタマオ タマオに続き、アルスもテレビの上に乗るつもりで跳んだら、アームしかなくて台の上に落ち、逆に戻る一瞬をパチリ撮影。 しかし、私の不安は別なところにあった。猫達に怪我をされても困るが、何よりも買ったばかりのテレビにキズが付いたり壊れたりして欲しくないのである。 そのうちに午後となり、アフメット・ウスタがやってきた。屋上のアンテナ部品を新品で付け直したにも拘らず、まだ音声が乱れたり、画面がモザイクになってそのままフリーズしてしまったりするのを見ると首をかしげた。 勿論風がひどかったり、雨が降ったりすると画像が乱れたり映らなくなることは今までもよく合った。それに部品が古くなって信号をよくキャッチ出来ないこともある。 今日はとりあえず、台所の小さい14インチの液晶テレビを据え付けるために作業してくれたので、そちらのテレビにも映像が届くようになった。まず内壁の隅の方に小さな穴をあけてケーブルを室内に取り込んだ。 ウスタが台所にケーブルを取り込み、天然ガスの鉄管に沿わせてテレビを置く場所まで持って行くところです。 テレビは衛星受信デコーダと共に、棚の下に置くことに。 台所のテレビにも映像が来ました。「O Hayat Benim」の悪女ヌーランを力演するイェシム・ジェレン・ボズオールさん 私はサロンの大型テレビがまだ新しいのに、ちょくちょく映像が乱れ、ときには画面に何も映らなくなってしまうので、やはりアンテナがまだ十分直っていないのではないか、とウスタに聞いた。 ウスタはもう1軒寄らなくてはならない顧客があるので、アンテナのテストはあす月曜日に見に来る、と言って今日は台所のテレビを繋いだだけで帰って行った。 ワールドカップの最中なので、大きくなって色もきれいになったテレビで観戦したいと思って、せっかく急いでテレビを買ったのにがっかりしてしまったことがある。 無料で試合を放送しているはずのTRT1は、どういうわけか準々決勝に入ってから「有料チャンネル」と言う表示が出て、放送が全然映らないのである。うそ、ナショナルチームの国際試合は国営放送のTRT1が無償で国民に見せるはずではなかったか。 私は猫達に、テレビの後ろ側に今までのように悠々と寝そべることが出来る部分がまるでないことをどう説明すれば分かるのか、悩んでしまった。 まあ、猫達も一度痛い思いをすれば分かるかもしれないので、放っておくしかないが、むき出しの画面に猫の足の爪がかかって損傷すると一大事である。 そこで、このキルティングの膝掛けの大きさがちょうどいいので、寝るときや外出の時は、面倒だがいちいち画面にかけておくことにしたのだった。ううう、仕事が増えちまっただヨォ・・・。 20年近い昔、日本を出る前に可愛い恐竜模様の端切れを買い、バイアス・テープで周囲を始末して膝掛け用に縫ったもの。今頃役に立っています。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月29日
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【6月28日・土曜日】 本日明け方に食べる「サフル」と言う食事を最後に、トルコのイスラーム教徒の人々がラマザン(断食月)に突入し、向こう30日間一番昼間の長い季節に断食をすることになった。 私は内心イスラーム教徒の家に生まれなくて良かったと思っているのだが、一応、異教徒の礼儀として、断食している人々の目の前でこれ見よがしに水やチャイを飲まないようにしている。(食堂では別ですが) さて、本日は正午にアフメット・ウスタが私を迎えに来て、ボアズケセン通りのトプハーネに近いところにある、「BEKO」というブランドの特約店に連れて行ってくれた。 家のテレビを置く、あるいは取りつける場所を考えると、そう大きなものも必要ないので、32インチ(80センチ)と言うのを買った。(縦44センチ、横72センチ) 店の人に家まで運んで貰い、ウスタとテレビの据え付け場所についてあれこれ協議、テレビの角度が自由に変えられるアーム(腕木)を壁に取りつけて設置することになった。 私はタクシーを呼びウスタと共に家を出た。途中のカラキョイでウスタは取り付け金具類とアンテナの新しい部品やケーブルなどを買うために降り、私はそのままグランド・バザールに向かい、両替して支払い準備金を用意した。私より先に家に戻ったウスタはもうすでに屋上で衛星放送の受信金具を取り替えたりしていた。 そのうちに大きなテレビを外箱から取り出すと、猫達は俄然大喜び。発泡スチロールの緩衝材などで遊んだり、大きいが厚みの薄いテレビの段ボール箱に潜り込んだりと騒がしい。 まずは取り付け金具を広げて組み立てます。 もとのテレビの位置で、金具を壁に取り付けます。 こんな風に取り付けられました。後ろの腕木が自在に動きます。 それにしても今までの箱型テレビの後ろ姿はすごいものです。 1700近いチャンネルの中から、私の希望する局を探し出しています。 取付金具を組み立て、やがてテレビが載せられた。このテレビには、衛星受信装置が内蔵されているのだが、私の見たいチャンネルを1~15くらいまでまとめて貰うために、アフメット・ウスタは時間をかけて調整し、とにかく見られる状態にしてくれた。 6時を回り、外はまだ明るいが、何しろ断食の初日で身体が慣れていないことと、先ほどまで屋上でアンテナを修理・調整していたので、ウスタの血糖値が下がったらしく、今日の作業はそこまで、と言うことになった。 店からもテレビの料金を取りに来たので、950リラを支払い、ウスタにも立て替えてくれた取り付け金具やケーブルなどの料金と、日当との合計500リラを払った。 いままでうちの猫や野良猫達に払った手術料で、いくつ新しいテレビが買えたのだろう、と思うと、古いテレビをだましだまし使ってきた19年が切なく思えるから、余り気にしないことが肝要だ。 私は昼間、グランド・バザールの美由紀さんの勤める店で買ってきた、甘い物の箱詰めをウスタに手渡した。今日の断食明けイフタルは実に8時49分である。ウスタのみならず血糖値が下がってしまって病気になる人も出るだろう。 台所の小さなテレビは、明日の午後取りつけに来るから、とウスタは約束してちょっと力ない足取りで出て行った。インシャッラー、病気になりませんように。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月28日
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【6月27日・金曜日】 3年前の夏、大学生と高校生の娘さん2人を伴って、トルコ旅行に来た桃子さんは管理栄養士である。旅行のあと勤め先を辞め、フリーランスで働き始め、仕事の傍ら世界の国々の家庭料理を研究している。 先日ラトビアの夏至祭りのルポルタージュのために、イスタンブール経由で首都リガに飛んだのは、ご本人のFacebookの記事から私も知ってはいた。 昨日26日の朝8時過ぎに、その桃子さんからFacebookのメッセージを通して、「急で申し訳ありませんが、明日の夕方、18時35分にイスタンブールに着いて、午前1時の成田行き出発までトランジットの時間があるので、もしご都合がついて会っていただけるようなら、空港からタクシーでご指定の場所に参ります」という便りが届いた。 幸い私は家にいる予定だったので、ぜひとも会いたいと思ったが、明日の夜と言うのは金曜日、ただでさえ交通渋滞の激しいイスタンブールで、しかも28日土曜日の早朝からラマザン(断食月)が始まるため、空港に通ずる道のすべてが、普段以上に渋滞することは容易に想像がついた。 メトロに乗った方が渋滞に巻き込まれずに済むだろうと思い、最初メトロの終点アクサライ駅で会おうかとも考えたが、メトロへの乗り方など、あれこれやり取りするうちに、トランジットと言っても、実際に有効に使える時間は4時間そこそこだと言うことを考えると、私が空港に出向いた方が間違いない、と考え直した。それに交通渋滞に巻き込まれたらどうしようもないので、空港内のレストランかカフェで過ごすのが一番無難、と判断した。 私の送ったメッセージで桃子さんも納得、「空港までおいでいただくことになり、ご足労をおかけしてすみません」と恐縮している。3年ぶりに私の顔を見たい、と思ってくれる人には、地の利のある私の方が動けば、無駄も間違いもなく目的がかなうことになるではないか。 一夜あけて本日夕方、6時少し前にボアズケセン通りの中ほどまで歩き、ジハンギルから下りて来る一方通行の出口で空車を待った。いい具合にほどなく空車が来て、旧市街メトロのアクサライ駅まで行き、そこからアタテュルク空港駅まで35分、7時ちょっと前頃国際線の到着ロビーに着いた。 リガからの飛行機は既に予定時刻より少し前に着陸していたようで、私の予想通り7時15分頃桃子さんがロビーに出てきた。手を取り合って再会を喜び、すぐに上の階の出発ロビーに上がり、さらにもう一つエスカレーターを上がって空港レストランに入った。 3年ぶりに見る桃子さんは、当時よりも若々しく見えた。2008年にまだ40代半ばの夫君を亡くし、しばらくは失意のどん底で暮らしていたらしい。3年後の2011年、歴史の好きな長女が志望の大学に合格したご褒美に、かねてから行きたいと望んでいた「コンスタンティノープル」つまりイスタンブールへの母子旅行を実現させたいと、妹の櫻子さんに相談したという。 TVディレクターの櫻子さんが、前年、ドキュメンタリー「カッパドキアを産んだ山、エルジエス」の撮影でコーディネーターを務めた私に、お姉さん一家の旅の企画と同行通訳を依頼してくれたのだった。 櫻子さんから事情を聞いていたので、桃子さんが少しでも元気を出してくれるような企画やイベントを盛り込んだ、いわば加瀬スペシャル、とでも名付けたい様なスケジュールを組み、連日のタイムテーブルも仕上げ、細部に渡る概算費用も計上して送ると、それでお願いしますと返事が来て、まずはイスタンブールに一泊し、翌日アンカラまで寝台列車で行って、2泊3日のカッパドキアの旅に出た。 折りからトルコではラマザンの最中だったが、ツーリストが食事に事欠く心配はなく6泊7日の旅は無事終了、帰国の日の午後、私はお三方をトランスファーの車で迎えに行き、一緒に空港まで見送りに行った。 パスポート・コントロールを通過した3人が、ウイングへのやや下り坂のコンコースを下りて行くのを、姿の見えなくなるまで見送って、そのあとはシャトルバスでタキシム広場まで帰ってきた。 あれから3年経つのだが、日本に帰って落ち着くまで、その旅が並みの企画で、トルコの旅行はみんなこんな風にして貰えるのだと思っていたと言う桃子さんは、あとでそれがたいそうスペシャルな企画で、しかも業者やホテルが全部、友達値段で格安な旅を提供してくれていたことに気づき、感謝が足りなかったと後悔していたのだそうだ。 今回イスタンブール経由だったので、もしトランジットで空港外に出られるなら、私に一目会って、あの時のお礼を言いたい、せめて夕食なりとご馳走したい、と思ってくれたのだそうだ。そんな風に言って貰えるだけでも胸が熱くなった。 私も、空港まで会いに来て本当に来てよかった、と思った。もう一度私達はしっかり手を握り合った。 空港レストランはセルフサービスのビュッフェ・スタイルなのだが、広いホールには、床が一段高くなっていてグランドが少し見える特等席のような場所があって、そこに座って、実に7時半から11時近くまでの3時間半を食べたり飲んだり喋ったりしながら快適に過ごすことが出来た。 リガは夜などかなり寒くてまだ冬のようだったとのこと、イスタンブールは北緯43度くらいに位置するが、リガは北緯57度である。そして落ち着いた街並みの、古い建物の建築様式が面白く、「リーゴ」と言われる夏至の夜のお祭りが楽しかったのだそうだ。私の友人冨岡伊久子さんも、4月末からゴールデン・ウイークに行ってリガを楽しんできたばかりである。世界は狭くなったものだ、と話しを聞きながら思った。 そしてラトビアでは手工芸、特に編み物が盛んで、桃子さんは3年前膝が痛いと言っていた私に、猫の編み込み模様が面白い厚手のブーツのような室内履きと、琥珀のブローチをお土産に買ってきてくれた。桃子さんも今、家で猫を飼っていると言う。そう言えば、伊久子さんに貰ったリガ土産も、猫模様の可愛い肩掛けエコ・バッグだった。 桃子さんと私。最初にウェルカム・チャイとケーキを・・・ 長靴のような防寒靴下。赤い猫がいっぱい。細かな手作業です。上には琥珀の石をちりばめた、木の葉形のブローチもあります。 窓際のゆったりとした誰も周囲にいない特等席です。 明るい笑顔のモモ子さん、これからやりたいことが沢山あって忙しそうです。 長時間いたので、夕食の注文に行ったらもうチキンの足が2本しか残っていませんでした。 3年前の旅行の時、夫君を亡くした後だけに、ともすれば気持ちがこもりがちのように見えた桃子さんが、次第にいろいろな活動に参加し、去年も今年も外国に1人で旅行し、世界の国々の家庭料理や珍しい工夫のなされた料理などを研究して、原稿を依頼されたり、自らも小イベントを開催している、というのを聞くと、よかった~、と思った。 昔は「可愛い子には旅をさせろ」と言ったものだが、親も自分で旅をして見聞を広めるのは大いに望ましいことである。 意義深い私達の再会のひとときも終わりを告げようとしていた。桃子さんは既にチェックイン済みではあるが、一応2時間前にはパスポート・コントロールを受けて早めに入場していた方がいいので、11時5分前位にお別れした。 桃子さんがさりげなく、「遅くまでいていただいたので、どうぞタクシーで帰ってくださいね」とユーロ札を持たせてくれた。遠慮なく頂いた。ほのぼのと心温まるひとときを過ごし、空港ビルの外に出ると、今まさに目の前にタキシム広場行きのシャトルバスがエンジンをかけて出発寸前だった。「ああっ、加瀬ハヌム」 シャトルバスのスタート地点のスーパーバイザーであるアブデュルアフマンさんが目を丸くして私の手を握り、頬っぺたスリスリをした。ここしばらく会えなかったので1年ぶりくらいだろうか。 人のいいアブデュルアフマンさん、空港友達です。 5~6年くらい前に、それまでのシャトルバスの会社「ハヴァッシュ」に対抗して、イスタンブール市営のシャトルバス「ハヴァタシュ」が発足し、まだ誰も知らない頃からそのアブデュルアフマンさんに声をかけられ、ハヴァッシュの14リラに対し、ハヴァタシュでは同じ路線で10リラ、に値段設定していたので、私は彼に勧められるままそちらの利用者になった。(その後ハヴァシュは10リラに値下げしたが、市営シャトルバスに太刀打ちできなくなり撤退した) 「お客さん、早く乗ってください。10リラです」と係員が切符を切ろうとする。「あ、このご婦人は私の大事なお客様なので、私が10リラ払うよ」と、その当時は切符切り係だったのだが、もう出世して上役になったアブデュルアフマンさんが言ったので、私は「ありがとう」と言いバスに乗り込んだ。ほぼ満員で空席がもう2つくらいしかなかった。 桃子さんが持たせてくれたタクシー代のユーロはトルコリラにすると85リラくらいになる。ではこれで切らしてしまっていたお味噌を買わせて貰おう、と私は大事にユーロをしまった。 空港の二つの再会、とても嬉しくて私は早くブログに書きたかったのだが、土曜日に買い替えたテレビが大仕事になり、またまた遅れてしまった。ぐずぐずしていると、感動が薄れてしまうではないか、と今日は徹夜で書いている。 今、ラマザンの「起こし屋(太鼓叩き)」が勇ましい音を立てて、わが家の前で乱れ打ちをやっているところである。(30日の朝2時30分) madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月27日
