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2024.06.27
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カテゴリ: 報徳
「森町史」 報徳運動の形成と発展 その1


「森町史」通史編下巻(59~75頁)

   第三節 報徳運動の形成と発展

安居院兄弟の来遠 1852年(嘉永5)、初老の男が周智郡森町村を訪れた。この人物は安居院(森町史では「あぐい」とルビ)庄七。森町村の新村里助(しんむらりすけ)中村常蔵に招かれ来村したのである。

安居院庄七の名は、そのころ近在で少し有名になっていた。「報徳」の「先生」としてである。「報徳」とは、幕末主に北関東において荒廃した村の立て直しを行った二宮尊徳の実践方法や思想をいう。庄七は、その「報徳」を伝える「先生」であった。

安居院庄七は、相模国大住郡蓑毛村の修験道の家に生れた。長じて穀物商を営む同郡曽屋村十日市場の安居院家に婿入りし、家を継いだ。庄七には「常に一獲千金を夢みる山家」があり、米相場に手を出した。結果、養家の財産を使い果たしてしまった。そのような時、二宮尊徳なる人物が低利で金を貸し付けるという話を聞きつけ、下野国桜町陣屋の尊徳に会いにいった。1842年(天保13)7月のことであった。ところが多忙をきわめていた尊徳は、門前払いもしない代わりに会ってもくれない。3週間以上滞在したが、尊徳に会うことなくとうとう辞去した。庄七は、金を借りることはできなかったが、しかし風呂たきなどをする中で、尊徳の話を漏れ聞き、自らの生活を深く恥じ、報徳に開眼した。自宅に帰った庄七は、玄米を仕入れ、それをついて白米にし、その白米を仕入れ値で売った。俵、もみがら、小米だけが純益の「元値商」を行ったのである。その後、庄七は弟浅田勇次郎と共に上方にいき、伊勢講のひとつ太々万人講の講元杉浦作兵衛について学び、やがて勧誘に各地を回るようになった。安居院兄弟が遠江国に来たのも万人講勧誘のためだったのである。

 最初に遠州に足を踏み入れたのは、弟浅田勇次郎であった。1846年(弘化3)11月、勇次郎は長上郡下石田村(現浜松市)に敬神家の神谷与平治を訪ねた。与平治は、万人講の勧誘にすぐ応じ、雑談の中で尊徳の荒廃村や家政の立て直しを行う話を行う話を聞いた。翌4年に入ると、庄七が同家を訪ね、数日滞在して立て直しの方法や関西で知り得た進んだ農業技術などを伝えた。与平治を含め村民一同はこの説に深く感銘し、同年3月には上石田報徳連中(社)が結成された。

 掛川藩の大庄屋で、後に遠江国報徳社の初代社長を務める佐野郡倉真村(現掛川市)の岡田佐平治も下石田の話を伝え聞き、安居院兄弟に会い、報徳の良法を知り、同年12月には牛岡組報徳社を設立した。1849年(嘉永2)には勇次郎の教えを受けて引佐郡気賀宿に気賀社が設立され、さらに1851年には、周智郡片瀬村に片瀬報徳社ができ、ついで同郡平田村にも平田社が設立された。この翌年2月に、庄七は森町村に招かれるが、報徳先生としての評判を、新村里助や中村常蔵は聞いていたのである(鷲山恭平「報徳開拓社安居院義道」)


庄七の報徳の特徴は、結社ということのほかに上方の進んだ農業技術を合わせ伝えたことにある

安居院庄七と農業技術 新村里助(しんむらりすけ)は、山中勘左衛門(豊平)の子で、1851年(嘉永4)森町内の廃家新村家を継ぎ、負債74両も引き請けて、細々と家業の古着屋を営んでいた。里助は、衰家を興し貧村を立て直すという江戸で評判の「報徳先生」二宮尊徳の話を聞き、同じく貧しかった中村常蔵といつか会いにいこうと約束していたが、旅費が工面できず果たせずにいた。そんな時、常蔵が佐野郡で「報徳安民」の方法を行っている者の噂を聞きつけてきた。里助は大いに喜び、直ちに一緒に山名郡不入斗(ふにゅうと)村(現袋井市)庄右衛門方にいた「報徳先生」に会いにいった。この「報徳先生」が安居院庄七で、庄七が語る報徳の理念や方法に感銘した里助らは、庄七を森町村の里助の家に招き詳しく教えを乞うことにしたのである。

