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日本は、あのファニーメイとかフレディマックといった米政府機関債権を、この一年で700億ドル=なんと6兆円も購入している。米国財務省の統計によると、日本はこれらクズ債券を昨年11月以降、13ヶ月連続の買い越しです。しかもここ数ヶ月は中国の大量売却に買い向かう形で金額が急増し、10月は120億ドル、11月は80億ドルの大盤振る舞い。リーマンショック以降、こうした債券を民間金融機関が買うことは有り得ませんから、郵貯のカネが振り向けられているのでしょう。ちなみに、日本の2010年の「米国債+政府機関債」買越額は、11月までの累計で1900億ドルで、巨額の為替介入が実施された2004年の2100億ドルを抜いて過去最高となることが確実です。これに対して、中国の買越額は190億ドルに留まり、昨年の1000億ドルの1/5程度と、実に800億ドルもの減少です。管総理、これを国民にどう説明するのでしょう!?以上は、頂門の一針より。http://www.melma.com/backnumber_108241_5092532/
2011.01.31
ひょっこりひょうたん島、辻本ジュサブローの人形で「南総里見八犬伝」。 毎日、毎日、食い入るように見たものだ。 そう、ぼくたちはその世界で生きていた。 あれはテレビの1番組であったけれど、あれは空想ではなく現実世界だったのだ。 今の生活は、同じことの繰り返し。。。 でも、同じことの繰り返しは、他の誰でもなく、自分が選択しただけのこと。 本当は、昔も今も、ひょっこりひょうたん島に僕たちは生きている。 毎日、毎日、本当は事件がいっぱい。冒険がいっぱい。 恋愛も、友情もいっぱいの毎日を生きているのだ。 そう思う。事実は小説よりも奇なりだ。 怒涛の人生は、現在進行形。 ひょっこりひょうたん島の誰になるかは、自分が決める。記:とらのこども(mixiより転載)
2011.01.30
大阪市内には、今でも水上バスや、渡し舟があります。10箇所くらいあって、渡し舟は無料です。わりに有名なのは、日本一低い山の天保山の近くにある天保山の渡し舟です。http://train.whoa.jp/osaka/usj/index.htmhttp://oshiete.goo.ne.jp/qa/2434693.html渡し舟は“橋” 橋が架けられるべきところの代わりに渡し舟があるので、舟は橋と見なされてて運賃は無料。というわけで、渡し舟は”橋”なので、渡し舟の管轄は大阪市建設局の管轄みたいです。 通勤時間帯は10分おき、昼間は30~40分の割合で運行。 水上交通が盛ん 水都の名のごとく、市内を縦横無尽に川や堀が走っているので、水上バス、水上タクシーなど水上交通が身近な交通手段になっている。 船着き場は15ほど。府、市、民間がいろいろなサービスを打ち出している。 それと大阪では、橋の側面にも橋名を書いています。江戸時代から、大阪の橋には川の舟からもわかるように、橋の側面にも橋名を書く約束になっているんだそうです。 香港のスターフェリーみたく、USJから、天保山観光などでは乗船するといいのでは?冬はともかく、夏場は気持ちいいだろうと思います。なんてったって、タダですから!!記:とらのこども参考:http://tetsuwanco.exblog.jp/14412018/当初民間によって営まれていた渡し船は、明治24年に大阪府が「渡船営業規則」を定め「監督取締り」を行うようになり、明治40年には安治川、尻無川及び淀川筋の29渡船場については市営事業として市が管理することになったそうな。大正9年4月、旧道路法の施行により渡船は無料となり、昭和7年4月以降はそれまでの請負制を改め、ほとんどが市の直営方式になりました。そして昭和10年頃には渡船場31か所、保有船舶数69隻(機械船32隻、手漕ぎ船37隻)、年間利用者は歩行者が約5752万人、自転車等が約1442万台を数えるまでになりました。しかし、その後橋梁の架設など道路施設の整備に伴って次第に廃止され、特に昭和20年には戦災によってその多くを失ったそうです。昭和23年に15か所で再開されましたが、戦災復興とともに道路をはじめとする都市施設が整備され、モータリゼーションの進展もあって、渡船の利用は次第に減少。昭和53年には渡船場12か所、利用者数約250万人までに落ち込みます。それでも、現在でも、大正区を中心に、8ヶ所、年間約200万人にが利用しているとのことです。
2011.01.29
皆さん感じておられると思いますが、時間が加速しています。なぜかしら、年とともに1年間が、1ヶ月が短くなっていく。 時間の遅れ(じかんのおくれ、time dilation)は、物理学の 相対性理論が予言する現象で、運動している状態によって時計 (時間座標)の進み方が異なることを指す。特殊相対性理論では、 ある速度で動いている観測者の時計の進み方は、それより遅い 速度か静止している観測者の時計よりも進み方が遅くなることが 予言され、実験的に確認されている。wikiより。宇宙船から静止系を見ると、静止系は相対的に運動していることになるが、時間の遅れが生じるのは宇宙船の側になります。 この状態が、日本のお伽噺である『浦島太郎』において、主人公 の浦島太郎が竜宮城に行って過ごした数日間に、地上では何百年 という時間が過ぎていたという話にそっくりであるため、日本の SF作品などではウラシマ効果とも呼ばれる(SF同人誌「宇宙塵」 主宰者の柴野拓美が命名者と言われる)。つまりは、自分の時間感覚をもっている部分は、宇宙船に乗っているかのように、自分自身の実体を眺めているのかなあと。。。かくして、自分の実体は昔と同じ時間軸のなかで生活してるのに、遊離して自分を眺めている意識は宇宙船のなかにいて、相対的に時間が遅れている。