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【6月26日・木曜日】 今月初め、臨終から息を吹き返したうちのテレビ、ご老体に鞭打ってもう一働きしてくれそうだったが、2週間後位に色がおかしくなり、画面の赤っぽい部分は全部濃い橙色、緑色や青い部分は全部濃いブルーになってしまい、その他の色は殆どなくなってしまったのだ。 とにかく観にくいことこの上ないし、大事な目を傷めてしまってもいけないので、本日、アフメット・ウスタに来て調べて貰ったら、ブラウン管がもうどうにも修理できないと言われた。 そこで、とりあえず以前からスペアとして、しまってあった小型液晶テレビを衛星受信デコーダに繋いで貰い、アフメット・ウスタがもう一度来てくれる土曜日に新しいテレビを買って、取りつけて貰い、もちろんそのときに屋上の巨大な衛星アンテナのパーツを新しくして正しく調節して貰うことにした。 これはかなりの大仕事だし、費用も相当にかかることになる。何だかがっかりしてしまったが、テレビは機械なのだから、寿命が来たのを無理に長生きさせようとしても不可能である。私はいつものテレビ台から下のテーブルに下ろされた古いテレビに心から礼を言った。 務め終えた19年前の箱型テレビ。数々のニュースや感動のドラマを見せてくれた。 タマオとアルス タンブルとマヤ 19年もの長い間、よく働いてくれたね、猫達のことも乗せてくれたし、本当にありがとう。ギュレギュレ、ギュレギュレ~・・・ madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月26日
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【6月25日・水曜日】 今朝はゆっくりと起きて朝食を作り、10時にわが家を出て空港に向かい、日本行きの飛行機に乗るミチコさんと最後の食卓に着いた。 じゃがいもを茹でてポテトサラダを作り、挽き肉とナスをごま油で炒めて「麻婆ナス」にし、白髪ねぎととろろ昆布で澄まし汁を作った。 ミチコさんが日本に行く朝のご飯。中華もなかなか美味しいです。 ポテトサラダも時にはいいものです。 早めに予約しておいたタクシーが来て部屋を出るとき、ミチコさんは何がしかを「猫の役に立てて」と私に置いて行ってくれようとした。気持ちは嬉しいが、私もコンヤで鍼灸診療ツアーを手伝って貰ったり、泊めて貰ったりしているので、受け取るわけにはいかないと思い、有難く辞退した。再会を約束してタクシーに乗ったミチコさんに、発車するとき私は「ギュレギュレ、イイ・ヨルジュルックラル! (さようなら、良いご旅行でありますように!)」と大きな声で別れを告げた。 天気がよいのですぐに洗濯をし、昨日の続きでアナトリア文明博物館に電話して、とうとう、ハリル副館長に繋いで貰うことが出来た。ところが電話口に出た彼に、用件を伝えるとこんな返事が返ってきた。「それは、私どもではなく、博物館総局に問い合わせて頂く問題です。こちらとは何も関係ありません。いいですね」 副館長は明快にそう言ってのけ、慌ただしく電話を切った。 仕方なく私は、日本に電話して、エイジャさんの社長にいきさつを報告、エイジャさんが博物館総局に送ったメールや、その送り先などについて、内容を私に知らせてくれれば、電話で直接プッシュしてみる、と伝えた。 あとは一両日中にその文書が届くのを待つのみ。せっかく台湾語で再発行されるというのに、アナドル文明博物館の副館長の無関心な態度にちょっと失望だ。私は最初の交渉を昨年12月にしていると言うのに。 さて、夜は23時からTRT1で、日本対コロンビアの生放送があるので、23時まで起きて試合の始まりを待った。もともと一度はサッカー好きの時があったので、せめて日本チームを応援したいと思ったからだ。 しかし、あいにく日本代表チームは見せ場もなくコロンビアに0-1で敗れ、一次リーグ戦で1勝も挙げられず敗退、ブラジルを去ることになってしまった。 前評判でも余り勝算はなさそうだったが、せめて応援するつもりでビールを飲みながら食べた一反木綿餃子が、残念ながらヤケ酒と、文字通り焼ケ餃子となり、私は日本チームにもギュレギュレ(さようなら)とつぶやいてテレビのスイッチを消したのだった。 日本敗退の日、せっかくのビールも焼ケ酒、餃子も焼ケ餃子となりました。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月25日
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【6月24日・火曜日】 おとといの晩、ミチコさんは美樹さんのエブルのアトリエを訪問する約束をしたようで、今日は午後から出かけてみるつもりだと言う。 朝から揚げもので胃がもたれそうだが、昨日のイカが半分取ってあったので、リングのままフリッターにし、半端部分を細く切ってかき揚げにも入れることにした。 イカとナスのフリッターとかき揚げ。(ゲソがあったらもっとよかったのだが・・・) たくさん揚げたので、美樹さんへもおすそ分けしようと、パックに入れてミチコさんに届けて貰った。本当は一緒について行くつもりでいたのだが、何しろ膝の周りにぼってりした膨張感があり、長期に渡って歩き過ぎたしるしなので、自宅待機で休養を取ることにしたのだった。 しかし、あとで本当にそうしてよかった、と思った。ミチコさんが出かけたあと、日本から依頼のあった用件で、アンカラのアナトリア文明博物館に電話するも、昨日も話の出来なかった副館長は、市外に出張だと言うことでまたも空振り。 3年前に私がさるトルコの機関に頼まれ、トルコのために無償でコーディネーターをやってほしいと頼まれた、朝日新聞のグラビア誌「世界の博物館」のうち、トルコの「トプカプ宮殿博物館」「イスタンブール考古学博物館」「アナトリア文明博物館」の3冊の撮影に関わったのだった。 昨年、非常に見事な50冊のシリーズに、台湾の新聞社か出版社が感心し、中味はそっくりそのままで、台湾語(中国語)として発行したい、とオファーがあったそうで、こういう場合、またトルコの博物館総局から許可を取り、掲載された作品の写真1点1点につき、取材当時と同額の撮影料を払うことになるので、暮れに私がまた取り次ぎを頼まれたのである。 この依頼を実現するために、何度も必要な申請などもやり、既にトプカプ宮殿とイスタンブール考古学博物館からは許可が来ているのだが、アナトリア文明博物館だけはいまだに返事が来ないので進められず、出版社は困りぬいているのだった。 先週も担当の副館長に何度も電話を入れているのに一向につかまらず、私も決まりがつかずに困っていたのである。 今日は疲れているのか、ブログを書いていても眠気に襲われるので、夕食の下ごしらえだけして、そのままベッドにもぐりこんだ。目覚ましをかけておいたので6時半頃起きてみると、家の上り口にミチコさんの靴があり、たった今帰りました、と部屋から声がした。 美樹さんのアトリエで、ワークショップを受けている人を少し見学し、シルケジに戻ってトラムに乗り、グランド・バザールに行って美由紀さんにも会ってきたのだそうだ。 タクタキ坂の上までユフカを買いに行って貰い、私はさっき仮眠をとる前までに茹でたり刻んでおいたりした野菜と、挽き肉その他の材料を投入して餃子の中味を拵えた。 クレープ状のユフカ1枚を12等分し、餃子と言うより、春巻きのようにくるんで焼く準備をした。 明日25日の午後は日本行きの飛行機に乗るミチコさん、日本に帰ればいくらでも美味しい餃子を食べられるのだが、この風変わりな餃子も喜んで食べてくれた。 春巻きの中味が餃子であると考えていただければあたり 拡大写真。これが真っ白の時、似ているんです、一反木綿に・・・ 材料のうちに写真を撮っておけば分かり易かったのだが、この餃子は「ゲゲゲの鬼太郎」に出て来るお化け「一反木綿」に似ていたので、長いけど「一反木綿餃子」と命名した。結構気に入っている。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月24日
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【6月23日・月曜日】 ミチコさんと迎えた次の朝は、夕べの残り物とはいえ、たいそう味が染みて一層おいしくなった肉じゃがや、鯛釜めしに、澄まし汁を新たに作り、10時過ぎにゆっくりブランチのような朝食を取った。洗濯物を干すのをミチコさんにお願いして家を出た。 肉じゃがも鯛釜めしも美味しく味が染みました。澄まし汁もあります。 11時にタキシム広場に近いところでエルデム縁さんと会う約束があった。豆腐を注文していたので受け取りに行ったのである。またまたトルコリラが底をついてしまっていたので、ガランティ銀行ジハンギル支店のATMから下ろし、向かいのサヴォイ・パスターネシ(ケーキ店)でチャイを飲み、12時過ぎ、家に戻った。 午後1時ごろ、ミチコさんと一緒に再び家を出た。今日は2人とも振り込みの用事があり、彼女はジラアト・バンカス(農業銀行)から、私はガランティ・バンカス(ガランティ銀行)からAKBANK(アク銀行)への送金で、ミチコさんの行くジラアト銀行の振り込みは比較的スムーズに行った。 そのあと、私がスラセルビレル通りのガランティ銀行でATMから他銀行の他者の口座に振り込もうとしたが駄目で、窓口に聞くと近くのAK銀行で振り込む方がいいと思う、と言う。 また坂道のスラセルビレル通りを下り、ジハンギル交差点の一角にあるアク銀行で番号を取って待つこと40分、やっと番が来て窓口に聞くと、100リラの送金に35リラ手数料がかかると言う。 最初、警備員が店の外のATMから送金すれば手数料は10リラだと言っていたので、もう、それならすぐにそうすればよかった、5分で用事が済んだのに、と回り合わせの悪さに腹立たしく思いながら、親切な警備員に手伝って貰ってどうやら振り込みが終わったのだった。 なんだかんだと時間がかかったのでほどなく3時。近くのジハンギル・パスターネシでリモナータ(レモネード)を飲み、それからまたスラセルビレル通りの坂道を上ってサヴォイ・パスターネシの高級クラビエ(クッキー)を彩りよく1キロちょっと箱詰めにして貰ってタクシーを拾った。 SGK(セー・ゲー・カー=Sosyal Güvenlik Kurumu 社会保障機構)のエルマダー支所に、知り合いのオメル・アクプナルさんと言う職員から教わりたいことがあって訪ねて行ったのだった。 オメルさんは私の訪問を喜んで、「どうぞどうぞ」とカウンターの内側に招じ入れてくれた。オメルさんの近くのカウンターでパソコンで遊んでいる女の子がいたので、「あら、可愛らしい職員さんがいますね」と言うと、「私の娘なんですよ」と笑って答えた。 えっ、こういう話、前にもベイオール市役所の納税課でもあったな、と思った。アーデムさんと言う名の、イケメンの職員さんがいて、小さな女の子が事務机のそばにいたのだった。私はそれまで「イクメン」という日本のダジャレ風な言葉を知らなかったが、誰かのコメントで初めて知ったのだった。するとオメルさんも「イクメン」なのか、と思わず口元がほころんだ。 オメルさんは女の子をそばに呼び、私に挨拶させた。賢そうな眼をした女の子の名前は「ヘリン・アズラ・アクプナル」ちゃんで、初等科3年生を終了、9月の新学期から4年生になるのだそうだ。今度高校生になるお兄さんがいるとのこと。 ちょうどバッグの中に、可愛い7色の小さなナザル・ボンジュウのブレスレットを持っていたので、ヘリンちゃんの手首に付けてあげると目を輝かして喜んだ。オメルさん親子とお役所内で記念撮影。日本にはない光景ですね~。 Ömer AkpınarさんとHelin Azraちゃん。トルコでは親の職場に子供が放課後に来るのはジョーシキ。 さて、待っていてくれたミチコさんとバスに乗ってカラキョイで降りた。朝食が遅かったので何か軽いものが食べたくなり、カモメ食堂に行ったのである。 ミチコさんも私のブログにたびたび登場するカモメ食堂には興味があったようで、とても嬉しそうに見えた。 カモメ食堂、ガラタ橋、連絡船とミチコさん。 注文した別々な魚を半々に分け合って、夕方になったので出入りの激しい船着き場の大型モトールやカモメ、鵜などを眺めながら食事し、そこはミチコさんがご馳走してくれたので、帰りにイカの輪切りを買って、ミチコさんにわが家への帰り方を覚えて貰うためにトラムワイとフィニキュレルを乗り継いでタキシム広場から帰った。 その晩は美由紀さんが私が代理で買っておいた豆腐を受け取りに来るので、私は早めに電話してわが家でミチコさんと一緒に夕食にしようとオファーしたのだった。 かくて二日連続でミチコさんに私の友人を紹介することが出来た。私は土曜のうちからビールを買ってあったのだが、美由紀さんはビラージュと私が仇名を付けただけあって、自分もちゃんとビールを3本提げて来てくれた。 昨日は美樹さんが来て、今日は美由紀さん。賑やかに夕飯が始まります。 スルメイカなのか、分厚い胴切りのイカで松葉焼き。縁さんの木綿納豆と、ざるそば、純日本的な晩餐です。 オグリがいい具合に海苔に気づかないようです。 今夜も楽しい出会いの夜。ミチコさんと美由紀さんも話がはずんでいる。私は山芋入りのそばを茹で、つゆを冷やし、イカを松葉焼きにして、今朝買ったばかりの豆腐を3分の1ずつ冷や奴にした。 こんな風に気の置けない友人が多いと言うことは、裕福さの一つではなかろうか。私は大いに果報者である自分を感じる。今晩の料理(と言うほど手は掛かっていないが・・・)もこの上なく「日本的」だし。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月23日
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【6月22日・日曜日】 ダウン・カフェの帰り、ミチコさんとエブルの美樹さんの3人でわが家に帰ってきた。夕飯に、かねてからこの日のために鯛釜めしと肉じゃがを作る予定でいたのだ。 鯛釜めしの素は、2週間ほど前にイシタフ・アルカダッシュ(食欲友達。怒らないでね)の万里子さんを訪問した時、お土産に持たせてくれた日本食材の中にあったもの。 万里子さんのお土産。醤油ラーメン、鯛釜めしの素、カレールウ、うどんスープ、ほか。万里子さん、ありがとう。なぜかオグリとタンブルが立ち上がってパンチの応酬。 本当は万里子さんも誘いたいと思っていたのだが、先約があったようで、結局3人だけで帰宅後、7時過ぎから、ミチコさんと美樹さんにはしばらく話をしていて貰い、私は台所で猫の餌と自分達の料理を同時進行で拵えたのだった。 ダウン・カフェで席が隣合い、意気投合したミチコさんと美樹さん。とても楽しそうな笑い声を聞きながら、私も張り切って料理を拵えたのだった。 なかなか実現しない顔ぶれ。美樹さんとミチコさん 肉じゃがと、寿司弁当。タマオ検査官も任務遂行中 鯛釜めしと肉じゃが、ほうれん草のおひたし。本当に美味しい炊き込みご飯が出来ました。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月22日
