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文鮮明先生御言選集 19560606 - 統一しようとする神様の愛の御旨をなそう(2021.01.04)からのペーストです。統一しようとする神様の愛の御旨をなそう1956年6月6日(水) 本部教会 預言者たちを立て摂理される神様の希望 アダムの堕落によって神様の御旨が成せなかったため、今日まで歴史路程を経ながら復帰摂理は反復されています。 神様と人間が一つの御旨を中心として、一つの愛に和合して住み、全天地が神様の愛を喜びながら、その愛を実際の生命の中心として立てた中で、全部が一つになって生きることが神様の創造本然の御旨でありました。ところがアダムとエバが堕落することによって神様の愛は神様の愛だけに止どまるようになってしまいました。即ち、人間と関係を結ばなければならない神様の愛は、人間と関係を結べず、人間から去るようになり、全被造世界から去るようになりました。 それで神様は御自身が立たせようとするその愛を中心にして全万物を糾合して、神様と万物が共に喜ぶことのできるその一日を求めながら、今まで6千年歴史を経て来られました。しかし未だ神様の愛を中心にして全被造万象が一つに統一できないまま、その神様の理念は理念のまま残っており、求めなければならない希望の愛もそのまま残っているのであります。それで神様のその御旨を必ず成し遂げるために今まで摂理して来られているのです。 このように神様は人間堕落以後、今までどの時代をおいても神様の希望を成して、人間に対して信じることができる心と、愛することができる一つの心を訪ねるために、長い間摂理して来られたのですが、未だそれらを成せないで、探せないで来られたのであります。 私たち天の摂理歴史を回顧して見るならば、神様はアブラハム一人を立てて、人間に対する希望と、人間に対する理想と、人間に対する愛の変わらない基準を立てようとされたのを知ることができます。このような神様の御旨が成し遂げられる日が来てこそ、そういう愛の中心が立つ日が来てこそ、神様と人間と関係が結ばれるようになるし、その結ばれた関係の土台によって神様は新しい理想の喜びを享受できるので、アブラハムを選び立てたのであります。ところがアブラハムが愛の中心を立てられないことによって、神様はそれ以後イエス様の時代に至るまで、天の愛の御旨を立てるための足場を築いて来られたのです。 そのためにイエス様までの4千年歴史は、全体摂理の御旨の前にあって、神様の希望と信仰と愛を成した一つの実証的な存在を立てなければならない期間でありました。そういう存在を立てられないならば、神様の希望と信仰と愛は、各自各々分離してどの一時期にも統一を見ることができない歴史として綴られたので、神様はまず希望の基盤を築かれました。そうしてその希望の上に信仰の希望を築き、その信仰の基盤の上に愛の基盤を築かれようとしたのです。そうして後にはこのすべてのものを結実した一つの化身体、即ち全体の希望の実証的自体、全体の信仰の実証的自体、全体の愛の実証的自体を天地の前に押し立てることができる日を迎えようとされたのです。ところが万一そういう日を迎えられないとしたら、神様の愛を中心に統一の理念はこの地上に成就できなくなるのです。 その日を立てるために神様は、アブラハムから始めてモーゼを経て、洗礼ヨハネに至るまで4千年摂理歴史を三段階に分けて、希望の基盤を築きながら苦労して来られたのです。そういう希望の基盤の上に一つの実体として現れた方が誰だったかと言えば、即ちイエス・キリストでありました。イエス・キリストは神様が4千年の間希望された一つの実体として現れた存在だったために、神様が4千年間希望を目指して摂理して来られた総合実体でした。 それならばイエス様がそのような結実体としてこの地上に来られて蒔かれたものが何かと言えば、それは信義の時代で立てられた新約の福音、即ち信仰の福音でありました。その後この信仰の福音を中心にして今日まで2千年の歴史が経過しました。 それならばその信仰の福音が結実した基盤の上に天地を代身して、全体の愛の実体として現れる一つの存在が誰かと言えば、それが即ち来たるべき再臨主ということを皆さんは知らなければいけないのです。それでは神様は再臨時代に何をしようとされるのか? 来られる再臨主を中心に今まで築かれて来た信仰の基盤の上に、一つの生命の種を蒔いて結実するようにすることが神様の6千年摂理歴史の目的であることを、皆さんは知られなければならないのです。 成約時代の中心要素 今日私たちは神様を自分たちの希望の主人公として見つめており、信仰の主人公として見つめています。また私たちの愛の主人公として見つめています。この希望と信仰と愛の主人公であられた神様は、人間をして歴史の過程で希望を代身する旧約時代、信仰を代身する新約時代を経るようにされたので、これからは愛を中心とする成約時代を経なければならないのです。 それでは今そういう成約時代即ち再臨時代にあって、永遠不変の一つの中心要素として残れるものは何なのか? それは神様の愛であります。それは全体の中心要素であると同時に、全体の理想の要素にもなる のです。 そのために今まで人間たちはこの愛のため、希望の摂理路程と信仰の摂理路程を経て来ました。しかし今愛の摂理路程を皆さん一人一人が歩かないならば、神様がこの地上に愛を中心として成さなければならない統一の基盤は崩壊してしまう事実を皆さんが知らなければならないのです。 希望の基盤の上に信仰の中心として現れたイエス・キリストは、この地上に信仰を立てるための御言を語られました。万一こういうイエス・キリストをその当時の人間たちが信仰の実体として受け入れたならば、即ちイエス様を神様の4千年摂理歴史の希望の結実体、永遠無窮なる信仰路程にあっての信仰の中心存在、また永遠なる神様の愛を証しして統合させることのできる一つの実体として侍るならば、その当時の人間たちはイエス様一人によって永遠無窮なる神様の希望を持つことができたであろうし、永遠無窮なる神様の信仰を持つことができたであろうし、永遠無窮なる本然の愛を体恤することができたのであります。 ところがユダヤ民族の不信でイエス・キリストが亡くなられることによって、今日私たちは信仰路程で霊的な希望の実体だけを完成するようになり、霊的な信仰の実体を完成するようになり、霊的な愛の実体だけを完成するようになったのであります。 それでは神様の愛の勝利の基準は何であるか? 天上天下のどんな存在物でも神様の愛を中心として動いています。ところがその神様の愛の化身として来られたイエス・キリストが亡くなられることによって、そのすべての願いが崩れてしまったのです。 イエス様は神様が4千年間苦労を伴う希望の存在であり、万物の主人公として来られ、神様と一体となるのを願ったものがアダムとエバの堕落によって壊れました。それでイエス・キリストを中心にして神様の理念と一つとなり、霊肉合わせた信仰の実体として現れなければならなかったのに、霊的な面だけ完結してしまいました。 そのために今日私たちは、今イエス様が残して行かれた遺業を 継承して成就しなければならないのです。イエス様の一身の霊肉を備えた一つの希望の実体となることと同様に、私がそういう人となって彼を代身することができなければならないし、またイエス様が信仰の実体だったのと同様に、私がそういう人となって彼を代身することができなければならないのです。また愛を中心とした一つの実体であったのと同様に、私がそういう人とならなければならないのです。そうして神様の御前に立ってイエス様の希望と信仰と愛を代身して出て、聖霊の希望の実体として、聖霊の信仰の実体として、聖霊の愛の実体としてその使命を代身しなければならないのです。 これがイエス様が来られ行かれた以後、今日この地上の人間たちがお父様の御前に成さなければならない使命だというのです。したがって私たちがその使命を完遂しようとする時、イエス様の希望の終結を、聖霊の希望の終結を見ることができます。更にイエス様の信仰と聖霊の信仰、イエス様の愛と聖霊の愛の終結を見ることができます。そうして皆さんがそのすべてのことを終結することのできるその日を成し遂げてこそ、この地上に再臨主(真の父母)が現れることができるというのです。 神様の信仰・希望・愛の実体とならなければならない人間 神様の希望は神様自体のものではなく、人間のための希望でありました。神様の信仰も神様のものではなく、人間のための信仰でした。また神様の愛も神様自身のための愛ではなく、人間のための愛だったのであります。そのために人間がそういう神様の希望を代身して、信仰を代身して、愛を代身できなければならないのです。その時にそういう人間自身を全体の希望、全体の信仰、全体の愛を代身する存在として神様が万物万象の前に誇ることができるのです。言いかえれば、彼自身をこのすべての万物が願う希望の中心体だと誇ることができるのです。また全被造万物即ち、天地にあるどんな存在物でも信じて生きることができる主人公として誇ることができるのです。のみならずすべての存在が愛することのできる一つの敬慕の中心体として誇ることができるのです。イエス・キリストが神様の愛を代身する仲保的な化身として現れたのと同様に、今日私たちはイエス・キリストの希望と信仰と愛を受け、この地上にどんな悪い人の前にも一つの希望の実証体、信仰の実証体、愛の実証体として現れなければならないのです。 そういう存在とならないならば、そのどこへ行ってもイエス・キリストの希望の基準、信仰の基準、愛の基準を蕩減する条件を成立させることができないのです。そのために今日私たちは、このサタン世界の前に神様の希望、神様の信仰、神様の愛の実体として現れたイエス・キリストに応えなければならないのです。 ところでイエス・キリストの部分的な希望に対して応えるのではなくして、イエス・キリストの部分的な信仰に対して応えるのではなくして、イエス・キリストの部分的な愛に対して応えるのではなくして、全体に対して応えなければならないのです。人間たちは今までその一つの基準をこの地上に探し出してそれに応えようとしましたが、全体に対して応えて差し上げることができませんでした。しかしイエス様は3弟子を通じてそういう家庭形を現そうとされたことを皆さんは知らなければならないのです。 それでは信仰の結実体として現れた人は誰だったのだろうか? これはペテロでした。また希望の結実体として現れた人は誰だったのだろうか? これはヤコブでした。そして愛の結実体として現れた人は誰だったのだろうか? これはヨハネでした。 この3人がキリストの福音の一部分一部分を責任持って一つになって進むことによって、今日私が希望の結実を譲り受けることができ、信仰の結実を譲り受けることができ、愛の結実を譲り受けることができるようになって、また摂理歴史はそのようになるのを願いながら流れて来たのです。そのために3人が一つになって一つの完成体として完結し終えることが最後の道であります。これが、キリストがこの地上に残された最後の教えだったのです。 だから今日皆さんが最後の完成者として現れるためには、キリストの代身体とならなければならないのです。ところが万一皆さんがキリストの3弟子を根とした一つの不変の実体として立てないならば、三弟子を立てて行かれた新郎になられるイエス様の御前に、出ることができないようになります。これを考える時、今日私たちはペテロを立てようとされたその信仰の希望を私自身で成し遂げて差し上げなくてはならないのです。ヤコブを立てようとされた希望の実りを私自身で成し遂げなければならないのです。ヨハネを立てようとされた愛の実りを私自身で刈り取らなければならないのです。 このような皆さん自身となるならば、即ち皆さんが終りの日のイエス様の御前に立つことのできる一人の新婦となるならば、皆さんは神様が6千年間悲しまれた希望の願いが自分自身で結実された喜びを感じるようになって、お父様の御前に感謝をお返しできるようになるでしょう。 更に皆さんは神様が今まで6千年間願って来られたその信仰の希望が、イエス様の愛を中心として成し遂げられたという、すべての万象を代身して成し遂げられたというその喜びの事実を現さなければなりません。そして神様が喜び愛する中でその愛の喜びを感じて、お父様の御前に感謝することのできる皆さんとならなければならないのです。このことが今日皆さんに歴史的な責任として残っていることを知らなければなりません。 摂理が要求するもの それでは皆さん自身が「アバ父よ」と呼びながら、希望の結実を持たなければならない、信仰の結実を持たなければならない時、愛の結実を持たなければならない時となったのですが、今皆さんに要求することは何か? 神様が6千年間希望を抱いて切なく思われたその切なさを感じとれなければなりません。または6千年間信仰を立てるために苦労されたその苦労を感じとれなければならないし、6千年の間神様が愛を成すために犠牲の路程を繰り返して来られたその事実を感じとれなければならないのです。 イエス様一身において、神様の4千年の希望の結実を代身する実践的な路程を立てたものが信仰の摂理であって、その信仰を代身する実践的な路程に立てられたものが何かと言えば、神霊の歴史でした。またその次には愛を代身する実践的な路程が見せてくれたものが何かと言えば、統一の歴史でありました。このようにイエス様は希望を持って摂理の道を立てたし、神霊を持ってここに種を蒔いて繁殖させたし、その繁殖したことなどを一つにまとめようとされた のです。 したがって今皆さんは神様の愛、イエス様の愛、聖霊の愛を実現しなければならないのです。そしてイエス様の希望が神様の希望として変化する時が再臨時代であり、イエス様の信仰が神様の信仰として変化する時代が再臨時代であり、イエス様の愛が神様の愛として蒔かれる時が再臨時代であることを皆さんは知らなければならないのです。 イエス様の希望の結実、イエス様の信仰の結実、イエス様の愛の結実が皆さん自身の中で結ばれていなかったということであれば、皆さんはまた再び神様の新しい希望の中心を探し立てなければならないし、神様の新しい信仰の中心を探さなければならないし、神様の新しい愛の中心を探さなければならないのです。これが皆さんに与えられた課題であります。 それではそれらを探すために皆さんはどのようにしなければならないのか? 皆さん自身がイエス様の希望を成して、聖霊の希望を引き継いで、イエス様と聖霊の信仰を引き継いで、イエス様と聖霊の愛を引き継がなければならないのです。そうして、「お父様、聖霊の苦労がわかりました。聖霊の希望がわかりました。聖霊の信じて来られた歴史(役事)がわかりました。イエス・キリストの希望がわかりました。イエス・キリストの信仰がわかりました。イエス・キリストの愛がわかりました」と言えるようにならなければなりません。このように言いながら、お父様の御前に出て行くことができるその一つの存在が、今日この地上に現れなければならないということを皆さんは知らなければならないのです。 それならばその一つの存在はどういう存在なのか? その一つの存在が持っている希望はキリストの希望であり、信仰はキリストの信仰であり、愛はキリストの愛であります。ところでその一つの存在がこれらを神様的な希望と神様的な信仰と神様的な愛で終結される時に、初めて神様はイエス・キリストの希望として残されたその目的を終結し終えて御旨を立てることができます。したがってその一つの存在は神様のイエス・キリストが祈られた歴史、イエス・キリストが今まで私たちのために神様の右側で立って祈られたそういう歴史を越えなければならないし、更に霊肉を持つ完成体として天の御前に立て得るようにならなくてはならないのです。またそういう存在が私と天の喜びをキリストを通して体恤するようになる時、初めて神様と人間が 一つになれるのです。そんな位置まで上がって行かなければならないことを私たちは知らなければならないのです。 そのために今日私たちは、神様が4千年間苦労して立てられたキリストの心情、またキリスト以後2千年間苦労して立てようとされた再臨主の心情まで体恤しなければならないのです。そして今日私たちにはイエス・キリストが霊的な完成の立場を越えて、肉的に完結しなければならない希望の実体を完結できず、信仰の実体を完結できず、また愛の実体を完結できないために、その実体を完結しなければならない責任があるというのです。 再臨主は信仰・希望・愛の代表者 イエス・キリストの愛を中心として来られるところの再臨主を立てて、神様と繋がることのできる関係を結ばなければならないのです。 それでは、今日私たちはこのためにどのようにしなければならないのか? 実証的な希望の実体として現れなければならないし、信仰の実体として現れなければならないし、愛の実体として現れなければならないのです。そんな皆さんの基盤の上に再臨主が来られたならば、神様がイエス・キリストを立てられて願われたその希望が皆さん自身を通して決定するのです。そのためにその再臨主は私全体の希望として現れて、私全体の信仰として現れて、私全体の愛として現れるというのです。 ところで再臨主がそのような愛として、希望として、信仰として現れるようになる時、皆さんは皆さん一人で喜ぶだけではいけないのです。その喜び、希望の喜びがその方によってなのですから、その方に感謝しなければならないのです。私が信仰の実体に立ったその事実に対して感謝しなければならないのです。そうする時、全天地が皆さんに和合して、皆さんを愛の実体として対することのできるようになるのです。このように全天地が動く感じを皆さんは持たなければならないのです。 そういう感じの中で皆さんは、神様がイエス・キリストに対して希望されたことを、希望を代身する実践の路程を通して開拓しなければならないのです。 また信仰を代身する心霊的な歴史(役事)を開拓しなければならないのです。更に愛を代身した侍る生活を実践して、統一の歴史(役事)を成して、すべての万民が栄光に侍って差し上げることができる人々とならなくてはならないのです。 そのために最後の神様の愛を成し遂げるには実践的な希望、心霊的な信仰、心霊的な愛をすべて備えなければならないのです。その時私たちは主に侍り、永遠に生きることができ、神様に侍って永遠に生きることができるのです。 そして今日の私自身は天の喜びに満ち溢れて、地上の万物の前に喜びに満ち溢れ、地上の人間の前に喜びに満ち溢れていなければならないのです。そうしてその一つの喜びを全世界が統一するように感じながら、永遠に生きることができる時代を皆さんが建設しなければならないのです。 そうして皆さんがいる所隅々まで、そこは神様の希望の実践的な場となって、信仰的な場となって、愛の化身的な場とならなければならないでしょう。そうして神様が希望した御旨を地上で成し遂げて、神様がイエス様を通じて成し遂げようとした希望が、私たちから成し遂げられるようになって地上の万物に結ばれなければならないのです。また神様の喜びが人間を通して万物にまで結ばれる時、初めて神様が願った統一の歴史が成立されるのです。 そのために今日皆さんは、自分が神様の御前に希望の存在として立つためには、まず天上天下のすべての万物を代身して希望の結実体として喜んでいたかを自問自答してみなければなりません。また皆さんは、今まで地上の多くの人間が天を信じてきたその信仰の全体を代身して喜ぶことができる存在となったか? 更に神様から愛を受け、愛するその愛の感じを感じることができる存在となったか反問してみなければならないのです。 ところがそのすべての完結体として来られる一人の存在が誰かと言えば、即ち再臨主なのです。即ち、その再臨主は全体の希望、全体の信仰、全体の愛を代表して現れる方だというのです。ところでその方が現れるようになる時、皆さんは彼を迎える準備ができていてこそ、彼の希望と彼の心霊的な信仰と彼の愛を所有することができるのです。またその時皆さんは、 神様の御旨を成すために行くまいとしても行かずにはおられないし、行わないでおこうとしても行わざるを得ないのです。そのために皆さんは今日この地の堕落圏内で生きている人間たちの感情を超越した希望の化身として、信仰の実体として、愛の実体として現れなければならないのです。万一このような存在がこの地にいるならば、再臨主はそのような存在を訪ねて来られるのです。 それならばそういう存在を求めて来られる目的は何であるか? イエス・キリストが残した使命、肉的に完結しなければならない使命のために尋ねて来られるのであります。6千年前から神様が希望される霊肉を中心としたその御旨を成し遂げようと尋ねて来られるのです。 したがってそういう御旨を条件として手本となれる隠れた存在がこの地上に現れるようになる時、どんな存在であっても彼を希望の存在として、信仰の存在として、愛の存在として侍ることができなければなりません。愛を中心としてこそ統一の理念が成された一つの世界は希望を越え、信仰も越えた世界なのです。だから今皆様には、愛を中心とした自分の生活に天上天下が和合できる日を成し遂げなければならない重大な責任があるのです。 再臨主の実践的な基盤 たとえ再臨主がこの地上に来られると言っても、人間の実践的な基盤がなければなりません。たとえ永遠なる神様の愛を代身した存在だと言っても、人間即ち皆さんの基盤がなくてはならないのです。このような重大な責任が皆さんにあるのです。したがって今日皆さん一人は24億人類に代わって、今まで天上にいる億兆の先祖たちを代身していることを知らなければなりません。更に私一自身は天地のすべての存在物が希望する存在であり、全天地は私一自身が信仰の個体、愛の実証的な個体となることを願っているのです。 だから今皆さんはそんな心を感じ取って、食べても飢えても生きても死んでも、その日常生活にあって全体の中心を証して保護して差し上げなければならないのです。そうして自然万物を通して神様の御前に栄光を帰し得る、このような歴史(役事)まで皆さんがやらなければならないのです。このような重大な責任を 今日皆さんは背負っているのです。 それでは皆さんたちの過去の信仰生活を振り返って見る時、希望を成したと言って証しできる自分となっているか? 信仰を成したと言って証しできる自分となっているか? 愛を成したと言って証しできる自分となっているかということが問題です。 そんな皆さんになる時、イエス・キリストの希望が、イエス・キリストの信仰が、イエス・キリストの愛が皆さんに神様の希望として、信仰として、愛として体恤されるようになるのです。したがって今皆さんはイエス・キリストを通じて残された神様の希望を、残された信仰を、残された愛を感じることができなければならないのです。 そのような感じを感じる人がいるとすれば、彼は神様の直接的な恵みを受けている人です。またその様な人は、神様の希望を現すまいと思っても現さないではおられない、神様の信仰を現わすまいと思っても現さないではおられない、神様の愛を現すまいと思っても現さないではいられないのです。万一皆さんがそういう存在となるならば、皆さんがどこへ行っても神様の希望を分け与えることができ、どこへ行っても神様の信仰を分け与えることができて、どこへ行っても神様の愛を分け与えることができるのです。 また皆さんがそのようにしてこそ、来られる再臨主を地上で神様の代身としてお迎えできることを、皆さんは肝に銘じなければならないでしょう。 祈祷 愛するお父様、天倫の隠された御旨の世界が成らなかったことがすべて神様に責任あると思ってましたが、人間の堕落によって私たちにもあることを知りました。 神様の永遠なる希望が残っている限り、今日私たちにも永遠なる希望が残っており、神様の永遠なる信仰の願いが残っている限り、今日私たちにも永遠なる信仰の願いが残っており、神様の永遠なる愛の実践が成し遂げられない限り、今日私にも永遠なる愛の実体を成さなければならない責任が残っていることを知りました。 この一日に蕩減的な歴史を継承するために、私たちは4千年希望を継承して6千年の希望として、4千年の信仰を継承して6千年の信仰として、 4千年の愛を継承して6千年の愛として現さなければならないのです。神様の御前に立って6千年の希望を永遠なる希望として、6千年の信仰を永遠なる信仰として、6千年の愛を永遠なる愛として立てるべき責任が私たちに残されていますから、この日の私たちの至らなさと不足さをお許し下さい。この日の私たちの不忠さと不孝さを許し、私自身を高く立てていたことをお許し下さい。 今万民の希望を結実しなければならない時になりましたし、万民の信仰を結実しなければならない時になりましたし、万民の愛を一つの実体として現さなければならない時になりましたが、その一つの実体がいずこに結実されておりますか? 取るに足りない私たちでありますが、新しい新婦として正装しなければならない自分たちであることがわかるように悟らしめて下さい。 その時内的な面で完結を成し遂げられたイエス・キリストの苦労の歴史が、外的な私たちを通して結実されることができるのであり、再臨理想が実践されることができるのであり、外的な歴史を展開できることを知っております。 今日天地の中心的な役割を担当すべき人が誰かといえば、終末の再臨歴史を前においている聖徒たちだということを知っています。お父様はそのような人々に永遠なるお父様の希望を任せようと願っておられますが、彼らがその希望を受け持つ者となっているか、永遠なるお父様の信仰を任せようとされていますが、その信仰を受け持てる者となったか、永遠なる神様の愛を任せようとしましたが、その愛を受け持つ者となったのか、それが心配なのです。 そのすべてのものを主の代わりに受け持って、お父様の御前に永遠に変わらない姿でお父様の愛に属した人になる事を通じて、今は永遠なる希望の種族となった者として立たなければならないのです。永遠なる信仰の種族となった者として立たなければならないし、永遠なる愛の種族となった者として立たなければならないのです。このような責任が私たちに分担されている事をわかるようになさしめて下さい。 選ばれたイスラエルの一つの勝利的な中心実体としておられるイエス・キリストの目的を、今日私たち一人一人で成して、即ち全体を代身する希望の実体を備えて、信仰の実体を備えて、愛の実体を備えなければならないのです。今再臨歴史以後には、キリストがこの地上に来られて行なわれたそのすべてのものを代身する、即ちイエス・キリストの希望の実体として立たなければ ならないのであり、信仰の後継者たちとならなければならないのですから、これをはっきりわかるようになさしめて下さい。 今堕落の峠を越えなければならない復帰過程にある私たちが、「お父様の希望に責任持ちます。お父様の信仰に責任持ちます。お父様の愛に責任持ちます」ということができなければならないし、その希望、信仰、愛を、お父様の御前にお返しできなければならないし、更に万民の前に不変の愛を中心として立たなければならないのです。そうしてお父様の御前に愛される事のできる勝利的な存在となってこそ、終末に最後の栄光を代身する事のできる資格者であることを知っておりますので、今日ここに集まった子女たち、どうぞお父様が、「お前は私の希望の存在であり、私の信じる事のできる者であり、私が愛するできる者」という事のできる姿となるように導いて下さい。 更に天上天下すべての万物の前に宣布して、判定の恵みを受けて和動の一つの条件を立てる事ができる勝利の子女たちとなるように導いて下さることを、お父様、切にお願い致します。 そのためにお父様の喜びがこの地の喜びとして置きかえられ、お父様の愛がこの地の愛として置き換えられて、お父様の希望と信仰がこの地の希望と信仰として置き換えられなければならないのです。再臨理想を迎え受けながら、平面的な喜びをお父様の御前に置き換える事ができるように導いて下さり、お父様の願いが地を中心とする私たちによって成就されることのできる栄光を、全被造世界に現すことのできるように導いて下さい。 私たちの生活を通して生涯を通して、モーゼの栄光を称えることができなければならないし、モーゼの愛によって私たちすべてが一つとなれるよう導いて下さい。そうして24億人類を全部すべて合わせて霊界にいる千々万聖徒たちまで合わせてこそ、一つ誇りを誇ることは神様の御旨を成就することであることを知っていますので、その成し遂げたすべての希望、成し遂げたすべての信仰、成し遂げたすべての愛を永遠に誇ることのできる条件として、天地の中心の中で立てる事のできるようお導き下さることを切にお願いしながら、すべての御言を主の御名によってお捧げ致します。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.31
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[23.01.01] 世界平和統一家庭連合 世界本部教会 平和ヌリ23.01.0109:20より「世界平和統一家庭連合 世界本部教会 平和ヌリ」が配信予定されています。時間前になりましたらPeacelinkTVホームページより視聴ください。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.31
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CanaanStation2004年の再生コンサートのパンフレットは以下のページ(こちら)からダウンロードできます。コンサート映像の後に孝進様が2006年の永愛コンサートツアー期間中にお話しされたスピーチ内容を紹介いたします。日本語のみになりますが、何らかの形で他の言語でも共有できればと思います。
2022.12.29
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私も今日が「仕事納め」でした。昨年12月に火傷してから1年、擦り傷みたいにすぐ直るかと思いきやなかなか治らないものですね。薄皮が出来かかったのですが、それを擦ってしまってはがれた後の修復に時間がかかりすぎています。5百円玉くらいのがあと2か所です。また、しこりみたいのもあったりと、腕の曲げ伸ばしにもまだ少しの違和感を感じています。さて職場ですが、私の上司のお子さんがコロナ陽性となり「濃厚接触者」ということで1週間以上になるのですが、仕事納めの今日もお休みでした。家族が次々と感染したためか、あるいは、本人自身(?)私の子供も熱が上がり、陽性となりました。年内帰省予定が1月1日までは足止めです。皆様も予防対策を万全にしてよいお年をお迎えください。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.29