だから実体が加速して見えるようです。 藤子・F・不二雄のSF短編の1つ「一千年後の再会」では、地球を 離れたパイロットが、宇宙船の機内では10年ほどしか経っていな いが、地球では1000年の月日が流れているという表現が出てくる。 庵野秀明の監督デビュー作「トップをねらえ!」でも巧みにストー リーに取り入れられて、周囲の人々の成長から取り残されてしまう 主人公の悲哀が描かれている。自分の意識は子供の部分がたぶんに残っているのに、身体はどんどん年をとっていく。行動を意識にあわせるべきか身体にあわせるべきか、身体にあわせなきゃ、スポーツなどはできはしないけど、いつまでも元気で、生き続けると思わなきゃ、勉強なんてできない。明日は無いと思って、今日できることをちゃんと今日こなしつつ、未来は永劫だと思って、今日も新しいことを学びたい。身体は年年歳歳、年をとっていくけれど、時間座標を持っている「自分の意識」は、ちゃんと未来まで続いてる。だから、今年も何か新しいことにチャレンジする自分でいたいなと、思います。そういう自分が大好きな自分でいたいから。記:とらのこども
2011.01.29
日韓併合100年の真実==========平井修一1945年頃まで世界は弱肉強食の帝国主義の時代だった。弱小国・弱小民族を植民地として帝国列強が己の版図に組み込んでいったのである。それがいいか悪いかは問題ではなく、「そういう時代だった」ということである。日清、日露の二つの戦争に勝利した日本は列強国の仲間入りをした。日露戦争後に日本は日韓協約によって韓国に韓国総統府を置いて支配を強めていったが、日本が列強の版図を認めることと引き換えに列強は日本が韓国を影響下に治めることに異議を唱えなかった。日本はロシアの南下政策に対する安全保障と満洲の権益を守る必要から、ロシアの支配を受け入れかねない韓国の併合を求めた。1910年、日本は武力を背景にしつつも、国際法上の手続きを踏んで韓国併合を断行した。「それが当時のやり方」であった。韓国人の中にも日韓併合を進める世論があった。韓国最大の政治組織「一進会」は、日本との連帯によって朝鮮維新、文明開化を目指す改革派であった。それと対立する勢力が清とロシアに事大する(庇護を求めて追従する)朝鮮王室と両班(貴族)の守旧派だった。当時の韓国はほとんど当事者能力を欠くほどにすべてが疲弊していた。結局、守旧派も日韓併合を受け入れたのである。併合後は朝鮮総督府による植民地政策が進められ、鉄道や灌漑施設などの開発が行われた。奴隷制度も廃止され、李氏朝鮮時代とは比較にならない近代的な暮らしが実現されていった。もちろん儒教的な秩序などを背景に、倭奴(ウェノム)、犬と下位と見ていた日本に支配されることに反発する事件や、急速な同化政策が反感を生んだこともあったが、インフラを整備し発展をめざすという「日本式植民地政策」は朝鮮民族にも広く受け入れられていったのである。1910年から1945年まで朝鮮半島は日本の一地方だったから、この間の36年間は日本史の一部である。日本はこの間の歴史を当然のことながら「日本の立場で」記録することになる。併合された者と併合した者では歴史記述が異なるのは当たり前だが、韓国の近代国家への発展の礎を築いたのは日本であり、また戦後、世界最貧国のひとつといわれた韓国に対し1965年の日韓基本条約で5億ドルの経済協力を提供することが、今日の韓国の発展に結び付いたことは記憶すべきだろう。1945年に日本の政治・軍事プレゼンスがなくなるや、朝鮮半島は南北に分かれて戦争を始めてしまった。北朝鮮は今や最貧国のひとつだ。韓国は二度まで日本に助けられながら未だに過去を恨みに思っている人が多いようである。憎悪や反感からはなにも生まれないし、第一、36年間、日本と手をたずさえて国づくりに努めた父祖への侮辱ではないのか。日韓併合100年を機に韓国人に猛省を促したい。(参考:「日本人の歴史教科書」「大東亜解放戦争」「嫌韓流」)
2011.01.26
百年ぶりに入れ代わった日本と中国 韓国紙評 古澤 襄━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 歴史認識なんてオドロオドロしいことを言われると、こちらも興ざめする。だが韓国の中央日報に出た「百年ぶりに入れ代わった日本と中国」は、韓国の知識層の考え方が滲み出ていて興味深い。「ソ連の顔色を見て生きなければならなかったフィンランドのように、中国の周辺国家も‘フィンランド化’しているという懸念が出ている。 それを分かっていても、中国の力は止まらない。中国はさらに強大になっていくだろう」・・・100年前にこの国を(日本に)奪われた時、当時の指導層が何も知らずにやられたわけではない、東学党の乱が起きたのだ。 しかし賢明に対応できず、国を奪われるしかなかったと、韓国の歴史を振り返り、中国の膨張政策に賢明な対応をしようとしている。そして「(私たちは)賢明に行動する必要がある。 私たちにとって中国は安保では脅威的な存在だが、経済的には必要な存在だ。 少なくとも数十年間は経済的に繁栄する中国の波に乗らなければならないからだ。 そのためには日中の葛藤で韓国は中立的でなければならない」と結論付けた。覇権国家・中国に対峙するため「日・米・韓」の連携が言われているが、韓国のスタンスは「数十年間は経済的に繁栄する中国の波に乗らなければならない」と割り切っている。<「知は力なり」というが、知っていてもやむをえないケースがよくある。 個人もそうであり、国家の場合もそうだ。 未来がはっきりと見えているのに、どうしようもなく状況の力に引きずられるしかないケースだ。 100年前にこの国を奪われた時、当時の指導層が何も知らずにやられたわけではなかった。 すでに朝廷の大臣や在野の知識層はみんな国が危険だということを知っていた。 