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別名は「ムラサキクンシラン」ですが、実際のクンシランとは何のつながりもない(クンシランはヒガンバナ科)。花の付き方などが似ているので、そのような名前がついたのでしょう。庭に植えっぱなしでもよく育ち、6から7月の梅雨時期から明けくらいに花を咲かせます。けっこう大型の植物で、花が咲く頃の草丈は70から90cmくらいに達します。花の色は、ブルーかホワイトの品種が多く、よく出回っています。冬は暖地以外では、地上部が枯れてしまいますが、春になればまた芽を吹きます。南アフリカ原産で春か秋に苗が販売されます。(ネットで発見 m(__)m)【上記の感想】上記は、アガパンサスの説明。最近よく見かける紫の花。それは、アガパンサス(Agapanthus spp.)というようだ。別名、ムラサキクンシラン。参照サイトは、こちら。
2010/07/19
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以前、中国原産と考えられていたが、現在はビロードアオイ属(Althaea)のトルコ原産種と東ヨーロッパ原産種との雑種(Althaea setosa ×Althaea pallida)とする説が有力である。日本には、古くから薬用として渡来したといわれている。花がきれいなので、園芸用に様々な品種改良がなされた。草丈は1~3mで茎は直立する。 花期は、6~8月。花は一重や八重のもあり、色は赤、ピンク、白、紫、黄色など多彩である。花の直径は品種によるが大きなものでは10cmくらいである。本来は宿根性の多年草であるが、品種によっては一年草でもある。(ウィキペディアより)【上記の感想】散歩中に良く見かける低木に咲いている鮮やかな花。立葵(タチアオイ)というそうだ。参照は、こちら。
2010/06/22
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自宅近くで、ホタルブクロが咲いているのを発見。うつむき気味に咲く紫色の花です。どちらかというと、堂々たる咲き方よりも、こういう控えめな感じに咲く方に惹かれますね。参照は、こちら。
2010/06/10
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日本各地の道端や畑に自生する。ヨーロッパ原産で世界各地に広まったと考えられている。日本には史前帰化植物として入ってきたものと思われる。(ウィキペディアより)【上記の感想】上記は、黄色い花を咲かせている「ノゲシ」について、書かれたもの。史前帰化植物とは、有史以前に日本に入ってきた植物とのこと。
2010/05/16
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オニタビラコ(鬼田平子、Youngia japonica)は、キク科オニタビラコ属の越年草。道端や庭に自生し、日本全国ほか世界各地に広く分布する。帰化種ではない。(ウィキペディアより)【上記の感想】上記は、黄色の小さな花を咲かせていた「オニタビラコ」について、書かれたもの。葉は、根本にロゼット状に広がっているのが特徴の一つです。
2010/05/15
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【上記の感想】このスミレは、タチツボスミレという名称らしい。アスファルトの隙間からでも生えてくるほどの生命力がある。ものの本によると、タチツボスミレとは、日本ではいたる所に見られる最も普通のスミレだという。それから、スミレを分類する方法の一つが、地上に茎があるかないかという点。タチツボスミレは、茎が地上にあるスミレである。
2010/05/12
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【上記の感想】上記は、シロツメクサ。自宅近くで撮影したもの。「野の花」というか野草には、以前より多少は興味があった。今後ブログに書いていこうと思うが、いつまで続くかは不明。関連日記は、こちら。
2010/05/08
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『ヨハネの黙示録』を読了しました。これで、ようやく聖書の通読を終えたことになります。今月に入ってからは、年内に通読を終えたいとの思いにかられておりました。聖書を読むこと自体が唯一の目的になってしまった感じです。ちょっと反省ですねm(__)mともあれ、2006年3月に聖書を購入してから、1年と9ヶ月の時間をかけて聖書を通読したという事実は残ります。当時の日記を振り返り、聖書を読む気になった理由を思い出すことにします。以下の2冊の本を読み、聖書を通読しよう本気になったことがわかります。今では、そうだったのかなあという感じですが(笑)。■『神の発見』(五木寛之・森一弘著)■『迷ったときの聖書活用術』小形真訓(文藝春秋) そして決定的だったのが、次の一節だったようです。「ハナから荒唐無稽と切り捨てる向きには奨められないが、死んだ者がよみがえったという想像を絶する出来事、それが2千年つぶされずに残っている事実に、もし興味がわいたら、新約聖書1冊を買い求めるといい。」(『迷ったときの聖書活用術』より)追記ですが、先頃、生まれて初めて地元の教会に行きました。まあ、バザーでしたけど(笑)。少々の買物と、未使用切手を寄付してきました。聖書を手にすることがなければ、生涯教会に行くことはなかったと思います。感慨深いものがありますね。
2007/12/24
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『ユダの手紙』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】不幸な者たちです。彼らは「カインの道」をたどり、金もうけのために「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。(11節)【上記の感想】金もうけに走ると滅びますよとの警告か!私も滅びそうです(・_・;)「バラムの迷い」とは何でしょうか。『民数記』22章に書かれています。『民数記』は読んだのですが、バラムのことなど全く記憶に残っていませんね(笑)。「バラムの迷い」では、バラムが欲に目がくらんでいたため、ろばに見えていたものが、バラムには見えなかったと書かれています。欲にとらわれると、見えるものが見えなくなります。私自身も、これは大いに反省すべきです(^。^ゞ【この本からの引用】大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。(9節)【上記の感想】天使についてですが、こちらの日記で少々書きました。当時天使には9種類あることを調べましたが、その後の調査では、天使の体系はもっと複雑であると知りました。ちなみに、旧約・新約聖書に実際に名前を伴って現れる天使はミカエルとガブリエルだけだと言われています。
2007/12/24
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『ヨハネの手紙3』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。こちらも短い手紙なので、簡単に書きます。【この本からの引用】愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。(5節)【上記の感想】キリスト教では、同じ信徒のことを兄弟と称するようです。そこで、ウィキペディアで、「基督兄弟団」を調べてみました。以下に、引用します。-----引用開始-----基督兄弟団(きりすときょうだいだん)は、プロテスタント系のホーリネス運動の流れを汲む、きよめ派の団体。日本福音同盟に加盟している。メノナイト系の「日本キリスト兄弟団(けいていだん)」は別団体。-----引用終了-----
2007/12/23
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『ヨハネの手紙2』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。短い手紙なので、ごくごく簡単です(^^)【この本からの引用】あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。(12節)【上記の感想】良いですね。電話やメールですませることでも、実際に足を運んでみるのも大切かも。
2007/12/23