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合唱曲「歓喜の光 ~父の祈り(希望編)~」 2022/12/28オリジナル合唱曲 ~合唱コンクールで生まれた課題曲~ 二世圏の合唱コンクールで制作された課題曲「歓喜の光 ~父の祈り(希望編)~」です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.28
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「文鮮明先生御言選集 19560527 - イエスのように復活の栄光を神様に帰そう」(2021.01.02)からのペーストです。イエスのように復活の栄光を神様に帰そう1956年5月27日(日) 本部教会…… イエス様は神様の代身実体 そうしてイエス様は神様の内的な性品を代身してすべての苦難と悲しみを堪えながら、愛された神様の心情を継承できたのでした。それでイエス様は自分がどの立場、どの所にいたとしても、ただ神様の御旨、神様の愛を代身する実体としてサタンと戦ったのでした。 イエス様はサタンと戦う過程に、サタンが自分のための目的を中心に攻撃する時に、その影響はイエス様御自身のみならず、神様にまで及んだことを知りました。そのためにイエス様はどのような受 難に会われたとしても、神様が自分(イエス)のために忍ばれたように、また万民のために耐え忍ばれたように、そして当時までの摂理路程でサタンに対して神様が戦われたのと同様に、30余年生涯をただ一人耐え忍びながらサタンに対して戦われたのでした。このように十字架上で亡くなるその絶頂の瞬間までのイエス様の生涯は、神様の実体としてずっと神様の愛を自ら実践して現す生涯でした。ところが彼の生涯路程、即ち神様の愛を実践した路程は、サタンと戦いながら歩んだ試練過程だったのです。 それではどうして神様はイエス様をサタンの前に渡して十字架で殺したのか? それは神様がイエス様を愛していなかったからではありません。神様はイエス様を愛したけれども、どの程度まで愛されたのか皆さんは知っていますか? 神様の最高の愛は、事実上死を越える立場で受けるということを皆さんは知らなければなりません。それ故に皆さんは神様に代わりに来られたイエス様の愛を受けるためには、死の峠をも越えることができるという切々たる心情を持たなければなりません。そういう時にサタンが屈伏するようになるからです。4千年間、神様お一人全体の世界を眺めながら悲しまれ、心配され、苦労されましたが、イエス様お一人が地上に立てられることによって、彼を中心にするサタンとの新しい戦いが展開したのです。そうしてイエス様は自分のすべてのことを忘れて神様のために戦ったのみならず、死の場にあっても自分のための欲望を持たなかったために、復活の能力を現すことができたのでした。今日私たちもイエス様のようなそういう勝利の過程を歩まなければならないのです。イエス様は神様の永遠の生命を所有して、神様の栄光を現すために自分のすべてのものを捧げ尽くしました。そして罪悪に満ちた人間たちのために自分一人を祭物に捧げました。私たちは、サタンが反対しているということまでも忘れる程に、人類のために手を上げて祈祷されたイエス様の愛を知らなければなりません。 サタン世界では現すことのできない愛をイエス様は現したために、サタンは彼の愛の前に屈伏するまいと思っても屈伏せずにはおられませんでした。サタンは自分個人として求めることが(別に)ありましたが、イエス様を通して恥ずかしさを感じるようになったのでした。そうして十字架によって4千年間摂理して来られた神様が悲しみ始めたのみならず、人間も悲しみ始めて、またサタンも悲しみ始めたのであります。これを皆さんは知らなくてはなりません。 イエス様が亡くなったことに対して、神様と人間だけが悲しんだのではありませんでした。イエス様の愛と死についてサタンも悲しむようになったのです。それでサタンの悲しみが大きくなればなる程、イエス様の愛の結実はより多く結ばれたのでした。 イエス様は自分の愛を実証する十字架の勝利によって、4千年の間摂理して来られた神様と不変の因縁を結んだし、不変の勝利、不変の愛の実体となりました。イエス様は天と地、人間を代身して神様と一つとなったために、神様が変わらない以上イエス・キリストもまた変わることができなかったのであります。 神様は4千年の間栄光を現そうとされましたが、その願いを成し遂げられなかったので、イエス様お一人を立てて初めてその願いを成し遂げようとしたのでした。それでイエス様は人間を通じてその願いをこの地上に現そうとしたのでした。そういう神様の4千年摂理の証拠的な実体として現さなければならないのに、十字架によってその願いがサタンに蹂躙されることになったのです。しかし、イエス様は神様の栄光の実体として4千年間摂理してこられた神様の栄光を見せてくれましたが、それが何かと言うならば、復活の栄光だったということです。これを皆さんは知らなければなりません。 復活の栄光を現されたイエス様 その復活は4千年歴史において初めて天の栄光を代身したものであり、4千年間サタンとの戦いを勝利した栄光を代身したのでありました。イエス様がこのように勝利的な基準を霊的にとか実体的に見せて下さったために、神様は死んだイエス様を再び起こし、新しい摂理を展開されるようになったのでした。イエス様が十字架に掛かることによって4千年摂理歴史の責任を引き受けて、祖先たちの責任を引き受け持って、天の栄光を代身して あの世に行かれたことが復活・昇天だったのです。 このようにイエス様は内的な神様の栄光をこの地上に実体的に成し遂げるために、即ち神様の完全な栄光を現すために来られた御方です。なぜかと言えば、完全な栄光は内的な栄光と外的な栄光が合わされてこそ成し遂げられるからです。イエス様は間違いなくこの使命を成すために来られたのです。 神様の栄光が完全に成し遂げられるには、神様の内的な栄光の実体として来られた独り子・イエス様とユダヤ民族が、離れずに一つになることによって、イエス様の手にある神様の内的な栄光が地上の栄光とならなければならなかったのです。しかし神様の4千年摂理歴史を受け持って神様の栄光を実現しなければならないイエス様が、ユダヤ人の不信によって十字架で亡くなることによって、天の内的な栄光は霊的な栄光になったのです。そのためにイエス様は未完の栄光を成して昇天されたのでした。 イエス様が昇天した後に霊界で、神様が4千年間サタンに対して行った天の戦いと、人間を復帰するために行った真の戦いと、御旨を成し遂げるための摂理の戦いと、聖霊を代身とする愛の戦いをしておられるのです。即ち、イエス様は霊界に行かれて、神様がして来られた戦いを継承して神様の代わりとして戦っておられるのです。 それでは4千年の間摂理して来られた神様の前に、人間を代身して、万物を代身して、天の愛を代身したイエス・キリストが真実に勝利しなければならない場所はどこにあるのか? 他でもないこの地だと言うことです。 地上の戦いを責任持つ聖霊 それでは地上に残っているこの戦いの路程を誰が責任持たなければならないのか、これが問題です。イエス様が霊界で神様の内的な戦いを継承して戦っておられるのですが、聖霊と私たちは地上で力を合わせ、内的な戦いと内的な摂理を実体的に完結するための愛の戦いに勝利するために、全部が協助しなければなりません。この戦いは霊的にのみ戦う戦いではありません。霊肉共に戦わなければならないのです。そしてその戦いで勝たなければならない運命が、私たち人間に残されているのを皆さんは知るべきです。即ちイエス様が霊界で神様の内的な戦いを引き継いで今まで戦って来られたことと、この地で30余生涯を犠牲にして人類救援のために戦って来られたことを、私たちが引き継いで勝たなければならないのが私たちの運命だと言うのです。 そのために今皆さんたちは、「お父様! イエス様! 聖霊よ、私に力を下さい」と祈祷して叫びながら、地上で天の歴史的な希望を成し遂げるために全力を尽くさなければならないのです。 イエス様はこの地上に神様の4千年苦労の結実体として来られたし、最初の完成体として来られた御方です。しかしイエス・キリストは30余生涯に成し遂げられない路程が残ってました。そして3年公生涯期間の戦いの路程にも神様の栄光を完全にすべて成し遂げられないという恨みが残っており、また十字架の血にじむ愛の心情が地上に残っているのです。 それ故に、今日私たちはイエス様が地上で成せない使命を引き継ぎ、霊肉同時に成し遂げなければならないのであります。そして私たちは私たちの生涯路程をみな捧げて、イエス・キリストの行かれた道を継承して行かなければならないのです。 それならば今日私一個人をお父様の御前に立てて批判しようとする時、どのようにしなければならないのか? イエス様は神様の御旨を成し遂げるためにサタンと戦い、イエス様が行かれて以後2千年の間も聖霊と共に苦労して来られました。そういうイエス様に皆さんは似なければならないのです。そしてイエス様はお父様の御前に自分一人を立てて勝利の戦いを展開したことが、どの一日だけではなくて、30余生涯の期間であったことを知らなければならないのです。6千年間摂理されたお父様の心、御旨を成し遂げるために心配し、苦労されたイエス様の心、聖霊の心を知らなければなりません。 そうして今日皆さんが耐えなければならない路程にあって心を尽くして耐えることができないならば、皆さん一人によって6千年の間心配され苦労された神様の御旨、イエス様が生涯苦労された御旨、イエス様が亡くなられた後聖霊が2千年の間苦労した御旨がすべて挫折してしまうというのです。これを皆さんは確実に知らなければならないの です。 それ故、今皆さんはこの御旨のための戦いを展開しなければならないのです。 私たちの使命 イエス様は怨讐の反対を沢山受けました。この城から追われればあの城へ行かれ、こちらで迫害されればあちらへと逃れて行かれたのです。そのような中でもイエス様は自分の一身を弁明することを知りませんでした。天の全体生命を持って来られたのに、そういう価値を現すことができませんでした。そうして無言の戦いの路程を経て来たイエス様、更に十字架の山上でも自分を忘れて神様の御旨と愛を中心として証しするためにサタンと戦われたイエス様でした。 それ故、今皆さんがイエス様自体を尋ね立てようとするある愛の心がある訳ですが、それがイエス様を悲しくさせるのではなく、喜びを差し上げることなのです。皆さんはこういう事実を考えて、今日皆さんがイエス様の苦労多い30余生涯を代身しなければならず、今日まで耐えて来られた神様の心情を代身しなければならないのです。 4千年の間、神様の御旨を成し遂げるために祭壇を立て、民族を通して摂理された預言者たちの心を代身しなければならず、イエス様が人間を愛されたその心を模範にしなければならないのです。そうして今日皆さんは、イエス様が自分を立てないで、自分を愛さない心で勝利の基準を立ててサタンを嘆かせたのと同じ、そのような事をしなければならないのです。6千年間のすべての戦いを終結させなければならないのです。 皆さんは忍耐のすべての闘争路程に勝利しなければなりません。また天の御旨を証しする戦いで勝利しなければなりません。皆さん一人一人がイエス・キリストを代身しなければなりません。4千年の間神様が忍んでこられた御旨、忍んでこられた栄光、忍んでこられた愛の勝利の心情を抱かなければなりません。イエス様が自分自身を忘れて、ただ天の御旨を成し遂げるためだけに苦労されたように、皆さんも自分自身を忘れて、神様が願われる全体の栄光を結実して差し上げなければならないのです。心で、体で勝利の実を結ばなければならないのです。 そのために心ではイエス様の栄光を歌うことができ、体では聖霊の栄光を歌うことができるのです。そして私たちが、心ではイエス様の復活の栄光を代身して、体では聖霊を通じて復活の栄光を代身できないならば、聖霊は復活の栄光の立場に出られないという事です。イエス様は復活昇天できる栄光を整えましたが、聖霊は未だ復活昇天できる栄光を持っておりません。 今日まで6千年間摂理して来られた神様の栄光に代わって霊肉を持った一つの実体が出て来なかったのです。今日はイエス様の愛によって勝利の栄光を代身する人が出なければならないし、聖霊によって復活の栄光の立場に立つことのできる人が出なければならないのです。皆さんが、イエス様が神様の4千年摂理の御旨を成し遂げるため心と体で戦うことができたように、そういう一つの実体として現れないならば、6千年の間摂理して来られた神様の御旨は栄光として現れないということを知らなければならないのです。それならばこれ以後に私たちはどのようにしなければならないのか? すべてを尽くす意思とすべてを尽くす心とすべてを尽くす性品を備えた聖霊がこの地に来られたという事を知らなければならないのです。そのために天の御旨を代身したイエス・キリストの代身実体、聖霊の代身実体がこの地に現れないならば、神様の御旨が成し遂げられないのです。皆さんはこれを知らなければならないのです。今日皆さんは生命を下さったお父様の御前に感謝しなければなりません。そして皆さんはこの地上で聖霊まで解放して差し上げなければならない責任を担っていることを知らなければならないのです。 それで終末である今日このことが成し遂げられないなら、神様の6千年摂理の目的が成し遂げられないのです。そのために今日皆さんは、神様とイエス様、聖霊が願う御旨を成し遂げるためにすべての戦いの路程に勝利しなければならないのです。三位神の復活の栄光を現すために、その戦いの路程、忍耐の路程を越えなければならないのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.26
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文鮮明先生御言選集 19560523 - 天地のため往来されるイエス(2020.12.30掲載)天地のため往来されるイエス1956年5月23日(水)前本部教会 祈 祷(I) 幼なき子女たち、再び生きる道を尋ねてお父様の膝元に出て来ましたので、お父様、受け入れて下さい。私たちが宇宙より尊いとして話して下さったのを知っております。多くの群れが生命が渇き、この聖壇の前に集まりましたので、お父様、集まったこの群れがお父様の栄光に代わることのできるように許諾して下さり、喜びの祭壇を代身して、お父様の心慮と心配を知ることができ、お父様の心情を体恤できるこのひとときの時間として許諾して下さることを、お父様、懇切にお願い申し上げます。 お父様には、とるに足りない者たちに対して、信じなければいけない立場におられるということを知っておりますし、とるに足りない者たちを頼って役事を行なわざるを得ない立場におられることを知っております。今日まで天が私たちを信じなければならない、信じて立たせなければいけない立場におられることを知っていながらも、お父様が私たちを信じて下さることのできるようにして差し上げられなかった過去の過ちを容納して下さい。 私たちが支えとならなければならない責任も充分に担当できない私たち人間でありましたが、お父様、この時間を容納して下さいますことを、懇切にお願い申し上げます。お父様を信じて、お父様にたよって私の生命までも捨てることができ、私の生涯までもお父様に率直に差し出すことのできる、お父様が取られるに相応しい供え物としてこの時間お受け下さることを、愛する私のお父様、懇切にお願い申し上げます。 お父様、多くの人々の中でとるに足らない私たちを呼んで下さったのですから、受け持ってお父様の矜恤の愛で抱いて下さい。 お父様に、この時間身も心もすべて捧げ奉り、お父様の念慮(心配)する心を体恤できるよう許諾して下さり、お父様が私たちに要求されるその一つの願いを受けるに相応しい子女となれるように許諾して下さることを、愛するお父様、懇切にお願い致します。 6千年の間、解かれなかったあなたの切ない事情が今日まで継続しており、あなたの嘆息が今日までも継続している歴史を見てみる時、今日も私たち自体がお父様の嘆息の原因となっていることを容納して下さい。 お父様の生命と願いの理念の実体として下さいまして、お父様が喜ぶことのできる生命の根として下さることを、愛するお父様、懇切にお願い致します。 今日ここに集まった子女たちを哀れみ、この時間ありったけの精誠を捧げ、お父様の愛を讚美して、千々万聖徒たちの前に立てた子女として恥ずかしくない、生きた喜びの供え物となれるこの時間となれるよう許諾して下さることを、お父様、懇切にお願い致します。 すべてのことをお任せしましたので主管して下さい。主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。 祈 祷(Ⅱ) お父様! 孤独な環境の中にあっても各自の十字架を背負って天に向かう険し???を歩んで来た子女たちが、この時間もお父様の膝元に集まり、お父様の大きくて高い愛の恩賜を願ってひれ伏しておりますので、お父様、自ら尋ねて下さり、愛で抱いて下さり、疲れた心を慰労して下さり、乾いた心霊を呼び起こし立てて下さい。 お父様自ら私たちを掴んで下さらなければ、私たちが行く所がどこにあるでしょうか? 哀れな子女たちですから、お父様自ら共にいて下さり、私たちの行く道をお父様自ら導いて下さって、お父様が目指す御旨に向かって一路邁進することのできる子女とならしめて下さい。 この時間集まった子女たちの心と体をお父様自ら主管して下さいまして、各自の心をお父様の御前にうち出しておきますので、お父様、新しい役事を起こして下さり、矜恤の心を持って対して下さい。 各自自分の過去に行なったすべてのことをお父様の前に出して悔い改めることによって、この時間お父様の大きな愛の役事が起こるよう大きな恩賜を施して下さることを懇切にお願い致します。 お父様! 私たちの前には未だ険しこが残されておりますので、お父様自ら手を取って下さり、すべての死の道を歩んでも生き残ることのできる力を許して下さることを、懇切にお願い致します。 今眺めているだけの愚かな子女たちを抱いて下さり、ひたすら天の御旨を立てるために一路邁進できる勇気を与えて下さり、召命された天の子女たちとして天の勇士として進んで行けるように助けて下さることを懇切にお願い致します。 眠っているすべての子女たちを起こし、お父様の前に導かなければならない責任を持った聖徒たちが集まっておりますので、この者たちが担った使命を果たすのに不足のないように助けて下さい。過去のどんな聖徒たちよりも尚一層高くなれるようにして下さり、サタンまでも愛することのできる子女になれるように助けて下さることを懇切にお願い致します。 お父様の掴まえに応じて、相応しい歩みをする子女として下さり、サタンの嘲弄を受ける子女とならぬよう助けて下さいますことをお願い致します。自分を中心として天倫を思いはかる愚かな者になることのないようにして下さい。ひとえにお父様の栄光だけを現し、この地上にお父様の恩賜を高めることのできる子女たちとなれるようにして下さいますようお願い致します。 この時間お父様の御名によって集まったすべての子女たちの上に特別の恩賜を施して下さいまして、礼拝を捧げ津々浦々まで生命の炎を呼び起こして下さい。最後の新しい摂理を悟れるようにして下さいまして、この地上にお父様の栄光を高めることのできる子女を一日も早く呼んで下さることを懇切にお願い致します。 この時間にも、お父様を呼んで密かな祭壇を築きながら御旨の道を探し求め渇望する子女たちがどれだけいるでしょうか? この者たちを探す使命もこの席に集まった子女たちが背負っておりますので、お父様! そのような使命を全うするために不足なきようにして下さい。すべての子女たちをお父様が呼び集めて下さり、私たちがお父様の大いなる栄光の御旨を高めることのできる日が一日も早く臨むようにして下さいますことを、懇切にお願い申し上げます。 眠れる24億人類をお父様の御前に尋ね立てなければならない使命が私たちにありますので、お父様、私たちに下さった御言を持って自信を持ち進んで行く所すべてに生命の炎を呼び起こして下さり、復活の役事を起こして下さり、お父様の喜びと栄光をこの地上に高らかに立てることのできる子女となれるようにして下さることを、懇切にお願い致します。 今日まで数千年の間、この地の人類のため苦労して下さったキリストの懇切な心情と、私たちのためにお父様の前に訴えられたキリストの嘆きを解怨しなければならない責任が私たちにあることを、確実に信じられるようにして下さい。 人間が成すべき責任を果たす前に天の基準を捨てないようにして下さり、ただひたすら天のみに対することのできる子女たちとなれるように許諾して下さい。お父様、この時間この席に臨んで下さいまして、責任を果たして天の恵みを受けることができる子女になれるよう助けて下さることを、切にお願い致します。 既に担った使命をまた地に捨てる子女とならぬよう助けて下さい。お父様の栄光を最後まで現せるお父様の愛する子女、能力の子女として立てて下さり、余恨のないよう助けて下さいますことを懇切にお願い致します。 難しい環境にあって孤独な祭壇を築き、お父様の御前に叫び訴える子女たちを、お父様自ら抱いて下さり、役事して下さい。そうして立派に御旨を支えられる天の子女となれるよう許諾して下さることを、懇切にお願い致します。 お父様、この時間自ら役事して下さり、永生の路程を歩むことのできる生命の御言を受け持って帰ることのできる恵みを許諾して下さい。 この時間最後まで共にして下さって、この席に集まった子女たちが帰るときには、清らかな心霊をもって天の大いなる恩賜を受けて、お父様の御前に讚美をしながら帰る子女として分別して下さいますことを懇切に願ってお願いする時に、このすべての御言を愛する主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。 祈 祷(Ⅲ) お父様! 愛する弟子たちを残して十字架の峠を越えて永遠の世界へ行かなければならないイエス様の心情を知るようにして下さい。3年間喜怒哀楽を共にして従っていった愛する弟子たちをあなたの膝元に集めておいて、念慮(心配)しながら懇切にお願いしたイエス・キリストの心情を体恤することのできるこの時間となるよう許諾して下さい。 心で推しはかり体で体恤して、神様に応じれる心が天に徹し、地上の人間を動かし、神様の心が動ずるなら共に動じ、神様の御旨に謙遜な祭物として捧げられる愛する子女となれるよう許諾して下さることを懇切にお願い致します。 苦海の如き立場において従ってきた数多くの群れは皆落ちてしまい、12使徒だけ残ったけれど、その中でも遠からず自分を裏切るユダがいるのを感じたイエス・キリストの心情を、私たちが体恤することのできるよう許諾して下さい。人を信じて役事された3年公生涯路程が、このように寂しい環境として残された時のイエス・キリストの心情を、今日私たちが心と体で体恤することができるように許諾して下さることを、懇切にお願いします。 お父様! 十字架の死の道を前にして天と一問一答したイエス・キリストの切ない心情を、今日私たちが体恤するようにして下さり、お父様の御前にひれ伏した、生きた喜びの祭物としてその心に慰労の相対者となれる子女として立って下さいますことを、懇切にお願い申し上げます。 今私たちだけを残さないでお父様自ら共にいて下さって、集まったこの時間、探してきた足どりが嘆息の歩みとならないよう許諾して下さい。そのようにして私の生命のすべてを、お父様、受け入れて主管して下さることを懇切にお願い致します。 サタンが周囲に広がっていることを、愛する子女たちがどうぞ知ることができるように許諾して下さいまして、サタンに譲歩する心の余裕を持つ子女とならないように許諾して下さい。お父様に向かう正しい心と体を持てるようにして下さり、使命感を持って知性と誠心を尽くして勝利の祭壇を築くことのできるこの時間となるよう許諾して下さることを、愛するお父様、懇切にお願い致します。 人間的な認識と人間的な観念を私たちの周囲の環境の中から取り除いて下さり、伝える者の心と受ける者の心が一つに和して、お父様の喜びと栄光となれるように許諾して下さることを懇切にお願いしながら、愛する主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。 天宙にあってのアダム・エバの位置 神様が天地万物を創造されたのは神様が栄光を受けるためであったことは間違いない事実です。そのためにまず無形の天使世界を創造されて、次に無形実体世界の表象として有形実体世界を創造されました。そして霊界と実体世界の中心であり、代表としてアダムとエバを創造されました。 このアダムとエバは、天地が変わらない限り理想天地と運命を共にしなければならなかったのです。即ち、天地が動ずる如く動じなければならない運命を持っていたアダムとエバだったのです。それでアダムとエバが変われば天地も変わるのであり、アダム・エバの中心が散らばるならば、天地の中心も散らばるのです。そして全天宙の中心が散らばるなら創造主の中心も散らばるという、必然的な条件を持って創られたアダム・エバでありました。 こういうアダム・エバが堕落することによって天宙の中心からずれて、天宙の中心がずれることによって創造主の中心もずれてしまったのです。そのために神様は天地の中心を再び立てて被造世界をして、その正しい中心に和するようにして、創造主の中心と創造された被造物の中心が二つではなく、一つになるようにしなければならない立場におられるのです。そのようになれば再び、天が喜ぶなら地も喜び、地が喜ぶなら天も喜ぶようになるのであり、天が永遠である故に地も永遠であり、天が無限の喜びに浸るなら地も無限の喜びに浸るようになるのです。 創造主の運命が誤らない以上、被造世界の運命は変わることができないのです。このような被造世界の中心であるアダム・エバが堕落することによってすべてが散らばってしまい、すべては方向と中心がずれてしまうようになってしまいました。これを再び回復するための役事が復帰摂理歴史であり、復帰摂理歴史を繰り返し、長い6千年の歳月を経過して今日に至っているのです。 この時間まで神様の愛の摂理は数多くの先知先烈(預言者・聖者たち)を通して現し、先知先烈たちを通して象徴的に愛を現したと同時に、その全体的な愛の結晶体として現れたイエス・キリストを通して実証的な摂理の愛を内的、外的に見せて下さったのです。 そのために彼の心は無形世界の中心を代身して、彼の体は有形実体世界の中心を代表したのです。こういうイエス様であることを知らなければならないイスラエル民族が知らなかったために、イエス・キリストを十字架に渡してしまったのです。それで全天地が闇につかった事実を皆さんは知らねばなりません。 イエス様の御言と実践生活の目的 イエス・キリストが来られるただ一つの目的が何であるかと言えば、天地を創造されたお父様の心情を整えて天地に変わらない永遠の中心を立てるということだったのです。こういう中心を立てるためにイエス・キリストがこの地に来られたのです。 そのために彼が話す事は自分のある中心を立てるためのものではなかったのです。エルサレムのある村やイスラエル一村の部分的な中心を立てようとしたのではなく、全体霊界の中心、創造主の中心に至るまで連なることのできる一つの中心を立てるためでありました。 彼の行動もまた一個人の行動でなく、彼の願いも一個人の願いではなく、彼が争うことも一個人で止どまる争いではありませんでした。彼が願う目標は全天地万物全体を抱くことのできる不変の中心に立ち、万物をはるかに越えて無形世界を経て、創造主であられる神様の心情に代わるところまで進んで行くことだったことを皆さんは知らなければなりません。 そういう願いを持ったイエス・キリストの御言、イエス・キリストの生涯、イエス・キリストの実践的な行動を皆さんは知らなければいけません。彼の行動は天地を新しく建設する出発としての行動であり、彼が語った御言はその一つの御旨を成就せしめるために、再創造の役事を成し遂げる御言だった事を皆さんは知らなければならないのです。 30年の準備期間を経て3年の実践生涯路程でアダムとエバの時に失なわれた天地不変の中心を再び立てさせるために語ったのに、語られた御言をイスラエル民族が信じなかったために、霊界と肉界の中心として立たされなければならなかったイエス・キリストは、霊界の中心としてのみ立たれ、実体的な肉身世界の中心としては立たれなかったということを皆さんは知らなければならないのです。 イエス・キリストは、十字架の峠を越える時まで、何のために生きられたのか? この地に来られて30余年の生涯……何のために苦労したかというならば、一次的には地のために苦労されたのであります。 ところが地のために苦労した彼の功績によって、地上で収穫しようとしていた目的が成し遂げられて霊肉を合わせて地上で成さなければならない一つの中心が、一つの実体に完結されなければならなかったのに、霊と肉が分かれるようになることによって、地上で成さなければならない実体の中心たるイエス・キリストの体は害を受けたというのです。そうして霊的な世界を代表してイエス様の霊だけが完成することによって、復活以後今日まで2千年の歴史は霊界中心に復帰摂理をした期間であったことを皆さんは知らなければならないのです。 イエス様は十字架に掛かった後復活され、復活されてから40日の間地上で活動された後に、また再び霊界へ行かれました。このようにイエス様が亡くなって復活され、復活されたが再び昇天されたこの事実は神様の創造の役事を象徴的に見せて下さったものです。 創世記を見れば、「夕となり朝となった。第一日である(創世記一章5節)」という御言があります。それは夜の時間があるのです。イエス様の墓中3日期間はまさに夜の時間と同じ期間なのです。30余年生涯は昼の時間であるが、イエス様は弟子たちを立てるために30余年間苦労されました。この苦労の過程を経た後、復活されたということは、夜を過ごして新しい朝を迎える事と同じなのです。 復活されたイエス様は地上に明かりをともすために苦労されたのですが、地上に明かりを立てることはできませんでした。それで地上に明かりを新しくするために、復活されたようであるが、実は霊界の中心として復活されたために、イエス・キリストは地上にそのままおられずに再び霊界へ行かれたというのです。これは何を意味するのかと言えば、夜の期間を過ごし昼の期間を迎えたイエス・キリストは、再び夕を迎え、永遠の世界へ行かれたことを意味しているのであります。 「知らない」という人間を「知ってる」と言わなければならなかったイエス それでは今残ったのは何なのか? 残ったものが何かと言うならば夜の期間です。