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「劇」というと私たちは、いわゆる「演劇」を思い浮かべます。それは、「何らかの物語を役者が演じ、観客が見る」という「見せるための劇」です。そこには、誰かによって作られたストーリーと台詞があります。監督もいます。見る人が物語の世界に入りやすいように小道具や大道具や背景なども必要です。幼稚園や学校などでやっている「劇」はこのようなものです。それに対して、子ども達が日常生活の中で行っている「ごっこ遊び」には観客がいません。決められたストーリーも台詞もありません。もちろん監督もいません。子ども達はただ「他者になる」ことを楽しんでいるだけです。自然と共に生きている人たちは、自然の力を自分の内側に取り入れるためにオオカミになったり、風になったり、熊になったりすることがあります。その際、お面などをかぶったり草や木を纏うこともありますが、それは観客に「らしく見せるためのもの」というよりも、「演じる人がなりきるためのもの」なのではないかと思います。子ども達もまた、時々、恐竜になったり、ネコや犬になったりします。そうやって、「自分が大好きなものとの一体化」を楽しんでいるのです。大人になるとあまりそういう遊びはしなくなりますが、でも大好きなアイドルや選手がいると、ちょっと真似をして見たくなりますよね。昔、高倉健の任侠映画が流行った時、映画を見終わって映画館から出てきた人たちの多くが、肩を怒らして「健さん歩き」になっていたそうです。人間は「真似をすることでその相手とつながり、その相手の持つパワーや特性を取り込むことが出来る不思議な能力」を持っているのです。意識して真似をしようとしなくても、「大好きなもの」があると自然とそのものとの共鳴が起こり、そのものに似てしまうのです。子ども達はお母さんが大好きですから、自然とお母さんの話し方、考え方、動き方を真似してしまいます。お人形に向かって、お母さんと同じように怒っている我が子を見て恥ずかしくなったお母さんもいました。また、なりきっている時には視点も切り替わります。オオカミになりきろうとすれば、多少はオオカミの視点に気付くことが出来ます。鳥になりきろうとすれば、多少は鳥の視点を持つことが出来ます。そして「お母さんごっこ」をしている子は、お母さんの視点でごっこ遊びをしています。それと同じように、お母さんも子どもの真似をすれば、子どもの視点に気付くことが出来ます。私の子育てワークではロールプレイ形式でそのようなこともやります。また子ども達は、あこがれているお兄ちゃんや、お姉ちゃんや、大人の真似をしようとします。そしてその「真似っこ」が、子どもの成長の方向性にも大きな影響を与えます。皆さんも、お子さんと一緒に真似っこあそびをして見ませんか。森の中に入って「木」の真似っこをして見る。風が強い時に「風」の真似っこをして見る。チョウチョを見かけたら「チョウチョ」の真似っこをして見る。ぐりとぐらの絵本を読んだら、「ぐりぐらごっこ」をしてみる。野原や森の中に行ったら、いわむらのぼるの「14ひきのシリーズ」の野ねずみたちの真似をして見る。きっと楽しいですよ。それに新しい発見もいっぱいあると思います。私がやっている「劇遊び」は演劇よりも、このような「ごっこ遊び」のようなものです。だから「どう演じるのか」ということよりも「どうなりきるのか」と言うことの方を大切にしています。なりきったら、あとは自由にやればいいのです。でも今の子ども達は、あまり「ごっこ遊び」をしません。したとしても、「お話しの中の存在」や「自分の身近にいる存在」の真似ではなく、「アンパンマン」や「○○レンジャー」のような画面の向こう側にいるキャラクターの真似です。でも、画面の向こう側にいるキャラクターに同化しようとしても視点の切り替えは起きません。子どもの成長にもつながりません。「画面の向こう側の世界」と「自分たちが生きているこちら側の世界」はつながっていないからです。「正義の味方アンパンマン」を真似しているのに弱い子を守ろうとはしません。むしろ、「アンパーンチ」と言って、他の子を打ったりしています。正義のために戦っている「○○レンジャー」の真似をしているのに、「○○レンジャー」の剣で他の子を打ったりもします。画面越しでは「行為の模倣」は出来ても、「気持ちの模倣」までは出来ないからです。
2024.03.22
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私たちの身の回りはデジタル機器で溢れています。そして、子ども達の遊びの世界にもデジタル機器が広がっています。「家ではゲームでしか遊ばない」という子は今や普通の子です。スマホを持っている小学生も珍しくありません。そして子ども達の趣味や興味はSNSやyoutubeのようなデジタル世界の中の事ばかりです。友だちとのやりとりもデジタル機器を通して、遊びもデジタル世界の中で、情報を集めるのもデジタル機器で、そして、自分の夢や希望もデジタル世界の中で探そうとしています。最近話題になっている「Apple Vision Pro」なんか凄いですよ。あれは本当にやばいです。今はまだ高いし、デカいし、重いですが、しばらくしたら普通のメガネくらいの値段や、大きさや、重さになるでしょう。そして、普及すれば子どもの遊びの中にも入って行くでしょう。そして、メガネと同じように、あれをつけたまま生活する子どもも現れるかも知れません。でも、そのような状態が日常的になってしまった子は、現実世界を生きることが困難になってしまうでしょうね。自分の心やからだとの向き合い方も分からなくなるでしょうね。VRが最初出始めた時は、「12才以下の子どもには使わせないように」ということでしたが、大人が使っていれば子どもにだけ禁止することは出来ないですよね。そして、子どもの成長に興味や関心がない人は、「自分も使っているし、子どもも使いたがっているし、使わせていれば大人しくしているから」と軽い気持ちで使わせてしまうでしょう。実際、子どものスマホの使用もどんどん一般的になり、しかも低年齢化していますから。でも、そのようなデジタル機器に囲まれて生活し、デジタル世界の中で遊んでいる子ども達は、必然的に、アナログ世界、つまり、現実世界との関わり方が分からなくなってしまうのです。そのような子は、デジタル機器がないとすぐに「退屈だー」と言います。常に受け身的で、自分で遊びを発見し、自分の頭で考えて遊びを工夫し、自分の手やからだを使って遊ぶということが出来ないのです。鬼ごっこのような「形が決まっているもの」でなら遊べます。造形でも、箱やイスのような「形が決まっているもの」なら作ることが出来ます。でも、そこに「自分のアイデア」を入れ込むことが出来ないのです。絵でも、キャラクターの絵は描けるのですが、自分で考えた絵が描けないのです。というか「自分で考えた絵」を描きたいとも思っていないようです。時々、自分の頭で考えたことを自分の頭で工夫しながら描いたり作ったりする子もいますが、そういう子の話を聞くと、家ではほとんどゲームで遊んでいない子ばかりです。問題は、デジタル機器に慣れ親しみすぎた子は、大人になって結婚しても、リアルな夫婦関係を築くことが困難になってしまうのではないかということです。リアルな仲間と、リアルな世界で、リアルな遊びを通して関わってこなかったので、目の前に存在しているリアルなパートナーとアナログ的にどう関わったらいいのかが分からないのです。それでも女性は、子どもが生まれたら「リアルな世界でアナログ的に生きている子ども」と直面せざるおえません。そうして「訳わかんない」と言いながらも、「リアルな世界でのアナログ的な生活」も大切にするようになります。そうしないと子育てが出来ないからです。でもそれは大変な苦しみを伴います。でもお母さん達は学び、考え、仲間を作り、自分自身が成長することでそれを乗り越えようとします。その過程で「自分らしさ」に目覚める人もいます。私はそういうお母さん達に呼ばれて勉強会もしています。それが出来ない人は、どこまでも子どもを支配しようとします。でも、子どもが思春期を迎える頃に、そのような「支配する子育て」は破滅します。また、そのような女性の変化に対して、男性の方は子どもの時のままです。先日も、ご主人の問題を色々と相談してきたお母さんがいたので、「でも、そんな人を選んだのはあなたですよね?」と言ったら、「何であの人を選んだのか想い出せないのです」とおっしゃっていました。どうか子ども達には、デジタル体験よりもアナログ体験の方をいっぱい与えてあげて下さい。子ども時代にリアルな世界でのアナログ体験をいっぱいした子は、大きくなってデジタル世界と出会っても「リアル」と「仮想」の区別が付くようになるのです。「命」の意味も分かるようになるでしょう。デジタル世界の中には「命」は存在していないのですから。
2024.03.21
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昨日、「茅ヶ崎賢治の楽校」のことを少し書いたので、その活動を始めたのがいつ頃のことだったのかを確認するために古い文書を探していたら、以下の呼びかけメッセージが出てきました。1997年7月とあります。ですから、その数年前に「賢治の学校を作ろう」という故・鳥山敏子の呼びかけに応じて、第一回目の全国大会に出たのだと思います。今では「茅ヶ崎賢治の楽校」の名前で活動はしていませんが、精神は同じです。*******「茅ヶ崎賢治の楽校からのメッセージ」 子どもは急に大人にはなれません。しかし、大人が子どもに還ることはできます。大人が自分の中深くに閉じこめた“子ども”を解放するとき大人は永遠の子どもに還ることができるのです。その時始めて、大人は子どもとコミニケーションが可能になります。 この「 “賢治”の楽校」では、全ての人が永遠の子どもです。「子供だまし」ではなく人間の本源としての子どもに還る場です。 そのことを実現するためには大人だけが集まるのではなく、また子どもだけを集めるのでもなく、あらゆる年齢を超えた人たちが集まり、一人一人がお互いを鏡にして、“一緒に遊び”、“一緒に学び”、そして、“一緒に苦しむ”場が必要なのではないかと考えるのです。 今、教育も福祉も政治も、簡単には癒されないような深い病に陥っています。合理性、生産性、便利を追求するような大人の論理が破綻しているのです。合理的でなくても、生産性が悪くても、多少不便でも楽しく遊んでしまえる子どもの論理・感性が求められているのです。人類の未来のために。 1997年7月 篠 秀夫
2024.03.20
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先日、藤野という所にあるシュタイナー学校の8年生の劇を見に行ってきました。みんな一生懸命で素敵でしたよ。そのシュタイナー教育では、「見せることを目的にした活動」ではなく、「子どもの成長を支えるための活動」として「劇」という活動を大切にしています。(詳しいことはこちらのシュタイナー学園のHPをご覧になって下さい。詳しく説明されています。)https://www.steiner.ed.jp/activity/nl108_20210609/童話作家として有名な宮沢賢治も、自身の教師としての活動の中で「劇」という活動を大切にしていました。これもまた、教育活動の一環としての「劇」です。子ども達は「見立て遊び」や「ごっこ遊び」が大好きです。大人が指導しなくても、子ども達は勝手に「見立て遊び」や「ごっこ遊び」しています。そういう遊びを通して、「外側にあるもの」を様々な形でシミュレートしながら、自身の内側に取り入れようとしているのです。そしてそれは、子どもの本能でもあるのです。ただ観客として見たり聞いたりしているだけでは「外側にあるもの」を内側に取り込む事は出来ません。見たり聞いたりするだけでもそれを知識や情報として取り入れることは出来ますが、「自分の育ちを支えるもの」としては吸収することが出来ないということです。「外側にあるもの」を内側に取り込むためには、それを内的に体験する必要があるからです。だから真似るのです。大谷翔平が大好きな子は、大谷くんの投げ方や、バットの振り方や、日常の仕草まで真似しようとしますよね。そうやって、心の中で大谷翔平と一体になって、「大谷翔平」を内側に取り入れようとしているのです。これは野球選手だけでなく、アイドルでも、また様々な分野で活躍した偉人でも同じです。「こういう人になりたい」と思ったら、その人物を真似したくなるのです。お母さんが大好きだから、「お母さんごっこ」をするのです。(子どものことが理解したいと思ったら、ご自身の子どもの真似をしてみて下さい。)そして、子どもは自身の年令や気質に合わせて、あこがれる人の真似をしようとするのです。そうやって「自分の成長に必要なもの」を自分で補い、自分の人生の目標を見つけようとしているのです。でも、「お母さんが何をしているのか知らない子」は「お母さんごっこ」をしません。というか出来ません。毎日、お母さんが作った料理を食べていても、お料理を作っている時にテレビを見たり、ゲームをしていたら、「お母さんごっこ」には目覚めないのです。学校から帰ったら毎日、テレビを見てゲームで遊んでばかりいたら、大人の社会とも出会えません。大人に対する興味や関心も目覚めません。そんな子ども達があこがれるのはテレビの中で活躍している人ばかりです。でも、その「テレビの中の人」は虚像です。アイドルも虚像です。あと最近聞くのは「ペットごっこ」です。子どもの誰かがペット役になって遊ぶのです。「お母さんがお料理を作っているところ」は見なくても、「お母さんがペットの世話をしているところ」はよく見ているのでしょう。でもこれは、子どもの成長を支える学びにはならないと思います。あと子ども達は「お店屋さんごっこ」が大好きです。茅ヶ崎でやっている「ポランの広場」という「親子で遊ぶ教室」でも、「お店屋さんごっこ」で遊びます。子どもとお母さんが2週間ぐらいかけて作った品物をフリーマーケットのような形で並べて売るのです。お金はポランで独自に発行している「ポラン券」です。劇遊び(なりきり遊び)もよくやります。以前は、「茅ヶ崎賢治の楽校」で足柄の山にあった施設に寝泊まりして、森の中でみんなで劇遊びなどもしていました。「茅ヶ崎賢治の楽校」は故・鳥山敏子さんの許可を得て私が主宰していた活動です。あと、「劇遊び」は「子どもの内的な成長」を支える手助けをしてくれますが、それだけでなく、目的を共有することで自然と仲間が生まれます。また、自分の感情に気づき、自分の感情や考えを表現する能力も育ちます。ただし、劇遊びでは子どもが主人公になる必要があります。大人によって正解を決められ、大人の趣味に合わせて演じるように求めるのなら、それは「子どもの育ちを支える活動」ではなく、「大人の趣味に合わせた活動」になってしまいます。そこが一番難しいところです。お店屋さんごっこ茅ヶ崎賢治の楽校
2024.03.19
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よくお母さん達から、“うちの子どもたちはしょっちゅうケンカばかりしていて困るんです”と、兄弟げんかの相談を受けます。そんな時は、“兄弟げんかの数だけいっぱい仲直りも体験しているのですから大丈夫ですよ”と答えます。子どもはケンカしても、すぐに一緒に遊び始めます。兄弟げんかならなおさらです。その、ケンカから一緒に遊び始めるまでの過程の中に“仲直り”も含まれているわけです。その際、“ゴメンナサイ”などという儀式は不要です。「どっちの方が悪い」という善悪の判定も不要です。そういうものを求めているのは子どもではなく大人の方です。子どもはただ仲良く遊びたいだけなんです。それがうまく行かないからケンカになるのです。それに子どもは、「自分の感情」を吐き出して、それをお母さんにちゃんと受け止めてもらえば、それだけで落ち着くのです。うちの子がまだ小さかった時、「ケンカから仲直りへ」という過程を見たくてケンカしている脇でただジーッと見ていたことがあります。ケンカしている時も、仲良く遊んでいる時もよく見ていましたが、その境界で何が起きているのかを知りたかったのです。そうしたら、最初のうちは言い合いをしていました。でも、しばらく言い合いをしているうちに気持ちが落ち着いてきたのでしょう、側でジーッと観察している私が気になり始めました。そして、姉の方が“あっちへ行こう”と弟の手を引いて行ってしまいました。そこでケンカは終わりました。でも、多くのお母さんがそんな面白い現場を見ることなく子どものケンカを一方的に止めてしまいます。そして多くの場合、お兄ちゃんやお姉ちゃんが怒られることになります。すると、兄弟の間に妬みが生まれます。そして、兄弟の仲が悪くなっていきます。そして、またケンカを始めます。そしてまたお母さんに怒られます。つまり、ケンカを一方的に止めてしまうことがかえってケンカを増やしているのです。そして、そこではケンカの体験ばかりで仲直りの体験ができません。その仲直りの体験が出来ないまま成長していくと、年齢が上がるにつれて“ケンカ”が兄弟間の“イジメ”というような形に発展していくことがあります。イジメの世界には仲直りは存在しません。そして、そのような状態になってしまうと、お母さんには兄弟の間に何が起きているのか分からなくなってしまいます。そうなってしまってから問題を解決するのは非常に困難です。ですから、そうならないように兄弟げんかを楽しんでみましょう。実は、子どもにとって“ケンカ”という場面ほど自分を表現しようとする状況は生活の中にないのです。いつもは無気力に受け身で生活している子どもたちでもケンカの場面の時だけは能動的になります。そして、行動的になり、おしゃべりになります。つまり、自己表現を始めるわけです。つまり、“心のドア”が開くのです。その時に、相手やお母さんにその自己表現をちゃんと受け止めてもらうことができれば子どもは自分を表現することに臆病にはなりません。そして、お母さんがちゃんと聞いてあげていれば、相手に理解してもらうための表現能力も育っていきます。そして、自分の気持ちを表現する能力が育てばケンカをする必要もなくなっていきます。また、子どもの気持ちにちゃんと向き合ってくれたお母さんへの信頼も育っていくでしょう。ですから、兄弟げんかが起きたら、“しめた!”と思ってください。ケンカという場でないと伝えることが出来ないこと、育てることが出来ないこともいっぱいあるからです。ケンカの時、子どもは先ず自分の感情を吐き出そうとしますから、ちゃんと子どもの話を聞いてその感情を吐き出させてあげて下さい。感情を止めてしまうと感覚も思考も働きませんから、話しが先に進みません。その時、“辛かったんだよね”とか、“イライラしたんだね”というように子どもが言葉化出来ない心の中の言葉をお母さんが感じて、言葉化してあげることも必要になります。子どもは自分の感情をどのように表現したらいいのか分からないからです。(お母さんも分からなかったりして・・・)ただし、自分の感情を吐き出すのはいいのですが、相手を否定するような言葉はしっかりと止めてください。それと、お母さんが善悪の押しつけをしないようにして下さい。それをやってしまうと子どもは自分の感情を言わなくなります。兄弟げんかは生活の中の「感情表現ワーク」でもあるのです。子どもは、そういう場で「自分の心」と向き合っているのです。ですから大切にしてあげて下さい。
2024.03.18
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暖かくなってきたこの時期楽しいのが「お散歩遊び」です。家の中にあるものは全て人工的なものばかりです。そこには不思議も驚きもありません。当然、家の中で遊んでも、遊びが閉鎖的になり、同じ遊びの繰り返しばかりになります。でも、一歩外に出るだけで、そこには不思議と驚きの世界が広がっています。ただ問題は、外に出ても、自分の周囲にある「不思議」と「驚き」に全く気付かない人が多いと言うことです。そのような人は知識で世界を見ている人です。名前を知っている花は見えても、名前を知らない花は見えないのです。そして、普通のお母さんが知っているこの時期の花はタンポポやサクラなどのわずかな花だけです。ちょっと道ばたを見るといっぱい色々な花が咲いているのに、名前を知らない花は風景の中に隠れてしまって、見えないのです。大勢の親子と外を歩くことが多いのですが、そんな時、道ばたに生えている葛の葉を手に乗せて「ポンッ」て鳴らして遊んでみせることがあります。すると、子どももお母さんも興味を持って寄ってくるのですが、みんな「それ何の葉ですか」「どこに生えているのですか」と聞いてきます。すぐ側にいっぱい生えているのに見えないのです。またこの時期、毎年、野草を摘んで食べる会をやるのですが、その時も同じような会話が繰り返されます。道ばたに雑草のように生えている草なんですが、なぜか知らないのです。見えているはずなのに見ていないのです。うちは子どもが小さい頃から、春になるといつも野草を摘んでて食べていたので、子どもたちもそれなりに野草には詳しくなりました。以前、野原にツクシを摘み来ていた人に、「この草は・・」と言って驚かれたこともあります。四番目の子は、ノビルをほじくることにはまっていた時期があって、食べきれないほどノビルを掘って「これどうしよう」ということもよくありました。 食べなくても、野に咲く草花で遊ぶ方法はいっぱいあります。タンポポの茎やカラスノエンドウの種を笛にして遊ぶことも出来ます。いわゆる「草笛」です。上手にならすためには練習が必要ですが、その練習も楽しいです。草笛の本も出ています。お花などをビニール袋に入れてお水をちょっと入れて、モミモミして色水遊びも出来ます。また、水を入れたビンやビニール袋の中に、色々なお花や葉っぱを入れて、今流行の「ハーバリウム」を作ることも出来ます。採ってきた草花を、電子レンジを使って簡単にドライフラワーにすることも出来ます。草花を使った工作も出来ます。「匂い」で遊ぶことも出来ます。また、プリンのカップなどを使って、ミニ植木鉢や盆栽を作って遊ぶことも出来ます。泥ダンゴで写真のようなものを作って遊んだこともあります。また秋には色々な種を集めて造形に使ったり、色々なところやミニ植木鉢に植えて、成長を楽しむこともできます。さらに、家から外に出れば、草花遊びだけでなく、探検遊びや、旅行遊びや、影踏みや、木登りや、お店遊びや、草の物語、木の物語、水の物語を話して遊ぶことも出来ます。あまりに多いのでここには書けませんが、家から外に出るだけでいっぱい遊びが転がっているのです。でも、公園に行ってしまったら、そういう遊びの全てが消えてしまいます。**************************草あそび花あそび(春夏編) いっしょにあそぼ [ 佐藤邦昭 ]価格:1944円(税込、送料無料) (2019/3/18時点)楽天で購入作ろう草玩具 身近な草や木の葉でできる [ 佐藤邦昭 ]価格:1296円(税込、送料無料) (2019/3/18時点)楽天で購入
2024.03.17
