全695件 (695件中 551-600件目)
< 1 ... 7 8 9 10 11 12 13 14 >
子供に人気の絵本で「うさ子ちゃん」シリーズというのがある。かわいらしいウサギの女の子を主人公にした本で、作者はドイツの作家のブルーナである。「うさ子」というのはもちろん翻訳で、もとの本ではミッフィーという。ミッフィーが「うさ子」となったのは、この本が最初にでた当初には、こんな発音のしにくい(フィなんていう音はもともとの日本語にはない)名前よりは、子供向けの本でうさぎの女の子の定番の名前になっている「うさ子」の方がよいと判断したからだろう。これが今だったら、外国の名前に子供でもずいぶんなじんでいるし、ミッフィーでもよいのかもしれない。※同じことは、ケストナーの児童文学「点子ちゃんとアントン」にもいえる。点子というのは、小さい女の子という意味のあだ名で原文では「ピュンクトヘン」である。この本の初訳が出た頃にはピュンクトヘンなんてのはそれこそ舌をかみそうな名前だったのだろうが、今だったら全然問題でない。これもそろそろピュンクトヘンに戻した方がよいのではないか。いくら小さいからといって「点子」なんて呼ぶのは、日本語の語感ではほとんどいじめである。※物語の登場人物の名前とかは、よほどのことがない限り、原文を極力活かした方がよい。「ロードオブリング」の翻訳で剣士アラゴルンの名前がなぜか「馳夫」と翻訳されていたがあれなどは最悪である。明治大正の昔ならいざ知らず、今は純和製ゲームでさえも外国風の名前の登場人物が活躍する時代になっている。変な和訳はイメージを損なうだけで百害あって一利なしではないか。※このようなことは物語や絵本の登場人物にかぎらない。新たな惑星の名前についてS新聞では「美しい和名を公募してはどうか」と主張していたが、セレスやカロンじゃなぜいけないのだろうか。この名前はすでに最大の小惑星の名、あるいは冥王星の衛星の名として日本の天文好きにも定着している。そしてその外側のUBなんとかについてもジェナという美しい名がある。世界中がセレスと呼び、カロンと呼んでいる星を、日本だけが別の名で呼ぶ理由などはない。そんな情報の孤島化は御免被りたいものである。
2006年08月21日
コメント(7)
日本の戦争責任についてどう考えるかと問われたら、わからないというのが正直なところである。一つはそもそもあの戦争で日本が責任を負わなければならない行為とは何だったのか。そしてもう一つは、そんな責任を問われるような行為について、誰が責任を負うのか。この二点である。※前者について考えてみる。日本軍の残虐行為は否定しないが、それと原爆投下やシベリア抑留、匪賊による襲撃の残虐さの程度においてどう違うのだろうか。戦勝国の行為は糾弾されずに敗戦国の行為のみが問われるのも理不尽なら、日本の行為がナチドイツの行為と並列されるのはもっと理不尽だ。だいたいホロコーストのように、敵でもない支配地域内の少数派の市民を組織的に抹殺するような行為は一般の戦争の残虐さとは異質なのではないか。南京で虐殺があったとしてもそれは市民にまぎれたゲリラが相手であって、収容所で抵抗の手段のない市民を殺害するのとは全く別の話である。※責任を負うべき人となるともっと分かりにくい。一番責任のありそうなのはA旧戦犯なのだろうが、彼らにしても、あの難局で誰かが総理や大臣を務めなければならず、たとえ彼らではない別の人達がその席にいたところで戦争を避け得たとも思えない。国民の多くもそれをわかっていて、だからこそ、A級戦犯遺族に恩給が支給されても、ほとんど反対の声がでなかったのではないか。あの戦争について、誰か少数の特定の人々の責任に帰すということ自体がどうも無理なのではないかと思う。 ※このように日本の戦争責任というのはつきつめていくとよくわからないのだが、じゃあ、日本が戦争責任をなにもとってこなかったかというとそんなことはない。敗戦国としての賠償責任は負ってきたし、その責任は果たしてきた。週刊新潮のコラムによるとスイスにまで日本からの賠償金が支払われたというので驚きである。そしてまた、戦後の世界秩序の中で敗戦国としてのハンディは負ってきたし今も負っている。国際連合はもともと連合国と訳すのが正しいし、その中では戦勝5カ国がP5として特権的地位を有している。従って日本が常任理事国の地位を求めたところで、それは第二次大戦の戦勝国クラブとして発足した国連の基本性格自体を変える話になり、とても無理であろう。※賠償責任と国連内での旧敵国としての扱い。これだけで戦争責任は十分で、これ以上、いったい何を謝罪しろというのだろうか。
2006年08月19日
コメント(4)
「ハウルの動く城」をみた。公開中の批評が芳しくなかったので、あまり期待してはいなかったのだが、すごくよかった。たぶん他のジブリ作品に比べると、絵のタッチがどことなく子供向けアニメのようにもみえるところがあり、それが評価の低かった原因なのだろうか。※これをみてあらためて思ったのは、極彩色の異世界ワールドはやはりアニメの本領だということ。極彩色という点では「千と千尋の神隠し」にも共通するのだが、個人的にはこちらの方がはるかに好みだ。「千と千尋の神隠し」ワールドが夜店や観光地の書割の極彩色なら、「ハウルの動く城」は純粋メルヘンの花園の極彩色といった感じだろうか。そしてなによりも、やはりハウルがすごく素敵で、最初の空中散歩の場面など、見るだけでうっとりする。こういうのって実写でやろうとしてもまず無理だろうな。※「自分をきれいだと思ったこともない」と言う主人公のソフィーだが、物語の中ではとにかくもてる。超美形魔法使いハウルは最初からソフィーの肩に手をかけ、空中に誘うし、物語の後半では「ソフィー、君を守るために、もう逃げるのはやめるよ。」と聞いただけで泣けるセリフをいう。それだけではない。彼の幼い弟子はソフィーを慕い、彼女が出ていきそうになると「ソフィー行かないで」と泣いてしがみつく。そして最後に登場する魔法で姿を変えられた王子はソフィーのキスで元の姿に戻り「愛する人のキスで魔法がとけた」とソフィーに礼をいう(ハウルの立場はどうなるんだ?)。しかもこの時のソフィーは魔法で90歳の老女になっていたという設定なのだから、愛は年の差を超えてということなのだろうか。現実世界では「自分をきれいだと思ったこともない」程度の容姿ならさしてもてるわけもないし、ましてや老女の姿だったら女性ともみなされないだろう。まあ、このあたりがメルヘンのメルヘンである所以なのかもしれない。※このアニメは魔法と近代兵器が同居する世界が舞台となっており、物語の背景には魔法使いもまきこんだ大戦争が描かれている。気の利いた評論家なら、このアニメのテーマを反戦にすえるのかもしれない。でも、実際には、戦争というのは単なる舞台装置で、テーマとしては愛の純粋さが強く印象に残る。特に、ソフィーがハウルに叫ぶ「私きれいでもないし掃除くらいしかできないわ。でも、あなたの役にたちたいの。」という言葉は、よく少女の気持を表しているように思う。メルヘンワールドならぬ現実世界のソフィーは、重い通学かばんをかかえながら、はるか前をさっそうと歩くハウルの姿をため息をつきながら眺めるばかりなのだけれど。
2006年08月16日
コメント(2)
K国のテロリストが日本の警察庁長官を狙撃するという内容の小説であり、もちろんこれは実在の事件をモデルとしている。あの事件で本当にK国は関係なかったのだろうか。何かまだ隠された真相があるのではないか。小説を読みながら、何度もそんな疑問を強く感じた。※以下、実際のあの事件を思い出してみる。あの時、事件現場にはK国のバッジが落ちていた。あのバッジはK国国民にとっては出身成分(階級)を意味する大切なものだという。すくなくとも土産物として買えるような代物ではない。ところがなぜか警察は現場に落ちていたK国のバッジについては、早々と偽装と判断してまともに捜査した形跡がない。たとえ偽装であったとしても、これほど入手しにくいものなら、入手経路をわりだすのが普通ではないのだろうか。狙撃事件だけでなく、あの教団が起こした一連の犯行全部にかかわることであるが、オウム幹部早川は何度もK国に行っていたという。彼が逮捕されてからの報道でもあるので、嘘ということはないだろう。ところが裁判が進むにつれて、彼のK国行きの話はほとんど報道されなくなった。いったい彼はなんの目的でK国に行っていたのだろうか。狙撃事件にかかわっていると疑われている信者を含め、何人かの信者はいまだに行方不明である。彼らは最高幹部というわけでもないし、さして組織の中枢にいたとも思えない。事件後次々と幹部信者が捕まったり自首しているなかで、なぜ彼らだけが完璧に姿を隠しているのだろうか。もしかしたら彼らこそが教団とK国の接点を知っているからだとみるのは考えすぎなのだろうか。そしてまた、もう一つの疑問、教団の最中枢にいた幹部がなんの刑事責任も問われていない、逮捕すらされていないということも、これと関係があるのだろうか。※警察庁長官狙撃事件のみならず一連のオウムの事件は、K国と深いかかわりがあるのだが、このことを政府は隠したがっており、警察もまた追求を控えているとみるのは陰謀論の読みすぎなのかもしれない。でも「ラスコーリニコフの日」を読むと、もしかしたらそんなとんでもない真相もあるのかもしれない…なんていう気もしてくる。
2006年08月09日
コメント(0)
数学者であり天文学者であったガウスは天体観測をしているときにいつも測定誤差に悩まされていたという。そんな誤差をみているうちに次のようなことに気づいたらしい。・小さい誤差は大きい誤差よりも起こりやすい。・誤差にはプラスもあればマイナスもあり、ただしい測定値は誤差も含んだ測定値の真中辺にあるらしい。普通に考えればあたりまえのことなのだが、そこは天才でどこまでも凡人とは違う。この誤差の分布についてのグラフを書き、ついにこれが一定の式で表せる曲線であることを発見した。だから正規分布曲線のことをガウス曲線ともいう。※中学生の身長体重や同じ種類の植物の花や葉の大きさなど、自然界のたいていのものはこの正規分布曲線を描くというし、よくできた問題の点数分布もこの形になる。これに限らず、いくつもの要因が複雑にかさなりあってでてくるものは、ほとんどといってもよい。それだけではなく、ある集団からサンプルを選んで平均をとっていくとその平均の分布はかぎりなく正規分布に近づくし、2項分布といって両方の確率が同程度の二つのものを何度かくりかえしてでてきた結果をならべる(釘をいくつもうった板の上から多くの玉を落し、その玉がいくつもの釘にぶつかって落ちたところなど)とこれも正規分布曲線に近づくという。※この正規分布の数式こそは「神の愛した数式」なのかもしれない。ちなみにこんな数式である。f(x)=1/√2π*e^(-x^2/2)…どうもうまくできないが。こんなによくでてくる数式であり、曲線なのだが、目に見えるもので正規分布曲線を描いているものというのは不思議にないように思う。いくつもの要因がからみあってでてくる数値。もしかしたら火山噴火などのときに舞い上がった火山礫や溶岩が落ちて固まるところなどは数値で示せば正規分布を描くのかもしれない。そうだとしたら、正規分布曲線をみたときに、誰でもすぐに連想する火山の形というのも決してただ似ているだけではないのではないか。あの富士山の裾野の曲線…あれももしかしたら正規分布曲線の一部なのではないか?学のある人がいたら是非教えてほしい。
2006年08月08日
コメント(2)
去年辺りから日本の人口は減少局面に入ったという。そのせいだろうか。かっては日常的光景だった外で集団で遊ぶ子供たちの姿が消えた。公園を占拠するのはゲートボールのお年寄りかホームレスばかり。そして街を歩けば空き地がいやに目に付くようになってきた。その空き地も小規模宅地の敷地でしかないので大きな建物ができるわけでもない。かくして虫食いのように小さな駐車場ばかりが増えていく。※この空き地が目立ってきたのは少子高齢化のほかに他の理由もあるように思う。それはかってほど一戸建て住宅に住みたいと思う人がいなくなったのではないか。あの高度成長期に都会にでてきた次男坊、三男坊達は生活の基盤ができると、とにかく一戸建て住宅をほしがった。庭付き一戸建てこそは人生の成功の証であり、幸福のシンボルのようにも思われていた。どうしてあの時代、人はあれほど庭付き一戸建てにこだわったのだろうか。それはたぶん家というものを子供に継承していくもののようにとらえていたからではないか。ちょうど田舎で家を継いだ兄貴の家がそうであるように。そして自分達は老親と同居するつもりはなくても、結婚した子供夫婦や孫は自分達と同居するものと思っていたのではないか。そのためには三世代同居もできるような家を確保しておかなくてはならない。子や孫に囲まれて老後を過ごすのが幸福で、一人暮らしや施設の老人は不幸である。そんな通念もすいぶんながく支配していた。※でも今は時代は変わった。結婚した子供夫婦が親と別居するのは当然で、親の方も同居は望まない。子供と同居している老人の多くは実は子供夫婦とではなく、未婚の子供との同居だ。そんな時代なら一戸建てよりも管理も楽でいざとなればすぐに引っ越せる集合住宅の方がよいにきまっている。街の空き地は少子高齢化という以上の日本の家族構造の変化を反映しているのかもしれない。一戸建て住宅に三世代がわいわいがやがやと住んでいる家族は、すっかり少数派になってしまったように思う。