底辺まで国のこうした状況を知っていたからこそ東学党の乱が起きたのだ。 しかし賢明に対応できず、国を奪われるしかなかった。 北東アジアの歴史で今年は特別な年として記憶されるはずだ。 中国が日本を抜いて国内総生産(GDP)2位になり、名実ともにG2国家になった。 器に水を満たせば必ずあふれるように、中国という器はいまあふれ始めた。 東中国海(東シナ海)の尖閣諸島で日本は中国との戦いに敗れた。 清がわが国の領土、牙山(アサン)、公州(コンジュ)、平壌(ピョンヤン)で日本の軍隊に敗北し、旅順港まで占領された後、下関条約で白旗を掲げてから115年ぶりに情勢が逆転した。 当時アジアが日本の膨脹を恐れたように、今は中国の膨脹にアジアが怯えている。 こうした情勢の変化をめぐり、知る人たちはみんな一言ずつ述べている。 ソ連の顔色を見て生きなければならなかったフィンランドのように、中国の周辺国家も‘フィンランド化’しているという懸念が出ている。 それを分かっていても、中国の力は止まらない。中国はさらに強大になっていくだろう。 北朝鮮を見ると、朝鮮末を思い出す。 1890年に尹致昊(ユン・チホ)は、朝鮮が徐々に死んでいく状況にあり、朝鮮の平和的な改革や革命は不可能であるため、清国に束縛される可能性が高いと判断した。尹致昊は王妃(閔妃)の認識について、「私たち3人(王、王妃、王子)さえ安全なら、あとはどうなってもかまわない」という考え方だ、と日記に書いた。 3代世襲が堂々と起きている北朝鮮も、金正日(キム・ジョンイル)の家族さえ無事なら何が起きても関係ないという感じだ。 29歳の青年だった李承晩(イ・スンマン)は1904年、監獄で『独立精神』を執筆した。 李承晩は監獄の中で朝鮮の将来を眺めていた。 清に頼っていた守旧派は清が敗北すると、今度はロシアが自分たちを保護してくれることを望んだ。 その代わり金鉱、鉄道、山林開発、漁業権がロシアに渡った。歴史は繰り返している。 中国に依存した北朝鮮は鉱業採堀権、港開発権などをすでに中国に譲渡した。 朝鮮末の高宗(コジョン)の時のように、北朝鮮政権は中国に依存しながら生きる道を探している。 中国が今後さらに強大になり、北朝鮮に対してより大きな支配力を持つということも、誰もが知っている。 問題はその時、韓国は何ができるかだ。 私たちが黙っていれば状況は行き着くところまで行くしかない。 北朝鮮がもし中国式改革・開放を導入するなら、北朝鮮は中国の衛星国家として政権を持続できるだろう。 私たちの統一はそれだけ遠ざかるしかない。 もし世襲が失敗すれば、統一に向かうのか。中国は米軍が駐留する統一韓国と国境を合わせることを拒否するはずだ。 米国も北朝鮮の核兵器さえ除去されるなら、あえて中国に反対して行動することを避けるだろう。 私たちは北朝鮮の地が中国に事実上渡ってしまうことを知りながらも、どうしようもできない状況になるかもしれない。 私たちはこの現実を何とかしていかなければならない。 賢明に行動する必要がある。 私たちにとって中国は安保では脅威的な存在だが、経済的には必要な存在だ。 少なくとも数十年間は経済的に繁栄する中国の波に乗らなければならないからだ。 そのためには日中の葛藤で韓国は中立的でなければならない。 日中の間に尖閣問題があるように、韓日の間には独島(ドクト、日本名・竹島)問題がある。 北東アジア地域の紛争で私たちはどちら側にも入ってはならない。半面、世界戦略の視点で韓国はいかなる場合でも米国を逃してはならない。 安保で米国を逃す日、私たちは中国の影響圏内に入っていくしかない。 内部で親中と親米に分かれる日、私たちは旧韓国末の身分になるのだ。 北朝鮮はどうすべきか。未来のある時点になれば、北朝鮮の住民が自身の去就を決定する日がくるはずだ。 その日が世襲に失敗する時か、その後になるかは誰にも分からない。 この時、北朝鮮の住民が中国を選択せず、同じ民族の私たちを選択できるよう、住民の心をとらえなければならない。 北朝鮮の指導部に対しては憤怒するものの、北朝鮮の住民に対しては憐れみの気持ちを持つことが求められる。 北朝鮮の住民を覚醒させる必要がある。 今は上からの統一ではなく下からの統一を準備すべき時だ。 5000年間守ってきた私たちの地を中国に譲り渡せない歴史的な責任意識を南北国民がともに感じることができなければならない。 未来がどうなるか知っているだけではいけない。 現実はそれを越えて私たちに行動することを要求している。 その行動の第一歩は北朝鮮住民のために犠牲を甘受するという私たちの決心だ。 そうしてこそ北朝鮮住民の心も動くはずだ。 (中央日報)>2010.10.08 Friday name : kajikablog
2011.01.25
金基三著・荒木信子訳『金大中 仮面の裏側』(草思社)@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@過去40年ほど、九段下のグランドパレスのバアを愛用している。九段会館、靖国神社が近いので、両所で頻繁に行われる種々の会合の行き帰り。また神保町の中華料理で宴会の前後とか。地理的にも便利で皆が集まりやすいだからだ。宿泊することは殆ど無いが、地方の知り合いが上京のおりは、このホテルを薦める。さて、このグランドパレスは金大中誘拐事件の現場である。あの頃、「あ、あの誘拐事件のホテルね」といえば場所の説明をしなくても良いほどに「有名」だった。金大中は事実上、日本に亡命しており、なぜか「韓国民主化の闘士」とか「人権派」などと左翼特有の宣伝がなされ、さかんにアンチ朴政権の政治宣伝活動を繰り返していた。日本のマスコミ、とくに『世界』とか『朝日ジャーナル』などの誌上では、金大中は『悲劇の政治家』だった。KCIAにとって目障りだった。