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AIやデジタル技術の進歩で「本物」と「偽物」の区別が難しくなってきました。グーグルピクセルのCMでは、カメラの編集技術の素晴らしさをアピールするために、写っている物の位置や背景を自由に変えたり、笑っていない人の顔を笑顔にして見せたりしています。最近のAIは、この世に存在しない人をリアルな姿で創り出し、動画の中で話したり、演技をさせたりすることが出来ます。恋人がいない人がAIに恋人を創ってもらって、「一緒に江ノ島観光をしている動画」だって創れてしまうのです。そして、繰り返しその動画をみているうちに、それが本当にあったことだと思い込むようになるでしょう。偽の情報によって、記憶が書き換えられてしまうのです。ちょっと前までは、写真は「事実の記憶」を残すための手段だったのですが、その事実を自由に創作できるようになってしまったので、「本当の事実」と「嘘」の違いを証明することが困難になったのです。そして、日常的に「嘘」に触れていると、「嘘」と「本当」の区別が付かなくなり、次第にその「嘘」の方が「本当の事実」だと思い込んでしまうようになるのです。これは、昔からある「洗脳」の技術と同じものです。「大和魂と竹槍があれば、鉄砲を持っている米兵にだって勝てる」と国や周囲のみんなが言っていれば、自分も「そうなのかな」と思い込んでしまうのです。「お金をいっぱい寄付すれば天国に行ける」と言われ続けているうちに、本当にそんな気がしてくるのです。そんな時に「それは変だ」と感じることが出来るのは、本物と出会い、本物を体験し、本物から学んだ人だけです。「本物」といってもそんな凄いものである必要はありません。皆さんの足下にある石でも草木でも、雨の後の水溜でも、山の中に落ちているドングリも、落ち葉も、みんな「本物」なんですから。そして、幼い子ども達は、その「本物」で遊ぶのが大好きです。問題は「現代人はそのような本物と触れ合わなくなった」、「そのような本物に価値を感じなくなった」ということなんです。お母さんもドロンコや水溜で遊ばれるよりも、ゲームの中で遊んでくれた方が洋服は汚れないし、ばい菌もいないし、安心でもあります。そして現代人は、大人も子どもも「本物」よりも「お金さえ払えば、自分の希望通りに自由に仮想現実を作り出せて、手軽に自分の欲望を満たしてくれるデジタルの世界」の方を選ぶようになったのです。でも、遊びや仕事はデジタルの世界の中でも出来ますが、「自分の命を支えるための活動」や「子育て」はデジタルの世界の中では出来ないのです。デジタル世界の中で学んだことは、子育ての現場では全く役に立たないのです。自分の人生を自分らしく生きようとする時にも役に立ちません。デジタル世界の中で理想的な子育てをしても、実際の我が子がその通りに育つことは100%ありません。血の通った我が子を「たまごっち」のようには育てることが出来ないのです。また、デジタル世界の中でいくらいっぱいノコギリを使っても、山登りしても、仲間と遊んでも、自分の肉体が存在している現実世界では、その体験は全く役に立ちません。むしろ、「実際には何も出来ない自分」を思い知るだけです。どうか子ども達を「本物」と出会わせてあげて下さい。本当の水、本当の土、本当の仲間、本当の自分と出会わせてあげて下さい。本当の幸せは、本物との出会いを通してしか得ることが出来ないのですから。「デジタル世界の中での幸せ」は、「夢の中の幸せ」と同じ蜃気楼のようなものです。
2024.03.16
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人は自分が学んだことや、体験したことを基準にして物事を感じたり、考えたりしています。男性は小さい時から男性としての体験をしながら成長しています。そのため、男性としての視点を基準にして感じたり、考えたりしています。女性もまた同じように、小さい時から女性としての体験をしながら成長しています。そのため、女性としての視点を基準にして感じたり、考えたりしています。そして、その人の感じ方や考え方の基準になっているものが異なっていれば、当然、話が通じなくなります。でもお互いにそのことには気づいていません。人は、体験がないことには気付かないからです。そして、「自分の感じ方や考え方が常識であり、一番正しい」と思い込み、「どっちの方が正しいのか」を決めるために戦いを始めます。日本人として生まれ育った人は、「日本人としての価値観」を基準にして感じたり、考えたりしています。私は30才の頃にバックパッカーとしてヨーロッパやインドやアジアなどをフラフラしてきましたが、そのことで私は「私が巡った国」のことだけでなく、そのような異文化に触れることで、相対的に「日本」のことについても色々な気づきを得ることが出来ました。昔、誰かが「日本の常識は世界の非常識だ」というようなことを言いましたが、こういうことは日本から出て、異文化と触れあわないことには分からないのです。このような対立から抜け出して、お互いに対等な立場に立って話し合うことが可能になるためには、双方にとって共通の基準が必要になるのです。そこで必要になるのが、自然や、命や、宇宙や、真・善・美といったような「普遍的な世界への気づき」です。「科学」もまた「普遍的な世界」を提示しています。このようなものはそれほど社会の変化に振り回されません。だから、このようなものを思考や感覚の基準として持っている人は、過去の人とも、他の国の人とも話し合うことが可能になるのです。「男性」とか「女性」とかいうような対立を超えるために必要なのは、「男性も女性も同じなんだよ」という社会的価値観を押しつけることではなく、人間とか、命とか、自然という「普遍的な世界への気づき」なんです。男女平等などというような「社会的に決めた価値観」は、社会の変化によって簡単にひっくり返ってしまうのですから。実際、社会的な価値観は常に変化しています。昔はかっこよかった服装が、数年後にはダサくなったりします。昔は、電車の中でもお店の中でも、タバコを吸っている人がいっぱいいましたが、今ではそれは許されないですよね。子ども達には「命を大切にしよう」とか「命は地球より重い」などと言いながら、戦争になると「敵」を殺すことが正当化されます。また、生き物たちがいっぱい生活している山や、野原を平気でブルトーザーなどで潰してビルを建てたりします。コロナ前にはみんなで仲良く遊ぶことが奨励されていたのに、コロナになったら急に、群れるな、話すな、手をつなぐな、近くに寄るな、などと言われるようになりました。子ども達は混乱したでしょうね。我が子の誕生に立ち会えなかった人、親や大切な人の死に目にも立ち会えなかった人もいっぱいいます。それまでは「大切なこと」として考えられていたような行為が簡単に否定されてしまったのです。このように社会的な価値観は常に変化しているのです。そのため、社会的な価値観だけを基準にして感じたり、考えたりしていると、人は簡単に感覚や思考の迷路にはまってしまうのです。そして「人間として本当に大切にしなければいけないこと」が分からなくなってしまうのです。そして今、社会全体がそのような状態になってしまっています。今の時代、命や、宇宙や、真・善・美といったような「普遍的な世界」を大切にしている人は多くないような気がします。問題は、幼い子ども達は大人が創り出した人工的な世界ではなく、自然や、命や、宇宙や、真・善・美といった普遍的な世界とのつながりの中で生きているということです。だから、社会的な価値観に翻弄されて生きている人には、子どもが生きている世界が分からないのです。子どもの成長に必要なものが分からないのです。命の働きを通して普遍的な世界とのつながりの中で生きている子ども達は、自然や、命や、宇宙や、真・善・美といったような「普遍的な世界」を素直に受け入れます。そして、そのような「変化しないもの」を基準にして感じたり、考えたりするようになります。そしてそのことで、感覚や思考が安定し、社会の変化にも振り回されなくなるのです。それに対して、常に変化する人工物に囲まれて育った子は、自分の内側にある「普遍的な世界とのつながり」が断たれ、「常に変化する社会的な価値観」を基準にして感じたり、考えたりするようになるでしょう。そのため、感覚や思考が不安定になり、社会の変化に振り回されるようになってしまうでしょう。
2024.03.15
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「優しさ」を育てるためには「想像力」を育てる必要があります。相手の立場に立って色々と考えることが出来る「想像力」です。「相手の立場」に立たずに、「学校に行かないと・・・」「歯を磨かないと・・・」「ちゃんと勉強しないと・・・」などと、自分の不安や希望から生まれた空想は「妄想」であって「想像」ではありません。一方的に、その妄想を押しつけられた子どもは苦しくなります。また、そのような人は、自分の勝手な思い込みだけで相手のことを判断します。自分が傷つきやすい人は、自分のちょっとした言動でも子どもが傷ついてしまうのではないかと恐れ、子どもの顔色をうかがい、子どもを叱ることが出来ません。その逆に、感受性が鈍い人は相手の気持ちなど考えずに色々とやったり言ったりしてしまいます。そして、「こんなことぐらいでは子どもは傷つかない」と思い込んでいます。よくあるパターンが、お母さんが傷つきやすく過度に子どものことを心配しているのに、お父さんの方はその逆に、「このくらいじゃ子どもは傷つかない」と思い込んでいる場合です。そういうお母さんからの相談も多いです。でも、両者の考え方とも自分の価値観や、考え方や、感性を基にした思い込みですから、話し合ってもラチがあきません。いくら話し合いを繰り返しても一向に近づきません。お互いに「なんで分かってくれないんだ」と「自分」の押し付け合いを繰り返すだけです。いずれの人にも共通しているのが「想像力の欠如」です。「優しさの欠如」ではありません。もちろん子育てでは、お母さんやお父さんの感性や、価値観や、考え方も大切です。でも、肝心の子ども自身の「感性や、価値観や、考え方」を無視して、お母さんやお父さんが「子どもの育て方」について議論しても意味がないのです。子どもの感性や、価値観や、考え方を知れば、話し合う上での共通の視点、土台が整います。そこで始めて「話し合い」が成り立つようになるのです。家を建てる時に、家を建てる場所の実際の状況が分からないまま「どんな家を建てたいのか」を考えたり議論したりしても無意味ですよね。それと同じようなことです。「インドに行ったらどうしようか」と色々と想像するためには、実際のインドについてちゃんと知る必要があります。野生の動物たちが幸せに生きることが出来るように考えるためには、野生の動物たちの生態を知る必要があります。何にも調べないであれこれ考えるのは妄想に過ぎません。私が考える「優しさ」とは、相手の価値観や考え方を大切にしてあげることです。子どもを大切にするということは「子どもが大切にしていること」を大切にしてあげることです。そして、相手のことを相手の視点に立って色々と学び、考えることで想像力が育つのです。自分の視点のまま相手のことを学び、何かしてあげても優しさにはつながらないのです。まただから、相手のことについて色々と学ぶ必要があるのです。ちなみに植物や生き物を育てたりすることでもこの想像力が育ちます。想像力を働かせないとすぐに枯れたり死んだりしてしまうからです。植物や生き物を育てたりすることが子どもの「優しさ」育てにもつながっているのです。でも今、そのような想像力が未熟な子ども達が増えて来ています。
2024.03.14
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時々、「子どもがアリを殺して遊んでいるときにはどうしたらいいのでしょうか」という質問を受けます。それは、子どもがアリを殺して遊ぶのが、身近でありふれた行為だからなのでしょう。大人としては子どもに命の大切さを教えなければいけないと思って「かわいそうだからやめなさい」と、一方的に子どもの行為を否定して止めてしまいまが、でも、じゃあそれで子どもに「命の大切さ」が伝わるのかというと、そんなことはありません。そのような一方的なやり方では、子どもに「お母さんに否定された」という記憶しか残すことが出来ません。そもそも、そのようなことを言う大人が「生命」を大切にした生活や生き方をしているのでしょうか。アリの命を「大切なもの」として考えているのでしょうか。茅ヶ崎の北の方に、「里山公園」という里山を生かした県立の大きな公園があります。以前、私はそこにも子ども達を連れて行って遊んでいたのですが、ドジョウやザリガニがいるので、子ども達はそういうものを捕まえて遊んでいました。うちのグループの子だけでなく、近隣の子ども達も子どもだけでやってきて同じようにドジョウやザリガニなどを取って遊んでいました。そうしたら、見回りの大人がやってきて、「ここで生き物を捕ってはいけない」などと言い始めました。そんな時も「生命は大切にしなければいけない」ということが言われます。いま、ちょっと大きな公園にはどこの公園にも「生き物を捕るな」「命を大切に」などというような看板が立っています。「木に登るな、草や花も摘むな」と書いてあるところもあります。その理由は「保護のため」ですが、でも大人達は必要があれば、一匹一匹生き物を殺すようなことをせず、そこに生きている生き物ごと、簡単に山を崩し、川や田んぼを埋め、ブルトーザーで草花を踏みつぶし、木を切り倒しています。外来種が増えれば、「在来種保護のため」という理由で積極的に捕まえて殺したりもします。そのような行為には、無機的な「計画」があるばかりで、「命を大切にする」という発想は全くありません。その里山公園を作る時も、最初の計画では、「すでにあった山を崩して、設計図通りに新しく山を作って公園を作る」というものだったそうです。私は、その時の反対運動をしていた人からその話を聞きました。それで、「そんなバカなことをするな」と住民が立ち上がって、今のような形に落ち着いたそうです。昨今、生き物が非常な勢いで死滅し、私が子どもの頃と比べても明らかにその種類も量も減っていますが、これは子ども達の責任ではなく、山を切り崩し、川や田んぼを埋め、木々を切り倒してきた大人達の責任です。環境汚染も、気候変動も全て大人の責任です。その大人が、平気で子どもに「命を大切にしろ」と説教するのですからおかしな話です。子ども達の「昆虫や生き物を捕まえて遊ぶ遊び」は太古の昔からあったと思います。でも、それで環境が破壊されたり、生き物が絶滅したなどという話は聞いたことがありません。昆虫採集を熱心にやった子が、残酷な大人になったという話も聞いたことがありません。むしろ子ども達は、そのような遊びを通して、生命のはかなさを知ったのです。「バケツいっぱい取れた」と喜んで持って帰っても、そのままではすぐにみんな死んでしまうからです。大人はそのことが分かっているので、最初から止めるのですが、子どもには「死ぬ」ということが分かりません。大人も言葉で伝えることは出来ません。これは体験するしかないのです。機械やオモチャは死にはしませんが、生き物は死ぬのです。だから、一生懸命に世話をするようにもなります。そのようにして「優しさ」が目覚めるのです。その、「世話をする」という過程で、その生き物のことをより詳しく知るようになったり、死ぬとはどういうことなのかということが分かるようになるのです。最近では、「生き物は死ぬから飼わない」と言う人がいますが、「大切にしていたものの死」を体験した子と、死なない機械ばかりで遊び、「死」を体験したことがない子とではどちらの子の方が「命の大切さ」を知っていると思いますか。そもそも現代人の「命を大切にしよう」という考え方は非常に偽善的です。釣った魚をその場でさばいて料理すると「残酷」などと言う子がいますが、平気で調理された魚や動物の肉は食べます。それは単に「死ぬところ、殺すところを見たくない」と言うだけのことであって、「命を大切にする」という価値観とは全く無関係です。それにそのような子に限って好き嫌いが多く、「食材として提供された生命」を平気で残したりします。また、「蚊やゴキブリなんかこの世から消えてなくなればいいんだ」などとも言います。「じゃあ、アリは殺してもいいのか」というと、それもまた違います。「大人も一緒になって、アリを踏みつぶして遊んだ方がいいのか」というのも違います。そんな時は、「アリさんのお話」を聞かせて上げて下さい。一緒に図鑑を見て、アリはどのように生活をして、何を食べ、寿命はどのくらいで、ということを一緒に学んで下さい。また、「アリ」が主人公の物語があったら、聞かせて上げて下さい。「アリ」のことを知ることで、むやみに「アリ」を殺したりはしなくなるのです。これは戦争のような状況で敵を殺す時も同じです。アメリカ人のことを何にも知らない人は、簡単に「アメリカ人は鬼だ」という言葉を信じ、平気でアメリカ人を殺すでしょう。そして実際そうでした。でも、アメリカで暮らしたことのある人や、アメリカ人の友達がいた人や、アメリカのことをよく知っている人は、そんな簡単にアメリカ人を殺せはしません。人は、知ることで優しくなることが出来るのです。「優しくしなさい」と押し付けるのは逆効果なのです。子どものことを知ることで子どもに優しくなることが出来るのです。男性は女性のことを知ることで女性に対して優しくなることが出来、女性は男性のことを知ることで男性に優しくなることが出来るのです。障碍を持っている人に対しても同じです。「無知」が残酷な行為を生み出すのです。私が、「気質」について書いたりワークをしたりしているのも、お互いにより深く相手を知るためです。「気質」を知るだけで優しくなることが出来るのです。」今、世界中で苦しんでいる人がいっぱいいますが、私たちは「無視」という残酷な行為をしています。子ども達の心の中に「優しさ」を育てるためには、まず、「その子自身が優しく扱われること」と、「相手のことを知ろうとすること」を教えることが必要なのです。「優しくしなさい」と叱る行為はその逆の結果を生み出してしまいます。また、その子自身が優しく扱われていない場合は、知ることが妬みを生み出し、逆に残虐な行為に及ぶこともあるので要注意です。
2024.03.13
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国も、学校も、社会も、「教育とは子どもの知的な能力を育てることだ」と思い込んでいます。私がネットなどで見ている感じでは、「新しい教育」と呼ばれている様々な活動でも子ども達の知的な能力を育てることがその大きな目的になっています。ちなみに、私が大好きなシュタイナー教育では「知的な能力の育ち」を教育の目的にはしていません。だからなかなか理解されないのでしょう。そして、その社会全体の流れに飲み込まれてしまって、「子どもの知的な能力を育てることが子育ての目的」だと思い込んでしまっているお母さんもいっぱいいます。「子どもの知的な能力を育ててあげないと生存競争に勝てない」と思い込んでいる人も多いです。そのようなお母さんは、子どもが小さい時から文字を教え、英語を習わせ、知育玩具を与え、様々な教室に通わせています。幼稚園も、ただ遊ばせてくれるだけの所ではなく、色々なことを教えてくれる所を選ぶ人が多いです。絵本なども読んで聞かせるのではなく、自分で読ませ、さらには「どんな内容だったか」を子どもに報告させているお母さんもいるようです。大分以前、東京のある幼稚園に呼ばれて、地域の幼稚園の組合?の先生達の合同研修をしてきたことがあります。その時、私を呼んでくれた園長先生に「どうして私を呼んでくれたのですか?」と聞いたら、「私の園では〝遊び〟を教育の大事な柱として取り入れているのですが、それの意味が、地域のお母さん達や、他の園の先生達に伝わらないので、そういうことを自分の園の先生達や他の園の先生達にも伝えて欲しくて・・」と、おっしゃっていました。幼稚園見学会をやっても、一通り見たお母さん達は「みんな楽しそうに遊んでいますね。でも、この園では子どもを遊ばせるだけなんですか?」と言って帰る人が多いそうです。でも、知的な能力の成長ばかりを目的とした子育てや教育では、AIのような能力は育つでしょうが、人間らしさとつながった知性は育たないのです。AIのような能力とは、問題や課題を与えられれば答えを得ることが出来る能力です。でも、AIは自分で課題を見つけ、自分の感覚で感じ、自分の意志で考え行動し、みんなの幸せを考えるようなことはしません。AIナニーに子育てを任せたら、感覚や、心や、意識や、からだの育ちが遅れ、無気力な子どもに育ってしまうでしょう。なぜなら、AIロボットは受け身的にしか考えないし、受け身的にしか行動しないからです。「言われたこと」はやりますが、「言われないこと」はやらないのです。(逆に、言われないことまで積極的にやるAIロボットが生まれたら怖いです。)人間のお母さんのように、子どもに積極的に話しかけ、積極的に触れ、積極的に一緒に遊ぼうとはしないのです。子どもの一挙手一投足に反応し、子どもと一緒に笑ったり、子どもの困った行動に怒ったりはしないのです。でも、子どもの「人間としての成長」に必要なのは、そのような沢山の「人間らしい関わり合い」なんです。文字を教えることでも、英語を教えることでも、算数を教えることでもないのです。幼い子どもが人間らしく成長するために必要なのは、人間らしさを備えた人間との人間らしい関わり合いなんです。そしてその「人間らしさ」こそが、AIとは異なる「人間としての知性」の育ちを支えてくれるのです。身につけた知識や能力を「自分のもの」として使いこなし、精神的に自立して生きるためには、「AI的な知性」ではなく、「人間としての知性」が必要になるのです。でも困ったことに、最近「AIナニー」のような子育てをしているお母さん達が増えて来ているようなのです。そのようなお母さんは、必要がなければ子どもと関わろうとしません。言葉が理解できない赤ちゃんに話しかけるような無駄なことはしません。離乳食も手作りせず、買ってきたものを与えます。オンブやダッコもしたがりません。そして常にベビーカーに乗せて荷物のように運んでいます。それでいて教育には熱心です。
2024.03.12
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「おおきくなるっていうことは」という絵本があります。(中川ひろたか・文 村上康成・絵)その最初にはおおきくなるっていうことはようふくが ちいさくなるってことと書かれています。そして、色々な「おおきくなるっていうことは」が書かれていて、最後におおきくなるっていうことはちいさいひとに やさしくなれるってことという言葉が書かれています。子ども達は自分の事だけを考えています。そしてそれが動物としての本能であり、子どもたちが自分の心とからだを守るために必要なことでもあります。よくお母さんは、他の子をぶってしまった我が子に「ぶたれたら痛いんだよ」などと言いますが、そんなこと言われても幼い子どもにはそんな想像は出来ません。中には、お母さんが我が子をぶって「ほら痛いでしょ、○○くんだって痛かったんだよ」などと「○○くんの痛み」を伝えようとしているお母さんがいますが、幼い子どもに分かるのは「自分がお母さんにぶたれた痛み」と「お母さんに否定された苦しみ」だけです。お母さんに叱られるのが嫌で行動を自粛するようになることもあるかも知れませんが、それは「成長」ではありません。そのため、後から困った問題が発生してきます。それにお母さんだって「○○くんの痛み」が分かっているわけではないはずです。そのようなことをするお母さんが分かっているのは、自分がちゃんとしつけが出来ていないことを見られてしまった悔しさだけです。特に幼い子どもは「自分の事」しか分からないのです。これは成長に伴う生理的な現象なので、いくら丁寧に説明しても通じないのです。それは皆さんが超能力を使えないのと同じことです。いくら頑張ったって出来ないものは出来ないのです。大人になっても「相手の気持ち」が分からない人もいっぱいいますよね。これはそれほど難しいことなんです。また、「自分の気持ちを押しつけること」と「優しさ」を取り違えている人もいます。「あんたのためなんだから」などと「優しさと感謝の押し売り」をしているお母さんが大切にしているのは「自分の気持ち」だけです。それはただの「おせっかい」です。また、子どもがケガをしないように、苦しまないようにと子どもの周囲から「危険なもの」を排除しようとするのも、やり過ぎてしまうと「自分の気持ちの押しつけ」になってしまいます。子どもの周囲から過度に「危険なもの」を遠ざけてしまうと、子どもが親の目を盗んでそれに触れた時にさらに危険なことが起きてしまうのです。そして子どもは、成長と共に親の目が届かないところで色々とやるようになってくるのです。それは避けられないのです。だから、子どもがまだ親の目が届くところで遊んでいる時期に、危険なものとの関わり方を伝えてあげた方がいいのです。ハサミや包丁の使い方、木登りや川や海での遊び方などです。ハサミや包丁の使い方を伝えるためには、実際に、ハサミや包丁を使わせてみるしかありません。ケガをするかも知れませんが、側で見ている状態でのケガなら大きなケガにはなりません。そうやって子どもの安心と可能性を育ててあげるのです。そして、そういうことが出来るようになることが「おおきくなるっていうこと」なんです。大人になるって事は「育てられた人」が「育てる人」になることです。「守られていた人」が「守る人」になることです。「伝承を受けた人」が「伝承を伝える人」になることです。「優しくされた人」が、他の人にも優しく出来るようになることです。他の子に乱暴をするような子は「乱暴」を伝承されたのです。(たまたま当たってしまったのは乱暴とは言いません)他の子に優しく出来るような子は「優しさ」を伝承されたのです。「優しくしなさい」と叱られたからではありません。だから、他の子に乱暴してしまう子に乱暴を止めさせるためには、ただ単に「乱暴」を否定するのではなく「優しさ」を伝えるしかないのです。「でたらめな言葉」で話している子に正しい言葉を伝えたいのなら、「でたらめ言葉」を否定するのではなく「正しい言葉」で話しかけてあげるしかないのです。おおきくなるっていうことは (ピーマン村の絵本たち) [ 中川ひろたか ]