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【6月22日・日曜日】 今年は21日が夏至に当たり、今日を境に再び昼の時間が減って行くのかと思うとちょっと寂しい。 朝のうちはきれいに晴れていたので、洗濯物を干したが、10時~11時頃になるとこのように大きな雲が大変な勢いで広がり始めた。 分厚い雲が北西の空からぐんぐんと流れて来て、夏の日差しを覆い隠す。 12時45分、ジハンギル・タクシーを呼んでダウン・カフェに出かけた。今日は優曇也さんの協力で、「寿司の日」というお楽しみがあった。 今日は、ボアジチ大学で行われた日本語教師のセミナーに出席した、コンヤの浅田満智子(ミチコ)さんもセミナーが終了次第来てくれることになっていた。 日本人女性は真ん中の大テーブルにひと塊りになった。通訳岩崎貴子さん、主婦ユウコさんと花音ちゃん、ファッション江戸店長ヤスコさんとミライちゃん、テズヒプ(トルコの装飾芸術)勉強中のカナコさん、日本企業秘書万里子さん、エブルの美樹さん、後から来るミチコさん、そして私の10名である。 世話役森脇さんの音頭で、ほどなく食事会が始まり、配られたのはこんなにきれいなお弁当。たいそう美味しく頂いた。やがてコジャエリ大学の新しい交換留学生の皆さんも登場、カフェがぐっと賑やかになった。マルク坊やも若い人々の仲間に交じって嬉しそう。 タキシム広場に近い日本料理店「優曇也」さんの太巻きと稲荷ずし弁当。美味しいのなんの! さらに、キプロスの大学で学んでいる中村ハリカさんが仲良しのトルコ人女子大生と出席、日本語ぺらぺらの日系企業美人秘書であるオズゲさんも加わった。常連のメリカ・センソイさんやミュゲ・オズメテ・バイカンさんもいたし、ガルソンのゴンジャちゃんやオザン君、店長のサルハン・シンゲン、セルマ・シンゲンさん夫妻と娘のセジルさんもうきうきとサービスをしている。 ミチコさんが到着したのは2時半頃。ミチコさんは今晩からわが家のお客として迎え、水曜日に日本に旅立つまで一緒に過ごすことになっている。9月1日に戻ってくるので2ヵ月余りのデラックスな夏休みである。ミチコさんと美樹さん、万里子さんもすぐに打ち解け、話に花が咲く。 女子テーブル。見るからに楽しそうです。 これは女子テーブルを反対方向から撮ったもの。 万里子さんはほかに行く用事があるため3時頃に帰って行った。そのうちに、この会の世話役とも言える森脇さんの仲立ちで、コジャエリ大学の若者達が2人ずつ私達の席に挨拶に来てくれたので、ミチコさん、美樹さんのことも紹介し、楽しくお喋りした。 4時近くなってダウン・カフェの食事会のマスコット、しほちゃんがママの胸に抱っこされて登場したが、どういうわけかご機嫌斜めで中に入ろうとせず泣くので、純子さんとジハンさんは交替で寿司を食べることに・・・ やっとしほちゃんのご機嫌が直った頃、パパのジハンさんがコーヒー占いをしてくれることになり、私達のテーブルでは全員希望したので、7人くらいがトルコ・コーヒーを飲んで順番を待った。 7人目で私の番になったとき、ジハンさんがじっとコーヒーの滓(おり)を見ながら言いあてたのは、私の身の上に起こったとある出来事だった。 2年前に端を発して今年に入ってから顕著になったその件は、何気なく振る舞って対応してきたので、傍目には何もないように見えたはずだが、私の内心は深く傷つき、病気寸前まで追い詰められた深刻なことがらだったのである。 ジハンさんのヨルム(コメント)は、何もかもお見通し、というほどに非常に具体的なものだったので、美樹さんにも聞いて貰い、余りにも当たっているので思わず顔を見合わせたほどだった。ごく最近、そういう状況を生み出す原因となった不連続線から遠く離れたので、やがて私の天候(健康)は回復していくだろう。 まずは飲み終わったら冷まして、カップに残ったコーヒーのオリ(滓)の模様で占いをするのです。 千差万別の模様が残ります。素人がお遊びでいい加減にやって楽しむことも出来ます。 おやおや、何か深刻な感じですね。森脇さんも心配しています。 私の事件をまったく知らないジハンさんなのに、すごい的中具合なのでびっくりしています。 しかし、ジハンさんは続けて言った。 「これからもありうる事件です。加瀬さんはまたこういう目に遭えば、今度は胸の周辺が病気にかかりやすくなりますから、十分注意して下さい」 病気になるのは肝臓に違いない、と私は思った。内臓の中で、肝臓は最もデリケートで、大脳の発する怒りや悲しみと密接な関係があり、すぐに影響を受けるのだそうだ。そしてまた、肝臓自体も、脳に大きな影響を及ぼし、怒りや悲しみを起こさせると言う。これは鍼灸診療ツアーを手伝ううちに学んだことがらである。 ジハンさんのコーヒー占いのお陰で、今一度私はfedakarlık(フェダーキャルルック=権利放棄、献身)は二の次にして、まずは自分を大事にしようと再認識したのだった。 ダウン・カフェでの集まりとしては珍しく6時半近くなってやっとお開きとなり、みんな一斉に店を出た。 帰る頃にやっとご機嫌が直ってきたしほちゃん。まだちょっと斜めなんでしょうかねえ。笑いません。 その日の夕食はわが家で、美樹さんとミチコさんを迎え、肉じゃがやホウレン草のおひたし、そして鯛の釜めしを炊いて、海苔巻弁当ももう一箱買ってきたのでそれはそれはテーブルが賑やかとなり、楽しいひと時だった。(この記事は次のブログでご報告します) madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月22日
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【6月21日・土曜日】 夕べ、雷雨が降ったあと、遅い時刻に涼しい風が吹きはじめ、雲が一掃されて今朝まではまぶしいくらいに晴れていた。しかし、昼ごろになると再び昨日の空模様と同じようになり、午後3時くらいになると西の空は真っ暗に・・・ こそこそとサロンの掃除などをしていたのだが、疲れて夕方までひと眠りしたりしてあまりはかどらず、どこまで掃除できるか、残りは明日の朝頑張ることにして、今日は食べ物シリーズの5月下旬からを・・・ 5月28日朝:カツ丼、きゅうりのパリパリ漬け、味噌汁これは超大盛りに見えますがそう、2人前です。友達とシェア。 5月29日夜:サバの味噌煮、筍ごはん、ポークウインナほか(美由紀さん、美樹さん) 5月30日夜:鶏釜めし(チキンモモ肉、牛蒡、にんじん、蒟蒻、きくらげ、平茸、青ネギ) 5月31日早朝:朝5時に突然V子登場、朝だけどビール。ポークハムとレタス 5月31日朝:鶏釜めし、金糸玉子、澄まし汁(きくらげ、人参、ネギ、玉子) 5月31日夜:ラーメン(日清ラ王)、ポークハム、青ネギ 6月1日朝:お茶漬け、きゅうりのパリパリ漬け、茎ワカメの佃煮 6月1日昼:とろろ汁、ナスと玉ねぎ、にんじんなどの炒め物、キュウリのパリパリ漬け 6月3日朝:うなぎ蒲焼、キュウリ、わかめとねぎの澄まし汁 6月4日朝:筑前煮を作る。(チキン、きくらげ、牛蒡、蒟蒻、じゃがいも、たまねぎ、人参) 6月4日朝:筑前煮、筍めし、澄まし汁 6月7日正午:カレーを煮ています。 6月7日昼:ジャガイモを茹でています。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月21日
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【6月20日・金曜日】 ワールドカップの日本対コートジボアール戦はサクランボ狩りに行っていたので見られなかったが、ニュースによれば先制点もむなしく逆転され2-1で負けてしまったとのこと。 私は1992年に初めてトルコ旅行をした後、「Jリーグ」が創設されたので、それまで全然興味のなかったサッカーに関心を持つようになった。 トルコに移住してから、トルコのサッカー熱が異常に高いことを知り、こちらではフットボールと言うのだが、日本でもサッカー大好きだったと言う友人小枝子さんの影響で、ルールも覚えたし、私の日本から連れてきた愛犬ビクターが白と黒のシベリアン・ハスキーで「ベシクタシュ・キョペイ(ベシクタシュ犬)」と周囲の人に言われていたので、毎朝の散歩に、ベシクタシュ・チームの本拠地イノニュ・スタジアムまで遠征したものだ。 2001年4月ビクターが大往生したのち、それまでずっと5年以上も連載していた日本の教育雑誌の「マダム・カセのイスタンブール便り」に5年半目にあたる66回目で区切りをつけ、2001年11月、単行本として出版する意図で日本に行った。 有難いことに新宿書房がすぐに拾ってくれて、2002年の5月に「犬と三日月 イスタンブールの7年」を世に出して貰えたのだった。 ところがその頃、ワールド・カップが日本と韓国の共同主催と言うことで、テレビにもせよ、生放送で観戦の機会もあり、強豪ブラジルやドイツに次いで、トルコがイルハン・マンスズ、ハーカン・シュクル、ウミット・ダバラなどの活躍により、初の準決勝まで進出、3位となったことで、ハンサムなイルハン・マンスズの株が急上昇、その後のトルコのサッカー試合に、日本から特に女性ファンがわんさと押し掛けて来るようになった。 その頃盛んになりつつあったインターネットのYahoo掲示板にはイルハン・マンスズのトピがあり、私も小枝子さんに誘われて参加するようになり、現地情報を提供していたところが、知り合いの人達から「いついつの、どことどことの試合のチケットを買っておいてください」「いついつにイスタンブールに行きますからリーズナブルなホテルを予約しておいてください」などと頼みごとがあとあと入って来るようになった。 知り合いの人にはもちろんそうしてあげたが、そのうち特に縁もゆかりもない、トピの上の知り合い程度、あるいはまったく知らない人からも私書箱あてにそういう依頼状が舞い込むようになり、出来るだけ便宜を計らってやったにもかかわらず、有難がるどころか、チケット発売所で、秋・冬の寒い吹きさらしに行列してやっと手に入れたチケットを、タキシム広場まで出向いて手渡したら、希望通りの席でなかった、とか大文句を垂れ、こちらをまるで悪質なダフ屋を見るような態度。 本当に好意だけでやってあげた無償のチケット取り。お金だって立て替えるわけだし、一銭も上乗せするわけでもなく、イスタンブール在住の人間がチケットを買えば何か儲けでもあるかのような目つきをされたら誰だって嫌気がさすだろう。 ほとほとそれらの日本人女幾人かの程度の低さに呆れ、その頃から好きだったサッカーがすっかり嫌いになり始めてしまった。 それから10年余り。もうトルコ・リーグのベシクタシュもガラタサライもフェネルバフチェも関係なく、どこが優勝しようが記憶の片隅にも残らない日々が続いた。 それがどうした風の吹きまわしか、たまたま午前1時から日本対トルコの隣国ギリシャの試合があるとのことで、ちょっと見てみる気になって、11時過ぎから仮眠を取ってキックオフに備えた。 でも、正直なところ日本チーム、チャンスはしばしば逃すし、両軍とも走ってばかりいてどうも盛り上がらない。一つもゴールの入らない0-0で、かろうじて失点は免れたが、次の試合コロンビア戦によほど頑張らないとそこで一部リーグで全員帰国と言うことになってしまうかも。 写真は2枚ともGoogle画像から拝借 夜はフランス-スイスの試合を観た。スイスは善戦したものの、フランスに5つのゴールを叩き込まれ、2点も実はフランスのオウン・ゴールなのだが、とにかく動きが激しく日本戦とは全然違う試合だった。 やっぱりゴールは両チームにそこそこ2つ3つずつあってほしいものだ。 これから先、またサッカー好きになるかどうかはわからない。昔仕入れたルールなどの知識はかすかに残っているのだが、トルコが参戦していないので、やっぱり興味は薄く、2005年だったか、その昔、ベシクタシュの試合を観に、チャーター機でローマまで行ったような情熱はもうなくなってしまっている。 もっとも肝心の、ローマの強豪ラツィオとの試合、それを見たくて前日徹夜で仕事を終わらせてローマに飛んだので、いざ試合が始まったら知らないうちに寝てしまい、前半が終わったところで小枝子さんに揺り起こされ、今度こそ、と目をギンギンにしていた後半もいつの間にか、終わったところでまたも小枝子さんに起こされて、結局ほとんど見られなかった。0-2でベシクタシュは負けてしまっていた。 その夜12時過ぎ、そろそろ寝よう、今晩こそぐっすり寝よう、と思っていた私達の部屋に、もう1人女性を入れて欲しい、とツアー会社の人がきた。こんな狭い部屋に?と思ったが、断るのも気の毒だし、承知したらなんてこった、この人がものすごい雷鳴のような往復いびきなので、実は同室の人のクレームで追い出されたらしい。 私達はほとんど一睡も出来ずに朝4時に起きて、夕方までの自由行動に出かけたのだが、その日は地下鉄やバスがストライキで、タクシーは長蛇の列、仕方なく寝不足で疲れているのに果てしなく歩いてコロセウムやホロ・ロマーノに行くという、受難の日になった。 その上、本場のアルデンテを食べようと入った店のスパゲティ・アルデンテ、固すぎて降参してしまった。トルコに10年もいたので、うどんのように柔らかに茹でたトルコのスパゲティに慣れてしまっていて、アルデンテの固さに歯が立たなかったのである。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月20日
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【6月19日・木曜日】 朝のうちは上天気、午後いろいろ用事があって出かけるつもりが、次第に遅くなり、午後5時前から雷がひどくおどろおどろしい雷鳴を轟かせるようになった。 50キロ近く西の方に住んでいる友人から電話がかかり、聞いてみたらそちらでも雷鳴が続いていてあめになりそうだ、とのこと。 ほどなく、ものすごい勢いで雨が降り出し、チュクルジュマ通りは急流となった。このところよく驟雨が襲うので写真を撮るほどでもないか、と用足しに出るのは諦めた。 8時くらいにほんの少し雨が止んだので外猫達の餌を配りに行った。その間15分くらいなもの。ほどなくまた降り出して、以前のトルコはこんな6月半ばに雨が降るなど、ほんのたまにしかないことだった。 それが6月に入って雨がちの日が多くなり、洗濯物も外に出したままだと夕方せっかく乾いても濡らしてしまう可能性大である。 夜、FBを開いたら、森脇さんのページが真っ先に出て、なんと、お住居のあるアジア側、マルマラ海のイズミット湾に面したトゥズラを大きな竜巻が直撃したとのこと。 竜巻はトルコ語でホルトゥム(吸引ホースのこと)。黒々と恐ろしい形です。森脇さんのお友達、Gönül Aksungurさん撮影のものを拝借しました。 さいわい被害はなかったとのことだが、一つ間違えばたいへんな目に遭うところだったようだ。それにしてもこの頃竜巻のニュースが多すぎる。アメリカのネブラスカでは数日前、双子の巨大竜巻が襲ったすぐ次の日あたり、また発生したという。 私は2003年、カッパドキア周辺の大地で撮影中に竜巻に襲われたことがあり、車の陰でうずくまって通過を待った。地元の人の話では、これは大したことはないよ、というのだが、その小さな竜巻でさえ全身に砂が叩きつけて来て猛烈に痛かったし、息も出来ない怖い思いをした。 最近はみんなが昔と天候そのものが変わってしまったと口々に言う。言わずと知れた地球温暖化。ノアの大洪水の日が来るのかもしれない、真面目な話である。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月19日