キリストの到来によって永遠の朝となるべきものが、イエス・キリストが亡くなられることによって再び夕と同じ期間が残るようになったので、この夜の期間を責任持つべき責任が残っているというのです。私たちがイエス・キリストを渡したという理由で、私たちがその責任を取らなければならないというのです。 この夜の期間の責任を全うしてイエス・キリストが十字架上でサタンを打ち負かし、勝利の基準を立てられたように今日この地に残された多くのクリスチャンは夜の期間の戦いの峠を越えなければならない運命に置かれているのです。 この夜の期間の峠を越えて行き、皆さん自身がイエス様を手本として復活して、彼と共に新しい朝の栄光を受ける時代が何かと言うと、所望の再臨時代なのです。 イエス・キリストはこの地に来られて30余年生涯をこの地のために生きられました。イエス様は(この)地のために地上の人類のために来られたため、地上にいる人間たちは反対したとしても、地上の人間たちは「知らない」と言おうとも、イエス様は「知ってる」という立場に立たなければならないのです。 イエス様がゲッセマネの園を経てカルバリ山上に出て行く時、従って来た弟子たちまでイエス様を見捨てました。イエス様が十字架に掛かる時に、イエス様を「知ってる」と言う人がいなかったのです。どの弟子も、イエス様を「知ってる」と言えなかったのです。このように、「知ってる」という人が一人もいなかったが、この地のためにイエス様は来られたので、「知らない」という地上の人間たちに対して、「知ってる」という立場をとられたのであり、復活されガリラヤの海辺に弟子たちを尋ねて行かれたのがそれなのです。このようにイエス様は、地上の人間たちが知ることのできる一つの道を残しておいて、40日の後に再び昇天されたのです。 今私たちは、私たちが「知らない」という立場にいる時にも、イエス・キリストが私たちを「知ってる」という立場におられるので、イエス様をわからないで(地に)生きているとしても、イエス様を「知ってる」という立場に立たなければいけないのです。 そのためにイエス様が来て行かれた後2千年の間、人間は心からイエス様を探していくという旅をしているのです。ガリラヤの海辺でイエス様が使徒たちを尋ねて下さった事と同じように尋ねて下さったイエス様の恩賜に応えるために、信仰者たちも2千年の間イエス様が行かれた天に向かって尋ねていかなければならなかったのです。こういう生活が今日まで2千年の間継続して来たのであります。 それではイエス様は何のために天国へ行かれたのか? 地のために来られたイエス様が成さなければならない事は天の御旨であるため、霊界に行かれたとしても尚天の御旨のため今日まで働いているのです。 地のために来られたイエス様が、地上に「知ってる」という基準を立てておいたとしても、霊界に行って、即ち無形世界へ行って「知ってる」という基準を立てられないとしたら、人間たちが、「知ってる」という世界へとどまれないようになるので、今日まで2千年間霊界から皆さんが、「知らない」という立場から、「知ってる」という基準を立てるために神様の前に祈祷しておられるのです。 それではイエス様が人間たちのため神様の右側で祈祷されていたが、どんな祈祷をしておられるのか? 血・汗にじむ祈祷をされるのであります。人間たちが地上でイエス様を「知ってる」と言ったなら、イエス様が霊界に行って彼らを「知ってる」と言われるのです。 このようにイエス様が神様の前に、「知ってる」という立場をつくっておかなければ、人間たちが行ける霊界がお父様の前に認定されないために、イエス様は今日まで霊界へ行って、神様の前に私たちを「知ってる」という苦労の祈祷をしておられるのです。これを皆さんはよく知らなければなりません。 この仕事を経た後、イエス様が再び来られる時にはどのようにして来られるのか? 来られるときには地の仕事と天の仕事を合わせ持って来られるのであります。地の仕事と天の仕事に代わって責任持って来られるのであります。それ故、今日私たちも十字架の死から復活され昇天して天上におられるイエス・キリストが再び来られる時まで、そのイエス様が越えられた峠について行き、越えて行かなければならないのです。 また2千年の夜の期間を経て復活の朝に該当するこの時にあって、行かれたイエス様が天で歓迎する一つの中心を立て再び来られる時に、皆さんはこのイエス様が地に向かって来られるのを心で感じ知らなければなりません。 今まで私たち信じる者たちの信仰形態は、天を眺めイエス様を思慕してまいりました。これが今日までの私たちの信仰のモットーであり標準でありました。 聖霊を思慕しなければならない今日 今私たちが慕わなければならない一つの事が残っていますが、それは何ですか? 私たちは地のために代身して働いている聖霊を慕わなければなりません。皆さんはこれを知らなければなりません。今まで多くの人たちがイエス様を2千年間霊的に思慕してきましたが、今日は聖霊も思慕しなければならないのであります。そうしなければならない聖徒たちであり、私たち人類であるということを、皆さんは考えなければなりません。このように聖霊を思慕すべき時代が来て、新婦の体を完成しなければならない時が来ました。 聖霊は新婦の神であられるので、新婦の形を整え、新婦の形態を成し、私たちは慕わなければなりません。このようになるならイエス・キリストは霊界に行って休むことができるのです。そして天地に一つの中心を立てて再び私たちがこの地を中心にして尋ねていくのであります。 心で霊界を慕った私たちは、今私自身に役事される聖霊を慕わなければいけないのです。そうして私たちは霊的な象徴であるイエス様を思慕し、肉的な象徴である聖霊を思慕して、私たち一個体で霊的イエス様を思慕する心と肉的聖霊を思慕する体が一つになることによって、初めて天の中心と地の中心が私一人の心と体で一体となることができるのであります。そうなることによってイエス様も私の身代わりに立つ事ができ、聖霊も私の身代わりに立つことができるのであり、私はその中にあってイエス様と聖霊の御旨を代身して万民を代表して現れる事ができるのであります。これを皆さんは知らなければなりません。 それでは今この地上に来たるべき主はどんな御旨を持って来られるのか? 皆さんはイエス様と聖霊のその中心を、皆さん自体に立てなければならないのです。生きた肉体を持った皆さんが、霊界を象徴し、肉体を象徴したイエス様と聖霊を手本として霊肉合わせた一つの実体の中心体として完成しなければならないのです。そうでなければ神様の全体創造の理念が皆さん一人において完結しえないのであります。このように一つの中心の使命がイエス様と聖霊の使命というのであります。この一中心を立てるためにイエス・キリストは再臨されるのであります. 再臨時代の聖徒たちが果たさなければならない事 では、今日私たちが今この一つの御旨を支えようとすれば、どのようにしなければならないか? イエス・キリストがガリラヤ海岸で愛する弟子たちを探して行かれたことだけを思っていてはいけません。イエス・キリストは皆さんたちをいつも尋ねて下さるのではありません。皆さん自身が一人の新婦となり、イエス・キリストを迎えなければなりません。 イエス様と聖霊は天の中心であるので、皆さんは心と体が一つになることができる中心を具備することによって地の中心となって、一つとなって対することのできるこの一基準を立てなければならないのです。今この時はいつもイエス様だけを思慕するという時ではないのです。今は聖霊の体を具備して、私たち一個体がイエス様を地上で代わりに尋ね迎え入れることができなければなりません。こういう一つの中心を皆さんが尋ねて立てることができなければなりません。 この一つの中心を所願されるイエス・キリストは、皆さんのために聖霊を立てて今日まで2千年間苦労して来られました。今皆さんはこの苦労に報いなければなりません。天が霊と肉を代表した中心としてイエス・キリストをこの地に送って霊的にのみ完成したという基準を立てたのですが、皆さんがイエス・キリストを尋ねて迎え、この残された肉の未完成の部分を完結しなければならないのです。皆さん一人でそれを完結すれば、今日まで苦労してこられたイエス・キリストを皆さんの心に迎えることができるのです。 今日人類はイエス様の御前に尋ね出て、イエス・キリストの心に似て、イエス・キリストの体に似て、聖霊の心に似て、聖霊の体に似て全天地万物の前に自信を持って現れなければならないし、神様の御前に自分の一個体を立てて誇りうる人とならなければなりません。 そしてイエス様と聖霊の前に誇りうることのできる私とならなければなりません。またその次には使徒たちの前に誇りうる自分とならなければなりません。そうしてお父様の前に出て、「今日まで6千年間苦労されたお父様! 6千年間怨讐だったサタンを私一人で屈伏させますので、お父様、今日この時間から私によってサタンに対する思い煩いを捨てて下さい」という自信をもって叫ぶことができなければなりません。 またそして、「この全被造の園に染み込んでいる罪悪の嘆息が、私によってすべて去って行きますので、お父様! 天地に染み込んだ嘆息を、これによって解怨して下さい」ということのできる心を持たなければなりません。 またその次には、神様が6千年間愛する息子・娘を立たせて一度も愛することができませんでした。今日も神様は私たち自体を愛したい心があっても、真心から私たちを尋ね立てて、愛することができないのであります。イエス様と聖霊は私たちを尋ねて来て愛することができますが、神様は私たちがその御言を信じる以前には愛することができないのであります。 信ずる者の責任 そのために今日私たちが、イエス・キリストの代わりとして一つの中心を持って、「アバ父よ! 今日この地の人間たちのすべての罪と嘆息を私が責任持ちますので、6千年の間人間を愛したかった父よ! 今こそ創造本然の愛で愛して下さい」と言うことのできる存在とならなければなりません。皆さん自身がお父様の御前に出て、「お父様! 私を愛して下さい。お父様! 私を愛して下さい」と堂々と言える人とならなければいけません。それでこそ天地を創造された神様の御旨が、イエス・キリストを経て皆さん自体で成就されるのであります。 そのために今日私たち信ずる者の責任というのは…。 イエス様は、この地のために来られ、天のために苦労されました。このように天のために苦労されたイエス様、天地の中心として現れたイエス・キリストの前に、全被造世界の代わりとして、無限な霊界に代わった中心存在として堂々と立つことのできる存在となってこそ、イエス・キリストが天地の喜びをもって現れる栄光の世界に参席して、神様とイエス様と聖霊と皆さんが一つになって喜びの世界で生きることができるのであります。これを皆さんは肝に命じなければなりません。 祈祷 愛のお父様! 6千年歴史を見てみる時、大きく見れば今までは夜の期間であり、今現れるべき夜明けを待ち望む時に私たちは来ております。 大きく見れば夜の期間を越え、今、朝に達する時点に立っており、全体的な朝の期間を迎えるべき今日、私たちにあっては暗い夜の期間を過ぎて復活の恩賜を持たなければならず、天に行かれたイエス様の御前に心を置き、再び来られるところの心に従って、地を思うイエス様に対して私たちが身代わりとなる体を備えることによって、尋ねて来られる聖霊と一体となって、肉的な中心をなし、そうしてその中心にイエス・キリストを奉り、霊的中心を成してこそ天地を創造されたお父様の本然の心情を備えた一つの中心存在として立てられるということを、この時間少しだけ語りました. 今迄私たちは地のためにだけ生きて来たのでしょうか。これは半分だけにしかならない人生であることを知っています。そうでなければ霊のためにだけ私たちが生きているのでしょうか。これも半分だけにしかならないことになります。 今日までは私たちがイエス様に従って上がる生活をしてきましたが、今からは従って下りて聖霊を慕って一体的な新婦として完成することを願うイエス様の希望を成し遂げることができるようにして下さい。この地で聖霊の新婦の品性を慕って、彼の心情が彼の徳性が体と心に一つとなるよう、ならしめて下さり、イエス・キリストが地上で肉的に完成できなかったことを、聖霊の役事と協助によって私たちが完成する存在として立ち、創造の理念全体に代わることのできる一つの中心存在として立たしめて下さい。 そうして天の本然の中心として、天地に通じた創造主の中心に通じた心の中心として、全被造万物の前に誇ることのできるようにして下さいまして、全被造世界の中心に立たしめて下さい。そうしてお父様の御前に堂々と立ち、「隠して来られた6千年の愛の心情を、私一人でお返しする自信がありますので、お父様! 愛して下さい」と言える息子の立場まで導いて下さい。 今日までこれを成し遂げるために苦労の歴史を歩んで来ましたが、苦労の歴史を経てきたお父様の苦労の前に召命を信じて、立てて下さることを信じて、求めて下さることを信じて、愛することのできる存在として立ち、今お父様が眺めてこられた席に立って、万物を眺めることのできる子女の立場に立たせて下さり、万物に対してお父様が真に誇ることのできる自分として立たしめて下さることを、お父様、懇切にお願い申し上げます。 この時間参席したあなたの愛する子女たち、しばしの間、聞いた御言が心に和して生命の中心として立てるようにして下さり、私一人が真理を代身して被造世界の創造主の中心を代身して、どこに行っても不足がなく、どこへ行こうとも中心を見失うことのないように導いて下さい。夜になったとしても心だけは昼に住むことができるようにして下さり、何時、如何なる時に主が来られ、聖霊が尋ねてきて、お父様が現れたとしても、迎えるのに不足のない姿になれるように導いて下さい。何時来られたとしても準備を完結した子女として立て下さることを、お父様、懇切にお願い致します。 すべての御言を語り終えましたが、息子たちの生涯路程において永遠に共にいて下さい。主の御名によってお祈り致しました。ア―メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.26
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文鮮明先生御言選集 19560520 - このようにイエス様は私たちを尋ねておられる(2020.12.29掲載)このようにイエス様は私たちを尋ねておられる1956年5月20日(日)前本部教会 離れた一匹の羊と同じ堕落人間 堕落した以後、私たち人類は神様の御前にあってどのような位置に立っているかといえば、99匹の中におられず離れた一匹の羊と同じ立場に立っています。 天にいる千々万天軍天使たちも一匹の羊のようなアダム・エバを失ってしまうことによって、神様の御前に喜びの讃歌を捧げられないでいます。このように千軍天使たちをして喜びの讃歌を捧げられないようにした人間を再び探すために、神様は今まで苦労を繰返していらっしゃいました。 イエス・キリストは神様が4千年間探して来られた一存在として地上に送られました。そういうイエス様は万民の前に善の祖先として、死亡の中に入っていった私たち人間を再び生かすために、真の父母の立場に立って苦労の歴史を重ねておられます。 今日私たちがイエス・キリストを4千年摂理歴史過程にあって神様の唯一な独り子として立てられた方であり、罪悪に落ちた人類を救うために、十字架を背負うことをもってサタンに対して勝利した中心存在として立てられた方であると簡単に知っております。 それならばイエス・キリストを一中心に立てるために、神様はどのようにされたのでしょうか? 世界人類に対して摂理したそのすべてのものをイエス様に任せました。そうしてイエス・キリストは新しい一中心として立てられて、すべての万民を責任持って救援しなければならない立場に立つようになりました。そのような立場に立つようになる時、彼の心と体は言うに言えない悲しみの中におられたでしょう。 私たちを捜して来られたイエス・キリスト それではイエス・キリストが今日私たちを尋ねて下さるのには、どのような過程を経て尋ねて下さるのか。神様は4千年歴史を通して人間を救援するための御言を立てたし、多くの先知聖賢たちを通してメシヤが降臨されることを、数多くの群衆の前に予告して来られました。 この為にユダヤ教信者たちは、先知者たちが訴えた証拠の御言を通してメシヤを迎える為の準備をしてきました。それが旧約の歴史です。このように準備された所に来られたイエス・キリストは、神様の御前に旧約4千年の歴史を善の歴史として終結しなければなりませんでした。そのために彼が語った新しい御言は、神様の4千年復帰摂理路程に入り交じった悲しい御言であると同時に、すべての人々が信仰路程を行くのに持っていかなければならない天倫の法度を明らかにした御言でした。 ところがイエス様が発表されるこの新しい御言を、多くのユダヤ教信者たちが、こころして聞いて信じなければならないにもかかわらず、信じることのできない群衆を見つめられるイエス様の心情はどのようなものであったのでしょうか? イエス様は悲痛な心で訴えられたということを皆さんは知らなければなりません。 今日まで天は私一人を探して、罪の中に溺れている私たち人類を再び尋ね立てるために長い間苦労してこられました。旧約時代には、先知者たちを通してイスラエル民族に旧約の律法の御言を下さいました。そして、4千年の悲しい歴史を解怨するために、イエス・キリストを送られて新しい真理の御言を発表されたのです。しかし、その御言をユダヤ民族が信じ受け入れなかったことを通じて、神様の辛く悲しい心情を慰労して差し上げられなくて、天の悲しい心情を御自身自ら励まし勇気づける結果となったことを、皆さんは知らなければなりません。 そのためにイエス様は行くべき方向を知ることができなくて、サタンの手中にある群衆の前に現れて、行くべき方向を提示して生きることのできる道を教えて下さいました。しかし、イスラエル民族たちはその御言を聞きませんでした。そのようにして私たち人類は生きる方向も失うようになってしまって、神様が立てて下さった4千年苦労の祭壇も崩壊するようになってしまったのです。万一神様の御言のもとにイスラエル民族が一つになっていたなら、彼らは神様が下さった御言によって結実されたであろうし、神様は彼らを再び子女として抱かれたでしょう。 イエス様が下さった御言を信じないユダヤ民族 最初から手本となるべきイスラエル民族が、イエス様が下さった新しい御言を不信して一つとなれないことで、イエス・キリストは悲しみの御言を残していかれました。そのために百匹の羊のような立場に立たなければならないイスラエル民族たちがどのような立場に立ったかと言えば、離れた一匹の羊のような立場に立たされたのであり、私たちもまた同様の立場に置かれています。 私たちは一匹の失なわれた羊と同じ立場にいるイスラエル民族に対していたイエス様の心情を知らなければなりません。失なったイスラエル民族を探し立てるためにイエス様は悲しい心情をもって叫ばれました。 今日私たちが知らなければならないことは、天が私一人を探すために4千年間辛く悲しい心情を抱いて摂理して来られ、その後にはイエス・キリストが神様の悲しい心情を継承して、私たちの後ろに着いて来ながら叫んでおられるという事実です。 それではイエス様は30余生涯の間どのような過程を経られたのでしょうか? イエス様は神様の願いが現れることを願いながら、30年間の私生涯期間の間準備して来られました。その期間が過ぎた後に新しい御言を持って現れて伝えるようになる時、イエス様は喜びを感じながら御言を伝えたのではなく、天の辛い悲しみをもって御言を伝えたのです。 「私に付いてきなさい」と言う言葉、「私を信じなさい」という言葉など多くの御言を語ったが、その悲しい心から訴える声に耳を傾け、聞いて従って行く群れは本当に少なかったのです。 そんな環境でイエス様は悲痛な心情を抱いて30生涯を過ごされて、イエス様が生きておられた時に叫ばれた切実な声が、今も聖書の御言を通して皆さんに訴えているし、今日この時間にもイエス様は霊界から皆さんに向って懇求しているという事実を知らなければなりません。 そのために今皆さんはイエス様が訴えられた御言の内容が何であるかということを知って、自分が行くべき方向を探して行かなければなりません。 皆さん自身が天の御前に失ってしまった一匹の羊と同じ立場にいるにもかかわらず、自分が行くべき方向もわからずに自分がどんな立場にいるかもわからないまま、この世がそのままずっと続いていくだろうと思うなら、皆さんは大きな誤解をしているのであります。 皆さんはよく知らなかったでしょうが、イエス様はお生まれになってから以後、今までの2千年歴史過程を経てきながら悲しい声で叫ばれておられるし、その叫び声は皆さんの願いとなっているのです。 神様の心情とイエス様の御声 懇切に叫ぶこの御声を皆さんは無視しますか? 聞こえないという人がいるならば、同じ恨みの心でも持って行かなければなりません。皆さんの中で呼んでおられる御声を聞きたがらない耳がありますか? この御声を聞きわけるために奮い立つようにならなければなりません。あるいは呼んでおられる御声を皆さんが聞いたとしても、体が丈夫でなく動けない時には、そこへ向かう心でも集めることができる私自体とならなければなりません。 神様は失われた羊と同じ立場にある今日の私一個体を探すために喘ぎ苦しみながら探して来られた歩みが、1日でもなく、1年でもなく、100年でもなく、6千年をかけて探して来られました。 天地の上に失われた羊の群れを探すために苦労して来られた6千年歴史は、天の贖罪歴史でした。 私たち人間が神様の呼ばれる御声を聞けないために、実体の神になられたイエス・キリストを通して見せて下さり、実体であられるイエス様をして神様の無形の心情を現し、宣布された御言がすなわち福音の御言だったのです。 人間が無形にしておられる神様の心がわからず、神様の御声を聞けないために、これを解消するために神様の実体として現されたイエス様だったのです。また彼が伝えた御言と声を聞いて、イスラエル民族がイエス様のところに来て4千年間知らないでいた神様の真正な御旨を知って、神様の心情を感じて悔い改めるべき立場であったにもかかわらず、イスラエル民族は悔い改めず、遂にはイエス様を遠ざけてしまったのです。 そのために今皆さんは聞こえて来るイエス様の悲しい御声を聞きとるために準備をしなければならないのです。そのためにどのようにしなければならないのか? 皆さんが世俗的なすべての言葉をよく聞くように、真に神様の心に代身して、神様の御旨に代身して万民の前に現れたイエス様を、「信じます」と言うことのできる心を持たなければならないのです。 イエス様は無形の神様の代身として来られて、4千年の間天の御前に悲しみだけを与えた無知なる人間たちを代身して贖罪の路程を歩まれたのでした。このようにイエス・キリストを悲しみの位置に立てて再決心するようにされた神様の心情を、皆さんは推し量ることができなければなりません。 イスラエル民族が心を広げて、やるせない神様の内的心情を代身して叫んでおられた御声を聞き分けることができたならば、実体に現れたイエス・キリストの悲しみに満ちて叫んだ御言を、問題なく聞きとることができたのです。ところがイスラエル民族はどうでしたでしょうか? 旧約聖書に現れている御言で満足しようとしました。神様の最後の御言が旧約にすべて記録されていると思ったのです。 神様の悲しみはこれだけではありません。イエス・キリストを立てて神様の内的心情の実体として見せ証しされる時、これを受け入れることができなければ、神様の悲しみが地上の悲しみに結ばれていくということを、イスラエル民族は悟れませんでした。 無形の神様が4千年間苦労して来られたその悲しみを、地上で喜びとして解怨して差し上げなければならないイエス・キリストでしたが、こういうイエス様の悲しみを理解できないイスラエル民族だったので、神様の悲しみはイエス・キリストを通じて解怨できず、また再び悲しみとして残れるようになったことを皆さんは知らなければならないのです。 神様の御旨を代身して、4千年の歴史を代身して地上に来られたイエス・キリストは、喜びの御言を発表できずに行かれました。そのためにイエス様以後2千年歴史が経過しましたが、今日6千年の歴史を通して見てみる時、未だ神様の悲しみとイエス・キリストの悲しみは地上に深く浸みこんでいるのであります。 今日私たちはこのような神様の悲しみとイエス・キリストの悲しみを知って、今神様の喜びの御言とイエス・キリストの御言を推察することができなければなりません。 イエス様が私たちを探した目的が、いつも悲しみの御言だけを伝えようとすることではありませんでした。失われた羊の群れと同じ私たちを探すために苦労される過程には、いつも悲哀の御言だけをおっしゃってはいけないのです。6千年の間、悲哀の御言を語ってきたのですから、失われた羊が探されるその瞬間には6千年の悲しみを根こそぎ忘れることができる喜びの御言が現れるべきなのです。 皆さんはその喜びの御言が天から現れるだろうと思っていますが、それは大きな誤解です。 今私たちは2千年の間苦労して来られたイエス・キリストの心情の御前に、私たちを探しておられる主の御前に競争しあって出ていくことのできる羊とならなければなりません。 悲しみのイエス・キリスト、傷ついたイエス・キリストが叫ぶ声を聞いてもためらい、方向を掴んで競争しあうことのできない者になってはいけないのです。イエス・キリストは突然尋ねて来て悲哀の御声で皆さんを呼ぶ時、皆さんがその場で動きを押えてはいけないのです。それならば、どうしなければならないのか? イエス・キリストの悲哀の声が御声が聞こえる前に、皆さんはまず悲哀の声で叫ばなければなりません。 私がまず、「私の牧者よ! 主よ!」という音声が天地に浸み通るように叫ばなければならないのです。 しからば皆さんを探して来られたイエス様が、皆さんが叫ぶ声に耳を傾け聞かれて再び訴える時、それは悲しい声ではなく喜びの声で訴えられるでしょう。皆さんはそういう立場に立たなければなりません。 イエス様の悲哀の心情を証かさなければならない私たち 今日私たちはイエス・キリストの悲哀の心情を証かさなければいけません。牧者を失ったことを悲しむだけではなく、失った牧者を探すために叫ぶことを知らなければなりません。 このように訴えられたイエス様が残された苦労の歩みまでも責任持てる存在となることが、このイエス様の前に満足を捧げることができるというのです。今日イエス様は悲哀の声で私たちを尋ねており、また私たちを尋ねるために苦痛の生活を繰り返している事実を皆さんは知らなければなりません。 人類を救うために4千年歴史を代身したイエス様は、人類全体の救援摂理によって平安な生活をすることはできませんでした。苦労の生涯を経て今日私たちを尋ねて来ているのです。 皆さんが知っているようにイエス様の30余生涯は苦痛の生活でした。大工のヨセフの子供としての30年準備期間にあって、その生活は外的にしても内的にしても苦痛の生活だったのです。 皆さんのように平安な立場で思い通りの生活ができませんでした。万民の救世主らしく生きられたと思うことは大きな誤解です。義父のヨセフとマリア、そして兄弟たちからも非難を受ける立場で、イエス様は言いたいことがたくさんあってもみな言うことができない苦痛の生活を送ったのです。 イエス様の苦痛はイエス様一人のための苦痛ではありませんでした。4千年の間苦労された神様の心情に代わって、私でなければ失った家庭を再び探す者がいないことを知って、長い間ひたすら天に対する切なる思いだけだったのです。そしてその周囲の環境と自分を中心とした悲惨な環境で戦っている多くの群れを見て、イエス様は苦労と悲痛の生活過程に入って、4千年間神様の生きた御言に代わって理想世界を成し遂げるために生命を捧げて戦ってこられたのです。 生まれた時からまともな待遇を受けず、イエスは死ぬ時まで荒野の生活と同じような孤独で苦労の生活をしたのです。こういうイエス様の外的な苦痛も苦痛であったけれども、外的に現れない内的心情の中に隠れた苦痛というものは、ただ神様だけが知っておられました。 イエス様を信じて従って行くべきイスラエル民族は、わからなくてはいけない人はわからなくなって、わからなくてもよい人はわかってあげたのです。こういうイスラエル民族の中で、イエス様は本郷の生活を慕わしく思ったのです。 彼が食べて着て飲んだ生活は自分のための生活ではなく、自分の安らぎのための生活ではありませんでした。彼の居食住すべてのことは、イエス様自身を越えて神様のため、世界人類のため、民族のためであったのであり、一歩一歩歩んだ足跡も、そのような足跡だったのです。 それなのにそういうメシヤの事情を知ってくれた人は一人もいなかったのです。孤独なイエス・キリストの心情を抱いて、「あなたの心を私が知っていますから、あなたの心情を私が知っていますから、行かれる所ごとに付いていってあなたの心を慰労する友達となりたいのです」という人がいなかったのです。慰労してしかるべき弟子たちまでもイエス様の隠れた悲しい内的心情を慰めてあげることができなかったのです。 そのためにイエス・キリストの30余年の生涯は、苦痛の生活で綴られたのです。福音を伝えた3年公生涯路程が始まった日から、彼が伝える御言は私的な御言ではありませんでした。自分の利益のための御言ではなく、自分のどんな能力を立てるための御言でもありませんでした。神様の御旨を成し遂げようとする御言だったのです。 ところが、こういう御言と御旨を持っていたイエス様を、民族全体に代わって理解してくれて友だちになりたがった人が一人もいなかったのです。そのためにイエス様は村からはさげすまれたし、民族全体からもさげすまれました。 今日皆さんは平安な立場で神様の御言を聞くことができる環境にいます。皆さんはこのように自由な環境で神様に対することのできるこの時を失ってはいけません。 苦痛のイエス様 イエス様の当時には、御言を伝えるにも人に隠れてこっそり伝えなければならず、御言を聞くのに隠れて聞かなければなりませんでした。そのためにこれらが行くところが荒野だったのです。そんな中でもイエス様は、多くの群衆を荒野へ導き出して神様の御言を伝えようとしました。そうしてまでも神様の御言を伝えようとして、神様の御旨を成し遂げようとしたイエス・キリストの心情を皆さんは知らなければなりません。 このようにしてイエス様が生活過程で多くの群衆に福音を伝えたが、それを歓迎する人は一人もいなかったのです。福音を伝える心がどれほど切実でも、理解できない人が多かったのです。イエス様が受けた使命と責任を果たすために、苦労すればするほどそれに対して破壊的な行動をする者が多かったのです。 