2024.03.11
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(昨日からの続きです)昨日書いた「お母さんの成長」を支えているのが「子どものために」という意識の目覚めです。これは、親になって始めて目覚める意識であり感覚でもあります。基本的に子ども達は「自分のため」に生きています。自分のために感じ、考え、行動しています。お母さん達も子どもが生まれる前は似たような状態だったはずです。でも、妊娠期間中の長い時間お腹の中の赤ちゃんに意識を向け続け、出産の痛みの中で我が子を迎えることで、お母さんの意識が、「世話を受ける子ども」から「世話をする大人」へと変成していくのです。長い妊娠期間と出産の痛みが、「この子を守っていかなければいけない」という本能を目覚めさせてくれるのです。それはお母さんの人生で初めての感覚だと思います。ちなみにこれはお父さんでも同じだと思います。ただし、お父さんにこの意識が目覚めるのは、長い妊娠期間中、お母さんと共に「産まれてくる赤ちゃん」のことを考え、お母さんと同じような気持ちで産まれてくる赤ちゃんを迎えることが出来たお父さんに限るのではないかと思います。お母さんの場合は「逃げられない状況」の中での変化ですが、お父さんの場合は逃げたければ逃げることが出来てしまうのです。そして、逃げてしまったお父さんは、実際には「お父さん」になってしまっているのに、意識は子どもの時のままです。中には、子どもと一緒に「お母さんの奪い合い」までしているお父さんまでいます。子どもと「ゲームの奪い合い」をしているお父さんもいます。そして困ったことに、その「逃げること」を選択する男性がいっぱいいるのです。そのような男性は昔からいたでしょうが、最近増えて来ているような気がするのです。そのような男性は「俺の役割は金を稼いでくることだ」と言います。もちろんそれも大事ですが、それだけだったら子どもに「お父さん」がいないのと同じ状態になってしまいます。それは子どもの社会性の育ちに大きな影響を与えるでしょう。それに、お父さんがそのような状態では、お母さんの子育てが困難になってしまいます。当然のことながら、それは夫婦関係の悪化をもたらします。そして、夫婦関係の悪化は子どもの精神状態にも悪い影響を与えてしまいます。でも最近は、男性と同じような感覚の女性も増えて来たように感じるのです。そのような女性は、あまり「子どものために」とは考えません。むしろ「子どもの犠牲にはなりたくない」と考える傾向があります。そして自分の思い通りにならないことがあると「子どもがいるせいで」と考えてしまいます。子どもがいるせいでお酒が飲めない。子どもがいるせいで旅行に行けない。子どもがいるせいで好きなことが出来ない。子どもがいるせいで自由が束縛されている。子どもがいるせいでお金に不自由している。などなどです。そしてそのような人は、「子どもと共に」ということよりも「自分だけの時間」を大切にしようとします。まだ子どもが幼いのに、しかもそれほど経済的に困っていないのに、子育てよりも仕事を選ぶ女性も増えて来たみたいです。ただし、私は「子どもが幼い時には仕事をするな」と言うことを言っているわけではありません。親子が生き延びていくために仕事をせざるおえないのなら、それもまた「子どものために」という行為だからです。そして子どももそのことは感じてくれるでしょう。私が問題にしているのは。子育てから逃げるために仕事を選ぶ女性が増えて来たことです。妊娠と出産は自分が選んだ自分の人生の結果です。自分の子どもも、そして子育ても「自分の人生の一部」として発生しています。ですから、「子どもや子育てから逃げる」と言うことは、「自分の人生から逃げる」ということと同じになってしまうのです。そのような行為は苦しみの先送りをしているだけです。やがて、オマケと利子が付いて、更に大きな苦しみとして返ってきてしまうでしょう。何人たりとも、「自分の人生」からは逃げられないのですから。
2024.03.10
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昨日は、でも、最近の子はその「考える基礎となるデータベース」を作る機会も、時間も、場も与えられていません。それなのに大人は考えることを要求してきます。それで自分の頭で考えることが出来ない子ども達は、他の子を見て真似したり、大人の顔色を見たり、正解を暗記することで何とかしようとします。でも、いくら正解を覚えても、理解が出来ていないのですから子どもの成長にはつながりません。ただ「頭でっかち」の子どもが増えるだけです。と書きましたが、今、そのままの状態で大人になってしまった人たちがいっぱいいます。問題は、そのままの状態では自分らしく生きるのが困難だということです。また、自分で自分の生き方を決めることが出来ないので、考え方や、感じ方や、行動を、誰かや何かに依存しないと生活することが出来ません。それに、このような状態では子育てが出来ないのです。実際、多くの女性が結婚して子どもが生まれると、「子育て」という、それまでの人生で体験したことがないような世界の中に放り込まれ、閉じ込められてしまいます。その世界の中には正解がありません。依存したくても依存する対象がありません。「子育て書」に依存しても、すぐに裏切られてしまいます。「子育て書」には「一般的な例」は書いてありますが「自分の子」のことは書かれていないからです。その「自分の子」の言うことや、やることは意味不明です。何を求めているのかも意味不明です。大人の常識が全く通じません。言葉も通じません。時間も約束も守りません。反抗的な態度ばかりとり続けることもあります。でも、「ちゃんと育てなければ」「いい子に育てなければ」というプレッシャーはあります。それで、そのプレッシャーに負けて「虐待」という態度に出てしまう人もいます。無視や放任は積極的な虐待ではありませんが、子どもの心やからだの育ちを阻害するという点では立派な虐待です。でも、大部分のお母さん達はそのプレッシャーの中で、必死に子どもを守り、育てようとしています。だから、色々なことを学び、色々なことを考えます。色々なつながりを作ろうとする人もいっぱいいます。それまで興味がなかった「食」のこと、「心とからだ」のこと、「命」や「健康」のこと、「平和」について、「優しさ」について学び考え始める人もいっぱいいます。電磁波や放射能や戦争の問題にも関心を持つようになる人もいます。そして、そのことで価値観や、人生観や、生き方が変わってしまう人もいます。私の周囲には、子育てが一段落した後、子育ての間に学んだことや気付いたことを生かせるような活動を仕事として始める人もいます。女性は、「子育て」という過酷な修行を通して、自分自身の「育ち直し」が出来てしまうのです。でも、男性の方はその「育ち直し」が出来ません。そのため、結婚前には一致していたはずの、価値観や、考え方や、感覚がどんどんずれていってしまうのです。その結果、「私は何でこの人と結婚したんだろう?」と、愛し合っていた頃のことを想い出せなくなってしまう人もいます。
2024.03.09
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(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)************最近の人は本を読まなくなったという話をよく聞きます。教室の子ども達を見ていても、本を読みません。うちの教室には造形関係の本がいっぱい置いてあるのですが、それを開いて読もうとする子はほとんどいません。でも、教室を始めた20年、30年前の子ども達はその本をよく見ていたのです。本を読んで作りたいものを見つけ、作り方を調べ、自分で作ろうとしていたのです。私と家内はその手助けをしていただけです。でも最近の子は、「作るものがない、退屈だ」とは言うのですが、すぐ側に置いてある本を見て調べようとはしないのです。「作る」ということに対する好奇心自体が萎えてしまっているようなのです。「じゃあ、自分で考えてみな」と言うのですけど、「手やからだを使って考える」ということをしないで、頭だけで考えようとします。でも、頭の中に「考えるために必要なデータベース」がない状態では、考えることが出来るわけがないのです。「手やからだを使って学んだこと」がデータベースとして頭の中に入っているから「考える」という行為が可能になるのです。でも、最近の子はその「考える基礎となるデータベース」を作る機会も、時間も、場も与えられていません。それなのに大人は考えることを要求してきます。それで自分の頭で考えることが出来ない子ども達は、他の子を見て真似したり、大人の顔色を見たり、正解を暗記することで何とかしようとします。でも、いくら正解を覚えても、理解が出来ていないのですから子どもの成長にはつながりません。ただ「頭でっかち」の子どもが増えるだけです。またそのような状態の子は、本を読むことを楽しむことが出来ません。大人達は「文字が読めれば本も読める」などと思い込んでいますが、「文字が読める」ことと「本が読めること」は全く別物なんです。更に言えば「本を読めること」と、「本を楽しめること」も違います。そして、子どもの成長を支えてくれるのは「本を読む能力」ではなく、「本を楽しむことが出来る能力」の方なんです。そして本を楽しむためにも「手やからだを使って学んだデータベース」が必要になるのです。私はスペインに行く前にスペイン語を学びました。そのスペイン語は読み方のルールが単純なので、ちょっとした読み方さえ覚えれば、意味が分からない単語だって声に出して読めてしまいます。難しい本だって声に出して読めてしまいます。でも、声に出して読めても意味は不明です。でもそんなのは「読める」とは言えないですよね。韓国語も同じです。読み方のルールが単純なので、そのルールを覚えてしまえばどんなに難しい内容の本でも声に出して読むことだけは出来てしまうのです。でも子ども達は、家庭でも、学校でも、その「意味がないこと」ばかりをやらされています。多くのお母さん達が、子どもが小さい時から文字を教え、自分で読めるように仕付けています。学校も同じです。そして、文字が読めるようになると安心します。絵本を自分で読ませて、その話の意味を子どもに説明させているお母さんもいます。でも、そういう学びを押しつけられた子は、本を読むことを楽しむことが出来なくなってしまうでしょう。英語の学びでも同じです。いくら英単語や英会話を覚えさせても、「心やからだを通しての学び」がその言葉に伴っていなければ、子どもはその言葉を「自分の言葉」として使えるようにはならないのです。素敵な日本語を話すことが出来る子が英語を学べば素敵な英語を話すことが出来るようになるでしょう。今の時代、翻訳機を使ったっていいのです。でも、日本に住んでいながら日本語すらちゃんと話せない子が英語を学んでも、英語圏の人が耳を傾けてくれるような英語を話せるようにはならないのです。
2024.03.08
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古来から子ども達は、日常生活での体験や、大人や仲間との関わり合いを通して、「頭の使い方」や、「心の使い方」や、「からだの使い方」や、「感覚の使い方」を学んでいました。言葉や、論理や、知識や、常識を学ぶのも現実世界の中での体験を通してでした。まただから、学んだことが現実世界で通用したのです。でも、最近の子ども達はその「現実世界での体験」が奪われてしまっています。大人のために作られ、大人によって管理されている現代社会には、「子どもが自由に子どもらしくいることが出来る子どもの居場所」がないのです。その代わりに与えられているのが「ゲームの世界の中での体験」です。ゲームの中でなら、子ども達が何をしても、大人の生活には影響がありませんから、子ども達は自由に遊ぶことが出来ます。そして子どもも自由に遊ぶことが出来るゲームの中の世界が大好きです。ゲームのことばかり考えている子も結構います。そして子ども達はゲームの世界の中で様々な体験をすることで、言葉や、論理や、知識や、常識を学び、仲間を作っています。でも、ゲームの中で学ぶことが出来るのは、ゲームの中でしか通用しないことばかりです。でも、ゲームの中での体験しかない子どもは、そのことを知りません。釣りが大好きな友人がある時岸壁で釣りをしていたら、隣にいた小学生が「おかしいな、昨日はあんなにつれたのに」とブツブツ言っていたので、「昨日も釣りに来たのかい?」と聞いたら、「ゲームの中での釣りの話だったので驚いた」と言っていました。造形活動の場で子ども達と話していても、話が通じません。昔の子ども達に比べて、明らかに、論理的に考える能力、構造を考える能力、じっくり観察する能力、相手の言葉を理解する能力が低下しているのです。イスを作りたいという子に、材料の木を渡すと「何で切るの?」と聞いてきます。このように聞いてくる子は普通です。「自分で考えな」と放っておくとハサミやカッターで切ろうとしたりします。昨日もそういう子がいました。幼稚園児ではないですからね。小学校三年生です。でもそれでは切れないので「先生、切れない-」と言ってきます。それで、1.ハサミで切る2.超能力で切る3.ノコギリで切る4.魔法で切るというような選択肢を作って選ばせたりします。そして、このような選択肢があれば、ほとんどの子が「3」のノコギリを選ぶことができます。だから「ノコギリ」のことは知っているのです。でも、何もない状態の中で自分の頭で考えることが出来ないのです。自分の頭の中で「問い」を立てることが出来ないのです。次に聞いてくるのは「どこで切るの?」ということです。それで見本を見せるのですが、イスとして出来上がっている見本と、目の前にある材料の木の関係が理解出来ないのです。もっともこれはお母さん達も同じかも知れません。レンチンばかりしているお母さんは、八百屋さんに行って野菜を見ても、お料理をイメージ出来ないのではないでしょうか。それと最近の子ども達は「言葉」を知りません。もう少し正確に言うと、「言葉」は知っているのですが、その「言葉の意味」を知らないのです。例えば、「高さ」という言葉を知っている子に実際の箱を見せて「この箱の高さを計ってごらん」と言っても、どこを計ったらいいのかが分からないのです。「真ん中」という言葉を知っている子に棒を渡して「この棒の真ん中で切って」と言っても、どこが真ん中なのかが分からないのです。「言葉」と「現実の世界」がつながっていないからです。そのような状態の子に「命の大切さ」を教えても無駄です。「命と触れあう体験」が乏しい子ども達に「命を大切にしよう」と教えても、「命を大切にしよう」という言葉を覚えるだけです。「言葉」と「現実の世界」がつながっていないのはゲームの中では当たり前ですが、学校の授業でも「知識としての言葉」は教えても、実際にその言葉を体験させるということはしていません。最近は、私にSDGsについて説明してくれる子どももいますが、学校で教えられたとおりに言っているだけです。言っていることは立派なのですが、自分自身の体験とつながっていないので中身は空っぽです。「自分らしさを大切にしなさい」ということは教えても、子どもが「自分らしさ」を発揮すると「みんなと同じようにしなさい」と指導されます。「優しくしなさい」ということは教えても「優しいってどういうこと」という体験を与えてもらうことはありません。「差別は良くない」と言っている先生が平気で子ども達を差別しています。だから、みんな言葉では知っているのですが、その言葉の中身を知らないのです。
2024.03.07
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人間はあらゆる動物の中で唯一、「考えること」を楽しむことが出来る動物です。単純に考えるだけの動物なら、犬や猿など他にもいます。でも、彼らは考えることを楽しんでいるわけではありません。必要に迫られて考えているだけです。人間の中にも「考えることを楽しむことが出来る人間」と、「必要に迫られてしか考えない人間」がいます。前者のタイプの人は、自らの力で「問題」や「課題」を発見することが出来きます。ですから、自分で自分を教育することが出来ます。でも、後者のタイプの人は、与えられた問題を解くことしか出来ません。ですから、誰かに使われる「道具」としてしか生きていくことが出来ません。考えることを楽しむことが出来る人は道を歩いていても、新聞を読んでいても、いつでも何かを発見しています。なぜならそのような人にとって「考えること」は「発見すること」だからです。「考えることを楽しむこと」と「発見を楽しむこと」とは同じなんです。それは子どもを見ているとよく分かります。お母さんに「なぜ?」「どうして?」といつも聞いてくるような子はいつも何かを発見しているのです。逆に、何も発見できない子は「なぜ?」「どうして?」などと聞きはしないものです。そして、そういう子が増えてきています。「どうして雲は動いているの」「どうしてリンゴは落ちてくるの」「どうしてお日様は沈んじゃうの」「どうして雪は白いの」と聞いてくる子は「雲が動いていること」「リンゴが落ちてくること」「お日様が沈むこと」「雪が白いこと」を発見したのです。それでその理由を知りたくなったのです。そんなこと聞いてこない子も、そういうことは知っているでしょう。でも、「知っていること」と「発見すること」は全く違うことです。知っているだけの子はただ「現象」を知っているだけです。でも、発見する子はその現象の背景に何かの働きを感じることができます。だから「どうして?」「なんで?」と聞きたくなるのです。その背景を感じる働きが「Sense of Wonder」と呼ばれる感覚です。そして、その「背景」をたどることがそのまま「考える」ということになります。子どもの場合、それは「物語」という形になります。ですから、いっぱい発見できる子は考えることを楽しむことが出来ます。そして自分が発見した「物語」をいっぱい語ります。でも、発見できない子は考えることを楽しむことが出来ません。そして、知識についてだけ語ります。子どもがそのようなことを聞いてきた時、「そんなの当たり前でしょ」とか、「バカなこと聞くんじゃありません」とか、単に「客観的な知識」を与えてしまうと子どもはもう「なぜ?」「どうして?」と聞かなくなります。そうして、発見することをやめてしまいます。それと同時に考えることも楽しくなくなります。考えても「知識」は得られないからです。だから、大人が喜ぶような知識をいっぱい持っている子ほど自分の頭では考えないものです。ちなみに、自己肯定感が高い人ほど自分の頭で考えることを楽しんでいます。考えることを楽しむことが出来るということは、自分を肯定することに他ならないのです。ですから、単に自分にOKを出すだけでは自己肯定感は高くなりません。自己否定をやめることとと、自己肯定感を高くすることは同じではないのです。自己否定をやめるだけでなく、能動的に生きることが出来るようにならないと自己肯定感は高くなりません。勘違いしないでくださいね。自己肯定感が高いから能動的なのではなく、能動的に生きているから自己肯定感が高いのです。自分の意志で自分の自己肯定感を高くすることはできませんが、能動的に生きることなら自分の意志で実現することが出来ます。願っているだけ、待っているだけでは決して自己肯定感は高くなりません。そして、自分の子どもを自己肯定感の高い人間に育てたいのなら、その「能動的意志」を尊重してあげることです。子どもの「なぜ?」「どうして?」という質問は、子どもが自らの思考力で能動的に考えようとする意志の現れなんです。その意志に寄り添って上げる時に、子どもは考えることを楽しむ能力を育てることが出来るようになります。そして、自己肯定感も育っていきます。でも今の学校は、子どもたちに「考える楽しさを教える場」ではなく、逆に自分で考える無意味さを教える場になっています。また、校長は先生達にも、指示命令に従うだけで自分の頭で考えさせないようにしています。教育委員会はそれを校長に対してもやっています。そして教育委員会へは・・・・。こんなやり方をしていたら「考えることを楽しむ子」は育ちません。また、「自分の頭で考える楽しさ」を知っている子は、学校に行きたくなくなります。このような教育では知識はいっぱい知っていても、その知識の使い方を知らない子ばかりが増えていきます。その結果、自己肯定感の低い人や、依存心が強く指示や命令がないと動けない人が増えます。知識の量を競う競争で勝ち抜いてきた人たちが社会を支配するようになります。そして、そういう人たちは自由を嫌います。
2024.03.06
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昨日からの続きです。幼い子ども達は「好奇心の塊」です。だから、色々とやってみたり、しつこく「なんで?」「どうして?」と聞いてきます。でも多くの場合、「子ども達の好奇心に基づく行動」は、大人達には単なる「イタズラ」にしか見えません。それで父さんのパソコンを壊してしまった子もいます。火事を起こしそうになった子もいます。実は、それは私です。私が子どもの頃、仏壇に大きく焦げたところがあって、よく母親から「これはヒデオが仏壇の火でイタズラしていて燃やしちゃった跡だよ」と言われました。そんなこと言われても記憶にはありませんでしたが、色々とやってしまったようです。ワナを作ってスズメを捕まえていたこともあります。ネズミを捕まえるのも面白いですよ。落とし穴も色々工夫しました。コンロの火で釘を焼いてトンカチで叩いて整形し、砥石で研いで刃物を作っていたこともあります。中学生の頃は黒色火薬を作っていました。別に国家転覆を謀ってテロを起こすような大それたことを考えたわけではなく、純粋に好奇心からです。出来た火薬でなにをやったのかというと、アリの行列の上に黒色火薬を撒いて、火をつけて遊んでいただけです。どうやって蟻地獄から幼虫を引き出せるのかと色々とやったこともあります。本当に、蟻地獄に落ちたアリは抜け出せないのかと、アリを捕まえては蟻地獄に落として遊んでいたこともあります。完全に「危ない少年」ですよね。あとなぜかピンホールカメラにはまってよく作っていました。あの幻灯のようなぼやけた映像になぜか心が惹かれたのです。星を見るのも好きでした。天体望遠鏡を買ってもらいよく星や、向かいの山を見ていました。うちは鎌倉の海に向かって左側の、ちょっと高台になった山の麓にあったので、富士山側の山がよく見えたのです。天体望遠鏡はすごいですよ、鎌倉の端から端を見ているのですが、小鳥まで見えてしまうのですから。土星の輪を見た時は、図鑑で見たのと同じものが見えたので感動しました。刃物を研ぐのも好きで、研いでは新聞紙をスパすぱっとやって遊んでいました。でも、母親は「ヒデオが研ぐと切れすぎて怖い」と言われました。いやー、好奇心ほど面白いものはありません。それに比べたらゲームなんか退屈です。でも、大人達は子どもの好奇心に満ちた行動を嫌います。また、子どもがあれこれやってみる前に知識を与えてしまいます。そしてゲームやyoutubeを与えます。すると子どもの好奇心はどんどん萎えていきます。youtubeで色々と見るのはいいですが、好奇心を広げるためには、見たらやってみる必要があるのです。でも今の子ども達には、その「やってみる」という環境が与えられていないのです。ゲームの中で物や村を作ったりすることは出来ますが、それは好奇心を広げる助けにはならないと思います。話がゲーム内だけで完結してしまっているからです。30才の頃に、バックパッカーとして、リュック一つで世界を歩く旅に出たのも、「世界をこの目で見てみたい」という好奇心からです。それは今でも同じです。今でも、世界中を歩いて、世界中を見て回りたいです、ただ、色々な制約があってなかなか思い通りにはなりませんけど。
