『福島の歴史物語」

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2013.10.09
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     車輪の再生

 今でいう馬車の最も古い記録は、十三世紀の終わり頃、フランスのチャールズ・オブ・アンジュー王が、イタリアのネーブルス(ナポリ)に入った時、彼の王妃が乗っていたものである。次いで一三四七年の「フランダース年代記」には、ルセアン公の妻エマガードの馬車が紹介されている。しかし乗り物としての馬車の発達は遅かった。何故なら、内戦に明け暮れしていた国々では、開発も進まなかったし、道路状況も悪かったからである。

 やがて覆いのあるコーチ(乗合馬車)が生まれた。このコーチが、最初どこで作られたかについては諸説があるが、ハンガリーにあったコーチェ(KOTSEE)が、一番それらしい。

 それでも十六世紀に入ると馬車の数は次第に増え、一五五〇年のパリには、六東牽きの馬車が三十六台あったといわれている。しかし、これはいずれにしても、貴族の専用であった。そして一六三一年、スペインにガラスの窓のついた馬車が登場した。レオボルド王の結婚式の時に使われたものであるが、二人しか座れないものであった。この時代の王室用の馬車としては、スペインが断然リードしていた。

 一六六九年一般市民の使える乗り物が初めてパリの町を走った。それはフランス人デュパンにより発明されたブルーエット〈BRCUETEE〉、またはルーレット(ROULETEE)と呼ばれた二輪車であった。車体は籠の椅子のようで、それに長い梶棒が二本つき、人間がその間に入って走ったという。余談だがこのブルーエット、この時から約二百年を経た明治元年頃、日本で「人力車」と称して復活する。この人力車を誰かが日本にもたらしたものか、それともよくいわれているように日本人・和泉要助による発明なのか、定説はない。

 イギリスにコーチが入ったのは、フランスやスペインよりも大分あとになってからである。その年は一五五五年といわれている。しかしこの時代の馬車は、乗り物としては最も乗心地の悪いものの一つであった。

 一五六人年、女王エリザベス一世は、拝謁したフランス公使にこう言っている。
「数日前に、私の乗った馬車が早く走るのはよいのですが、その揺れで車の壁に体が打ちつけられ、苦痛に耐えるのが大変でした。」と。

     古代のレール

 一般に、車に物を乗せて運ぶということは、(三)古代の馬車の冒頭にも述べたように、紀元前三五〇〇年以上の歴史を持っている。やがて車を軽く走らせるにはその進行方向を一定にし、更に車輪の走行抵抗を減少させるには、平面の上を走らせるより車輪の巾に合わせた突起物の上を走らせた方の効果が大きいことに気づいた。ここに、レールの生まれてきた大きな理由がある。

 鉄道用レールの考えの源となったのは、古代ローマやギリシャの町に作られた石畳であったと思われる。だが車を通すのには、なにも道巾いっぱいに石を敷き詰めなくても、車輪の走る所だけ石を敷けば良いと考えたらしく、事実凹字型の石を並べ、車輪が外れないようにして動かした遺跡が残されている。

     ローマの道

 この道路の遺跡に見られるように、ローマ帝国により造られた道路が、当時最良のものであった。そしてこの道路網こそが、当時最大最強を誇ったローマ軍移動のための秘密兵器でもあった。「全ての道はローマに通ず」という言葉のように、道路はローマを中心に四通八達していた。同時に道路建設の技術も、架橋技術も十分に発達していたのである。「ブルタータ英雄伝」で説明されているガイウスの建設した道路は、要約すれば次のようなものであった。

1 道路造りに実益だけでなく、快適さと美しさを求めたこと。
2 まっすぐな道路としたこと。
3 切り石で舗装するか、あるいは砂などで固い路面としたこと。
4 窪みは埋め、峡谷や川には橋を架けたこと。
5 平らな道路としたこと。
6 マイル・ストーンを設けたこと。

 このローマの道がいかに良く出来ていたかを示すのに、その後何百年も、場所によっては目動車の通う現在まで、二千年近くも使われて来たことがあげられる。

     レールの誕生

 十六世紀にはいって、イギリス・ニューキャッスル付近の炭坑からタイヌ川まで石炭を運び出すため、轍痕(わだちあと)に木を敷いたのがレールの最初の考え方であるといわれている。一五三〇年頃、ドイツの鉱山で鉱石運搬用のトロッコと木製のレールが作られるようになった。この場合、レールの上を走らせたものか、二本のレールの内側に車輪を挟んで走らせたものか、良く分かっていない。このようにヨーロッパに於いては、一五三〇年以前、すでに軌道の存在が知られていた。

 十八世紀になると、木の表面を鉄板で覆ったより頑丈なレールが作られるようになり、この上を牛や馬に牽かれて動く軌道車が各地で見られるようになってきた。しかし、この木製のレールや木の表面を鉄板で覆ったレールの時代には、レールの上の車に人を乗せて走ったという記録は皆無である。そのすべてが鉱石運搬用であった。そして車輪の形も、糸巻きのボビンのような形をしていた。