こういうことを眺めながら一日中多くの群衆に対して荒野で叫ばれたかわいそうなイエス・キリストは、また再び天の御前に訴えるためにオリブ山の険しこを訪ねて行きました。付いてきた弟子たちが散らばって、一人きりで神様の前に出て自分の傷ついた心を癒し受けて、再び第二次としてサタンと戦うことのできる力を補うためのイエス様の苦労を皆さんは考えなければいけないのです。 イエス・キリストは30余年の生涯を燃して、苦痛の中の苦痛なる生活をしたことを知らなければなりません。それのみではありません。イエス様の苦痛が30余年の生涯の苦痛で終わったと思うのは大きな誤解です。今日あの世、霊界へ行っても、イエス・キリストは苦痛の中にあるのです。 2千年歴史が延長され、神様の御旨を成し遂げなければならない一つの目的において摂理を代行するイエス・キリストは、今日この時間までも苦痛の生活をしています。その苦痛の生活が連結されて今日に継続しています。 それではこの苦痛をどこへ行って解決すべきなのか? 今日この地の万象ではありません。この地の万象では絶対ありません。今日責任持つことのできる皆さんを通して、その苦痛と苦労の中で結ばれた恨みを解かなければならないのです。 そのためにイエス様は、永生摂理路程での苦痛を、皆さんの前に歴史的な距離を考えずに現されたのです。皆さんがこういう事実を知っているのですから、皆さん自体イエス様の苦痛なる手を握って慰労することのできる者とならなければなりません。そうして中傷罵倒を受けたイエス・キリストの徹した怨恨に代わって背負って慰労しなければならない責任が今日皆さんにあるのです。 それでは皆さんがそういう立場に立つことができなければ、どのようにしなければならないか? 皆さんの環境でイエス様の苦難を感じ取れなければなりません。皆さんの生活の中でイエス・キリストの苦難の生活を分析できる人とならなければならないのです。 それではイエス様はどんな罪があって30余生涯の苦難の生活、苦痛の生活をするしかなかったのでしょうか? 罪があったとしたら、神様の前に万民を救援しなければならない救世主として立てられたことを受けたという罪のほかにはないのです。こういうイエス様が万民のために苦しみ、万民のために切なく訴えられた理由を知らなければならないのです。そういうイエス様に対して、今日私たちは悔い改めの心でも持たなければならないのです。 皆さんの生活の中でもイエス・キリストの30余年生涯の苦難の足跡が残っています。皆さんがこれを刈り取らなければならないのですが、馬屋で生まれる時の苦難からゴルゴダ山上までの苦難、そして復活以後2千年の苦難の足跡までもすっかり刈り取らなければならないのです。このような全体的な御旨を知らなければなりません。 イエス様の悲しみは心痛く訴えるところで終わらなかったのです。苦難と苦痛の生涯を送っても終わらなかったのです。今日人々は、イエス様が苦難の生涯を経て十字架に亡くなることによって彼の悲しみが終ったものと思っていますが、それによってかえって御旨が延長されて、イエス様の悲しみは解こうとしても解くことのできない思いとして残るようになったのです。こういう事実を知って、皆さんは死ぬ覚悟をしてイエス様を悲しみから救わなければならないのです。 このようにイエス・キリストは、私たちを尋ねるために6千年歴史を過ごして、今日まで苦労して怨恨に徹した道を行かれたのですから、生命をかけて十字架の道を行かれたのですから、皆さんはこのようなイエス様をしっかりと掴んでいかなければなりません。 イエス様は30余年の生涯を終結するようにする(至らしめる)十字架の死の道に出て、死ぬようになる時、死にながらも「アバ父よ………」と切実なる思いで訴えたのでした。4千年の間苦労した多くの先知先烈たちが訴えた血の訴えが、イスラエル民族によって解怨されなければならなかったのですが、イスラエル民族が解怨できなかったので、その祖先たちの血の訴えを何でもって報いるべきでしょうか? 報いる道がなかったのです。 それで民族に代わって歴史的な血の訴えの代価を支払って蕩減された方が、イエス・キリストだったのです。アベルの血が訴える時に、尊い血を流された多くの先知先烈たちが、切られ血を流した地に対して、イスラエル民族に対して、訴えた条件がイエス様によって解怨されたのであります。4千年間訴えた泣き声が、4千年間多くの先知先烈たちの血の訴えの目的が、イエス様一人の死によって、また死んだ後の復活によって成就したのです。 イエス・キリストの復活を通してこの地上に血を流していった祖先たちの恨みが刈り取られたゆえに、彼らが地に対して恨めしく解怨を要求した思いが成し遂げられるようになったのです。それによってその時になってこそ初めて、イエス様を先頭に立てて天の御前に敬拝することができるのです。 イエス様を解怨して差し上げるべき私たち イスラエル民族が天を信じ仕えられず、犠牲になった先知先烈たちの血の訴えを完結したイエス様は、同時に後世に何を残したのでしょうか? イエス様は後世に十字架の死の血を残しました。それで今日皆さんの心にイエス・キリストの死の血が残っているのです。そのために皆さんがイエス様の前に立とうとする時、また皆さんの一生を見てみるならば、皆さんの一生にも血の峠があったことを感じるのです。これは先知先烈たちの血の訴えに対する報答であると同時に、イエス・キリストの血の訴えに対する報答であるという事を皆さんは知らなければなりません。それで十字架の歩みを通して尋ねて来られたイエス様が、私たちに、「来い」と言われる時にも、私たちは十字架の歩みを通じて尋ねて行かなければならないのです。 今皆さんは、イエス・キリストがゴルゴダ山上の十字架上で血の訴えをされた情熱が、皆さんの脈搏に脈打っていることを体恤しなければなりません。 イエス・キリストが十字架をもって皆さんを尋ねて下さっても、皆さんは今までそのように尋ねて下さるイエス・キリストの苦労を知らなかったし、十字架をかけてイエス様を呼びもしませんでした。死の道を歩まれたイエス・キリストは、十字架を背負われて私を尋ねて下さるイエス・キリストは、今も私のために叫んでおられ、私のために限りなく訴えておられ、苦痛を受けながら死の道を歩まれ、私のために苦労しておられます。 今私たちは十字架をまん中に置いてイエス様に対していますが、誰がこの十字架の恨みを解いてくれるのだろうか? 今日私たちが解怨しなければならないのです。これを解怨する前には、イエス・キリストを掴んで私の新郎と言うことができないのです。 そのために復活直後にマグダラのマリアが、「おお、主よ…!」と言った時、イエス様がさえぎった理由がここにあったのです。またそのためにマグダラのマリアが復活した主に会ったその日から天国生活をしたかったのですが、(その理由から)天国生活が2千年の間邪魔されて(遮断されて)いたのであります。この様に残された十字架の恨みを知って、今この残された十字架の恨みを、私たち信仰をする者たちが解怨しなければならないのです。 こうして十字架の峠を越えてから私たちを尋ねて下さったイエス・キリストが残されたものは何であるのか? イエス様はこの地に新郎・新婦という名詞を残して行かれました。それで今皆さんの祈祷の中で、主様は新郎として現れるのでしょう。皆さんは新婦で、主様は新郎として、そのような姿で皆さんに現れるということです。新郎として現れる主様にお会いする時、皆さんはいつも十字架の血の代価を考えなければならないのです。 今残されたものが何であるかと言えば、私たちに主様がもう一度尋ねて下さらねばならないのが何であるか言えば、十字架を廃して、万代に福を請い願うことのできる道、十字架を越えることのできる道を探して下さることです。十字架の峠を越えてイエス様が心ゆくままに私たちを掴まえることができなければ、十字架を切ってしまうことができるこの一つの恨みを解かなければいけないのです。私一人を通して、祭壇を通して、天地を通して、十字架を廃することのできる一つの不変の基準を立てる前には、再臨役事は完成できないのです。 イエス様が残して下さった光と水と油 このように尋ねて下さったイエス様は、今日私たちに何を残しましたか? 悲しい生活を通じて、苦難の生活を通じて、十字架の死を通じて私を尋ねて下さった後に、私たちに残して下さったものは何だろうか? イエス様は私たちに生命の光を残して下さいました。イエス様が生命を掛けて私たちを尋ねて下さったけれども、何のお土産を持って来られたのかというと、暗い世の中を明るくできる光を持って来たのです。それで私たちがイエス・キリストの死に対して感謝の涙を流す時、私たちはイエス・キリストの心情を知るようになり、イエス・キリストの事情を知るようになります。 またその次に、イエス・キリストは私たちに何を残して下さったのでしょうか? 水と油を残して下さいました。疲れに疲れ果て、傷を受けるままに傷付いた私たちを、治して下さるためイエス様は私たちに何を残して下さったかというと、水と油を残して下さったのです。 それで私たちはイエス様が残して下さった光を照らして自分の傷を知って、水と油でそれを洗わなければならず、罪人であることと裸の体であることを知って、礼服を揃えて身に着けなければならないのです。この時になったというのです。このように皆さんが自分の心情に、心にともし火を照らして、自分の罪を洗い清めて、傷を治療して、礼服を着た後にこそ2千年前に亡くなられたイエス様の願いを今日皆さんが成し遂げて差し上げる事ができるのです。 今私たちは心のともし火を照らして、水で体を洗い清め、傷に油を塗った後、許されて礼服を着て、イエス様が十字架を越えて来る必要がなく、私たち自身が十字架を越えていって、イエス様に敬拝を捧げなければなりません。これが地上で人間がしなければならない事であるのです。 イエス様が十字架を越えて来られることを願わないで、皆さんが越えようとしなければなりません。イエス様が越えて来られるのではなく、皆さんが生命の光を発する存在となって、その次に全力を備えて永遠に変わらない価値の光に代わることのできる礼服を着て、十字架を越えていってイエス様を掴んで、「主様は永遠に安息して下さい」と言って敬拝することのできる愛する新婦とならなければなりません。神様はこのような新婦が現れるのを願っておられるのです。 皆さんは今イエス様が残された荷物を解かなければいけないのです。イエス様から心の光を相続して、イエス様から水と油の恩賜を受けてその次に礼服を着て………。この礼服は皆さん一個人にとどまる礼服ではありません。皆さんに固着するものではなく、皆さんによって生命の光を受けて水と油の恩賜を受けて礼服を着ることをもって、主の御前に新婦となれる人が多くいなければいけないというのです。 祈祷 愛するお父様! 6千年歴史がこのようにして険しいということを感じながらも、徹した(言うに言えない)その心情、徹したその心の前に恐れを感じる者たちとして下さい。罪の中にあって何の罪が一番大きいかということも知らなかったのですが、知ってみると主様が下さった光を私の物だけとしたことが大きな罪であり、水と油を持っているのにそれらを私だけが持っていることが大きな罪であり、私は礼服を来ているのに、多くの人たちをして礼服を着るようにできないことが大きな罪であり、信じなければならない責任があるにも拘らず、信じられないことが6千年に代身する大きな罪だとわかりました。 今日この席に集まったあなたの子女たち、自分が直接罪を犯すことよりも一つの生命に犯罪するようにすること、イエス・キリストの苦労によって残された光と水と油と礼服を残せない、この事がもっと大きな罪だということを悟れるように許諾して下さい。 お父様、今伝えたところの御言を通して散らばっていた子女たちがイエス・キリストの形状を受けるようにして下さり、呼ばれる声を聞けるようにして下さい。歴史的な苦労と苦難、十字架の苦難まで責任とらなければならないのですが、この者たちが不足な場にあって天の御旨を知らず、お父様が願いをかけられた御旨がわからない立場におりますので、お父様、激励して下さいまして、まずこの者たちに御旨を明らかにして下さいますよう、お父様の直接的な御声を聞くことができるように許諾して下さい。善の生活をしようとしておりますから、この者たちが胸に抱く思いのまま生きていくことができるように導いて下さいますよう、愛するお父様、心よりお願いし、お祈り致します。 主様の新婦として美しく装い、すべてのものを越えて、天の栄光を現すことのできる子女として導いて下さり、新しい歴史的な仕事を担当できるようにして下さることを、愛するお父様、心より懇切にお願いし、お祈り致します。 すべての事をお任せしますので、御意のままに主管して下さり、集まったこの者たちの心の上に現れて下さり、永遠の勝利の栄光を代身することのできる子女として立たせて下さることを懇切にお願いしながら、主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.26
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文鮮明先生御言選集 19560516 - 神様の誇りとなったイエス・キリスト(2020.12.28掲載)神様の誇りとなったイエス・キリスト1956年5月16日韓国・前本部教会 神様の誇りとなるべきであったアダム・エバ 天地万物を造られた神様は、アダム・エバを天地万物に対して、神様が誇ることのできる実体として造られました。またアダム・エバを天使世界に対しても、神様が誇ることのできる実体として造られたのです。アダム・エバが万物の前に立てば、万物はアダム・エバに敬拝をしなければなりませんでした。 このように造られた被造世界が、人間の堕落によって潰されてしまったのです。すなわち、人間の堕落によって人間の前に誇りとなるべき万物の価値が、そのまま現れることができなかったのです。無形世界の価値の中心として現れることができた人間が、その資格を喪失するようになり、神様の誇りとして、神様の代わりに万物の前に現れ、和動の中心として栄光を受けるべき人間の位置が、根本的に潰れるようになってしまいました。 人間始祖の堕落以後、六千年が経過した今日まで、神様が求めてこられた標準は何だったのでしょうか。神様の心に代わり、形状に代わり、神様の性稟に代わって、天倫の行事に代わる全体の代表者、神様が誇る一人の代表者を求めてこられたのです。 また、今までこの一つの願いのために、イエス・キリストも苦労してこられました。それでは、アダム・エバの堕落以後、四千年目にこの地に来られたイエス・キリストはどのようなおかただったのでしょうか。イエス・キリストは神様の内的心情を代身し、外的形状を代身したおかたでした。それで、神様はご自身の創造の理念として立てた“誇りの基準”を、イエス・キリストを通して現そうとされたのです。これが、イエス・キリストが遂行しなければならなかった本来の使命でした。 ですから、イエス・キリストはその一代で、彼の生活を通じてある部分だけでも、神様の心情と形状に代わる子女として現れなければならない、重要な責任者の立場に立っていたということを知らなければなりません。 このようにイエス様は、神様が誇る実体として現れなければなりませんでした。まず、万物の前に誇ることができなければならなかったし、その次にはサタンの前に、そして、聖徒たちの前に誇ることができなければなりませんでした。そして、神様がアダムとエバを中心として喜び、栄光を享受しようとされたことを復帰する一日を、迎えなければならなかったのです。これが中心存在であるイエス様を立てて、役事し摂理された神様のみ旨でした。 神様はイスラエル民族をして、イスラエルの国を建設しようとされ、その中に自らイエス・キリストを送られたのです。それで、イスラエル民族が一つになってイエス・キリストをほめたたえ、神様が誇ろうとされたその基準で、感謝の心情を持ってイエス・キリストに対していたならば、このような歴史的悲しみが六千年まで延長されることはなかったでしょう。 神様の誇りとして立てられた信仰の王・イエス 神様の誇りとして現れたイエス・キリストの目に映ったものと、イスラエル民族が誇っていたものとは全く違っていました。すなわち、神様の復帰摂理のみ旨に対してきたイスラエル民族が、自ら神様の選民であることを誇っていたのと、神様の復帰摂理のみ旨を奉じながら闘われたイエス・キリストが、神様のみ旨のために誇られたのとは違ったのです。それでイスラエル民族は、神様の代わりに誇ることができたイエス様のみ言の前に、自分たちがその時まで立ててきた民族的な誇りを、放棄する立場に身を置かなければなりませんでした。 自分たちの誇りを放棄して、神様のみ旨を代身して誇るための新しい誇りを持って現れたイエス・キリストの前に、柔和謙遜にひれ伏していたならば、十字架の困難な関門がイエス・キリストの前に残されることはなかったし、キリスト教の歴史に十字架の道というものはなかったでしょう。 そして、「イエス様のみ言に耳を傾けることによって救われた」ということはあっても、「十字架を信じることによって救われた」という、このような話はなかったことでしょう。 今日、私たちがイエス・キリストの死を祝福して、十字架に贖罪の権限があると信じていますが、それがすべてではありません。イエス・キリストが生前に語られたみ言に贖罪の権限があったということを、今日キリスト教の人々は忘れています。私たちが知らなければならないことは、もちろん、キリストの十字架を信じることによって霊的な贖罪を受けることは可能ですが、イエス様が生前に語られたみ言を信じて、み言のとおりに実践していたならば、霊肉合わせての贖罪が成されていたことでしょう。 では、イエス・キリストは、この地に来られてまず何を誇るべきだったのでしょうか。アダム・エバは堕落することによって、神様のみ言を成就することができませんでした。み言を信じられませんでした。人間が神様のみ言を信じることができずに堕落して、四千年間摂理歴史が延長されたのです。イエス・キリストが、この延長された四千年歴史を断ち切るために、サタンの前に立てた一つの中心が何かといえば、信仰でした。すなわち、イエス様は「信仰の王」としてこの地に現れたのです。 イエス様はどのようなかたでしょうか。またイエス様は、神様の誇りとして立つことのできる一つの価値の基準を、どこにおいて立てられたのでしょうか。四千年の歴史が流れる過程で、だれも信じることができず、神様のみ旨に相対することのできなかった万民の前に、イエス様は信仰の王として現れたのです。それで神様は、イエス・キリストの信仰を誇ることができたのです。 多くの人々が「神様を信じる」と言いましたが、そのような信仰では、神様の天倫の心情に通じた上下の内的な関係を結ぶことはできません。また、多くの予言者・烈士たちが現れては逝(ゆ)きましたが、彼らが信じ、彼らが従っていったものを通じては、神様の中に込められている愛の原則を知ることはできないのです。 さらにイエス・キリストは、多くの聖徒たちが歩んできたその歴史的な信仰の過程全体を引き継ぎ、たったお一人ですべてのサタンの歴史を断ち切ろうとされました。四千年の信仰を総結実する立場のイエス・キリストは、宇宙の中心形として、信仰の主人公として来られたのでした。 この一つの基準のために、神様はイエス・キリストを信仰の王として立てられました。イエス・キリストは、神様のみ旨を代身したのであり、神様のみ言を代わりに伝えたのですが、宣布されたみ言は、旧約のみ言そのままではありませんでした。旧約の信仰によって信じたのではありません。預言者・烈士たちが語り、預言された、その限界の中で信じたのではありません。言い換えれば、イエス様は、イスラエル民族が信じてきた旧約聖書のみ言の圏内でメシヤ思想を持っていたのではなかったのです。 イエス・キリストは、どのような信仰を持たれたのかといえば、旧約聖書にも歴史上にもかつてなかった信仰、その時まで現れることのなかった一つの新しい信仰、世界のどのような環境の、どこにも現れなかった信仰を持った代表でした。そのために、旧約歴史がイエス・キリストの前につながらなければならなかったのです。 では、神様の誇りとして立てられた信仰の王・イエス・キリストを信じている私たちは、何を知らなければならないのでしょうか。私たちが、ある限界内でイエス・キリストを見たとするならば、イエス・キリストが降臨される前の四千年歴史と、イエス様の三十余年の生涯と、永遠なる未来にまで及ぶ彼の価値を知ることはできない、ということを知らなければなりません。 また、私たちは、万民が神様のみ旨が分からずに反対する立場に立っているとしても、「私は、そのみ旨一つだけを掴(つか)んで行きます。だれも信じることのできないことを、私は信じます」と言える信仰の基準が立てられてこそ、イエス様が万民の救世主、信仰の王として立つことができたという事実を知らなければなりません。 では、今日私たちが信じているイエス・キリストは、生きているうちに、み言をすべて語って逝かれたのでしょうか。もし、み言をすべて語ってから逝かれたのではないとしたら、私たちには、再び来られる主が語ってくださるみ言が必要なのです。イエス様は、アダム・エバの堕落以後四千年ぶりに、サタンの前にもすべての被造世界の前にも誇ることのできた信仰の王であり、神様が求められた信仰の王でした。しかし、ユダヤ民族が不信することによって、神様は彼を怨讐の手に渡すしかありませんでした。それでイエス・キリストが、全被造物の前に誇ることのできる基準を持ってこの地に再びこられて、皆さんに新しいみ言を語ってくださるようになっているのです。 イエス様は信仰の代表者、信仰の王として、旧約聖書になかった新しいみ言を発表されました。そのみ言は、新約のみ言として、今日私たちに伝えられています。 今、私たちが備えなければならないことがあります。今日この時代は新しい時代であり、これから栄光の時代が来るので、その栄光の時代に残ることのできる信仰を持つことができなければなりません。 イエス・キリストの希望と信仰は、人間が四千年間、信じてきた次元の信仰ではありませんでした。彼の一代を経て遠き後世、すなわち永遠にまで及ぶ信仰、神様がイスラエル民族をして成せなかった、その当時に表されることのなかった愛と善を表すことのできる信仰でした。 ですから、イエス・キリストは歴史上になかった信仰の王であり、神様が誇るかたでした。イエス様と同様に皆さんも、このような信仰を持たなければなりません。 サタンを打ち負かす王・イエス 二番目に、神様がイエス・キリストを誇ることができたのは、多くの人が数千年間、サタンと闘ってきましたが、イエス・キリストが初めて勝利の王として立つことができたためでした。それで神様が、イエス・キリストを誇られたのです。 四千年間、多くの先祖たちがこの地上に生まれてサタンと闘いました。メシヤを送ろうとされる神様のみ旨のために、数多くの預言者たちが現れてサタンと闘いました。しかし、彼らはサタンを屈伏させることができませんでした。四千年間、サタンと闘いましたが、サタンを占領し、屈伏させることができなかったのです。ところが、イエス・キリストがこの地に来られることによって、初めてサタンを占領して屈伏させたのでした。 イエス様は、何をもってサタンを屈伏させたのでしょうか。天の愛の原則をもって屈伏させたのです。皆さんはそれを知らなければなりません。今日、私たちキリスト教徒たちが知らなければならないことは、サタンを屈伏させるには愛の原則でなければならないという事実です。 愛の原則は、どのような原則でしょうか。イエス・キリストは万民の前で亡くなられました。この地上に、数多くの人々が来ては逝きましたが、イエス・キリストは神様が最も愛された独り子であるというのです。そのため、イエス・キリストの三十余年の生涯の生活を見れば、どの一部分を取っても、親孝行の生活をしなかったという部分はありません。神様のみ前における一日の生活は、昼も夜もどの時間も切り離すことのできない、神様のみこころにふさわしい生活でした。神様が見られるとき、“この地上におまえ一人しかいない”と言われるくらいに親孝行の生活をされたのです。 イエス様は、自分の一生のすべてが消え失せたとしても、ひたすら神様に尽くす心だけでした。自分の肉身は無視されるとしても、万民の救世主としての使命を果たそうという心しかなかったのです。ただひたすら、「お父様! 私一人が死んで、あなたが四千年間求めてこられた愛の代身存在、あなたの愛を受ける息子として、その愛の代価をお返しできる孝子となります」という心以外には、何もありませんでした。 ですから、億千万の民が、「イエス・キリストは神様の息子でない」と言っても、神様はそれを認めることができなかったのです。天地の中心に結ばれた、神様の愛による父子関係の天倫の力は、だれも阻むことができません。イエス様は、どのような困難な中でも環境に屈しませんでした。ゴルゴタ山上の孤独な場でも、十字架を背負いました。イエス様は、そこに神様のみ旨があることを知っておられ、四千年間、待ち続けられた父の愛の心情をよく知っておられたのです。 それゆえ、父のみ旨が変わらない以上、父の愛を受けることのできる息子としての誇りは永遠なのです。神様はイエス・キリストを独り子として、神様の変わらない愛の化身体として、全被造万物の前に誇られました。サタン世界の前に誇られたのです。 歴史上、自分を生んでくれた父母に孝誠を尽くした人は多くいます。サタンの懐の中にいる孝子・孝女は多いというのです。しかし、神様がイエス・キリストを誇ることができる基準、イエス様のように神様の愛を受けることができる者になろうとすれば、歴史上のすべてのサタン圏内の孝子・孝女たちを合わせた以上の価値と実績がなければなりません。 そうしてこそ、神様が、「これは私の愛する息子である」と言うことができ、天上天下において、天倫を代身した唯一の孝子となることができるのです。 このような基準をもって、イエス様が多くの群衆を眺めるとき、あまりにも呆然としたのです。そのようなイエス様の心情であったために、自分の価値と彼らの価値との間には、天地の違いがあることを感じたのです。そのためにイエス様は、天の前に自ら堂々と彼らのために祈祷できたのです。 また、神様と愛によって結ばれた父子の関係から出てくる力によって、サタンまで滅ぼすことができたのです。なぜならば、サタン圏内の多くの人々がサタンに同調するのと、イエス・キリストが神様に仕えて愛する基準とは、比較にならないからです。イエス・キリストが、神様の愛をもって現れたので、怨讐の前にあって堅固な盾となったのです。それで、イエス様を中心として集うすべての所で、サタンを屈伏させることができたのです。 イエス様は、四千年間先祖たちが勝利したものと負けたものすべてを合わせて、自分の基盤にすることができる一つの基準を勝ち取ったので、神様が誇ることができたのでした。 今日、私たちが考えてみなければならないことは何でしょうか。今まで人類は、六千年間サタンと闘争してきましたが、なぜイエス・キリストが、四千年間多くの預言者たちが勝利した価値以上の勝利の実績を収めることができたのかということを、考えてみなければなりません。また、私たちの先祖が、どのようにサタンに対して勝利することができたのかということを、考えてみなければならず、皆さん自身が彼らの立場にも立って、考えてみなければなりません。 天が今、この地上の聖徒たちに願うことは何でしょうか。イエス・キリストだけがサタンを屈伏させるのではなく、今日、終末のすべての聖徒たちがサタンを屈伏させて、イエス・キリストの愛を通じて神様の愛を感じることです。 イエス・キリストは、三十余年の生涯で勝利の生活をしました。イエス様は、勝利できないことを言うのは避けたのです。イエス様が負けたり、サタンが接近してくるような言葉は避けたのです。他人から見れば、村の一人の青年であったのですが、いったん全体に責任を持てば、彼の言葉や行動や願いは、全体を勝利の基台の上に上げることのできる言葉と行動と願いでした。 今日、皆さんは、イエス様がこのように苦労されて、整えられた勝利の基盤の上に立っています。皆さんは、イエス様からこのような恩恵を受けているのです。今は皆さんが、イエス・キリストがこの地上で勝利して成し遂げられた勝利の基盤の上に立って、どのようにすれば、より高く上がって行けるかということが問題です。皆さんは、天が皆さんのためにこの地上に降りてこられたことを知って、天に上がって行く時まで勝利の汗を流さなければなりません。 私たちは、私たちの心に神様の愛を満たさなければなりません。イエス様と聖霊の愛を感じて、天の愛を体験しなければならないのです。 イエス様は個人的に勝利されましたが、十字架で亡くなられたがゆえに、霊的にだけ勝利の基台を立てられました。それで、二千年の歴史を終結しなければならない私たちは、イエス様の霊的な基台の上に立って、イエス様の体に代わって勝利の基台を築かなければならないのです。 霊的な救いを完成してくれる新約聖書の次元を超えて、天が実体的な救いを完成させてくれる新しいみ言をこの地に宣布するようになる時、サタンがこれに反対してきます。しかし私たちには、このことにまで責任を持って戦って勝つべき責任があるのです。 イエス・キリストは、どのような条件によって、神様の愛を受けることができたのでしょうか。イエス様は、「責任を持つ王者」となったので、神様の愛を受けることができたのでした。イエス・キリストは、生まれた時からヨセフの家で大工の仕事をしましたが、責任を完遂するために努力したのです。 ヨセフの家で大工の仕事を手伝いながら、父母が抱えている生計を助けてあげる生活をしましたが、イエス様にとっては、それだけが生活のすべてではありませんでした。また大志を抱くと同時に、小さいことにまでも責任を果たされたイエス様でした。このようなイエス様であられたことを皆さんは忘れてはいけません。 イエス様は全体のみ旨に責任を持たれた王者 イエス様の生活はすべて、自分の責任と使命を完遂する生活でした。彼は、永遠に残る責任を地上に完遂してのけたのです。イエス様の三十余年の生涯は、責任を果たしたという永遠不変の実績をこの地上に成したという生涯でした。それゆえ、イエス・キリストのみ言、キリストの信仰の福音が残っている以上、彼の生涯も残っていくことでしょう。 イエス様は、自分一代においては言うまでもなく、歴史的な面からも責任を持たれたのです。そして、神様が四千年間、役事してこられたみ旨に対しても、たった一人責任を持たれたのです。イエス・キリスト以外に神様の責任を代わって背負える人は、この地上には一人もいなかったのです。イエス様は、独り孤独な身で責任を果たされたということを皆さんは知らなければなりません。 イエス様は、自分一人ですべてのみ旨に責任を持つことに対して寂しかった反面、より大きな責任を感じたのです。