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2007.12.24
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カテゴリ: 60年代米国音楽
“White Christmas”by Otis Redding


 真夏に聴いても何の違和感もないオーティスの『ホワイトクリスマス』、久々に聴いています。一昨日の夜降った雪が庭に少し残っている程度で、あまりホワイトなクリスマスにはなりそうもありません。

 もう2週間もたってしまったが、12月10日はオーティス・レディングの命日だった。
 オーティスのことは随分以前に何度か書いた気がして、今年も静かにしていようと思ったら、楽天仲間の remi さんがこのことを書かれていたので、以前書いたその日記を読んでいただこうと思ったのだけれど、見つからない。
 で、よく考えてみたら、書いた日記というのは楽天を始める前に自分が作っていたホームページの中の「音楽日記」だったことが甦ってきた。何しろ2001年に書いたもので、そのページはすでに閉じているので、元は残っているだろうかと、あちこち探してみたら、ようやく見つかった。何度か書いたものを、楽天用に一つにアレンジして、本日の日記とすることにした。

       **********************

 1966~67年、高2から高3の2年間、僕は信州は善光寺の近く(徒歩10分)に住んでいたんだけど、ラジオ関西(通称ラジ関)って神戸の放送局なのに(大阪じゃなくて神戸っていうのがいいでしょ)、なぜか実に鮮明に聞こえたんですよ。今でもそうなのかなあ。因みに現在の住まいでは全く聞こえません。同じ県内でも随分違います。

 当時1度だけ地元のラジオ局の電リク(電話リクエスト)に繋がって、名前を呼ばれたことがあったんだけど、この電話リクエストっていうのは、ラジオ関西が元祖だったんですよね。

 とにかく関西では何かが起こっているっていう、その後のブームの序章に立ち会った思いだった。中川五郎の「受験生のブルース」も、その後高石ともやが自作の別メロでカバーした「受験生ブルース」も、全部ラジ関で初めて聞いた。それで半年から1年後にようやく東京でもラジオでかかるようになったのです。

 元祖電話リクエストは、確か夜の7:00~11:00ぐらいの枠で(すまん、記憶が定かでない)、月~金の放送だったと思う。それぞれの曜日の担当がこれまた素晴らしい。何しろ当時のポップス音楽評論家でも、非常にまともだった八木誠なんかもその中にいたんだわさ。その頃はほとんど日本のものは聞いていなかったので、ラジ関のしかも木崎なんかのグッドな選曲で進行する電話リクエスト、週に1度の欠かせない番組だったね。

 ある時、その八木誠がやたらと興奮しながら「とんでもないことが起きた。自分はもうどうしていいかわからない。まだ若いのに、信じられない」などと叫んで、誰かが若くして死んでしまったことを悲しんでいる(というよりむしろ怒っている)ようだった。
 で、その日は急遽彼の特集。どの歌もカッコ良くて、抜群の歌唱力で、僕もその時初めて彼の名前を覚えたね。日本ではほぼ無名に近かったんだ。ホントだよ。皮肉なもんで、死後まもなく大ヒット曲出して、日本でも有名になったんさ。誰のことだと思う?
 そう、その人こそ今では誰でも知っているソウルの大御所オーティスレディング。亡くなってから流行ったのがあの "The Dock of the Bay (邦題:ドック・オブ・ベイ)" 。

 亡くなる少し前にオーティスが参加した、あのモンタレーのフェスティバルのライブはビデオにもなっているし、テレビでも何度かオンエアしてるから、どこかで見ている人も多いでしょう。参加者も皆すごい人たちばかりで、必見ビデオだ!
 中でもオーティスの歌う場面は、数あるライブ映像の中でも最も素晴らしいと言えるほどで、思わず息を止めて見てしまう。カメラマンもきっと夢中で撮したんだろうけど、後ろからシルエットで浮かび上がるオーティスが、ちょっと神々しくて、まるで「逆後光(さかさごこう?)」が差しているような・・・。

 で、 "I've Been Loving You Too Long" だったか "Try a Little Tenderness" だったか を歌い出す前に、ほとばしる汗を拭きもせず、息をととのえながら、会場を埋め尽くした聴衆に向かって、マーチン・ルーサー・キング牧師の演説にも匹敵する、あの20世紀最高の歴史的な名MCが入る。
 "This is a love crowd, you know. We love each other, don't we?......" っていうような感じの言葉だったか(←あとでちゃんと聴いておきます)。後に、忌野清志郎が、これを日本語に訳して、ライブの時に必ず聴衆に向かって叫んでいたね。「愛し合ってるかい?!」ってね。

       **********************

 1967年。ジミヘン、クリームの出現。モンタレー・ポップフェスティバル。ビートルズでいえば、サージャント・ペパーズ~マジカル・ミステリーツアー。オーティスレディング、飛行機事故にて死亡・・・。


 2年間のラジ関リスナーののち、1968年春、僕は東京での予備校生活のために上京するんだけど、東京はラジオ関西が聞こえなかった。東京でラジ関といえば、ラジオ関東のことで、こちらのラジ関は東京ではなく、横浜なのが興味深いでしょう。残念なことに、ラジオ関東は後にラジオ日本に局名変更したのでありました。





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Last updated  2017.05.19 01:03:57
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