     レールの発達

 このような状況の中で、蒸気鉄道出現までの間レールの歴史は、木製のレールから木製のレールの表面を鉄板で覆ったレールヘ、そして鋳鉄業の発達により全鋳鉄製のレールが生み出され、より重い重量に耐えられるようになっていった。それとともにレールの形も、四角形から凹字型やL字型、そして、U字型そしてI字型となって現在のレールの形に近づき、やがて凸字型のレールが作られるようになってきた。この中でのI字型のレールは、ジョセフ・ロックの考案で、グランドジャンクション鉄道で使われたのが最初である。これはレールの上部と下部を同一の形にしたもので、片方が磨耗するとひっくり返して再使用が出来るようにしたものであった。しかし最初の頃のものは強度不足のためひびが入り、二度の勤めは勤まらなかったという。

 これは双頭軌条とも呼ばれたもので、日本でも鉄道創業当時この形のものが多く使われた。現在のレールは、平底軌条とも呼ばれ、底部に平面を大きく広くとって、枕材にしっかり固定できる特徴を有している。鋳鉄製のU字型レールが一七六〇年代、L字型レールが一七六七年頃、そして今、我々か見慣れている平底軌条は、叫八二〇年ロバート・リビングストン・ステイブンスにより考案され、アメリカのキャムデン・アムポイ鉄道で使われたのが最初である。

 一七五〇年代の大きな進歩は、鉄のレールが木製のレールにとって変わったことである。初期の頃、鉄のレールを試験的に使った例は少なくないが、なかでも最も重要なものの一つに、イギリス・シュロプシャーのコールブルックデール鉄工所で行われた実験がある。この実験とは、当時の軌道で使われていた上質の樫材のレールの表面に、鋳鉄をかぶせるということであった。それは摩耗を少なくする目的ばかりではなく、自社の製品を宣伝し売るという意図もあった。

 一七六七年、この鉄工所でL字型のレールが開発された。底辺が一〇二ミリ、縦が七六ミリ、長さが九一四ミリ (三フィート)のものであった。記録によれば、一七六八年から一七七一年の間に、約八百トン(年間二百トン)ものレールがここで生産されたという。 

 同じ頃、シェフイールド地方でも両側に縁の付いた(凹字型)鉄板のレールが使われている。このレールにはフランジなしの車輪が使えた。これは荷馬車がレールの上ばかりではなく、普通の道路の上もそのままで走れるように考えられていた。これは一定の場所でレールから普通の道路に、あるいはその道の移動が出来るようになっていたのである。この方式は、南ウェールズで広く用いられていた。いずれにせよ、馬車鉄道の馬車に対する際だった特徴は、乗心地の大幅な改善と輸送力の向上にあった。

 しかしレールが現在の型に落ち着くまで、今述べたように、さまざまなものが作られた。そしてまた現在の平型のレールでも、列車の通過量、重量、速度などによって、その大小、重量、それに形状の違いなどそれぞれに異なるものがある。国際的に統一しようという動きもあるが、各国それぞれに規格化したために、これの統一はなかなか難しい。そしてもう一つ統一の難しいものがある。それは、軌間(ゲージ)である。日本の国内でさえ、JRの在来線の狭軌(一〇六七ミリ)と新幹線の国際標準軌間(一四三五ミリ) の二通り、これに私鉄を加えると、まだ多くのゲージを使用していることになる。であるから国際間の統一となると、まず不可能に近いということになろう

     車輪の変遠

 当初は車輪も木造で糸巻きのボビン型であったが、木造のために損傷が激しく、一七〇〇年代中頃には鉄製車輪が開発された。このことは一七三四年のイギリス・バス付近での木造車輪についての記録があり、また一七五四年発行のアート・アンド・サイアンセズ事典に鋳鉄製車輪の図面があるので、確認されている。フランジ付の車輪を使った鉄道がいつ頃からあったのか、その起源をたどってみると、一七〇〇年代の後半中世ドイツの鉱山で使われたのがその発祥らしい。

 当時は、これらの車両が勾配を下るときには積荷を水平に保つ必要があると考えられていた。そのために、例えば前輪の直径を後輪の直径より大きくするという奇妙な方法がとられた。また、前輪はスポーク付の車輪で後輪は円盤のままの木の車輪というのもあった。やがて車輪がレールにうまく沿って行くように、高さ二十五ミリないし四十ミリのフランジが車輪の内側に付けられるようになった。いずれにしても、この車両を使うと移動が非常に楽になり、一頭の馬が石炭を積んだ大きな荷車を四〜五両も牽いたという。

 この車輪についても、現在のフランジ付きの形のものは一七八〇年代から一八八〇年代に完成したものである。このように蒸気鉄道出現までの馬車鉄道は、レールと車輪の改良に大きく貢献したことになる。





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最終更新日  2013.10.09 19:13:49
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