そこで拉致という、朴政権に忠誠を誓うあまりの暴走をKCIAが断行したが、途中で日本海に沈める筈が、国際世論の急激な盛り上がりを前にして怖くなって、暗殺をとりやめ、ソウルの金大中の自宅近くで釈放してしまったというのが真実に近いだろう。しかしこの天佑ともいえる強運によって金大中はその後、しっかりと大統領への切符を手に入れた。反体制の象徴として担がれ、左翼の本質をひた隠し、韓国政界を巧妙に泳いだ。評者(宮崎)は最初から金大中を胡散臭い男と睨んできた。何回か、パーティで見かけたり、ソウルで開催されたシンポジウムには本人がやってきたこともある。空疎な言葉、政治マニフェストは虚飾と修飾語に満ちあふれ、しかし誠意を感じることは一度もなかった。この直感的な胡散臭さは、彼が大統領になって「太陽政策」を打ちあげ、さらに北朝鮮を電撃訪問という見せかけのショーを行ったときに、なるほど、と得心がいった。極めつけはノーベル平和賞である。オバマよりも、アラファトよりも、ふさわしくない。胡散臭い。そして背後のカラクリが全て本書によって暴露されたのだ。この本の著者は、なんとノーベル賞工作の当事者だったから証言には迫力がある。著者は本書を出版し、秘密を暴露するために、米国へ亡命せざるを得なくなった。韓国でもなかなか出版する勇気のある会社はなかった。ノーベル賞の受賞理由は北朝鮮訪問だ。スェーデンの高官を買収し、あらゆるコネを総動員して、カネをふんだんに使ってロビィ工作を展開し、あろうことか金正日に15億ドルもの賄賂を贈呈していた!当時、5億ドルと噂が拡がっていたが、真実はその3倍だったのである。そのカネで北は核兵器を開発し、結局、金大中は韓国を売った売国奴だったことが分かった。「死にかかった金正日を生き返らせたのです。その結果、北朝鮮同胞の苦痛はそれだけ長引くことになったのです」(第4章)。ウィキリークスの情報など、はるかにしのぐ超弩級の重大証言である。
2011.01.24
古代、大阪湾は上町台地に接し、大阪のすぐ西は大海原だった。陸の要衝としても一級だが、海の要衝としてさらに素晴らしい。まさに日本の表玄関だった感のある大阪だ。「信長公記」にはこうある。西は蒼海(そうかい、青い海)満々として、日本の地は言うにおよばず、唐土(もろこし)、高麗(こま)、南蛮の舟、海上に出入り、五畿七道集まりて売買利潤、富貴の湊なり。また大正時代から昭和にかけて、大阪の街は「大大阪」と呼ばれた。東洋のマンチェスターとも称され、日本でも有数の富貴な都市であり続けた。夕方に大阪から西を望めば、大気が薄いオレンジ色に染り始め、その中心にある太陽は、いや赤く輝く。とはいえ高度成長時代かつての大阪の街から、赤い太陽を眺めることはできなかった。それほど汚染がひどい時期を越えて今にいたる。古代の朝鮮語で「太陽」は、「nal(ナル)」と呼ばれた。「難波」という地名は、この「ナル」に、おなじく古代朝鮮語で口とか門、出口という意味をもつ「ニハ」が合わさり、「ナルニハ⇒ナニワ」となったという地名語源説がある。「太陽が降り注ぎ、やがて沈みゆく土地」と、解釈することができる。詩的、かつロマンに満ちた地名である。上町台地をかこむ西側は「西成」、東側は「東成(生)」との地名だが、この「成(ナリ)」も、「ナル」の転訛であろう。それぞれ「西の太陽」、「東の太陽」という意味になる。もちろん、大阪湾で魚がたくさん採れたから「魚庭(なにわ)」、あるいは野菜がたくさん採れたから「菜庭(なにわ)」さらに神武東征軍がこのあたりの波が速かったので「浪速(なにわ)」と名付けた、といった語源説もある。どれも俗説だろう。これらの説の難点は、難波の枕詞である「押し照る」を考慮に入れてないからであろう。魚も菜も、「強く照り輝く」という意味を持つ枕詞「押し照る」とはつながりようがない。上町台地の海岸部には、多くの渡来人が住み着き、最新の技術を導入して、漁労生活を送っていた。彼らは生駒山からのぼり、上町台地の上で赫々として輝き、茅淳(ちぬ)の海を黄金色に染めながら沈む太陽とともに、日々を送っていた。現在、三代目となる大阪城天守の回廊からは、残念ながら海は見えないけれども、古代の太陽(ナル)の残照は、マボロシのように眺めることができる。以上は、福嶋敏雄「大阪 川と坂の物語」より
2011.01.22
鉄鋼代替 シリコン合金 この製品名が「メラミックス」であり、高靱性セラミックだ。製造しているのは、イスマンジェイ社というベンチャー企業である。その構成は、大略シリコン50% ニッケル35%アルミニウム15%の組成から成る合金のようだ。鉄の40%の軽さと2倍の強度,窒化ケイ素系を越える強度・高靱性(toughness),非磁性,電力をほとんど使用しない燃焼合成による製造の為、低コスト化が可能である。希少金属・希土類の価格が高騰してきている。マンガン・モリブデン・バナジウムなど特殊鋼の特性を顕現する資源が入手できなくなるか価格が上昇して、気楽に使えない状態になることは見えている。また、地球上の人口は増加し、新興国の需要は増え続けています。各国は高度な商品を開発生産する企業群を支援するべく資源の争奪戦に参画しナショナリズムを発揚しています。資源の乏しい日本としても当然資源確保に企業・国ともに気を使うが、それより代替製品を開発して、メタルから非メタルへのシフトを考えるべきである。鉄鋼「産業の米」と明治時代以来品質の改善・改良に勤め一時は花形輸出産品の時代も有りました。 アニメ創作品の輸出総額に比べ数分の一に相対低下している製鉄業とは言え産業形態が第三次産業へ主体移転する迄にはまだまだ頑張って欲しいものです。資源輸入・加工品輸出の付加価値付与型産業の鉄鋼業に置いての「特殊鋼」は優位性がまだまだ高いものです。ここで特殊鋼の一部領域での対応であるが「超有望な代替材」と思われる素材を取り上げてみたい。「ベータサイアロン」(β- SiAlON),「シリコン合金」,新セラミックス、商品名“メラミックスR” です。 