『福島の歴史物語」

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2013.07.11
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 今からたかだか四〜五十年前、日本ではまだ馬車鉄道が運行されていた。これが一時期、つまりほぼ百年前より全国的に普及し、同時代の人々の生活に密着し、一世を風靡した。しかしその割に忘れられるのは早かった。三春馬車鉄道に関しても状況は全く同じである。これの資料を集めている時に、「馬車鉄道」のことを聞くと、全く「馬車」と勘違いして返事をする人が多かったのをみても、この辺の事情が理解されよう。

 馬車鉄道は、まずヨーロッパで発達した。誤解を避けるためにあえて言えば、馬車とは馬が牽く車のことであり、馬車鉄道とはレールの上を走る馬車のことである。この馬車鉄道もいわゆる輸入品であるが、それよりも早い時期に蒸気鉄道の情報が輸入されている。

 弘化三(1846)年、幕府はフランスがパナマ地峡に鉄道建設の計画のあるのを知ったのを手始めに、スエズ地峡の鉄道建設においてエジプトとトルコの対立、ジョン中浜万次郎によるアメリカ西部の鉄道の状況、オランダの技術書による研究など、日本でも技術の集積が進みはじめていた。

 その実物を日本人が最初に見たのは、嘉永六(1853)年、ロシアのプチャーチンとアメリカのペリーのもたらしたものであった。実物といっても模型である。この模型を基礎に、佐賀藩の中村奇輔、田中久重、石黒寛二らが同じものを作った。これの実験が藩主・鍋島直正を迎えて行われ、見事成功した。現在この模型は、佐賀県立博物館に保存されている。

 やがて薩摩藩により、京都=大阪間の鉄道建設計画が立てられたが、薩英戦争のあおりで取り止めとなってしまった。その後慶応二(1865)年、在日外国人により、また慶応三年には幕府によりというようにいくつかの計画が立てられたが、鳥羽・伏見の戦いで一切が中止となってしまった。結局日本の鉄道は、明治五(1875)年、新橋=横浜間の開通まで待つことになってしまったのである。

 明治維新は、いわゆるブルジョワ革命でも絶対主義革命でもなかった。それは政治にはじまり、やがて経済・社会の広い範囲に影響を及ぼした大変革であって、その内容は国内のすべての体制の欧米化を主要な目的とした近代化にあった。これは日本が欧米諸国と同等の力を持ち、彼らと対等の地位に立つことの出来る近代国家を作り上げようとしたことにあったのである。

 欧米諸外国の強力な開国要求とそれに続くいくつかの海外戦争での屈辱、さらに東南アジアや中国に対する欧米列強による植民地化が、国防上の見地からも明治政府をして「富国強兵・殖産興業」のスローガンを掲げさせ、欧米を教師として、つまり強力な、植民地にされない近代国家の成立を急がせることにあったのである。

 この「富国強兵」の思想による軍国化は、日本の急速な近代化へのエネルギーとなった。このスローガンを現実のものにするためには、軍艦や新型兵器を輸入するための外貨を必要とした。この外貨を獲得するために、明治政府は農本論から商工立国論へ、町人抑圧から実業家尊重へと考え方の急展開をはかっていったのである。当時の日本人は、資本主義の何たるかも知らず、ただ分かっていたのは、欧米の富強の源泉は商工業の繁栄にあるらしい、ということのみであった。

 当時の実業界は、欧米への傾斜の中でむしろ本当の意味での、ただし奴隷制的労働力の使用の自由を含めての、自由主義の真ただ中にあったのである。これはむしろ(国策遂行のための)自由放任主義の真ただ中にあったと表現してもよいであろう。民衆というものは、その時の空氣に押し流される、つまりある意味では無責任な存在たり得るのである。結果においては被害者になったかも知れないが、丁度車を押して行く人の後ろから押して行く力となっていたのである。

 このような動きの中で政府は、実業家に対して経済活動の自由と私有財産制度を保証することにより、早急に「富国強兵・殖産興業」の実を得ようとした。しかし、政策は単にこれだけで、あとは商工業者の自主開発力に頼れば良いというほど、当時の民間に力がある訳ではなかった。そのためには政府自らが手を下し、一般商工業者をリードする必要があった。

 政府は官営模範工場を続々と設立し、そして民間に払い下げていった。その払い下げを受けた者を中心として、財閥が形成されていった。そればかりではなく政府の指導は、金融・商業・工業・農業・交通・運輸・通信、そして更に教育にまで至る社会全般に拡大されていった。

 やがて明治十五年(一八八三)、この交通部門の一部分として新橋=日本橋間に馬車鉄道が登場して来るのである。

(1)「日本の鉄道」日本経済評論社 1〜13ページ
(2)一九八九/5/5 NHKスペシャル恵法一〇〇年「天皇はどう位
   置づけられてきたか」
(3)無着成恭氏談・明治五年という年はですネ、日本が中央集権国家と
   して第一歩を踏み出した年なんですネ。ですから、確かにあなたの
   言う通り鉄道が出来たのは明治五年ですし、勿論それはそれで重要
   なことですが、学校教育というものにとっても、明治五年は非常に
   重要な意味があるんです。明治時代は、元年ではなく五年から始ま
   ったといっても良い位なんですネ。




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最終更新日  2013.07.11 10:19:56
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