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【1月31日・金曜日】 2014年はもう、あと残すところ11ヵ月だけになってしまった。 どうしよう、貴重な2014年最初の1ヵ月を去年と同じように、ワサワサとただ忙しいだけで過ごしてしまった私が悪い。去年の1月は父親の葬式があったからまあ、格別だったが・・・ さあ、出来ればこれで、私のいつもの忙殺日記はお終いにして、これからは自分の仕事をやるために、よい環境を作り出すよう心がけ、家を少々模様替えしようと計画した。 私の場合、宣言するとたいてい駄目になるから、言わない方がいいんじゃないか、と心配してくれる友人も2人や3人ではないが、大事なのは、宣言したらやるっきゃない、と自分で決意することであろう。 今まではこの決意が甘かったのだな、周囲に流されやすかったのだな、と、今度こそは肝に銘じて2月1日を迎えることにする。 さて、ちょうど2週間前、あんぱんでバザーに参加した折、和食で定評のあるひろみさんと一緒にスタンドを開き、ひろみさんに続いてあんぱんも完売でき、皆さまからおほめもいただき、大いに意気に感じていたところに、ひろみさんからいただいた大小の行平打ち出し鍋で私はあの日、最高に幸福だった。 自分の仕事に打ち込みながら、たまにはバザーで出展したり、買い物に行ったりすればさぞ楽しいだろうと思われる。 そして家にいながら楽しめるものは家庭料理。ひろみさんに2つもいただいたので、行平鍋のバリエーションが俄然豊かになった。 写真の1枚目、右端の片手鍋は、嫁いだときに持参したものの一つ。きれいに使って28年後にトルコに持ってきたのだが、猫の餌のマカロニを茹でるときにさんざん焦がして、磨いている暇もなく、見る影もなくなってしまったが、どう古びても捨てられない品。 左のは1996年レストランを始めたとき、大・中・小と3つセットで日本から買ってきた打ち出し鍋の真ん中の大きさ(18cm)で、大は友人の1人にあげて、小は例の韓国女性に貸したきりになった。この鍋も猫の餌で焦がしたり、猫が棚から落としてひしゃげたり、さんざん可哀想な目に合わせたのでなお、愛着があり、今も一番使っている。 奥の赤い蓋の深鍋は、1996年、レストラン用にエミニョニュで大・中・小のセットで買った両手鍋の一番小さいもの(直径21cm 深さ13cm)で、トルコ製。 大と中は、レストランが乗っ取られた時にたくさんの食器類と共に奪われたが、これはレストランでは役に立たないので家に置いてあったため、難を逃れた。これだけはよく使う割にまったく焦がしたことがなく、18年経ってもきれい。 一番奥に見えるのは小人数用のてんぷらや空揚げ、フライに使っている鍋。日本製の大きいのは普段は仕舞い込んである。 左上は普段よく使う中華鍋と小さいフライパン。餃子を焼いたりする28cmのフライパン2枚はしばらく家で餃子を作らないので、仕舞い込んだままである。焦げ付いたのを磨く時間がなくてどんどん黒くなってしまった愛用の2つの鍋 さて、流しの下の戸棚におさめてある5個の行平打ち出し鍋。大きい順に書くと、24cm, 21cm, 18cm, 16cm. 15cm。このうち柄に銘の入っている2つがひろみさんのところから嫁入りしてきたもの。そして21cmと一番小さい15cmの2つは、2012年、コーディネーターとして働いた時、TV大阪さんからいただいたお土産。 これらのほかに、茶碗蒸し4個ができる蒸し器、てんぷら鍋、おでん用琺瑯鍋、そして冬場によく登場する卓上用の電気鍋。 5つの行平鍋は壮観です。見ただけでも嬉しい。 私の財産と言えば金銭的にはアウトでも、友達がたくさんいる、お鍋が沢山ある、猫が沢山いる、まあ、そんなものです。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月31日
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【1月30日・木曜日】 大晦日に年越しそばを作る際、ジャンボ海老で大きな海老天を作りたかったのだが、バルック・パザールまで出かけるのが億劫で、カプジュのオスマンにスーパー・マーケットで冷凍のジャンボ海老があるかどうか見て来て貰った。ちゃんとメーカーの名前も言って。 ところがスーパーの冷凍庫のどのあたりにあるから、と指定したにもかかわらず、買ってきたのはそこらの小さな安売りスーパーで売っていたらしい、ビニール袋入りの、メーカーの名もついていない冷凍むき海老だった。 取り替えに行かせるのも気の毒だし、まあいいか、と受け取った。それは、どういう風にやればこうなるのか、というくらい、ちっこい海老を、分厚く氷で固めて大きく見せているだけなので、水で洗ったらたちまち、おはじき玉くらいの大きさになってしまった。 これじゃあ海老天にならないよ、と、仕方なくかき揚げにして、年越しそばを食べたのだった。蕎麦があるだけ上等だと思うしかない。 数日前、やっぱりまたジャンボ海老が欲しい、と思い、今度はよく説明して「SuperFresh」というメーカー名も書いて持たせた。にも関わらず、袋にはそう書いてあったが買ってきたものの中味は全然違う、グラタンのインスタント材料だった。 アパルトマンの古い住人の中には、自分の勝手な時刻にカプジュを呼びつけて、雨や風の中でもパン1つを買いに行かせる人もいたが、私はそういう無慈悲なことはやらない。買い直しにもまずは行かせない。でも、むき海老というのもけっこうなお値段なので本当は懐が痛む。 グラタンを作ってしまえば一番いいが、電気オーブンは食器棚にしてしまったので、中味を空っぽにして通電するのも億劫だ。そこでいいことを思いついた。グラタン以外の、鍋やフライパンで出来る料理を作ればいいんだ。 昨日の朝、というより朝・昼兼用の食事には、中国製のクラシックな容器で土瓶蒸し風な茶碗蒸しを拵えてみた。蒸し器を取り出すのも億劫なので鍋に水を張り、直に湯煎で仕上げた。中味は鶏肉、椎茸、ねぎ、花形にんじん、そして例の袋の中のグラタン材料である、小さなむきエビ、ピーマン、トマト、赤パプリカの刻んだものなどが入っている。 やって見るとなかなかのものが出来た。そこで気をよくして、続けて一気に材料を使ってしまおうと、夜はサウジアラビア製のインスタントラーメンと残りご飯、ねぎなど加えてリゾット風に拵え、カレー味をつけたらこれまた結構いける味になった。 いわばテスト作品。茶碗蒸しはもっと大きな海老を入れたいのだけれど・・・ 常の茶碗蒸しと違うところは、ピーマン、パプリカ、トマトなどが入っていること。 インスタントラーメンと残りご飯と、グラタン材料にカレー味をつけて、はい、リゾット そして今朝は、3分の1残しておいたグラタン材料に、もう少し具を増やすために、鶏肉、玉ねぎ、ピーマン、にんじん、青ねぎなどを加え、醤油づけのビンテージなにんにくを刻みこんでチャーハンを作った。 中華鍋にいっぱい作ったチャーハン、それが結構いけるお味。 白菜の浅漬けとよく合って、美味しいチャーハンとなりました。 これも去年、オスマンが間違えて買ってきたパサパサした米(インドのカレー料理に使うような細長い粘らない米)を炊いて、やや時間をかけて炒めたのである。 期せずして、あのおっさんが間違えて買ってきたものばかりで作った食事である。これぞほんとの「オスマン料理」・・・ 意外に美味しかったし、たんまり作ったので、昼にはあとの2人前を弁当箱に詰めて美保子さんを急襲した。彼女の弁当を半分私が貰い、一緒に食べたのである。 美保子さんが面倒を見ている猫達。店の前に集まってくる。 スルタンアフメットのアラ・ソカク(路地) ブルーモスクの前からアヤソフィア博物館を望む。 今日は雨こそ降っていなかったが、底冷えのする見たからに寒々しい日で、スルタンアフメットにも人出が少なく、帰りにガラ空きのアヤソフィア博物館に入った。 天井のきわに、2人の「大天使」の像があるのでそれをもっとよく見ようと思ったのだが、2階に上がる前にグリちゃんの姿が見えないので、掃除のおじさんに聞いたら、「ときどき門の外に遊びに出て行くので、今日もさっき出かけて行ってここにはいないよ」という。 「なあんだ~」 いつも撮影会を開くこの説教壇の前にも・・・ この大きな大理石の水瓶の前にも、グリちゃんはいませんでした。 すると何だかがっかりして2階の大回廊に上がる元気もなくなり、「いいや、また今度時間のある時にしよう」と、売店を少しのぞいただけで、そのままトラムワイに乗って帰って来てしまったのだった。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月30日
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【1月29日・水曜日】 日曜日の夕方からイスタンブールの気温もぐっと冷え込み、これで連続3日、終日雨が降っている。とは言え、時々小止みになってみたりする。 20年余り前から私は3年続けて3月か4月に娘のもとを訪れていたが、いつも雨か曇天で、3回目の94年は4ヵ月滞在したので、トルコの目にしみるような青い空や、厚くなっても湿気が少ないので快適な気候も味わって帰った。 しかし、日本では6~7月が梅雨、イスタンブールでは11月下旬から3月下旬くらいまで雨期、の筈だったのに、20年経った今、この常識は覆されてしまった。 地球温暖化によって、冬でもあまり雨が降らなくなって、日常生活には一見よさそうだが、実は1500万市民の水がめである郊外のダムが干上がる寸前だと言うのである。 私より6年ほど早く、娘のV子が留学してきた頃は、市の上水道は断水が当たり前、週に何度か水の出る日があると、主婦達はこぞって洗濯に精を出し、市民の家やアパルトマンには、屋上にス・デポス(水の貯蔵タンク)があるのが常識だった。 ところが、1999年8月のマルマラ大地震の時、専門家達の視察で、屋上に重いデポを備え付けると建物の強度に悪影響を及ぼす、と指摘され、ス・デポスは次第に廃止された。 イスタンブールの水事情もそれなりによくなってきたのだが、どういうわけか、私が掃除をしよう、と決めた日に断水が起こることが多い。 それはさておき、今年も暖冬傾向だったのだが、最近だいぶ寒さが厳しくなった。雪だと降ったあとがしばらく困るが、夏場の渇水対策にこれ以上の手段はない。 先週以来の市民の期待を裏切って雪は降らないので、出歩くには助かるが、イスキ(イスタンブール市上下水道局)は万が一の渇水に備えて対策を立てているのかと言うとそうでもなく、「アッラーの思し召し」を待つ構え。 さて、今朝はやはりしんしんと底冷えのする寒さであるが、昼過ぎ台所の向こうにあるタクタキ坂の方から、人声がしてきた。覗いてみると、坂の途中にある横道からこちらに下りてこようと曲がった中型の食品配達車が、横道の出口に停めてある車のせいで曲がりきれないのだった。 不法駐車のヌシはどこへ消えたか。大勢出てきて騒ぎになっている。 こんなことは毎日1度や2度ではない。どうして徹底的に駐車禁止にしないのか、重い罰則を設けないのか、と言うと、それなりに事情があるらしい。 上のジハンギル交差点では、十字路の真ん中の植え込みや分離帯の上に片輪を載せて駐車しているとか、考えられないような状態の車が、レッカー車に撤去もされずに毎日置かれている。 つまり、この車の持ち主は、誰かに、どこかに、そこに置いておいても罰せられないナニカの料金を支払っているのではないか、と言うこと。 それは無用の深読みだとしても、勝手な駐車で交通渋滞やらハタ迷惑を引き起こしている連中がゴマンといることは確かである。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月29日
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【1月28日・火曜日】 月曜日、27日の晩に、とうとうとんかつを作った。例によって、1人で食べてしまうにはもったいないので「スープがちょっと冷めるかな?」という距離に住んでいる美由紀さんを招待した。 あんぱんもよく売れたし、猫の世話をしてくれる人は決まったし、めでたしめでたしの乾杯をしたのだが、日曜の晩から急に気温が下がって、今朝は粉雪がちらほら舞っていたほど。 それでも晩に友達が来ることになって少し張り切り、朝のうちに白菜、にんじんと芽ヒジキ、田舎ピーマンを入れて、ゆずの皮も入れて、香ばしい浅漬けを作っておいた。美由紀さんは白菜のおシンコウなどは食べないそうなので、バザーで買った赤カブの漬けものを出せばいい。 いいことを思いつきました。IKEAのプラスチック容器を2個使って上は水で重しに。 豚肉はエミさんから、とんかつソースは森脇さんから、そしてそれを盛り付ける皿は福島の友人達典子さんと弘子さんから。この皿は本当に素敵なので、カレーだけに利用するのではもったいない。いろいろ活用したいと思う。 ビールは9日前の新年会のときに、皆さん自分が飲むよりいくらか余分目に買ってきてくれたものがまだ残っている。 乾杯のあと、美由紀さんが一口食べて「わぁっ、美味しいっ、豚肉ですぅ~っ」と感動の声をあげてくれたのが、私にとってのアルトゥン・ポルタカル(ゴールデン・オレンジ賞)だった。 カツライス形式にしてキャベツのコールスロー、漬けものつき。とんかつソースは緑と黒の片口容器に小出ししました。 そして、とんかつ第2弾、極め付きの美味しさは、今朝食べたかつ丼。 このお皿をこんなにふうに使うなんて、私って、センスがいいのよね~。 我ながらとても美味しく出来て、本当に皆様のおかげです。ありがとうございました。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月28日