何が画期的か !! 1 金属シリコンをベースにしている。 2 比重4以下、非磁性、耐熱性・耐摩耗性・耐摩耗性に優れている。 3 セラミックスの脆さ「靱性」を克服。 4 自らの発熱で材料を合成する「燃焼合成方法」を採用し低コス ト化が可能。開発者は大同特殊鋼製おなじみの金型材「NAC55」の開発者 渡邊敏幸氏だ。「燃焼合成」技術に着目したきっかけはロシア国立材料工学研究所を訪問し耐熱セラミックの一件を知った時だ。1961年4月アメリカを出し抜いてガガーリンが宇宙飛行し宇宙船ボストーク号で大気圏再突入し、機体表面温度1,500度以上を耐えて生還した。この時の機体保護耐熱タイルをISMANが開発していた。新日鉄で研究したが、会社が製品化しないと知ると独立して製品化したのが、このメラミックスRである。以上は、国際戦略コラムよりhttp://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/230142.htm
2011.01.22
幸せってなんだろうと、ちょっと思ってみました。毎日、仕事があり、世間様にお役にたって給料をもらう。家族を養い、住む家があり、三度のご飯を食べられる。たまに友人に会い、昔話しをして酒を飲み、歌をうたう。そういう友人がいて、多少の小遣いもある。それなりに健康で、それなりに何でもできれば、もう十分だろうと思う。一生のうちにこれはという友人、先輩、後輩との出会い。その後、お付き合いがある人もあれば、とんと音沙汰なしの人もいる。やっぱり、家族、親族、そして気の合う友人たち。そのみんなが幸せであれば、自分も幸せだ。そのために、家族、親族、そして気の合う友人のために自分のできることを積み重ねる以外には、幸せに至る道はないのだろうと思う。もうすぐ老境に入っていく。そのとき傍らに、いったいどれほどの人がいるだろうか。そう思うとき、山の神さんの大切さが痛感される。掃除や買い物、その他、もろもろの話しを聞こうと思う。そして、たまには大切な誰かさんにも電話をして、声を聞きたいものだと思う。元気ですかって。。。記:とらのこども
2011.01.22
今の時代ほど、戦略が大切だとみんな思っている時代はなかなか無いのではないかと思います。そのくらい、この先、どうなるんだろうって、誰しもが内心思っているのでしょう。歴史を紐解けば、太平洋戦争に突入する直前、日本は南進すべきか、それとも北進すべきか、大論争があったと聞いたことがあります。チャーチルいわく、北進すれば日本が生き残ったろうと。結局は、南進して敗戦にいたった。天下分け目の関が原直前もそう。みんなが悩みみんなが迷った。そして我が戦略に賭けた。上杉は、大大名の群雄割拠を夢見たと聞いた。それは、室町時代の関東管領のように、地方軍閥の並立。毛利輝元は、安国寺の進めに従い、徳川と対決しようとしたけれども、吉川と小早川は徳川に走った。大谷吉継は、実力者の徳川家康を執権職につけ、豊臣家を鎌倉幕府の源氏宗家のように存続を夢想した。言わずとしれた徳川家康は、自らの幕府開府を目指し、石田三成は、それを阻止すべく立った。日本の政府民主党はいったいどんな戦略があるのだろう。また、自民党はどうか。その他、各党はどうか。日本の企業トップもまた、どんな戦略があるのだろうか。そもそも日本は視野に入っているのか。国敗れても山河あり。日本人は、日本で生きてこそ、日本人だろうと思います。戦略は、国を忘れて成り立たず、人がついていってこそ、成功を収めるのだろう。わたしもまた、戦略を考えて、成果を得るために、行動したいと思っています。記:とらのこども@今日は真面目だ!参考:堺屋太一「三人の二代目」より
2011.01.21
わたしは、いい加減です。いいかげん。。。?ちょうどいいかげんではなく、とてもいいかげん。なんとなくいいかげん。でもいいんです!と言うところが、いいかげん。ちなみに、うちの山の神の湯たんぽは絶妙です。これがほんとのいいかげん。おやすみなさい。。。記:とらのこども
2011.01.20
子供がいろんなことを家で言います。 子供が受験生なので、それに関することが多いです。 わたしは父親ですから、 いろんなことを思っても、言うことはあまりない。 またそれを言ったとしても、 いろいろな反論がマシンガンのように返ってくる。 ふと思い返すと、 帰省したとき。。。そうした年齢のころの話しを 父母にぽろぽろっとするけれど、 ちゃんと「あのときはこうだった、ああだった」と、 母親だけでなく、親父殿もちゃんと言う。 ちゃんといろいろ考えてくれてたんだな、 ちゃんと覚えてくれているんだなと気付きます。 「現在(pre-sent)とは、 前もって(pre) 送られた(sent) という意味なのだ」 というセリフが、本にありました。 神さまによると、私たちが探し求めようと 考える前に、すでに与えて下さっているそうです(^^;)。 present には、プレゼントという意味もあります。 つまり、「現在はプレゼント」なのだそうです。 それはもちろん、自分の努力もあろうと思いますが、 親のおかげ、それからもっと大きいもののおかげかと、 休日ゆえに、うつらうつらと考えるわたしです。 記:とらのこども(mixiより転載)
2011.01.19
飛梅のように、オーラのように、 「故郷の香り」は、自分の周りに確かにあって、 自分を包んでいるし、守ってくれていると感じます。 それはとてもほのかに、しかしいつもやさしく包んでいるのでしょう。 そのオーラで、家族を包み、知己を包むから、 人の故郷は野菜の産地に似て、人の味わいを決めますね。 さてさて、この頃の皆さんのオーラはいかがでしょう? 甘いか、苦いか、酸っぱいか。。。 わたしは、今年はピリリ、辛味が効いているような?? ちょっぴり、まろやかさも出たかも??? 自分の香りチェック! ひまなときには、面白いかも。です。 記:とらのこども (mixiより転載)