 森町村に入った安居院庄七は、新村里助家に滞在したが、滞在中激症の間欠熱(おこり)にかかってしまった。庄七は数百日病床にあったが、里助らにとっては庄七から報徳を学ぶ絶好の機会であった。里助らは、看病をしながら庄七が持っていた尊徳の教書を筆写したり、その説話を筆記したりして報徳の理解を深めたといわれる(静岡県「静岡県報徳社事績」)。

 現在、森町内にある社団法人報本社(1895年(明治28)設立)には581点に及ぶ報徳関係資料が保管されている。ここには、報本社やその所属報徳社の関係資料のほかに新村里助の手によると思われる仕法書や報徳関係書の写本も多数含まれている。こうした写本の多くは、庄七病気滞在中に筆写されたものではないかと思われる。写本中には、庄七の著作もあった。庄七の著作には「報徳作大益細伝記」「報徳勤行歌」「莫忘想」「人間算当勘定」「算法地方大成全」「万作徳用鏡」「極難取続安楽鑑」などがある。このうち「報徳作大益細伝記」と「極難続安楽鑑」の写本が報本社に残されている。

 二宮尊徳は、借金の返済方法として、最低限必要な支出の限度額を定めさせ(分度)、倹約してそれ以上に生じた余剰分を返済に充てたり、貯蓄させたり(推譲)した。尊徳は、基本的にこの方法をこの方法を個人、村、藩、幕領のレベルで実施し、成果を上げた。個人が集い社を結ぶ方法、すなわち報徳社を組織する方法は、尊徳の中でなかったわけではないが少なかった。これに対し庄七がとった方法は、報徳社を組織する方法である。これは藩や幕府の権力を背景とした尊徳と一個人あるいは敬神家に過ぎなかった庄七の立場性からきているといえるかもしれない。

 森町報徳社は、こうした庄七の指導により組織されたのであり、明治に至り、報徳運動の拠点は、栃木でも神奈川でもなく静岡県がなっていったが、それは報徳社が簇生(そうせい)されるかたちで展開したのであって、その出発点に庄七がいた。この庄七の報徳の特徴は、結社ということのほかに、上方の進んだ農業技術を合わせ伝えたということにある。庄七は遠州に足を踏み入れる前は上方にいた。敬神家として活躍する一方、京都や奈良、大阪など上方筋の進んだ農業技術を見聞した。ここでも見聞をもとに自らの考察を加え伝えたのである。この農業技術は、遠州の農民に大きな影響を与え、報徳運動が遠州で発展するひとつの大きな要因になったと思われる。報本社に所蔵されている「報徳作大益細伝記」は、報徳理解の上に立って庄七の理想とする農業や農民のあり方が語られていると共に、庄七が会得した農業技術の集大成が記されている。

「報徳作大益細伝記」により、庄七の農業技術の特徴を挙げると、正条植、苗代の薄まき、株まき、客土・土肥などである。正条植とは、苗の植え付け方のことで、東西南北に正確に一尺五寸(約45.5センチ)の株間をとって植え付ける方法である。施肥が均一にできることや通風や日光の便、除草の便などの効果があるが、水田に一定の形がなかった当時にあっては新奇であった。新村里助も「縄張定木を用ひ方向を正し東西南北縦横一直に 挿することを始め衆に先ちて之を実行したり」(静岡県報徳社事蹟)といわれる。報徳社が発展した遠州では、比較的早くから普及したが、全国的に奨励されたのは1900年(明治33)前後である。正条植は「報徳植」ともよばれたように、報徳社の勧める植え方となっていった。苗代の薄蒔きとは、苗代への播種数を少なくすることである。薄まきは健苗を生み、多収につながるといわれる。明治はじめの中遠地方の播種量は反当たり4升、苗代1坪当たり1升であったが、庄七は反当たり2升から1升5合、1坪当たり2合5勺、2合、1合8勺まくのがよいとした。株まきとは直まき栽培のことである。客土とは性質の異なった土壌を加えることである。客土では、庄七は「和らき田」に山の荒れ地を持ち込むことや畑の土と田の土を入れ替えること、土肥(つちごえ)を入れることなどを勧めた。土肥はごみを入れてつくられたが、こうした客土は、1885年(明治18)前後佐野郡倉真村、山名郡浅羽村、城東郡入山瀬村など各地で実施された(「日本農業全集」63巻)。

