三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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参考文献明治二二年四月十六日 福島新聞 福島新聞社明治三三年 帝国鉄道要鑑第一版 鉄道時報局明治三六年 帝国鉄道要鑑第二版 鉄道時報局明治三七年 田村郡郷土史 田村教育会明治三九年 帝国鉄道要鑑第三版 鉄道時報局明治四一年 明治事物起原 石井研堂明治四三年一二月三十日 ハガキ はし本大正二年 三春特設電話番号簿 仙台逓信管理局大正五年 日本一周・後編 田山花袋昭和二年 日本旅行史 吉田十一昭和九年 郡山郷土読本 郡山市立学校長協議会昭和十九年 増補改訂・明治事物起原・下巻 石井研堂昭和二一年 客貨車工学 小林絹二昭和二九年 福島自由民権運動史 高橋哲夫昭和三五年 世界名画全集2 平凡社 ジンギスカン 小林高四郎昭和三八年 ギリシャ神話 山室静昭和四一年 会津若松市史 会津若松市}九六六年 エンサイクロフィデア・ブリタニカ昭和四二年 ホーム百科事典 学習研究社昭和四三年 仙鉄だより 仙台鉄道管理局 現代日本記録全集(四) 藤沼茂樹昭和四四年 郡山市史 郡山市 聖書の歴史 サムエル・テリエン昭和四五年 福島県の歴史 小林清治・山田瞬昭和四六年 ものがたり東北本線史 国鉄仙台駐在理事室昭和四七年 スピードの世紀 横森周信昭和四八年 世界史こぼれ話 三浦一郎 尼崎市史 尼崎市 福島事件物語 北小路健 未来への遺産 NHK取材班昭和四九年 失われた時のへの旅一 NHK取材班昭和五十年 未来への遺産 二 NHK取材班 未来への遺産 四 NHK取材班 玉川百科大事典 駅馬車時代 藤原宏 失われた文明 A・ゴルポフスキー昭和五一年 三春町史 三春町 資料・日本の私鉄 和久田康雄 日韓併合小史 山辺健太郎 モンゴル史 EDフィリップス 古墳と古代文化九九の謎 森浩一昭和五二年 福島交通七十年の歩み 福島交通 ああ野麦峠 山本茂実 鉄道の語る日本の近代 原田勝正昭和五三年 昭和鉄道史 毎日新聞社 軽便鉄道 毎日新聞社 三春の歴史と文化財 三春町教育委員会昭和五四年 明治東京逸聞史(1) 森銑三 人力車 斎藤俊彦 面白写真術 フォート・マージュ社 一二月号 鉄道ピクトリアル 鉄道刊行会昭和五五年 郡山懐旧 広長繁 交通史 豊田武・児玉幸多 古代日本の交通路 藤岡謙治郎 会津・仙道・海道地方諸城の研究 沼舘愛三 図説・世界の鉄道 クリス・ルサム 謎の巨石文明 フランシス・ヒッチング 枕草子 学習研究社 会津戦争のすべて 会津史談会 神と黄金と栄光と ニコラス・ホーダン昭和五六年 値段の明治大正昭和風俗史 朝日新聞社 産業史 古島敏雄昭和五九年 国際関係学研究 九 藤村瞭一 いわき市史 いわき市 日本の山河 国書研究会 白村江 鬼頭清明 北欧神話 Kクロスティ・ホランド 台湾総督府 黄昭堂一九八一年 リンツ博物館案内 リンツ市昭和五七年 岩磐史談第一巻 (復刻版) 歴史春秋社 ロスチャイルド王国 クレデリック・モートン 猪苗代町史 猪苗代町史出版委員会 インドの神話 田中於兎弥 歴史・みちのく二本松落城 榊山潤 六月号 鉄道ピクトリアル 鉄道刊行会昭和五八年 知の辺境 矢島文夫 汽車電車の社会史 原田勝正 中国・秦の兵馬佃 大阪二一世紀協会 一月号 鉄道ピクトリアル 鉄道刊行会昭和五九年 伐辰落日 (上) 綱淵謙錠 菓菊の露 (上) 沢田ふじ子昭和六十年 繭と生糸の近代史 滝沢秀樹 聖公会宣教八十年小史 郡山聖ペテロ聖パウロ教会昭和六十年 信州の鉄道物語 信濃毎日新聞社 研究紀要 (第三号) 郡山市教育委員会 ローマの道の物語 藤原武 新修国語総覧 江馬務 谷山茂 猪野謙二昭和六一年 「乗り物」のはじめ物語 ブリジストン広報室 都市近郊鉄道の史的展開 武知京三 日本の鉄道 日本経済評論社 週刊朝日百科・日本の歴史 三 朝日新聞社昭和六二年 常磐地方の鉄道 小宅幸一九月二七日 新・日本風土記「絹の道」 福島民報頃印六三黎 開妃(ミンビ)暗殺 角田房子昭和六三年 裏切り「戊辰新潟港陥落す」 中島欣也 宇宙人・謎の遺産 五島勉 東国のはにわ 福島県立博物館 戊辰東北戟争 坂本守正一月二六日 古墳時代から牛を飼っていた 福島民報 三月六日 文様・車 朝日新聞ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.09.21
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(十三) 年 表 この年表は、和久田康雄著「日本の私鉄」に準拠した。ただしこれ以外の専用鉄道、森林鉄道の内、特に福島県の浜通りについては、小宅幸一著「常磐地方の鉄道」に詳しく調査、発表されている。明治 十五年 東京馬車鉄道 開業 東京市内明治二十一年 安蘇馬車鉄道 開業 葛生=越名川岸 碓氷馬車鉄道 開業 横川=軽井沢 小田原馬車鉄道 開業 国府津=湯本 三春馬車鉄道 調査 三春=郡山明治二十二年 秋田馬車鉄道 開業 新大工町=土崎 以下福島県のみ。明治二十四年 三春馬車鉄道 開業 三春=郡山明治三 十年 岩越鉄道 開業 郡山=若松明治三十七年 岩越鉄道 増設 若松=喜多方明治三十七年 岩越鉄道(国鉄に吸収される)明治三十八年 磐城炭坑軌道 開業 小名浜=湯本明治四十年 赤井軌道 開業 赤井=平 小名浜馬車鉄道 開業 小名浜=泉 信達軌道 設立明治四十一年 信達軌道(大日本軌道福島支社と改称)福島駅前 =長岡=飯坂 長岡=保原 耶麻軌道(人車軌道にて申請) 川桁=大原(沼尻)明治四十二年 勿来軽便馬車鉄道 開業 勿来=白米明治四十三年 大日本軌道福島支社 増設 保原=梁川 耶麻軌道 動力を馬力へ変更 小名浜馬車鉄道 東商会に売却明治四十四年 大日本軌道福島支社 増設 保原=掛田大正 二 年 日本硫黄(耶麻軌道を買収)大正 三 年 日本硫黄 内燃化 磐城軌道 開業 湯本=長橋大正 四 年 大日本軌道福島支社 増設 川俣=掛田 三春馬車鉄道 廃業大正 五 年 白棚鉄道 開業 白河=棚倉 磐城海岸軌道 東商会より買収大正 六 年 大日本軌道(信達軌道に改称)大正 十 年 飯坂軌道 設立(すぐ福島飯坂軌道に改称) 森合=飯坂 好間軌道 開業 北好間=平大正 十一年 赤井軌道(品川白煉瓦に売却) 信達軌道 増設 保原=桑折大正 十二年 常葉軌道(開業寸前に倒産) 国鉄磐城常葉=常葉 磐城常葉駅前の記念碑より 磐城常葉駅以大正十年四月十日開通初常葉片曽根七郷 山根都路各町村民要望開駅久胥謀拠出九千金購用地六 千五百歩致之政府政府容之九年五日起工十年三月竣工 構内八千歩家屋十八棟工費実十一万金此建碑以記念云 これは、磐越東線が船引から常葉を経由して大越に 至る予定でしたが、常葉町民の反対で現在の路線とな りました。 しかし鉄道による発展から取り残された常葉周辺の 住民たちの請願により、この今泉の地に磐城常葉の名 を付けた駅を誘致したときに建てられた記念碑です。 (駅近くに住む富塚ヤエさん談) 常葉軌道は磐城常葉駅より常葉町まで軌道を開業し ようとして失敗したもので、一説に、磐城常葉駅より 北・500メートル程の黒助まで敷設したが断念した と伝えられる。 磐城軌道(日本鉄道事業に売却)大正 十三年 福島飯坂軌道 開業 森合=花水坂 日本鉄道事業 内燃化大正 十四年 磐城炭坑軌道 内燃化 福島飯坂軌道(飯坂電車に改称) 福島=飯坂大正 十五年 信達軌道(福島電気鉄道に改称)改軌電化 磐城海岸軌道 内燃化昭和 二 年 福島電気鉄道、飯坂電車を併合。このときの廃止線 川俣=掛田 保原=桑折昭和 四 年 磐城軌道 日本鉄道事業に売却昭和 五 年 好間軌道 日本鉄道事業に売却昭和 十二年 勿来軽便馬車鉄道 廃業昭和 十三年 白棚鉄道 国鉄移管昭和 十四年 磐城軌道 小名浜臨港鉄道に改称昭和 十七年 福島電気鉄道 国鉄福島駅に乗り入れ。昭和 十九年 磐城炭坑軌道 廃止。昭和二十八年 江名鉄道 開業 江名=栄町昭和 三十年 品川白煉瓦 廃止昭和三十七年 福島電気鉄道 福島交通に改称 昭和三十八年 電源開発 新設 只見=田子倉昭和三十九年 日本硫黄 日本硫黄観光鉄道に改称 昭和四十一年 江名鉄道 廃業昭和四十二年 日本硫黄観光鉄道 磐梯急行電鉄に改称 昭和四十三年 磐梯急行電鉄 廃業昭和四十六年 福島交通 縮小 福島=飯坂を除き廃止。昭和六十一年 野岩鉄道会津鬼怒川開業 新藤原=会津高原尾瀬口昭和六十二年 会津鉄道 開業 西若松=会津高原尾瀬口昭和六十三年 電源開発(国鉄に吸収される。只見線) 阿武隈急行 開業 福島=槻ノ木(宮城県)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.09.11
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(十二) 資料 3 三春馬車鉄道定款 第一章 総則第一条 当会社ハ三春馬車鉄道株式会社卜称ス第二条 当会社ハ三春郡山間ニ馬車鉄道ヲ布設シ運輸ノ業ヲ営ムルヲ 以テ目的トス第三粂 当会社ハ三春町中町四十七番地ニ設置シ停車場ヲ三春郡山ニ 置ク節四条 当会社ノ営業期限ハ官許開業ノ日則チ明治二十四年十二月二 十日ヨリ向フ三十カ年トス 但満期後尚継続スルト否トハ株 主総会ノ決議ニ拠ルベシ第五条 当会社鉄道布設ノ工事及連輸営業ノ手続等総テ官庁命令書ノ 条項ヲ遵守履行スヘシ 第二章 資本金第六条 当会社ノ資本金ハ弐方八千五百円卜定メ之ヲ五百七拾株ニ分 ケ一株金五拾円卜為シ株主ノ責任ハ其株金高ニ限ル但工事及 営業ノ実況ニ依り増資ヲ要スルトキハ株主総会ノ決議ヲ以テ 増資ヲ募集スルカ又ハ株式高ニ応シテ各自出金スル事ヲ得、 此場合ニ於テハ其全部払込方法ヲモ併セテ決議スルモノトス第七条 当会社ノ株金払込ハ明治二十四年十二月二十日マテニ払込済 ミ第八条 当会社ノ定款ニ遵ヒ株式ヲ引受ルモノハ外国人ヲ除クノ外何 人ニテモ当会社ノ株主タルコトヲ得へシ第九粂 当会社ノ株主ニハ其株主壱個毎ニ株式券状一乗ヲ交附シ 其 株高ニ応シテ利益金ヲ配当スヘシ第十条 当会社ノ株式券状雛形下ノ如シ (以下略)第十一条 当会社ノ株主ニテハ其族籍住所ヲ転スルカ又ハ改姓名改印 等ヲ為シタルトキハ書面ヲ以テ其都度之ヲ当社ニ届出ツヘ シ第十二条 当会社ノ株式ヲ売買又ハ譲与セント欲スルモノハ 其株式 券状ニ双方連署ノ書面ヲ添テ之ヲ当会社こ申出ヘシ 当会社二於テハ之ヲ株式名簿二記載シ券状書面欄内ニ就キ 相当ノ手続ヲモツテ之ヲ交附スヘシ 此手続ヲ覆マサルモ ノハ如何ナル理由アルモ当会社於テハ券状ノ記名人ヲ以テ 其所有主卜見倣スヘシ 但定款株主総会前三十日以内ハ株 式券状ノ書替ヲ停止ス 又書替ノ節ハ其買受又ハ譲受主ヨ リ一株ニ付金参銭ノ書替手数料ヲ差出サシムヘシ第十三条 当会社ノ株主ニシテ 其株式券状ヲ紛失若クハ焼失シタル トキハ其理由ヲ明記シ二人以上ノ証人連署ノ上速カニ当会 社二届出ヘシ 当会社ニ於テハ之ヲ七日間新聞二公告シ其 後三十日ヲ以テ故障ナキトキハ更ニ株式券状ヲ交附スヘシ 但シ株券ヲ毀損汚穣シタルモノハ株券ヲ差出シ書替ヲ請求 スルコトヲ得 第三章 約定役員第十四条 当会社ハ定式総会こ於テ拾株以上ヲ有スル株主中ヨリ取締 役六名 又監査役ハ株主中ヨリ二名ヲ選挙スヘシ其任期ハ 各二カ年トス但満期再選セラルルコトヲ得 一、取締役 六名 内社長 一名 支配人 一名 一、監査役 二名 一、雇員(書記、車掌、駁者、馬丁等ヲ言フ) 若干名第十五条 書記、車掌、駅者、馬丁等ハ取締役ノ協議ヲ以テ適宜こ之 ヲ任免ス第十六条 取締役ハ所有ノ株式拾株ヲ当会社ニ預ケ入ルヘシ 当会社 ハ其株券ノ融通ヲ禁 スル為メ封印シテ之ヲ預ケ置ク第十七条 取締役ハ当会社ノ定款及総会ノ決議二依り法律命令範囲内 ニ於テ当会社ノ業務施行ノ責ニ任ス 又取締役中主トシテ 業務ヲ取扱フ者二名ヲ挙ケテ専務取締役トス 其一人ヲ社 長卜称シ一人ヲ支配人卜称ス 又専務取締役ハ商法第百七 十四条ニ依り株主名簿ヲ作ルヘシ第十八条 監査役ハ取締役ノ専務施行法律命令定款及ヒ総会ノ決議ニ 適合スルヤ否ヤヲ監視スヘシ第十九条 監査役ハ計算書、財産日録、貸借対照表、事務報告書、利 息又ハ配当金ノ分配案ヲ検査スヘシ第二十条 書記以下ノ雇員ハ社長及支配人ノ指揮こ従ヒ各其業務ニ従 事スヘシ第二十一条 取締役監査役ノ報酬及雇員ノ給料其他旅費日当等ハ定期 総会こ於テ之ヲ走ム 第四章 印章 (略) 第五章 株主総会 (略) 第六章 計算 (略) 第七草 雑則 (略)明治二十七年一月二十九日 郡山区裁判所へ登記会社ノ社名 三春馬車鉄道株式会社営業所 磐城国田村郡三春町字中町四十七番地会社ノ種類及本店又ハ支店 株式会社 本店会社ノ目的 運搬業設立免許年月日 明治二十四年十月五日会社ノ存立時期 明治二十四年十二月二十日ヨリ向り三十カ年資本ノ総額株式ノ総数一株ノ金額一資本ノ総額 弐万八千五百円二席式ノ総数 五百七拾珠三一株ノ金額 五拾円各株式ニ付払込タル金額 五拾円取締役ノ氏名住所 社長 川又恒三郎磐城国田村郡三春町字中町三番地 取締役 内藤伝之助磐城国田村郡三春町字北町百五十九番地 取締役 宗像藤右衛門磐城国田村郡三春町字中町九十一番地 取締役 大越己木蔵磐城国田村郡三春町字中町十五番地 取締役 渡辺平八磐城国田村郡三春町字大町七十六番地 取締役兼支配人 菅野春二郎磐城国田村郡三春町字丈六八十二番地 第七回 事業報告書当期間、自明治二十八年四月至同年九月ノ事業ヲ報告スルト下ノ如シ一、本期営業ノ概況ヲ陳シニ日清戦争ノ局ヲ結ヒシ爾来商工トモ漸ク 隆盛二赴カン状況ニ際シ蚕業モ又農饒致シタルニヨリ一般商業大 ニ振ヒ随テ旅客及ヒ物貨ノ交通頻ニ増加シ本社開業以来未曽有ノ 盛況ヲ顕シタリ 之ヲ前年ノ当期ニ比シ客車賃ニシテ百拾八円四 十三銭 貨車賃ニテ百拾九円九拾弐銭七厘ノ増収ヲ見ルニ至レリ 而シテ前期ニ於テ改革以来経費節減ニ重ヲ置キ来リシモ 業務ノ 繁閑如何ヲ熟察シ 其実況こ応スル処置ヲ為スモ亦必要ノ事卜思 考セシニ依リ当期ニ於テ貨車三台、馬匹三頭ヲ増加シ 少シタ事 業ノ拡張ヲ計リシ為メ臨時ノ経費ヲ要シタルモ 其他ノ経費中営 業上差間ノ起ラサル限り大ニ節略シタルカ故ニ 今回報告セシ計 算書ノ如前期ノ損失ヲ償却シタル上 猶利益ヲ得ルニ至レリ。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.08.21
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(十二) 資料 2 馬車鉄道敷地買上げの件 三奉馬車鉄道敷設に付ては田村安積両郡長が各戸長へ命令を下して為る丈けの世話に為る趣きなるが安積郡郡山戸長役場にては線路に当れる地所買上げの相談を遂ぐるが為め去る七日より今日に至るまで毎日地主を招喚して相当代価にて其地所を売渡すべしと談じ付けしに承諾せしは僅々四、五名にて其余は大概不承知を唱へ居る由何故に地主は不承知を唱えて地所を売らざるかと其訳を尋ぬれば、(1)東北鉄道線路に当りし地所を売渡せしとき其代金を受取らんと て安積郡役所に向け数回請求するも同郡に限り容易に渡さざり しを以て今回も亦た其恐れあらんとの疑を懐けること (2)戸長役場にては単に相当代価代価といふのみにて一反歩に付金 何円といふことを明言せす而して地主の求める代価には応せさ るに付果して一反歩を何円にて買取るの意か知るに由なきと以 上の二点が其相談の纏らさる重なる原因にて尚其他にも種々の 事情阿る事なれは地主は容易に承諾せざるべしといふ。 平馬車鉄道敷設の件 三春郡山間の馬車鉄道は其工事に着手するも遠きにあらざるべし同工事は遅くも一年間には成功せしめんとの見込なりと聞けば該工事の竣工するや否や工夫及び諸器械等まで移用するに於いては諸事手軽に工事を起こすことを得且つ三春平の間は之を水戸平の間に比して里程の近きのみならず乗客の福島仙台の若くは束京の諸方に向って旅行せんと欲する者必ずこれに乗すべし又平地方より差出する食塩、魚類、紙類、藍等は概ね岩瀬安積安達信夫伊達及び会津地方に輸出することなれば是等の諸荷物は大に運搬の便利を得膏に価格を低廉ならしむることを得て花客先きを多からしむるのみならず産出高を多くして地方の利益を来ること少なからず故に三春まで敷設して以て三春馬車鉄道線に連結せしめん (後略) 命令書第一条 今般許可スル処ノ馬車鉄道ハ福島県下田村郡三春町ヨリ安積 郡山町日本鉄道会社停車場ニ至ル在来ノ国県道ニ拠り之ヲ布 設シ運輸ノ用ニ供スルモノトス第二条 馬車鉄道営業年限ハ満三十カ年トス 但シ時宣ニ拠り満期後 継続営業ヲ許可スルコトアルヘシ第三粂 発起人ハ本書下附ノ日ヨリ三カ月以内ニ下ノ各項こ準拠シ線 路実測図面工事方法書及工費予算書ヲ調製シ県庁ノ許可ヲ受 クヘシ 但シ工事中又ハ将来営業中其一部タリトモ変更セン トスルトキハ其の都度更ニ認可ヲ受クヘシ 第一 軌道ハ両側人家連担ノ場所ニ於テハ道路ノ中央ニ之ヲ布設シ 其他ハ道路ノ一方ニ偏路シテ路端ヨリ弐尺弐寸ノ地ヲ余シテ 之ヲ布設スヘシ 而シテ敷地ハ一般ノ道路ヨリ高低セシムヘ カラス両側連綿ノ場所ハ其軌道間こ木石を填メ鉄軌面卜道路 面卜高低ナカラシムヘシ 第二 線路ノ山麓ニ係ル所ハ山方ニ沿フテ布設スヘシ 但シ曲線ノ 部ニ於テ半径制限ノ都合ニヨリ谷方ヲ通過スルヲ要スル場合 ハ比限リニアラス 第三 道路ノ一方ヨリ他ノ一方ニ軌道線ヲ移ス箇所又ハ横断スル箇 所ハ担当ノ踏切ヲ設置スヘシ 第四 鉄路ノ幅員ハ内法弐尺五寸トス 第五 軌道ヲ布設道路ノ幅員三間二満タサルモノハ拡築ヲ要ス 両 側人家連担ノ箇所ハ四間以上 第六 鉄道複線ヲ設クル所ハ道路ノ幅員四間以上ノ場所こ限ルヘシ 其両側人家連担ノ場所ニ係ルトキハ五問以上トス 第七 街路二於テハ屈曲ノ半径ヲ二十四尺トシ其他ハ四十尺ヲ以テ 最小限トスヘシ 第八 勾配ハ二十五分ノ一ヲ越ルヘカラス 第九 路面並ニ鉄路内ハ雨水ノ貯留セサル様充分こ排除ノ方法ヲ設 クヘシ第四条 発起人ハ前条ノ許可ヲ得タル後ニアラサルハ社中ヲ以テ株式 金ヲ募集スヘカラス第五条 外国人ヲ以テ株主トスヘカラス第六条 鉄路布設ハ第三条ノ認可ヲ得タル日ヨリ三カ月以内二者手シ 着手ノ日ヨリ十二カ月以内二竣功セシムヘシ 但災害又ハ正 当ノ理由アリテ期限内ニ義手又ハ竣功スルコト能ハサルトキ ハ相当ノ延期ヲ与フルコトアルヘシト言えトモ 其期限ハ予 定期限ノ半ヲ超ユルコトヲ得ス第七条 会社ハ身元保証金トシテ実地起工前布設費額ノ二十分ノ一ニ 当ル金額若クハ此金額ニ相当スル有価証券ヲ県庁ニ差出シ置 クヘシ 県庁ハ工事竣功検査済ノ後之ヲ還付スヘシ第八粂 天災又ハ正当ノ理由ナクシテ第六条ノ期日内ニ竣功セス或ハ 半途ニシテ工事ヲ廃シ又ハ中止シテ満一カ月ヲ過キ起工セサ ルトキハ特許ノ効ヲ失フモノトス此場合ニ於テ他ニ特許権ヲ 引受クルモノアルトキハ之ヲ引受ケシムルカ又ハ原形ニ復セ シムルモノトス 其原形ニ復セシムルノ費用ハ身元保証金ヲ 以テ之ニ充テ剰余アレハ之ヲ還付シ不足アレハ之ヲ徴スヘシ第九粂 鉄路ヲ布設スルニ当り該線路こ係ル橋梁幅員ノ狭矮ナルヲ拡 メ又ハ脆弱ニシテ架換ヲ要スル等ノ費用ハ会社ノ負担タルヘ シ 尤狭矮ナルト脆弱ナルトハ県庁ノ鑑定二依ルヘシ 前項 ノ工事ヲ要スルトキハ精細ナル図面及工事仕様書ヲ具シ県庁 ノ認可ヲ受クヘシ第十条 要悪水路ノ疎通ハ関係者卜協議シ該関係者指定ノ場所こ溝渠 又ハ暗渠ヲ設置スヘシ但其費用ハ会社ノ負担トス第十一条 鉄路ノ全部若クハ一部ノ工事竣工シ旅客並荷物ノ運輸ヲ開 業セントスルトキハ県庁ニ届出ツヘシ第十二条 県庁ハ前条ノ届出ニヨリ監査員ヲ派遣シテ工事方法書ニ照 ラシテ工事ヲ監査シ完全ナリト認ムルトキハ開業ヲ許可ス ヘシ 若シ不完全卜認ムルトキハ其改築修理ヲ命スヘシ尤 此場合二於テハ監査員ノ復命ヲ会社ニ示スヘシ会社ハ前項 ノ許可ヲ得スシテ運輸ノ業ヲ開クコトヲ得ス第十三粂 県庁ハ鉄路布設中臨時監査員ヲ派遣シテ工事ヲ監査セシメ 危険ナリト認ムルトキハ其改築修理ヲ命スヘシ 尤此場合 二於テハ監査員ノ復命書ヲ会社ニ示スヘシ第十四粂 第十二条・第十三粂ノ改築修理ヲナシタルトキハ更こ監査 ヲ受クヘシ第十五粂 旅客荷物ノ運送賃ハ運輸開業二先チ県庁ノ認可ヲ受クヘシ第十六粂 運送賃ノ変更改正ヲ必要卜認ムルトキハ之カ変更改正ヲ命 スルコトアルヘシ会社ニ於テ前項ノ変更改正ヲ要スルトキ ハ県庁ノ認可ヲ受クヘシ第十七条 非常又ハ公益ノ為メ巳ムヲ得サル事故アルトキハ県庁ハ相 当ノ賃銭ヲ会社二給与シテ該鉄路及車馬ノ全部若クハ一部 ヲ専用シ又ハ相当代価ヲ以テ買上クルコトアルヘシ第十八条 前条買上ノ場合ニ於テハ前三カ年ノ純益平均額ヲ以テ特許 残年数ニ乗シ使用材料其他必要アル附属品等ノ時価ヲ加へ 買上代金トス第十九条 臨時特殊ノ場合ニ於テハ県庁ハ会社こ命シテ一時通車ヲ停 止セシムルコトアルヘシ 但停止ニ付別ニ補償ヲ給セス第二十条 営業年限中下二掲ケル所ノ箇所ハ会社ニ於テ堅牢ナル構造 法ニ拠り 其修営及掃除ヲ負担スヘシ 第一軌道内及其左右一尺五寸通り 第二 踏切及其前後五尺 第三 橋梁及横切下水ハ第一ノ割合こ準シ工費ヲ支弁スヘシ第二十一条 県庁ニ於テ道路橋梁其他公共ノ工事ヲ起ストキハ工事中 其支障ナル箇所こ限り其材鉄軌道等ヲ撤去セシムヘシ第二十二条 会社ハ半年毎ニ営業ノ報告ヲ調整シ四十日以内こ県庁ニ 差出スヘシ第二十三条 県庁ハ監査員ヲ派シテ営業ニ関スル事項ヲ監査セシト命 令ニ違イタルトキハ之ヲ督責シ其事ヲ了スル迄営業ヲ停 止セシムルコトアルヘシ第二十四条 其材鉄軌其他ノ道路二布設スル物品ハ県庁ノ許可ヲ得ル ニアラサレハ他人ニ抵当トシテ金穀物件等ヲ借用スルヲ 許サス第二十五条 会社ニ内務省ノ許可ヲ得ルニアラザレバ特許ノ権利ヲ他 ニ売渡シ若クハ譲渡スルコトヲ得ス 但工事竣功ニ至ラ サル間ハ売渡若クハ譲渡ノ許可ヲ請フヲ得サルモノトス第二十六条 天災又ハ正当ノ理由ナクシテ満六カ月営業ヲ中止シ再興 ノ見込ナク 且他人ニ売渡若クハ譲渡ノ手続ヲ為ササル トキハ公道ニ係ル部分ハ其材鉄軌等総テ県庁二於テ公売 ニ付シ 此場合こ於テ剰余アレハ之ヲ還付シ 不足アレ ハ之ヲ追徴スルモノトス 前項公売代金ノ当否ハ県庁ノ査定スル所こ拠モ此場合ニ 於テ会社ノ損失ヲ生スルコトアルモ之カ要求ヲ為スヲ得 ス第二十七粂 免許年限中該馬車鉄道ノ全部又ハ一部ニ並行又ハ接近シ 若クハ之ヲ横断交叉スルトニ拘ハラス道路、橋梁、溝渠、 運河、気缶車鉄道(官設民設ノ別ナク)ヲ布設シ若クハ 他ノ馬車鉄道ヲ交叉スルコトアルモ会社ハ之ヲ拒ムヲ得 ス第二十人条 営業年限間該営業ニ関シ公衆ノ安全若クハ公益上必要ナ リト認メ 其設備ヲ命スルコトアルトキ会社ハ之ヲ阻拒 スルヲ得ス第二十九条 他日往来繁劇車馬幅捧ヲ加へ通行危険ナリト認ムル場合 ニ於テハ此命令ヲ修正スルコトアルヘシ第三十条 県庁二於テ道路ヲ変更シ魔道ノ処分ヲ要スルト認ムルトキ ハ 会社ヲシテ悉ク皆自費ヲ以テ該鉄路ヲ新道路又其他ニ 移サシムルコトアルヘシ第三十一条 営業年限満期ニ至ルトキハ公道ニ係ルモノハ県庁ノ指定 スル期限内二於テ自費ヲ以テ悉ク皆取払ヒ原形ニ復セシ メ 或ハ相当代価ヲ以テ官又ハ地方ニ買上ルコトアルへ シ第三十二条 此命令書二掲クル条件ノ外法律命令ヲ以テ定メラレタル 諸条件及将来定ムル所ノ諸件ハ総テ之ヲ遵守スヘシ第三十三粂 此命令書ニ掲クル条件ニ違背シタルトキハ内務省ハ其営 業ヲ停止シ又ハ免許ヲ解キ第二十六条こ準シテ処分スル コトアルヘシ 明治二十四年五月二十六日 内務大臣伯爵 西郷従道ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.08.11
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(十二) 資料 1 馬車鉄道の交通事故例。 (一) 明治二十六年九月十四日午後八時過ぎ、三春町より郡山間の鉄道馬車に客人を乗載し、郡山市字北町進行中の際、馬丁を前行させず馬車疾駆したため、同町武田長吉妻カネを圧倒、車両に接触、右上肢博骨・左胸第十一肋骨等に傷を負わせ、武田カネを長期加療に至らしめた。この事故は、警察の取調べを受けたのち書類を裁判所に送付。同年十月三日白河裁判所郡山出張所において判決が下がっている。馭者、馬丁に村し「其証拠ハ被告共ガ当法廷こ於テ陳述、安積警察署ノ尋問調書、検証調書、医師湯浅為之進ノ検案書等こ依り充分ナリトス。之ヲ法律二照スルニ刑法第三百十九条過失こ依テ人ヲ創傷シ、疾病休業こ至ラシメタルモノハ、八十二円以上百五十円以下ノ罰金二処スルトアルニ該ル。事未発ニ自主スルヲ以テ、同法第十五条二照シ一等ヲ減ジ、其範囲内二於テ処断スベキモノトス」とあり、両名の者を、各罰金十円に処している。 (二) 明治二十七年九月十二日、三春発午後三時発客車が、南小泉を通過した時、本宮町の者が急に横合より線路際に出たため、馬車の進行を止める暇なく接触したものである。この者は水田へ転倒し身体冬痛を訴え、会社に迫って保証金を要求した。医師に依頼して検診した結果、傷なきのみならず、本人の言う疼痛あることも認め難いとのことであった。このため本人に言い含め立去らせようとしたが納得せず、やむを得ず翌三十日警察官の論旨を求めて立ち退かせた。 高崎郵便馬車運輸会社規則一、馬車ハ専御藩用並土地用品、社内商物運送、諸用早鞭ノ為メ翌候得共、僻令社外ニ侯共、社中へ引合有之候分ハ、乗入荷物トモ社中同様取扱、日々高崎上下ハ同所明ケ六ツ時、東京同時出車。熊谷上下ハ同所五ツ半時、東京明ケ六ツ時差出、何レモ箕田村追分こテ行合候筈。尤熊谷以北ノ川支ニモ一圓出車見合居候テハ、其藻最寄社中用向差支候二付、熊谷ヱ分社相立置、荒川川支無之内ハ、東京ヨリ日々上下致、高崎送荷モ其品柄二寄、手廻シノタメ、能谷迄輸送致候事。 但別段之御儀ニテ馬車人夫共御用之節ハ、被仰付次第、本社分社共無遅滞差出、無相違為相勤候事。一、東京、高崎両元会社預り、元〆大、差添一人、附属ノ者三人宛、能容出張会社預り、元〆一人、附属二人。尤元〆、差添ハ社中人撰、附属ノ者ハ元〆、差添進退ノ事。一、東京、蕨、桶川、熊谷馬五匹、馬飼三人宛、本庄、高崎馬三匹、馬飼二人宛、何レモ一車ニ一人宛、難所迄付添相越ス。蕨、桶川、本庄、箕田村追分継替所トモ、厩預リ一人宛差置、馬扱方不都合無之様、仕侯事 但備馬之儀、差当リ六ヶ所ニ引分置候共、発行ノ上、継間、道路ノ遠近難易、立馬ノ強弱。見計、所ヲ不限相廻候事。一、二匹立一車、御車二人宛、上下ニ車合テ四人、内東京二人、高崎、熊谷一人宛差置、高崎、熊谷里数違候二付、代り合、相勤候事。一、御車馬添ノモノ相対二テ荷物、書状等請負不申、勿論乗人、荷主ヨリ酒代等乞受侯儀、禁置候事。 但御者時ニ寄、御藩土方御出候トモ規則同様。尤道中替合侯テハ不都合二付、高崎、東京、熊谷、何レモ乗通シ候所こ止宿、休足之事。一、三匹立二車二六ヶ所、備馬一匹宛ノ人馬配ニ候得共、当分夜通不差出候ニ付、東京卜高崎、熊谷、時刻走出社、箕田村追分ニテ行合、馬ヲ替引違候得者、車数一倍相成候ニ付、実車四輌ヲ以御改ヲ請、上下仕、猶車数相増候節ハ更ニ申上、請御差図侯事。一、府下ハ不及申、道中筋往来込合候所ハ、御者精々心付、馬添ノ者先走致、老幼盲人其外トモ、怪我無之様仕候事。一、道中在来之道橋、宿村持ニ候得共、巾狭キ橋ノ掛添、堤通馬除、河原車道等、新ニ補理候物ハ、悉皆会社持ノ事。 但道橋宿村持ノ分、大雨洪水ニモアラス、修補ノ怠ニモアラス、全ク馬車ノ為ニ破損セルモノハ、会社ヨリ速こ修繕候事。一、久下村堤通馬除之儀ハ、御下知済直ニ取掛、出来ノ後馬車上下致候事。一、神流川、柳瀬川河原、当時ハ有形ノ侭、荒石ヲ少々取除候位ノ事ニテ通行差支無之、車道ニ不及候得共、追テ車道ヲ作不申候て不叶時ハ、篤卜水路ノ順逆、堤防之利害ヲ相考、更ニ申上、請後差図候事。一、渡船敷板、歩ミ板等ノ入用、会社ヨリ出之、渡越シ賃限(銀)並車乗セ下シノ手伝料共、川崎宿ノ以振合、二匹立、一匹立。無差別、一渡金一宋宛、玉井窪出水ノ節、越立板路上下ノ手伝頼候モ、相手ノ貸銀相払候事。一、馬車関門通行、及道路ニテ官員方御通行ニ通リ合侯節心得方、横浜往来ノ振合ニ準シ侯事。一、道中往来、高崎運輸会社ノ小旗相用候事。一、馬車相続ノ見据相立候上ハ、横浜往返馬車ニ準シ、相当ノ冥加金永々上納仕侯事。一、三会社元〆並差添ノ者、取締トシテ時々往来筋見回り、諸事不都合無之様申合候事。一、御藩ニテ御掛役被為立置、三会社并所々厩々、不時御改方ノ儀兼テ願上候事。 右之通御座候。以上。 辛未 (明治四年) 六月 馬車発起人 高崎元会社元〆 束京瀬戸物町十四番借地 河村栄蔵 同差添 上州高崎宿新町年寄 矢島八郎 武州能…谷駅分社元〆 林弥平次 東京元会社元〆 東京品川町四番借地 大浦昇輔 運輸会社賃銀定額一、東京ヨリ高崎迄賃銀、荷物壱駄壱里五匁、二十七里ニテ百三十五匁、高崎ヨリ東京迄、壱駄壱里四匁五分ノ割合、百弐拾壱匁五分。是ハ銭ニテ賃銀立置侯テハ、両替ニヨリ賃料時々相狂不都合こ付、最初ノ見込壱駄壱里銭八百八拾文ニヨリ、東京、高崎銭相場考合、凡平均ノ割合ニテ銀目ヲ以相定侯事。且又会社ヨリ着荷ノ分、届先キ賃銭ハ、定飛脚会社ノ振合二準シ候事。一、東京ヨリ熊谷迄賃銀、上下共壱駄壱里五匁、拾六里こテ八拾匁。尤高崎、熊谷足飛脚之振合モ有之候得共、当会社、社中用辯、入用手軽ヲ主トシ候二付、高崎同様里数当リヲ以相走、会社ヨリ先ニ届貸、右同断ノ事。 但衆人壱人、荷物壱駄、着替等ノ随身品、弐貫匁迄無賃銀、尤夜通ノ儀ハ車数相増、人馬熟練ノ見極相立候迄、見合候事。一、貸銀割合、駄荷ノ分左之通。一、銀百三十五匁、荷物壱駄、東京ヨリ高崎迄持賃。一、同百二十一匁五分、右同断、高崎ヨリ東京迄持賃。一、同八拾匁、右同断、東京、熊谷トモ同賃。一、荷物壱駄ニ不纏分賃銀、高崎ハ定飛脚並、熊谷ハ弐割引ヲ以左ノ通。一、銀壱匁、目方百匁迄、東京、高崎共同賃、以下四廉同之。一、同弐匁、三百匁迄。一、同三匁五分、五百匁迄。一、同五匁、八百匁迄。一、同六匁、一貫匁迄。一、同八分、目方百匁迄、熊谷上下共同賃、以下四廉同之。一、同壱匁六分、三百匁迄。一、同弐匁八分、五百匁迄。一、同四匁、八百匁迄。一、同四匁八分、壱貫匁迄。但壱貫匁以上ハ総テ壱貫匁当ヲ用。一、嵩物、長物、手薄箱ハ石貨銀へ三割増。比外モ品柄ニヨリ、又ハ極メテ至急ノ分、造荷ニテモ時宜ニヨリ割増相懸り候節ハ、其荷エ委細遂談判、相極候事。一、金銀ノ儀ハ壱切取扱不申候事。一、書状ハ総テ郵便ノ割合、外ニ道中社入ノ定宿ニテ取次候分、賃銭請払切手ヲ添候筆紙墨手数ノ料、定マレル賃銀ノ外、壱封ニ付銭六拾文宛、頼候者ヨリ受用為致侯事。右之通御座候。以上。 馬車発起人 高崎元会社元〆 東京瀬戸物町拾四番借地 河村栄蔵 同差添 上州高崎宿新町年寄 矢島八郎 武州能州谷駅分社元〆 林弥平次 東京元会社元〆 東京品川町四番借地 大浦昇輔 同差添 東京小田原町魚問屋 河村伊兵衛 高崎藩 小林伊麻里 高崎運輸会社の諸規則は、当時走っていた陸羽街道馬車会社(東京=福島間)の規則と、大意に於いて差は無いと判断し、資料として掲載した。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.07.21