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【1月25日・土曜日】第2回椿展・手作りバザーの日 6時半に目覚ましをかけておいたのに、それより早く眼を覚まし、まずはカーテンの隙間から空を見た。雨がしとしとと降って、タクタキ坂が光って見える。ちょうど夜明けのエザーン(25日現在6時ちょっと過ぎ)が聞こえてきた。 すると早朝なのに電話が鳴って、東京J-Waveのディレクターさんから、2月14日・01時40分にまたジョン・カビラさんの番組への出演依頼だった。もちろん引き受け、テーマに関して20分くらい打ち合わせて、電話を切った途端、目覚ましが鳴りだした。 急いで風呂を汲み、その間に猫の砂箱を掃除し、弁当持ちで行くつもりだったのでご飯も炊いた。時間が足りなくなって、弁当箱代わりのプラスチック・トレイに慌ててそこらにあるものを詰め込んで、8時半過ぎにタクシーを呼び、ジハンギルのパン屋さんに行った。 ハリルさんがチャイを飲みながら待っていてくれたので、ほどなく段ボール2箱を積み込み、雨の中を出発した。うっかりして雨傘も持たずに出て来てしまったのだが、空は晴れる兆しが見えていた。 9時20分頃には到着し、ひろみさんのスタンドに共同参加の形で出展させて貰うことが出来たので、雨模様なので売り場は教室内ということになり、奥の部屋を覗くとひろみさんはすでにテーブルの半分に、海苔巻や鶏めし、焼きうどん、鶏と玉子の煮物などをきれいに並べて準備万端整っていた。 私が2種のあんぱんをトレイに詰めるのを、ひろみさんも手伝ってくれたので、10時開場にたっぷり余裕が出来た。今回はエルデム縁さんが日本に行って留守なので、人気商品の豆腐や納豆がないのが残念である。 ひろみさんの和食と私のあんぱん、売れ行き好調です。 鉄平さんのほのぼのとした作品が並びました。奥さんのアクセサリーも実にきれい。 向かい側のスタンドに、陶芸家の山下鉄平・ジェレンさん夫妻が入ったようで、たくさんのきれいな作品が並んだ。開場時刻の10時にならないうち、あとあとお客さんが入ってきた。幸先良いスタートである。それに雨が止んで空には晴れ間さえ覗き始めた。 開場早々からたくさんのお客さんが見えました。 ひろみさんの海苔巻や鶏めしが順調に売れて行く。旅行用のスーツケースに詰めて運んだ4種類のパックが11時を過ぎると残り4つ5つとなって、私のあんぱんもすでに半分は売れていた。私達は互いの商品を土産に用意しておいたので、それを交換し合った。 10時54分撮影の時点で、ひろみさんの商品は5つか6つを残すだけ。完売間近記念! あんぱんの方もなかなかの売れ行きです。 11時過ぎると間もなく、まずひろみさんの商品が完売となり、続いて12時になる前にはあんぱんも売り切れた。ホッと胸をなでおろす。ひろみさんはお嬢さんの学校に迎えに行くと言うので一足先に会場を出る前に、私に大小の行平打ちだし鍋をプレゼントしてくれた。 かねてから予告をいただいていたので楽しみにしていたのである。直径24cmと16cmの、まだ真新しいくらいきれいな二つの鍋。これから私が大事に使わせていただきます。 大きい方には人気料理人「中村孝明」、小さい方には製作会社の自信のほどをうかがわせる「本格派」という、焼印があります。 タマヨさんにあんぱん完売を電話で知らせたあと、折り紙の名人、チエコさんの隣で持参した弁当を広げ、手の込んだ可愛い手作りクッキーの詰め合わせを2袋買うことにした。 そのあと、鉄平さんのスタンドに行って、クラシックな形をした、彼の常の作品と一味違う筆払い技法の模様がついた、白地の湯のみ茶碗2個セットを買い、ほかのスタンドからも少しずつ買い物をして、午後1時少し前会場を後にした。 色とりどりの可愛いクッキー。大袋は後ろの方になって見えません。でも豪華! たまたま、田舎風な丸っこい湯呑みがほしいな、と思っていました。 うちの8匹の猫達がお世話になったオズギュル先生のクリニックには歩いて行かれる距離なので、久々に挨拶をしていこうと足を延ばした。 この1年余り、うちの猫達にはまったく異変が起こらず、先生にはご無沙汰していた。久々に顔を出した私に先生は喜んで、新しい助手の獣医見習いさんにチャイを淹れさせてくれた。 3時過ぎに先生に暇乞いし、バスでタキシム広場まで戻ってきた。30分ほど亜希子さんの店に寄り、新しい作品を持ちこんできたイーネ・オヤの編み手のおばさんの、見事なコリエリッキ(首飾り)の数々を見せて貰うことになった。 4時半を回ったので亜希子さんの店を出て、パン屋の支払いにも寄り、これで借金なしの晴れ晴れした気持ちで家に戻った。夜はもう疲れてしまい、ひろみさんの持たせてくれた海苔巻で夕飯を済ませたが、さすがにきりりと酢の利いた美味しい海苔巻だった。 そして私は前夜の寝不足を取り戻すべく早めに就寝したのだった。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月27日
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【1月24日・金曜日】 昨日煮ておいた小豆やエプロンを持ち、タマヨさんと待ち合わせたジハンギルのAK Bankに向かった。荷物を持つとタクタキ坂の急勾配は非常にきつく感じられる。 2時半ちょうどに出会えたので、ジハンギル交差点よりイタリア坂の方向に50メートルも歩けば、19年前から馴染みのパン屋さんがある。そこでパンを焼かせて貰うことに話をつけておいたのである。 チャイを入れてくれたので、タマヨさんとパン屋のオーナー、ハッサンさんと3人でパンの個数や料金などで打ち合わせたあと、髪に被り物をしてエプロンをつけ、地下のフルン(竈)に下りた。まずはパン生地を作って貰った。 職長のムスタファさんが手伝ってくれたし、若い頃ベーカリーで働き、本格的に修業したタマヨさんも、目を瞠るようなスピードでパン生地を一定の大きさに丸めて行く。みるみるうちに200個近いまんじゅう玉が出来た。 初めにタマヨさんが煮てくれたレンズ豆の薄緑色のあんを包み始め、トレイに並べると57~8個出来上がった。二次発酵させるために、それを戸棚に収め、次に小豆の小倉あんを包んでいくとこれが67~8個、合計120いくつ、という数が出来た。 真っ白なパン生地のおまんじゅうを作るのに、日・トの2人のパン職人が腕を競っています。 レンズ豆のあんは薄緑色。マッシュルームの傘の中に詰めるように入れます。 こちらは私の煮た小倉あん。レンズ豆に比べて少し柔らかかったので難しい。orz トレイを全部並べて表面に刷毛で卵黄を塗り、レンズマメはチョレッキオトと言う、黒ゴマに煮た草の実を、小倉あんには白ゴマを振りかけていよいよフルン(パン焼き窯)に入れる。途中で一度霧を吹きかける。やがてこんがりとくりまん(栗饅頭)のようにきれいに輝く茶色に色づいたパンが出来上がった。 ムスタファ・ウスタがものすごい速さで卵黄を塗って行くところ。 トッピングをしてこれから窯に入れます。 間でコントロールするとき、ちょっとのぞかせて貰いました。 見事に焼き上がったトレイの上のあんぱん群 黒いゴマのようなチョレッキオトのついたレンズ豆のあんぱん 色も形もきれいに仕上がりました。これなら日本人好み。小倉あんです。 合計125個あったが、パンが破裂してアンコが外に飛び出たものは、味見用に幾つか取り除き、あとは段ボールの平たい箱に納め、上は紙で塞ぎ、保管庫に預かって貰った。 タマヨさんのおかげで、日本人好みの、形は小さいがみっちりとアンコの詰まったあんぱんが出来上がった。それにレンズ豆のアンコも彼女のアンコづくりの経験がものを言って、ねっとりと美味しく出来上がった。 馴染みのパン屋さんだけあって、支払いの段になったら「明日、売り上げが入ってからでいいよ」とハッサンさんが言ってくれたし、もう1人共同経営者のハリルさんも私に聞いた。「バザー会場までタクシーで運ぶといくらかかるんだい?」「11月の時は30リラくらいだったかな」「おお、そりゃあ気の毒だ、よし、明日の朝、俺がそこまでマダムとパンを運んでやるよ」と言ってくれたのだった。 ありがとう、ジハンギルの19年来の友人達。厚く礼を言って店を出た。タマヨさんと2人、大きな満足感で気分もよく、近くのカフェで7時頃までお喋りし、明日は私が販売を担当、タマヨさんは英文翻訳の仕事に精を出すことになった。 家に帰って、プラスチックの小さなトレイやゴム手袋を用意し、持ち物を1つの布バッグに詰め込み、さあ、準備万端整った。順調に売り上げられれば嬉しいが、売れ残る可能性もある。ひたすら雨にならないように祈って、午前1時頃床に就いたが、これはどうした、全然眠れなくなり、本を読んでいるうちにますます目が冴えて、3時を過ぎてしまった。 興奮でもしていたのだろうか。遠足に行く子供でもあるまいに・・・ madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月27日
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【1月26日・日曜日】 2月14日からコンヤに行くために1週間ほど留守になる間、猫の面倒を見てくれる人を探していましたが、友人のショウコさん、タマヨさん、美由紀さんが2~3日ずつ引き受けてくれることになり、安心しました。 よかったねえ、お姉さん達が毎晩来てくれることになったよ。みんな、ちゃんとお姉さん達の言うこと、よ~く聞いてねえ。 アフメットさんが今日の夕方、鍵を返しに来てくれたものの、もう1セット、スペアキーを作ることにしました。私には自分のほかに2つのスペアキーがあり、一つは美由紀さんに預かって貰っていますが、今回はそれでは足りません。 猫達を見に来てくれる人が、鍵のやり取りのために面倒な思いをするのでは申し訳ないので、どの友人にも1セットずつ渡せるようにします。 これでやっと不安と胸のつかえがとれました。猫達を見に来てくれるみなさん、ありがとうございます。よろしくお願いします。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月26日
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【1月23日・木曜日】 昨日の夜は美由紀さんとの夕食のおかずにチキンのモモで照り焼きを作ったが、そのときの鶏ガラでれんこんやかぶ、じゃがいも、にんじん、平茸などを煮こんだものも美味しいです、と美由紀さんが喜んでくれた。煮物はやっぱり和食の基本だと思う。 今日23日はマッサージ・サロンのエミさんに貰った豚肉を解凍して捌いた。 まずはとんかつに揚げられそうな部分を切り取り、それは適当な薄切りにして、塩コショウ、ほんだし、そして肉が少し硬めなので醤油を少しだけ入れて漬けておいた。 ブロックは脇腹から臀部にかけての一部分と想像される。白っぽくてもこの皮は決して柔らかくはないが、食べやすい大きさに切って、薄切り生姜とニンニク醤油、ゴマ油、塩コショウ、みりん、隠し味程度の砂糖などで長時間焦がさないようにコトコトと煮込んだ。 八角(樒の実の干したもの)がないので、独特の香りがないが、生姜やニンニクなどで十分香ばしい。 とんぽうろう(東ポウ肉)同様に皮も柔らかくなったので、一旦大どんぶりに移し、少し鍋に残った汁を使って、ナスや平茸とにんじんを細長く切って煮込んだ。これも美味しいおかずになった。更にそれで残った汁に外猫のキャットフードとパンを浸してやり、無駄なく使った。 煮始めて小一時間はこんな色合いでした。 3時間くらい煮て味も染み、皮まで軟らかくなりました。(オグリの手、要注意) 今週の土曜日、第2回椿展が初回と同じマーヴィ・デュンヤ幼稚園で開かれることになり、向かいのギュルセレンさんが郷里に滞在中で留守なので、タマヨさんに電話してみるとパン屋さんで4年もパン作りを修業したというタマヨさんは、お安い御用とばかりに二つ返事で引き受けてくれた。 私の手持ちの小豆は去年友人が持ってきてくれたもので600gあった。ほぼ同量の砂糖も入れるし、煮えるとだいたい重さが4倍に増えるので、2.4キロくらいとして、40gあんこの詰まったあんぱんが60個前後出来ると計算したが、これでは足りない。いんげんで白あんを煮ようか・・・ うぐいす豆も美味しいのだが、季節的にグリンピースがない。タマヨさんが言った。「トルコのレンズ豆を煮たらどうでしょう。じっくり煮ると、グリンピースのような味わいが出ると思いますよ。色も薄い緑色なのできれいじゃないですか。加瀬さんが小豆を煮るなら私がレンズ豆を煮て持って行きますよ。今日これから煮ておきます」 あ、それは名案。グリンピースばかり想定していたので気づかなかった。かくて私もとんぽうろうのあと、すぐに小豆を仕掛けた。 昨日の夕方、鶏ガラでれんこんなどの根菜類と平茸を煮てから、ずっと煮物をしていることになる。 台所の窓ガラスはみんな結露し、水滴が窓の桟から滴り落ちるほどである。ふと、温度計を見ると家の中が24度もあった。柔らかな善哉風に煮上がった小豆。水ようかんを作りたい~! 家の暖房を焚くコンビ・マキネシの設定温度を少し低くしたが、外気の温度も高めのようで、寝る時も全然寒くなかった。上天気で暖かいのは大歓迎だが、今年は新年早々、イスタンブール郊外のダムにアラームが鳴っているのだそうだ。 せめて一、二度雪が積もってくれれば、鳴り続けるアラームが消えるとİSKİ(イスキİstanbul Su ve Kanalizasyon İdaresi イスタンブール上下水道局)は、市民の節水などは呼び掛けず、ひたすらアッラーのお助けを待っている。 あ、あ、あ、結露して窓ガラスに付着している水分までもったいない。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月23日