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【6月18日・水曜日】 私のTVや雑誌取材のアシスタント・コーディネーターとして、2003年から2009年いっぱいの7年間、また、その後も時々組んで働いていた日本語ガイドのオカンさんは、弟のやっている店を手伝いに行く、と言って去年の夏の終わりごろ日本に行ったが、先週イスタンブールに9ヵ月ぶりで帰ってきた。 日本出発の数日前に「カセサン、ナニカ、ホシイモノアル?」とFacebookからメッセージをくれたので、「ウメシュ タノンデモイイ?」と書いた。 彼はチョーヤの梅酒を買ってくれたそうで、18日の夜、ウムット・オジャックバシュで会おうと言うことになった。 夕方オカンさんから電話が来て、「今日オジャックバシュにもう1人友達を連れて行きたいんだけどいい?」と聞く。「もちろんいいよ。女の子?」「いえ、男。アメリカの人なんだけどあと2~3日でイスタンブールからいなくなる」「へえ、じゃあどうぞどうぞ」「加瀬さん、会ったら紹介するけど彼はミュージシャンなの」「ふうん、誰でもいいよ、大丈夫」 とは言ったものの、大丈夫じゃない、大丈夫じゃない、英語が喋れないじゃん、私。 英語は昨日ス・アダで喋ってますます自信喪失したので、でもオカンさんが達者に喋れるからまあいいか、とそう心配せずに度胸を決めた。愛想笑いでごまかそう。 しかし、オカンさんの友達は出会ってみると気さくなニコニコしたおじさんで、名前はトニーさん。ギタリストなのだそうだ。そしてオカンさんとはオートバイ乗りとしてハーレーのグループに所属している共通の友人を通して知り合ったという。 私も息子がバイク好きで、今まで3度も大怪我をしたのに辞める気がありません、とモタモタした英語で言うとトニーさんは大きな声で笑って私もそうですよ、と言った。 たまに私が、ポツリポツリと英語で話をするとトニーさんは喜んでペラペラペラと早口で答えるので、オカンさんに通訳して貰わないと分からない。 4月にトニーさんのグループが日本で公演し、オカンさんはそこに招待されてトニーさんと再会出来たのだそうだ。 トニーさんの許可を得て、オカンさんが彼の所属するグループのリーダーの名前を言った。「えーっ、ボブ・ディランなら、私だってレコードは持ってないけど名前くらい知ってるわよ~。すごいね」 トニーさんは25年以上もその楽団のギターやベースを担当しているのだそうだ。今はベースだが、もちろんギターもやるし、メンバーはどの楽器にも強いらしい。 ボブ・ディランの楽団でベースを担当するTony GarnierさんGoogle画像から拝借「オカンさん、ボブ・ディランさんは確か、お祖父さんかお祖母さんがトルコ人で、トルコのトラブゾンだかどこか東の方から移住したのよね、たしか」 オカンさんが即座に言った。「やあ~、加瀬さん、よく知っていましたね。カルスの人だったんですよ」それから彼はトニーさんの方を向いた。「トニーさん、加瀬さんはボブさんの祖父母がトルコ出身だって言うこと、知っていましたよ」 それを聞いたトニーさんが喜んでくれた。 トニーさんは、大変な話好きで、オカンさんもその早口に参ってしまったのだそうだが、今では彼も英語がますます達者になって、息もぴったり合った弾丸トークで応酬している。 夕食が済んで、今、甘いものが来るのを待っています。ウムット・オジャックバシュにて。この写真、後ろのガルソンがトニーさんの肩によりかかっているのではなく、オカンさんの太い腕と、ちょうどぴったり重なってしまったみたいです。 トニーさんは57歳、奥さんも同い年だが長年子供が出来ないので、10年以上前に人工授精を決断、奥さんも勇気を持って承知し、50歳近くなって最初の子供を授かり、次の年にももう一度挑んで、7歳と6歳の子供がいるのだそうだ。「連れて歩いていると、みんなにお孫さんですか、と聞かれるよ。子供を育てるって嬉しいもんだねえ」と、トニーさんは言った。 人間臭さいっぱいのトニーさんに私は一期一会にしても出会えてよかった、と思った。 20日にはイスタンブールでコンサートがあり、そのあとはギリシャに行くらしい。爽やかに握手を交わし、オカンさんに導かれて、にこやかにトニーさんは去って行った。(トニーさんの承諾を得て書いています) ところで、オカンさんのお土産は、梅酒(820ml)以外にも、むぎ焼酎1.8ℓを持ってきてくれた。こんなに重たいのに・・・9ヵ月も滞在して自分の荷物もたくさんあったろうに、ほんとうにありがとう。 梅酒の中味は梅も入れて820ml、ガラス壜もかなり重い。焼酎は1.8リットル! でもその代わり、ブログに書くとき、とてもハンサムになって帰ってきた、と書いてくれと言う。 はいはい、了解です。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月18日
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【6月17日・火曜日】 イスタンブールの日本料理店「五味(いつみ)」さんの、夏季限定の支店があるSu Ada(ス・アダ、ボスポラス海峡の中ほどにある島で、レストラン街やプールやジムナスティック施設がある)の、オープニング・パーティに招待していただいた。 ドレス・コード有りとのことなので、夏のお出かけ用の服を買うチャンスと思い、ジハンギルのブティックで気に入ったチュニック・アンサンブルを購入、当日に備えていた。(うちにはもう、猫の引っ掻き傷のついていない服はないのです。 ) 夜8時から始まると言うので、7時にタクシーを予約したのだが甘かった。週末でもないのに幹線道路が大混雑しており、幸いジハンギル・タクシーのベテラン、ヴェフビさんがありとあらゆる裏道を迂回しつつ、何とか8時10分にはSu Adaの船着き場に送り届けてくれた。 混雑していなければ海岸通りを真っ直ぐに15分くらいで来られる距離なのだが、ラッシュアワーで、アジア側に帰る車がボスポラス大橋に行く道路で大渋滞、そのため、わが家に近いトプハーネ辺りから既にノロノロ運転だった。海岸通りなどを行った日には9時になっても到着出来なかっただろう。 Su Ada行きの船着き場はボスポラス大橋のもっと先、クルチェシュメにあり、シナンさんの海泡石のアトリエの真下に当たる。船着き場にはカメラの放列、これは俳優や歌手などの有名人も来るので待機中らしい。 ちょうどエルデム縁(ゆかり)さんと大濱裕美さんの2人が私を見かけて待っていてくれたので一緒にモトール(小回りの利くはしけ)に乗って島に上陸した。(5分足らず) こんな風にして、ヨーロッパ側の陸地から沢山の渡し船が往復しています。 島の入り口はそのまま船着き場になっていて、2階にレストランがいくつかあります。 賑やかな(たぶん生演奏の)音楽が流れ、ライトアップされた華麗なるオープニング・パーティは、いろいろな店が並ぶレストラン街ではもうすでに始まっていた。 3人で2階にある「五味レストラン」に行くと、オーナーの堀越さんが招待客を出迎えるため店先に立っていたので、挨拶をして招待の礼を述べ、早速ドリンクを貰い、立食形式のテーブルに加わった。 Su Adaは島自体が大きな船を浮かべたような作りになっており、「五味レストラン」でも既にかなりの人々がテーブルに並べられた巻きずしをつまみながら、ワインやビールを手に三々五々、談笑しているのだった。 この長い台に載せられた巻きずしが入れ替わり立ち替わり運ばれてきます。 エルデム縁さんと大濱裕美さん 五味レストラン系列のオーナー、堀越さんと記念撮影 森脇さんと。今度の日曜日にダウン・カフェでもお会いします。 寿司バーでは、助っ人に来ていた純ちゃんこと平賀純一さんとも出会うことが出来た。1995年にイスタンブールに移住した私が、翌年小さな「かせレストラン」を開いた頃知り合った、本格的な日本料理の板前さんである堀越さん、平賀さん、そして井俣満さんにはずいぶんお世話になってきた。 こうしためでたい席に呼んでいただけるのは望外の幸せ、森脇さんはじめ、旧友や顔見知りの方々とも挨拶を交わし、美味しい巻きずしをご馳走になった。 ドレスアップしたエルデム縁さんと大濱裕美さんもまた、私をいつも励ましてくれる素敵な仲間達。途中で2人はほかの店舗も覗いてみましょう、と私にも声をかけてくれたが、ヒールを履いて歩き回るのはきついと判断、たまたまベンチに座っていた男性2人が詰めてくれたのでそこに腰掛けた。 どちらもトルコ人ではなく、英語で話しているので、しまった、逃げればよかった、と思ったが後の祭り、結局中学の教科書で習ったままのへたくそな英語を話す羽目に・・・ 男性の1人はブラジル人で8年イスタンブールに暮らし、1人はスペイン人で、商用でこのブラジル人のところに年に何度かやってくるのだそうだ。 そのうちに2人が戻り、時刻は9時半を回っていたので、ほどなく堀越さんの夫人プナルさんに別れの挨拶をして店を出た。ちょうど折りよく横付けになっていたモトールに乗り、クルチェシュメから裕美さんの車でベシクタシュまで送って貰い、そこからはタクシーでものの10分とかからず帰宅出来た。 お陰でまたまた楽しいひと時を過ごすことが出来て、寿命が延びたような嬉しさである。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月17日
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【6月16日・月曜日】 夕方7時頃、猫達の餌を配ったあと私はジハンギルに出かけて行った。古くからの知り合いのジェラルさん一家を訪問し晩ご飯をご馳走になったのである。 先週ジハンギルを歩いていたとき久々に出会い、週末に家に呼んでくれたのだがチョルルへサクランボ狩りに行ったので果たせず、今日、もぎたてのサクランボ少々と途中で買ったバクラバを手土産に訪ねたのだった。 アナドル(アナトリア)の田舎出の人々なので、格別なご馳走ではないけれど、奥さんの作ったビベル・ドルマやホウレン草のボレッキなど美味しく頂いた。 トルコの家庭では夕食の始まりが9時頃になるので、終わるのも遅い。食事のあと甘いものを食べてチャイを何杯も飲むからだ。(長らく会わなかったので質問攻めで、写真を撮るのをすっかり忘れてしまった) 10時半頃暇乞いし、タクタキ坂を下りてきたら、少し下の脇道から右前脚の白い猫が出てきた。ピョコタン、ピョコタンと白い足を地面に着くたび体が揺れる。猫はそうやって坂の下に下りていく。私は思わずカメラを取りだした。 あっ、タローだ! タローッ! 私は嬉しくなって呼んでみた。彼は私の声を聞くと振り返り、トコトコ坂を上がってきた。 坂道を下って行くタロー、呼んだらこちらにやってきました。 石屋さんの大理石の水槽(昔の家畜用)にすりすり、可愛いタロー 私と一緒にジャーミイの角を曲がって家までついてくるタロー 裏庭がもうすっかり工事現場と化してしまっているので、猫達はどこで寝ているのだろう、と気になっていたのだが、こんなところまでやって来ていたのか、とちょっと嬉しくなった。 生後1年を過ぎて、おとなになりかけたタローは、こうしてクズ・アルカダッシュ(ガールフレンド)を求めて、夜の街を徘徊していたのである。 タローは脇にあった大理石の水桶などにすりすりして甘える様子を見せた。そして私に頭を撫でさせ、ゴロゴロ喉を鳴らした。でも、抱っこしようとすると嫌がった。私に抱っこされて獣医に連れて行かれた嫌な経験を忘れていないのである。 右前脚は脇の下が伸びないため、すっかり短くなって、いわば障害となって残ってしまったのだが、どうやら痛みも無くなったのか、坂の上の方まで遠征してきているのだろう。 私の足元を付かず離れずこちょこちょ一緒に歩いてタローはウルガズ・アパルトマンの前まで来ると、じっと私を見上げている。頭をたくさん撫で撫でして別れ玄関に入った。 もう、オズギュル先生のところに連れて行くのはよそう。このままでいいや。3ヵ月余り前に手術されるときまでは、毛艶のいい大型猫だったのに、すっかり痩せてしまい、毛並みもみすぼらしくなってしまった。 私のせいで、獣医に診せに行った私のせいで、もしかしたら不要だった手術を二度も施されてしまったのかもしれないタロー。 いつも、鴨がネギをしょって来るように見えたのかもしれない私という大間抜け。 私は1000リラという大きなお金を払った。でも、獣医は稼いでも後味はよくなかっただろう。先生と名のつく人に不信感を持つことは残念だが、長年信頼していただけに、ことタローに関してはいまだにその思いがぬぐい切れずにいる。 でも、タローの猫人生にも恋の季節が来たのか、夜の街でカノジョを物色中とは・・・ よかったよかった。頑張りなさいよ、タロー。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月16日
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【6月15日・日曜日】 朝7時。農場の入り口方面にもう日が高く上って来ている。二階のテラスから見ると、爽やかな風が湖面に波を立てている。庭ではもう黄色い長靴を履いたアリスちゃんとヤウス君が白犬夫婦達と一緒に駈けまわっており、おじいちゃんのメヴリュットさんがもう一仕事したのか、果樹園の方から出てきた。 アリスちゃんとヤウス君は、前の晩メヴリュットさんが早起きしたらボートに乗せて、湖の対岸に連れて行ってやると言ったので、目を覚ますが早いか起き出したのだった。番犬のニーシャも鎖を解かれて、自由に子供達と駆けまわっていた。 子供達が足こぎボートに乗せろと騒いでいるようだ。私も夜具をたたみ、着替えて2階の部屋から下りて行き、庭の隅の流しで顔を洗った。庭に黒い実のなる桑の木があり、メヴリュットさんが「朝、これを3~4粒食べると、胃の調子を整えてくれるんだよ」と言いながら、赤黒くなった実をもいでくれた。 メヴリュットさんがカラ・ドゥットゥ(黒い桑の実)をもいでくれました。 白い実もあります。黒い桑の実は自然の胃腸薬としていいのだそうです。 ニーシャ、3年前、もてあました飼い主に捨てられそうだったのを引き取り、今は農場になくてはならない忠実な番犬として、大事な家族の一員です。 手前のオス、フユスズと奥さん。2匹の間には白っぽい子犬が3匹。ころころ、もふもふの3匹は今飼ってくれる人を探しているそうです。 家の中の台所ではベディリエさんがもう朝食用のサラダを作っていた。一日中、家族や来客、子供達の面倒を見てクルクルと休む間もなく働いているお母さんなのだ。 そのうちにみんなが起きて来たので、パンに玉子をまぶして焼いていたベディリエさんが、一切れをニーシャに高々と投げてやると、大きな番犬は飛び上って見事にキャッチ、得意そうに食べて見せた。 鮮やかなジャンプで、ちゃんとパン切れを口にキャッチしました。 大人達のテーブルに座ってポーズを取る、アリスちゃん(左)とエキンちゃん こちらが子供テーブル。チュナル君はさすがにお兄さんの貫録十分。 女子多数派。後片付けは亜希子さんも手伝います。 男性陣。これから力仕事が待っています。 番犬ニーシャと私。まだ信頼されていません。どうしようか考えているようです。でも、一度頬の脇を撫でてやったらすっかりなついてしまいました。私も嬉しい。 朝食では子供達もまた一緒に楽しそう。