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おわりに 私が三春馬車鉄道に惹かれた時期は、昭和五四年秋の頃と割合はっきりしています。三春の郷土史などに掲載されていた写真などは時折見ていましたが、本屋の立ち読みで「面白写異術」という本の中にニューヨークの馬車鉄道の写真を見付けたのがそのキッカケでした。その写真の説明に、撮影の時期が記載されており、それが三春の馬車鉄道と同じ頃に走っていたということを知ったのが発端でした。 まず三春公民館の資料室であさりましたが結局今までに見ていた写真のコピーしかなく、東京神田の交通博物館の資料室に行って相談してみました。そしてそこにも馬車鉄道の資料がまったくないことに驚かされました。それから郡山市の図書館をはじめ、福島県立図書館、東白川郡棚倉町図書館等を遍歴したが、これまた全くといってもいい程、何の資料もなかったのです。 私は、最初からこういう本を書こうと思ったわけではありません。三春馬車鉄道の写真が無いのなら、知っている人が何人かいる今の内に模型を作っておきたいというような気持になりました。そして、「馬車鉄道、馬車鉄道」と言って歩いている内に三人ほどのおばあちゃんを見付け、更にいろいろ助言をしてくれる方々が現れました。それらの方々が、三春町の広報誌をはじめ地元の新聞、そしてTV局などにも働きかけてくれたのです。そしてその新聞の記事が、私を大変な方と引き合わせてくれました。当時仙台の陸運局長をしていた和久田康雄氏です。私も始めての方に会うために、仙台の合同庁舎の陸運局長室に押しかけたのですから、いかに夢中だったかということでしょう。 和久田氏の助言は、「復元への協力はやぶさかではないが、それには大きな意味はない。むしろ地方史の一部分として掘り起こすべきだ」ということでした。言われた通りに聞き、黙って引き下がって来ましたが、復元に心を奪われていた私は、内心面白くありませんでした。とにかく氏の資料をはじめとして、復元を了えたのですが、臆面もなく、その間に集まった資料や文献から、本を出す気になってしまいました。それらを考えてみると結局私は、和久田氏の掌(たなごころ)から逃げ出すことが出来なかったということでしょう。 ところで本に書くということは、和久田氏の紹介で「鉄道ピクトリアル・昭和五八年一月号」に「三春馬車鉄道の思い出話」として、また郡山市教育委員会昭和六十年発行の「研究紀要・第三号」に「馬車の系譜とl二春馬車鉄道」として掲載されたものがありますが、本格的なものは勿論これが始めてです。ましてや「一はじめに」に大上段に振りかぶって書いたように、「日本資本主義史の中の田村地方の特に蚕糸業の発達と三春馬車鉄道との関連」つけが全くうまくいかず、ただ車輪の発達と蚕糸業の様子と三春馬車鉄道の三つを、単に羅列したに過ぎなくなってしまったような気がします。考えてみればそれぞれの分野に沢山の専門家が居られる訳ですから、結果的にいくら私が気張ろうとも、「ハサミと糊」 のそしりはまぬがれないと思います。それにしても特に気を使ったのは、戊辰戦争のくだりです。書いてはみたものの地元の事柄でもあり、これ丈私見を書き加えれば相当の批判も覚悟せねばなるまいということから、高橋哲夫先生の門を叩きました。その挙げ句にこの本の序文を先生にお願い出来たのですから私にとって、とても光栄なことと感謝しております。 これらの事情からいざ本を出そうと心に決めた時、最初にその気がなかったので参考文献をきちんと整理しておかず、どの本から採ったか分からなくなってしまった所が少なからず出てしまいました。著者の方々には大変申し訳ありませんが、とりあえず不明ということで出させて頂きました。今後とも調べさせて頂きます。とにかく沢山の方々のご協力を頂き、またご協力を強制した部分もなきにしもあらずではありましたが、今この本が出来上がったことについては、感謝以外のなにものでもありません。次にお名前を列記し、お礼とさせて頂きます。 なお昭和五六年、いろいろお世話になった村田イネさんが亡くなりました。ご焼香にお伺いした時にご家族の方より、「捨五郎さんと馬車鉄道で郡山サ行って……」という話をしていたと教えられました。私の古くさい名前と実物大の模型に乗って頂いた時のこととが、意識の混濁の中で結びついてしまったのでしょう。私もその話をお聞きしながら、亡くなった方の何がしかの楽しい思い出につながったことを知り、心から御冥福をお祈り致しました。 この他にもこの本の出来上がる前、既に物故された方々へのお礼の気持ちとして、次の駄作を載せさせて頂きます。それを知る 媼(おうな)らは皆 去り逝きぬ 馬車鉄道の 稿を了えしに お世話になった方々 (敬称略)利用された方々・年令は昭和54年の時 多田テル(92歳) 村田イネ(89歳) 勝間キク(89歳) 吉田イネ(83歳) 山崎ハツ 斎藤正見 橋本勇治資料関係その他 高橋哲夫(郡山女子大学) 田中正能(郡山女子大学) 西沢倍(東北歯科大学) 伴野亘(田村高校) 藤村瞬一(津田塾大) 古河芳一(富久山歴史研究会長) 前田利光(中央大) 無着成恭(明星学園) 和久田康雄(仙台陸運局長) 三春公民館 三春歴史民俗資料館 郡山図書館 福島県立図書館 東京交通博物館相談室 大阪交通科学館 小岩井農場 福島民報社 福島民友新聞社 函館市交通局 国鉄郡山客貨車区 協三工業 福島交通 NHK郡山放送局 福島中央TV復元関係 大高善兵衛(ヨークベニマル社長) 渡辺隆弘(郡山市会議員) 田中和史(山陽スコット仙台営業所々長) 松田工務店 三木写真渡辺武設計事務所 (五十音順)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.07.11
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講演とその内容 於JR郡山駅会議室 S63/7/8 当日、JR郡山労組主催の「今後のJRのあり方」の研究会に依頼を受け、ミニ駅新設を中心に講演を行った。 鉄道と郡山の活性化の為に (一)運行1‥新交通体系は、東北本線、磐越東西線、水郡線の相互乗り入れと し、郡山駅は従来のターミナルと新に通過駅の性格を持たせる。2‥現在ある駅は、快速電車の停車駅と考え、新駅には五〜十分間隔 で一両編成の鈍行のみを停車させる。これは、基本的なダイヤに 変更を加えず、空いてる時間を有効利用するためである。3…非電化のため、磐越東線・水郡線を連続運行して新陣場駅、また 東部幹線を利用して、準工業地域の富久山日東紡周辺を臨空港工 業地帯と位置づける。さらには成田国際空港のサブ空港としての 位置付けのためにも、鉄道の整備が急務である。4…連行主体としてはJRが理想であるが、もし無理なら私鉄に経常 を依頼したり、バス会社を含めた第三セクターも考えられる。5…阿武隈急行の郡山乗り入れを須賀川までの乗り入れに延伸し、こ れらの新駅にも停車する。 (二)ミニ駅6…新駅はコスト低減のために一両分の長さのホームとし、必要に応 じて伸ばす。7…駅は無人駅を原則とし、出来ればコミュニティ・センター、商店 併設とし、駅業務を代行させる。8…道路等の陸橋の下に作れば、ホーム上の屋根が省略できる。9…三春は駅裏に駐車場用地を確保済み、担橋踏切よりレールを延長、 三春中学校前に駅を新設したい。(田村高校にも近い) (三)活性化10…熱海・本宮・三春・須賀川の外側に熱海五丁目・竹花・三春中 学校前・一里塚・それと空港ターミナルの各駅を作り待避線を 兼ね、これらに大きな駐車場を併置して郡山市内の車両の乗り 入れの減少を考え、通勤の便を良くすると同時に、各駐車場中 心に、商業の集積を考える。11…このことは郡山駅前の交通混雑の緩和に役立つと同時に、駅商 店街は鉄道中心に、また西部には自家用車を中心にして発達を 促し、商業地の開発を計る。12…郡山駅前商店街や各駅近くの会社勤務の社員が、自家用車に頼 らず電車で勤務出来ることにより、社員の駐車場の確保が不用 となり、かつ社員を集めやすくなる。13…田村方部での半日観光の開発を考え、会津観光の中継宿泊地と して磐梯熱海への誘客を計る。14…磐越東線にSL運行を考え、東京・仙台方面より、いわき経由、 あぶくま洞〜三春・磐梯熱海の流れを作る。(四)新規事業15…テクノポリス指定を踏まえ、新駅に公共施設の貼り付けと新住 宅地の開発を促進し、鉄道の利用客を増やす。16…区画整理の会社を作り、宅地開発をしながら駅の建設費用を捻 出する。17‥郡山操車場は一括売却せず、鉄道と道路の融和を考慮した都市 計画を作り、これに基づいて分割分譲する。18…新駅に近い新幹線の高架橋下及び利用可能地を、有料駐車場と する。19…駅から離れた高架橋下に、貸倉庫は出来ないか。20‥交通博物館はどうか。(三春馬車鉄道・福島市電・沼尻鉄道)(四)バスとの関連21‥三春・本宮・磐梯熱海・須賀川・福島空港から郡山への路線バ ス運行時間と電車それとのタイミングをズラし、新駅にも停車 して両者の集客を計ると同時に、公共交通機関としての地位の 向上を計る。22…バスは郡山駅のみではなく、新駅からの発着も考える。(五)まとめ23‥とこの方式は郡山市だけの問題としてではなく、県内各都市は 勿論、全国的にも相当数の都市が該当すると思われ、新鉄道会 社としても大きな利点になると思われる。24‥これらの結果として域内交通に全く自動車を使わない部分が出 来、更に増えることは郡山の新市域を形づくるに大きなインパ クトを与えると思われる。25‥新駅設置に際し、大きな郡山圏の交通計画と駅そのものの規模 に対する、市民間のコンセンサスが必要。 新駅設置希望地域記号無し・駅新設期成同盟会発足地 ( )既存駅「 」橋本試案郡山地域 東北本線北部…「久保田」・「福原」・「寺池」・(日和田)・「大口原」・ 「藤坦」・「上の台」・(五百川)・「戸の内」・(本宮)・ 「竹花および駐車場」 東北本線南部…「小原田」・「南郡山9・(安積永盛)・「清陵高校前」・ 「須賀川北」・(須賀川)・「須賀川南」・「一里塚およ び駐車場」 磐越東線…「陣場」・「小泉」・(舞木)・「日陰橋」・「太田橋」・(三春 および駐車場)・「三春中学校前」 磐越西線…「歯科大前」・「東原」・「卸町」・(喜久田)・「対面原」・(安 子ヶ島)・「大沢」・(磐梯熱海)・「熱海五丁目および駐車 場」 水郡線… (安積永盛)・「清陵高校前」・「正直」・(磐城守山)・(谷 田川)・(小塩江)・「空港ターミナルおよび駐車場」福島地域 東北本線北部…森合・東福島・(瀬の上) 福島交通への提案(ミニ駅と関連して)1…郡山駅前の交通混雑の緩和が計れ、バスの定時性が高まる。2…阿武隈急行、須賀川まで乗り入れさせる。3…東北本線以外は、福島交通との第三セクターを考える。4…ミニ駅を、新たなバス発着地として開発する。5…三春・本宮壷梯熱海・須賀川・福島空港からの路線バス運行時間 と電車のそれのタイミングをズラし、新駅にも停車して両者の集 客を計ると同時に、公共交通機関の地位を高める。6…バス停にキヨスクや、ミニ・コンビニエンスを併設する。7…イベント会社を考え、各地と組んで乗客の増加を考える。(交通博 物館・三春馬車鉄道、沼尻鉄道[中の沢温泉・西田屋旅館にて保 管]、福島市電、SLを中心に)8…広域循環バスを走らせる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.06.21
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座談会 新駅設置を考えよう 2 磐越西線東原駅佐々木…穴沢さんのところは、磐越西線東原駅という仮称までつけて の新駅設置の運動ということですが、どういうきっかけで出 来たんですか。穴 沢…そもそもの発端というのは、去年の十月に福島民報の論説に “ダイヤの次は周辺の駅新設″というのが載っていたんです。 その記事には、JRが本気で対処しなければならないが、自 治体や地域住民が立ち上がれば実現の可能性はある、お金が どうのと考えずに、地域住民が一体となって運動を展開すべ きだとあったんです。西線の場合、郡山の次が喜久田なんで すが、この区間の距離というのが七・九キロメートルもあっ て駅間距離が一番長いんです。この間に一つ駅を作れば便利 だし、地域の活性化にもなる、ということになって始まった わけです。私が地区の連絡会長をしていたせいで、期成同盟 会の会長になったわけです。佐々木…郡山から熱海までは距離にして十キロメートルちょっとでし ょうが、郡山と喜久田が八キロメートルというのは、確かに 長いですね。穴 沢…そうなんです。それと最近の喜久田町は、団地もいっばい出 来て人口も多いんですよ。それに卸団地等もありましてね、 通勤・通学者にとっても途中に駅が一つ出来ることは大歓迎 なんです。それで今年の二月二一日に期成同盟会を結成して、 まず地区住民に運動の主旨を知ってもらおうと思いまして、 約一千所帯全戸に「磐越西線東原駅(仮称)新設について」 というチラシを配布したんです。そして三月に、まずJRよ りも市に陳情しようということになりまして、市に陳情書を 提出したんです。陳情書に対する解答を聞きたくて二度ほど 市役所に足を運んだんですが、二回とも継続審議というんで す。その後担当の開発観光課の課長にあって聞いてみたら、 施設はどの程度のものにするのか、単線の場合、概算で五千 万位で複線だと二億位かかるんだ、ということなんです。東 線は単線なので安くはあがるそうですが、この金額に用地代 は含まれていないそうなんですね。それと自治省との関係で、 自治法によると自治体の負担が三分の二、残りは受益者負担 になる、ということ。そのほか路線バスとの関係、地域の鉄 道利用との問題と、なかなか大変なわけです。聞くところに よると、仙台市ではJRになってから国見駅ができたんです が、そのほかの駅は地元負担金が集まらないで未定になって いるそうですね。地元負担があまり多いとその二の舞になり かねないんですが、せっかく盛り上がった運動ですから、な んとか実現したいと思ってこれからの運動としてはJR東北 支社への陳情、新駅が実現したところの視察や経過を調べる こと、その結果をふまえて地区代表との懇談会を開き、その 話を市長に陳情しよう、ということを役員会では話合ってい るんです。 期成同盟会の連絡会結成を!佐々木…確か橋本さんはモデルコースというんですか、新駅設置のた たき台をお作りになったと思うんですが、どういう構想なん でしょうか。橋 本…私の個人的考えですが、一両編成で普通のダイヤの空き時間 などに、山手線のようにグルグル回って、駅に行けば電車が 来るみたいなことなんです。現在では三春と舞木の間にも駅 がほしいとか、須賀川でも北と南に駅があれば、また安積永 盛と磐城守山の間にも駅を、とかいろいろ希望があるように 聞いているんですよ。それで、そんな話までプランの中に入 れて、私が考えたのは東北本線の場合、 北は久保田=福原=寺池=(日和田)=大口原=藤坦=上の 台=(五百川)=戸の内=(本宮)=竹花および駐車場です ね。 南は小原田=南郡山=(安積永盛)=清陵高校前=須賀川北 =(須賀川)=須賀川南=一里塚および駐車場。 磐越東線でいえば陣場=小泉=(舞木)=日陰橋=太田橋= (三春および駐車場)=三春中学校前。 西線だと歯科大前=東原=卸町=(喜久田)=対面原=(安 子ヶ島)=大沢=(磐梯熱海)=熱海五丁目および駐車場。 水郡線だと(安積永盛)=清陵高校前=正直=(磐城守山) =(谷田川)=(小塩江)=空港ターミナルおよび駐車場。 既存の駅の間にたくさん新駅を作ってね、郡山駅乗り換えな しの電車が走ったらどうなるだろうか、と思うわけです。駅 が出来たことを考えて勝手にプランを練るのは楽しいもので すよ。これが実現したら、郡山の経済も変わっていくと思う んですがね。佐々木…新駅設置を考える時、どの程度の駅にするかというのも大事 なことになってくるんでしょうね。鈴 木…私はね、一両や二両の駅では地域の発展にはあまり寄与しな いと思うんですよ。足の便がよくなったというよりも、どん な小さな駅でも駅前には商店街が形成されたり駐車場ができ たりしないとね。だから予算ギリギリでただ停車させるだけ では。すでにそんな駅の運命を私たちはいくつも見ているわ けですからね。これから駅を作る場合は、駅を作れば必ず開 発されていくんですから、開発が進んだ時に、あの時駐車場 スペースをとっておけば、など反省することのないよう考え ていかなければならないと思うんですよ。橋 本…そうですね。郡山市の都市計画の中にまで組み込んだような 新駅設置構想が大事だと思います。浜 尾…佐藤栄佐久議員もね、私たちの考えに賛成でして、協力を惜 しまないと言ってくれているんですよ。市の対応が決まれば、 富久山は一丸となって取り組む用意ができているんです。穴 沢…地元の強い要望があるんですから、負担金の話ばかりしない で、実現するにはどうしたらいいか、その方法論を考える必 要がありますね。橋 本…私は今日は大変嬉しいんです。各地区で新駅設置を考えてい る皆さんと話ができて。というのもそれぞれがバラバラな運 動をしていたのでは詰も進みませんし、実現させるためには 統一的な方向というんでしょうか、どこに駅を作るのが郡山 全体の発展につながっていくのか、方向をもって段階的に取 組んでいかないと、結果的にうまくいかないと思うんですよ。浜 尾…そうですね。私たちだけで運動するんじゃなくて、期成同盟 会の連絡会のようなものを作って、その中で一緒に運動を進 めていった方がより効果的ですね。橋 本…そうなればいいですね。それぞれの要望をきちんとふまえて、 それじゃどうする、と皆で考えていくべきですね。鈴 木…鉄道というのは、そう簡単にいじれるものではありませんか ら、作ったあとで後悔するよりも最初から開発されたあとの ことまで考えてやっていかなければなりませんね。 一歩前進を願って佐々木…ところで駅が出来ることによっての利便性は計り知れないも のがあると思うんですが、将来の夢のようなお話を.伺いた いと思います。浜 尾…私は以前国鉄にいたのですが、その当時東大出の元気のいい 次長がいたのですよ。彼がね、電化したら日和田から先も三 十秒停車で二カ所も三カ所も駅を作って停めるべきだといっ ていたんですよ。ボツンボツン停めているようでは時代遅れ だから国鉄はもっと柔軟に対応しなければならない、といっ ていたんですが、まさに今の状況を先取りした提言でしたね。橋 本…そうなんですよ。間隔を短くしてどんどん走らせるべきなん ですよ。そのためには一両でもいい、ということなんですが ね。穴 沢…やっぱり都市計画の中で新駅をどこにするかという大きなビ ジョンが不可欠ですね。浜 尾…それと市や議会の代表と、市たちも含めて1Rの責任者にあっ て、私達の構想を説明し、どういう条件が満たされたら新駅 を設置してもらえるのか、という具体的なこともはっきりさ せてほしいですよね。橋 本…私は今日の集まりは一歩前進だと思いますよ。今まで誰がど こでどの程度の話を進めてきたか、まったく分かりませんで したからね。これを機に商工会議所などが全体のまとめ役に なってくれて、連絡会などを結成し、情報交換や意見交換と いうものが出来れば、大きな前進になっていくでしょうね。佐々木…新駅問題は商工会議所の事業計画にも入っていますので、こ れから十分検討して、皆さんのお役にたてるように努力して いきたいと思います。鈴 木…プランとしてはね、鉄道博物館を作りたいとかいっぱい持っ ているんですが、市全体の発展の中でどう位置づけていくか が大切なことですから、充分に検討しませんとね。橋 本…私は水郡線にはSLを走らせるとか、特徴ある路線づくりと いうのも考慮して欲しいと思います。佐々木…今日の座談会が、一歩前進のお役にたてばうれしくおもいま す。ご意見ありがとうございました。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.06.11
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うっかりしました。 6月21日に載せる予定であったこの稿を、失念してしまいました。本日、掲載させていただきます。 なお、この馬車鉄道の稿は、もう少し続きます。毎月11日と21日に掲載しておりましたので、次回は、6月11日となります。 今後とも、ご指導をよろしくお願いいたします。 座談会 新駅設置を考えよう 1 昭和六二年三月号「街こおりやま」 出席者(あいうえお順) 穴沢 泰 さん(郡山市喜久田町字人ノ内三八の九三) 鈴木 武司さん(郡山市小原田一の十七の二九) 橋本捨五郎さん(郡山市富久山町久保田字水神山四四) 浜尾介三郎さん(郡山市富久山町八山田字舘前一五九) 司会・佐々木寛有 (街こおりやま社同人)佐々木‥国鉄が民営のJRとなって一年経ったわけですが、この一年 の問に郡山市内には新駅設置の声が各所に起って、期成同盟 会を作って活発に連動が展開されてきています。そこで今日 は、期成同盟会の皆様に集まっていただいて、その運動をお 聞きしたいと企画しました。またこれからの郡山の発展を考 えたとき、この運動が全市民のものとなって広がっていけば、 二十一世紀の郡山も活性化するんじゃないか。という願いも あるわけです。商工会議所の方にも要望書が出されておりま すが、ちっとも動いてくれないという批判もお聞きするわけ ですが (笑) まあ耳の痛い話でも何でも結構です。ざっ くばらんに皆様の声をおきかせいただければ、と思います。 郡山駅が始発・終着では……佐々木…橋本さんは、知る人ぞ知る鉄道マニアといいますか熱烈ファ ンの一人で、麓山にある歴史資料館に展示されています三春 馬車鉄道を復元された方で、国鉄が民営化される以前から新 駅設置の運動をなさっておいでなので、まずは橋本さんから 鉄道の話といいますか、ご自分の運動のきっかけなどからお 話しいただきたいと思います。橋 本…私の場合、鉄道マニアというか、ただ単に鉄道が好きなんで す。それでこれまでもいろいろ自分なりに調べてきたわけで すが、それが現在の新駅設置の運動にドッキングしましてね、 私としても喜んでいるわけです。郡山というのは、交通の要 衝として発展してきた歴史があり、これからの郡山の発展を 考えた時に今、新たに鉄道を見直すことが不可欠の問題じゃ ないか、と思うわけです。単純にみて、現在はJRでもバス でも公共性の高い乗物は、その殆どが郡山始発であり終着な んですね。ここに問題があると思うんです。というのは、例 えば磐越西線、東線、水郡線からも東北本線につながる考え 方が出来ないもんだろうか、と思うわけです。現在は須賀川 の人が磐梯熱海に行くとして、まず束北本線で郡山にきて西 線に乗り換えて熱海に行きますね。距離的にはたいしたこと がないのに、乗り換えやなんかで時間がかかるわけですね。 この時間的ロスというのは利用者の負担なんですよね。そこ で、郡山駅が始発・終着でない考え方でみればどうなるか。 例えば郡山駅を山手線の上野や東京駅のような位置づけで考 えると、どうしても新駅が必要になるし、通勤・通学・買物 客も便利に使える鉄道になると思うわけです。新駅ができれ ば、それと同時に駅周辺の再開発や地域の活性化にも当然つ ながっていくわけですからね。そういう発想がこの運動を始 めるきっかけになっているんです。佐々木…道路だけでなく鉄道にも内環状線のような考え方を採用する のは、私も大賛成です。二十一世紀に向けて当然議論すべき 問題だと思います。私は昨年、テクノポリスの関係でアメリ カ視察に行ってきたのですが、道路網と同じく鉄道もものす ごく発達しているだろう、と思っていたのですが、そうでは ないんですね。橋 本…そうなんです。アメリカには独特の事情があって、鉄道はそ んなに発達していないんです。というのは、自動車メーカー が自社の車の販売を伸ばすために、鉄道会社を買収して潰し てしまう、というようなことがあったんですね。それで道路 といっても広場みたいに広い道路でそれが縦横に走って、鉄 道のほうは発達しにくかったんですね。ロスアンゼルスは周 辺人口まで含めると一千万人という大都会なのに鉄道と呼べ るものは一本もないんですよ。佐々木…そうなんですね、びっくりしました。橋 本‥日本も自動車は普及していますが、アメリカの道路のような わけにはいきませんから、公共の乗物というのが発達したん だと思います。佐々木…そうですね、最近の土地高騰をみても、地上は道路で地下は 線路にと活用しないと、国土の面積的な問題からみても無理 ですからね。 南郡山駅の構想佐々木…現在郡山市内には五つの期成同盟会が出来ているそうですが、 鈴木さんは南郡山駅の構想をもって運動をなさっているそう ですね。どんな構想なんでしょうか。鈴 木…私共の場合は、安積町にある貨物ターミナル駅が売りに出さ れるという話を聞いて、それなら公共性の高い土地利用を考 えよう、ということになったわけです。そもそもあの貨物タ ーミナル駅が出来る時に、土地を国鉄に売った地主さん達が いるわけで、その人達からも廃止して売却するなら元の地主 に返してもらおう、それも土地を返してもらうという考え方 でなく、地元に役立つ公共性の高いものとして返してもらお う、いうことで運動が始まったわけです。東京駅の視察とか いろいろ勉強しているんですが、運動してみて分かったこと は、国鉄清算事業団というのがあって、ここでいろいろやっ ているわけですが、この事業団の考え方は、今すぐ売却とい うのは考えていない、跡地については自治体の意見も反映し ながら、自分達の手で再開発をしたい、ということなんです。 私たちは、基本的には郡山の東西南北に新駅設置を考えよう、 と思っているわけです。南郡山駅は四九号、四号線の混雑緩 和、工業団地、学校などの通勤、通学の利便性から好適地で ある、という考えなんですが、橋本さんもおっしゃったよう に、郡山は拠点主義なんですね。郡山駅しかないんですから。 ですから南郡山駅を作って拠点の分散化といいますか、新た な拠点づくり、生活用としての鉄道の見直しを考えているわ けなんです。佐々木…市議会でもこの間題を取り上げられましたよね。鈴 木…九月の市議会の一般質問で取り上げました。現在、JRのほ うで三十六ケ所ほどの用地を処分したいと言っているんです。 県の企画調整部長の方から、六月二五日に、もし市に購入希 望があれば書類を提出するように、という指示がきて、市と しても前向きに検討しまして、三十六カ所のうち十四カ所、 用地合計面積約二七・七一二の希望を出しているんです。こ の中には、東橋下の駐輪場だとか既設のものも含まれていま すが。佐々木…既設のものというのは?鈴 木…旧国鉄郡山工場のグランド二五〇平方メートルだとかです。 市はね、用地買収については前向きなんです。でも具体的話 になると、路線バスなどの問題もあってスムーズにはいかな いんですが、それでも現在ある駅の中で日和田駅の沈滞した 状態をなんとかしなければ、という対策は考えているようで す。日和田駅の活性化を計るため、駅を市が買ってですね、 支所・公民館・図書館などがドッキングしたコミュニティセ ンターを作ったらどうか、など市長は大変意欲的に考えてい るようです。佐々木…鏡石駅のようなものですか。鈴 木…そうですね。 小泉・陣場・福原にも新駅設置を!佐々木…ところで浜尾さんは、小泉・陳場、福原の期成同盟会を組織 なさっておいでですが、どういう運動なのでしょうか。浜 尾…国鉄がJRとなって、JRは地域密着を目指す、ということ になってから、地域密着なら常々駅があれば便利だな、と考 えていた形にならないムードみたいなものが一気に形になっ てきた、ということなんですよ。小泉というのは富久山地区 でも東の方で、東部開発とし関連でそのうち開発の手が伸び てくるだろうと思っていましたから、新駅を設置して地域の 活性化を計ろう、ということになったんですね。そしたら陣 場からも郡山との中間点でもあるし、朝夕の道路の混雑がひ どいのでここにも駅を作ってほしいという話がでてきて、そ れなら福原にもということになって、冨久山地区に三つの新 駅期成同盟会のようなものが出来たんです。私は富久山町方 部連合会会長をしていて、三地区から出た考えを議案として 提出したんです。そこでいろいろと討論しましてね、どうせ 運動をするなら富久山町として一本化して陳情しよう、とい うことになって、小泉・陣場・福原が一本化したわけなんで す。佐々木…活発に運動されていると聞いていますが、具体的にはどんな ことをやっているわけですか。浜 尾…実はね、最初は地域密着なんだからすぐにも出来るような話 だったんです。それで運動も急激に盛り上がったんですが、 いろいろ調べていくうちに、営業係数だとか駅舎の用地だと か、乗降客数だとか、設置するための地元負担金は、とか問 題がでてきましてね。どうもすぐには出来そうもない、と分 かったんですよ。それで一本化して市に陳情しようというこ とになつたんですが、今年早々に、富久山町懇話会というの を結成して、商工会から婦人会、各種団体が全部参加して作 られたわけです。そして市長と会って話をしたんですが、市 長は大変結構なことだが、どうせやるなら郡山市全体が一つ にまとまってやったほうがいい、という答弁をしたんです。 鈴木さんが今言った南郡山駅など他にも運動があるわけで、 そういうものが一丸となって、ということなんだと思います。 ですから、その後は市がどう動くのか、対応するのか、とい う待ちの姿勢でいるところなんです。でも陣場は一千万位な ら地元で負担してもいい、という位地区の人たちは乗り気な んですよ。実現させたいと私も思っているんです。ブログランキングです。