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【1月22日・水曜日】 2月からタキシム広場に近い、ギュムッシュスユにあるエミさんのマッサージ・サロンで鍼灸診療ツアーが出来ることになってほっとしたのもつかの間、実は昨年中ずっと心配していたことが現実になってしまった。 去年、猫の面倒を見てくれたアフメットさんの気がやっぱり変わって、暮れに鍼灸診療ツアーの日程を告げて猫の世話をまたお願いしたい、と頼んだ時のことである。「加瀬さん、今のうちから先のことは約束出来ません。期日が近くなったらまた言ってください」というので、おや?と思ったのだが、1ヵ月近く間を置いて、今朝、彼に電話して「いよいよ20日後に始まるので、また猫達をお願いしてもいいですか」と言うと、明快に一言、「出来ません」と答えた。 やっぱりかぁ~・・・私はこの人の気がいつ変わるか、それは人間だから変わっても仕方ないし、いくらお礼を取ってほしい、と言っても要らない、の一点張りだったので、私もお金を払ったことはなくて、その都度、喜んでくれそうなお土産を受け取って貰うだけで済ませていたのだった。しかし、それが不満だったのか、というとそうでもないらしい。 去年の正月、父の告別式に行く時、「今後猫の世話は全部私に任せなさい。ベン・ヴァルケン・クズラルムズラル・ヒッチ・ゲレッキ・ヨク(私がいるからには女性達を頼んだりする必要は全然ないよ)と胸を叩いて引き受けてくれたし、毎回頼むたびにそう言いながら私を安心させて置いて、1年そこそこでコロッと気が変わるんだから、もう・・・「加瀬さん、私もほかに仕事を見つけたんですよ。今度はボランティアじゃなくて、少しばかりだけど給料を貰えるんです」「そうだったの~・・・・だったらおめでとう。じゃあ私、あなたが必要ないって言ってたクズラルムズラルに頼むしかないわね」「ええ、そうしてください」 あらら、あっさりよく言うなあ。 「やあ、だけど加瀬さん、私はあなたの猫達のことを忘れているわけじゃない。いつもタマオやあとの7匹のことが懐かしくてまた伺いたいと思っていますよ。でも、あなたは滅多に私に猫のことを頼まない。年に3、4回のために何もせず待機しているわけにはいきません。だからほかに頼まれた仕事を始めたんです」「そりゃもう、ねえ、私もそれほど家を留守にする仕事も今はないし・・・」と私。「私もそうなると、僅かでもそちらから給料を貰っているからには、よその仕事をするわけにいかないんです」「その通りよ、アフメットさん。あなたはいつも正しいのよ。分かっているから大丈夫よ。じゃあ、これ以上、話していてもしょうがないから、私はいまから猫を見てくれる人を探すわ。これで失礼するわね。去年はいろいろ猫達のことで本当にありがとう」「どういたしまして・・・」 アフメットさんがあまりに自信満々、加瀬さんの猫の世話は一生この自分がやる、他の人に頼まないで任せなさい、なんて言うものだから、つい信用してそれがずっと続くと思い込んだ自分が甘かった。 いや、言ったときは確かにそう思っていたのだろうと思うが、彼もトルコ人であることを忘れた自分がうかつだった。 でも、鍼灸診療ツアーが2週間後に迫ったこの期に及んで猫の世話は出来ない、と断られたのでは私の落胆も半端ではない。大急ぎで対策を立てなくてはならないではないか。 ま、いつまでも考えていても解決にはならない。午後から私は、鶏肉を買い、鶏ガラスープを作ってれんこん、じゃがいも、にんじん、かぶの4種の根菜と平茸を煮こみ、鶏のモモ肉はほんだし、塩コショウ、醤油で漬けて照り焼きの用意をし、ご飯を炊いて、マグロのづけ丼が出来るようにしておいた。 この前、アフメットさんが先のことは約束出来ない、と言ったときに、美由紀さんに「雲行きが怪しい」と話したら、「もしアフメットさんが駄目なら、私に声をかけてください」と言ってくれていたからである。 お弁当でも拵え、こちらから出向いて行って頼もう、この前新年会の時も猫ちゃん達の餌ならやりに来ますよ、とみんなそれぞれに言ってくれていたし。 美由紀さんに電話であらかじめ行くことを知らせておこう、美味しい煮物で一緒にご飯を食べている時なら話もしやすいし、と携帯からかけてみたら、ちょうど接客中だったのか出なかった。 しばらくすると彼女の方からかかってきたので、「今晩ほかにあなたの予定がなければお弁当持ってお宅へ伺うわ。頼みごとがあるのよ。ビールもこの前の残りがちょうどあるので、お土産に持って行くからね」 すると美由紀さんは嬉しそうな声で答えた。「え、ビールもですか。それはどうもすみません。どうぞいらしてください」「じゃ、7時半かちょっと過ぎるくらいかな、待っててね」 ああ、よかった、と電話を切ろうとしたら、「もしもし、加瀬さん。猫のことなんですけど、私は2月14日から5日間、旅行をするので留守になりますけど、大丈夫ですか? 今日チケットを買ったんで一応お知らせしておきますね。じゃ、7時半頃お待ちしてます」 えええ、私、聞き間違えていないよね。orz にゃんということだ、その2月14日から6日間、私もコンヤに行くために猫を見てくれる人を探しているわけではにゃいか。 ま、何はともあれ瓶ビール2本、缶ビール1本、2人分のご飯とおかずのマグロ、チキン照り焼き,根菜の筑前煮風、みかんなどなど・・・かなり重いので、両手に分けてぶら下げて、私は家を後にチュクルジュマの坂を下り始めた。 近道があるのだが、寂しい道なので、途中から上の通りに行く気になって、すぐそばの坂道を上った。すると大あたりと言うか大外れと言うか、2つ目の上り坂が工事中で石畳をすべて剥ぎ取り、土を掘り返し、でこぼこ道もいいところなのだった。 すべりそうな足元に難儀しつつ上りきると今度は急坂を下りることになるので、ヨチヨチと転ばないように注意深く歩いた。 やっと美由紀さんの家に到着、無事荷物を2階に運び上げて貰い、弁当箱を広げて乾杯となった。美由紀さんとご飯を食べるのは嬉しいのだが、ああ、明日からまた猫を見てくれる人を探さなくてはならないのかと思うと気が重い。 でもまあ、何とかなるような気がする。どんな土壇場であろうと、最後はいつも、神様に見捨てられずに無事通過してきたじゃないの。 ビラ―ジュ美由紀の大好きなダーク・ビールもあるし、週6日間、立ちっぱなしの多い販売店で働く彼女にとっては、帰宅してから料理を作るのはたいへんなので、デリバリーで来たチキン照り焼きや筑前煮を大喜びしてくれた。 しかしまあ、なんと、美由紀さんは刺身は嫌いで食べないのだそうだ。ははは、よかった、w助かった~、チキンは全部あなたにあげる、その代わりマグロは全部私が食べるぞ。 まずは黒ビールで乾杯です。 刺身やイカなど生ものは食べないと言う美由紀さん、北海道の人ってほんと? マグロは全部私が食べました。寿司飯まで拵えてきたのにいぃぃ 猫のことはもう、明日考えることにしてビール飲んじゃってます。 食べながらカレンダーを見ていた美由紀さんが私より2日早く旅行から戻るので、19日の夜の世話を引き受けてくれた。あとの5日間はタマヨさん、ショウコさんにも頼んでみよう。 すると不思議なもので、1日分だけでも引き受けてくれる人が見つかったので、これが突破口になり、きっと猫のことは何とかなるさと、気が楽になりビールをお代わりして飲んでしまった。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月22日
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【1月21日・火曜日】 昨日タマヨさんの届けてくれたマグロ、今夜は本格的に味わった。なにしろ、まったりととろけるような舌触り。 今夜は娘からの土産の梅酒を開けることにしよう。そして何よりも、息子の土産の長芋を大事にかなり残してあったので、これを摩り下ろし、タマオが合格の太鼓判を押してくれたマグロで、山かけはどうだ! お相伴もタマオ。 いつもは食物検査官として、ストイックな生活をさせているので、ちょっとだけわけてやることにした。いや、梅酒ではなく、マグロの切り落としを。 は~い、タマオや~、いつもご苦労さま~。カンパ~イ! 梅酒はこの日のためにあり、マグロ・長芋、ごっつあんで~す! おやおや、シェビィ。お前も食物検査官になりたいの? とても幸せな気分でゆっくりと晩餐を楽しむことが出来た。ただ、やっぱりくたびれていたのか、梅酒を盃2杯飲んだだけで眠気に勝てず、10時台に寝てしまった。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月21日
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【1月21日・火曜日】 打ち合わせに行くのは午後1時の約束だったので、エミさんのところにジハンギルの中華料理「Chaina StiX」で持ち帰りずしと焼きそばを作って貰い、それを持って2ヵ月ぶりで訪問し、いよいよ2週間余り後に迫った、鍼灸診療ツアーで使わせて貰う診療室について、ベッドの置き方、方向などの打ち合わせに行くのである。 今日はこのマッサージ・サロンに、海岸通りやジハンギルからタキシム広場に出ずに、タクシーに下から到達する道から行って貰った。わが家から行くにもこの方がいいかもしれない。 ドイツ領事館の方から下りてくるとこの階段の途中、右側に見える、白い3~4段の石段が入口です。 エミさんのサロンがあるのは普通のアパルトマン(マンション)なので、堀先生の鍼灸診療ツアーのように、1日に25人、30人が次々訪れることになると、たとえ3日間とはいえ、住民から苦情が出ないとも限らない。 苦情を言われないようにするために、こちらが注意しなくてはならないことなどを教わった。エミさんからの注意事項として、いくつかの事柄の徹底を頼まれた。「来る人来る人がチャイムを鳴らすことのないように、近くまで来たら、加瀬さんの電話にかけて貰って、入口の防犯カメラの映像を見て、当人ならばこちらのボタンを押して開けるようにしてほしいの。下でチャイムを押すと、ピンポン、ピンポン、けっこう廊下にまで響くのね」「わかりました。そうするようにしましょう」「あと、うちへ入れば大丈夫だけど、階段やエレベーターでは声高に話をしながら上ってこないように、あらかじめ伝えてください」 などなど、もろもろの注意事項がたくさんあった。 それらをいずれ受診者達にも伝えなくてはならないが、鍼灸診療ツアーが始まる前の日にでも、同じアパルトマンにそれぞれの家に、菓子折りの詰め合わせでも持って、これこれしかじかと訳を話して挨拶をしておこう、と言うことにもなった。 エミさんは、「加瀬さんがここを気に入ってくれたなら、鍼を受けにくる人達にも周りから苦情の出ないように使って貰って、お互いのために長くここで続けて行かれるようにしましょう」といってくれるのである。 私もそうして貰えれば後顧の憂いもないし、アパルトマンのコムシュ(隣人)達とうまくやっていくためには、受診者それぞれにエチケットを守って貰わなければならない。 さて、診療に使う大きなサロンには3つのベッドが、並列であれ、コの字型であれ自由に置ける広さがあった。通常は2台を使っているので、予備のベッドは奥の方に置いておけばいい。真ん中にはしっかりと二重になった透けないカーテンも設置されている。 これ以上のところは望めないだろう。堀先生にお見せするため、室内の写真を数枚撮らせて貰った後、私もそろそろお暇することにした。「あら、そうしたら加瀬さん、加瀬さんは豚肉、食べるでしょう。私、今度の金曜日に台湾に帰るから豚肉の塊少しあるの、食べてくれる?」「えっ、いいの? 塊だなんて」「うん、いいの、いいの。今日、お昼持ってきてくれたお礼だからね」 エミさんが大きな紙袋に入れてくれたブロックはかなり大きかった。有難く頂いて別れを告げ、私はアパルトマンを出た。 この辺の野良猫達が私を追って来る。「ごめんね、これは凍っているからあげられないよ~」と言いながら、私は急階段と坂道を二つ上り、タキシム広場からドルマバフチェ宮殿に通じる広いイノニュ通りでタクシーを拾った。 先週の土曜日、森脇さんからとんかつソースをいただいたけど、とんかつを作る肉がないわ~、と嘆いていたら、これでとんかつが出来るってことね。エミさんから貰って来た豚肉のブロックは精製肉ではなくて、いかにも中華料理の材料になりそうな、皮ごと付いた大きなぶつ切りで、約1.5kgあった。 18日にいただいたとんかつソースと焼き肉のたれ。 タマオはお昼寝中。タンブルが臨時の検査官です。くんくん、合格! 冷凍が解けたら切り身にして、皮や脂身は煮て猫達に食べさせてやろう。それにしてもどうしてこう、タイミング良く美味しいものをいただけるのかしら。エミさん、ありがとう。謝謝。 素晴らしきかな、人生。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月21日
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【1月20日・月曜日】 昨日の日曜日、夕方美保子さんと別れたあとまたトラムワイに乗り、日曜午後の上り線はガラ空きなので、座ってトプハーネ駅まで戻ることが出来た。ボアズケセン通りのゆるい坂を上っているとき、玲代(タマヨ)さんから電話が来た。 「加瀬さ~ん、昨日はご馳走様でした。いまカドゥキョイの魚屋で、マグロを見つけたので買おうと思うんですが、加瀬さんも買われますか? 明日剣道に行く時お届けしますよ」と言ってくれた。 ヤッホー、持つべきは友。赤身から中トロっぽい部分をタマヨさんに選んで貰い、楽しみに待つことにした。 一夜明けた今日は、足のどうしようもないだるさがもっと募り、朝からこれと言った家事が出来ず、2月の鍼灸診療ツアーの最終リスト作りを仕上げないといけないので、それにかかりきりだった。 2~3人から日にちや時間の変更、身内のものを連れていきたい、などと頼まれた件がたまっていたので、ほかの人に支障のないよう、一部変更してタイムテーブルを書き替えた。こんな作業だって、考え考え、どうかすると何時間もかかってしまうのである。 また、今度新しく決まった場所のマッサージ師エミさんからも、春節(新年)を祝いに台湾に帰る前に打ち合わせをしたいと連絡が来ているので、それは明日21日の火曜日に行くことにした。 夕方6時20分頃、タマヨさんが到着した。剣道に行く前にタマヨさんにご足労をかけてしまうことになるので、私も夕飯に固焼きそばを準備し、到着と同時に麺を揚げて野菜を炒め始め、あんかけを作った。 食べ物を作る時だけは手早いのだが、タマヨさんも、掃除の方は全然進んでいない様子の部屋を見て、「しょうがないなあ、加瀬さんたら」と思ったかもしれない。 実はおとといの買い出し以来、大腿四頭筋はコチコチ、その裏の軟骨やら筋肉やらはもっとひどくて、とうてい屈伸も出来ない状態だったのである。掃除のように激しく屈伸する必要のある仕事は出来なかったのだ。 1人で大荷物を持ち、4キロ近くも歩くなんて、年寄りの冷や水もいいところ。一晩寝れば疲れがとれた時代とは違うことを知るべし、である。 7時、先に食べ終わったタマヨさんは急いで剣道の道場に出かけて行った。私はそのあと、いろいろな残り野菜で3種類の漬けものを作り、さらに、タマヨさんが届けてくれた1.5キロ分のマグロの塊を捌いた。 血合いの部分は切り取って主に外の猫達のために煮てやり、赤身から中トロに移る部分の柔らかく弾力のあるマグロを刺身包丁で切り分け、冷蔵庫の中で積めるようにプラスチックケースに収めた。 約1.5kgのうち、0.5kgあまりが血合いなので、この写真にあるのは1kg足らずです。 昨年11月5日にも、用事で夕方アジア側に出かけた折、ふとマグロのにおいがしたわけではないが、もしかしたらあるかもしれない、とカドゥキョイの魚市場を歩いてみたら、1軒の店でマグロのブロックが売っていた。私が買うともうあと1つしか残らない。 タマヨさんに知らせようと思ったが、彼女が来るまでの間に売り切れていたら無駄足を踏ませるし、今回は止めておこう、とそのまま連絡船で帰宅。夜、何気なくFacebookを開いたら、タマヨさんは幸いにも、前日もうゲットしていたのが分かった。同じ店だった。 これは11月5日に買った時の料理です。 見事な柔らかい赤身のお刺身を食べることが出来ました。 次の日は切り落としの部分を使って、たたき風にしました。これも美味しかったぁ! ほっぺたが落ちてもうたわさ。 その翌朝、仕舞っておいた半分を出し、また刺身。 一番最後が鉄火丼。お昼に食べましたが、もう、幸せいっぱいでした。 当時は1kg25トルコリラ(約1250円)、今回は35リラ(約1750円)になってしまっていた。タマヨさんが魚屋のおじさんに大トロの部分を「日本だったらこの部分は高いのよ~」と言ったというので、「駄目だよ~、タマヨさん。そんなことを言ったらこの次絶対にトロをもっと値上げするよ!」と制したが、後の祭りかも。 私もレストラン時代、ベイオールのバルック・パザールで魚の卵をたくさん買った時期があるので、そんなもの、どうするんだ、と聞かれ、つい「これを砂糖と醤油で甘辛く煮るのよ。生姜を入れたりするともっと美味しいの。日本人は大好きなのよねえ」と答えた。 次の週に行ったら、私にだけかもしれないがガガンと値上げされていてびっくり。生き馬の目を抜くのはお江戸の商人ばかりじゃないよ。(魚卵は捨てている店すらあったのです) この、滅多に手に入らないマグロ、腰を落ち着けて食べたいが、夜中だから切り落としの部分を2~3個、立ち食いで味見しただけだったが、も~う、絶句、旨いっ。猫達に切り落としの部分を少しずつご馳走してやったが、生魚は虫の湧く原因となるので一口ずつだけにした。 これはマグロではないが缶詰の肉を食べる猫達。美味しいものは猫もよく知っていて、あっという間に食べてしまう。 あとで、梅酒でも開けて、じっくり味わいたい、半日余りの我慢だ、と私は冷蔵庫の中にそれらをそっと大事にしまったのだった。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月20日