2024.03.05
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「子どもは天才だ」と言われることがあります。常識に凝り固まった大人には想像できないようなことを感じ、想像できないことを言い、想像できないことをやるからなのでしょう。その幼い子ども達の「天才」を支えているのは、その「強い好奇心」のおかげです。「強い好奇心」があるから一生懸命に考えます。「強い好奇心」があるから一生懸命に感じようとします。「強い好奇心」があるから、大人に禁止されても色々なことをやってしまいます。だから子ども達は、大人から教えてもらわなくても色々な発見をし、素敵な創造をすることが出来るのです。そして、昔も今も、幼い子ども達は「好奇心」に満ちています。その好奇心を失うことなく育てていくことが出来れば、天才とまでは行かなくても、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動できる素敵な大人にはなることが出来るのでしょう。でも、実際にはほとんどの子が成長と共にその好奇心を失って行きます。そして、好奇心が萎えれば、それと同時に天才性も消え、自分の感覚で感じなくなり、自分の頭で考えなくなり、自分の意志で行動しなくなります。それが、「子どもは天才だ」と言われながら、ほとんどの子が成長と共に「普通の大人」になってしまう理由でもあります。その「天才から凡人へ」という構図は昔からありましたが、でも最近の子ども達は、昔の子ども達よりも、かなり早い段階で好奇心を失ってしまっているような気がするのです。そういう子ども達は、まるで「小さな大人」のように感じ、考え、行動します。水たまりに入って遊んでいる子やハダシで遊んでいる子を見ると注意したりもします。そんな風に好奇心を失ってしまった状態の子に絵の具や粘土を与えても、まず、こちらの指示を仰ぎます。「何作ったらいいの?」などと聞いてきたりします。「作り方を教えて」とも聞いてきます。だから、「自分が作りたいものを作りたいように作っていいんだよ」と言うのですが、好奇心が萎えてしまっている子は、そういうことを言われると、動けなくなってしまうのです。教室を始めた30年くらい前は、そういう風に答えると「やったー」と自由に考え、自由に作り始める子も結構いたのですが、最近はあまりそういう子とは出会いません。どうして、好奇心が萎えてしまっている子ども達が増えて来たのかというと、最近の子ども達は、日常的に「自分の感覚で感じる必要や機会」や、「自分の頭で考える必要や機会」や、「自分の意志で行動する自由」を奪われてしまっているからなのでしょう。「好きにやってもいいんだよ」と自由を与えるだけでは、子どもは自由に感じ、考え、行動するようにはならないのです。子どもの「自由に感じ、考え、行動する能力」を育てないのなら、子どもから「好奇心」を奪ってはいけないのです。子どもを「好奇心が萎えてしまうような環境」の中に閉じ込めてはいけないのです。大人によって管理されている人工的な環境の中に閉じ込められ、考える自由、感じる自由、行動する自由を奪われていたら、好奇心が萎えてしまうのは当然の結果なんです。youtubeで色々なものを見ても、それを自分でもやってみることが出来る自由な環境がなければその好奇心はそのまま消えて行くのです。そして、子どもらしさを失った「小さな大人」が増えていきます。
2024.03.04
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(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)************昨日は、老子の『授人以魚 不如授人以漁』という言葉をご紹介しました。これは 「飢えている人がいるときに、魚を与えるか、魚の釣り方を教えるか。」 という問いに対して、「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣り方を教えれば一生食べていける」という考え方です。同じように、私は、子どもが将来的に「自立して自由に生きていくために必要なこと」は、知識や学歴を与えることではなく、「学ぶ楽しさ」や「考える楽しさ」を伝えてあげることだと思っています。「釣り方」を学べば、「魚」を与えてもらわなくても自分の力で手に入れることが出来るようになります。それと同じように、「学ぶ楽しさ」や「考える楽しさ」を知った子は、もし、必要と感じたのなら、自分の力で知識や学歴を手に入れることが出来るのです。でも、「学ぶ楽しさ」や「考える楽しさ」を感じることが出来ないまま知識や学歴を与えてもらった子は、「成長する意欲」を失ってしまうため、心とからだの成長がストップしてしまうのです。そのような子は知識や学歴に身を隠した「張り子の虎」、「オオカミの毛皮をまとったヒツジ」と同じような状態です。どんなに高い学歴を持っていても、どんなにいっぱい知識を持っていても、それだけでは現場で役に立たないのです。「生きていく」ということは、「毎日新しい状況と出会っていく」ということでもあります。そんな時、学歴や、暗記しただけの知識はなんの役にも立たないのです。相手より優位に立とうとして、それをひけらかせばひけらかすほど、人から馬鹿にされるだけです。もちろん、子育ての現場でも役にたちません。「学ぶ楽しさ」や「考える楽しさ」を知っている人は、「子育てのやり方」を「毎日の子どもとの関わり合い」を通して、目の前の子どもから直接学ぶことが出来ます。でも、いっぱい知識を持っていても、どんなに高い学歴を持っていても、「学ぶ楽しさ」や「考える楽しさ」を知らない人は、子どもを知識で評価し、知識通りに育てようとしてしてしまいます。でも、子どもは子育て書に書いてあるとおりになど育ちません。山のように子育て書を読んで、山のような知識を詰め込んでも、実際の子育てではなんの役にも立たないのです。時々、そういう状態のお母さんから相談を受けます。でも、何を言っても頭では知っているので、「それは知っているんです」という返事ばかりが返ってくるのです。知ってはいても出来ていないから、それを指摘しているのですが、「知っていること」と「実際に出来る事」の違いが分からないのです。時々、子どもでもこういう状態の子がいます。ノコギリの使い方などを教えようとすると、「ぼく、知っているよ」と言うのです。それで、「やったことがあるの?」と聞くと、「youtubeで見たから」などと答えます。そのように「実際に出会う体験」よりも先に「知識」だけを得てしまった子ほど、実際にやってみて思い通りにならないとすぐに放り投げてしまいます。でも、「子育て」は、いくら思い通りにならなくても放り投げる事が出来ません。だから苦しくなってしまうのです。どうか、知識を与えるより先に、実際の体験を通して「学ぶ楽しさ」や「考える楽しさ」を伝えてあげて下さい。それが「幸せな子育て」にもつながってくるのです。
2024.03.03
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中国春秋時代における哲学者であった「老子」という人は、『授人以魚 不如授人以漁』ということを言ったそうです。これは 「飢えている人がいるときに、魚を与えるか、魚の釣り方を教えるか。」 という問いに対して、「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣り方を教えれば一生食べていける」という考え方です。有名な言葉なのですでにご存じの人も多いと思います。確かに〝もっとも〟な意見です。私も基本的にはこの意見に賛成です。でも、この考え方にも問題があります。それは、今飢えて死にそうな人に「釣り方」を教えても、それを学ぶことも、実行することも困難なのではないか、ということです。そもそも、近くに川や海がないかも知れません。私だったら、飢えて死にそうな人がいたら、先ず魚を与えます。そして落ち着かせます。そして、「もっと欲しい」と言われたら釣り方を教えます。その場合も、ただ釣り方を教えるのではありません。「じゃあ、これから釣りに行くから付いておいで」と、魚がいるところに連れて行き、自分が釣っているところを見せ、色々と手伝わせます。最初は教えるのではなく手伝わせるのです。教えるのは質問してきてからです。なんにも質問をしてこない人に教えても無駄です。これはコマの回し方でも、勉強の仕方でも同じです。そんな時、「釣り方は自由だよ、好きなように釣ればいいんだよ」と言っても、上手に釣れるようにはならないでしょう。最初は「基本の型」や「基本の原理」を教えます。自由にやらせるのはその後です。工作でも、自由に色々なものを作ることが出来るようになるのは、ハサミや、トンカチや、ノコギリの使い方を学んでからですよね。もちろん「アイデア」も必要です。「自由って何ですか」と聞くと「束縛がない状態」と答える人が多いですが、人は束縛がないだけでは自由になることが出来ないのです。皆さんは、「一ヶ月間、家事も仕事もしなくていいです。スマホも手放して自由に過ごして下さい。」と言われたら自由に過ごせますか。ちなみにスマホを持っていたら自由になることは出来ませんからね。だから、子どもの自立を支えるためには「自立が出来ている大人との関わり合い」が必要になるのです。自由に生きて欲しいのなら、お母さん自身が自由に生きて見せるしかないのです。ただし、この「自由に生きる」とは「好き勝手に生きる」ということではありませんからね。好き勝手に生きているだけでは、結局、行き詰まってしまって不自由になってしまうのです。ただ、子どもを集めて自由にさせているだけでは、「自由に生きることが出来る人」には育たないのです。自分の気分次第で好き勝手に釣りをしても、魚は釣れません。魚はどういう所にいて、どういう習性を持っているということを学ぶ必要もあります。そして初心者はそれを熟練した人から学ぶしかないのです。「自由」は「学ぶ楽しさ」を知った人にしかやって来ないのです。
2024.03.02
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(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)************人間は「自己家畜化する動物」だと言われています。自然界に生きている全ての生き物たちは、自分が生活している環境に適応する形で進化してきました。その適応が出来ない生き物は滅びてしまいました。人間もまた例外ではありませんでした。当然のことながらその環境は自然が創り出しています。でも人間はその「自然が創り出した環境」の中に、直接「自然の影響が及ばない人工的な環境」を創り出しました。だから真夏の暑い日でもエアコンが効いた涼しい家の中で過ごすことが出来るのです。そして人間は、たった数世代のうちに「自然が創り出した環境」ではなく、毎日生活している場としての「人工的な環境」に適応し始めました。そういう事が起きるまでは、自然が「進化の方向」を決めていたのですが、今度は人間が創り出した人工的な環境が、人間の「進化の方向」を決めるようになったのです。それが「自己家畜化」ということです。そして、人間が創り出す環境はますます自然から遠ざかり始めています。人間は進化すればするほど自己家畜化が進み、自然から遠ざかっていくように運命づけられた生き物なんです。そして、その自己家畜化の結果、「生の自然」に違和感を感じる人が増えて来ました。人工的に加工され管理された「鑑賞するだけの自然」は好きでも、虫や菌やウィルスがいっぱいいて乱雑な状態の自然に対しては恐怖を感じる人もいます。キャンプブームの時に、キャンプ場の管理人に「虫がいるからなんとかしてくれと文句を言ってきた人がいた」という笑い話のような話もネットの記事で読んだことがあります。実際、教室の子ども達も小さな虫がいただけで大騒ぎします。そして「ころして、ころして」と言い立てます。そういう子に、「きみんちにクモはいないの、蚊はいないの」と聞くと、「いない」と答えます。うちは、クモも蚊も珍しくありません。それらを狙うヤモリも時々出てきます。夏になってセミ捕りをしてもセミに触れない子もいっぱいいます。魚釣りに連れて行っても、エサのゴカイやイソメに触れません。魚が釣れても、魚に触れません。当然、針を外せません。磯にいるフナムシに大騒ぎをします。手がちょっと汚れただけで気にします。ゲームの中での釣りではそういう状況はありませんからね。ただしこれは7才以降の子の場合です。7才前の子ども達の感覚や心やからだは、いまだに自然とつながったままだからです。それはつまり、自己家畜化による心や、からだや、感覚の変化が、まだDNAの変化にまでは届いていないということです。それはつまり、命の本質、心の本質、からだの本質は未だに自然とつながったままだということでもあります。だから現代人でも、赤ちゃんが産まれてくる場に立ち会えば感動し、夕焼けに見とれることがあるのです。自然と触れあったり、家族や大好きな人といれば安心しますが、物や機械だけに囲まれて生活していると孤独を感じ、苦しくなります。でもこれも、そう感じない人たちも増えて来ています。妊娠や出産を「気持ちが悪い」と感じる人もいます。実際、妊娠してお腹が大きくなっている奥さんを見て「気持ちが悪い」と言った旦那さんの話を聞いたことがあります。その旦那さんとは別れたそうですが。肌を触れあったり、セックスに嫌悪感を感じる人までいます。そういう人は、赤ちゃんも工場みたいな所で作ってもらえたら喜ぶのでしょう。出産も痛くなく、簡単に済ませたいと思っている人が増えて来ています。ヨダレだらけの赤ちゃん、何にでも触れ、何でもかんでも口に入れてしまう赤ちゃん、すぐに泣き、聞き分けが悪く、自分勝手で、野生動物のような赤ちゃんに嫌悪感を感じる人も増えて来ました。そういう人は、ちまたに溢れている「子育てマニュアル」に従って「よい子」を育てようとします。でも、マニュアル通りに子育てをしても、子どもはマニュアル通りには育ってくれません。赤ちゃんは「自然そのもの」であって、人間の思い通りになる「人工物」ではないからです。そこで必要になるのは「自然との関わり方」なんですが、でも人工的な環境によって自己家畜化されてしまった現代人には、その方法が分からないし、頭では分かっても、感覚の育ちが伴っていない人には使えないのです。だから、子育てが辛く苦しくなってしまうのです。
2024.03.01
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子ども達は、自然の中に生まれ、自然の中で育つ準備をして生まれてきます。生命誕生以来ズーッとそうだったからです。いくら社会が変わったからといって、ほんの数十年や数百年の変化に35億年かかって出来上がってきた人間の遺伝子が対応できるわけがないのです。その状態は7才頃まで続くのですが、この時期の子ども達の意識や、感覚や、心や、からだははまだ、人間界ではなく、自然界に属しています。そのため、まだ「あるがまま」の世界の住人なので、大人が作り上げた人工的なルールを理解することが出来ません。「早くしなさい」も、「ゴメンナサイ」も、「きれいにしなさい」も、食事の時にはちゃんと座って食事をするということも、約束を守るということも、時計も地図もお金も分かりません。どんなに易しく説明しても理解することが出来ません。なぜなら、それらは体験できないことばかりだからです。そして、この時期の子ども達は「客観的論理」や「知識」によってではなく、「模倣」によって学び、「体験」によって考えています。逆に言えば、模倣する対象がいなければ、「人間性」というものを学ぶことが出来ないため非常に動物的な状態になり、体験がなければ論理的に考えることが出来なくなるということです。ただし、その思考は大人の思考とは違い客観性はありません。でも、それは成長の過程で客観的思考の基礎になるものです。 幼い子ども達は、熱いヤカンに触ってやけどをすると、熱くないヤカンも触ろうとはしなくなります。「ヤカン=触ると熱い」という論理回路が出来上がるからです。そんな時、「熱くないから大丈夫だよ」と言っても理解出来ません。そんな時は、冷たいヤカンに触らせてみるしかないのです。そうやって子どもは「論理」を体験していくのです。子どもが危ないことをしている時、大人は「危ないからやめなさい」といいますが、実際に痛い体験をしたことのない子は、大人がどんなに説明しても、それが危ないことだということを理解することが出来ません。また逆に、だから「サンタクロース」のような存在を素直に信じるのです。クリスマスの朝、プレゼントが置いてあれば、子どもにとってはそれが「サンタクロースの存在証明」なのです。子どもは「物理的に考えておかしい」などとは決して考えないのです。だからこそ、7才までの子どもにとっては「どういう体験をするのか」ということが非常に重要になるのです。その、子どもの育ちに必要な「模倣」と「体験」という二つの学びのうち、「模倣による学び」の方は、室内や人工的な施設でも可能なのですが、「体験による学び」の方は室内や人工的な施設では非常に困難です。なぜなら、人工的な環境は大人の発想によって作られているため、子ども目線に立った多様性も、危険性も、驚きも、不思議もないからです。さらに決定的なのは、「子どもの生命」に響かないのです。だから、子どもの感性や、心や、からだが活性化しないのです。そのような状態では、子どもはただ受け身的に「楽しさ」を求めるばかりで、能動的に遊びを工夫したり、探索行動をしたりしないのです。それどころか、幼い子ども達を室内に入れたままにしておくと、おもちゃを投げる、走り回る、突き飛ばす、奪い合う、噛みつくなど「あるがまま」に行動します。そのような状態では、子どもの成長を支えるような「体験による学び」を得るのは困難です。でも、面白いことにそのような子ども達を自然の中に連れ出すと、急にトラブルが激減するのです。そして、生き生きとしてきます。さらには遊びを工夫し始めたり、助け合ったりまでします。なぜなら、自然の中こそが、7才前の、まだ自然との結びつきが強い時期の「子ども本来の居場所」だからです。7才前の子ども達は、人工的な環境の中にいると受け身的になり、自然の中にいると生命の働きが活性化して能動的になるのです。
2024.02.29
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(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)************全ての生き物は「自然のルール」に従って生きています。生き物だけではありません。土や、水や、風や、火もまた「自然のルール」に従っています。この宇宙には「自然のルール」に従っていないものは存在していないのです。ただ唯一、人間の頭の中だけは「自然のルール」が通用しません。物理法則も通用しません。そして人間は、その「頭の中の世界」を現実の世界の中にも創り出そうとしてきました。そうして、現実の世界の中に「頭の中の世界」を実現するために、自分たちの周囲から「自然」を排除してきました。自然は見るもの、鑑賞するもの、遊ぶもの、資源として利用するものではあっても、ルールとして「従うもの」ではなくなったのです。でも人間が、極端な形でこのような生き方をするようになったのは、人類の歴史から見たら本当につい最近のことです。それを可能にしたのが「科学の力」です。それまでは人間もまた「自然のルール」に従って、自然と共に生きてきたのです。その「科学の力」は、物質世界における「自然のルール」を明らかにすることで生まれました。それは「自然のルール」の中のほんの一部に過ぎないのですが、人間はその力の大きさに驚き、希望を感じ、人間の理想と欲望に合わせて自分たちが生きている世界を作り替える道具として使うようになりました。統一された自然のルールに従って維持されている地球というシステムの中で、人間は、自分たちの周りだけ「自然のルール」を無視した世界を創り上げたのです。でも、自然は全体がつながった一つのシステムとして働いていますから、システムの一部に変化が起きれば、必然的にそれはシステム全体の変化として表れます。そして、自然は人間が引き起こした変化に合わせてシステムの再構成をし始めました。今世界中で起きている、極端な自然災害はそのシステムの再構成の表れです。人間にとっては「災害」でも、自然の立場にしてみたら、人間から受けた災害に対する復旧活動をやっているだけなんです。そして、同じようなことが人間の心やからだ、そして社会の中でも起きています。「自然のルール」に支配されないのは「人間の頭の中」だけだからです。人間の心も、からだも自然の一部です。ですから「自然のルール」に従っています。「自分の心」なのに自分では思い通りにならないのは、「自分の心」が本当は自分のものではないからなんです。からだも同じです。そのため「自然のルール」を無視した環境で暮らしていると、人の心やからだも自然環境と同じように狂い始めるのです。自然の中で自然と共に暮らしている人たちは自殺などしないようです。でも、簡単で便利で豊かな世界に生きている人の方が多く心やからだを病んだり、希望を失って自殺をしているのです。不思議じゃありませんか?そして「子ども達」も同じ状況に置かれています。子どもが生まれるのも、子どもが成長するのも自然現象です。ですから、子どもの欲求も、感情も、行動も自然現象です。だから、自然と関わるように「子どもという自然」とも関わればいいのですが、大人達は、科学の力で自然を作り替えてきたように、子どもの成長も思い通りに作り替えようとしています。その結果、「自然現象としての子どもの成長」が歪み始めて来ました。子ども達は思春期頃にその歪みを解消しようとして、様々な問題行動をし始めます。環境破壊に伴う自然災害と同じようなプロセスが子どもの中でも起きてしまうのです。でも、周囲の大人の力が強くて、思春期になっても歪みの解消が出来ないような場合は、自立するのが困難な状態になってしまいます。
2024.02.28
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(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)************生命は自然の一部として発生し、進化してきました。ですから、いかなる生物においても、その「生命」や「肉体」は自然に属しています。 人間も例外ではありません。どんなに自然から隔離された人工的な社会の中で生活していても、受精や、妊娠や、出産や、病気や、死といったものは自然の働きのままに進行します。たとえその受精が試験管の中で起きたとしても、それは試験管の中で自然現象を再現しただけのことです。 そして、死ねば大地に還ります。お墓に入れたとしても、やがて大地に還ります。それは単なる時間の問題に過ぎません。地球時間から見たら、人間時間など瞬間的なものです。 喜怒哀楽や愛情のような感情すら自然現象です。だから人は自分の感情をコントロールすることが困難なのです。 そして、生命や肉体が「自然」に属しているのなら、その生命や肉体の進化や成長や行動もまた「自然」の一部であり、同時に一つの「自然現象」であるはずです。 鳥が空を飛び、ライオンがシマウマを襲い、アリが砂糖を運ぶのも自然現象だということです。実際、私たちが「豊かな自然」という言葉を使う時には、そこに生きている「生き物」たちも、また、その「生き物たちの生活」も全て含めています。というか、生き物たちの活動を取り除いた自然など存在しないのです。 その自然現象としての生き物たちは、内側からの衝動に逆らうことなく、空腹になれば(目の前に食べ物があれば)躊躇なく食べます。排泄したくなれば排泄し、交尾したくなれば交尾し、眠くなれば寝ます。それは、風が吹けば草花が揺れる自然現象と同じです。自然現象としての生命体は、「あるがまま」に生きているのです。 でも、人間だけがその「あるがままの世界」から抜けだし、自分の意志と思考で自由に生きることが出来るようになりました。そして、自然を排除した社会を作り、その中で暮らすようになりました。その社会の中は「人工物」で構築され、「自然のルール」は否定され、「人間のルール」によって支配されています。 それでも、人々の生活が「自然」に依存していた頃は、「自然」という「あるがままの世界」を大切にし、その世界を破壊しないように心がけていました。あるがままの世界が壊れてしまったら、自分たちの衣食住までが失われてしまう可能性があったからです。 でも、機械文明が進み、人々の生活が「自然が与えてくれるもの」に依存しなくなると、人々は自然を大切にしなくなり始めました。一見、大切にしているように見えても、それは「あるがまま」を大切にしているのではなく、人間の趣味や都合に合わせて草木を植え替え、虫を殺し、山を削り、生き物たちからその生存環境を奪っています。 人々が「与えてくれるもの」を待つではなく、自分たちの都合に合わせて強制的に搾取するようになったのです。 実際には、それは「自然」を否定していることなのですが、現代人は自然を「資源」としてしか見なくなりましたから、生態系が失われていても緑がいっぱいなら「自然がいっぱい」などと喜んでいます。そして、「木を切っても植林すればOK」などと平気で言っています。 でも、それは見せかけだけの「不自然な自然」です。その「不自然な自然」は「多様性」と「循環」に支えられていないので、人間の管理がないと簡単に崩壊します。 そして困ったことに、その「あるがまま」の否定は同時に、「自然」に属する自分自身の心や、からだや、成長の「あるがまま」を否定する意識へとつながってしまったのです。そして、妊娠も、出産も、子どもの成長も、病気も、死も、自分の心も、からだも、全て人間の都合に合わせてコントロールしようとし始めました。 自己肯定感が低い人が増えたのも、整形が流行っているのも、子どもを勉強に追い立てているのもその表れだと思います。 その結果、自然な状態の「子どもらしさ」も否定されるようになって来ました。そして子ども達は、人工的な社会の中で人工的な生活をするように強いられ、大人達の期待に合わせて成長をコントロールされています。でもそれは、子どもの家畜化に他なりません。 実際、現代社会では「子どもらしい子」はあまり肯定されていません。でもそのことで、子ども達は自分の成長に必要なものを吸収出来なくなってしまっているのです。