2011.01.18
皆さん、四葉のクローバの見つけ方ってご存知ですか? 探したことのある人は、たくさんいると思いますが、 なかなか、見つからないんですよねーー。 見つけ方は簡単です。 「クローバーの群落の辺境を探す」です。 群落の真ん中よりも、端っこのほうに四葉があります。 大きい群落よりも、小さい群落に四葉があります。 また、よく繁った群落よりも、枯れそうな群落にあり、 四葉はかたまって、たくさん見つかることが多いです。 わたしの仮説は、より厳しい環境に出会ったときに、 突然変異を起こすのだろうと思います。 というわけで、人生も同じ。 四葉のクローバーに出会うためには、辺境へ行かねば なりません。 漫画の主人公たちも同じですね。辺境へと赴いてこそ ドラマがあり、恋もあり、ナミダも、助け合いもある。 記:とらのこども (mixiより転載)
2011.01.17

断食すると、体調や病気が良くなる現象があります。月に1回くらい、通常のカロリー摂取の70%以下にするといいみたいです。 プチ断食:http://age.diet-alamode.com/8/45/000104.php 断食ダイエット:http://www.honmono-ken.com/honmonohiroba/100/これは消化の必要が無くなるため「消化酵素の代わりに代謝酵素が作られる」からだそうです。また、肉、野菜を問わず「生食には食物酵素が含まれる」ため、消化酵素の節約作用があるそうです。消化酵素の節約=代謝酵素が増える=健康になる=寿命が延びる。と、言う事のようです。著者は、言います。・ヨーグルトが普及したのに、人々はブルガリアの農民のように健康には なっていない。(生牛乳、生バターで無いため。)・加熱調理した餌で育てていた時期の動物園は、みな短命だった。 (動物達は、人間と良く似た病気や症状となった)・生食のイヌイット(エスキモー)達は、至って健康である。・膵液(酵素液)を絶つと実験動物はすぐ死ぬ。・平均して25歳頃の人間の睡液中のアミラーゼ(酵素)量は、81歳の 者に比べて30倍多い。以上のことから著者は酵素剤(アミラーゼ、リパーゼ等)の常用を勧めています。そこまでは極端過ぎて必要無いにしろ、消化酵素節約のため、「プチ断食」や、「"食前に"大根おろしや果物、納豆を積極的に取る」ということは可能ではないでしょうか。「食物酵素こそ命の泉」
2011.01.16
皆さん、ヒートショックプロティン(H.S.P.)って ご存知でしょうか? 週に1回くらい熱めのお風呂に入ると、細胞活性が大きく上がります。 HSP(ヒートショックプロティン)という物質が、細胞内にできて、 細胞が活性化するためです。 細胞が元気になると、肌はプルプル。しわもできません。 ぜひぜひ、だまされたと思ってお試しあれ!! 記:とらのこども (mixiより転載)(参考HP:http://プロテインc.seesaa.net/article/43150279.html) ヒートショックプロテイン(HSP)とは、私達の身体に熱が加わった時、その熱から身体を防御しようとして作られる特殊なタンパク質のことです。このプロテインが熱だけでなく、身体に対するあらゆるストレスに対応し、傷ついた細胞を修復してくれる働きを持っています。そしてその「熱ストレス」がヒートショックプロテイン(HSP)を最も多く増加させます。 つまり、ヒートショックプロテイン(HSP)が増加する事によって、感染・疲労などで傷ついた細胞を修復したり、ガン細胞や、病原菌を攻撃するナチュラルキラー(NK)細胞の活動を活発にしたりして、免疫力を高めてくれるので、ガンなど様々な病気の治療の他、スポーツトレーニングや、美容に応用、バイオ科学の観点から植物の生育に応用されるなど、ヒートショックプロテイン(HSP)は、各方面から、注目を集めています。 (中略) ヒートショックプロテインは、肌の細胞に本来備わっているタンパク質で、紫外線や有害物質から保護しダメージを受けた細胞の修復をします。同時に角質層の新陳代謝を正常化させ、衰えた代謝を活発化しコラーゲンの合成を促進している物質なので、化粧品などの美容にも取り入れられています。ヒートショックプロテインが増える事により、代謝が活発になり、脂肪が燃焼される事から、ダイエットにも効果があるといいます。 また、がん細胞内にヒートショックプロテインが増えることで、「自分はガン細胞である」という指標(抗原提示)をたくさん出すようになります。その結果リンパ球が、ガン細胞を認識しやすくなるので、効率的に攻撃を加えることができるようになるため、ガン治療にも応用されています。 私たちの体の約60兆個の細胞のほとんどは、タンパク質で出来ています。 熱をはじめさまざまなストレスを受けると、細胞のタンパク質が傷害を受けます。 ストレスで傷ついたタンパク質を元通りに治すのに細胞はみずからヒートショックプロテインをつくります。ヒートショックプロテインは、私たちの体を守る魔法の仕組みのひとつなのです。
2011.01.16