2014.05.28
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未来への提言 郡山の新交通体系への一考察 (研究紀要第三号・馬車の系譜と三春馬車鉄道の原稿より 昭和五十八年) 国鉄の膨大な赤字が叫ばれてから久しい。福島県内に於いても既に廃止された路線は、自棚線、川俣線、日中線等があり、今でも第三セクターで揺れる丸森線、会津線を始め、磐越東線、水郡線と、枚挙にいとまのないほどである。それにどう対処するかは、それぞれの路線の事情もあるので一概には言えないが、ここに小さな提案を試みたい。 現在の郡山の公的交通網をみると、東北本線を除き、鉄道およびバスの全てが、郡山駅を終始発駅として運行されている。これは、通勤通学を含め、利用客は必ず郡山駅での乗り換えを強制されていることになる。このことを距離でなく時間で考えた時に、郡山駅が大きな時間的空間として、利用客に多大な負担をかけていることにもなる。たとえば、日和田町の女子高校生が郡山女子高校に通学する時、また安横町の人が卸町に通勤する時、郡山駅を経由しなければならず、なおかつ待ち合わせが非常に不便である、ということである。 先日の新開に、西武鉄道が国鉄上越線の不使用時間帯を借り入れ、自分で客を集め、自己所有の電車をスキー列車として走らせる構想が載っていた。この方法とか、国鉄独自または関係市町、もしくはそれらを含めた第三セクターの経営により、須賀川=磐梯熱海間に二両編成で郡山駅乗り替えなしの直通電車を走らせたらどうであろうか。そのために、駅を一〜二キロメートル間隔に新設する。仮に次のように駅を作り電車を運行した場合、その利用向上はもちろん、新しい町として発展を期待できる場所も各新駅を中心として広範囲に広がり、五十万都市を目指す郡山の新たな原動力になるものと思われる。 具体例として、一里塚(須賀川の新住宅地)=加治町(須賀川中心街)=須賀川駅=森宿(須賀川工業地域)=十貫内(郡山工業・住宅地域)=安積永盛駅=川向(自動車街)=小原田=郡山駅=久保田(東北歯科大)=日吉ケ丘(住宅団地)=卸町=喜久田駅=対面原=安子ヶ島駅(東海大)=大沢=磐梯熱海駅=熱海五丁目の十二駅を作る。これらを直通電車が走った時の郡山・須賀川を想像してみてほしい。おなじことが東北本線、磐越東線でも考えられる。つまり本宮・三春、熱海五丁目より一両編成で出発、郡山駅でドッキング、三両編成で一里塚へ向かうとか水郡線に乗り入れ新空港への足にする、とかいうのはどうであろうか。とにかくレールは在来線を使うため安く済み、運行もワンマン方式で安上がりを考えれば自然国鉄も増収となる。さらに鉄道線路のため道路のような混雑もなく、スピードも早く利用者も増えれば言うことなし、と思えるが如何。 また磐越東線についてはSLを走らせられないだろうか。新幹線利用の客が郡山から三春、あぶくま洞、小野、夏井川渓谷を走り、ハワイアン・センター、そして湯本温泉で一泊、常磐線経由で東京、または仙台へ行くというコースも考えられる。 以上が私の小さな提案であるが、関係市町の為政者、識者、実業家、そして利用者の論議の夕タキ台となれば幸いである。 磐越東線への提言 (福島民報・田村地方交通シンポジウム・五九年七月二十日) 私の故郷を通る磐越東線は、開業七十周年の歴史の中で、今が最大の危機の時です。膨大な赤字の国鉄が、廃止の方向を探っていると伝えられるからです。こうした中で、この線の活性化を目的とした、三春駅友の会の発足や、田村町村会・田村青年会議所によるシンポジウムの開催等、その実効が期待される時でもあると思います。そういう状況の中で、私達は磐越東線の使命を考えなおす必要があると思います。 鉄道は、今でこそその地位を車に譲ってしまった感がありますが、高速大量輸送機関として、その存在価値があります。その鉄道に対して、往時夢にも考えられなかった今の完備した舗装道路網上を一人しか乗らない乗用車や、それによる交通渋滞は、バスや自家用車による交通の限界を表しているよ思います。だからこそ鉄道に対して新たな提案が望まれるわけですが、先ず、磐越境線は常磐・郡山新産業都市の二つの核を結ぶ重要な路線であり、沿線住民だけでなく、新産業都市六十万人の問題と言う位置付けが必要です。 そこで提案。この線を通勤線として再生出来ないでしょうか。たとえば、一両編成の電車を東京の国電のように、十分間隔位で小浜海道=三春駅=太田橋=山田=舞木駅=小泉=日東紡=青果市場=郡山駅=小原田=川向=安穏氷盛駅=十貫内=森宿=須賀川駅=一里塚などの間を郡山駅での乗り換えなし、交通渋滞の心配なしで結べば利用者も増えるのではないでしょうか。それは省エネにもなり、さらに新駅周辺の都市計画により、郡山圏の新たな人口増にも対応出来るし、もちろん、いわき市にも応用出来ると思います。これらの中から中間地帯の利用法等、いろいろと前向きに考えられるのではないでしょうか。 ともあれ、磐越東線に、もう一度活躍してもらいたいものと思いますが………。 国鉄施設の活用 (福島民報・郡山の未来 六十・八・二) 国鉄独自、または国鉄から施設を借り受け、第三セクター等の経営で、須賀川=磐梯熱海問に一両編成で直通電車を走らせたらどうであろうか。そのために次のように駅を作り運行すれば、鉄道の利用向上はもちろん、新しい街としての開発可能地も新駅を中心に広がり、新たな発展を目指す郡山の新しい原動力にもなると思われる。 具体例として、一里塚=加治町=須賀川駅=森宿=十貫内=安積水盛駅=川向=小原田=郡山駅=久保田=逆池=日吉ケ丘=卸町=喜久田駅=対面原=安子ヶ島駅=大沢=磐梯熱海=熱海五丁目の十九駅の間を、十分間隔位で直通電車が走る、郡山・須賀川間を想像してほしい。 新駅のそばに、公共施設などを貼り付ければ、道路状況もかなり変化すると思われる。関係自治体の施政者、識者、実業家そして利用者の論議のタタキ台となれば幸いである 提案 於郡山商工会議所 地域開発委貞会 六十・八・六 当日、郡山商工会議所の開発委貞会にゲストとして出席、一五四ページの「郡山の新交通体系への一考案」を中心に提案した。なお南郡山駅新設と、国鉄用地の有効利用につき、鈴木武市会議員も出席、その方面からも提案が行われた。 郡山商議所、通勤列車を検討 (日本経済新聞) 郡山商工会議所(福井貞一会頭)は六日、地域開発委貞会を開き、国鉄の東北本線、磐越東、西線などの線路を時間借りして通勤・通学列車を走らせる構想を検討することを決めた。現在は磐越線、水郡線は郡山止まりだが、東北本線と相互乗り入れする形にし、列車運行本数も現在の数倍に増やし、圏域内で利用しやすい体制を作る構想。いまの国鉄にこれを期待するのは無理だが、関係市町村や私鉄などが事業主体を設立して、利用客が多そうな時間帯に運行すれば採算が合うものとみている。 その際、事業主体は国鉄からレールや車体を時間借りする形になる。また郡山市の隣の三春町なども同じような構想を検討中だ。三十万人都市の郡山は、二十一世紀には五十万人に膨れ上がることも予想されており、市民の交通の便を図るためにも「不便だから利用しない国鉄」を「便利な国鉄に変える必要があるとしている。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.05.11
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三春馬車鉄道の復元 54/ 9 特に三春馬車鉄道に興味を持ち、三春町史など調べるが客 車についての資料がほとんど無いことを知る。 /11 「面白写真術・フォート・マージュ社刊」の中に一八九三年 (明治二十六年)にニューヨークで撮られた写真を見付け 購入。三春と同時代に走っていたことを知り、路線には関 係無く、馬車鉄道の写真を集めることとする。 55/ 1 東京神田・交通博物館の資料室へ行ったが、馬車鉄道の資 料がほとんど無いことを知る。「資料日本の私鉄・和久田康 雄著、鉄道図書刊行会発行」を購入。復元された豆相人車 軌道の客車を見学。せめて模型であっても復元したいと思 った。 / 2 「郡山の歴史・郡山市発行」の三春馬車鉄道の挿絵は二頭 立てなのでミスと判断。「三春町史 三春町発行」の挿絵(広 長繁画伯)を参考に渡辺設計事務所で車両だけをスケッチ してもらい、乗ったことのある人を尋ね歩く。広長画伯の 絵にデフォルメのあることを知り、修正の上、信連軌道の 客車の図面を参考に最初の三面図を書いてもらい、更に尋 ね歩く。 / 4/25 福島民報新聞に復元に関する紹介記事が掲載された。 / 5/ 4 東北歯科大・西沢□(人偏吉)教授の助言で岩手県小岩井 農場の馬車鉄道を見学。実測の上車輪およびレールの一部 を購入。 /20 福島民友新聞創刊記念号に特集記事として掲載載される。 / 5 仙台陸運局に局長和久田康雄氏を訪問、助言を受ける。広 長繁画伯と意見交換。 / 6/16 「広報みはる 三春町発行」に資料収集依頼の記事掲載。 / 8 ユニチャーム(株)に依頼、愛媛県松山市のぼっちゃん電 車の図面を入手。 /10 第二回目の三面図を作成。松田工務店で1/10の模型作 成にとりかかる。馬の模型が作れず有る物で間に合わせた め馬の方が異常に大きくなってしまった。 /12/11 NHK TV「今日の福島」で放映された。 /12/13〜17 数回にわたり、東北一帯にNHKラジオで報道された。 56/ 1 ウィーン留学中の藤村瞬一教授よりオーストリアでの資料 を得る。 / 2 松田工務店で、実物大模型の製作に入る。 / 4/27〜 5/ 5 福島民報、福島民友、サンケイ新聞、河北新報の各 紙に紹介記事が掲載された。 / 5/ 3.三春公民館に実物大模型を展示、古老を招待し意見を拝聴 する。 (展示された模型をみて) ・馬は一頭引き。 ・全体的にもっと小ぢんまり。 ・頭を下げないとデッキから中へ入れなかった。 ・腰を下ろすと向い側の人の膝と触れそうだった。 ・屋根はこれで良い。 ・外の下部の壁面は直線(模型では曲線)であった。 ・デッキ面の窓は、前後部共に開閉 ・荷物用の網棚はなかった。 ・つり輪も無かった。 ・腰掛けは五人では癖邪屈、四人では楽だった。 ・ブレーキおよび足回りの構造については、機械が好き で今でもジープをはじめ三台の車をいじっており、良 く観察していたという高揚温泉・斎藤正見さんの記憶 による。ただしこの記憶は宮城の角田馬車鉄道のもの である。 / 8 函館市亀函馬車鉄道復元のニュースをNHKラジオで知る。 / 9/14 函館交通局を訪問、復元の実物を見学。同工務課長・安宅 昭治さんと意見を交換した。 / 9 松田工務店で復元に着手。 57/ 1 国鉄郡山客貨車区にて、古い車両の窓を調査。 / 4 復元を終える。車輪は小岩井農場より譲り受けた物を使用、 郡山歴史資料館に寄贈。 / 4/30 福島中央テレビのズームイン朝で放映される 58/ 8/ 8 実物大模型を、三春第一保育所に寄贈。 59/ 6 1/10模型を、三春歴史民俗資料館に寄贈 / 7 三春馬車鉄道本社 (現・ヨーク・ペニマル三春店)跡に、 記念碑を寄贈。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.04.20
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(八)馬車鉄道こぼれ話 5 豆男 (阪境鉄道) 実質的な私鉄の第一号といわれるのが阪堺鉄道である。 まず明治四年、藤田依三郎が「大阪〜堺間に運輸の便を計らん」と発言、その端緒となった。しかしこの馬力利用の計画は出願には至らなかった。 次いで明治五年、大阪の豪商・鴻池善右衛門他七名により出願されたが、これも許可されるに至らなかった。 更に明治七年、高知県士族・松井周助ら三名と堺の大塚三郎平ら二名の出願が別々に行われ、翌年大塚らに免許が与えられたが資本金二十二万円の募集がままならず、またも会社を設立するには至らなかった。 その後の明治十五年、藤田依三郎と他の十人名の新陣容によりようやく開設された。この会社は始め馬車鉄道の計画であったが、当時釜石鉱山で不用になった車両等の払い下げを受け、蒸気鉄道での開業となった。払い下げ価格を特別安くしてもらったため、最初の年から大黒字であったという。 なおこの時の発起人の一人松本重太郎が開設に先立ってしたことは、紀州街道を行く人馬の交通量調査であった。毎日右のたもとに大豆と小豆を入れ、街頭に立ち、人が来れば小豆、車が通れば大豆と一粒ずつ左のたもとに入れ換えた。背が低かったので、人々は豆男と曝したという。 今でいうマーケット・リサーチをしていたのである。 (1)都市近郊鉄道の史的展開 武知京三 一二九〜一四〇ページ (2)朝日新聞 昭和六三年 手紙 8 (川辺馬車鉄道) 前略、先にご依頼のありました尼崎市史の関係事項を複写同封いたします。 電話の際資料の所蔵箇所を国立図書館と申しておりましたが、国鉄本社の誤りでした。お詫びいたします。 色々な資料などによりご指導いただき、ありがとうございました。 今後ともよろしくお願い申し上げます。 なお、次の資料は当館に収蔵しております。○資料・日本の私鉄 和久田康雄 昭和四十三年 六月 初版 〃 〃 昭和四十七年 六月 再版 〃 〃 昭和五十一年十二月 三版○鉄道ピクトリアル 創刊号〜現在まで○帝国鉄道要鑑(明治三十三年)は、残念ながら収蔵しておりません。今後は兵庫県(県・市・町・村)各史、統計書の収集に努めたいと思っています。 (大阪)交通科学館。 旧知 (佐賀馬車鉄道) 明治四十年の夏、九州柳川の北原白秋家に泊まった吉井勇が、翌日、佐賀まで乗った馬車鉄道はなんだか見覚えがあると思ったが、それもそのはず、学校の往復に毎日乗っていたもので、品川新宿間を走っていてよく脱線した馬車鉄道であったことが、その車体についていた会社のマークでわかった。(世界史こぼれ話 三浦一郎一七二ページ) 最後の馬車鉄道 後年国鉄に吸収された国鉄を除いて、日本最初の馬鉄(一般運送営業を目的とするもの) は、明治十五年開業の東京馬車鉄道であった。馬車鉄道の数の最高を記録したのは大正元年で、全国で四十社もあった。特に福島県の平周辺が炭坑の石炭搬出関係で、その外には北関東、山梨県、静岡県が多かった。貨物専業ではあったが、宮崎県八重〜銀鏡(しろみ)間の銀鏡軌道が、昭和二十四年に廃止されているがこれが最後であった。 福島県では安達郡大玉村玉ノ井〜安達郡本宮町(国鉄東北本線本宮駅)、双葉郡川内村新田〜田村郡小野町(国鉄磐越東線小野新町駅)、双葉郡葛尾村湯の平〜双葉郡浪江町(国鉄常磐線浪江駅)間に第二次世界大戟後もしばらく運行されていたが、私鉄としての記録はない。これは、伐採された材木運搬用、つまり森林鉄道として利用されていたためと思われる。というものの、住民の利便を計るため、帰り(上り)の空車には勿論、荷物の少ない時は行き(下り)の時でも人を乗せていた。尚、山梨電気鉄道が法律的には休止中となっているので、名目上は現在でも馬車鉄道が残っていることになる。(資料・日本の私鉄 和久田康雄一ページ) 人車軌道 日本の私鉄に、蒸気鉄道、馬車鉄道に次いで明治二十八年、小田原〜熱海間に人草軌道が出現した。人草軌道は、静岡県島田駅前〜向谷間を走っていたもので、第二次世界大戦約十年後の昭和二十九年まで営業をしていた。それにしても、人の押す車が昭和二十九年まであったとは、嘘みたいな話である。 人車軌道繁盛記 (豆相人車軌道) 国木田独歩の短編「湯河原より」の中に人車軌道のことが見えている。 小田原より先は例の人車軌道、僕は一時も早く湯河原へ着きたいので……電車から降りて昼食を終わるやすぐ人車に乗った。…… 人車は徐々として小田原の町を離れた。僕は窓から首を出して見ている。忽ちラッパを勇ましく吹き立て、車は傾斜を飛ぶように滑る。空は名残なく晴れた。海風は横様に窓を吹きつける。顧ると町の旅館の旗が、竿頭に白く動いてる。(明治東京逸聞史 二 森銑三 九七ページ) エミール・ゾラ (オーストリア) 世界で最初と言われたリンツの馬車鉄道。そして、その延長工事であり本来の目的でもあった岩塩産出地帯の街・グムンデンの間の営業が、一八三六年に開始された。これはリンツ〜ウデヨウィーチ間と経営者は別であったが、この建設を担当したのは、文豪エミール・ゾラの父親であった。 なお、リンツ市内を流れるドナウ川は、当時の架橋技術が未発達であったため、今でいうフェリー・ボートで渡していた。このフェリー・ボートはドナウ川のあちこちで今(一九八〇年現在)でも使われており、エンジンなどの動力は一切使われていない。この船は、川の急流を動力として利用したもので、ロープを両岸の間に張ってフェリー・ボートに結び(ロープとフェリー・ボートは、滑車でT字形に結ばれる)、船の舵を流れに向かって左の切ると船は右岸に行き、右に舵を切ると左岸に行くというもので、乗ってみると、音もなく滑るように川を渡るのが面白い。(藤村瞬一談) 二階建馬車鉄道 (イギリス) イギリス人は、何故か二階建の乗物が好きなようである。二階建バスといえばロンドンの象徴的な乗り物であるし、香港などのイギリスの植民地では、今でも多く運行されている。ただし二階には屋根がなく、雨が降ったら客は傘でもさして乗ったのだろうか。それにしても濡れたシートいやベンチといった方がいいような椅子にどうやって腰を掛けたのであろうか。どうもこのような二階には、召使たちを乗せ、主人たちは一階に乗ったらしい。それにしても召使の足下に主人たちが乗るのも変な気がする。このようなこともあって、ロンドンに二階建てバスが発達したのかも知れない。このような馬車鉄道は、フランスでも見ることが出来たし一時期日本にもあったという。 馬車優先(イギリス) 馬車が発達していたイギリスに、やがて自動車が登場してきた。しかし自動車の動力はまだ試行錯誤の段階で、蒸気機関を始めとして電気、そしてアルコール・エンジンと多彩であった。特にアルコール・エンジンは、今のガソリン・エンジンとは違い、ぶどうの採れ過ぎた年にはぶどう酒で走らせたという記録が残っている。 しかし馬車業者の自動車に対する強い反抗から、イギリスの国会で次のような法案が通過した。(1)自動車が走る五〇メートル前を、赤旗をもち「自動車が来ます。」と声を掛ながら一名以上の案内人を先行させる。(2)走行中に馬車にあったら一旦停止し、馬車を優先する。 この法律のため自動車は人間の走るスピードを越すわけには行かず、結局イギリスの自動車産業は、他国に比して大幅に遅れることとなってしまった。 ロスチャイルド すでに名を成していたロスチャイルド家では、当時のヨーロッパの馬車鉄道に大いに食指を動かし、可能な限り馬車鉄道の路線を買収していた。ロスチャイルド兄弟の日に止まるということは、非常に利益の上がる事業であったという証明でもあったろう。 例えば三春鉄道馬車でさえ、明治三十四年の利益 五、六八三円を現在時価にすれば、ほぼ九千万円の利益と換算出来る。 (ロスチャイルド王国 フレデリック・モートン一〇三ページ) 馬力機関車 (アメリカ) 馬力機関車とは車内の無限ベルトの上で馬を走らせ、車軸に動力を伝えて客車を牽く仕掛けである。なぜこのようなややこしい方式を考えたのかは不明であるが、」この鉄道に新聞記者を招待して試乗中に、レール上にいた牛と衝突して転繹、記符連は築堤下「に投げ出されたので、世間から「Cowed editors(ギュッと参った記者たち)」とはやし立てられた。このため新聞記者たちは怒って、馬力機関車を非難攻撃したので、ついに運行中止となってしまったという。(客貨車工学上巻 小林絹二 五四ページ) 風力軌道 (アメリカ) アメリカに於いても、鉄道の動力には大分苦労したらしく、なかなかユニークな考案が提案されている。 その一例に、帆掛けの車両があった。その動く理屈は理解できるが、人里離れた山の中などで、走行中に風でも無くなったらどうするのか、またアメリカという国が風まで利用しなければならなかったのかという理由が、今の感覚では何とも理解がしにくい。とにかく、奇抜な考案ではあった。(前掲書 同ページ)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.04.11
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(八)馬車鉄道こぼれ話 4 紀行文 「みちの記」 (碓氷馬車鉄道・森鴎外・明晩二十三年八月十七日) これより鉄道馬車雇ひて、薄氷嶺にかかる。その車は外を青ペンキにて塗りたる木の箱にて、中に乗りし十二人の客は肩腰相触れて、膝は犬牙のやうに交錯す。作りつけの木の腰掛はフランケット二枚敷きても皮膚を破らむとす。左右に帆木綿の帳あり、上下にすぢがね引きて、それを帳の端の環にとほして開けたてす。山路になりてよりは、二頭の馬あえぎあえぎ引くに、軌巾極めて狭き車の震ること甚だしく、雨さえ降りて例の帳閉じたれば息寵もりて汗の臭い車に満ち、頭痛み堪へがたし。 碓氷峠から横川に向かって坂道を下る軌道は、道路の左側に敷設されていた。ここで馬の継ぎ替えが行われていた。(明治二十二年頃・信州の鉄道物語 信濃毎日新聞社 八八〜八九ページ) 背中合わせの椅子の客車 (碓氷馬車鉄道) 碓氷馬車鉄道で客貨の輸送に用いられた車両は、線路設備と同じくフランスから輸入されたものであった。そのためにここの客車は、他の馬車鉄道のように客が相向かいに座る配置ではなく、車体の中央に長い仕切り板があって、互いに背中合わせに車体の外側に向かって五人ずつ合計十人座れるようになっていた。この客車は、長さ十八メートル巾三・五メートル、重量は四百九十九キログラム、車輪の直径四八センチ、車軸の間隔六十一・五センチという大きさであった。これを二頸の馬が引いたが、この他に上等車があり、これは五人乗りで一頭引きの客車であったというが、内部のようすの記録はない。 この背中合わせに座ったという客車の内部は、今の浜松町〜羽田空港間のモノレールの客車の内部に似た構造と思われる。(前掲書 八七ページ) 犬引鉄道 (阿寺軽便軌道) JR中央線野尻駅から、木曽谷でひときわ渓谷美で知られる阿寺御料林に森林軌道が敷かれたのが明治三十四年のことである。木曽では最も早く草分け的な森林軌道であった。木材の他、森林作業員や住民のための米や塩、味噌などの生活物資の輸送がその日的であった。 敷設された軌道は約八キロメートル軌間六百九・六ミリ、機関車はなく台車を二両連結し、木材を積んで下る時は、作業員がブレーキをかけながら坂道をくだるという「自力運転式」だったが、山へ帰る時は人が押したりした。ところが何と山へ帰る時に土佐犬がよく使われた。いくら戻りの空車とはいい、台車を引くのに犬を使った記録は、世界広しといいども、日本のここの軌道だけである。(前掲書 九三〜九四ページ) 電畜混合軌道(東信電鉄) 東信電気鉄道は、JR大糸線・信濃大町駅前から市街地を抜け、高瀬川渓谷の東京電力第五発電所からさらに奥のコジ沢まで約三十キロメートルを走っていた軽便軌道である。当時の東信電気(東京市電信電気株式会社)がこの渓谷の電源開発の資材運搬のために敷設したものであるが、信濃大町駅前〜笹平間十二キロメートルは電力、笹平〜七倉問は馬力、そして七倉=東京電力第五発電所間は牛力に頼った珍しい軌道であった。のちに東京電力に移管された同軌道はコジ沢まで延伸された。その上この軌道は森林鉄道として営林局、さらに砂防ダム建設のため建設省も加わり、三者共用となった。しかし昭和拘十四年八月十一日の台風七号の影響で、高瀬川上流が氾濫、押し出された土石流がこの軌道はおろか葛温泉まで一気に押し流してしまい、槍ヶ岳に向かう山男たちに親しまれていたこの電車も、大自然の猛威にあっけなく敗れてしまった。(前掲善一三一〜一三五ページ) 走らなかった馬車鉄道 (愛知馬車鉄道) 明治二十六年、愛知馬車鉄道会社は、今のJR名古屋駅前から昔の県庁前まで約二・二キロメートルに電車の営業申請を出したが、電車をどう扱ったらよいか分からなかった政府に、馬車鉄道にするように指示された。やむを得ず、愛知馬車鉄道と言う会社を資本金十五万円で設立したが、日露戦争前の不景気で出資金が集まらなかった。これを聞いた京都電灯会社や京都電気鉄道の会社の設立者であった大沢幸助が資金援助をし、改めて電車での営業を主張した。 明治三十一年五月六日、名古屋電気鉄道という会社に組織変更し、馬車鉄道での申請開始以来五年ぶりにようやく電車が走ったのである。 大赤字 (大阪馬車鉄道) 大阪馬車鉄道は、明治三十一二年から住吉大社への参詣客を主目的に、天王寺門前〜下住吉間の営業を始めた。車両数は七輌、馬は十六頭、従業貞数は二十四名であった。ところが明治三十五年までは何とか黒字であったが、明治三十六年以降赤字に転落してしまった。その理由として、南海鉄道天王寺支線及び高野鉄道の開通による打撃が重なったものであるが、明治四十年つまり六年間の累積欠損赤字は、一万五千七百七十一円にも達していた。すでにこの早い時期に、新技術に乗り遅れることによる悪い結果が、実例として残されたことになる。 この赤字、現在の金額に換算すると、約三億円に相当すると思われる。やがて増資をして電車に転換を計るが、結局南海鉄道に吸収合併されてしまった。(都市近郊鉄道の史的展開 武知京三 二四七⊥一四八ページ)鉄道出願は中止となった。(人力車 齋藤俊彦 二七八ページ)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.03.22
