『福島の歴史物語」

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2013.09.11
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 この紀元前三千年頃、古代メソポタミアの国家群に駅伝制度が設けられた。紀元前三百年頃になると中国の漠王朝やエジプトのプトレマイオス王朝が、中央管理方式の駅伝方式を定めた。いずれも近代駅制に近いものであった。
 漠王朝の駅伝制度では、宿駅はおよそ十八キロごとに作られた。プトレマイオス王朝の宿駅は、馬上で六時間の距離ごとに、あるいは約五十キロの間隔に作られた。日本でのもっとも古い駅制は七百年頃で、平城京に牛車(ぎっしや) のあらわれた頃と一敦する。唐の駅制を見習ったものと言われ、駅間隔は約二十キロであった。

     シュメールの戦車

 紀元前二五〇〇年頃に描かれたシュメール軍の戦争の図(ウル出土・大英博物館蔵)には、戦車の絵が残されている。このシュメー〜軍は、千台の戦車と馬と歩兵を擁していたといわれている。馬というものを知らなかった他の民族は、攻めて来る馬と戦車と人の複合体を一匹の怪獣と思い、見ただけで浮き足立ったので、戦わずして勝ったという。
 これに似た例として、一五〇〇年代、スペインのインカ帝国征服の際もみられた。スペインの征服者たちが馬に乗って攻撃した時、馬を見たことのなかったインカの兵士たちは、人馬一体を一匹の怪物と思い、見ただけで敗走してしまい、勿論これだけの理由ではなかったが、あの偉大なる文明があっけなく崩壊してしまったのである。

     ヒッタイトの戦車

 紀元前二千年頃、ヒッタイト軍は鉄製武器と、二人乗りの二輪の戦車三五〇〇台と一万七千の兵を駆使し、バビロンヤシリアを攻め落とした。この戦車は一人の戦士を乗せ、一人が馬を御す形式のものであった。ただこの形式の戦車は、戦闘の場においての御者と戦士との意志の疎通と戦車の制御が、非常に難しかったと推定される。

     ミケネ時代の戦車

 また地中海のミケネ時代(紀元前一六〇〇〜二〇〇頃)の壁画(ティリユンス出土)に「車上に二人の女」の絵が描かれている。しかしこの戦車に乗る二人は、貴人ではあろうが、あるいは男子であるともいわれている。車上に直立した堅い姿勢や抽象化された画面に、現代の抽象画に通ずる特色が見られる。この他出土している陶土文字板にも、馬や戦車の記録が数多く残されている。

     エジプトの戦車

 紀元前二二〇〇年頃のエジプトの王ツタンカーメンの塞が、一九二二年に発掘された。初めて開けられた室内は雑然としていたが、三千年も前の家具や装身具・お供え物・宝石箱・寝台・王の胸像・蠅叩き、そして馬車まで見つかった。
 その何代か後のエジプト王ラムセス二世は、紀元前千年も前よりアブシンベル神殿の壁画の中で戦車を駆り、今に至るもシリアの要砦に突撃を敢行している。だがこのレリーフによると二頭牽きの戟車であり、戦士は.一人のようである。前述したように、二人乗りの戦車は戦士と御車の意志の疎通が難しかったであろうと思われる。
 また次のラムセス三世の時代、牛の牽く戦車に乗って攻撃してきたアッシリアのペリステ軍に対し、エジプト軍は馬の戦車で迎え撃った。結果は馬の戦車のスピードを利して戦ったエジプト軍の、圧勝に終わった。

     トロイの木馬

 トロイ戦争が起きたのは、紀元前一二〇〇年頃である。この戦いには、トロイを攻めあぐねたギリシャの軍が、奇計をもって有名な木馬に車輪をつけて敵の城内に運び込ませて勝利の契機とした。なおこの戦いには、多数の両軍の戦車が加わった。

     アッシリアの馬車と騎馬戦

 紀元前一千年頃、アッシリアのアッシュールパニパル王は、文書として多くの記録を残すと同時に、戦闘の図、狩猟の図・饗宴の図などアッシリア美術の白眉とも言うべき多数のレリーフを作らせた。このレリーフは馬車も含めて、今から三千年近くも昔のアッシリアの世界を、余すところなく伝えている。
 この頃より辺境の遊牧民は、戟車を使わず騎馬で戦うようになってきた。彼らは両手を離したまま馬を御し、前後左右、自由自在に弓を射ち、荒野や森林そして山でも小回りをきかせ、どちらかと言えば障害物の少ない平原向きの戦車を圧倒した。これを見て、その後のギリシャやローマの軍は、騎馬軍団を創設、それを戦闘の主力としていった。




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最終更新日  2013.09.11 09:32:46
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