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私は子どもの頃から色々なことに興味を持ち、色々なことをやってきましたが、私の気持ちの中ではみんな同じものです。私はただ「本当のこと」が知りたいだけなんです。物理学に興味を持ったのも、物理学を学ぶと「宇宙の本当のこと」が分かると思ったからです。スピリチャル的なことにも興味がありますが、それは「見えない世界における本当のこと」を知りたいからです。「気質」に興味を持ったのも、「気質」という考え方に「本当のこと」を知る手掛かりがあると感じたからです。高校生の時にデッサンや絵を描くことにはまって「世の中にこんなにも面白いものがあるのか」と感じたのも、そこに、それまで知らなかった「本当のことを見る見方」があったからです。デッサンでまず学んだのは「空間」の捉え方です。それまで「空間」などというものを意識したことなんかありませんでした。もちろん「空間」という言葉は知っていました。これは皆さんも同じでしょう。でも、デッサンではその「三次元世界の空間」をどう認識して、「二次元世界」の中でどう表現するのかということをするのです。でもこれが難しいのです。そもそも、「物」は見えても、その「物」が存在している「器としての空間」は目では見えないですからね。デッサンではその「目には見えないもの」を「目で見えるもの」に変換するのです。テレビなどで見ていると、ただ写真のようにそっくりに描くことが流行りのようですが、あれは単なる「技術」の問題であって「認識」の問題ではありません。そっくりに描くだけなら機械にだって出来てしまいます。というか写真を撮ればいいだけのことです。わざわざ、人間が描く必要も感じません。私が中学生の頃に出会って感動した「相対性理論」も空間を扱っています。そして、空間と一体のものとして時間もあります。物理学は「物の理(ことわり)」と書きますが、実際には「空間と時間の理」だったんです。目に見えている「物」は、目では見ることが出来ない「空間と時間」の一状態に過ぎないのです。それは、般若心経で言われている「色即是空 空即是色」の世界そのままです。相対性理論における有名な「E=mc2(二乗)」という式を見た時にはびっくりしました。Eはエネルギーです。mは質量でcは光の速度です。物質はエネルギーに変換出来るということです。しかも、なんでかそこに光速が関係しているのです。面白いですよね。そしてこの原理を元にして原子爆弾が作られました。「本当のこと」を知るために仏教やキリスト教のことも学びました。中でも仏教における認識論には強く惹かれました。私たちが生きている世界は、私たちとは無関係に存在しているものではなく、私たちの認識が創り出しているというのですから。維摩経というお経があるのですが、これがまた面白いのです。AIは以下のように解説しています。AI による概要詳細大乗仏教経典の『維摩経』には、認識論に関する思想が説かれています。維摩経の認識論思想相反する概念は別々のものではなく、ひとつのものの部分であると説く「不二法門」内容善と悪、生と死、我と無我など二項対立によるものの見方を解体し、ものごとの本質を捉える主張世俗社会で生きながらもそれに執着しないこと、すべては関係性によって成立しており、実体はない、自らの修行の完成ばかりを目指さず、社会性や他者性を重視せよ私がいつも書いているようなことが書かれていますよね。また、気質が違えば物事の認識の仕方も違います。ですから、物理的には同じ場所にいて、同じ体験をしても、本人の意識の中では異なった場所にいて、異なった体験をしているのです。面白いですよね。シュタイナー教育に惹かれたのも「ここには本当のことがある」と感じたからです。これは私の考えですが、シュタイナー教育を知識や方法論として学んでしまったら本質が失われてしまうような気がします。私は、R.シュタイナーは、宇宙の見方、人間の見方、命の見方、成長の見方、見えない世界の見方を提示しようとしたように感じるからです。私にとっては、R.シュタイナーは一つの認識論を提示したように思えるのです。ですから、彼の言葉を「科学的ではない」と言って否定しても意味がないのです。科学は「認識によって生じたもの」を扱うことは出来ますが、「認識そのもの」は扱うことが出来ないからです。それはつまり、この宇宙に「人間とは異なった認識能力」を持った宇宙人がいたら、私たちが知っている科学とは異なった科学を創り出している可能性があるということです。ワクワクしませんか。
2024.11.22
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NHKの「こころ旅」という番組でいつも見ていた火野正平さんが亡くなりました。まだ75才です。テレビで見ていて「元気な人だな」と思っていた人だけに驚きでした。先日、西田 敏行さんも亡くなりました。76才です。西田さんも元気で、亡くなった当日も仕事が入っていたそうです。テレビでは「人生100年」などと言っていますが、私の周辺には100歳まで生きた人はいません。ただ単に、「日本人全体で見たら100歳まで生きる人も珍しくなくなった」というだけのことであって、「100歳まで生きるのが一般的になった」というわけではありません。そして私は火野正平さんや西田 敏行さんの年齢に近い73才です。子ども達には3000才と言っていますが、現世における人間界では73才です。もういつ死んでもおかしくない年齢になってきたわけです。それで、「自分がやりたいこと」を悔いなくやりきるために、少しずつ仕事を減らしています。10年以上続いてきた外遊びの会を去年〆させていただきました。そして、来年の3月で30年くらい続いてきた外遊びの会からも抜けさせていただきます。始めたころには幼児だった子が今では大人に、そして親になっています。ただし、お母さんたちの勉強会は継続します。これもまた「やりたいこと」の一つだからです。私は人が成長していくのを見るのが好きなんです。そんな私は、若い頃から「やりたいことを諦めない生き方」をしてきました。中学生の頃「相対性理論」と出会って感激し「物理学者になりたい」と思いました。そして、高校生の頃も物理学者を目指して勉強していましたが、なぜか高校3年の時に「絵」と出会ってしまい、受験生なのにデッサン教室に通い始めました。その時に感じたのが「世の中にこんなに面白いものがあったんだ」という驚きです。「絵描き」というそれまでに会ったことがない人種との出会いも衝撃的でした。それで短絡的な私は「とりあえずは物理学科に行くけど、卒業したら絵描きになりたい」と決めてしまったのです。そして、大学では卒業に必要な最低単位だけを取るようにして、美術研究所に通いつめました。で、卒業が近くなった時、両親に「ぼくは絵描きになるから就職はしない」と言ったのですが、「せめて5年でいいからボーナスの出るところに勤めてくれ」と母親に懇願され、絵の勉強のために行きたかったヨーロッパに行くためのお金を稼ぐ必要もあったので、そのまま大学の事務職として就職しました。最終的には6年勤め、同僚からは「なんでそんな馬鹿なことをするんだ」と言われ、人事部の部長からは「このままいれば出世するよ」と言われながら退職し、リュック一つを背負って1年間の海外の旅に出たわけです。スペインでは半年間、美術学校に通ったり、絵を描き続けました。そのあと、ヨーロッパの南の方をウロウロしてインドに渡りました。インドで「人間について」学びたいと思っていたからです。ちなみにスペインを選んだのは当時、ご自宅まで通って絵を教えてもらっていた里見勝蔵という絵描きの影響です。里見先生はブラマンクの弟子で佐伯祐三の友人です。たまたまそのお弟子さんの展覧会を見て感激し、「先生は誰ですか?」と聞いたら里見勝蔵だというので、連絡先を教えてもらい押しかけて通うようになったわけです。インドに行きたいと思ったのは藤原 新也という人の「インド放浪」という写真集を見たからです。「この現場を見に行かなければ」と思ったのです。ここから先もまた長い話になるのでこれくらいでやめておきますが、このように私は「やいたいこと」を諦めない生き方をしてきました。子どもと遊ぶのも、シュタイナーや気質の勉強も、造形も、太極拳、操体法、野口整体、野口体操、古武術、システマ(ロシアの格闘技)なども「からだの学び」も「やりたいこと」だったから始めた活動です。ですから、自分の人生に後悔はありません。でも、まだまだやりたいことがいっぱいあります。昔は「年を取ったら暇になる」と思っていたのですが、なぜか若い頃よりも忙しいのです。それはそれでありがたいことなんですが、もう少し「自分がやりたいことをやるための時間」も欲しくて、少しずつ仕事を減らしています。ご迷惑をおかけする人もいますが、申し訳ないです。
2024.11.21
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先日、「ゆずり葉学舎」(群馬県富岡市にあるオルタナティブスクール)という所で、「竹であれこれ楽器を作ろう」というワークをして来ました。現地は竹林が傍にあるので、竹は必要に応じてすぐに集めることが出来ます。広いし、周りは山や畑だし、多少大きな音を出しても周囲から苦情が来るようなことはありません。ものすごく恵まれた環境です。そんなにも恵まれた環境なのに、それまでは、竹を使った楽器作りや工作をあまりして来なかったようです。竹には非常に大きな可能性があります。楽器だって何十という種類の楽器を作ることが出来ます。(正確に言うと、「音楽を演奏するためのもの」ではなく、「つながりを創り出す音を生み出すもの」ですけど。)オモチャだって何十と作ることが出来ます。もったいないことです。もっと言えば、「土」にも、「水」にも、「火」にも、「風」にも大きな可能性があります。実際、オモチャやゲームもなく、相手をしてくれる大人もいなくて、自然や仲間しか遊ぶ相手がいなかった昔の子ども達は「草木」や、「土」や、「水」や、「火」や、「風」や、「生き物たち」を相手に遊んでいました。それは、見方を変えると「遊びを通してそういうものたちの可能性を探っていた」ということでもあります。それはまた「自分自身の可能性」に気付き、拡げる体験でもありました。今でも昔と同じように草木も、土も、水も、風も普通にあります。火だけは子どもから遠ざけられ、虫は減ってしまいましたが、その他のものは家から出てちょっと歩けば子どもの生活空間の中にいっぱいあります。でも、最近の子はそういうものを相手にして遊ぼうとはしません。大人もまたそういう遊びを伝えないし、そもそも知りません。もったいないことです。最近の子ども達のオモチャやゲームなどの「遊び相手」は、最初から「子どもの遊び相手」として作られているものなので、「遊び方」を自分たちで工夫したり発見したりする必要がありません。便利になったものです。でもその結果、子ども達は「自分自身の可能性に気付き、拡げる体験」をすることが出来なくなりました。もったいないことです。ちなみに「もったいない」という言葉の本来の意味は以下のようなものです。私もこの意味で使っています。<AI による概要>「もったいない」という言葉の本来の意味は、仏教用語の「勿体(物体)」に否定の言葉である「ない」が合わさったもので、「ものが持つ本来の価値をなくしてしまうことが惜しい」という意味です。「勿体」には「重々しい」「威厳」という意味があり、仏教の教えである「すべての物事は互いに関係し合って成り立っており、存在することが当たり前ではない」という思想が込められています。この思想から、日本にはものを尊敬し感謝する精神が根付き、ものを大切にし、無駄にしないという「もったいない」の文化が生まれました。私が茅ヶ崎でやっている、親子で遊び「ポランの広場」(4月以降も参加できる生徒募集中です)という活動では、しょっちゅうお母さんたちに無茶ぶりをしています。いきなり、「歌って」とか「踊って」などと言うこともあります。昨日は、子どもとお母さんが自分たちで作ったものを売り買いして遊ぶ「お店屋さんごっこ」だったんですが、今の時代「自分で工夫して工作をする」という体験がないお母さんの方が多いので、最初はみんな戸惑います。でも、いざ、ちゃんと取り組んでみるとみんな出来てしまうのです。「即興劇なんか出来ない」とうじうじしていたお母さんが素敵な即興劇をやって見せてくれることもあります。やったことがないから「出来ない」と思い込んでいるだけの人が凄く多いのです。子どもも同じです。私は「この子なら出来る」と思うから「やってみない」と誘うのですが、「やったことがないから出来ない」と言って手を出さない子が多いのです。もったいないことです。「人生」とは「自分に与えられた時間」のことです。そして、その「時間」には「やったことがないこと」しか存在していません。毎朝目覚める朝は、みんな「始めての朝」です、「初めての一日」です。そこには可能性がいっぱい溢れているはずなのに、新しいことに挑戦せず、昨日と同じような毎日を過ごすことだけに夢中になっているのはもったいないことです。何もしなくても一生はあっという間に過ぎてしまいます。たとえ失敗しても、色々なことにチャレンジしてみれば色々な発見と、色々な学びと、沢山のつながりを得ることが出来ます。現代人は、子ども達も含めてみんな失敗を恐れていますが、失敗することが問題なのではなく、失敗から学ぼうとしないのが問題なんです。自分の時間、自分の命、自分の一生を無駄にしたくないのなら、やりたいと思ったらチャレンジしてみて下さい。「やりたい」と思ったときがベストチャンスなんですから。
2024.11.20
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闇バイトのニュースを見ていても、造形の場で子ども達と接していても、子育ての勉強会などでお母さんたちの話を聞いていても、最近の子ども達や大人たちの「想像力の低下」を強く感じます。(コロナ騒動の時も強く感じました。)そしてその「想像力の低下」は「思考力の低下」や「理解力の低下」とつながっています。そのため、ちょっと考えれば分かるようなことが分からなくなってしまっているのです。というか「考え方」そのものが分からない人も多くなってきました。A>Cで、B>Aなら、B>Cですよね。これを理解するために必要なのは知識ではなく体験なんです。この結果を覚えるだけでも試験には対応できるかも知れませんが、理解できていなければ応用することが出来ません。「どんぐり」という算数の学習法では、絵を描くことでこの体験をさせようとしているようです。「1+1=2」を、実際のミカンや物を使って説明することがありますが、実際の「物」は抽象化できないので、物を使って理解した子は、少数や分数や虚数が出てきた時に戸惑います。それに対して「絵」はそれ自体がもう抽象化されたものなので、算数との相性がいいのです。例えば、1時間+1時間は2時間ですよね。でもこれを「物」を使って説明することは出来ませんよね。「時間」を「物」に置き換えることは出来ないからです。でも、「絵」ならこれが可能になるのです。ちなみに、シュタイナー教育では絵とは異なった方法で体験させようとしています。いずれにしても、体験を通して想像力や思考力や理解力を育てようとしているのです。まただから、シュタイナー教育の授業は遊んでいるように見えるのです。実際、「シュタイナー教育では遊んでばかりいる」と非難する人もいるみたいです。私がやっている様々なワークショップも同じです。言葉で説明するだけでも知識としてなら伝えることが出来ます。でも、いくらいっぱい知識を詰め込んでも、体験が伴っていなければ理解することも、応用することも出来ないのです。でも、多くの人が「勉強とは知識を覚えることだ」と思い込んでしまっています。ワークショップの場でも、私が言った言葉をメモしようとする人がいます。自分自身がそういう学びしかしてこなかったからなのでしょう。でも、知識では子育てが出来ないのです。何十冊、何百冊と子育て書を暗記しても、実際の子育ての場では役に立たないのです。でも、子育て書なんか読んでいなくても、「道具に依存しない遊びが上手な人」は「子育て」も上手なんです。応用力もあります。想像力、思考力、理解力といったようなものが育つためには、「机上の知識」ではなく、「実際の体験」が必要なんです。だからといって、「体験なら何でもいい」ということではありません。「体験の偏り」は想像力や、思考力や、理解力の偏りを生み出してしまうからです。「子ども達の自由意思に基づく、自然の中での仲間と一緒に群れて遊ぶ遊び」では、子どもたちは「バランスの取れた体験」をすることが出来ます。それが、バランスが取れた想像力や、思考力や、理解力の育ちを支えてくれるのです。でも、大人の指導による「○○教室」と呼ばれるような所での「大人によって企画された体験」の場合は、偏っていることが多いです。手取り足取り丁寧に教えてくれればお母さんや子どもの評判はよくなるでしょうが、必然的に体験は偏ります。それは想像力や、思考力や、理解力の偏りとして残っていきます。小さい時からサッカー体験しかない子は、「サッカー思考」をするようになるでしょう。サッカーに関する想像力は育つでしょうが、他のことに対する想像力は育ちません。ゲーム体験しかない子は、「ゲーム思考」をするようになるでしょう。ゲーム的に考え、ゲーム的に理解するようになるでしょう。「闇バイト」に簡単に引っかかってしまうような子も「ゲーム思考」になってしまっているのかもしれません。会社体験しかない男性は、お母さんたちが日常的にどのように生活しているのか、子育てをしているのかを想像することが出来ません。そのため「主婦は三食昼寝付きで楽だな」などと考える男性も多いです。自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動したことがない子は、そういうことをしている子を見ても「何をしているのか」理解することが出来ません。「やらされる体験」はしていても「自分の意志でやる体験」はしていないからです。大人のために作られた「簡単で便利な生活の体験」しかない子の想像力や、思考力や、理解力も偏っています。それは「大人のために作られた社会」の中では通用しますが、子育てや、自然や、自分の心やからだと向き合う時には通用しません。でも、そのこと自体が理解できないので、思い通りに行かないと「子どもが悪い」「自然が悪い」「からだが悪い」と判断して、一方的に叱ったり、強制したりしようとします。からだの具合が悪くなると薬でなんとかしようとします。そして、さらに状態がこじれます。
2024.11.08
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私は物語が心の現れなら、そこにはその物語を生みだしてきた民族の気質も現れているのではないかと思い、色々と考えています。私は今年で24才になる長女が2,3才の頃から毎晩読み聞かせをしてきました。今でもやっています。憂鬱質の中一の息子にとっては、寝る時の一つの儀式として読み聞かせが必要なようです。そしてそれは、私にとっても大切な時間です。声を出して本を読んでいると、幸せな気持ちになることが出来ます。ちなみに、現在は「ファージョン作品集」を読んでいます。結構好みです。それで、今までに世界中の昔話を読みました。日本やヨーロッパだけでなく、中国、インド、アメリカインディアン、アフリカなどなどの昔話も読みました。そこには共通点もありましたが、相違点もありました。共通点としてはどの民族の昔話でも、皆「非現実的」だということです。もし、映画にするとしたらみんなSFX(特殊撮影)が必要になるでしょう。それは、昔話が扱っているのは「現実的な世界の出来事」ではなく、「心の中の世界の出来事」だからです。だからこそ、そこには各民族の気質が現れているのではないかと思えるのです。そこでちょっと日本の昔話と、グリム童話に代表されるようなヨーロッパの昔話を比較してみます。ただし、これらは全く私の個人的な印象に過ぎないので深く突っ込まないでください。非常に大雑把な比較ですが、まず日本の昔話は「抽象的」ですが、「グリム童話」に代表されるようなヨーロッパの昔話は「現実的」です。非現実的な話なのに描写が現実的なんです。だから、そのリアリティーによる怖さもあります。日本の昔話では、登場人物もストーリーも抽象化されています。花さかじいさんも、おむすびころりんのお爺さんも、「良いおじいさん」「悪いおじいさん」と語られているだけで、その具体的な人物像は全く分かりません。ただ、「やさしくて気前がいいおじいさん」が「良いおじいさん」で、「優しくなく、欲張りなお爺さん」が「悪いおじいさん」ということになっているだけです。そこには明確な「善悪の基準」は存在していません。それと、日本の昔話はストーリーも単純で短いのに、グリム童話などは言葉も多く長いです。そのため日本の昔話を絵本にすると、絵も言葉も単純明快になりますが、グリム童話などを絵本にすると絵はリアルになるし、言葉も多くなってしまいます。また、日本の昔話ではお話しは俯瞰的、抽象的、説明的に語られていますが、グリムなどでは現実的、具体的、描写的に語られています。ですから、日本の昔話を映画にするのは困難ですが、グリム童話を映画にするのは簡単です。「むかしむかし あるところに おじいさんと おばあさんがいました・・・」という「おじいさん」と「おばあさん」を、実際の役者がやったら、なんかその生々しさだけで、もう「日本の昔話の世界」ではなくなってしまうような気がします。日本の昔話は「アニメ」までなら大丈夫ですが、「実写版」には向かないのです。グリム童話に「カエルの王様」というお話しがあります。以下はそのあらすじです。ウィキペディアより転載させて頂きました。< あらすじ >ある国の王女が、泉に金の鞠を落としてしまう。そこへカエルが「自分を王女様のお友達にしてくれるのなら、池に落とした金の鞠を拾ってきてあげよう」と申し出る。王女は鞠を取り戻したい一心で、その条件をのむ。しかし、王女は鞠を取り返すと約束を破ってカエルを置いて帰る。それでもカエルは自力で城にたどり着き、王女に約束を守るように言う。王女は嫌々ながらもカエルと一緒に夕食をとった後、すぐに寝室に戻るが、カエルは寝室にまであがりこんできていた。図々しいカエルを見て王女は怒りのあまりカエルを壁に叩きつけるが、そのおかげでカエルの魔法が解け、立派な王に戻る。これまでの無礼を詫びた王の求婚を受け、二人は幸福な結婚をする。翌日、王の国から迎えの馬車が来る。馬車に同乗していた王の忠実な家来・ハインリヒは、胸に3本の鉄の帯を巻いていた。これは主人がカエルにされたときに、悲しみのあまり胸が張り裂けないようにはめたものだった。主人が助かったため、喜びのあまり1本ずつはじけて帯がはずれる。非現実的な話なのに、ものすごくリアルですよね。王女がカエルを嫌がる感情描写もリアルだし、カエルを壁にたたきつける描写もリアルです。ちなみに「かちかち山」でたぬきがおばあさんを殺してしまう場面でも、ただ「殺してしまいました」というだけの表現ですからね。グリムだったら「殺し方」まで言うのでしょうね。日本の昔話では「感情描写」も、「情景描写」も、「服装描写」も、「行動や行為の描写」もでてきません。あるのはただ「むかしむかしあるところに・・・」という「抽象化されたあらすじ」だけです。その視点はあくまでも「俯瞰的」です。でも、それ故に日本の昔話は安心して聞いていることが出来るのに、グリム童話などは怖いのです。「カエルの王様」のカエルも、「狼と七匹」のオオカミもリアルで怖いのです。以前、小さな子どもたちと「狼と七匹」の劇遊びをやったのですが、泣き出してしまう子が数人いました。「ガラガラドン」遊びでも泣いてしまう子がいます。でも、日本の昔話では「ならなしとり」や「三枚のお札」のようなお話しで遊んでも子どもは泣きません。ヨーロッパの子どもたちは泣かないのでしょうか。それと、グリムなどでは「善悪」が明確に語られています。嘘をつくこと、契約を破ることは確実な悪として語られています。そして、「何をしたか」「何をしなかったのか」という行為が具体的に語られています。また、ヨーロッパの昔話には、「魔法」や「魔女」が出てくるのも特徴です。日本の昔話には「魔法」も「魔女」も出てきません。不思議な術を使う「やまんば」や「雪女」は出てきますが、彼女たちは不思議な能力を持っているというだけであって、「魔女」ではありません。だから変身や変化(へんげ)はできますが、魔法を使うことは出来ません。つまり、自分の姿を変えることは出来るのですが、他の人の姿を変えることは出来ないのです。それに対して、「魔法」は「自分」ではなく、相手を思い通りに変える能力です。日本人は相手を変える力には興味がなかったのでしょう。ちなみに、日本ではその魔法のような力は「魔女」ではなく、「仏様の力」です。「たにしちょうじゃ」は、魔女の呪いによってではなく、おじいさんとおばあさんが仏様にお願いして生まれました。最後に「たにし長者」が素敵な若者になるのは、魔法がとけたからではなく、仏様に願いが通じたからです。そこにあるのは相手をうち負かした勝利ではなく、困難を乗り越えて得ることが出来た「ご褒美」です。一寸法師が最後に立派な若者になるのも、桃太郎が鬼の宝物を手に入れるのも、戦って勝ったからではなく、困難を乗り越えた「ご褒美」です。一般的に、日本の昔話で不思議なことが起きるのは信心や徳のある行為へのご褒美が多いように思います。でも、グリムなどでは災いをもたらすものとして「魔法」が出てきます。そして、それと戦って勝つことで魔法が解ける、というパターンが多いように思います。だから魔女は、「魔女狩り」の対象になるのです。それと、多分ヨーロッパの人にとっては憂鬱質の人こそが「魔女」のイメージだったのではないかと思います。実際、なぜか憂鬱質の人には黒い服が好きな人が多いのです。
2010.07.09
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今、子ども達と遊んでいて非常に気になるのは、自分がやりたいことばかりやって、「役割」を交代しない子が非常に多いということです。縄跳びをしていても、ヒモを回す役割を交代しようとしません。それで「交代してあげて」というのですが、「だって飛んでる方が楽しんだもん」というような答えが返ってきます。鬼ごっこをしていても、鬼を交代しません。捕まったら「ぼくやめる」と言って抜けてしまったり、捕まりそうになると「タンマ」といってバリアーを張る子がいっぱいいて、最初に鬼をやった子が、いつまで経っても「鬼」のままです。逆に、「鬼」が好きな子がいて、「ぼく、ずーっと鬼でいいよ」などと言う子もいます。でもそれでは「鬼ごっこ」ではありません。昨日も、同じようなことで子ども達の遊び場を作ろうとしているお母さん達から相談を受けました。幼稚園児や小学生が混ざって鬼ごっこをしている時、小学生達が小さい子に「鬼」を押しつけ、自分たちは逃げるばかりで鬼を交代しないというのです。そして、捕まりそうになると「タンマ」と言い、捕まってしまったら「おれ、鬼やりたくないからやめた」と言って抜けてしまうというのです。私の体験としても、遊びの場などで同じような体験がよくあります。そして、ルールを守らない子どもに注意しても、「だって楽しんだからいいでしょ」とか、「何をしてもぼくの自由でしょ」などというようなことを言う子も少なくありません。でも、子ども達のこのような状態は、子ども達の責任ではありません。「役割を交代する」とか「ルールを守る」ことによって生まれる楽しい遊びを体験することなく、7才を過ぎてしまっているだけのことだからです。また、現代社会では、子ども達はあまりお手伝いをしませんから、家庭の中でも「役割」の体験がありません。「○○ちゃんはこれを洗っておいてね」というお手伝いも、「洗う」という役割を引き受けることなのです。でも、子ども達がこのままの状態で大人になってしまったら、あきらかに社会全体が非常に困ったことになってしまいます。というか、もうそういう大人がいっぱいいます。そのような人は、誰かが企画してくれれば喜んで参加します。でも、いつまで「お客さん」のままで、「美味しいところ」だけを味わってさっさと帰ってしまいます。市民講座を企画している公民館などの人に話を聞いても、公民館が企画して、責任を持ってやっている時には大勢参加してくれるのに、「そろそろ私たちは手助けをする側に回りますから、皆さんが中心になって企画して運営して下さい」と役割を受け渡そうとすると、パッとみんな消えてしまうというのです。意識の高い有志が集まって、仲間作りのための企画を立てても、「お客さん」としては大勢来てくれるのですが、みんな「お客以上」の立場にはなろうとしません。そしていつまでも企画してくれる人に、「オンブ」と「抱っこ」を求めます。そのくせ、何かあると責任だけはしっかりと追求してきます。幼稚園や学校などの役員も同じです。みんな「役割」から逃げようとするのです。それで、そんな状態に耐えられない責任感の強い人が、いつもその「役割」を引き受けることになります。だからといって、役割から逃げ回っている人たちは役員を引き受けてくれた人に感謝せず、ワガママばかり言って、素直に役員の言うことを聞きません。今、「鬼ごっこ」で遊んでいるのに、「鬼」という役割を引き受けない子ども達と同じような大人がいっぱいいるのです。このような大人は、自分の権利と自由はしっかりと主張します。そして、「義務を引き受けない自由」までもあると思い込んでいます。そんな自由まで認めてしまったら社会が崩壊してしまうのですが、そんなことには関心がありません。さらに問題は、夫婦関係や子育てという場でも、お互いのパートナーに対してその「権利と自由」を求めている人が多いということです。夫婦が役割を引き受け合わず、お互いに義務を押しつけ合う関係になってしまっているのです。先日、一才前後の幼児の兄弟が、車の中に放置されたまま死んでしまった事故がありましたが、奥さんが一人乗せ、ご主人が一人乗せ、お互いに相手が子どもを保育園まで連れて行ってくれるだろうと思い込み、そのまま放置してしまったそうです。こんな時、どちらかが「今日は私が連れて行くね」と役割を引き受けていたなら、こういう事故は起きなかったのです。また、子どもに対しても、平気で「個人の自由と権利」を求めるようなお母さんもいます。そのようなお母さんは自分の時間や自由を得るために、子どもを放置したり、テレビやゲーム機やおもちゃに子育てをさせたり、幼いうちから子どもを保育園などに預けようとします。経済的な理由などで、しょうがなくて子どもを保育園に預けるなら、それはしょうがないことです。子どもは寂しい思いをするかも知れませんが、少し大きくなれば、「自分を育てるためにお母さんは頑張ってくれたんだ」と理解し、受け入れてくれるでしょう。でも、最近は、自分の時間や自由を得るために子どもを保育園に預けようとするお母さんも多いようなのです。そのような人は、「仕事をするから子どもを預ける」のではなく、「子どもを預けたいから仕事をする」という逆の論理を使います。当然、そのようなお母さんは子どもと一緒の時にも積極的に関わろうとはしないでしょう。そして、「衣食住の世話をして、ケガや病気をしないように見張っていれば、母親としての責任は果たしている」と思い込んでいるでしょう。また、その問題点を指摘したとしても、実際問題として「それ以外に何をしたらいいのか」ということが分からないと思います。そのようなお母さん達でも子どもを愛していないわけではないのです。ほとんどのお母さんは子どもを愛しています。でも、「ペットの世話」と、「人間の子どもの育て方」の違いが分からないのです。これは知識の問題ではなく、感覚や体験の問題だからです。いっぱい本を読んでも、いっぱい色々な講座に参加しても、一般的にそのような方法で得られるのは「知識」ばかりです。でも、世の中には自分で体験しなければ分からないこともいっぱいあるのです。そして、子育てでは必要になるのは、「知識」よりもそっちの方なのです。だから人は、知識によってではなく、自分が育てられたように子どもを育てようとしてしまうのです。そして、「分かっているけど出来ない」ということで、自己嫌悪に陥ります。(だから私は講演ではなく、ワークショップという形で実際に体験することを重視しています。)子どもは「つながり」の中で育ちます。そして、「つながり」の中でないと育ちません。それは「つながり」の中で育った人には当然のことです。だから、「つながり」の中で育った人は、我が子ともつながろうとします。そして「つながり」の中に「幸せ」を感じます。そのような体験の中で、子どもも「つながること」の喜びを体験します。またそのような人は、「役割」を単なる「義務」や、「退屈」なことや、「嫌なこと」とは考えません。役割を引き受けることによってしか体験することが出来ない楽しい世界があることを知っているからです。鬼ごっこでは、「逃げる側」はただ反射的に逃げ回るだけです。でも、「鬼」は色々考え、工夫します。そうしないと捕まえることが出来ないからです。そして、工夫と努力の結果誰かを捕まえると、工夫と努力が報われた喜びを得ることが出来ます。「鬼の役割」ではそれが面白いのです。でも、そのためには一生懸命に「鬼」をやる必要があります。嫌々やっていたり、逃げる時と同じようにただ追いかけているだけでは誰も捕まえることが出来ないのです。その結果、「鬼の喜び」を体験することが出来ません。だから、鬼をやりたがりません。一生懸命にやるから楽しくなるのです。でも、「一生懸命にやって楽しかった」という記憶がないから一生懸命に取り組みません。だから、楽しくありません。だから、一生懸命にやりません。また、今の子達は一生懸命に何かに取り組むことが出来るほどの体力と気力を持っていません。普段から「からだを使った遊び」をしていないからです。そのため、走り回るとすぐに疲れてしまうのです。子ども達が「鬼」をやりたがらないのは、「鬼は走り続けなければならないから」ということも大きな理由だと思います。今、子ども達は、こんな困った悪循環に陥ってしまっています。