ですから、イエス様の一日一日の生活は、全体的な責任を完遂するための基盤をつくる生活でした。 そして、三十年準備時代と三年実践時代、三日間の完成時代まで、イエス様の目には、サタンを屈伏させることと、その基盤の上に神様のみ旨を成就することしか見えませんでした。この責任を痛切に感じて生きた生涯でした。イエス様は、一瞬もこの責任を忘れることはなかったのです。 また、十字架を背負ってゴルゴタの山頂に向かって行く時にも、万民が誹謗し、サタンが嘲弄するそのような最後の瞬間にも、イエス様が担ったところの天倫の責任を、一人でやり遂げようとする心は変わりませんでした。 イエス様が、責任完遂の理念を持って、十字架の峠を越えたために、復活の役事を起こすことができたのです。そして、地上に残っている弟子たちを再び収拾しなければならない責任があったために、イエス様は天国に行かれた後、再び降りて来られました。神様の力によって、復活の役事を起こすことができたのです。 イエス様は、亡くなられた後も、散らばった弟子たちを心配されていました。墓中三日間も、この弟子たちを永遠に守るという心を持っておられたので、復活の後にガリラヤの海辺で弟子たちを捜し回られたのです。 今日、私たちが人間的に考えてみれば、責任感がなかった彼らに対して、イエス様がどうしてそのようにできたのだろうかと考えやすいのです。難しい立場の時、背を向けた弟子たちでしたが、イエス様は復活後に、まずガリラヤを訪ねられて、自分の責任を完遂し始めました。このように死の峠を越える時、変わらない弟子たちとして立たせてくださったイエス・キリストの人格こそ、今日の私たちが見習わなければならない人格なのです。 それだけではありません。その当時の弟子たちとそれ以後の数多くの聖徒たち、二千年が経過した今日の私たちにまでも責任を持たれたということを知らなければなりません。救いの歴史は全体の歴史でした。天のみ旨はすべてを救援することなので、イエス様は全人類にまで責任を持たれているのです。 ではイエス様は、どのような責任を持っておられるのでしょうか。イエス様は、この世的なことに対する責任を持たれたのではなく、裕福に暮らすということに対して責任を持たれたのでもありません。私たちの生命に責任を持っておられるのです。皆さん、この世に難しいことは多くありますが、これ以上に難しいことはないのです。生死の問題に責任持ったために……。 今日、信仰者たちは、まかり間違えば、生死が左右されるような岐路に立っています。はらはらさせる刃のような線上に立っている人たちを、全部右側に引っ張る責任をイエス様は持っておられるのです。このように、イエス・キリストは昔、三十余年の生涯を過ごした時もそうであり、死の道に向かわれた時もそうであり、いついかなる時も同じ心でした。人間が、このような責任と使命を感じることができなくても、イエス・キリストはこの責任と使命、この一つのみ旨を成すために、今も役事しておられるのです。 全体の責任を完遂すべき私たち では、今日私たちが信じているイエス様に侍ろうとすれば、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。いつもイエス様に責任を負わせるような者となってはいけません。 イエス様は、四千年の歴史に責任を持たれ、当時の人類に責任を持たれ、亡くなられた後、二千年間人類に責任を持ってこられたので、私たち自身も責任を持つ者とならなければいけないのです。私たちは今、イエス様に責任を負わせる生活をしてはなりません。 そして、私たちは自ら、「アバ父よ、二千年間責任を持ってこられたイエス・キリストの困難が分かります」と言いながら、今日も私たちのために、世界のために責任を持っておられるイエス様に対して、無念に思わなければなりません。 このことは、だれのためだったのでしょうか。取るに足りない私たちのためです。ですから、私たちはこのことを考えて、イエス様のみ前に頭を下げる人とならなければなりません。「主よ!」と叫びながらも、骨が溶けていくような心情、肉が溶けていくような心情を感じてみなければなりません。 神様はやっと、四千年のみ旨に責任を持とうとするイエス・キリストを掴んで、「おまえ一人だけが、私が成すべき責任を背負っている」とおっしゃることができたのです。それで、すべてのことを信じ、すべてのことを任せることができました。すべての責任の包みを背負わせることのできる立場で、神様はイエス様に対することができたのです。 それと同様に、神様のみ前に立てられたイエス様と同じく、私たちも全体の責任を果たそうとしなければなりません。責任を果たす、そのことが難しいとしても、「困難なそのことを私に背負わせてください」と言える心情で、神様とイエス様の前に、「願われるその心情を私を通して現してください」、「私を通して見せてください」と言えなければなりません。 このような人々が、終わりの日に残ることのできる群れなのです。このような群れが出てこなければ、神様の独り子イエス・キリストが、二千年間人類のために責任を持ってこられたその目的を、どこで成し遂げるのでしょうか。神様の独り子として、命を懸けて責任を持って路程を歩まれたイエス様が、責任を持てる人を捜せないとすれば……。 ですから私たちは、「イエス・キリストが十字架上で、歴史に対する責任と、現実に対する責任と、未来に対する責任を持とうと神様の前に宣誓された、その責任を私たちに持たせてください」と祈るべき時が来たのです。 私たちは、きょうまで生きながら、天のみ前に責任を転嫁する時がたくさんありました。しかし今は、「四千年間、切なく思われた神様の心情を代身して、地上で王として、歴史的なすべての責任を果たしてこられたイエス・キリストを代身して、その責任を負って戦います。怨讐サタンと数千万の人間たちが歓迎しなかったとしても、私が代わって責任を持って戦います」と祈祷しようとする人々が出てこなければならないのです。このような人々が出てきてこそ、イエス様が安息の圏で休まれることができるのです。 今日、終わりの日を迎えたこの時に聞こえてくるのは、「私の生命の叫びを聞く者はだれか? 神様の生命を引き継いだイエス・キリストの生命の訴えを聞き入れる者はだれか」という声です。天はこのような人を捜しておられるのです。 今までイエス様は、万民のために神様の右側で祈ってこられました。ところが、イエス様が休まず、今まで祈っておられたのは、イエス様に何か過ちがあったからではないのです。またイエス様が、父のみ前に出られない立場に立っておられたからでもないのです。そのすべては、私たちのためです。それゆえ、二千年間苦労してこられたイエス様のために、皆さんは生命を断ってでも、生命の責任を完遂しようとしなければなりません。 イエス様が十字架上で亡くなることによって、生命の責任がこの地上に残っているのです。この残された生命の責任を完遂すべき時が再臨時代です。この生命の責任を完遂できる人が現れることによって、再臨時代は始まるのです。イエス様は歴史的な生命の責任と、未来的な生命の責任を成し遂げる人であられるために、皆さんは、最後の戦いで彼とともに戦わなければならないのです。 再臨時代の始まり 神様は、愛するイエス様を立てられて、信仰のイエス様を通して、あるいは真理のイエス様を通して人間を愛することを願っておられます。皆さんを愛することを願っておられるのです。 今日私たちは、信仰のイエス様を手本としなさいというとき、心だけでも、「はい、そうします」と言えなければなりません。勝利されたイエス様を手本にするようにというとき、「そうします」。責任を持っておられるイエス様を手本としなさいと言われたとき、「はい、そうします」と言えなければなりません。皆さんが、このような人となれなければ、今までいついかなる時にも休むことのできなかったイエス・キリストは、どうして休まれることができるでしょうか。 ですから、神様が誇りとして立てられたこのような条件を、皆さんが代わって担当しなければなりません。そして、霊界に行かれたイエス様の誇りとなった条件を、この地上で成し遂げる皆さんとならなければなりません。神様が誇ることのできる皆さんとならなければならないのです。 まず、信じることのできないこの世で、信じることを誇らなければなりません。そして、サタンとの闘いで勝利したことを誇らなければならないのです。責任を持てないこのような世の中で、責任を持つことを誇らなければなりません。 このことによって、神様の誇りが霊界のイエス・キリストを通して地上の私たちに及び、地上の私たちを通して、万物にもその誇りが及ばなければなりません。そのようにしてこそ、神様の創造理念である、人間を万物の主人公として立て、万物の前に誇ろうとされたみ旨が成就するのです。そうして初めて、人間と万物が誇られる神様に、感謝の敬拝をささげることができるのです。このような全体的な責任が、私たちにはあるのです。 今日、私たちはあまりにも取るに足りません。私たちが持っている信仰も取るに足りません。ですから、私たちはこれからサタンと闘わなければならないとき、「アバ父よ、この世界のすべての人間がサタンと闘って勝てるように力を与えてください。全人類が責任を全うできるようにしてください」と祈らなければなりません。そして、全体の敵に向かって一人で戦い勝利して、「お父様、お喜びください」と言うことができなければなりません。 世界のすべての責任を負って行く姿を神様にお見せし、億千万人、あるいは無数の聖徒たちと被造世界の前に責任を負って行く中心、すなわち誇ることのできる人を通して、地に対する神様の怨恨を解放することができ、そのような人を通じて神様のみ旨を広げることができるというのです。これを皆さんははっきり知らなければなりません。祈祷しましょう。 祈祷 お父様! こちらを見ても私の責任であり、あちらを見ても私の責任であり、この世の悪しきものを見る時、涙が止まらなかったのがイエス・キリストの生涯であったことを知っております。 今日、私たちは悪しきものを見ても感覚がなく、不義であり、足らなくて天倫のみ旨に対する苦痛なる心情を抱いて、責任を感じることができないでいます。 怨讐を打ち破ろうとする心と、恨みに徹する切なさがなかった私、また戦いの実績を持てなかった私、全能の神様を信じることのできない私だったのです。天に対するイエス・キリストの忠誠を知らなかったのです。 お父様、この夕べにわずかな者を前にして勧告しました。イエス・キリストを立てて誇ろうとされたあなたのみ旨が、使徒たちを通じて、歴史を経て今日の私たちに結ばれ、そのみ旨が私たちに結実されることを願っておられることを知りました。生命を頂いたという歓喜に加えて、幾千万の聖徒たちが歓迎することのできる中心的な責任が、今日の私たちに任されていることを知りました。 今私たちを、天地と万物、イエス・キリストの怨恨を解くための供え物となるように許してくださり、誠心誠意を尽くす孝心ある子女たちとなるようにしてくださることを、お父様、切にお願い申し上げます。 十字架の道を通じて新郎・新婦の理念を立ててくださいましたが、今私たちがキリストの愛をどの程度まで実践でき、キリストの愛を中心とした責任をどの程度まで果たし、キリストの愛を通じた信仰の価値をどの程度まで求めることができるかということが、問題であることを知っています。 お父様がこの時間、勧告してくださいましたので、今日の我一身と私たちに、天の解怨のための責任が任せられており、天の怨恨を解いてさしあげるための闘いが、私たちによって終結されなければならない事情があるということを分かるようにしてください。このようなことを知りましたので、だれよりも実践しようという心、お父様に感謝できる心だけを持つようにしてください。 十字架を背負っても感謝できるようにしてくださり、億千万のサタンと闘ったとしても、お父様のみ前に卑屈な者とならないようにしてください。 十字架を背負い、困難な立場に立ったとしても、「お父様! 私がおりますので心配なさらないでください」と言うことのできる子女となれるように導いてください。困難な立場に置かれている子女たちを見て悲しまれるお父様を、慰めてさしあげられる子女となれるようにしてくださることを切にお願い申し上げます。 み言が、この者たちの生命と道になれるよう役事してくださり、この者たちの生活の中心に訴え、生きていく上での中心と標準を探すことができるようにしてくださり、不変の信仰と生命の中心を持って、お父様のみ前に進みいくことができるように導いてください。そのようになることができるように、み言の創造の役事をしてくださることを切にお願いいたします。 すべてのみ言を主のみ名によってお祈り申し上げました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.25
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[旧統一教会]拉致監禁の実体験、どうして両親が私を・・・・?パート②後篇Luke Higuchiチャンネル登録者数 1.182022/12/18右向け右】第446回 - 福田ますみ・ノンフィクションライター × 花田紀凱(プレビュー版)https://youtu.be/p8ieEw4UtXg⬇︎チャンネル登録のまだの方は登録してな。https://www.youtube.com/channel/UCBly...⬇︎Twitterはこちらでフォローして下さい。https://twitter.com/lukehiguchi一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.19
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第13回天の父母様聖会 孝情ヌリ2022年 12月18日 孝情文和苑 & PeacelinkTV一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.18
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第13回 天の父母様聖会 孝情ヌリ2022年12月18日日曜日午前9時20分ヒョジョン文化院文化ホール&ピースリンクテレビ一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.18
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2022.12.17
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今日の信教の自由カンファレンスでの渡辺芳雄副会長の講演が素晴らしくて、文字起こししました。国際勝共連合 渡辺芳雄副会長による事例報告 THINKTANK2022新統一世界のための希望前進大会(文字起こし)2022年12月17日|MakeHeaven研究所 @MakeHeavenLab #note https://t.co/aJ9lbcYJ0p— MakeHeaven研究所 (@MakeHeavenLab) December 17, 2022一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.17
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文鮮明先生御言選集 19630515 - 行かなければならない私 | 統一教会が越えなければならないゴルゴダ 神は歴史的をどんな人間に造られたのでしょうか? この被造世界の僕として造られたのではないのです。この天宙を手に取って、万物世界のまえに号令して、彼らを料理することのできる人間として造られたのです。それで神はこれまで、人類をゴルゴダへと押しやられてきたのです。人類歴史を造ってこられるに、個人的なゴルゴダはアブラハムが責任を負い、家庭的なゴルゴダはヤコブが責任を負い、民族的なゴルゴダはイスラエル民族が責任を負わねばなりませんでした。世界的なゴルゴダはこれまで、キリスト教徒たちが責任を負ってきたのです。これからな天宙的なゴルゴダを越えなければなりませんが、これをキリスト教歴史を根本として、新しい時代を開かなければならない我々統一教会が越えねばなりません。そうですか、そうではありませんか? 先生はいつも考えるのです。私が統一教会の先生の立場に立っていますが、私は先生の立場にあることを好んでいる人間ではありません。先生の立場にいますから、全てのことに神経を使わないといけません。一時でも神経を使わないわけにはいかないのです。 これから世界的なゴルゴダを越える時に起こる闘いにおいても、元来は我々統一教会員が責任を負わねばならないのですが、私はこの作戦に統一教会員を先頭に立てようとはしません。 これからは霊界を代身して動く人間を、先頭に立てるのです。いままでは皆さんを先頭に立てました。それで多くの犠牲者が出ました。しかし何百人が犠牲になることが問題ではありません。でも全ての人々を率いて行かなければなりません。 今まで時代的な使命を背負ってきた人々、統一教会を証ししてきた人々は全部、統一教会を証してから落ちてしまいました。10人のうち9人は落ちてしまいました。これは何を意味しているのでしょう? 彼らは先頭に立って、霊界を開拓する使命をなしたのですが、その人たちは祭物になったのですよ。ご覧なさい。今まで数多くの人々が証ししたのですが、みな落ちてしまいました。そんな度ごとに、先生は良かったと考えたのです。その人たちの包みは全て奪い取ったのです。 神は彼らの苦労した功績以上の基準で対されたのです。神は責任を果たされました。彼らは神のまえに責任を取らねばなりません。そんな時、責任を取っていなかったらへし折られてしまうのです。 今まで先生は恩恵を受けた人たちを、多く審判しました。なぜ? 霊界に通じる人たちは僕だからです。僕! そうでしょう? 今までは僕たちが子女を利用してきましたが、今は子女たちが僕を利用しなければなりません。これが蕩減復帰路程です。このような道理が通りますので利用するのですが、彼らが責任を取らなければ切ってしまうのです。 皆さんは良く知らないでしょうが、証しをすれば良き相対となるのです。ところが責任を果たさないで落ちてしまったのです。落ちていってしまったのですよ。とすれば彼が積んだ功績は我々のものになるでしょう。このようにして我々はこれまでの道を築いてきたのです。今は時が来ましたので、先生がこのような話をするのです。ですから皆さんは今強い信念を持たねばなりません。分かりますか? 今だいたい流れが分かったのです。どのようになっているか、分かったでしょう? 皆さんにこのようなことを認識させて今日の話をしますので、良く聞いて下さい。分かりますか? 今皆さん各自が全天地のまえに独りアボジの召命を受けて、世界的な責任を背負って行けという命令を受けなければなりません。このようにして歴史を収拾して、勝利の基盤を立てて、サタンを屈伏させなくてはなりません。サタンを屈伏させる時は世界的なゴルゴダ山頂において、屈伏させなくてはなりません。そんな後で、天宙的な主管者にならなければなりません。 こんな責任を負って来られる方が主様ですから、皆さんが主様の子女となるには、その主様の行かれた道に従って行かねばなりません。復帰歴史をなされるにおいて、数多くの人々を苦痛の道に追いやられた原因がここにあるのです。 苦痛の道には家庭的なゴルゴダがあり、氏族的なゴルゴダがあり、民族的なゴルゴダがあるのです。3年間にかけてこの路程を行きますが、まず初めに個人的な迫害を受け、その次には家庭的な迫害を受け、氏族的な迫害、民族的な迫害を受けるのです。今、世界的な迫害時代が来て、いっぺんに入って来るのです。今年はいっぺんに入って来る世界的ゴルゴダを越える年です。分かりますか? 我々が立てなければならない信仰の基準 皆さん! 人間は堕落した? 堕落したという事実が分かりますか? 堕落は何でしょうか? 堕落とは、僕を失ったことです。これが分からなければなりません。天使長は僕でしょう? 答えてみなさい? なぜこのように問うのかというと、皆さんが眠そうだからです。眠てはいけません。眠たらこんな話を聞けないでしょう。 堕落はどうなったのでしょうか? 僕を失ったのでした。僕の中の僕、忠僕を失ったということです。そして子女を失いました。子女の中でも最も孝子、孝女を失ったのです。ここで万物までも失ったのです。これらは神が失ったものです。その次に、人間は何を失ったかといえば、神を失い、真の父母を失い、万物まで失ったのです。そうでしょう? ですから復帰するには、これらを全て復帰しなければなりません。 近頃、信仰者たちはイエスを信じて天国に往こうとしています。天国往きがこのように簡単ならば、私も統一教会の先生はやっていません。このように簡単なら、どんなに良いでしょうか?「あ! 神様、信じました。主様も信じました」という心だけで救われるなら、どんなに良いかというのです。 信仰の内容が何であるかということが、問題なのです。この信仰の内容は、被造世界を捜し求めるためであり、天宙を求めるためでなければならないのです。また真なる人間を捜し求めるための信仰であり、真の家庭を成すための信仰であり、真の国家を立てるための信仰でなければならないのです。そして真の天国を求めるための信仰でなければならないのです。信仰の内容が漠然としていてはいけません。イエスを信じれば天国に行けるのですか? イエスを信じたという時、その信仰の標的は何ですか? 信仰の内容が何であるかということが重要だというのです。分かりますか? 「この天地はわがものだ。全世界人類はわがものだ。霊界にいる天使長たちもわがものだ。天におられる神様もわがものだ。イエスもわがものだ」とするのでなければなりません。信じれば世の中の大王や、サタンよりも大きな腹をもって信じなければなりません。これが信じて天国に往くことですか? 往ってみなさい。往けるなら。このように信じて天国に往けますか? 信じる時においては、誰よりも欲心をもって信じなければなりません。誰よりもより大きく信じなければなりません。サタンよりも強い心で信じなければなりません。このようにしてサタンも、わがものとしなければならないのです。自分が夜でも連れてきて使いたければ使い、掴まえたければ掴まえてくる、そんなわがものとしなければならぬのです。信ずるならこれくらいの腹をもって信じろというのです。今どのように信じるかということが分かったでしょう? そこのお爺さん、なぜ笑うの? 信仰の内容がこうだというのです。信じるということ、信じて救援を受けるということは、このような内容を標榜して言うことなのです。 天国往きがそのように簡単ならば、今日統一教会文先生が、このように苦労しません。私が至らなくて今、このことをしているのでしょうか? よくよく知らねばなりません。今、信仰の内容が分かったでしょう? 信仰の標準とは、すでに先生が話したことです。 堕落することによって人間は、万物と天下を失ったのです。霊界も肉界も、全部失ったのです。その次には神の僕、神の息子娘、また神の立てられた真の父母を失ったのです。 ですからサタンまでもわがものとすることができる境地、神までもわがもの、世の全てのものがわがもの、という境地に入らなければなりません。神もわがもの、神の愛も勿論わがもの、としなければならぬという話です。 神は人間を、天下の大王者とするために信仰という名詞を立てられました。ところで今日、この信仰という名詞はどれほど天の徳になっているでしょうか? 罪を負っても「信じなさいというので信じましたから、私の罪を許して下さり、天国に送って下さい」というのです。このようにして天国に送られたなら、どんなに良いでしょうか? しかし信仰の標準はどえらいことなのです。分かりますか? これが分からなければなりません。 正しい信仰観を持たねばならぬ時 イエスが主張した信仰観には、天下が入ってくるのです。神までも入ってくるのです。こんな信仰の中においてのみ、聖殿のみ旨が成るのです。神様までも入らなければならないというイエスの信仰理念が完結すればイエスのみ旨が成り、イエスのみ旨が成れば、神のみ旨がなるので、結局神がイエスの体中に入らなければならぬのです。体が神の聖殿でありますから、この聖殿のみ旨が完成する日、神のみ旨が成るのです。それで我々の体が天下を代表する基準に立つ時、聖殿のみ旨が完結するのです。そうじゃありませんか? それで信仰生活をすることが、どれほど素晴らしいことでしょうか? 先生は今日まで、このような見地で信仰観を広げてきたのです。本来、出発もこのようであったのです。イエスを信じるにおいても、このような信仰観を持って信じなければならないのです。いいかげんに信じてはダメです。 そんなにやすやすと信じて天国に往けるなら、どうして世の中がこのようになってしまったのでしょう? そんなにたやすく天国には往けないのです。我々が言うところの信仰圏内で、信仰の勝利者といえば宇宙史的であり、天宙史的な存在であるのです。 メシヤ、イエスもこのような信仰観を基盤にして、勝利的な個体になれなかったので、あの世(霊界)に往っても祈祷しているのです。イエスがなぜに祈祷しているのですか? 所願を成就できなかったので、祈祷しているのです。所願を成就したら、なぜ祈祷をするでしょうか? 聖霊が今まで産みの苦しみをしていることも、みなこの理由によるものです。皆さんが祈祷し、伝道することも、みなこのためなのです。分かりますか? 堕落しましたので、我々人間は天と地を失い、我々のお使いとして使う天使を失ったのです。これは誰の失敗ですか? みな人間の失敗によってこのようになったのです。ですから今、我々が再び全て捜し求めねばなりません。天下を求めねばならず、天使すなわち僕を求め、子女を求めねばなりません。そして真の父母を捜し求め、神もわがものとしなければなりません。ぶっ倒れても求めて行くのが、今日の信仰の道なのです。 すでに先生が話したことも、こんな宇宙的な使命を言っているのです。この暗黒の世界を独り責任を持つという信仰観と、このサタン世界、この暗黒世界の中においても、わが信仰は絶対に壊れないという信仰観を持たなければなりません。 棒にならなければなりません。棒になって、世界を叩けば世界が壊れることがあっても自分は壊れぬという基準があってこそ、この闘いが解決されるのです。歴史路程は闘いの路程でした。闘いによって全てのことを解決づけてきた歴史だったのです。それで歴史的な終末時代にも、必ず闘いが起こるのですが、この闘いは信仰的な闘いなのです。 宇宙史的な、天宙史的な信仰を持ってぶち当たれば、世界はみな壊れ倒れるのです。こんな信仰理念を持った人間を中心とする時、この世界はこの人間によって一つの世界になるのであり、この世の中は新しい天地となるのです。 今まで皆さんはどれほど多くのものを失って生きてきたでしょうか? このようなことを考えれば、皆さんが何千万ウオンをいっぺんに失っても、これを捜し求めることが問題にはなりません。これを捜すことが問題になりますか? 「私はこんな人間にならなければならない。これが人生の目的だから、ここにわが命一つが問題になろうか?」イエス様もこのような信仰圏内で生きてゆかれたのです。世の中には下らない奴が多いのです。しかし先生はこんな人々を助けはしません。彼らが責任を果たさなければ、彼らは滅んで、私は滅びないのです。 メシヤが来てやるべきこと 過去に「統一教会の文先生はこうでああで・・・」という話がとても多かったのです。しかし先生は「私は滅んでも、祝福を受けた教員何名かは滅んだとしても、尊い神のみ旨だけは滅びることがない」という基準で闘ってきたのです。このようなことを考えてみなかった先祖たちは、みな滅んで落ちていったのです。「私はこういう事情なので、私はある大学に行くので、私はこうで、ああで・・・」という人々はこんな内容を知らないのです。こんな連中は滅びなければなりません。滅びるか滅びないか見てていなさい。彼らが滅びなかったなら、私が滅ぼすのです。そんな時が来るのです。 皆さんは堕落した後孫でしょう? 堕落した後孫ですか、違いますか? 堕落した後孫でしょう? 恨めしく思わないで下さい。堕落した後孫なのです。堕落は何を失ったのですか? 天地を失い、僕を失い、真の息子娘を失い、真の父母を失い、神を失ったのでした。堕落によって失ったのです。 皆さんはこれまで何を、どれほど失いましたか? 言うこともできないほど、大きなものを失ったのです。もしもこの失ったものが得られるなら、何かできないことがあるでしょうか? 自分の息子より大きなものを得られるなら、息子も犠牲にするでしょう。自分の肉体よりも大きなものを得られるなら、自分の肉体をそのために捨てなければならないのです。これが無限なる価値を知った者の、持たねばならない信仰なのです。それでこの失ったものを捜し求める歴史が、復帰歴史ですよ、復帰歴史。言い換えれば、失ったものを再び求めて、失う前の姿に立てる路程が、復活の歴史なのです。今日までのこの地上の歴史は、失ったものを求めるための復帰歴史なのです。堕落したこの地を復帰するための全体的な責任を背負って来られるお方が、メシヤなのです。 それではこのメシヤは、この地上に来る時、どんな使命を背負って来るのか? 失った天と地を求め、失った万物を求め、失った僕を求め、失った神を求めるのです。この全てのことを捜し求めていって、これを人間の先祖から後孫にそのまま相続させるために来るお方が、メシヤなのです。そうでしょう? ところでイエス様は2千年前にこの地上に来られたが、追われるメシヤになってしまいました。人類の父母としての使命を成さねばならなかったのにです。使命を成す時には、どのように成さねばなりませんか? 復帰の路程を経て行かなければなりません。復帰路程を行く時においては、必ず再創造の歴史を経なければなりません。神が天地を創造される時、天使をまず造り、万物を造り、その次に人間を造られました。そうでしょう? それで復帰歴史は、この路程を反対に行かなければなりません。逆に遡って行かねばならないのです。 ですからイエスがこの地上で歴史の全体に責任を負うためには、ご自身の一個体が歴史的な実体、天宙史的な復帰の実体ですから、このご自身の実体を中心に、歴史的な因縁と内容を全部完結させなければならないのです。過去の因縁を経て、現実的な因縁を経ていって、未来的な因縁まで立てなければならないのです。こんな使命がありますので、イエスはこの地上に来て人生をかけ、与えられた使命を果たすために、僕の立場から経て来られたのです。こうして僕を求め、万物を求め、同時に世界を求め、子女を求めなければならなかったのです。