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(八)馬車鉄道こぼれ話 3 馬車鉄道事始 (東京馬車鉄道) 東京市内の馬車鉄道を始めて計画したるは鉄道作業局長たりし松本荘一郎、及び富田鉄之助、深沢其の諸氏なりし。富田氏は、自ら万世橋畔に立っていちいち通行人の数を算せしめたこともありと言う。然るにこの計画は事故の為にその目的を果たすこと能わず計画を全然種田誠一・谷口道之・河村伝衛等の人々に譲与し、種田氏等は三十三銀行より三十万円の資本を借りて東京馬車鉄道会社を起こすに至る。其官許を得たるは、明治十三年十一月十日なり。 馬車鉄道運転の始めは、明治十五年六月二十五日、新橋=日本橋間に、馬車六両を以って往復を開始したるを始めとす。同日は仮営業にて午前十時に発車し、東京府少書記官銀林、及び土木課の官吏三名第一車に乗組み、新橋より日本橋まで往復し、続いて六台順次に発し、終日の雨天に拘らず、乗人は実に溢れるる程にてありし。(中略) 又同年十二月二十一日の(絵入)に「東京鉄道馬車会社の鉄道馬車は、一筋の線路(浅草茅町・浅草橋際等)に至り、跡先の車を待ち合わせ、或いは線路を外し、又は時々両方から馬車と馬車とが一筋の線路でばったり行遇ひ、馬を付け替えて後戻りする等、思いの外時間を費やす云々」とありこれ開業後六ヶ月の現況なり。 唐々頃々又唐々 鉄通馬車勢力強 中在減法助倍客暫時間座別品傍(後略)(カラカラコロコロ又カラカラ 鉄道馬車の力は強い 中には本当にスケベイの客もあるし しばらくの問美人の傍に座ることもできる)(1)「明治事物起源 下 石井研堂 七四三ページ〜七四四ページ(2)「明治事物起源」 石井研堂 二三五ページ 上等と下等 馬車鉄道には、一頭引きと二頭引きのがあって、二頭引きの方には「上等室」がついていたようだ。このように、二等級制の馬車であったことがわかる。馬車の前の屋根の上には扇形のブリキの方向札がついていた「上野行」「浅草行」あるいは「新橋行」と漢字で書いてあったが、上野行は青地、浅草行は緑地、新橋行は黒地に白ペンキで書いてあったから、字は読めなくても意味は通じた。夜は車の前方の窓に丸いレンズがはめてあって、その灯火の赤・緑・自の三色でその方向を示した。 この路線は、新橋から銀座へ出て、本町・万世橋・上野・浅草・本町とまわるわけであるが、上野=浅草問と浅草棉=本町間は単線で、東行と西行とが別の道路を通っていた。これは東京といえども、当時の道路が狭かったということであろうか。 馬車鉄道の客 (東京馬車鉄道) 「知るも知らぬも膝を並べ、鬼を一車に一七、八の別品、押されざれども其傍へ詰める書生あれば、婆さんに席を譲る、若いに奇特の者もあり。革につかまる人は、楽車(だし) の人形に似て揺らめき、悪気の男は自分一人幅をして、飾り物の軍人の如く足をふん張る」 などとある。田舎のガタ馬車には、立っている人などはなかったように思うが、東京のには電車同様釣革が垂れていたのである。(明治東京逸聞史 森銑三 一七二〜一七三) 新聞の投書 へ東京馬車鉄道)「馬車鉄道の駁車台に近き方に腰を掛け居りしに、駁者は鞭を振り過ぎ、革の先で窓の中の客の頭をぶんなぐり申候」 こんな小不平を、わざわざ新聞に投書している人がある。(前掲書 三三三ページ) 美人はお得 (東京馬車鉄道) 鉄道馬車の車掌にも困る。昨日僕が本町から乗ろうと思って停めてくれと呼んだが、あいにく四つ角でなかったから、向こうの辻に来いと言うので半町ほど走らされた。これは馬車会社の規則であるから仕方がないが、僕が乗ってから少し行くと、路傍の家から三人連れの美人が出て来て、かわいい手で車掌を手招きしたら、車掌は四つ角でも何でもないのにすぐ車を停めた。(前掲書 三四五ページ) 馬糞 (東京馬車鉄道)(前略) 円太郎(落語家 橘家円太郎が、明治十年代、乗り合い馬車の御者のまねをして評判になったところから乗り合い馬車のこと)でも馬車鉄でも馬がひく以上は排せつ物をいかんともし難かった。人夫が絶えず拾っても拾いきれず、自然レールの間は馬糞を堆積し、銀座のまん中を一条の馬糞溝が出来た。ことに停留所ではイイ気持ちそうに放尿した。 銀座ではないが、なかんずく、日本橋大倉書店前は、有名な馬鉄の放尿所であった。その頃は道巾が狭かったから、ややもすると通りがりの者は、飛沫を浴びせられた。日本一の日本橋の袖に馬尿の洪水が溢れているのは、「江戸名所図会」には見られない図だ。ラッパ円太郎氏高座で唄って白く。「惚れた惚れたよお前に惚れた 馬が小便して地が掘れた」と。 ロンドンのタワー・ブリッジも写真で見ると壮観だが、自動車のない馬車時代、大船を通ずるために橋板を開くと馬糞がコロコロと転がり落ちるには、ロンドナーもお国自慢の鼻が折れたそうだ。 馬車の別当 へ東京馬車鉄道) 居留地の馬車の別当、即ち御者は、概して侠艶のみなりにて、醜業婦などに好かるる人物が多かりし。明治二〜三年頃、東京・築地に開市場開け、横浜との間に、定期乗合馬車も往復したが、その時代の流行歌に「馬車の別当さん小弁慶揃ひ 吉原女郎衆迷わせる」 当時馬車の別当と洋妾との情事などはまま聞く所なりし。ここに吉原とあるは 横浜の遊郭を言えるなり。 我が英国公使間の御者馬丁は、紺の法被に樺色朱子の襟を用い、三菱社の馬丁は法被色萌黄なりとあり。「明治事物起源 下 石井研堂 七四七ページ」 車内広告 (東京馬車鉄道) 朝日新聞社は、明治十二年大阪に生まれた。やがて大阪で首位を独走するようになったが首都東京に進出をはかり、銀座一丁目に東京支局を開設した。新聞そのものは東海道線全通の前だったので、大阪で印刷された新聞は終列車で京都に運び、そこから鈴鹿越えの特車便で東海道八十キロメートルの夜道を疾走、翌日の午後四日市港へ。そこで汽船に積みかえ、横浜港へはその翌日到着という大作業であった、この東京での新開発売の明治十九年、ビラを二万枚まき、さらに東京の馬車鉄道の全車両六十台に車内広告を一ケ月出した。馬車鉄道が広告媒体として最初に使われたケースである。 なお明治三十五年、東京馬車鉄道は、三百両の車両と二千頭の馬を保有、営業をしていたといわれる。(昭和六三年 朝日新聞) 鉄道馬車を創めた人 (東京馬車鉄道) 明治十一・二年頃新橋〜日本橋問に今の電車の前身たる鉄道馬車を敷設して市の交通機関の先駆をなしたる谷本道之氏は十七日午後突然脳溢血を起こして人事不省に陥り爾来麻布区霞町一番地の自宅において療養中なりしが二十日午前一時終に眠るが如く逝去したり享年六十六。氏は鹿児島藩士にて明治初年までは兵右衛門と称し故森有礼氏、松村海軍中将等と共に米国ヒラデルヒヤに留学し、又外務官として沢外務卿の当時丸山外務大丞と共に樺太に航し魯人と折衝して功あり。更に海軍に入りて海軍大書記官となりしも時勢に感ずる所あり、断然掛冠して身を実業界に投じ鉄道馬車を起こし線路を浅草まで延長したるが何分草創の時代のこととて事業意の如くならず転じて株式取引所頭取となりしも幾干みなく之を辞し爾来世俗と断ちて深く仏門に帰依し故雲照律師に就いて禅を修め和歌を黒田清綱氏に学び居たりと。 これは、明治四一二年二月と書き込まれた新聞の切り抜きで、郡山図書館の「明治事物起源」二三五ページにメモとして貼ってあったものである。誰か読んだ人が、興味を感じて貼り付けたものであろう。 ただこのメモによると、谷元氏自体、丁度馬車鉄道そのものの末路に似て晩年は不遇であったと推察出来る。合掌。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.03.11
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(八)馬車鉄道こぼれ話 2 手紙3 (三春鉄道馬車) 前略用件のみ申し上げます。私は三春町大手前の出生です。福島民報紙上であなた様の企画を知りました。大層重要な案件ですので、私の知る記憶を申し上げます。私は大正二年に東京の学校に転校しましたので、その時点であることを御了承下さい。 三春馬車鉄道はトーテー馬車の愛称で親しまれました。馭者の吹く真鍮のラッパ(のちの豆腐屋のラッパ)の音色が、トーテーと聞こえたからです。三春駅すなわち馬車会社は、中町の中央部八幡町の向かって左側にありました。相当の敷地でした。御案内出来ないのが、残念です。 停留所はありません。合図をすれば、何処ででも乗り降りできる便利なものでした。山田に交換所兼停留所がありまして、上り下りどちらでも先に着いた方が待ち合わせる仕掛けでした。ポイントが一基ありました。交換所の前に店屋が一軒ありまして、駄菓子屋や、夏は氷水などを売っていました。その店屋は、今もある様です。郡山までの運賃は、片道二十五銭くらひではないかと思います。当時の二十五銭は、米一升より高値で大変な出費ですから、足の強い人とか若い者はわらじを履いて歩きましたからそう込み合うことも事もありません。 開成山の花見や競馬の時は込みました。その時は臨時に台車を運行しました。むしろを敷いて落ちない様に、真ん中に一固まりになって座りました。馬は忠実にトコトコ走りました。ラッパの音を聞いてお客様が高い屋敷から駆け下りてくると、ジッと待ってくれました。のどかなものでした。郡山の駅・駅というよりは終点は郡山駅前の一等地にありました。略図で示す通りです。御案内出来れば一目瞭然ですが、近日に兵庫県に帰りますからそれができません。略図を添えました。御参考になれば結構です。 大変難しい根気の要るお仕事ですが、どうぞ完成してください。あなた様がやらなければ、歴史は消えてしまいます。何分六十年以上七十年近く年月が経ておりますが間違い有りません、九十パーセント正確ですから、どうぞ念頭に置いて頂き度く存じます。先は御参考まで。 昭和五十五年四月二十七日 大越町下大越字原一二七 角喜六 手紙4 (三春馬車鉄道) 昭和五十五年十二月十七日 拝啓 師走も中ばを過ぎあわただしくなりました。 三春馬車鉄道のTVを見たと、おばあちゃんが大変喜んでおりましたが、私は車の中でラジオを聞きました。近所の農家に保存されていた明治二十二年の新聞に、三春馬車鉄道の記事が載っておりましたので、コピーを送りました 何かの参考になればと思います。 どうぞ研究を続けられますようお祈り致します。 敬具。 三春町大町 横山昭治 手紙5 (三春馬車鉄道) 前略、此の度は御心をこめたお招き頂いて夢に見た馬車の実物に乗せて頂きまして、心から喜んで居ります。御苦心の跡が見られ、しつかりとよく出来て居り感心してます。何もお役に立たずお恥ずかしい限りです。よくここ迄完成された事と存じます。 日露戦争当時で、車代が大人片道三十銭小人十五銭との事青春の夢の実現、御成功をお祝いします。 度々おいしい物頂き厚く御礼申し上げます。御礼がおそくなりまして、誠に失礼致しました。お詫び迄。 昭和五十六年五月七日 三春町中町三二 勝間キク この手紙は、実物大で馬車鉄道の客車の模型(現在三春第一保育所にて保管)を作り、ゴールデン・ウィークに三春公民館で展示、町の古老をお呼びし御意見をお聴きした時の 礼状で、文中完成とあるはこの模型のことで、復元には未だ至っていない時のものです。 手紙6 (三春馬車鉄道) 拝啓、御多忙の中何時も御心にかけられ、厚く厚く御礼申し上げます。日曜の午前中娘と拝見して、あまり立派に完成されて驚いて参りました。(郡山の)資料館を引き立たせてピカ一、失礼ながら暫く腰掛けさせて頂いて昔を偲んで来ました。永い間の夢、御苦労もありどんなにか実現されて御喜びの事と、お祝い申し上げます。母に一度見せたいとつくづく思いました。三春町の誇り郡山に、チョッビリ残念に感じました。 本当に、お目出度ございます。 敬具 昭和五十七年四月十三日 三春町中町三二 勝間キク 内 この手紙は、復元終了後、郡山歴史資料館に展示された時のもの。すでにキクさんは老齢のため家を離れられず、嫁さんと孫さんが、見に来られた時のものです。 馬車鉄道の引っ越し (小名浜馬車軌道) 私が中学の頃、小名浜の親戚へ行った。泉から馬車鉄道に乗ると、隣の客が話しかけて来た。三春から来たことを話すと、「この馬車鉄道は、三春馬車鉄道が廃止になったので払い下げを受け、ここに移設して作ったものだ。」と教えてくれた。「馬車鉄道も引っ越しすんだァ〜」と思った記憶がある。今、年表等で調べてみると、時期的には大正五年の小名浜〜江名聞の増設の時と思われる。(平田善一郎談) 乗合馬雪舟(ソーリ)広告 (喜多方・一瞬舎) 各位いよいよ御安静奉賀候随而弊舎馬車儀積雪ノ為不通相成侯故御客様ノ不便利云ワン方ナシ暇令其日ニ往復ノ出来ル御用向タリ共膝栗毛ニテハ其日ノ往復ハ六ツケ敷、空敷一泊ノ時日ヲ費ス様ノ工合ニテ此貴キ時日ヲ徒ニ費ス有様ヲ弊舎是ヲ見るに不忍侯ニ付今般馬雪舟ヲ仕立馬車ニ換損得ハ兎モ角モ時間モ貸金モ馬車同様二致シ諸君ノ御便利ニ供ニ付此段諸君二広告ス 若松発時間 壱番 午前八時 弐番 午後二時 喜多方発時間 壱番 午前八時 弐番 午後二時 貸金 若松、喜多方間 金二十銭 若松、 塩川間 金二十五銭 喜多方、塩川間 金八銭発着取扱所 喜多方町 岩屋八次郎若松大町二ノ竪五番地 喜多方町 二瞬舎 明治二十二生二月二十七日開業 (岩磐史談復刻判第一巻一八二ページ) 湯ノ川温泉案内 (亀函馬車鉄道)函館を距る三里許亀田郡湯ノ川村に温泉場あり函館唯一の保養所として就中夏期は遊客尤も多きが一〜二年前は人力車にあらざれば円太郎馬車に依らざるを得ざりしを以て頗る不便と感じたるが目今鉄道馬車が通ぜしょり便利言はむ方なく従って遊客の数も加わり湯ノ川の繁盛復た先頃の観にあらず。(明治三二年八月・観光案内) 手紙7(亀函馬車鉄道) お便り拝見致しました。 私共と致しましても、NHKのニュースで全国に流れるとは思いもよらず、馬鉄復元と言う事で報道された様でございます。これは当市の港祭りの協賛行事の一環で、交通局の山車としての作製であり、特に資料に基き、正確を期したものではありませんが、馬鉄の当時の写真が函館図書館に若干ありましたので、それを参考にし、また材料などに関しては、当課内で利用出来ます物を使用いたしました関係で、復元のための縮尺には忠実ではありませんので、橋本様の参考になるか疑問でありますが、来函の際は、私の調査した範囲でお話し申し上げたいと存じます。ついては、来函の時期の事でございますが、九月十五日は祝日でもありますので、出来得れば前後に来局下されば幸いと存じます。 取り急ぎ乱筆で失礼いたします。 昭和56年8月21日 函館市交通局 安宅昭治 ミッチー・ブーム以前(岩手県小岩井農場馬車鉄道) 皇后陛下・美智子様が、未だご成婚前にお父様とご一緒に、小岩井農場を訪ねられたとがあった。当時小岩井農場には自家用の軌道があり、貨車のみを稼動して国鉄小岩井駅と農場の間で物資の集荷・輸送に使われていた。もともと、国鉄小岩井駅自体が農場に寄付されたものであり、言ってみれば私有地のみで運行されていたためか、陸運局の許可を得て作られた形跡がなく、「資料 日本の私鉄」にも記載がない。それでも客車が昔からあり、農場の役員とか重要な客の送迎に使われていたが、自動車の時代となってからは、使われないでいた。 そして、美智子様が来られた時に大掃除をされたこの客車が、御乗車の栄を賜ったそうである。お帰りには勿論自動車が使われたというが、とにかく、これが最後の馬車鉄道の勇姿であったという。 その客車は現存せず、遊園地用に作られた馬車鉄道が往時をしのばせるのみである。 走れなかった馬車鉄道 (水戸市) 明治二十五年、水戸市に馬車鉄道の敷設計画が立てられた。ところが、この計画を知った人力車夫の強い反対で、ついに実現されなかったという事実があった。 敷設計画は、水戸市の大関俊徳ほか五名によって茨城県に出願された。これを受けた県庁は、水戸市役所に市会の意見を求め、その結果、敷設に問題なしの答申を得た。ところが、その事を知った人力車の営業者や車夫は大いに驚き、敷設は自分達の収入の道を断たれることになるので黙視できないとして早速集会を開き、種々協議の上、三月十八日、八十余名の車夫が大挙して、市役所、県庁に押しょせ、責任者に面会を求めた。県庁では、不在を理由に面会を避けたので、車夫等は馬車鉄道敷設を許可しないように陳情を取・り次いでほしいと述べて退去したが、彼らはその足で発起人の大関宅を尋ね、面会を求めた。大関はたまたま上京中であったが一同はそのまま座り込み、願書の取り消しを要求し、不在ならば東京に電報で問い合わせよとまで強談した。 警察は説諭して一同を退散させたが、依然として不穏な状況であったので、大関家では出入りの大工などを頼んで厳重に警戒した。二十日、彼らは十名の委員を選び、発起人の一人が面会し取消願書を提出する約束を取り付けた。更に県庁・市役所を尋ね、市会の議決の折の賛成者を調べ、その一人一人を尋ねて理由を聞きだすという行動に出た。 こうして、車夫達の結束と迅速な抗議行動により、馬車鉄道出願は中止となった。(人力車 齋藤俊彦 二七八ページ)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.02.21
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(八)馬車鉄道こぼれ話 1 山間の三春へ三春馬車鉄道) 三春の行楽、三春・庚申坂・小松軒、三春を知らぬ自分には、こんな事を考えると、春のおぼろ夜の静かな軒並を想像したり、憂いを知らぬ人々の住む仙境の様な気がした。真実の三春はどぅか、十九日の午後豆腐屋が吹く様なラッパを鳴らす三春馬車に乗った。小学生徒の時に郡山と三春の間に馬車鉄道のある事を地図で見て、其後郡山で箱を引き行く汗だらけの馬を見て初めてで鉄道馬車であることを承知した。其後数年間は洪水を知らせる人集めのようなラッパにはお馴染みであったが、乗るのは今日が初めてである。馬の臭いがいやな上に、箱の中には人の油が干乾いた様な変な悪臭がある。なるべくこの様な臭いを避けようと箱の外に立って居ると、偏平な顔をして、未だ人間に進化しきれない様な男の車掌が「お人いんなさい。危ないです。」と大変気がきいた様子だが、おあい憎様、危ないよりも臭いが嫌だ。馬小屋の中にでむ屠る気持ち、車の窓から外を見ると、馬車は今春の野の坦道を走っている。小川も松原も、処所に散在する農家も両側の景色は総て絵の様で、初めて三春に行く馬車の様な心地がした。 逢瀬川(阿武隈川?)を渡って田村郡に入った馬車は谷の中を紆余幾回、何時か山間の三春に着いた。 (明治四三年三月・福島民報) 紀行文「日本一周・後編」 (三春馬車鉄道) 郡山町は立派な町になった。今ではこの沿線中福島に次ぐの繁華を示している。東西七町、南北十三町、人口二万人以上を沓昇している。郡役所だの、中学校だの、アセチレンガス会社だの、製糸会社だの、煙草会社だのがある。それに付近に多くの蚕業地を控えているので、製糸会社が頗る多い。停車場を下りた実直な通りには、三春町に通う馬車鉄道の線路がついていて、それが町の賑やかな中央市街につれて行く。馬車鉄道はその中央市街を北に向かって進んで行っている。それは大町、中町、本町などと言う一番賑やかな通りである。中町には、銀行だの会社だの金融機関が軒を接している。(中略) それに岩越 鉄道の線がここから分かれて行ったのも、交通上、少なからずこの町の繁華を来たしている。この沿線で一番賑やかな明るい町である。(日本一周後編 田山花袋 大正5年刊 九一〜九三ページ) 郡山から汽車は、阿武隈川の平野を北に向かって進んで行っている。三春という町は磐城の田村郡で、そこから川をわたって一里ほど東に行ったところである。町に入ろうとするところに天照皇大神宮の社がある。町は丘陵の中にあるような町で例の馬市で聞こえている。三春の三才駒という名はかなり広く世の中に聞こえている。 町並(三春馬車鉄道) 幾つの頃か、遠くから来たおじさんか、それともおばさんだったか、それもはっきりしないが、帰ることになって、馬車鉄道の車庫まで見送って行った。客を乗せた馬車は、間もなく町並の蔭にかくれ消えていったが、本当に淋しかった思い出が残っている。その町並は、明治三十七年の大火の後で、商家の復興が目覚ましく、立派な町並であった。明治四十四年にまた大火があり、せっかくの家屋が燃えてしまい、以前の町並に復興することは、ついになかった。(多田テル談) 待ち合わせ (三春馬車鉄道) 山田・南小泉は、駅と言うより馬車の待ち合わせ場所であった。どちらか早く着いたの馬車が、そこだけ複線になっていた待避線に入り、相手方が来るのを待つ場所であったからである。かたわらには茶店もあり、茶の無料サービスを受けたり、ダンゴを食べたりできた。また馬も、飼葉や水を当てがわれたり、疲れた馬を、取り替えたりした場所でもあった。(亡夫の話として、 白石恒子談) 俺は偉いんだ (三春馬車鉄道) 子供の頃、馬車鉄道に乗って一番困ったのは、飽きることであった。父親の膝をはなれ、後ろのデッキヘ行くと車掌にからかわれた。そんな時の一番いい場所は、前のデッキの駁者のそばで、安全のためにデッキに取り付けられていた鎖につかまり、進行方向を見ることであった。時折、道端に居る同じ年頃の子供と目が合うと、誇らしげに感じたし、またその子の日が羨ましげにも見えた。(橋本勇治談) 馬車列車 (三春馬車鉄道) 馬車鉄道の客車は小さく、八人から十人の定員しかなかった。このため客の多い時は、同一方向へ二台三台と連なって走らせた。さしづめ、今でいう列車であろうか。阿武隈川に架かる木橋の上を、二台の馬車鉄道の客車が右側へ向かって動いている様子が写っている。 お祭り (三春馬車鉄道) 大雨の時、阿武隈川の橋が流された。郡山へ馬車鉄道で行ったが、当然不通になった。そこで客は馬車を下り、ゾロゾロ川まで歩き、渡し舟で対岸まで行って折り返しの馬車に乗り換えた。馬車鉄道と客、渡し舟の船頭に見物人たち、と一寸したお祭りのような賑いであったという。しかしこのようなことも、特に珍しいことでもなかったという。ということは、当時の橋は木橋であり、大水のたびに橋の流されることが時折あったということであったから。 馬の人? 情 (三春馬車鉄道) 郡山から三春への鉄道は、ダラダラの上り坂である。当然、馬車も三春から郡山へ行く時よりも郡山から三春へ行く時の方が、余計に時間がかかった。しかし不思議なもので、上り坂なのに三春が近くなると、馬の足が自然と早くなった。馬も、自分の居場所に近くなると早く帰りたくなるものか? 客たちも「ほら、三春が近いぞ」と言って笑いあったという。(村田イネ談) フリー・ストップ (三春馬車鉄道) 馬車鉄道は、現在のJR郡山駅前からヨーク・ペニマル旧三春店の間を往復していた。警笛は、豆腐屋が吹くようなラッパということからか、その擬音をとって、トテ馬車とも呼ばれていた。(もっとも逆に、豆腐屋のラッパを利用したとも考えられるが)もちろん警笛としても使われたが、本来の目的は客引きであったようだ。そこここの知り合いの家で馬車を待っていた客が、ラッパの音を開きつけると外へ出、手を上げると馬車は何処へでも止まった。山や畑そして田んぼの間を走りながら、トテトテというラッパの音を響かせていたことを思い出すと、昔は本当にのどかだったと感じられる。(山崎ハツ談) 残酷 (三春馬車鉄道) 子供の頃、子守りをさせられながら、よく馬車鉄道の車庫へ遊びに行った。普段は何でもないが、時には郡山から客車を引いて来た馬が、目をむき口から泡を吹いたりしながら着くと、何人もの馬丁が駆け寄って客車から外し、裏の馬小屋へつれていった。なかには客車から外されるとすぐに、裏の川(桜川)へつれて行かれるのを、恐ろしい思いで眺めていた。夕方に富と仕事の終ゎった馬が、その川で気持ち良さそうに体を洗ってもらっていた。(勝間キク談) ゎしゃ・知らん(三春馬車鉄道) 明治二十九年九月二十一日改正の、馬車鉄道「客車発時刻並乗客御心得書」の但書に「発着時刻記載ノ通リナリト(言えど)モ注意ノ及バザル途中車体及馬匹等ノ故障ヨリ起ル損害ハ当社其任こ任ゼズ」とある。(三春町橋村昭二氏 所蔵) 極端な事をいえば、大雪で立往生でもしたら、客は次の馬車を待つか歩いて行くか勝手にしろ、それに乗車賃の払い戻しはしないと言っているようなもの。今の交通機関の取り決めからはとても考えられないものであるが、大体馬の体でも具合が悪くならない限り、単純な構造の客車であったのであるから、故障などなかったのかも知れない。とにかく、「ゎしゃ知らん」的発想が、古めかしくも面白い。 手紙1 (三春馬車鉄道) 拝啓、先日者失礼致候其翌日御在寄可申之処同道者有之候為め遂ニ御無沙汰ニ相成実者本日参上の見込ニて郡山迄参りしニ遂ニ馬車ニ乗リ後連出張致可祢候へ共該御預け置候品今少々之間御猶予なし下され度願上候尚拙宅へ者手紙等者御遺し無之之亦願上候 十二月三十日 郡山出先ニて 者し本 三春新町 島屋楼主殿 この文章を現代文に書き直してみると、おおむね以下の通りである。 「拝啓、先日は失礼致しました。あの翌日お伺いする積もりでおりましたが、一緒に居た者が居りましたので、(照れ臭くて)お伺いすることが出来ませんでした。実は、今日こそはお伺いしようと郡山まで来ましたが、今度は馬車(鉄道)に乗り遅れてしまい、また行けなくなってしまいました。先日(代金のかわりに)お預けした品物は(間もなく、お金を支払いますので)今しばらくそのまま預かっておいて下さい。尚、自宅の方へは (催促の)手紙など出さないように、宜しくお願い申し上げます。」 十二月三十日 郡山出先にて はし本 三春新町 島屋楼主殿 これは、私の知り合いの大田原清さんが、切手に押されたスタンプの年代と馬車の文字から三春馬車鉄道のことだろうと、届けてくれたものである。それにしても十二月三十日といえば、今と違って盆暮れ勘定が主取引の当時、とにかく超繁忙の日のはず。島屋楼とは当時名だたる三春庚申坂の色街の一楼、とにかく家の人には知られまいという気持が、ユーモラスにさえ読みとれる。気になるのは差出人の名が、はし本ということであるが、筆者とは無関係であることを申し添えておく。念為 (ねんのため)。 淡雪 (三春馬車鉄道) 馬車鉄道が廃止になりレールが外されたが、枕木はそのまま放置された。冬、霜が降りたり、淡い雪が降った朝などは、土の部分だけが早く溶け、枕木の部分だけがしばらく白いまま、郡山市富久山町久保田から富久山日東紡の方まで点々と続いていた。同じょうな光景が、三春町八幡町から三春専売局の方でもよく見ることが出来た。 手紙2 (三春馬車鉄道) 郡山=三春間乗合馬車 トテ馬車の名称由来 鉄レールを走るトテ馬車は、安定した乗り心地良好と評判よく乗客を満載し、豆腐屋の吹鳴する笛を吹き鳴らしてトテ馬車は速歩・並歩で行進した。私等いたずらっ子、七〜十才は、トテ馬車の後出入口の鈴の如く乗り合って、国道四つ角まで行くのが楽しかった。トテ馬車が三春に行ったあとは、荷物運搬用トロッコ二台を引張り出して、トロに乗って楽しく遊んだ。トテ馬車の郡山駅は無人駅で、幸に叱る大人は一人も居らずノドカな遊び場所であった。 トテ馬車本社は三春にあり、人口も郡山と同じであった。 昭和五十五年四月二十四日 郡山市 場原弥作 (七十八才)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.02.11