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『ヨハネの手紙1』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。(3章12節)【上記の感想】カインのことは過去日記で書いたことがあります。こちらの日記は、1年9ヶ月前に書いたものになってしまいましたか。聖書との付き合いも長く続いているものだと、改めて思った次第です。今日は、もう一度、カインとアベルの物語を復習してみます。聖書を読み始めた時の疑問は、カインの献げ物を嫌い、アベルの献げ物を好んだのか?というものでした。いまだに正確なことはわかりませんし、最も解釈は一つではないのでしょう。何となくわかってきたことを、以下に書いてみます。神はいけにえを好み、土を嫌うということです。これは、自分勝手な解釈も含んでいるので、間違っているかもしれませんが。『創世記』3章17節には、「土は呪われるものとなった」と書かれています。また、3章21節には、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」と書かれています。つまり、神は土から実ったものを嫌い、血を流すことによって得られたものを好むわけです。【この本からの引用】わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。(1章5節)【上記の感想】『創世記』の1章に、神の言葉で、「光あれ」があります。グーグルで検索してみると、滝田栄が聖書の朗読をしているCDが、ありました。そのCDのタイトル名が、「光あれ」でした。ちょっとだけ試聴しましたが、こういうCDも良いものです。
2007/12/23
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『ペトロの手紙2』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】ことわざに、「犬は自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。(2章22節)【上記の感想】「犬は自分の吐いた物のところへ戻って来る」をグーグルで検索すると、725件のヒット。聖書に書かれていると、聞いたことがないことでも、結構なヒット数になります。しかし、犬が自分の吐いた物のところへ戻るという性癖は聞いたことがありませんね。まあ、深く考えても仕方のないことと思います。聖書には、時々犬とか豚が出てきますが、どちらの動物も悪い意味で使われることが多いようです。例えば『マタイ伝』の7章を見ると、次のような聖句があります。日本の「豚に真珠」の語源と言われている箇所です。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。愛犬家と愛豚家の怒りが爆発しそうですな。【この本からの引用】このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。(3章11節)【上記の感想】ここは難しいというか、考えさせられる箇所です。聖書では、その直前に滅び去る状況を、「自然界の諸要素は熱に熔け尽くし」とあります。それならば、どうせ滅び去るのだから、好き勝手に生きればいい、信心深い生活を送る必要はない、と思いたくなります。が、そうではないのが、聖書の面白いところです。自分のことを思うと、かりに明日すべてのものが滅び去るとしても、今日も変わらずに同じように生活する。そんな具合になるような気がします。
2007/12/23
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『ペトロの手紙1』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。(5章12節)【上記の感想】この『ペトロの手紙1』の作者は、ペトロではないということで、識者の見方は一致しているらしい。そこで、シルワノなる人物が、この『ペトロの手紙1』の作者との説もあるようです。こんなふうに本当の作者は誰か!をめぐり、おそらく千年以上も議論され続けているのでしょう。面白いものです。【この本からの引用】イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。(1章1節)【上記の感想】ここで気になったのは、カパドキア。カッパドキアという方が、一般的かも。そのカッパドキアは世界遺産に登録されています。今日は、その世界遺産を勉強しておく。世界遺産は4種類に分類されているようだ。即ち、文化遺産、自然遺産、複合遺産、危機遺産。以下に、ウィキペディアから引用しておく。■文化遺産 すぐれた普遍的価値をもつ建築物や遺跡など。 ■自然遺産 すぐれた価値をもつ地形や生物、景観などをもつ地域。 ■複合遺産 文化と自然の両方を兼ね備えるもの。 ■危機にさらされている世界遺産(危機遺産) 後世に残すことが難しくなっているもの。
2007/12/19
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『ヘブライ人への手紙』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。(1章2節)【上記の感想】『ヘブライ人への手紙』は、公同書簡の一つに分類されています。と思いきや、ウィキペディアには次のように書かれています。「新約聖書に収められた書簡のうちパウロ書簡と伝統的にパウロに帰せられたヘブライ人への手紙を除いたものである。」この説によると、『ヘブライ人への手紙』は公同書簡から除外されています。混乱していますが、深入りは避けます。上記に書かれている「終わりの時代」とは、いわゆるキリスト教の終末という考え方です。今の時代のことで、神の最初の創造(旧創造)が清算される時が近いことを示しているそうです。この時代には、人々は利己主義、拝金主義に走り、天災が頻発する世の中になると言われています。仏教の末法の考え方と同じように思われます。【この本からの引用】また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。(12章16節)【上記の感想】『創世記』の25章以降に出てくるエサウとヤコブは、興味深い。当初、私は、どうみてもヤコブがずる賢く、エサウは正直でお人好しとしか思えなかった。半年前の日記でも、このことに触れました。今でこそ、本当に大切なものを生涯守り通すことを、『創世記』のこの部分は言いたかったのだと、理解しています。が、それでもやはり、今ひとつすっきしませんねえ(笑)。
2007/12/19
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『フィレモンへの手紙』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。(1章1節)【上記の感想】新約に収められているパウロ書簡(13冊)も、いよいよ最後になりました。正直なところ、飽きております(^。^ゞ「囚人パウロ」と引用部にあることから、この書は獄中書簡とも呼ばれているそうです。ところで、獄中とはどこかというと、これが明らかにはされていないようです。ウィキペディアによると、「ローマあるいはエフェソスにおいて獄中にあったパウロが、紀元60年頃に協力者フィレモンと二人の仲間(アフィアとアルキポ)にあてて記したものである」とのこと。つまり、ローマかエフェソの獄中で書かれたもののよう。【この本からの引用】それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あな たにもわたしにも役立つ者となっています。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。(8-12節)【上記の感想】逃亡奴隷・オネシモが回心したので、不利益な扱いをしないように、パウロが書いた箇所です。パウロの優しさが出ている箇所として、よく知られているようです。そこで思い出すのが、パウロの回心です。パウロにも回心体験があったがゆえに、オネシモのことも理解できたのかもしれませんね。さて、「パウロの回心」に触れた過去日記を調べてみました。すると、2006年6月18日の日記に書いていました。現時点で、聖書の通読に1年半以上の時間をかけているわけです。ようやく終点が見えてき、年内に通読を終了したいとの思いが強くなってきました。
2007/12/11
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『テトスへの手紙』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがありますように。(1章4節)【上記の感想】テトスという人物ですが、パウロにとっては信頼できる人物であったようです。新約に収められている他のパウロの手紙にも、テトスは登場します。たとえば、『ガラテヤの信徒への手紙』2章1節には、エルサレムにテトスを連れていったとの記述が見られます。【この本からの引用】あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。(1章5節)【上記の感想】手元の本によると、パウロがクレタに寄ったのは、ローマに護送された時です。従って、テトスはパウロと一緒に護送されていたのかと思いましたが、そうではなさそうです。護送中にクレタに残るというのは如何にも不自然ですし。そこで以前の伝道旅行でクレタに寄ったはずだと思い、3回の伝道旅行のルートを確認しました。が、3回の伝道旅行では、クレタに寄っていないようです。訳が分からなくなりましたが、妙なことに深入りせず、ここは、伝道旅行とは別に、クレタを訪ねる機会があったということにしておきましょう。
2007/12/11