2024.02.27
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講座の詳細が知りたいというお問い合わせが数件ありましたので、今日は、4月からの講座の告知や教室の案内をまとめて書かせて頂きます。「大人だけの勉強会」と「子どもだけ、もしくは親子で参加する活動」の二つに分けてあります。いずれも、お申し込み、お問い合わせは、タイトルに講座名を書いて頂いて「こちら」までお願いします。「大人だけの勉強会」基本的に参加費はみんな2000円/回です。「気質の勉強会」<Zoomでの講座> 四回連続 / 毎月第三金曜日 10:00~12:00(第三金曜日が祭日の場合は、皆さんと相談して日にちをずらすこともあります。) Zoomでは画面越しでも出来るような簡単なワークはやりますが、どうしても講義の方が多くなってしまいます。当日参加できない人には録画でも配信します。ワークを楽しみたい人、自分の気質を知りたい人は茅ヶ崎での対面講座に参加して下さい。<茅ヶ崎での対面講座> 六回連続 / 土曜日か日曜日かなどの休日 10:00~12:00 茅ヶ崎駅周辺の公共施設を借りてやっているのですが、会場が取れないことも多いので、会場が取れる休日になります。3ヶ月前頃に会場と日程が決まります。ワークをいっぱいやります。自分の気質が知りたい方は是非こちらに参加して下さい。「ゆりかご」(子育てや子どもとの関わり方の勉強会)こちらはZoomだけでの講座になります。六回連続 / 毎月第四金曜日 10:00~12:00○子どもと大人の違い○子どもの年令に合わせた子育て○子どもの気質に合わせた子育て○子どもの育ちを支える子育て○子どもとの遊び方、関わり方「からだの会」 10:00~12:00これは月一回で、大体月曜日に茅ヶ崎でやっています。(Zoomではありません)「からだの会」では、「心とからだのつながり」や、「心のゆるめ方」「からだのゆるめ方」などをからだを動かしながら学んでいます。ヨガや体操のようなものとは異なります。これは連続してズーッとやっています。「子どもだけ、もしくは親子で参加する活動」「土曜アトリエ」毎月第二土曜日 10:00~11:45に茅ヶ崎駅の近くでやっている絵画や造形を専門にした教室です。毎回テーマがあります。詳細は「こちら」をご覧になって下さい。「ポランの広場」毎週火曜日の10:30~12:00に、茅ヶ崎駅近くの公共施設を借りてやっています。親子で一緒に遊びます。(月謝性です)この時間に参加出来るのなら年令は不問です。1歳過ぎくらいから来ている子もいれば、この日だけ幼稚園を休んで来てくれる大きい子もいます。また、時々、「今日は学校に行きたくない」という小学生も来ます。2才前の子はまだ「一緒に遊ぶ」ということは出来ませんが、お母さんの学びや、仲間作りの場として参加して下さる人もいます。大人だけで遊びに来て下さる人もいます。(大人だけの場合は参加費不要です。)詳しいことは「こちら」をご覧になって下さい。「アートポラン」(月一回/休日)元々は「ポランの広場」を卒業した子ども達に、幼稚園や小学校に入っても仲間や大人と遊ぶこと、作ったり表現したりして遊ぶことを継続して欲しくて始めた活動です。ですから、土日などの休日にやっています。内容は様々です。作ったり、描いたり、表現したり、ということだけでなく、磯遊びをしたり、劇遊びをしたり、ハイキングもしました。先日は公園で凧やブーメランを作って飛ばして遊びました。次回は「段ボール」で遊ぶことになっています。参加費は 原則2000円/家族です。お父さんやお母さんも一緒に遊んでもらいます。(染め物など高い材料などを使うような活動の場合には別途材料費を頂くこともあります。)
2024.02.26
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四月以降の茅ヶ崎やZoomでの講座に関する案内は明日書かせて頂きます。***********************お母さん達を見ていると、「自分で自分の首を絞めている」としか思えないことがいっぱいあります。「泣くんじゃない」と怒鳴っているお母さんは、余計に子どもを泣かせています。「約束よ、分かった!」と約束を強要しているお母さんは、必然的に子どもに裏切られます。また、平気で嘘をつく子が育ってしまいます。「何辺言ったら分かるの!」と怒鳴っているお母さんは、子どもの「自分の頭で考えて行動する能力の育ち」を潰しています。一生懸命に子どもの期待に応えようとしている優しい(自分自身の生き方を持っていない)お母さんは、子どもに振り回されます。そして、二人目が生まれた途端に子育てが行き詰まります。「子どもの期待に応える子育て」は、確実に二人以上には対応出来ないからです。それをしようとすると、「お母さんの奪い合い」が起きてケンカばかりするようになります。兄弟の仲も悪くなります。そのことはさらに子育てを辛く苦しいものにします。「勉強しなさい」と子どもを追い立てていると、子どもは勉強が嫌いになります。そして、頭を使わずに暗記だけで勉強しようとするようになるため、中学校に入ってから急に勉強に付いていくのが困難になります。家事や自分のことを優先して、子どもを狭い部屋の中で一人で遊ばせていると、「子どもは人間関係の作り方」が分からなくなります。コミュニケーション能力も育ちません。興味の範囲も狭くなります。それは、学校の成績には影響しないかも知れませんが、子どもが仲間とうまくつながれなくなることで、お母さんを悩ませるような様々な問題の原因になってしまう可能性が高いです。子どもは、お母さんがしょっちゅう言っている「早くしなさい」「ちゃんとしなさい」という言葉の意味が分かりません。思春期前の子どもには「他者の視点に立って考える」という能力がないからです。(大人になってもその能力が育たないままの人が増えていますけど・・・。)そのため、「追い立てられている」事は分かっても、「何を要求されているのか」が分からないのです。それなのに、お母さんの期待に応えられないと叱られます。そのため、お母さんの顔色をうかがうようになります。自分の頭で考えても分からないので、お母さんの顔色を見ることで「お母さんが自分に要求していること」を推測するようになるのです。そして、自分の頭で考えなくなります。このような子育てをしていると、子どもは自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動する能力を育てることが出来なくなるため、いつまでも親に依存するようになります。自立も困難になります。それもまた「苦しみ」として返ってきてしまいます。このようなお母さんに共通しているのは「自分自身の価値観」や「自分自身の生き方」を持っていないということです。だから子どもや周囲に振り回されてしまうのです。子育てでは、お母さん自身がちゃんと「自分の考え」を持ち、「自分の生き方」大切にする所から始めた方がいいのです。子どもは「お母さんの人生の一部」として生まれ、そして、お母さんを模倣する形で成長しているのですから。お母さんが精神的に自立できていないと、子どもも精神的に自立が出来なくなってしまうのです。逆に、お母さんがいつもニコニコしていると、子どももそんなお母さんを模倣して、いつもニコニコするようになります。お母さんが子どもの気持ちを大切にしていると、子どももお母さんの気持ちを大切にするようになります。天国と地獄の違いを言い表した昔話があります。ある人が地獄と天国の見学に行きました。案内役の霊が「あそこが地獄だよ」と指し示した方を見ると、テーブルの上にはごちそうが並んでいます。それで、「これが地獄?」って思ったのですが、近寄ってみるとみんな怒鳴り、怒り、飢え、苦しんでいます。それはみんなが長い箸を持たされているのですが、箸が長すぎて食べ物を自分の口に運ぶことが出来ないからです。それで食べ物はいっぱいあるのにみんなが飢えて苦しんでいるのです。次に、天国に行きました。天国でもやはり同じようにごちそうが並び、みんなが長い箸を持たされています。でも、地獄と違ってみんな満たされ、嬉しそうです。どうしてなのかとよく見ると、地獄ではみんな箸で取ったものを自分の口に運ぼうとしているのに、天国では隣の人や前の人の口に運んでいるのです。そうやってお互いに食べさせ合っているので、長い箸でもみんなお腹いっぱい食べることが出来ているのです。このお話に出てくる天国と地獄には何の違いもありません。状況や状態は全く同じです。ただ、自分のことしか考えない人たちが集まるとそこが「地獄」になり、みんなの事を考える人が集まるとそこが「天国」になるということです。お母さんが「自分のことしか考えない子育て」をしていると、子どもも「自分のことしか考えない人間」に育って行くのです。すると子育ての現場が地獄になります。
2024.02.25
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あと、「手仕事」にも、人の心を癒す働きがあります。だからこそ、社会全体としては簡単・便利を求めてどんどん進んできたのに、それでも不便なままの手仕事を求め、楽しむ人たちがいるのです。この場合の「手仕事」とは、編み物のようなものばかりではありません。お料理、絵を描く、工作、折り紙、手遊びといった「指先や感覚に意識を向けて行う活動全般」のことです。悩みや苦しみは、自分の心と向き合うことで生まれます。そして人は、やることがないとすぐに自分の心と向き合ってしまいます。簡単で便利な機械に囲まれて、意識的に心やからだを使う必要がない生活は「自分の心と向き合う時間」を大量に与えてくれます。だから、こんなにも豊かになったのに、心を病んでしまう人がいっぱいいるのです。そして自分の心と向き合うと、多くの人が、自分の性格や、言ったこと、やったことなどに対してあら探しを始めます。そして、自分を責めたりもします。子どもが期待通りに育っていないと、自分の育て方が間違っているのではないかなどとも考え始めます。簡単に言うと「無い物ねだり」を始めるのです。子どもに対しても「無い物ねだり」をします。だから苦しくなってしまうのです。苦しみは外から来るのではなく、自分で創り出しているのです。でも、感覚などに意識を向けている時には「苦しみ」のことを忘れてしまいます。平地を歩いている時には、意識が感覚に向かっていないので悩むことが出来ます。でも、崖登りをしているような時には、感覚に意識を向けていないと登れないので、悩むことが出来なくなります。嘘だと思ったらやってみて下さい。木登りでも、複雑な編み物でもいいです。からだのワークで以前やったのですが、何か考え事をしてもらって、そこで私がパンチなどの攻撃を仕掛けます。もちろん、ゆっくりです。すろと攻撃を避けるのに必死になって、自分のことを考えることが出来なくなってしまうのです。感覚が暇だから、意識が自分に向かってしまい、自分を責め始めてしまうのです。だから、手仕事のような意識的に感覚を働かせる必要があるような活動をしていると、その間だけ悩みを忘れることが出来るのです。でも、便利な機械が人間から「感覚を働かせる必要」を奪ってしまいました。
2024.02.24
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悩みや苦しみに囚われている時には、意識も、心も、からだも、身動きが取れない状態になってしまっています。というか、意識や、心や、からだが身動きが取れなくなってしまっているから、苦しみから抜け出すことが出来ないのです。昨日書いた、姿勢や呼吸を整え、肯定的で明るいイメージを意識的にイメージするようにするのもその束縛から抜け出すための方法です。別の方法としては、「新しいことを始める」とか「日常とは異なる環境の中に行く」というものもあります。(他にもあります)葛飾北斎は93回も引っ越ししたそうですが、引っ越しもまた、精神的束縛(苦しみ)から抜け出すためには有効です。ただし、実際にそれが北斎の引っ越しの理由であったかどうかは不明ですけど。普通の人はそんな簡単に引っ越すことはできませんけど、部屋の模様替えをするくらいなら出来ますよね。そして、部屋の模様替えをするだけで気分は変わるものです。あと、いつも歩いている道とは異なった道で買い物をしたり、駅まで行ったりするのも有効です。その日のテーマを決めてみるのもいいかも知れません。・今日は雲を観察してみる・今日は道ばたの花を観察してみる・今日は新しい料理に挑戦してみる・新しい習い事を始めてみる(youtubeでもOKです)などなど、なんでもOKです。そのテーマを「遊び」として、お子さんと一緒に遊んでみるのもいいと思います。youtubeには工作関係や遊び関係の動画がいっぱいありますから、お子さんとそれらを見て試してみるのもいいと思います。子どもを叱ることを止めることが出来ないのなら、叱ることを止めようとするのではなく「叱り方」を色々と工夫してみて下さい。あと、この季節、何かの種を買ってきて植えてみるのもいいと思います。野菜の種でも花の種でも何でもOKです。植木鉢を買うのが面倒なら、何かの空き容器でも大丈夫です。牛乳パックでも大丈夫です。お子さんと一緒に楽しんでみて下さい。こんな風に「新しいこと」に挑戦して遊んでいると、「自分」への囚われも薄れ、笑顔も自然に戻ってきますよ。*****************四月からまた新しい講座を始めます。講座は全て月一回です。対面で行うものとしては、「気質の勉強会」と「からだの会」があります。いずれも月一回で、会場は茅ヶ崎駅周辺です。(気質の勉強会は土・日に、からだの会は月曜日にやっています。)「気質の勉強会」は六回連続です。四月から十月までやります。(八月はお休みします)最初の二回は講義が中心ですがその後はワークになります。「からだの会」では、「心とからだのつながり」や、「心のゆるめ方」「からだのゆるめ方」などをからだを動かしながら学んでいます。ヨガや体操のようなものとは異なります。これは連続してズーッとやっています。Zoomでは「気質の勉強会」と、子育てや子どもとの関わり方を学ぶ「ゆりかご」という二つの講座をします。いずれも平日の10:00~12:00です。いずれも参加費は2000円で六回くらいをメドにしています。あと、毎週火曜日に茅ヶ崎でやっている「ポランの広場」という親子で遊ぶ会と、毎月第二土曜日にやっている「土曜アトリエ」のメンバーも募集しています。お問い合わせは「こちら」までお願いします。
2024.02.23
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昨日は、最大の問題は、お母さんがニコニコしているためにはお母さんの安心が必要だと言うことです。そのためには、本人の自覚だけでなく、周囲の手助けや、仲間とのつながりが必要になります。でもそれは待っているだけでは与えられません。と書きましたが、自分一人でも出来ないことはありません。それは、姿勢と呼吸を整え、意識的に、自分の心とからだが緩むようなイメージを持つようにすることです。苦しみや悲しみは「心の問題」であると同時に、「からだの問題」でもあるからです。そして、自分の心といくら向き合っても、自分で自分の心を変えることは出来ませんが、からだの方なら意識して向き合うことである程度は変えることが可能です。イメージも意識の持ちようである程度は自由になります。簡単に言ってしまえば、からだが緩めば心も緩むのです。逆に言うと、苦しみや悲しみに囚われて身動きが取れなくなってしまっている人は、苦しみや悲しみを固定するような姿勢や呼吸をしていて、からだが固まるようなことばかりをイメージしているということです。苦しみや悲しみを固定するような姿勢とは、胸や股関節を閉じ、脇を締め、下ばかり、近くばかりを見ているような状態です。肩や背中も固まっています。そのため、からだの柔軟性もありません。からだが固まっているので、必然的に呼吸も浅いです。呼吸が浅ければ頭もボーッとしてしまいます。そしてそういう人は笑顔が苦手です。そのような状態の人は、失敗することや不幸な未来のことばかりイメージしています。また、意識が自分の内側ばかりに向いてしまっているので、周囲のことに気が向かなくなってしまっています。人目は気にしているのですが、ちゃんと相手のことを見ようとはしていないのです。そのため、子どもが悲しそうな顔をしていても気付きません。季節の変化や、夕焼けの美しさや夜空の星の美しさにも気付かない可能性が高いです。からだを緩めることも苦手です。だから、心も緩まないのです。身に覚えはありませんか。でも、子どもの頃から緊張でからだが固まっている人は、それが日常の状態なので、自分のからだが固まっていることに気付きません。ただし、「緩んでいる」ということは、ストレッチ的な「固い」とか「柔らかい」ということとは違います。ストレッチが得意でもからだが固い人はいます。逆に、ストレッチは得意でなくても緩んでいる人もいます。また、子どもの頃から姿勢が悪かった人は、自分の姿勢が悪いことに気付きません。指摘されても自覚できないのですから治せません。(「知っている」ということと「自覚できる」ということは異なります。)私は武術を学んでいるのですが、姿勢が悪くてからだが緩んでいないと技がかからないのですぐにチェック出来ます。でもそれも、指摘されてから分かることが多いです。ちなみに、私が茅ヶ崎でやっている「からだの会」では、心とからだを緩めるようなことをやっています。(月一回、月曜日で、2000円/回です。)ご興味のある方は「こちら」までお問い合わせ下さい。私はいま古武術とシステマ(ロシアの格闘技)を学んでいますが(10年以上)、子どもの頃は柔道、大人になってからは太極拳、野口体操、野口整体、操体法などを学んできました。(野口整体と操体法は一年間の初心者コースだけですけど)
2024.02.22
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私は色々なところで子育てに関する質問を受けますが、その大部分は「しつけ」に関することであり、どこでもその内容は似たり寄ったりです。その内容をざっくりと書いてしまえば、「子どもを上手にコントロールするのにはどうしたらいいのでしょうか」というようなものばかりです。「何回言っても子どもが手を洗わないのですが、どうしたらいいのでしょうか」などというような質問は、しつけを効率的に行うための質問であって、「子どもの育て方」に関する質問ではありません。そして、そのようなお母さんに限って、「子育ての苦しみ」の多くが、「子どもが言うことを聞かない」事から来ていると思い込んでいます。そのようなお母さんに、「ご自身の子育てで大切にしていることは何ですか」とか、「どういう人間に育って欲しいですか」と聞いても、なかなか答えが返ってきません。「自分自身の生き方で大切にしていることはありますか」と聞いても同じです。というかそれが曖昧だから子育てでも「大切にしていること」がないのでしょう。そういう人は、日々、「今目の前にある思い通りにならないことをどうやったら思い通りに出来るか」という事ばかりを考えていて、自分自身の生き方や「子育てを通して今自分がやっていることの意味」を考えていないのでしょう。でもだから、人生でも子育てでも迷子になってしまうのです。多くの人が、「子どもの育て方=子どものしつけ方」だと思い込んでいるのです。だから「子育ての相談」を受けると、実際には「しつけの相談」ばかりになってしまうのです。その区別が付いていない人が多いのです。だから、「子育て」に意味を見いだせず、単なる「苦しいだけの作業」になってしまっているのです。そして、子どもの心や、からだや、成長の状態には意識を向けずに、子どもの行動にばかり意識を向けてしまうのです。「子どもを育てる」ということは「一人の人間を育てる」ということです。これから70年から80年に亘る「子どもの人生」の基礎を育てているということです。お母さん達は、今目の前にいる小さな子どもが、「一生、背負っていかなければならないこと」を、育てているのです。実際、ご自身が子どもの頃に受けた子育ての記憶がいまだに残っていて、子育てに苦しんでいる人が山のようにいます。子どもの頃受けた苦しみが消えずに、そのまま一生苦しみ続ける人もいっぱいいます。それで、親を恨んでいる人もいっぱいいます。でも、それなのにそれと同じようなことを我が子にもしてしまっているのです。でもだからといって、そんなに深刻に考える必要もありません。お母さんがニコニコしていているだけでいいのです。お母さんがニコニコしていると子どもは安心することが出来ます。そして、お母さんとの間に信頼関係を築きやすくなります。さらに、安心に満たされることで成長への意欲も目覚めます。そしてそれは「しつけ」よりも大切なことです。子育てでは、「しつけよりも大切なこと」があるのです。「しつけ」は後からでもなんとかなります。また、お母さんとの間にしっかりとした信頼関係が育てば、お母さんの言葉や想いが伝わりやすくなります。指示や命令ばかりで子育てをしているとその信頼関係が育たないのです。また、親がしつけなくても、本人の自覚が生まれたり、集団生活するようになれば自然と、最低限のことは身につくものです。でも、お母さんが苦しそうな顔をしていると子どもは不安を感じます。また、苦しそうな顔をしているお母さんほど子どもを追い立てます。そして子どもはお母さんの顔色をうかがうようになります。そういう状態では信頼関係は育ちにくいのです。最大の問題は、お母さんがニコニコしているためにはお母さんの安心が必要だと言うことです。そのためには、本人の自覚だけでなく、周囲の手助けや、仲間とのつながりが必要になります。でもそれは待っているだけでは与えられません。現代社会では、自分の意志で行動しない限り、周囲の手助けや、仲間とのつながりを得ることが出来ないのです。是非、仲間作りをして下さい。
2024.02.21