その次には真の父母の立場で、神と一つになって、初めて神の所願である創造目的を完成するのです。 神と真の父母の三位的な基盤の上に、心情的に一体を成さなかったことが、その昔アダムとエバが、サタンと愛の因縁を結んで侵犯されることになったのです。これが億千万年が過ぎても、処置することができないことなのです。神も愛する子女が、このような愛によって一度結ばれてしまったならば、どうしようもないのです。皆さん、堕落した世の中でも、自分の息子がこのような愛の因縁を結んだなら、この関係を父母がどんなに切ろうにも切れないのです。神様もやはり同じだというのです。メシヤたるイエス様が飼葉桶に生まれて・・・ 神とイエスと聖霊が本然の三位基台を中心として一つになり、一つの基盤を完結しなければならなかったのに、堕落によって全部壊されてしまったので、逆に上がって来なければならないのです。分かりますか? 逆に上がる時には、平安な立場で行くことはできません。極めて高く尊い立場で、土くれに落ちなければダメなのです。最初に神が造られた土くれに、再び落ちるのです。また僕に落ちるのです。メシヤが来ても、こんな位置に来られるのです。高くにおられる神の心情的な因縁を経て、低い地上に来る時は、高い立場で来れば低い立場にいる人間と因縁を結ぶことができないのです。それで低い立場に来るのです。低い立場の中でも、最も低い立場にと、来るのです。 イエスが飼葉桶に生まれたでしょう? そうでしょう? 私が以前に汽車に乗ったのですが、ある婦人が赤子を産んだのです。この時に人々はお金を集めてあげました。なぜそうするのですか? イエスがこのように生まれたからです。私はこのように思います。バスの中でも道端でも赤子を産んだなら、みな同情するのは人間の心理です。このような風習はなぜ生まれたのでしょう? イエスがこのように生まれたからです。私はそのように思っているのです。ですから道を歩いていて、もしも赤子を産むお母さんがいたら、洋服でも脱いであげようという思いがするのです。その赤子にあげたいのです。我々統一教会食口の皆さん、先生が通る時、その時間に合わせて道端で赤子を産んでみなさい。 イエスはどのようなお方かといえば、神の皇太子です。素晴らしい言葉でしょう。イエスはどんなお方です? 天地を創造された神の皇太子だという話です。それでは神はどんなお方ですか? 天地全ての万物の大主体、すなわち主人です。天地を造られた方であり永遠無窮なる王の中の王としておられるお方です。ですからどれほど大きいでしょう? 皆さんが形容できないほどに高く大きいのです。イエスはこのように大きなお方の息子として生まれた、このように言えば実感がわくでしょう? メシヤ、救い主といえば実感がわきませんが、神の皇太子と言えば実感がわくのですよ。神の独り子。一人しかいない独り息子として生まれた方が、イエス様なのです。ところがそんなイエスを、人間どもが捕らえて殺したので、神はどんなに胸が痛むでしょうか? 神の皇太子、神の独り息子イエスが天の宝座をおいて地上に生まれた時、どのように生まれたのですか? 口にも言えない惨めな場所に生まれたのです。馬小屋の飼葉桶がメシヤの寝る場所ですか? 皆さんが生まれる時はおむつや、沐浴する所を準備するのに大騒ぎだったのです。イエス様は皆さんより、はるかに惨めに生まれたのです。部屋が何でしたか? 飼葉桶に寝かされたのです。そうじゃありませんか? 我々統一教会の祝福家庭、私は言いませんが、我々祝福家庭の中に、こんな家庭が一つは出なければと考えているのです。あの山のてっぺんに赤子を産んでおいて降りてみるのです。禿鷲がその周囲をぐるぐる回っても、神が守って下さるのです。先生はこんな考えをする時があるのです。素晴らしいことでしょう。 飼葉桶の中のイエスを、誰が守ったのですか? 誰が守ったでしょう? 神の息子ですから神が守り、天使が守ったのです。また神に従う牧者たちが、その場を守ったのです。イエスは生まれはこのように生まれましたが、持ったその内容は、正に全てを持って生まれたのです。 霊界で祈祷するイエスの痛わしい事情 それではイエスは、なぜこのように生まれたのでしょう? 最もどん底に落ちた世界を救うのですから、最も下から出発しなければならないのです。神が最もてっぺんなら、イエス様は最も底であったのです。そうしてこそこの世界を救うことができるのです。この世界、すなわち理念世界という丸い世界です。円の世界です。ですから回らなければなりません。このように回る世界を造ったので、神はイエスを立て、役事されるのです。 回らない世界、滅んでしまう世界、堕落したこの世界を回わすので、神は最もてっぺんで、イエスはどん底から、役事しなければならなかったのです。このようにして回りまわって神が地上に降りて来られ、イエスが神の場に上れば成るのです。分かりますか? ところで、イエスはどこにおられる? 神の場に上らないで、楽園に留まっているのです。楽園で祈祷されているのです。「神様、この天地にいる人間を救援して下さいませ」と祈祷されているのです。 回る世の中ですから、神は右側から下り、イエスは左側から上がるのです。ですから、イエス様の路程は全てが逆路なのです。天上的な路程ではありません。反対の路程であり世の中と反対に行くのです。世の中がよければイエス様は悲しむのです。このようにして回ってゆくのです。 こうして今、どこまで来たのか? 天国の門の内ではなく、楽園に立っているのです。神の法座の右に往ったのでしょうか? これは神の髷に昇ったという話ではありません。神を代身したという話です。統一教会を異端というなら、天国に往くという牧師、長老、博士たち、見ててみなさい。世に中で信頼を受けている者たちは、最後になれば敗者になるのです。皆さん、堂々とみ旨を成してゆくという信念を持って「反対するならせよ」としなければなりません。イエス様は今、心では神を望み、体では地上を望み見る立場なのです。ですから、哀れなイエス様なのです。 心と体が一つになり、一つの方向に動くべきなのに、天上的人間の道なのにイエスは、霊界に往かれたイエス様は、心では神を仰ぎ見、体では地上を望み見る哀れなイエス様なのです。初めて来た人たちは、こんな話は分からないでしょう。哀れなイエス様を説明するには、何日やっても足りないのです。 この地上の最も惨めな場所に来られましたが、万王の王として即位されるのが、イエス様の本来の使命なのです。ところがこの事を成さぬまま残して逝った後、夢でのみ望み見たのです。再臨という所望の一日を望み見て、新郎・新婦の名を求めてこられたのです。ですからイエス様の事情が、どんなに哀れでしょう! 我々統一教会員たちは、こんな内容をよく知っているでしょう? このように哀れな方を新郎として侍るという者たちが、今日のキリスト教徒なのです。欲張りな者が多くて「良いことは全て私に与えて下さり、悪いことはイエス様にお任せ下さい。私の苦痛はイエス様に全て負わせて、私を平安にさせて下さい」というのです。祈祷をしても全て福を下さい、世界で一番にして下さい、という祈祷をするのです。祈祷はこのようにするものではありません。「あなたの苦労を私めに負わせて下さい。あなたの喜ばれることがあったなら、いつでも私に分けて下さい」このように祈祷しなければなりません。これが本来の天上的な祈祷なのです。 ところで今日、既成教会で捧げている祈祷を、神様が聞かれるでしょうか? 罪あるものの後孫となって、責任を果たさないで福ばかり下さいますか? ぶち壊さなければなりません、根本的にうち壊して、木っぱみじんにしなければなりません。先生はこのようなことを考えれば、今も歯ぎしりするのです。 イエス様の新婦になるには 哀れなイエス、このように哀れなイエスを、どこの誰が真に新郎として侍ることを願うのですか? この地上に来て、神の宝座まで往こうとされたイエスの所望を抱え、この地上にために闘うという信念を持たない者は、イエスの新婦となることはできません。イエス様が残された十字架の道は未だに残って、世界的なゴルゴダの山頂が残っていますからこれを取り壊して平坦な大路とする前には、自分がそのお方にお会いできないという信念を持たなかったら、イエスとは何らの関係もないというのです。 イエスを信じて、福を受けるのですか? とんでもありません。イエスは福を与えようとはされません。そのように信じるなら世界的は滅んでしまうのです。滅びるということは、人間のためでも世界のためでもなく、神のゆえに滅びるのですから、神が興れば興るのです。 今、信仰をしても、正しい信仰をしなければなりません。イエスを信じて福を受けようという人間は、全て強盗です。 修道の道を行く人々は、全て反対の道を行くのです。キリスト教のみならず、他宗教も同じことです。ですから宗教の中心の道理を立てる教会がキリスト教だとすれば、キリスト教はなおそうでなければなりません。ところでイエスを信じて、福だけ受けられるのですか? そんな者は異端です。異端とは何ですか? 彼らが異端だという話です。と言っても皆さん、既成教会の牧師たちに対して「我々の先生が言うには、あなたたちは異端です」とはしないで下さい。心のうちで知って、口では言わないで下さい。そうすれば終わりに、神が彼らを審判する条件が成立するのです。 今日この統一教会の先生は、何をしようとこの事をやっているのですか? このような問題を解決するためなのです。世界的な、歴史的な恨がこり固まっていますので、解かなければなりません。新郎が来られる道に、トゲの藪があれば切り払わねばならず、泰山峻嶺があればこれを崩して平坦な大道にしなければなりません。このようにする使徒たちが新婦なのであって、新婦たらんとする者が、新郎の肉と血を食べてなるのでしょうか? 新郎は新婦のまえに何ですか? 烈男です。烈男! 世界的な烈男ですよ。烈女という言葉は聞いても、烈男という言葉は聞いたことがないでしょう? イエス様は新婦たる万民に対して、烈男なのです。天と地が公認し、歴史が公認し、時代が公認し、現在と未来が公認する男の中の男なのです。こんなイエスのまえに、新婦たらんという人々が、烈女という名も立てられないでなれるでしょうか? 烈女にもなれないで、イエス様の新婦になろうというのは強盗と同じです。乞食の土蔵に住んでいる女が、世界的な大統領を自分の夫にするというならどうなりますか?「お! ケネデイ大統領は私の夫だ」と言うなら他人は狂ったと言うのです。 キリスト教徒は、こんな遊び事をやっているのです。乞食のような立場で、神の王者に「お! 新郎よ、どうぞおいで下さい」とやっているのです。ボロ包みを逆さにしてイエス様に「ここに来て私と一緒に暮らすのです」とやっているのです。ですから恨多きイエス様は、未だに解怨成就がなされないのです。イエス様の解怨がなされないので、イエスを送られた神の恨が解怨されますか? できません。神も解怨されず、イエスも解怨されないので、神から造られた天地万物も解怨されないのです。 ですからこの天地の恨を、解怨しなければなりませんが、どのように解怨するのでしょうか? この堕落の恨を解怨するために来られるお方が、メシヤなのです。 解怨する時は、万物の恨を解怨しなければならず、神の真の息子娘になれない人類の恨を解怨しなければならず、その次には聖霊がこの地上で苦労の歴史をたどって嘆息していますので、聖霊の恨を解怨しなければならず、その次にはメシヤ自らの恨を解怨しなければならないのです。その次に初めて、神の恨を解怨してあげるのです。そうすればメシヤの使命が終わるのです。 神がイエス様を送った目的 イエス様もこの地上に来られる時、このような歴史的な恨を解怨するという目的を持って来られたのです。神の心情を持って、神の歴史的な所望の実体として、神の代身者として来られたのです。神がイエスを送られた時、4千年の歴史の所望の結実体として送られたので、イエス様お独りが世界的な復帰の中心であったのです。ですからイエスを中心とする人類、イエスを中心とする万物、イエスを中心とする天使たち、イエスを中心とする霊界、すなわち全てのものがイエスを中心として成る日、神は初めて人間と共におられるようになるのです。これがイエスを送られた目的でした。分かりますか? イエスをこの地上に送られた神の目的は、イエス独りを抱えてゆくためではないのです。創造本然の世界全体を求めるためであり、4千年の間、勝利的な基盤を築いた後に、本然の世界を求める主体として、イエスを送られたのです。 ですから地上に来られたイエスは、万物の恨、人類の恨、歴史的な恨、時代的な恨、未来的な恨まで全て解怨して、イエス様自身の恨まで完全に解怨して世を収拾して、その次に神のまえに出ていって、神の愛と一致しなければならないのです。これがイエス様の最高の目的でした。この世を収拾する前には、神のまえに行く愛の因縁を持てないのが創造の原則なのです。ですから原則的な目標を達成するために、イエスはこの地上に来られたのです。ところで彼がこの地上で、世界を収拾しましたか? 人類を収拾しましたか? できませんでした。この地上の全ての主権者たちを収拾しましたか? できませんでした。収拾できないまま、審判という名詞を残して、逝かれたのです。 こんなイエスが万王の王としてこの地上に再び来て、全てのことを収拾して、勝利の条件を立て、歴史的な恨を精算して、アボジのまえに出ていって「この世界を全部、アボジにお返しします」という時が、終わりの日なのです。ですからこの終わりの日にはイエス様も復活しなければなりません。「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない、最初はキリスト、次に主の来臨に際してキリストに属する者たち(コリント前書15:20-23)」と聖書に記されているでしょう? イエス様も復活しなければなりません。全てのことは聖書の中にあるのです。最初の熟した実であるイエス様も復活しなければなりません。復活とは、何の復活? 楽園にいる恨を脱ぎ捨て、神の心情を中心として世界を統治する王として、神の代身として天上天下を統治する王として復活しなければならないのです。 心では神を見上げ、体では地上を見下ろさなければならないのです。このように体と心が一つになって、愛によって世界を統治することのできる基準まで行かなければなりません。このような条件が残っていますから、イエスは復活しなければならないのです。その次に、キリストに属する者、すなわち聖徒たちが復活しなければなりません。「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力を打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである(コリント前書15:24)」とあるでしょう? その時が終わりの日です。サタンの世の全てを滅ぼす時が、終わりの日だというのです。分かりますか? 終わりの日が、どんな時でしょうか? 皆さん、よくよく知れという話です。この世の中の全てのもの、サタンの世界、サタンの国を滅ぼし去って、創造当時の神がアダムとエバに、万物を主管せよとされたその主管を立てていって、アダムの後孫たちが唯一の神を中心として、神の心情に通じる一つの国を成して「神様、お受け下さい」という時が終わりの日なのです。 神が送られたイエスは勿論、内的な基準において万物を代身し、万人を代身し、全ての息子娘を代身することもできます。しかしその息子娘が、神の息子娘になっているでしょうか? 違います。造られた被造世界の嘆息を解怨しなければ、神の息子娘にはなれないので、万物を嘆息圏内から解放してやらなければなりません。また、万人を嘆息圏内から解放し、天上天下、霊界の嘆息圏までも、完全に解放しなければなりません。サタンを完全に屈伏させ、このようにして「この国を神のまえにお返ししますので、お受け下さい。あなたが所望された国がこの国ですから、お受け下さり、この国にあなたが立てたかった万王の王を、主権者として下さい」としなければなりません。このようにして国を捧げ、神が所望された代表的な存在が、この国の主権者として立てられる時が、天下が統一される時です。これが正しいキリスト教の信仰観なのです。 キリスト教の使命 ところでこんなイエス様が、雲に乗って来ていいのでしようか? 世を収拾しなければなければならないのに、雲に乗って来れば成るのかという話です。これは夢の中なら可能なことです。目を開けて、しっかり考えてみて下さい。 では今日、新婦たる皆さんの所望が何か? このような国を造って、このような方を新郎とて迎えることです。これが今日、新婦たる聖徒たちの責任なので、聖徒たちはこの世界を、一つの世界にすることが今日のキリスト教徒の使命なのです。 今ヨハネ23世が、汎世界的にキリスト教の大会を宣言しているでしょう? 時が来たからです。世界のキリスト教を併せ、一つにしようとしているでしょう? こんな内的な運動が起こっているこの時に、全世界的に広がっている宗教人は団合して、どんな民族や主権も勝つことができない、世界的な主権を造らなければなりません。それで眠っている国連を、目覚めさせなければなりません。今は共産主義が反対すれば、国連は身動きできないでしょう? ですから宗教の国連を造らなければなりません。そんな次に、左右側の世界を収拾しなければなりません。そのようにして主様の新婦たる我々が、世界を収拾して神のまえにお返しすることは当然のことです。そうでしょう? ところで今、キリスト教徒たちは何をしようとしているのでしょうか?「お! イエスはわがイエス、私に全て下さい」というのです。これはみな泥棒です。泥棒が他にいますか? 他人のものを自分のもののようにすれば、泥棒でしょう。他人のものを自分のもののように勝手にする人間は、泥棒ではありませんか? 強盗と違いますか? 他人の事情も考えないで盗んだ人間は、強盗じゃないですか? 神がなされようとしたことを、サタンの息子たちがやったら、泥棒ではありませんか? 間違いなく泥棒です。私が一つ聞いてみましょう。違うという人がいたら、立ってみて下さい。じっとしているところを見ると、みな泥棒ですか? 生まれるのもきっと、泥棒のように生まれて。(みな笑う) 終末の聖徒は新婦の内容を持たねば 皆さん! 事実先生は今、他のことは考えないのです。寝ても覚めてもこの事だけ考えているのです。皆さんもそうでなければいけません。先生はこのようなことを、天上的な信仰者の姿勢と見ます。先生もこんな姿勢で、一貫して来たのです。 イエスは我々の新郎たるお方として、神のまえにそのような使命を持って苦労されているのです。ですから新婦たる者たちは、一つにならねばなりません。一つにならねば。 この世においても家庭を破壊させるのは、女たちです。そうじゃないですか? 女が毒々しい二枚舌をのばして、ひらひらさせたらその家は滅びるのです。この地上で新婦たる者たちが二派に分かれたら滅びるのです。今日のキリスト教をご覧なさい。教団が分かれています。分かれれば分かれるほど、神は離れるのです。長老教も始めは二派に分かれて再び一派が分かれたでしょう? 3回分かれたら神は離れるのです。こんな時になって、恩恵が受けられますか? どんなに恩恵を受けようとしても、眠気ばかりが来るのです。 今日、世界に広がっているキリスト教徒は、考えなければなりません。主様が来れば、新婦の中の新婦を立て、この世を任せようとするのですが、その時にどうするのですか? 「我々の教会には主様の新婦となる人間がいません。あなたの教会にはいますか? 我々は共にそんな新婦を捜すのです」と声を高くして、世界史的は新婦を捜し立てなければならないのが、聖徒たちの責任です。ところが新婦となる人間を捜す考えもなく、これは異端だ、邪教だ、ひどい教会だ何だと、悪口ばかり言っているのです。 先生もこんな話は沢山聞いています。それでも肥ったという話がありますが、事実、私は仕掛けられたイバラを切り抜けて、肥ってきた人間です。本当に健康な人間ではありませんか? そうでしょう?(笑い)皆さん! こんなことを考えたことがありますか? 終わりの日が近づくほど、イエス様はどうされているかという話です。口を開けて笑っているのですか?「あ! 今や終わりの日が近づいて来たので、天下に一斉に号令して審判して、刈るものはゴシゴシ刈り取って、あれやこれやさっと引っこ抜いて捨ててしまって気分良し」というのでしょうか? こんなことを考えたことがありますか? イエス様は終わりの日になれば、大口を開けて笑っていると考えるのですか? そんなことは考えたこともなく、飛んだり跳ねたりしていますか? 終わりの日になればなるほど、イエス様は最後の十字架の場に降りて来られるのです。なぜ? 新婦が遇わなければならない世界的な艱難の峠、最高のゴルゴダの道を越えなければならないからです。新郎の立場で、新婦たちが遇わなければならない艱難まで、当たらねばならないからです。新婦たちは知らないでしょうが、そんな峠を越えてこそ成る天国の門を見つめながら、イエス様は終わりの日の準備をして、その一時に勝利する新婦を迎えるために苦待しつつ、2千年の間、苦痛を受けて来られたのです。終わりの日が来れば来るほど、苦痛を受けるイエス様を、皆さんは考えてみましたか? これを考える時、兄弟同士が互いに噛みつき、剣で争っている様子を見やり、眠ることもできないのです。こんな状態で新郎たる主様を来られるのを願ったら、雷に打たれるのです。 ところで、家庭がこのようで、教会がこのようで、国がこのようで、世界までこのようですから、この世界はどうなるのでしょう? 滅びなければなりません。滅びねばならないでしょう。終わりの日には、国と国が滅びるとされていなかったですか? 終わりの日の兆候が見えています。こんな時において我々統一教会員たちは、こんな理念圏内にあって、我々は泰平らしく眠っていてはいけないのです。 イエス様がこのように苦痛を受けておられるので、我々もこのような心情をもって世界を見やり、我々がやらなければならない使命を考え、心情的な立場で万民を代身し、新郎の心情に到達することのできる新婦の内容をもった人間にならなければなりません。そうしてこそ終わりの日に、主様の新婦として、神のまえに出ることができるのです。 イエス様がみ旨を開始する前にされた生活 もう一度、イエス様のことを考えてみます。イエス様は天の宝座をおいて、復帰の使命を負われ、この地上の惨めな場に来られました。このように来たイエス様は、何をしなければならないのか? 彼には万物を復帰しなければならない責任があり、万民を復帰しなければならない責任があり、僕(天使)を復帰しなければならない責任があり、また子女を復帰しなければならない責任がありました。 ですから彼は、父母の中でも世界的な父母の心を持たねばならず、兄弟の中でも大きな兄の心、兄の中の兄の心を持たねばならず、世界的な孝子の心を持たねばならず、世界的な忠臣の心を持たねばならず、また世界的な祭司長の心を持たねばなりませんでした。そしてこの地上で神のまえに忠誠を尽くし、善の実績を積んだ先祖たちがいたなら、彼らにおくれをとらない忠誠の心まで持たねばなりませんでした。それゆえ、イエス様はエルサレムに暮らしてもごはんを食べる時「神様、私がごはんを食べていますが、アブラハムが祭壇に捧げた3つの祭物もお受け下さい」というような生活をされたのです。 皆さん、聖書を知っていますか? 聖書を読んで知っているでしょう? 分かってみれば、イエスの心情はこのようであったのです。なぜ? 世界的な責任を負わなければならないイエスであったからです。堕落によって全てのものを失い、嘆息圏内にある万物と、人間の全ての嘆息の条件を内的に蕩減しなければならない使命が、彼にはあったからなのです。それでイエス様は他人が知らない中にあって、こんな歴史的な生活の基盤を築いていかねばなりませんでした。彼は人間の世にあって、み旨を始める前、人知れず内的な心情の世界において、歴史の背後を中心として生活せざるを得なかったのです。 彼は30年の間、世の中で笑い、どうにでも生活したようですが、彼の生活は全てが祭司でした。彼が見て聞いた全部が、アボジから受けたものであったのです。「私が泣くのは、アボジの苦痛と因縁を結んだのであり、私が動くのはこの地上、この悪なる世の中をアボジのこととして差し上げるためです」という基準で生活したのでした。このようにして地上の全万物と関係を結ぶことを、絶対的な目的としたのです。このようなことを、皆さんは知らねばなりません。 イエス様は寝ても覚めても、ご自身によって万民の罪が贖罪されることを願う心情を持っておられました。寝る時も、万民の罪が贖罪されることを願う心情を持ってやすまれたのです。人知れず寝静まった夜に目覚めても、眠る万民を代身して独り祈祷して、祭司を捧げる祭司長の使命をなされたのです。「アボジ、天宙的な恨の条件を蕩減するための、一つの実体として私をお受け下さい」という心に染みる祈祷の生活をされたのでした。 神が失ったものが何でしたか? 神は僕を失いました。また万物を失い、子女を失いました。しかしイエス様は神のまえに「万物の代身として善なるものとしてお受け下さい」という準備期間がなければならず、その次には神のまえに僕として奉仕する期間がなければならず、息子として孝道をなす期間がなければなりません。 しかしイエス様は孝子という名は残しても、忠臣という名は残さなかったのです。彼はこの世界の天使長の立場に立ってこの世を収拾し、神の息子の立場までいかなければなりませんでした。この地のまえに天使長の立場で忠誠を尽くし、神の子女の立場で孝誠を尽くさねばなりませんでした。すなわち、神のただ独りの息子にならねばならず、ただ独りの忠臣にならねばならなかったのです。 ですから今日、この地上で新婦たらんという群れがあったなら、まず地上に残るサタンを屈伏させなければなりません。これが僕の使命を果たすということなのです。このようにして、息子の使命をなすイエス様と連結され、神の宝座の前まで行かなければなりません。イエス様の生活を見れば、彼は万物の価値を無限において、万物の恨を解くために力を尽くしました。また僕の恨を解くために力を尽くしました。また僕の立場で、僕の中の僕の生活をしました。そして息子の使命を持って、息子の中の息子の使命をなしました。かくのごとく30余年の短い人生路程を行った彼は、この人生において復帰の全体を一身にかけ、蕩減の条件を立て、ゴルゴダの山頂まで行ってサタンを屈伏せしめたのです。しかし実体世界は、イエスの理念圏内も復帰されなかったのです。イエス様は霊的復帰の理念のみを立てたのでした。こうして再臨という名詞を残して逝った後、今まで2千年の間この実体世界を捜し求めておられるのです。 イエスの3年公生涯の期間 イエスは3年公生涯期間の間、どんなことをしなければならないのか? 僕の立場において個人から家庭を経て、民族、氏族、国家、世界、天宙まで復帰しなければならないのです。また子女の立場で、個人から世界まで復帰しなければなりません。さらには父母の立場をもって世界まで復帰しなければなりません。それでイエス様は生前、何をされたのか? 僕の体で息子を代身して、父母を捜し求めることをされたのです。 3年公生涯路程、3年準備期間には僕としておられました。僕として、サタンと闘わなくてはならないからです。天使長が天の法、すなわち天法を破ったので、天使を屈伏させなければならないのです。天使長が僕として神に背反したので、背いた天使長の立場を、復帰するための準備期間が、3年公生涯の路程であったのです。 この3年という準備期間を経て、天使長の立場を復帰した実体として立たれ、息子の責任を果たさなければならないのです。 そんな次に、何をしなければならないでしょうか? 勝利した天使長の立場で、天の側のエバ、すなわち新婦を立てて、復帰の準備をしなければならないのです。こうして息子の立場に立たねばならないのです。神の息子がいるなら、娘もいなければなりません。ですから男性、すなわちアダム的な新郎たるイエスは、女性であるエバ的な新婦を望み見て来られたのです。分かりますか? 一代でみな蕩減しなければならないからです。 このようにイエス様は僕的な天使長の使命を、3年準備期間の間に完結して、使命を完結しなければならなかったのです。子女の使命を完結する時には、兄弟と因縁を結ぶことのできる環境を造って、兄弟の足場を造らねばなりません。このようにしてその足場を中心として、父母の立場まで上がって来なければならないのです。イエス様が父母の立場に立つ時には、新郎と新婦がいなければなりません。こうしてその新郎・新婦は、堕落しない人間祖先として、人類の真の父母にならなければなりません。ここで真の父となられるお方が、イエス様なのです。この地上において、人類の真の父として立つには、真の母がいなければなりません。ところでイエス様は息子の使命は完結しても、真の母となる新婦を求められなかったのです。それで霊的にのみ父母の因縁を残して、逝かれたのです。 それでイエスは新郎として天を代身し、聖霊は新婦として地を代身して、霊的父母の基準を立てたのです。本来、夫婦という実体をもって、平面的に成さなければならないのです。またこれがイエスが本来、成さなければならない目的だったのです。ところが霊的にのみ成されましたので、霊界と肉界が一つになっていないのです。こうして新郎たるイエスは天にと上り、新婦たる聖霊は地に下って、再び霊界と肉界を一つにすることをされているのです。それで今日、世界の全ての人類は、霊界と肉界圏内において引っくり返っているのです。分かりますか? 世界人類はこれに対する動機も知らず、目的も知らないのです。ですから母の体内から未だ産まれていない子供と同じです。分かりますか? 皆さんは今目をパチパチさせて、いろんなことをして生きていますが、未だ真の父母の腹中から産まれていない赤子と同じ圏内に留まっているのです。ですから人間は、人生をどのように生きてゆくかを知らないのです。 重生しなければならない人間 将来、人類を再び生みかえる日が来るとして、その時が世界的な終末なのです。お産と同時に、息子娘が産まれるようになるのです。ところで息子娘が産まれるためには、天地の万物が神の圏内に入ってこなければなりません。人間を創造される前に、天地万物を創造されたように、真の子女が産まれる前に、外的な天地の形態を得て、必ず神が支配することのできる外的な世界を形成しなければならないのです。ですから目下、世界の全ての思潮は一つの世界を指向しているのです。最高の理想世界、平和と統一をうたい、幸福と愛をうたうことのできる世界を指向して行っているのです。 堕落した人間世界、その中にあってもアメリカ等の先進国においては、10代の青少年たちを中心に、多くの混乱が起こっているでしょう? これはアダムとエバが10代圏内で堕落したからなのです。 