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『テモテへの手紙2』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、彼らも真理に逆らっています。彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です。(3章8節)【上記の感想】上記で疑問に思ったのは、ヤンネとヤンブレです。こんな人物が聖書に登場しただろうかと。さっそく調べてみましたが、聖書には登場していないようです。これで私が忘れていたのではないとわかりました。ものの本によると、『ダマスコ文章』等ユダヤ教伝承では、モーセと奇跡を競い合ったエジプトの魔術師の名。という説明でした。【この本からの引用】愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。(1章2節)【上記の感想】テモテという人物を、ちょっと復習しておきます。過去日記では、こちらで触れていました。もう少し調べてみると、『フィリピの信徒への手紙』に次のように書かれていました。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」(2章20-21節)パウロがテモテに寄せる信頼感が、よくわかりますね。
2007/12/08
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『テモテへの手紙1』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。(2章15節)【上記の感想】『創世記』の3章16節に次のように書かれています。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。」エバが禁断の実を食べたことに対して、神が言った言葉です。私は、単に罰として産みの苦しみが大きくなったと解釈していましたが、パウロによると、子を産むことで救われるそうだ。なかなか解釈にはは難しい面があります。【この本からの引用】食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。(6章8-10節)【上記の感想】現在のことを言っているのかと思いきや、2000年前のことです。人間の行動というのは、2000年くらいの歳月では、変わらないものなのでしょう。先頃、新聞を読んでいると、戦後の日本では衣食を求めるのに苦労しており、まさに食べる物と着る物に不自由しないのが幸福である、という認識をほとんどの人々がもっていたと、書かれていました。しかし、衣食が足りると人間というものは、更に欲望を膨らませてしまうものらしい。まあ、私自身も変わらないわけですが。この辺が人間の人間たる所以かなと。。。
2007/12/08
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『テサロニケの信徒への手紙2』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。(2章3節)【上記の感想】「滅びの子」というのが気になり、グーグルで検索してみました。ヒット数2030件ですので、それなりの数ですね。パウロの考え方によると、再臨の前には「滅びの子」が出現するという。その滅びの子というのは、「我こそは神である!」と言う者のようだが、あっちこっちにいるような気がするが。まあ、しかし神学的なことは難しすぎ。【この本からの引用】実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。(3章10節)【上記の感想】これ位わかりやすいと良いのですが(^.^)実は、私たちが聞いたり言ったりしている「働かざるもの食うべからず」という言葉は、ここから来ているのですね~何も、お金を稼ぐことだけが働くことではないはず。誰にでも、自分に出来ることがあるはず。それを勤勉に続けたいものです。何やら、説教調ですな(笑)。
2007/12/07
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『テサロニケの信徒への手紙1』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、(4章16節)【上記の感想】パウロが信じていた考え方に、再臨というものがあります。その再臨とは一体何でしょうか。以下に、ウィキペディアより引用します。-----引用開始-----再臨(さいりん)とは、キリスト教神学の用語。復活し、天に昇ったとされるイエス・キリストが世界の終わり(ハルマゲドン/終末)の日に、キリスト教徒を天へ導き入れるため、また、世界を義をもってさばくために、再び地上に降りてくることである(『ヨハネの黙示録』を参照のこと)。-----引用終了-----簡潔に書かれています。『ヨハネの黙示録』に詳しく書かれているようなので、それを一つの楽しみにして聖書を読んでいきましょう。【この本からの引用】そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように務めなさい。(4章11節)【上記の感想】釣り好きの人々のバイブルと言われている「釣魚大全」の著者の言葉に、「静かなることを学べ( Study to be quiet.)」というのがあるそうです。私は釣りをしないし、「釣果大全」を読んだこともありません。が、このStudy to be quiet.というのは、聖書から引用した言葉だったのですね。引用した4章11節は、原文では以下のようになっているそうです。「And that ye study to be quiet, and to do your own business, and to work with your own hands as we commanded you;」
2007/12/07
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『コロサイの信徒への手紙』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。(3章11節)【上記の感想】スキタイ人が出てきましたね。ものの本によると、新約ではここだけに出る語です。ヘロドトス以来、ギリシア人にとって野蛮民族の最右翼であったようです。スキタイ人を更に調べると、次のような記述がネットにありました。-----引用開始-----古代にギリシャ文明を極東にまで伝えた者がいたのではないか?そしてそれは恐らく中央アジアで活躍していた遊牧騎馬民族のスキタイ人であったのだろう。スキタイ人が貿易を通じて中国にギリシャ文明を伝えた。日本神話も明らかにギリシャ神話の影響を受けているが、これは文字を持たないスキタイ人が口伝で東アジアにまでギリシャ神話を伝えたからだとされている。-----引用終了-----日本にギリシャ神話を伝えたのはスキタイ人との説です。なかなかロマンを感じさせます。【この本からの引用】わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。(4章10節)【上記の感想】ここでは、アリスタルコという人物について、調べてみました。聖書にはほとんど出ておらず、詳細は不明です。が、熱心な信徒であったと想像されます。ネットで数件見てみましたが、影でパウロを支えた素朴な人物であったようで、最後までパウロに従った人物のようです。
2007/11/21
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『フィリピの信徒への手紙』を読了したので、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(4章6-7節)【上記の感想】この聖句は、ネットの検索でけっこうヒットしました。おそらく『フィリピの信徒への手紙』で大切な箇所なのでしょう。わかりやすくて良い聖句ですね。「思い煩うのはやめなさい」という命令形。実際つまらないことに悩むのが、私たちですから。『マタイ伝』の6章に書かれていますが、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかといって、思い悩むなと。更に、明日のことまで思い悩むなと。大切なことにエネルギーを使うのが大切である、ということでしょうか。【この本からの引用】キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(2章6-11節)【上記の感想】ここは、「キリスト賛歌」と言われる聖句です。すっきりとまとめられております。全く関係ないのですが、エディット・ピアフの「愛の賛歌」は、こちらで拝見できます。
2007/11/14