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最初にちょっと告知をさせて頂きます。四月からまた新しい講座を始めます。講座は全て月一回です。対面で行うものとしては、「気質の勉強会」と「からだの会」があります。いずれも月一回で、会場は茅ヶ崎駅周辺です。(気質の勉強会は土・日に、からだの会は月曜日にやっています。)「気質の勉強会」は六回連続です。四月から十月までやります。(八月はお休みします)最初の二回は講義が中心ですがその後はワークになります。「からだの会」では、「心とからだのつながり」や、「心のゆるめ方」「からだのゆるめ方」などをからだを動かしながら学んでいます。ヨガや体操のようなものとは異なります。これは連続してズーッとやっています。Zoomでは「気質の勉強会」と、子育てや子どもとの関わり方を学ぶ「ゆりかご」という二つの講座をします。平日の10:00~11:30です。いずれも参加費は2000円で六回くらいをメドにしています。あと、毎週火曜日に茅ヶ崎でやっている「ポランの広場」という親子で遊ぶ会と、毎月第二土曜日にやっている「土曜アトリエ」のメンバーも募集しています。詳しいことは個別に後日流します。***************************「学び」には「受動的学び」と「能動的学び」の二種類あります。「受動的学び」は適応の原理(慣れ)によって発生します。毎日、日本語で話しかけられていれば、日本語を学ぶ意志がなくても日本語を学んでしまいます。日本で生まれて育っている子は、教えられなくても「日本人らしさ」を学んでしまいます。毎日山道を歩いている子は「山道の歩き方」を学びます。毎日お経を聞いている子は、勝手に「お経」を学んでしまいます。「門前の小僧習わぬ経を読む」ということわざ通りです。毎日コマを回して遊んでいる子を見ている子は、教えてもらわなくても「コマ」を回せるようになります。いつも静かな声で話しかけられている子は、自分も「静かな声」で話しかけることが出来るようになります。毎日叱られている子は、お母さんの言葉をスルーする術を学んでしまいます。「問題行動が多い子」がいると「お母さんが叱らないからだ」と言う人がいますが、多くはその逆です。毎日勉強を押しつけられている子は、ただ暗記するだけの勉強法を学んでしまいます。そして、「勉強しろ」と言われ続けている子ほど勉強が嫌いになります。このような「受動的な学び」は、自分が置かれた環境に適応するためのものですから、何をどう学ぶのかは環境次第です。周囲に、本を読むのが好きな人がいっぱいいる環境の中で育っている子は、強制しなくても自分の意志で本を読むようになる可能性が高いです。周囲に、自然が好きな人がいっぱいいる環境の中で育っている子は、自然と自然が好きになる可能性が高いです。周囲に「楽しく生きている人」がいっぱいいる環境の中で育っている子は、自分も楽しく生きることが出来るようになるでしょう。特に「環境としてのお母さん」の影響は大きいです。それに対して「能動的な学び」を引き出すために必要なのは「興味」や「あこがれ」です。自分の育ちの環境にないものでも、興味やあこがれを感じたものに関しては、自分の意志で学ぼうとし始めるのです。そして、どんなものに「興味」や「あこがれ」を感じるのかということは「気質」も関係しています。多血質の子は「楽しそうなこと」に興味を感じ、自由に生きている人に「あこがれ」を感じる傾向があります。胆汁質の子は、「かっこいいこと」に興味を感じ、強い人に「あこがれ」を感じる傾向があります。憂鬱質の子は、「複雑なこと」に興味を感じ、「何かを追求している人」に「あこがれ」を感じる傾向があります。粘液質の子は、「感覚に働きかけてくるもの」に興味を感じ、のんびりと平和に生きている人にあこがれを感じる傾向があります。ですから、気質に合わせた働きかけをすることで、子どもは自分の意志で学びはじめたり、行動しはじめたりするのです。好みの絵本も違います。<続きます>
2024.02.20
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現代人はあまり「伝承」ということを大切にしません。伝承という方法では時代の変化に付いていくことが出来ないからなのでしょう。そのため、時代を超えて伝承されてきた様々な文化や、技術や、生活様式や、考え方などが急激に消え始めています。実際、テレビなどで見ていると、継承者がいなくて廃業を余儀なくされている分野もいっぱいあるみたいです。そして、現代人が「伝承」の代わりに取り入れたのが「教育」という方法です。「伝承」には「伝承を受けた人」「やって見せてくれる人」との出会いが必要ですが、「教育」という方法では、そのような人がいなくても教科書があれば成り立つのです。見せるにしても、実際に「伝承を受けた人」と出会わせる必要はありません。動画で見せればなんとかなると思っています。そういう点で非常に便利なんです。その「教育」という方法では、コマを回すことが出来ない先生でも、子ども達に「コマの回し方」を教えることは出来ます。イジメをしている先生でも「イジメはダメだよ」ということを教えることは出来ます。算数が嫌いな先生でも算数を教えることが出来ます。そして、時代の変化に合わせてその内容を自在に変えることもできます。実際、戦争中は「鬼畜米英」を教えていた先生達が、終戦と共に手のひらを返したように「アメリカは良い国だ」ということを教えることが出来ました。それが「教育」の便利なところです。ただし、便利だけど中身がないのです。明治維新の時、日本は欧米流の生活や考え方を欧米の人から直接伝承されたのではなく、欧米に行って見聞きし、体験してきた人から教育という方法によって間接的に学びました。だから、「日本的な欧米文化」や「日本的な民主主義」という不思議なものが生まれたのです。日本のものと本家のものとは、一見、形は似ているのですが、中身が全く違うのです。「教育」という方法では中身を伝えようがないからです。学校の授業でどんなにいっぱい道徳教育を教えても子どもの道徳心が育つわけではありません。増えるのは「道徳についての知識」だけです。それが「教育」という方法の限界なんです。子育て書を山のように読んで「あるべきお母さんの姿」を学んでも、実際には「あるべきお母さんの姿についての知識」が増えるだけで、そのようなお母さんになることが出来るわけではありません。本当に人が変わり、人が育つためには「知識の学び」ではなく「人との出会い」が必要になるのです。他の子が竹馬に乗っている所を見たことがない子は、当然のことながら竹馬に興味を持ちません。興味が無いのですから、やらせようとしてもやりません。また、言葉でいっぱい「乗り方」を教えても、乗れるようにはなりません。子どもでも大人でも同じですが、人は見たことがないことには興味を示さないのです。そして興味が無いことをやらせようとしてもうまく行くわけがないのです。これは遊びだけでなくお勉強でも、お手伝いでも同じです。子どもの育ちに必要なのは「知識を教える教育」ではなく、「実際にそれを受け継いだ人との出会い」なんです。その出会いが「伝承」を支えているのです。
2024.02.19
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日本人は日本の国の文化を大切にしていません。日本は島国だったので、他国の文化と接しながら暮らしてきた歴史がないため、自国の文化に対する自覚が生まれなかったからなのでしょう。ちなみに「文化」というものは「学校で教える」というようなことではなく、日常生活の中で、親から子へ、地域の中で大人から子どもへと伝えていくものです。日々の生活とつながっているからこそ「文化」なんです。明治以前の日本人にとって、日本の文化は空気みたいなものだったのです。それが明治維新になって日本の文化とは異なる欧米文化と出会うことで、日本の文化を自覚するようになったのですが、その際、日本の文化を守ろうとするのではなく逆にそれを否定し、こぞって欧米化を目指したのです。国も国民も、文明開化という掛け声と共に、自らの意志で日本の文化や生活スタイルを否定しはじめたのです。学校教育もその手助けをしました。「庶民のもの」としては残ったものもありますが、商人や政治家や軍人といった国を動かしているような人たちは積極的に欧米的な考え方や生活スタイルを取り入れました。その流れの中で、日本の美術品や工芸品や神社仏閣は、価値を失い、廃棄されたり外国に売り飛ばされたりしました。日本の公用語を、日本語ではなく英語にしようという動きまでありました。日本人の価値観や生活スタイルも変わりました。その一方で、それ以前にはなかった「愛国心」という考え方を創り出し国民に強要するようになりました。他国と競争し、戦いに勝つために必要だったからなのでしょう。神社や神道も、明治以前はもっと緩く生活の一部のようなものだったと思うのですが、明治に入ると、天皇の権威とつなげられることで絶対的なものになりました。現代の日本人は、浮世絵や茶道や様々な日本の文化を自慢しますが、でもそれは、日本の文化を知った外国の人が日本の文化の価値を認め褒めたから、その価値観が逆輸入で戻ってきたに過ぎません。これは日本ではよくあるパターンですよね。日本人は、自分たちの感覚や哲学で自分たちの価値を決めることが出来ないのです。常に他人の評価を気にしているのです。現代の日本人は世界の中でも古くから続いている日本の文化を誇りますが、でも、その中身は知りません。茶道という言葉を知っていても、実際に茶道を学んだ人はそれほど多くはないと思います。スポーツとしての柔道や剣道は、古来から日本にあった柔術や剣術とは全く異なるものです。ルールがないスポーツは考えられませんが、柔術や剣術にはルールがないのですから。世界共通のルールで戦う柔道や剣道は日本古来の文化ではないのです。また、スポーツとしての柔道や剣道は勝ち負けを競いますが、柔術や剣術は勝ち負けを競うためのものではありません。それに、本気で勝ち負けを競ったら両者とも大けがするか、どちらかが死んでしまいます。仏像の素晴らしさを語る人は多いですが、信仰している人は少ないです。現代人にとって仏像は美術品であって、信仰の対象ではないのです。その流れは現代も続いていて、「お袋の味」や、地域の祭りや文化はどんどん廃れているか観光イベント化しています。その結果、現代人の精神は根無し草になってしまいました。偉そうなことをいっている私自身も、このような歴史の流れを本で学んだだけで、日本の文化の中身についてよく知っているわけではありません。でも今、そのような「自分たちのルーツにつながるようなもの」をもっと大切にし、子ども達にも伝えていくべきなのではないかと思っています。ただ単に知識として教え、体験としてやらせるのではなく、生活文化として伝えるのです。そうしないと「人と人のつながり」が消えてしまうからです。そしてそれが、次世代の子ども達の心や生活のルーツになっていくのではないかと思います。「お袋の味」を伝えるのもいいと思います。様々な歌や物語も伝えるべきだと思っています。何でもかんでも「簡単便利で新しければいい」「ネットで調べればいい」ってもんじゃないと思うのです。
2024.02.18
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今日は短くさせて頂きます。教育を考える時に一番多いのが「いかにして子どもの能力や可能性を育てるか」「幸せな子どもを育てることが出来るか」「自立した子どもを育てることが出来るか」というような視点です。もちろん、私もこのことには異論がありません。でも、このような考え方には「過去とのつながり」がありません。「個」を育てることばかりが主体になっていて、「個を支えてくれている群れ」を育てるという発想がありません。確かに、そのような教育によって世界のどこに行っても生きることが出来る人間を育てることは可能かも知れません。でも、世界中そういう人間ばかりになってしまったら、古代から受け継がれてきた精神性や、文化や、風俗や、民族という概念は消えてしまうでしょう。民族固有の言葉も消えてしまうでしょう。実際、最近は母国語である日本語よりも、英語の方を熱心に学ばせている人も多いです。世界中で見ても、民族固有の言葉がどんどん消えています。テレビで見たのですが、ほぼ消えかかっているアイヌの言葉や、ヨーロッパの山間で暮らしてきた人の言葉を復活させようと頑張っている人もいます。「言葉の中にこそ自分たちのアイデンティティーがある」と思っているからです。それを、「これからは世界が一つになる時代だからそれでいいんじゃないですか」と肯定する人もいるかも知れませんが、実際には、それは多様性の喪失に過ぎません。そして、多様性を失った世界は崩壊していきます。現代人は、「言葉というものは翻訳可能なものだ」と思っています。でも、受け継がれてきた言葉にはその言葉を受け継いできた人たちの感じ方や、生活の仕方や、考え方や、意識の状態、そして気候風土までが含まれているので、違う風土で暮らし、違う言葉を受け継いできた人には本質的なところで通じないのです。通じるところだけで会話しているから通じている気になってしまっているっだけなのです。「言葉」はその人の存在にとって「血よりも強いアイデンティティー」なんです。日本人の血を受け継いでいても、フランスで育ちフランス語しか学ぶことが出来ないまま育った人の感じ方や、考え方や、感性は、日本人のものではなく、フランス人のものなんです。<続きます>
2024.02.17
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一昔前の子ども達の遊びは、ほぼ全部つながりの中で伝えられ共有されてきたものです。遊びにも「ルーツ」があったのです。親子遊びの場で、色々な地方から出てきた人と一緒に「花いちもんめ」や「だるまさんが転んだ」などの伝承遊びで遊ぶと、みんな覚えている言葉が違うので驚きます。そしてみんな「うちの地方ではこう言っていました」と色々と出てきて面白いです。関東では「だるまさんが転んだ」なのに、関西では「ぼんさんが屁をこいた」と言っていると聞いた時にはビックリしました。それが方言だとは知らないまま言葉を使っている人もいれば、その地方独特のイントネーションで話している人もいます。うちの父方の家は代々浅草で、父も大人になるまで浅草で育ったので「ひ」を発音出来ませんでした。「ひ」と書いてあっても「し」と読んでしまうのです。それが「東京弁」の特徴でもありました。そして私もまた小学生の頃まで「ひ」が言えませんでした。でも、鎌倉に越してきたらみんな「ひ」と「し」を区別していたので、恥ずかしくて必死で直しました。今だったら「フランス人も同じだよ」と言い返せたのですけど・・・。でも多分これは言葉だけの問題ではないかも知れません。確認のしようがないのですが、言葉が染みついていたということは、言葉以外にも、ものの感じ方、考え方にも、江戸っ子らしさが伝わっているのかも知れません。母親は東京で生まれて東京で育ちましたが、母親の母親と父親、つまり私の母方の祖母と祖父は山形の尾花沢から出てきた人でした。つまり、家は東京にあったのですが、家庭の中は山形だったのです。自覚は出来ないのですが、それも私の感じ方や考え方の中には残っているのかも知れません。そのせいかどうか、東北出身者の知り合いが多いです。宮沢賢治に惹かれるのも東北の血が影響しているのかも知れません。そんな風に、人はみんな何らかのルーツを持っているのです。ただし、そのルーツにも色々あります。「血」のルーツだけでなく、思想や精神性のルーツもあります。現代日本人の思想や精神性の中にも、古代から受け継がれてきた思想や精神性がしっかりと残っています。お正月やお宮参りなどのときには、多くの人が神社やお寺にお参りに行くのもその表れでしょう。占い好きも日本人としてのルーツとつながっているようです。そもそも、「言葉を受け継ぐ」ということ自体が、その言葉に含まれている思想や、考え方や、感じ方を受け継ぐということなんです。ですから、どんなに親のことが嫌いでも、その親と自分は似ているのです。というか、似ているから好きになったり嫌いになったりするのです。絵画を学べば、絵画を生み、育て、伝えてきた人たちとつながることになります。そして、絵を描くことを通して、それらの人たちの想いや、感覚や、考え方を受け継ぐことになります。それもまた「今の私」を支えているルーツの一つです。私は子どもの頃から教会に通っていて洗礼も受けたので、キリスト教も私のルーツの一つです。宮沢賢治も私のルーツの一つです。皆さんはどんなルーツとつながっていますか。そういうことを考えてみるのも「自分探し」の手助けになりますよ。
2024.02.16
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「自分らしさを大切にしよう」という言葉はよく聞きますが、ではその「自分らしさ」とは一体なんですか?今の時代「男性らしさ」とか「女性らしさ」という考え方は否定されています。「母親らしさ」「父親らしさ」という考え方も否定されています。年令による「らしさ」も否定されています。生まれ持った容姿、容貌にもこだわりません。実際、流行の洋服を着るように、流行の人の顔に似せてお化粧をしたり整形をしたりする人も多いです。人の移動が激しい現代社会では「出身地」もあいまいです。みんなが同じ標準語を話し、みんなが同じ教育を受け、みんなが同じような生活をして、みんながお金や社会的な成功を求め、みんなが金太郎飴的な生き方をしている現代社会で「自分らしさ」って、一体何なんでしょうか?だからこそ「自分らしさを大切にしよう」ということが言われているのかも知れませんが、「自分」を構成している様々な「らしさ」を否定しておきながら、観念的な「自分らしさ」だけを肯定しようとすることには無理があるのです。「自分らしさ」は、様々な「自分のルーツにつながるようならしさ」を土台にして生まれてきます。過去がなければ今の自分は存在しないのですからそれは当然のことです。皆さんが日本人で、日本語を話しているという時点でそれもまた「自分らしさ」の一部なんです。感じ方も、考え方も、行動パターンも日本人なんですから。その「自分のルーツにつながるようならしさ」を否定している限り、「自分らしさ」を育てようがないのです。「親ガチャ」という言葉がありますが、「こんな親」望んでいなくても、自分を産んで育ててくれた親は間違いなく「自分のルーツ」の一つです。どんなに嫌いな親であっても、自分の感じ方、考え方、行動パターンの中には、確実に親の痕跡が残っているのです。そして、それは消しようがないのです。言葉だって、親が教えてくれた言葉を話しているのです。町中でよく親子で歩いている人を見かけますが、歩き方や姿勢がよく似ています。多分、話し方も似ているのでしょう。その自分のルーツを否定しておいて「自分らしさ」を求めても無理なんです。「親から受け継いだもの」自体が「自分らしさ」の一部なんですから。ただし、嫌いな親を超えて成長することは可能です。でもそのためには先ず、「親から自分が受け継いだもの」を肯定する必要があるのです。そこが出発点です。親を否定しているだけではいつまで経っても「自分らしさ」を育てることができないのです。そのままでは、嫌いな親に似た人間になってしまうでしょう。「自分らしさ」は、親や様々なつながりから受け継いだものを土台にして、自分の力で新しく育てるものなんです。
2024.02.15
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一般的に、「教育」には「個人のため」と「社会のため」という二つの側面があります。戦争中の教育は「社会のため」という側面が重視されました。今でも、国や学校は「社会のため」という要素が強い教育を行っています。だから国が教育内容を決めているのです。でも、親や子どもが求めているのは「個人のため」の教育です。子どもが幸せに生きることが出来るようになるための教育です。社会を軽視しているわけではなく「社会があるから個がある」のではなく「個があるから社会がある」ということなのでしょう。「夢みる小学校」などで描かれているのは「社会に合わせた教育」ではなく、「子ども一人一人に合わせた教育」です。そういう教育では大人の介入は最小限に抑えられています。大人は「教える人」ではなく、「環境ときっかけを与え、子どもの傍にいて見守る人」です。それは農業で野菜などを育てるのと似たような方法です。森の幼稚園などでも「大人は見守るだけ」という姿勢のところが多いような気がします。そして今、そういう教育を求めている人が増えています。「国のため」、「社会のため」という言葉に反発を感じる人も多いです。その言葉でひどい目に遭ってきた記憶が残っているからなのでしょう。でも本来、教育には「個人のため」や「社会のため」だけでなく、もう一つ非常に大きな役割があったのです。ただ、今ではその「もう一つの役割」を大切にしている人も少ないので、「あった」と過去形にしていますが、それは太古の昔からつい最近まで人々が大切にしてきた教育の形です。それは、親から子へ、大人から子どもへと何世代にも亘って受け継がれてきた「言葉や、技術や、精神性や、物語や、歌や、踊りや、料理や、人と人との関わり方や、様々な生活文化を伝えるための教育」です。太古の昔から続いてきたそれらの伝承に支えられて、私たちの「今」があるわけです。またその「伝承」を共有することで、人と人がつながることも出来ていました。「仲間である」ということは「目的を共有している」というだけでなく、「伝承を共有している」ということでもあったのです。そして、この伝承を大切にしてこなかった部族や民族は存在しないと思います。でも、急激な科学技術の進歩によって生活の形は急激に変わってしまいました。生きていくために必要な知識や技術も大きく変わってしまいました。必然的に、「伝承」という形での教育は「無駄なもの」であるだけでなく、「時代遅れで時代の進歩を阻害する有害なもの」として考える人までいます。そして今では、親と子ですらもう話が合いません。孫と祖父母などでは共通の話題をさがすことが困難でしょう。今の日本では、三世代が一緒に歌える歌も、一緒に踊れる踊りも、一緒に楽しめる遊びも、みんなで共有できる物語も消えたのです。それどころか、世代が違うと使っている「言葉」すら違います。昔の人は「温故知新」などと言いましたが、今では一昔前の考え方や、技術や、知識は役に立たなくなってしまっているのです。昔は老人に知恵を求める人も多かったでしょうが、今では老人に「今を生きるための知恵」を求める人は多くないでしょう。今の時代、非効率的な老人には社会的な価値がないのです。老人達もそのことを自覚しているので自虐的になっています。でも、「社会のための教育」という考え方も、「個人のための教育」という考え方も、歴史の流れからは切り離されてしまっています。そのため、人類が迷子になり始めているような気がするのです。その状態から軌道修正をするためには、何世代にも亘って伝承されてきたものの価値を再発見し、現代流にアレンジし、また未来へと残していけるように子ども達に返していく必要を感じるのです。
2024.02.14