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(七) 三春〜シルクロードの源流 2 宮国強兵と三春 当時のこのような三春が、最新鋭の乗り物であった馬車鉄道を必要とした理由は、何であったろうか。それは生糸に関連したことであったことは間違いない。 封建社会の胎内から資本主義的産業を自らの力で作りだしていった先進諸国においては、基本的に、「お互いに、『市場』として役立ついろいろ違った産業部門は均等に発展するものではなく、お互いに追越しあっている。そしてより発展した産業は、外国貿易を求める。」(レーニン『ロシアにおける資本主義の発展』豊田四郎・飯田貢一訳)と言う考え方が普遍的であった。 このような考えが、福島県田村郡の小さな地域にも、当てはまるものと思われる。三春藩は戊辰戦争を戦うことなく、西軍の無血入城を招き、それにより官民の物的被害を最小限に抑えることができた。この田村地方に古くから伝わってきた繭と生糸の伝統が、国家的要請と結びつくのである。この恵まれた状況の中で三春の商人たちは、養蚕農家から農地を担保にとり金融をしながら繭を集荷する集荷問屋の機構を作りあげていった。そして、この集荷問屋により集められた繭を買い、糸を繰る製糸業が発達していった。三春町の合名会社三盛社(商社兼製糸場・廃藩による士族救済の殖産振興会社)などがその好例であったし、またそれに付随して小さな家内工業が発生していった。そしてこの田村地方の蚕の育成の伝統と技術が、明治以後の郡山の製糸業発達と都市化のための原料面での基礎ともなっていったのである。 日本最初の株式会社 明治六年六月、安達郡二本松町に地元の有力者・山田脩・安斎宇兵衛、佐野利八。梅原新固らを中心に、二本松製糸会社が設立された。この会社は、わが国の株式会社の嚆矢とされている第一国立銀行の同年八月の設立より、わずかではあるが早かった。つまり戊辰戦争により破壊された二本松城趾に、製糸会社としては日本最初の株式会社が芽を吹いたことになる。有名な官営富岡製紙工場がフランス人ブリュナの設計監督のもとに設立され、器械一式もフランス製であったのに対し、二本松製糸会社の場合は、イタリアなど先進地の技術を参考にしながらもすべてを国産品でまかない、九十六人繰りの器械製紙工場を日本人の手のみで建設された画期的な工場であった。 製糸の品質の整合 同じ年、生糸改(きいとあらため)会社が、政府の指図により、全国同一基準で各地に会社が設立された。この会社の目的は、小規模経営によるバラバラであった品質の統一と粗製乱造のいましめにあったが、それでも家内工業や農民の間の養蚕と製糸未分離による座繰り製糸のため改良は進展しなかった。そのために明治七年には、生糸製造人の全容もつかめず、取り締まりも出来ず困ってしまい、ついに県令の名によって布告を出されるほど、改会社の運営は困難であった。 この会社は、製糸業者と生糸商人をともに大蔵省の直接管理下に掌握するという政府の方針の下に、横浜および主要生糸産地に設立されたものである。ここでは、横浜改会社・地方改会社・製糸業という流通ルートが、権力的に設定されたのである。この基準による改会社として、福島県には明治六年、三春生糸改会社と福島生糸改会社が設立された。三春生糸改会社は三春に本社を置き、磐城和平駅・行方郡・相馬郡原町・相馬郡浪江町 田村郡小野仁井町村・田村郡守山町・田村郡上移村・石川郡石川町に出張所を置いた。また福島生糸改会社は本社を福島に置き、伊達郡保原町・伊達郡飯野村・伊達郡掛田村・伊達郡掛田村・伊達郡小網木村・伊達郡桑折村・伊達郡梁川村・安達郡二本松町・安達郡本宮村安達郡針道村・安積郡郡山町・岩瀬郡須賀川町・白河郡白河町に分社に置いた。 新たなる物流 これらの動きのなかで、製糸業、および集荷問屋以外の商人のグループが誕生する。その人々は、商品を貿易港である横浜まで運ばせ、売込商に売ったり、または自らが売込商として輸出商である外国商人(当初、日本からの輸出を司る輸出商は、外国人に限られていた)に売り、輸出を行っていた。ということは、この外国人輸出商に近づける業者ほど、金融力があり利益も大きな業者であった。とはいっても、売込商として明確に分業が為されていたのは少数の大手の業者であって、中小の業者はこの一部分を、また大手業者によってはこの全部を兼ねていた者も珍しいことではなかった。 失われた夢 ともあれこれらの大きな社会の流れの中で、明治の初期、三春町は一時的に大発展をとげた。この町に発券銀行として設立された第九十三国立銀行はこれら地元産業の企業の金融をまかなった。そして支店を郡山や平、東京や横浜に置き為替業務をおこなったのである。また安田(富士)銀行三春出張所が開設されたのも同じ理由からであろう。 さらに廃藩置県による三春県庁やその後合併してできた磐前(いわさき)県庁の三春支所、田村郡役所、三春税務署、県内五番目に作られた三春電信局や七番目の三春郵便役所、更に自由民権運動の政治結社二二師社、その目的のための私塾・正道館と付属印刷所、三春師範学校(明治十年、三春・平・福島・会津若松の師範学校が福島に福島師範学校として統廃合、現在の福島大学教育学部の前身となった)県内四中学のうち一校(三春・平・福島・会津若松に設立されたが、のち一県・一校制により福島中学となる。しかしその後、県内にい1校の中学校が福島では偏り過ぎるとの理由で、安積郡桑野村(現・郡山市開成)に移され、現在の安積高校の前身となった。三春伝習学校(三春師範学校の前身)、三春英学校(真城学校)、田村郡立蚕業講習所、獣医学講習所、聖ヤコブ教会、三春電気会社、三盛社製糸場、三春煙草収納所(東北・北海道を管掌した。福島県石川・若松・坂下・豊成・小野新町、宮城県狼河原(大河原)、岩手県千厩・大泊、青森県三戸・山形県東根・鶴岡・米沢、秋田県増田、北海道函館にその出張所を置いた)、ベッドの備え付けられた山中(やまなか)ホテル、そしてこの三春馬車鉄道……。 この頃、三春は政治・金融・通信・教育の中心地として栄え、須賀川は商業の中心地として発展していた。そして同じ頃、既に人口も増え町となってはいたが、郡山の人々は、電報や商品の仕入れのたびに、三春や須賀川まで出掛けなければ用が足せなかったのである。しかし今は、三春からそれらの一切が夢と消え、ご多分にもれず過疎の町としてあえいでいる。この一時的発展と現在との大きな落差、これは一体なんであったのかを思うとき、戊辰戦争で官側に味方したという見返りや、無血入城で破壊されなかった町並や藩の施設をそのまま利用できたことが、その大きな理由の一つであったと思われる。またそれは同時に古さをそのまま残すこととなり、新たな発展への疎外要因ともなって沈滞していったとも考えられる。 (1) 「戊辰落日 上」 綱淵謙錠一三三〜一七二ページ (2) 「歴史・みちのく二本松落城」 榊山潤 二一〜二二ページ (3) 「会津戦争のすべて」 会津史談会一九二ページ (4) 「戊辰東北戦争」 坂本守正 五九ページ (5) 「会津・仙道・海道地方の諸城の研究」 沼舘愛三一七五〜一七九ページ (6) 「福島自由民権運動史」 高橋哲夫 (7) 「繭と生糸の近代史」 滝沢秀樹 五一ページ (8) 「聖公会宣教八十年史」 郡山聖ペテロ・聖パウロ教会 二ページ (9) 「郡山郷土読本」 郡山市立学校長協議会 一六八〜一六九ページブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.01.21
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福島県田村郡三春町 この町は、旧磐城国田村郡の西端の阿武隈山地の山あいの底にへばりついた、人口一万人位の古い小さな町である。そして、この底の中央にある、小高い、その割に急峻な丘の上に、永正元年(一五〇四年)舞鶴城という典型的な山城が築かれてから、初めて町としての体裁を備えた城下町である。三春藩五万五千石の中心であったこの町には、古い歴史を反映して、文化的にも誇れる幾つかのものが残されている。町内各所には、古い創建に成る神社仏閣があり、重要文化財の仏像を始め、絵画の雪村、句の今泉恒丸、郷土芸能の三春盆踊り、三匹獅子、そして今にのこる三春人形、三春駒などの工芸品など、また、明治に入ってからも、若山牧水、竹久夢二などともゆかりがあり、最近では大林組社長の大林賢四郎、歌会始・読人の秋田一季、洋画の大江孝、歴史の高橋哲夫そして女性登山家の田部井(旧姓・石橋)淳子を生んだ町である。また我が家に残っている嘉永元年(一八四八年)の火災のため焼失した三春愛宕神社再建の寄付帳の中には、式守家の署名と軍配の形の判子が押してある。現在の国技・相撲の行司の式守家との関係とも考えられ、娯楽的なものも含めて、一通りのものが藩内に揃っていたと思われる。 勿論、藩という組織そのものは、政治、軍事を基盤として成立して来たものではあるが、当然それらを維持する経済力を有していなければならなかった。であるから三春藩も経済的には自立しなければならなかった。他藩からの移入(例・会津の酒)を禁止しながら、他藩に移出していたものに、生糸・蓑・菅笠・藁工品・馬、そして時代が下がってからは、タバコなども加わるなど、今の国際間の輸出入のような関係もあったようである。 地勢的には高い山こそなかったが、褶曲が激しく谷が侵入し、山また山、谷また谷の錯雑した地貌を呈していたが、その谷地を通じて交通路は大いに発達していた。その主幹線として、東方に向かう常葉街道、小野新町街道が浜通りを結び、北には小浜街道、西北には本宮・二本松街道、西方郡山に西南笹川・須賀川街道、南方には守山・石川街道と四通八達、江戸までの間道を含め、その他数多くの里道が四方に通じていた。 当時の水運は、伊達郡梁川町以北仙台まで阿武隈川を利用して行われていた。郡山は奥州街道に接し、本宮の南で、この川の西に位置していた。つまり三春と郡山は、阿武隈川を挟んで、東の山地と西の平野に相対していた訳である。 当時の郡山を中心とした安横平野は、一部を除いて水利の便も悪く、農耕不適格地として広がっていた。ただ、地理上たしかに郡山村は、奥州街道とのいわき=新潟線の十字路に位置してはいたが、それに類した周辺の町としては、三春をはじめ、花の本宮と言われた宿場町、そして行政の中心、更に物資の集散地でもあった城下町、二本松・須賀川に囲まれていた。そのために、これら周辺の町からは、郡山村へ特別の用向きは無かったのである。会津方面から北へ行く人は熱海から本宮を、南へ向かう時は須賀川か白河を経由したと思われるし、磐城・田村方面から北へ行く人は本宮か二本松、そして南へ向かう時は須賀川を経由したものと思われる。そして藩政時代にはこの奥州街道に沿った間道も発達していた。この間道は奥州街道が各大名の通り道であり、殿様優先の交通体系を嫌った当時の商人たちの産業道路として利用されたものである。(郡山女子大・田中正能先生は、絹の道と表現)。このような状況であったために、郡山経由の道路は、わずかに南北縦断か東西横断の時に、近道として利用されたに過ぎなかったと思われる。 戊辰戦争と三春宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのはなんじゃいな トコトンヤレ トンヤレナあれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレ トンヤレナー この町も、戊辰戦争を避けることが出来なかった。三春藩を含めて、奥羽越列藩同盟が組織された。だがはじめの会津藩救解同盟の段階では平和的な同盟であり、大部分の小藩にとっては、仙台・米沢といった大藩へのいわばお付き合いでお茶をにごしておくこともできた。しかしその救解同盟が攻守同盟に変わり、仙台藩を盟主として白石に奥羽越公議府が開設され、反薩長の姿勢を強化してくるようになると、話が変わってきた。それは今までのあなたまかせの立場を放棄し、小藩といいどもそれぞれが独自に自藩の将来の生き残り策を決定しなければならぬ羽目に追い込まれたことを意味した。そしてそれはなにも小藩に限ったことばかりではなかった。仙台藩も米沢藩も同じことであった。 恭順論が主導権を握ったところでは奥羽越列藩同盟に離反して「裏切者」の汚名を残し、対戦論の勝ったところでは西軍に壊滅的打撃を受け、「朝敵」として悲劇を迎えることとなる。この同盟に参加した全ての藩で、恭順論と対戦論が交錯したように、当時十一才という幼少の主君を戴いていた三春藩(五万石)も例外ではなかった。大政奉還間もなく朝廷支持を表明したものの、それを公表できなかった。なぜなら表だって反対をすれば、磐城から小野にかけてあった笠間藩飛地のように、周囲の各藩に攻め滅ぼされるのが目に見えていたからである。 三春藩は京都に帰順の使者を送ったものの、会津救解を目的とした奥羽列藩同盟が攻守同盟に変化し、この要求により会津・仙台両軍を主力とする白河の攻防戦に派兵し、やむを得ず西軍と兵火を交えた。当時の二本松藩は白河藩(十一万石)をも預かっており、その版図の中にあった白河城での攻防戦は、二本松藩をして奥羽越列藩同盟に対し多大なる義理を生んだことになったと思われる。しかしその後の棚倉城奪還の浅川の戦いで戦線の背後に回って挟み撃ちにした黒羽藩を三春藩の攻撃と言い触らされたことから、「三春狐」のいわれなき悪名が広がった。三春藩が挟み打ちにしたと信じた仙台藩は、これの実情調査のため、仙台藩の氏家兵庫を三春藩に派遣した。その返事によっては幼かった三春藩主・秋田信濃守映季を人質とするか、三春・守山藩を討伐することとしたのである。その氏家兵庫は、なぜか事態を穏便に済ませたのであるが、結局、三春藩の主張を認めざるを得なかったのではあるまいか。 三春藩は、隣藩・二本松藩に共に恭順の誘いをかけた。しかし二本松藩は三春藩からの帰順要請の使者を殺害してしまったのである。二本松藩は西軍の攻撃に曝され、落城していった。それにも拘らず、三春町の人々は、今なお残る「三春狐」の呼称の苦味に堪えているのである。当時西軍の歩卒たちが放歌して言うには、 「会津肥後守力が強い二十三万右手で投げた」 「会津猪、米沢狸、新発田狐に、だまされた」 「会津・桑名の腰抜け侍、二羽(丹波氏・二本松藩主)の兎は ぴょんと跳ね 三春狐にだまされた」 ところで一般庶民は、もっと確かな目で歴史を見つめていた。 「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。 この幕末の嵐の中で戦った日本人同士、悠久の大義という言い訳の下、各藩がそれぞれにその存立の方法を探った。奥羽越列藩同盟に逆らった三春・新発田・秋田藩、そして自ら仕掛けながら降伏した仙台・米沢藩、さらには二股をかけた郡上藩、その上で不本意ながら当事者とされ塗炭の苦しみに追い込まれた会津藩、そして二本松藩。現在から振り返ってみれば、結局戦いに参加した個人個人にとってあの戦争は、何の意味もなかったのではないか。そうすれば今現在まで残る市民レベルでの怨念は一体何なのであろうか、そしてこの後ろめたさは。これ程まで後世の人の心に災禍を残す戦争を、私は憎む。第二次世界大戦もベトナム戦争も、そしてアフガニスタンの戦争も。戦争とは本来無意味なものである。 三春藩は白河や棚倉そして須賀川のような周辺の町村の殆んどが戦場となり、二本松少年隊・会津白虎隊に象徴されるように徹底的に破壊され尽くした中で、三春のみが戦火をまぬがれ、辛くも町全体が生きのびた。この無血入城の交渉にあたって活躍した人物が河野信二郎(広中)であった。そしてこのときの交渉相手であった西軍の参謀が板垣退助であったのは、その後に起きた福島県の自由民権運動にとって、大きな幸運であった。河野広中はその自由民権運動のリーダーとなり、西の土佐、東の三春といわれる程の活動をしたが、時の明治政府の反自由党勢力と戦って入牢を繰り返した。戊辰戦争の時の三春帰順の中核的存在であり、「三春狐」とそしられた彼の、精一杯の努力と見るのは私の身びいきであろうか? しかし大正四年には農商務大臣にまで登りつめたが、同十二年、彼の自由民権運動の総仕上げであった普通選挙法施行の準備中に、病死してしまったのである。彼の銅像は、郷里・三春町の舞鶴城跡を見上げる場所と、福島県庁に建てられている。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.01.11
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(六)絹の道〜日本のシルクロード 古代の絹織物 日本人が生糸の生産を知ったのは、「魂志倭人伝」伝えるところの「邪馬台国」に養蚕・絹織のあるところをみると、弥生時代から行われていたようである。その後奈良盆地や河内平野に成立した大和王権が、やがて古代国家としての形を整えていく過程で、主として朝鮮半島から渡って来た多くの渡来人たちによって、新しい技術水準や生産体系がもたらせられて来たものと思われる。この糸を紡ぎ、そして織る過程の中で、紡錘などの円運動が生まれて来たのであろう。これを車輪の原形とは言えないまでにも、機織りの横糸を飛ばす梓などには、相当早い時期に車が付けられたのではなかろうか。 時代が一挙に飛ぶが、明治初年の統計によれば繭生産高の第一位は熊谷県(現在の群馬県の一部)・(二十七%)であり、以下第二位山梨県(十六%)、第三位長野県(八・五%)、第四位福島県(六・九%)と続き、また生糸の生産価格でも、第一位熊谷県(二十三・四%)、第二位築摩県(現在の長野県と岐阜県の一部)・(八・五%)、第三位福島県 (六・二%) と並んでいた。そしてこの繭と生糸の生産額の対全国比との位置の移動は、その産地の繭がどれだけ他の府県域内で生糸生産に用いられたかという点、つまり原料供給地であるか、他府県産繭を購入して製糸を営む形態がとの程度展開しているか、つまり工業化が進んでいるかを数字で表したことになる。 明治の絹織物 それともう一つの指標、耕種農産物価格と養蚕関係生産物価格の比率をみると、全国平均では三・七%であるが、福島県のそれは三十一%で第一位であり、続いて第二位山梨県、第三位置賜県(現在の米沢地方)と続くのである。特に福島県は、江戸時代の後期最大の本場蚕種の産地であり、最先進地でもあった。 福島県はまた、寒暖計を利用して、温暖育を最初に始めた地方としても知られ、すでに畑一面に植える桑畑(他地方では畑の畔道、山の裾等を利用)が出来ており、更に桑畑の小作関係までみられた。生糸生産県の上位五県の生産高は四十三・九%とほぼその半分を占め、幕末の開国は、この五県を製糸地帯としての地位を、更に確固たるものとしたのである。(ここまでの記述の福島県は旧福島県であり、以後は現在の福島県である) 明治十二年に、横浜の製糸問屋、茂木惣兵衛の出した「横浜生糸検査所輸入調表」によると」横浜への入荷高は、第一位は群馬県、第二位に長野県、第三位に福島県(川俣・田村方部)、そして第四位に埼玉県がつけていた。明治三十年の調査によれば、繭の生産量および全国との構成比は、第一位長野県(三四八、七三一石十六・四%)、第二位群馬県(三二、〇九石 十・九%)、そして第三位は福島県(一七九、一石 八・五%)であり、更に田村方部のそれは、福島県との比較で二四、三三一石 十三・六%を占めるにいたったのである。 この田村地方の地形は、山間地が多く、通常の農作業の困難な所が多かった。ところが桑は山地でも植え、栽培することが出来た。そのために養蚕は、古くから盛んに行われていたのである。三春町沢石字青石にある蚕妻神社(通称・稲荷神社)は、一七四四年(延亨元年)に蚕養国神社よりの遷座と伝えられるものであり、また一七七一年(明和八年)には、蚕に夢中になって本来の農がおろそかになったと言われる程、普及していた。その幕末から明治にかけての日本の輸出品は、生糸・茶・綿花・水産物・食油・銅などが主なものであったが、その中でも生糸は、当時の日本最大の輸出品目であった。 富国強兵と絹織物 明治十六年、日本の帝国憲法の成案を得るためドイツ・ベルリンに滞在していた伊藤博文は、参議大蔵卿・松方正義あての手紙に、イギリスがエジプトを、フランスがインドシナ地方を属国とした「乱暴狼籍」と「欧州の現今の形勢」とを書き伝え、「軍備充実の事は我が力の限りを尽くし」と、軍備増強の必要を強く説いている。「東西の大勢を比較して、我が独立の安危を思う毎に、寝食の安ずる能(あた)わざるものあり」と言う文面に、当時の欧米の植民地獲得競争に対する日本の恐怖心が側々と感じられる。更に伊藤博文は、やがて日本の軍事力の増強が、清国の朝鮮に対する宗主権の強化と帝制口シアの南下政策に対抗し、日本防衛の生命線としての植民地化を目的とした朝鮮への軍事介入から、外国と戦う日の来ることを予想していたようである。そしてその予想に違わず、すでに台湾や朝鮮に武力介入していた日本は、日清(明治二十七年〜二十八年)、日露(明治三十七年〜三十八年)の大戦争に、国をあげて血みどろの戦いを挑んでいくのである。 明治二十八年、福島県伊達郡掛田村の養蚕業者の建議の一部に、「蚕糸ハ我国重要物産ニシテ実二富国強兵ノ基礎タリ」、「我国蚕糸ノ事タルヤ、実ニ国脈ノツナガル処ニシテ、今ノ総理大臣・松方伯、カッテ主上ニ奏シテ言エルアリ、彼方ニ見ユル軍艦モ此方ニ敷ケル鉄道モ皆蚕糸ノ力ニヨリテ製作セラレタリ」と記載されているのを見れば、いかに当時の日本の軍備や経済が、生糸に頼っていたかが証明出来る。これらのことを逆に言えば、それ以外に日本には大量に輸出できる商品は皆無であったし、また他の輸出品と異なって、原料の栽培から製造の技術までの全てが、国内で自給できる唯一のものでもあったからである。 大正時代、官営富岡製糸場で働いていた田村ヒロ(昭和六十二年当時、八十三才)の話によると、何か式典があれば必ず歌わされたものの中に、「いと車 とくもめついで(とくもめぐりて)大御代の 富をたすくる 道ひらけつつ」という歌があったという。これは昭憲皇太后の御製であるが、皇后陛下までが皇居内紅葉山や青山御所に桑を植え蚕を飼い、御自ら糸ひきをされた時代である。そしてそれが伝統となり、皇居陛下による皇室の行事として現在も続いているのである。皇室が絹にこれ程までの関心を持ったということ、そして持たざるを得なかったということは、時の政府の外貨獲得や富国強兵策への強力な牽引力を感じさせられる。 しかし、これに要する労働力の供給は、前述の田村ヒロも含めて当時の年端もいかない娘達の肩にがっしりと食い込んでいた。この製糸工場のために娘たちを送り出した農家は、生活が楽になるどころか、むしろ高い小作料を払うために副業として養蚕が営まれ、時には娘たちの働いた給料が小作料の支払いに当てられていた。 郡山市清水台に残る旧橋本製糸場跡の見事なまでの赤煉瓦の塀は、単に敷地の境界としてのみではなく、娘たちが苦しさのあまり逃げ出すのを防ぐ目的があったのではないかと思われる程頑丈で立派なものであった。当時のこの娘達の「女工哀史」に代表されるような苦しいつらい生活を物語るものとして、家を出るとき 笑い顔汽車や電車に 身を乗せて紡績工場を 眺むればまわりは高い 煉瓦塀鳥も適わぬ 籠の鳥などという俗謡が残されている。なお明治十四年、現在の郡山貯金局付近に真製社の製糸工場があったが、後に橋本万右衛門により橋本製糸工場がここに建てられた。これが今に残る赤煉瓦である。 このような国家的要請の中で、生糸関係の産業は、明治初期の大量の外貨獲得と軍需産業の確立、そして軍艦等大型兵器の輸入と「富国強兵」策とに決定的役割を果たして行くことになったのである。この明治の「富国強兵」の経済的基盤を支えたのが、か弱い逆況の娘たちの涙と力であったことは、何か歴史の無情を感じさせられる。誤解を避けるために付け加えれば、日本の軍事大国化を支えたのが養蚕家や製糸工女たち(あるいは広く農民や労働者たち)というとき、彼らの犠牲的献身が「やむを得なかった」ことを意味したり、ましてや彼ら自身が「お国のために尽くそうとして」ひたすら苦しい条件の中で繭や生糸を作り続けた」、ということを意味しない。これは単に生活を支えようとして働いたことであって、国家のためという美名を冠され利用されたに過ぎないということである。このことは特に強調しておく必要があろう。 日本のシルクロード やがて群馬県・長野県・福島県等の生糸の生産地は、馬車で結ばれることになる。例えば福島=東京間は約三百キロメートル、これだけの距離を馬車で走ったのは驚異である。これらの地区と貿易港横浜へは、以下のように結ばれていた。(1)岡谷から横浜へは、甲府、八王子東京を経て、(2)富岡から横浜へは、高崎・大宮、東京を経た陸路と利根川を利用した水路、そして(3)福島から横浜へは、白河・宇都宮・大宮・東京を経た陸路か、宇都宮から分かれ、境から利根川を経た水路で結ばれていた。この三本の道が、絹の輸送に大きく利用されていた関係で、日本のシルクロードと呼ばれていた道である。このシルクロードの一つが陸羽街道である。明治の初期に陸羽街道馬車会社がこのシルクロードに馬車を走らせていたことが文献上明らかではあるが、本当に走っていたのかと思われるほど具体的な痕跡が残されていない。だが全行程を一社で運行していたこともあったかも知れないが、手塚舎(浅草=宇都宮=白河)、盛運社(宇都宮=白河、白河=福島)、万里軒(福島=仙台)というように複数の馬車会社を乗り継いで、東京・浅草=仙台間を利用していたとも考えられる。(1)「繭と生糸の近代史」 滝沢秀樹一三〜二八ページ(2)「産業史 ㈽」 古島敏雄一〇六ページ129P(3)「あゝ野麦峠」 山本茂実 二1一三ページ(4)「三春の歴史と文化財」 三春町教育委員会 二四ページ(5)「横浜市史資料篇二」「日本貿易統計」六三ページ (横浜港輸出品表) および同市史」第二巻所収数値による。(6)「とくもめついで (あゝ野麦峠四二ページ) 「とくもめぐりて」 福島民報(7)「新日本風土記・絹の道」 福島民報 昭和六二年九月二七日(8)「郡山の歴史」郡山市 二三九〜二四〇ページ(9)「開妃 (ミンビ)暗殺」 角田房子一二七ページ(10)「福島県の歴史」 小林清治・山田舜 二三四ページ(11)「駅馬車時代」 篠原宏 二〜三〇ページブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.12.21
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(五) 日本の牛馬車〜古代より近代へ 3 たとえばの話 ところで青森から東京まで、最も安くて早い馬車に乗って旅行したと仮定してみよう。日数は十二日かかり、途中十一ケ所に宿泊しなければならない。それでも定期馬車の場合、宿泊地は一定していた。七戸・二戸・八戸・盛岡・花巻・金成 (かんなり)・仙台・白石・郡山・白河・宇都宮がそれである。 この間は馬車賃だけでも二十三円から二十四円かかり、これに十一日分の宿泊料(一泊十五銭から三十銭)と昼食代(一食五銭から十銭)、更にお茶代やチップ十一日分(金額は以外に大きい)を計算に入れ、臨時の支出を考えず、酒も飲まず名物の饅頭も喰わずといったぎりぎりの旅行でも、片道三十円はかかった。だから一度青森から東京へ行って帰ってくると、百円以上の大金と約一ケ月の日数を必要としたことになる。 それにしても、米一石五円という時代である。百円と言う金額は、下級役人の五ケ月分から十ケ月分の給料に相当した。だからこれらの記録にも拘わらず、この距離と意外に高額な乗車賃とあいまって、毎日定期便を運行するほど乗客があったかどうか非常に疑問である。青森=東京間の馬車はより至近な距離である宇都宮=福島間の陸羽街道馬車会社が本当に走っていたかと言われていたように、これまたそうであって欲しいと思われていた幻の馬車会社であったのではなかろうか。そしてこの同じ時期に手塚舎があったことを考え、さらにこの盛運社や万里軒と考え合わせると、一社ではなく複数の会社で東京=青森間を乗り次いで運営していたとも考えられる。 仙台の馬車木道 明治十一年七月、安積疏水の恩人とされるオランダ人ファン・ドールンの調査と建白により、日本政府主導で東北地方の一大プロジェクトであった宮城県野蒜(のびる)新港の建設が始まると、仙台地方に大きな活力がみなぎつた。同時に野蒜を中心にして、石巻から荒浜(阿武隈川河口)までの運河の改修も始められたから、新野蒜港と仙台の発展が大いに期待された。 明治十三年十二月一日、仙台市東六番丁 (現・JR仙台駅付近)から蒲生運河のあった宮城郡蒲生(現・仙台市内)までの約十二キロメートルの木道敷設の請願が、宮城県知事に対して提出された。木道というのは、木製のレールのことであるが、この会社のものは、木製のレールの表面を鉄板で覆ったものであった。この木道で、仙台=蒲生間の貨物を年間五万駄(一駄・約百十キロから百五十キロ)を運ぶ見込みであった。 この会社の計画者は、由利公正子爵(旧姓・光岡弥太郎)と言われ、発起人は東京の三岡丈夫であった。起点は現在の仙台線と同じく、宮城野原の北を抜けて蒲生街道を通り、高砂付近で七北田川を渡り、蒲生に達するものであった。出願は明治十四年七月七日、内務卿・松方正義により許可され、会社名を「木道社」と称した。資本金は三万三千円(三万三千株)、社長は右辺大三といい、本社を仙台市東六番丁十三番地に置いた。 野蒜港そのものは工事中に大暴風に襲われ、破壊されて頓挫してしまった。しかしこの木道は明治十五年二月に竣工し、三月二十日に営業を開始したのである。二十台の馬車を置き、特に仙台地方の移出人品の輸送に大きく貢献した。ことに萩浜に下ろされる貨物で山形方面に送るものは、ほとんどこの木道を利用したという。運賃は一駄二十銭で、年間一千三百円の純利益をあげていた。旅客は輸送しなかったが、東北では珍しい私設の軌道であった。原敬の日記には、木道に乗ってみた様子が書き残されている。 明治十九年、仙台=塩釜の鉄道が建設される見通しとなった。驚いた会社は木道の買い上げを日本鉄道に請願したがそのままとなり、明治二十年十二月、東北本線が塩釜まで開通すると木道は利用されなくなり、ついに放棄されてしまった。 東京の馬車鉄道 明治十六年六月、本格的な馬車鉄道が、新橋=日本橋間に登場した。 このように、本来発展段階を異にする輸送機関が同じ期間に輸入されたため、日本での馬車鉄道は、最初から市内・郊外の短距離・または貨物専用として、つまり蒸気鉄道の補助的輸送機関として使用されたのである。馬車鉄道と初期の市内電車の著しい形態上の類似(モニター・ルーフ、露出した運転台、外壁面の作りなど)は、明らかにこの両者の接点を示している。尚この時の東京の馬車鉄道のボディは、イギリスから輸入されたもので、木造ペンキ塗り、定員が二十四人から二十八人であった初年度の記録によれば、一日一台あたり七・三頭の馬、二人乗務の五・四人と馬の方が大事? にされており、またそれだけに馬の数を揃えておくのが大変であったという。 ところで車両を牽くこれらの馬、一頭牽きはともかく二頭牽きの場合は、慣性の法則からして発車の時こそ二頭の力を必要とするが、一旦動き始めると一頭の力で充分である。だから二頭牽きの場合、一頭はいつも力を出している真面目な馬で、もう片方は引っ張っているように見せかけ只一緒に歩いているだけのずるい奴、と冗談にせよ言われていた。 ずるいかずるくないかは別として、案外これは本当のことかもしれない。余談だが、三春馬車鉄道の客車を工務店の作業場で復元をし、郡山歴史資料館に運ぶのにレールの上の客車を押した時、その図体や見掛け上の重さにも拘わらず、その余りの軽さに青かされたものである。重い物でも、レールの上は本当に軽く動くものだと実感した。 大正元年の最盛期、日本での馬車鉄道は約四十社が連行をしていた。(1)「文様・車」 朝日新聞 昭和六三年三月六日(2)「東国のはにわ」 福島県立博物館 二六ページ(3)1古墳と古代文化九九の謎」 森浩一 二四四ページ(4)「乗り物のはじめ物語」 ブリジストン広報室 二〜三ページ(5)撤跡の出典が分からなくなりました。(6)「古墳時代から牛を飼っていた」 福島民報昭和六三年一月二六日(7)「新修国語総覧」 江馬務 谷山茂 猪野謙二 三二ページ(8)「枕草子」 二一五段(9)「鉄道の語る日本の近代」原田勝正 三五〜三七ページ (10)「日本の鉄道」 野田正穂 原田勝正 青木栄一 老川慶喜 一ページ(11)「明治末京逸聞史 下」森銑三 七三九ページ(12)「駅馬車時代」 篠原宏 二〇六〜二一二ページ(13)「ものがたり東北本線史」 日本国有鉄道仙台理事室 二四〜三四ページ(14)「駅馬車時代」 二七〇ページブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.12.09