2013.03.21
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現代人は知育教育が大好きです。そのため、幼いうちから知育おもちゃを与えたり、色々なことを教えたり、「○○教室」に通わせたりしています。「何十万円もする知育おもちゃを買って与えた」というお母さんもいます。テレビも、NHKの教育的な番組なら良い効果があると信じて、ズーッと見せているお母さんもいます。コンピュータゲームも脳のトレーニングになると思い込んでいるお母さんもいます。でも、その結果、現代の子ども達の方が遊んでばかりいた昔の子ども達より賢くなったのかというと、決してそんなことはないような気がします。テストの成績に関しては分かりませんが、造形という場で30年以上も子ども達と関わってきた私の体験から言えるのは、むしろどんどん子ども達の能動性や工夫力が失われてきているということです。簡単に言うと、知識はいっぱいあるのに「考えることや学ぶことを楽しむ子ども達」が激減してしまっているのです。考えることを楽しむことが出来ない子は、造形活動を楽しむことが出来ません。そして、これは子ども達の科学離れとも関係しています。今、子ども達の科学離れを食い止めようとして、「楽しい実験」などを色々と体験させるような企画が色々なところで行われていますが、そんなことをしても「考える楽しさ」が伝わらなければ、科学離れは止まりません。もうすでに確立されている、「仮説実験授業」という「対話を使い、考えることを大切にした授業方法」もありますが、今、色々なところで行われているのはそれとは異なり、「考えること」を抜きにした、単なる「楽しいイベント」に過ぎません。最近はあまり見かけませんが「でんじろう先生」も同じです。あれは、単なる「科学ショー」に過ぎません。また、考えることを楽しむことが出来ない子は、科学や造形を楽しむことが出来ないばかりか、大人になってからも「仕事を楽しむことが出来ない」「子育てを楽しむことが出来ない」ということになります。工夫したり、能動的に取り組むことを楽しむことが出来ないからです。そして、楽しむことが出来ない人の所には「喜び」もまたやってきません。ここで問題になっているのは、「出来るか出来ないか」という能力の問題ではなく、「楽しむ」という感覚や感情の問題です。そして、その「楽しむ能力」は、「感覚の育ち」や「感情の育ち」とセットにして育てないことには育たないのです。それに対して、いわゆる「早期教育」という方法が対象にしているのは、「頭の能力」だけです。でも、「感覚」や「感情」とつながらず、「頭」だけに働きかけろ教育法は、感覚や感情の育ちを阻害してしまいます。楽しむことが出来る子は、追い立てなくても、自分で色々なことに取り組みます。「学ぶ楽しさ」を知っている子は、「勉強しなさい」などと言わなくても勉強します。「作る楽しさ」を知っている子は、「作りなさい」などと言わなくても作ります。小学生頃までは、効率的に教え込まれた子の方が成績も、能力も高いかも知れませんが、「楽しさ」を知ることが出来なかった子は、「楽しさ」を知っている子に次第に抜かれていきます。実は、子育てや子どもの教育において、一番大切なことは、この「楽しむ能力」を育てることなのです。子ども達はお母さんと触れ合うことで、「触れ合いを楽しむ能力」を育てます。この能力は、子どもの人間関係作りに非常に大きな影響を与えます。触れあうことを楽しむことが出来ない人は、人の近くに行くと緊張してしまったり、人が怖くなってしまうのです。また、感情の形成にも悪い影響を与えます。人間の感情の原点は「皮膚感覚」だからです。また、お母さんと遊びながら、「一緒に活動することを楽しむ能力」を育てます。一緒にお料理を作ったり、一緒にお散歩に行ったり、一緒に歌ったりしながら、「生きるということを楽しむ能力」を育てます。楽しいお話をいっぱいすることで、「会話を楽しむ能力」を育てます。何かを教えたい時や、何かを伝えたい時は、一緒に考え、一緒に学ぶことです。それが「正解かどうか」などということは関係ありません。これは学校の授業でも同じです。「正解」を教え込もうとするから、勉強が退屈で苦痛なものになってしまうのです。その結果、能動的に考えることが出来なくなるため、応用問題や記述問題が苦手になります。そうではなく、「学び、発見する楽しさ」を伝えるような授業をすれば、子ども達は勉強が好きになるのです。でもそのためには、大人達が「楽しむ能力」を育てる必要があります。大人が楽しくないのに、子どもに「楽しさ」を伝えることは出来ないからです。算数が大好きな先生の授業を受けた子は、算数が好きになります。歌うことが大好きな先生の授業を受けた子は、歌うことが好きになります。そういうもんです。ですから、子どもに「生きる喜び」を伝えたいのなら、お母さん自身が生きることを楽しむことを通して、「生きる喜び」を発見して下さい。とはいっても、楽しむことが出来ない人に「楽しんで下さい」と言っても無理ですよね。じゃあ、どうしたらいいのかということですが、そのためには、「頭の働き」ではなく「感覚の働き」を活性化させる必要があるのです。「Don't think! feel.」(by ブルース・リー)お勉強でも「頭に働きかける勉強法」ではなく「感覚に働きかける勉強法」の方が「楽しい」という感覚を目覚めさせてくれるのです。(シュタイナー教育はそういう方法を使っています。)家事や子育てが楽しくならないのは頭ばかり使って、感覚を使っていないからなんです。
2023.06.30
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最初にちょっと告知です。12月2日(日)に「クリスマスの飾りを作ろう」という会をします。ご興味のある方は「チラシ」をご覧になって下さい。*********************セージさんが書いて下さったように、罪悪感は「叱られる」ことによってではなく、自分にとって「大切な人」が悲しむ姿を見て、育っていきます。その「大切な人」とは仲間であったり、お母さんやお父さんであったりします。子どもは叱られるのが嫌いですから、繰り返し叱られることを通して、「叱られないようにするにはどうしたらいいのか」ということを学びます。そのため、要領のよい子はお母さんの見ている前でだけ「よい子」になります。要領の悪い子はいつも叱られて、自己肯定感を失っていきます。子どもは大人に叱られることで「大人の価値基準」を学ぶことは出来ますが、だからといって「罪悪感」が育つわけではありません。ちなみに、「なんべん言ったら分かるの」などと叱っても叱っても変わらないようなことは、子どもにも出来ないことですから、叱らないでやって下さい。人間には自分の意思でコントロールできることと出来ないことがあるのです。それは大人でも同じですよね。自我の育ちが未熟な子どもの場合は大人よりそれが多いのです。また子どもは、褒められるのが大好きですから、褒めることで子どもの行動をコントロールしようとしているお母さんもいっぱいいます。でも、本当に褒められて嬉しいのは、「褒めてもらいたいこと」を褒めてもらった時です。つまり、大人の価値観によってではなく、子ども本人の価値観によって褒めてもらった時、子どもは喜ぶのです。簡単に言うと、子どもが「みて みて」と笑顔でやって来た時に褒めてあげると、子どもは喜ぶのです。「自分の喜び」と「お母さんの喜び」が一致している時、子どもは幸福を感じるのです。そして、そうでない時は、悲しみを感じます。それは大人でも同じですよね。ですから、お母さんの都合だけで褒めていたら子どもは育ちません。また、単なる方法論としての「褒める子育て」の場合は、子どもは褒められることで「どのようなことをお母さんは喜ぶのか」ということを学んでいきます。それだけのことです。ですから、この場合も「罪悪感」は育ちません。それに対して、自分が大切にしているものを失った時の悲しみを知っている子は、人のものを取ったりはしません。人が死ぬ悲しみを知っている人は、人を殺したりはしないのです。「大切なドングリ」がなくなってしまった時、「そんなものまた拾いに行けばいいじゃない」と言うのではなく、お母さんがその悲しみに共感してあげている時、子どもの「罪悪感」が育っていくのです。仲間とケンカして泣いている時、「なんでそんなことで泣くの」と言うのではなく、「悲しいね」と共感してあげている時「罪悪感」が育っていくのです。子どもは共感されることで、「共感する能力」が育っていくのです。そして、「罪悪感」とは、その「共感する能力」から生まれるものなのです。重い荷物を持って苦しんでいるお年寄りを見て、何もしなかったことに罪悪感を感じるような人は、そのお年寄りの気持ちが分かる人なのです。イジメをしない子、イジメを見て悲しくなる子は「いじめられている子の悲しみ」に共感できる子です。「イジメは悪いことだ」と教えられている子ではありません。 でも、テレビや新聞などを見ていると、どうも多くの人がこのことが分かっていないようです。だからこそ、罪悪感の育ちのためには、共感によってつながっているような大切な仲間や、親子のつながりが大切なのです。最近、罪悪感の薄い子が増えてきたということは、社会や家庭や学校の中から、その「共感によるつながり」が失われてきたということなのでしょう。ちなみに、競争は共感を破壊します。
2012.10.30
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今日からちょっとテーマを変えます。子どもの状態は気質によっても大きく影響を受けていますが、その年齢や成長段階からも大きく影響を受けています。そして、大人と子どもの違いは大人が思っている以上に大きいものです。だから、大人達は子どものことが理解出来ず、また、子どもとコミュニケーションを取るのも困難で、仕付けも失敗し、「子どものために」と色々とやることが逆効果になったりするのです。確かに、人間の場合、子どもと大人は多少大きさや人体のプロポーションが異なるだけで見かけ的にはよく似ています。そのため、ほとんどの大人が、子どもと大人の間には「未熟と成熟」という違いはあるとしても、それは「量の違い」に過ぎず「質の違い」だとは思っていません。子どもが大人の言うことを理解出来ないのは、まだ体験が少ないから、まだ知識が少ないから、まだ考える力が弱いからに過ぎないと思い込んでいるのです。だから、「厳しく言ったり、丁寧に教えたりすれば大人の言うことも理解出来るはずだ」と思い込んでいます。でも実際には、その中身は「オタマジャクシとカエル」、「セミの幼虫とセミ」、「芋虫とチョウチョ」ほども違うのです。オタマジャクシを陸に上げて、いくら丁寧に歩き方、ジャンプの仕方を教えても、オタマジャクシの生命力が萎えていくばかりで少しもそのようなことを学ぶことが出来ません。セミの幼虫や芋虫に空を飛ぶ練習をさせても無駄です。そういうことは教えなくても時期が来たら自然と出来るようになるのですが、時期が来ないことにはどんなに頑張って教えても無駄なんです。それどころかそんなことをされたら、幼虫(子ども)は、その時期に必要なことを得ることが出来なくなり、その生命力を萎えさせてしまうばかりです。オタマジャクシとカエルでは必要なものも、生きている世界も違うのです。セミの幼虫とセミでも、芋虫とチョウチョでも同じです。もちろん、皆さんもそのくらいは知っていると思いますが、実は人間の場合でも、子どもと大人の間にはそのような「質的な違い」があるのです。その理解がないと、「子どものため」と思って行う子育ても教育も、結果として子どもの生命力を萎えさせてしまうことになってしまいます。実は、子どもは大人とは考え方も、感じ方も、意識も、動き方も、生きる目的も違うのです。そもそも生きている世界が違うのです。でも、そのことを知るためには、まず大人が大人のことを知る必要があります。現代人の意識は「視覚」によって支えられています。そして、目で見える世界だけが「現実の世界」だと思い込んでいます。そして、子どもも他の人も、自分と同じように見えていると思い込んでいます。ズーッと赤色のメガネをかけて生活してきて、自分が赤色のメガネをかけていることを知らない人は、他の人も自分と同じように世界が見えているはずだと思い込みます。それと同じです。気質においても同じようなことが起きています。昨日書いたことはそのようなことです。古代の人たちは「目に見える世界」は「目に見えない世界で起きていることの結果だ」と思っていました。例えば、「カミナリは神様と神様が戦っているからだ」というような解釈です。でも、現代人はその「見えない世界の物語」を「科学」に置き換えてしまいました。だからといって「見えない世界」はそのままなのですが、それを「物語」としては解釈しなくなったのです。現代人は「物が落ちるのは重力があるからだ」ということを知っています。でも、だからといって「重力ってなあに」ということを知っているわけではないので、結局の所、何にも知らないのですが、「重力」という知識によって思考が停止し、想像力によってその不思議を理解しようとはしなくなったのです。そして、どうして大人の意識の世界ではそのような変化が可能だったのかというと、大人には「知識」によって物事を理解する能力があるからです。だから「物語」を「知識」に置き換えることが出来たのです。「神様の物語」を「科学の理論や知識」に置き換えることが出来たのもそのためです。でも、子どもにはそれが出来ないのです。だから子どもには古代の人たちと同じように「物語」が必要なのです。なぜなら、子どもは「知識」ではなく、「体験」を通してしか理解することが出来ないからです。子どもに、どんなに丁寧に、そしていっぱい知識を教えても、子どもはその知識を使って考えることが出来ないのです。これは年齢による生理的な状態なので、大人がいくら教えても無駄です。「知識」を使うことが出来るようになるためには、まず「知識の意味」を知る必要があります。そのためには、まず「体験」が必要なのです。幼い子ども達は、いっぱい色々な体験をし、その体験を通して考える能力を育てています。体験が「子どもの思考論理」を作るのです。だから子ども達は色々なことにチャレンジするのです。ですから、異なる体験を通して育った子どもは、異なる思考論理を持つことになります。そして、「考える力」が充分に育つことで初めて「知識」の意味と使い方を理解することが出来るようになるのです。そのため、体験を通して考える力を育てている7才前の子ども達に「体験」ではなく「知識」を与えてしまうと、子どもは「体験」を求めなくなり、「考える力の育ち」が阻害されてしまうのです。
2013.09.03
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現代人に求められているのは、生活の役には立たないような多くの知識と、お金や情報などを使いこなす能力であって、特別な立場の人間以外「何かを創造する能力」は求められていません。実際、家庭でも学校でもそのようなものを育てようなどとはしていません。また、育て方も分かりません。それにそんなものを育てようとしていたら、競争社会では落ちこぼれてしまいます。「何かを創造する能力」は他の人と比較することが出来ません。点数を付けることも、言葉で教えることもできません。塾に通わせても、お金をかけて教育しても育てることは出来ません。昔の人は必要に迫られて、「創造する能力」を身につけましたが、何でも便利なものが揃ってしまっている現代では「創造する喜び」を体験する以外に「創造する能力」を育てようがないのです。そしてそのためには、急がせない、束縛しない、比較しない、評価しない関わりと、素朴で刺激が少ない生活と、創造を楽しむ大人達に囲まれていることが必要です。子どもは楽しそうに創造している大人を見て創造することにあこがれ、楽しそうに消費している大人を見て消費することにあこがれるのです。そして、創造を喜ぶことができる人は消費に依存しません。逆に、消費に依存している人は自分で創造しようとはしません。また、自分で創ることに意味や喜びを感じることもできません。つまり、「何かを創造する能力は」近代社会が目指してきた方向とは全く異なる方向に存在しているのです。そしてまた、人類がこれから大量生産、大量消費から脱却して目指すべき方向に存在しています。でも、その近代社会も実際には少数の「創造する人達」によって支えられています。そういう人達がいるから毎日のように新製品が生まれたり、私たちはファッションや音楽を楽しむことが出来るわけです。ただ、現代社会ではそのような人は少数だけいればOKです。残りの人はその少数の人達が創ったものを買うお金を持っていればいいのです。現代社会は、少数の人達が創造したものを機械などで大量生産して、マスメディアで宣伝して、様々な媒体を通して消費者に買ってもらうことで成り立っているからです。ですからむしろ、近代社会の「大量生産」と「大量消費」のシステムを支えるためには、「創造する人」は少数でなければ困るのです。みんなが自分でファッションを考え、自分で音楽を作り、自分で野菜を育て、自分でお料理を創作するような社会になったら、近代的な経済システムは崩壊してしまうのです。画家は絵を買わないし、農家は他の農家から野菜を買ったりはしないのです。近代社会を維持するためには、「創造する人」ではなく、大量の「消費する人」が必要なのです。でも、昨日の話とのつながりで言うと、その状態が長く続くと社会全体の活力が失われ、次第に内部から崩壊していきます。人は消費するだけでは「生きている喜び」を得ることが出来ないからです。でも、一度「大量生産」と「大量消費」に基づく社会の形ができあがってしまうと、人はその形を維持することだけに一生懸命になります。消費することに依存している人間は消費することだけが喜びになってしまうからです。だから、学校教育では子どもたちの「創造する能力」を育てるようなカリキュラムが全く存在していないのです。そういうことは「一部の専門家の仕事だ」というように位置づけているのだと思います。そして、買い物をするために必要なお金を稼ぐための能力ばかりを育てようとしています。今や、そのような価値観は日本人の多くに浸透しています。そして、「どれだけお金を稼ぐことが出来るか」、「どれだけお金を使うことが出来るのか」ということがその人の社会的ステイタスを計る物差しにもなっています。子どもたちもまた、「○○のカード(ゲーム)持っている?」「ぼく貯金が○○円あるんだ」「○○買ってもらったんだ」「この前、ディズニーランドに行ったんだ」「うちなんかバリに行って来たんだ」というような「お金に関係するような話題」で盛り上がるばかりで、昔の子どもたちのように群れて遊ぼうとはしません。それは、遊びを知らないからだけではなく、遊びを創造することができないからでもあるのです。遊び上手な子は、遊びをいっぱい知っている子ではありません。遊びを創り出すことが出来る子が「遊び上手な子」なんです。これは大人でも同じです。遊びをいっぱい知っている大人が子どもと上手に遊ぶことが出来るのではなく、遊びを創り出すことができる大人が子どもと上手に遊ぶことが出来るのです。でも、保育園や幼稚園の先生ですらそのことを知らない人がいっぱいいます。私が公民館などの企画で親子遊びの講座をやる時にも、よく担当の人から「どのような遊びをするのか教えてください」というメールが来ます。でも、「遊び」には決まった形などありません。形をなぞるのは「作業」であって遊びではありません。講習会で教えることが出来るのは「遊びの標本」であって、「遊びの楽しさ」ではありません。大人は「標本」でもいいのですが、子どもは「標本」は嫌います。生命が宿っていないからです。だから講習会などで学んできた遊びを、子どもたちに遊ばせようとしてもそっぽを向かれてしまうのです。「遊び」というものは、それ自体がもともと「創造的な活動」なのです。遊びが楽しいのはそれが創造的だからです。だから形にはこだわらないのです。常識にとらわれる人間には創造は出来ないのです。(でも、常識を知らない人間も創造は出来ません。)だからいつの時代でも芸術家は常識にとらわれないのです。
2011.11.05
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動物が危険や恐怖を感じた時には「戦う」、「逃げる」、「固まる」という中のいずれかの行動を取ります。人間もまた危険や恐怖を感じた時にはこの三つの中のいずれかの行動を取ろうとします。気質との絡みで言うと、胆汁質は戦い、多血や粘液は逃げ、憂鬱質は固まる傾向が強いような気がします。ピノコさんのお子さんの状態は、この、憂鬱質の「固まる」という反応だろうと思います。その時、自分の気持ちを説明するために「人が見ているから~するのがイヤだ」と言っているのだろうと思います。それはまた、幼稚園の中で自分が受け入れられていないように感じていることの表れでもあると思います。これは「自我意識」と似ていますが、「自我意識」ではありません。しいて言えば「自意識」です。「自意識」が強い人は人の目を気にします。その時、自分の意識は自分の中に閉じ籠もりっきりです。相手の立場に立って考えているわけではありません。自意識が強い子は、絵が上手に描けなくたって誰も文句も、非難もしないし、笑われもしない状況でも、勝手に自分の中に「文句を言う存在」「笑う存在」を作り上げて、怖がるのです。つまり、自分で作った物語に縛られてしまうのです。それに対して、「自我意識」とは「人目」を気にすることではありません。そうではなく、「自分自身のことを冷静に見る」意識のことです。ウィキペディアには「自己を対象とする認識作用のこと」と書いてあります。ですから、「自我意識」がしっかりとしている人は、「相手の立場に立って物事を考える」ということができます。そしてこれは人間にしかない能力です。この能力があるから人間は客観的に物事を見たり、考えたりすることが出来るわけです。そして、この能力は思春期が近くなると目覚め始めます。ですから幼稚園児にはありません。ちなみにこの自我意識の目覚めには個人差が大きく、大人になっても自分のことを客観的に見ることが出来ない人もいっぱいいます。また、何らかの精神的なトラブルでそのような状態になってしまう人もいます。そのような人は「思い込み」だけで自分のことや他の人のことを判断してしまいます。そして、「思い込み」と「現実」を区別することが出来ません。幼児は全くこの状態です。(大人にとっては困った状態ですが、幼児にとっては自然な状態です。)それがひどくなると「統合失調症」になります。これを「自我意識の障害」と呼ぶようです。ですから、このような人が一度悩みや苦しみにとらわれてしまうと、なかなか抜け出すことが出来なくなります。そして、他の人を非難、攻撃し始めます。自分を見つめることが出来ないので、苦しみの原因は全て他の人のせいだと思い込んでしまうのです。それに対して、「自意識」は人間以外の動物にもあります。動物達も他の個体の目や人目は気にしています。だから猿などでもボスの前では小さくなって、自分より下位の相手に対しては態度をでかくするのです。臆病な犬が知らない人に吠えるのも同じです。自我意識がしっかりとした人は人目がなくても、自分で自分をコントロールすることが出来ます。人目に振り回されません。それに対して、「自意識」だけで動いている人は、人目に合わせて行動するばかりなので、人目がない状態ではどうしていいのか分からなくなります。つまり、「自由にしていいですよ」と言われると困ってしまうのです。現代人は「自意識」ばかりが強くて「自我意識」があまり育っていません。だから「幼児化」してしまっているのです。そしてそれが学力の低下や、科学嫌いとつながっているのです。全ての学問は「自我意識」の産物だからです。また、自分のことを客観的に見ることが出来ないから子育てでも、子どもを虐待してしまうのです。では、この「自我意識」をどのように育てたらいいのかという問題です。実はここで必要になるのは「学ぶこと」(入力)と「表現する」(出力)ことなのです。学ぶだけでは自意識ばかりが強くなります。他者による正解ばかりが多くなるからです。表現するだけでは思い込みばかりが強くなります。自分だけの正解ばかりが多くなるからです。でも、この二つがつながる時「考える」という働きが目覚めます。科学について学びます。そして、それを実験(表現)で確かめようとします。でも、事実は知識通りにはなりません。それで考えます。そして、また学びます。そしてまた実験します。この繰り返しで、「事実とは何か」ということを見る目が育っていくのです。そして、その繰り返しが「自我の育ち」を支えてくれるのです。このように見ていくと、どうして今の日本の子どもたちの自我の育ちが遅れてしまっているのかがよく分かります。家庭の中にも教育の中にも「表現能力」を育てる場がないからです。
2010.09.04