以上のような庄七の報徳の方法や農業技術を、庄七の病気滞在中に里助らは学んだと思われる。

「森町史」 報徳運動の形成と発展 その3 
参会では「御報書」を読み「勤行之図」を見、農業や家業の「勤方」が話し合われたりした 

森町報徳社の設立と山中家の仕法 1852年(嘉永5)閏2月、庄七の指導により森町報徳社が結成された。ただ「森町報徳社」という名称はこの時点では使われておらず、報徳を信奉しようとする仲間が数人集まったという程度の組織であったと思われる。1852年閏2月の「勤行義定連印帳」には「休」や「病死」の抹消を除くと、8人が銘記されている。そこには、里輔(里助)、常造(常蔵)の名も見える。連印帳によれば、彼らは毎月3日、13日、23日に集うこと(参会)にした。参会の日は、朝から心がけて7つ時(午後4時)には仕事を終えるようにし、暮れ前に余業を行って、夕飯後集まるようにした。参会では、重立った者が「御報書」の読み聞かせをしたり、「勤行之図」を見て感服したり、農業や家業の「勤方」などが話し合われたりした。また、「義定一札之事」として、無駄な出費をせず余業に励みできたものを日掛けにして積み立てておくこと、公儀法度を守ること、天照皇太宮ならびに氏神への拝礼、困窮者には「窮民撫育金」を入札により「無利足年賦」で貸し付けること、休日には早朝から昼まで村内の道造りをすることなどが決められた(資料編4、148号)。



ここで少し山中家のことにふれておこう。勘兵衛や里助の父豊平(とよひら)は『遠淡海地志』をはじめ多くの記録を残しているが、その中には当時の山中家の窮状が記されている。豊平の記録「書取の覚」によれば、豊平の実父庄左衛門の時代には「森町村に田地高七十石余、天宮村に同三十石余、深見村に百十三石余、其の外少々宛の田地・山林は、蓮華寺領・粟倉村・草ヶ谷村・黒石村・野部村・西山村・戸錦村・福田地村・鴨岡村等にも越石(こしこく)所持」していたが、庄左衛門の死後、親戚の借金の返済のため深見村田地を手放したり、借金の回収ができなかったりして「身上追々不勝手」になっていった。また、後見人の叔父も病死するなど「数度の厄難にて困窮」していたのである。とはいえ、豊平は組頭役や名主役を勤め、俳諧や和歌など多趣味であったというから、必ずしも今日明日の暮らしに困るという窮乏ぶりではなかったと思われるが、家運の傾きは明らかであり、豊平を継いだ勘兵衛が報徳に熱心になる理由は十分あったのである(山中真樹夫『遠淡海地志』)。

勘兵衛が自家の家政改革のために立てた山中家家政仕法計画(表略)を見ると、「暮方入用」を35両2分におさえ、そうして生じた「賄増金」などを借金返済等にあてる計画であることが分かる。「分度」、「推譲」という報徳の考え方に基づいた計画であった。これは計画であり、実際の効果は明らかではないが、いずれにせよ勘兵衛は、報徳社だけではなく報徳を日常的に実践し家政の回復を図ろうとしたのである。

「森町史」 報徳運動の形成と発展 その4 
一行は二宮尊徳から「報徳安楽談」などの報徳書を頂戴して帰途についた。

尊徳との面会 1852年(嘉永5)の暮、佐野郡成滝村(現掛川市)の平岩佐兵衛は、旧主の病気見舞いのために江戸に向かったが、その際二宮尊徳が相馬藩の中屋敷に滞在していることを聞きつけた。佐兵衛はさっそく訪問したが会えず、二度目にも会えず、明けて正月7日3度目にして面会することができた。その時尊徳は遠州の報徳の重立った世話人たちを当方に呼ぶよう取り次ぐことを、佐兵衛に指示した。勇躍遠州に帰郷した佐兵衛は、それを遠州の報徳人に知らせたのである。


※「報徳安楽談」とはどういうものだろうか?「森町史」の資料編4にはこうある。

150 三才報徳現量鏡 慶応3(1867)・5 森町森 山中真喜夫氏所蔵「三才報徳現量鏡(序文之写)