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【1月19日・日曜日】 18日夜のお客様は、10ヵ月ぶりにわが家に来たショウコさん、ご存知ビラージュ美由紀さん、エブルの美樹さん。そしてみんなのお姉さま、タマヨさん。 美樹さんは12月2日に最愛のお母さんを病気で亡くしたばかり。それでも急遽帰国した甲斐あって、半月ほどではあるが、ずっとそばで付き添ってあげることが出来たのがせめてもの慰めである。悲しみを乗り越えて、エブルの修業を続けるために戻って来てまだ4日目だった。 8時頃全員が揃ったので、テーブルに着き、赤い蓋の鍋で予め煮ておいただしを電気鍋に移し、みんなで好き好きに野菜を入れたり、きりたんぽを入れたりして、それはそれは楽しいひと時を過ごした。 何よりも、きりたんぽという秋田名物がどうしてイスタンブールで食べられるのか、ということに驚いてくれたのが私には嬉しい。えへん。みんな、前回のブログもよく読んでね。 まずはみんなで記念撮影。タマオがテーブルに乗るスペースがありません。 さあて、どんどん煮ましょう、ビラージュ、くしゃみをしている時ではないぞ。 しかし、これがマッシュルームだとは信じられません。デカッ! 美樹さんが何か言いたげです。何か呪文を唱えているの、その手つき? 深鍋でだし汁と鶏肉と根菜はすでに煮えております。手前がきりたんぽ。 二種類のキノコがあります。どちらもジャンボですごい。 鍋も煮たってきたのでいい頃合いとなりました。かんぱ~いっ! みんなの第一声、「お・い・し・~・いっ! こんなふうにして、1時間経つか経たないうちに、きりたんぽ鍋はすべて、つゆの一滴すら残さず売り切れてしまった。それは料理人冥利につきることでもある。みんなそれぞれにビールをご持参いただき、私はひたすら料理に精を出した。 みんなが来てくれたおかげで、やっぱり新年会という楽しい行事が今年も出来たことが嬉しい。以前、忘年会で知り合った美保子さんの顔が見えないのを心配したショウコさんと美樹さんに、私は言った。「カイナナ(姑)が友達と飲み食いする席に、夜出かけるなど、とんでもない、と外出を許可してくれないので、明日にでも1人前届けてあげるつもりだから大丈夫よ」珍しいことが。人の膝にほとんど乗らないタマオがショウコさんの膝で・・・ こちらはマヤちゃん、美由紀さんにぺったりです。 宴は終わり、ショウコさんの土産のパウンドケーキを出し、私はお湯を沸かした。みんながその間に皿やどんぶりを洗う、と言ってくれたが、「今日は新年会だから、最後までお客様でいてよ。皿洗いなんか後で私がやるから」と私はお茶を淹れながら手を振った。 11時15分過ぎ頃、アジア側に渡るタマヨさんと美樹さんが乗る最終バスの時刻に合わせて、一斉に帰り支度が始まり、みんな楽しげにお喋りしながらわが家を後にした。 重い荷物を持って4キロ近い道のりを歩いたり、台所で立ちっきりに働いたのが祟って、やや疲れたが、何とも素晴らしい新年会になったと思う。ただ、そのツケは翌朝以降にやってきた。 本日、美保子さん用にもう一度新しくたんぽを拵え、昨日の新年会ほど多種類ではないが、野菜を刻み、スルタンアフメット駅のそばまで出前に行ったが、足が棒のよう。特に膝の後ろのすじが張ってしまって、中国の昔の纏足女性のような歩き方になった。 「加瀬さん、足が痛いなら無理に来ないで下さい」と彼女が気遣ったが、なんとしてもきりたんぽを届けないと気が済まず、タクシーでエミニョニュへ、そこからトラムワイで3つ目の駅、スルタンアフメット。駅のそばのレストランで彼女がプリンをご馳走してくれた。 美保子さんとはブログを通じて十年以上も前からの知り合いなので、性格もよく知っているが、カイナナと波風を立てないために、かなりの辛抱をしているのだと思う。 だから、私のしてあげられる援護射撃は、「旨いものでも食べて気晴らししなよ」というのみ。ほかには何もしてやれないけど、昨日の新年会に、あなたもせめて一緒に加わった気分になってね、というわけである。 美保子さんも、ときどき理不尽な変なヤツに遭遇した私が、火の玉のごとく怒っていると聞き役になってくれるし、捨て猫、野良猫の世話などせっせと黙ってやっているところなど、相通ずるものがあって、私も彼女に支えられることがたくさんある。友達は大切。年齢の相違はある程度になると壁ではなくなる。 世の中の姑の中でも、わかっちゃいないおばば達に言ってやりたい。でも、言うだけ無駄な人が大半だ。言ってわかる人なら、最初から嫁いびりなんかしないよね。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月19日
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【1月18日・土曜日】 2~3日前、イスタンブールFacebook界の大御所森脇義則さんからメッセージが来て、なんとこの私に「とんかつソース」と「焼き肉のたれ」をプレゼントしてくださると言う、豪気なお話! うどんやさんに預かって貰いました、とのことで、本日はいそいそとそれをいただきに行ってきた。うどんやさんで友人のヒサエさんと、同じくカヨちゃん、彼女の1歳4ヵ月になる坊やオヌル君とばったり。 久恵さんもこれからお昼だというので一緒に食べたら、なんと「加瀬さん、今日は私、お金持ってるから奢るわ!」 何たる気前の良さ! もう、いいことづくめで海老フライ定食をご馳走になり、更に、店員さんが席に運んできてくれたソースと焼き肉のたれを見てびっくり。 海老フライ定食、美味しく頂きました。久恵さん、ご馳走さま。 とんかつソースと焼き肉のたれ。どちらも業務用と書かれた大物です。森脇さん、ちょうど切らしていた2品です。ありがとうございました。 とんかつソースは1.8リットル。焼き肉のたれが1リットル。タクシーを頼めば簡単だが、私は夕方新年会を開くので、いろいろ買い出しもあり、ヒサエさんと別れた後、うどんやさんからえっちら、おっちら、タキシム広場を抜けて、イスティクラール通りの中ほどにあるバルック・パザールまで、とにかく歩いた。 白菜、水菜、大根、赤カブ、太葱。買ったのは重たいものばかり。ところがたった一つ、マイタケ風の茸がどこにも見当たらない。そこからタクシーで帰れば楽なのだが、仕方ない、茸を求め、ガラタサライ高校の裏を抜けてジハンギルに通ずる道をひたすら歩いた。 ジハンギルとチュクルジュマの境にあるアー・ハマム通りの八百屋にならあるだろうと行ってみたのだが、そこにもなかったので、もう諦めてマッシュルームを買うことにした。 そこで見つけたのはどでかい、直径が8センチはあろうと言う大物。ないよりましだ、と3つ4つ買い、あとは鶏肉だ。チキンのモモを2本分、骨を外して貰い、その骨ごと入れて貰って買い物完了。これがおよそ1kgちょっと。 チュクルジュマへの階段を下りるとき、ヨイショ、ヨイショと一歩足を下ろすごとに口の中で掛け声をかけいるのに気付いた。左右に揺れる体で階段に続くタクタキ坂をようやく下り切って、チュクルジュマのジャーミイの角を曲がり、家が見えた。 息切れを隠しきれず近所の衆との挨拶もそこそこに家にたどり着いた。まずは大急ぎで猫の餌。サロンは前の晩遅く濡らした紙を撒いて、箒で掃除してあるのでそう見苦しくはない。拭き掃除はあとでいいや。外猫に餌を配給した後、すぐに野菜を刻み始めた。 今晩の料理は、秋田名物「きりたんぽ」。 うちの一番大きな鍋で、若鶏のモモ2本をぶつ切りにして、あごだしやら昆布だし、味醂、海の塩、醤油などで出汁を作り、牛蒡、大根、ニンジン、白滝等々、時間のかかる根菜を先に煮ておき、白菜、水菜、太葱、茸のたぐいは、みんなが揃ったら卓上の電気鍋で煮ながら食べることにした。 肝心のきりたんぽは、日本であれば、デパ地下などで出来合いの品が買えるが、トルコでは売っていないので自分で作るしかない。実は私、生まれは千葉県流山とはいえ、きりたんぽについてはちょっと自信がある。 昭和42年5月に結婚したとき、夫は母親が準備してくれた新婚旅行の費用で、スバル360の中古ワンボックスカーを買ってきて、「これ以上の新婚旅行があるか」と言いながら、毎日の通勤に私を職場の近くまで乗せて行ってくれた。 その秋に、姑が戦死した夫(舅)の墓地を秋田から野田に移す決意をし、3人の息子とその嫁、孫達2人の計8人を引き連れて秋田への旅行を計画し、末息子である私の夫と私には、新婚旅行として、十和田湖や青森の方に2人でドライブでもしなさいと勧めてくれた。 ところが、列車の切符を買う段になって、私の夫は「俺は行かないよ。消防士が1週間も休んで嫁とデレデレ、ドライブなんかしてられるか」と剣もほろろに不参加表明。 そういうわけで、新婚旅行を姑と行った珍しい経験の持ち主となった私は、十和田湖周遊など楽しませては貰ったが、よく考えてみるとこれは24歳の新妻としてはやっぱりちょっと寂しい。 戦没した舅の実家、佐藤家は大館市の西にある、鷹巣町の素封家で、山を幾つも持ち山林業、牧畜業、運送業など手広く営んでおり、座敷わらしがいるのではないかと思うほど、昼なお暗い広い家に住んでいた。 千葉から親戚が来たと言うので、夫の伯父や伯母、叔父や叔母、いとこ、はとこらが総出で歓迎してくれたので、その晩は大広間で座卓を幾つも繋げて、祝言の夜かと思うほどの大宴会が張られた。 卓上に置かれた2つのコンロの上で巨大な鍋がぐつぐつ煮え立ち、鶏肉や野菜やキノコと一緒に何だか初めて見る食べ物を入れて、佐藤家の当主夫人と手伝いに来た妹ら、女達がどんぶりに山のように中味を掬って、みんなに盛り分けてくれる。 もちろん、私の前にも置かれたそれは、「きりたんぽ」と呼ばれる秋田名物の鍋料理だそうで、地鶏の肉、秋田で水菜と呼ぶ、赤い茎のセリのようなもの、自分の山で栽培している椎茸、白菜、春菊、ニンジン、大根、牛蒡、太葱など野菜も豊富に入っており、今までに食べたこともない豪快な味だった。 次の日は墓を移転するための法事、その翌日に十和田湖周遊を終えたあと、私は当主夫人みさおさんに、きりたんぽの作り方を教えて欲しい、と願い出た。 親戚の3~4軒を行脚して教えて貰った。炊きたてのご飯を半殺しになるまですりこぎなどで突きまくる。塩水でならしながら、たんぽ串に巻きつけて行く。囲炉裏の周囲の灰にとがった串の下の部分を突き立て、時々回して向きを変えてやりながら気長に焼く。 まず、半殺しにしたご飯に塩水をつけながら丸めてそれを串に巻き付けて行く。 やりの穂先を包むたんぽのようにこんな形に延ばしてゆく。 表面を乾かす。囲炉裏がないのでドライヤーで乾かします。 遠火で焼く。網をよく焼いてから載せないと焦げ付く。 まんべんなく焼き上がったら、たんぽをよく片方の手にたたきつけ、外れやすくする。 外す時、まだ熱いとやけどするので要注意。 こんな風に、熱いうちに外しておきます。 斜めに切るのが主流、4~5切れにすると食べやすい。 火の番はじっちゃん、ばっちゃんの仕事。何だかいいなあ、都会でせかせかしているとこんなことは出来そうにないが、野田に帰ったら早速試しに作ってみよう、と私は目を皿のようにしてきりたんぽやその出し汁の作り方などを覚えてきたのだった。 帰りがけに当主夫人のみさおさんが私にたんぽ串を10本、土産に持たせてくれた。これが合格証書だった。 あとになってしみじみ思ったが、あのとき夫が一緒に来て、車を借りてドライブ旅行に出てしまったら、私はきりたんぽなど覚えることは出来なかったろう。トルコ語の中に「どんな(悪い)ことの中にも一つ、いいことがある」という諺があるが、まさに、こういうことだと思う。 かくて、イスタンブールで新年会に集まってくれた皆さんへ、きりたんぽでおもてなしすることが出来た。これは、朝のうち、私が2時間ばかりかかって作っておいたものである。正式のたんぽ串ではないが、いい具合に細い丸い木材があったので、向かいの大工さんに頼んで、使いやすい長さ(30センチ弱)に揃えて切って貰ったのである。つづく madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月18日