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『エフェソの信徒への手紙』を読了したので、感想を書きます。まず、書かれた時期を見てみます。ウィキペディアによると、「伝承では紀元62年ごろ、ローマで獄中にあった使徒パウロが小アジアのエフェソ(エフェソス)のキリスト者共同体にあてて書いたもの」とのこと。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。(5章25節)【上記の感想】結婚式で使われる聖句は、5章22-24節だと思われます。上記は、その後の25節です。ちなみに、22-24節は、妻は夫に仕えなけらばならないと書かれています。「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫にも仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らはからだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである」という感じです。今の日本ではジェンダーの視点から問題視されているようですので、今でも結婚式で使われているかは知らず。そこで、引用箇所ですが、夫は妻を永遠に愛しましょう(^.^)【この本からの引用】あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(5章8節)【上記の感想】「光の子」を幼稚園や保育園や教会の名前しているのは、けっこう多いようです。クリスチャンでない者が聞いても、何となく好感のもてる言葉です。ある園の創設者の願いを読むと、「どの時代も明るい光の中で、元気に育ってほしく、大人になった時、「世の光」となって活躍してほしい」とのこと。実にわかりやすいです。思いを自分に向けると、残念ながら「世の光」には遠いですね。なかなか難しいものです。
2007/11/12
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『コリントの信徒への手紙2』を読了したので、感想を書きます。手紙2と言うからには手紙1がありますが、『コリントの信徒への手紙1』は1年以上も前に読みました。こちらが、手紙1の感想です。なお、こちらにも、コリントのことを少々書きました。のんびりとしたペースで読み進めている聖書ですが、何とか年内には通読を終えたいとの欲が出てきました。ともあれ、以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。(11章25節)【上記の感想】多くの迫害にも負けずに布教した姿が浮かび上がってきます。【この本からの引用】神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。(1章1節)【上記の感想】テモテという人物をウィキペディアで調べてみました。「テモテはパウロの第二回宣教旅行、第三回宣教旅行に同行し、パウロのよき協力者となった。テモテはパウロに同行するほか、マケドニアなど、パウロがすでに宣教活動を行った場所に派遣されて、指導に当たっている」と。要するに、テモテはパウロにとって、非常に大切な協力者であったようです。
2007/10/31
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『ヨハネによる福音書』を読了したので、感想を書いておきます。色々な説があるようですが、ヨハネは12使徒のうちの一人との説が、一般的であるようです。実際の著者は定かではありませんが、ヨハネを信奉した人物のようです。この説をとると、中々面白い点が見えてきます。まず、その点を書いてみましょう。【この本からの引用】二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。(20章4節)【上記の感想】上記の、「もう一人の弟子」はヨハネを指すようです。イエスの墓に向かう時に、ペトロとヨハネが同時に走って、先にヨハネが到着したと書かれています。妙な所にこだわりがあるものだと、思わず笑ってしまいます。【この本からの引用】イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子を見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(19章26-27節)【上記の感想】上記は、イエスが磔刑にされる直前の場面を書かれた箇所です。その際に居たのは、聖母マリア、ヨハネ、マグダラのマリアなどです。後に描かれた磔刑図にも、これらの人物が描かれていることが多いですね。以下に、グリューネヴァルト (1512-16)の磔刑図を載せておきます。
2007/10/30
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まず、ルカとはどういう人物かというと、パウロの宣教に付き添った人物と言われています。次に、ウィキペディアに共観福音書の共通部分の割合が書かれていました。興味深かったので、引用します。「マルコは7%がオリジナルであるが、93%は他の二つのいずれかと共通である。同じように見ていくとマタイは42%のオリジナルと58%の共通部分からなり、ルカは59%のオリジナル部分と41%の共通部分からなる。いいかえればマルコ福音書の14分の13、マルコ福音書の七分の四、ルカ福音書の五分の二が同じ言語で同じ出来事について語っているのである」と。聖書は長い間読み継がれているので、色々と研究されているものだと、改めて思った次第です。これによると、ルカ伝の6割近くはオリジナルだといいます。今回は、そのオリジナル部分から2箇所を引用し、感想を書いてみます。【この本からの引用】マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。(1章30~31節)【上記の感想】有名すぎるほど有名な箇所で、「受胎告知」と言われる箇所です。大天使ガブリエルが、マリアに言った言葉です。なお、受胎告知については、過去日記でも触れています。ダ・ヴィンチの作品を日本にいながらにして見る機会が最近あったのですが、残念ながら、私は見ませんでした。これが、ダ・ヴィンチが描いた「受胎告知」です。左がガブリエルで、右がマリアです。【この本からの引用】こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊にならない者はこのとおりだ。(12章19~20節)【上記の感想】これは、「愚かな金持ち」のたとえです。これは私などには、けっこう耳が痛い話です。わかりやすく説明すると、以下のようになると思われます。幸運にも一財産を築くことができ、これからは好きなことをやって暮らそうと、「愚かな金持ち」が考えました。しかし、まさにそう思った瞬間、神に命を取り上げられてしまう。。。要するに、「神は、怠惰な人間をよく思わない。また、謙虚な気持ちや感謝の気持ちを持たない人間もよく思わない」と、ひろさちやさんの著書には書かれています。さらに、教会のHPを見ると、次のように書かれていました。「イエス様が述べていることは、人間というものは、与え主よりも与えられた物の方を信頼する傾向がある、ということです。それでは、わたしたちは、この古来の物への固執という熱狂をどのように克服するのでしょうか。与えることを学ぶことによって、するのです。そして、わたしたちの社会のクリスチャンは、ふつうお金を与えることによって学ぶのです。」今更ですが、さすがに聖書は視点が違います!
2007/10/19
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「マルコによる福音書」は、4つの福音書の中で最も古い福音書と言われています。マルコという人物は、ものの本によると、イエスに選ばれた12使徒の一人であるペトロに宣教の旅に同行した人物とのこと。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。(10章25節)【上記の感想】有名な聖句です。私は投資をメインテーマにしたブログを書いていますが、とても神の国に入れそうもありません(笑)。そして、らくだが針の穴という例えが、中々面白い。しかし、らくだはわかりますが針というのは、一体何なのでしょうか。私たちがイメージする針というのは、裁縫針ですが、聖書が書かれた頃の針というのは、今ほど小さくは作れなかったと思います。針の穴というのも、今の針よりは大きなものだったと思います。と言っても、らくだが通れるほどではないのは、言うまでもありません。そこで、2000年前の中東の針を調べてみましたが、残念ながら適当なものが見当たりませんでした。とりあえずは、私たちが知っている裁縫針をイメージしておきましょう。【この本からの引用】エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。(9章4節)【上記の感想】これは、イエス・キリストの変容の場面を書かれたものです。エリヤという人物は、どのような人物であったのでしょうか。私には、モーセと比較すると存在感が非常にうすい人物で、過去日記にも書いた記憶がありません。試みに、エリヤが登場する『列王記 上』の読後感を書いた過去日記を見てみました。が、やはりエリヤには触れていません。しかし、ものの本には、モーセ以後最大の預言者とみなされたと書かれていますので、少々調べておきます。以下に、ウィキペディアより引用します。「はじめギレアデのテシベ(ティシュベ)に住み、アハブがイスラエル王国の王であったとき、預言活動を開始した(列上17:1-2)。エリヤがサマリヤ地方を去ってヨルダン東岸のケリテ川のほとりに三年すんだ間、王国には雨がなく、飢饉が激しかった(列上18:1-2)。エリヤはイスラエルに戻ると、アハブに求めて「バアルの預言者450人、アシラの預言者4百人、イゼベルの食卓で食事する者たち」(列上18:19)との競争を行った。バアルの預言者たちとエリヤはカルメル山に祭壇を築いて、それぞれの神に祈ったところ、エリヤのみが奇跡をなしたので、エリヤは競争者を捕えて殺した(列上18:20-39)。」エリヤ最大の見せ場は、やはりこの場面でしょうか。その後、エリヤはイゼベルの怒りに恐れをなし、逃げたりしていますので、どこが偉大なのかわからなくなります(笑)。まあ、これは私の読み方が浅いせいかもしれませんが。