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(五) 日本の牛馬車〜古代より近代へ 2 地方へ伸びる馬車会社 明治五年、前述したように新橋=横浜間の蒸気鉄道が開通し、更に東京=高崎間、東京=八王子間、そして京都=大阪間に馬車会社が発足して、日本も長距離馬車輸送時代の幕を開けた。しかしこれは、この短い時期に、蒸気鉄道、馬車鉄道、そして馬車の三種が、完全に歴史を逆にして、日本へ輸入されてきたこととなり、そのために本来馬車から蒸気鉄道への過度的輸送期間であった馬車鉄道が、蒸気鉄道からかなり遅れて新橋に登場したのである。 同年十月、陸羽馬車会社の設立願いが、高崎郵便馬車会社社長・河津稜威から駅逓寮あてに提出された。明治十二年、浅草・千里軒本社と宇都宮市馬喰町二丁目山城屋間を往復する東京=宇都宮間に陸羽道中運輸会社の出願が提出され、これも許可されている。この両会社がいつまで続いたかは不明であるが、明治十七年頃には東京=白河間を手塚五郎平、白河=福島間を常盤条太郎によって馬車の運行が行われていた。手塚五郎平による東京=白河間の馬車会社は、明治九年の創業といわれている。代々飛脚問屋であった手塚五郎平の手塚舎は、宇都宮の伝馬町に本店を置き、宇都宮=束京、宇都宮=白河の二路線で営業をしていた。 この馬車は手塚舎の前から発着し、一台に旅客十人ほどと郵便物を乗せ、東京・浅草観音前までの片道に十二時間から十五時聞かかった。発車時間は午前五時、午後一時、午後七時の三回で、途中の小山・古河では馬を替えて運行した。しかし交代したとはいえ、一日に四時間から五時間も走るので、馬が手塚舎に到着するとバッタリ倒れるということもしばしばあったといわれている。このため手塚舎では、明治十四年に馬の慰霊碑を建て供養をしていた。宇都宮市泉町の延命院境内には、この時の「馬頭尊碑」と刻まれた石碑が、今も残されている。 この手塚舎の所有車両数は、四台から五台で営業していた。しかしこの東京=白河間の馬車も、明治十八年の東京=宇都宮間の蒸気鉄道開通により、同年七月に廃止されてしまった。明治十三年の東京商人録によると、東京=宇都宮間一人の乗車賃は、一円九十六銭と記録されている。 東北地方で馬車が走るようになったのは、明治十三年頃といわれている。この馬車屋は万里軒というもので、東京・浅草から青森までの間に毎日定期乗合馬車を走らせた。仙台に本社のあった万里軒は、早川組の配下・橋本忠次郎が始めたもので、明治十六年に開業した(佐々久著「橋本店九十年の歩み」所収)。「鉄道の本邦経済に及ぼせる影響」(大正十年鉄道省刊)には、日本鉄道建設以前の仙台=東京間の交通機関として、橋本組の乗合馬車があったと、述べられている。今残されている万里軒の広告によると 馬車発着刻限仙台本店 午前六時発白石駅支店 正午十二時着 午後一時発福島支店 午後五時着福島支店 午前六時発白石駅支店 正午十二時着 午後一時発仙台支店 午後五時着馬車馬継所 仙台本店。増田駅。岩沼駅。槻木駅。金瀬駅。宮駅。 白石駅昼休支店。齋川駅。 貝田駅。 桑折(こおり)駅。福島支店。 福島県福島町十二丁目 万里軒支店。とある。これを見ると、一日一往復の営業であったのは分かるが、ただ何故仙台=白石間で午前が六時間で午後は四時間、また白石=福島間で午前は四時間で午後六時間と差があるのが、不思議である。それにしても、今なら新幹線で三十分位の所が、十一時間も掛かったことになる。なお十二丁目という町名は、現在の福島市には見当たらない。 また明治十四年に、宇都宮=白河、白河=福島間の馬車の広告が残されている。白河市本町旅店・内地屋近藤初太郎の盛運社の経営によるもので、二路線となっていた。だがなぜかこの広告の発行年月日と、運賃の所が空欄となったままである。以下にそのコピーを載せる。 先キニ官許ヲ蒙リ白河卜宇都宮トノ間日々二両ノ馬車ヲ以往復候処今般更ニ又官許ヲ得テ白河卜福島ノ間一両馬車ノ往復ヲ開業仕候間四方ノ諸君深ク御愛顧ノ程伏テ奉希候 但シ一両ノ馬車卜掲載仕候ハイヅレモ二頭立ノ馬車二付キ随分速走こ仕侯 月 日 盛運社 発着時限白 河 午前六時発 大田原 午前十一時着大田原 午後一時発 宇都宮 午後六時着 又宇都宮 午前八時発 大田原 午前十一時着大田原 午後一時発 白河 午後六時着 但シ乗車賃銭ノ儀ハ御一人ニ付定価一里二金 銭ノ割 発着時限白 河 午前六時発 郡 山 午前十一時着郡 山 午後一時発 福 島 午後六時着 又福 島 午前六時発 郡 山 午前十二時着郡 山 午後一時発 白 河 午後六時着白 河 午後六時着 但シ乗車賃銭ノ儀ハ御一人ニ付定価一里ニ金 銭ノ割 明治 年 月 日 盛運社磐城国西白河郡白河本町 旅店 内池屋 近藤初太郎 宇都宮=白沢=阿久津=氏家=キ連川=作山=大田原=鍋掛= 堀越=芦ノ=白坂=白河=矢吹=須賀川=郡山=本宮=二本松 =松川=清水町=福島 この広告は、西白河郡矢吹町の円谷重夫氏の所有であるが、展示されていた福島県立博物館では明治十四年と明示してあるので、これに準拠する。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.11.21
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(五) 日本の牛馬車〜古代より近代へ 1 最初の車 日本で最も古い車は、仏像の台座や香箱に彫られたり措かれたりしている、車輪の形をした「法輪」であった。釈尊の入滅(紀元前四八六年)から五百年、仏教に仏像は存在せず、人々が拝んだのは釈迦の足跡や「法輪」であった。仏の像を刻み、描くことはおそれ多いことであった。釈迦が説法して歩いた足跡(仏足石)や、教えの広まりを放射状の線と輪で象徴的に表す「法輪」が仏の存在を示していたのである。 馬とのかかわり ところで五世紀の前半、古墳時代の中期の埴輪に、突然馬具をつけた馬が現れ騎乗の痕跡を後世に残した。これは、この時期に親交のあった百済から多くの有力者が一族や従者を引き連れ、大和・河内その他の地方に移住して来たことと関連づけられると思われる。彼らのお蔭で鉄器の生産と使用が広まりはじめ、大規模な水利や土木工事が行われ、農耕の技術と道具が躍進し、新しい陶器(須恵器など)・養蚕・絹織物・家畜の飼育・その他の生産が急速に発展した。しかしこの時点では、まだ車輪との関連は見られないようである。第37図は、相馬市成田の丸塚古墳から出土した馬の埴輪であるが、鞍の形から騎乗用の馬であると考えられる。これも古墳時代中期のものである。 車のはじめ「日本書記」の履中天皇(四四〇年頃)の項に、車持君(くるまもちのきみ)という名が出てくるが、これは車関係の部民を司る長官の官名であった。文化二年(六四六年)詔の形で出された薄葬令によると、身分が王以上の遺骸の運搬手段として需車とあり、それ以下の身分の者については、一切車の使用はなされなかった。天武天皇の十三年に定められた八階級の朝臣(あそん)姓の第二位の姓(かばね)車持君を給ったという記述の中に出てくるのである。勿論、第二位の姓を給ったくらいだから、車を扱う部署が重要で高い位であったことの証明にもなろう。しかしその車が実際にはどんなものであったか、葬儀以外どんなふうに利用されていたのかは、よく分かっていない。 宣化天皇の八年(五三八年)、仏教が伝来し、聖徳太子の新政により、飛鳥時代の仏教芸術の花が開く。飛鳥寺・四天王寺・広隆寺・法隆寺などが建立されたが、材料の搬入などに全く車は使われなかったのであろうか? 奈良時代の和銅三年(七一〇年)に遷都された平城京、またその後の長岡京にも車の轍跡が残されている。どういう形式であったかは不明であるが、この時代に車のあったことの証明となっている。 牛の出現 昭和六十年、群馬県群馬都子持村の黒井峯遺跡で、六世紀後半の農村集落遺構がそっくり見つかった。この遺跡の調査で、古代の日本で飼う習慣のなかったとされていた牛が、家畜小屋で育てられていたらしいことが分かった。このことは、奈良時代の平城京に牛車が現れたことと無関係ではないと考えられる。何故なら人が牛に車を牽かせる以前に、当然のことながら人が牛を飼っている筈であるという仮説の、重要な論拠の証明となったからである。奈良国立文化財研究所の佐原真理蔵文化財研究指導部長は、「昔から馬の方が多かったとされる群馬県で、六世紀がら牛を飼っていたということは、予想していなかった事実だ。今後の調査で、馬も飼っていたのかどうかが分かれば興味深い。」と語っている。日本では、古墳時代中期の飼馬以前に、牛の飼われた証拠がない。 牛車の種類 平安時代、貴族の乗り物としての牛車(ぎつしや・御所車)が作られた。そして全く同音文字の牛車(ぎゆうしゃ)も作られた。牛車(ぎつしや)は乗用、牛車(ぎゆうしゃ)は荷物運搬用を意味していた。しかしこの乗用の牛車(ぎつしや)は、あくまでも貴族のためのものであった。しかも官位によって乗車の制限があり、乗る人の位によって唐車(からぐるま・からびさしぐるま・ともいう。 最も豪華な大きなもので、皇族・摂政・関白・勅使の乗用)、糸毛車(いとげのくるま、。内親王・更衣・女房の乗用)、横榔毛車(びろうげのくるま、単に毛車とも呼ばれる。四位以上又は女房の乗用)、網代車(あじろぐるま・五位の乗用)、半蔀車(はじとみのくるま、網代車の一種で大使以下女房たちの乗用)、八乗車(はちようぐるま。大臣・公卿・僧正・像綱・弁官・少納言以下大夫の乗用)、などと乗れる官位と車の種類もこと細かに定められていた。そして乗車は、車の後を寝殿造の車寄や縁に寄せて後ろから、降車は踏台を置いて前からするようになっていた。これらの車は源氏物語に登場することから、源氏車(げんじぐるま)とも呼ばれていた。 清少納言は枕草子の中に、「月のいと明かきに川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などの割れたるやうに水の散りたるこそ、をかしけれ」と幽幻な一文を残している。しかし乗り心地については、前述したエリザベス一世の話と同じく、全くよくなかったようである。——揺れる車内は大騒ぎ、鉢合せして飾り櫛が落ちただの、折れただの————上手な牛使いが調子よく走らせて行くのは気分がいい。憎らしいのはギシギシ鳴る車を乗り回す人。耳がどうかしているんじゃない?——(今でいう暴走族か) 京都・平安神宮の時代祭りの牛車の実物は、車軸約四メートル・車径二メートル、屋形は間口二メートル・奥行三メートル、そして長柄が四メートルもある。こんなデカブツを、優美でたおやかな文様に凝縮してきた先人たちもすごい。それはスペインの王室用の馬車のように、当時の工芸品の極敦ともいうべき乗り物であった。しかしそれは平安時代の終わりとともにその優美な姿を消してしまったのである。そして明治以前まで、一般市民に利用されるような大量輸送機関である馬車は、遂に日本では見ることが出来なかった。これは当時日本を支配していた徳川幕府が、馬車が高速大量輸送機関に向く乗り物であることを見抜き、自己への反乱の時の道具となることを恐れ、それの利用を禁じていたこと、更に車両の利用を困難にするため大河に橋を掛けさせなかったことなどがその理由となる。ところで車のはじめで述べたように、車持君という官名が四四〇年頃、六四六年の記録には需車という名が残されている。そしてこの源氏車の車輪そのものの形が材質はともかくとして、既に完成された形であったということなどから、これ以前より、乗用、荷車を問わず作られていたということが分かる。ただここで一つの疑問が発生する。なぜ日本の車の歴史の中で、突然変異的にこのような芸術的牛車が出現したのかということである。 その疑問に対し、前に述べたように、百済派遣軍の一員として出征した誰かが、高句麗王が乗用としていた牛車を見て帰還、また倭人と一緒に逃げてきた百済人から日本の車の歴史の中に牛車の文化が注入され、一挙に花開いたのではなかろうかという仮説があげられる。 日本人の見た馬車 徳川幕府が鎖国の禁を破り開国に踏み切ったのは、一八五九年(安政六年)である。横浜の外人居留地は、開港以来急速に発展した。日本人が初めて馬車を見たのは、一八六〇年(万延元年)遣米債節がハワイのホノルルに着いた時である。柳河日記によると「我朝人の迎として、数十両の馬車来る。此馬車と言うは、四輪にして馬二疋にて之をひく、馬の眼には紙にて作る三寸四寸許の四角なるものを左右に付る。是横を見ざる為と言う、其より進むにて疾し」とある。それから間もなく、日本にも馬車が持ち込まれたものと思われる。この外人が乗り回す馬車のことを異人馬車(二階建ての馬車)、やぐら馬車、また馬引き馬車などと呼んでいた。 江戸=横浜の馬車会社 江戸と横浜を結んでいた馬車会社は、今のところ五社があったことが分かっている。 一八六七年(慶応三年)に設立されたサザーランド会社(後にカブ会社)、一八六人年(明治元年)のランガン会社、一八六九年(明治二年)のジョージ・アンド・ホワンペッキ会社、氏名不詳のドイツ人の会社、それと日本人の会社、成駒屋であった。この成駒屋は明治二年横浜の川名幸左衛門・下岡久之助・棉屋喜八・棉屋仁兵衛・三浦屋秀次郎・木屋与七・三州屋松五郎・三州屋金太郎ら八名が営業許可申請を神奈川県裁判所に、その翌年中山譲治らの同じ二つの申請に対し、吉田橋(かねのはし)脇の官地百六十坪を貸し与え、共同営業とさせたものであった。この宮地に横浜方の馬車発着所を建設し、東京方は新橋際の三井組所有の松坂屋の閉店後を借りて溜所とし、日本橋際に立場において営業を開始したものである。 当時の多摩川には未だ橋がかけられてなく、両岸には馬の継ぎ立て所があり、馬車と人を舟で渡していた。しかし川が洪水になれば渡れなくなるので休息用の旅館が両岸にあり、ここで各馬車会社の馬を預かっていた。川崎の旅館・島田五兵衛が、外国人の会社が馬の飼葉科を払ってくれないという訴訟の記録なども残っている。 これらの記録を振り返って見ても、日本における馬車の歴史は、新橋=横浜間の鉄道開通以前たかだか十二・三年に過ぎなかった。ヨーロッパのほぼ三百年に比較すると非常に短期間であった。やがて成駒屋を始めこの全部の馬車会社が、一八七二年(明治五年)新橋=横浜間の鉄道開通により廃業して行くのであるが、この短い期間の中で明治維新が成立していくのである。 維新後の駅伝制 この明治維新によって、全てが新制度によって行われるようになったが、交通制度については変わらなかった。慶応三年十一月、各宿駅に対して「五街道脇往還共ニ人馬賃船方ノ儀追規則相立候迄ソレマデ通りタルベシ」と通達されたままであった。慶応四年には駅逓司(間もなく駅逓寮と改称)を政府内に置き、宿駅伝馬制を管理した。戊辰戟争中、東北の諸街道には、両軍の人馬・兵器・兵糧であふれたが、それらは従来の宿駅制度、つまり付近村民を駆り出して運ばせるやり方(助郷制)で輸送された。明治になってもこの宿駅制は残り、明治三年の秋ころまで、本陣とか脇本陣という言葉が公式文書にも使われていた。明治二年一月、関所は撤廃され、人は自由に旅行出来るようになったとはいうものの、実情は変わらなかった。しかも道路は戦後も放置され荒廃していた。奥州街道の東京に近い宿駅の中には、その労力に耐えかね全村民が逃げ出してしまったという記録もあり、その上この頃は、街道に虹州法者がはびこったりして無警察状態の時期となってしまった。 陸上輸送会社 明治四年三月、政府は駅伝民営の方針を立て、陸運会社を作らせた。五月にはその会社運用の規制を定め、公用私用を問わず金さえ払えば運送するということにしたが、一度に新会社が出来たわけではなかった。しかし同年十一月、陸運会社の増加に伴い、街道の住民に甚大な被害を及ぼしていた助郷制は、ようやく廃止された。そして明治五年八月には、全国的に陸運会社に切り替えが完了するのである。また明治四年三月以来、新しい郵便制度が実施され郵便の国営が確立してくると、飛脚業者の多くが職を失ったが、これらの大半は新設の陸運会社に吸収された。しかし新陸運会社の実体は旧伝馬所の役人の経営が多く、昔のように人馬の徴発を行ったりした。そのため明治八年三月、陸運会社は「内国通運会社」と改称され、従来の陸運会社およびその組織は、解散したり合併をさせられたりした。 内国通運会社は今の日本通運株式会社の前身となるものであったが、国内貨物の輸送だけでなく、馬車や人力車を営業したり、他の個人業者と契約して輸送網を全国的に張り巡らせ、また各街道の主要地には支部を置いたりした。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.11.11
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(四)欧米の馬車と馬車鉄道〜ヨーロッパより日本へ 2 イギリスの炭坑軌道 一七二大年、イングランド北東部の炭坑利権の問題に端を発して、それまで独立していた三つの炭坑主のグループが一つになり、いわゆるグランド・アライズ (大連盟)を結成した。三つのグループとは、レーベンズワースのリドル家、ニューカッスルのモンターグ家、それとジョージ・ポーズである。この年、今後はそれぞれの利益を持ち寄るという協約が交わされた。その協約にはまた、輸送の合理化のために、各自の炭坑の一部を軌道でつなぐという一項があった。その結果、石炭を送り出すタイン川から内陸部にかけて十三キロメートルにわたる「本線」を敷設するなどめざましい発展を見ることとなった。 この線路の交通量は非常に多く、そのために、貨物を積んだ「列車」と空の「列車」が途中で衝突しないように複線とした。このグランド・アライズの線路が敷かれた場所は丘陵の多い地帯であったので、勾配をなだらかにするために、かなり大がかりな土木工事が行われた。 たとえば、タンフィールドに高さ三十メートル、底辺の巾九十一メートルの土堤が築かれた。しかし最も歴史的な建造物は、コージー・アーチと呼ばれる橋梁で、これは鉄道専用として作られた橋としては世界最初のものであった。一七二七年完成のこの橋は、石造でアーチは一つ、長さ三十一メートル・巾七メートル、その上を軌間一二一九ミリ(四フィート)の複線の鉄道が走っていた。しかしまだ人を乗せるように、出来てはいなかった。 イギリスの馬車鉄道 一八〇一年ロンドン市内に馬車鉄道が開通し、一八〇三年には同じロンドン市内のワーズワース=クロイドンの間も開通した。更にその後ストックトン=ダーリントンの間に敷設された鉄道では、最初は馬車鉄道として開通したが二年後には蒸気機関車が導入された。しかしこの蒸気機関車、ジョージ・スチーブンソンの「ロコモーション号」の重すぎる自重量、牽引力の弱さや遅いスピード、そしてレールの低い耐荷重力などが絡まって再び馬車鉄道に戻り、一八三三年以降になってからようやく全面的な蒸気機関単による運行となった。 フランスの馬車鉄道 一八二八年、フランス最初の馬車鉄道は、サンテチエンヌ=アンドレジューの間を非公式に運転していたが、同じ年の八月一日より公式運転が開始された。しかしこれとても最初は石炭輸送用であり、縦に並んだ二頭の馬が石炭を積んだ七台の荷車を引いた。だがその後運行された旅客用車両は、イギリスのストックトン=ダーリントン鉄道のものより工夫が凝らされており、ボディには屋根がつき、客車を.二つに区切った乗合馬車風にゆったりしたものであった。ところが更に凝って二階式にしたものもあった。 一階の三つに区切った各客室の両側は開放されており、雨風を防ぐ時には、カーテンを閉めるようになっていた。しかし二階は完全に吹きさらしであった。この客車は、一八三二年に蒸気機関車が採用されるまで使われた。この二階式の一階部分が、つまり屋根の下は主人たちが、二階には召使や従者たちが乗っていた。厳しい差別を具現していたのである。 同じ年、エチエンヌ・リヨン鉄道が設立され、ジボオール=リーブデギヨー間を開業したが、この鉄道でも一八四四年に蒸気機関車が導入されるまで、馬車鉄道が運行されていたのである。 アメリカの馬車鉄道 アメリカでは一人〇〇年初頭、リッドレイ・ブリセンツ花崗岩会社が、いくつかの馬車鉄道の線路を敷いたが、これは、いずれもバンカーヒルに記念建造物を作るためのもので、三マイルの距離を広いゲージで作ったのが最初であった。 一八三〇年五月、ボルチモア=エリコツツミルズ間で最初の四二キロメートルの路線が旅客輸送を開始した。動力には馬を用いた。なぜなら、バタブスコ川流域の高低の多い渓谷地帯ではどうしても急カーブが出来るので、蒸気機関車はとうてい使用できないと考えられていたためである。 オーストリアの馬車鉄道 一八三二年に開業したオーストリアのリンツ=パプスブルグ帝国のヴデヨヴィーチェ間の馬車鉄道は、世界長初の国際間馬車鉄道であった。この鉄道は、一八二五年から一八三二年にかけて、技師フランツ・アントンリッター・フォン・ケストナーによって建設されたもので、その開通式には皇帝フランツが出席するなど、当時の人々が馬車鉄道によせた熱気と期待が感じられる。 更に四年彼の一八三六年には、オーストリアのグムンデンにまで延長されたが、その総距離数二百キロメートルは、世界最長の馬車鉄道でもあった。この長大な馬車鉄道の目的は、グムンデンより岩塩を運び出すことにあった。そして、その途中にあったドナウ川を、今でいうフェリーボートで渡ったのである。この船は動力を使わず、川に渡されたロープをたよりに、水流を利用して前進したもので、現在でも観光用として使われている。 帝制ロシアの馬車鉄道 ロシアでは、一八三六年、六フィートのゲージで最初の鉄道が馬車により開始された。そして、こうしている間にも、蒸気機関車への胎動が始まるのである。 蒸気鉄道への進展 一七九七年にはイギリスのリチャード・トレビシックが三種類の機関車のモデルを開発し、ペニダーレンの鉄板軌道の上を走らせる実験をした。これを見た他の発明家たちは、滑らかな車輪の面と滑らかなレールの接触では、機関車に重い荷を引かせるだけの粘着力が出ないのではないかと考え、側面に歯の突き出たレールを敷設し、歯車の付いた車輪の機関車を走らせた。機関車の重量は、レールの頭部で受けるのだが、歯と歯のかみ合わせで、レールの表面の粘着力不足による滑りを防止したつもりであったのである。ともあれ、その後のアプト式鉄道を考えれば、これは当時の人々の創意工夫の力を示すすばらしい一例といえる。ここで当時の人々が、如何に多くの偏見を蒸気機関車に対して持っていたか、裏を返せば、それだけ馬に対する親近感を持っていたかということを見てみよう。 蒸気鉄道への抵抗 オーストリアでは、蒸気機関車は、平和な十九世紀に対する二十世紀の悪魔と非難された。例えば、人間の呼吸器官は時速二十四キロメートル以上のスピードには堪え得ず、肺臓は壊滅同様、循環器組織はがたがたばらばらになる。血液は乗客の鼻、目、耳、さらに口からふき出し、長さ五十五メートル以上のトンネルでは、全車両の乗客全員が窒息、運転士を失った狂暴な霊柩車として出て来る。スヒードを調整出来るような専門医師が運転士と同乗してくれないと、誰一人として蒸気機関車に乗る者のないことは確かであると主張した。 またありとあらゆる分野の医師という医師が、新聞の第一面に登場し、いわゆる神経学の専門家は警告を発した。その記事によると、人間はすでに最近の刺激で精神的に過労になっており、この上に鉄道による旅行の緊張を受けると完全に狂気となり、暴れ回るであろう。蒸気機関車のスピードは男性を自殺に追いやり、女性は性的興奮に陥るにちがいない。凄い昔を立て、煙をはく蛇の一種をチラッと見ただけで、何の関わり合いのない通行人がギヤーギヤーしゃべり出し、病気になったと言う報告もイギリスから届いている、などと言いふらされていた。 フランスでも、蒸気機関車から出る火花で森や作物が火災を起こし、悲鳴に似た騒音で住民は追い立てられ、家畜は逃げ出し、草花や茂みも煤煙で枯れてしまうと言う専門家もいた。一八三五年、フランス国有蒸気鉄道網の法案が国会に上程されたが、笑うべき夢物語として却下されていた。その上実際に、機関士たちは未熟練で、特にカーブについては経験不足であった。レールの敷設に関しても遠心力を計算に入れ、外周部を高くすることも知らなかった。そのため列車がカーブでスピードを出し過ぎ、転覆して死者三十七人を出す事故を起こすなどしたため、馬車鉄道への回帰の気運は強かった。 文化の流れ このような曲折はあったが、ヨーロッパ諸国において蒸気鉄道出現までのこの時期は、馬車や馬車鉄通を利用した道路上輸送の繁栄期であった。イギリスにおいては、すでにメール・コーチのルートが張り巡らされていた。 ヨーロッパでも、中国でも、日本でも、馬車や牛車は先ず王侯貴族用の乗り物として発達した。そのためにヨーロッパの宮廷用馬車も日本の牛車も、まるで工芸品そのものという時代があったのである。 馬車の歴史は交通史の一部分ではあるが、大袈裟に言えば文化の歴史でもある。ヨーロッパの文化は、古くはシルク・ロードを通って日本へ入って来たが、時代が下がってからはこのルートの他に、フランス(ヨーロッパ)→イギリス→アメリカ→オーストラリア、そして日本へというルートのあったことも、解明されて来ている。つまり馬車の場合このルートを通り、ヨーロッパで都市内輸送機関として発達した後イギリスに渡り、イギリスでも同じ目的に使われた。 しかしアメリカに渡ってからは西部開拓のワゴンとなり、オーストラリアではゴールド・ラッシュにより発達、その後日本に渡って来た馬車は、生糸の輸出がその要因となって発達していったのである。(1) 「駅馬車時代」 篠原宏 十四〜二十ページ(2) 「鉄道ピクトリアル」 昭和五↑七年六月号 「トラムウェイ・その発達と変遷」 大塚和之 三八ページ(3) 「ローマの道の物語」 藤原武一四〇ページ(4) 「図説・世界の鉄道」 クリス・ミルサム 一〇〜一一ページ(5) 「汽車と電車の社会史」 原田勝正 四三ページ(6) 「エンサイクロフィデア・ブリタニカ」(7) 「国際関係学研究 八」「オーストリア時代の ヒットラー(1)」津田塾大学 藤村瞭一 十七ページ(8) 「ロスチャイルド王国」 フレデリック・モートン 一〇三〜一〇四ページ(9) 「駅馬車時代」 五一ページ(10) 前掲書 三〇一ページブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.10.21