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私は子どもの育ちにおける「言葉の学び」の意味と重要性を強く感じています。でも、簡単で便利な生活に浸りきっている現代の子ども達は、ますます「言葉」を失ってしまっています。というか、社会全体から「言葉」が消えつつあるので、子ども達は大人よりも早くその変化に順応しているだけなのだろうと思います。そして、これは日本だけでなく世界中で起きている現象でもあります。そんな現代人は「言葉」より「映像」の方に価値を感じます。「百聞は一見にしかず」ということわざがありますが、「まどろっこしい言葉でダラダラ説明しても、実際に見せてしまった方が話が早い」ということなのでしょう。そしてその方が「手っ取り早い」ことを重視する現代人の感性にも合っているのでしょう。名作をダイジェストで読むだけで満足する人達ですから。確かに、映像で見ると分かりやすいです。でも実はそこに非常に大きな落とし穴があるのです。「映像」は「事実」を見せることによって、単に「分かった気」にさせてくれるだけだからです。でも、現実の世界は、「見て分かる」ほど単純なものではないのです。実際、同じ「事実」を見ても、「その事実から何を読み取ることが出来るのか」ということは、その人の「言葉力」によって全く異なっているのです。「言葉」をしっかりと学んだ人は、「見える世界の裏側」を知っているので、「映像」からも多くを知ることが出来るでしょう。でも、「映像」ばかりを見て育った人は、ただ、面白いか面白くないかだけでその映像を判断してしまうのです。図や言葉だけで「ノコギリの使い方」を理解するのはなかなか困難です。でも、映像で見せてしまえば簡単に伝えることが出来ます。そして、子どもはすぐに「分かった気」になります。「やり方動画」を見ただけで自分も出来るようになったと勘違いしてしまう子もいます。でも、「分かった気」になることと、「実際に出来る」ということとは全く別問題です。私は、そういう実例をしょっちゅう見ています。情報を知り、分かった気になるだけでもテストではいい点数をとることができますが、造形などの実際の現場ではそんなもの役に立たないのです。このような時、「知らない」ということを自覚している子は説明に耳を傾けてくれますが、知ったつもりになっている子は耳を傾けてくれません。実際の現場では、ノコギリをひくときの抵抗、自分の手首の緊張、からだの使い方、呼吸など映像化することが出来ない様々な問題が複雑に絡んでいるのです。それらは言葉では説明できますが、映像では映せないのです。おいしいお料理の味も、言葉で説明する以外には伝えようがありません。映像から分かるのは「おいしそう」というだけのことであって、実際の味ではありません。私たちが生きている世界は、「言葉」を使わないことには伝えることも、理解することも出来ない事に満ちているのです。「人の心」もまた然りです。「他の人の心」を理解するためには、「その人の言葉」を聞く以外にないのです。それは決して映像化できないのです。人類は、自分が「生きている世界」を理解するために、言葉を使って哲学や、文学や、科学や、宗教や、様々な学問を創り出してきました。科学実験の映像を見ても、そこには必ず「言葉による解説」がついています。映像だけ見せても、何のことか分からないからです。子ども達は「実験」が好きですが、でも、言葉を失った子ども達は「説明の言葉」には耳を傾けません。だから、科学への興味も理解も深まらないのです。そこにあるのは、「真理を探求するための実験」ではなく、「へーすごい」という面白さを求める「アトラクション」のようなものに過ぎません。でも、「言葉による理解」を得た子は、わざわざ実験などしなくても、日常的な自然現象の中に「不思議」を見ることが出来ます。わざわざ、実験室で「落下の実験」など行わなくても、そんなもの家の中でも森の中でも簡単に見ることが出来るのです。「言葉」で「真理」を語ることは出来ますが、「映像」で真理を語ることは出来ないのです。「映像」はただ「事実」を見せてくれるだけです。そして、そこから「真理」を抽出するためには「言葉」が必要になるのです。毎日、ニュースで世界中の映像を見ていても、その背景にある真理を知るためには「言葉」が必要になるのです。その「言葉」を持たない人達は、「映像」によって簡単にだまされます。今日に話題と関係している記事を見つけました。忍耐力のないクレーマー、モノの価値がわからない客が増加中…いま「お客さんの劣化」が進む「深刻なワケ」こういう現象の背景にも、言葉の劣化の問題があるのです。説明を聞いても「その説明の意味」を理解することが出来ないのです。そのため自分で判断できないのです。
2024.11.17
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昔の人は「失敗は成功の母」というようなことを言いました。それは人間は試行錯誤を通して成長する生き物だからです。ロボットを作る時にはその動かし方において二種類の方法があります。一つは予め必要とされるデータを全て記録しておき、何らかの出来事と遭遇した時にはそのデータ中から適合するデータを選択し、さらにそのデータを元に予めプログラミングされた動きを行うというタイプのものです。このようなロボットの場合は一対一対応で、同じ状況ではいつでも同じ行動をします。そして、全体的な状況を判断することが出来ません。人が前に来たら「こんにちは」と言って握手するようにプログラミングされたロボットは、その相手が握手を拒否しても同じ行動をします。相手や状況に合わせて自分の行動を変化させるということができないのです。ですから同じ間違いを何回も繰り返します。間違いから学習することが出来ないのです。このようなロボットには絶対的な「正解」があり、その正解以外の反応は出来ません。その「正解」以外の行動をするようになった時には、そのロボットは「壊れた」と判断されます。人間でも、時々それに似た状態の人がいます。その「正解」はプログラムを作った人が決めた正解です。そのプログラムを作った人はそのロボットが遭遇するであろう状況を予め想定してプログラムを作ります。でも、どんなに優秀なプログラマーであろうと、そのロボットが遭遇するであろう全ての出来事を正確に予想するなどと言うことは出来ません。それが出来たら神様です。ですから、予めロボットの活動に制限を加えることでそのような不測の事態を避けようとします。それでも万が一、予測不能な出来事が起きたら事故が起きてしまう可能性があるので、すぐに動きを止めます。そのため、ロボットの動きから目を離すことができません。それでいつでも「モニター」をすることになります。工場などで働いているロボットなどにはこのタイプのロボットが多いようです。工場はいつも同じ出来事の繰り返しで動いているわけですから、このタイプのロボットが丁度いいのです。むしろ、ちゃんと同じことをやってくれないと困るのです。お役所の人はよく「前例がありません」という言葉を使うようですが、お役所の人もこのタイプのロボットと似ています。でもそれは、生きている人間を相手にするやり方ではありません。人間を相手にするロボットはこれでは困まるのです。人間の場合は相手がどんな反応をするのか予測が出来ないからです。ですから、人間を相手にするロボットには、相手の状況に合わせて自分の動きを変えていく柔軟さが必要になります。それを「学習型のロボット」といいます。その時に必要なデータは「予めプログラマーが作り与えたデータ」ではなく「自ら学んだデータ」です。その際「失敗」は非常に大切なデータになります。その失敗から学ぶことで、より自由度と精度を上げることが出来るからです。ロボットに卵をつかんで持ち上げさせるという動きをさせるとします。でも、最初は石を持つようにつかんでしまい、割ってしまうでしょう。でも、卵が割れてしまったらロボットはその状態をフィードバックさせて、自分の動きを変えて再挑戦します。それを何回か繰り返して、適切な力加減を学んでいきます。そうすると、もう卵を割らないで持ち上げることが出来るようになります。このタイプのロボットにおいては、「失敗」はデータを集めるために欠かせない大切な行為なんです。そして、失敗から学ぶことで、様々な状況において柔軟に能力を発揮することが出来るようになるのです。でも、予めプログラミングされているロボットの場合は、プログラマーがそのような状況を想定してプログラムを作っているのなら最初から失敗せずに卵を持ち上げることが出来ます。でも、卵以外のものには対処することが出来ません。この両者のタイプのロボットに一つの制限を加えます。それは「失敗を許さない」という制限です。人間の場合なら、「失敗は罪だ」「失敗したらダメな子だ」という価値観を植え込むことでこの制限を掛けることが出来るようになります。そのダメ度度合いを調べるのに最適な方法が「減点法」という方法です。日本の教育では一般的なあれです。すると、失敗の繰り返しによって学んでいる「学習型」のロボットは何にも出来なくなり、無能なままになります。潜在的な能力はあるのですが、その能力が開発されないままになってしまうのです。それに対して、行動パターンが予めプログラミングされているロボットの場合は、失敗しないのでその能力を発揮することが出来ます。ですから、このような制限のある状態ではプログラマーの指示通りに動くロボットが「良いロボット」ということになります。でももし、全てのロボットが最終的にはプログラマーの管理から離れなければならないように運命づけられているのだとしたら、どういうことになるのでしょうか。そして、人間の子どもはみんな親や、先生や、学校から離れて生きていかなければなりません。そんな時、失敗が許されない子育てや教育を受けた子は、身動きが取れなくなってしまうのではないでしょうか。「親ガチャ」という言葉は「失敗が許されない社会」だからこそ生まれた言葉だと思います。失敗が許されない社会では、初期値で結果が決まってしまうのです。
2024.11.19
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思考には「受動的思考」と「能動的思考」の二種類があります。座禅などで「無念無想になりなさい」と言われてもそう簡単に考えることを止めることは出来ません。人はどんな時でも、寝ているときでさえ考えています。夢の中でも考えています。考えたくなくても考えてしまいます。それが「受動的思考」です。この受動的思考は子どもでも大人でも誰でもできます。なぜならこれが「心の働き」だからです。人は生きている限り心の働きが止まることはないのです。でも、この思考と、問題を解決するための思考とは同じではありません。問題を解決するための思考は意識して集中しないと出来ないのです。つまり、考えようとしないと考えることが出来ないのです。それ故に「能動的思考」なのです。でも、考えようとするだけで考えることが出来るのかというとそんなことありません。この「能動的思考」は一つの技術なので、その技術を学んでいない子がどんなに一生懸命に考えようとしても考えることは出来ません。それは英語を学んだことがない子が英語を話そうとするようなものです。英語を学んだことがない子は叩かれても、叱られても英語を話すことは出来ません。本人が話したいと思っても話すことは出来ません。ちなみに「受動的思考」の方は日本語のようなもので、とくに教えなくても子どもは大人との関わりを通して自然と学んでしまいます。それに対して「能動的思考」は外国語のようなものなのでそのような場でちゃんと学ばないことには使えるようになりません。大人は考えようとしない子を見て、「なんで考えないんだ」と叱ります。でも、叱っても決して考え始めることはありません。そのような時、子どもは「受動的思考」によって「叱られないようなごまかし方」を一生懸命に考え始めるばかりです。こんな時は、叱るのではなく考える技術を伝える以外に子どもが考えるようになる道はないのです。ただ難しいのは、考えることが出来ない子どもを見て単純に「なんで考えないんだ」と叱ることしかしない人はその「考える技術」が未熟な可能性が高いと言うことです。ですから、そのような人が子どもに「考える技術」を伝えるのは難しいかも知れません。英語を話すことが出来ない人は英語を教えることが出来ませんから。更に問題なのは、大人になってしまってからではその「考える技術」を学ぶことが非常に困難になってしまうと言うことです。なぜならそのような人は「考える技術」の代わりに「考えなくても済む技術」を学んでしまっているからです。それがやっかいなんです。<続きます>
2009.01.11
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人間の脳は、欲望などを満たすための「アクセル的な働き」と、その欲望を抑制する「ブレーキ的な働き」の二つの働きによってコントロールされているそうです。野生動物は、基本的に「本能」という「アクセル的な働き」によって支えられて生きています。でも、猿や犬などの群れで生きている生き物たちは、群れのルールを守るために「ブレーキ的な働き」も必要になります。欲望に支配され自分勝手なことをやったら、群れから排除されてしまうからです。人間においては、そのブレーキ的な働きはさらに強くなり、自分の判断と意思で自分の行動を抑制することが出来ます。犬や猿の場合はただ単純に、「群れのルール」に従うだけですが、人間だけが「自分のルール」に従って自分を抑制することが出来るのです。ただ最近、この自分を抑制するための「ブレーキ的な能力」があまり働かない若者達が増えてきたそうです。そしてそれは、若者だけではないようです。そのような人は、人が見ているところでは自分を抑制しますが、人が見ていなかったり、匿名のような場では、自分の欲望を満たすために行動してしまいます。ネットイジメはその象徴です。さらに「アクセル的な働き」が強ければ、自分の欲望を満たすために人前でも困ったことをするでしょう。問題は、どうしてそういう人たちが増えてしまったのかということです。最初に書いたように、脳の中には「アクセル的な働き」と「ブレーキ的な働き」を受け持つ部分があります。「アクセル的な働き」をする部分は本能を支配する大脳基底核と脳幹と呼ばれるところで、これはオギャーと生まれた時には出来上がっています。これに対して、「ブレーキ的な働き」を受け持っているのは大脳新皮質と呼ばれる部分で、この部分の能力は育ちの過程の中で育っていきます。ですから、生まれたばかりの赤ちゃんは「ブレーキ」ゼロで、「アクセル全開」の状態です。だから本能のままに行動し、反応します。でも、様々な体験を通して色々なことを学ぶ過程で「ブレーキ的な働き」が目覚めていきます。そして、大人になるとその「アクセル」と「ブレーキ」をうまく使い分けることが出来るようになります。というか、そのようになるはずなのですが、最近、その「アクセル」と「ブレーキ」の使い分けが出来ない人がどんどん増えているのです。自己肯定感の低い人は「アクセル」が弱く「ブレーキ」ばかりが強い状態です。逆に、自尊心やブライドや欲望ばかりが強くて集団のルールを守らない人は「アクセル」ばかりが強く、「ブレーキ」が弱い状態です。そして今、このどちらかに当てはまってしまう人が非常に多いのです。むしろ、アクセルとブレーキのバランスが取れている人の方が少数です。ある大脳生理学者の本によると、昔の子ども達と今の子ども達とでは、この脳の中の「アクセル」と「ブレーキ」の発達の状態が異なるそうです。昔の子ども達は、子ども時代にはアクセルばかりが強く、ブレーキが弱い状態なのですが、成長と共にブレーキの働きが強くなり、思春期が来る頃にはバランスが取れるように成長したそうです。でも、最近の子ども達は幼いうちからブレーキの働きが強く、アクセルが働きにくい状態になってしまっているようです。そして、成長すると共にブレーキの働きが弱くなり、アクセルが強くなっているそうです。つまり、昔の子どもとはアクセルとブレーキの育ちの状態が逆になっているのです。でも、幼児期の子どもが欲望のままに行動しても他愛のないものですが、思春期の若者が欲望のままに行動したら困ったことになってしまいます。最近の子ども達のその「ブレーキ」は大脳新皮質の働きによるものではありません。まだ、大脳新皮質は未発達だからです。ですから、「自己抑制」の結果としてのブレーキではないのです。では、それは何かというと「お母さんからの強い束縛」です。子どもはお母さんに逆らえないので、お母さんの命令には反抗しません。お母さんとしては「全く言うことを聞かない」と思っているのかも知れませんが、それは、まだお母さんの要求に応える能力がないからであって、反抗しているからではありません。例えば、幼い子どもは「早くしなさい」と言われても何のことか分からないし、分かったとしても、自分の行動をコントロールする能力がありません。まだ自分をコントロールする大脳新皮質の働きが未熟だからです。そして、自分の能力以上のことを常に求められている子どもは自己肯定感を育てることが出来ない状態になります。それでもお母さんに叱られないように子どもは頑張ります。その結果、アクセルが押さえられ、ブレーキばかりが強くなってしまうのです。そのまま大人になると自己肯定感の低い大人になります。でも、子どもの成長と共にお母さんの支配力は弱くなります。特に、男の子の場合は思春期頃になるともうお母さんの体力じゃ押さえきれません。子どももお母さんを怖がらなくなります。すると、押さえ込まれることによって発生していたブレーキが消えていきます。でも、それまで自分の判断で行動してこなかったし、群れ遊びの体験もないので、「自分で自分を抑制する」という形でのブレーキ能力が育っていません。さらには、子どもの時に思いっきりふかしたかった「アクセル」をふかせないままだった欲求不満も溜まっています。かといって、自己肯定感は低いままなので、隠れたところで欲求不満を解消しようとします。このような状態にならないためには、幼児期はその行動を抑制するのではなく、むしろ思いっきりアクセルが全開に出来るような状態にしてあげることが必要なのです。ただし、だからといって「ファミレスで走り回らせてよい」ということではありません。「ファミレスに行くより、ハイキングなどに行って野山でお弁当を食べるようにして下さい」ということです。そして、そのような形で欲求が満たされている子は、たまにファミレスに行っても、「ここはお山じゃないから静かにしてね」と言えば、ちゃんとしていることが出来るのです。おかしな例えで申し訳ないのですが、「お便所」を与えられている子は、お便所以外の場所では排泄しません。でも、お便所が与えられていない子は、自分が出したい時に、出したいところで出してしまうでしょう。それと似ています。自己抑制能力が育つためには、思いっきり「自分らしさ」を発揮する(排泄する)ことが出来る「自由」と「場」と「仲間」が必要なのです。子どもの時に、「子どもらしい子ども時代」を過ごすことが出来た人が、大人になった時に「一人前の大人」(大人らしい大人)になることが出来るのです。子どもの時に大人のような行動と価値観を求められていると、逆に、「一人前の大人」になることが出来なくなってしまうのです。
2012.12.04
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人間は狭い空間の中に閉じ込められると息苦しさと不安を感じます。それは、閉鎖空間に閉じ込められると「つながり」が断たれたような感覚に襲われるのと、外の世界で起きていることを感じることが出来なくなるためです。子どもの中には狭いところが好きな子もいますが、でも、自分のお尻とかからだは隠しても、視覚だけは隠さないものです。つまり、他者からは見えない所に隠れていても、自分からはちゃんと見える状況を作っているのです。それは「かくれんぼ」のような状態です。ですから、そういう子でも「閉鎖された空間」が好きなわけではありません。キャンプで使うテントのような、すぐ外の気配を感じることが出来るような閉鎖空間なら、逆に安心を感じる事もあるのですが、四角く固い石の箱は、強烈に人の感覚を遮断し、束縛して来ます。それは地面の中に埋められたような感覚と似ているかも知れません。それでも、子どもも大人も自由に出入りが出来る状況なら、そんなに束縛感も不安も感じなくて済むのですが、現代社会では、幼い子どもは自由に外に出て行くことが出来ません。また、お母さん達も、地域の中に居場所があるわけでもなく、また家の中に色々なものが揃ってしまっているので、昔のお母さんのように毎日外に出て行く必要も、他の人と関わる必要もありません。出て行ったとしても、用事を済ませてすぐに帰ってくるだけです。子どもが一緒だとノンビリ出来ないからです。その結果、子どももお母さんも、「家」という閉鎖空間に閉じ込められてしまっているような状態になってしまっています。また、今では精神的な問題で、その「閉鎖空間」から外に出て行けない人もいます。「閉鎖空間が好き」ということではないのですが、少なくとも閉鎖された空間の中には、「外部からの害」に対する安全と安心はあるので、外の世界に対して不安が強い人や、外の世界とのつながりが薄い人は出て行くことが困難になってしまうのです。ネット経由でないと人と関わることが苦手な人にとっては、家の外よりも、家の中の方が安心するのです。そして、そのように「不安」を抱えている人は「自由」が苦手です。ですから当然「自由の権化」である「子ども」も苦手です。心と、からだと、感覚が「不安」によって束縛されてしまっているため、やることが決まっている場合には動けるのですが、自由に動いてもいい状態だと、心とからだと感覚がそれに付いていくことが出来ず、さらに不安を感じてしまうためです。そのような人は、何かしら自分を守ってくれるシェルターに依存しようとします。マニュアルもその一つです。「マニュアル」も一つの閉鎖空間なのです。携帯やネットの世界も「閉鎖空間」です。ワークなどをやっていても、すぐに自分の表現を型にはめようとする人がいますが、そのような人は閉鎖空間に逃げ込む傾向がある人です。それが「現代人の嗜好」になってしまっているので、私たちはそのことにあまり問題は感じませんが、古代人と同じ感性を持って生まれてくる子ども達は、本能的に「自由」を求め、自由に表現しようとするので、そこでトラブルが起きるのです。古代人の感性を持って生まれてくる子ども達は、大人によって綺麗に整えられた部屋の中の「人工的な世界」を引っかき回して、森の中と同じような状態にしようとします。その方が安心するからです。そしてその結果、「大人の世界」は壊されます。その時、大人が一方的に「大人の世界」を守ろうとすると、「子どもの世界」とぶつかることになり、「子ども」を否定せざる終えなくなります。だからといって、子どもの「やりたい放題」を肯定しているだけでは、子どもは「人間らし」さを学ぶことが出来なくなってしまいます。大人もまた、子どもに振り回されているだけでは、社会生活が困難になります。森の中ではそのような対立は起きなかったのですが、人工的に作られた「大人仕様の閉鎖空間」の中では、大人と子どもが対立してしまうのです。それでも昔の子ども達には、家の外に「仲間によって作られた子どもだけの居場所」があり、家から自由に出入りすることも出来たので、その対立を回避できていたのですが、今の子ども達にはそのような「居場所」がありません。また今では、「外の世界」に様々な危険があるので、幼い子どもだけで自由に外に出て行くことが許されません。その結果、狭い空間の中での「お母さんと子どもの支配権争い」になりやすいのです。それでも、外の世界とのつながりを求めるのが人間の本能ですから、子どももお母さんも、テレビやゲームやネットや携帯の世界の中に、擬似的な「自由」と、「外の世界とのつながり」を求めるようになります。そして、一度、「擬似的な自由」と、「人工的に管理された閉鎖空間」に慣れてしまうと、今度は逆に、「リアルな外の世界」に不安を感じるようになってしまうのです。自分の意志だけで「スイッチオフ」や「リセット」が出来ないし、リアルな世界を生きるための「からだの感覚」が閉ざされてしまうからです。そして、さらに外の世界に出て行くことが困難になります。子どもの育ちに問題があると世間はお母さんを責めます。お母さんもお母さんで、様々な子育て書の中に「解決方法」を探したり、「良いお母さん」になろうとしたり、より人間として成長しようと努力します。でも、このような「環境から来るトラブル」に関しては、そのような努力はあまり効果がないのです。この問題に対処するためには、全く別の視点と、別の思考方法と、別の対処方法が必要になるのです。<続きます>
2013.12.10
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気質には「多血質」「胆汁質」「憂鬱質」「粘液質」の四つがありますが、だからといって、この四つしかないということではありません。なぜなら、これらの四つの気質は「色」で言うところの「原色」に過ぎないからです。以下の図は、隣り合った気質が混ざり合った時の状態を図に表したものです。「四つの気質と個性のしくみ」(ヘルムート・エラー著 トランスビュー発行)から色が混ざり合うことで元の色とは全く違う色になってしまうことがあるように、気質でも混ざり合うことで、見かけ上新しい気質が生まれることがあるのです。ただしこれは、「この気質の組み合わせの人は必ずこうなる」ということではありません。必ずしも、「胆汁質」に「憂鬱質」が入った子が暴君になり、「憂鬱質」に「胆汁質」が入った子が「支配者」になるということではないのです。また胆汁質の子が必ずしも「英雄」になるということでもありません。昨日も書いたように、「気質」と「性格」は異なるからです。気質は性格の「種」として存在はしていますが、その「種」が実際にどのように育つのかは、周囲の環境や体験の影響が大きいので、「気質」だけでは大人になった状態を判断することは出来ないのです。「性格」の形成には、「育ちの影響」が大きいのです。胆汁質の子でも否定されて育てば、憂鬱的な要素が強くなり、暴君のようになるでしょう。逆に「胆汁質」に「憂鬱質」が入った子でも、肯定されて育てば、痛みや苦しみを知る素敵な指導者になる可能性もあります。ちなみに「胆汁質」と「憂鬱質」の組み合わせの人は、自分の内側に痛みや苦しみを抱えています。だからやっかいなのです。でも、周囲の大人が子どもの内側にある「痛み」や「苦しみ」を理解して受け止めて上げていると、子どもは成長と共に、自分でも自分の中の「痛み」や「苦しみ」をうまく扱うことが出来るようになり、「痛み」や「苦しみ」に支配されなくなります。むしろそれを「優しさ」に変えることすら出来ます。でもそれを否定してしまうと、その「痛み」や「苦しみ」に支配されてしまうのです。すると「暴君」になります。それと、この図では隣り合っている気質が混ざっている時のことしか分かりませんが、実際には人はみんな四つの気質の全てを持っています。「あの人は胆汁質だ」と表現する場合は、単に「その人が持っている四つの気質のベクトルを足し算すると胆汁質になりますよ」ということに過ぎません。ですから、「胆汁質」と呼ばれる人でも状況に応じて多血的な面が出たり、粘液的、憂鬱的な面が出たりするのです。そのため、私の気質のワークではこの図とは異なった図に、自分の気質を描いてもらいます。それは例えばこんな感じです。このタイプの人は一応「胆汁質」になりますが、他の気質も強いので、それほど強い胆汁ではないと思います。と、実際の気質はこんな風になっているのではないかと思っています。
2017.02.07
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現代人は、昔の人に比べて色々なことに対する「こだわり」が強いような気がします。食にこだわる人、洋服にこだわる人、生き方にこだわる人、色にこだわる人、趣味にこだわる人、清潔にこだわる人、勉強にこだわる人、英語にこだわる人、スポーツにこだわる人など色々といます。ちなみに、自己肯定感が低い人はみんな「こだわり」が強いです。というかその「こだわり」が自己肯定感を下げているからです。そもそも「自己肯定感」などというものに対するこだわりを捨ててしまえば、そんなことどうでも良くなってしまうのです。自己肯定感を上げるためには、自己肯定感を上げようとすることを止めてしまえばいいのです。それだけのことです。インナーチャイルドにこだわっている人もいます。「自分らしさ」にこだわっている人もいます。でもそれは、「世の中がそれだけ自由で豊かになってきた」ということの表れなんだと思います。今日を生き延びることだけで精一杯の時代には、そんなこと言ってられませんでした。肉しか食べるものがないときには「菜食」にこだわることが出来なかったし、肉がないときには肉食にこだわることが出来ませんでした。そのような状況では、「こだわり」は「死」を意味していたからです。「今日の食べ物がない」という状態では、「何を食べるか」にこだわるどころではないですよね。「清潔」も、人工物に囲まれた人工的な生活をしているから、「清潔」にこだわることが出来るのです。森の中や自然に近いところで暮らしている人たちは、清潔にこだわろうと思っても出来ないのです。色々な洋服を選ぶことが出来る自由と豊かさがあるから洋服にこだわることが出来るのです。私は、「こだわり」は、そんなあふれるばかりの豊かな社会の中で、現代人が「自分らしさ」を自分で確認するための方法として機能しているのではないかと思っています。ただし、「こだわり」自体は古代からありました。でもそれは「個人のこだわり」ではなく、「部族や民族としてのこだわり」です。それは、「宗教へのこだわり」や、「血へのこだわり」や、「文化や言葉に対するこだわり」などです。その「こだわり」があったからこそ、自分たちの部族と他の部族の違いを明確にし、部族がまとまることが出来たわけです。今でも自然と共に暮らしている人たちは、部族ごとに民族衣装が決まっていますが、それは民族衣装が部族の象徴だからです。「こだわり」が「アイデンティティーを与えてくれるもの」として機能していたのです。ですから、「個人としてのこだわり」は限定されていました。江戸時代には「オレはキリスト教を信仰したいんだ」と言っても許されなかったのです。でも、現代社会では部族とか民族という概念は解体してしまいました。部族とか民族固有のこだわりも消えてしまいました。日本人だからといって、「着物を着なければいけない」ということもなくなりました。「結婚したら歯を黒く染めてお歯黒にしなければいけない」ということもなくなりました。代わりに現れたのが「個人」という概念です。その「個人」という概念では、何を食べても、何を着ても、どんな仕事をしても、どんな趣味を持ってもOKです。そして私たちはそれが可能な自由で豊かな社会に生きています。でも、そんな自由と引き替えに、みんな「根無し草」になってしまいました。アイデンティティーを失ってしまいました。私は、そのアイデンティティー作りのために現れたのが「個人としてのこだわり」なのではないかと思っています。「民族や部族を特徴付けるこだわり」は消えましたが、新しく「個人を特徴付けるこだわり」が生まれたのです。何かにこだわることで、「自分のアイデンティティー」を明確にしようとしているのだと思います。だから「同じこだわり」を持っている人同士で集まろうとします。でも、こだわりを持つことで自分のアイデンティティーは作れますが、それと引き替えに不自由になります。色々な食べ物がある中で、「肉」にこだわれば、他の食べ物が見えなくなり意識の不自由が生まれるのです。「しつけ」や「勉強」にこだわれば子どもの成長の全体が見えなくなり、不自由になります。「清潔」にこだわれば、「子どもの笑顔や、子どもの育ちに必要なもの」が見えなくなり不自由になります。子どもの色々な行動に対してお母さんがイライラするのも、子どもがお母さんのこだわりを無視するからです。お母さんは「子どものこだわり」にイライラしますが、それは「お母さんのこだわり」と「子どものこだわり」がぶつかっているからに過ぎません。「お母さんが頑張って作ったものなのになんで残すの!!」という怒りも「こだわり」から生まれています。こだわっている本人はそれを不自由だとは考えていないでしょうが、いっぱいある中で一つのものにしか意識を向けることが出来ない状態は、不自由そのものなんです。子育てや生き方の苦しみの多くもその「こだわり」から生まれています。でも、ちょっと意識を変えるだけで自由になることが出来るのです。意識を、「こだわる」から「大切にする」に変えればいいのです。こだわっているときにはこだわりの対象によって自分が束縛されてしまっています。でも、「大切にする」という意識の場合には、自分が主人公でいることが出来るのです。「成績へのこだわり」を捨てて「成績を大切にする」という考え方にするだけで大分自由になります。「こうでなければいけないというしつけ」にこだわることを止めて「しつけを大切にする」という考え方に変えると、「しつけ」から自由になることが出来ます。「こだわり」は「正解」を生み出します。だから束縛されてしまうのです。でも、「大切にする」という発想の場合には「正解」は自分の感性です。だから束縛されないのです。ただし、趣味としての「こだわり」はそれはそれでいいと思います。ただ「子育て」には合わないのでは・・・ということです。「子育て」で大切にしなければいけないのは「お母さんのこだわり」ではなく、太古の昔から変わらない「命の働きのこだわり」だからです。