神はどのように今、真の子女を産みだされるのか? どんな人間に産みだされるのか?神の愛を知る人間にと、産みだされるのです。過去の人間は神の愛を知らずに堕落しましたが、今日復帰の歴史を経て終末、世界的な息子娘を産みだされる時には、神の愛を知る息子娘として産みだされるのです。神の愛を知る息子娘が生まれたなら、その息子娘を中心として起こる世界で、すなわちその息子娘の世界で初めて神の国、神の世界ができるのです。分かりますか。何の話か? すでに神の愛を語りましたが、皆さんは今、腹中にいますから神のお乳を味わってはいないのです。神の顔を見ることはできないのです。父母の顔を見られないので、腹中で生きているのと同じことです。今日このような事情に、人間はおかれているのです。ですから重生しなければなりません。今日、人間に必要なものが何でしょう? 霊的な救援摂理は完結しているのですが、霊的には重生して、霊的なお乳は味わっているのですが、これだけではいけません。霊肉が同時に重生されなければならないのです。 これから主様が来られますが、この主様は真の父母として来るのです。実体を持った人類のアボジとして来るのであり、実体を持った新郎としてこの地上に来て、実体を持った人間の中において新婦を捜し求め、オモニとして立てるのです。それで初めて堕落しない真の父母となるのです。堕落してはいけないアダムとエバが堕落することによって、真の父母を失ってしまったので、今日の人間は堕落した父母は持っていますが、堕落していない真の父母は持ってはいないのです。 ですから復帰摂理を経ていって、実体を持った真の父母の使命を完結するために来られるお方が、再臨主なのです。分かりますか? このように言えば分かるでしょう? 歴史的な真理を持って来られる主様は、どんな使命を成さねばならないか? イエス様が霊的な救援の基盤を築かれましたから、これを基盤として、霊肉とも完全な息子娘を産みださなければならないのです。 この地上に来たイエスは、ゴルゴダ山頂で死にゆかれました。ですから来られる主様はどのようにして来るのか? ゴルゴダから出発するのです。数億万人類が反対するゴルゴダを越え、死の道を行かれたイエス様は、復活の聖体として再び来られるのです。死によってゴルゴダを越えられましたが、永遠に勝利したのです。それで再び来るのです。そうでしょう? 復活して、再び求めて来るのでしょう? ゴルゴダ山頂を越えられたイエス様が再び来る時には、行ったように来るのです。十字架を負って行きましたから、十字架を負って来るのです。(※註「再臨主は行かれたように来られる――〝罪人の立場〟で逝かれたイエス | 真の父母様宣布文サイト (trueparents.jp)」) 終末に統一教会員が担うべき使命 このような十字架を背負って行く団体が、統一教会なのです。統一教会よりも大きな団体が出てくるかも知れません。しかしどんな団体でも、このような使命をなすという団体は、必ず排斥されるのです。皆さん、信仰の道をゆく時、家のなかの家族が反対するでしょう? 聖書に、自身の家の家族が怨讐になるとあるでしょう。愛する夫も「ぶち殺されるまえに止めろ」と反対するし、父母も「行くな」兄弟も「行くな」と言うのです。全部が反対するのです。はなはだしく反対するのです。刃物を突きつけて殺すと言うのです。このような立場から出発しなければならないのです。その次に、民族的なゴルゴダ、世界的なゴルゴダまで越えなければなりません。このようにして、道を築かなければならないのです。 イエス様が万物復帰、僕復帰、子女復帰、父母復帰のために天宙を代表した心情をもってゴルゴダを越えて行かれたように、ゴルゴダを越えて行かねばならないのです。イエス様が抱かれた所望が、ゴルゴダで砕かれましたから、ゴルゴダで勝利しなければならないのです。イエスの所望が壊される時、万物が壊され、家庭が壊され、氏族、民族、天宙が壊されたのです。 正しいということは、勝利するということです。耐えねばなりません。耐えねばならないのです。いっぺんに国家的にゆくことはできません。ゴルゴダの途上は、個人的ゴルゴダ、家庭的なゴルゴダ、民族的なゴルゴダ、国家的ゴルゴダ、世界的ゴルゴダまであるのです。来る氏族的ゴルゴダの基準まで、必ず越えなければなりません。蘇生、長成、完成の基準まで行かなければなりません。このゴルゴダを越えなければならないことが、今日我々統一教会が、担わなければならない使命なのです。このために闘ってゆく期間が、この3年期間なのです。分かりますか? 我々がこのゴルゴダ山頂で闘ってゆく時には、自分自身のために生きてはなりません。寝ても覚めても食べる時も、全てをこのことのために成さねばなりません。涙を流すことも、このことのために流さねばなりません。イエス様が十字架を背負わねばならないという時「天のお父様! できることならこの杯を去らせて下さい」とされて涙を流したでしょう? なぜ、そうなのでしょう? ご自分がこのような道を行ったなら、従ってくる聖徒たちも、みなこのような道を行くようになることを思い、涙されたのです。 イエス様は救援をおいて、祈祷されたのです。しかし来られる主様は現実をおいて、祈祷されているのです。分かりますか、何の話か? 現実をおいて、骨に染みる祈祷をされているのです。 主様の憤りと無念さに、あたってみなければなりません。自分のみならず、子女たちまでもこんな苦痛と怨恨を味わってみなければなりません。自分の家族のみならず、親戚までもが、こんな苦痛を味わってみなければならないのです。家庭のみならず、氏族までもが、こんな苦痛を感じてみなければならないのです。民族までもが、こんな苦痛を感じてみなければならないのです。その時までは、来られる主様が行かなければならない十字架の道が残っていることを、皆さんは知らねばなりません。これは先生の言葉ではありませえん。神の言葉です。祈祷をしてみて下さい。事実か、そうでないか。 それでは、誰がより哀れでしょうか? イエス様は苦難の十字架を案じて涙を流し、できることでしたらこの杯を去らせて下さい、と祈祷されました。しかし来られる主様は、現実の十字架路程において苦痛を受け、呻吟している子女たちをおいて「できることでしたら彼らから十字架の杯を去らせて下さい」という哀絶なる祈祷をしなければならないのです。 我々が捧げなければならない祈祷 子女たちが責任を果たさなければ、祈祷をしたくてもできない悩みと苦痛を感じなければならないのです。来られる主様はこんな立場で、個人から民族、国家、世界的なゴルゴダを越えねばならない使命があるのです。個人的な十字架路程、家庭的な十字架路程、氏族的な十字架路程、国家的な十字架路程が未だに残っていることを、皆さんは知らねばなりません。 こんな苦しみにあう度に、どんな決心をしなければならないでしょうか?「私はこのように闘ってきました。イエス様が僕として行った道も行きました。イエス様が息子として行くことができなかった道も行きました。イエス様が十字架上で解くことができなかった恨を、私に解かせて下さい」とすることのできる心を持たねばなりません。 新郎たるイエスのまえに、新婦としてしなければならない責任を完結するという基準を立てなければなりません。自分一個が認定する基準ではなく、家庭、民族、国家、世界、天宙まで、神まで認定することのできる基準を立てなければならないのです。こんな内容を持って行く立場であってこそ、神の息子娘となることができるのです。 ですから統一教会においては、3年期間があるのです。先生が今まで、皆さんを苦労させてきました。しかし苦労させるということが、先生の心ではありません。 イエス様は未来の所望をおいて祈祷されましたが、今日の統一教会員たちは現実をおいて、祈祷しなければなりません。現実において涙を流す基準を立て、家庭を代表して生活する基準を立てなければなりません。神が行く道ですから、民族を中心として、世界を代表する基準をもって、世界人の罪を贖罪する使命を果たさなければなりません。ですから皆さんを、家庭的な艱難期間に同参させ、民族的な艱難期間に同参させ、世界的な艱難期間に同参させ、苦痛を受けさせるのです。 それでどうしなければならないか? 苦痛を受けなければならないのです。でなければ落ちてしまうのです。分かりますか?一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.16
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第2回神統一世界のための希望前進カンファレンス広報映像第2回神統一世界のための希望前進カンファレンス普遍的な人権、思想と宗教の自由2022年12月17日土曜日午前9時30分ヒョジョン文化院文化ホール&ピースリンクテレビ一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.15
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[旧統一教会]拉致監禁の実体験、どうして両親が私を・・・・?Luke Higuchiチャンネル登録者数 1.18万2022/12/14脱会説得による悲劇①https://youtu.be/E0mvSagiqWM脱会説得による悲劇②https://youtu.be/HMzpDyJcFSA脱会説得による悲劇③https://youtu.be/nkKg7qY7gpM一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.14
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【2夜連続 星空LIVE】届け!みんなの願い ふたご座流星群2022 茨城・常陸太田市からライブ配信TBSとしてふたご座流星群のYouTube配信は3年目になります。 今年の極大日は12月14日(水)の夜22時です。 超高感度カメラで撮影する綺麗な星空の様子を、寒空の下、体力の続く限りお届けします。 2夜連続で生配信です。 ▽2021年のふたご座流星群の動画はこちら↓ まとめ:https://www.youtube.com/watch?v=Q_6HDBdyh3E&t=0s配信:https://www.youtube.com/watch?v=Xyhl97qQ-hQ&t=0s一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.14
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以下は『ファミリー』(1996.3月号)に掲載された「巻頭言」からです。当時オウム真理教が騒がれたころのものであり、こんにちの国会での「被害者救済法」と類似した点を見ることが出来ます。宗教を迫害する国は滅び、保護し、育成する国は栄える世界基督教紘一神霊協会会長 桜 井 設 雄 宗教は本来、人間が堕落しなければ必要ありませんでした。神様と人間の関係が、堕落することにより切れてしまったので、その関係を回復するための一つの手段として生まれてきたのが宗教です。ですから、宗教が必要ない人は一人もいません。 このように、宗教は親なる神様と一体となろうとする、人間の本心の欲求から生まれたのです。その本心の欲求が満たされなければ、真の生きがいや真の幸福を得ることはできません。したがって、宗教を迫害することは、人間の本心を抑圧し、破壊させることになります。 歴史における国家興亡を深く顧みるとき、宗教を迫害した国は滅び、宗教を保護し、育成した国は興隆しました。また、その国の主催は、より以上に宗教を崇拝する国へと移されていったという歴史的事実を数多く発見することができます。 宗教は、木に例えれば根に当たります。根を持たない木は腐り、枯れてしまうように、宗教を持たない国は滅亡せざるを得ません。歴史上に数多くの宗教が生滅する中で、より影響力の大きい宗教は必ず文化圏を形成し、より劣等なものは優等なものに吸収、融合されてきました。現代化圏を形成していく趨勢を見せています。 では、なぜキリスト教が中心となるのでしょうか。キリスト教は人間の本心の欲求を一番満たしてくれる要素を持っているからです。キリスト教は、存在の根源、生命の根源であられる神様が「親」であることを説いています。いかなる人間も、親から人生を出発しない人はいません。親こそ生命の原点であり、人生の出発点なのです。 昨年、無差別殺人集団と化したある宗教団体の影響によって、わが国の世論や国民的意識は、宗教に対する見方が大きく変わりました。宗教に対する信頼や寛容な心から、不信と疑惑と警戒心を抱くようになったのです。 ここでもう一度、私たちが確認しなければならないことは、宗教とは何かということです。父母なる神様(※櫻井ファミリーは要チェック箇所です。)は、子供である人類のために犠牲と奉仕の道を歩んでおられます。ですから、神様を説く高等宗教であればあるほど、犠牲と奉仕を強調するのです。真の宗教は、自らを犠牲にして他を生かすものです。他を犠牲にして自らが生きようとするのは、真の宗教ではありません。 また真の宗教は、分裂しているものを一つにする責任を果たさなければならないのです。すなわち、個人の心と体を統一し、夫婦、親子を統一し、民族と民族、人種と人種を統一し、国家、世界を統一し、さらには霊界と地上界、神様と人間を統一するのです。このように、神様の愛、すなわち犠牲と奉仕の精神で人類を救済しようとするのが、真の宗教なのです。ですから、宗教と民主主義は相入れないどころか、宗教がなければ民主主義は滅んでしまうのです。 ところが今日、「宗教基本法(仮称)」なる法案が国会に提出されようとしています。このようなことを憂慮する有識者は、「これは国家による宗教管理規制法であり、これが通れば、たった五十年で日本の信教の自由が終わることになる」、「これは宗教弾圧基本法である」と述べています。 米国では、「米国憲法修正第一条」で、議会が宗教活動を禁止したり、その権利を制限することを禁止しています。また、日本国憲法第二O条の信教の自由も、多くの宗教者が代価を払って勝ち取った歴史の遺産ともいうべきものです。 今こそ私たちは、真の民主主義を守り、真の平和国家、道義国家を築いていかなければなりません。宗教の本質を知り、神様の心情と真理を知った先兵として、歴史的、摂理的使命を果たしていきましょう。<終>一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.11
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【歌入り】聖歌13番「苦難と生命(B)」1.天使長のラッパの音(ね)聞く者は誰(たれ)ぞや東西光る稲妻(いなずま) その影もいずこへ日と月暗く 星は落ち行く墓場で生(い)く人 いずこに集まる2.生かされた天地にエルサレム新(あたら)し千歳(ちとせ)の摂理 まわり見ればエデン涙ぬぐい 悲しみ過ぎ去り父の栄光 来たる主いずこぞ3.十字架で行かれた主は十字架で来られる死の道も地獄も 共に歩み喜ぶレバノンの栄え 永久(とわ)に輝く日(ひ)出(い)ずる東(あずま) エホバのみ業(わざ)4.起きて光を見よ暗闇は晴れゆく一より万(よろず)となり 築いた都に世界の子女が 抱(いだ)かれ歌う白十字高く ホザナと讃(たた)えよ
2022.12.10
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「第三十七回『真の父母の日』敬礼式における祝祷」1996年4月18日ニューヨーカーホテル 第三十七回「真の父母の日」の祝祷は涙を流されながら祈祷された。 愛するお父様。 きょう、一九九六年四月十八日、第三十七回を迎える父母の日の記念行事を行う、祝典のこの時間となりました。天と地が注目し、万民が心を集めて見つめるここ、天上世界の善なる先祖たちと、地上の善なる後孫たちと、未来の希望として生まれる子女たちまで、共に神様の真の愛を中心として連結させる、聖なる式典として受け入れてください。 創造理想実現のための、あなたの愛の対象を探し立てるために、あなたの実体をこの地上に立て、隠されていた愛を刺激的に感じようとされました。 そのために、創造したすべての世界が、すでにあなたのみ意のままになされ、この地上で万物万象はあなたの愛で一つになり、愛の懐に抱かれ、つくられた存在として、誇り高き栄光を天の前に帰し、継続的勝利と栄光と愛が、永遠なるあなたの勝利の版図として、個人を越え、家庭を越え、氏族、民族、国家、世界、天上まで一体圏を備え、あなたの歩まれる土台となり、喜びと満足の対象圏にならなければならなかったのに、そのように成してさしあげられませんでした。 そのような私たちの先祖からの、今までの間違ったすべての誤りを耐えられながら、許しの一日を心に抱き、涙のにじんだ復帰の峠、野、川、海を越えなければならない、深いお父様の心情を知る私たちの先祖がいませんでしたし、この地上に生きる人類がいませんでした。 しかし、真のご父母様をこの地上に送られて…。 かわいそうな韓民族は強大国の間で、あらゆる祭物的な歴史を悲惨な姿で歩みながら、嘆息と共に、未来の希望の一念を継続的にもつようになさったのでございます。 四百余年前から、この地上に 正 道 令 が現れると希望を与えながら、消えていくしかない民族の脈を守ってくださった天の前に、韓民族は感謝しなければならないということを私は知っております。 それはすべて、あなたが訪ね会いたい、失われた息子・娘を立てるための準備でありました。 蕩減歴史の中で、個人としても、家庭としても、国家的にもいかなる民族の前にも立つことができず、カイン的世界の前に、アベル的国家として責任遂行をお任せになった使命を果たすための韓民族の歴史の背後は、涙の谷、汗と血の谷でもつれ合ったものでした。 その基盤を築いて、韓民族が行くべき道を導き、守ってくださった恩賜を、この時間、いま一度感謝を申し上げます。 その地の上に天が祝福の恩賜を与えるためには、悲惨な民族の姿の恨と共に、嘆息と共に、永遠なる絶望の限界線に立って絶叫しなければなりませんでした。民族的解放を願って、奴隷のような国家の運命もためらわずに無視し、蕩減の路程で、韓民族は天の前に恨でもって呻吟してきたのでございます。 しかし、解放と共に、真の父母によって世界に向かって跳躍でなく、飛躍することのできる、天運を受け入れることのできなかったことをすべて私たちは知っております。 真の父母の行く道を守り、真の父母が生活することのできる環境を開拓し、真の父母が立てるべき新しい天の国家を、建国思想と共に、建国の寵児となり、このことを完成しなければなりませんでした。 その韓民族が二分され、南北で怨讐となり、互いに血を流す同族の争いの、無念で憤懣やるかたない歴史を編むようになさったのは、このすべては、天が蕩減させるための路程であったということを知っております。 そうして、来られる真の父母は、この地上で家庭の基盤を失い、国家の基盤を失いました。荒野から宗教圏の女性たちを前に立てて、それを収拾し、そうして天の家庭の環境を越え、氏族、民族、国家の環境を越え、新しいお母様を立て、新しい子女を立ててきました。 新しく父母の名を一個人の一家庭で成就させ、氏族、民族、国家、世界、天宙を越え、天が愛される父がおり、母がおり、子女がいるという、万民と共に、全宇宙と共にそのすべてのものを抱き、勝利を願った本然の第一代の祖、アダム家庭において成し遂げられなかった、恨と悲しみと無念さをすべて過ぎ去らせることのできる、喜びの家庭と喜びの氏族、民族、国家、世界を、真の父母によって天の前に抱かせることを願われたお父様の前に、四十年、五十年、半世紀の歴史を、また悲しみで天の前に釘を打ち、嘆きの祭壇を天の前に捧げた、過去の第二次大戦後の半世紀を、お父様、許諾してください。 ご父母様は荒野に追いやられ、個人の基盤を探し、恨の道を開拓しようと、家庭を越え、氏族の道、民族の道、国家、世界の道を行くうえで、数多くの人々が旗を掲げ、いなくなるべき 某 だと言いながら責め立てました。 その中で、天の御旨の心情をもち、この峠を越えなければならないということを知ったので、天と一心一体となり、恨み多い四方のすべてのものを忘れて神様の愛の伝統を残さなければならないという、身悶えする日々でありました。 その日々を、お父様、共にいてくださって、今日の勝利の覇権的な位置を握り、あなたが失った永遠なる統一世界の王権と王のみ座の位置を開拓するための、苦労の多かった御旨の完成が目前に来たことを思う時、涙と共にひれ伏し、感謝を捧げなければならない統一家の群れであるということを、私はよく知っております。お父様。 一昨日はアメリカのワシントンにおいて、あなたが四月を越える前にやらなければならないといわれた挙国的な行事をいたしました(※「ワシントン・タイムズ財団」創設記念特別講演)。 第二次大戦後に新婦圏のキリスト教を収拾して、天と一つになって、来られる再臨主と共に、真の父母と共に一体的な足場をつくり、自由な環境において、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙まで、平面的途上で、あの遠く遠く別れていた神様、人類の向こう側にいた神様が、サタンがもっていたこちら側の位置を奪い、出会うべき父子の心情であったことを知っております。 サタン側を代身した家庭、氏族、民族の塀の峠を越えてくるための四十年生涯を、天がかわいそうなこの息子と共に、開拓の道を歩んでこられたということを、私はよく知っております。お父様。 統一家の食口たちは、ご父母様が行った道を前にして、祭物の祭壇を置き、涙と血と汗を代身してその基盤を築かなければならない、生きた祭物的な基盤を喪失した時がたくさんありました。 そのような無知なる子女たちを率いて、一人、お父様と共にこの道を開拓するようになった、すべての事実を忘れてしまい、創世以後、メシヤがこの地上に来る時まで、何十倍の受難の、嘆きの恨を抱いてこられたお父様に侍る中、不孝極まりない時が多かったことを、私自身も知っております。 個人に対するのに天が自由に対することができず、家庭に対するのに自由に対することができず、氏族、民族に対するのに自由な環境を備えられなかった世界版図に、地上天国の解放圏を備えるということは、はるか遠い夢の日の彼岸の幻想の中での考えのようでありました。 そのように遠かったその峠を、天が先頭に立って、何も知らないかわいそうな真の父母の手を握り、導かれることによって、今、解放の頂上に立って、分水嶺の峠を越えることのできる時代的環境に立たれたのです。 そして、アダム家庭において失われた長子圏である世界家庭圏をお立てになり、蕩減復帰し、アダムがなせずに、真の父母圏を失い、偽りの父母となっているので、サタンとこのすべて否定された自己とその血族を否定する立場に立って勝利することを願ってきました。 サタンを忘れてしまい、反対するカイン的世界を忘れてしまい、ただアダムの中で勝利することのできる本然的アダムの姿を代身して、長子代身、父母代身して勝利の版図を築き、恨の多かったこのサタン世界の王権を踏んで、越えることのできる時代をもつことのできる日を願った、すべてのことが、今、名実共に、世界に対して真の長子を越え、真の父母を越えて、新しい王権時代を発表することによって、世界が今、サタン圏を越え、解放的あなたの愛に抱かれ得る時代相をもつようにしてくださった恩賜を感謝申し上げます。 この地上にあった共産主義も消えていき、民主主義も今は戦いの環境を越え、ご父母様に向かって、歴史過程のある革命的大軍が叫ぶのと同じように、「真のご父母様」と喊声高く叫びながら、「探し、探し、愛を受けたかった、その中心に出会った」と言うようになったのでございます。 今、この全天地の中で統一教会の旗を掲げ、真の父母を誇りながら、愛しながら、愛を受けることができ、称賛を受けることのできる、解放的民族、解放的人類を成さなければならないということを知っているものでございます。 残る四年間、聖婚の三十六周年の記念の日を過ごしながら、三十六の峠を越えながら、今、四十の峠に向かう、地上の平面的なこのすべてのことを連結させるべき民族解放の道を開拓する、三百六十万双の祝福の道が残っております。 家庭の道を越えて行かなければならない天国の道であるので、アダム家庭の峠を神様の愛と共に一体となり越えられなかったことを、全世界の家庭祝福を中心として、カイン的家庭基盤を越えることのできる…。(録音がしばし中断) この父母の日は三十六回の峠を越える日でありますので、天がここに勝利の覇権の基台を立てられ、万国を踏み、カイン的な国の主権を踏み、真の父母の声を、家庭から氏族、民族、国家、世界全体が高く讃揚し、天が喜ぶ歓声で、「今、すべてをなした」と言うことのできる、御旨の成就を果たし、恨み多い峠を越えて、人類解放を神様自体が宣言しなければならない、この時間であることを知っておりますので、お父様のみ意のままになしてください。 み意にかなう圏をお立てになって、あなたが自由自在に、自ら、この地上の万民、どこでも行使して余りある真のご父母様圏を越え、真の王圏の前には、相対することのできるサタン世界、その血族は何もないという立場であることを知っております。 私たちは天の前に願っておりますので、最後の残された天の全体、全般、全権、全部の行使を行ってくださって、悪の障壁を切ってしまい、平和の障壁に連結させ、平地のような解放的自由天地が、きょう、統一家を中心として因縁を結んだ、統一食口と、統一食口を知る一族が解放の喜びを中心として、「万歳 万万歳 万万歳」と讃揚することのできる地球星解放の日々が、きょうから現れるよう許諾してくださいますことを、懇切にお願い申し上げます。 長い期間を越えて、私たちがこのような祝賀の日を送りながら、恋い焦がれ、願ってきた願いが何かと言えば、真の父母の顕現であり、天の父母が地上に訪問することのできる、その日を開拓するための歩みの道だったのでございます。 ふさがっていた塀を四方から壊し、すべての恨みの峠を壊し、平準化させ、真の父母と共に一つの中心となって、一つの心の一体圏をなすことによって、天の父母の自由、この地上の再臨環境を開拓なさった直接主管圏内の解放圏を慕い、私たちが長い三十六年間、このような行事を経た希望の日を喜びでお受けください。 勝利と讃揚で過ごした日として、このすべてのことを天が記憶してくださいますことを懇切にお願い申し上げます。 この式典に参席することが、どれほど偉大かということを知らずに参席したすべてのことは、天の法に引っかかる立場であるということを知らない、分別のない者たちであることをお許しください。 ご父母様がこの道を開拓し、先頭で闘われる道を天が協助した恵沢圏を、万民と共に統一家のこの日々を祝賀する姿を代身して受けてくれることを知っています。この日を迎えて、過去の祝福家庭が天の前に体面を立てることのできなかったことを許してくださって、ご父母様が行く道のその足跡を直接踏んで、峠を越え、また越えて、勝利の地上天国に入城することのできる、解放的天宙を許諾してくださいますことを懇切にお願い申し上げます。 きょうの祈祷を中心として、四年を残した二〇〇〇年代まで、ご父母様が八十回を迎えるその時に、このすべてのものを清算しなければならない、世界的国家の方向を一か所に集めなければならない、歴史的責任があるのです。 その標準的目標が祝福家庭であり、全世界人類が、自分の胸と体と環境と歴史の門をさっと開き、祝福の尾に従い、地上から天上まで引っかかることなく直行することのできる万民解放祝福の日が、この地上に臨むようにしてください。 きょうを期して、新しい歴史の出発を宣言いたしますので、お父様、霊界と共に宣言されたものを、この地上の平和と地上天国に連結させてください。 すべてのこの日の喜びと歓喜の心を、地と天が共にお受けください。 喜びでもって、万民のすべての過去、現在、未来の足りなさを忘れ、解放を宣言してくださいますことを懇切にお願い申し上げます。 このすべての内容をお父様の名によって、天の名によって、この地上に宣布いたしますので、宣布の祝祷の恩賜を、万民が共に、その体の上に、その胸の上に、その環境の上に抱くよう許諾されたことを知り、宣言いたしますので、万民がその御旨の前に順応することのできる平和の群れたちとなるよう許諾してください。 このすべての祈りを真のご父母様の御名によって宣言いたします。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.07