大学生だったとき、京都で会社員スタートをしていたころ、とにかく、家を省みることなど考えたこともなかった。親と言うものを意識したのは、入院して手術した夜のこと。わたしが来いと言ったのだろうか、手術した夜に、父と母はなぜか病院の病室にいたのだ。四国の山の中から、京都まで来てくれていた。わたしは、痛くて、苦しくて、感謝の気持ちなど感じない。うめきつつ、アイスクリームを食べたいと言った。いったいどこまで買いにいったかわからないが、夜半過ぎ、父と母は、アイスクリームを手にもどってきていた。口のなか、凝固した血だらけの口をあけて、わたしはアイスクリームを食べた。ものすごく甘かった。甘い甘い汁になって喉に落ちていく。(不思議と、味覚とバニラの香りが記憶に残っている)翌朝早くに、父と母は四国へ帰っていった。わたしは、意識もうろうとしていて、見送りもしなかった。年をふるごとに、父と母のありがたさが分かってきた。。。10代、20代には、とうてい分からなかったバカな息子。50歳を目前にして、あのときの父の年齢になり、ありがたさがうっすら分かる。まだ直接は言ったことはないけれど、僕は、父と母を大好きで、尊敬しているのだと思う。記:とらのこども 幼いころに好きだったのは、とにかく遊ぶこと。 後ろを振り返りもせず、どこまでも走って、遊んで。。 それができるくらい、安心していたんでしょうね。 心配という単語は、幼少のわたしには無縁だった。 こどもに与えたい。大きい安心感。 その重さを、ようやく感じるわたしです。
2011.01.11
元外務次官、谷内正太郎氏論文のTPP加盟の勧めの続きです。今回は最終部分ですが、谷内氏は日本の一部にある反米ナショナリズムを脱するためにも、このTPPへの日本の参加を強く提案しています。 =========また、日本は、特に中曽根康弘総理以来、「西側の一員」としての立ち位置を明確にした。戦後、自由世界を主導したのは、米国を始めとする西側諸国であった。日本は、中曽根総理の勇断によって、「西側の一員」として相応の指導的責任を引き受け、それにより、ヒトラーの同盟国、敗戦国、旧敵国という汚名を雪ぎ、政治的な復権を果たしたのである。にもかかわらず、日本では、依然として、時折、鬱屈した反米感情が噴き出すことがある。それは戦後に特徴的な現象ではない。かつて、日本は、日露 戦争の勝利に驕り、中国大陸への野心を剥き出しにし、1920年代の海軍軍縮時代の頃から、日本の台頭を抑えこもうとした米英両国に対して、悲憤慷慨ともいうべき強い感情的反発を見せるようになった。この驕りと反発が、真珠湾攻撃につながっていく。敗戦後、近代日本の鬱屈した反米ナショナリズムは、反米・反安保のイデオロギー闘争の中に形を変えて流れこんだように見える。しかし、朝鮮戦争が火を噴き、厳しい冷戦が始まったばかりの頃、吉田茂や岸信介などの政治家は、冷徹な戦略眼をもって国益を洞察し、荒れる世論に抗って、日米同盟を選択した。それが日本の経済的復興と政治的復権を決定的にしたのである。ところが、冷戦後期になると、日本人は、急速な高度経済成長に驕り始め、再び戦略眼を曇らせ始めたようである。日本人は、一方で、米国の庇護に依存したまま自立への努力を忘れ、もう一方で、親分面をする米国の存在を「うっとうしい」と思い始めたのである。この米国への感情的な反発が、まるで戦前の大東亜共栄圏を思わせるような、空虚なアジア主義への傾斜を生んでいる。だが、それは、幻想である。台頭する中国を前に、米国から切れた日本に付いてくるような国など、どこにもいないのである。21世紀の日本の平和と繁栄は、アジア太平洋という戦略的枠組みの中で、大国間の戦略的均衡を確保し、開放的な貿易体制を維持することによってのみ可能である。それが、戦後日本の選択であった。そもそも、環太平洋経済圏という大構想は、アジアの経済的躍進が始まる前の70年代に、日本の大平正芳総理と大来佐武郎外相が打ち出したものである。それが、今日のアジア太平洋経済協力(APEC)につながっていったのである。東アジア首脳会議(EAS) も、「ASEAN+3」の枠組みを牛耳ろうとした中国に対抗して、日本が、インドや豪州を引き込んで作ったものである。米国は当初、EASに消極的だったが、日本の説得の甲斐があって、漸く10年から、ロシアと共に参加することになった。これまで、日本外交は、米国を引き込んで、環太平洋やアジア太平洋という枠組みで戦略を立てた時に成功し、東アジアの覇権や米国の排除を考えたときに必ず失敗してきた。私たちは、この歴史の教訓を忘れるべきではない。環太平洋自由貿易構想を、戦略的観点から眺めれば、日本が飛び乗るべきバスであることは自明であろう。徹底した自由貿易を標榜するTPPに加盟することは容易ではない。しかし、衰退した農業の問題などを克服するための国内政治の痛みは、新生日本を生み出すための痛みである。閉塞感に鎖され、内向き、縮み志向に陥った日本はこの痛みを覚悟し、敢えて突破口を開いて局面を打開する強力なリーダーシップが必要である。菅直人総理は、「歴史の分水嶺」という言葉をよく使う。分水嶺では、正しい方に滑っていかねばならない。反米感情に踊らされた戦略なきアジア主義は、逆に、日本を奈落の底に突き落とすことになるであろう。(以上、全文転載)
2011.01.11
成人の日のよき日に、新成人たちの晴れやかな顔。日本の、気持ちのよい年中行事だと思います。ぜひとも大志をもって、希望をもって、社会でいっぱい活動して欲しいと思います。また良い伴侶を得て、産めよ増えよ地に満ちよ、と。願わずにいられません。そのためにも彼ら、彼女らに働く場を提供するのが、大人たちの最低限の責務に違いない。成人へのお祝いをこころに思うとともに、迎える大人の責務の重さを再認識する今日の朝です。民主党・政府の皆さん、各企業トップの皆さん、何とぞよろしくお願い申し上げます!!新成人の皆さんは、世の中や会社の意向におもねり、へつらい、奴隷のように従うことなく、自ら信じる正義を胸に、ぜひとも新しい世を作って欲しいと思います。頑張れ!! 心よりエールをおくります。記:とらのこども
2011.01.10
