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今日は、母の三回忌だった。11時頃、お寺さんが来てくれて、お経をあげてくれた後、みんなでつろぎに食事に行った。母の法事は、私たち兄弟と兄嫁二人、そしてうちのダンナとの7人で。うちの息子も土日が休みじゃないけれど、子どもたちの休みを調整するのが難しくて、兄弟だけでしている。久しぶりに兄弟で集まって、いろいろ話をするのが楽しいなあと思う。今日も話が出てきたけれど、最近のニュースの60年前の新生児取り違え事件、きっかけは、父親の介護と相続の問題からのようだ。うちの家も4人きょうだいで、別棟ながら兄と同居していた母が、病気になって、亡くなるまでの2年間、姉の家で過ごしていた。普通だったら相続の問題ですごくもめそうだけど、全くもめずにすんだ。介護する人と、お金を管理する人が別だったから、もめなかったんじゃないかなあと思う。そのことを書きかけたけど、長引くのでまた明日。今日のお料理ビールを飲みながら、二十穀米のご飯とお吸い物の写真を撮り忘れたけれど、兄弟だけだから、こんな風な法事らしくないお料理も楽しめる。
2013.11.30
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昨日の朝方、母の夢を見た。知り合いに頼まれたからと、ビーズのネックレスを作っていた。声をかけても、全然返事もしてくれない。母は、ビースの趣味なんかなかったし、不思議だけれど、声をかけても知らんふりされて寂しい気持ちは、何度か味わったことがある。うちの母は、よその人にとても親切だったけれど、子どもに対しては、あまり優しくなかった。うちの子どもたちは、小さい頃、学校や保育園から帰ると、私の実家に行っていた。実家に隣接する上の兄のところには、息子より8か月上の甥と、8か月下の甥がいて、その頃、夫婦で学習塾をしていた下の兄のところにも、娘より1ヶ月下の甥と、3才下の姪もいて、仕事中は来ていたので、実家は保育所状態だった。父がよく、孫たちを連れて、釣りに行ったり、山に行ったり、時にはお好み焼きを食べに行ったり、テントを持ってキャンプにも連れて行ったりしていた。それも、小学校に入るか入らないかと言う子どもたちが5・6人。いとこ同士で集まると、よく思い出話に花が咲く。釣りに行って、やんちゃだったうちの息子が、餌の箱を蹴飛ばして、テトラポットの間に入ってしまい、おじいちゃんに叱られた話。山へ登ると、おじいちゃんがどんどん先へ行って、うちの娘は男の子たちと同じようについていくけれど、姪は置いていかれるんじゃないかとすごく恐かったそうだ。不思議だなあと思うのは、その中にいつも母がいないこと。その時は何とも思わなかったのに、自分が、孫たちの世話をするようになって、その不自然さに気がついた。うちのダンナには考えられないこと。父親が、母親に対してすごく甘かったので、行くのを嫌と言ったら誘わなかったんだろうけど。それで、自分の子どもの頃を思い起こしても、いろんな思い出が、姉や兄にまつわることばかり。母親に一緒に遊んでもらった記憶があまりない。私は、母にあまり可愛がられていないような気がしたけれど、兄弟がみんな同じような不満を抱えていたことを、母が亡くなって知った。今日は、母の月命日で、姉と一緒に実家の片づけをした。一周忌が過ぎてから、このところ毎月。パッチワークの作りかけやはぎれがいっぱい。買い物も大好きな人だったので、服もいっぱい。10年以上も、大阪まで習いに行ってたので、かなりぜいたくな暮らしをしていたんだなあと思う。子どもが苦労していても、あまり気にしないで、自分中心の人だった。ああ、今日は命日なのに、母が聞いたら気を悪くするようなことばかり書いているなあ。でも、母に何も言えなかった私が、ここ数年は、何でも言えるようになった。4年前、細木数子さんの占いで「達成」だった年。12年前の「達成」の時は、長年の夢だった家の問題が解決したこともあって、母との関係が長年の思い通りに「達成」したんだと思った。でも、そうなってから、「老いては子に従えと言うでしょう」と、厳しいこともいろいろ言って、かわいそうなことをしたなあとよく思う。そうなった経過をまた今度。