2019.08.01
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昨日は、この「みんな違っている」、そして「みんな違っていなければいけない」というのは人間を含めた自然界の自然な姿であると共に、ルールでもあるのです。ということを書きましたが、みんな違っているからといって、バラバラになってしまっているわけではありません。人間は一人一人違います。同じ人は一人としていません。でも、その人が人間である限り「人間という枠」の中には納まっています。それは当然ですよね。人間同士だと「違い」の方にばかり意識が向かってしまいますが、「すべての生き物」という視点から見ると、どんな人でもみんな「人間としての共通点」を持っているのです。私たちはみんな一人一人違います。でも、日本で生まれ育った日本人なら「日本人としての共通点」を持っています。でも、その「日本人としての共通点」は、日本人以外の人と出会ったことがない人、外国の人の意見に耳を傾けたことがない人には分からないのです。成田空港に降り立った外国の人は、「日本のにおい」に気付くそうですが、日本人はその「におい」に気付きません。また、人は生まれてから死ぬまで「私」という意識の外に出ることが出来ません。人は一生「他者」になることが出来ないのです。そのため、他者と出会い、他者の言葉を聞かない限り、「自分が他者からどのように見えているのか」ということを知ることは出来ないのです。「自分と他者の違い」も分かりません。日本で生まれ育った日本人なら「日本人としての共通点」を持っています。同様に、フランスで生まれ育った人は「フランス人としての共通点」を持っています。イギリスで生まれ育った人は「イギリス人としての共通点」を持っています。その共通点は自国の中にいる時には気づきませんが、外国に出ると気づきます。その「日本人としての共通点」の中に、日本人を特徴づける「日本人の気質」があります。その「日本人の気質」が日本語や日本の文化の独自性を創り出したのです。でも、同じ日本人でも「東北で生まれ育った人」と「沖縄で生まれ育った人」とでは違います。「海辺で生まれ育った人」と「山奥で生まれ育った人」も違います。「都会で生まれ育った人」と「田舎で生まれ育った人」も違います。さらに、その同じグループの中でも一人一人みんな違います。じゃあみんなバラバラなのかというとそんなことはありませんよね。違いもありますが、その違いを生かして助け合い支え合っていますよね。だからそのグループが維持できているのですから。違うから助け合うことが出来るのです。違う人たちがいるからエネルギーや新しいものが生まれ、社会が循環しているのです。そのグループが生き生きとした状態で継続していくためには、異なった能力、感性、特性を持った人たちがお互いに助け合う必要があるのです。まただから「違い」が存在しているのです。「違い」は偶然存在しているのではなく、そのグループの存続にとって「違い」が必要だからその「違い」を持ったものが生まれるのです。その原理が自然界の多様性を創り出してきたのです。人間が作った工場は「同じもの」を生産しますが、自然は、「常に変化している自然」に対応できるように、わざと不完全な状態で色々な特性、個性、能力を持った個体を生み出し、その「不完全なもの同士が助け合って生き延びるシステム」を採用したのです。その方が自由度が高くなるし、変化にも対応しやすくなるからです。オスとメスが分かれたのも同じ原理です。男性と女性が分かれたのも、「男性」と「女性」という異なった特性、個性、能力を持ったもの同士が、お互いに助け合い、支え合った方が人類の進化に有効だからなんです。人類が単性生殖する動物だったら、文化も文明も生まれなかったのです。でもなぜか、人類は今、そっちの方向を目指しています。光と影は、同じ場所に同時には存在できません。でも、場所を分ければ光も影も同時に存在することが出来るのです。そして「光が必要な時は光が働き、影が必要な時は影が働き」といったように多様な対応が可能になるのです。色もまた同じです。すべての色が集まったら絵具では「黒」に、光では「無色」になってしまうのです。そこには変化がありません。でも、それを赤、青、黄色などとバラバラにすると、その組み合わせて無数の色が生まれるのです。気質も同じ原理の中で生まれたものです。
2024.09.20
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現代社会が大切にしなくなったものに「真・善・美」があります。この三つの感覚は人間性の土台です。そして、有史以来人類が大切にしてきたものでもあります。芸術も、科学も、宗教も、また他の様々な文化もこれらを大切にする延長に発展してきました。でも、その人間性の土台がこの100年くらいで世界規模で消えてきてしまいました。それは世界中が競争原理によって支配されるようになってきたからです。競争原理が大切にされる社会では「真・善・美」には価値がないのです。そんなもの大切にしていたら競争に負けてしまいます。「いやそんなことない、現代人だって真善美は大切にしている」とおっしゃる方もいらっしゃるかも知れませんが、現代人の一般的な「真・善・美」は社会的な価値と結びついてしまっています。つまり、社会的な価値によって肯定されることによって「真・善・美」に価値が生まれているのです。少なくとも学校では社会的に肯定されている「真・善・美」しか教えません。つまり、現代の学校では「真・善・美」の社会的な価値を教えているだけで、「真・善・美」の感覚そのものを子どもに伝えようとはしていないのです。「真・善・美」は感覚によってしかとらえることが出来ません。ですから、本来感覚の中にしか存在できないものなのです。それはつまり、教科書や言葉などで教えることなど出来ないものだということです。また、比較することも出来ないし、もちろん、成績など付けるなどということはもってのほかのことです。学校で教えている「道徳」は社会的な規則であって人間の精神における「真・善・美」とは無関係です。でも、「真・善・美」の感覚を失った人は精神的に自立することが出来ません。言い換えると、精神的に自立している人はちゃんと自分なりの「真・善・美」の感覚を持っているものです。私の知っている範囲では唯一の例外が「シュタイナー教育」です。シュタイナー教育では真・善・美の感覚を育てることが子どもの人間性や知性や感情やからだを育てるために非常に重要なことであるということを知っています。真・善・美の感覚は心の成長だけでなく、からだの成長や健康とも関係しているというのです。だから、小学校の間は遊んでいるようにしか見えない授業をしているのです。では「真・善・美」はどこにあるのかというと、至る所にあります。道ばたの草花や木々、風や光といった自然の中にも、人の喜びや悲しみの中にも、子どもの笑顔や遊ぶ姿にも真・善・美を見いだすことが出来ます。以下は、宮沢賢治が書いた『注文の多い料理店』の【序】です。 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびらうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。大正十二年十二月二十日 宮沢 賢治 宮沢賢治には「真・善・美」が見えていました。そしてそれを「きれいなたべものやきもの」「すきとほつたほんたうのたべもの」と表現しているのです。最近、私はようやくこの感覚が分かってきました。道ばたの草木や、空に浮かぶ雲、肌に触れる風、子どもが遊んでいる姿、子どもの声など美しいものに触れるとなぜか“おいしい”という感覚があるのです。なんで“おいしい”のか分からないのですが、“おいしい”としか表現しようのない感覚なんです。そして嬉しくなるのです。私は、子どもの頃から自然の中で一人遊びをすることが多かったのであまり社会的な感覚や感性は育つことがありませんでしたが、賢治のように古代人に近い感性は育ったのかも知れません。ちなみにこれは私が特別だとか、優れているとかいうことではありませんからね。このような感覚は昔は多くの人に共有されていた普通のものだったのではないかと思うのです。むしろ、それを失ってしまった現代人の方が特別なのではないかと思うのです。今、人間は非常におかしな状態になってしまっているのです。それが「地球環境」の問題として現れているのです。
2008.09.28
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不思議なことに、人間は「自分」という視点を超えて、「他者」の視点に立って見たり、考えたり、感じたりすることが出来ます。その時、時間も空間も超えることが出来ます。人間以外の動物にも、さらには石や木にもなって見たり、考えたり、感じたりすることが出来ます。確かにそれは、事実ではないかも知れません。そもそも、人間以外の生き物は人間のようになど考えないからです。石や木はなおさらです。でも、そのように考えることで、その相手を自分のことのように考えることが出来ます。相手を守ろうとする気持ちも生まれます。また、「人間」とか「自分」という視点で考え、感じ、行動している時には見えなかったこと、分からなかったことも分かるようになります。宮沢賢治の童話の多くはそのような視点から書かれたものです。戦争の時は、味方の視点にばかり立って考え、感じ、行動し、殺しますが、でも、意識さえすれば、敵の視点に立って考え、感じ、行動することも出来ます。そして、みんながそういうことをすれば、戦争など起きなくなります。なぜ人間にだけそのような能力が備わっているのかは不明ですが、でもその能力をちゃんと使うことが出来れば、人間は本能に振り回されず、自分勝手にならず、相手のこと、みんなのことを考え、平和な社会を作ることが出来るのです。人間の社会だけでなく、全ての生命まで含めた世界が平和になるでしょう。でも、その能力を使わず、自分の価値観や都合ばかりを優先させ、自分勝手に考え行動すれば、多くの人が苦しみ、多くの人が死ぬ社会になります。人間は、世界や地球を救うことも、破壊することも出来る生き物なんです。そして、どちらを選ぶのかは人間の判断に任されています。そのような、「他者の立場に立って考え、感じてみる」というのは、実は「視点の多重化(多元化))」というようなことなんです。そして物事は、多重化された視点で見た方がよりありのままの状態に近い姿を見ることが出来るのです。カメラは、対象をそっくりに写し取ります。でも、カメラは一点透視でしか世界を写し取りません。ですから、写真は一見リアルに見えますが、実際の存在が持っている厚みも、重さも、立体感も消えてしまっています。たとえ、そういうものを感じたとしても、それは写真自体に取り込まれたものではなく、写真を見たときに、反射的に私たちの脳が勝手に足らないものを補って復元しているのに過ぎません。それに対して、私たちの目は「二点透視」で世界を見ています。だから、よりリアルに立体的に世界を見ることが出来ます。さらに、匂いや音も感じながら見ています。過去の体験も入れながら見ています。ですから、いくつもの視点を同時に総動員しながら、一つのものを見ているのです。でも、「思考」という方法だけで何かを知ろうとするときには、どうしても「自分の価値観」だけに頼ってしまいやすいのです。すると、「一点透視的な思考」になりやすいのです。すると、勝手な思い込みで世界を見るようになってしまいます。子どもが言うことを聞かないと、「反抗している」とか、「ワガママだ」と判断してしまうのはそのためです。「言うことを聞かない」のではなく、そもそも「お母さんの言っていることが理解できない」のかも知れません。「お母さんの期待に応えたくても、生理的、能力的に出来ない」のかも知れません。二歳ぐらいの子どもに「ジーッとしていなさい」と要求するのは、オタマジャクシに「ジャンプしなさい」と要求しているのと同じ事です。でも、自分の価値観だけで一点透視的に考えてしまうと、そうとしか考えられなくなってしまうのです。そんな時は、「子どもの立場」に立ってみる、「子どもだった頃の自分」の視点で考えてみる、子どもの表情や言葉や行動を自分の好き嫌いで判断するのをやめて客観的に見てみるということが必要になります。さらには、学問的な知識も一つの「視点」になります。そのような「多重の視点」を動員することで、より「子どもの現実」に対する理解が深まるのです。象は太い柱のようなものだ。象はビヤ樽のようなものだ。象は太いホースのようなものだ。象はヒモのようなものだ。いやいや、象は大きなウチワのようなものだ。いずれも、現実の象の一部分の事実に過ぎません。そんな時は、「どれが正しい」という議論をするのではなく、お互いの意見をお互いに補い合うような意識でつなぎ合わせるのです。すると、現実の象の姿に近くなるのです。幼い子ども達の荒唐無稽な言葉も、一つの「事実」なんです。現実にはあり得ないように思える「ファンタジーの世界」も、この世界の一つの事実なんです。だから感動するのです。
2016.06.11
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私は「からだ」で気質を見分けることが多いので比較的簡単に見分けます。歩いている姿を見ると、胸が閉じているか開いているか、腰や背中の緊張はどうなっているか、股関節の動きは、緊張がどのように偏っているか、目つきや、意識の状態は、気は上がっているか下がっているか、気は強いか弱いか、気を出しているか閉じこめているか、などが分かるのでそれを基にして大体の気質を予測することが出来ます。でも、こんなこと普通の人にはできないと思います。私は太極拳の練習を通してこのようなものを見る感覚を育ててきましたが、そのような練習をしていない人は理屈を知っていても出来ることではありません。太極拳は相手と戦う武術ではありません。相手と戦わないで相手を殺す武術です。当然のことですが、今は殺しません。ただそのようにして生まれた武術だと言うことです。相手とまともに戦ったら力が強い方が勝つに決まっています。でも、相手を戦わせないでやっつけてしまうのなら老人でも勝つことが出来ます。それはつまり、正々堂々と戦わないで常に「裏をかく」ということです。ですからスポーツ的に言うと太極拳は非常に卑怯な戦い方をするということです。ただ、現代の太極拳はスポーツになっていますから、「散打」という打ち合う仕合などでも力任せになっています。殺してしまったらスポーツにはなりませんからね。でも、まともに打ち合う仕合では空手には勝てないと思います。相手を戦わせないで勝つためには、相手の心やからだや気の状態を瞬時に感じ取る能力が必要になります。ですから相手に触れただけで「足首が固くなってる」、「肩に力が入っている」、「気が上がっている」などということが瞬時に分かります。固くなっている部分は動かせない部分ですから、その部分の力を抜かないと動けないような状態にしてしまうと相手は動けなくなります。練習では私が打って、先生が受けた時点で私はもう動けなくなっていました。重心が自分のものじゃなくなってしまっていました。人は重心を失うと動けません。下がることも出来ないのです。そして、相手にくっついたままになってしまいます。また、力を出すことも出来ません。どんなに力持ちの人でも、支点がしっかりとしていないとその力を出すことは出来ないのです。多分、合気道も実際に使うとなるとこの能力がないと戦えないと思います。ただし、太極拳の世界でも今そんなこと教えている先生はほとんどいないと思います。私の先生は特別だったのです。ただし、今でも古武術の世界にはその視点が残っているようです。それと、私はこんな偉そうなことを言っていますが、実際に太極拳が強いわけではありませんからね。ただ、その練習を通して「相手のからだを見たり、感じたりする能力」は普通の人よりは高くなっているというだけのことです。それが気質をみる時に役に立っているということです。話が横道にずれそうなので元に戻しますが、そのような「気質の見分け方」は誰にでも出来ることではありません。とにかく練習が必要なんです。ですから、気質を見分ける時にそんなことをしているのは多分、私だけだろうと思います。だからこんな事知っていても役に立ちません。ただ、「こういう見分け方をありますよ」というだけの話です。じゃあ、そのような練習をしていない人はどのように気質を見分けたらいいのか、ということです。一つは、その人の性格や、行動や、表情や、からだの状態を、それぞれの気質の人の特徴と照らし合わせて判断する方法です。これがもっとも一般的な方法だろうと思います。でも、気質は「観察する人」と「観察される人」との関係性によってもその現れ方が異なりますから、お母さんが子どもを観察していてもそれだけでは部分的な特徴しか分かりません。子どもが子どもの集団に中に入った時の状態や、他の大人の人との関わり方などはなかなか分からないものです。また、子どもを観察している時、お母さんはどうしても子どもの細かい行動ばかりに気を取られて、冷静に観察することができません。親の価値観や先入観を押しつける形で子どもの言動を評価、判定してしまいがちです。また、親の気質も関係してきます。同じ行動タイプの子どもを観察する時でも、憂鬱質の人と胆汁質の人とでは異なった評価、分析をするものです。だから、一生懸命に特徴を観察しようとしても、実際には子どもの状態を正確に観察するのはなかなか困難です。気質を知るためのもう一つの別の方法は、集団の中での子どもの役割や他の子との関わり方を観察することです。この方法の方がより正確に気質を判断することが出来ると思います。みんなが遊んでいる場から離れて一人もしくは二人で静かに遊んでいる子がいたとしたら憂鬱質が強い可能性があります。大勢の中で甲高い声を張り上げ走り回っている子、楽しそうにみんなと遊んでいる子は多血が強い子なのでしょう。ただ、大騒ぎをするばかりで仲間と協力的に行動をしない子、他の子の言うことを聞かない子の場合はその限りではありません。時として発達障害などが関係している場合もあります。群れの中でリーダー的に動いている子は胆汁が強いのでしょう。粘液質の子は誘われるままに遊びますが、静かです。大声を上げて走り回るなんて事はしません。誘われなければ一人で遊びます。憂鬱質の子とは相性がいいです。でも、憂鬱質の子にとっては物足りない相手です。3,4人でグループを作ってみんなとは違うことをしている子どもたちは、憂鬱と胆汁や多血が混ざっている可能性があります。このグループは仲間意識が強く、そして排他的で、集団に対して協力的ではありません。このグループの子を一人切り離して大勢の中に入れるとすと、わざと人目を引くようなことをします。時としてそれは「困ったこと」です。程度がひどい場合は気質だけでなく別の問題も考えられます。と、色々な場面を想定して、気質の特徴を書いてみましたが、でも、実際には子どもが遊んでいる現場で子どもの様子を見ないことには何とも言えません。ただ、気質によって子どもたちの集団の中での役割や、仲間との関わり方が違うということを知っておいてください。それを意識しながら子どもたちの園や学校での様子を観察して見ると、家庭の中だけで子どもを観察している以上に、正確に子どもの気質を知ることが出来るということです。
2009.08.04
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以下は「気質が混ざった時にはどんな特性が表れるのか」ということを図にしてまとめたものです。「四つの気質と個性の仕組み」(ヘルムート・エラー著 トランスビュー発行)よりただし、「この気質とこの気質が組み合わさると必ずこうなる」ということではありません。単に、「そうなりやすい傾向がある」ということに過ぎませんから、そこをご理解の上、ご覧になって下さい。以下のそれぞれの気質の説明は、図の補足として私が付け加えたものです。「多血質」-最高の恋人 多血質の人は話し上手、聞き上手です。 ただし、その「話し」にあまり意味はありません。こちらの「話し」を共感しながら聞いてはくれますが、理解はしていません。 多血質の人同士が話しているのを脇で聞いていると「何を話しているのか」「何を話したいのか」がよく分かりません。また「意思の疎通が出来ているのか」も不明です。 それでも、一緒に楽しい時間を過ごすことができればそれだけでOKのようです。「多血質+胆汁質」-享楽主義者、世渡り上手 この気質の人は前向きで明るくエネルギッシュで、多血質の人のグループの中心にいることが多いです。(ママ友のボス的な感じ?) 単なる多血質より理屈っぽく、意識も広く、色々なことに興味を持ち、色々なことに手を出しますが、でも、気まぐれです。 仲間のリーダー的な存在になることも多いのですが、みんなをまとめる能力も責任感もあまり強くありません。 そのため小さなグループのリーダーは出来ますが、大きなグループのリーダーは出来ません。 私の印象では「自分のこと」を話したがる傾向が強いような気がします。 ちなみに、多血質の人はあまり「自分のこと」は話しません。「胆汁質+多血質」-冒険家 胆汁質の人は「現実的な活動家」が多いのですが、そこに多血質が入るとロマンを求めて行動するタイプになります。 このタイプの人はギャンブルも大好きなのではないかと思います。また、社会的な責任よりも、「自分がやりたいこと」の方を優先するようになります。 でも、社会的な責任に縛られて苦しんでいる人にとってはあこがれの存在です。 「胆汁質」-英雄 ちゃんと自分の主義と主張を持っています。 目的に向かって努力するのも大好きです。白黒をはっきりさせたがります。 「自分は絶対に正しい」と思い込んでいます。 そして常に、「自分なりの論理」で行動します。 「やってみなければ分からない」「物事は行動しなければ解決しない」という考え方が強いので、「客観的な論理や証拠」といったものはあまり信用していません。 またそのため、人の意見にも耳を傾けません。失敗した時のことも考えません。 そして、思索やリサーチをすっ飛ばしていきなり行動します。そして、行動しながら考えます。その時の基準は「直感」です。 多血質の人は感情が動けば行動します。でも、感情に振り回されるばかりで「行動しながら考える」ということは出来ません。 粘液質の人は考えてから行動します。そのため行動が遅くなります。 憂鬱質の人は自分の興味にはまれば行動しますが、興味にはまらなければ行動しません。 胆汁質の人はとにかく単純明快で、素早く、かつ目標を立てて行動するので、人がその周りに集まりやすいのです。その結果、リーダーになって行くことが多いです。 「胆汁質+憂鬱質」-暴君 憂鬱質には多血質と同じように「不安定」という要素があるので、胆汁質に憂鬱質が入ると、強さはそのままで感情的に不安定になります。 そのため、言っていることや、やろうとすることがコロコロ変わります。 感情の起伏も大きくなります。でも、「自分は正しい」という感覚は胆汁質のままです。 そのため、周りが振り回されてしまうのですが、「胆汁質+憂鬱質」の本人も自分の感情がコントロール出来ずに苦しみます。。 このような状態の人がもし「王様」なら「暴君」と呼ばれてしまうでしょう。 「憂鬱質+胆汁質」-支配者 「胆汁質+憂鬱質」の場合は、自分に対する自信は強いままですが、さらに憂鬱質が強くなって「憂鬱質+胆汁質」という状態になると、自分に対する自信も弱くなり、人を疑い始めます。 自分が予測出来ないことやコントロール出来ないことを恐れるようになります。 そして、自分の立場を守るために周囲の人間を支配しようとし始めます。 人目を気にして子どもを支配しようとしている人はこのタイプかも知れません。 このような状態の人がもし「王様」なら「支配者」になるでしょう。 と、明日に続きます。
2016.09.10
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意外と子どもは保守的です。環境が変化することをあまり好みません。遊びも、食べ物も「いつもと同じもの」を選ぼうとします。遊ぶ仲間も決まっています。娘が以前、毎日ちゃんとした食べ物を食べることが出来ていない子を子ども食堂に連れて行ったのですが、普段食べたことがないようなまともな食事を前にして、「こういうの食べたことがないから食べない」と手を出さなかった子もいたそうです。多血質の子は変化が好きですが、でもそんな多血質の子ですら、喜ぶのは表面的な変化(見かけ上の変化)だけです。家族や、人間関係や、住環境や、生活スタイルといった「生活の基本」が変わるようなことまで喜ぶわけではありません。なぜなら、自我が不安定な状態の子どもの心とからだの成長においては、「安心」は絶対的に必要なものだからです。「安心」がないと、子どもはそのことばかりが気になるようになってしまい、自分自身の成長に集中出来なくなってしまうのです。だからこそ、子どもの成長においては、毎日の生活が安定していることが非常に大事なんです。その自我が安定するのは思春期が来てからです。ただし、個人差も大きくて、子どもの頃に不安定な状態の中で育った子は自我の育ちも遅れます。大人になっても自我が不安定なままの人も多いです。そのような人は、自分で自分の「安心」を保つことが難しいので、お金や、他者や、子どもの成績などに「安心」を依存するようになります。今回のコロナ騒動でも、政府や、医者や、マスコミに言われたことを忠実に守ることで「安心」を得ようとしている人がいっぱいいます。そのような人は子どもが公園で遊んでいるのを見ると「なんで言われた通りに家にいないんだ」と不快感を感じます。規則を守ることで安心を得ている人は、規則を守らない人を見ると不安を感じるのです。そして、安心を得るために、政府や、医者や、マスコミに言われた通りの「新しい生活スタイル」を守ろうとします。出来るだけ家から出ないようにします。でも、子どもはその生活の変化に不安を感じます。また、外の世界にも不安を感じます。それでもお母さんが一生懸命に子どもと関わることで、子どもは安心を取り戻すことが出来ます。「家の中に居れば安心なんだ」と感じるようにもなります。また実際、家の中に居れば気楽です。ゲームはやり放題だし、先生や友達との人間関係に気を遣う必要もありません。でも、今度は「緊急事態宣言が解除されたから学校に行かなくてはならない」と言われ始めました。「外は怖い」「一人は楽だ」という感覚が染みついた頃になって、「外に出ていけ」と言われても・・・・子どもはさらなる不安を感じ始めるでしょうね。親も、教師も、大人達はそのことをしっかりと理解しておいた方がいいと思います。追い立てず、焦らず、無理をせず、楽しく、ゆっくりと元の生活に戻していかないと子どもは苦しくなるばかりです。元の生活に戻すことにこだわると元の生活に戻れなくなります。
2020.06.03