 そもそも御良法の根元は去る嘉永5年(1852)相模国十日市場村安居院庄七殿、当国不入斗村庄左衛門殿方に御逗留中、当町常蔵・里助両人宇苅中村茂兵衛殿へ相願い候処、御断りこれ有り、再三歎願仕り、御門人の紙面持参、その侭不入斗村庄左衛門殿宅にて初めて尊顔を得奉り、御趣意の趣き伺い奉り候処、人たるの道は恩を知り、徳を報い候御趣意種々御教導に預かり、一々感服仕り、及ばずながら九牛の一毛も御恩徳を報い奉じたく罷り在り候折柄、嘉永6年(1853)御随身中様より御達しこれ有り、当国にて重立ち候者庄七召連れ、二宮大先生御元へ罷り出るべき旨仰せ聞えられ候につき、当国惣代倉真村岡田佐平治殿、影森村啓助殿、下石田村久太郎殿、気賀郡兵左衛門殿、同町藤太夫殿、森町里助・常蔵参上仕り候処、日光山桜秀坊へ 大先生を始め奉り、御随身御一統御逗留遊ばせられ、惣代の者へ御目見仰せ付けられ、大善道の御教諭の中、瓜の種を蒔けば瓜生じ、又茄子の種を蒔く時は茄子生じ、茄子実る世の中のありさま詳しく御教誨下し置かれ、その上報徳安楽談御教諭書 富田先生御手元より下し置かれ、重々冥加至極有難く朝夕拝見仕り、(以下略)

  慶応3(1867)   重世話人 勘左衛門 同 常蔵 同 里助」

つまり、「報徳安楽談」は尊徳先生その人からではなく、富田高慶が手元の本を渡したものらしい。

 「報徳安楽談」(現代語訳:文責地福)

むかし万物がまだ循環していない時、よい手づるによって村中にこれ以上ないという柿の種を求めて蒔いて育て次第に成木となり、花が咲き実がなって熟したのを秘蔵にしていた。囲の外からうかがう子供らはもちろん、大人まで珍しいとめでて、それぞれ自分の家に無いことを憂え、うらやみ好んで、ついに欲心を生じて奪おうと欲する時、厳しく制するならば王法を恐れ慎むようであるけれども、子ども心のあさましさ、折に触れ、時に乗じ野心をおこして奪うならば、わずかであっても泥棒となり差し支えがある。その人情を察して、願わくは自分が丹精を積んで余分に植え付けて実って熟したならばその珍しい物を譲り施し、蒔き植えさせたい旨を言って諭すならば、子供らはもちろんその父母兄弟に至るまですぐに欲心が変じて善心を生ずる。願わくは何度も何度も恵み施す時には、幼い子どもや田舎の人間でもその恩恵に服してどうして徳に報わないことがあろうか。これ、すなわち日月が照す所、風雨が循環する所で制しなくても境界が正しく道理が行われ、一村が一家のように内外睦まじく世々安楽国に疑いがない。

経に曰く、願わくはこの功徳を以て平等に一切に施し、同じく菩提心を発して安楽国に往生せん事を。

「森町史」 報徳運動の形成と発展 その4 
福山滝助は各社を巡回し一社の仕法に数十日を要一人の家政に数日を費すことも珍らしからず

森町報徳社再興と遠譲社の設立 岡田佐平治とこのように別れた福山滝助は、佐平治の紹介で翌日の3月29日、森町内に行き新村里助宅に逗留した。滝助はここで「無利息貸付の雛形60箇年分を製し」里助に示し、里助も大いに感じ入って森町報徳社にこの方法をあてはめたいと願ったが、今回は秋葉山参詣が目的であると断られ、他日を約束したといわれる。滝助は4月4日まで里助宅に逗留し、3日には秋葉山に参詣した。その後、浜松宿の小野江善六、天神町中村五郎七、都田村金原孫四郎などを訪ね、4月17日には再び里助方を訪問し、22日まで逗留している。この間に滝助は森町報徳社の「無利息貸付の仕法を組立」たものと思われる。この後、滝助は西遠、三河を中心に広く報徳の指導をしていくことになる。

(略 安居院庄七亡き後、わずか4,5年で報徳運動が急速に衰退していたことを森町史は「福山先生一代記」を引用して述べる。尊徳先生の温泉と風呂の譬えにあるように、自ら気づいて自ら焚き続け、さらに人をも焚かずにはいられない、そうした庄七、滝助のような人々を生み続けることが、報徳の課題かもしれない)