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【1月17日・金曜日】 長年の懸案である、部屋の掃除、片づけ、不要物の廃棄。 何年くらい前から騒いでいるかと言うと、今の家に引っ越してきてすぐの頃からなので、およそ15年くらい昔からだというのがわかる。 今年こそ、と毎年の目標にしながら果たせず、不要物は溜まる一方。いつぞや日本のテレビ番組で「ゴミ屋敷」を見たことがあるが、特徴としてはスーパーのビニール袋に入ったものが、洪水の予防に堤防の下に積む土嚢のごとく、部屋の中に壁のように積まれていて、人の歩くスペースも残っていないので、梯子をかけて、その上を這って奥の部屋に進む、奥の部屋も同様、などというおぞましさだった。 あれほどにはならないぞ、あれはもう、住んでいる人の頭が正常に働いていないんだ、と内心思い続けてきたのだが、自分の寝室や娘の寝室を占領している私の段ボールがまず壁をふさいで部屋の広さを半分以下にしてしまっているとか、どの箱、どの袋に何が入っているのかもう見なければ思い出せないと言う点で、ゴミ屋敷のあるじと共通項を持っている自分を悟る。 まず、いろいろ郵送で宣伝に送られてきたり、博覧会などで貰った本やパンフレット類なども、後で読もう、後で始末しよう、などと思いつつ全部どこかの箱か袋に入れてしまってあって、読んだためしがないし、読んでいるような時間がなかったのである。 そういうものはもう、読まずに、いや、箱や袋そのものを開けずに捨てることだと、とあるお掃除研究家その他、世間のたくさんの人々が提唱している。 分かっているんだけどさ~、やっている時間がないのよねえと、言い訳ばかりで実際何もやったことのない自分。 やっと掃除が出来るかな、今日はまずサロンだけでもピカピカにして見せるぞ、とトルコ風姉さんかぶりをして洗面所に行くと、断水っ! そういうことがあまりに多かった。 今年に入ってからも、私が掃除をしようと立ち上がった6日と8日の2回、ばっちりと断水。それは、イスタンブールの水道局イスキのなせる業ではなく、今、チュクルジュマはアパルト・ホテルの建築ラッシュなので、たまたま近所の建物に引く水道工事で、ほんの狭い地域だけの短時間断水だったりしたのだが、それでも出鼻をくじかれるともうその日は予定が狂って、先に外出したりしてしまうので、結局駄目になるのである。 こんな私と正反対なのが、上の階に住む建築家の独身女性。 朝、8時と言えばもう掃除が始まる。テーブルやいすを毎日動かして、それもガラガラガラッと引きずるのでその音ですぐわかる。 午後1時か2時まで掃除して、夕方また掃除する。 そして時々は夜遅くまで来客があったりしても、掃除は次の日に延ばさない。真夜中であろうと掃除機の吸引音と、椅子やテーブルをガタガタと引っ張る音が続き、洗濯機がウ~ン、ウ~ン、と高い音ではないが低周波なのでよく響いてくる。 そういうときは、昼間出来なかった仕事を始めたのか、トンカチの音がわが家の一部屋でやっているかのごとく強く響いてくる。夜中の2時とかでも、ご本人はヘーキ、トントン、カチカチ。 一度、「寝られないんだけど、今日はもうこの辺にしてくれない?」と話しに行ったら、「あっらー、いらしたんですか。いつもお留守なのでいないと思いました。すみません」と。 いつも留守にしているのは昼間なのに、ね。それに、いるかいないかは、通りを挟んだ向かい側のビルに、こちらの明かりが写っているので、判断出来るはずなのだが・・・ で、その日はそこで音がやんだけど、今も相変わらずもう5~6年続いている。掃除の好きな人にも困ったものだ。 きれい好きな裏庭のタロー。生後6ヵ月半の男の子。 明日、18日には新年会と言うにはやや遅いが、鍋でもつついて親睦をはかろうと、このどうしようもないわが家に友人が集まってくれる。 まあ、親しい人ばかりだから、部屋がピカピカでなくとも何とか大目に見てくれるだろうと、余り焦らずにいる。でもどうなることか、こんなものを書いているので、もう夜だと言うのにまだ掃除に取り掛かっていません。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月17日
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【12月21~31日・土曜日~大晦日の記事】 洋子さんと出会った次の日(21日・土)は、日本人学校のフリーマーケット、軍事博物館、シナンさんの海泡石が展示されている贈答用品博覧会に行ったことは既に書いたが、軍事博物館で軍楽隊のコンサート会場に入ったら、チョルルの親友ハールンさんの一人息子、イーイト・チュナル君とばったり出会った。 遠足の小学生の一人が私をちらちら振り返る。気がついたらイーイト・チュナル君 もう何十回メフテル軍楽隊のコンサートに来たことでしょう。大好き。 22日(日)からは頼まれた事案で調査に行ったり、毎日2~3時間あるいは4~5時間程度にしても外出が続いたので家の掃除など放ったらかし。ボランティア仕事のやり納め、のつもりで、もう来年からはやたらに外出はすまい、と毎日のように決意を固める。なのに引き受ける。 26日(木)はまた豆腐を買ったのでエルデム縁さんとお昼に待ち合わせ、ウムット・オジャックバシュで一緒に食事をした。 縁さんとは1994年以来の友達。私は激昂派、縁さんは温厚派。 コックのサイットは日本に行きたくて仕方ない。シンデレラ・ボーイになれるか? サイットが挨拶に来た。東京池袋で弟夫婦が開いたトルコ料理店「トゥルクアズ」の名刺を山のように持ってきて、新年になったら日本に行く縁さんに宣伝を頼んだ。もう縁さんも彼とは顔なじみなので快く引き受けてくれた。 東京・池袋駅から2分 「トゥルクアズ」 食後、私はこれもボランティアなのだが、イスタンブール考古学博物館に行く用事があった。おととし、日本のさる機関から頼まれて、出版関係会社の、博物館に関する仕事を無償で1週間コーディネーター・通訳をしたことがあり、そちらの会社から同じ出版物をとある外国語で出版するにあたって関係機関への許諾申請を頼まれていたので出かけることになったのである。 日本に行く直前に2ヵ所分頼まれたのだが、1ヵ所しか果たせず、やっとイスタンブール考古学博物館の副館長とアポが取れたので25日に行ったら、臨時の会議があって外出中、明日もう一度出直してほしい、と言われたのだった。 実は週明けの23日に、一刻も早く用事を済ませようと、勇んで出かけたら大ポカ。考古学博物館はアヤソフィア博物館と一緒で、月曜日が休館日だったのを忘れ、アポなしでうっかり行ってしまったのである。 やっと3度目の正直で今度は大丈夫だろう、と出かけて行ったが、タキシム広場から拾ったタクシーは最初、スルタンアフメット広場のそばまで行ってくれると約束したのに、運転手の交替時間が迫っているから、と言って、海岸通りで降ろされてしまった。 やれやれ、そこからてくてく歩いて、鉄道のガードをくぐったあと、トプカプ宮殿の正門まで次第に登り坂になって行くので、非常にきつかった。 とにかく、副館長の女性と会うことが出来、許可申請の手続きの次第を教わり、27日早朝5時に起きて、前日のことがらを要約してクライアントにメールを送った。いまのところ、何も言ってこないので、どうしたのか気になっている。 おまけに27日はさらに、幸江叔母さんの訃報が飛び込んできて悲しみに暮れているのに、あのアイシェンおばばが、なぜ、キラジュ(下宿人)を他に移住させてしまったのか、と、自分の正当性を主張してわが家に押し掛けて来る、という憤慨すべき事件もあった。 彼女は、私の紹介でホームステイしている日本人青年に、朝晩の食事つきということで、家賃のほかにけっこうなお金を取りながら、朝ごはんも用意してやらず、夕飯は10日も同じものを煮返し煮返して食べさせ、臭くなったらマヨネーズをこてこてにまぶして食卓に出すと言う、非人間的なことをやっていたのである。 そういう人間にもう用はないので、私は縁を切ってしまった。 27日の朝は前日に白菜の大きなのが手に入ったので、日本からゆずを持ち帰っていた私は山のように浅漬けを作った。それが夜にはいい具合に漬かり、翌28日(土)のお昼に、松川澄子さんのお宅に白菜一株と一緒に土産に持って遊びに行った。 美味しく漬かりました。柚子の香り高い白菜の浅漬け。 お昼の支度をして貰っています。 澄子さんの愛猫、三毛子ちゃん お昼をご馳走になって、またその晩新たに買った白菜を漬けて、翌日の日曜日29日には、17年来の友、寿司職人の井俣満さん(みっちゃん)の誕生祝いの家族パーティに招かれて、タキシム広場にあるマルマラ・ホテルの20階にある絶景レストランに出かけた。 8月に結婚式を挙げた小林正貴・シェナイさん夫妻も招かれ、私はワインと漬けものを手土産にしてお呼ばれに加わった。そして、ボスポラス海峡の景色とビールとお喋りを楽しみながら、夢のようなひとときを過ごしたのだった。 十年ぶり以上のマルマラ・ホテルの最上階。すごい景色です。 メインディッシュのいろいろ。賑やかに食べるのはやっぱり楽しい。 5時半に集合したので8時頃にお開き。食後のチャイのひとときもまた楽し。 会話は両家の奥さん(ジェンネット・イマタ夫人、シェナイ・コバヤシ夫人)がたもわかるように全部トルコ語。日本人同士が面と向き合った時だけ、日本語になる。宴たけなわの頃、みっちゃんにお年玉をいただいた。「加瀬さん、猫ちゃん達へのお年玉だよ。猫にだからね!」とみっちゃんは豪快に笑った。わかってるよ~、私、猫ババしないからさ~! みっちゃん、お誕生日おめでとう。猫達にありがとうね、ご馳走様でした。 全く、人間万事塞翁が馬、と言われる通りで、悪いことがあっても、また次の日はもっともっと素敵ないいことがあったりするのだから、正直一方に生きていれば後悔することも恐れることもなくて、ほんとうに心が平安、だからこそ、素晴らしきかな、人生、と言えるのだろう。 コンヤから戻ってからも、日中は外出も多く、夜は日本の8日間を綴るのに精を出していたので、31日(火)まで連日かなりハードに過ごしてきた。 幸い、なんとか15日に日本を発つまでを年内にアップデート出来たので、大晦日の夜は1人で静かに年越しそばを作って食べた。 イスティクラール通りのベイオール・バルック・パザールまでジャンボ海老を買いに行くのが億劫だったので、カプジュのオスマンに近くのスーパーでジャンボ冷凍エビを買ってきてと頼んだら、いったいどこで見つけてきたのか指先くらいの小海老が丸まって、その周りに氷がたっぷり固まりついた袋入りを買ってきた。 仕方なく、一応海老は海老だ、おはじきみたいな細かいのをたくさん入れてかき揚げを作った。よかった~、人様を招待していなくて・・・ かき揚げ入りの年越しそば。 ニシャンタシュ。イルミネーションが豪華 チャムルジャの丘からの美しい夜景(写真はGoogle画像から拝借しました。 大晦日はイスタンブールの大歓楽地帯ニシャンタシュからのテレビ中継を見ながら「日本の8日間」の締めくくりを書きあげた。 新年となった朝、私はメフメット・アリさんが大晦日の夜遅く、10ヵ月に渡る壮絶な癌との戦いに力尽きて、帰らぬ人となったのを知ったのだった。 元旦なので用意していた故郷の味、里芋入りの雑煮は朝のうちコンヤのミチコさんと電話していたし、無気力になってしまって、ようやく午後になって作ったが、とても美味しく出来ただけに、日本びいきだったメフメット・アリさんを思うと、箸を上げ下ろしするにも心が痛んだ。 里芋入り雑煮。私の幼いころ、里芋(八つ頭)を大きく切って煮込み、餅もたくさん入れてアツアツのを食べました。餅搗きは30日でした。 元旦に口を開ける予定でいた、娘の買ってくれた梅酒も、メフメット・アリさんに献杯?という手もあるが、彼は敬虔なムスリマンだし、私も飲む気になれなかったのでとうとう開けなかった。今度何かいいことがあった時に飲むことに決めた。 こうして2013年を終わり、新たな年が始まったのだが、これを書いている今、すでに半月以上も経ってしまっている。 さあ、きびきびと自分の仕事に取り掛かれるのかどうか、私にはこれからが勝負である。 *************** 日本とコンヤに行ったあと、すぐに書けなかったために、一時期まったく時間の経過が入り組んで読みづらいものをお目にかけました事をお詫びします。 次回から、オンタイムに戻ります。
2014年01月15日
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【12月20日・金曜日の記事】 2012年の6月末、日本に帰国したあと、諸手続きのために、2013年9月に一度坊ちゃんと2人でイスタンブールにやってきた洋子さん。 11月に再訪する予定だったのが、トルコのお役所の事務の関係で12月になり、私の留守と重なってしまった。 入れ違いにならなければいいが、と気を揉んでいたら、日本行きには重ならなかったが、そのあとに私はコンヤ行きも控えていたので、そちらとばっちりぶつかってしまったのである。 最後の1日、つまり洋子さんが帰国する日だけ、出会いのチャンスがあった。本当は、彼女のイスタンブール訪問の期間中、出来るだけ一緒にいたいと思っていたのに、意に反してそうなってしまったが、でもコンヤから戻るのが、彼女の帰国前夜だったので間に合ってよかった。 洋子さんは午前中、1人でマルマライに乗って見学してくるとのことなので、12時半にエミニョニュのエジプシャン・バザールの土産物店で待ち合わせた。 お昼を一緒に食べる約束で、洋子さんの希望が「オスマン朝時代の宮廷料理」だったので、幾つかのレストランを思い浮かべたが、いずれも、遠いとか超高級とかで決めにくかった。 すると、以前、洋子さんとも友達だったショコラさんと食べに行ったことのある、エジプシャン・バザールのシルケジ側出口にある「バーブ・ハヤット・レストラン」を思い出した。 細い急な階段を上がって行くと、オスマン朝時代を思わせる内装のレストランはシーンとして誰もいない。声をかけると奥から初老のガルソンが1人出てきた。窓際の席に座ったが、クラシックな木枠のガラス戸に隙間があるのか、次第に寒くなってきたので肩にショールをかけた。 丸天井、火鉢、タイルの壁、ハレムの内部のような作りです。 赤ワインで久々の祝杯(カドゥキョイではビールとハムシのから揚げでした) こうして向かいあえただけでも嬉しい友との再会です。 洋子さんはヒュンキャル・ベエンディ、私はタンドゥル・ケバブ 長いこと待ってやっと出てきた料理は、オスマン朝時代の宮廷料理と銘打ってはいるものの、高級感が漂うと言うわけでもなく、期待したほどではなかった。 普段は外食してもそうたいしたものを食べているわけではないので、私が普通のケバプ屋との差が分からないだけなのだろうか。 貸し切り状態なのはいいが、あまりに静寂なので寒々としており、食事を楽しみに来た気分になれなかった。チップをはずむ気にもならず、ありきたりのものを置いて店を出た。 洋子さんとエジプシャン・バザールの外側に魚屋や肉屋、八百屋の並んでいる一角があるので、その辺りで買い物をした。エーゲ海沿いのアイドゥン県は干しイチジクで有名だが、新鮮な半生干しイチジクが売っていた。 日本では、あまり手に入らない乾燥フルーツが喜ばれるので、洋子さんもイチジクを1キロ買って半々にバキューム包装をして貰い、何とその一つを私に持たせてくれた。「いいのよ~、日本からのお土産もいただいているし。あなたはもうまたしばらく買えなくなるんだから持って行って!」 そう言ったのだが洋子さんは首を横に振って微笑んだ。「加瀬さん、これ、お好きでしょう、どうぞ食べてくださいよ」 私はありがたくいただき、持っていた手提げ袋にしまった。 私にはもう一つの荷物があった。洋子さんと別れた後、時間があれば美保子さんに届けてあげたい、と持ってきた日本土産だった。「私もご一緒しますよ。美保子さんにもお会いしたいし」 洋子さんがそう言ってくれたので、エミニョニュからトラムワイに乗った。日本とコンヤから戻ったあと、これからも来客や外出の予定がかなりあるので、美保子さんの店にちょくちょく寄り込みそうだ。 2人は初対面なのだが、互いに私を通じて知り合いである。旧知のように話が合った。 お茶をご馳走になりながらいろいろ話をし、洋子さんもシルケジ方面のホテルに泊まっていたので、5時半頃席を立ち、預けた荷物をもう一度まとめて帰国の用意をするということで、美保子さんの店を出て手を振り合い別れた。 アヤソフィア博物館の前を通り、ゆっくりと電車通りを歩いてシルケジ方面に帰ってきた。名残惜しいがまた来年、再来年、トルコで会いましょう、と固く約束して別れた。 夫君に42歳の若さで先立たれてしまった洋子さんだが、いまでは明るさを取り戻し、住んでいるマンションの自治会の班長として、「あれこれ戸惑いながらも何とかやっています、息子が成人するまで頑張ります」と笑顔で話すのを聞いて、ほっとしたのだった。 イスタンブールに来てから、北は北海道、南は沖縄にまで友達の輪が広がって、自力で頑張っているたくさんの女性達を見るたび、自分も励まされる思いである。 洋子さんのお土産。梅の花模様のエコバッグ、洋子さんと柄違いのお揃いです。お土産、ありがとうございました。大事に使わせていただきます。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月14日