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(四)欧米の馬車と馬車鉄道〜ヨーロッパより日本へ 1 車輪の再生 今でいう馬車の最も古い記録は、十三世紀の終わり頃、フランスのチャールズ・オブ・アンジュー王が、イタリアのネーブルス(ナポリ)に入った時、彼の王妃が乗っていたものである。次いで一三四七年の「フランダース年代記」には、ルセアン公の妻エマガードの馬車が紹介されている。しかし乗り物としての馬車の発達は遅かった。何故なら、内戦に明け暮れしていた国々では、開発も進まなかったし、道路状況も悪かったからである。 やがて覆いのあるコーチ(乗合馬車)が生まれた。このコーチが、最初どこで作られたかについては諸説があるが、ハンガリーにあったコーチェ(KOTSEE)が、一番それらしい。 それでも十六世紀に入ると馬車の数は次第に増え、一五五〇年のパリには、六東牽きの馬車が三十六台あったといわれている。しかし、これはいずれにしても、貴族の専用であった。そして一六三一年、スペインにガラスの窓のついた馬車が登場した。レオボルド王の結婚式の時に使われたものであるが、二人しか座れないものであった。この時代の王室用の馬車としては、スペインが断然リードしていた。 一六六九年一般市民の使える乗り物が初めてパリの町を走った。それはフランス人デュパンにより発明されたブルーエット〈BRCUETEE〉、またはルーレット(ROULETEE)と呼ばれた二輪車であった。車体は籠の椅子のようで、それに長い梶棒が二本つき、人間がその間に入って走ったという。余談だがこのブルーエット、この時から約二百年を経た明治元年頃、日本で「人力車」と称して復活する。この人力車を誰かが日本にもたらしたものか、それともよくいわれているように日本人・和泉要助による発明なのか、定説はない。 イギリスにコーチが入ったのは、フランスやスペインよりも大分あとになってからである。その年は一五五五年といわれている。しかしこの時代の馬車は、乗り物としては最も乗心地の悪いものの一つであった。 一五六人年、女王エリザベス一世は、拝謁したフランス公使にこう言っている。「数日前に、私の乗った馬車が早く走るのはよいのですが、その揺れで車の壁に体が打ちつけられ、苦痛に耐えるのが大変でした。」と。 古代のレール 一般に、車に物を乗せて運ぶということは、(三)古代の馬車の冒頭にも述べたように、紀元前三五〇〇年以上の歴史を持っている。やがて車を軽く走らせるにはその進行方向を一定にし、更に車輪の走行抵抗を減少させるには、平面の上を走らせるより車輪の巾に合わせた突起物の上を走らせた方の効果が大きいことに気づいた。ここに、レールの生まれてきた大きな理由がある。 鉄道用レールの考えの源となったのは、古代ローマやギリシャの町に作られた石畳であったと思われる。だが車を通すのには、なにも道巾いっぱいに石を敷き詰めなくても、車輪の走る所だけ石を敷けば良いと考えたらしく、事実凹字型の石を並べ、車輪が外れないようにして動かした遺跡が残されている。 ローマの道 この道路の遺跡に見られるように、ローマ帝国により造られた道路が、当時最良のものであった。そしてこの道路網こそが、当時最大最強を誇ったローマ軍移動のための秘密兵器でもあった。「全ての道はローマに通ず」という言葉のように、道路はローマを中心に四通八達していた。同時に道路建設の技術も、架橋技術も十分に発達していたのである。「ブルタータ英雄伝」で説明されているガイウスの建設した道路は、要約すれば次のようなものであった。1 道路造りに実益だけでなく、快適さと美しさを求めたこと。2 まっすぐな道路としたこと。3 切り石で舗装するか、あるいは砂などで固い路面としたこと。4 窪みは埋め、峡谷や川には橋を架けたこと。5 平らな道路としたこと。6 マイル・ストーンを設けたこと。 このローマの道がいかに良く出来ていたかを示すのに、その後何百年も、場所によっては目動車の通う現在まで、二千年近くも使われて来たことがあげられる。 レールの誕生 十六世紀にはいって、イギリス・ニューキャッスル付近の炭坑からタイヌ川まで石炭を運び出すため、轍痕(わだちあと)に木を敷いたのがレールの最初の考え方であるといわれている。一五三〇年頃、ドイツの鉱山で鉱石運搬用のトロッコと木製のレールが作られるようになった。この場合、レールの上を走らせたものか、二本のレールの内側に車輪を挟んで走らせたものか、良く分かっていない。このようにヨーロッパに於いては、一五三〇年以前、すでに軌道の存在が知られていた。 十八世紀になると、木の表面を鉄板で覆ったより頑丈なレールが作られるようになり、この上を牛や馬に牽かれて動く軌道車が各地で見られるようになってきた。しかし、この木製のレールや木の表面を鉄板で覆ったレールの時代には、レールの上の車に人を乗せて走ったという記録は皆無である。そのすべてが鉱石運搬用であった。そして車輪の形も、糸巻きのボビンのような形をしていた。 レールの発達 このような状況の中で、蒸気鉄道出現までの間レールの歴史は、木製のレールから木製のレールの表面を鉄板で覆ったレールヘ、そして鋳鉄業の発達により全鋳鉄製のレールが生み出され、より重い重量に耐えられるようになっていった。それとともにレールの形も、四角形から凹字型やL字型、そして、U字型そしてI字型となって現在のレールの形に近づき、やがて凸字型のレールが作られるようになってきた。この中でのI字型のレールは、ジョセフ・ロックの考案で、グランドジャンクション鉄道で使われたのが最初である。これはレールの上部と下部を同一の形にしたもので、片方が磨耗するとひっくり返して再使用が出来るようにしたものであった。しかし最初の頃のものは強度不足のためひびが入り、二度の勤めは勤まらなかったという。 これは双頭軌条とも呼ばれたもので、日本でも鉄道創業当時この形のものが多く使われた。現在のレールは、平底軌条とも呼ばれ、底部に平面を大きく広くとって、枕材にしっかり固定できる特徴を有している。鋳鉄製のU字型レールが一七六〇年代、L字型レールが一七六七年頃、そして今、我々か見慣れている平底軌条は、叫八二〇年ロバート・リビングストン・ステイブンスにより考案され、アメリカのキャムデン・アムポイ鉄道で使われたのが最初である。 一七五〇年代の大きな進歩は、鉄のレールが木製のレールにとって変わったことである。初期の頃、鉄のレールを試験的に使った例は少なくないが、なかでも最も重要なものの一つに、イギリス・シュロプシャーのコールブルックデール鉄工所で行われた実験がある。この実験とは、当時の軌道で使われていた上質の樫材のレールの表面に、鋳鉄をかぶせるということであった。それは摩耗を少なくする目的ばかりではなく、自社の製品を宣伝し売るという意図もあった。 一七六七年、この鉄工所でL字型のレールが開発された。底辺が一〇二ミリ、縦が七六ミリ、長さが九一四ミリ (三フィート)のものであった。記録によれば、一七六八年から一七七一年の間に、約八百トン(年間二百トン)ものレールがここで生産されたという。 同じ頃、シェフイールド地方でも両側に縁の付いた(凹字型)鉄板のレールが使われている。このレールにはフランジなしの車輪が使えた。これは荷馬車がレールの上ばかりではなく、普通の道路の上もそのままで走れるように考えられていた。これは一定の場所でレールから普通の道路に、あるいはその道の移動が出来るようになっていたのである。この方式は、南ウェールズで広く用いられていた。いずれにせよ、馬車鉄道の馬車に対する際だった特徴は、乗心地の大幅な改善と輸送力の向上にあった。 しかしレールが現在の型に落ち着くまで、今述べたように、さまざまなものが作られた。そしてまた現在の平型のレールでも、列車の通過量、重量、速度などによって、その大小、重量、それに形状の違いなどそれぞれに異なるものがある。国際的に統一しようという動きもあるが、各国それぞれに規格化したために、これの統一はなかなか難しい。そしてもう一つ統一の難しいものがある。それは、軌間(ゲージ)である。日本の国内でさえ、JRの在来線の狭軌(一〇六七ミリ)と新幹線の国際標準軌間(一四三五ミリ) の二通り、これに私鉄を加えると、まだ多くのゲージを使用していることになる。であるから国際間の統一となると、まず不可能に近いということになろう。 車輪の変遠 当初は車輪も木造で糸巻きのボビン型であったが、木造のために損傷が激しく、一七〇〇年代中頃には鉄製車輪が開発された。このことは一七三四年のイギリス・バス付近での木造車輪についての記録があり、また一七五四年発行のアート・アンド・サイアンセズ事典に鋳鉄製車輪の図面があるので、確認されている。フランジ付の車輪を使った鉄道がいつ頃からあったのか、その起源をたどってみると、一七〇〇年代の後半中世ドイツの鉱山で使われたのがその発祥らしい。 当時は、これらの車両が勾配を下るときには積荷を水平に保つ必要があると考えられていた。そのために、例えば前輪の直径を後輪の直径より大きくするという奇妙な方法がとられた。また、前輪はスポーク付の車輪で後輪は円盤のままの木の車輪というのもあった。やがて車輪がレールにうまく沿って行くように、高さ二十五ミリないし四十ミリのフランジが車輪の内側に付けられるようになった。いずれにしても、この車両を使うと移動が非常に楽になり、一頭の馬が石炭を積んだ大きな荷車を四〜五両も牽いたという。 この車輪についても、現在のフランジ付きの形のものは一七八〇年代から一八八〇年代に完成したものである。このように蒸気鉄道出現までの馬車鉄道は、レールと車輪の改良に大きく貢献したことになる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.10.09
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(三)古代の馬車〜インダス河よりヨーロッパへ 3 ソロモンの水槽車 紀元前九五〇年頃、イスラエルのソロモン王は、神殿を町の北側に建て、犠牲者を祭る祭壇のある大きな中庭を束に作った。そこには「青銅の海」と言って、犠牲を捧げた後の中庭を清めるために使う、水が五〇キロリットルも入る巨大な水鉢が置かれた。そしてこの水鉢に水を運ぶ特殊な水槽草が作られていた。 古代マヤの車輪 紀元前四〇〇年頃の古代マヤ人は、車輪のことは全く知らなかったとされていたが、その後四ッ足の先に車輪を付けた、陶土製の動物が出土してその反証となった。これは、おそらく子供の玩具として遊ばれたものであろうが、この地域においても、かつて車輪が知られていたことを示すものである。それにしても、マヤという民族が、なぜ突然ある時期にその文明を捨ててどこかへ消えたのか? 数多くの学説はあるが、今もって確かな答えはない。 中国・秦の青銅馬車 中国では、紀元前二二一年に秦が最初の統一国家を樹立した。そして紀元前二一〇年、秦の始皇帝が第五回の巡狩(国内巡視)の途中病没するのであるが、これに同行していた高官が、始皇帝の死によって国内に異変の起こるのを恐れ、生きているかのように思わせるため、遺体を車中に乗せたまま食事などを運びこむなどしながら都への帰路を急がせた。西安の近くの秦の始皇帝陵の近くで発見された秦の兵馬よう坑から、昭和四十九年、四頭立の戦車および青銅馬車が見つかっている。始皇帝はこの大型の青銅馬車に乗り、巡狩に出掛けていたという。しかもこの形式の馬車は、紀元前一一〇〇年の頃より盛んに使われていたという。 ローマ皇帝の旅行 三二八年、六八才で没したローマ帝国・ハドリアヌス皇帝の旅は、最も大がかりな旅行団であった。その大旅行団を泊めるいかなる宿屋もなかったから、あらゆる宿泊設備を携行した。テント、タンス、寝具調理道具、食卓用品などで、こわれ易いものは手に持って運ばれた。お供には軍隊の他に大勢の随員や従者、メイド、料理人、皿洗いまで随伴した。人目を引く華麗な衣装をつけたムーア人やヌミディア人を、露払いのため先頭に立てることもあった。 馬やラバは刺繍をした布で覆われ、金の飾りをつけて車を牽いた。馬車は豪華に、金や銀の彫像や絹で飾られた。皇帝ネロの妃ポッパエアの旅は、馬に金の馬具をつけ、旅先での入浴のために五百頭の牝ロバ(その乳を浴槽に満たした)を連れて歩いたという。馬車にはさまざまな工夫を凝らされていた。 クラウディウス帝(在位四一〜五四) の馬車には、ダイス遊びのできる遊戯室があったし、ゴボドゥス帝(在位一八二〜一九三)の馬車には、寒い時には太陽の方を向き、暑い時は風の入って来るように向きを換えられる椅子を載せていたし、また走行距離を計る装置を馬車にとりつけてあったという。始皇帝の旅も、こんな感じだったのかも知れない。 インドの馬車 インドネシア、ジャワ島・ボロブドールの遺跡に釈迦の母・摩耶夫人(まやぶにん)が、出産のためネパールのルンビニへ馬に牽かれた車に乗って行く光景のレリーフが残されている。これは釈迦の生まれる以前から馬車があったことを、示している。 朝鮮の牛車 六四四年唐の太宗が、高句麓を討つ詔を発布した。この決断は、その後三十有余年にわたる高句麗、百済、新羅の朝鮮三国さらに倭をも巻き込む大戦乱の幕開けとなった。倭は百済救援の軍隊を派遣するが、白村江(はくすきのえ)の海戦にて惨敗を喫し百済は消滅、その後間もなく高句麗も崩壊、倭も朝鮮半島から全面的に敗退、迎撃体制づくりにおおわらわとなった。 高句麗の安岳三号墳壁画には、牛車に乗った高句麓王とその軍隊が画かれているが、恐らく百済派遣軍の何人かは、本当の牛車を見て日本へ戻って来ているものと思われるし、百済の遺民を多数連れて逃げ帰っているので、それらの人々の指導があったのかとも思われる。この後間もなく、七百年代の日本でも、平城京に牛車が出現することになるのである。 モンゴルの大型車両 一二〇〇年代、モンゴルのジンギスカンは、中国や東南アジアからヨーロッパそしてロシアにまでその版図を広げた。この膨大な土地での戦線への武器・食料の補給は、大変な労力であったと思われる。もちろん本拠地からばかりではなく、占領地内での兵站部隊の活動も大きかったと思われるが、その運搬の方法として、第21図のように巨大な車両が使われたようである。ただしこの絵は、モンゴル族の移動式住居の絵である。だがそれはともかく、この超重量物を満載した車両の車輪が、ステップに喰い込むこともなく、あの大草原をスムーズに動き回れたのであろうか? また道路といってもまだ整備されてはいず、雨が降れば泥寧と化した山野を自由に動けたのであろうか? という疑問は残るが……。 もう一つの車輪 ところでウィトルウィルスの「建築学 第十巻」には、ローマ人の考え出した石材運搬法について、興味深い記述がある。つまりエフエソス(トルコ領エーゲ海に臨む古代ローマの都市)に建設するディアナ神殿の石柱を運ぶ時、道が軟弱なため荷車の車輪がめりこむのに困り果て、ケプシロンという人がこんな工夫を試みた。それは石柱の柱身を横たえ、その両端に鉄の棒を鉛で埋めこんで回転軸とし、石柱の両端に木の輪をかぶせて車輪とした。つまり石柱そのものを車軸として応用したわけで、車輪の両端につけた綱を牛に牽かせると、第22図のように、石柱が回転しながら運ばれて行くという方法であった。 道路と車輪と戦争と このような車輪の歴史そして馬車の歴史を、今から約五〇〇〇年も前のインダス河流域のモヘンジョ・ダロにまでさか登ることが出来た。それにしても、先史時代三〇〇〇年も前から車輪や馬車があったとは、驚く程の古さである。それと同時に、人間の作った技術の最初であると思われる車輪が戦車という形で、また後述するがローマ帝国での道路そのものさえが戦争に結びついて発達していったこと、それらと現代の原子力や宇宙開発に至るまでの技術開発の全てが、常に軍事優先とさせられてきた過去を考え合わせると、この長い五五〇〇年の歴史の中にもその萌芽を発見し、何か人間の深い業(ごう)を感じさせられる。(1)「世界大百科事典3」 平凡社 二五三〜二五四ページ(2)「乗り物はじまり物語」 ブリヂストン広報室一〜二ページ(3)「朝日百科・日本の歴史」 朝日新聞社 一四三〜一・一四四ページ(4)「謎の巨石文明」 フランシス・ヒッチング一〇〇ページ(5)「宇宙人・謎の遺産」 五島勉 五二〜五四ページ(6)「知の辺境」 矢島文夫一七六ページ(7)「失われた時への旅」 NHK取材班 七二〜七三ページ(8)「ローマの道の物語」 藤原武 一一二〜一一匹ページ(9)「未来への遺産・第一集」 NHK取材班 二〇ページ(10)「神と黄金と栄光」 ニコラス・ホーダン 五五ページ(11)NHK教育TV(12)「世界名画全集2」 平凡社 六七ページ(13)「未来への遺産・第一集」NHK取材班 九一ページ(14)「聖書の歴史」 サムエル・テリイン 三九ページ(15)「失われた文明」 A・ゴルボフスキー 九五ページ(16)「中国秦・兵馬よう」 大阪二十一世紀協会 一一二〜一一四ページ(17)「未来への遺産・第二集」NHK取材班 一四一ページ(18)「白村江」 鬼頒清明(19)「モンゴル史」 ED・フィリップス 三二ページ(20)「ローマの道の物語」 藤原武 二八九ページブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.09.24
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駅伝制度のはじめ この紀元前三千年頃、古代メソポタミアの国家群に駅伝制度が設けられた。紀元前三百年頃になると中国の漠王朝やエジプトのプトレマイオス王朝が、中央管理方式の駅伝方式を定めた。いずれも近代駅制に近いものであった。 漠王朝の駅伝制度では、宿駅はおよそ十八キロごとに作られた。プトレマイオス王朝の宿駅は、馬上で六時間の距離ごとに、あるいは約五十キロの間隔に作られた。日本でのもっとも古い駅制は七百年頃で、平城京に牛車(ぎっしや) のあらわれた頃と一敦する。唐の駅制を見習ったものと言われ、駅間隔は約二十キロであった。 シュメールの戦車 紀元前二五〇〇年頃に描かれたシュメール軍の戦争の図(ウル出土・大英博物館蔵)には、戦車の絵が残されている。このシュメー〜軍は、千台の戦車と馬と歩兵を擁していたといわれている。馬というものを知らなかった他の民族は、攻めて来る馬と戦車と人の複合体を一匹の怪獣と思い、見ただけで浮き足立ったので、戦わずして勝ったという。 これに似た例として、一五〇〇年代、スペインのインカ帝国征服の際もみられた。スペインの征服者たちが馬に乗って攻撃した時、馬を見たことのなかったインカの兵士たちは、人馬一体を一匹の怪物と思い、見ただけで敗走してしまい、勿論これだけの理由ではなかったが、あの偉大なる文明があっけなく崩壊してしまったのである。 ヒッタイトの戦車 紀元前二千年頃、ヒッタイト軍は鉄製武器と、二人乗りの二輪の戦車三五〇〇台と一万七千の兵を駆使し、バビロンヤシリアを攻め落とした。この戦車は一人の戦士を乗せ、一人が馬を御す形式のものであった。ただこの形式の戦車は、戦闘の場においての御者と戦士との意志の疎通と戦車の制御が、非常に難しかったと推定される。 ミケネ時代の戦車 また地中海のミケネ時代(紀元前一六〇〇〜二〇〇頃)の壁画(ティリユンス出土)に「車上に二人の女」の絵が描かれている。しかしこの戦車に乗る二人は、貴人ではあろうが、あるいは男子であるともいわれている。車上に直立した堅い姿勢や抽象化された画面に、現代の抽象画に通ずる特色が見られる。この他出土している陶土文字板にも、馬や戦車の記録が数多く残されている。 エジプトの戦車 紀元前二二〇〇年頃のエジプトの王ツタンカーメンの塞が、一九二二年に発掘された。初めて開けられた室内は雑然としていたが、三千年も前の家具や装身具・お供え物・宝石箱・寝台・王の胸像・蠅叩き、そして馬車まで見つかった。 その何代か後のエジプト王ラムセス二世は、紀元前千年も前よりアブシンベル神殿の壁画の中で戦車を駆り、今に至るもシリアの要砦に突撃を敢行している。だがこのレリーフによると二頭牽きの戟車であり、戦士は.一人のようである。前述したように、二人乗りの戦車は戦士と御車の意志の疎通が難しかったであろうと思われる。 また次のラムセス三世の時代、牛の牽く戦車に乗って攻撃してきたアッシリアのペリステ軍に対し、エジプト軍は馬の戦車で迎え撃った。結果は馬の戦車のスピードを利して戦ったエジプト軍の、圧勝に終わった。 トロイの木馬 トロイ戦争が起きたのは、紀元前一二〇〇年頃である。この戦いには、トロイを攻めあぐねたギリシャの軍が、奇計をもって有名な木馬に車輪をつけて敵の城内に運び込ませて勝利の契機とした。なおこの戦いには、多数の両軍の戦車が加わった。 アッシリアの馬車と騎馬戦 紀元前一千年頃、アッシリアのアッシュールパニパル王は、文書として多くの記録を残すと同時に、戦闘の図、狩猟の図・饗宴の図などアッシリア美術の白眉とも言うべき多数のレリーフを作らせた。このレリーフは馬車も含めて、今から三千年近くも昔のアッシリアの世界を、余すところなく伝えている。 この頃より辺境の遊牧民は、戟車を使わず騎馬で戦うようになってきた。彼らは両手を離したまま馬を御し、前後左右、自由自在に弓を射ち、荒野や森林そして山でも小回りをきかせ、どちらかと言えば障害物の少ない平原向きの戦車を圧倒した。これを見て、その後のギリシャやローマの軍は、騎馬軍団を創設、それを戦闘の主力としていった。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.09.11
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(三)古代の馬車〜インダス河よりヨーロッパへ 人と馬とのかかわり 馬が人類の生活と密接な関係をもったのは、その野生の状態で洪積世(紀元前五十万年頃以降)人類の狩猟の対象としてであった。そしてその後の第四氷河期にあたる後期旧石器時代(紀元前十五万年〜一万年)の遺跡の中に、大量の野生馬の骨の出土するものがあり、またラスコーやアルタミラの洞窟をはじめ南フランスやスペインの洞窟遺跡には、野生馬の生態をきわめて写実的に表現した壁画や彫刻が数多く残されている。現在の知識で知られている最古の飼馬の骨は、イラン高原のシァルク第二層(紀元前四千年頃)で発見されたものであるといわれている。これと同時代の家畜としての牛の骨は、紀元前五千年代までさかのぼることができ、飼馬より千年ほど古いと考えられる。これはエジプト・シリア・メソポタミアなどの村落遺跡から出土したもので、農耕と深く結びついていたと考えられている。 物を運ぷ道具 馬を手に入れた人類は、先づ馬に車を牽かせて使い始めたようである。中国の古典「准南子(えなんじ)」の一節に飛蓬(転がるヨモギ)を見て、車を作ることをさとった」と記されている。まるで小さな玉のように、風に吹かれて転がるのを見、車輪という回転運動による運送道具のアイデアを得た、というのである。 人類がものを運ぶ道具として最初に考えられたものは、おそらくカゴのようなもの、それからソリのようなものであると思われる。カゴはある程度以上になると入りきれないし、また重くて背負いきれないであろう。そしてソリは多くの荷物は運べても地面との摩擦抵抗が大き過ぎて、引くのに多大な労力を必要としたと思われる。日本でも古墳時代の大規模な工事には、修羅と呼ばれるソリ形運搬器具が使われた。 藤井寺市三ッ塚古墳の陪噴から出土した修羅は、双又になった赤樫を使用し、長さは八・八メートル、牽引用の綱を掛けたと思われる穴がうがたれていた。復元された修羅による石曳き実験では、十四トンの大石を三百人が約四十五秒で十四・四メートル動かすことができた。しかしこのソリを牽く時に偶然丸太などに乗り上げ、それからコロを使えば楽に荷物を運べることを知ったに違いない。そこから更に力のいるこれらの仕事にかわって、楽なそして軽やかな仕事ですむ運送方法への発想。それが風の吹く野で、自由奔走に飛び転がるヨモギとこのコロの原理との合体、これが素晴らしい人類最初の技術、そして最初の科学かと思うと何か楽しい。このアイデアの源は、人間の労力をいかに軽くするか、あるいはより大きな力をいかにして得るか、というところにあったのであろう。軽やかに転がり、そして飛んで行く飛逢に、切実な労力軽減の願を重ねていたのだと思われる。 神話の中の馬車 馬車は、まず各地の神話に登場した。たとえばギリシャ神話の中で、太陽はヘリオスの走らせる金の馬車に乗り、炎を噴きながら空をよぎつていた。ポセイドン(海の王)も金の馬車で海の上を走り回っていた。彼がこの馬車で走る時、波はひっそりと静まり車は滑るように進んだ。また白い波頭を立てて進んで来る波は彼の飼馬であるといわれた。天馬ペガサスは彼のつくったものであり、人間は彼から馬を贈られたといわれている。 インド神話での太陽神スールヤは、七頭の金色の馬に牽かれた車に乗って、天空を東から西へと馳せていた。また北欧の神話には、美と愛と豊作の女神フレイヤが、猪の牽く車で天を駆け巡り、花や果物を撒き散らしていた。しかし彼女の一番好きな乗物は、なんと二匹の猫の牽く車であった。何故なら、猫は、多産と愛情の印としてお気に入りの動物であったからである。このように馬と車輪を利用した馬車の歴史は古い。そしてそれが戦車として戦いに利用されるのに、さほど時間がかからなかった。つまり、旧約聖書の創世記の出エジプト記においては、モーゼらユダヤ人たちをエジプト軍が二輪のチャリオット(戦車)や四輪のワゴンに乗って追撃して来たのであった。 考古学上の文明の定義 過去の世界を調べる考古学者達は、文明の定義を見出そうとして長い間論争を繰り返してきた。ある人は、ギリシャ人やローマ人と同じく、書く能力なくしては人類の文明進歩は不可能であると言う。またある人は、五千人以上の集落を作り機能させることが必要である、とそれにつけ加えた。こういった論争の中でゴードン・チャイルド教授は、文明の基準は以下のようなものであると判定した。鋤、車輪のついた荷車、それを牽く道具に馴らされた動物、帆船、銅鉱石の精練能力、暦を知っていること、測定の基準、文字、計算法、専門職人、都市生活、そして生産に携わっていない神官や哲学者そして科学者や芸術家などの人々を養うに足るだけの余剰食料を確保することができること。人類がこの幾分押し付けがましいリストの各項の全てを成就し得たのは、紀元前三千年より古くはない時代の、今日のイラク領に含められる南メソポタミア地方においてであったといわれている。 インダス河流域の牛車 ところで、紀元前三千年頃に作られたと思われる水牛に牽かれた牛車の玩具(カラチ博物館蔵)が、インダス河の下流の西岸、現在のパキスタンのモヘンジョ・ダロより発見された。このインダス河流域には、同じ時代の中国、エジプトやメソポタミアの文明に匹敵するほど高度で、かつ独創的な文明が存在していた。世界四大文明の一つに数えられていたが、モヘンジョ・ダロ(死者の丘の意)という名は後世につけられたものであろうか。荒涼として廃祉丘が続いているという。この地方での農村では、現在でもこれと全く同じ牛車が使われており、まるでこの部分だけ今から五千年も前の歴史が止まってしまったかのような錯覚をうけるという。この初期の時代より、車輪を単純に板の円盤で作るとすぐに割れてしまうことから、互いに板を組み合わせて作ることを知っていたという。 サハラ砂漠の馬車 紀元前六〇〇〇年頃より、サハラ砂漠の奥地・現在のアルジェリアのタセリ一高原のタッシリ・ナジュールの岩肌に、当時の先住民族ガラマンテス族により多くの絵が画かれていた。そしてこの中に、第12図のような馬車の絵も描かれていたのである。これらの岩絵の制作年代は、数千年の長きにわたっているが、様式の変化から次の六つの時代に区分されている。すなわち、(1)古拙(こせつ)の時代、(2)狩猟民の時代、(3)牛の時代、(4)馬の時代、(5)ラクダの時代、(6)アラボ・ベルベル時代である。馬車が現れたのは馬の時代からである。この宕絵の発見は、一九五六年秋、フランスの考古学者アンリー・ロート博士が十人程のスタッフと二十数頭のラクダを連れ、アルジェリアの首都アルジェからサハラ砂漠の真ん中、原住民たちがタッシリ・ナジュール(川の流れる楽園の意)と呼んでいた幻の高原をめざし、探検に出発したことに始まる。 この広大な死の砂漠の果てに川の流れる楽園があるとの言い伝えから、そこには太古、何かの文明があったと推定したのである。だが、なにしろ、二百万平方キロに広がる砂漠の海。昔近くを通ったことがあるというフランス外人部隊の将校の話から多少の見当をつけて出て来たものの、何処をどう見ても目的地が分からず、ついにジープは火を噴いて動かなくなり、倒れたラクダの血をすすって歩くという地獄のような強行軍となってしまった。全員が病人のようになり、もうダメだから軍の救援機を呼ぼうというギリギリのとき、行く手にひと群れの岩山を見付けた。日陰を求め、身を投げ出したその岩山の肌に、隊員たちは沢山の画を発見したのである。 そこには馬車の絵ばかりではなく、驚いたことに漁師の乗った舟の絵や大きな乳房の牛の絵も描かれていた。これらの絵は、太古ここに川か湖があり、狩りだけでなく、漁や牧畜が行われ、相当高度の文明を持っていた人の住んでいたことを物語っていた。ということは、今から約八〇〇〇年前のサハラが砂漠ではなく、川が流れ、狩りの可能な沃野であったということであり、それは同時に何か大きな理由で砂漠化し、人と文明が滅んでしまったということの証明でもある。 ところでヘロトドスの伝える書によると、ここに住んでいた「ガラマンテス族は、四頭立馬車で穴居エチオピア人(トログロデュカイ・アイティオペス)狩りをする。この穴居エチオピア人というのは、我々が話を聞く限りのあらゆる人間の中で、もっとも足の早い人種である。この穴居人は、蛇、とかげ、その他の爬虫類を常食とし、その用いる言語は他のいかなる言語にも似ず、さながらこうもりの鳴声のような声を出す」という記述がある。 ガラマンテス族はこの穴居エチオピア人を四頭立ての馬車で追い、捕らえて喰ったものか、はたまた奴隷にでもしたものかその説明はない。ただここの岩絵からは、馬が二頭としか思えないが、記述されているような四頭立の馬車の絵が残っているのかどうか、残念ながら行ってみたわけでないので、その確証はない。 ところでこの時代から、すでに現在のスポークを思わせる車輪の絵がある。車輪自体の重量を軽くするにも、耐久力を増す意味においても、これはすばらしい発明であった。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.08.21