 結社といっても未熟で脆弱なものであり、それゆえ指導者を失って急速に衰退したのではないかと思われる。

 滝助は、「各社を巡回したまふや、いと懇切周到をきわめ、或は一社の仕法に数十日を要し、或は一人の家政に数日を費し給ふこと珍らしからず」といわれる。

(森町報徳社では、社員である加入者は「縄索(じょうさく)加入金」として毎月ほぼ1分2朱永45文一人当り永35文を積立、それと「元恕金」(福山滝助寄付金)、返済金などを合わせ、これを資金として貸付を行っていた。借用者は、借用金を基本的には60か月賦(5年間)で返済した。無利息であったが、皆済後1回分を「元恕金」として納めるよう義務付けられていた)

 1871年(明治4)滝助により指導された報徳社は9社になっていた。

 1867年(慶応3) 森町社、天神町社、浜松社、気賀社

   68年(明治元) 都田社

   69年(明治2) 刑部社

   71年(明治4) 寺島社、石原社、和地社

 ここにおいて各社を統括する本社設置の議がおこり、気賀町鈴木徳右衛門方にて本社秋期の会が開かれ、社名は「遠譲社」とされた。本社には「世話人重世話人」が置かれることになったが、新村里助は「重世話人」となっている。

 「遠譲社」の「世話人重世話人」は次のようであった。(「静岡県史」資料編16)

 重世話人 森町村山中理三郎(新村里助)、気賀町鈴木徳右衛門、浜松田町小野江善六、都田村金原孫四郎、

 世話人  森町村中村常蔵、気賀町豊田小伝治、浜松宿田町田中五郎兵衛、都田村

坂本佐五平、天神町中村五郎七、刑部村内山伊和太郎、同内山健蔵、同

植村与一郎、同今泉鍋十郎、石原村小栗九郎、寺田村桑原清吉、和地村牧田猪太郎、同牧田伊平

「森町史」 報徳運動の形成と発展 その5  
第1神号祝詞を曰す、第2二宮先生の法号を唱ふ、第3報徳訓を唱す

森町地域の報徳社 黒田報徳社は明治14年設立され、遠江国報徳社に明治18年に認可された。明治17年(1884)制定の黒田報徳社の報徳社規則は、結社の目的として次の3点を挙げている。 1 それぞれ「自分相応の徳業」を立て「善を積み不善を改」め「神徳皇徳及び父母祖先の恩徳に報ずる」こと 2 「職業と分限」に従い「家業を勤め倹約を行い」それぞれ「富盛の基」を建て「幸福を永遠に享受する」こと 

3 「道義を研窮し事物を明」らかにし「邪を閉ぢ奸を塞ぎ直理を伸張する」こと。

岡田良一郎は、報徳思想を「立徳」「開智」「致富」という言葉で整理したが、黒田報徳社は岡田の考え方に影響されたと思われる。

入社を希望する者は、「善種永安積金」を「遠江国報徳本社」に納め社員証を受ける必要があった。社員は、毎月15日に開かれる「会議」に参加し、「日課縄索」によって得られた10銭を「報徳加入金」として拠出した。

毎月開かれる「会議」では、正面に「天祖神号幅」、その右に「報徳訓」、左に二宮尊徳の肖像が掲げられ、最初に「礼拝」が行われた。「礼拝」の順序は、「第1神号祝詞を曰す、第2二宮先生の法号を唱ふ、第3報徳訓を唱す」であった。

会議の際には、報徳記・報徳論・富国捷経・二宮翁夜話・報徳富国論・報徳斉家談・無息軒翁一代記・佐藤信淵翁農書・経済書等が読まれた。会議では報徳の教義や道徳について話し合われると同時に、殖産勧業についても協議された。会議は農談会としての役割も担っていたのである。報徳金貸付は、本業出精人に対して無利息5ヶ年賦でなされた。黒田報徳社では、そのほか会議の日を「道作り定日」と定め、道の修繕を行っている。

「森町史」 報徳運動の形成と発展 その6 
なぜ報本社なのか 「以後報徳の名を唱うるを許さず、他に向い報徳結社の誘導を為すを許さず」  

第3章 大正デモクラシーと森町地域社会の変貌

 第三節 報本社の設立と報徳運動の展開

報本社の設立 1895年(明治28)10月11日、養父新村里助の跡を継いでいた森町報徳社社長新村里三郎は遠江国報徳社を退社した。遠江国報徳社は、同日里三郎に対し次のような抗議および要請文を与えている。

貴殿義我見を固執し、社員を誘惑して分離を企て、退社届出の儀は、すこぶる徳義に背戻するの挙動と認め、州立社員退社を命じ候については、爾今以後報徳の名を唱うるを許さず、また他に向いて報徳結社の誘導を為すを許さず、この旨申し進じ候なり。