私達おとなも、爽やかな朝の風の吹くテラスでこの上なく新鮮な庭の朝採り野菜で作られたサラダや、ポテトの揚げものなど豊富な食卓で舌鼓を打った。 チャイの後、亜希子さんと私が果樹園の方に散歩に出て緑のオゾンを吸っていると、日が高くならないうちにと、サクランボのもぎ取り作業が始まり、木の下に大きな脚立が運ばれ、メヴリュットさんとハールンさん、そしてトゥンジャイさんが働き始めた。 トゥンジャイさんもかつて郷里にいた頃、そういう農園で暮らした経験があるとのことで、「ああ、こういうところに住みたい」と言いながら誰よりも手早く、プロフェッショナル顔負けの手捌きで、何時間も飽きずにメヴリュットさんの手助けをしたのだった。 一番最後に収穫する木、鈴なりの赤い実が魅惑的。 トルコ語ではキラズと呼ばれるサクランボ。これはナポレオン種で、完熟すると赤黒くなります。 こちらはヴィシュネ(vişne)、やや酸っぱいので食べるよりチェリージュースに使われます。 サル・キラズ(黄色いサクランボ)も甘くて美味しく頂きました。 イチゴはホルモンで大きくしたり糖分を注入せずとも、天然自然に甘いのですね。 秋にはリンゴも真っ赤になるでしょう。私の手にはセリが沢山。 サクランボを採りに行く女の子達、なんだか詩情豊かな可愛いショットです。 サクランボの入ったかごを持つトゥンジャイさん。果樹園の仕事がとてもお気に入り。 そのうちに、ヤウス君のお父さん・お母さんもやってきた。亜希子さんと私が相談してお土産に持って行ったバクラバ他のスイーツは、夕飯のデザートにも、チャイの時間にもテーブルに並べられ役に立った。 午後2時頃、お昼になったが実に大人数だった。亜希子さんと私が庭で見つけたカズ・アヤウ(セリ)とセミズ・オト(すべりひゆ)をたくさん抜いてきたので、昼ご飯の時に、私がミュジヴェル(野菜のお好み焼き風)を作っておかずの一品として出した。 この、雑草として捨ててしまうことが多いセリやセミズ・オトのミュジヴェルは、みんなの評判がすこぶる良かった。特にセミズ・オトはお好み焼きに山芋を入れると美味しくなるのと同じように、ネバネバ効果を持っており、私は家では茹でてマヨネーズとしょうゆで和えて食べるのが好きだった。 セミズ・オトのヨーグルト和え。ここにはメルジュメッキ(レンズマメ)も入っていて、優しい口当たりです。ベディリエさんのお得意料理でしょう。 トルコでもセミズ・オトは茹でて刻み、にんにくを擂りこんだヨーグルトで和えたりする。八百屋にもたくさん売っているが、市販品はホルモン剤を使って栽培されている大きなものばかりである。私達はキュウリやトマトのハウスの中に生えていた自然のままに見事なセミズ・オトを抜いて土産に貰ってきた。 朝一度載せて貰ったものの、風がかなりあって対岸には出られず、午後もう一度足こぎボートに載せて貰って楽しむアリスちゃん達。 昼食後、子供同士でずっと仲良く遊んできた小さい3人組は最後に約束通り救命胴衣をつけて足こぎボートで水遊びもさせて貰い、アリスちゃんはとうとう私に言った。「加瀬ハヌム、あのねえ、あたし達、あと1日泊まったらいいと思うんだけど・・・」 やっぱりねえ、と亜希子さんと笑いながらも、夕方になって道が混む前に私達は帰る準備をしなければならなかった。メヴリュットさん一家にすっかりなついたアリスちゃんは、聞きわけよくまた来るからね、と約束してみんなと別れのあいさつを交わした。 サクランボもたくさん分けていただき、5時少し前に私達は出発した。 さようなら、チョルル市サルラルキョイの自然農法・ウチャル農場の皆さん。 自然の中で素敵な思い出をたくさんいただき、ありがとう。 途中で一度休憩をして、アリスちゃんの家のあるイスタンブール郊外の大きな団地の入り口近くにあるバス停には、タキシム広場行きのバスが来るとのことで、余り待つこともなく始発のバスに乗れた上、アクサライまで国道を走るノンストップのエキスプレスなので、私はタキシム広場まで難なく来られた。 バスの降車場の反対側がスラセルビレル通りなのでそこでもまたすぐにタクシーが拾えたので、亜希子さん一家と別れてちょうど1時間、8時20分にはもう家に着くことが出来たのだった。 家に入るや否や、チョルルのメヴリュットさんやハールンさんに無事帰着の電話を入れ、楽しい週末を過ごさせて貰ったお礼を言った。そして亜希子さんの電話はかからなかったので、トゥンジャイさんにも1時間で帰り着いたことを知らせ、車で往復して貰ったお礼を述べた。 猫達に大急ぎで餌を配り、貰ってきたサクランボとセミズ・オトをきれいに洗い、テレビドラマ「O Hayat Benim」を見ながら、テーブルのうえで根や傷んだ葉を取り除き、その後よく洗った。 きれいに洗ったサクランボ、セミズ・オト。これらは向かいと下の階の隣人におすそ分けしました。 農場を歩き回ったので、足腰に疲労感はあったが、快さの方が大きく、私はよく眠ることが出来た。
2014年06月15日
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【6月14日・土曜日】 日が傾いた頃、庭でマンガル(バーベキューのかまど、炉)に火が焚かれ、ハールンさんとチーデム夫人がかまど奉行を務め、夕食はチキンの手羽先手羽元をたっぷり焼いて、ベディリエさんや女性達の心づくしのサラダや前菜がたくさん並んで豪華なソフラ(食卓)となった。 マンガル(かまど)に火が入りました。ハールンさんとチーデム夫人 チーデムさんと息子のチュナル君、後ろはナーランさん、右の奥はヤウス君 日没のとき、真っ赤な残照の中、あたりは夕闇に包まれてきました。 手羽先、手羽元をきれいに網の上に並べて焼く準備をするハールンさんチーデムさんは焼きなすの皮をむき終わったところです。 日没が近づいてくると、湖畔の蛙達が一斉にコーラスを始めたので、夕食の時間はことのほか賑やかだった。 これが焼いたナスを刻み、トマトや玉ねぎ、ピーマンなどの炒め物と混ぜ合わせた美味しいサラダです。 前菜はスライスしたトマトと玉ねぎのサラダ、いんげんのトマト煮、ヤプラック・サルマス(葡萄の葉で巻き、煮込んだピラフ)など。 メインディッシュ、チキンの手羽焼きが出来ました。美味しいです。 (カメラの不具合でこれだけは色がきれいに出ませんでした。) 子供達には別なテーブルが用意され、先に食べさせるのがトルコのならわし。アリスちゃんの嬉しそうな顔、お家では一人っ子なのでこういう食事は格別。 和気あいあいの食卓、左からチーデム・ハールン夫妻、トゥンジャイさん、メヴリュットさん、末娘ナーランさん、ベディリエ夫人、亜希子さん。 デザートにもサクランボ。甘さ抜群黄色い品種とナポレオン ベディリエお母さんの優秀なアシスタント、チーデムさんとナーランさん 燃え盛るタキギの炎、火は幻想的な踊りを見せてくれます。 食後もマンガルには薪を燃やし続けて、みんなで火を見ながら眠くなるまで談笑が続いた。さすがに子供達が11時近くなると眠くなって来たようで、中学生のチュナル君を除いては寝室に連れて行かれたので、アリスちゃんとママと私も2階の部屋に引き取らせて貰った。 ベッドに入るとアリスちゃんはほどなく沈没してしまったが、私達はまだ喋り足りずにいた。下からウドゥ(琵琶に似た楽器)を弾き語りするメヴリュットさんの声がかすかに聞こえてくる。 この頃になるとカエルの合唱は収まって、辺りは静かになったようだ。 やがてウドゥの演奏もお開きとなったようで、1時近くになる頃、トゥンジャイさんも2階の部屋に懐中電灯を持ってやってきた。屋上のソーラー電池が終わってしまったらしく、2階は真っ暗になってしまっていたからだ。「君達の話は終わったかい?」トゥンジャイさんが聞く。「あと5分待っててね」と私達。「えっ、まだ終わらないのかぁ、よく話すことがあるよなぁ、飽きもせずペチャクチャペチャクチャ」 湖畔の蛙の声よりうるさい私達2人の日本語のお喋りに、往路の車の中でも閉口していたらしいトゥンジャイさん、でも勘弁してね、この2~3ヵ月、亜希子さんも私も余りにいろいろなことがあって、これでも話足りなかったくらいなの。 やがて、イスタンブールの繁華街で暮らしていると、味わうことの出来ない静寂な夜の帳に包まれて、ほどなくおとな3人も眠りに落ちたのだった。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月14日
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【6月14日・土曜日】 チョルル市はイスタンブールの西隣のテキルダー県にあって、イスタンブールからは100キロ余り。隣接するチェルケズキョイ市とともに一大工業地帯を形成しているので、近年人口も急増し、大きな発展を遂げた新興都市だった。 19年前に私が初めて、今は亡き親友ファトマさんが社長を務めるオヌル・ケータリング・サービス会社を訪れた頃からすると、市街地が目を瞠るほど拡大し、当時2時間に1本イスタンブル・セヤハット社のバスの便があっただけだったのに、今は30分おきに忙しく往来しており、非常に便利になった。 さて、そのファトマさんの兄メヴリュットさんが、チョルルの町はずれにある湖のほとりに広大な土地を持ち、かねてから無農薬の果樹園や野菜畑で晴耕雨読の暮らしをしているので、何年も前から遊びに来いと言われていた。 先月下旬、堀先生のイスタンブール診療の日、鍼を受けに来たメヴリュットさんが、サクランボは今が真っ盛りだから今度こそ来なさいというので、6月の半ばまでに必ず行くと約束したのだった。 14日の午後、日本人学校補習校の終業式のあと、午後2時になろうとする頃、アリスちゃんのパパ・トゥンジャイさん運転の車で、ママ亜希子さんとアリスちゃん、私の4人はチョルルに向かったのだった。 学校は夏休み、通信簿は「5」、アリスちゃんご機嫌でサクランボ狩りにいざ! 土曜午後の交通渋滞でイスタンブール市内を出るのに時間がかかり、途中のサービスエリアで軽い食事を取ったあと、チョルルのショッピング・センターの近くで、メヴリュットさんの息子ハールンさんと待ち合わせ、彼の先導で農場に着いた頃には6時近くなっていた。 チョルル市の共同牧草地を通過すると麦畑や菜種畑の先に小さな湖が見えて来て、辺り一帯が緑に覆われていた。そこがメヴリュットさんの農場だったのである。今日は午後一度驟雨が襲ってきて、気温がぐっと下がり涼しくなったそうだ。雨が降ったせいか、緑が濃くみずみずしく見えた。 金曜日の晩からすでにメヴリュットさんの妻ベディリエさんやハールンさんの妻チーデムさんと息子のチュナル君、ハールンさんの妹ナーランさんと娘のエキンちゃん、ハールンさんの姉の息子ヤウス君などが来ており、家族全員のほかに、犬の夫婦と3匹の子犬が尻尾をちぎれんばかりに振って出迎えてくれた。 牧草地で出会った牛の群れ。 牧草地や麦畑を過ぎると、向こうに緑の茂みが見えてくる、それが目指す農場 入り口の柵を入ると湖のほとりに続く農場の道。たまに間違えて知らない車が入ってきたりする。 みんなが大歓迎、アリスちゃんも元気百倍、楽しい予感がいっぱいです。 住居兼用建屋のひさしの下のテラス。チャイを飲んだり食事をしたりする。 アリスちゃんはたちまち大喜び。挨拶の後、住居兼用建屋のテラスで歓迎のチャイや軽食が振る舞われたが、子供達はチャイなど見向きもせず、キャッキャと広い果樹園を駈けまわり、メヴリュットさんも汗だくになって子供達の後を追って遊ばせてくれるのだった。 亜希子さんと私も果樹園でサクランボをもいだり、イチゴをつまんだり、写真を撮ったり、お喋りしたり。週末はベディリエさんがたっぷりと買い物をして息子か娘の車で農園にやってくる。 孫達が集まって来る、親族や友人達が来る、そういう人達のもてなしのためにサクランボのほかにも、ブルーベリー、モモ、リンゴ、ブドウ、洋ナシ、など収穫して、田舎暮らしを楽しんで貰えばいいんだよ、商売としては考えていないよ、と夫妻は語った。 たっぷりの自然に囲まれた湖畔の暮らしでは、果物と野菜と玉子とはちみつは全部自家製なのだそうだ。そしてときどき、湖に小舟で漕ぎだし、網を打って淡水魚を獲る、これを焼いて食べるのが美味いんだよ、とメヴリュットさんは嬉しそうに語った。 2階のテラスからは湖が見渡せる。 まだ日は高く、やや雲があるので涼しい感じ。 洗いものはここでする。チーデムさん(左)とナーランさん 2階のテラスでおばあちゃんと孫達、そして真ん中がアリスちゃん 庭でもいできたサクランボを味わいます。アリスちゃんとエキンちゃん 庭と鶏舎との境にこぼれんばかりのピンクのつる薔薇 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月14日
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【6月13日・金曜日】 本日は、かせレストランの爆発記念日。 あの日と同じように上天気、朝から青空が広がっている。 これがいつものイスタンブールらしい6月の朝です。 銀行に行くためにタクタキ坂を上って上からわが家を振り返ります。 あれから16年、間一髪でその爆発から逃れた私は、その20日余り後にも、エジプシャン・バザールの大爆発事件のときに、レストランの香辛料を買いに行くはずが、ホテルの出口に下りて来た途端、滝のような豪雨が始まり、タクシーも通らず行くのを諦め9階の店に戻って昼食を取っていたら、エミニョニュ方面で突如大きな爆発が起きたのを目撃した。 その後、1999年8月の大地震でも何事もなかったし、2008年10月末の、マイクロバスのタイヤ脱落寸前の事故や、2009年4月に、キュタヒヤの帰りに乗っていたバスが峠道で猛烈に追い抜いてきたトラックに側面衝突され、その衝撃で窓ガラスを破って飛び込んできた大きな鉄片が、目の前をかすめてバスの窓の革製の内装に激突したときも、何の怪我もなかった。 飛んできたのはトラックの右サイドミラーの支柱のアングルで、一歩間違えば私の頭に激突していたかもしれなかった。 こうした幾つもの危機を逃れたことから、常日頃、人智の及ばぬ大きな力に守られているのを感じているのだが、6月13日は特に自分の年齢や健康のことも考える日にしたいと思っている。 前日の夜、営業を終わって閉めるとき、明日の日付にしておいた日めくりカレンダーは、16年間そのままの形でいまもあの日を思い出させます。 午後2時過ぎ、手持ちのお金がまた底をついてきたので、グランド・バザールに行って両替し、トルコリラを手に入れてきた。 明日はサクランボ狩り。今日と同じようにいいお天気になりますように・・・ madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月13日