2007/09/29
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旧約聖書の通読を終了したため、本日から新約聖書に入ります。「マタイによる福音書」は4冊の福音書のうちの一つです。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。(27章5節)【上記の感想】イスカリオテのユダは、興味を抱かせる人物です。言うまでもないことですが、イエスを裏切った人物として、色々と考えさせられる人物です。私の過去日記でも数回にわたってユダのことを書きました。例えば、こちらの日記など。しかし、この過去日記は1年以上も前のものですか。早いものです。今回改めてユダのことを採りあげたのは、自殺について調べてみようと思ったからです。記録に残っている最古の自殺が、もしかしたらこのユダの自殺ではなかろうか。そんな思いから検索してみましたが、全くの見当違いでした。以下に、ウィキペディアより引用します。「自殺の歴史はとても古く、紀元前の壁画などにもその絵や記述が残されているほどである。中国では、紀元前1100年ごろ殷王朝最後の帝である帝辛(紂王)が周の武王に敗れ、焼身自殺したと伝えられている。また、古代ギリシャの詩人サッポーは入水により自殺したという説があり、他にもエジプトプトレマイオス朝最後の女王であるクレオパトラ7世はアクティウムの海戦に敗北した際に、オクタウィアヌスに屈することを拒み、コブラに自分の体を噛ませて自殺したと伝えられている。」【この本からの引用】蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。(10章16節)【上記の感想】聖書には様々な動物が登場します。蛇が賢い動物として書かれているのは、創世記3章を見ればわかると思います。ところで、鳩はどこに登場するのでしょうか?少し考えましたが、思い出しました。創世記7章のノアの箱舟のところに登場していました。ただ、この場面では、「鳩が素直である」と断定できるのでしょうか。良くわからないので、こちらで調べてみました。なるほど。烏と比較した場合の鳩の素直さが際立っていることが、何となくわかりました。聖書の読み方は、中々奥が深いものだと思いました。
2007/09/27
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マラキ書を読了したので、感想を書いておきます。マラキ書は、ゼカリヤ書などと同様に、預言書(十二小預言書)に分類されています。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】十分の一の献げ物をすべて倉に運びわたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。(3章10節)【上記の感想】「十一献金」という言葉があります。簡単に言うと、収入の十分の一を献金するというものです。私はクリスチャンではないので、その辺りのことはわかりません。が、中々の金額なので、実際に十分の一の献金を長い間続けている方というのは、ごく少数のように思われます。最も、ネットで色々なHPを見て判断したので、実際のことはわかりません。【この本からの引用】わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのためホレブで掟と定めを命じておいた。(3章22節)【上記の感想】次から次へと物事を忘れます。「ホレブ」を忘れたので復習します。『出エジプト記』3章のモーセの召命に書かれているのが、有名です。要は、モーセが召命を受けたのが、このホレブです。モーセが見た不思議な光景というのが、柴が燃えているのに燃え尽きないというもの。本日は、深入りは避けます。何故かというと、自分の40数年に亘る勘違いを書くためです。その勘違いとは、芝と柴は同じものだと思っていたことです。どちらも地上数センチの世界に広く分布している公園にあるものと、思っていました。つまり、昔話の桃太郎の冒頭の、「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯」という部分も、おじいさんは芝刈りに行っていたのだと思い続けていたわけです。それで、柴とは何かというと、燃料にする小枝のことのようです。しかし、おじいさんが芝刈りに行くというのを、不思議に思わなかったのも、今にして思うと滑稽です。
2007/09/16
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ゼカリヤ書を読了したので、感想を書いておきます。ゼカリヤ書は、ハガイ書などと同様に、預言書(十二小預言書)に分類されています。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】娘シオンよ、大いに踊れ。娘イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗ってくる雌ろばの子であるろばに乗って。(9章9節)【上記の感想】ものの本によると、上記は「エルサレムへのキリストの勝利の入城」をあらわしているようです。と言われても、私にはわかるはずもない。そこで、「ろば」を中心に調べてみました。すると、イエスがエルサレムに入ってくるとき、戦いに用いた馬でなく、平和のシンボル、ろばに乗ってきたといわれているそうです。要は、ろばは平和のシンボルということのようです。【この本からの引用】剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえわたしの同僚であった男に立ち向かえと万軍の主は言われる。 羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。 わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。(13章7節)【上記の感想】ここは結構重要な箇所のようです。新約のマタイ伝の26章31節に、この部分が引用されているからです。通説では、「羊飼い」はイエスのこと、「羊の群れ」はイエスの弟子たちのこと。なるほど、これならば、意味が良くわかります。このように、新約では旧約を引用することがあるわけで、そこにも聖書を通読する意味があるわけですね。しかし、「十二小預言書」には、飽きてきました(笑)。が、残すところの「マラキ書」を読めば、「十二小預言書」そして旧約聖書の通読が完了になります。
2007/09/04
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ハガイ書を読了したので、感想を書いておきます。ハガイ書は、ゼファニヤ書などと同様に、預言書(十二小預言書)に分類されています。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】わたしは、お前たちをその手の働きの実もろとも黒穂病と赤さび病と雹で撃ったがお前たちのうちだれひとりわたしに帰らなかった、と主はいわれる。(2章17節)【上記の感想】黒穂病と赤さび病は、ともに農作物がかかる病気のようです。グーグルで検索すると、前者のヒット数が50900件、後者が19200件でした。けっこうポピュラーな病気のようですが、都市に住む私のような者は、農作物の病気には、極めて鈍感です。お金さえあれば食べ物を買うことができる生活が当然と思っているわけで、何時の日か食糧危機を思い知らされることがあるかもしれませんね。【この本からの引用】今、お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。(1章4節)【上記の感想】上記のように、主は神殿再建を呼びかけられたわけですが、私たちの生活も反省すべき点が多いですね。ふと思うのは墓参りのことですが、私は年に2回、先祖の墓参りをしています。これはこれで良しとしてしまいますが、気持ちのどこかに何時でも墓参りは可能というものがあり、予定を延ばし延ばしにすることもあり、ちょっと気になりました。
2007/08/30
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ゼファニヤ書を読了したので、感想を書いておきます。ゼファニヤ書は、ハバクク書などと同様に、預言書(十二小預言書)に分類されています。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子である。(1章1節)【上記の感想】聖書の一つのパターンですが、退屈な系図が冒頭に登場します。が、ゼファニヤはヨシヤ王と同時代の人物ということです。ところで、ヨシヤ王とはいかなる人物であったのでしょう。『列王記下』23章25節によると、ヨシヤは、「全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった」と書かれています。要するに、絶賛された王でした。ところで『列王記下』は既に一読しましたが、読んだ時期を確認してみました。すると、こちらの日記に感想文を書いていました。即ち、11ヶ月前に遡るわけで、聖書の通読が超スローペースで進行していることが、良くわかりました(笑)。この時の感想文でも、ヨシヤ王のことに触れており、やはりヨシヤ王というのは、聖書の中では非常に秀でた王であったと思われます。【この本からの引用】わたしはモアブの嘲りとアンモン人の、ののしりを聞いた。彼らはわが民を嘲り自分の領土について驕り高ぶった。(2章8節)【上記の感想】モアブ人とアンモン人。聖書では、いわゆる「悪い人たち」として書かれています。その理由は良くわかりません。ここでは、「悪い人たち」として書かれている部分を、『創世記』と『申命記』で見てみます。まず、『創世記』の19章にモアブ人とアンモン人の誕生秘話が書かれています。が、これがすさまじく、ロトとその二人の娘との間に生まれたのが、モアブ人とアンモン人の先祖とだとか。一言すれば、近親相姦で誕生したと。次に、『申命記』の23章には、モアブ人とアンモン人は、主の会衆に加わるこそとができない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることができない。まあ、そのように書かれています。