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自分の人生に夢や希望を持っている人は自分を「不自由な存在」だとは思いません。たとえ、今は壁にはさまれ身動きが取れなくなってしまっていても、その壁の向こうに夢を見ることが出来る人は、からだは不自由でも、心は不自由ではないのです。その逆に、自分の人生に夢や希望を持てない人は、自分を不自由な存在だと考えます。誰からも束縛されていないのに、お金や能力もあるのに、自分は不自由だと感じるのです。それは、そのような人には“未来”が存在していないからです。先が見えない“閉塞感”が、自分をしばってしまうのです。若い頃に読んだ、フランクルという人の書いた「夜と霧」という本の中にも同じようなことが書いてありました。この本は、彼自身のアウシュビッツ収容所での体験を書いた本です。一日一食、底が見えるようなスープだけで毎日重労働をさせられるのです。そのためガス室に送られなくても、毎日多くの人が死んでいきます。でも、その中でも生き残っていく人と、死んでいく人には違いがあるというのです。簡単に言うと、希望を持てる人は生き延び、希望を捨ててしまった人は倒れていくのです。ある時、「クリスマスに特赦がある」という噂が流れたそうです。それで、みんな“クリスマスまで”と必死になって頑張りました。でも、クリスマス当日、それがデマであったことを知ります。そして、大勢が“絶望”により死んでしまったそうです。実は、人間にとって、自由とは“未来”の中にあるのです。ですから、どんなにお金があっても、能力があっても、また学歴があっても自分の未来を肯定的に思い描けない人の心は“不自由”なんです。現代社会には有り余るぐらいの豊かさと自由があります。直接相手を傷つけない限り、何を言っても、何をやっても許されます。食べるものにも、遊ぶものにも満たされています。それでも若者の自殺は増えています。それは、「自分自身の未来を思い描くことが出来ない閉塞感の中に閉じ込められてしまっている若者」が多いということなんでしょう。だから、マスコミや大人たちが理由を探しても見つからないのです。「どんなにお金があっても、能力があっても、また学歴があっても自分の未来を肯定的に思い描けない人は“不自由なんです。そんな「自分は不自由だ」と訴えてくる人の多くは、自分の今の状態からの逃避ばかり考えています。違う自分になりたい、違う会社に行きたい、違う人生を送りたい、違う人と結婚したかった、などなどです。そして、ゲームの中の仮想空間はその願いを叶えてくれます。でも、ゲームの中で自分を変えることは出来ても、現実の自分は何も変わりません。逃避ばかり考えてはいても、実際に逃避はできないのです。実際に逃避できるだけの実行力がある人は不自由を悩まないのかも知れません。それで、“じゃあ、頑張ってみたら”というと、それにも“でも・・・”と返ってきます。頑張れる人も不自由を悩まないのでしょう。実は、人は「不自由な要因」があるから不自由なのではなく、不自由を否定し受け入れないから不自由に束縛されてしまうのです。実際、どんな人にも不自由はあるものです。不自由のない人などいません。お金がない人、からだが不自由な人、家がない人、家族がいない人などこの社会にはいっぱいいます。でも、その不自由を肯定的に受け入れ、自分の一部として引き受ける事が出来る人は、その不自由に縛られることはないのです。足が重い荷物に縛られて自由に動けないのなら、その荷物を背負ってしまえばいいのです。そうすればゆっくりでも前に進む事が出来るようになります。そして、前に進む事が出来るようになると希望を持つことも出来ます。
2024.02.13
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昨日は、いくら親が子どもに自由を与えても、「子どもがこれから先生きていく社会」は子どもに自由を与えてはくれないのです。だから子どもは、「不自由な社会を自由に生きていくための能力」を育てなければいけないのです。それは「自分自身で自由を創り出す能力」です。と書きました。その「自分自身で自由を創り出す能力」を育てるためには、ただ自由を与えるだけではダメなんです。「自由」と同時に「自由を得るための負荷(不自由)」も必要になるのです。そもそも、人は「受動的に与えられた自由」には自由を感じないものなんです。例えば、子どもは毎日お母さんにご飯を作ってもらっていますが、そのことにありがたみを感じている子は多くないですよね。だから平気で文句を言うのです。それと同じです。自分自身の頑張りによって不自由を乗り越えた後だからこそ、「自由のありがたみ」を実感することが出来るのです。毎日一生懸命に働いているから、休日には自由を感じるのです。最初は木登りが出来なくても、試行錯誤して登れるようになった時には自由を感じます。コマも、最初は回せません。でも、友だちは回しています。だから色々と考えて何回も挑戦します。そして回せるようになった時に自由を感じます。子ども達は「崖登り」が好きです。汚れても、滑っても、転がっても、泣いても、諦めずに登ろうとします。普段ケンカしているような子も助け合ったりします。上手な子は下手の子の手助けをしたりもします。そして登り切った時にはみんなキラキラした素敵な顔をしています。あのキラキラした笑顔は、自分の力で不自由を乗り越えた達成感や自信から生まれているのです。一人っきりで安全な場所に閉じ込められ、簡単で便利な機械と、物質的には不自由がない状態を与えられ、「自由にしていいんだよ」と言われても子どもは自由を感じないのです。それは「檻の中の自由」と同じものです。そのため、すぐに退屈します。本来、自由を実感出来ているのなら退屈などしないはずなんです。意識や、感覚や、頭や、心や、からだが不活性で不自由な状態だから退屈するのです。それで、大人は子どもが退屈しないようにテレビやゲームやスマホを与えます。ゲームの世界の中にはステージをクリアするための様々な負荷があります。その負荷を乗り越えることで子どもは自由になったことを感じます。だから子ども達は夢中になるのです。でもその自由に実体はありません。テレビやyoutubeなどは、子どもを(擬似的に)檻の外に連れ出してくれます。だから不自由である子を忘れることが出来ます。そして、テレビやゲームやスマホの魅力にとりつかれてしまった子は、檻の扉が開いていても、檻自体が消えてしまっても、テレビやゲームやスマホがある所から外に出て行こうとしなくなります。「檻の外の自由」ではなく「テレビやゲームやスマホが与えてくれる自由」を選ぶようになってしまうからです。学校の勉強でも「問題」(問い)がなければ考えようとしません。でも、「問題」があっても、解き方が固定されていたら考えようとしません。解き方に正解があったら考えずに覚えるだけです。良い成績を取るだけなら、自分の頭で考えない方がいいのです。「問題」(問い)があっても、色々な解き方が許されているから、自分の頭で考えようとするのです。日本の学校教育は「正解」を教え、覚えさせることばかりに一生懸命になっていますが、その結果、自分の頭で考えようとしない子ども達が大量生産されています。「自分自身で自由を創り出す能力」を育てるためには、「負荷を伴い、正解を押しつけられない自由な遊び」が必要になるのです。
2024.02.12
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子どもの育ちには「自由」が絶対的に必要です。感覚の自由、思考の自由、想像と創造の自由、そして、行動の自由です。一般的に「自由」というと「行動の自由」(社会的、身体的な自由)だけを指しますが、子どもの育ちに必要になるのは、「様々な感覚を働かせ、色々と考え、色々なことを想像し、そして色々とやってみる」という自由なんです。つまり、「子どもの育ちに必要な自由」とは、「社会的、身体的な自由」といったような「外側の世界との関係における自由」ではなく、「自分自身の内側の世界との関係における自由」なんです。この能力が育っていると、外側に不自由があったとしても、内側の自由を使って乗り越えることが出来るようになるのです。武術などの世界でもこの能力は必要になります。からだを固められても、内側を自由に動かせる人は簡単に抜けることができるのです。タコを固定できないのと同じような感じです。ですから、「好きにやってもいいよ」と、ただ子どもを自由にさせるだけでは子どもは「自由に生きる能力」を育てることが出来なくなってしまうのです。親は「好きにやってもいいよ」と言ってくれますがそんなこと言ってくれるのは親だけです。学校や外の社会ではそれは禁止されます。群れ遊びの場で自分勝手に行動していたら仲間に入れてもらえません。便利な機械は思い通りに動いてくれますが、トンカチやノコギリのようなアナログ的な道具は自由には動いてくれません。からだに自由がない人はトンカチやノコギリも自由に扱えないのです。いくら親が子どもに自由を与えても、「子どもがこれから先生きていく社会」は子どもに自由を与えてはくれないのです。だから子どもは、「不自由な社会を自由に生きていくための能力」を育てなければいけないのです。それは「自分自身で自由を創り出す能力」です。<続きます>
2024.02.11
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私の周りにはこだわりの強いお母さんがいっぱいいます。そのようなお母さんは子育てに関しても、環境に関しても、心やからだに関しても強い興味を持って一生懸命に勉強しています。そのこと自体は素晴らしいことです。でも、その学んだことに対してあまりにも優等生を演じようとする人が多いのです。“テレビは子どもの育ちに害がある”と聞けば、子どもにテレビを見せることに罪悪感を感じ一切見せない人がいます。(でも、ご主人は見たがります。)“牛乳はからだに良くない”と聞けば、牛乳を飲ませることに罪悪感を感じ、一切飲ませない人がいます。無農薬にこだわり、アレルギーではないのに幼稚園の給食を食べさせない人もいます。(一人だけお弁当を持っていくのです。)玄米菜食にこだわり、子どもにも玄米と野菜だけしか食べさせない人もいます。(子どもの肌が浅黒く、非常にやせている子だと聞きました。)輪ゴム鉄砲や刀のような“武器おもちゃ”が良くないと聞けば、それらを一切排除してしまいます。プラスティックのおもちゃが子どもの感性を鈍くすると聞くと、木のおもちゃだけしか子どもに触れさせないようにする人もいます。(でも、ご主人やおじいちゃん、おばあちゃんが買ってきてしまう・・・)7才前に字を学ばせるのが良くないと聞けば、子どもが字に興味を持ってしまったらどうしようと悩んでいる人がいっぱいいます。でも、上に小学生の兄弟がいる子は、間違いなく字に興味を持ってしまいます。それは当然のことです。そんな時、字を否定することが子どもの好奇心を否定することになってしまうような場合もあります。そしてそれは、子どもにとっては自分自身が否定されたのと同じように感じます。そして、結局、自分が理想通りの子育てをしているかどうかばかりが気になってしまい、自分の行動にしか関心がなくなってしまっている人が多いのです。そして、理想通りに子育てが出来ない自分を責め、どのようにしたら理想通りの子育てが出来るのか、相談してきます。でも、そのような人の多くは、肝心の子どもの表情や心やからだの状態には関心が薄いようです。そして当然のことながら、ほとんどの場合、そんな理想通りに、期待通りに子どもが育って行くわけがありません。それで時には、理想の子育てを守り通すために「あんたが協力的でないから」などと言い合って夫婦喧嘩を繰り返したり、シュウトと仲違いし、さらに極端な人は、理想の子育てをするためにご主人を置いて、母子だけで理想の子育てを受けることが出来る所へ移住してしまう人すらいます。(おいおいおい、それで子どもの気持ちはどうなるんだよ!)お母さんが子どもを管理できるうちは、理想の子育てができます。でも、子どもはやがて“普通の子どもたち”の中に入っていきます。そして、お母さんの管理が届かなくなります。そして結局は子どもにしっぺ返しをくうのです。そういう話しをいっぱい聞くのです。家では一切テレビを見せませんでした。でも、幼稚園に入って、友達の家に遊びに行くようになったら、友達と遊ばないでずっとテレビを見ているのです。(テレビゲームも同じです。)とか、スナック菓子などは一切与えませんでした。でも、友達のうちに行ったら、夕食が食べられなくなるくらいスナック菓子を食べてきてしまいます。(友達の家のお母さんが見ていないところで勝手に食べてしまう子もいます。)武器おもちゃで遊んだことがないので、それらの遊び方、やってはいけないことが分からず、余計に危険な遊びを繰り返す子もいます。(お母さんの言葉を聞いてくれるうちに、人に向けては行けないよ。生き物に向けては行けないよ。ということをちゃんと伝えておく必要があるのです。子どもはやがて親の言うことを聞かなくなったり、親から離れて遊ぶようになりますから。)子どもの気持ちを無視して、極端な子育てを押しつけていると必ず反動が来てしまうのです。じゃあ、“理想の子育てはどうでもいいのか”というとそういうわけではありません。ただ、子どもはやがて親の手を離れる存在だということをちゃんと認識した上で、子どもの中に欲求不満の種を育てないように、現実とうまく折り合いを付けながら理想を求めて欲しいということなのです。そのためには、“本に書いてあったから”、“○○先生が言ったから”、“みんなやっているから”という依存を捨てて、心をもっと自由にすることが必要です。そして、自分自身の現実と向き合い、自分の頭と、心と、からだと、魂とでどうしたらよいのか必死になって考えることが必要なんです。欲求不満の強い子ほど、強い刺激を求めます。ですから、どんな理想の子育てをしていても、子どもの中に強い欲求不満が育ってしまっていると、子どもが親の言うことを聞かなくなる年齢になったとたん、全てが水の泡となって消えてしまうのです。管理されて育った子は、管理がないところでは反動が出て荒れるか、不安で萎縮してしてしまい、自分の殻に閉じこもってしまうことが多いのではないかと思います。それは子どもの意志がちゃんと育っていないからです。テレビがあっても、あまりテレビにこだわらない子もいます。武器おもちゃがあっても興味がない子もいます。テレビゲームをしても、適当に自分の意志でスイッチが切れる子もいます。お菓子を食べても、適量を知っている子もいます。“さわぐな”と怒鳴らなくても、人に迷惑がかかる場所では騒がない子もいます。喧嘩をしている子に、“喧嘩をやめな”と言うことができる子がいます。そういう子ども達は、お母さんの管理によって“いい子”を演じているのではなく、そのようなものに共鳴しない感覚を持ち、自分の意志で自分の行動をコントロールする能力が育っているのです。そういう子どもたちはどのように育ったのでしょうか。我が子も、そういう子どもに育って欲しくないですか。そのためにはまず、“子どもを信じる”ことから始めるべきだと思います。そして、「子どもの育て方」は目の前にいろ我が子との関わり合いを通して子どもから学ぶようにするのです。大人が頭の中で創り出した「理想の子ども」に対しては「理想の子育て」が通用するのでしょうが、皆さんの目の前にいる「現実の子ども」に対しては「理想の子育て」は通用しないのです。
2024.02.10
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昔の子ども達はいつも、基本的に仲間と群れて遊んでいました。一人で、しかも家の中で遊んでいる子は滅多にいませんでした。確かに、仲間と群れて遊んでいると、思い通りにならないことも色々あります。「鬼ごっこ」がしたいと思っても、「隠れんぼやりたい」と言う子の方が多かったり、力が強い子が「木登りの方がいい」と言えば、従わざるおえませんでした。大人が見ていたら絶対止めるような「あぶないこと」も、その場のノリでやってしまいました。でも、そんな「思い通りにならない体験」を通して、子ども達は「自分が知らないこと」や「苦手なこと」にも挑戦することが出来ました。ケンカやケガもしましたが、ケンカやケガから学ぶことも出来たのです。助けたり、助けられたりする体験もありました。遊びを決めたり、協力して遊ぶ時には話し合いもしました。それは、「自分の思い通りには遊べない」ということでもありましたが、同時に「一人では出来ない遊び」を体験することも出来ました。私が子どもの頃は、ゲームもネットもありませんでした。テレビはありましたが貴重品で持っている人は少なかったです。オモチャも少なかったなかったので、家の中で一人で遊んでも何にも楽しくなかったのです。それに対して、最近の子の多くは、学校から帰ったら一人で遊んでいます。そして一人でも遊べるような便利なオモチャや機械がいっぱいあります。子ども部屋を持っている子も多いです。でも、「一人遊び」は同じ事の繰り返しになりやすいです。また、「嫌いなこと」や「不都合なこと」はやらなくても済みます。「自分ルール」だけで遊ぶことも出来ます。やりたくないことはやらなくてOKです。ゲームの途中でも都合が悪くなったら簡単にリセットすることが出来ます。このような遊びは便利で快適ではあるかも知れませんが、快適であるがゆえに遊びを通して成長する可能性も低くなってしまうのです。「今のままで快適である」と言うことは、「今のままで成長する必要がない」ということでもあるからです。「一人遊び」は、子どもを「外の世界から遠ざけ自分だけの世界に閉じ込めてしまう危険性」があるのです。お母さんは子どもが一人で遊んでいると喜びますが、子どもの成長にとっては「一人遊び」はあまり好ましくないのです。ただし、本をいっぱい読んでいるような子は、一人で遊んでいてもそれほど心配する必要がありません。本の中で「外の世界」と出会う事が出来るからです。でも、ゲームに夢中になっているような子ほど本を読みません。子どもが本を読むようになるためには、静かで退屈な環境が必要だからです。多くのお母さんが、子どもを退屈にしないようにあれこれ与えていますが、そのことで、本を読まない(読めない)子ども達がいっぱい育っているのです。最近は三歳ぐらいの子でもスマホで遊んでいますが、最新機器で遊んだからといって、最新の能力が育つわけではありません。また、「スマホを自由に操れる三才児」がすごいわけでもありません。すごいのは「三才児」の方ではなく、「三才児でも自由に扱えるほどに進化したスマホ」の方です。そこを勘違いしている大人が多すぎます。バーチャルな世界は、現実の世界よりもはるかに刺激的で、自由で、しかも「本当の自分の能力」よりもはるかに大きな能力の持ち主になって遊ぶことが出来ます。その快感に慣れてしまっている子にとっては、現実の世界は、自分の無力さを突きつけるのと同時にあまりにも退屈すぎるのです。それでも、お母さんやお父さんが子どもを意識的に外に連れ出して子どもと一緒に遊んでいたり、家の中でも子どもと一緒に色々と遊ぶようにしているのなら、子どもがスマホやゲームで遊んでいてもそれほど心配する必要はありません。一時は夢中になっても、思春期になる頃には、幼児期の体験が子どもをまた現実の世界へと引き戻してくれるからです。実は、幼児期の体験が子どもの原体験になって、子どもの心の中に一生残るのです。でも、子どもがお母さんやお父さんと遊びたがる時期に、スマホやゲームに子どもの相手を任せっきりにしてしまっていると、子どもの成長が阻害され、後で困った事になってしまいまうのです。スマホやゲームでばかり遊んでいる子は「喜びや悲しみを共有する仲間」が出来ません。そのため孤独になります。そして、スマホやゲームでの遊びは、孤独であることを忘れさせてはくれますが、孤独を癒やすことは出来ません。
2024.02.09
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最近の子ども達を見ていて強く気になるのは、「新しいことに興味を感じない子」や「新しいことに挑戦しようとしない子」が多いということです。食べ物でも、普段食べて知っているものにしか手を出さない子がいっぱいいます。工作でも、「以前にやって成功したもの」や、「一目見て分かるもの」にしか手を出さない子がいっぱいいます。そのような子は、「調べなければ分からないこと」や、「考えなければ分からないこと」や、「やってみなければ分からないようなこと」には手を出そうとしません。そして「ちゃんと見れば分かること」や「ちょっと考えれば分かるようなこと」でも、見ようともせず、考えようともせず、すぐに「どうしたらいいの」と聞いてきます。だから「よく見てごらん、どうしたらいいのか考えてごらん、そうすれば分かるから」と言うのですが、見もせず、考えもせず、反射的に「わかんない」と言ってくる子も多いです。「よく見てごごらん」と言うと見るだけはするのですが、ただボーッと見ることしか出来ないので何も分からないのです。理解しようとする意識もなければ、理解の仕方も分からないようなのです。それで、「色はどうなっている?」「形はどうなっている?」「どうやって動いていると思う?」「どうやって作っていると思う?」などと色々と聞いていくと、次第に「どうしたらいいのか」が分かってきて、取りかかることが出来る子もいますが、そういう風に意識や思考を誘導しないと考えることも出来ないし、動くことも出来ない子が多いのです。でも、そのように聞いて行くと答えるのが面倒くさくなって、「もういい」と投げ出してしまう子も多いです。また、「それがどんなものでも、作り方を教えてもらえば自分でも作れる」と思い込んでいる子も多いです。でもそういう子ほど、思い通りに行かないとすぐに止めてしまいます。試行錯誤することも出来ません。そもそも、試行錯誤するという発想もないし、方法も知りません。そして試行錯誤が出来ない子に限って、ラジコンとかゲーム機といったようなものでも、作り方を教えてもらえば自分でも作れると思い込んでいます。ノコギリも使えないのに「タンスが作りたいから大きな木を出して」などと言う子もいます。ただしこれは子どもだけの話ではありませんからね。同じような状態のお母さん達もいっぱいいます。「天才の育て方」という本を読めば「自分も天才を育てることが出来る」と思い込んだり、「子どものしつけ方」という本を読めば、しつけがうまく行くと思い込んでいるお母さん達はいっぱいいます。それでうまく行かないと、力尽くで子どもを支配しようとしたり、アメとムチで子どもを誘導しようとしたり、子育てを放棄したりしてしまいます。でも、工作は自分勝手にやっても、途中で放棄しても大きな問題にはなりませんが、子育てでこれをやってしまうと、子どもだけでなくお母さん自身も不幸になります。このような状態から抜け出すためには「仲間」が必要になるのです。一人でいくら頑張っても「自分の殻」を破ることは出来ないからです。そもそも、一人で頑張っているだけでは「何が自分を束縛している殻」なのかすら分からないのです。まただから、いくら気質の勉強をしても自分の自身の気質が分からないのです。そしてこれは子どもでも同じです。子ども達も、上に書いたような状態から抜け出して、ちゃんと見て、ちゃんと感じて、ちゃんと考えて、自分の意志で行動できるようになるためには「一緒に見て、一緒に感じて、一緒に考えて、一緒に行動する仲間」が必要になるのです。でも今、その仲間がいない状態で育っている子がいっぱいいるのです。ゲームは子どもの遊び道具であって仲間ではありません。
2024.02.08
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「間」には何もありません。でも何もないからこそ自由があり、何でも入るのです。この「間」を埋めるのは自分自身の想像力です。親しい人から「私はあなたが好きです」と言われれば、それは素直に嬉しいですよね。でも、それだけです。この時、「私はあなたが・・・・・・」と「私はあなたが」の後にしばらく無言の「間」が来ると、その間に色々なことを想像したり期待したりしますよね。また、その「間」の意味を理解するために、相手の表情や仕草をよく観察しようとしますよね。この「間」は絵画の世界にも、言葉の世界にも、歌や踊りの世界にも、武術の世界にも、至る所にあります。間をうまく使うことで相手を引き入れることが出来るからです。このように、想像力や能動性を引き出すのが「間」の働きなのです。それは人間の脳が「間」を嫌うからです。人間の脳は「間」があると、色々と想像したり行動したりして「間」を埋めようとするのです。脳は、完全に音がない状態に置かれると勝手に音を創り出してしまいます。真っ暗で完全な闇の中にいると、勝手にイメージを創り出して何かがそこに存在しているような錯覚を創り出してしまいます。妖怪は脳が創り出しているのです。その「間を埋めようとする脳の働き」が人間の想像力や創造力の源でもあるのです。日が沈み夜が明ける、その間太陽は見えなくなります。それは「夜間」という「間」です。でも人間は、その見えない間に太陽には何が起きているのかを知りたくてしょうがなかったのです。それで色々と想像し、観察し、実験しました。その結果、科学が生まれたのですが、考える前にその科学的な知識を与えられてしまった子はそういうことを考えなくなります。現代社会に生まれた子どもでも、まだその知識がない幼い子どもは「間」を感じた時に色々なことを想像します。「なんで?」「どうして?」と聞いたりもします。そして、その過程で考える楽しさを知り、考える能力も育っていくのですが、心優しいお母さんは簡単に知識を与えてしまいます。すると、知識を得た子は、自分の頭では何にも考えていないのに分かったような気になってしまいます。お母さんもまた「正しい知識」を与えることで子どもが賢くなったように勘違いしてしまいます。でもその結果子どもは自分の頭で考えようとしなくなります。現代人の生活は知識と刺激に満たされています。でも、日常的に知識を与えられ、刺激過多の状態の中で暮らしていると「自分の頭で考える能力」が育たなくなってしまうのです。そのような子はすぐに「退屈」を感じます。想像力によって「間」を埋めることが出来ないからです。そして、「刺激中毒」になってしまっているため、次々と脳を落ち着かせるための刺激を求め、あれこれ困ったことをし始めます。自分の頭で考えようとしない子ほどすぐに退屈してしまうのです。だから大人は知識や刺激を与えてしまうのですが、そのことで子どもはさらに自分の頭で考えなくなってしまうのです。その状態から抜け出すためには「退屈」が必要になるのですが、もうすでに刺激中毒になってしまっているような子は、刺激がなくなると刺激を求めて暴れたり無気力になったりしてしまいます。そういう状態の子を活性化させるためには「からだを使った仲間との遊び」が必要になるのです。