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【6月12日・木曜日】 先週末(7日~8日頃)まで日本の梅雨時のような蒸し暑さと、ときどきサーッと降ってくる通り雨など、不安定な天気が続くイスタンブールだったが、今週半ばになってようやく天候が回復してきた。 夕方4時半過ぎ、歩きで家を出て坂の上のジハンギルに出かけた。閉店間際の銀行に寄り、そのあと猫の餌を注文しにペットショップに立ち寄ろう、と向かい側のソカク(細い通り)に入ると、ガルドロブ(洋服ダンス)と言う名の小さなブティックがあったので覗いてみた。 チュクルジュマ・ジャーミイとウルガズ・アパルトマン(右) タクタキ坂を上りきると、そこはもうジハンギル。 フィリズ・アー・ジャーミイの正門は後ろ側にある。 ジハンギル交差点。いつも人々の往来が激しい。 ジハンギル交差点からフィリズ・アー・ジャーミイを見る。 久々に、夏のよそ行きの服でも新調するか、と思って最初イスティクラール通りに行くつもりが、いやいや、猫の餌が先だと、反対側に歩き出してすぐにこのブティックを見つけたのだった。 中にとてもいい色のチュニック・アンサンブルを見つけて試着してみるとこれがぴったり。値段も手ごろだし、何よりも私の好みの青と茶色系の彩りが気に入った。 いつも猫の餌を取り寄せるエフェンディレル・ペットショップに行ってキャットフードや缶詰、猫砂などを注文するともう軽く1万円でそれが1週間分。これでは新しい服など滅多に買えないわけである。 さて、注文品は明日の午後運んで貰うことにして、以前かせレストランのあったホテルの前を通り、もと住んでいたアパルトマン前のT字路を左に曲がって、50m先のジハンギル・タクシーの事務所に寄って見た。 電話番のエユップさんが美味しいチャイを淹れてくれた。夕方なので車はすべて出払っており、近所の顔なじみの人々が私を見ると「おや、珍しいね、マダム」とか、「どういう風の吹きまわしかね、加瀬ハヌム」などと通りがかりに声をかけてくれるのだった。 そのうちに、元運転手のアリさんがやってきた。75~6歳になるだろうか。もう20年も前にエメクリ(定年退職者)になっているのに、息子が癌で十何年も入退院を繰り返しているので、ずっとジハンギル・タクシーで働いてきたが、5年ほど前大きな交通事故を起こしてしまい、相手側への補償をめぐって彼の雇い主だったジハンギル・タクシーの管理者アリ・カルタルさんとの間が気まずいことになっているらしい。 そこへ近くのアパルトマンに住む女性が鉢植えの花を持ってやってきた。「エユップさん、この鉢、アリさんに渡しておいてくれる?」 この女性の言うアリさんは、運転手のアリ・シャーヒンカヤさんのことらしい。ジハンギル・タクシーには一時期、アリさんと言う運転手が5人もいたのだった。 この女性ジョレさんは大の日本びいきで、NHKworldを毎日のように見ているのだそうだ。昔私をよく見かけたので話しかけようと何度も思ったのだが、とても忙しそうに見えてつい遠慮してしまっていた、機会があったらチャイを飲みながらお喋りしませんか、と誘ってくれたので名刺を渡し、メールでやり取りしましょう、と約束した。 トルコのタクシーはすべて個人タクシーで、日本のように第二種免許と言うのはないので、昨日今日免許を取ったばかりの若造でもタクシーを運転することが出来る。イスタンブールのタクシーは質が悪いと言われるのはそういうせいもあるかもしれない。 ただし、タクシーに使われる車のピラカ(ナンバープレート)は、取得が困難でしかも高価である。なかにはこうしたピラカのみを持ち、タクシー業をやりたい人に貸し出している人もいる。 タクシーに使われる車両は、車種は自由だが4ドアで黄色(山吹色)がスタンダードだ。一般にタクシー用に製造された国産の車が使われることが多いが、このごろは屋根の高いワンボックス型の車も増えた。 労働時間は二交代制で12時間ずつ働く。多くは早朝3時ころに交替して車の持ち主が昼間働き、午後3時から翌朝までは雇いの運転手が働く、というケース。 親子とか兄弟で1台の車を共有することもあり、そうでなければ1人信頼の出来る運転手を雇っているのである。元運転手のアリさんは糖尿病で視力が落ち、特に右目が失明状態だったのを隠して働いていたので大きな事故を起こし、失職してしまった。 私も以前よくこの人の運転する車に乗ったことがあるが、本当に右折や左折でも判断が遅く、何度も危ないと思ったものだった。もう免許証も取り上げられてしまっているので、働けないのを嘆いているのだった。気の毒だけどどうしようもないし・・ そこに、このジハンギル・タクシーの創立者ミタットおじさんと仲のいい、現在の管理者のアリ・カルタルおじさんがやってきた。すると元運転手のアリさんは挨拶もそこそこに帰って行ってしまった。 アリ・カルタルおじさんと。ミタットさんと並ぶジハンギル・タクシーの創立者 エユップさんが新しくチャイを淹れてくれたので、アリ・カルタルさんとしばらく話をし、ミタットおじさんとも電話で話をさせて貰った。そのうちに7時を過ぎたので暇乞いし、肉屋でキョフテを少し買って、雑貨屋の店先で売っていた香りの高いフェスレーンも一鉢買った。 ギュルセレンさんがこの数日、気分が悪くて昨日までふせっていたと聞いたので、見舞いに届けてあげるつもりだった。 フィリズ・アー・ジャーミイの後ろ側に位置するチェシュメ(泉のこと。ここでは信者達がお祈りする前に手足を清める水場)の囲いの前でいつも座っているユクセルおじさんと二言三言話をしていたら、1歳くらいの赤ん坊を抱いたジプシーの若い女が来ておじさんに金をねだった。 おじさんはポケットから硬貨を2枚出して与えると「何よこれ、たった1.5リラじゃ何も買えないじゃん!」とぶつぶつ文句を言い、私の方を向いて「あんたも出しな」と言った途端、ユクセルおじさんが女に、優しくだがきっぱりと言った。「この奥さんは我々みんなの大事なお客様だよ、失礼なことを言ってはいかん」 そしてポケットのもっと奥の方を探って、あと2リラを出し、手を軽く振った。「これをやるからもう行きなさい」 女乞食はしぶしぶ離れて行った。私はおじさんに少し補充してあげたいと思い、財布を見ると100リラ札1枚しか残っていない。それをあげてしまうわけにはいかないから、急いで斜め前の小さなスーパーに入ってスナック菓子を少し買い、お金を崩した。 おじさんの手に10リラ札とさっき女に渡した3.5リラの代わりに5リラ札を握らせ、「ユクセルおじさん、これで夕飯にギョズレメでも食べてね」と言い残して別れた。 ギョズレメというのは、トルコ風ファスト・フードで、薄いお好み焼きみたいなもの。小麦粉を練って細い棒で伸ばしたユフカに、白チーズ、ホウレン草、じゃがいものピューレ、挽き肉などを入れて包んで焼くのである。中味をミックスにして焼いて貰うことも出来る。 ユクセルおじさんは若い頃ニューヨークでハンバーガー・ショップを経営していたこともあるので英語が達者。奥さんと別れることになり、一切合財を渡して裸一貫で出直す決意でトルコに戻ったのだそうだが、20年前に知り合った頃にはハンマル(担ぎ屋)をやっているホームレスだった。 10年くらい前に大病を患い、相撲取りのような大男が痩せてしまったので、街の人々が心配したものだが、その際足腰も悪くなって今はまた太ったので両腕つきの杖にすがり、歩くのがやっと。天気のいい日は夏でも冬でもチェシュメの前に座って毎日を過ごしているのだった。 ユクセルさんと別れた後、大急ぎで家に帰り、家猫達に餌をやり、外猫達の餌を配るために下りる時、フェスレーンの鉢も持った。ギュルセレンさんのベルを鳴らすと、フェスレーンの鉢の入ったビニール袋をみてすぐにひも付き籠のリフトを下ろした。 餌を猫達に配り終わってしばらく食べるのを眺めた後、アパルトマンの玄関に戻ってくると、向かい側からギュルセレンさんが手招きをした。「マダム、夕飯、一緒に食べましょうよ。昨日まで調子が悪くて呼べないでごめんなさいね。この間のカモメ食堂のお礼に今日こそは来て貰うつもりでいたのよ。フェスレーンの鉢もありがとう」 思いがけないご馳走だった。ギュルセレンさんがサラダの後、山のように運んできてくれたのは、からし菜のドルマ、チャールストン・ビベルのドルマ、そして、私がさっき、ユクセルおじさんに勧めたギョズレメだったのである。 たった3時間程度、ジハンギルの街を歩いただけなのに、今日は何とたくさんのことを見聞したのだろう。 そして偶然とはいえ、ユクセルおじさんに私が勧めたギョズレメを、私がギュルセレンさんにご馳走になる・・・思えば思われる、それがこういうことなのかもしれない。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月12日
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【6月11日・水曜日】 昨日(10日)は旧日本総領事館で行われた「オペラと日本のうた・室内楽の夕べ」が9時前に終わったので、かねてから約束していたサイットに会うためにウムット・オジャックバシュに行った。 途中で電話すると今日は店の入り口階(日本で言う1階)のオジャック(炉)で働いていると言う。店に行ってみると、客はすべてエレベーターで気持ちのいい6~7階のテラスに行ってしまうので、1階には申し訳程度に数本の炭が起こしてあり、ガルソンのジェムとカプジュ(入口の扉の前で客を呼び込む係)のバハッティンが外の道路にいて、室内にはパトロンのキャムラン氏とサイットが所在なさげに座っていた。 お陰で1時間半くらいゆっくり座ってカナット(手羽先・手羽元)の串焼きを食べ、コーラなどを飲みながら、サイットと話が出来た。 夕方のコンサートと言い、貸し切り状態のオジャック・バシュと言い、このうえない贅沢をさせて貰った気分だった。 腕相撲などしていないのに、腕相撲のように見えるのは、私の腕が太いため。 さて、今晩はいよいよ2011年の1月5日からほぼ3年半に渡って人気を集めたトルコの大河ドラマ「Muhteşem yüzyıl」の最終回だったので、パソコンで書くべきものはすべて書いて送信し、早めに食事の支度をして猫達にも明るいうちに餌を配った。 とろろ汁、納豆、ポテトサラダ、きゅうりのパリパリ漬け パソコンはしっかりシャットダウンし、いよいよ番組が始まって前回のダイジェストをやっているうちに夕食を済ませたあと、猫の爪でボロボロにされたロッキング・チェアに深く身を沈め、足を積み上げた段ボールの上に載せて血行を良くしながら、しっかりとテレビの方を見て、ついにフィナーレの話が始まった。 なにしろ、3年半のうち、2年半以上見ていなかったとはいえ、スレイマン大帝の生涯については歴代のスルタンの業績を記した本で読んでいたため、登場人物についても若干創作された人物もいるようだが、ほぼ史実に沿ってシナリオが書かれているかに思えた。 途中で主演女優の交代などがあった「Muhteşem yüzyıl」が最終回を迎えました。画像はFacebook、「Muhteşem yüzyıl」のページから拝借。 前回の最後のほうで、スレイマンの皇子のうち、3男セリムと4男ベヤジットの後継者争いの際、兄に敗れたベヤジットは4人の息子達と共に処刑され(縊死)、セリムを呪いながら死んだ。 その辺りが最高のクライマックスだったのかもしれない。最終回は回想場面などが多く、スレイマン大帝は病気を押して出発したハンガリー遠征中、陣中で倒れ不帰の人となるのだが、私のお腹の上に猫達数匹が載って、温かいのでついうとうと・・・ やっと直して貰ったテレビだったのに、とうとう最後の場面は見逃してしまったらしく、はっと気がつくと提供スポンサーの名前がずらずらと書き連ねられた、もう、どうしようもない場面になっていた。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月11日
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【6月10日・火曜日】 先週末、トルコ語通訳・翻訳家の安達智英子さんから電話が来て「6月10日の、旧総領事館で行われる室内楽の夕べにお申し込みがないようですが、出席なさいますか? 申し込み人数としてはもう満席なんですが、加瀬さんがお知らせを見ていないようだといけないと思って電話しました。もし、出席なさるなら一席用意しますからどうぞ。」「ああ~、智英子さん、それはご親切にありがとう。知らずにいましたよ。すみません、ぜひお願いします!」 お陰で今日夕方、1時間半余りに渡って素晴らしい室内楽のコンサートを聴くことが出来たのだった。 出演の方々も豪華で、ピアノ :安達のり子さん(今回の音楽会のリーダー)クラリネット :木幡亮仁さん(カイロ歌劇場管弦楽団首席奏者)バイオリン :ヨンジャ・スュリュンさん(イスタンブール国立オペラ・オーケストラ奏者)フルート :メティン・ヤウズさん(イスタンブール大学コンセルヴァトワール卒、プロのフルート奏者)ソプラノ歌唱 :斉藤園子さん(桐朋学園大学卒 二期会所属、ウィーン在住の声楽家) ピアノ担当で冒頭のご挨拶をされた安達のり子さんは智英子さんの兄上の奥さんだそうで、達者なトルコ語と日本語を駆使しながら司会を務めた智英子さんも実に生き生きと嬉しそうに見えた。 演奏の前に、先月起きたソマ炭鉱の犠牲者への哀悼を捧げる黙とうがあり、7時15分頃、総領事館文化担当領事さんの開催のご挨拶(領事館の大矢ちはるさん通訳)や、奏者を代表して安達のり子さんのご挨拶(智英子さん通訳)があり、いよいよ7時半頃から演奏が始まった。 ピアノの安達のり子さんのご挨拶 会場の総領事館の大広間、天井の高い豪華なバロック様式です。 左からクラリネットの木幡さん、バイオリンのヨンジャさん、ピアノのり子さん、フルートのメティンさん、 クラリネットを主体とするモーツアルトの「クラリネット協奏曲第2楽章」のあと、ソプラノの園子さんが加わり、ミュージカル・マイフェアレディより「踊り明かそう」、ズィーチンスキー作曲「ウィーンわが夢の街」、シュトラウス作曲「春の声」などの曲が演奏され、斉藤園子さんの鍛え抜かれたまさに圧倒されるような美声が館内を満たした。 ソプラノの斉藤園子さんが加わって軽快なマイフェアレディの「踊り明かそう」 肺活量豊かな、朗々たる美声の園子さん 10分~15分程度の小休憩をはさんで、後半はバイオリンの独奏「タイスの瞑想曲」、フルート独奏「シチリアーノ」が披露され、最後は懐かしい日本の叙情歌「浜辺の歌」「朧月夜」「ふるさと」の3曲が園子さんの熱唱で胸が張り裂けそうな感動と共に聞かせて貰ったのだった。ヨンジャさんのキューが奏でる「タイスの瞑想曲」 メティン・ヤヴズさんのフルート「シチリアーノ」 ♪あした浜辺を さまよえば~ 昔のことぞ しのばるる~~ 最後にアンコールに答えて皆さんが登場し、会場の人達と歌を唄い(私の知らない曲だった)、50人か60人くらいの入場者と和気あいあいのうちにプログラムは終了した。 昨年3月末にも、同じく旧総領事館のサロンで、アメリカで活躍するチェリストの玉木光さんと、夫人で琴と三味線の名手陽子(木村怜香能)さんのコンサートがあり、私にとってはそのとき感動させて貰って以来のことだった。 そのときのブログ: こちらから 全曲終了、割れんばかりの拍手で本日のこのすばらしい室内音楽会の幕は閉じられた。皆さんと同様、私も満ち足りた思いで会場を後にしたのだった。この夜のコンサートを企画・立案し実現してくださった関係者の皆さん、出演者の皆さん、ありがとうございます。そしてお知らせくださった安達智英子さん、ありがとうございます。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月10日
