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トールも製作に関わったオラクルカードです♪
2007年03月07日
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カテゴリ: 考察
へなちょこ考察、第4弾。


前の考察はこちら。

「天使好きでも、いいかな?」
「光と闇」
「循環する力」


***************


今日は、「闇」そのもののイメージについて。


「闇」と聞いて、あなたは何を思い浮かべますか?

最近の凶悪事件で騒がれる「心の闇」でしょうか。
おばけや妖怪、悪魔などのイメージでしょうか。
それとも、安らかな眠りを思い浮かべますか?



今まで見てきたように、本当は光の大切な対である存在のはずなのに、
闇は怖いもの、恐ろしいもの・・・
そんな固定観念があるかと思います。それはなぜでしょうか。


それはおそらく、人間の生物としての根源的な恐怖に結びついているのでしょう。
想像してみてください。

真っ暗な夜の、森の中。
あなたは明かりを持っていません。雨が降っていて、火をおこすこともできません。
月も星も見えず、すぐ足元に何があるか、何がいるかさえわからない。
ときおり遠くで獣の吠え声が聞こえます。
雨音に混じって、カサカサ、ガサガサと何かが動いています。
それから離れたいと願うけれど、どちらの方向が安全なのか、わからない。


背後の音はせまってくる。けれども、足元は崖かもしれません。
恐怖のあまり、真っ暗闇の中に、妖怪や幽霊の姿が見えてくるかもしれません。

こんな状況であったなら、ふと切れた雲間からさしこむ月の光は、どんなにかありがたいでしょう。
つねに方向を指し示してくれる星たちの存在は、神のようにも見えるでしょう。
そして周囲を照らし、獣から身を守ってくれる松明の炎のありがたさ。



物陰なり布なり、どうにかして陰をつくったほうが落ち着きますよね。
けれども周囲が闇だけであったときは、自らの安全を保障するために、ちいさな灯りを願うのです。

現代世界ではないにしても、人間がまだ猿人類とよばれていたころは、まだまだ物理的に弱肉強食の世界だったでしょう。
恐ろしい肉食獣がいるかもしれず、生物として無防備な姿をさらすのは危険。
ですから、自分の身は隠しつつも、相手の行動はわかるように、ということですね。

漆黒の闇というのは、昔は生命の危険と直結していたと思うのです。
死への恐怖とあいまって、ますます恐ろしいものと感じられたはず。



そうなると、光や炎をありがたがる気持ちってよくわかりますよね。
それが宗教として形を持ったのが、前述の 「光と闇」 でも登場したゾロアスター教です。

ゾロアスター教は別名「拝火教」。
この世は善の光の神アフラ・マズダと、悪の闇の神アンラ・マイニュの戦いの場としていましたが、最後は光が勝つことになっていました。
拝火壇を作って、火そのものを光の象徴として崇めていました。

もちろんその他の宗教でも、火を神聖なものとして尊重する行為は多く見られます。
日本の神棚でも仏壇でも灯火を供えますし、ネイティブ・アメリカン達は焚き火の周りで聖なる踊りを奉納していたといいます。

猿と人間の違いは「火の使用」「道具の使用」「直立二足歩行」・・・でしたっけ?
火の光は、恐怖に打ち勝った人間の象徴でもあるのでしょうね。

ひとりの預言者が創始したゾロアスター教が、後のさまざまな宗教に染み込んでゆくことができたのは、
この人間の根源的な恐怖、死や大自然への畏怖と、それに打ち勝ってゆく希望としての光
という図式を持っていたからではないかと思います。



そして、その図式を最大限利用したのがキリスト教の正統教会とも言えるでしょう。
おそらくキリスト教が土着信仰と混在していた頃は、それほど闇は貶められていなかった事と思います。
それが紀元325年のニカイア公会議などの宗教会議を経て、キリスト教の「正統」と「異端」が分けられてゆくにつれ、闇は異端の象徴として忌むべきものと思われてゆくのです。

性別や年代、個性の違う集団をまとめるとき、一番簡単で効果的なやり方をご存知でしょうか?

それは、外に共通の敵を作ること。

この場合、「闇」が格好の標的になったように見えて仕方ありません。

――闇は悪魔と呼ぶべきもの。
死や恐怖や異端の象徴、唯一神の光の刃で、すみやかに倒されるべきもの。
闇を恐れる者達よ、光の神に帰依しなさい。神が汝らを守護するであろう。
光の使徒となって立ち上がりなさい。
神のご守護は汝らのもとにある。

・・・どうでしょう。なんだか信徒達がまとまりましたよね。戦争にも駆り出せそうですね。
事実、十字軍はこうして召集されたのです。



こうして大きな流れに飲み込まれてしまった「闇」ですが、小さな流れもまた、ありました。
それは、人のこころ。

光と闇、を人の心にたとえるなら、意識と無意識、といえるでしょう。
これも陰と陽と同じで、どちらが悪いとか優位だとかいう問題ではないのですが、
いかんせん、人は自分の無意識を見落としてしまいがちです。

たとえば、あなたが今日、大切な人とケンカをしてしまったとします。
思っていること、言いたい事を言葉にして、つまり意識にのぼらせて発散したなら、後のフォローは必要にしても、気持ちとしては割合すっきり。

けれども言いたい言葉をぐっと飲み込んで我慢してしまったら、その思いはくすぶってしまいますよね。

それでも後で一人のときなどに「私はこう言いたかった。こういう思いがあったよね。相手はこういってて確かに正しいけど、私の思いもありだよね」と認めてあげられればいいのですが、
「もう考えないで気分転換しよう!」となった場合、その思いは無意識の領域に押し込められてしまいます。

きちんと感じてあげられなかった思いというのは、その人も気づかないうちに、行き場のないまま何年も心の奥にたまって、その人の行動を縛っていたりします。

親の前では明るくて問題のない子を装っているのに、実は非行に走っていたり、過食症だったり、というのがいい例かもしれません。

無意識というのは見えないから、見たくないものを詰め込んで、片付けた気になってしまうのですね。
それが「闇」であるとも言えましょう。
闇の機能は、「姿をかくすこと」でもあったはずですから・・・。

現代において発達してきたカウンセリングや各種のセラピーは、大体においてクライアントの心の闇から、隠していたものを取り出して、存在を認めてゆく、という方向性を持っています。
いわゆる毒出しです。


そういった流れのなかで、長らく忌むべきものとされてきた闇も、また注目され、存在を認められる時期にきているのかもしれません。






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最終更新日  2007年03月07日 15時29分06秒
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