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【2013年12月18~19日・水~木曜日の記事】 メフタップさん夫妻がアンカラで過ごしていた夏の間、彼らの家を借りていたミチコさん、まだ言葉は十分に通じなくても、およそ5ヵ月間、大家と店子だった関係で、家に入るとそれはそれは大歓迎された。 お客様好きのメフタップさんは、ほとんどはしゃいでいる、と言ってもいいくらい賑やかに弾丸トークである。お母さんと夫君のムスタファさんはもう、余計な口は出すまいと、おとなしく居間に引っ込んでテレビを見ている。 早速、メフタップさんは得意のパン生地作りを応用して餃子の皮作りを、ミチコさんと私は野菜を刻み、餃子の中味を拵えることになった。この間、メフタップさんは遊び心満点に私の頼んだカメラを構えるミチコさんにポーズを取って見せている。 後で見てみたら、まあ、肉と野菜をこねるのに夢中だったので、こん棒で殴られそうなのも気づかずにいたわ。くわばらくわばら。 ハムル(パン生地)係のメフタップさんは武器を打ち合わせて鬨の声をあげる。片や、泣きながら玉ねぎを刻むのはミチコさん。お気の毒です。 肉をこねて野菜と混ぜる私。後ろにヘラクレスそこのけの女傑がいるのに気づかない。 中味の出来あがり。ニンニクのほのかな香りが・・・ 皮がちと厚めだけど包みやすい。 ジャンボ餃子が50個くらい出来ました。 焼いてみました、一人前です。 1時間余りかかったが、8時過ぎには人数分30個が包み上がったので、いよいよ焼き始めた。その間にも包み続けて合計50個出来た。ユジェルさんもお客として招待していたので、8時半過ぎ、オズ家にやってきた。 彼は高校生時代に本屋で店員のアルバイトをやっていた頃、ムスタファさんに目をかけられて、2011年の12月、鍼灸診療ツアーのためにメフタップさんが家を開放してくれたおかげで、受診者として訪ねて来てムスタファさんと十数年ぶりに再会したのだった。 餃子は予想通り、ユジェルさんも、ムスタファさんも、アンカラから一緒に来ていたメフタップさんのお母さんも、美味しい、とにこにこ顔で残さず食べてくれたのだった。帰るまでの間冷凍にしておいて、ユジェルさんに10個を持ち帰って貰い、メフタップさんのうちに10個残した。 その晩は「2人ともうちに泊まっていらっしゃいよ」とメフタップさんが何度も勧めてくれたが、私も最後の一晩はミチコさんの家で泊めて貰う約束にしてあったので、食後チャイをいただいた後、すでに朝まとめてあった荷物をユジェルさんに持って貰い、メフタップさんの家をあとにした。 ユジェルさんを最寄りの場所で降ろし、ミチコさんの家に向かった。 この頃、コンヤにも県外からの学生が多くなり、学生寮が足りないので、時代の要求で1DKとか2DKなどのアパートが建てられるようになってきたと言う。静かな住宅街の一角にミチコさんの1LDKがあった。さすがコンヤなので部屋が広々としている。 その夜、咳が出て何度も目覚め、風邪が悪化するのを心配したが、起きた時体調は悪くはなかった。ミチコさんの準備してくれた朝ごはんをいただいたあと、訪問記念にミチコさんの部屋で並んで写真を撮った。 根本的に太さが違うので、乾電池のマークみたいな2人。これから先、ミチコさんにコンヤの日本人代表になってほしい。 10時頃家を出て、ミニ・バスでコンヤのザッフェルと言う地区にあるアタテュルク博物館にヌレッティン先生を訪ねた。コンヤは数日前に降雪があったらしく、日陰にはまだ汚れた雪の塊が残っていた。 最後の日には空港に近い、別な知り合いを訪問する予定だったが、前の日にヌ先生に「アタテュルク博物館にある掛け軸の落款を読んでほしい」と頼まれてもうイスタンブールに帰る日しか時間はないので、知り合いとは次回にして貰い、ミチコさんとともども博物館に出向いたのである。 それはまだ、オスマン朝時代の1890年に、和歌山県の串本沖で遭難したトルコ海軍のフリゲート艦エルトゥールル号事件のあと、全国から集めた義捐金を携え、単身トルコに渡った日本の若者、山田寅次郎(トルコ・日本の間に初の貿易を開始した。のちに茶道・山田宗偏流の第8世家元を継ぎ、山田宗有となる)から、ずっと後年になって、旧知の間柄のアタテュルク初代大統領への贈りものであった。 彼は1891年にトルコで拝謁した、時の皇帝アブデュルハミット2世の要請で、25年の長きにわたってトルコにとどまり、士官学校などで日本語や日本文化を教えたのである。 その中に若き日の、まだ近衛士官だったムスタファ・ケマル(アタテュルク)もいたという縁で、日本に深く興味を抱いた青年士官はのちに明治維新を手本に起こした救国戦争に勝ち、皇帝を追放、トルコを主権在民の共和国に導いたのちも、寅次郎との交流は続いていたのだった。 全長約1.8mくらい、中国製のアンティークと思われる。 アタテュルク大統領に贈られた掛け軸の落款。 なお、この落款の文字については、私もその場では右側半分しか読めず、その後カナダにお住まいの、先日先輩達の料理教室で初対面を果たしたブログ友達佐藤紀子さんにメールを書き、書道に詳しい紀子さんのお力を借りた。 紀子さんは多分全部読めたに違いないが、万全を期して、さらにその友人、そしてまたその人の先生格の古文書読解の達人というお方に鑑定していただき、やっと朱印まで全文字を読むことが出来た。文字を読めてもその意味が示す出来事、時代背景なども重要である。 今度の2月の鍼灸診療ツアーのあと、私がコンヤに居残ってトルコ語でヌ先生に分かった限りを解説することになった。 そしてこの掛け軸についていろいろ書かれたトルコ側のアーカイブをもとに、ヌレッティン先生と協議のうえ、解読されたいきさつなども記した文章を先生が作成、博物館の史誌に記載されて以降、私が日本語に訳していずれブログでお知らせ出来ることになるだろう。 紀子さんとそのご友人、解読なさった先生に感謝いたします。ありがとうございました。 さて、火の気のない博物館の中を見学させて貰っているうちに、背筋がぞくぞく寒くなって指先がかじかんでしまった。暖房費を節約しているのか、展示物・文化財に害のないように、暖房は極力抑えているのか、よくわからないがこれじゃあ、誰も見学に来ないよ、もう。 病院に用事があると言うヌ先生と門の前で別れ、私はミチコさん推薦のケバプ屋でお昼をご馳走になり、アブデュラーさんのタクシーで空港に向かった。日本とコンヤ、二つの旅を終わり、無事にイスタンブールに帰ってきたのだった。ミチコさん、お世話になりました。 3時45分発のイスタンブール行き。目的地に近づくに従い、美しい夕日を浴びて、このように翼が輝いて見えてくる。 イズニック湖を過ぎ、ブルサ上空と思われるあたり。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月13日
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【2013年12月16~18日・月~水曜日の記事】 日本から帰るとすぐに、メヴラーナ追悼祭シェビィ・アルースの740回目の大祭に、16日夕方の飛行機でコンヤまで出かけた私。 日本からの機内で寝られたのもせいぜい3時間程度だったし、寝不足気味だが、朝5時前、家に着いて慌ただしく荷解きをし、日持ちの悪いものを冷蔵庫に収納、風呂に入り、溜まりに溜まっていたメールを一通り読んだりしているうちにもう午後2時、空港に行く時間が迫ってきたので、再び猫をアフメットさんに託し、家を出たのだった。 機内のサンドイッチを食べてお腹を満たし、オズ家に到着したときは、ひどくせき込んで風邪の引き始めらしく、やっぱり疲労困憊状態だったので、すぐに寝かせて貰った。 翌朝、メフタップさんの心づくしの朝食をご馳走になった後、10時頃家を出てタクシーを拾い、メヴラーナ博物館に行った。午後になると参拝者で館内がたいそう混み合い、歩く隙間すら無くなってしまうからである。 庭園から見たメヴラーナ博物館。どんよりと曇って寒い日です。 12時半にはミチコさんと待ち合わせ、メヴラーナ博物館の脇の通りにある「メヴレヴィー・ソフラス」というよく行くレストランで待望のコンヤ・エトゥリ・エクメッキを食べた。 トルコ料理で一番好きなもの、なに?と聞かれたら迷わずコンヤ・エトゥリ・エクメッキ コンヤの旧市街を見て歩き、夕方一緒にセマーの儀式の行われる「メヴラーナ文化センター」まで行き、センター内の土産物店などを見て回った。 すると、私がよくDVDの吹き込みなどを頼まれたチェティネル音楽出版のブースがあって、オーナーのヒクメットさんが来ており、ミチコさんを紹介したら、3年前くらいに私の吹き込んだメヴラーナについてのビデオを気前よく彼女にプレゼントしてくれた。 そのあと、セマー楽団のオフィスに行ってセマーの儀式で最高位のポストニシン(メヴラーナを象徴する存在)であるファフリさんが用意してくれた招待席のチケットを貰い、ミチコさんと明日の再会を約束して一人セマーの会場に入った。 会場では17日の夜の部がシェビィ・アルースのフィナーレでもあり、国営のTRT1と、コンヤの地元局KONTVがそれぞれの映像で全国放送をするために、2基の大きなジミー・ジップ(カメラを吊るしたクレーン)が持ち込まれ、そのテスト中だった。 それに円形の舞台の周囲にはカメラの放列で、各放送局、新聞社、その他もろもろのプレス関係の人々がぎっしりと並んでいる。 やがて開演時刻の9時が迫って来ると、来賓の入場が始まり、拍手とともに、野党第一党CHP(共和国民党)党首クルチダルオール氏が着席、4~5分後に近隣国の国賓が数名着席、そして最後に割れんばかりの大歓声の中、レジェップ・タイイップ・エルドアン首相とエミネ夫人が着席、場内は沸きに沸いている。 数年前から政治家の演説合戦は一切なくなって、大統領のメッセージが朗読されるだけ。常にこうあってほしいものだ。やがてプログラムが始まり、最後のセマーは今までの10年間で見た最大規模の36人が円形の舞台で旋回すると言う豪華版。 セマーゼンは気持ちよく回っているように見えても相当な体力を消耗する。神に近づく方法としてメヴラーナが編み出したと言う、旋回で無我の境地に。 11時半には会場の外に出た。駐車場の入口に行列を作って待っているタクシーの1台に乗り、メフタップさんの家に帰り着いた。 次の日は、コンヤ・日本文化センターの事務所に電話を入れて、ミチコさんと2人で病床のメフメット・アリさんの見舞いに行きたい旨を伝えたが、事務員が枕頭にいる弟のシナンさんに取り次いでくれたものの、医師から家族以外は面会謝絶なので申し訳ありません、という回答があった。 遠くから無事を祈るしかなく、ミチコさんと私は午後2時半頃アヌ・ホテルで落ち合うことにして、とりあえず私は昼少し前にまたメヴラーナ大通りのある旧市街に行った。 今日はメフタップさんのところでミチコさんも交えて夕食を食べる約束だったが、日本からメフタップさんのためには何の土産も買う時間がなかったので、手ぶらに近い状態でやってきたことへのお詫びに、私が夕飯の材料を買い、餃子を作ると約束したのだった。 私がコンヤで一番気に入っているコンヤ・エトゥリ・エクメッキのうまい店、「ババジャン」に1人で行ったところ、チャルシュと呼ばれる碁盤の目のようになった古色蒼然たる商店街が、半年の間にがらりと様変わりしていて驚かされた。 家々が軒並み建て替えられて、オスマン朝時代の様式できれいにリニューアルされていたのだった。それはそれで結構なことなのだが、あの雑然紛然としたコンヤのチャルシュが何だかお澄まし顔を決め込んでいるようで、寂しい気もした。 すっきりと、きれいになったのは確か。でも、何か物足りない・・・ああ、きっと映画のセットみたいな感じがするせいでしょう。 ババジャン・エトゥリ・エクメッキ・ロカンタス(食堂) 2分の1ポーションのコンヤ・エトゥリ・エクメッキ。やはり逸品! 朝食が遅かったせいか、いくらババジャンのコンヤ・エトゥリ・エクメッキでも、一人前食べきる自信がなかったので、半分の大きさで焼いて貰った。チャイも頼んだのにたった3リラだと言う。5リラ札を出してお釣りは受け取らなかった。 その足で私はアヌ・ホテルへ行くことにし、土産にマロン・グラッセの箱入りを奮発してベキルさんを訪ねた。ベキルさんは私を見て大喜びでヌレッティン先生にも電話をし、先生もちょうどチャルシュに来ていたところだと言って、10分もしないうちに来てくれた。 ベキルさんとヌレッティン先生(鳥打帽)は刎頸の交わり。でもよく口喧嘩してます。 ヌ先生に続いてミチコさんも到着、ベキルさんの息子でホテルの社長アイドゥンさんも加わり、四方山話に花が咲いた。冬至も近い季節なので、4時を回るともう薄暗くなってきた。 ベキルさん達に暇乞いし、ミチコさんと近くのスーパーで餃子の材料を買い、タクシーに乗る前に30分ほどそれぞれの友達に会って行こう、と歩いて行ってみたら、なんと偶然にもそれが2軒隣り合っていたのだった。 ミチコさんは11月から引っ越した家のことで、日本語の出来る絨毯屋さんのウールさんにたいそうお世話になったから、と訪問したのである。 私はその隣の、フェルト職人のラビア・ギルギチさんに会いに行った。温かいストーブの燃え盛る広い作業場で、ラビアさんは大喜びで突然行った私を暖かく迎えてくれたのだった。 人間国宝がイスタンブールの店にかかりきりなので留守を守るラビアさん。 しばし歓談した後、ラビアさんと2月にはまた堀先生の鍼灸診療ツアーで会う約束をし、隣の店から出てきたミチコさんと共に、メヴラーナ広場の前からタクシーに乗ったのだった。つづく madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月13日