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【6月9日・月曜日】 おとといの土曜日、朝のうちカレーを煮こみ、残りの挽き肉を玉ねぎのみじん切りと炒めて、コロッケ用にじゃがいもをたくさん茹でておいた。 午後一番でグランド・バザールに出かけて先日娘の置いて行ってくれたテレビ買い替え用のお金を両替し、夕方4時までに帰宅しようと、知り合いの店にも寄りこまず挨拶だけでバザールの外に出た。 電車に乗る前にチェンベルリタシュ駅の前にあるディスカウント・ショップで白髪染めのセットも買ってきた。 トプハーネでトラムを降り、ハイレッティンおじさんのスタンドでオレンジ生絞りジュースを1杯飲み、近くのケーキ屋で、6月6日生まれのタマオと遅ればせながら4月23日生まれのオグリの誕生日を祝ってやろうと、生クリームをきれいな花のように絞り出して、周囲を綺麗に飾ったケーキの一切れを買った。 帰宅後、早速2匹の猫を呼び寄せ、ケーキを出してみたら、浅いプラスチックのパックに無理に押し込んだらしく、せっかくの花模様はペッタンコに潰れていて蓋に張り付いてしまっていた。 おいおい、花飾りがきれいだから買ったんじゃないの~、と1人で怒りながら粉砂糖をかけてごまかし、猫の誕生日にかこつけてケーキを食べられるとは、なかなかいいご身分ではないか、と自賛する。そして夜遅くコロッケパンを作って食べた。 跡形もない生クリームの花飾り。普通ケーキより深い箱に入れるよねえ。 揚げたてのコロッケをパンにはさんで食べました。 それが土曜日。日曜日もまたコロッケやカレーを食べて過ごし、月曜日に隣のベシクタシュ区に住む万里子さんの家でコロッケパンを食べることになって、夜8時少し前に出発、行く途中の美由紀さんの家のそばでタクシーを止めて貰い、美由紀さんにもコロッケパンを配達してからベシクタシュに向かった。 万里子さんも8時少し前に帰宅したようで、トマトとレタスのサラダを作って待っていてくれた。私はさすがに土曜の夜、日曜は朝・昼・晩とコロッケパンが食傷気味なので、炊いたご飯も2人分持参、分け合って食べた。 万里子さんのお家でコロッケ・パーティです。 引っ越し直後と万里子さんのお母さんが見えているときにも来たので3度目の訪問。 私はコロッケパンに飽きてしまったので、ご飯と鶏肉の煮物を持ってきました。 万里子さんが先月はコンヤに出張したそうで、朝4時起きで6時台のコンヤ行きに乗り、上司達とあちらこちら回ってコンヤ・エトゥリ・エクメッキも食べて、夜23時いくらの飛行機で家に戻ったら午前2時だったそうな。 私も思えばいつもそんな時間帯にコンヤに行ったり来たりで、シェビィ・アルース(メヴラーナ追悼祭)の時ですら、メヴラーナ廟へのお参りにも行けなかった鍼灸診療ツアーのハードな日々を思い出した。「私、この前お知らせしたと思うけど、5月の鍼灸診療ツアーを最後に完全に引退したのよね。今度からコンヤには4時起きしなくても済む時刻に行きたいわ」「長い間ご苦労様でした、加瀬さん。これからはご自分のことを優先してお身体にも気を付けてくださいね」 万里子さんも1ヵ月半ばかりわが家で暮らしたことがあるので、私の忙しさをよく理解してくれている。3月半ばのデニズさんの海苔巻パーティ以来3ヵ月ぶりに出会ったので、けっこう話がはずんだ。 10時15分頃に私は席を立った。名残惜しいが、万里子さんは明日も早朝に出勤である。彼女も手持ちの日本食材の中から私にいろいろ持たせてくれた。 荷物を持ってタクシー乗り場まで見送りに来てくれた万里子さんは私が乗り込むとき、運転手さんにさりげなく帰りのタクシー代相当のお金を渡してくれたのだった。「お土産もいただいたのに悪いわ」「いえいえ、こんな所まで来ていただいたんですからせめてこのくらい・・・」「あら、今日は私から押し掛けてきたわけだし・・・」「いいえ、嬉しかったです、またご都合のよいときにはおいで下さいね。」 今週に入っても何となく蒸し暑い陽気だが幸い雨にはならず、私はらくらく家に戻ることが出来た。タクシーの中であらかじめ、「Ima ieni tsukimashita. Arigatou oyasuminasai」と携帯のメッセージに打って置き、アパルトマンの玄関を入るや否や送信した。 もしかしたらお風呂に入っているかもしれないので、そうしたのだったが、4階にエレベーターで上がり、自分の家に入ると万里子さんからもすぐに返事が来た。私が家に着くと知らせの電話をかける習性があるので待っていてくれたのだろう。 こうしてときどき相互に行ったり来たりする友達がいることは、人生にどれほど潤いを与えるか、しみじみわかる気がした。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月09日
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【6月8日・日曜日】 このところあまり料理を作っていないような気がしていたが、それでも結構いろいろ作っては食べていたようである。同じおかずが続いて3回、などというときはもう、いちいち写真は撮らないし、ブログに載せることもない、凡庸な献立になっていると思う。日本でだったらスーパーで即刻食べられる製品が、いくらでも山と売っているので、1人暮らしなのだからそういうものを2~3日に一度まとめて買っておけば、作る時間をほかの仕事に回せるのになあ・・・まあ、何をくだくだ言ってももう遅い。自分で選んでやってきたところに住めて、この上何が不足だと言うのかな、私。 では5月22日の分から・・・ 5月22日朝:大きな行平鍋でほうれん草を茹でました。 5月22日朝:けんちん汁、おからの煮物、ほうれん草おひたし。 5月22日昼:ちょっと台所に物を取りに行っている間に、海苔をさらわれた~! 5月22日夜:冷ややっこ、アサリの佃煮、おからの煮物、ほうれん草のおひたし 5月23日朝:マーボー豆腐、ナスのおひたし、おからの煮物 5月23日朝:カレーを煮ています。 5月23日朝:カレーライス、おからの煮物 5月24日夜:カレーライス、ほうれん草のおひたし 5月25日昼:そうめん、ほうれん草のおひたし 5月25日夜:ボンフィレのソテー、アサリの佃煮、味噌汁 5月26日昼:そうめんと、茹でナス 5月26日夜:牛カツ、お好み焼き、味噌汁、きゅうりのパリパリ漬け というわけで、だんだん何の変哲もない食事になってきたような気がしてならない。 たまにサプライズが起こると、あるいは来客があったりすると張り切るのに、まあ、有り合わせ料理ということで勘弁していただこうと・・・ m(._.)m こうだっけ、ごめんなさいって。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月08日
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【6月7日・土曜日】 昨日午後、ジュマ・ナマズ(金曜日の祈り)のとき、イスタンブールのボスポラス海峡沿いにある、オルタキョイ・ジャーミイの修復が完了、レジェップ・タイイップ・エルドアン首相の先導で、ジュマ・ナマズが始められ、これがアチュルシュ(オープニング)となった。 優雅なヨーロッパのバロック風様式美を備えた、小さくとも威厳のあるモスクとして知られたこのオルタキョイ・ジャーミイの正式名は、ビュユック・メジディエ・ジャーミイといい、時のスルタン、アブデュルメジドの発願により1853年に工事開始、1854年には竣工し、間で手直しはあったものの今回の修復は創建以来の画期的なもので、3年余の歳月を要した。 さて、食べ物シリーズの第2回目は、5月13日以降のものから。 5月13日:チキンのモモ肉と野菜類を炒めて 5月13日朝:チキン野菜炒めはオイスターソースと醤油味。 5月13日昼:立子さんと食べたカモメ食堂の魚料理。ご飯と箸と醤油持参です。 5月13日夜:朝の残りの野菜をあんかけにして、ラーメンの上に載せて食べました。この日夕方、ソマの炭鉱事故が発生、トルコは服喪に入りました。 5月14日:トルコ製のサバの蒲焼風。トマト味です。 5月16日:コロッケパンを作りました。千沙子さんと会い、コロッケパンのお返しに、と蕎麦などをいただきました。 5月17日:暁子さんのお土産のインスタント・カレーうどんにトッピングして。 5月18日:たけのこや蒟蒻、平茸、ヒジキ、人参などに金糸花も入れた煮物 これが干した金糸花。煮ると花の芯からホロリと苦みが出て美味しいです。 5月18日昼:金糸花の煮物ともろきゅう(肉味噌)で食べました。 5月18日夜:卵とじわかめそば、千沙子さんからのいただき物のそば、早速に。 5月19日:縁さんの豆腐を買ってエミニョニュのサバ・サンドに立ち寄った後、グランド・バザールの美由紀さん、スルタンアフメットの美保子さんの店にも豆腐を配って歩いた夜、美由紀さんと肉団子、冷ややっこ、金糸花の煮物でビール。 5月20日朝:大事なビフテキを一切れ台所でタマオに盗まれてしまったので、残りの2枚を薄く切って、4枚にして焼きました。うす~い。トホホ。 5月21日朝:おからの煮物、冷ややっこ、鰊の昆布巻き(缶詰)ほか 5月21日昼:さっぱりとした盛りそば。つゆは全部自分で作ります。 5月21日夜:豆腐のあるうちにと、けんちん汁を作りました。このけんちん、 ポークソーセージ、なす、ネギ、玉ねぎ、人参など、和洋折衷です。 5月21日夜:けんちん汁、鰊の昆布巻き、冷ややっこ madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月07日
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【6月5日・木曜日】 4月と5月にはお土産にいただいた日本食の材料が豊富だったので、かなり煮物をしたような気がする。 V子、暁子さん、ハルコさん、着物の花江さん、アッ君、伊久子さん、木田川立子さん、などの皆さんが次々にイスタンブールにやって来てそれは賑やかだった。 5月下旬には田中さんファミリーが女性ばかりのグループ旅行、これからまだ夏にかけてたくさんの方にお会いする予定である。 (一部、既報のものと重複する写真があるかもしれません) 5月5日以降の食事を並べてみました。 5月5日昼 揚げ玉入りラーメン、きゅうりのパリパリ漬け 5月6日朝:カレーの材料を炒める 早速試食、カレーの朝食、きゅうりのパリパリ漬けと。 5月6日の昼:素麺です。さっぱりと美味しく頂きました。 5月6日の夜、着物の花江さんと夕食にカレーを楽しむ。おからの煮物、松前漬けなど 5月7日昼:ラーメン。マルちゃん正麺、ポークハムやきくらげ入り 5月8日:チキンのモモ肉のニンニク・ショウガ煮込み、柴漬け、松前漬け、アサリの佃煮 5月8日:また新しい松前漬けを作っています。 5月9日:野菜の煮物。マッシュルーム入り、ナスや人参、玉ねぎなど。 5月9日夜:野菜の煮物、生野菜のサラダ、柴漬け 5月10日朝:前日の野菜の煮物をあんかけにして中華どんぶり。 5月11日:筑前煮と缶詰のサバの味噌煮、新しい松前漬け 5月11日昼:米沢ラーメン、ポークハムとネギ 5月11日夜:筑前煮の若鶏のモモ肉を、タマオにさらわれた瞬間 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月06日
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【6月5日・木曜日】 5月の下旬、近所の店が改装するので、今まで使っていたスチール棚を使うならあげるよ、と声をかけてくれた。昔馴染みの古物屋のムアンメル君に頼むとリヤカーで運んでくれると言うので、ある日、店まで貰いに行ってきた。うちのエレベーターは、扉の開く方向が塞がっているので、大きいものや重いものを載せることが出来ないため、彼は4階まで棚を背負って運んでくれた。 猫のキャリーボックスを置いてみると割合いける。猫達も結構ご機嫌で出たり入ったりしていたが、私が寝るときに点呼を取るとちゃんとカプセル・ホテルにいるのは1~2匹。やっぱり、いままで好きなところで寝ていた習慣が簡単に改まることもなさそうだ。 先日、V子がイズミールからの飛行機の遅延で、成田行きに乗れなかった時、数時間わが家に立ち寄ったが、「あら、これいいね、片付いて。4月に来た時より部屋がいくらかさっぱりしたみたい」と言った。 多目的にものを置けるスチール棚が来たと言うのに、私の室内改造計画は遅々として進んでいないのが難点である。 猫達にとって、おしゃれなシテ(団地)になると思ったのにいい・・・ 幾日か経っても宿泊客は増えません。 マヤちゃんを籠に追いこんで過酷なしごきをするアルス。マヤちゃんの恋人タンブルは姉とカノジョの間でオロオロ madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月05日
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【6月4日・水曜日】 昨年10月に、コンヤの鍼灸診療ツアーに参加した、アンカラ在住のトゥーバさんは、私に申し込みの電話をかけて来た時の話し方や声から想像するに、慎み深い優しい人柄の女性だと思われた。 トゥーバさんは夫の友人で、サフランボルの患者グループのリーダー、ヤークップさんの紹介で参加することになったのだが、自分の病気のほかに、お母さんの更年期障害を治して貰いたいとのことだった。 アヌ・ホテルの診療では空席がないので、特別にセマーゼン達のオフィスで順番の最後に入れ、そこで初めて出会ったとき、私は彼女を見て一瞬たじろいでしまった。これほど顕著な満月症(ムーン・フェイス)の人を初めて見たからだった。 あとから問診で聞いた話では、5~6年前に腎臓系の病気を患い、アンカラの病院で診察・手術などを受けた後、担当医師の処方通りの薬を服用してきたが、ステロイド系の薬の摂取量が尋常ではなく、次第に男性のようにうっすらと髭が生え、生理も止まり、髪はだんだん白くなって太り、顔が満月のように膨らんでしまったのだそうだ。 その日の診療の最後の方はセマーゼン関係の女性達ばかりだったので、お母さんよりトゥーバさんを先に寝台に呼び、先生の治療を待つ間に話を聞いておいたのである。 トゥーバさんは30代前半であるにもかかわらず、髪はぼうぼうで満月のように丸く大きく膨らんだ顔を見られまいとしてうつむき加減だった。頬が膨らみ過ぎて鼻や唇が圧迫されているほどだったのである。 ベッドで待つ間に私の問診に答え終わった彼女は深いため息をついた。「心配しなくていいですよ。この先生は日本でも屈指の名医なのよ。あなたの問題をきっと解決してくださるから、安心してお任せしなさいね。今まで苦しんだ分を取り返しましょうね」 私がそう慰めてベッドを離れたあと振り返ると、トゥーバさんは辛かったこの5~6年のことを思い出しているのか、声を立てずにすすり泣いていた。 先生も話を聞いてトルコの医者に憤慨しながら力強く言った。「治りますよ、2回か3回私が治療すればずっと良くなって、もとの顔に戻れますよ。まず、その薬を飲むのは止めなさい。はっきり言ってあなたの体をもっと悪くしているだけだ。」「この摂取量は、普通の14倍ですよ、毎日毎日そんなに飲んだってよくなるわけがないじゃないか、トルコの医者はみんなでたらめ、金もうけ主義です。私が腎臓の機能を良くする治療をします。2,3ヵ月で効果が分かるはずです」 鍼、灸、置き鍼など一連の治療の後、先生はちょうど持ってきていた温灸の3ヵ月分入りの袋を出し、灸点の方法を教え、次回までの成り行きを見ることにした。 今年の2月、再び連絡するとトゥーバさんは喜んで予約の日にお母さんとやってきた。彼女を見て私はびっくりした。中4ヵ月ほどで、これほどまでに効果が出るとは。一緒に手伝ってくれていたミチコさんも眼を瞠っている。 トゥーバさんの顔はもう最初とはまるで違っていた。彼女のお母さんは、若い頃さぞかしきれいな女性だったろうと思える人で、その娘であるトゥーバさんも満月症になる前はきっときれいだったに違いない。 暗い顔つきだった彼女に笑顔が戻って来ていた。そして、今年の5月28日からのコンヤの鍼灸診療ツアー3日目に、トゥーバさんは三度先生の前に現れた。 私は5月27日のイスタンブールだけ手伝い、鍼灸診療ツアーから手を引いたので、トゥーバさんに会うことは出来なかったが、ミチコさんが写真を撮って送ってくれた。 去年の10月に初めて出会ったときの、暗い沈んだ顔とは全く別な、満面に嬉しさのにじみ出たトゥーバさんの明るい笑顔があった。 殆ど元に戻ったと言ってもいいくらいに快復したトゥーバさんと、恩人堀先生。 病気になる前のトゥーバさんと夫のセルカンさん 堀先生から見れば、ほかの通訳さん達の方が完璧に見えたり、気が利いて見えたりしたようで、何度かそういうことを言われたけれど、私はこのボランティアで事務的に通訳をやっていたわけではない。 病気のために心が傷ついた患者さん達に、慰めの言葉をかけ、様子を聞く見舞いの電話をし、患者さんの話もじっくり聞いてあげるようにし、とにかく思いつく限りのことを、まめにしてきたつもりである。 トゥーバさんもそれを喜んでくれた1人である。私はまじない師ではないけれど、温かい気持ちで人を慰めることが出来たら、おまじないをしたような効果がきっとある、と信じている。 トゥーバさんが医師の誤診と言うか、誤った薬剤投与のせいで白くなってしまった髪はともかく、首筋や体の線がすっきりとして自信を取り戻し、にこやかにカメラに収まってくれたことが嬉しい。それに、もしかしたら子宝を授かる可能性もあると、彼女は電話の向こうで嬉しそうに教えてくれた。 彼女を始め、たくさんの人々が痛みや不快感から救われたのはもちろん堀先生のおかげだけれど、この人の写真を見る限り、私もお役に立ったのだなあ、と考えれば、この3年半の年月が無駄に行ってしまったわけではないと思えるし、むしろ反対に大いに報われたような気持ちでいっぱいである。 (トゥーバさんの協力でこの記事を書いています。) madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月04日