2007/08/16
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ハバクク書を読了したので、感想を書いておきます。ハバクク書は、ナホム書などと同様に、預言書(十二小預言書)に分類されています。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め自分のものでない領土を占領する。(1章6節)【上記の感想】この1節は、今までに起こってきたことで、今後も避けられないことでしょうか。まずは、そんなことを思いました。それはともかく、ここではカルデア人について、少々学びます。まず、『ハバクク書』が書かれたのは何時頃かというと、BC609~598年という説があります。BC598年は、エルサレムがバビロニアに攻略された時期です。そのバビロニアを興した種族がカルデア人のようです。カルデア人は他の書でも書かれており、一例を挙げると、イザヤ書の47章です。ここでは、滅亡の預言という形で書かれています。なお、イザヤ書を読んだのは、およそ5ヶ月前になります。なかなか聖書の通読は進みませんね。【この本からの引用】わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし聖なる高台を歩ませられる。(3章19節)【上記の感想】ここで気になったのは、鹿です。旧約聖書では、鹿が時々登場しますが、雌鹿と雄鹿を使い分けているようです。もちろん、聖書の性格上、厳密に使い分けているわけではないでしょうが。例えば、申命記14章では、食べても良い動物として雄鹿と子鹿は定められていますが、雌鹿は定められていません。また、ヨブ記39章にも、雌鹿が登場します。更に、箴言5章にも、雌鹿が登場します。いずれにせよ、雌鹿は良いイメージで書かれており、この辺の微妙さが、なかなか面白いです。これは、今後の研究課題にしておきましょう。
2007/08/08
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ナホム書を読了したので、感想を書いておきます。ナホム書は、ミカ書などと同様に、預言書(十二小預言書)に分類されています。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】ニネベは、建てられたときから水を集める池のようであった。しかし、水は流れ出して「止まれ、止まれ」と言ってもだれも振り返らない。(2章9節)【上記の感想】詩的な表現ゆえに、引用してみました。ところで、このニネベですが、実は私はニネベを良く知りません。そこで調べてみると、アッシリアの首都でした。詳述すると、アッシリアはBC612年に陥落しましたが、その時の首都でした。引用部は、そのニネベ陥落時の様子を表現されたものです。ところで、ニネベというと、過去日記でも触れています。こちらの日記ですが、その時はニネベというと、大きな異教の地という認識しかありませんでした。更に、その時のヨナ書の記述によると、ニネベの人々が悔い改めることにより、滅びることを免れたと書かれています。それが、今回読了したナホム書にはニネベ陥落の様子が、えげつないほどに詳述されています。この辺りの支離滅裂的な構成が、また聖書の面白さかもしれません。【この本からの引用】勇士の盾は赤く戦士は緋色の服をまとう。戦の備えをする日に戦車の鋼鉄は火のように輝き槍は揺れる。(2章4節)【上記の感想】「勇士の盾は赤く 戦士は緋色の服をまとう」というフレーズは、対句というのでしょうか。学生時代に習ったような気がしますが、とても詩的です。しかし、赤と緋色が何を指すのかというと、人の血で染めているということらしい。平和な国、平和な時代を生きる私たちには、想像が難しいことです。ここではもう一つ、「戦車」が気になりました。聖書に戦車が登場する箇所を捜すと、古いところでは、出エジプト記の14章6節に発見しました。引用すると、「ファラオは戦車に馬につなぎ、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた」意外と古い時代から戦車というのはあったのだなと思いましたが、ちょっと考えれば戦争は昔からあるわけで、全く意外なことではないことに気がつきました。
2007/07/29
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それに宝石を四列に並べて付ける。第一列 ルビー トパーズ エメラルド 第二列 ざくろ石 サファイア ジャスパー 第三列 オパール めのう 紫水晶 第四列 藍玉 ラピス・ラズリ 碧玉これらの並べたものを金で縁取りする。これらの宝石はイスラエルの子らの名を表して十二個あり、それぞれの宝石には、十二部族に従ってそれぞれの名が印章に彫るように彫りつけられている。【上記の感想】上記は、「出エジプト記」28章より引用。ラピス・ラズリが何かわからずに、こちらの日記を書くときに、調べたものだった。今日になり、誕生石に起源が聖書にあるという説を発見した。ウィキペディアによると、「誕生石の起源には占星術や地域説などの諸説があるが、明確に文書として残っているものにそれぞれの聖書がある」と。
2007/07/26
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ミカ書を読了したので、感想を書いておきます。ミカ書は、ヨナ書などと同様に、預言書(十二小預言書)に分類されています。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】彼らは蛇のように地を這うもののように塵をなめ身を震わせながら砦を出て我らの神、主の御前におののきあなたを畏れ敬うであろう。(7章17節)【上記の感想】「創世記」に蛇が登場します。よく知られていることですが、エバに善悪の知識の木を食べても死ぬことはない、と教えたのが、蛇です。そのために、蛇は生涯這いまわり塵を食らうものになったと。それまでは、蛇は最も賢い動物であったと。「創世記」で面白いのは、女と蛇との間に敵対関係を作ったのは、神であること。つまり、女性が蛇を嫌いなのは普通で、蛇が好きな方は変わり者になってしまう。別に、男性でも蛇が好きだという方は少数だと思いますが、いずれにせよ、蛇というのは、聖書の世界では、一種独特な意味をもつ動物らしい。【この本からの引用】主は多くの民の争いを裁きはるか遠くまでも、強い国を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。(4章3節)【上記の感想】これは中々良い聖句ですね。世界のすべての兵器がなくなり、軍需産業が消滅する日。全世界の人々が飢えることのない日。そういう日が来ると、「ミカ書」には書かれています。
2007/07/23
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主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。(創世記13章14~18)【上記の感想】上記は、日本聖書協会の「今日の聖句」を引用。上記の、マムレが気になったので、調べておいた。何のことはない。創世記14章13節に書かれていた。マムレとは人名である。
2007/07/15
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その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。 【上記の感想】上記は、新共同訳聖書『創世記』2章12節を引用。ここを引用した理由は、「ラピス・ラズリ」の意味がわからなかったため。グーグルで検索すると、86000件位あり、自分の無知を知らされた(^_^;)12月の誕生石にもなっているとか。ウィキペディアの記述は次のとおり。-----引用開始-----ラピスラズリは、深い青色~藍色の宝石で、和名は瑠璃(るり)。エジプト、シュメール、バビロニア等の古代から、宝石として、また顔料ウルトラマリンの原料として珍重されてきた。日本ではトルコ石と共に12月の誕生石とされる。-----引用終了-----
2007/07/11