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「救援摂理史の原理観」日付:一九九六年四月十六日場所:アメリカ、ワシントンDC、ヒルトンホテル行事:「ワシントン・タイムズ財団」創設記念特別講演尊敬する内外の貴賓、高名な紳士淑女の皆様。今日、歴史的大変革時代を迎え、レバレンド・ムーンと皆様が出会うことができ、神様に心から感謝を捧げる次第です。 宗教と救援摂理の目的神様は、絶対者であられ、唯一、不変、永遠であられるお方です。そのみ旨も同じです。もし人間始祖アダムとエバが神様の愛で一体になっていれば、万事が完全、完成です。ですから、神様の出発、目的とその程度、そして原因と結果とその方向も絶対的なのです。人間始祖であるアダムとエバは、堕落して、無知と混沌に陥りました。個人的な無知と混沌から、家庭、国家、世界的な無知と混沌に陥るようになりました。この堕落圏を抜け出すためのものが宗教と救援摂理の努力なのです。「終わりの日」にメシヤが来て、神側から見る絶対、唯一、不変、永遠の原因と方向と結果をはっきりと教えてあげ、無知と混沌の世界を清算し、本然の神様の懐に帰ることが神様のみ旨の完成です。そのようにならなければ、「終わりの日」に、すべての宗教、主義、思想や国家も、みな滅びるようになるのです。今や人類は、わずか数年のちには二十一世紀を迎え、二〇〇〇年代の新しい歴史時代に差し掛かります。このような重大な時点において、私は、「救援摂理史の原理観」と題するみ言を通して、新しい時代を準備する私たちの心を確認しようと思います。創造主と人間との真の愛を中心とした完全、完成を願う神様は、人間と一体となる条件が必要でした。それで神様は、人間始祖に与える戒めが必要だったのです。人間が成長期間を上がっていく未完成段階にいたことを御存じの神様が、子女である人間に最も貴い真の愛を相続させてあげるための条件として与えてくださったのが戒めでした。本来、真の愛は経験を通して、体恤を通して分かるようになっていました。真の愛は、言葉や文字、あるいは一般教育を通して体得できるものではありません。生活を通してのみ、完全に体得するのです。赤ん坊として造られたアダムとエバは、成長しながら段階的に生活を通して経験し、真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の夫婦の心情、真の父母の心情を体恤することによって完成するようになっていたのです。神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。人は、自分の愛する相対が、自分より何千万倍の無限大の価値ある存在として現れることを願います。このように神様も、御自身が愛する相対である人間が、無限の価値ある存在になることを願われるのです。人間は、完成すると神性をもち、天の父が完全であられるように完全で、神様と同等の価値をもつのです。神様は絶対者であられますが、真の愛の理想は独りでは達成されません。愛の理想は必ず相対を求めるからです。私たちはここで、神様の真の愛と人間の真の愛の出発と完成が、互いにいかなる関連をもっているのかを知らなければなりません。もし神様が、真の愛の絶対的な対象体として人間を立てずに、ほかの方法を通して御自身の真の愛の出発と完成を達成しようとされたとすれば、どのようになるでしょうか。神様と人間の真の愛を中心とした理想は、各々動機が異なるようになり、二つの愛の方向と目的も異ならざるを得なくなります。そのようになれば、神様の愛の理想は、人間よりも上位にほかの愛の対象を立てて達成しなければならず、一方で人間の愛の理想は、神様と直接的な関係をもてなくなってしまいます。 真の夫婦は神様の絶対的愛の理想を完成する真の愛の主体者であられる神様は、その真の愛の相対者として人間を立てました。神様の愛の理想は、人間を通してのみ完成されるのです。神様の創造目的は、神人愛一体の絶対的愛の理想世界です。人間は神様の最高、最善の愛の対象として造られました。ですから、人間は創造物の中で唯一、神様の実体をまとった対象なのです。無形の神様のみ前に、見える体として生まれました。人間は完成すれば神様の聖殿になります。神様が自由に、また安らかにいつでも入ってきて暮らすことのできる有形の実体です。神様の絶対的な真の愛の全体的な理想は、人間を通して、父母と子女の縦的関係で実現し、完成します。神様は御自身の体としてアダムを先に造りました。アダムは神様の息子であると同時に、体をもった神様自身でもあります。その次に、アダムの相対者としてエバを造り、横的な愛、すなわち夫婦の愛の理想を完成しようとしました。エバは神様の娘であると同時に、神様の横的愛の理想を実体で完成する新婦でもあったのです。アダムとエバが完成し、神様の祝福のもとで結婚して初愛を結んだとすれば、その場は、神様が実体の新婦を迎える場だったのです。アダムとエバの夫婦の愛の理想が横的に結実するその場に、神様の絶対愛の理想が縦的に臨在、同参することによって、神様の真の愛と人間の真の愛が一点から縦横の基点を中心として出発し、一点で結実、完成するようになっていたのです。神様の創造は必然でした。目的のない創造は想像することができません。神様にとって創造が必要だった理由は、ただ一つ、真の愛の理想のためでした。最も簡単で低級な被造物から人間に至るまで、各々主体と対象、陽性と陰性の相対関係で展開された理由も、愛の理想のもとで相対関係を形成するためなのです。創造物の愛の理想と神様の究極的な愛の理想は、別個のものではありません。人間世界の男性と女性の愛の完成を通して、神様の絶対愛が完成するようにされたのが、創造原理です。太初に人間をアダムとエバ、一男一女として創造された理由もここにあります。神様の創造目的は、アダムとエバが真の愛の主体であられる神様の戒めを守って、真の人として完成することでした。さらには神様の真の愛で一つになった真の夫婦になることでした。また、彼らがその真の愛の中で息子、娘をもち、幸福で豊かに暮らすことのできる真の父母になることでした。アダムとエバが真の愛で完成していれば、それは実体を身にまとう神様の願いが成就することだったのです。そして、彼らが真の夫婦として完成していれば、それは神様の絶対的な愛の理想の完成を意味しました。それから、アダムとエバが善の子女をもって真の父母になっていれば、それは永存する父母の位置を実体的に確定し、人間の血統を通して子々孫々を繁栄させることによって、天上天国の市民を無限にもつことを望まれた神様の理想が成就されるようになっていたのです。ところが、人間始祖アダムとエバは堕落してしまいました。エデンの園から追われるとき、彼らは子女を連れていませんでした。神様が、追い出したアダムとエバをエデンの園の外まで訪ねていって祝福し、結婚式をしてあげたはずは絶対にありません。ですから全人類は、神様の愛と関係なく繁殖した、追い出された先祖の子孫なのです。 満場の内外貴賓の皆様! 人類の堕落が木の実を取って食べた結果でありうるでしょうか。アダムとエバの堕落は神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落しました。蛇で表示された天使長の誘いを受け、エバが霊的に堕落し、そのエバがアダムを誘って(時ならぬ時に善悪の実を取って食べる)肉的な堕落をしてしまったのです。本然の園で神様と対話しながら、楽しくはしゃぎ回って暮らしていたアダムとエバが、死ぬことを顧みないでまで犯しうる可能性のある犯罪は、間違った愛の犯罪しかないのです。 人類の先祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあったので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歴史を通して歓喜と祝福の中に酔う幸福な宴(うたげ)の連続でなければなりません。神様の愛と生命と血統が人間の中で出発をなしながら定着する幸福な儀式でなければなりません。ところが、彼らは下半身を覆い、木のうしろに隠れて、不安に震えました。天道に逆らう偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。 堕落したアダムとエバの後孫である全人類は、子々孫々、生まれる時から原罪があるようになります。人類が個体の中に心と体の衝突を矛盾として感じるのも堕落に根源があり、愛の秩序が紊乱(びんらん)した社会の中で、本心が願わない生を生きていくのも、すべてここに由来しました。 愛の理想を中心として見るとき、動植物の世界では、その愛の関係がすべて繁殖を前提にして初めて成されます。しかし、人間だけはその例外です。人間は夫婦の愛の関係に自由を享受します。これが万物の霊長たる特権です。神様は息子・娘である人間が無限なる愛の喜びをもつように祝福しました。神様が許諾した真なる自由は、責任性を前提とします。 もし、責任性なしに個々人が愛の自由だけ主張し、実践するなら、どれほど大きな混乱と破局が来るでしょうか。至高なる愛の理想を成した人間の完成は、愛に対する責任性をもつときに可能なのです。 その責任性は次の三つとして考えることができます。第一に、人間は愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修練、自己管理で自由な真の愛の主体になる責任です。人において愛の責任性は法や耳目ゆえに守られるものではなく、神様との生命的縦的関係の中で自我主管、自己決断で守られるのです。 第二に、相対に対する責任性です。人間は本性的に自らの相対の自分に対する愛が分けられることを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、父母と子供の間の縦的な愛の関係と異なり、分けられればもはやその完全性が破壊されます。これは夫婦間に絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理ゆえです。人は絶対に自分の相対のために生きるべき愛の責任性があります。 第三に、子女に対する愛の責任性です。子女たちの誇りと幸福の基地は父母の愛です。子女たちは真の愛で和合一体化した父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。父母の子女に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく、彼らの霊性を完全にしてあげる真の愛の生命的な要素を提供することです。家庭が貴い理由はこのためです。生活的な経験を通して体得する真なる子供の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情は真なる家庭以外、そのどこでも得ることはできません。 アダムとエバが神様を中心とした真の愛の夫婦を成せば、神様は理想となさったとおりに、ご自身の実体であるアダムの体の中にいましたまいながらエバを愛されるようになるのです。さらにはアダムとエバは神様の実体をまとった真の父母となって、善なる愛、善なる生命、善なる血統の出発になったことでしょう。 ところが、堕落によってアダムとエバはサタンの実体となって、悪なる夫婦、悪なる父母、悪なる先祖となってしまいました。彼らの結合は悪なる愛と悪なる生命と悪なる血統の根となってしまったのです。人類はすべてこの根に根源をおいたので、生まれるときからすべてが、神様の怨讐(おんしゅう)であり姦夫(かんぷ)であるサタンの後孫になり、悪なる父母の血統を受け継ぐようになってしまったのです。 親愛なる紳士淑女の皆様! 人類の先祖の堕落で真の愛の理想が崩れたとき、神様の苦痛がどれほど大きかったでしょうか。神様の子女になるべき人間たちが、本来の父母であるご自身が分からず、むしろサタンに仕えるのに、神様は救援歴史をしてこられたのです。絶対的な神様の創造理想も絶対的であるので、悲しい救援歴史をなさるしかありませんでした。神様の救援摂理は、失った真の愛の創造目的を再び回復する復帰摂理です。ですから、救援摂理は再創造摂理でもあります。 このような点で、復帰摂理の根本はどうすれば創造理想を完成する人間の種、本然の赤ん坊の種を見いだせるかにあるようになります。神様が一番嫌う姦夫であるサタンの偽りの愛から由来した生命と血統を清算しなければなりません。神様の真の愛と生命と血統と一体になった救世主、真の父母をどのようにして生まれさせるかということです。 人間の先祖が自分の責任分担を完遂できず、不倫なる血統関係を結んでサタンの主管を受けるようになったので、神様が直接立って原状回復させることができないのです。神様は悪なる天使長側に回った人類を、条件なしに善なる立場から選ぶことも、打つこともできないのです。神様は善なる天使長的中心人物を立て、先に打たれながら蕩減(とうげん)条件を立てるようにして、奪ってくる作戦をしてこられました。しかし、サタンは先に打ち、奪われる立場になりました。第一次、第二次、第三次世界大戦はその例になります。先に打った側が滅びました。 復帰摂理を概観すれば、母子協助の基盤が重要でした。ヤコブの時、モーセの時、イエス様の時、皆そうでした。堕落の張本人であるエバを代身する責任を果たすお母さんを立て、次子と母子協助をしながら、サタンの血統と生命を分立しようとする摂理が存在してきたからです。 神様は、堕落によって人類を先占したサタンと血縁的に直結した長子に、直接対することがおできになりません。神様は善側を代表する次子を相対として条件を立たせ、悪側を代表する長子を屈服させることで善なる血統を復帰してこられました。 アダム家庭で、神様は次子アベルを立てて長子カインを屈服させようという摂理をなさいました。堕落した母親ですが、そのエバによる兄弟を一つにしようとする努力があったでしょうが、結局はカインがアベルを殺害することによって救援摂理は終結を見ることができず、延長され始めたのです。 ノアの時も、母子協助の基準はありましたが、本格的な母子協助の基準はリベカ・ヤコブの時からです。 人類の堕落はアダム、エバ、天使長、このように三つの存在によって引き起こされました。天使長がエバを誘って霊的堕落をし、その次に堕落したエバがアダムを誘って肉的堕落をすることによって、神様を裏切ったのです。堕落した天使長がサタンになりました。救援摂理は復帰摂理であり、復帰の原則は百八十度反対の道を通してなされるのです。 真の愛と生命の種をもったアダムを失った神様は、サタンの讒訴(ざんそ)条件がない新しい種をもった息子を探し立てなければなりません。創造の時アダムを先につくったように、再創造摂理である復帰摂理も堕落と無関係な息子を先に立てなければならないのです。これがメシヤ思想の根本です。 メシヤはサタンの主管下にいる堕落した血統をもった人たちの生命を否定し、新しい生命の種を接ぎ木してあげるために来られる真の人であられます。根は神様に置きましたが、後(のち)のアダムとして来て、アダムによって引き起こされたものを清算しなければならないメシヤです。神様が、能力だけで役事する超人を、メシヤとして送ることのできない事情がここにあるのです。 この地に神様の愛と生命の種をもって生まれる息子のために先にお母さんがいなければなりません。お母さんが息子を産むにしても、ただそのまま産むことはできないのです。必ず、復帰の公式を通して産まなければならないのです。復帰摂理の中に現れた母子協助は、すべてが天の息子がサタンの讒訴を免れた新しい生命の種をもって着地するための準備であり、条件なのです。母子共にサタンの攻撃を免れることのできる条件を立てた土台の上で、サタンを代表する長子を屈服させることにより、サタンが先に占有した愛と生命と血統を復帰してこられたのです。 神様の摂理の歴史を記録した聖書の中に、理解することのできない記録がたくさんあります。リベカが夫のイサクと長子のエサウをだまし、次子ヤコブを助けて彼に祝福を受けさせました。神様は一見不当に見える方法を用いたこの母子の側に立たれて、彼らに祝福を続けて上げました。 アダムの家庭では、カインとアベルの兄弟が胎外で争って、次子のアベルがかえって殺されました。 ヤコブは、アベル以後の善側に立った多くの人の犠牲と蕩減条件の基台の上に立ったので、先に占有したサタンにいっそう追いついて、双子の兄であるエサウを相手にするようになったのです。結果的にヤコブは、ヤボク川で天使を屈服させる霊的勝利の条件と実体の天使長の体であるエサウを屈服させることによって、歴史以来、初めて勝利したというイスラエルの祝福を受けるようになりました。しかし、その時は既に年が四十代でした。 サタンの偽りの愛の種がエバの胎中にまかれて悪の生命が生まれたので、神様は母の胎中まで入っていって分別しておかなくては、天の息子が胎中で誕生することができないのです。ですから、ヤコブの勝利によっても、まだ分別されていない妊娠から四十代までの期間もサタンの分立がなされなければなりません。結果的にこの責任を任された偉大な母がタマルです。 タマルはユダの長男のエルと結婚しましたが、エルは神様にふさわしい人ではなかったので死んでしまいました。当時の慣例に従い、ユダは次子のオナンをタマルに与えて子供を産むようにしましたが、オナンは生まれる子供が自分のものにならないことを知り、精を地に流しました。これが神様の前に罪となってオナンも死んでしまいました。タマルはユダの三番目の息子のシラと一緒になろうとしましたが、ユダはシラをタマルに与えませんでした。タマルによって二人の息子たちが死んだと考えたユダは、シラまで死んで家系が絶たれることを心配したからです。 タマルは選民の血統を続けなければという一念から、売春婦に変装して、舅(しゅうと)であるユダを迎え、双子の赤ん坊を身ごもりました。赤ん坊たちが生まれる時、先に手を突き出して出ようとした長子の赤ん坊が再び入り、弟になるべき次子の赤ん坊が兄になって先に生まれたのですが、彼がペレヅです。タマルの胎中で長子と次子が争って、分立される胎中復帰がなされたのです。このような条件の上に、選民の血族を見て、二千年後にローマ帝国の国家基準に対峙(たいじ)するイスラエルの国家的土台の上に、メシヤを身ごもることができたのです。神様の息子の種が準備された母親の胎中に、サタンの讒訴なく根づかせることができるようになった国家的勝利の土台が造成されたのです。このような基盤の上に聖母マリヤが摂理の主流に登場するのです。 ヨセフと婚約したマリヤは、自分の身を通してメシヤが生まれるという(ルカ一・31)ガブリエル天使長の驚くべきメッセージを受けました。処女の立場で赤ん坊を身ごもれば、死ぬしかないという当時の規則でしたが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と言いながら、絶対信仰で神様のみ意(こころ)を受け止めました。 マリヤは親族であり、尊敬される大祭司長のザカリヤに相談しました。ザカリヤの家庭では、その夫人のエリサベツが神様の能力によって、妊娠したヨハネを胎中に身ごもったまま、マリヤに対して「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、何という光栄でしょう」(ルカ一・42~43)とイエス様の懐胎を証ししました。 このようにして神様はマリヤとザカリヤとエリサベツをして、メシヤの誕生を一番先に知らせました。彼らはイエス様によく侍(はべ)り、神様のみ旨によく従わなければならない重大な使命をもった者たちでした。ザカリヤ夫婦はマリヤを自分たちの家にとどまらせました。イエス様はザカリヤの家庭で懐胎しました。エリサベツとマリヤの間柄は母親側のいとこの関係でしたが、摂理上では、姉(カイン)と妹(アベル)の関係でした。ザカリヤの前でエリサベツの助けを受けたマリヤは、レアとラケルがヤコブの家庭で母子が一体になれなかったのを国家的基準でザカリヤ家庭を通して蕩減する条件まで立てながら、イエス様を誕生させなければなりませんでした。 歴史以来、初めて神様の息子の種、真の父となるべき種が、準備された母の胎中にサタンの讒訴条件なく着地したのです。それによって、地上に初めて、神様の初愛を独占することのできるひとり子が誕生するようになったのです。 当時の法によって、容認されるはずもなく、また、常識でも考えることのできないことをマリヤが成し遂げなければなりませんでした。三人が全部霊的に感動したし、神様から来た啓示に従い、それが神様のみ旨であり、願いであることを無条件に信じ従わなければならなかったためでした。 神様の息子はたとえ着地したといっても、サタンの世界の中で無事に育ってみ旨を成し遂げるためには、保護されるべき囲いが必要なのです。神様はザカリヤの家庭の三人にその基盤となってくれることを期待されました。三人が神様の息子を保護し、侍ることにどのように専念し、どれだけ長い間一つになったかについては、考えるべき点がたくさんあります。 聖書には「マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った」(ルカ一・56)と記録してあります。その後、聖書で見る限り、マリヤとエリサベツとザカリヤは互いに行き来した記録がありません。ここからマリヤとイエス様の困難が始まります。ザカリヤ家庭は最後までイエス様の囲いにならなければなりませんでした。 少し過ぎて、ヨセフはマリヤが子供を妊娠した事実を知るようになります。この時、彼の衝撃がどれほど大きかったでしょうか。愛する婚約者のマリヤが自分とは何の関係もない状態で、三か月間どこかへ行って帰ってきた時には子供を妊娠していたのですから、ヨセフがマリヤに、胎内にだれの赤ん坊を身ごもっているのかを追及するのは当然なことでした。 その時、もしマリヤが正直に話してしまったなら、どんなことが起こったでしょうか。もし明らかにした場合には一族が滅亡するようになるのです。ですから、マリヤはただ「聖霊によって懐胎した」とだけ話したのです。 マリヤのおなかが膨らんできて、周囲の人たちも妊娠したことが分かるようになりました。その時、ヨセフが自分は知らないことだと言ったならば、また、どうなったでしょうか。ヨセフは神様の啓示を信じ、妊娠が自身の責任であると擁護した義人でした。これによってマリヤは婚約期に妊娠したという嘲笑(ちょうしょう)は浴びたとしても、石を受けて死ぬことはなかったのです。 マリヤを愛したヨセフは、初めはこのようにマリヤを守ってあげました。しかし、ヨセフの心の底には苦悶(くもん)がたくさんありました。特に、生まれたイエス様を見詰めるヨセフは、その父親に対する疑問と関連し、心の中の苦痛を頻繁に経験するようになりました。イエス様が大きくなると同時に、ヨセフとの関係が心情的に距離が生まれるようになり、このことによって、家庭に頻繁に紛争が起こったことは間違いのない事実です。こうしてイエス様は私生児の立場で、ザカリヤ家庭の保護も受けられず、また、ヨセフとも難しい条件で、心情的に途方もなく寂しい立場で育ちました。 メシヤの道を自覚するようになったイエス様は、孤独な事情が神様のみ旨を成すに当たって深刻な障害の要因であることを、独りもどかしく思いました。メシヤは真の父母であり、その使命のためには実体の新婦をお迎えにならなければなりません。天使長がアダムと兄妹のように育ったエバを、偽りの愛で堕落させたものを、根本的に復帰すべきイエス様です。 従って、アダムを代身して神様の息子として来られたイエス様は、天使長型の妹を妻として迎えなければなりません。彼女がまさしくザカリヤの娘、洗礼ヨハネの妹なのです。サタンの権勢が主人の役割をする世の中で、このことが成されるためには、絶対的な信仰によって形成された保護基台がなければなりません。不幸にもイエス様の周辺では、このような土台がみな崩れてしまいました。 もし、ザカリヤとエリサベツが神様の啓示と霊的な恩恵の下、初めにもった絶対的な信仰をずっともっていたなら、状況は全然違っていたことでしょう。彼らが責任を果たしたならば、マリヤは三か月後にその家を出たとしても、継続的に彼らと行き来し、相談したはずです。 ザカリヤ家庭は、イエス様の誕生の後にも、地を代表して最も先頭に立ってメシヤを保護し侍りながら、証すべき人々として神様が選んだ家庭です。彼らは、イエス様を神様の息子として、メシヤとして、このうえない精誠を込めて侍るだけでなく、さらにまた、イエス様を通して神様のみ旨を受け、絶対的に従ったはずでした。また、イエス様のために生まれた洗礼ヨハネだったので、彼が悔い改めさせた民たちをして、イエス様を信じ救われるように導く責任を果たしたはずです。しかし、不幸にも、ザカリヤもエリサベツも洗礼ヨハネもイエス様を神様の息子として証しだけしたのであって、侍り従った実績は何一つありませんでした。尊敬される祭司長のザカリヤが傍観し、洗礼ヨハネがイエス様と無関係な立場に立つようになることにより、かえってイエス様の行く道をもっと難しくしてしまい、民たちが従うことができないようにしてしまいました。ましてや、彼らが信仰を失い人間的な考えに流れたときに、イエス様が願われた新婦を迎えるのを助けるはずは絶対になかったのです。 次に考えるべき点は、ヨセフとマリヤの関係がイエス様に及ぼした影響です。マリヤはエバとタマルを蕩減復帰すべき立場なので、ヨセフとは婚約関係でなければなりませんでした。しかし、摂理的に見れば、彼らの関係は夫婦ではありえません。ですから、彼らはイエス様が誕生する時まではもちろん、その後にも性関係を結んではならないのが神様の願いでした。ヨセフはマリヤに対して、イエス誕生の後にもずっと愛の心をもちました。マリヤはヨセフと別れ、イエス様を神様の息子として育てたい気持ちがあったはずです。 しかし、現実はそれを簡単には許しませんでした。本心ではだめだと思いながら、マリヤはヨセフと性的関係を結ぶようになって子女をもつことにより、エバの失敗を反復した結果となってしまいました。サタンはこれを条件として彼らに侵犯するようになりました。イエス一人を残して、すべてサタンの主管下に入っていった結果となったのです。イエスを守るべき父親も、母親も、アベル側の兄弟(洗礼ヨハネとその兄弟)も、カイン側の兄弟(ヨセフの子女)もすべてサタン側になってしまいました。 人がサタンの侵犯を受ければ、もはや霊的に受けた恩恵と感動を失ってしまいます。神様に対する確信と感謝を失うようになります。すべてのものを人間的に考えるようになります。これにより、マリヤまでイエス様が願われる結婚を助けられず、かえって反対してしまったのです。これが、イエス様が新婦を迎えて真の父母になれず、十字架の道を行かざるをえなかった直接的な原因になったのです。 カナの婚姻の宴で、イエス様がマリヤに「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ二・4)と言ったのも、最も貴い摂理の要請であるイエス様の新婦を迎える仕事をなおざりにし、遠い親戚(しんせき)の婚姻の宴を手伝おうとするマリヤを責めた心情が表出されたものです。「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」(マタイ一二・48)と言われたみ言葉も、このような基準から理解しなければなりません。 イエス様は母マリヤからも、ザカリヤ、エリサベツからも反対され、最後に洗礼ヨハネからも反対され、肉親の保護を受けながら使命を完遂することを断念するしかありませんでした。新しく霊的基盤を探して、再び復帰摂理をなさろうと出発したのがイエスの出家でした。出家したイエス様は行く所がありませんでした。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ八・20)と嘆息されました。家門の基盤を失ったイエス様は、それを代身することのできる基盤を探しに出かけたのです。これがイエス様の三年路程でした。 しかし、民族が不信し、弟子たちの心が弱くなって、サタンの侵犯を受けてしまったので、イエス様の基台は倒れ、十字架の道に行かれるしかありませんでした。本来、イエス様はメシヤとして地上に来て、弟子たちと万民を祝福され、罪のない天国を築かなければなりませんでした。ところが、不信をされて新婦を迎えられなかったので、真の父母になれず、その使命を完遂することができませんでした。 それゆえ、再臨することを約束されました。再臨主はイエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するためにこられます。すなわち、創造理想を完成すべき真なる本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するためにこられます。彼は既にイエスの時まで神側が勝利した根本摂理の土台の上に臨在されます。すなわち、イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上に真っすぐ立たれて、彼が果たせなかった新婦を探し、真の父母になられ、万民を救ってくださるのです。 それゆえ、真の父母は血統を伝授する新しい結婚行事を通じ、全人類をして、神様の真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木して、真の人として救援し、さらには真なる家庭を成して地上天国を建設なさるのです。それゆえ、再臨主は肉身をもって来られて、新しい血統関係を編成しようとするのであり、これが国際合同結婚式なのです。 アダム一家庭で失われたものを世界大家庭圏で蕩減することにより、アダム家庭で完成すべき真の長子権、真の父母権、真の王権を取り戻し、神様が主管なさる地上天国へと転換し、天上天国に入籍をして、神様を中心とした地上、天上王権時代に進入して、勝利と自由と幸福と統一の世界を復帰し、神様の創造理想である地上天国、天上天国を迎えるようになるのです。これが摂理史の原理観です。 皆さんも将来、幸福な祝福を受けるようにお願いします。 敬愛するこの国の指導者、そして内外貴賓の皆様! きょう、この夕べ、ワシントン・タイムズ財団創設を記念するために、来臨してくださった皆様にもう一度深い感謝をささげ、特にこの社会のための善なる業績により、ワシントン・タイムズ財団が授与する第一回受賞の栄光を受けられた皆様に、心からお祝いを申し上げます。ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.04
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真のお母様の名前の意味 真の父母経より真のお母様の名前の意味真のお母様がお生まれになった頃、父親の韓承運(ハンスンウン)氏が夢で鶴を見て、真のお母様の名前を「鶴子(ハクチャ)」にしたという。真のお父様は、真のお母様の名前について、「恨(韓国語で「韓」と発音が同じ)を抱いた神様について最高に学んだ学者(韓国語で「鶴子」と発音が同じ)となり、神様の相対の位置に進む」という意味があると解釈された。また、韓鶴子の「子」の字は、「神様の王子と縁を結ぶように生まれついたこと」を象徴すると語られた。9 私(お母様)が生まれる頃、父は、夢のお告げ、幻想を御覧になったそうです。とてもうっそうとした松林の中に、澄んだ美しい陽の光がさし込み、二羽の鶴が和合する姿が見えたというのです。それで父は、私の名前を「鶴子」とお付けになったそうです。10 お母様の名前は「鶴子」ですが、「鶴子」というのは「鶴の息子」ということです。鶴は、ヒマラヤの山脈を越え、平原に行って卵を産みます。これはエバの使命と同じです。「子」というのは息子のことを意味します。それは結局、女性として息子を慕うことを意味するのです。お母様の使命は、ヒマラヤ山脈を越えて平和の世界で息子、娘を生むことです。そして、鶴は入り混じったものを食べず、きれいなものだけを食べます。栄養があって、あっさりしたものだけを食べるのです。鶴は、一度飛び始めると、なかなか方向を変えません。そして、高く飛びます。それで、東洋では、鶴をとても愛するのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.04
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22.12.04 09:30より「世界平和統一家庭連合 世界本部教会 平和ヌリ」が配信予定されています。詳しくはPeacelinkTVホームページより視聴ください。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.12.04
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