2006年08月06日
コメント(4)
窮極の愛の物語で、たぶんこんな愛は、フィクションの中にしか存在しない。主人公の心情をたどりながら、ふと「ニ都物語」を連想した。あれもまた窮極の愛の物語だから。推理小説としては、つっこみたくなるところもけっこうあるのだが、とにかく主人公のキャラとその愛の形が透明でせつなくて、おすすめの本である。ところで小説の標題になっている容疑者Xというのは何なのだろうか。主人公を意味しているとともに、Xというのは数学の世界では変数を意味する。数学者である主人公の完璧な計画が変数Xによって徐々に狂ってくる。そんな含意もあるのかもしれない。※「博士の愛した数学」もそうだけれども、小説の世界では最近数学者がはやっている。単なる「頭がいい」というのとは違って、「数学ができる」というのにはさらに別の意味があるように思う。もちろん「数学のできる」人は頭がよいのだが、いわゆる「頭がいい」人が皆数学ができるというわけではない。なんか「数学ができる」というのは凡人集団の「頭がいい」からさらに一線越えているような感じがする。それはちょうど、原始社会や古代社会で呪術師や霊的能力があるとされた人に人々が感じたであろうと同じような畏怖と尊敬の感覚が「数学者」という言葉にはこめられているのではないか。だからこそ「博士の愛した数学」や「容疑者Xの献身」の数学者が世間的にはかなり変な人であっても、十分に魅力的な人物造形になっているのではないかと思う。※※ ところでこんなサイトをみつけた。これって本物なのだろうか。http://wibo.m78.com/clip/img/127420.jpgこれ自体はどうでもよいことだと思うが、マスコミ人士が一般人をどうみているかという感覚はなんかよくわかる。
2006年08月05日
コメント(4)
ときどきデパ地下に行くのだが、最近めっきりみなくなったものがある。それは試食コーナー。たしか漫画「美味しんぼ」で試食で食事をすませるホームレスの話があったが、今ではそんなのまず無理だろう。試食コーナーが減ったのは、下流社会化で本当に試食で食費をうかせる人が増えたためなのか、ただのものは遠慮なく利用とばかりに試食だけして買わない客が増えたためなのか。一時代前なら、試食をしたらなんとなく買わなければ悪いと思っている人だってけっこういたのだが。※試食にかぎらないのだが、もらうものはもらう、ただのものは遠慮なく利用するという感覚の人が増えているのではないのだろうか。生活保護をはじめとする様々な扶助制度は、実際には権利のある人はもっといると思うのだが、公的福祉をうけることに抵抗があるとして申請をしない人も多い。まあ、これはプライバシーとか受給者の尊厳をふみにじるような窓口の対応にも問題があるのかもしれないが。たぶんこれからはそんな公的福祉を受けることにも抵抗のない世代がどんどんでてくる。今のフリーターとかニートとかよばれている層も今後中年になり親とも死別すればあっというまに生活が困窮するだろう。そうでなくても給料の低い不安定な仕事につきながら親と同居している若者は多い。そういう人達がどっと生活保護の窓口に殺到するような時代になったら、どうなるのだろうか。※利用できるものはなんでも利用する、でも、金でももらわないかぎり社会全体のためには舌をだすのもいやだ。こんなことでは世の中はなりたってゆかない。最近、図書館の本を平気で切り取るような人もいるというが、公的図書館だってこれでは税金がいくらあってもたりない。最近のプールの事故も公的責任(もちろんあるのだが)を問う声ばかりが聞こえてくるのだが、それ以前にあれほど大勢の人がいたのに、なぜ惨事の前に注意したりする人がいなかったのかも不思議である。
2006年08月02日
コメント(9)
ときどきデパ地下に行くのだが、最近めっきりみなくなったものがある。それは試食コーナー。たしか漫画「美味しんぼ」で試食で食事をすませるホームレスの話があったが、今ではそんなのまず無理だろう。試食コーナーが減ったのは、下流社会化で本当に試食で食費をうかせる人が増えたためなのか、ただのものは遠慮なく利用とばかりに試食だけして買わない客が増えたためなのか。一時代前なら、試食をしたらなんとなく買わなければ悪いと思っている人だってけっこういたのだが。※試食にかぎらないのだが、もらうものはもらう、ただのものは遠慮なく利用する…こんな感覚の人が増えてきたらどうなるのだろうか。生活保護をはじめとする様々な扶助制度は、実際には権利のある人はもっといると思うのだが、公的福祉をうけることに抵抗があるとして申請をしない人も多い。まあ、これはプライバシーとか受給者の尊厳をふみにじるような窓口の対応にも問題があるのかもしれないが。たぶんこれからはそんな公的福祉を受けることにも抵抗のない世代がどんどんでてくる。今のフリーターとかニートとかよばれている層も今後中年になり親とも死別すればあっというまに生活が困窮するだろう。そうでなくても給料の低い不安定な仕事につきながら親と同居している若者は多い。そういう人達がどっと生活保護の窓口に殺到するような時代になったら、どうなるのだろうか。※利用できるものはなんでも利用する、でも、金でももらわないかぎり社会全体のためには舌をだすのもいやだ。こんなことでは世の中はなりたってゆかない。最近、図書館の本を平気で切り取るような人もいるというが、公的図書館だってこれでは税金がいくらあってもたりない。最近のプールの事故も公的責任(もちろんあるのだが)を問う声ばかりが聞こえてくるのだが、それ以前にあれほど大勢の人がいたのに、なぜ惨事の前に注意したりする人がいなかったのかも不思議である。
2006年08月02日
コメント(0)
こんな話がある。ある島に企業進出の話があり、これに対して自然保護や環境という視点から反対運動がわきおこったという。「地球にやさしく」とか「美しい自然を守れ」というわけである。そして反対運動は勝利し、企業進出は立ち消えとなった。ただ、その後、この反対運動を主導していた青年は島を去ったという。島には就職先はなかったし、細々とした農業はやりたくもなかったからである。また、運動の最中には、「環境保護」とか「自然を大切に」というスローガンにひかれ、多くの人が都会からやってきたが、彼らのほとんどは島の民家にはいられず、港近くのホテルに泊まったという。暑いし虫がでるのががまんできなかったのである。※言っていることと行っていることを一致させるのはこれほどに難しい。だから物事を考えるときは言葉の美しさだけでなく、それを言っている人の行動をみる必要がある。自分の子どもには英国人の家庭教師までつけて英語を教えながら英語教育不要論をとなえる論者のおかしさについては何度か日記に書いた。これ以外でも愛国心教育やゆとり教育をとなえる論者達は自分や自分の子どもにはどんな教育をしているのか、いつも疑問に思っているし、ボランティア必修論議についてもまた然り。※そういえば今はすっかり死語になっているが、かって「進歩的知識人」という言葉があった。当時は進歩的でなければ知識人ではないという風潮があり、ここでいう「進歩的」とは社会主義思想に対するシンパシーを意味していた。中高生でも、そういう立場に共感をしめし、左翼的言辞を弄するのが知的でかっこよいこととされていたが、言語と行動との一致を検証していたらだいぶ見方は変わっていただろうと思う。あの頃、社会主義体制を賛美し、人と人とが競争者や敵ではなく、友や仲間としていられる社会の素晴らしさを説いた人は沢山いたし、そんな社会主義国家が世界で増えつつあることをうれしそうに語る人は多かった。でも、そうした人達の中で実際に社会主義国家に移り住んだ人はただの一人もいなかったのである。※いや、それどころか当時の指導的な知識人の中にはこんな発言をしていた人もいる。発言者も故人であるし、ハンガリー動乱もすでに歴史といえば歴史なのだが、それにしてもちょっと…。・大内兵衛【法政大学総長:故人】「ハンガリアの国の場合は、われわれよりももっと…(笑)。われわれもどうだか分からないが、われわれよりももっと(引用者注:政治的成熟度の)程度が低かったということがあると思う。」「ハンガリアはあまり着実に進歩をしている国ではない。あるいはデモクラシーが発達している国ではない。元来は百姓国ですからね。」出典元:1957年4月号『世界』より
2006年07月17日
コメント(4)
今回のワールドカップで印象的だったことを書いてみる。といっても、サッカーのことはまるで知らないのでミーハー的事項になるのは御容赦を…。まず、なんといっても日本-クロアチア戦で中盤もすぎたころ、突然、選手交代、そしてクロアチアのベンチから出てきた美少年?その名もルカ・モドリッチ。少女漫画なら無意味に背景に薔薇の花びらなんてでてきて、来週に続く…といったところなんだけど。ああ、こっちむいてよモドリッチ、どこに戻るのモドリッチ。で、ネットで検索したらついに見つけたモドリッチ。アップにしたらこんな顔。これなら4年前にちょこっとブームになったイルハンには勝ってるんじゃないのかしら。こうなったら、ぜひぜひあのDにブームをしかけてもらいたい。参照:http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/photo/200603/im00034122.htmlなにしろ昨今はボクシングのK兄弟に女性ファン殺到なんていう理解不能の現象も起きているのだが、そろそろ原点にモドリッチしてこんなタイプに目を向けてはどうだろうか。ブームになれば当然にDが広告に使う。モドリッチなんて金融商品かなんかにたしかあったと思うし、CMキャラにだってぴったりだと思うけど。それ以外でも、髪がモドリッチと整髪料の広告、若さがモドリッチと健康食品の広告、いろいろと出番はある。
2006年07月10日
コメント(6)
少子化対策の一環として、政府が結婚相談所を作るなんていう発想があるらしい。若者に出合いの場がないということが非婚化の原因であるという発想らしいが、そこでどういう選択基準で伴侶が選ばれるかを想像してみれば真の非婚化の原因がよくわかるのではないか。たぶん年収の少ない男性は対象外とされるだろう。フリーターとかアルバイトとかいうのも論外である。ところが今現実に起きているのは正社員と非正社員、高収入のエリートとそれ以外といった若者の二極化である。そう考えると非婚化の最も大きな要因は、出合いの機会がないことよりも、経済的基盤が安定せず、結婚どころではない若者が増えたためとみるべきであろう。政府がやるべきことは、結婚相談所をつくったり、児童手当をばらまいたりすることではなく、まず雇用対策ではないか。※そしてまた、出合いの機会がないというのと同じくらい強力に流布している迷信として、男女共同参画意識のない男性が多いから結婚しない女性が増えたというのがある。要は女性は能力を発揮し仕事を続けたいと思っているのに、男性の方には妻が働いていても家事を等分にまかなう気がないから女性が結婚を躊躇するのだという。そしてこれをまに受けて、結婚相談所などで、家事を積極的にやるなんてことを釣書に書く男性もいるらしい。でも社会的に発言している女性と違って多くの人は能力発揮のために仕事をしているわけではないし、伴侶に望む条件として家事をやるかやらないかなんてどうでもよいことのように思われる。※たぶん古来から女性が結婚相手に望む条件はただ二つ。豊かで安定した経済生活を保証してくれることと、自分より優れた資質を持っていること。前者は実利的理由だし、後者は優れた子孫を遺すための本能的な理由である。そしてそれがかなわないのなら独身生活を謳歌した方がはるかによい。幸い今の時代は、様々な職種が女性に開放され、そのつもりで努力すれば普通の女性も経済的自立がはたせる時代である。※ある調査によると、男性は未婚率と年収がみごとに逆比例、つまり収入のない男性ほど結婚にしくいという状況があるのに対して、女性の未婚者は二つのグループに分かれるという。一つは高学歴で経済的に自立できる職業についている女性であり、もう一つは豊かな親と同居する専業主婦指向の女性であるという。高学歴化や高度産業化、そして少子化による兄弟数現象などを背景として、どちらのタイプの女性も増えている。非婚化の相当部分はやむをえない趨勢という面もあるが、それでも社会の安定とより多くの人の幸福のために政府のうつべき手はあろう。そうなるとやはり最重要課題は若者の雇用の安定である。まあ、特に若い男性の雇用の安定だなんていうと差別的にきこえかもしれないが。