文字や、言葉へのこだわりがあるわたしですので、そういう種類の本や、ネットサーフィンをしてたりします。へえーーっと、思った話題をひとつ。ご紹介したいと思います。それは、最古の漢字は女性が作っただろうという仮説です。その根拠となる詳しい説明は省略しますが、、、人間の文明黎明は、まずは女性たちから興った。男たちは、まだ動物に近い存在で、村にはいなかったそう。そのため、初期の各種文化的産物、例えば漢字の成立ちは、すべて女性たちによって成し遂げられた。。。という話しが、「漢字の起源」の仮説としてありました。真偽はともかく、へえっ~と納得しちゃいます。というのも、文明以前の動物的感覚が自分のなかに色濃くある、そういう自覚あればこそ。無意識に、社会的な女性には尊敬の念を覚えますが、動物的な女性には怖さを感じます。逆に、男としては飼い慣らされた家畜的な男よりも、荒野の一匹狼的な男に魅力を感じます。世は21世紀です。男女の本当の協力関係ってのができていけばいいなと思います。むかしも今も、「大きい愛」が世界を変えます。世の中には、男性と女性しかいないんです。まずは、それぞれの家庭から。。。(山の神さん、あんじょう頼んまっせ!!)(今年も、やっぱし神だのみ。)記:とらのこども
2011.01.09
子供の頃から、友達といろんな遊びをしたなあと思います。でも、熱中すればするほど、どれも大人に禁じられた。例えば、はさみを持って、散髪屋さんごっこ。マントをつけて、飛び降りる遊び。釘立て、ビー球、もろもろ。でも、自分たちで止めよう。これは危ない!!という禁じられた遊びもあった。それは、「気絶ごっこ」。まず、大きく息を吸い、両手で自分を抱きしめる。そして、もうひとりが柔道の要領で。。。(詳細は省略)約1分くらいで、カクッと簡単に失神します。約数十秒から1,2分くらいで、自然に気がつく。その間に見た「夢のような話し」をみんなで聞く。それは本当に夢のような、面白い話しばかりでした。毎日、5人も10人も順番に気絶してましたね。ちょうど高校2年生くらいのとき。でも、ある日。気絶中に痙攣した奴が出た。また、別の奴は5分くらい、元に戻らなかった。見守る僕たちは、怖くなって止めた。ところで、その遊び。仲間たちで遊び用に借りた八畳一間の下宿でした。下は15歳から上は20歳くらいまで、常時10人、最大20人くらいが出入りしていた秘密基地。今から思えば、そういう遊び場があったことが奇跡的なことのように思えるのです。記:とらのこども
2011.01.09
朋友、遠方から来たる。会わずにいた時間が瞬間、溶け去っていくのを実感。何を話しても、なつかしい。何を話しても、うれしい、楽しい。最高です。あのとき、こうだったやろ!!えっ、なんで知ってんの!?そういうびっくり箱やら、玉手箱がごろごろぼろぼろ。うれし恥ずかし、ナミダ娘、色っぽいねーー。わたしの色っぽさを指摘され、まじ、目をしろくろ。あんなに「スケベエ心」を、オブラートに包み込んで隠して隠していたはずの若い頃。友から見れば、見え見えでぜんぶばれてた恥ずかしさ。さかなは焼いたえいのひれ。飲んで、しゃべって、あっという間の4時間半。終電、深夜バスを乗り継いで、夢のなかの帰宅でした。記:とらのこども 遠方からきた朋友とは、じつはわたしのほうでした。 14年ぶりの電話、そして再会でした。 友達とはありがたいもんです。 手を合わせて大感謝。
2011.01.08
いちお、今年の抱負などを記録しておきたいなあと思い立って、書き始めています。とはいえ、抱負よりも予感(期待)ふくらんでいるわたしなんです!!昨年の一年間で、地道にやってきたことが実り始めそれら全部、花咲きそうな感じなんです。春になり、芽が出て、ふくらんで。。。みたい。家族のために、家のために、毎日、毎週、毎月ごと少しずつやってきたもろもろが、家族の笑顔になり、仕事のために、会社のために、毎日、毎週、毎月の努力の賜物が、売り上げや利益となっていきます。たいしたことはしてないんですけど、継続ってのは凄いなあと、我ながら感心する次第。幸せが駆け足でやってきている予感です。こういうときは要注意。実るほど頭を垂れなきゃ。幸せを、せっせとおすそ分けしたいと思っています。感謝の、言葉や行為をちゃあんとしたいと思います。おかげさまのなかで、輝く毎日です。それを感じている自分が好きですね。おかげさまで、今週も、来週も、再来週も、いろんな集まりがあり、お酒を飲む機会があります。今度は周りのひとへ、わたしのできることを、ひとつづつ。心を込めて、感謝を込めてしたいです!!皆様、本当にありがとうございます。(そして誰よりも、わたしの母と、妻に感謝!!)記:とらのこどもps 99歳の詩人柴田トヨさんの詩集『くじけないで』 すっごくいいです。とらのこどものお勧めです。
2011.01.06

新年、明けましておめでとうございます。遅ればせながら、ご挨拶申し上げます。さて、冬のどんよりした厚い雲に隠されていても、お天道さんの光りは隠しようがありませんね。それと同じように、一所懸命に毎日を努めている人の仕事も、家事であれ、会社の仕事であれ、ピカリピカリと、どっか光っています。分かる人には、ちゃあんと分かります。だから、ピカリピカリと光り輝く仕事をしたいなあと思います。また、そういう仕事をした人を応援したいと思います。素晴らしい2011年は、そこから始まります。気付けばおかげさまのなかで、生かされている。記:とらのこどもさてさて、鳥取県に帰省していたわが家です。年末からの大雪で、元旦の朝は一面の雪景色。凄かったです!!わたしの車もご覧の通り。雪のなか。車はおいといて、雪だるまと、大きなカマクラを作った元旦。(奥側が私の車、手前が義兄の車です。一晩で雪に埋もれてしまいました)60cmもの大雪ですから、子供は大喜びでした。大人は雪かきに汗をかく、悲惨な今年の始まりですーー。家から外には一歩も出られません。初詣は無理、買い物も無理。温泉も無理。船は沈没し、木々は雪に倒れ、自動車は立ち往生。雪で高圧送電線が倒壊して、2万5千軒もの停電。電車もストップ、救援に向かったラッセル車も脱線。いやはや、凄かったですーー。毎日の雪かきのため、腰痛です。サロンパス貼ってブログを書いています。。。
2011.01.04
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