また、同様の内容であるが、同日付けで次のような文も残されている。

貴殿義我見を主張し、本社の指揮を拒み、社員を誘惑して町村社の分離を企て本社に妨害を加うる少なからざるを以て、州立社員退社を命ず

里三郎に対し、社員を誘惑し分離を企てたと厳しく糾弾し除名にしているが、里三郎はこの間の事情を同年12月27日付けで以下のように記している。

明治28年3月6日、我が報徳社の無利足金取扱の良法を、遠江国報徳社第2館詰副社長より本社の方法5分利付に変更致すべきの御指示に相成り、これに応ずる能わざる次第、父豊作故名以来先師の御良法慕うこと久し、漸く小田原社へ先師より御授けに相成たる御良法と、同社社長福山翁を自宅へ御招請致し、御伝習を受け、今勤行の央に至らず、故によりどころ無く遠江報徳社を退社せんとし、届書と共にこの一通を贈り越され、往年の紀念として表彰す

里三郎は、分離の理由を遠江国報徳社が「無利足金」貸付を廃止し、「5分利付」に変更したからだとしている。里三郎らは、福山滝助の指導を受けて以来、報徳金(無利息金)貸付こそ仕法と考えており、その点での矛盾が顕在化したのである。里三郎は、同志とともに遠江国報徳社を退社し、同志の報徳社28社を糾合して、1895年11月18日森町に遠江国報徳報本社を設立した。社則が議定され、役員の選挙が行われ、社員に新村里三郎、副社長に多米八郎、幹事に原田長三郎、松田陸平、村松広太郎ほか4人が選出された。発会式は、翌96年2月22日近藤周智郡長や堀森町警察署長などを迎え社員740余人の出席のもと盛大に行われた。(『大日本帝国報徳』1896年5月号)

「森町史」 報徳運動の形成と発展 その7 
有功社員は各報徳社を巡回し篤行する義務があり正社員は随意の寄付金が課せられた

公益法人としての報徳社 1898年(明治31)民法第四、五編が施行され、これを受けて遠江国報徳社は定款を改正し、8月公益社団法人として申請し、10月に認可を受けた。これに準じて同社所属の町村報徳社だけでなく、各地の報徳社も随時認可を申請し、公益社団法人となっていった。報徳運動は、全体的にみれば、この時期の前後から、それ以前に重視されていた報徳社の報徳金貸付(低利金融)を行う庶民金融機関としての側面に代えて、勤倹貯蓄を説く、その思想性や公共性において注目されるようになった。とりわけ内務省により注目された報徳思想が、日露戦争前に町村を国家的に再編するうえで適合的なイデオロギーであったからである。こうした背景には信用組合や農会が組織されてきたことによっている。報徳社が利益法人ではなく公益法人に改組したことは、こうした時流に対応するものであった。

報本社では、1899年5月1日報本社社長新村里三郎が稟請し、同年8月24日内務大臣西郷従道により許可された。9月には報本社定款が制定された。

定款では、第一条で「報本社団之仕方統一ヲ謀リ社団ノ管理仕方ノ指揮並ニ新社ノ拡張ヲナスヲ目的トス」とし、遠江国報徳社を分離した報徳社を統括する本社としての目的を明確にしている。本社社員は、各報徳社の社員で「満五ヶ年以上社務ヲ全フセシモノ及徳望アル者」を推薦させ「正社員」とし、十か年以上社務を勤めた「篤志善行ノ者」を選抜して「有功社員」とした(第5条)。「有功社員」には各報徳社を巡回し「篤行勤務ノ社員ヲ視」する義務があり、「正社員」には1か年10銭以上の「随意ノ寄付金」を出すことが課せられた(第9条)。9月現在で社員は28名となっている。1901年1月には社員26名、有功社員46名となった。役員には専務理事社長と理事副社長が置かれ(第7条)、巡回講師の派出や各報徳社の巡視、諸帳簿の検閲など主に所属報徳社の管理に関わる仕事を行った(第14条)。当時の社長、副社長は次のようである。

 専務理事社長 新村里三郎

 理事副社長  吉岡金一郎、松尾幸七、岡本確太郎、村松広太郎、森下里八

本社としての報本社は、所属報徳社の管理を主な業務としていたが、各報徳社で必要が生じた場合には貸付も行われ(第13条)、また各報徳社より「無利息預ヶ金」の申し出があるときは「預リ金」を受けた(第11条)。





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最終更新日  2024.06.27 20:36:53


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