2024.02.07
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落語では「間(ま)」が大事だと言われます。そして日本人は「間」の意味を感じ取る能力が高いです。実際、人間、仲間、空間、時間、間合い、間柄、などなど「間」という字を使った言葉はいっぱいあります。「間」とは「何かと何かのあいだ」ですから、言い換えると何もないところです。何もないところなのに、何故か価値があるのです。子どもの育ちには、「空間」「時間」「仲間」の三つの「間」が必要だと言われていますが、子どもの育ちに必要だといわれているものにみんな「間」という字が使われているのは偶然ではないような気がするのです。実は「間」とは、「存在するもの」と「存在するもの」の間にあって両者の自由を守り、同時につながりを生み出し支えるものでもあるのです。「間」がないと、くっつき合ってお互いに身動きが取れなくなり不自由になります。遠く離れすぎてしまうと両者が関係することで生まれる意味や役割が消えてしまいます。また、間の距離や、間のあり方を変えると、両者が関係することで生まれる意味や役割が大きく変わります。実は人の自由を守ってくれているのは「間」なんです。人と人をつないでいるのも「間」だし、自由を与えてくれているのも「間」なんです。「間」は「無」でもありますが、その「無」が存在するものの意味と価値を生み出しているのです。面白いでしょ。子育てで難しいのも、親と子の間の「間」の取り方です。「距離感や関係性の作り方」とも言い換えることが出来ますが、これが「間」です。子どもの隣にいるか、前にいるか、後ろにいるか。肌が付くくらい近くにいるか、声が聞こえる距離にいるか、目で確認できる距離にいるか、子どもの目には届かないと事にいるかでも、子どもとの関係性は変わります。以下は俵屋宗達が描いた「風神雷神の図」です。風神と雷神の間には、何も描かれていない「間」が広がっています。でも、何も描かれていないですけど、この「間」には目では見ることが出来ない無数の何かが存在しています。その「何か」がこの絵のすごさを支えているのです。以下は同じ二匹の魚のイラストをただ位置(間の状態)を変えただけのものです。ちょっと間を変えただけで両者の関係性は大きく変わってしまいますよね。このバリエーションは無数に作れます。そしてその「間」が、自由を支えてくれてもいるのです。「間」が自由を与え、自由があるから意味も生まれるのです。------------------------------------
2024.02.06
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「つながりを大切にしよう」というようなスローガンは色々なところで聞きます。でもだからといって、「じゃあ、つながりってなあに?」と聞かれて明確に説明できる人は多くないと思います。皆さんは、このスローガンを読んだ子に「つながりってなあに?」と聞かれて、子どもが理解出来るように答えることが出来ますか。難しいですよね。なぜなら「つながり」は目で見ることが出来ないからです。そう、「つながり」は目で見ることが出来ないのです。宇宙の全ての物質は重力という働きでつながっていますが、このつながりは目に見えません。物理法則も目に見えません。だから、「見えるもの」の動きを通して「見えない法則」を発見してきたのです。私達は地球や他の生命とつながって生きていますが、このつながりも見えません。親と子もつながっていますが、このつながりも見えません。心とからだもつながっていますが、このつながりも見えません。“昨日の私”と“今日の私”もつながっています。地球と月と太陽もつながっています。でもその「つながり」も見ることは出来ません。全ての存在はつながり合い、支え合っているからこそ存在することが出来るのですが、私たちには「存在しているもの」は見ることが出来ても、「存在を支えているもの」を観ることは出来ないのです。だから、それを説明するために様々な神話や物語が生まれたのです。でもだから、見えるものばかりを見て、見えるものだけを信じて、見えるものだけで物事を考えている人には真実は見えないのです。「見えるもの」しか見ようとしない人はただ流されるばかりです。「目で見ることが出来る存在」は常に変化し流転しているからです。私達はつながりという大きな流れの中で生きています。ですから、その流れを見ることが出来る人はそのつながりをたどって、行きたいところに行くことが出来ます。でも、そのつながりを見ることが出来ない人は、常に変化している「見えるもの」に振り回されることになります。そして迷子になります。私は若い頃石膏デッサンをやっていました。初めて石膏デッサンをやったとき、世の中にこんな面白いことがあったのかと思うくらいのめり込んでしまいました。そこで気付いたのが「見えるものを見たとおりに描くだけでは見えるように描けない」ということでした。見えるものを見たとおりに描けば写真のようには描くことが出来るでしょう。でも、私たちが実際に見ているようには描けないのです。なぜなら絵の世界は二次元ですが、私たちが見ている世界は三次元だからです。もっといえば四次元です。私たちは、時間の流れまでを加味して物事を見ているのです。初心者は一生懸命に見て、一生懸命に似せようとするのですが、それでは似てこないのです。どんなにそっくりに描いても「存在」が現れないのです。私が理解した石膏デッサンは、目で見た通りに描くことではなく、「自分と対峙して存在しているものに対して自分が感じた存在感」を描くことでした。そのためには石膏が存在していない空間から描き始めるのです。目に見えるものだけを描くのではなく、そのものが存在することによって切り取っている空間も同時に描くのです。直接石膏を描かなくても、その存在を支えている空間を描くことで石膏が現れてくるのです。これはつまり、空間の関係性を繋いでいけば存在が立ち現れると言うことです。無が存在を支えているのです。特に、水墨画などはそのような描き方を得意にしています。でも子どもは、この目では見ることが出来ない空間を描くことが出来ません。そして、目で見ることが出来る物だけを描こうとします。だから子どもに写生をさせるとバラバラな感じになってしまうのです。でも、これは抽象的な思考能力とつながっていますから、そういうことを思春期前の子どもに期待しても無理なのです。また、大人でも絵が下手な人はこの空間を描くことが出来ません。これは写真のように描く能力とは関係がありません。ピカソの絵は対象と全く似ていません。でも人を感動させることが出来ます。ぐりとぐらの絵本の絵は子どもの絵のようです。誰にでも描けそうな絵ですが、あの空間は素人には描けません。私達は普通に音楽を聴いています。でも、実際には音は存在していますが“音楽”などどこにも存在していません。心の働きが音と音をつなげることで心の中に音楽が現れるのです。音楽は機械で計ることは出来ないのです。私達は存在していない音楽を聴き、楽しんでいるのです。神様も同じように出現します。だから神様の存在証明は出来ないのです。神様はつながりの中に存在しているのです。だからつながりを作ることも、つながりを消すことも出来るわけです。それが神様の働きなのです。ですから、つながりを見ることが出来ない人は神様を感じることは出来ません。神様は音楽に似ているのです。言葉も同じです。そして、自閉症の子はこの音と音とをつなげる能力が弱いようです。だから音は聞こえても言葉として聞くことが困難なのです。自閉症の子がイメージすることが苦手なのも同じです。つなげる働きが弱いのです。私達が自閉症の子の行動に違和感を感じるのは、逆に言えば、私達が普段から目に見えないつながりの中でものを見て感じているということに他ならないのです。でも、ほとんどの人がその事に気付いていません。私達がミカンを見て、ミカンだと認識出来るのも、脳が目から入ってきた色や形などを手がかりに、それまでにため込んできたデータとつなぎ合わせているからです。私達は色や形を見ているだけなのです。脳がそれをミカンに変換しているのです。思春期前の子どもたちはそのつなげる働きを育てています。だから、空想することや物語やお話しが大好きなんです。そして、心の中で色々なものをつなげて遊んでいます。それが脳の神経回路の形成につながっているのです。真実は“存在しているところ”にはなくて、“存在しているところ”と〝存在しているところ〟の間、つまり“存在していないところ”にあるのです。ですから子どもに目に見える結果ばかりを求めないで下さい。何もしていない時間を大切にしてあげて下さい。大人の目には意味がないようなことに夢中になっている子は、心の中で、何かと何かをつなげて楽しんでいるのです。
2024.02.05
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現代人は「子どもや老人や障害者は弱い立場の人間だから守ってあげよう」と言います。いわゆる「弱者保護」の思想です。この考えは一見優しさの表れのように見えます。でも、このような「強者と弱者を分離するような考え方」では子どもや、老人や、障害者は一方的に保護されるだけの存在になってしまいます。また、保護する立場の人たちは、保護する対象の子どもや、老人や、障害者を下に見るようになってしまう可能性もあります。そうなってしまうと子どもや、老人や、障害者から何も学ぶことが出来なくなります。また、「保護してやっているんだから」と思い上がってしまう人もいるでしょう。それが差別的な感覚を生み出してしまったりもします。実際、多くのお母さん達が子どもに対してこのような感覚を持っています。そういうお母さんは平気で自分の子どものことを罵ります。お父さんも同じです。時々「おれがおまえ達を養っているんだ」などとばかげたことを言うお父さんもいますが、そのようなお父さんもまた同じような感覚を持ってしまっているのでしょう。一方、保護される側の子どもや、老人や、障害者と呼ばれる人は自己肯定感を失います。また、依存することに慣れてしまうことで、自立するために必要な能力を育てる意欲や機会を失ってしまうこともあるでしょう。私には、「弱者を守ろう」という考え方自体の中に、「差別的な意識」が含まれているように思えるのです。そもそも人間を「強者と弱者に分ける考え方」自体が差別を創り出しているのではないかと思うのです。この世界には絶対的強者も絶対的弱者も存在していません。それは自然界においても、人間界においても同じです。ジャンケンにおいては、絶対的強者も絶対的弱者も存在しませんよね。それと同じです。絶対的強者と思われているライオンだって、死ねば絶対的弱者の小さな虫や細菌に食べられてしまうのです。昔、子どもや老人は一方的に守られる立場ではありませんでした。実際、人々の生活の中で子どもも老人も重要な役割を果たしていました。もちろん、全員がというわけではないでしょうが、今よりも老人を人生の先輩として敬い、老人の智恵を大切にする人が多かったのです。子どももまた、「保護を受ける対象」ではなく「生活を共にする仲間」でした。「お手伝い」は「押しつけられた労働」ではなく、「共に生きる仲間」として当たり前の行為だったのです。そして子ども達はそのお手伝いを楽しみ、そのお手伝いから自立して生きるために必要な多くのことを学んでいました。でも今では便利な機械の登場によって、子どものお手伝いは必要がなくなりました。大人の生活と子どもの生活が分離して、子どもは「生活を共にする仲間」ではなく「保護を受ける対象」になってしまったのです。それはまた「大人の世界」と「子どもの世界」が分離してしまったことを意味しています。その結果、肉体的には大人になっているのに、心の中は「子どもの世界」のまま生きようとしている大人がいっぱいいます。特に男性に多いです。そして大人は、子どもを「自分の後を継ぐもの」として見なくなりました。子どもも大人を「自分たちの先輩」として見なくなりました。老人も社会から分離され、老人の言葉に耳を傾ける人も減りました。そのことで老人は自分の価値を感じることが出来なくなりました。「お年寄りを大切にしよう」、「生命を大切にしようと言っても」、生活の中でその価値を感じることが出来なくなってしまった人々にはそれは「空論」であり、「きれいごと」に過ぎません。実際、道徳の時間などで「お年寄りを大切にしよう」と教えるように指導している政府がお年寄りをバカにするような政治をやっているのですから。子どもたちは大人達がお年寄りを大切にしている姿を見てお年寄りの価値を知るのです。理屈で伝えることが出来ることではないのです。大人が子どもを、「保護を必要とする対象」としてではなく、「自分にとって、社会にとって大切な存在」として扱うことで、子どもは自分の価値を知るのです。そしてまた、自分を「大切な存在」として扱ってくれる大人を尊敬しあこがれるのです。誰からも大切にされていない子ども達は、いくら衣食住を与えられ、お金をかけて保護されていても自分の存在に価値を感じることが出来ないのです。子どもだけでなく人は、「自分が大切にしているもの」を大切にしてくれる人を「自分にとって大切な人」と感じるのです。家がお金持ちで欲しいものは何でも買ってもらっている子よりも、親から仲間として受け入れられている子の方が「大切にされている」と感じているものなんです。
2024.02.04
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自然界は多様性に満ちています。というより、多様性によって支えられています。多様性が失われたら自然界は崩壊するのです。じゃあその「多様性」とは何かということです。「多様性」とは、「ただ単に色々なものが存在している状態」ではありません。その「色々なもの」がそれぞれの個性を大切にしながらもお互いにつながり、支え合い、全体の大きな動きや流れを支えているように機能している状態です。それは、オオカミはオオカミらしく、ウサギはウサギらしく、カメはカメらしく、杉は杉らしく、苔は苔らしく生きていながら、お互いにつながり合い、支え合っている状態です。「オオカミさんも、ウサギさんも、カメさんも、見かけは違っていてもみんな同じなんだよ。そこに違いはないんだよ。」という考え方は理論としては分かります。でもそれは観念論としては正しくても、「オオカミやウサギやカメが生きている現実」とは異なります。ウサギとカメが競争したら間違いなくウサギが勝つのです。オオカミとウサギが一緒にいたら、ウサギはオオカミに食べられてしまうのです。これが、「オオカミやウサギやカメが生きている現実」です。その現実を無視して理想論を押しつけたら、自然界は多様性を失い簡単に崩壊します。「多様性」が成り立つためには、それらの「らしさ」や「個性」を大切にする必要があるのです。「みんな同じ」という所に価値を見いだすのではなく、「らしさ」や「個性」の中に価値を見いだすのです。人間の社会もまた、自然界と相似形になっています。みんなが自分の「らしさ」や「個性」を大切にすると同時に、相手の「らしさ」や個性」も尊重し、そして、一人一人が「自分が出来る事」をやっていくことで多様性が維持され、社会が活性化して行くのです。現代人も観念論としてはそのことを理解しています。ですから「自分らしさや個性を大切にしよう」というスローガンはあちこちで見かけます。でも、実際に行われているのは「みんな一緒」「みんな同じ」という子育てや教育です。人目や評価を気にする子育てや教育は、「みんな一緒」や「みんな同じ」を大切にしようとする意識の表れです。また、その「みんな一緒」や「みんな同じ」が出来ない子を、「その子のために」と別の場所に移動させ、別の教育を行っています。それでも、「みんな一緒」や「みんな同じ」が出来ない子の個性を大切にし、その子が持っている他の能力を育てようとしているのなら分かるのですが、私が知っている範囲では、そのような場で行っているのは、「みんな一緒」や「みんな同じ」が出来ない子を、「みんな一緒」や「みんな同じ」が出来る子に変えるような働きかけが中心のようです。実際の現場で大人達は、「自分らしさや個性を大切にしよう」というスローガンとは逆のことをやっているのです。本気で、子ども達の「自分らしさ」や「個性」を大切に考えているのなら、みんな同じようにイスに座らせて、みんなに同じ知識を覚えさせるような教育などするわけがないのです。そこで必要になるのが、本当の意味での「多様性」という考え方なんです。
2024.02.03
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今日は「まるこ」さんからの以下の質問に答えさせて頂きます。画一化のお話について質問させてください。価値観については、今の方が多様性が認められるようになった面もあると思ったのですが、森の声さんはどのように感じますか?例えば、日本の100年前と比較すると、今の方が色々な考えや生き方が許されるようになってきていると思うのです。昔はもっと同調圧力が強く、自分の意見より村の価値観に従うことが絶対だったのではないかと。普段生活していても、自分の親世代より、今の若い人の方が柔軟な価値観を持っていると思うことがあります。例えば、障がい者やLGBTの方、不登校など少数派の価値観が認められやすくなったことなど。 一方で、世界は資本主義の思想に覆い尽くされて、昔から続いてきた民族・地域の文化はどんどん消滅しているので、確かに全体としては価値観も画一化なのかもしれませんね。もう一つ質問ですが、昔の方が思考が多様だったというのは、具体的にどのようなことか教えていただけますでしょうか。昔はインターネットで答えを得るのでなく自分の頭で考えた、というようなことでしょうか。最近、自分がどう生きるのか、世界がどうあるのがよいのかを考えるために、昔の人の生き方を知りたいと強く思っています。最初にお断りしておきますが、私は「昔の方が良かった」ということを言いたいわけではありませんからね。ただ、「何が起きたのか」、「何が起きているのか」ということを明らかにしたいだけです。まず、例えば、日本の100年前と比較すると、今の方が色々な考えや生き方が許されるようになってきていると思うのです。昔はもっと同調圧力が強く、自分の意見より村の価値観に従うことが絶対だったのではないかと。という点ですが、同調圧力が働いたのは、「同じ階層に属し、同じ地域に住んでいる人」の間でだけです。分かりやすくいえば同じ会社の中では同じ同調圧力が働いていますが、別の会社の中では別の同調圧力が働いているということです。中には同調圧力自体がない会社もあるでしょう。昔の社会は階層的でした。昔、学校で「士・農・工・商」という言葉を習ったと思いますが、他にもそれらとは別枠の層の中で暮らしている人もいっぱいいました。インドではその階層を「カースト」と呼びますが(その中に入らないアウトカーストの人たちもいっぱいいます)、カーストと似たような社会システムは世界中にありました。そして、今でもあります。政治家は庶民とは異なった価値観と同調圧力の中で生きています。教師も、教師以外の人とは異なった価値観と同調圧力の中で生きています。そして、同じカーストに属する人たちは同じ価値観を持っていました。だから同調圧力もありました。武士には武士特有の同調圧力があり、商人には商人特有の同調圧力があったのです。でも、その同調圧力が嫌な人は別の層に逃れることも出来ました。武士の同調圧力が嫌いで武士をやめてしまった人もいたでしょう。昔は、社会自体が多様な価値観によって支えられた層が幾重にも重なった多重社会だったのです。だから逃げ道も色々とあったのです。その層は今でもありますが、昔ほど層と層の間がはっきりとしていません。そのため、層を超えた同調圧力が働くことも多いです。コロナの時のマスクや、ワクチンや、ソーシャル・ディスタンスなるものがそのいい例です。それが嫌だからといって拒否するのは困難でした。実際、いかなる職業の人もその圧力にさらされました。宗教家が「私は神様に守られているから大丈夫だ」などということを言っても即座に否定されたでしょう。全ての国民が国によって管理されている現代社会では、国家が押しつけてくる圧力からは逃げられないのです。また、国家やメディアの働きによって価値観の単一化が起きたことで、「差別はいけない」というスローガンの元、差別している人を差別するようになりました。男女平等のかけ声の下、「男らしさや女らしさを大切にしようとする考え方」は否定されました。「果物はみんな同じじゃないか」という価値観が広まれば、「僕はリンゴが好き」「私はバナナが好き」という人は否定されてしまうのです。多様性の押しつけは価値観の均一性を促し、逆に多様性を壊してしまうのです。自然界では、鳥は鳥らしく、クモはクモらしく、カエルはカエルらしく、オオカミはオオカミらしく生きています。それが多様性です。「クモとかカエルとかオオカミなんて区別は止めようよ、みんな同じ生き物じゃないか」などと、鳥らしさ、クモらしさ、オオカミらしさを否定したら、自然界の多様性は消滅してしまうのです。残るのはただの弱肉強食の世界だけです。だからといって、「クモはクモらしく生きろ」「オオカミはオオカミらしく生きろ」と押しつけるのも違います。多様性は「自然に生まれてくるもの」であって、「人為的に押しつけるもの」ではないからです。また、価値観の違いは「層の違い」の中だけでなく「地域の違い」によっても生まれていました。人々の移動が少なかった昔は、住んでいる場所が違えば価値観だけでなく生活の仕方や言葉までは異なっていました。特に、その間に山や川があるような場合は、顕著にその違いが生まれました。同調圧力があったのは、同じ地域に住み、同じ層の中で暮らしている人の間だけだったのです。山一つ超えてちょっと引っ越しするだけで、それまでの同調圧力から逃れることが出来たのです。その「地域に根ざした同調圧力」は、いわゆる「ママ友」の中にもあります。ある公園を中心としたママ友の間で共有されている同調圧力と、別の公園を中心としたママ友の間で共有されている同調圧力は異なっているでしょう。普段生活していても、自分の親世代より、今の若い人の方が柔軟な価値観を持っていると思うことがあります。例えば、障がい者やLGBTの方、不登校など少数派の価値観が認められやすくなったことなど。それは「育ちの中で与えられた価値観」が、「まるこ」さんと「今時の若者」で違うからに過ぎません。まるこさんが持っていない価値観を若者が持っているからといって、それだけでは「柔軟な価値観を持っている」とは言えないのです。本当に柔軟な人は、昔の人や、自分とは異なった価値観を持った人、時には自分とは敵対する人の言葉にも素直に耳を傾けることが出来るものです。ただ単に「自分とは違う考え方をする」というだけでは柔軟とは言えないのです。実際、今時の子ども達を、便利な機械や道具がない状態の中に連れ出すと、いかに頭が固くなってしまっているのがよく分かります。人の言葉に耳を傾ける能力も低いです。もう一つ質問ですが、昔の方が思考が多様だったというのは、具体的にどのようなことか教えていただけますでしょうか。昔はインターネットで答えを得るのでなく自分の頭で考えた、というようなことでしょうか。思考の多様性は、生活や体験の多様性によって育ちます。それは世界を色々と歩いて実感したことでもあります。そして、現代人は「生活や体験の多様性」を失ってしまいました。幼い時からゲームでばかり遊んで育った子は、世界中、みんな似たような価値観を持っているのではないでしょうか。
2024.02.02
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