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「観察する」というと「見るもの」だと思ってしまいますが、実は「感じる」ことが出来ない人は観察が出来ないのです。感じることが出来ない人はただ見るだけです。対象を見て、「これは石」「これは木」「これは何色」「立っている」「歩いている」と判別することは出来ますが、それ以上のことを感じ取ることが出来ないのです。ですから、その辺に落ちているような石を持ってきて「これをよく観察してみて」と言われてもどうしていいのか分かりません。石は石だし、石は変化もしないし動きもしませんからね。皆さんは石の観察が出来ますか。石好きの人や、絵描きや、地学をやっているような人なら石の観察も出来るでしょうが、見ることや石自体に興味がない人は石を見ても何も感じないでしょうね。そして、何も感じなければ観察も出来ないでしょうね。確かに、専門的な知識があった方が深く観察は出来ますが、専門的な知識を持っていなくても、自分の感覚を働かせることで素人なりの観察は出来ます。色を観察する、形を観察する、硬さを観察する、重さを観察する、模様などを観察する、叩いてみて音を観察する、質感を観察する、割ってみる、など出来ますよね。時々、石が好きな子がいますが、石が好きな子はこのような観察が出来るのです。だから見飽きないし、好きになることが出来るのです。皆さんも、お散歩の時などに足下に落ちている石を拾って、絵描きや地質学者になったつもりで観察してみて下さい。宮沢賢治も石好きで、いつも小さなトンカチを持ち歩いていて、そこいら中の石を叩いていたそうです。「賢治のハンマーでたたかれなかった岩はない」と言われていたほどです。植物観察でも、昆虫の観察でも同じです。ただ見ているだけでは観察にならないのです。観察するためには感覚とイメージと思考を働かせる必要があるのです。「感じ、イメージし、考える」という働きが、「観察する」という行為を支えているのです。そして、幼い子どもたちはこの「感じ、イメージし、考える」という能力において優れています。古代の人達もこの能力に優れていました。「感じ、イメージし、考える能力」が高いからこそ、子どもたちは色々なことをして楽しむことが出来るのです。そして、他の子や他のお母さんのこともよく観察しています。でも、学校では観察の仕方なんか教えてくれません。観察する以前に知識を学ばされてしまいます。そして、知識が増えることでその知識の確認はしても、感じることも、イメージすることも、考えることもしなくなるのです。私は若い頃、バックパッカーでヨーロッパに行った時、様々な美術館を回りました。ほとんどの美術館は空いていてノンビリと見ることが出来ました。模写している人もいました。ジーッと一枚の絵の前に立ち止まったまま動かない人もいました。それは、ヨーロッパでは美術館が観光名所ではなく生活の一部になっている事を感じさせるような風景でした。で、私ものんびりを歩いていたのですが、時々騒がしい一団が来ました。そして、「あ、ピカソがあった」「すげーモナリザだ」「あ、これ教科書で見たことがある」などと言いながら絵の前を通り過ぎていきました。日本語で話していたので、日本人の団体だったのでしょう。ツアーで来ている人達は忙しいスケジュールで動いているので、じっくり鑑賞する暇などないのかも知れませんが、それにしても絵の前で立ち止まることすらしないのです。ただ、実物を確認しに来ただけのようでした。それが日本の知識偏重教育の結果です。子どもたちがなんで泥団子作りに夢中になるのかというと、泥団子を作っている途中で色々なことを感じ、イメージし、考えているからです。それが楽しいのです。洋服を汚してお母さんを困らせるために泥団子を作っているわけではありません。ですから、「感じ、イメージし、考える能力」が低い子は完成度の低い泥団子しか作ることが出来ません。そして、泥団子を作っている子どもを観察する時には、大人も「感じ、イメージし、考える能力」を働かせる必要があるのです。そうでないと「行動の観察」は出来ても「子どもの観察」は出来ないからです。そのような状態の人は、「もっとよく子どもを観察して」と言っても、子どもが何をやっているかを見ているだけです。そしてそれは簡単に「観察」から「監視」へと移行してしまいます。実は、「他者を感じる能力」は「自分自身を感じる能力」から生まれて来るのです。他者を感じるということは、他者と触れた時に、その触れ合いによって自分自身の内側で起きた変化を感じ取ることに他ならないからです。例えば、音の観察をするためには、その音によって振動させられる自分の鼓膜の振動を感じる必要があります。相手の音をそのまま聞いているのではなく、人は自分の鼓膜の振動を聴いているのです。また、肌触りを観察する時も、触れてみて自分の肌に感じる感覚を感じ取って観察する以外に観察のしようがないのです。「ツルツルしている」とか「ザラザラしている」というのは自分の肌が感じ取った情報です。だから、肌の感受性が鈍い人は質感を感じる能力も低いです。それはつまり、「他者を観察する能力」は「自分自身を観察する能力」から生まれてくるということでもあるのです。自分を観察する能力が低い人に「もっとよく観察しなさい」と言うと、簡単に「監視」になってしまうのです。
2022.05.25
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最近の子どもの多くは、小学校に入る前からもう文字を読んだり、書いたりすることが出来ます。シュタイナー教育では「7才までは文字を教えるな」と教えていますが、それでも、多くのお母さんが我が子が小学校に入る前に文字が書けるようになっていないとすごく心配なようです。我が子をシュタイナー幼稚園に通わせていながら、幼稚園から帰ったらこっそりお勉強の塾に通わせているお母さんもいます。(子ども自身から聞きました)そういう人は、シュタイナー教育を「情操教育」としてしか理解していないのでしょうね。勉強などせず、毎日いっぱい遊んでいる森の幼稚園系のお母さんにもそういう心配している人がいっぱいいます。小学校の先生の方も、本来「文字の読み書き」は小学校に入ってから学ぶようになっているはずなのに、「小学校に上がってくるまでには、みんなある程度の文字の読み書きが出来るようになっているはずだ」という前提で子ども達に接しています。そのため、文字の読み書きが出来ない子は戸惑います。お母さん達もそれを心配して、小学校に入る前には文字の読み書きを教えてしまうのでしょう。実際、年長さん頃には、絵本ぐらいなら一人で読める子はいっぱいいます。「読んであげようか」というと「自分で読めるからいい」と拒否されたこともあります。私が子どもの頃は、小学校に入るまで字の読み書きが出来ないのは当たり前でしたが、今ではある程度の読み書きが出来るのが当たり前のようです。でもなぜか、幼稚園時代にはもう「文字の読み書き」が出来る現代の子ども達の方が、小学校に入ってから初めて文字を学んだ昔の子ども達よりも「文章」が読めないのです。「文章」が書けないのです。本を読むことを楽しむ事も出来ません。「文字」は書けても「文章」が書けないのです。「文字」は読めても「文章」が読めないのです。成長してから「文章の読み書き」が出来るようになっていなければ、幼いうちから「文字の読み書き」が出来ても全く意味がないのです。一人で絵本を読むことが出来ても何の意味もないです。幼いときから「お勉強」をしてきたはずなのに、どうして「文章の読み書き」が出来ないのかというと、「生活体験や、感覚体験や、感情体験や、からだの体験とつながった言葉の学び」が圧倒的に不足しているからです。「言葉」の基本は「話し言葉」なんです。「文字言葉」ではありません。ましてや「文字」なんかではありません。そのため、「話し言葉」が育っていない子は、いくら文字の読み書きが出来ても「言葉(文章)の読み書き」が出来ないのです。また、「話し言葉」が育っていない子は、他の人の話に耳を傾けることが出来ません。自分の考えや、感じたことを相手が分かるように伝えることも出来ません。本を朗読することは出来ても、読んで書いてあることを理解し、味わい、楽しむことが出来ません。そしてそれが最近の普通の子ども達の状態でもあります。学教崩壊は子どもの言葉力が育っていないことから起きているのです。発達障害と呼ばれるような状態の子が増えてきたのも同じです。また、だから試験でも「文章題」や「応用問題」が苦手なんです。でも、そのような視点から学級崩壊を論じている文章は読んだことがありません。ですから、これは私の個人的な意見に過ぎません。文字を教える時間があったら、子どもを外に連れ出していっぱい遊んで下さい。その方がズーッと子どもの言葉力は育つのですから。そして、言葉力が育った子は、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動できるようになります。実際、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動できている子に何かを問いかけてみて下さい。ちゃんと「自分の言葉」で返してくれますから。ただし、教えないのに勝手に読み書きが出来るようになってしまう子もいます。そういう子は好きにさせて下さい。本人の意志でやっているのなら遊びと同じですから、止めさせる必要はありません。信じるか信じないかはあなた次第です。
2023.09.13
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子どもが言うことを聞かないので悩んでいるお母さんがいっぱいいます。その背景には、「子どもがお母さんの言うことを聞くのは当たり前だ」という思い込みがあるのでしょう。また、子どもを仕付けるのは親の義務だ。だから、その仕付けのために親が子どもに色々と要求するのも親の義務だ。そしてその、子どものための要求に応えるのは子どもの義務だ。「あなたはまだ何も知らない、何も出来ない、そんなあなたがちゃんと成長するために色々と言っているんだから、あなたがお母さんの言うことを聞くのは当たり前だし、義務でもあるんだよ」ということなのでしょう。「お母さんの言うことを聞かない子はわがままで、自分勝手で、悪い子だ」と言う人もいます。まるで専制君主のような考え方ですね。でも、このような考え方をしているお母さんは普通にいっぱいいます。学校の先生も、同じような理由で同じようなことを子どもやお母さん達に求めています。「子どもやお母さんが先生の言うことを聞くのは当たり前で義務だ」と思い込んで、そのような意識で子どもや親に色々と言って来る先生もいます。奥さんにそのようなことを求めているご主人もいます。(その逆もあります)嫁にそのようなことを求めているお姑さんもいます。社員にそのようなことを求めている会社もあります。その結果過労死しても「それはその個人の問題に過ぎない」と切り捨ててしまいます。国民にそのようなことを求めている国家も多いです。日本でも、コロナの時はみんな言うことを聞かされました。「マスクをしない」、「ワクチンを打たない」、「アルコール消毒をしない」というだけで「反社会的な活動家」のような評価をされましたからね。マイナンバーカードでも、河野さんは「みんなのためなんだから言うことを聞け」という態度を崩しませんよね。そういう考え方をする人は「話し合い」に応じません。一方的に「あんたのためなんだから」と自分の要求を押しつけてきます。相手の言葉に耳を傾けません。プライドがあるのでしょうか。待ちません。相手を自分のペースに従わせようとします。いま、日本中がそういう状態になってしまっていますが、その中で一番弱い立場に居るのが子ども達です。だから子ども達は虫や小動物を殺してあそんだり、誰かターゲットを決めて「イジメ遊び」をしたり、万引きや麻薬などに手を出して「追い詰められた苦しさ」から逃れようとしています。するとそれはそれで、親や先生や社会から強く非難されます。そして、大人がよってたかって「子どもはこうあるべきだ」という「子どもが望まないこと」や「子どもの成長につながらないこと」を子どもに押しつけています。でも、子どもが大人の言うことを聞かないのは当たり前のことなんです。子どもは「大人の家来」として生まれてくるわけではないので、それは当然のことなんです。子どもは常に「今、自分に必要なこと」だけを求めています。それが動物としての、また、人間としての本能だからです。でも大人は、「今必要なこと」ではなく、子どもには理解出来ない「将来必要になること」や「社会的に必要なこと」ばかりを子どもに押しつけています。だから子どもは自分を守るために逃げるのです。幼い子ども達が今求めているのは「お母さんの傍にいることができる安心」と、「共に色々なものを見て、色々なことを感じて、一緒に笑い、遊んでくれ、色々なことを伝えてくれるお母さんや仲間達、そして周囲の大人達との関わり」なんです。その証拠に、お母さんの言うことからは逃げる子でも、こういうことからは逃げませんから。
2024.06.27
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私は、よく「物語の大切さ」を書いていますが、その「物語の大切さ」に気付いている人はそれほど多くないように感じています。子どもの育ちには「体験」と「仲間」が必要です。そのことを知っている人は多いです。ですから、それを与えるために活動している人もいっぱいいます。でも、その「体験」と「仲間」が子どもの心とからだの中に吸収され、子どもの心とからだの育ちに肯定的に働きかけるためには、子どもを体験や仲間とつなげるための「物語」が必要になるのです。子どもと世界をつなぐためにも、子どもと自然をつなぐためにも、子どもと命の世界をつなぐためにも「物語」が必要なんです。体験や仲間を与えるだけでは不十分なんです。でも、今の子ども達にはこの「物語」が足りません。今の子ども達の多くは「物語」ではなく「物」だけの世界に生きています。子どもの育ちにおける「時間」「空間」「仲間」という「さんま(三間)」の重要性を説く人は多いですが、それらのものと子どもとをつなぐ「物語」が存在しなければ、時間」も、「空間」も、「仲間」もその意味を失ってしまうのです。犬や猿のような社会性を持った動物たちは、その育ちに「体験」と「仲間」が必要になります。その点では人間と同じです。でも、その育ちに「物語」が必要なのは人間だけです。なぜなら、人間だけが「本能」ではなく「心」で「つながり」を作る生き物だからです。人間は「物語」を介在させないことにはつながり合うことが出来ないのです。私たちの社会では、「お金」や、「宗教」や、「民族」や、「国」や、「思想」や、「遊び」や、「言葉」といった様々なものが「人と人をつなぐもの」として働いていますが、でも、実際には、それらのもの自体には「つなぐ力」はありません。そこに「物語」が介在して初めてそれらが「つなぐもの」として機能するのです。「お金」は「お金の物語」とセットになって、初めてその意味を発揮するのです。実際、その物語を知らない幼い子どもにお金を渡してもオモチャにしかならないですよね。人と人が「お金」でつながり合うためには「お金の物語」が必要になるのです。その「お金の物語」を共有し合うことで「お金」を通してつながり合うことが出来るようになるのです。ですから、「お金が欲しい人」と「お金が欲しくない人」では、「お金」を通してつながり合うことは出来ません。でも、ドングリや小石のような些細なものでも、その「物語」を共有することが出来れば、それらが「つなぐもの」として機能するのです。「物語が人と人をつなぐ」というのはそういうことです。お金だけでなく、他の全てのものにおいても同じです。ドングリやお金は「見えるもの」ですが、「物語」は「見えないもの」であり、目に見えない空気のように存在しているので、気付く人が少ないのです。また、「言葉」が通じるのも「物語」を共有しているからです。「木」という言葉が通じるためには、お互いが同じ「木の物語」を共有している必要があります。「木」を「森や生命の物語」とつなげて理解している人と、「紙や材木の資源としての物語」とつなげて理解している人とでは、「木」という言葉でつながりあうことは出来ないのです。「木を大切にしよう」という言葉の意味も全く異なったものになるでしょう。前者の人は「出来るだけ木を切らないようにしたい」と思うのに対して、後者の人は「切った分だけ植林すれば同じでしょ」と思います。そしてお互いに「こいつは何を言っているんだ」と思うでしょう。大人が子ども達にどんなに「生命を大切にしよう」と訴えても、それは大人の価値観の押し付けに過ぎません。ですから、その価値観でつながり合うことも出来ません。もし本気で、「生命を大切にする子ども達」を育てたいのなら、子ども達に「生命の物語」を伝えるしかないのです。「価値観の押し付け」は逆の結果をもたらすだけです。ただ、誤解されると困るのは、ここで言う「生命の物語を伝える」というのは、「そのような知識を教える」ということではありませんからね。自分たちで種を植え、世話をして、花を咲かせ、また種を収穫して、翌年に育てる。そのような体験とセットにして、子ども達に「生命は繰り返してつながっていくものだという物語」を伝えるのです。生き物を可愛がるだけでなく、死ぬまでちゃんと世話をしてあげる。「ペットが死ぬと子どもがかわいそうだから飼わない」という人が時々いますが、そのような人は子どもに「生命の物語」を伝えることが出来ないでしょう。「死の体験」は、「生命の物語」の根幹です。この事実と向き合わせないままで「生命の物語」を伝えることは出来ません。また、ザリガニや金魚が死んだとき、生ゴミとして捨ててしまうのも避けた方がいいと思います。子どもがこのような体験を通して「生命」と出会ったときに、大人が「生命の物語」を語ってあげることで、子どもはその「生命の物語」に気付き、自分自身の「命の物語」も考えるようになるのです。そして「自分の命」を大切なものとして感じるようになるのです。
2024.11.15
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さていよいよ「感覚」について書いてみます。人間は様々な感覚を持っています。中でも皆さんがよく知っているのは視覚・聴覚・触角・味覚・嗅覚などのいわゆる「五感」と呼ばれるものでしょう。でもこれらは基本的に「外部の世界」を「内部」に取り入れるための感覚です。下等な生き物たちはその内部に取り入れた情報に反応しながら生きているだけなのですが、人間やサルのように高等な動物になると、ただ単に「外部から取り入れた情報」に反応しながら生きているのではなく、その情報をさらに咀嚼し、解釈し、意味づけをしてから自分の思考や行動なりにつなげています。つまり、「自分」というものが二重になっているのです。五感を通してまず「内側」へ情報を取り入れます。そしてさらに別の感覚を使ってその情報を感じ直し、大脳の活動へとつなげているのです。だからこそ、単なる「音」である「言葉」というものを理解することが出来るわけです。人間以外の動物たちも、聴覚があるので、人間の言葉を「音」として聞くことは出来ます。でも、その意味を理解することは出来ません。それは「音」から「イメージ」を抽出する感覚を持っていないからです。言葉を「言葉」として聞きとるためにはこのように二重の感覚が必要になるのです。ですから、人間でもその二次的な感覚が育っていなければ言葉を「音」として聞くことは出来ても「言葉」として聞くことは出来ません。実際に、脳に障害を受けることでこのような状態になることがあります。聞こえたから理解できるわけではないのです。理解するためには別の感覚が必要なのです。また、自閉症の子どもたちもこの感覚が不安定です。だから文字に書いて見せてあげれば理解できても、言葉で語りかけて説明してもなかなか理解が困難になってしまうのです。同じようなことは視覚においてもあります。二次的な感覚が育っていないと「視覚的には正常に見えていても、脳が処理することができない」という状態になってしまうのです。たとえば、生まれたばかりの猫の赤ちゃんを縦縞ばかりの檻の中で育てていると、横縞を認識することが出来ない猫に育ってしまうそうです。網膜にはちゃんと映っているのですが、その網膜に映っている情報を処理する感覚が育たないからです。R。シュタイナーはその二次的な感覚も含めて、「人間には12の感覚がある」と言っています。五感+生命感覚、運動感覚、平衡感覚、熱感覚、言語感覚、思考感覚、自我感覚の12の感覚です。でも、人間も生まれた直後には「五感以外の感覚」は持っていません。この五感によって取り入れた情報を感じ直す「二次的な感覚」は、育ちの過程での様々な体験や、他の人間とのかかわりによって育っていく感覚だからです。つまり、「五感」という感覚は、肉体という「ハード」に属し、その「五感」から取り入れた情報を処理する二次的な感覚は脳の神経回路によって作られる「ソフト」に属するということです。ですから、解剖してもそのような感覚器官は存在していません。だから見過ごされてしまうのですが、MRIなどの機器を使って脳の活動を直接観察していると、その二次的な感覚を処理している時に主に使われている脳の部位を特定することができます。そこが「脳の中の感覚器官」として働いているのです。有名なところでは「言葉は左脳で処理し、イメージは右脳で処理している」ものがあります。実際には言葉も、イメージも両方の脳の協力によって行われているのですが、中心となって働いている部位はそこにある、ということです。人が何かを見ようとする時には聴覚も、嗅覚も、触覚も、味覚も動員されます。人は視覚だけで物を見ているのではないのです。だから梅干しをみると、唾が出てくるのです。でも、中心となって働いているのは視覚です。つまり、そのようなことです。ただ問題は、上にも書いたようにこの「二次的な感覚」は、体験を通して育ちの過程で育っているものだ、ということなのです。ですから「縦縞の檻」の中で育てられた猫のように、偏った感覚ばかりの環境の中で育てられてしまった子どもは、人間としての正常な感覚が育たなくなってしまう恐れがあるということなのです。そして、現代の子どもたちの状況がまさにそれなのです。だから聴覚的に異常がなくても、言葉を理解することが困難な子どもたちが増えているのです。詳しくは明日書きますが、人間にはなぜ外部の世界を感じ取るために五つもの感覚があるのかというと、それは世界を複眼的、多次元的に理解するためなのです。ですから、この五つは常に協調して働いています。別々に働いているわけではないのです。そして、五つの感覚が協調して働いている延長に二次的な感覚が育っていくのです。でも、現代人は五感を別々に使うような生活をしています。だから迷子になりやすいし、騙されやすいのです。
2012.03.18
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自然の世界の中には「正解」というものは存在していません。雪の結晶は一つ一つその形が違います。リンゴの木、ミカンの木、というように同じ種類の木でも、その形も違えば実の味も大きさも一つ一つ違います。植物や、動物や、昆虫といった生き物たちもみな個々に「自分らしさ」を生きていて、一つとして「全く同じもの」は存在していません。そして、「同じ」を目指そうともしていません。人間も一人一人違います。だからそれぞれが「自分らしさ」を大切にして、自分らしく生きればいいのですが、でも、人間はそこに「正解」というものを設定し、それに合わせようとします。なぜなら、人間は「正解を共有する生き物」だからです。というか「正解」というものを共有しないと「文明」というものを築くことが出来ないのです。そして「文明」は、「本来は存在していないもの」を基準にしているので、進めば進むほどそういうものが存在していない「自然」とはかけ離れた状態になっていきます。その「正解」とは、例えば「1+1=2」というようなものです。そんなことを言われても何のことか分からないかも知れませんが、だからこそ算数を学び始めた子ども達はそこで躓くのです。また、まだ文明以前の生活をしている人たちは数にこだわらないのです。自然界では1は多であり、多は1です。1+1はゼロになったり、無数になったりします。また、時間と共に変わったりもします。でも、数学の世界では「1」は永遠に「1」です。腐ったり消えたりはしません。自然界にはそんなもの存在していません。一つのリンゴをずーっと箱に入れておけばやがて腐って0になります。最初は一匹ずつでも、オスとメスを一緒に箱に入れておけば、やがて「いっぱい」になります。このようなことを書くと「屁理屈」のように聞こえるかも知れません。実際私は子どもの頃から「屁理屈を言うな」と叱られてばかりいました。でも、これが自然界の「真実」なのです。ではどうして、人間はそのように「正解」を決めるのかというと、そのように「永遠に変化しないもの」を基準にしないと、人間は「論理」というものを構築することが出来ないからです。そしてだから、「論理」とは無関係に生きている自然界の生き物たちや幼い子ども達には「1+1=2」が理解出来ないのです。というか、実は大人だって理解出来ていない人がほとんどです。ただ、「1+1の正解は2だ」と覚えているのに過ぎません。ちなみに、小学校でよくやる、お皿の上にリンゴを二つ置いて「1+1は2でしょ」という説明は正確に言うと、数学ではありません。「リンゴ一つ」と「1」は同じではないからです。だから、分数や小数点が出てくると訳が分からなくなるのです。リンゴを半分に切った状態と1/2は同じではないのです。そもそも数学的な数は視覚化できないのです。こういう話を聞いても訳が分からない人がいっぱいいると思いますが、こういうことがあるから幼い子ども達はなかなか算数が理解出来ないのです。そして、ほとんどの子が「理解することによって」ではなく「暗記することによって」なんとかするようになります。暗記していれば、理解出来ていなくても問題を解くことは出来るからです。じゃあ、どうやったら「暗記」ではなく「理解」によって学ぶことが出来るようになるのかというと、単純に「正解」を求めるのではなく、「数」というものの特性を感じたり理解するような活動をするといいです。例えば、これは皆さんも時々見かけるやり方ですが日本では3+5=と正解を求めさせます。でも、国によっては8=という問題を出します。シュタイナー教育でもそのような方法を使うようです。この場合の答えは一つではありません。でも、この問題に答えようと色々とやっていく内に「数の特性」が分かっていくのです。大切なことは「正解を覚えること」ではなく、「数の特性」を理解することの方なのです。最初に「自然界には正解はない」と書きましたが、「正解」はなくても「真実」はあるのです。雪の形に正解はありませんが、水が凍るときに結晶になるというところでの真実はあるのです。それが水の特性です。「人間の生き方」に正解はありませんが、「人間としての真実」はあるのです。愛されれば嬉しいし、失えば悲しいのです。自分らしさが肯定されれば自信が生まれ、否定されれば自信を失うのです。ミカンの木になっている実は一つ一つのその色も大きさも味も違うでしょう。でも、ミカンの木になっているのは、全てミカンなんです。「正解」にこだわるとその「真実」が見えなくなるのです。「人種差別」と呼ばれるものも、人間に「正解」を作ることによって生まれます。でもそのことで、全ての人が「同じ人間である」という「当たり前の真実」が忘れられてしまうのです。
2014.07.24
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人間は「比較する生き物」です。八百屋で野菜を買う時も、洋服を買う時も、間違いなく選びますよね。「選ぶ」ということは「比較している」ということです。社会性が目覚める前の2,3才の子はあまり選びませんが、社会性が目覚め、群れて遊ぶことが出来るような年齢になれば一般的には100%の子が「選ぶ」とか「比較する」ということをするようになります。「競争心」や「成長への欲求」が目覚めるのもその働きのおかげです。また、論理的に考えることが出来るようになるのも、この「選ぶ」とか「比較する」という能力のおかげです。4才、5才の子の子でも、ちゃんと4才児は4才児らしく、5才児は5才児らしく思考をしているのです。ただ、この時期の思考は「自分の論理」だけで考えているので「客観的」ではありません。「客観的な論理」が可能になるのは、7~9才が過ぎてからです。ただ、大人と子どもとでは、その「選ぶ」とか「比較する」という能力の使い方が異なるのです。子どもはその能力を使って、お友達と「同じもの」を選びます。大人はその能力を使って、相手と「違うもの」を選びます。子どもがなぜ「同じもの」を選ぶのかというと、「同じもの」を選ぶことでお友達との一体感を感じたいからです。また、同じ物を持っているからこそ、一緒に遊ぶことが出来る訳です。カードでもゲームでも、同じものを持っているから一緒に遊べるのです。そして、「同じもの」を持っているのが「仲間」で、持っていないのは「仲間ではない」という判断をします。大人でも大好きな芸能人などがいれば、その芸能人と似た洋服を着て、似たヘアースタイルにすることもありますよね。でも、嫌いな人とはあまり似たくありませんよね。ただやっかいなのは、子ども達は「同じもの」を選ぶのに、わざわざその「同じもの」の中での違いを発見して、競い始めることです。一人がミカンで、一人が林檎を選ぶなら競争は起きないのですが、なぜか一人が「リンゴ」といえば、「僕もリンゴ」と同じものを選びます。そして、「僕の方が大きい」とか、「僕の方が赤い」とか競い始めるのです。大人は「なんでそんなことでケンカするの、どっちだって同じでしょ」と叱ったりするのですが、子どもにとってはこれもまた「遊び」なんです。別々のものを選んだら、相手との関係性が切れて遊べなくなってしまうのです。ちなみに、1~2才ぐらいまでの子は、「同じもの」ではなく「まさにそれ」を欲しがります。お姉ちゃんが赤いクレヨンでお絵描きしていると、その「赤いクレヨン」を欲しがります。それで仕方なく、お姉ちゃんがその「赤いクレヨン」を下の子に貸してあげて、自分は「黄色いクレヨン」を使い始めると、今度はその「黄色いクレヨン」を欲しがります。この時、お母さんがお姉ちゃんと同じクレヨンを持ってきて与えても、下の子は「今お姉ちゃんが持っているもの」でないと満足しません。同じような状況でお友達のおもちゃを欲しがる子はいっぱいいます。このような時は、「同じもの」を与えてもダメなんです。この場合は、「選ぶ」というこことは違う原理が働いています。お姉ちゃんが持っているクレヨンは絵が描けるが、自分の持っているクレヨンは(お姉ちゃんが描いているような)絵が描けないのです。絵を描いているのは「クレヨン」ではなく「お姉ちゃん」なんですが、1、2才の子にはそれが分からないのです。おもちゃの自動車で遊んでいる子は、自分でブーブーと遊んでいます。おもちゃが動いているのではなく、遊んでいる子どもが動かしています。でも、幼い子どもには、それは「ブーブー動く自動車」のように思えるのです。ですから、楽しそうにお絵描きしている子のクレヨンや、楽しく遊んでいる子のおもちゃを欲しがるのです。大人にも似たような所はありませんか。絵が上手な人の道具をもらえば、絵が上手に描けるような気がする、というような。でも、このような状態は子どもの成長に伴って自然に消えて行きますから、しばらく兄弟げんかに付き合ってあげていて下さい。ちなみに、幼い子どもは「動いているもの」「変化しているもの」はみんな自分の力で動いていると思っています。風に揺れる木々も自分で動いていると思っています。「風」と「木」の関係性が分からないからです。それが幼児的アニミズムの根底にあります。
2014.04.22