2006年07月04日
コメント(8)
WCサッカーの試合の前に人種差別反対の宣誓を行うのにはどうにも違和感があった。サッカーと人種差別って、いったいどんな関係があるのだろうか。たしかに人種差別反対はけっこうなことだけれども、まるでワールドベースボールで、選手が核戦争反対を宣誓するようなものではないか。こんな疑問を日記に書いたら教えていただいた。※こうした宣誓を行う背景には、有色人種の選手に対する差別問題があるらしい。ヨーロッパの国の代表の中に黒人選手が入っていることがあるが、彼らに対するいやがらせがありFIFAもこれを問題視しているという。日本ではスポーツ界で活躍する黒人選手が差別をうけるなんて考えられないし、黒人のサントス選手を日本代表に入れることに反対する声があったということもきかないので、このあたりは、なかなかわかりにくいところである。※それにしてもクリアに結果のあらわれるスポーツの世界は差別が一番入りこみにくい世界ではないか。黒人選手が自国代表になることに反対するような人は、きっと黒人が上司や同僚にくることにも反対しているに違いない。スポーツのような超人的な資質の要求される世界ではなく、普通の人が普通に働いている職場の世界では、もっと深刻な人種差別があるのかもしれない。※「人種差別」というのは地球的にはやっかいな問題なのかもしれないが、どうも日本にいると実感しない。スポーツや芸能の分野で活躍している外国人は異人種故に逆に優遇されているとも思うし、そもそも異なる人種は反目したり対立したりするものだという感覚も理解しにくい。ありていにいってしまえば、天然の金髪人種には素直に憧れてしまうし、これは私だけではなく多くの日本人がそうなのではないか。ベスト8の試合の中では一番注目度の低かったウクライナ戦も、きれいな金髪の選手が多かったし、黄色いユニフォームもとても似合っていて、楽しみに見ていた。残念ながらベスト4には残れなかったのだけど。
2006年07月02日
コメント(4)
もう忘れてるかもしれないけど冬期五輪ではやったのはイナバウアー。なにしろ以前は同じポーズで男の子がマトリックスとやっていたのが、今度は女の子だもんね。ところで、今度のワールドカップでは何が流行語になるのだろうか。戻りっち?・・・なるわけないか。昔、モンチッチなんていうお猿人形がはやったことがあったし、もっと昔には「ぼくは泣いちっち」なんて流行歌もあったけどね。※日本の今度の相手はブラジルということで、トーナメント進出には悲観ムードがただよっているが、ここはぜひ半島国家の人々のねばっこさと根性を見習ってあきらめないでやってほしいものである。それにしても今回のワールドカップではアフリカ勢があまりめだたないようだ。いつも思うのだが、アフリカが勝っていると、決まり文句のように「傑出した身体能力」という言葉がつかわれるのに、ドイツなどが勝つと「ゲルマン魂」という言葉がでる。アフリカ人は身体能力で戦い、ドイツ人は魂で戦うということなのだろうか。
2006年06月20日
コメント(0)
世界中がサッカーに夢中になっている今だって、こんな思いをかかえている子供達がいる。そしてまた、紛争地帯の前線で、独裁国家の強制収容所で、これよりもさらに悲惨な境遇におかれた子ども、そして大人達もいる。普通の人には何もできないよというかもしれない。でも、ネット時代ではそんな普通の人の普通の「思い」を伝えるというだけでもささやかな「行動」にはなるのではないか。で以下は、はるなさんのところからの転載。※少なくとも、ぼくは2人の人間を殺した。AK47と呼ばれる小型武器で。小型武器とは、ぼくたち子どもでも扱える小さくて軽い武器のことだ。でも、この武器は僕らの国では作っていない。ぼくが使っていた武器は外国から入ってきたものだった。ぼくらのことをチャイルドソルジャー(子ども兵)と人は呼ぶ。小型武器を持って戦う兵士だからだ。でも、2年前までぼくはふつうの子どもだった。家族がいて友達がいて幸せに暮らしていた。ある日、大人の兵士が村にやってきてぼくを連れ去った。ぼくはその日から兵士になった。ぼくは人の殺し方を教え込まれ戦場で戦った。逃げようとした友達は大人の兵士に耳を切り落とされた。ぼくの目の前で友達が殺されていった。女の子は大人の兵士に乱暴された。怖かった。家に帰りたかった。お母さんに会いたかった。運よく、ぼくは大人の兵士がいないときに軍隊から逃げ出すことができた。村に帰ってきたが、友達は誰もいなかった。ぼくはみんなに「人殺し」といわれ学校ではいじめられた。家族や親戚からも怖がられ前みたいな幸せは戻ってこなかった。悲しかった。寂しかった。あるのは絶望だけだった・・・。ぼくは何度も死のうと思った。そして、何度も何度も自分自身に問いかけてみた。ぼくは何のために生まれてきたのか?ぼくはなぜ生きているのか?ぼくは生きる価値がはあるのか?ぼくにできることはあるのか?「もし、ぼくに何かできることがあるなら、ぼくには生きる意味がある 」ぼくはそう思った。ぼくに何ができるか?「ぼくとおなじ悲しみを、子どもたちに体験させたくない」ぼくはそう思った。ぼくには紛争の「悲しみ」を伝えることができる。ぼくには平和の「喜び」を伝えることができる。ぼくには、ぼくにしかできないことがある。今、ぼくは先生になってそのことを伝えていこうと思っている。ぼくの夢は学校の先生になること。むずかしいかもしれないけどあきらめずに夢を追っていきたい。 ぼくは13歳 職業、兵士。の本の ウガンダの子ども兵からのメッセージより何か感じられた方、何か行動に移す人は100人に1人といわれます。転載でも何でも結構です。その1人になってくれますか?
2006年06月12日
コメント(10)
話題のダヴィンチコードをやっと見た。いろいろな評価があるだろうが、原作をよく映画化している…というのが率直な感想である。本のなかの夜のルーブル美術館やテンプル騎士団の墓所を映像でみるだけでも、まあ、一見の価値はあるのだろうが、原作以上の魅力を期待するとちょっとがっかりするかもしれない。トムハンクスはトムハンクスにしかみえないし、一緒に行動する女性捜査官もそんなにきわだった感じはない。個人的には暗殺者のシラスにもっと焦点をあてたら映像的に面白いのではないかとも思うが、髪が白いだけでけっこう普通っぽい姿にはちょっとがっかりした。原作では色素欠乏症で目も赤く、一見して異形という感じで描かれている。※また、原作にはない部分で、信仰を持つ者に対して配慮したようなセリフもあった。科学的にはそのまま受け入れがたいが、魂のよりどころとしての宗教は必要というあたりが21世紀の常識人の宗教観なのだろうか。日本でもキリスト教徒を自認しながらイエスの奇跡は全く信じていないらしい遠藤周作氏のような人もいた。奇跡をおこさないイエスであれば、普通に結婚をし、子どもがいてもなんの不思議もない。一部の国では物議をかもしても欧米の多くの国では平静に映画が受け入れられているのも、信仰と奇跡は別ととらえる信者が多いせいかもしれない。※ただやはりこの原作、そして映画のイエスの血脈というテーマはとんでも話のように思われる。歴史的人物としてのイエスには子どもがいたかもしれない。しかし、同時代のイエスや弟子達は権力からも世界の中心からも遠いところにいた。マリアがたとえ子どもを産んだとしても。周囲の注目をあびることもなく、その子孫のゆくえも歴史の闇に埋もれたのではないか。血脈が今日まで残り、それにテンプル騎士団やローマ教皇が関連したというのは、ちょっと…という気がしてならない。
2006年06月07日
コメント(4)
「博士の愛した数式」を読んで以来、数学の本がなんとなく気になっている。この本は、ハードカバーでとっつきは悪そうなのだが、思い切って読み始めてみた。数頁ですぐ投げ出すのでは…最初はそんな危惧もあったのだが、読んでみるとそんな心配はふっとんでしまう。ぜひ一読をお勧めしたい。※例えば「博士の愛した数式」にも紹介されていた完全数。これは約数の和がその数自身になるという性質の他に連続した数の和であらわせるという性質があるという。6の場合は1+2+3、そして江夏の背番号の28では1+2+…+7という具合である。「フェルマーの最終定理」というタイトルにだまされて、それしか書いていないと思って敬遠すると損をする。数という最も身近なものにこれほどの不思議な性質があるということを再発見させてくれる本で、その意味で天体などについて解説した本と同質の面白さがあるように思う。※この本によると、証明はされていなくても三平方の定理や友愛数については古代から知られていたという。数には人知を超えた不思議な規則があることを、たぶん古代の人も気づいていたのだろう。数という文字には、命数とか数奇という熟語にあるように「運命」という意味もある。占星術の発達の背景には、古代人にとって最も規則の発見しやすい天体の運行法則を人の運命と結びつける発想があったというが、数についても似たようなことがあったのではないのだろうか。姓名判断もそうだが、最古の易である周易も数を基本にしている。筮竹の数の偶数と奇数を陰陽に対応させるわけである。※話がちょっととんでしまったが、最後にこの本に紹介されている数に関するトリビアを紹介する。26という数には独特の性質があるという。つまり25は5の二乗、27は3の三乗であるが、このように二乗数と3乗数にはさまれた数は無限にある中でも26だけであるという。ううん…どうでもよいといえば、どうでもよいのだが。
2006年06月02日
コメント(0)
ネタばれになるので書名はあえて書かないが、またまたこのシリーズを読んだ。…ということはこの何ヶ月かで4冊たてつづけに読んだことになる。もっとも既に浅見光彦シリーズは100冊でており、さらに今後も増えるであろうから、そのうちの4冊を読んだだけで、わかったようなことを書くのは僭越かもしれない。でも、4冊を読んだ限りでは、けっこうワンパというか、共通した傾向があるように思う。あげてみると、〇殺人事件があること(当然)〇その殺人のみたてや背景に伝説、説話等があること〇犯人は話の中途から登場人物としてさりげなく登場しており「犯人当て」の要素はとぼしいこと〇「推理」もけっこう常識的なもので奇抜なトリックをとくとかそうしたものではないこと〇殺人の動機はたいてい何年か前の別の事件にさかのぼること〇美しいゲストヒロインがたいてい登場し、浅見光彦に淡い恋心をいだくが、最後はさりげなく別れていくこと〇ゲストヒロインが殺されたり、実は犯人だったりするとかいったことはほとんどないこんなところだろうか。でも、そうしたお約束の語り口が安心感を与え、エンターテインメントとしては面白いのかもしれない。そういえば、ひょうひょうとしたフリーターが実は警察庁局長の実弟というのも、御存知水戸黄門や遠山の金さんなどの時代劇によくあるパターンである。ということは浅見光彦シリーズというのは、意外な犯人や奇抜なトリックをウリにする推理小説というよりも、殺人事件を味付け(不謹慎な表現だが)とした娯楽小説といった方がよいのかもしれない。
2006年05月25日
コメント(2)
