2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全4件 (4件中 1-4件目)
1
「はやっ!」 と思うけれど、復活しました。 怖くて、なんだか、逃げだしたい気持ちでいっぱいで、聖書という神さまの言葉を開くことができませんでした。 このまま寝たら、どうせ、今の気持ちはすべて忘れてしまうんだろう。と期待して、眠ろうとしたけれど、なかなか眠れなくて。でも、いつのまにか、朝になっていて、こころを確認してみると、全然晴々していなかった。 そうだ!こんな時は、少し部屋をきれいにして、すきな音楽をかけて、おいしいコーンスープを入れて、アップルパイを食べて、おまけにアロエヨーグルトもつけちゃって・・・ そうしたら、自然とこころは元気になるんじゃないかなぁ~。 そうしてみた。 だけど、なにも変わらない。あ~、あたしが、求めているものではなかった。 あたしは、何を求めているんだろう。そう問いかけながら、片方では分かっていた。 聖書通読があたしの今年の目標。それにも縛られて、なんだがここから読み始めなきゃっていうところがあって、だから、読む気にならなかった。 だけど、今読んでいた本があった。「主の御顔を避けて ヨナ書に示された」遠藤嘉信著そうだ、ヨナ書を読もう。そう思った。 ちょうど、読んでいたところが3章だった。聖書を読み始めた・・・「再びヨナに次のようなことばがあった。立って…」声を出して読んだけれど、声にならなかった。久しぶりに自分の手で開いて読んだ、いや、読めた、やっと読めたということが嬉しくて、涙がこぼれた。あぁ、あたしは「かみさまのことば」を求めていたんだなぁと心の底から思った。 そして、本の中にこう書かれていた。「罪に悲しんでいますか。その人は幸いです。」ニネベの人たちが、自分の罪に気づき、罪責感を感じ、喪にふしているシーン。その罪責感から逃れる方法はひとつ 「神さまに赦されること」 あわれみ深い神さまは、ニネベの人々を赦された。 おんなじだ。あたしも、昨日までずっと悲しんでいた。ずっと苦しかった。 「罪に悲しんでいますか。その人は幸いです。」 この聖書の語る真理が、あたしの心のど真ん中に。 かみさま、ごめんなさい・・・。もういやだ。こんな自分もうこりごりだ。たすけて、ゆるして、かみさま。 たくさんの言葉を、へたくそながらも、並べて、ぎこちない祈りをした。 たくさんの思い出を思い出した。あの時も、あたしは神様に赦されてきた。あの時も、あたしが泣き叫んだ時に、神様は右の手を差し伸べてくれた。あの時も、あたしがあなたから離れていて、恐れながらもあなたの元に行ったら、あなたはあたしを抱きしめてくれた。 そうだった。そうやった。忘れたらあかん。神さまのそばにおろう。そうしよう。 詩篇73:21-28 私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。 アーメンそうだ、これ、年間聖句にしよう! しあわせや。
January 23, 2010
さて、病み期に入りました。きっと、こういう性質なんやろう。こういう、ウジウジした自分が大っきらいやけど、しゃーないけど、これが自分。もうそろそろ自分を受け入れよう。 言葉に責任が持てないこと あれもこれも手に入れたく思うこと人にどう思われているかで頭がいっぱいなこと こう言うと、最低な人間やね。 そうさ、あたしは最低な人間さ。と開き直るのもどうかと思う。 きゅーっと心が痛くなって、涙があふれてくる。別にいやなことがあったわけじゃないのに。でも、いやなことを考えて、考えすぎて、人と関わることが嫌になる。 つまり、 「し゛んどい゛」わけなのです。ふ、 何が、つまり やねん。 笑 人と関わることで、自分の愚かさがにじみ出で、隠せなくなる。隠さなくていいよーとか言われるけど、隠さなかったら、そりゃぁ悲惨やで。あたしの心なんて、根っからひどいもんなんやから。本当にくさってる。って思うんだ。 誰かと比較して? そう、それもあるよ。でも、誰かと比較なんてしなくたって、分かる。もろ分かり。あー、悲惨だ。自分の残酷な言葉たちが、口からあふれる時、後悔しか心に残らない。 なんだか、悔しい。悔しくて、悔しくて、つらい。 自分が、神様に喜ばれる道の反対方向を歩いてるようで、信仰書や授業を受けると、苦しい気持ちになる。 そして、逃げて、聖書を自ら開こうとしない。 かっこわる。 そんなもんだ、人前で、どんだけ着飾っても、内側が、悲惨だったら、意味がない。むしろ、滑稽や。 あー、かみさま、げんかいだ。
January 22, 2010
ひさしぶりの日記です。 いや、ひさしぶりのパソコンです。 本当に忙しい時って、パソコン開いている余裕もないんやなぁ。と、忙しかった時を思い出しました。 先週の土曜日、わわわクラブの子供伝道集会を終えて、企画から、運営、そして反省感謝会、打ち上げを経て、本当にすべてが終わりました! おつかれさま。 悔しいほどに、自分が汚いし、適当やし、ずるい。「ずるい人間」と人をさばくけど、本当に「ずるい人間」なのは、あたしです。 人間に「ぜったい」はないはずなのに、勝手に「ぜったい」をあてはめて、期待して、くずれる。何が「いのってる」からだ。何が「だいじょうぶ」なん。 そういう言葉で安心しようたって、現実はそう甘くないでしょ。分かってるくせに、もう経験して、失敗して、もうしないって言ったくせに、なんにも分かってない。 あたしは、まだまだ、よわい。そう思うのは、きっと「つよくなりたい」と思っているから。 きっと、そう思っているうちは「つよく」なんてなれないんだろうね。 神さまは、あわれみ深いお方であることを知った。でも、そこに甘えるんじゃなくて、そのあわれみ深さの中で、必至に、一生懸命に生きたい。 よし、喜びの1日がはじまるぞ!
January 22, 2010
課題や、プロスタや、サークルや、授業や、自分自身のことで、 なんか、精一杯やわ。 久し振りに「精一杯」に生きてるもんで、 結構心に余裕がなくなりつつあります。 「忙しい」というのは、本当に、心を亡くす。 と、つくづく思わされているのです。 何故に「忙しい」のか? その目的が明確ならば、きっと「喜び」という思いは自然とついてくると思う。 何も考えずに、ただひたすらに、ただ我武者羅に忙しいのは、心を亡くすけど、「主のために」と、初心を思いだして、忙しいのは、きっと喜びなんやろう。 何をするにも、主のために そういつも願って、行動するには いつも、いつも、まいにち、まいにち、御言葉が必要なんやろうなぁ。と思わされるのです。 さて、1日が始まって行くけれど、 何かを始める前に、10分でも、5分でも、いや1分でもいいから、 私たちを造られた主の前に静まりたい。そう願います。 今までの習慣を変えるのは少し困難やけど、 少しずつ、少しずつ、あなたに喜ばれる生き方をするために 生き生きと主ために生きられるように 変えられていきたいと思う。 私の愚かな思いを、御前に告白しますから、主よ、どうぞお赦しください。 悔い改めの心を持って、赦される平安を覚えて、今日も歩もう。
January 8, 2010
全4件 (4件中 1-4件目)
1

![]()