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【6月3日・火曜日】 先月の30日の朝から故障して、今度こそは駄目だろうと諦めていた私の1995年製のブラウン管テレビジョン。 残念ながら新型テレビを買わなくてはならないときが来た、でもそのまえに、いつものアフメット・ウスタに見せて、駄目かどうか診断して貰おうとしたら、驚いたことにウスタが根気よく3時間も4時間もかけて、死にかけたテレビを再生させてくれたのだった。 一つ一つテスターを使いながら、どこに故障の原因があるか探すアフメット・ウスタ。「猫の毛が入って壊れたのかしらね、ウスタ」「いや、ランプが一つ切れていたんですよ」「ああ、もう駄目だと思っていたけど、今でも部品を取り換えれば直る可能性があるのね?」「あります」「よかった~、でも最近の新型テレビだったらもっと長持ちするのかしら」「いやあ、このテレビだから直せるんですよ。今の薄型テレビはせいぜい10年持つか持たないか、ですよ。こういう昔のテレビを直せる人もいなくなってきたしね、こうなったら何としても20年以上持たせて見せますよ」 「へえ、じゃあ、ヴェステル社(VESTEL)に20年以上もお宅のテレビを愛用している、と言ったら感謝状が来るかもね。」「あり得ます。メダルつきでね」 ニコニコしていて物静かで口数の少ないアフメット・ウスタが、珍しく冗談めかして言った。 複雑な回線や沢山のパーツ、やっぱり昔の機械は馬鹿に出来ない丁寧さで作られている。 やがて、テレビは息を吹き返し、700余りのチャンネルがあるので、私のよく見るチャンネルを若い番号に集めて貰って、今日の修理は終了した。「今度天気のいい日に早い時刻に来て、屋上のチャナック・アンテン(陶製のアンテナ)の調整をしましょう。もっとよく映りますよ。今のままだとシグナルが弱いチャンネルがありますから。」 アフメット・ウスタはテレビを元に戻し、道具を片付けた。「いかほど?」「ランプのパーツと直し賃で80リラで結構です」「えーっ、そんなでいいの? じゃこれ取っておいて。あなたの腕前に大感謝よ」 ウスタはにっこりして100リラ札をワイシャツのポケットにしまい、来週にでもまた来ると言いながら出て行った。 私は100リラ払っても、なおも安いと思った。ウスタを見送り、さあ、テレビを点けてみるとすごい、色調や輝度を調節してくれたので、故障する前よりきれいに映ったのである。 NHKworldをかけてみました。きれいに出ます。(下の黒いのは写真に撮ったせい) このところ、雨がちな日が続き、日本の梅雨時のような天気なので、たしかにいくつかのチャンネルは雨が降ると雑音とモザイクのように画像が乱れ、視聴に堪えないので来週早々に天気が回復したらアンテナを修理して貰おう。 これから先は、故障した時だけでなく、時々メンテナンスで中のほこりなど掃除して貰えば、20年はおろか30年も持ちそうな気がした。ただ、いずれは交換部品がウスタの手にも入らなくなる日が来るだろう。 古い道具や機械には優れモノが多い。私の炊飯器(日本製)は19年余り。このテレビがもうじき19年、洗濯機18年余り、冷蔵庫16年、感謝しながら大事に使おう。 夜、早速娘にるんるんでテレビ復活の報告メールを書いた。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月03日
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【6月2日・月曜日】 5月24日早朝、イスタンブール入りした田中春美さんとお母さん、2人の叔母さん方は、着物の花江さんの道案内で、25,26,27日までイスタンブール市内をあちらこちら見学、その後娘の絵美さんの大学のある、コジャエリ県イズミット市に移動し、2日滞在したのち、カッパドキアでやはり2日、6月1日の午後皆さん元気にイスタンブールに戻ってきた。 本日は田中さんファミリーのトルコ滞在最後の日。朝10時からかねての約束通り、チャーターした車でタキシム広場に面した、4つ星ホテルから出発した。本日の目的地は幾つかあって、短い時間でイスタンブールの景勝地や楽しいところを満喫しようと、若干欲張りスケジュールを組んだのだった。 このドライブツアーには、着物の花江さんにも参加して貰っている。絵美さんが試験前の大事な授業があって、大学に行かなくてはいけないので、すっかりおなじみになった田中さんファミリーも花江さんの参加を喜んでくれた。 アジア側に渡る前に、海泡石のシナンさんのアトリエに寄ると、皆さんが初めて見る珍しい芸術作品に目を瞠り、シナンさんの説明を聞いて、エスキシェヒールの山奥でのみ産出する貴重な石であることが分かると、それぞれに両掌にほっこりと包めるくらいの大きさの小箱を一つずつトルコの記念に、と買い求めて嬉しそうにアトリエを出た。 シナンさんのアトリエの職人さんの手彫りの技を見せて貰っています。 見事な作品群、既に蜜蠟でコーティングされており、仕上げの検査が済むと店に卸します。 アトリエ訪問記念、お買い上げ記念の写真、皆さんなんとも嬉しそうです。後列右、シナン親方、左、ドゥルスン・ウスタ、私の後ろエルカン・ウスタ ボスポラス大橋を渡るとき、数年間修復中で、防災シートに覆われていたオルタキョイ・ジャーミイがロココ風の美しい姿を現していた。6月6日(金曜日)にオープニングがあるそうだ。 オルタキョイ・ジャーミイ(修復前) Google画像より拝借 朝のうちどんよりと曇っていて、今にも降り出しそうな天気だったが、昼前にはようやく雲の切れ間に青い空が覗くようになった。イスタンブールで一番標高の高い(700m余り)、チャムルジャの丘からヨーロッパ側を見渡すと、誰もがうっとりするような景色が目に飛び込んでくる。 ヨーロッパ側を見はるかすチャムルジャの丘で記念撮影。 展望台で記念撮影しながら、皆さん本当に嬉しそうなので私も嬉しかった。チャムルジャの丘の公園にはまだ水たまりもたっぷり残っていて、今朝方かなり降ったのがうかがわれれる。 丘の上ではゆっくり休憩せず、近道を抜けて貰い、一路カンルジャに向かった。それはもう、あそこのヨーグルトをぜひ賞味願いたい、と言う私の思いがこもっていた。 車中で、朝家を出る前に急いで作った梅干しとおかかの2個一組、6人分のおにぎりを出した。日本茶も冷めてはいたがまずまずで、これで食堂に寄る必要がなくなり、大幅に時間が節約できた。 カンルジャのヨーグルトはやっぱり皆さんに歓声を上げさせるに十分だった。プレーンだとやや塩気があるが、粉砂糖をたっぷりと入れて食べるのが美味しく、街中のスーパーなどではほとんど売っていない銘柄なので、食べたい人はカンルジャまで行く、というコンセプトがまた人気のもとでもある。 カンルジャの船着き場にあるイスマイル・アー・カフェで。 味がしっとりと濃いヨーグルト、粉砂糖をかけるとなお美味しくなります。 ウスキュダルの乙女の塔。この手前が石段でカフェになっています。 次はアジア側の海岸通りを真っ直ぐに南下してウスキュダルに向かった。海岸の防波堤に作られた階段状のカフェは、前夜から朝にかけての雨のせいで座布団が取り払われているので、そこでは景色を見るだけにして、いよいよ最終目的地、ヨーロッパ側の金角湾の奥、ピエール・ロティの丘に行くことにした。 月曜日の午後だと言うのに、丘の茶屋(カフェ)は一杯で、ようやく6人の座れる席を見つけて腰を下ろした。チャイを頼んで届くのを待っているうち、私は母親に連れられた1人の少年を見て「おお、シェフザーデがいる」と思わず声を上げた。 トルコのテレビ界で2011年1月5日よりこの方、豪華俳優陣と、トプカプ宮殿などを再現した大掛かりなセットと言い、ハレムの女達の絢爛たるコスチュームと言い、すべてのテレビドラマを凌駕した「Muhteşem yüzyıl」に出て来るスレイマン大帝の息子達(シェフザーデ)のような衣装を着た坊やを見かけたからである。 Muhteşem yüzyılのşehzadeスタイルのスンネット衣裳を着た坊や 坊やはスンネット(割礼)の儀式の前に、エユップ・ジャーミイにお参りに来て、このピエール・ロティの丘にも連れて来られたらしい。坊やのお母さんに頼んで春美さんと私が彼の写真を撮らせて貰った。 私は娘が7歳、息子が5歳のお祝いのとき、娘には実家の母が調えてくれたピンクの着物、息子には自らデザインして特別に仕立てて貰った「ベルサイユのばら」の中の、ルイ・シャルル王子の服を着せたので、成長した息子にうざったいと思われてしまったが、トルコでは王子の恰好をさせるのが普通だ。 オーソドックスなスンネット儀式の服装をした坊や。Google画像より拝借 羽飾りを付けた白い帽子とマント、本当にアラビアのおとぎ話の王子様っぽい衣装が主流だったのに、昨今はスンネットのコスチュームも流行を反映しているのが分かった。 皆さんに金角湾の奥まったところにあるピエール・ロティの丘の景色を堪能して貰い、遺された後30分でタキシム広場まで戻らなくてはならない。 幸いにカプタン(運転手)はベテランでよく道を知っており、最短距離でタキシム広場に戻ってくれた。 時は4時。絵美さんと合流するのだが、5時半くらいになりそうだと連絡があった。ホテルのロビーで談笑しながら待つこと1時間余り、やがて外は雨が降り出したようで、5時半過ぎ、絵美さんが肩を濡らしてホテルに飛び込んできた。 ところがそれからいくばくもなく、滝のように激しい雨が襲ってきた。丘のてっぺんにあるタキシム広場では風も横殴りで、ロビーからは、こうもり傘を飛ばされまいとして必死になっている人がたくさん見えた。ましてや足元が叩きつけるような雨で、道路はたちまち水たまりになってしまっている。 6時過ぎだろうか、田中春美さんと私が知り合うきっかけを作ってくれた森脇さんから電話が来て、オフィスのあるアジア側からこちらに向かおうとした途端にたいへんな豪雨に見舞われて、ヨーロッパ側に渡るのが困難になったので残念ながら晩餐に加わることが出来ません、との連絡だった。 実は30日にも31日にも、そして昨日6月1日も夜になると雨が降り、それが尋常な降りではないのである。4月末から5月に入ると燦々と陽光の降り注ぐ初夏の陽気になるのに、今年はまるで日本の梅雨のような感じなのである。 実はその頃、アジア側のウスキュダルの船着き場では、海水がみるみる防波堤を越え、街の道路が水浸しになり、連絡船から降りた人も太腿のあたりまで、海岸通りを行く車も、ドアが開けられないくらい海水に浸かってしまっていたのだった。この映像が次の日にたいへんな話題になった。 6時半過ぎ、雨脚が静かになったところでウムット・オジャックバシュに移動した。森脇さんが来られなかったのは残念だが、お陰でこうしてよいご縁に結ばれ、すっかり打ち解けて楽しいひと時を過ごした。 ウムット・オジャックバシュで勢ぞろい。料理も皆さんお気に召しています。 初めての体験、チョプシシの肉を引きぬく春美さん デザートですが、そうやたらに甘くなくてすぐれもの。 私は絵美さんに、空港に皆さんを送り込むトランスファーの車には、早めに迎えに来て貰って空港に余裕を持って到着するように勧めた。雷雨がもう一度戻って来ないとも限らないのでそうすることが安全だった。 8時過ぎ、雨もほとんど上がっていたがウムット・オジャックバシュの店を出て、皆さんはホテルから8時半出発、ホテルまでは花江さんがついてくれるので、私はホテルとは反対方向になる家に戻ることにした。 名残惜しいが店の前でお別れし、私はいい具合にこうもり傘があったので杖代わりにつきながら、一番の近道である急な坂を急ぎ足で下って家に帰り、真っ暗になる前に外猫達にも餌を配ることが出来た。 今日は時間どおり関空行きが出発できますように、と心ひそかに祈りながらテレビも故障していることだし、早めに床に就いたのだった。
2014年06月02日
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【6月1日・日曜日】 5月30日の夕方イスタンブールを襲った集中豪雨は飛行機の発着を狂わせ、本来寄れない筈だったV子が、地方からイスタンブールに飛ぶ飛行機が大幅に遅延、成田行きを逃がしてしまい、イスタンブールで宿泊せざるを得なくなった。 V子はお客様をホテルに送りこんだ後、31日の未明5時にわが家にやってきて、数時間だけ滞在して行った。雨は私にとっては嬉しいハプニングをもたらしてくれたが、多くの旅客機の乗客は多大な迷惑を被ったに違いない。 31日夕方もやはり旅客機の遅延は続いていたようだが、とにかく帰国出来たようである。 今日6月1日も蒸し暑く低く雨雲のたれこめた空模様だったので、こうもり傘を持って夕方、かねて招待されていた結婚披露宴に行ってきた。私のトルコ息子サイットの弟の披露宴である。途中雨に降られたが8時頃から10時過ぎまで、賑やかなトルコ風披露宴だった。 ハライチェキメッキ。フォークダンスを踊ること。踊っているうちにだんだんテンポが速くなります。 サイット(向かって左)と弟 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月01日
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