映画「ダ・ヴィンチ・コード」の感想はいくつかネットに出始めている。カンヌ映画祭では不評ということらしかったが、ひねた観客でなければ、やはり面白い映画のようだ。チケットはすでに入手しているので、たぶん25日には見に行くつもりでいる。その後、感想も書くと思うが、その前にいくつか…。※この映画は世界中で物議をかもしており、その中心はイエスに妻子がいたという設定にあるようだ。妻については、どうしてそれがそんなに問題なのだろうかという気もする。聖書にはたしかにイエスの妻のことは書かれていないが、イエスが独身だったとも書いていない。たぶん古代社会では普通の男が30過ぎで独身のいうのはかなり異常なことだったはずで、何も書いていないということは、逆に考えると普通に妻がいたと考える方が自然ではないのだろうか。ただ、子供がいて、その血脈を守る秘密結社まであったという映画原作の設定となると、ちょっと首をかしげてしまう。そんな血脈が存在するのなら、なぜその人々が今まで一度も表にでなかったのだろうか。エセ宗教の教祖でキリストの弟だの再来だのというのはよくある。かのサリン教団の教祖だって、何を考えたかキリスト宣言までやったではないか。キリスト教成立以降の長い歴史の中で子孫を名のる人物が一度もでてこなかったことからすると、やはり血脈(本人も周囲も認める血統)なるものは存在しないのではないか。もちろんイエスというのが世界史上の実在の一人物だとしたら、生物学的にDNAを受け継いだ子孫がどこかにいるということはあるのかもしれないが。※そしてまた以前の日記にもちょっと書いたが最後の晩餐にマリアが描かれているという設定にも無理があるように思う。本当に描かれているのがマリアだったとしたら、同時代の人が気づかないわけがないと思うのだが、それを21世紀の今になって修復したら明らかになったなどというのは変である。それに描かれているのがマリアだとしたら、そこにいたはずのヨハネはどうなってしまうのだろう。なぜヨハネは最後の晩餐から除かれたのか。マリアが普段は男装して美青年のヨハネになっていたなんてなると、またまたとんでも話になってしまう。※とんでも話というと日本にもイエスにまつわるとんでも話がある。イエスは実は日本人でそれも青森県人という話である。現に戸来村というところに墓までがあり、妻もいたし、子孫も健在であるという。斎藤栄や高木あき光氏も、この説をモチーフに小説を書いている。もしこれを映画化したら…たぶんダ・ヴィンチ・コード以上に物議をかもし、想像するだにちょっとおそろしい。
2006年05月20日
コメント(8)
DVDで見たのだが…想像していたのとはかなり違っていた。なんというか痛快な復讐劇を期待していたのだが、荒唐無稽で結末もすっきりとしない。原作は日本の漫画だというが、たしかにあまりはやらない漫画にありそうなストーリー展開である。とここまで書くとひどい映画のようだが、これがなかなかなのである。※主人公の俳優がとにかくうまい。鬼気迫るほどの熱演で、ヒロインもよい。音楽や画面も美しく、ストーリー展開のテンポもよい。要するにストーリーははちゃめちゃなので、それを楽しむつもり、つまりどうせ漫画とわかっていて気楽に見ている分には十分に楽しめる。韓流というのが、なにかと話題だけど、韓流の魅力ってもしかしたらこんな荒唐無稽なのを大真面目に美しくやるところにあるのかもしれない。あの冬ソナだって、偽の記憶注入とか、けっこうけちゃくちゃだったし、「秋の童話」も赤ちゃん取り違いに始まって難病、交通事故とすごい物語展開になっている。以前見た「外人球団」とか「冬の旅人」もけっこう波乱万丈で決して現実にはないような展開であった。※大好きな漫画で、ぜひ実写化してほしいと思っている「20世紀少年」も、韓流で翻案して映画化したら面白いかもしれない。
2006年05月08日
コメント(0)
1950年代の実話を基にして作った映画であり、題名のグッドナイトアンドグッドラックというのは主人公のキャスターが番組の最後にいうきめ台詞である。赤狩りによる空軍中尉の解雇を報道の力で撤回させるまでの話だが、背景に流れる当時流行ったジャズナンバーとともに、それ以上に歴史の流れを感じさせる描写が随所にみられる。第一、主人公の職場は白人男性ばかりである。第二、女性もでてくるが、職場結婚は禁じられている。第三、登場人物のほとんど全員が煙草をすう。当時はあたりまえだったのだろうが、50年もすれば世の中はここまでかわる。そしてなによりも変わったのは、たぶんこの映画のメッセージとなっているマスコミの責任と役割の持つ重要性ではないのだろうか。ネットのある今だからこそ、あえてこうしたマスコミにとっての「古きよき時代」を扱った映画が公開される意味は大きい。※主人公のキャスターは親が共産党員であるが故の解雇の不当性をまずとりあげる。親の政治信条と子は無関係というあたりまえのことも、社会的ヒステリーに陥った当時には通じなかったようだ。親は親、子は子…こう考えてみて、ふとごく最近の日本のマスコミを連想した。このあたりまえのことが分別できずに有名政治家の子女の私生活をとりあげた週刊誌があった。問題視されはじめると、今度は原稿料で碌を食む腹話術評論家を何人もならべて特集を組む始末。「政治家の子どもに生まれたのは宿命」だとか、「裕福で特権もある生活をしていたのだから我慢しろ」とか、これでは親が共産主義者なら子どもも解雇は我慢しろというのと大差ない。※この映画を「マスコミの皆さん、しっかりしてくださいよ」というメッセージとしてうけとるのはよいけれども、「社会を啓発していくのはマスコミの役割」ととらえるのは、今の時代では、もはや勘違いなのではないか。前述の政治家の子弟についての週刊誌報道の例をだすまでもなく、マスコミにはマスコミの批判は期待できず、かえってネットの方に多様な意見があったようである。広い情報パイプや専門家とのつながりを持つマスコミの役割というのは相変わらず重要だが、それを大衆がうのみにする時代はとうに終っている。それにしても、あの日本マスコミの社長御一行が、先月10日にピョンヤンを訪問した事実ってなぜ当のマスコミは報道しないのだろうか。アサヒはともかく読売や産経もこの一行に加わっていたのかどうかはとても気になるのだが。
2006年05月04日
コメント(4)
この頃たてつづけに読んでいる浅見光彦シリーズである。くせのないうす味スープといった感じで電車の中で娯楽として読むのには最適である(長距離通勤の方はもっと内容のあるものをお薦めする)ように思う。特に本作は、大好きな宮沢賢治ワールドを踏まえているような題名にひかれて手にとって見た。銀河鉄道や風の又三郎だけではなく、さいかち淵や毒もみのすきな署長さんまでがでてくるのがうれしい。※ネタばれになるので、内容は書かない。ただ前に読んだこのシリーズ(津和野殺人事件、中央構造帯)に比べると、ストーリーも登場人物も暗く、陰惨な感じがする。そしてまた、宮沢賢治の世界とそれを借景にした「殺人事件」がこんなにあうなんて思わなかった。たしかに宮沢賢治の童話には救いようのない暗い話が多いし、さいかち淵なども無邪気で明るい子供の世界というよりも、ちょっといじめの匂いのする話である。まあ、そのあたりが宮沢賢治が純粋な童話としては同時代に受け入れられず、子供よりも大人のファンが多いゆえんなのかもしれないが。※それにしても宮沢賢治は、いろいろと他の作家の想像力を刺激するようである。この作品もそうであるが、井上ひさしの戯曲「イーハトーヴォの劇列車」などもなかなか面白かった。ゲームでは「イーハトーヴォ物語」なんてのもあるし、漫画ではますむらひろしの「アタゴオル物語」などは土俗的で不思議な賢治ワールドの影響が賢著にみられる。
2006年04月16日
コメント(0)
「ユダの福音書」というのが解読され、それによるとユダの密告は裏切りではなく、イエスの意をうけてのものとなっているらしい。歴史的事実はともかく、こうした考え方が初期キリスト教の中にあったということ自体がかなりセンセーショナルである。たしかにイエスの処刑、そして復活がなければキリスト教は成立しなかった。その意味ではユダこそがキリスト教成立に決定的役割をはたしたわけで、こうした考えがあっても不思議ではない。※裏切り者ユダが実は立派な弟子だったとなると、ユダをユダヤ人の代表のように扱い、ユダヤ人差別の理由にしてきたことはどうなるのだろうかという議論もある。しかし、よく考えると(考えなくても)ユダだけでなく、他の弟子もユダヤ人である。ユダやイエスを処刑した側だけをユダヤ人として差別や迫害の口実にしてきたこと自体、かなり御都合主義的である。※ユダが裏切り者どころか実は最もよくイエスの教えを理解していた弟子だったとなると、ローマ教皇の権威はどうなるのかという疑問もわく。教皇は一番弟子ペテロの後継者をもって任じており、教皇庁の建物もペテロの墓の上にあるといわれている。これについても、ユダの福音書自体がかっていくつもあった福音書の一つで「正当なものではない」とすれば、あまり問題ないのではないか。※やがてこのユダの福音書をもとにした映画とか文学とかが現れるかもしれないが、現実の影響という意味ではあまり大きくはないのかもしれない。
2006年04月10日
コメント(6)
何かと話題のPLUTO003を読んだ。オリジナルの方の「地上最大のロボット」をリアルタイムで読んだのだが(年がばれる?)、これってこんなに深い話だったんだ。手塚版でも漠然と感じていたのだが、ロボットである哀しみ、兵器であることの哀しみ…これが、浦沢ワールドの雰囲気と本当によく合う。そういえば、オリジナル版の最後のシーンで、破壊された(殺された)ロボット達をあげ、「いつの日か人間を裁くのだろうか」とあったのは、こんな意味だったのか。※アトムでもこの「地上最大のロボット」編はかなりの大作であったが、それでもこんなに話をふくらませる余地があったのはおどろくばかりだ。そういえば登場するロボット達の背景事情も手塚版ではあまり描かれていなかったし、最後にでてくるボラーもちょっと唐突な感じがした。ノース2号が執事をやっていた理由とか、エプシロンの育てている子供達の事情とか…。浦沢PLUTOを読んでやっと積年の疑問が氷解した(笑)。
2006年04月01日
コメント(2)
昨日のシアターオンアイスの放送にはがっかりした。五輪の映像やどうでもよいトークばかりに時間をとり、かんじんのスケーターの映像はカットしたりとばしたりしまくっている。これでは、まるでみたけりゃ金を払って会場に来いといっているようなものである。※久しぶりにみたスルヤ・ボナリー選手。迫力満点の演技に司会者も「高い身体能力」を連発していた。でも、身体能力だけでなく高い芸術センスや表現力がなければ、なかなかあそこまではできない。選手時代にはみとめられなかった技を次々とくりだして本当に楽しそうに見えた。ああ、でもこの人、選手時代の「芸術点」はどうだったのだろうか。これ以上書くのはやめておくけど、美を競うスポーツをやるには、容姿もスタイルもちょっとイタすぎる。久しぶりといえば日本の本田選手もそうだ。プロデビューっていうけど、今まで何をしていたのだろうか。地味な黒い衣装に、地味な演技。現役時代よりかなり太っているし、なんかひきこもりの青年が突然出てきたという雰囲気だ。いろいろあったんだろうなあ、なんて余計な想像をしてしまう。これからはどうか幸せなスケート人生を…。さすがにプルシェンコ選手はカットなしでの放映。トリノではなく、ここ日本に来ての演技と思うと、また別の感動もある。せっかくだから日本の演奏家をよんで、また生演奏でやってもよかったのに。※ショーの後、プルシェンコ選手をスタジオによんでいたけど、話題は日本の選手のことばかりで、肝心のプルシェンコ選手のことは、ほとんど聞いていない。ちょっと失礼じゃないのかなあ。これでは日本の選手を誉めるためによんだようなものではないのか。プルシェンコ選手自身の競技人生や考え方もいろいろと聞きたかったのに。プルシェンコ選手については、一部では鼻が大きすぎるとかいう説もあるようだが、やはり素敵ではないのだろうか。漫画でいえば「トーマの心臓」のトーマとか、「風と木の詩」のジュールとかといった感じで。(なんか両方ともお耽美系のキャラなんですが、すみません。)
2006年03月06日
コメント(8)
日本アカデミー賞を見た。俳優がプレゼンをするあたりなど、本家の方式をそのままとりいれてあるが、何か業界内の互助組合的な盛り上げにしかみえないのはどうしてだろうか。大物俳優がスケジュールの都合で欠席しているあたりなど、事前に情報が知らされているのではないか…という意地悪な見方もしてしまう。賞をあげても本人がいないなんてことだったら、格好がつかないだろう。※結果は「3丁目の夕日」が各種の賞をほぼ独占したようである。でも主演男優賞をとった吉岡って俳優そんなにうまいのだろうか。映画「半落ち」を見たとき、他の俳優と比較してのあまりの下手さにびっくりしたことがある。この映画は文句なしによい映画らしい(見ていないので)が、原作の六さんを少女にしたのはどうにも違和感がある。あの時代、女性への門戸が閉ざされていたのはエリート職種ばかりではない。小さな自動車修理工場で若い社員を採用し、修理の仕方から教え込んで一人前にするつもりだったら、女の子はまず採用しなかったはずである。しばらくは勤めるけど、給料のよいサラリーマンと結婚してあわよくば専業主婦にというのが、多くの若い女性の夢だった時代だったのだから。※最近みた映画は「オリバー・ツイスト」。映画館の大画面はひさしぶりである。19世紀のロンドンの風景などそれだけでも見る価値があるし、純真なオリバー少年と小悪党との対比が面白く、映画としてはとてもよくできている。ただちょっと疑問に思うのは、なぜ今この映画を作ったのかという点である。資本主義揺籃期の下層階級の悲惨さを描くことで、社会主義思想の成立から冷戦構造にむかった20世紀の歴史を反芻したいだろうか。それとも冷戦構造崩壊後、ふたたび弱肉強食に向かうかに見える資本主義に警鐘をならしたいのか。要するに純粋なエンターテインメントとも言い切れない、この作品を映画化する意図がどうもよくわからないのだ。※「オィバー・ツイスト」の原作は日本でも発行されている。文庫本で上下2巻。映画の印象よりは長編であるが、機会があればぜひ読んでみたい。
