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2024.06.22
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カテゴリ: 報徳
後藤 静香 日めくり 22日



  「夜は夜もすがら
   なげきき悲しむとも
   朝(あした)には悦び歌わん」
  どのような暗い夜にも
  きっと明るい朝が来る
  あさ日はのぼる
  鳥は歌う
  「憂いの雨は夜のまにはれて
   つきせぬ悦び
   あさ日とかがやかん」


後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家。

蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。
格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。
代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。

「現代語訳 安居院義道」p.64-68

五、万人講から報徳の開拓へ
 弘化三年(一八四六)十一月弟の浅田は万人講募集のため東へと向かい、三河(みかわ)国藤川宿に移り、これから遠江(とおとうみ)に入るつもりだが、良い伝手(つて)がない。
 これを宿の主人に相談すると、同国の長上郡(ながかみぐん)下石田村の神谷與平治(かみや・よへいじ)氏は熱心な敬神家で、毎年伊勢神宮参拝を欠かしたことがない。その都度、毎回宿泊していただいていると推薦された。
そこで浅田氏は道を姫街道(静岡県見付町と愛知県御油町を結ぶ街道)をとって本坂峠を越えて気賀(きが)に出て三方原(みかたはら)を横断して神谷家を訪れた。
 万人講の申し込みは敬神家の神谷氏にはすぐ受け取られ賛成を得た。それから余談に移って、同地方は最近水害や不作の災難をこうむって大変疲弊をしていると訴えられた。
浅田氏はそれには良法があると切り出して、相模に二宮先生が出現され、一家の生計を取り直し、貧乏人を豊かにし、衰退した村を復興させつつあると、その仕法のおおよそを説いて善種金の話に及んだ、という。
神谷氏は深く耳を傾けてその道をこの地に行われんことを期待した。浅田氏は来年の何月に兄の安居院氏が来て、その道を伝えることを約束してその家を去っていった。
そして翌年弘化四年(一八四七)の早春、約束した通りに安居院氏が来て、滞留数日に及んで貧困救済の道、復興の方法を説明し、また農事農耕の方法を示した。
村民一同は感嘆しその説明に服し、遂に同三月には下石田報徳社を創立した。これが遠州地方の報徳の第一歩で、結社のパイオニア
となった。(竹村老及び高山氏の「聞き書き」)
 その規約書と称すべきものを紹介する。

  義定一札の事(略)

 岡田無息軒、通称佐平治といわれた人は、掛川の在、倉真(くらみ)村の生まれ、掛川藩難村の仕法を担任し、初代の遠江国(とおとうみのくに)報徳社長を勤めた名高い人である。
弘化四年(一八四七)の前後の頃、沢田といわれる土地で、用水に乏しく掘抜き井戸を掘ったと聞いて、一目見てみようと同村の親戚である又六という家を訪れた。その時分、同家ではちょうどロウソクを製造して浜松在、下石田から渡瀬増造という職人を雇い入れていた。渡瀬は最近、下石田では報徳ということが流行して、人々に縄ないをさせてそれを集めて資金として貧乏人に貸し付けると話した。又六はその話に無関心であまり気にかけなかったが、それをたまたま佐平治が見えたのでそれを話した。佐平治は不思議なことと思って、その増造に会って見たが、要領を得ず納得できなかった。
更にそれには誰か指導者があるように見えるが誰かと聞いたところ、それが安居院庄七という先生であるとのこと。常に東海道を上下して掛川宿十九首(じゅうくしゅ)町屋六太夫方に宿泊することまでを突き止めた。そこで帰路、中屋へ立ち寄って、そのお客がお泊りになったならば、肴町(さかなちょう)の春日屋まで知らせてほしいと連絡しておいたのである。
 翌嘉永元年(一八四八)の春、安居院兄弟は関西へ行く途中、中屋へ宿泊した。かねて依頼があったことだから、佐平治のもとに連絡があり、早速これを訪問し、手土産として菓子折りを差し出したところ、言下に叱責してこれを退けたと言われている。
安居院先生は、まず佐平治に向かって次の一首を示して、どう考えるか言ってみよと第一を放った。
 梅の木は根も梅なれば花も梅
   実も梅なれば枝も葉も梅
 こんな応対から二人は心中深くご縁を結ぶようになり、遂に安居院・浅田兄弟を倉真村の自宅に招待して、三日間にわたって、報徳の教義と仕法の方法などを論議して、この道が深く時弊を救う良法であることを悟った。それ以来、佐平治は衆に先んじて実践し、模範となり、村人を導き、その年の十二月には牛岡組報徳社の結社を見るに至った。「無息軒翁一代記」には次のように述べている。(以上高山老談話による)
 「二君(安居院・浅田先生)を家に招いて討論すること連日、夜を徹し、修身・斉家(身を修め、家を整え)財を興し、国を富ますこと、まさしくこの報徳の道に超えるものはないと。以来その書を写してその意義をきわめ、子供たちをひきいて農事に励み、耕作や土を肥やす方法を入念にして、稲を植えるに縄規(じょうき:縄を張って行う「正条植え」)を用い、麦を作るに七踏七転七糞の法(麦作での踏圧と土入れ・
追肥)を行うようにして努力を尽した」
とある。このような段階から四方各地に報徳の仕法が広められ、いずれも結社となって非常な進展がみられ、後の遠江国報徳社の土台石となったのである。
 翌年の嘉永二年(一八四九)には安居院先生は佐平治と連れ立って、袋井に住む高部村の高山藤左衛門氏を訪れて、同所の仕法を指示して後の高部報徳社が芽生えた。
 また同年に気賀宿に気賀社の創立をみている。それは次の記事で知ることができる。
「嘉永二年春、浅田勇治郎氏が伊勢におもむく途中、当地の字(あざ)小森、恩田彦右衛門の茶店で休息した際に、話が報徳談に及んだ。恩田はその教えに大変感動し、浅田氏を庄屋の竹田兵左衛門に紹介した。竹田氏はまた報徳が非常にこの地の民に適切な教義であることを思って村人にはかって気賀社を創立した。翌三年浅田氏の実兄安居院庄七氏も来て大いに努力された。ここにおいて完全に基礎が確立した。」と(引佐郡誌上巻)
 また同二年に駿州大宮宿の鈴木正吉という人の厚い招待で江州へ安居院兄弟は出発された。至るところで報徳の道を励行され、なかなか帰国することもできず、東国の報徳連中からたびたび帰国を促がされた。ようやく九月に江州で兄弟は袂(たもと)を分って、浅田氏は伊賀・河内・京都まで巡られることになり、十月初旬安居院先生はようやく三年目に遠州へ向われた。その随身に江州仁正寺村の黒田清五郎代仁平、遠州気賀小森の恩田彦右衛門三人で駿州江尻の峯村御陣屋の佐野小左衛門まで向われたとある。江州の地にも相当に報徳が伝わったことと思われる。




「現代語訳 安居院義道」を蔵書とする図書館(2024年6月8日)
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💛現代語版の『安居院義道』は大日本報徳社で取扱い中です。
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最終更新日  2024.06.22 00:00:30


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