2013.02.18
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内弁慶という言葉があるけれど、私は外弁慶だなあとよく思った。外では元気で活発な子だったけれど、家の中では泣き虫で、いつも満たされなかった。母に甘えたり、要望を言えないのはなぜなのかわからず、いつも、もやもやした気持ちだった。理由が一つ分かったのは、娘を産んだとき。次兄の初めての子と、出産が近かった。その頃の私は、とても生活が厳しかった。マタニティーの服が買えなくて、私は職場の同僚に、借りて着ていた。義姉もお腹が大きくなってきたが、借りる人がいないので、母が服を買ってあげることがあった。母に直接言えないけれど、少し妬けて寂しかった。そしてどうしても生まれてくる子は女の子が欲しいと思った。その時の母の孫は5人、全員が男の子だった。娘が生まれた時、初めての女の子の孫で、母は飛び上がって喜んだそうだ。そして早速、ピンクや花柄の女の子用の服を買ってきた。その時、私は長年次兄に嫉妬しながら育ってきたんだなあと思った。3歳年上の次兄は、生後6か月でポリオにかかった。物心ついた時から、母の膝にはいつも兄がいた。歩き出したのも、自転車に乗れるようになったのも、泳げるようになったのも、私と同じような時期だった。私ができても母は喜ばないのに、兄ができるととても喜んだ。足が不自由な兄を母は不憫だと感じたんだろうが、一緒に育ってきた私にはそういう感情は無い。あーそれでだったのかと、24才になって初めて気づいた。そして、50才を過ぎて、初めてわかったこと。足が悪くなって休職し、ブログを書きだしたころのことだ。プールへ行って、病院でリハビリをしてもらう毎日だった。週3回は、股関節を手術した母と一緒に、プールへ通っていた。その帰り道の車の中で、母が、「あんた産んだ時、恥骨がはずれて40日も寝込んでなぁ、 お父ちゃんがあんたをだっこしてお乳飲ませたんよ。」と、ぽろっと言った。あ~、それで私は父親にしか甘えない子だったんだとわかった。私自身は、なぜなのかわからず悶々としていたけれど、4人の子どもがいて、母は、私はあまり手のかからない子、としか思っていなかったのかもしれないなあ。そんなことが、この日の日記に出てくる。
2013.01.23
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今日は、母の月命日。昨日、姉と一緒に実家に行き、母の荷物の整理をし、今日、古着などを取りに行って、処分してきた。ブログを書きだして、もうすぐ7年。この頃、書き続けてきて良かったなあとよく思う。以前のブログを読むと、母のことがいっぱい出てくるのだ。この7年は、人生の大きな転換期だった。でも、一番大きく変わったのは、母に対する想いのような気がする。考えてみると、私は小さいころからとても変な子だった。物心ついた時から、母に甘えた記憶がないのだ。母に抱かれた記憶もあまりなくて、どこかへ出かけるとき、私はいつも、父を探して手をつないだ。うちの家は、親の言うことが絶対で、子供の意見はあまり聞かない家庭だった。私は、四人兄弟の末っ子で、いつも姉や兄のすることをまねていた。姉や兄が、怒られるようなことはしなかった。でも、母に、言いたいことも全く言えない自分も嫌だった。それが何故なのか全く理由がわからず、小さい頃は、自分はこの家の子どもじゃないかもしれない、などと思ったこともあった。姉が結婚して、兄たちが大学で家を出た高校時代、家が嫌で仕方なかった。大学は、家を出て遠くへ行きたかったけれど親は許してくれなかった。早く家を出たい、という気持ちが強かった。私の結婚が早かったのも、そんなことが影響していると思う。
2013.01.19
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