2006年03月04日
コメント(2)
茨城のり子さんが亡くなった。彼女の詩で一番印象にのこっているのは「私が一番きれいだった頃」。彼女のように戦争期に青春をすごし、戦後も一人で生きていかなければならなかった女性達は大勢いる。戦争未亡人には子供がいなくても国からの支援があったが、独りで生きることを余儀なくされた彼女達もまた戦争の犠牲者ではなかったのだろうか。違うのは結婚後に夫を失ったか結婚前に相手となるはずだった人を失ったか…ただそれだけの違いにすぎない。祖父母の家には跡取りの叔父夫婦以外に居候のように暮らしている叔母さんがいた。そんな思い出を持っている人も多いのではないか。※さきの戦争は直接間接に多くの人に被害を与えた。戦争に行った人だけでなく徴用された人、空襲にあった人、引き上げ途中で被害にあった人や抑留された人。そんな中で戦争によって結婚の機会を失った女性は「戦争の被害者」と意識されることもなく、歴史の中に消えつつある。だからこそ忘れてはならないのではないか。戦争の被害の及ぶ範囲というのは普通に考えるよりもはるかにひろく及ぶということを。※中国残留婦人が実は多くの場合自発的に結婚して大陸に残ったのではなく、引き上げ途中の混乱の中で暴行などの被害にあって辛酸をなめてきたことも明らかになってきているし、山西軍も自発的に国民党軍に参戦したのではなくやむなく従軍してその多くが戦死しているという実態も問題となっている。こうした老いた戦争被害者には、もっと手厚い措置をすべきではないのだろうか。職業軍人や戦犯者などには、戦後早い時期から恩給が支給されていたことを思うとなおさらそんな感をつよくもつ。※※「私が一番きれいだった頃」はここで見られる。http://members.jcom.home.ne.jp/1228429601/when.htm
2006年02月21日
コメント(4)
なんでカーリングが五輪種目に入っているのだろうか。あれってどうみてもレクスポーツであって競技スポーツではない。選手村でもカーリングの選手ってちょっと肩身が狭いんじゃないのかな。だってスキーやスケートの超人的な選手の中にまじるとカーリング選手ってどうみても普通の人みたいだし。※別にこう書いたからってカーリングをおとしめたり選手の悪口を書いているつもりはない。ただ世の中には人間の技をきそう競技スポーツと誰でも参加できて楽しめるレクスポーツの二種があって、カーリングはゲートボールなどと同様に明らかに後者の範疇に入るというだけの話である。だから日本を応援してみているぶんにはよいのだが、スポーツとしての驚きや感動は別にない。国際大会もやっちゃいけないとはいわないけど、それはあくまでも親善目的のものでよいのではないか。オリンピックにこうした競技があるとなにか異質なものがまぎれこんでいるという気がしてならない。
2006年02月20日
コメント(2)
オリンピックのたびに感じることではあるのだが、どうしてマスコミは日本選手や日本のメダルにばかり大騒ぎするのだろうか。別に日本選手と知合いでも親戚でもない多くの人にとっては彼らがメダルをとろうがとるまいが、どうでもいいですよ~ではないか。まあ、選手にとしてでるためには半端じゃない努力をしてきたわけだし、それが報いられるのは多いにけっこうだが、それは外国選手にだっていえることだろう。※とくにひどいのは男子フィギュアの放送である。いったい世の中の人は高橋選手とプルシェンコ選手のどちらを見たいのだろうか。いっさいの雑念、先入観を払拭して純粋に美的見地から判断すればその答えはおのずと明らかなように思う。やっぱりああいうすらりとした長い手足や輝くような金髪をみると、もし神が実在するとしたら人間をこういうふうに作りたかったんだろうな…などとつい考えてしまう。外国語で取材するのはいろいろと大変だと思うが、そろそろ外国選手にスポットをあてた放送にきりかえてほしいものである。※オリンピック以外の大きなスポーツ大会であるワールドカップや世界陸上では、これほど日本偏重、日本選手偏重の報道はされていない。ワールドカップは日本戦についてはもちろん日本応援モードの放送をするが、それ以外の対戦についてもそれぞれの国の選手やチームの紹介などをして適当にもりあげる。初めから日本選手の活躍があまり期待されてない世界陸上などでは、有力選手の母国やバックグラウンドについてもっと丁寧な紹介がなされる。※トリノ五輪にだって様々な国の様々な選手が来ている。政変を経験した国やたった一人で参加してきた国など、選手の背景には日本選手以上の感動やドラマのある話も多いのではないか。そうしたものについてももっと丁寧に紹介してほしいものである。日本メダルの期待なんていう報道よりも、そちらを知りたい人だってきっと多いと思うから。
2006年02月17日
コメント(8)
節分、お月見といった古来からの行事は年々地味になっていくのに、クリスマスやバレンタインデーそれにハロウィーンといった舶来の行事は年々華やかさを増しているような気がする。たしかに家に小さい子供もいなければ、鬼のお面をかぶって豆まきでもないだろうし、ベランダにござをひいてお月見でもない。それにくらべるとバレンタインデーは職場や家族間でチョコレートをやり取りする行事としてすっかり定着しているようだ。普段だったらわざわざ買う気もしない何千円かの高級チョコレート…この日ばかり家族や自分へのご褒美として買ってもよい。職場の義理チョコについては、もっとお手ごろ価格のものでもよいけどね。※街に華やかなパッケージにつつまれたチョコが売り出される頃になると春も近い。昨日あたりからはずいぶん寒さもやわらいだ感じがする。チョコの包みをかかえて家路を急ぐと空には大きなオリオンがかかっている。あの三ツ星のベルトは昇るときは直立して昇ってくるが、沈むときは三つ手をつなぐようにして水平に沈んでいく。いつのまにかオリオンもずいぶん西の方にかたむいてきたようである。
2006年02月15日
コメント(4)
この物語りの前編にあたる「ケインとアベル」もそうであったが、作者のワールドにはひとつの法則があるようである。つまり人間というものはごく少数の優れた人間と多数の凡人にわけられるという法則である。主人公をはじめ主要人物はもっぱら前者であり、後者はその他大勢か惨めな悪役としてしか描かれていない。こういう物語を読む読者も、もちろん凡人なのだが、小説家としての作者の手腕によって主人公に感情移入しながら読んでいく。こういう小説って、何か自分がとてつもなくパワフルで優れた人間になったような気になって元気が出るゆえんである。※「ケインとアベル」でWASPの銀行家とポーランド移民のホテル王を描いた作者だが、この「ロスノフスキ家の娘」はそのホテル王の娘が大統領になるまでの物語りである。ケインもアベルも傑出した人物であったが、アベルの娘フロレンティナも、もちろんそこらのマドンナも真っ青になるくらいの完璧な女性である。数か国語を操り、ラドクリフ大を首席で卒業する知性もさることながら、人がふりかえるほどの美人で、家事なども完璧にこなす。父の反対をおして銀行家の息子と結婚してからは、洋装店の売り子として働き始め、またたくまに自分の店を持って、その店を一大チェーンにまでしてしまう。これだけをみるとおおよそ感情移入できそうもない主人公なのだが、それが実に魅力的なのである。※主人公フロレンティナは実に優秀な女性であるが、同時に様々な挫折体験もする。子供時代にうけたポーランド系故の差別やWASP青年との失恋。傲慢さゆえの失敗や不出来な娘等。しかし彼女はそうしたものを実に賢くのりこえていくばかりではなく、そうしたものをも成長の糧にしてしまう。特に素行の悪い娘について、過去の失恋体験などを語り、友人として接することでその親子なりの絆をつくっていくところなど示唆的である。彼女が米国大統領に就任するところで、この物語は終るが、読みおえてみるとこんな政治家がいればよいと思ってしまう。※いったい彼女の政治家として優れているところはなんなのだろうか。それは、個々の人間の問題と国家や社会全体の問題を同時に考えることができ、国防の問題と福祉の問題など別分野とされる問題をも相互に関連づけてとらえることができる能力ではないか。特に、公園の元軍人のホームレスと言葉を交わした体験から、福祉をとりまく諸問題をあぶり出すところは感動的であるし、ソ連軍の南アジア侵攻をくいとめる緊迫感あるやりとりも面白い。女性だから男性だからというのを強調すると差別になりかねないが、こうした様々な問題を有機的に連携させて全体としてベストのものをめざす能力というのは、案外、女性の方がむいているのかもしれない。※作者がこの物語を書いた頃は女性の米国大統領という話は大風呂敷をひろげすぎだといわれたらしいが、今だったらそれを大風呂敷だという人はいまい。日本のマドンナの中には総理になってほしいと思うようなのはとてもいないが、「女性だから総理大臣や大統領になれない。」などと考える人はぐっと減ってきたことは事実である。
2006年02月13日
コメント(0)
いよいよ始まった感動の祭典。開会式は少ししかみられなかったけど雪の結晶をイメージしたダンスや花火による聖火点火…なかなかよかった。※でも冬季五輪って少し競技多すぎやしないかなあ。リュージュとかスケルトンとかが競技になっているのなら、夏の五輪でもウォータースライダーが競技になっててもいいし、カーリングなんてどうみても氷上ゲートボールにしかみえない。だいたいカーリングって知名度が上がっても競技人口が増えているという話もきかないし、そもそも男女別に分ける必要なんてあるのだろうか。※夏季五輪の室内競技のいくつかを冬季に移して、冬季の方のもともとの競技は減らすというのも現実的なのではないのだろうか。夏季五輪といえば次は北京。中国は自国発祥の競技をオリンピック種目にしようなんてことは考えてないのだろうか。そうなると夏季五輪の種目はますます増える。それにカーリングもそうだけどマイナーな競技ってどういうふうに代表選考がされているのだろうか。中には「え、あの人がオリンピック選手?」というのもかなりいるのではないのだろうか。※入場行進は長いけれどもオリンピックのたびにみてしまう。世界の多様さを感じさせるまたとない機会だから。南北朝鮮の合同行進もすっかり定番となったようだ。しかし拉致以外の北朝鮮の国家犯罪も徐々に認知されてきているし、いずれあの国が崩壊したらナチドイツやポルポトをしのぐ凄惨な実態も明るみにでるだろう。いいのだろうか。今からあんな「お仲間イメージ」をふりまいていて。めちゃくちゃ韓国のイメージダウンになっているように思うのだが。
2006年02月11日
コメント(2)