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まだ生活がこんなにも便利になる前の時代に生きていた人たちは、自分の心や、感覚や、からだをフル活動させて生きていました。 自分の心や、感覚や、からだをフル活動させないことにはご飯も炊けなかったし、仕事も子育ても出来なかったし、危険から身を守ることも、食べ物を狩り、育て、採取することも出来なかったからです。 ですから、子どもたちも日常生活の中で自然と心や、感覚や、からだの使い方を学ぶことが出来ました。 その中には「人間関係を作る能力」も含まれています。 そして、同時に自己肯定感も育っていきました。 「現実の自分」と「頭の中の自分」が一致していたからです。 でも、様々な便利な機械が発明され、大人から子どもまで自由にそれらを使いこなし、心や、感覚や、からだがやっていたことまを機械がやってくれるようになってくると、生活の場で、心や、感覚や、からだを使う場面が減ってきてしまいました。 遊びでさえ、簡単便利になってしまいました。 その結果、子どもたちは、自分の心や、感覚や、からだの能力を育てることが出来なくなりました。 その一方で、自分自身の心や、感覚や、からだの働きとはつながらない「情報」はいっぱい頭の中に詰め込まれるようになりました。 その結果、その「情報」に基づく、「思い込みの自分」「思い込みの人間観」「思い込みの社会観」「思い込みの自然観」だけで生きるようになってきました。 でも、その「思い込みの世界」は現実の世界とはつながっていません。自分の体験を通して知った世界ではないからです。 そのため、「思い込みの世界」には、自分の心や、感覚や、からだを納得させる力がありません。 その不安定さが自己肯定感の低さの背景にあります。 さらに、子どもたちは刺激の強い人工的な音や、光や、情報に囲まれて生きています。 そのため、からだは使わないのに、心や、感覚は自然界にはないようなレベルの刺激に晒されています。 その結果、心や、感覚は自分の働きを守るために、外部からの情報を適度に遮断する能力を身につけるようになりました。 強い刺激をそのまま受け入れていたら壊れてしまうからです。 簡単に言うと、鈍くすることで身を守るようになったのです。 そのため、更に強い刺激が必要になってきました。 そして、「見ようとしなければ見えない世界」「聞こうとしなければ聞こえない世界」「感じようとしなければ感じることが出来ない世界」が人々の意識からスッポリと消えてしまい、「さあ見ろ」「さあ聞け」「さあ感じろ」と押しつけてくるものや、「自分が見たいもの」、「聞きたいもの」、「感じたいもの」だけが「この世界の全て」になってしまいました。 でも、そのような状態では自己肯定感は保ちようがありません。 現代人がセラピストなどのところに行って求めている「自己肯定感」は、本当の意味の自己肯定感ではなく「思い込みとしての自己肯定感」に過ぎません。 そもそも、自分の心や、感覚や、からだをフル活動させて生きている人には「自己肯定感」という概念自体がありません。 ただ「自分らしい自分」を生きているだけだからです。 確かにその鈍い感覚や軟弱なからだでも、簡単便利な機械を使えば普通に生活できます。何にも困りません。 でも、そのような状態では「子育て」が出来ないのです。 子育てには、「見ようとしなければ見えない世界」「聞こうとしなければ聞こえない世界」「感じようとしなければ感じることが出来ない世界」を見、聞き、感じることが出来る能力が必要だからです。
2019.07.21
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緊急事態宣言宣言が解除されて、町には人が増えて来ました。テレビでも人通りが増えた通りや、お客が戻ってきたお店などの映像を流しています。レストランなどに来ていた人にインタビューすると、一様に「ストレスの発散になりました」というようなことを言っています。でもここに大きな落とし穴があるのです。人の心もからだも、そんなに簡単に社会の変化に合わせて変化するようには出来ていないからです。人間の心やからだには「恒常性」を維持しようとする働きがあります。その人の考え方や,感じ方や、仕草や、行動の仕方は、その人の指紋と同じようにその人に特有なものであって、周囲の状況に合わせてそう簡単に変わったりはしないのです。それでも、緊急事態宣言が出ている間は不安や恐怖心や人の目が怖かったので、見かけ上の行動だけを変えて「つじつま」を合わせていました。そのようにして、自分で自分を抑圧していたのです。だからストレスが溜まったのです。で、緊急事態宣言が解除されたので一気にそのストレスを吐き出そうとするのでしょうが、そう簡単に、心やからだの状態は元には戻りません。数日程度の我慢なら、バーッとストレスを吐き出せばすぐに元に戻るのですが、日常生活全般にまで影響が出るほど長期間、広範囲の我慢をしていると、心やからだがその我慢に適応した状態に固まってしまうからです。行動を抑制されることは苦しいのですが、どうしようも出来ない苦しみが持続する場合は、その状態を肯定し適応することで無駄に苦しむことを止めようとするのです。それが心やからだが自分を守るための知恵でもあります。戦場の兵隊さんも最初は苦しいのですが、「これが日常なんだ」と納得し、受け入れることで、苦しむことを止めてしまうのです。苦しみ続けていたら、心とからだが壊れてしまうからです。でも、戦場に適応してしまうことで、今度は、戦場から家に帰った時に、普通の日常生活に戻れなくなってしまうのです。苦しくて逃げ出したかったはずの場所なのに、元の生活に戻ると「戦場ロス」が起きてしまうのです。その「戦場ロス」で苦しんでいる退役軍人はいっぱいいるそうです。虐待でも同じようなことが起きます。ズーッと虐待を受けて育った子は、虐待が苦しいことは苦しいのですが、虐待を受けていると安心するのです。そして、保護され、急に虐待が消えてしまうと、日常的にあったものが消えてしまうことで逆に不安を感じてしまうのです。その「虐待がない不安」が消えるのは長い時間がかかります。リアルな世界と繋がって働いている人間の心やからだは、頭の中の観念的な論理通りには働かないのです。私も1年近く外国をウロウロと歩いて日本に帰ってきたのですが、外国にいた時の感覚がズーッと消えませんでした。40年近く経った今でも少し残っています。社会制度は元の状態に戻せても、心とからだは元の状態には戻せないのです。そのため、緊急事態宣言が解除されることで、緊急事態宣言以前にはなかったような新しい問題が発生するのです。それまで緊張状態の中でバランスを取っていた心とからだがバランスを失い、不安が生まれてしまうのです。その不安は外からではなく内側からやってきます。それまで色々なことに束縛されてきた人が、自由を与えられて喜ぶのは最初だけです。仕事人間でズーッと頑張ってきた人が定年になって仕事から解放されて喜ぶのは最初だけです。不自由に適応しようと頑張ってきた人ほど、急に自由になると不安を感じてしまうのです。「鬱病が増えるのではないか」とも言われています。社会の状態も、子育ても、不可逆的にしか変化しないのです。私たちは「やり直しが出来ない時間」を生きているのです。
2020.06.02
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大人は子どもの「遊び」をバカにしますが、そのような人は、「遊びを楽しむことが出来るのは高い知能を持った動物だけだ」と言うことを知らないのでしょうか。「遊ぶ」というような「必要もないこと」を楽しむためには高い知能が必要なんです。これは科学的な事実でもあります。では、そのような「遊びの場」では何が起きているのかというと、簡単に言うと「シミュレーション体験」です。「ごっこ遊び」の場の子どもたちは、自分たちが見たり、聞いたり、感じたり、イメージ(想像)したりした世界を実際にやってみて、それを擬似的に体験し、楽しんでいます。子どもたちは、見たり、聞いたり、イメージしたことを「遊び」という形でシミュレートしながら「自分のもの」にしようとしているのです。「頭の中の世界」を実際に自分のからだで体験しようとしているのです。「想像の世界の現実化」とも言えます。イルカやクマなどの知能が高い動物たちは子どもと遊びますが、その遊びもまた、「将来起きるかも知れないこと」や「生活の仕方」や「コミュニケーションの仕方」などを子どもたちに体験させるためのものです。「狩りの仕方」を「遊び」として子ども達に伝えている動物は多いです。ですから、「遊び」を楽しく遊ぶためには「体験と想像」(イメージ)が必要になります。親子で遊ぶ時には親がそれを持っている必要があります。ごっこ遊びだけでなく、工作遊びや、群れ遊びや、歌ったり踊ったりする遊びも同じです。作っているところを見たことがない子は、作って遊ぼうとは思いません。「作りたいもの」がない子も作って遊ぼうとは思いません。作っているところを見せたとしても、「自分が作ること」や、「自分が作ろうとしているもののこと」や、「作る過程」をイメージできない子も作ることを楽しむことが出来ません。そのような状態の子に何かを作らせようとしても、マニュアルや指示がないと作れません。また、作ることを楽しめないし、上手に作れても楽しくありません。なぜなら、頭の中にイメージがないことをやったとしてもシミュレーションにはならないからです。科学教育の分野には、板倉聖宣という人が提唱した「仮説実験授業」という方法があります。ウィキペディアには以下のように書かれています。仮説実験授業は子どもたちが様々な側面からの問いかけと実験を楽しく繰り返しながら、授業書が目的とする科学的認識に至る経験ができるように作られている。授業書による授業が終わる頃には、ほとんどの子どもたちが自分が獲得した科学的認識を使って、未知の問題の結果を予想できるようになる。学校などでの一般的な実験のやり方としては、やり方や、意味や、危険性などを説明してからやらせているのではないでしょうか。でも、仮説実験授業では、まず様々な選択肢を与えて結果を予想させるのです。「どうしてそういう結果になると思うのか」という理由も考えさせます。議論もさせます。例えば、「体重計に乗っている時、踏ん張っている時と、つま先で立っている時と、座っている時と、立っている時などで重さは変化するのだろうか」というようなことをみんなで考えるのです。そして一人一人結果を予想させます。これは脳内シミュレーションです。そして、頭の中にイメージが出来てから実際の実験を始めるのです。すると、予想通りに行く場合でも行かない場合でも、その予想をしないまま始めた時よりも、より深く観察し、より深く考え、より深くその結果を理解し、より実験を楽しめるようになるのです。そしてこれは全ての遊びにおいても同じです。自分が何をするのかを知らないまま遊ばされても楽しくありません。頭の中にイメージがなければ、遊びを創り出すことも出来ません。仲間と遊びを共有することも出来ません。遊びから学ぶことも出来ません。そんなイメージ作りに非常な大きな手助けを与えてくれるのが、「言葉」であり、その言葉による「物語」なんです。だから人間は言葉を持っていない動物たちよりも多様な遊びを楽しむことが出来るのです。言葉が「体験を超えたイメージ」を与えてくれるからです。だからまた「役にも立たない遊び」に夢中になることも出来るのです。逆に言うと、言葉がちゃんと育っていない子は、本能を刺激するような遊びしか出来ないのです。仮説実験授業の場でも言葉の能力が未熟な子は、体験したことがないことを頭の中でシミュレーションをすることが困難です。大人でも、簡単に「やったことがないから分からない」などと言うような人は、やってみても分からないのです。子育てでも同じです。やったことがないことでも、あれこれ想像するから楽しくなるのです。また、実際にやった時にその体験から学ぶことが出来るのです。まずは色々と想像してみて下さい。その想像を楽しんでみて下さい。遊びはそこから生まれます。以下は想像遊びの絵本です。想像で色々と遊べるようになると、実際の遊びも楽しくなるのです。「もしもねずみにクッキーをあげると」(ローラ・ジョフィ・ニューメロフ)という絵本も紹介したかったのですが、絶版のようです。楽天で見たら中古で7万円の値が付いていました。一瞬、「うちの売ろうかな・・・」と思ってしまいました。ねえ、どれがいい? [ ジョン・バーニンガム ]価格:2860円(税込、送料無料) (2021/4/5時点)楽天で購入
2023.02.20
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日々子ども達と接していて感じるのは、「待てない子ども達が非常に多い」ということです。待てない子どもは、「話すこと」は得意でも「聞くこと」が苦手です。こちらの都合も考えずにテレビのように一方的に話してきます。それで、「ちょっと待って」と言うと、すねたり、あっちへ行ったり、別のことを始めたりしてしまいます。工作などでも、すぐ「先生やって」と言ってきます。依存心が強いのも「待てない子ども」の特徴です。そんな場合、「この子には無理だな」と感じるようなことは手伝ってあげます。でも、待てない子は私が手伝っていても私がやっていることを見ようとしません。それで、「見ていなきゃ出来るようにならないよ」と言うのですが、「待てない子」は観察することも苦手なようです。「傍にいてちゃんと見てな」と傍にいさせても、いるだけで見ようとしません。どうも見方(観察の仕方)が分からないようです。よく仕付けられた犬は「待て!」と命令すれば待ちますが、でも、命令がない状態では待ちません。「待つことに対する内的な動機」がないからです。それと同じ状態なんでしょう。子どもでも、「命令に従わないと叱られる」という状況下では、命令に従って待つ事が出来ることがあります。でも、自分の判断と意志で待つことが出来る子は本当に少ないです。でもその一方で、最近の子は周囲からの刺激にはすぐに反応します。そして振り回されます。待てない子ほど刺激に対する耐性が低いのです。まあ、日常的にゲームをやっていればそういう状態になるのは当然の結果ですけどね。それがゲームをやっているときの普通の状態なんですから。ただし、4才ぐらいまでの子どもは待てないのが普通です。自分の感情や衝動を抑制する脳の機能が未発達だからです。これはしつけの問題ではなく、子どもの成長の問題なんです。人間以外の動物たちも、その機能が未熟なため自分の意志で待つことができません。だから、動物に芸をさせるためには特別な調教が必要になるのです。問題は、最近は「待てないのが普通の幼い子ども達」を待てない大人達が増えてきたことです。そのような人は、子どもが自分のペースでゆっくりと成長するのを待てないため、「アメとムチ」という方法を使って、犬を調教するように幼い子ども達を調教しようとします。「お母さんの言うことを聞かない子は嫌いになっちゃうな」などという脅しをかけるお母さんもいます。そして、その調教がうまく行けば、4才に満たない子でもある程度まではその行動をコントロール出来るようになります。そのため、「しつけ」と「調教」を混同してしまっている人がいっぱいいます。実際、「しつけの方法」として、「調教的なやり方」を書いている人もいます。「しつけ」を「ハウツー」として説明している人や、ハウツーとして理解している人はみんなそういう人です。でも、調教的なしつけを受けた子は、指示や命令を出すお母さんがいる場では「いい子」なんですが、お母さんがいない場では野生動物のように乱暴になってしまったり、逆に不安が強くで何も出来ずに小さくなってしまたりするのです。「人間としての成長」が損なわれてしまうからです。でもお母さんは、我が子のそういう状態を知りません。自分の前ではちゃんと行動しているからです。調教的なしつけを受けていると、お母さんの期待に応える能力は育っても、自分の心と頭で「何をしたらいいのか」「何をしてはいけないのか」ということを判断する能力が育たなくなってしまうのです。そのため、思春期が来ても自立が困難になってしまうのです。それが調教的なしつけの大きな問題点なんです。犬は、精神的に成長する必要がありません。人間の言うことに従っていれば死ぬまでちゃんと世話をしてもらえます。「人間としての能力」を育てる必要もありません。犬が人間と同じ立場になることは永遠にないのですから。でも、人間の子ども場合はそれでは困るのです。人間の成長は、社会の都合ではなく、命の都合、自然の都合に従って進行していきます。何でも早く簡単に出来るようになったからといって、妊娠にかかる時間や、成長にかかる時間を短くすることは出来ないのです。それを現代人の価値観に合わせて、人工的な方法でその自然な状態を変えようとすると、子どもの命の状態や成長プログラムが狂ってしまうのです。そしてその狂いは大人になっても矯正されません。幼い頃に「ボタンの掛け違い」が起きてしまうと、大人になっても掛け違ったままなのです。だから、「命のリズム」や「命のプログラム」に安易に手を加えてはいけないのです。でも、待てなくなってしまった現代人は、大人の都合に合わせて子どもの成長をコントロールしようとしています。出産も医者や病院の都合に合わせて赤ちゃんが引きずり出されています。テレビでは「待てない大人」に向けて「こうすると子どもの成績がアップしますよ」「こうすると子どもの好奇心がアップしますよ」というハウツーをいっぱい流しています。でも、待てない人ほど強い不安を感じながら生きているのです。「待てない人」を突き動かしているのは「不安」だからです。じゃあどうやったら、その「待つ能力」を育てることが出来るのかと言うことですが、「自然とのつながり」を取り戻すことがその手助けになるでしょう。人工物は思い通りになりますが、自然は思い通りにはなりませんから。あと、自分の心とからだの状態に気づくことも必要です。自分の心やからだと対話できる人は待てるのです。
2023.05.29
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12日、13日と山北町にある「ペガススの家」という所で大勢の親子と遊んできました。私は、「冒険クラブ」という屋外で遊ぶ活動を20年近くやっていますが、これはその仲間達と一緒に遊ぶ夏合宿のようなものです。合宿は毎回テーマが決まっていて、今回は「劇遊び」と「音遊び」と「お化け屋敷作り」でした。自分の興味に合わせてどこかのグループに参加して、同時進行的に活動して、最後にみんなに発表するという形でやりました。「劇遊び」は宮沢賢治の「注文の多い料理店」をやりました。私は導入だけやってあとはお母さんと子ども達に任せました。私の活動に参加しているお母さん達はそういうのに慣れているので。ただ、「注文の多い料理店」を原作通りには出来ないので、主人公を「兵隊さん」から、その兵隊さんを食べようとしている「山ネコ」に変えました。そして、原作では兵隊さんは生き延びるのですが、この劇ではネコに食べられてしまいます。どうやって兵隊さんをだまし、食べてしまうのかも、お母さんと子ども達で考えました。短時間でぶっつけ本番だったのにも関わらず、すごく素敵な劇が出来て楽しめました。冒険クラブのお母さんや子ども達はすごいです。腹を空かせた山猫たちが集まって会議をしています鳥を捕まえようとしても逃げられてしまいます。それで、時々やってくる人間をだまして食べる事にしました。で、あれこれ知恵を絞って色々な工夫をしました。壁の向こうに山猫たちが隠れています。「扉」の工夫も面白かったです。この看板には「この おりょうりを おたべください」と書いてあります。この時点ではまだお料理はありませんが、新聞紙などを使って美味しそうなお料理を作ってこのイスの上に並べました。で、兵隊さん達がお料理を食べている隙に襲うのです。で、襲われて食べられてしまいました。めでたしめでたし。(これは山猫の気持ちです)私は、こんな風に自分たちで工夫して自由に展開できる劇遊びが大好きです。あと好きなのが「音遊び」です。これは、普段、音の活動をしているお母さんにリーダーになってもらいました。このときは「色」を「音で表現してみよう」というテーマでやっていました。普段はやんちゃな子ども達が、真剣に他の人が出す音に耳を傾けて一緒に音空間を作ろうとしていたのが印象的でした。ちなみに「音に耳を澄ます」と言うことは、「心に耳を澄ます」ということにもつながります。それは「聞く力」の原点です。で、これが迷路+お化け屋敷です。みんなの工夫があれこれ見られます。あとは定番のこんな遊びもやりました。お猿のような子ども達です。柱を登っている途中の子もいます。右側の薄暗いところにも数人潜んでいます。分かりますか。
2023.08.14
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大分前に読んだ記事ですが、先進的な教育について学ぶために、政治家や教育者がフィンランドなどに視察に行ったとき、施設を見て、資料をもらって、説明を聞いて、それだけで帰ってしま人が多いそうです。つまり、わざわざ現地に行ったのに、ネットなどで得ることが出来るような情報だけをもらって帰ってきてしまうのです。その記事には、ほとんどの人が「現場で働いている人の言葉に耳を傾けない」と書いてありました。日本人の多くが、「形」には興味があっても、その「形」が生まれた思想的、文化的、風土的背景や、実際に働いている人たちの言葉には興味がないようなのです。明治維新の時もそうやって西洋文化を取り入れました。政治制度も、学校制度も、軍隊制度も、経済制度も欧米のやり方(形)を真似ました。ただし、取り入れたのは「形」だけです。その中身は明治以前のものをそのまま詰め込みました。でも、いくら現地の設備やシステムを真似して形だけソックリなものを作っても、中身が異なっていたら同じようには機能しないのです。むしろ「形」と「中身」の乖離が、様々なトラブルの原因になっていきます。これはシュタイナー教育やモンテッソーリ教育、その他の「教育法」でも同じです。森の幼稚園も同じです。モデルとなったものがいくら素晴らしくても、その背景を無視して、表面的な形だけ真似しても同じようには機能しないのです。気候風土や文化的風土が異なった場所でも同じような結果を得たいのなら、「その土地に合わせた新しい形」が必要になるのです。「乾燥地帯で快適に暮らせる家」と「高温多湿の地帯で快適に暮らせる家」とでは、同じ「快適」を求めていても、家の形や構造は違うのです。スペインやフランスの「快適で素敵な家」をジャングルの中に建てても快適な生活は出来ないのです。伊那小学校でやっていることは、その土地の気候風土や、その土地で暮らしてきた人たちの思想的、文化的背景があって初めて可能になったのです。そのことを理解しないまま、ただ結果だけを見て感激して、形だけを真似しようとしても、同じ結果にはならないのです。大切なのは「形」ではなく、その「形」を創り上げている気候風土や人々の意識の方なのですから。「形」を真似すれば中身も付いてくるような錯覚があるのかも知れませんが、それは幻想です。「中身」が「形」を作るのであって、「形」が「中身」を作るわけではないからです。シュタイナー教育で絵を描くときは「輪郭」は描きません。物に輪郭など存在していないからです。輪郭は人間の頭の中にしか存在していないのです。輪郭があるから物が生まれてくるのではないのです。顔にも輪郭などないですよね。顔があるから、その顔の周囲をなぞることで輪郭を認識することが出来るのですよね。そして、その本体は「作るもの」ではなく「生まれてくるもの」です。様々な要素が絡み合って、長い時間をかけて生まれてきた結晶のように少しずつ「そのもの」が育って行くのです。その輪郭をなぞれば形を確認することが出来ますが「形」は中身が創り出した結果に過ぎません。「形」から始めるのは塗り絵と同じです。誰か別の人が作った「形」を使って、中の色だけ自分で塗って、あたかも自分が描いたかのような錯覚に浸って満足するのです。でも、そんな塗り絵ばかりやっている子に、真っ白い紙を与えても何も描けません。元になる形(正解)がないと何も出来ないのです。それはつまり、「心の自由を失ってしまう」ということでもあります。「形」は正解を決めてくれます。キャラクターの塗り絵なら、もう、色まで決まっています。でもそれと同時に、「形」は限界を固定してしまいます。枠からはみ出してはいけないのですから。枠の内側を自由に塗ることは可能ですが、枠を無視して塗ることは許されていないのです。伊那小学校の実践に感激したなら、皆さんが住んでいる場所で、それまでの生活の延長で、今できることを探して始めてみて下さい。そして、それを発信していれば仲間が現れます。その際、オリジナルを正解にしないことが重要です。オリジナルを正解にしてしまうと、命を持たないマネキン人形と同じになってしまいますから。
2024.01.10
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今日は、昨日の図から話しを始めますね。(昨日の文章、今朝少し書き換えました。)そして、この図に対してその気質なんですが、まず大きく分けて二つに分けられます。<内向的> 意識やエネルギーが自分の心やからだに向かいやすいタイプ。<外向的> 意識やエネルギーが、自分が生活している社会や世界に向かいやすいタイプ。さらに、その二つがそれぞれ“意味や目的を大切にするタイプ”と“自分の感覚を大切にするタイプ”に分けられます。この二つは「心(意識)」と「からだ(無意識)」というふうに考えることも出来るかも知れません。という説明を付けておきました。一人の人間の活動を“外側に向かう働き”と“内側に向かう働き”に分けました。そして、さらに、“心”と“からだ”に分けました。この四つの要素でマトリクスを作り、四種類の組み合わせを考えました。そして、その四つの要素に四つの気質をあてはめてみました。多分、特別な場合を除きこれで漏れはないと思います。この四つの気質の細かい特徴は後日書きますが、ここでは抽象的な表現で大まかな特徴だけ書いておきます。<胆汁質>「外+心」の組み合わせ人は、心の世界を外(社会)に向かって実現しようとする時には“行動”という形を取ります。ただし、その行動は創造的な場合もあるし、破壊的な場合もあります。自己実現が一番の関心事なので、あまり協調性はありません。<多血質>「外+五感(からだ)」の組み合わせ五感を通して、世界(社会)とつながろうとします。自分の世界を実現することよりも、“つながり”、“みんなと一緒”ということを大切にします。また、楽しいこと、五感が喜ぶような刺激が好きです。<粘液質>「内+体内感覚(からだ)」の組み合わせこの「体内感覚」というのが分かりにくいでしょうね。人間には五感があるというのは、学校で習いますが、それは外側の世界を知覚するためのもので、実はその他にも自分のからだの中を感じる感覚もあるのです。皆さんがよく知っている“バランス感覚”もその一つです。他にも生命感覚、言語感覚、運動感覚のようなものもあります。(他にもありますがここでは説明できないので省きます)生命感覚は“今日は調子がいいぞ”とか、“今日はだるいな”というような情報を与えてくれる感覚です。言語感覚はオノマトペ(擬態語)のようなものを感じさせてくれる感覚です。この感覚がないと言葉に生命が入りません。運動感覚は自分の動きを感じる感覚です。粘液質の人はそういう感覚に触れていると安心します。もっとも、本人にそのような自覚があるわけではありませんが・・・。状態としては、自己充足してしまっているので、一見不活発です。自己表現をしないので、何を考えているのかよく分かりません。でも、何事にもバランス感覚はいいです。<憂鬱質>「内+心」の組み合わせ内側に向かって心の世界を実現しようとすると、“思考”や“空想”になります。憂鬱質の人は色々なことを考えることが好きです。ですから、考える道具としての言葉にこだわります。(乱暴な言葉遣いをする人が苦手です。)自然や物の世界には違和感を感じませんが、人間には違和感を感じています。そのため、人間や社会というものに対して強い不安を感じています。関わり方も分かりません。また、他の人の言葉や行動を自分の空想で解釈するので、時として状況に不調和な言動が多く見られます。とんでもない誤解をしてしまうのかも知れません。四つの気質の特徴を、大雑把に説明してみましたが、これじゃあ分からないですよね。でも、分からなくていいんです。この分からない所に、具体的な例をはめ込んでいくことできちんとした地図が出来上がっていくのですから。最初から具体的な話を聞いてしまうと、思いこみで理解してしまいます。すると後からより大きな視点からの説明をしても心の中に入らなくなってしまうのです。四つの気質の説明は終わりましたが、ただ、問題は現実の人間がこんなにうまく分類できるかどうかということです。結論から言いますと、できません。人間の心はそんなに簡単なものじゃありません。人はある時は胆汁的ですが、ある時は多血的で、ある時は憂鬱的で、またある時は粘液的です。人間はそんな風にいつも変化しています。例えば、学校のPTAでは胆汁的だった人が、友達の中では多血的で、失恋したら憂鬱的になって、食事の後は粘液的になったりします。じゃあ、気質の学びなんか必要ないのかというと、ここからが面白い所なんです。日常の生活の中で、気質の状態はそんな風に色々と変化するのですが、でも“自分にとって一番心地よい状態”という風に考えると大抵その中のどれか、もしくはその組み合わせに当てはまるのです。実際、あなたが一番自分らしさを出すことが出来る相手のタイプは大体決まっているはずです。そうなんです、日常生活では色々な気質を使い分ける必要がありますが、自分の本来の気質の状態でいる時に、人は一番居心地がいいのです。そして、自分とは違う気質の人に対してはなんとなく違和感を感じます。単に“活動的だから胆汁質”だとか、“いつも何か考えているから憂鬱質”ということではないのです。その状態を“心地よい”と感じているかどうかがポイントなんです。そして、実際の気質はその状態を中心に揺れ動いています。つまり、バネが揺れ動いているその中心の辺りが自分の気質だということです。つまり、固定されたものではないのです。ですから、上の表に自分の位置を固定することはできないのです。“この辺りかな”というのが、多分正しい位置だと思います。まるで、物理学で電子の位置を確定するような議論になって来ましたね。ちなみに私自身は「憂鬱質が強い粘液質」というあたりだと思っています。その辺りが一番居心地がいいです。家内は「胆汁が強い多血」、長女は「粘液+α」、長男は「多血+α」、2女は「多血が強い胆汁」、2男は「胆汁も入った憂鬱」(今は憂鬱の方が強いですけど多分10才過ぎた頃から胆汁が強くなると思います。思春期を境に隠れていた別の気質が現れる人も多いようです。)私は仕事の場では胆汁にも、多血にもなりますが、その後は一人でジッとしていたくなります。自分の気質の中にいる時エネルギーを回復できるのです。
2005.11.04