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【1月5日・日曜日の記事】 新年になってから元旦が少し雨模様で始まった以外、概ね晴れかうす曇りで気温も温暖に推移しており、イスタンブールは穏やかな新年を迎えている。 本日私はアヤソフィア博物館の人気者、猫のグリちゃんを見に1人で出かけて行った。自分だけでこういう世界遺産の建物や遺跡などをじっくり見ることが滅多になくなり、たいていは仕事関係か頼まれたボランティアかで、人様を案内して行くことが多い。 アヤソフィア博物館に猫だけ見に行く、というのは、世界遺産の中でも超弩級の有名建造物に対して失礼かとは思ったが、ま、あまりそれを人に言わなきゃいいんだから、と上天気だし10時過ぎに家を出た。 タクシーで途中のシルケジ駅まで行き、そこからはトラムワイに乗り換えた。少しだけ交通費の節約になる。 節約と言えば、私はとうとう長年の希望だった「ミュゼ・カルト・プラス」を手に入れた。これは入場制限なしのフリーカードで、たったの50リラ(約2500円)で、1日に同じ博物館は一度しか見られない、などという制限はない。 7~8年前から話題になっていたこのミュゼ・カルトは、かつてはトルコ国籍を持つ人のみに限られ、外国人であるために購入できなかったのだが、幸い、そういう制限は最近撤廃されたらしい。 ただし、居住許可証と、TC kimlik numarasi(トルコ共和国個人識別番号)を提示する必要がある。私もやっと念願のカード所有者となったので、アヤソフィア博物館はじめ、考古学博物館などにもフリーで入れることになった。かなり嬉しいことである。 居住許可証のない人やツーリスト用にも、ちょっとお値段は高くなるが、1日限りと3日間通用するものなど、期間限定カードも用意されている。チケット購入のために長い列に並ばなくても済むのがありがたい。 外国人居住者も買うことができるようになったミュゼ・カルトは30リラ、プラスは普通のカルトより20リラ高い50リラ(約2500円)。便利です。 さて、昨年からまた修復工事の始まったアヤソフィア博物館内部は、一階の内拝廊に高い鉄骨が組まれているので、約半分が囲いに覆われて、見学スペースもすっかり狭くなっていた。 もとはキリスト教の大本山でありながら、オスマン朝時代にモスクに転用されたアヤソフィアの、ミフラップ(メッカの方向を示すへきがん)のあるひときわ高くなった舞台のような場所の左側に、グリちゃんは観光客の方を向いて、じっとポーズを取るかのように正座していた。 まあ、お利口さん、ミフラップのライトアップ用ランプケースのまん前で、照明灯の柔らかな光で暖を取っているのだった。 舞台の左下、縦長に白く小さく写っているのがグリちゃんです。 グリちゃんを初めて見たのが2011年の春か初夏の頃。テレビ番組の撮影のお供で、月曜日の休館日だった。まだおとなではなかったようで、縞模様があまりはっきりしない、ありふれた野良猫っぽい小さな子だったが、職員や警備のおじさんに可愛がられていた。 その年の12月には日本から、イタリア出身の人気モデル、ジローラモさんの撮影のために来た女性カメラマン氏に、堂内にこれこれこんな猫がいるんですよ、と話したら、彼女もうまくジローさんのそばに来てくれると面白いわね、とかなり期待していた。 堂内に入ってすぐに、ジローさんが大きな柱の台座に腰を下ろしたら、どこから現れたか、グリちゃんがやってきて、ジローさんの隣にちょこなんと正座して、カメラの方に向き、さも「写していいよ」と言わんばかりにじっとレンズを見つめるのだった。 左目がほんの少し寄り目で、それがまた可愛いい。それ以来すっかり私はグリちゃんファンになってしまった。とはいえ、当時はそういう名前が付いているのすら知らなかったのだが、その後もしばしば入館し、その子が縦横無尽に堂内を走り回っているところを何度も見た。 去年の9月に友人を案内して行ったときに、修復工事の足場が組まれた上、堂内があまりに混雑していたので、猫達の姿はどこにもなかった。気になってはいたが、まる3ヵ月以上行く時間がなかった。 去年の私の暮らしはどういうわけか本当に慌ただしく、やたらに頼まれごとで走り回ることが多かったので、アヤソフィア博物館はおろか、トプカプ宮殿も、ブルーモスクも一人で行くチャンスはなかった。 そういうわけで、今回はじっくりとグリちゃんのシャッターチャンスを待つことが出来た。そのうちの何枚かを見ていただきたいのだが、グリちゃんはちゃんと撮影する人にサービスするかのごとく、正座しつつも顔はあちこちに向けて、その方角からカメラを向ける人にポーズを取っているのが分かった。 あっち向いてホイ、こっち向いてホイ。グリちゃんはマメに顔を動かしています。 グリちゃんの一番キュートな表情。目がちょっと斜視ぎみ。 顔を右に、正面に、左にと動かし、撮影漏れの人はいないかどうか注意する。 昼の部はこれでおしまい。あとはお昼寝済んだらね~っ、と引き上げるグリちゃん。 なんと生まれながらにしてアヤソフィア博物館のスター猫になり、ちゃんとその役目を果たしている、と言うのがたまらなく愛おしい。 しばらくするとグリちゃんは腰を上げ、伸びをして立ち上った。そしてミンベル(説教壇)の下部の空洞部分を通り抜けて昼寝の場所に帰って行った。 大理石を跨ぐときに、尻尾を高く上げていたので、去勢された男の子であるのが分かった。グリちゃんが休憩に入ったあと、私も2階へのスロープを上った。 千数百年の間、人々の靴に踏みしめられ、つやつやとした敷石を、私も一歩ずつ踏みしめながら上って行くと、2008年に膝の軟骨を傷めて以来、上るのが苦痛だったこのスロープが、なぜか今日はすんなりと疲れも感じないうちに2階の大回廊に到達したのだった。 折れ曲がったスロープを登りながら大回廊に出る。普通のビルなら4階くらいまで上がった勘定です。 回廊の柱も古のローマを偲ばせる。 柱の台座の縁に置いて自動シャッターを使う。うまい具合に1度でOK、 モザイク。聖母マリアと幼児のキリストに捧げものをする皇帝と皇后 久々にゆっくりと回廊をめぐりながら、今度は奥の方にある下りのスロープを下りた。下りてきたところは舞台の袖のようになっており、そこからグリちゃんが横たわってぬくぬくしているのが見えた。 下りのスロープ。90年代の修復で復活し、下りやすくなりました。 夢を見ているのか、すやすやと眠っているグリちゃん。 1992年に初めて娘に会いに来たイスタンブールで、最も感動したアヤソフィア博物館。それは今も変わりないが、今日ほど満足して見物を終えたことはかつてなかった。 この荘厳にして広大なアヤソフィアに、たった1匹の猫を見に来た人間がいてもいいじゃないか、と自分を納得させる。 時刻は12時半を回っている。2日連続ですぐ近くにいる美保子さんに会いに行き、オーナーのイスマイルさんのお弁当をご馳走になった。 今日もいいお天気なので、私は帰りがけにもう一度スルタンアフメット広場に出て、アヤソフィア博物館の威容をしみじみと眺めた。1992年に娘に連れられて初めて来たときは、今のトラムワイは路線の敷設工事の真っ最中だった。 やはり美しいアヤソフィア博物館。 イスラーム主義のイデオロギーをはっきり見せてきた現政権は、アヤソフィア博物館を再びモスクに転用する意向を副首相のビュレント・エルンチュ氏が表明したので物議をかもしている。この美しい大聖堂は、キリスト教でもイスラーム教でもない。政教分離の理念を打ち立てたアタテュルクがそうしたように、人類の遺産として博物館として残ってほしい。 今年の目標として、ミュゼ・カルト・プラスを手に入れたからには、あちらこちらのあまり行く機会のない博物館も訪ねて、もっと見聞を広めてゆきたいと思う。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月12日
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【1月3日・金曜日の記事】 昨年夏、とうとうトルコに引っ越してきた玲代(タマヨ)さん。イスタンブールの住人となって早や半年が過ぎた。トルコ語教室に通い、次第にトルコになじんできて、いまやカドゥキョイのチャルシュ(商店街)を通れば、軒並み呼びとめられる人気者。 11月下旬から3週間余り、日本に帰国し、その間に東南アジアやアメリカにも行ってきたという。行動的なイシ・カドゥン(キャリア・ウーマン)ぶりをいかんなく発揮している人なのである。しかも、合間には剣道の道場にも通うと言うスーパーウーマン。 タマヨさんも日本から猫を3匹連れてきているので、長期に渡る不在中、猫の世話をしてくれる人を探していた。あのアイシェンおばさんの家にホームステイしていたケン君に、11月20日からタマヨさんの家に引っ越して猫番を引き受けてくれないかと私が交渉したのである。 まずはアイシェンおばさんの腐れ飯からケン君を救出すること、片や、ケン君を紹介することでタマヨさんに安堵して貰うこと、一石二鳥の作戦が功を奏したのだった。 ケン君も、タマヨさんに紹介して貰った剣道教室に連日のように通って剣道仲間と楽しめたし、猫の面倒を見ると言う責任を果たして、いつかまたトルコに来る希望を抱いて、12月16日の深夜便で、大阪経由故郷の鹿児島に帰って行った。 そして17日(火)の早朝にはタマヨさんが帰ってきたので、猫ちゃん達もお腹をすかせることなくお留守番が出来たのだった。タマヨさんはケン君が猫の世話をきちんとしてくれたことでたいそう喜び、私にまで礼を言ってくれた。 21日(土)には日本人学校のバザーにタマヨさんを誘い、縁さんの豆腐と納豆を買った。そのあと軍事博物館でメフテルコンサートを観賞、最後に同博物館の別棟で開催されていた贈答用品博覧会に、海泡石の親方シナンさんが出店したのでそちらも訪問した。 メフテル軍楽隊のコンサートに久しぶりに行きました。 シナンさんの海泡石、人目を引いていました。 そして、新年の3日頃、わが家で新年会でもしましょうよ、と約束が出来たのだった。 その後、暮れの27日昼少し前、幸江叔母さんの訃報が届き、私が悲しみに暮れていた日の午後に、ケン君がその家を出て以来、連絡のなかったアイシェンおばさんから電話がかかってきた。「カセサン、いまどこにいるの?」「うちにいるけど、なにか?」「あら、じゃあちょうどいいわ。私はイスティクラール通りのチェティンカヤ・デパートの屋上のレストランにいるんだけど、あなたを夕食に招待したいので、今すぐ来てよ」「せっかくだけど行けないわ。やることがいっぱいあるし、それに当分忙しいのでお誘いいただいても行けないと思うわ」 私は最初やんわりと言った。「カセサン、私はあなたに聞きたいことがあるのよ。どうしてもここに来てちょうだい。ご飯を食べながらじっくり話し合いたいのよ」「どういうこと? 私にはべつに、あなたと話し合うことはないけど」「何でそんなことを言うの。私が何をしたと言うの。ケンジに対して一度だけ、冷蔵庫に入れ忘れて戸棚に置いたアメリカン・サラダを出してしまって失敗しただけじゃないの」「一度だけ? あなた、そんな面白いことを言って私を笑わせないでくれる?」「あなたはまるで私がなにかケンジに対して悪いことでもしたみたいに決めつけるのよね。私が何をしたからケンジを連れて行ってしまったのか、ちゃんと説明してよ。あなたは私に対して一方的にそういうことをしたのよ。裁判もせずに罪を宣告されるのは絶対いやよ」 それが彼女の言い分だった。「じゃあ、あなたはケンジに悪いことをしてないと言うのね。それだったら何を言っても無駄よ。自分が何をしたかも分かってない人にいくら説明したってわかりゃしないわ」「説明してくれればわかるわよ。何も言わずにケンジをサーッと連れて行ってしまって、何の釈明もないんじゃ、あなたが何を考えているのかわからないわ。そんなの、正当なやり方じゃないでしょ。私はあなたのせいで12月分の家賃を貰い損ねたのよ。私達はコムシュ(隣人)じゃなかったの?」「コムシュだったわよ、あのときまではね。でもあなたは私に最大限の無礼を働いたのよ。しかも私を信頼して、お金を払ってお宅にホームステイしたケンジにも、なんて恥知らずなことをしてくれたわけ?」「だから、その恥知らずなことって何よ。私はあの若者に最高の待遇をしたつもりよ」「ああ、あなたのやったことが最高の待遇だと言うなら、もう私達は友達でいる必要もないわ。電話切るからね。私にはいくら言っても分からない人と喋っている暇なんかないのよ、切るわよっ!」 ブチッ、と私は電話を切ってしまった。 私が他人にこんな話し方をするのはよくよくのことである。猛烈に不愉快になり、私は美由紀さんに電話してお店に客がいないから大丈夫、と言うので、アイシェンおばばがたった今かけてきた電話の話を聞いて貰った。美由紀さんもおばばの家で同じ被害に遭ったことがあるからだ。 ところが小一時間後にもっと悪いことが起こった。 台所で猫達の夕飯の支度をしている時だった。ピンポ~ンとチャイムが鳴ったので、私はカプジュでも来たのかと思って家のドアを開けた。猫が脱走しないようにまず、細めに開けたのである。すると・・・「ジャヌム、ギュゼリーム(私の大事な人、別嬪さ~ん)」と言いながら、満面に笑みをたたえたアイシェンおばばが、何か入れた袋を持った右手で、ぐいとドアをこじ開けて家に入ろうとしたのだ。「カセサン、あなたは来ないと言うから私が来たわよ。元気? これ、チェティンカヤで買ったのよ、あなたのために。