マインドコントロールというものにうさんくささを感じてならないのは、世間一般に普通に行われていることに仰々しい名前をつけ、それをさも重大な奥義であるように喧伝しているところにある。たとえばカルト宗教に例をとれば、教祖がダライラマやローマ法王といった既存の権威をもちだし、そうしたものが自分を認めているかのように喧伝するのは「権威の法則」というらしい。でもこんなのは日常のCMで医学博士を出して健康食品の宣伝をしたり、美人女優を出して化粧品の広告をやるのとどこが違うのだろうか。最初から入信を薦めるのではなく、まず娯楽色の強い集会に勧誘し、徐々に入信にまで至らせるのを「段階の法則」というらしい。これって高額商品のお験し期間とどうちがうのだろうか。入信させようという人を賞賛してその気にさせるのは「賞賛の法則」。洋服売り場のねえちゃんも、「まあ似合いますねえ、素敵ですねえ」くらいのことはいう。ただでの旅行やパーティーの機会を与えて心理的負い目をつくり、入信させるのは「褒賞の法則」。試食販売で売りつける中にはきっとただで食べちゃって申し訳ないと思って買う人もいるだろう。かって嫁の来てのない農村でやっていたお見合い旅行パーティーも、この手口だったのか。こんなのを「マインドコントロール」とよんで、人格の解凍、変容、最凍結を起こさせて「カルトの人格」を作るなんていったってわけがわかんない。※商品の例をだしたけど、窮極の売りこみともいえる恋愛でだって、こういうカルトの手口はしっかりと使われている。まあ、あるHPに書いてあったことの受け売りだが、マインドコントロール評論家と同じように考えれば、男はみんなカルト教祖ということになってしまう。「オレは〇〇(著名人)の知合いなんだよね。」(権威の法則)とか、「君はとてもきれいだよ。」(賞賛の法則)とか言うのはもちろん、最初のデートのときにすべておごって次へつづくようにする(褒賞の法則)とか、いきなりホテルというのはなんだから喫茶店からはじめる(段階の法則)なんてのも、マインドコントロールの手法ではないか。※もちろん消費者保護や未成年者保護は必要であるが、粗悪商品を高額で買わされるのも、悪い男(女)にひっかかるのも、しょせんは自己責任である。同じように、カルトにはまるのも本質的には自己責任の範疇であろう。これは別にカルトの元信者を批判しているのではなく、そういう人にとっても「マインドコントロールされた」と考えるよりも、カルト入信体験も自分にとってはプラス面もあったはずだと肯定的にとらえた方がずっとよいと思うからである。恋愛だって同じこと。「悪い男(女)に騙され棄てられた」と考えるよりも、この恋愛経験も自分の人生にとってはプラス面もあるはずだと考えた方がよい。カルト入信も恋愛も、その体験をプラスとするかマイナスとするかは今後の生き方次第なのだから。いずれにしても被害者意識まるだしの受動思考からは何も生まれない。※それにしても世の中にはどうみても不釣合いのカップルがいくつもある。あれって皆上記のような「マインドコントロール」によるものなのだろうか。必ずしもそうとばかりも言いきれまい。なんというのかその…豪華なフランス料理をいつでも食べられるような人はかえってゲテモノ料理にひかれるのかもしれないし、従順な血統馬ばかりを押し付けられる種馬はときには自己主張の強いじゃじゃ馬を選びたくなるのかもしれない。まあ、これはあくまでも想像するしかないことではあるが。それにしてももてる呪文っていったい何だ?ドラクエにもそんなのはなかったぞ。
2006年01月28日
コメント(4)
この小説は長いこと反革命的ということで本家のソ連では発禁処分となっていたらしいが、読んでみるとうなずける。人間の平等、連帯という世にも美しい理想を掲げたはずの社会主義がなぜ幸福をもたらさなかったのか。これこそ、ある意味、人類史の謎ではないかとさえ思うのだが、その大きな理由の一つは、特定の理念を掲げる故に、精神の自由を圧殺していったことにあるのではないか。主人公のジバゴは類まれな独創的知性の持ち主であるが、そうした人ほど革命に適応できずに悲劇的運命にみまわれてゆく。社会主義革命下での知識人の悲劇を描いた小説といわれるゆえんである。※そんな精神的自由の圧殺のゆえだろうか。19世紀から20世紀にかけて、あれほど多くの傑作を生んだロシア文学も、革命後には、この「ドクトルジバゴ」を除いては、みるべきものがないようだ。しいてあげれば、「ドクトルジバゴ」にかわってソ連最初のノーベル文学賞の栄誉に浴した(「ドクトルジバゴ」の作者パステルナークはノーベル賞を辞退させられたという。)「静かなるドン」があるが、どうも粗野で陰惨な場面ばかりが印象に残って小説としてはあまり好きになれない。時代の激動の中で妻を愛しながらも人妻との不倫に溺れていく主人公という設定はよく似ているのだが、「ドクトルジバゴ」の方が、はるかに詩的で洗練されている。また、「静かなるドン」では、物語りの5分の2ほどを全体のストーリーとは無縁な革命戦士の英雄談が占めているのだが、この部分だけがいやに人物描写が類型的かつ平板である。作者ショーロホフは「静かなるドン」以外は、退屈な社会主義レアリズム小説しか書いておらず、「静かなるドン」もこの革命戦士が主人公になっている部分を除いては盗作なのではないかという話もあるそうだが、あるいはそれも本当かもしれない。もっともこの部分があったからこそ、「ドクトルジバゴ」と異なり、ノーベル賞受賞が邪魔されなかったのかもしれないけど。※その他のソ連文学でも、ソルジェニーツィンとなるとどこがよいのかどうもよくわからないし、作者は忘れてしまったが「虹」というドイツ軍侵攻を背景にした小説にしても愛国英雄賞揚といった域をでていない。きわめつけは「アンドロメダ星雲」という長編SF小説。ついに共産主義社会を実現した人類が他の知的生命との出会いを求めて宇宙に旅立つというユートピア小説なのだが、そこに描かれている世界は退屈極まる。でも、よく考えてみると、共産主義社会では、財産とか宗教とか差別とか偏見とか、そういった人間の葛藤の原因がすべてなくなっているというのだから、これを舞台にしても面白い小説になどなるわけがない。
2006年01月19日
コメント(0)
かねてから思っていたことであるが、世上唱えられている教育論議というものは大きく二種類に分けられるのではないか。一つは、他でもない自分自身や自分の子どもについて、こうやったからよかったとか、こうすればよかったとかというように、あくまでも自分の体験をふまえたもの。そしてもう一つは、最近の日本人はこうだから、こういう教育が必要だとかといったように、自分の体験をはなれて、国家全体あるいは社会全体といった視点から教育を論じたもの。前者の代表としては、受験勉強の効用を説く和田●樹などがいるし、後者の代表としては歴史教育の重要性を説く藤岡信勝や早期英語教育不要論を説く藤原●彦などがいる。※評論を読むときには、常に作者はどうなのかということを念頭においてみた方がよい。古来ものを書く人間は信用できない。徒然草の中で夭折を薦める文章を書いた兼好法師は長生きをしているし、若きウェルテルに触発されて何人もの青年が自殺したらしいがゲーテは決して自殺などしなかった。教育論も同様である。早期の英語教育は不要だといっている論者も自分の小学生の子供には英語を教えているし、日本の近代史を美化した教科書を広めようとする論者も自分の子供は別の教科書を使っているのではないか。教育というものは、身近で重要な問題であるだけに、自分や自分の子供は別だが、一般大衆にはこういう教育が必要だみたいな議論は警戒が必要である。※それでは自分の体験をふまえた議論ならよいのだろうか。これも必ずしもそうともいいきれない。マスメディアで声高に体験を語っている人々が必ずしも標準的な資質や性格を有しているわけではなく、むしろそうでない場合の方が多いからだ。受験勉強が人間的成長に有益であったとしても、それは和田●樹氏についてであって、他の人についてはわからない。数学者の秋●仁がいくら野山をかけまわって独創性を培ったとしても他の人間も同様とはかぎらない。※教育に関する評論は多いのだが、自分の体験をふまえたものにしろ、そうでないにしろ、そのまま万人に納得できるようなものは案外と少ないように思う。
2006年01月16日
コメント(0)
今話題の本「国家の品格」を読んだ。予想通り読みやすい本である。書評などをみると、日本人の情緒とか、武士道とか、そんなところばかりクローズアップされているが、この本がベストセラーになっている理由はもっと別のところにあるのではないか。改革とか競争、そして小さな政府などという言葉ばかりが連呼され、世の中が急速に変わってきているが本当にこれでよいのだろうか。機会均等とか能力主義といった掛け声の下で、競争が激化し、急速に格差が拡大してきているが、こういう社会は本当はよくないのではないか。おそらく多くの人が感じているであろうこんな疑問を、この本がうまくすくいとっているところにあるように思えてならない。だから正直いって、この「武士道」とか「情緒」を、「日本的ムラ社会」とか「横並び意識」とかにおきかえても、この著者の言っていることはなりたつように思う。※景気が回復しているといっても多くの人にはそんな実感はない。経済的困窮や失業を背景とする自殺者は相変わらず多いし、平日の図書館に行くと、背広を着た中年男性が所在なげにスポーツ紙を読んでいる姿が目につく。その一方ではIT長者が時代の寵児のようにもてはやされ、「勝組み、負組み」や「富裕層」といった言葉もすっかり浸透した。戦前ももちろん格差の激しい社会ではあったが、大多数の人には親族とかムラとかのよってたつ基盤があった。だからこそ失業したら実家の畑を手伝えばよかったし、老人介護や身障者の問題などもたいていはこの親族やムラの中で対処できた。今が違う。いったん「負組み」になったら、その背後には荒涼とした絶壁があるばかりだ。先進国中随一の自殺者数や急速に悪化する治安の背景にはこうしたことがあるように思えてならない。それなのに小泉総理は、さらに格差を拡大し、失業者を増やす政策をおしすすめようとしている。この著者ならずとも、本当にそれでよいのといいたくもなる。※そんなわけでむきだしの競争社会を批判し、「武士道」や「情緒」(これはムラ社会でも横並びでもよいと思うのだが)を再評価したあたりは、おおいに共感して読んだのだが、英語教育に疑問を呈したあたりは、やはり首をかしげてしまう。英語早期教育反対論者として急先鋒にたっている著者の子息は英語圏で幼少期を過ごし、帰国後も英国人の家庭教師をつけていたという。これにかぎらず、英語教育不用論を唱える著者のほとんどは、自分の子息には十分な英語教育を施しながら、公教育には英語は要らないと主張している。英語は要らないというのは、ある種の人々にとっては素朴なナショナリズムをくすぐられて心地よいのかもしれないが、実際の教育政策の場で英語が軽視されていけば、多くの子供達は確実に不幸になるのではないか。同じ授業時間なら、英語教育と日本の伝統・歴史についての教育とのどちらを自分の子どもに行ってほしいかと問われれば、そりゃ間違いなく前者である。※この他、この本には、美しい風景からは天才が生まれるとか、虫の音を音楽として聞くのは日本人だけだとかいった記述もあるが、これはほとんど眉唾ものの話として読んだ。著者はしきりに日本の田園や農村風景の美しさを賛美するが、じゃあ、御自分の子息に農村に住み農業をやらせる気があるかといえば、そんなつもりはさらさらないであろう。自分や自分の子どもには何を望むのかといった当事者意識をすっとばして、英語教育不用論や祖国愛教育をとき、農村や田園を賛美する。読みやすく面白い本ではあるが、しょせんは空理空論の域をでていないようにも思う。
2006年01月14日
コメント(6)
「国家の品格」という本が売れているらしい。書店で立ち読みした限りでは、あたりまえのことをあたりまえにいっているというだけで、特段買いたいという気も起こらない。人を殺してはならないということは理屈ではない。そりゃそうだろう。卑怯を憎む心を教えるべきだ。異議なし。まあ、こういう本は2~3日でさっと読んで後はBOOKオフに直行だろう。※それにまた、この著者があちこちで書いていることだが、どうしても賛成しかねる部分もある。例の国語は重要であるから国語教育に力をそそぐべきで、初等教育からの英語は必要ないというくだりである。国語が重要だから英語は必要ないという議論は、水が重要だからコーヒーはいらないというのと同じで、とんでもない愚論だと思う。同じ言葉といっても、母国語の国語と外国語の英語とでは、学校で教える意味も方法もまるで違う。母国語は日常生活の中で五感を使って習得するもので、学校の授業はその補助的な意味しかない。古典は別として、現代国語の授業など大幅に削ってもよいとさえ思っている。無毒化された文学作品の抜き出しや感想文の強制などは、読書嫌いの子供を量産しているとしか思えないし、多くの時間を使って教える現代語文法などは、なぜ教えるのか全く趣旨不明である。国語力向上のためには、現代国語の授業時間を増やすよりも、図書室を充実させ、作文指導を行なって、読む楽しさ、書く楽しさを存分に教えてゆけばよいのではないか。※これにたいして英語は違う。基本的に学校でしか教えることができないし、数学などと違って先天的な能力による要因もそれほど大きくない。理解の遅い子供にも、それなりに楽しく勉強させることのできるありがたい教科が英語である。初等教育での英語が効果がないからやるなというのならわかる。しかし、国語が重要だからやるなという議論はどうにも理解に苦しむ。英語に関しては、初等教育のみならず、中等教育でも、もっともっと時間をかけて教えるべきではないかと思っている。※そしてまたこの著者も含めてであるが、英語教育不要論を唱える論者には、どこかで選民思想、愚民思想をもっている人が多いのではないか。日本人すべてに英語が不要だなどという人はまずいない。結論が分かれるのは、一定以下の層にも英語が必要かどうかということである。フィリピンで家政婦が出稼ぎに行くように、英語ができれば海外で働くという道がひらける。人生選択が大きく広がるわけである。それだけではない。今後の国際競争を考えた場合、普通に英語が通じるということがその国の大きな強みになる。外国のビジネスマンが安心して床屋にも行けない、食堂にも入れないという国の空港や港がどうしてハブになれるのだろうか。そういう国の都市がどうして国際ビジネスの中心になれるのだろうか。これからは普通の人にこそ一定レベル以上の英語力が必要なのではないか。※初等教育における英語の導入だけではない。中等教育以上でも英語の時間数はもっと増やす必要もあるし、教師にも研鑽のための留学の機会がもっとあってもよい。公費で行くだけでなく、休職して私費で行く道も開かれれば、教師自身の英語力も大いに向上するのではないか。あのたいくつな現代国語の授業を増やしたり、愛国心教育を行なうことよりも、多くの子供や父母が望んでいるのは、豊かな情報に接し、広い視野と人生の可能性をきりひらくことを可能にする充実した英語教育である。