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「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」【上記の感想】上記は、日本聖書協会の「今日の聖句」より引用。「助け合い」と題されているが、まさにそのものズバリで、わかりやすい。以前、この創世記の2章を読んだときは、「助け合い」について書かれた部分だとは気が付かなかった。男がいて、生き物がつくられ、男のあばら骨から女がつくられたという流れで読み、面白いことが書かれているなと思ったものだ。この流れが興味をひいたので、その直前の聖句、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」が、目に入らなかったのかも。
2007/07/09
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ヨナ書を読了したので、感想を書いておきます。ヨナ書は、オバデヤ書などと同様に、預言書(十二小預言書)に分類されています。なお、ヨナ書については、過去日記でも一度ふれました。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】主の言葉が再びヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。(3章より)【上記の感想】上記は、2月28日の日記でも引用した部分です。もう一度、挙げてみました。まず、ウィキペディアを引用します。-----引用開始-----イスラエルの神である「唯一の神」の慈悲が、イスラエルの民(ユダヤ人)のみならず、他の国の人々(異邦人)におよぶ事を示す。 同時に、異邦人(非ユダヤ人:ニネヴェの人々)の方が神の意思に従っており、むしろ、ヨナに代表されるユダヤ人の方が神の意思を理解できていない事を示している(この考えは後にパウロに引き継がれ、(後のキリスト教としての)神の意思は、ユダヤ人には受け入れられず、むしろ、異邦人に受け入れられるという認識となり、キリスト教はその様に広まって行った)。この様に、イスラエルの民の選民思想・特権意識を否定しており、当時のユダヤ人には驚くべき内容であった。この点において旧約聖書文書の中で異色を放っている。-----引用終了-----非常にわかりやすい説明であると思います。特に、神の意思はユダヤ人には受け入れられず、異邦人に受け入れられるという考えが広まり、それがキリスト教が世界に広まっていった理由という指摘は興味深い。【この本からの引用】すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。(4章6節)【上記の感想】「とうごまの木」がわからず、早速調べてみました。すると、ひまし油を採取する木であることがわかりました。現在は、せっけんなどに含まれているようです。かつては、下剤として家庭に常備されていたようです。余談ながら、この「とうごまの木」ですが、文語訳聖書ではひさご(=ひょうたん)になっているようです。
2007/06/22
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オバデヤ書を読了したので、感想を書いておきます。オバデヤ書は、アモス書などと同様に、預言書(十二小預言書)に分類されています。また、旧約聖書の中では最も短く、1章21節のみからなります。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】いかに、エサウの富は探し出され宝は奪い取られることか。(1章6節)【上記の感想】エサウが登場しましたか。創世記に兄弟(エサウとヤコブ)のことが書かれています。ざっと読むと、どうも兄エサウをだましたのが弟ヤコブというように、読み取れます。もっと言うと、兄弟の母であるリベカとヤコブが協力してエサウを追い出した。まあそんな感じに思われます。最も、聖書を深く読んでいると、別な見方があるのかもしれません。そこで、ちょっと調べてみました。すると次のようなことが書かれており、聖書の読み方は奥が深いものだと思った次第です。それは、エサウは一時的な空腹に負けて、重要な長子の特権をヤコブに渡してしまったことがいけないと。今とても欲しいものがあるからといって、本当にあなただけに託されているはずの大事な祝福を、その欲しいものと交換しないようにという注意が書かれているのだと。『創世記』の25章34節を読むと、「エサウは、長子の権利を軽んじた」と書かれていました。やはり、私の読み方は甘かったようです。【この本からの引用】ヤコブの家は火となりヨセフの家は炎となりエサウの家はわらとなる。火と炎はわらに燃え移り、これを焼き尽くす。エサウの家には、生き残る者がいなくなる(1章18節)【上記の感想】ヤコブとエサウの確執を、少々復習してみます。『創世記』によると、再会時にはすっかり仲が良くなったと思いきや、その後の色々とあったようです。例えば、長い歳月が流れた後のことですが、『民数記』によると、エサウの子孫は領土をヤコブの子孫に領土を通過させること許さず、その結果、ヤコブの子孫は迂回するはめになったりしています。その他にも色々とあったと思いますが、キリがなくなるので、今回はこれまでにしておきます。
2007/06/07
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その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。わたしは、もはや憤っていない。茨とおどろをもって戦いを挑む者があればわたしは進み出て、彼らを焼き尽くす。そうではなく、わたしを砦と頼む者はわたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。時が来れば、ヤコブは根を下ろしイスラエルは芽を出し、花を咲かせ地上をその実りで満たす。(イザヤ書27章 2~ 6)【上記の感想】上記は、日本聖書協会の新共同訳聖書より引用。「茨とおどろ」と書かれているが、この「おどろ」の意味がわからず。調べると、おどろとは、「草木・いばらなどの乱れ茂っていること。また、その場所やそのさま。やぶ」(ヤフー辞書より)つまり、茨と似通っているものらしい。なお、新古今集にも、この「おどろ」を使った和歌があったので、載せておく。 ---奥山のおどろが下もふみ分けて道ある世ぞと人に知らせむ---
2007/06/05
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アモス書を読了したので、感想を書いておきます。アモス書は、ヨエル書と同様に、預言書(十二小預言書)に分類されています。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである。(1章1節)【上記の感想】聖書を読んでいると、色々な名前が出てきます。以前に出てきた名前であるとわかっていても、どういう人物であったかを、すっかり忘れてしまっている。こういうケースが、多々あります。「ユダの王ウジヤ」もそうで、すっかり忘れております。そこで、復習しておきます。『歴代誌 下』の26章に書かれていますが、それによると、16歳で王になり、52年間王位にありました。王位にあった最初のうちは良かったのですが、次第に思い上がっていき、堕落していまい、最後は皮膚病を患いながら亡くなりました。人生うまくいっていると、次第に傲慢になる。私達と同じく、普通の人間の姿と言うべきでしょうか。【この本からの引用】かつて、神がソドムとゴモラを覆したようにわたしはお前たちを覆した。お前たちは炎の中から取り出された燃えさしのようになった。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる。(4章11節)【上記の感想】ソドムとゴモラについても、けっこう忘れているので、復習しておきます。『創世記』19章を再読してみました。ソドムとゴモラには、主により硫黄の火が降ってきたのですが、その原因は性風俗の乱れのようです。1854年作の、ジョン・マーティンによる油彩画「ソドムとゴモラ」(Sodom and Gomorrah)が、素晴らしい作品です。画像を載せておきます。
2007/05/30
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さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 (ヨハネによる福音書12章20~26)【上記の感想】上記は、日本聖書協会の「今日の聖句」を引用。ここでは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」が人口に膾炙している。イエス自身の将来の受難とその復活語のキリスト教の発展を述べられた言葉だ。ところで、この聖句を文語体聖書では、次のように書かれているようだ。「ただ一粒の麦なれど、大地にて芽を吹きたくさんの豊穣をもたらせり」ずいぶんと詩的になるが、ここが文語体聖書の良さなのだろう。
2007/05/24