着てみてちょうだい、インシャーラー、気に入ってくれたら嬉しいわ」「あなたは何にも分かってないのね。何か私に買ってくれたのはありがたいけど要らないわ。そんなもので自分のやったことが帳消しになると思ったら大間違いよ。帰って!」「どうしてあなたはそんなよそよそしい態度を取るの、私は仲直りしようと思ってきたのよ。私の方は何も悪いことをした覚えはないけど、あなたがわけもわからないことで怒っているから機嫌を直して貰って、また以前のように仲良くしたいと思ったからよ。いくらあなたでも、何の罪もない人を裁判にもかけないで罪に陥れることは出来ないわ」 アイシェンおばばはもう完全に自分が間借り人に何も悪さはしていなかった、と信じ込んでいるらしかった。私達の不毛な言い争いは螺旋階段のアパルトマン中に響き渡るので、上の階の家々のドアが開いて「何事か?」と耳を済ませている様子である。 ついに私の堪忍袋の緒が切れた。「うちまで押し掛けて来てこんなに言い張るなんて、あなたは変よ。ケンジに悪いことをしたわ、と自分の落ち度を認めてお詫びに来たならともかく、何もしていないのに、って聞いて呆れるわ。二度と来ないで。もう私と友達だなんて思わないでね。あなたが何をしようと私には何の関係もないわ。さあ、一刻も早くここから出て行って!」 なおも中に入ろうと食い下がるアイシェンおばばを、私はやっと外に押し出し、追い返したのだった。 まあ、あの人には、永遠に自分のやったことがケン君や私に対する無礼極まりない行為だというのは分からないだろうな。 そしていよいよ新年3日目になった。 日本滞在の最終日、買い物が出来なかった私の正月はおせち料理と呼べるものは何もないのだが、有り合わせの物を組み合わせて、まあ、イスタンブールという、日本食材がほとんど売っていない土地柄を思えばこれでも上等だ、と自分を慰めながら煮炊きしたのだが、タマヨさんが喜んでくれたのが嬉しかったし、励みになった。 タマヨさんと乾杯。タマオも同席しています。アダッシュ(名前が同じ友達)のつもり。 最近はやってきたらしいFiltresiz bira(無濾過ビール)、美味しいのでタマオも黙認 鉢:鶏肉、里芋、筍、昆布、椎茸、人参、蒟蒻、白滝、太葱、高野豆腐の筑前煮風皿:鰊の昆布巻き、ほうれん草の胡麻和え、水菜の押し漬け、生姜の若芽甘酢漬け 大根と乾燥貝柱の炊き合わせ。長ひじき、人参、 雑煮は鶏肉でだしを取ったポピュラーな品 料理を並べ終わったところで新年の挨拶を交わし、「無濾過ビール」で乾杯した後、「ねえ、正月早々、あのおばばの話をするとめでたさ半減だけど、実はこのあいだねえ、これこれしかじか・・・」と私はおばばが来た日のことを話し始めた。 聞いたタマヨさんも目を丸くした。「ええ~っ、信じられない~。日本人だってこの頃そういう人多いですけど、全然自分のやったことが分かってないんですね」 メヴラーナの教えの中に「他人の過ちは、夜の闇のように覆い隠してあげなさい」と言うのがあるのだが、それは悪意など全くなくて、知らずに犯した過ちのことか、あるいはちゃんと反省した人の過ちのことであって、あんなに間借り人をひどい目に合わせておいて、なお自分が正当だと主張するような輩の場合には適用しなくていいのではあるまいか。 とにかくこれでまた、親しいわけでもないけれど、一応友達だった人の中から出現した変な人を1人、私の人生から削除してしまったので、少しさっぱりしたのだった。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月11日
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【1月2日・木曜日の記事】 新年に入ってからブログへの取り掛かりが遅れましたので、幾日かオンタイムの記事ではないものが続きますが、ご容赦ください。 今年の元旦は常の元旦と違い、沈痛な気分のまま過ごしたが、翌日の2日にはアメリカ西海岸、ロサンゼルスで暮らす友人の奈央子さん(過去のブログでは仮名で香奈子さん)が、昨年2月生まれの、つまり生後10ヵ月になったばかりの長男エムレ君を連れてトルコ人の夫君とイスタンブールに里帰りし、私を訪ねてくれた。 せっかくお昼を一緒に食べるのだから、そこらの無味乾燥な食堂でケバプを齧るより、思い出に残るような素敵な眺めを背景に、ゆったりと少しはリッチな気分で食べられるところはないものか、しかも空いている店がいい、と考えたら、以前鍼灸診療ツアーで2年に渡って部屋を提供してくれたスルタンアフメット・サラユ・ホテルがぴったりだと思い当たった。 赤ちゃんを連れているし、混雑した店に驚いて泣き出すようなことがあっても困るので、広いスペースでゆったりしていて、料理もグレードが高く、ガルソン達も顔なじみの、こんないいところはない、と迷わずそこに決め、待ち合わせのジハンギルまで送ってきたパパのテキン(過去のブログではエミン)さんと別れて、タクシーをスルタンアフメットに向けた。 エムレ坊やはFacebookで生まれた直後からしだいに成長してきた過程を知っているので、初対面と言う気はしない。むしろ奈央子さんが、丸ぽちゃの印象だった娘時代と違って、上背もあるのでほっそりした若いきれいなお母さんという印象だった。 私達が知り合ったのは2002年、イスティクラール通りのバルック・パザールの脇道で、キュタヒヤ陶器やアクセサリーなどの土産物店を経営していたカディル(当時の仮名ハルック)さんの紹介だった。 当時彼女にはもう将来を誓った恋人がいた。頭脳明晰、日本の大学で修士・博士課程を勉強中だった。それがテキンさんである。彼女もジハンギルの一角に家を借りて住んでいたので、ときどきご飯を一緒に食べたりチャイを飲みながら談笑する仲になった。 2004年頃、日本に帰ったあと婚約した奈央子さんとテキンさんはやがてロンドンに住み、2007年9月にイスタンブールを訪れた際、訪ねてきてくれて出会って以来、今回は実に6年4ヵ月ぶりだった。 2008年にイスタンブールで結婚した2人から招待状が送られて来たらしいのだが、私のサーバーが故障してメールもネットも出来なくなっていた時期にぶつかってしまったらしく、それきり音信不通になり、6~7年が過ぎた。 それが一昨年、突然奈央子さんからFacebookの友達リクエストが届き、私のスーパーオンボロライン(superonline)のせいで、大事な招待状が宙に消えてしまっていたことが分かったのだった。 もちろん私は喜んで、FBで改めて友達関係を復活し、その後彼女は2013年2月に赤ちゃんを出産、そしてとうとうイスタンブールで再会出来ることになったのだった。 それはさておき、エムレ坊やは、ベビーチェアに座ってお母さんを見ながらおとなしくいい子にしていた。上から2本乳歯が生えているのでむずがゆいらしく、手に掴んだものすべてを口に持って行く癖があった。 スルタンアフメット・サラユ・ホテルのスルタン・レストランにて お口がむずむず、上の歯が生えてきています。 キューピーさんのような愛くるしさ。ママに似ていますが、巻き毛はパパ譲り。 レストラン内の客は私達一組だけだった。欧米からの観光客の多いこのホテルでは、みんな昼間は出かけているので、ホテル内のレストランは空いている。ガルソン達もなんだかんだとかまってくれたので、エムレ君は長い時間むずかることなく、私達がデザートのアイスクリームを食べ終わるまで、ご機嫌よくしていてくれた。 スルタンアフメット・サラユ・ホテルのレストランの料理は見た目もおしゃれ。左はフィッシュ・バスケット(鮭、スズキ、鯛など)、右はラム肉のグリル すっかりご満悦のエムレ君、一度も泣きませんでした。お利口さん! 幸せそうな奈央子さんを見て、私も心から嬉しく思った。 レストランに入った時、マネージャーのシュクルさんと出会ったので、「娘のように大事な若い友達です」と紹介したせいか、もちろん私がご馳走するつもりでシェフ・ガルソン(ボーイ長)のそばに支払いに行ったら、シュクルさんの新年のプレゼントです、お代はいただきません、という。 一瞬びっくりして、さっき挨拶したのでかえってシュクルさんに申し訳ないことをしたかな、と思ったが、結局有難くご馳走になり、ガルソン達へのチップをはずみ、オフィスにいたシュクルさんに礼を述べてホテルを後にした。 乳母車を押しながらスルタンアフメット・ジャーミイ(ブルーモスク)の方向に向かった。私が美保子さんに持ってきたものがあったので、届けがてら奈央子さんを紹介したかったのである。 私がその日、昨年12月に美保子さんの勤める店で縫製して貰った革コートを着ていたので、オーナーのイスマイルさんが大いに喜んだ。美保子さんの、トルコでのお母さんである私に、ほんの革代程度のお値段で作ってくれたものだ。 オーナー、イスマイルさんは美保子さんを雇って以来大の日本びいきになった。 どう、私の器量よしの娘達。ええ、みんな主人側に似たのかも・・・ 偶然にも、イスマイルさんの娘さんがロサンゼルスに住んでいて、奈央子さんのいる地区と車で1時間足らずの距離とか。これを聞いたお父さんは早速娘のヒュリヤさんに電話して、奈央子さんを紹介して、2人は話し合い、ロサンゼルスに戻ったら一度お会いしましょう、と約束していた。 美保子さんと奈央子さんもFacebookで友達関係を結び、次回の里帰りにまたきっと会いましょう、と約束、4時頃奈央子さんと私はタクシーでジハンギル交差点まで戻り、そこまで出迎えに来たパパのテキンさんが私に替わってタクシーに乗って、おじいちゃん・おばあちゃんの待つテキンさんの実家に帰って行った。 その後、きゅーぴーさんのようなエムレ君はパパとママに抱かれて4日の早朝、ヨーロッパ経由で帰国の途につき、無事にロサンゼルスに帰り着いたとママからメールが届いた。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」
2014年01月11日
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【2014年1月1日の記事】 12月16日に日本から戻ってすぐコンヤに飛び、友人メフタップさんと夫君ムスタファさんのお宅に泊めて貰った。翌17日は朝のうちメヴラーナ博物館内のメヴラーナ廟に詣で、カラタイ大学の日本語教師ミチコさんと昼を一緒に食べた後、第740回メヴラーナ追悼祭(シェビィ・アルース)のフィナーレを観賞した。 3000人の観客席も満員、10年ごとの大祭でもあるので会場は立ち見席までぎっしりで、エルドアン首相夫妻や野党第一党党首クルチダルオール氏などが臨席、近隣からの国賓もあり、以前のように政治家達が長々と演説をぶつこともなくなって、セマーの儀式は粛々と進んで行った。 翌日に2009年以来、私がその活動に個人的立場で支援してきた「コンヤ・日本文化センター」(略称JKM)の会長メフメット・アリさんの病床を見舞いたいと、事務所に電話を入れたが、そのときすでに重篤な状態のため、医師から家族兄弟以外は面会謝絶とされているとのことで、とうとう見舞いは出来なかった。 そしてメフメット・アリさんの訃報は、まさに元旦の朝、ミチコさんによってもたらされたのだった。享年46歳。余りに早い死であった。青年実業家として活躍していた頃から日本びいきで、私財を投げ打ち、京都市とコンヤ市の姉妹都市実現や、8万人余の学生数を誇るマンモス校、セルチュク大学に日本語学科創設のため奔走してきたのである。 2009年の5月、それまで20年近く日本との交流に献身してきたのが実を結び、正式にデルネッキ(協会)としての認可が下り、「コンヤ・日本文化センター」を開設、その開所式が、5月16日(土)、外務大臣(コンヤ出身)、在アンカラ日本大使、コンヤ県知事、コンヤ選出トルコ国会議員達、その他お偉方が綺羅星のごとく列席、メフメット・アリさんにとって生涯最良の日であったろう。 空はトゥルクアーズの青、輝かしかったあの日のメフメット・アリさん。 それからたった4年足らずのうちに、メフメット・アリさんは病魔にとらわれ、2013年3月頃に胆嚢切除、それでも良くならず夏に受けた2度目の手術も、医師が切開したなりまた縫合してしまい、自宅療養に切り替えられて数ヵ月、猛烈な痛みと闘いながらついに力尽きてしまったのだった。 2009年、2010年、2011年とコンヤでいろいろと執り行われた日本関係の行事には、私もコーディネーター、通訳などとしてコンヤにも年に5回、6回出かけて協力してきたのだった。 2010年の秋、私はNHKの番組で一緒に働いた岡崎伸也さんをメフメット・アリさんに紹介し、岡崎さんの活動拠点としても暮らしやすいコンヤを推薦、日本文化センターに行って貰ったのだった。 メフメット・アリさんも、トルコ語が達者で料理も上手、フットワークの軽い彼を大いに重用してくれたので、ずいぶん長いことメフメット・アリさんのそばに逗留していた。 去年の10月に、2度目の手術が不首尾だったメフメット・アリさんを案じながら帰国した岡崎さんは、日本で訃報を聞いたときはさぞ悲しみも深かったことと思う。 私も暮れの27日には流山の叔母を失ったばかりだったので、元旦にメフメット・アリさんの訃報をミチコさんから受け取ったときは、新年のご挨拶の電話だとばかり思ったので、胸が詰まって言葉も出なかった。 コンヤの凍えるような寒さの中、お葬式と埋葬に参列してくれた、いまやただ一人の日本人、ミチコさんと電話連絡を取りながら、メフメット・アリさんのご冥福を祈った。 メフメット・アリさんと一緒にいろいろな行事に参加した日々のことが思い出される。元旦なのでもちろん、このことを日本のメフメット・アリさんを知る人々に電話するのもはばかられた。 メフメット・アリさんと最後に会ったのは10月半ばに鍼灸診療ツアーでコンヤに行った時。それでも、堀先生の治療を3日間続けられたことで、精神的に、肉体的に、少しでも楽になるのを手伝うことが出来たのではないか、と思うのがせめてもの慰めである。 もう34年も前になるが、私の母も12月30日未明に他界し、大晦日の31日に葬式だったし、先日の幸江叔母さんと6年前に亡くなった母の妹すゞ叔母さんが、いずれも28日だの29日だのと、暮れも押し詰まってから葬式をしている。 そういうわけで今年、正月とはいえ、自分も喪が明けていないので、雑煮を食べた他は結局まる1日何もしたくなくなって、掃除も何もしなかった。 2013年に亡くなった人々、私の父、ブティックの中井さん、外語大学トルコ語の先生富成アイシェさん、幸江叔母さん、そしてメフメット・アリさん、どうぞ安らかにお眠りください。
2014年01月10日
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