2006年01月07日
コメント(13)
今朝の朝日新聞朝刊によると就学援助を受ける子供の数が過去最高になり、その比率は特に東京都のA区で高いという。全国数ある自治体の中でことさら一つの自治体だけをとりあげて記事にするのもどうかと思うが、この記事にはいろいろと考えさせられることが多い。、※特に、就学援助のお金を親が「別の目的」に使ってしまうのを防ぐために直接学校宛に振り込むようにするというくだりには、貧しい家の子供といっても、その貧しさの質がかなり変わって来ているのではないかという気もする。もしかしたらこの親達はけっしてお金がないわけではないのかもしれない。ただ子供のために使うつもりがないのだ。かっての感動物語にあるような貧しくても暖かい家庭ではなく、貧しく冷たい、ある意味では救いようもない状況というのが多くなっているのだろうか。※勝ち組、負け組という格差社会の中で、人の心は荒廃し、機会どころか、希望を持つこともできない大量の若者が生まれているのかもしれない。ニートとかフリーターとかいわれる若者の中には、豊かで過保護な家庭の中で甘えている若者もいるのかもしれないが、その逆に貧しい家庭で放置されてきた将来に何の展望ももてない若者もいるのではないか。子供や若者にとって不幸なのは、お金のないことではなく、希望のないことであろう。※※各新聞の多くは年頭の論説で少子化問題を扱っている。そうしたものの中には3500年には日本人はいなくなるといったヨタ話をとばしているのもあるが、ある時代の人口の増減傾向が1000年以上も続くという前提自体ナンセンスというものであろう。それをいうなら高度成長期などは何百年後には地球は太平洋の真ん中まで日本人で埋ってしまうという予測がでてきていなければおかしいのだが、誰もそんなことは言わなかった。たしかに人口減は相対的な国力減に結びつくが、人口大国イコール幸せ大国というわけではない。そんなことは中国やインドを見ればわかるではないか。少子化をやたらに問題視して出生率の上昇をはかるよりも、少子化を所与の条件ととらえたうえで、国民一人一人が幸せに暮らせる社会を目指した方がはるかによい。
2006年01月04日
コメント(2)
昭和30年代を舞台にしたドラマや映画にはたいていこんなシーンがでてくる。近所の人々がテレビのある家に集まり皆でテレビを観賞する。そして見ている番組といえばたいていはプロレス中継。濃密な近所付き合いも隔日の感があるが、なぜプロレスに老若男女が熱狂していたのかも今から考えると実に不思議だ。だいたい今のK1をおばあさんが好き好んでみるなんてちょっと考えられない。たしかに、あの頃のプロレスには日本人レスラーが悪役外人レスラーをやっつける場面を見せることで、敗戦による劣等感をはらす代償効果もあっただろう。ただ、それにしても、別にそれは格闘でなくてもよかったはずだ。30年代の人間は今と違って老いも若きも格闘好きだったのだろうか。いや、人間そのものが短期間のうちに変わるとは思えない。どうもかぎは世帯規模とテレビの数にあるのではないか。あの当時、老人は子や孫と同居するのが普通であったし、独身の若者もまた親と同居し、家事や家業を手伝っていた。そしてそんな世帯にテレビはあっても一台きりで、日常生活の娯楽の中で大きな位置を占めていた。結局、あの時代は老人も子供も夫婦も共通の番組を見ざるを得なかったのだ。※プロレスの時代が終わると、たぶんプロ野球がこうした「国民娯楽」の地位を継承した。紅白歌合戦の驚異的な視聴率だってこうした時代ゆえのものだったのだろう。ところが現在では、世帯規模が縮小し、テレビも一人一台となっている。皆が同じものを見るのではなく、個人個人が好きなものを選んで見る時代の到来である。プロ野球人気のかげりも紅白歌合戦の視聴率の低下も、ともに起こるべくして起こっているような気がしてならない。
2006年01月04日
コメント(0)
28日は仕事納めだ。事務室の一角に寿司やつまみ、ビール等をならべ、普段はきけないお国自慢や健康談義に花が咲く。いいなあ、こういうのって・・・来年もこんなふうに仕事納めができればよい。※出世コースを歩んでいるわけでもなければ、若くもない。で、当然ながら上層部の中には退職を勧めてくる人もいる。でもそういうときのそういう言い方って、思い出してもむかつくものばかり。私が一番ふれてほしくない実家の父の職業(世間が思うような高収入じゃない)までもちだして辞めても困んないんだろう…という物言いをしてきたり、しんみりと「うらまないんでほしいんだよ」という低レベルの感情論を持ち出したりする。絶対に辞めないからね。これは生活のためだけではなく、自分の人生の誇りをかけた戦いだと思っているのだから。それにまたあんたらの天下がいつまでも続くわけがないし。※仕事をしていれば日々あらたな発見がある。ほんのかする程度のつきあいでも気持ちの良い人、尊敬すべき美質のある人とも出会うこともできる。そして、ときにはもっと深い付合いのできる友人を得ることもある。こういうものは皆財産だ。もちろんいやな奴もいれば、どういうわけか反発や反感をもって接してくる人もいる。そういう向きは生活のスパイスと思えばよい。わさびや唐子があってこそごちそうもひきたつ。反発している人の思っている「私」は実態の「私」とは違うし、悪口とてもしょせんその人が主観的にそう思っているというだけのこと。※「今年も無事終わったことに感謝し、来年も良い年であることを祈って乾杯!」そう、来年も良い年でありたい。今の部署にいるかどうかはともかくとして、来年の今頃もこうして楽しく仕事納めができればよい。
2005年12月29日
コメント(2)
もうすぐ父が無くなって49日となる。生きている者が亡くなった者のことを始終考えるのをやめ、気持ちに一区切りがつくのも大体そのくらいの期間なのだろうか。これ以降は、故人の思い出よりも、故人の死による様々な現実的な課題が前面にでてくる。※その一つが父の住んでいた家をどうするかということである。なんとなく長兄がこれからも住み続け、正月などには今までどおりあの家に兄弟が集まって・・・ということを考えていたのだが、次兄の思うことはどうも違うらしい。主な資産はどうみても土地なのだからそれを売って分けるべきではないかという。そしてまたこうもいう。「今となってはこの家には愛着もない。相応のものは貰う」と。こう言われると誰も反論できない。民法で定める均分相続。長兄が分割したら入るであろう土地価格を現金で支払うことができない以上、あの家に住み続けることは難しい。でも、彼があの家を出て行く気になるのだろうか。立ち退きの問題がからんだり、感情的な要因が入ると紛争は長期化する。次兄だってすぐに現金が必要ということでもない以上、このまま長兄夫婦があの家に住むという選択だってあるのではないだろうか。※また、こうも思う。相続法では特別受益といって兄弟の中で特別に恩恵を受けた人がいる場合にはそれを考慮する制度がある。進学のための費用や家屋購入の際の金銭援助などがこれにあたるとされている。しかし、それをいうなら、生まれるときに親からもらった能力とか才能とか、そういったものこそが最大の「特別受益」ではないのだろうか。うちの場合は、兄弟の中で、能力とか才能とかはほぼ独占的に次兄に受け継がれている。そして彼は、薄給の長兄やリストラ不安で頭の痛い私とは違い、研究者としての地位を得、安定した生活を送っている。あれほどの頭脳があれば、何があっても、人生を堂々と生きていけるのは当然であろう。金銭的なものとは違い、この「特別受益」は法的には意味はないかもしれない。しかしそれでもやはり感情論としては、この最大の「特別受益」を受けた者は、他の兄弟にもっと配慮してくれても良いのにと思う。
2005年12月18日
コメント(4)
坂東真沙子の「死国」を読んでいる。ストーリーについてはネタばれになるので書かないが、考えてみると四国を「しこく」と発音するのってすごく不思議だ。日本語では「死」は最大の忌言葉で、そもそも死を意味する大和言葉すらない。「死」ということばは中国伝来の感じの音読みである。そして四は死と同音ということで、四を縁起の悪い数とすることも東アジア漢字文化圏に共通している。日本も同様で病室では四号室を避ける例も多いし、どうしても四を使わなければならないときは、固有語の「よん」という発音を使う。御節のよの重や地名の四日市というように。それなのになぜ四国は昔からしこくと発音されていたのだろうか。「よこく」でも「よつこく」でもなく、なぜ「しこく」なのだろうか。そしてまた現在の四国4県がすでに神話時代にでてきていることも特異だ。今の47都道府県は明治初期の300余県からいくつかの編成を経て明治中期に今の形に落ち着いたもので、それほどの長い歴史があるわけではない。それを思うとすでに古事記の中で四国4県が4人の男神女神としてでてくるのはすごいことである。それでいて記紀神話では四国というのは、大きな舞台にはなっていない。物語りも面白いのだが、そのあたりの考察もすごく興味深い。もちろん四国イコール死者の国というのは、どうかなとも思うのだが。
2005年12月12日
コメント(2)
米国では「政治的に正しい」という表現があって性差別や人種差別につながる言葉は公には使わないことになっているらしい。そしてこの「政治的に正しい」という中には特定の宗教を連想させる表現を避けるということもあるらしい。そんなわけで米国ではクリスマスという言葉も使わないことになっている。よくわからないが、クリスマスの語源がキリスト教に由来するからなのだろうか。だからメリークリスマスではなく、ハッピーホリディーと挨拶し、電飾で飾られたもみの木もクリスマスツリーではなくコミュニティーツリーという。そして街にながれる曲も宗教色の強い「清しこの夜」はだめだが、にぎやかで楽しい「ジングルベル」ならよい。※また、クリスマスといえばツリーの飾りやリースなど様々な小物がある。実は、世界中で使用されるこうした小物のかなりの部分が実は中国で生産されているという。もちろんこうした生産に携わる人のほとんどはキリスト教徒でもなんでもない。こうしてみると、もはやクリスマスはもともとの宗教的意味をとうにはなれ、単なる地球規模のお祭りになっているようである。
2005年12月09日
コメント(4)
マスコミでの報道は小さかったのだが、ちょっと気になるこんな記事…北朝鮮が日朝国交正常化交渉の受諾を検討しているらしい。拉致問題の解決なくして国交正常化交渉なし・・・といっていたのは、確か日本側だったはず。それがいつのまにか、日本が国交正常化交渉を申し入れ、北朝鮮が受け入れてやるというかたちになっている。http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200512070095.html※政府の意向はやはり北朝鮮との国交締結にあり、そのために拉致事件の風化をひたすら待っている。こんなふうにとるのは考えすぎなのだろうか。そういえば新事実がでないこともあって、拉致事件の記事も少なくなっている。そしていまだに何も語らない5人の被害者達。彼らは本当に他の被害者達の行く末について知らないのだろうか。何人かの被害者同士は面識があったのなら、互いの運命については強い関心を持っていたはずなのに。何かを怖れ、あるいは何かを守ろうとして5人が沈黙を続けているのだとしてもそれを責める資格などは誰にもない。ただ望むらくは勇気をもってぜひ真実を語ってほしいのだが。※あの朝日新聞はまたこんな趣旨のおとぼけ論説を書いている。「日本が拉致問題を解決して北朝鮮と国交を結び、北東アジアの平和と安定に主導権を握る。それなのに小泉総理の持ち時間は多くない」と。「平和と安定」がテロ国家の存続をいうのであれば、そんなものに税金を使って主導権を握ることなど冗談ではない。
