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戦争が終わって、お父さんの戦死の公報が入った。おっかさんが見たらかわいそうやと思って、トイレに持って入って泣いた。市駅のそばの焼け跡にほったて小屋を建てた。マッチのないのが苦労やった。親戚から、からけしをもらってきて、そこから火をおこした。必死やった。三食食べられへんかった。防空壕の中にあった焼けてくさい米を拾ってきて、炊いて食べた。本も筆箱も何もない。お盆を伏せて、机にしていた。戦地からお兄さんが、やせてがりがりになって帰ってきた。ほったて小屋の中に、じゅうたんの焼け残ったところを敷いてたら、懐かしいと言って泣いた。しばらくしてから、お兄さんはマラリアにかかった。布団をいくらかぶしても寒い寒いと言って、鳥目になった。おっかさんは、焼け残った着物を百姓に売って、米にかえて、お兄さんにだけは食べさせた。終戦後は、世の中が不安なもんで、焼け跡の掘っ立て小屋の玄関に靴を置いたらすぐとられた。焼け跡の土地にジャガイモを植えたら、大きなる前に掘られてとられてしまった。電車の中で、財布も弁当もみんな取られてしまったこともあった。紀ノ川の土手に木の芽が出てきて、それをつんでおかずにした。海に行って、のりを採ってきて、紐にかけて、干してもんでふりかけにして食べる。それが最高のおかずやった。※ ※ ※おばさんから聞いた話は、ここまで。兄弟が戦死した人はいても、父親が戦死した人は、周りにいなかったらしい。本も筆箱も机もない生活だったけれど、叔母は、その年、学年最優秀に選ばれたそうだ。みんなが止めるのも聞かず、母親を連れて防空壕を飛び出して、紀ノ川へ逃げたのも、すごく気転のきく子だったからだろう。逃げ遅れて、たくさんの人が亡くなったはずだから。
2008.08.09
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紀ノ川の水に、一晩つかってた。あれだけ燃えてても、うちだけは燃えてないと思ってたけど、兄さんの大好きなアコーデオンも、その日に出来上がってきたへちま襟の女学校の制服も、家と一緒に空襲で焼けてしまった。朝方、空がちらちら明けてくる頃、大きな声で、おっかさんの名前を呼ぶ声が聞こえた。姉さんが嫁いだ先の、親戚のおじさんが捜しに来てくれた。二里ぐらいの道を、とぼとぼ歩いた。着いたとたんに「これ食べやー」と出されたのが、ぬかだんご。ぬかばっかりで、喉をとおれへんかった。次の日から、おっかさんは田の草取り。私は、生まれたばっかりの子どもの子守をした。一日中働きどおしで、おっかさんは、夜中にトイレに座ったら立たれへんかった。空襲から1ヶ月ぐらいたったころ、飛行機からパラパラ何か落ちてきた。みんな恐がって、拾たらあかんて言ったけれど、小さな10センチ四方ぐらいの紙やった。見てみたら、「ポツダム宣言」って書いてあった。8月15日に放送があって、みんな聞くように言われたけど、何を言ってるんかさっぱりわかれへんかった。
2008.08.08
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昭和19年、47歳で召集されたお父さんは、外地行き軍属として、フィリピンへ行くことになった。お母さんが一度、呉の工廠に会いに行った。マニラに着いたと、いっぺんだけ手紙が来た。負け戦のことは、一度も放送がなかった。外地には、食料を放り込まんと、人ばっかり放り込んで、おおかたの人が死んでしまった。少しもたてへんうちに、お父さんが戦死したと知らせが来た。遺骨箱の中には、名前を書いた木の札だけ。骨のひとつもあたれへんかった。昭和20年、私は女学校の1年生。7月に、空襲があって家が焼かれた。紀ノ川のそばに防空壕があった。今日あたり空襲があるぞ、危ないぞと言われていた。傘のひとつでも防空壕に入れて置けと言われた。空襲が来て、防空壕の中にいたけど熱くていてられへん。ここにいたらよけい危ないと、紀ノ川の土手に出た。パパパパパパと、一尺ごとに弾が落ちて、周りが火の海やった。紀ノ川の土手に上がったら、土手の向こうも火の海、こっちも火の海、これが地獄やと思った。お母さんに、ここにいたら危ないと言って、防空頭巾や布団を抱えて、紀ノ川の水の中に入った。
2008.08.07
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戦争が始まったのは、小学校2年のときやった。12月8日に、戦争が始まったと聞いた。あっという間に、菓子屋に菓子がなくなった。若い男の人は、みんな戦争でいなくなった。明日入営と言う人は、前に日に仮祝言して、結婚の約束をしてから旅立っていった。姉さんもそうやった。13歳年上のお兄さんは、アメリカ映画が大好きな人やった。家に、映画のパンフレットが、何センチにも積み上げられるぐらいあった。そんなお兄さんも、二十歳になったら兵役で、徴兵検査を受けたら甲種合格になって喜んだ。でも、休暇でかえってきたら、アメリカ映画のパンフレットを見ながら、優秀やなあ、素晴らしいなあと言っていた。性格もとても優しい人やった。そんなんやから、いじめられたみたいで、干した洗濯物を取られてしまったり、わざとほうきを隠されて、1本ないと殴られたりしたそうや。4歳上の兄さんは、上のお兄さんと違ってやんちゃやった。14歳で、自分から少年飛行兵に志願して行った。昭和19年の秋、聞こえてくるのは負け戦ばっかりのときに、お父さんに召集令状が来た。47歳にもなって、お兄さん二人が戦争に行ってるのに、召集。赤紙を手にして、お父さんは震えていた。
2008.08.06
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