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ヨエル書を読了したので、感想を書いてみます。ヨエル書は、前回のホセア書と同様に、預言書(十二小預言書)に分類されています。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】かみ食らういなごの残したものを/移住するいなごが食らい/移住するいなごの残したものを/若いいなごが食らい/若いいなごの残したものを/食い荒らすいなごが食らった。(1章4節)【上記の感想】いなごの連鎖という感じです。私が読んでいるのは新共同訳ですが、ここを他のある聖書には、次のように書かれています。「かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごの残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った」いずれにせよ、いなごの連鎖です。このいなごは、アッシリアやバビロニアを差すとの説があるようですが、深入りは止めて、いなごを調べてみます。『出エジプト記』の10章に書かれていますが、いなごの大群とは私達の想像を絶する規模であるようです。とりあえず、引用してみますが、「いなごが地の面をすべて覆ったので、地は暗くなった。いなごは地のあらゆる草、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くしたので、木であれ、野の草であれ、エジプト全土のどこにも緑のものは何一つ残らなかった」と。あるHPによると、いなごは、何らかの理由で食べ物が急減すると攻撃型に変態して大群で長距離を飛行し農作物を荒らし回るとのこと。そして、普段は食べないような葉っぱまでたべるようになると、書かれています。いずれにせよ、恐そうです。
2007/05/17
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ホセア書を読了したので、感想を書いてみます。ホセア書は、ユダヤ教では後の預言者に分類され、キリスト教では預言書(十二小預言書)に分類されています。「小預言書」に分類されているわけで、やはり地味な感じは否めませんね。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】告発せよ、お前たちの母を告発せよ。彼女はもはやわたしの妻ではなくわたしは彼女の夫ではない。彼女の顔から淫行を乳房の間から姦淫を取り除かせよ。(2章4節)【上記の感想】間違いなく聖書の記述です。神とイスラエルの関係が婚姻関係に喩えられているわけで、「彼女」とは「イスラエル」のことを指します。旧約の神は「嫉妬の神」とか言われたりしていると思いますが、こういう箇所を読むと、むべなるかなという感じです。【この本からの引用】エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求めあるいは、アッシリアに頼って行く。(7章11節)【上記の感想】実は、エフライムが何かということを、すっかり忘れていました。私の聖書の読み方は、ダラダラとしたマイペースなので、以前に読んだところは、どんどんと忘れてしまいます。そこで復習です。エフライムは、ヨセフの息子です。創世記の48章に詳しく書かれています。もともとは人物名であったのですね。【この本からの引用】それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ石垣で遮り道を見いだせないようにする。(2章8節)【上記の感想】実は、私は「茨」の意味がよくわかりません。そこで手元の辞書を見ると、茨とは「とげのある低木」とのこと。なるほど、茨の道という言葉が険しい道を意味するのも、最もです。茨で思い出すのは、イエスが十字架にかけられる前に、編んだ茨の冠をかぶせられたことです。これが語源になっている言葉に、「茨を負う」というのがあります。この意味は、「人の罪を一身に背負うこと、また、人の苦しみを自分の苦しみとして生きること」です。ちょっと、「茨」の勉強をしてみました。
2007/05/12
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そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。(マタイによる福音書19章13~15)【上記の感想】上記は、日本聖書協会の「今日の聖句」より引用。こどもの日にちなんだ聖句である。子供たちのことを「このような者たち」と書かれているが、マタイ伝ではここがわかりにくい。そこでマルコ伝を見ると、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と。こどもの日にちなみ、日経新聞の記事を引用しておく。現時点では少子化が進展している状況に変化はないようだ。-----引用開始-----総務省が「こどもの日」にちなんで4日発表した推計人口(今年4月1日時点)によると、15歳未満の子どもの数は前年より14万人少ない1738万人となった。子どもの人口は26年連続の減少で、統計上確認できる1920年以降の最低記録を更新した。総人口に占める割合は前年を0.1ポイント下回る13.6%。こちらも33年連続で低下し、少子化の進展が改めて浮き彫りになった。 男女別では男子が891万人、女子が847万人。3歳ごとの年齢層別では中学生の12―14歳が362万人と最も多く、最少のゼロ―2歳は323万人。年齢が低くなるほど少なくなっている。 都道府県ごとの子どもの割合(昨年10月1日時点)は、沖縄が18.4%と最も高く、滋賀(15.3%)、佐賀(14.9%)と続いた。最も低かったのは東京の11.6%で秋田(12.1%)、北海道(12.6%)の順。 子どもの割合は東京、京都で上昇、神奈川、愛知、大阪では横ばいだった。その他42道県で前年を下回っており、地方での少子化傾向が目立っている。-----引用終了-----
2007/05/05
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ダニエル書を読了したので、感想を書いてみます。手元の本によると、ダニエル書はイザヤ、エレミヤ、エゼキエルとともに、大預言書の一つに分類されています。著わされたののは、紀元前570年頃とのこと。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、書きます。【この本からの引用】王はたいそう喜んで、ダニエルを洞窟から引き出すように命じた。ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである。(6章24節)【上記の感想】ここは、ダニエル書では有名な箇所です。ダニエルがライオンの洞窟に投げ込まれたが、まったくの無傷であったといいます。その理由が、「神を信頼していたからである」という明確さです。中世フランスの典礼劇の一つに、ダニエル劇というものがあるそうですが、このダニエル劇でも、ライオンの洞窟に投げ込まれた箇所を題材にしているようです。ウィキペディアによると、典礼劇は、中世の10世紀から14世紀にかけ、フランスを中心にキリスト教カトリック教会の典礼の中で行われた宗教的な音楽劇です。これが、17世紀のオラトリオへと展開していったと考えられていると。【この本からの引用】王は大声をあげ、祈祷師、賢者、星占い師などを連れて来させ、これらバビロンの知者にこう言った。「この字を読み、解釈をしてくれる者には、紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけて、王国を治める者のうちの第三の位を与えよう。」(5章7節)【上記の感想】ここでは、「紫の衣」の紫について、書いてみます。紫とは色の中の一つですが、この色は中々価値ある色のようです。聖書を読み進めるうちに気がついたのですが、その理由がわからず。そこで、ウィキペディアを引用します。-----引用開始-----植物ムラサキの根(紫根)を染料にしたことが紫の名の由来。栽培が困難だったため珍重され、古代中国(漢代以降 - 時代が下ると黄色に変った)、ローマ帝国、律令時代の日本などでは、紫は高位を表す色とされた。一般に、紫は「優雅」や「高貴」を表す事が多い。-----引用終了-----要するに、紫色を採りだすのが困難で、希少価値があったということです。目に触れる機会の少ない色であったわけで、鮮やかな色として人々を魅惑していた歴史があったようです。そこで現在の日本の褒章ですが、紫色の褒章、即ち、「紫綬褒章」があります。紫綬褒章は、「学術芸術上の発明改良創作に関し事績著明なる者」に授与される褒章ですが、活動歴の長いタレントやオリンピックのメダリストに授与されることが多いようです。日本でも紫色が価値ある色として扱われていた歴史があり、その名残の一つがこの紫の褒章かな、と思ったりしました。
2007/04/30
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黙示(もくし、アポカリプス)は、初期のユダヤ教およびキリスト教において、神が選ばれた預言者に与えたとする「秘密の暴露」、またそれを記録したもの。黙示を記録した書を黙示文学(もくしぶんがく)という。黙示文学はユダヤ教・キリスト教・イスラム教の伝統において極めて重要であり、死者の復活、最後の審判、天国と地獄などの教義は黙示文学のなかで与えられている。(ウィキペディアより)【上記の感想】黙示文学という言葉を聞くが、その意味がよくわかっていなかった。よって、調べてみた。「神が選ばれた預言者に与えた」というのが、キーワードか。
2007/04/30
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