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四つの気質はそれぞれ似ているところも、似ていないところもあります。多血質と胆汁質は双方共に意識が外側に向いていて、社会的な活動や社会的なことに強い興味があります。でも、多血質の意識は「拡散型」(広く浅く)で、胆汁質は「集中型」(狭く深く)です。胆汁質と憂鬱質の意識は「集中型」(狭く深く)で似ています。そのため双方とも頑固です。からだも固いです。でも、胆汁質の意識は外向きですが、憂鬱質の意識は内向きです。憂鬱質の人は自分の心と対話するのが好きなんです。そして、両者とも集中型のため理想を求め「極端」に走りやすい傾向があります。そのため両者はお互いに理解しにくく、共存しにくい関係にあります。でも時として、胆汁質の人は憂鬱質にあこがれ、憂鬱質の人は胆汁質にあこがれることもあります。お互いに、自分にないものを求めるのでしょう。でも、両者とも多血質や粘液質にはあこがれません。憂鬱質と粘液質の意識は共に「内向き」という点で似ています。でも、憂鬱質は「集中型」ですが、粘液質は「拡散型」です。ですから、憂鬱質の人には「こだわり」が多いですが、「粘液質」の人にはあまりこだわりがありません。また、周囲の人には憂鬱質の人はいつも「鎧」を着ているように見え、粘液質の人は逆にいつもボーッとしていて無防備に見えます。粘液質と多血質は共に「拡散型」という点で似ています。ですから双方共にあまり「こだわり」は強くありません。そういう点で子育ては楽です。憂鬱質や胆汁質に比べると、双方共に心もからだも柔らかいです。でも、「こだわり」が弱いため、「日常的な仕事」には向いていますが、「専門性が高い仕事」には向きません。憂鬱質や胆汁質の人は頑固で扱いにくいのですが、それ故「専門性が高い仕事」には向いているのです。違いとしては、粘液質の人の感情は不活発で、周囲の状況にあまり振り回されないのに対して、多血質の人の感情は反応性が高いため常に周囲の状況に影響され振り回されていることです。胆汁質と粘液質の似ているところは、あまり周囲の状況に振り回されないと言うことです。ただ、胆汁質は活動的ですが、粘液質は不活発です。胆汁質の人は社会的な活動に興味がありますが、粘液質の人は自然や生命やからだの方に興味があります。多血質と憂鬱質の似ているところは、両方とも不安定だということです。ただ、多血質はその不安定さを楽しんでいるのに対して、憂鬱質の人は不安を感じ、心とからだを固めています。ただし、上に書いた特徴はその気質単体の特徴であって、いくつか混ざっている時にはまた異なった状態になります。それは、「緑」という色が「青」と「黄色」が混ざったものでありながら、「青」でも「黄色」でもないのと同じです。その時、「混ざりやすい気質」と「混ざりにくい気質」があります。多血質と憂鬱質、胆汁質と粘液質は混ざりにくいです。でも、混ざらないだけで共存していることはあります。その場合、状況に応じてどちらかの気質が現れます。ライオンは敵と戦っている時には胆汁的ですが、お腹がいっぱいになると粘液的になり、目の前をウサギや鹿が歩いても、飛びかからないそうです。人間は胆汁的動物なので、捕って捕って、相手が絶滅するまでとり続けますが、ライオンはそういうことはしません。状況に応じて状態が変わってしまうのです。会社ではバリバリ働く胆汁なのに、家の中ではテレビの前でゴロゴロしている粘液、というお父さんもいます。また、家の中では多血的なのに、外に出ると憂鬱的になってしまう子もいっぱいいます。ただ、緑の鈴風さんのような「胆汁質」と「憂鬱質」の組み合わせはお互いに否定し合う関係にあるので、なかなかやっかいです。それは、自分の中に自分の敵がいるというような状態です。そのため、いつも心が不安定で、意識が「自分」に囚われてしまい、あまり周囲のことに意識が向かいません。
2013.10.13
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昔は「結婚」を前提として付き合ってから結婚するのが普通でしたが、最近は「お友達」として付き合っていて、「出来ちゃったから」結婚する人たちが増えてきています。また、そうでなくても「お友達」という関係の延長で夫婦になる人も増えています。そのような二人は、昔の夫婦と違って、仲が良くて、それはそれでほほえましいです。そのような人たちは当然、仲の良い「友達」のような夫婦関係を作ります。そして、家事も仕事も対等に分け合って生活しています。そこには「妻の役割」も「夫の役割」も存在していません。でも、奥さんの方が妊娠するとその「友達関係」は崩れます。女の人は妊娠すると、必然的に妊娠と出産と子育てという「母親としての役割」を引き受けなければならなくなってしまうからです。これは現代人がどんなに「男女平等」を謳っても、平等には訪れません。男女平等は「観念」であって、「現実」ではないからです。その時、夫の方が「父親」という役割を引き受けてくれるなら、家の中がちゃんとまとまります。自然界では、「0」(ゼロ)の状態から、「+」(プラス)が発生したら、同時に「-」も発生してバランスを取るように出来ています。ですから、人間の本能としては、「妻」が「母親」になったら、「夫」は「家族」を守るために、「父親」になっていたのです。本来、それが動物にとっての「オス」の役割なのです。でも、観念的な世界に生きている最近の男性は「父親という役割」が理解できません。また、「役割を引き受ける」ということに対しても抵抗感があります。これは女性も同じなのですが、女性の場合はそんなもの知らなくても、たとえ抵抗感があっても、自然の強制によって「母親」にならざるおえないのです。そして、痛みとか、時間とか、労働とか、心とかにおいて多くの犠牲を強いられるのです。それを喜びと共に受け入れる人もいっぱいいますが、そのリアルな世界の現実に、「こんなはずではなかった」と、「母親になった現実」を受け入れようとしない人もいっぱいいます。そのような人は、「母親の役割」を拒否します。そして、預けるか、捨てるか、殺します。祖父母に預けっぱなしの人もいるかも知れません。一緒に生活したとしても、世話をするだけで、「母親」として関わろうとはしません。それは「ペット」の飼育と同じです。もしくは子どもが幼稚園に上がるまでは“我慢して”「お母さんとしての役割」を引き受けていますが、子どもが幼稚園に行くようになったら“自由になった”と、「自分の生活」を優先させているお母さんもいます。そのようなお母さんは、子どもを色々な塾や教室に通わせて、自分は送り向かいだけをしています。「役割を引き受ける」と言うことは、何らかの犠牲を必要とします。それは、幼稚園の役員でも、仲間内の役割でも、「大人」という役割でも同じです。また、何らかの職業に就くということも、「役割」を引き受けることです。その「役割」を引き受けた人は、その「役割」によって、自分の時間と労働と自由を束縛されることになります。思考や感覚も束縛されます。「役割を引き受ける」ということはそのような「犠牲」を必要とするのです。でも、この時、能動的にその役割を引き受ける人はそれを「犠牲」とは感じません。なぜなら、能動的に関わる人たちはその「役割」から多くのものを学び、「人と人のつながり」という宝物を手に入れることが出来るからです。でも最近は、「母親という役割」、「父親という役割」だけでなく、「職業という役割」まで拒否する人たちも増えてきたようです。そのような人たちは、会社に行っていないでフリーな時には元気なのですが、会社に行くと「鬱」になるのです。そういう新しい形の「鬱病?」が増えているそうです。お母さん達もまた「役割」を引き受けようとはしません。それで幼稚園でも小学校でも役員決めで先生が困ってしまうのです。幼稚園などの活動でも、また共同保育などの活動でも、誰かが必ず何らかの「役割」を引き受けなければなりません。誰かが「役割」を引き受けてくれないことには、グループがまとまって活動することが出来ないからです。でも、その「役割」を引き受けようとする人は少ないので、結局いつも押しつけ合ったり、同じような人が「役割」を引き受けることになります。でも、それで他の人は感謝しているのかというと、文句や要求を言うばかりで協力的ではありません。「役割」を引き受けることから逃げる人は、要求するばかりなんです。これは、大人だけの問題ではありません。子どもたちでも同じなんです。今の子どもたちは「役割」を引き受けることを嫌がるのです。「自分だけ損をしている」と感じるようです。それで、罰ゲームのような形で「役割」が押しつけられます。遊びの中でも「役割」を引き受けない子がいます。コメントに書いて下さった、さちこさんのお子さんのように、鬼ごっこで遊んでいるのに、「鬼」を引き受けることを拒否する子も珍しくありません。逆に、鬼ばかりやりたがる子もいます。でも、そのような子どもたちに役割を強制しても無駄です。「役割」というものの大切さが分かっていないからです。役割は「押しつけるもの」ではなく、「引き受けるもの」なんです。そうでないと、その役割を通して成長することが出来ないからです。ではどうしたらいいのかというと、家庭の中でお手伝いなどの役割を作ったり、お母さんが幼稚園などの役割を引き受けて「役割を引き受けることの大切さ」を伝えていくようにした方がいいと思います。また、スポーツクラブでも、ボーイスカウトでも、遊びの会でも、多くの大人達によって支えられている何らかの活動に参加させるのもいいと思います。「役割を引き受ける」ということは社会的なことなので、基本的には社会の中で学んでいくことなのです。ですから、お母さんが子どもを自分のテリトリーの中に囲っている限り、子どもは役割を引き受けることが出来るようにはなりません。父親が「父親としての役割」を引き受けていない家庭の子に、そのような子が多いような気がするのですが気のせいでしょうか。**************************「父親の役割と母親の役割」という私の講座があります。2月13日(日)13:30~15:30会場は横浜の「Umiのいえ」というところです。詳しくは「Umiのいえ」のホームページをご覧になって下さい。
2010.11.22
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「現実」というものは「感覚とからだの働き」によってのみ認識することができます。知識や思考や科学では現実を認識することが出来ません。知識や思考や科学が教える「現実」は、現実の「現実」ではなく、「現実についての知識」に過ぎません。昨日書いた「今という時間」「共にというつながり」を大切にする感覚もまた、「感覚とからだの働き」によって生み出されています。風に吹かれて心地よいと感じる感覚、子どもの笑顔に喜びを感じる感覚、からだを動かした後の気持ちよさの中にこそ、現実の「現実」も、「今という時間」も、「共にというつながり」もあるのです。ですから、「感覚とからだの働き」に蓋をして生きている人は、「現実」と触れ合うことが出来ず、「空想の世界」だけで生きることになります。不安や孤独もまた心が作り出した「空想」です。現実の世界の中にはそんなものどこにも存在していません。放射能は現実ですが、「放射能への不安」は心の中だけにしかない空想です。「しつけをちゃんとしなければよい子にならない」とか「勉強をちゃんとやらせなければ落ちこぼれてしまう」というのも「空想」です。お金や、法律や、規則や、時間といったものも「空想」です。その証拠に、子ども達はこれらのものを理解することが出来ません。子ども達は「現実の世界」だけに生きているため、「大人の空想」を理解することが出来ないのです。確かに、人間は「空想する生き物」ですから、空想すること自体は自然なことです。その働きが文明を生み出しました。でも、その「空想」は「現実」というブレーキとセットにして扱わないと空想だけが暴走してしまい、困ったことになってしまうのです。空想の世界に生きている人の心の中は夢の中の世界と同じです。どんなこともありです。天使や神様と会うことも、空を飛ぶこともできます。でも、不安が怪物の姿をして襲ってきたり、不安が不安を生みだし、どんどん巨大化したりもします。「子どもが反抗的だ」というだけで、「将来犯罪者になってしまうのではないか」と心配しているお母さんもいました。「この子がいなければ」という空想に取り憑かれて、子どもを殺してしまう人も少なくありません。でも、そういうものは全て空想の世界の産物です。現実ではありません。それを現実と取り違えるから困ったことになってしまうのです。ネットやテレビの中の世界もまた空想の世界です。その中には「現実についての知識」はあっても、現実の「現実」は全くありません。空想の世界に生きている人ほどネットやテレビの世界にはまりやすいのです。まるで映画の「マトリクス」や「アバター」のように、生身のからだを置き去りにして、空想の世界に入り込んでしまうのです。そのように空想の世界に生きている人にとっては、現実の「現実」は邪魔者に過ぎません。現実の「現実」があるが故に、空想の世界に浸りきることが出来ないからです。ゲームをやっていても、喉は渇くし、お腹は減ります。疲れもするし、眠くもなります。それが現実の「現実」です。でも、空想の世界に生きている人にとってはそれが「ウザイ」のです。だから無視しようとします。韓国には、そのため「寝ないし食べない」という選択をして死んでしまった人までいます。また、「子どもが突きつける現実」を「ウザイ」と感じている人もいっぱいいます。そのような人は子どもを無視します。そして困ったことに、現代社会にはこのように感覚とからだの働きに蓋をして空想の世界だけに生きている人がいっぱいいるのです。というか、今ではそれが一般的な日本人の特徴にすらなってしまっています。そういう人たちは生身の感覚やからだとつながった現実の「現実」を見ようとはせず、頭が作り出した空想の「現実」だけを大切にします。そして、この傾向は世界中で進んでいます。それは文明が人々の生活を自然から切り離し、感覚やからだの働きに蓋をしてしまっているからです。そんな世の中でも、妊娠、出産、子育てを肯定的に受け入れることが出来る女性達は、忘れてしまっていた自分の「感覚とからだの働き」を想い出すことが出来ます。妊娠、出産、子育ては「自然体験」そのものだからです。そして、「今という時間」と「共にというつながり」の存在に気付きます。でも、そのことによって、「空想の世界」に生きる周囲の人達との間に意識の断絶が生まれ、子育てが苦しくなります。また、自分の意識の働きによって「感覚とからだの働き」に目覚めたわけではないので、すぐにまた「空想の世界」に戻ろうとしてしまいます。また最近では、妊娠、出産、子育てを体験してもそのことに気付かない女性達も増えてきています。そのような人は、目の前の子どもを感じようともしないし、現実も肯定しません。そして、「理想の子ども」、「理想の人生」ばかりを追い求め、頭の中の空想の世界だけを生きています。「本当の私」を探して歩き回っている人も空想の世界の住人です。だから、その探し回っている本人こそが「本当の自分」だということに気づかないのです。それはメガネをかけてメガネを探している人のようなものです。「原発こそが理想のエネルギーだ」という考え方もまた空想の産物ですが、「放射能が怖いから原発反対」という考え方もまた空想の産物です。賛成派も反対派も空想を基に議論していたら、永久にこの問題は解決しません。私たちはもっと、「感覚とからだの働き」を想い出さなければいけないのです。でも、空想の世界にどっぷりと浸かって生きている人達にそのことを伝えるは至難の業です。なぜなら、「空想の世界」に住んでいる人達は、「感覚とからだの話」や、現実の「現実」の話をしても、すべて空想の世界の出来事として理解してしまうからです。むしろ、逆に「どうしてそんなことにとらわれているの」と言い返されてしまうでしょう。空想の世界に生きている人達にとっては、感覚やからだの働きによって感じる現実の世界は不自由だし夢がないからです。そのため、竹槍と神風があれば、どんな敵でもやっつけることが出来ると思いこんでいる人たちの中で、「そんなこと出来るわけがない」と主張する人は、みんなからのけ者にされます。確かに、現実は束縛し、空想は自由と希望を与えてくれます。でも実際には、私たちは「現実」という束縛の中でしか生きることが出来ないのです。だからこそ、その束縛としっかりと向き合うことが必要なのです。そしてその中に自由を探し、希望を空想するのです。その「現実」を無視した自由は「自分勝手」だし、希望は「絵に描いた餅」です。でも、現代人はさえない現実より、「自分勝手」と「絵に描いた餅」の方を選んでしまうのです。
2011.06.10
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いい意味でも、悪い意味でも、日本人には「今」が全てです。それは最近になって始まったことではなく、昔からそうなのだろうと思います。つまり、日本はそういう文化の国なのではないか、ということです。だからどんな自然災害に見舞われても、過去に囚われることなく「今」を生き延びることだけに集中することが出来るのでしょう。それが日本人の強さでもあります。でも日本人は、台風や津波などの自然による災害だけでなく「人間による困った出来事」に対しても、「自然災害」と同じように受け止めてしまう傾向があります。それは、「起きちゃったことはしょうがないじゃないか」「嫌なことは忘れよう」という論理です。(日本人はこの考え方を、戦争中日本が侵略した国に対してまで求めています。)そして、「自然災害」と同じように受け流し、「今」を生き延びることだけに集中します。ですから、次回同じようなことが起きたときの対応として身を守ることだけは考えますが、その災害自体が起きないように工夫することはしません。「○○事故が起きたら私はこう逃げる、こう身を守る」ということは考えても、その事故自体が二度と起きないように考えることはしないのです。なぜなら、「原因」を究明することは、「責任」を究明することでもあり、それは仲間の輪(和)を乱す行為だからです。日本人は責任を取らない民族ですから、責任をはっきりとさせるような「原因究明」にも消極的なんです。そして、いつまでも原因や責任にこだわっていると「野暮なやつだ」と言われます。ただこれは、いい悪いの話ではなく、「日本はそういう文化の国だ」ということです。だから日本は主義主張の対立によって分裂することもなかったのです。でも、人々が自然と共に素朴な生活をしていた時にはそれでも良かったのですが、近代国家としてはそれでは困るのです。日本語の時制は非常にあいまいです。欧米の言葉では、その出来事が過去から未来への時間軸の中で、「いつ、どのように起きたのか」また「起きるのか」と言うことを明確に表現させます。だから、出来事を原因と結果のつながりの中で、一つの論理として構成することが出来ます。そしてそこが、日本人が英語を学ぶときに障害になる点です。日本人は出来事を原因と結果のつながりの中で理解しようとする癖がないので、「時制」というものをどのように使ったらいいのかがよく分からないのです。また以前、韓国人の友人から「韓国語には主語不明な受け身的な表現はない」というようなことを聞いたことがあります。日本語では「僕はいじめられた」と言います。でも、韓国語では「彼が僕をいじめた」と表現するらしいのです。「彼が僕をいじめた」と言われたら「いつ」「どこで」「どのように」「原因は」と聞きたくなります。でも、ただ単純に「僕はいじめられた」と言われたら、「そう苦しかったよね」と共感したくなります。その違いは大きいです。このような表現の違いだけで判断するのは早急なのですが、韓国人は事実を伝えようとし、日本人は共感を求めようとしているのかも知れません。ただ、韓国語に関しては不明なのですが、日本語には「共感を求める表現」が多いということは事実だと思います。その出来事自体は「過去」に起きたことなのですが、求めている共感は「今」の感情に対してなのです。だから、過去の出来事に対する詳細な説明は必要がないのです。日本人にとっては、「誰が、いつ、どのような原因で僕をいじめたのか」が問題なのではなく、その結果としての僕の悲しみや苦しみに対して共感して欲しいだけなのです。ちなみにこれは憂鬱質の特徴の一つでもあります。日本には「文化としての哲学」が生まれませんでした。それも、その日本語の特徴や日本人の精神性によるものでしょう。確かに日本にも道元や空海や鈴木大拙や西田幾多郎のような偉大な哲学者もいました。でも、彼らはみんな外国語(中国語や英語)に非常に堪能でした。というか、外国語を学ぶことで、同時に日本語にはない「時制の使い方」や、「因果関係に基づく論理」の使い方を学んでいたのでしょう。ただし、その際必要になるのは「会話能力」ではなく「読み書き能力」の方です。でも、現代人は「読み書き能力」よりも、お手軽な「会話能力」の方ばかりを求めています。
2012.12.18
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昨日は四つの気質の簡単な紹介をしました。今日はその四つの気質の関係について、少しお話しします。まず、なぜ四つなのかという点です。但し、今日のお話は私の個人的な印象に過ぎないので、深刻に考えずにただの“お話”として聞いて下さい。根拠を問われても、“そう感じるのです”としかお答えできません。よろしいでしょうか。では、先にお進み下さい。一番簡単な説明は、人間の持つ要素を上・下・右・左に分解したものだと言うことです。人間の心にとって、方向は非常に大きな意味を持つからです。精神の成長を願う人は上を目指します。それは精神の成長は肉体的な欲求からどれだけ自由になるかということとつながっているからです。ですから、精神の成長を願う人は肉体を“支配すべき物として”下に見る傾向があります。からだを機械のごとく考え、物質(薬)や物理的な手段のみで調節しようとする西洋医学も、また、キリスト教の天国と地獄という考え方もその延長にあるように思います。胆汁的な傾向のある人が、このような考え方をするようです。また、多血的な傾向の人は胆汁の人とくっついていると楽しいことが起きることを知っているので、このような考え方にも共感を持っています。多血質は、方向としては右になるのでしょうか。胆汁も多血もプラス(+)の座標軸です。でも、人間としての成長を願う人は、“高く”上がるのではなく、むしろ逆に深く入ろうとするようです。“思い上がる”、“増長する”、“軽い”、“地に足が着かない”という日本語は多くの場合、悪い意味で使われます。ちなみに“深みを目指す人”は、“下”という見方をしないで、“深さ”という考え方をします。“○○道”、“求道”、“極める”という言葉はその現れだろうと思います。そして、日本を含めて仏教国ではどちらかというと、高く上がるより深く入ろうとしているように感じます。それは、“からだを捨てて精神だけで生きる”ということを望まないことの現れなのかも知れません。仏教の教えでは、からだと共に生きるのです。それはからだの中にこそ宇宙の真理、仏の教え、真理への道があると考えているからです。ヨガはそのからだを通して、真理に近づこうとする技術です。ちなみに、お釈迦様が説いたのは、簡単に言うと“生命のルール”です。お釈迦様は“生命のルールを受け入れなさい”と説いたのです。それは生病老死を含んだ、自分のからだを受け入れるところから始まります。キリスト教ではその逆に、神様を信じるものは“生命のルールに束縛されなくなります”と説いています。欧米から始まった近代文明もこの流れの延長にあります。ただ“神様”が“科学”に代わっただけです。実際、“生命のルール”から自由になることが科学の大きな目的の一つになっています。そして、憂鬱質が入っている人は、この東洋的な“深く”という言葉に引かれるようです。束縛からの逃避を望むのではなく、束縛の中にありながら束縛に囚われない精神の自由を求めるのです。鎌倉の瑞泉時に「どこも苦地蔵」というお地蔵様がありますが、このお地蔵さんのメッセージは、“人間どこに行っても自分のとらわれから自由にならない限り苦は付いて回るよ。でも、今ここで腹を据えれば、もうここが極楽なんだよ。”というものだろうと思っています。そして、粘液質の人はそれほど強く“深く”を目指すことはありませんが、中途半端なところでその深みに浸っているのが心地よいようです。粘液質の人は、“あるがまま”、“自然体”という状態が好きなんです。ということで、憂鬱質が下で、粘液質が左ということになるのでしょうか。但し、クリスチャンがみんな胆汁質で、仏教徒がみんな憂鬱質だということではありません。当然、クリスチャンにも憂鬱質の人はいるでしょうし、仏教徒にも胆汁質はいるでしょう。実際、私はクリスチャンです。でも、日本のキリスト教の世界には本場ヨーロッパのキリスト教の人たちとは随分と違う考え方をする人もいるようです。遠藤周作も、そして彼と親交のある井上洋二神父という人もそのような人達です。ちなみに、キリスト教の方のことはよく分かりませんが、仏教では「日蓮宗」が胆汁色が強いように感じます。一直線です。密教は憂鬱質かな。いつも宇宙を意識しています。禅宗は胆汁+粘液あたりかな、あまり多血的、憂鬱的な雰囲気は感じません。柔軟な固さで、さっぱりしています。浄土宗系は多血+憂鬱かな・・・・・。浄土宗系は結構楽しそうです。キリスト教の中にも憂鬱的な派があるのかも知れません。私の印象では、どちらかというとプロテスタントは胆汁的で、カソリックの方が憂鬱を含んでいるように感じるのですが、どうなんでしょうね。カソリックでは黙想というような修行を重要視していますが、それも気質と関係あるのかも知れません。日蓮宗の修行は“肉体鍛錬”に近いようです。また、人間の感情を表す言葉として「喜怒哀楽」という言葉もありますが、四つの気質の特徴をこの喜怒哀楽に当てはめることもできます。喜・・・ 多血怒・・・ 胆汁哀・・・ 憂鬱楽・・・ 粘液“怒”がなぜ胆汁かというと、胆汁の人は非常に強い感情のエネルギーを持っているのですが、そのエネルギー源が“怒り”の場合が多いのです。四つの気質の人たちを気質ごとに分けて、自分の感情について話しをさせると、胆汁のグループではこの“怒り”の話題で一番盛り上がります。“コラー”とか、“バカヤロー”という言葉をしょっちゅう言っているような人も“胆汁系”です。また、別の考え方もあります。それは四つの気質を「地・水・火・風」にあてはめたものです。この四つは、東洋でも西洋でも昔の人がこの世界を構成している要素として考えたものです。日本には「五輪の塔」というものがありますが、この五輪とは宇宙の構成要素のことで「地・水・火・風・空(くう)」の五つを指します。私が中学の頃、この話を聞いて“やっぱり昔の人はバカだったんだ”と思った記憶がありますが、それはとんでもない勘違いでした。地も、水も、火も、風も、単純に物質としてのそのものを指す言葉ではなかったのです。“地”とは、地の働きをするもの。“水”とは、水の働きをするもの。“火”とは、火の働きをするもの。“風”とは、風の働きをするもの。そういう意味だったのです。ちなみに“空(くう)”とは器です。「地・水・火・風」の働く「場」です。場は存在ではありませんが、場がなければ全てが存在しません。“地”は豊かで生命の源です。豊かな“地の世界”がなければ、この世界は虚無に満たされてしまいます。でも、動けません。なんにも能動的な活動はできません。どこまでも深く続く世界なのですが、表面しか見えません。でも、水や火や風の時間とは桁違いの長い時間感覚の間には水や火や風には到底出来ないような“大変動”を起こします。一見、大人しそうなのですが、深いところに天地をひっくり返すようなエネルギーを秘めていることがあるのです。その深みを知っているのは、地の中に入ることが出来る“水”だけです。憂鬱質は“地”に、粘液質は“水”に例えられます。その“水”は“地”のように固定されてはいませんが、重く、自由には動けません。ただ低い方へと流れるばかりです。水たまりのような状態にでもなったら退屈そのものです。でも、火(熱)や風の力を借りて、時として天に昇り、天と地を循環することもできます。そして、地の栄養を様々な生命に届けます。“風”は勝手気ままです。“風”は止めておくことが出来ません。止めてしまったら風は消えてしまいます。そしてどんなところにでも入り込みます。そして音や匂いやまた種や葉っぱや様々な物を遠くまで運んでくれます。“風”は“水”とも、“火”とも話しをすることが出来ます。ただ、“地”の心は分かりません。また、“火”との相性はいいです。多血質は“風”に例えられます。“火”はひたすらに上をめざします。“火”があると、風が喜びます。“火”は“水”を嫌います。でも、“水”は“火”が嫌いではありません。“火”からエネルギーをもらって天に上がることが出来るからです。“火”の想いはたった一つ。もっともっと大きくなることだけ。それは、“地”や“水”は動かなくても消えることはありませんが、火は燃え続けていないと消えてしまうからです。“風”は止まってもまたすぐ復活します。“火”は破壊します。でも、“火”のエネルギーは創造もします。“火”は創造と破壊のシンボルです。“火”と“地”は非常に相性が悪いです。“火”は“地”から遠ざかりたいようです。でも、“地”を離れて“火”は存在できないので、対立しているのに離れることが出来ない関係なのです。“火”の力が弱くなると、“地”に近付きます。胆汁質は“火”に例えられます。<独白>(ああ、長くなりそうだ、どうしよう。)
2005.11.05