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(二) 三春馬車鉄道 2 その後明治二十六年十二月、商法の施行により、「三春馬車鉄道株式会社」としての会社定款が農商務大臣後藤象二郎より認可され、仮の組織であった有限責任三春馬車鉄道会社から、三春馬車鉄道株式会社として再発足した。 明治二十五年、岩越鉄道の敷設計画が公表された。ただその鉄道敷設法では、岩越鉄道の構想の予定路線として「北越線及奥羽線の連絡線」と位置づけ、「新潟県下新発田ヨリ山形県下米沢ニ到ル鉄道若クハ新潟県下新津ヨリ福島県若松ヲ経テ白河本宮近傍二到ル鉄道」と定められたため、全くはっきりしない予定線路となってしまい、このために白河、本宮を始め、須賀川、郡山が激しい起点争いに奔走することになってしまったのである。 この時の郡山の請願書の第三項に、「太平洋岸に抜ける場合、三春馬車鉄道があり、平迄の延長工事が容易である」とあるのが面白い。しかし、この請願文から指摘されることは、馬車鉄道の細いレールの上を蒸気機関車が走れるなどと思ったのかという技術的幼稚さではなく、むしろ郡山が馬車鉄道とはいえ、既に鉄道の分岐点として存在しているという事実の政治的アピールの方を、高く評価すべきであろう。なぜなら、郡山は古代より近世まで、交通の要衝の地として脚光をあびたことは、一度もなかった。たとえば医聖といわれた野口英世が医師を志し、初めて上京する時に、猪苗代の生家から本宮まで徒歩で、そして本宮から汽車に乗車して行ったのである。ということは、会津方面から中通りに出る場合、郡山より本宮の方が近く便利であったといえる。 ところで「鉄道敷設法第二条および北海道鉄道敷設法による予定鉄道線」路図によると白河を起点として新潟へ行く線と、新発田〜米沢間をつないだ図面とが引かれていた。そのために、岩越線開設運動は、この平行する二本の鉄路としかも不明確な予定線の表現により、岩越線(現在のJR磐越西線)と野岩線(宇都宮〜会津若松〜米沢)の開設運動の二つに別れてしまうのである。しかし岩越線の方が実現したことについては、郡山の岩越線分岐点の誘致運動の成功は勿論のことではあるが、この後の鉄道の整備から導きだされた郡山の交通の要衝への位置確立にとって、三春馬車鉄道の存在が大きく貢献したものと思われる。 明治二十九年、東京・真中忠直らが平〜郡山間に私設鉄道の敷設を計画し、明治三十年七月仮免許状を得たが、これは結局着工に至らなかった。 明治三十九年、日本鉄道を始め多くの私鉄が国鉄の手に移された後、東北に残された私鉄は以下の六つの馬車鉄道のみとなってしまった。 一 秋田馬車鉄道 明治二十二年開業 秋 田〜土 埼 二 三春馬車鉄道 明治二十四年開業 三 春〜郡 山 三 釜石鉱山鉄道 明治二十七年開業 甲 子〜釜 石 四 角田馬車鉄道 明治三十二年開業 槻 木〜角 田 五 古川馬車鉄道 明治三十三年開業 小牛田〜古 川 六 磐城炭坑軌道 明治三十八年開業 湯 本〜小名浜 またこの年、磐城電気軌道が特許を取ったが、この頃すでに国鉄による建設がかなり具体化し、ために特許を辞退した。この平郡線(郡山〜平間・ただし郡山から三春までを平郡西線、その東の平までを平郡東線と称した形跡がある)は、明治四十四年三月の第二十七帝国議会で予定路線としてとりあげられ、同時に第一期線に編入、着工された。 大正三年七月二十一日、平郡線の内、郡山〜三春間が開通した。しかしこの鉄道建設には三春馬車鉄道をはじめ、機関車の石炭の火の粉で町が火事になるなどと言う町民の反対の声も大きく、結局、三春町から大分離れた田村郡御木沢村平沢地内に駅が作られた。最初の予定では、三春町八幡町のあたりに作られる筈であったともいわれている。 ともかくこの鉄道開通に伴い、三春町では鉄道開通祝賀のため臨時町議会を招集して鉄道開通祝賀協賛会を設立し、五百円の予算を開通祝賀費に充てることとした。 当日は百数十発の花火を打ち揚げ、停車場前には大アーチを設けた。町内の要所にもイルミネーションを点じたアーチを設け、各戸軒灯を吊し国旗を掲げ、祝意を表す提灯行列も行われた。また、三春駅構内において三春町・御木沢村・逢隈村・中妻村・巌江村・小泉村の連合祝賀会が挙行された。町内でも盛大な開通祝賀の行事が行われ、商店街では開通当日より三日間にわたり、記念町内大売り出しが、翌二十二日よりは三春糸市開催、その他野菜・畜類などの初市が行われ盛況をきわめた。 郡山でも、開通当日駅前で昼夜間断なく数百発の花火を打ち揚げ、町内大通に数千のイルミネーションを点じ、停車場前には大国旗を揚げ、町内全部にわたって軒灯を吊し国旗を揚げて、祝意を表し、商店街は当日より三日間の連合大売出しを行った。 これに反して三春馬車鉄道では暗欝な気分に覆われ、国鉄に対抗するために、「郡山〜三春間鉄道開通の当日より、三春馬車鉄道には、郡山〜三春間の運転回数を増加し、従来の三十銭を改正して、二十一銭となる由……」と発表、蒸気鉄道と激しい競争関係に入っていった。しかし遂に翌大正四年、交通機関近代化の披に洗われ、廃業に追い込まれていった。 この廃業と同時に、三春駅と町内の間に馬車が走った。これは現在のバスと同じようなもので、鉄道ではない。しかし間もなくタクシーやバスが町に導入され、短命のうちにこれも廃業してしまった。 その後、この三春馬車鉄道のレール及び車両の一部は、小名浜馬車軌道会社に売却され、更に残りの一部は、三春や郡山の商店などで、店内での荷物運搬用のトロ (トロッコ) として利用されていたが、それも時代と共にいつしか姿を消してしまった。私の生家の店(三春町・桐屋商店)でも店舗の道路をはさんだ向かいの倉庫で使っており、子供の頃それに乗ってよく遊んだ記憶がある。 昭和三十一年、ここに桐屋商事株式会社三春給油所を建設した際に取り外し売却してしまった。今考えると、本当に残念なことをしたと悔やまれてならない。この他三春では、一久醤油屋、内藤醸造、本陣本店、山田屋金物店、横山伝七商店(現・フローリスト ヨコヤマ。昭和六十一年、同店に残されていたレールを三春歴史民俗資料館に寄付して頂いた)などで使われており、郡山でも、扇屋、根本薬局、ボーキ佐藤、蓬莱屋(現・三英堂)、山桜酒造などでも使われていた。しかし現在は、どこにも残されていない。 郡山は、この時期に安積平野・安積疏水という自然・人工の好条件に加えて東北本線・三春馬車鉄道を擁し、更に岩越線のターミナル駅となって交通の要衝としての地位を確立した。同時にこの疎水の水とこの水力による電力の利用が紡績工業の発展を促し、やがて工業都市としての性格を強めていった。そして後年平郡線(平郡線開通後磐越線と名称を統合、磐越東線となる。なお岩越線は磐越西線となった。)そして水郡線との分岐点となるや、鉄道の十字路として更なる発展を約束されていくのである。 これに反し三春は支線である磐越東線、それも一部の人の反対で町から二里も離れた所に駅を作られたため交通の便に見離され、平坦地にも恵まれず、単なる原料供給地として、第一次産業に依存度を高め、次第に過疎化していくのである。この比較は、都市の発達にとって、交通網の整備がいかに重要かの好例であろう。 大正七年、石城郡平町(現・いわき市平)と北好間(きたよしま)間に好間軌道の開設が申請された。この軌道は、はじめは馬車軌道として申請されたが大正元年の開業時には、動力を馬ではなくガソリンエンジンに切り替えていた。客車は木造の車体にフォードのT型エンジンを搭載したもので(第7図)、十二人乗り四輪動力車で、二両を日本鉄道事業から購入して営業したものであった。 この日本鉄道事業は機械製造を本業としていたが、この時期磐城軌道を買収、軌道経営のため常磐地区に進出してきていた。ガソリンエンジンによる鉄道の車両は、この好間軌道で運行されたのが日本最初のものであった。しかしこの鉄道も昭和五年に休止、昭和十一年に廃止され今はない。 大正十五年、磐城海岸軌道会社の馬車鉄道が廃止され、内燃化(ガソリン・カー)された。これにより、福島県の馬車鉄道の一切が、終焉を迎えることとなるのである。 ところで馬車鉄道は、現在の新幹線を代表とする鉄道の発展の基礎に深くかかわっているのであるが、その前身の馬車(馬車鉄道ではなく)は、現在の自動車につながって来たと考えても、不自然ではない。では、この二つの乗り物に共通するものはなにか? それが車輪である。 この車輪の存在は太古から知られていただけに、いつの頃から人間の生活に取り入れられてきたのか、確たる年度を明示することが不可能である。ただ今の処、登り詰めた最古の時が紀元前三〇〇〇年頃であり、その場所はインダス河のほとりのモヘンジョ・ダロであり、また炎熱のサハラ砂漠の奥地であり、しかもその地名が「川の流れる楽園」という意味の名の所であったということなど、圧倒的な歴史の深さを見せつけられているようで興味をそそられる。 サハラが砂漠となって人が住まなくなって何千年も経るのに、その地名が現在にいたるまで周辺に住む部族の間に語り継がれそして残っていたということは、人間の・いわゆる人智というべきものであろうか。この大いなる自然とたおやかな人智の接点に、探し求めていた苦の車輪の証拠が残っていたのである。(1)「ものがたり東北本線史」 日本国有鉄道仙台駐在理事室 三二ページ(2)「鉄道の語る日本の近代」 原田勝正 九六ページ(3)「三春町史3」 三春町 一九九〜二〇二ページ(4)「郡山の歴史」 郡山市 二五四〜二五六ページ 「郡山の歴史」の二三三ページに「三春方面への交通機関と して、明治二四年鉄道馬車が開通した。郡山駅前から三春 本陣前まで通っていた。」と記載されている。三春馬車鉄道 会社の図面はここに掲げた。「明治三九年二二春大火の焼失 区域図」しかないが、馬車鉄道会社と本陣間はたかだか 三〇〇メートル位である。後述する「馬車鉄道こぼれ話」 の内「残酷」(本書一四三ページ)の小話にもあるように、 一応の設備等整っている会社から、更に三〇〇メートル程 度町の中に入り、車両の方向を転回するか馬を付け変えて 戻って来るような面倒なことをしたのであろうか?(5)「岩磐史談・第一巻・復刻判」 歴史春秋社四〇二ページ(6)「福島新聞」 福島新聞社 明治二十四年四月十日(7)「三春町史4」 三春町 三五四⊥二六八ページ(8)「尼崎市史 第3巻」 尼崎市 二六五ページ(9)「ものがたり東北本線史」 二六四〜二六五ページ(10)「日本の鉄道」 野田正穂・原田勝正・青木栄一 老川慶喜 六十五ページ(11)「ものがたり東北本線史」 二七一ページ(12)「三春町史4」 三春町 六五三ページ(13)「常磐地方の鉄道」 小宅幸一 四八ページブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.08.11
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(二) 三春馬車鉄道 1 戊辰戦争後においても、各地の旧宿駅は鉄道が開通するまでは栄えていた。そこにはまた、街道交通に依存する商売も多かった。宿屋・お茶屋は勿論、菓子屋・雑貨屋などがあり、更にこれと関連する商売も成り立ち、多くは集落を形成していた。宿駅には立場(発着場)があり、そこから自由に人力車を呼ぶことが出来た。人力車は公用や私用に、現在考えられている以上に便利な乗り物として使われていた。豪商や役人などは、人力車で東京に出掛けたものだという。日本鉄道会社による現在のJR東北本線建設の時も、工部省鉄道局の役人や請負業者壷督などの隣接工区・事務所への連絡、そして日本鉄道本社のお偉い方の視察など、人力車は大繁盛であったという。 この当時の福島県内の主要宿場町のようすは、おおむね次のようであった。白 河 昔ながらの城下町で、人力車の継ぎ立てが多い。郡 山 明治二十年代までは三百戸程の村。二十一年には四十八台の人 力車もあり、交通の要地である。二本松 人力車が百六十台もあり、各地から人力車の乗り継ぎのため人 が集まり、車夫で宿泊するものが毎日五十人以1あり、人力車 の町といった感じ。福 島 有名な生糸は、内国通運や誠一社が横浜に馬で陸送した。−頭四 十貫(約百五十キログラムを連び、一日百頸を稼動した。人力 車は四百五十台もあり、仙台・山形も営業範囲である。桑 折 街道上の中継地で、宿屋十軒、人力車や馬車もあり舟運による 中継地でもある。 日本の鉄道は、もともと官設官営を原則としていた。明治政府の基本方針が立憲君主制ではあったが中央集権的である以上、これは当然の帰結であったろう。しかし政府の財政難から、この原則による建設計画は挫折していた。 明治十四年、華士族の金禄公債を資金に、岩倉具視らを発起人として日本鉄道会社が設立された。この会社は、政府により利益配当補助、用地の確保、建設工事の施工、営業の実施などを行うものであり、要するに建設資金の供給を第一義とするものであった。つまり日本の鉄道は、実質的には政府が建設・運営にあたったのである。それ故にこそ、この鉄道施設という大事業が、急ピッチで進めることが可能であったのである。 日本鉄道(現在のJR東北本線) が今の位置に決められたのは、奥州街道沿いであること、平坦地が白河から福島の方へ続いていたことが、その大きな理由であったと思われる。 明治十四年四月、日本鉄道の郡山への鉄路延長に際し、三春でも鉄道債券の消化が求められ、当時の実業家六人が、その割り当てを引き受けた。同年五月に於いての日本鉄道への融資加入者数と発起株の消化状況をみると、総人数三十八人(三春三十二人、南小泉一人、三丁目一人、木村一人、柴原一人、滝二人)、総株数四百九十四株で、金額二万四千七百円を集めた。 しかし同時期割り当てられた郡山村では、県庁誘致運動や軍備拡張の増税が重なり、融資者募集はなかなか困難であった。明治十六年の文書にも「鉄道会社ヨリ払込之儀催促有之ドモ壱人モ出金セシ者ナク其俵打過居レリ」とまで書かれていたが、その後橋本清左衛門(呉服商)など二十余名の資産家が、三万円の株金を引き受け、その目的を果たした。しかし鉄道が通らない三春が二万四千七百円、郡山が三万円を割り当てられたということは、すでにその頃、三春と郡山の経済力が桔抗していたことの証明ともなろう。 明治二十年七月十六日、上野=郡山間を初めて汽車が走り、その建設の槌音は、三春を東に見ながら更に北へ向かって高らかに響いていった。その上この同じ年に郡山より耶麻郡山潟村に至る間の八里(約32キロメートル)、山潟村より北会津郡赤井村戸の口に至る間は湖上汽船、戸の口より会津若松までの四里(約16キロメートル)、鉄路の敷設キロ数十二里(約48キロメートル)の馬車鉄道建設、および会津若松〜喜多方、会津若松〜会津坂下(ばんげ)間の馬車鉄道建設計画が発表された。こうした中で、三春の人々が町の隆昌をバックに持ちながら時代の波に取り残されるのではないかという危機感を持ったとしても、当然かもしれなかった。これらの状況の中で、三春馬車鉄道建設の機運が熟してくるのである。ルートの設定には、本宮(約12キロメートル)、または須賀川(約2キロメートル)を終点とする案も考えられたであろうが、結局敷設費用の一番安いルート、つまり平坦地が続きその上距離的にも近い所に位置した郡山(約12キロメートル)が、選ばれたものと思われる。 汽車の利用状況を、開通後の明治二十五年の交通量調査で見ると、郡山から上野までの利用者は年間二、八四六人なのに、須賀川までの利用者は二、〇七六人で意外に少ない。当時は汽車の運行回数も少なく、料金も比較的高かったので、近距離は歩いて行く人が多かったと思われる。それに引き替え、三春馬車鉄道の利用者は二、二八六人と、案外多かったと考えられる。 この三春馬車鉄道の計画が具体化するにともない、線路を南小泉村経由とするか阿久津村経由とするかが、双方の誘致運動ともからんで大きな問題となってきた。(第1図)このために明治二十一年十月、三春馬車鉄道会社は、日本土木会社・田代某に調査させたが両線共に決定し難く、翌二十二年二月、元福島県土木課長・佐々木某に依頼し、再調査が行われた。佐々木は、福島県農商土木課貞と共に二月十四日より調査した結果、阿久津村経由とする方が近村に利益があると判定し、その旨を所轄各戸長に通達をして村総代人および関係者に伝えた。 阿久津村は、もともと三春=郡山の道筋であったが、明治十七年の三春=郡山道改修の時に南小泉村が本道となったため、阿久津村経由は廃道同様となり、貨物運送営業稼働者の生活は苦しくなってきていた。そこでこの馬車鉄道に期待し、資金五百円と工事人夫一千五百人の提供を申し出たのである。 路線は、三春=下舞木=阿久津=横塚=郡山と決定され、明治二十二年三月二十一日から鉄道用地の測量が始められた。用地道巾が確定すると、用地一筆毎に地主の承諾書を添付し、郡役所に提出させるという方法であった。 しかし、いよいよ承諾書の実行という時になって南小泉村の人々が話合い、線路敷地となる予定の横塚村の土地を買い占めて、南小泉村経由の路線にするようにと迫った。 これに対し阿久津村では「県・郡関係戸長役場で承認された」ことであり、更に理由として、南小泉村経由では第一に工事費の増額となり、結果として創業費の増加を招き、純益配当歩合の減少は株主の不利益となるばかりでなく、乗車賃の値上げを促して天下公衆にも不便、不利益をもたらす。第二に郡山町と富久村との間にある逢瀬川の架橋工事に莫大な費用が掛かる。第三に国道・県道内に鉄道を敷設すれば、牛馬車・人力車あるいは旅客等の往来雑踏する場では衝突する危険が多い。その上「軌道敷地二属スル多数ノ田畑ハ無作付ノ為メ多数の収穫ヲ損耕スルニアラザルヤ。唯同盟脱条ノ謝辞ヲ以テ止ムヲ得ベケンヤ。貴社自ラ反省スル所ナクシテ可ナラムヤ」と会社側に訴えた。 この時の阿久津村の訴人代表は、武田友吉、武田半四郎、阿久津徳次郎、柳沼寅十、村上弥吉、ぉよび武田駒吉六名の連名で、三春馬車鉄道会社の発起人であった渡辺平八、内藤伝之助、佐久間与五右衛門、春川和平、それと松本茂宛に訴状を提出した。しかし、このこと以外にも、土地所有者の反対や買収価格の不調、さらに東北本線建設の際、工事を急ぐあまりに買収した土地代の支払いを後まわしにし、非常に遅らせたために地主の憤激を招いたことの記憶などから買収に応じないなどの理由が重なり、結局国県道上にのみレールを敷く南小泉村経由の路線に変更されていった。 これらの動きのなかで、平でも馬車鉄道建設の動きが起こってきた。「三春馬車鉄道の工事が間もなく始まるので、一年以内には竣工する。そうすれば工夫および建設器械が移用でき、手軽に着工できる。三春=平間は、水戸=平間より近く、更に平地カで産出する食塩・魚類・紙・藍などは、岩瀬・安積・信夫・伊達・会津地方に輸出するのが多いので、これらの荷物の運搬に便利である。故に三春まで馬車鉄道を敷設し、三春馬車鉄道に連結する。」と言う論旨のものであった。しかしこの馬車鉄道も、郡山=会津若松間、会津若松=喜多方間、そして会津若松=会津坂下間の馬車鉄道も、結局は実現しなかった。 三春馬車鉄道会社は明治二十四年五月十日、内務大臣伯爵西郷従道より「福島県下田村郡三春町ヨリ安積郡郡山町こ至ルノ間別紙命令書ヲ遵守シ馬車鉄道ヲ敷設シ運輸ノ業ヲ常ムコトヲ特許ス。」との許可を受けた。しかしこの命令書は資料編でも後述するが、非常に厳しいものであった。 同年八月十六日、発起人代表宗像藤右衛門、大越巳木蔵、川又恒三郎の連名で「三春馬車鉄道会社設立願」を福島県に提出、同じ年の十月五日「明治二十四年八月十六日願、三春馬車鉄道会社設立ノ件商法実施相成マテ相対約束ニ任ス」との設立免許が、福島県知事・渡辺清から下がった。これにより、ようやく「有限責任三春馬車鉄道会社」として発足したのである。 会社役員として、社長・内藤伝之助、取締役・川又恒三郎・大越巳木蔵・渡辺平八が就任したが、この会社の車両および施設は日本馬車軌道会社の指示によるもので、三春町中町四十七番地(現・ヨーク・べニマル三春店)を車庫および始発駅とし、山田、南小泉を中継駅とし、現在のJR郡山駅前を終着駅として、工事が開始された。 これについては、『三春町史四・近代2・44P』にある馬車鉄道にからんでの記事を転載する。 田村自由党にては(中略)郡山よりは予(かね)て準備し置きし特別仕立て の馬車(鉄道)に乗り小泉停車場に至るや(中略)大旗を押立て拍手 の 間に一行を迎え、進んで山田停車場に至れば、三春町の紳商(後略) すでに開通していた日本鉄道(現在のJR東北本線)との鉄道同士の交差がどのようなもであったかの資料はないが、川辺馬車鉄道(かわのべ ばしゃてつどう・兵庫県尼崎市・明治二十四年より二十六年まで、同年より蒸気鉄道鉄道に転換)にこの資料が残されている。この尼崎市史の資料によると馬車鉄道のレールを官線より一インチ半(3・8センチ)高くして馬車鉄道の車輪が官線に触れないように作られた。同年代でもあるので、これと同じ方法であったと思われる。 場所は現在東北新幹線が作られたため、道路の位置が変わってしまったが、郡山市富久山町久保田古町・松田製線前の斜めに交差する旧三春街道がそれである。やがて全ての工事を終え、明治二十四年十二月十日営業を開始した。営業状況は、第3表の通りであったが、ただ、この営業期間の間の両町の人口に比べ、その乗客数の多さは驚かされる。この数字は、生糸に関連した三春地方の経済活動の大きさを、そのまま物語っている。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.07.21
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(一) はじめに 今からたかだか四〜五十年前、日本ではまだ馬車鉄道が運行されていた。これが一時期、つまりほぼ百年前より全国的に普及し、同時代の人々の生活に密着し、一世を風靡した。しかしその割に忘れられるのは早かった。三春馬車鉄道に関しても状況は全く同じである。これの資料を集めている時に、「馬車鉄道」のことを聞くと、全く「馬車」と勘違いして返事をする人が多かったのをみても、この辺の事情が理解されよう。 馬車鉄道は、まずヨーロッパで発達した。誤解を避けるためにあえて言えば、馬車とは馬が牽く車のことであり、馬車鉄道とはレールの上を走る馬車のことである。この馬車鉄道もいわゆる輸入品であるが、それよりも早い時期に蒸気鉄道の情報が輸入されている。 弘化三(1846)年、幕府はフランスがパナマ地峡に鉄道建設の計画のあるのを知ったのを手始めに、スエズ地峡の鉄道建設においてエジプトとトルコの対立、ジョン中浜万次郎によるアメリカ西部の鉄道の状況、オランダの技術書による研究など、日本でも技術の集積が進みはじめていた。 その実物を日本人が最初に見たのは、嘉永六(1853)年、ロシアのプチャーチンとアメリカのペリーのもたらしたものであった。実物といっても模型である。この模型を基礎に、佐賀藩の中村奇輔、田中久重、石黒寛二らが同じものを作った。これの実験が藩主・鍋島直正を迎えて行われ、見事成功した。現在この模型は、佐賀県立博物館に保存されている。 やがて薩摩藩により、京都=大阪間の鉄道建設計画が立てられたが、薩英戦争のあおりで取り止めとなってしまった。その後慶応二(1865)年、在日外国人により、また慶応三年には幕府によりというようにいくつかの計画が立てられたが、鳥羽・伏見の戦いで一切が中止となってしまった。結局日本の鉄道は、明治五(1875)年、新橋=横浜間の開通まで待つことになってしまったのである。 明治維新は、いわゆるブルジョワ革命でも絶対主義革命でもなかった。それは政治にはじまり、やがて経済・社会の広い範囲に影響を及ぼした大変革であって、その内容は国内のすべての体制の欧米化を主要な目的とした近代化にあった。これは日本が欧米諸国と同等の力を持ち、彼らと対等の地位に立つことの出来る近代国家を作り上げようとしたことにあったのである。 欧米諸外国の強力な開国要求とそれに続くいくつかの海外戦争での屈辱、さらに東南アジアや中国に対する欧米列強による植民地化が、国防上の見地からも明治政府をして「富国強兵・殖産興業」のスローガンを掲げさせ、欧米を教師として、つまり強力な、植民地にされない近代国家の成立を急がせることにあったのである。 この「富国強兵」の思想による軍国化は、日本の急速な近代化へのエネルギーとなった。このスローガンを現実のものにするためには、軍艦や新型兵器を輸入するための外貨を必要とした。この外貨を獲得するために、明治政府は農本論から商工立国論へ、町人抑圧から実業家尊重へと考え方の急展開をはかっていったのである。当時の日本人は、資本主義の何たるかも知らず、ただ分かっていたのは、欧米の富強の源泉は商工業の繁栄にあるらしい、ということのみであった。 当時の実業界は、欧米への傾斜の中でむしろ本当の意味での、ただし奴隷制的労働力の使用の自由を含めての、自由主義の真ただ中にあったのである。これはむしろ(国策遂行のための)自由放任主義の真ただ中にあったと表現してもよいであろう。民衆というものは、その時の空氣に押し流される、つまりある意味では無責任な存在たり得るのである。結果においては被害者になったかも知れないが、丁度車を押して行く人の後ろから押して行く力となっていたのである。 このような動きの中で政府は、実業家に対して経済活動の自由と私有財産制度を保証することにより、早急に「富国強兵・殖産興業」の実を得ようとした。しかし、政策は単にこれだけで、あとは商工業者の自主開発力に頼れば良いというほど、当時の民間に力がある訳ではなかった。そのためには政府自らが手を下し、一般商工業者をリードする必要があった。 政府は官営模範工場を続々と設立し、そして民間に払い下げていった。その払い下げを受けた者を中心として、財閥が形成されていった。そればかりではなく政府の指導は、金融・商業・工業・農業・交通・運輸・通信、そして更に教育にまで至る社会全般に拡大されていった。 やがて明治十五年(一八八三)、この交通部門の一部分として新橋=日本橋間に馬車鉄道が登場して来るのである。(1)「日本の鉄道」日本経済評論社 1〜13ページ(2)一九八九/5/5 NHKスペシャル恵法一〇〇年「天皇はどう位 置づけられてきたか」(3)無着成恭氏談・明治五年という年はですネ、日本が中央集権国家と して第一歩を踏み出した年なんですネ。ですから、確かにあなたの 言う通り鉄道が出来たのは明治五年ですし、勿論それはそれで重要 なことですが、学校教育というものにとっても、明治五年は非常に 重要な意味があるんです。明治時代は、元年ではなく五年から始ま ったといっても良い位なんですネ。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.07.11
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序 文 郡山女子大学短期大学部教授 高橋哲夫 著者の橋本捨五郎氏は桐屋株式会社の社長である。現在は郡山市で家庭用品の総合卸、それに桐屋商事株式会社として県内各地に多数のガソリンスタンドを経営している経済人である。「桐屋」はもともと城下町三春の老舗で三春有数の富商であった。 三春町に育った私は昔の桐屋を覚えている。中町通りの間口の広い店舗で、前掛けをした二、三人の番頭がいつも正面の畳敷きの火鉢の側に正座していた。広い間口の中央に、奥の倉庫までレールが敷かれており、トロッコに荷を積んで奥に運んでいるのを何度か見たことがある。これが大正末から昭和初期の桐屋の風景である。 “古河に水絶えず”といわれるが、戦後桐屋は経済都市郡山に進出し、大きな卸問屋に発展した。代表取締役の橋本捨五郎氏は経済人であると同時に、隠れた文化人でもある。何時、何処で研究されたのか定かではないが、その歴史的見識には並々ならぬものがある。視野も広く、コトの追求には積極果敢、内外の資料を蒐集して所論をまとめる。それはすでに“社長の趣味”の域をこえて、学者はだしの論文をものにするのである。 本書は「三春馬車鉄道」の研究からはじまり、その追求は古代の欧米。シルクロード、エジプトまでの「馬車」と「馬車鉄道」の歴史を追究してゆく。つまり、地球規模で「馬車」に関する夢を追いかけているのだ。 𣘺本氏のライフワーク、馬車と馬車鉄道の研究はすでにかなりの量に及んだ。競争の原理に飛びまわっている経済人にはまことに珍しい存在である。氏に出版を薦めた責任もあって一文を寄せる次第である。 平成元年四月 なお高橋氏は、平成二十二年、九十五歳のご高齢で亡くなられた。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.06.21
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