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自然界にはライオンやクマやオオカミのようにからだが大きくて、力が強い動物もいれば、ウサギやネズミやリスのように、からだも小さく、力も弱い動物もいます。からだが小さく力も弱いウサギや、ネズミや、リスが、正々堂々とライオンやクマやオオカミと戦ったら100%負けます。時には殺されて餌になってしまいます。だから「力の強いもの」が増え、「力の弱いもの」が減るように感じますが、実際にはそうなっていません。数だけ比べたらからだが大きく力が強い生き物よりも、からだが小さく力も弱い生き物の方がいっぱいいます。それは、弱いものは弱いものなりの生存戦略と能力を持っているからです。まず、「憶病である」というのは非常に大切な能力です。強いものにとっては「憶病」は短所かも知れませんが、弱いものにとっては「憶病」は長所なんです。弱いものは逃げて、隠れて身を守るのです。それを卑怯だというのは強者の論理です。ウサギや、ネズミや、リスが「臆病者!」と言われて「僕は憶病なんかじゃない」と、正々堂々とライオンやクマやオオカミの前に出てきたら、簡単に食べられてしまいます。弱者が自分の身を守ろうとするなら、強者の論理に支配されてはいけないのです。「頑張れば何でも出来る」などというのも「強者の論理」です。世の中には頑張りたくても頑張れない人も、どんなに頑張っても結果が出せない人も、そもそも頑張り方が分からない人もいるのですから。また感覚が鋭敏である必要もあります。相手が自分の存在に気付く前に、こちらの方が先に相手の存在に気付く必要があるからです。中でも「音」に対する感受性は重要です。次に「匂い」です。視覚は最後の最後に相手を確認する時にしか役に立ちません。これは人間も同じで、視覚は「確認のための手段」なんです。そのため、「視覚」は「心」や「からだ」ではなく「頭」とのつながりが一番強いです。また、獲物を追いかける時にも視覚の働きが重要です。実際、鷹の視力はものすごく高いです。逆に、逃げる場合は「音」に注意する必要があります。追いかけてくる相手を目で見ながら逃げたら簡単に追いつかれてしまいます。他の動物が食べない竹を食べることで生き延びて来たパンダや、毒を持っているユーカリの葉を食べることで生き延びてきたコアラは、競争相手がいないため粘液的な特性を持っています。逃げるのではなく戦って生き延びてきた動物は吠えるなど相手を威嚇する能力を持っていますが、逃げることで生き延びてきた動物は吠えて相手を威嚇しようとはしません。また、群れることで身を守っている動物たちもいます。そのような動物たちは仲間とのつながりを大切にします。仲間の一頭が襲われたら、別の仲間が助けに入ることもあります。ただ、集団心理で行動しているので、集団で崖から落ちてしまうこともあります。自然界に生きている動物たちは自分たちの特性に合わせて生き延びるための様々な能力を身につけてきました。その能力の中にも四つの気質がちゃんと揃っているのです。人間は人間だけの群れの中で生きていますが、そこにも様々な生存競争があります。そのため、その生存競争を生き延びるための能力として、様々な気質を持った人達がいるのです。だからこそ、人は自分の気質を生かした生き方をする必要があるのです。弱いものが強いもののマネをしたら、絶対に強いものには勝てないのですから。また、年齢によっても能力は変化します。幼い子ども達は逃げる能力も戦う能力もないため、群れたり、他者に依存することで身を守ろうとします。そのため多血的です。自我が育ち、筋肉も、骨格も、体力も付いてくる思春期になると胆汁的になってきます。体力も気力も落ちてくる中年頃になると、憂鬱的になってきます。さらにからだが動かなくなって、自分で自分を守る能力が衰えてくると、子どもと同じように他者に依存せざる終えなくなります。仕事もなくなるのでボーッと粘液的に過ごすしかなくなります。いわゆる「ご隠居」です。ただし、今はそんな優雅なことを言っていられない社会になってしまったので、不安が強いご老人が増えて来ました。
2021.06.28
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今、日本中に「ガンバレ日本」という言葉が溢れていますが、昔から日本人は「頑張る」という言葉や精神が好きです。その「頑張る」という言葉には自己犠牲的な精神が含まれています。ですから、「頑張る」という言葉は「○○のために頑張る」というような使われ方をされることが多いです。子どものために頑張る。家族のために頑張る。チームのために、日本のために頑張る。勝利のために頑張る。のようにです。こういう自己犠牲的な精神を美しいと感じる感性が日本人にあるのでしょう。まただから「金を取れなくてゴメンナサイ」などという言葉も出てくるのでしょう。またそのため、「頑張る」という言葉は自己犠牲を意味する「我慢」という言葉とセットになって使われることが多いです。今は自分のやりたいことを我慢して子どものために頑張っています。不満はあるけど言いたいことを我慢して、チームのために頑張っています。遊びたいのを我慢して、勉強を頑張っています。などのようにです。ちなみに、この「頑張る」はそのままの意味では英語に訳せません。英語に訳してしまうと「努力」的な意味になってしまい、自己犠牲や我慢の精神が消えてしまうからです。誰かを応援するときには「ガンバレ」と「ファイト」という二つの言葉が使われますが、でもこの二つの言葉は意味が違います。日本語由来の「ガンバレ」は「自分に負けるな」的な意味を含んでいますが、英語由来の「ファイト」の方は「自分に負けるな」ではなく「相手と前向きに戦え」的な意味が強いような気がします。ボクシングのレフリーが言う「ファイト」も同じですよね。個を大切にする欧米文化には「自分の言いたいことを我慢し、自分のやりたいことを我慢し、自分を犠牲にしてまでチームや他者のために頑張る」という考え方や価値観は希薄なような気がします。努力はしますが、あくまでもそれは自分自身の目標を達成するためです。だから、チームで動く場合は目標を共有する必要があります。だから話し合うのです。そしてだから、個々が持っている能力を生かすことが出来るのです。でも、日本にはその「話し合い」がありません。上が決めた目標を理解するための話し合いはしますが、自分の意見を言い合い、お互いに理解し合うような話し合いはあまりしません。自分の意見があっても個人的なことは我慢してしまえばいいのですから、話し合いなど必要がないのです。でもそもため個々が持っている能力を生かすことが出来ません。学校で色々とトラブルが起きてお母さんが学校に相談に行っても、先生は「学校の見解を説明するための話し合い」はしますが、お母さんや子どもの意見を聞いて対等の立場で話し合うことはあまりないのではないかと思います。そのような場では、学校は親や子に一方的に「我慢」と「頑張り」を求めてきます。それを納得させるための話し合いです。でもそんなもの「話し合い」ではありません。お母さんもお母さんで、子どもに「言いたいこと」や「やりたいことが」あっても、お母さんの意に沿わないことは「我慢しなさい」「頑張りなさい」と一方的に子どもを追い立てています。それで子どもは「我慢」を覚えるのですが、同時に「自分を生かす生き方」が出来なくなります。また、子どもに「人に合わせるだけの我慢や頑張り」ばかりを求めていると、子どもは成長への意欲を失います。自己肯定感も失います。また、我慢して頑張るだけの勉強は、頭の記憶としては残っても、心や、感覚や、からだの中には残りません。ですから、いくらいっぱい勉強しても、子どもの「人間としての成長」にはつながりません。我慢して頑張るだけの子育てでは、子どももお母さんも成長出来ません。どんなに一生懸命に頑張って子育てしても、頑張れば頑張るほど苦しくなるだけです。だって子どもがお母さんに求めているのはそんなことではないからです。子どもの成長に必要なことはお母さんの自己犠牲ではないのです。子育ての現場で求められることは、会社やスポーツの現場で求められることとは正反対なんです。でも今、「ガンバレ」とか「頑張る大切さ」を訴える人はいっぱいいますが、「頑張らなくていい」、「むしろ頑張らない方がいい」という価値観を訴える人がほとんどいません。だから子育てが苦しくなってしまっているのです。子どももお母さんも苦しくなってしまっているのです。<続きます>
2021.07.28
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うちには4人子どもがいます。全員成人していて、就職もしています。上の3人は結婚していて子どももいます。今、孫は5人です。4番目は独身を謳歌しています。今は、休暇を使って仲間と一緒に山岳レースに参加しています。うちの家族は全員、アウトドア系の遊びが好きなので、婿さんやお嫁さんも捲き込んで、毎年、家族全員でキャンプに行ったりもしています。いつも多血質が強い家内が企画しています。(私はソロキャンプに行くことが多いですから)家族全員の価値観が、ある程度共通しているので話しも合います。でも、偶然そうなったわけではありません。うちでは子どもたちが小さいうちから、出来るだけ子どもを自然の中に連れ出すようにしました。春になったら野草を摘んで食べる遊びをしたり、夏にはキャンプに行ったり、河原で大勢の仲間と遊んだりしました。あと、人と群れて遊ぶ遊びもいっぱいしました。そういう群れを探しても見つからなかったので、自分が呼びかけて群れを作りました。長男長女の時はよく分からなかったので公立の保育園に子どもを預けましたが、3番目の時には色々な情報があったので私たち夫婦の価値観に合った幼稚園(シュタイナー系)を選びました。(廃園になったので今はありません)そこには当然、私たちと似た価値観を持ったお母さんやお父さんがいっぱいいました。ですからその仲間と自然の中で遊んだりもしました。3番目の娘は、その園での同級生と結婚しました。私たちも仲間作りが出来ました。その園で知り合った仲間達とは今でも付き合っています。そして、その仲間達に子どもを預けました。というか、みんなの子どもたちをみんなで育て合ったのです。同じ価値観を持った仲間を集めて色々な活動もしました。「茅ヶ崎賢治の楽校」という名称で、毎年、原生林の中のキャンプ場(いまはありません)を借り切って夏の合宿もやりました。そして、原生林の中で宮沢賢治の劇を演じて遊びました。(100人近く集まりました)そういう場では、子どもは子どもで集まったり、自分の子でなくても、大人がみんなで子どもたちの相手をしました。面白いエピソードもありました。子どもたちを寝かせた後、大人達だけで集まって飲んだり、話したりしていたのですが、子どもたちが「大人だけズルイ」と言い出して、小六(小五だったかな)の女の子がリーダーになって子どもたちをまとめ、大人達が集まる講堂を占拠して、大人を閉め出したのです。バリケードも作っていました。大人だけでなく、子どもたちの結束も強いのです。こそっと入り込もうとした大人もいましたが見つかって追い出されました。それで、何人かの大人が子どもたちと交渉に行きました。色々な条件を出したのですが、なかなか受け入れてもらえません。それでしょうがなく大人が少し譲歩して、話しがまとまったのですが、うちの子達もそういう場にいました。そういう様々な体験がうちの子どもたちの今につながっています。東大を出た子は一人もいませんが、みんな他の人に好かれ、他の人とつながり、一緒に行動するのが好きです。一番手前の赤い半ズボンの子がうちの4番目です。中央で飛び込んでいるのが3番目の娘です。
2022.07.24
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最近強く感じている大きな問題があります。それは最近、人と人の間からどんどん「対話」が消えてしまっていることです。家庭でも、学校でも、社会でも、政治でも、対話の重要性は無視されています。遊びの場でも対話は消えました。群れて遊ばなければ対話は必要がないのですから。タブレット学習では対話は成り立ちません。政治家も「勝つか負けるかの論争」はしても、「より良い未来を築くための対話」はしません。そのため、「自分とは異なった意見の人とは話したくない」と対話を拒否する人がどんどん増えて来ています。「自分の考え」と異なったことを言われると「自分」が否定されたように感じてしまう人もいます。自分に向けられた言葉でなくても、「自分の考えとは異なった意見」を聞くだけで嫌悪感を感じてしまう人も多いようです。芸能人などが「自分の考えとは異なった意見」を言うと、SNSなどでバッシングを始めるような人もそのような状態なのでしょう。子育ての場でも、子どもに指示や命令を出すお母さんは多いですが、子どもの言葉に耳を傾け、子どもとの対話を大切にしている人は少ないです。「引きこもり」と呼ばれる状態の人も対話を避けます。自己肯定感が低い人も対話を避けます。そして、相手に対しては「そのままの自分」を受け入れてくれることだけを望んでいます。LGBTや不登校や障害の問題でも、「自分たちはこんなに苦しいんだ」と自己主張はしますが、そういう問題を抱えていない人達の言葉は拒否します。また、そういう問題を抱えていない人達もまた、LGBTや不登校や障害の問題を抱えている人達の言葉を拒否します。そしてお互いに、「自分の方が正しい」と主張し、自分の価値観や考え方を一方的に相手に押しつけようとしています。「子育てをしている人」は「子育てをしていない人」の言葉に耳を傾けず、「子育てをしていない人」は「子育てをしている人」の言葉に耳を傾けません。それが「子持ち様」論争につながっているのでしょう。そこにあるのは断絶と対立だけです。みんな「自己主張」はするのですが、他の人の「自己主張」には耳を傾けないのです。みんながバラバラに自己主張していて主張が違うもの同士の勢力争いになってしまっているのです。「それぞれ考え方や価値観は違うけど、お互いの意見を尊重し、話し合いながらなんとか一緒にやって行こう」と考える人が減り、「同じ考え方や価値観の人たちだけとつながって生きていたい」と考える人たちが増えて来たのです。そういう人は自分とは異なった意見の人の話を聞くだけでも、自分が否定されているように感じて苦しくなってしまうようです。それは、社会や家庭の中から「ダイレクトな人と人のつながり」が消え、ネットなどを使って自分が好きな人とだけつながることが出来るようになったからなのでしょうか。現代社会では家族もバラバラです。お母さんもお父さんも子どもも、みんな自分を守ることに精一杯です。そういう状態で暮らしていたら対話を楽しむことなど出来ないでしょう。でも、対話が消えた社会は成長することが出来ません。対話を避ける人は成長することが出来ません。対話がない家庭で育った子は、当然、対話が出来ない大人に育ちます。またそれは勉強にも影響が出ます。対話能力は理解力とつながっているからです。表現能力にも影響が出ます。
2024.05.18
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子どもが困ったことをした時、言われたことをしない時、一生懸命に子どもに説明したり、子どもを説得しようとしているお母さんをよく見かけます。でも、ほとんどの場合、その言葉は子どもに届いていません。それは子どもの様子を見ているとよくわかります。お母さんの言葉が届いていないから、同じことを繰り返すのだし、まただからそういう状態になってしまっているのです。いくら丁寧な言葉で優しく教えても、いくら易しい言葉で上手に教えても、その話を聞く気のない人、話を理解する能力がない人には伝わらないのです。日本語しか分からない人に英語で教えても伝わりませんよね。それと同じように、「子どもの言葉」しか分からない時期の子どもに「大人の言葉」で説明しても伝わらないのです。同じ日本語で話していても、子どもと大人とではその使い方が違うのです。男性と女性とでも違います。さらに言えば、言葉は一人一人違います。それは「その人の言葉」は、その人の感覚や、思考や、体験や、知識や、知的能力や、言語能力や、心やからだの状態の影響を強く受けているからからです。砂漠で生まれ育った人に、ジャングルの話をしても通じません。お金というものが存在しない社会の人に、経済の話をしても通じません。日本人とフランス人や中国人などの外国の人は最初から異なった言葉を話しています。だから通訳や翻訳機が必要になるのですが、でも、いくら上手に翻訳してもらっても「心や、感覚や、文化とのつながりが強い言葉」は伝わらないのです。「ひらひら」「ふわふわ」「むくむく」「きらきら」などのオノマトペの意味を英語に訳して伝えても、日本人が感じている「ひらひら」「ふわふわ」「むくむく」「きらきら」の感覚は伝わらないのです。そういうことを無視して、いくら「上手な教え方」を学んでも意味がないのです。じゃあどうしたらいいのかということですが、まず、「子どもはどのように学んでいるのか」、「どのように学ぼうとしているのか」ということを観察と思考と学びによって理解するところから始める必要があります。子どものしつけや教育において大事なのは、「教え方」を知ることではなく「子どもはどのように学んでいるのか」ということを知ることなんです。それが分かっていない状態でいくら「教え方」を学んでも意味がないのです。その学びの基本は「真似ること」と「体験すること」です。幼い子どもは「言葉による学び」の前に「体験による学び」が必要になるのです。言葉だけでもある程度は学べるようになるのは思春期が来てからです。でも、大人になっても「体験とセットになった言葉」でないとその言葉のことを深く理解することは出来ません。「作用、反作用」という物理現象も、言葉だけで学ぶのと、実際に押し合ってみて体験しながら学ぶのとでは、理解度が全く違ってしまうのです。その体験による学びを促すためには、「真似をしたくなるきっかけ」と「真似をしたい対象」と「真似が許される環境」が必要になります。これは遊びでも、しつけでも、学校での学びでも同じです。学校の先生は「教え方」は学んできたでしょう。でも、いくら「教え方」が上手でも、子どもに「真似をしたい」、「話を聞きたい」と感じさせような働きかけが出来なければ、授業は出来ても教育は出来ないのです。しつけでも同じです。どんなにいっぱい教え、叱り、説明しても、お母さんが「子どもにとって魅力的で話を聞きたい、真似をしたい対象」になっていなければ、お母さんの言葉は子どもの心には届かないのです。だから、しつけのために子どもを追い回すのではなく、子どもと一緒に色々な体験をし、安心を与え、子どもの気持ちに寄り添い、子どもとの間に信頼関係を築くことが、結果として「より良いしつけ」につながるのです。
2024.09.25
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私が学んだ野口体操は、一般的な概念としての体操とは似ても似つかないものですが、「からだを緩める体操」として知られています。最近は高岡英夫という方が考え出した「ゆる体操」というものもありますが、それとは考え方も方法も異なるものです。「ゆる体操」には方法があります。ですから、学びやすいし伝えやすいです。そのため、指導者の資格制度もあります。また、「ゆる体操」は効果を実感しやすいので最近は随分と色々なところで学ばれています。病人や老人や障害を持っている人にも有効だと思います。スポーツ選手などでもからだの調整に取り入れている人もいるようです。それに対して、野口体操には明確な「方法」が存在しません。教え方も決まっていません。「ゆる体操」が生まれる前から「揺する」という方法を取り入れていましたが、それがメインではありません。(揺するのは操体法でもやります。)そのため、指導者としての資格もありません。そのせいか、あまり普及もしていません。では野口体操では何を大切にしているのかということですが、野口体操で大切にしているのは「丁寧に感じること」と「重さやからだに任せること」です。からだが緩むのはその結果であって、それ自体を目的としているわけではありません。でも、これは本人の意識の問題ですから、「方法」だけでどうにかなるものではありません。そのため野口さんは意識に働きかけるための「言葉」や「表現」も大切にしていました。野口体操をやれば結果としてからだは緩みます。でも、「からだ」を緩めるのが目的ではなく、「からだ」に意識を向けることで「からだ」と「意識」や「感覚」を統合するのが目的だということです。そこが緩めることを目的とした「ゆる体操」と、「野口体操」の違いでもあります。またそのため、野口体操は野口体操をしなくても出来ます。家事をしている時でも、歩いている時でも、仕事をしている時でも、野口体操は出来ます。極端なことを言えば、からだを動かさなくても出来ます。生活全般を野口体操に変えることが出来るのです。野口体操は「体操」という名前は付いていますが、実際には「禅」や「ヨガ」的な要素も入っているのです。だからそういうことも可能なんです。そして、だから教えることも学ぶことも難しいのです。でも、私は「ゆる体操」よりも「野口体操」の方が好きです。また、そのような特徴があるので、野口体操は芸術的な表現をしている人に多く普及しています。野口三千三(みちぞう)が芸大で野口体操を教えていたからだけでなく、野口体操は芸術家との相性がいいのです。実際私が野口体操を学んだ三上賀代さんは舞踏家です。私の友人でもあるかめおかゆみこさんも野口体操を学んでいましたが、彼女も演劇などをやってきた芸術家です。子育てで固まったからだをほぐしたり、イライラの原因になっているからだのコリや、からだの歪みを軽くするためには「ゆる体操」が合っていると思います。過激な運動が出来ない老人にも合っています。からだが楽になれば心も楽になるでしょう。結果、笑顔も増えるでしょう。でも、子どもの心やからだを感じ、子どもと様々な感覚的な共有をし、子どもと楽しく遊ぶためには「野口体操」の方が合っていると思います。野口体操は心とからだの自由を与えてくれます。ですから、もっと自由に自分を表現したいと思っている人にも野口体操は合っています。問題はそれを学ぶ場がほとんどないということです。
2017.05.19
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きょとん さんから以下のようなコメントを頂きました。高校で事務員をしています。今の若い人達は、理由もなく、他人を助ける事ができません。自分に利益がないと、他人と関わったり、人を愛する事ができない事に強い危機感を感じています。もちろん、説教や物語なんて高校生にしても耳を傾けず、スマホばかり見ているので、無駄です。そんな中自分に何ができるか、模索しています。最近ニュースを見ていて理解出来ないのは、自分が犯罪を犯している現場を動画に撮ってそれをネットにアップしている若者が多いことです。イジメをしている動画、コンビニで冷蔵庫に入っている写真、道路を暴走している動画、子どもに車を運転させている動画、中には自分が自殺する動画までリアルタイムでアップする若者までいるようです。彼氏だけに見てもらうために自分の性的な動画を送ったのに、その動画を誰でも見ることが出来るサイトにアップされてしまい困っている女の子もいます。当然、犯罪を犯している動画をアップすれば、それが証拠になって捕まってしまいます。犯罪を目撃した他者が、動画を撮って告発のためにアップするのなら分かるのですが、自分自身で自分の犯罪証拠をアップしているのです。これは、捕まりたいからやっているのでしょうか。それとも、単に、自分の趣味、興味、欲求に従って行動するだけで、その行動が自分自身や周囲にどのような影響を及ぼすのかを想像出来ないからなのでしょうか。犯罪ではなくても、「死ぬかも知れない」というような危険な行為をしている動画をアップしている若者も多いので、多分、これは後者の理由によるものだと思われます。若者達のこのような行動の背景には、理解しがたいほどの「想像力の欠如」があります。イジメによって子どもが死んでしまう事件、虐待によって幼児が死んでしまう事件も多く起きていますが、そのような行為をした本人はみな「殺すつもりはなかった」といいます。多分それは本当のことなんだと思います。「自分の趣味、興味、欲求に従って行動していたら、気付いたら相手が死んでいた」ということなのでしょう。殺すつもりがなく、子どもを殴ったり、蹴ったり、水につけたり、ヒモで縛ったり、ご飯を与えなかったり、冬にベランダに出したり、高いところから落としたり、熱湯をかけたりしているのです。刑法的には、「殺すつもりがなく、自分はただ遊んでいただけなのに相手が死んでしまった」ということを主張すれば、殺意を持った殺人よりも罪が軽くなるのかも知れませんが、でも、「人類の未来」という視点で考えると、これは、「殺意がある殺人」よりもはるかに恐ろしいことです。このようなことを平気でしてしまうような若者(大人も)でも、普段は普通の「いい子」(いい人)です。ただ「楽しいこと」を探しているだけで、悪意や殺意を持って行動しているわけではないからです。ですからイジメをしている最中も、音声を消していじめている子だけの動画を撮れば、楽しいことをしているようにしか見えないと思います。いじめられている子は地獄の苦しみの中にいるのに、いじめている方はそれを単なる「遊び」としか考えていないのです。そこにあるのは恐ろしいほどの想像力の欠如です。それを大人は「イジメは良くないことだ」「イジメをやめよう」と子どもに押しつけるだけで回避できると思い込んでいます。じゃあ、どうしてそうなってしまっているのかということですが、それは遊びや生活の中に想像力が育つような学びや体験が欠如しているからです。最近の子どもたちは、簡単便利で何の不自由もなく受け身の生活をして、牛や豚が死ぬ現場に立ち会わなくても牛肉や豚肉をたらふく食べることも出来ます。出来上がった製品を買ってくるだけで、材料を探すところから初めて、自分で何かを作るという体験もありません。ケンカもする前に止められてしまっています。ハサミもナイフもノコギリも、「危ないから」といって使わせてもらえません。自分の意思で、自由に行動する自由も与えられていないし、一緒に行動する仲間も、行動する時間も空間も奪われてしまっています。子どもたちに与えられているのは画面の中の空間だけです。そして毎日、お勉強とゲームとテレビやネットに明け暮れ、親や先生から競争に追い立てられながら生活しています。そんな生活をしていたら必然的に想像力が欠如した状態になってしまうのです。野の花を摘んでも、オオカミや魔女が殺されても「可哀想」と言い、どんな場面でも「清潔」にこだわる人も同じです。そのような人は、ありのままの世界、ありのままの自分には目を向けずに、思い込みによって作られた自分の感覚と価値観だけで世界を認識しているのです。そこには「自分を中心にした視点」しか存在していません。そのため、「自分に見えない世界」は存在していないのです。「自分」すら存在していません。自分のことは見えないからです。そしてそれは、想像力とは異なるものです。想像力とは、ありもしないことを色々と考える能力のことではありません。自分中心の視点だけで色々と考えるのは「想像」ではなく「空想」の方です。「想像すること」と「空想すること」は違うのです。「想像力」とは、つながりの中で、可能性をたどっていく能力です。ですから、科学的な思考にも想像力は必要です。自分自身のこともそのつながりの中で考えることが出来ます。「こういうことをしたらこういう結果になるな」ということを、行為をする前に考えることが出来るのも想像力です。でも、そのように想像できるようになるためには体験が必要になるわけです。「狭いところで棒を振り回したら危ない」ということを棒を振り回さなくても分かるようになるためには、棒を振り回した体験が必要になるのです。それに対して「空想」の方は、自分の感覚や価値観に導かれて自由に考えが展開していくだけなので、そこにあるのはあくまでも「自分視点」だけです。「想像」は現実の延長にあるの対して、「空想」は現実とは切り離されたところにあるのです。そのため体験が必要ないのです。幼児でも空想は出来ます。でも、体験が乏しい幼児は想像するのは苦手です。だから、平気で後先を考えずに困った事をしてしまうのです。自己肯定感が低い人がいつもやっているのも「空想」の方です。だから、いつまでもその状態から抜け出すことが出来ないのです。「空想」を「想像」に変えていくと自分の姿が見えてくるのです。そしてその事で、出口が見えるようになってくるのです。最近の若者が得意なのもその「空想」の方です。空想には何の学びも必要が無いからです。空想と想像の違いを絵本で例に挙げると「かいじゅうたちのいるところ」(センダック)や「もりのなか」(エッツ)などに描かれているのは、空想の世界です。そこには「自分視点」しかありません。ですから、「何でもあり」です。長新太の絵本も、ファンタジーの世界も空想の世界です。(ただし、子どものファンタジーと大人の空想とでは質が違います。)それに対して、「そらのいろ みずいろ」(下田昌克)、「しんせつなともだち」( 方軼羣, 君島久子)、「おおきな木」(シェル・シルヴァスタイン)、「よあけ」(ユリー・シュルヴィッツ)などは想像によって生まれた世界です。それらの絵本では、現実の世界の出来事が「自分を超えた視点」で書かれています。絵本と言っていいのか分かりませんが「せいめいのれきし」(バージニア・リー・バートン)で描かれているのも想像の世界です。「根っこのこどもたち 目をさます」(S.V.オルファース)や、様々な昔話などは、想像と空想が混ざり合っています。そして絵本としてはこのタイプが一番多いかも知れません。いわむらかずおの「14ひき」のシリーズも、想像と空想が混ざっています。ただし、空想することも大切ですからね。人は空想の世界では自由になることが出来るからです。まただから、自由が与えられていない子は空想の世界に逃げ込んでしまうのかも知れません。自分の部屋に引きこもっている子にとっては、自分の部屋の中だけが自分が自由でいることが出来る空想の世界なんだろうと思います。空想の中にいると自分と向き合わなくてもいいのです。でも、想像は自分と向き合わないと出来ないのです。*********************かいじゅうたちのいるところ [ モーリス・センダック ]もりのなか (世界傑作絵本シリーズ) [ マリー・ホール・エッツ ]キャベツくん (みるみる絵本) [ 長新太 ]そらのいろみずいろしんせつなともだち (こどものとも絵本) [ 方軼羣 ]おおきな木 [ シェル・シルヴァスタイン ]よあけ [ ユーリ・シュレヴィッツ ]せいめいのれきし改訂版 地球上にせいめいがうまれたときからいままでのおはな [ ヴァージニア・リー・バートン ]根っこのこどもたち目をさます★全品ポイントアップ祭!14ひきのあさごはん (14ひきのシリーズ) [ いわむらかずお ]14ひきのこもりうた (14ひきのシリーズ) [ いわむらかずお ]14ひきのぴくにっく (14ひきのシリーズ) [ いわむらかずお ]
2017.06.26
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