2005年12月08日
コメント(2)
清子内親王の結婚が大きく報道され、マスコミのみならず多くのブログがこれを好意的に書いているのをみると、つくづく日本人って天皇や皇室が好きなんだなあと思う。いったいこの天皇や皇室に対する特別な思いの淵源って何なのだろうと考えてみると、それはやはり特別な血統に対する畏怖につきるのではないか。清子様も含め、現在の天皇や皇族は父、その父、そのまた父とたどっていくと必ず天孫つまり太陽神の孫にまで行きつく。歴史的事実は別にしても、そうした神話時代から続く血統がそのまま現在に承継されているというのは、世界的にも珍しいことであろう。血統というのは、この場合もちろん父系血統である。※こうして考えると、現在議論されている女系天皇(女性天皇ではない)というのは、やはり天皇制の否定につながる方向なのではないか。愛子様は父をたどると天孫にまで行くが、愛子様の子供は、旧皇族の男性を父としない限り、そうではない。そうなると、なぜ、そうした「普通の血統」の人間を天皇にしなければならないのかという疑問がわいてくるはずである。よいとか悪いとかではなく、天皇崇拝の根っこには「天孫へと続く父系血統」への崇拝がある。だからこそ、母方、つまり妃の方の血統に平民を加えても、天皇制というのはゆるがなかったのである。※大王は神にしませば天雲の雷のうえにいおらせるかも古代の貴族や豪族の多くはその始祖を天孫とともに天降った神の一つとしている。天降りというのは、おそらく外部から一団の支配勢力がやってきたことの神話的表現なのだろう。そんな勢力の中でも天皇家の祖は太陽神の祭祀を司る家系として特別の位置を占めていたのではないか。こうした支配勢力のいたもともとの地というのは、おそらく北東アジアのどこかであって、皇太子や清子様の容姿に色濃く表れている北アジアモンゴロイドの特徴はその残滓というべきものであろう。
2005年11月17日
コメント(12)
今年もそろそろ流行語大賞の時期になってきた。それにしても、なんかこの大賞って、1995年に「オウム語」を駆逐して以来急速につまらなくなったような気がする。ポアとか尊師とかカルマとか、巷で流行った言葉を尻目に、たしかその年の大賞に選ばれたのは、「がんばろう神戸」。それ以来、この流行語大賞は無難なものや官製のものが多くなっている。「ブッチフォン」ってどこで流行ったんだ?「ベッカム様」「たまちゃん」って固有名詞で流行語じゃないじゃん。その路線でいくと、面白いけどたぶん「ひっこ~し~!」とかは大賞どころか候補にもならないだろう。まあ、順当なところでは「刺客」とかその辺に落ち着くのではないか。※言葉は世につれ人につれというように流行語もその時々の世相を反映している。流行語の今昔を考えてみると、テレビや漫画、そしてCMからでた流行語が少なくなってきているように思う。一世を風靡した「シェー」とか「ガチョーン」とかはテレビや漫画、「なんである。アイデアル」はCMである(古~)。こうしたものが少なくなったというのは、メディアや代理店が意図的に流行らせようとしても、人々が踊らなくなっているからかもしれない。それに何か流行語を作ってCMをはやらせるという時代でもないし…。※そしてまたいささか不謹慎な匂いがするだけに犯罪関係の言葉が流行語になることも多い。「お~ミステイク」とか「私は現代のラスコーリニコフだ」などは、なかなかの傑作だと思うし、オウム語の流行もこの系列に属するだろう。こちらの方もどうも今年はちょっと低調である。「碧の小枝」じゃちょっと弱いし、「ひっこ~し~!」以外に何かあるのだろうか。
2005年11月15日
コメント(8)
「心拍が弱っているからすぐ病院にきてほしい。」長兄からそんな電話を受けたのは夜の9時すぎだった。その1時間後、病院についたときには廊下はひっそりとしていた。危篤だというと病室の前に大勢の医者や看護婦がいて騒然としている光景を思い浮かべていたのだが、これなら持ちなおしたのかもしれない。そんなことを考えながら行くと、長兄がソファのところに待っていて、「父は既に亡くなった。自分も間に合わなかった。」という。その夜はちょうど、次兄が病院に泊まっていたのだが、看護婦に呼ばれ、あわてて長兄に連絡をとってから、間もなく亡くなったのだという。※「モニターを見たけど、看護婦さんが呼んだ時には、もう亡くなっていたのではないのかなあ。」たぶんそれが真実なのだろう。ひっそりと心臓の鼓動はとまっていたが、ただ、「その瞬間に肉親がいた」ということにするために、看護婦は「心拍が停止した」ではなく、「心拍が弱っている」と告げる。それでよいのだと思う。最期の時に、最も愛した次兄が近くにいたのも、天慮というものではないか。兄弟がすべてそろったところで、やがて医師がやってきた。瞳孔、脈拍、鼓動を確認して初めて死亡時刻が確定する。書類上の死亡時刻は10時8分。皆「親の死に目にあえた」ということになる。このようなことも当世では普通なのだろう。※病院というと病気を治療する場であり、医者というと病気を直す職業だとされている。けれども現実にはかなりの部分、病院は人生の最期を迎える場であり、医者というのは死をみとる職業となっている。死亡時の容態についての医者の説明が終ると、さっそく、病院と提携している葬祭業者というのがやってきた。かっては医者と葬儀屋が提携しているというと笑い話のネタだったのだが、今はそうしたこともごくあたりまえであるらしい。
2005年11月09日
コメント(6)
今年の秋は雨が多い。晴天の日が多い「特異日」とされる10月10日も、今年は雨だった。やはり特異日にあたる11月3日の朝も雨がぱらついていたが、それでも昼近くなると青空がひろがり、どうにか久しぶりの秋晴れという感じになってきた。ガラスをふんだんに使った病院の新館の建物は陽光をいっぱいに反射して、遠くからでもその存在を誇示している。バスの窓からそれが見え始めると、いつも憂鬱になる。※日一日と悪化していく父の病状といつか来るその日。いつものように病棟の玄関から入り病室に向う。祝日のせいか看護婦の数は少ないようだ。もちろん患者には平日も祝日もなく、たえまなく鳴るナースコールに看護婦さん達は休むまもなくかけまわっている。あのナースコールの中には父のものはない。4日前に病状が悪化して以来、父は、自力でナースコールを圧すこともできなくなっている。病室に入った時、父はよく眠っていた。でも、本当に眠っていたのだろうか。脳に転移した腫瘍についての放射線治療を休止したため、脳も次第に冒されている。寝ているというよりも、意識不明といった方がよいのかもしれない。看護婦さんが痰をとりに来てくれても、父の反応はない。おととい病院に泊まったときにも、夜中に何度も看護婦さんが痰をとりにきてくれたが、その時には「絶対にいやだ」「だめだ」という父の声が聞こえたのに。枕もとに置かれたいくつもの機械や酸素吸入や点滴のチューブをみると、顔の前に近づくことも出来ず、ただ背中にふれるしかないが、反応はなく、たぶん私が来たこともわからないのだろう。※ 仕方なく隅の椅子に腰掛け、窓の外を眺める。穏やかな秋の休日。ほとんどの人にとっては、なんてこともない一日なのだが、私にとっては違う。これが生きている父といられる最後の機会になるかもしれない。話すことも出来ず、意識もなくなっていても、父はまだ「生きて」いる。生きているというだけで、やはり違う。呼吸をするたびに、父の背中は大きく波打っている。もともと父は背の高い方だったが、病気になってからは、すっかり小さくなり、全身の老化も急速に進んだようだ。入院してから残っていた歯も全部抜け、目も耳も急速に悪くなっている。空はすっかり透明な秋晴れの空。もし、魂が抜けたら、あの空一杯に吸い込まれていくのだろうか。人は、着古した服を着替えるように、老いた肉体を棄て、やがてまた新しく生まれ変わっていく…そんなことも、もしかしたらあるのかもしれない。いや、あったらよいと、今は心からそう思う。(父はなくなりました。これからときどき父の話なども書いてみたいと思います。)
2005年11月06日
コメント(10)
日記を中断したのは父の容態が急変したためで、病院に泊まった日の翌朝これを書いている。脳に転移した病変は、肉体の死よりも先に、「父の死」をもたらしつつある。今の父は、ほとんど眠りについているが、明け方目をさますと、「タクシーをよんでくれ」とか「戸締りをしたか」とか言い、もはや病院にいるという認識もないようだ。もうしばらくすると、完全に意識がなくなるのだろうか。聞いたところによると、脳転移があると医師はほっとするらしい。あの末期の苦痛や痛みを、それを感じる部分が冒されたことによって、免れることができる。そう考えると、脳転移は、父にとっても、家族にとっても、せめてもの救いなのかもしれない。※父の存在は、はっきり言って「できの悪い子」には大変な重圧であった。数学の問題ができないといっては暴力をふるい、試験に落ちたといっては、汚いものでも見るような目で嘲笑した。でも、自分も人の親になった今になってみると、なぜ父があれほどいらだったか、そして怒ったのか、よくわかる。あれもまたやはり親の気持ちだったのだ。父の書棚にある本や書いた原稿は、私にはまったく理解できない。才能とか能力とかは不思議なもので、そんな才能を受け継いだのは、兄弟の中では次兄だけのようだ。ほんの神の気まぐれなのだろうが、そんな才能を受け継ぎ、両親から愛されている彼をどんなにうらやましく思ったことか・・・。※生まれたときに能力や才能は貰えなかったが、父が重病で入院している今になってみると、楽しい思い出も次々とうかんでくる。子供の頃、石の収集に凝って、拾った石を集めて図鑑で調べていると、一緒に比重を計ったり、珍しい外国の標本を買ってきてくれたりした。進路選択などさまざまな場でもアドバイスをくれたが、それはあとからみると結局正解だったことが多かった。ぜいたくだったわけではないが、経済的心配もなく、学校に通えたことも、やはり父のおかげだったろう。※病室で父の手を握りながら、何度も心の中で「ありがとう。ありがとう。」と繰り返す。父は才能や能力はくれなかったが、健康な生命をくれた。でも、父が建てた一戸建ての家は、長兄のものにしよう。私以上に成績も悪く、浪人時代に、しょっちゅう父に殴られていた兄だったが、結婚してからは父と同居し、最後は汚物の始末までもしていた。兄の妻も、優しい言葉一つかけてもらえるわけでもないのに、歯医者のつきそいなど実の子でもできないことをやっていた。父の職業だけを聞くと世間の人は高収入だと思い、かってな想像をする。実際はそんなことは全然なく、郊外に残った一戸建てがほとんど唯一の資産であるのに。
2005年11月02日
コメント(16)
韓国に高銀とかいう詩人がいて、韓国内では今年のノーベル文学賞はこの人がとるのではないかとかなり期待されていたそうである。高銀氏の自宅前には、その瞬間をとるために大勢のマスコミがつめかけ、書店では祝ノーベル賞と銘打った販売コーナーの準備までしていたという。ノーベル賞は選考経緯を一切外にださないので、客観的にこの人がどこまでノーベル賞に近づいていたのかは知るよしもないが、高銀氏以外にも、いろいろな国でノーベル賞候補といわれている国民的作家や詩人がいるにちがいない。日本でも井上靖などはノーベル文学賞候補だなんていわれていたが、結局最後までこの賞とは縁がなかった。※ノーベル賞には物理とか化学とかいろいろな分野があるが、どうもこの文学賞と平和賞だけはうさんくささを感じて仕方がない。平和賞の方はしょせん政治的プロパガンダと割り切ればよいのかもしれないが、国益そっちのけで平和賞ねらいで行動するような政治家があらわれたとしたらむしろ害悪ですらある。文学賞だって同様だ。科学と違って文学などは客観的に評価できるものではないし、過去の文学賞受賞者をみても、ちょっと首をかしげてしまうことが多い。最初の受賞者は「ニルスの不思議な旅」でしられるラーゲルレーブ女史だが、当時はあのトルストイも存命していた。選考委員達はきっと「戦争と平和」よりも「ニルス…」の方がお好みだったのだろう。トルストイだけではなく、イプセンやリルケも文学賞はもらっていない。その一方でチャーチルは回想録で文学賞を受賞しているが、彼の回想録を現在文学として読む人がどれくらいいるのだろうか。※そういえば日本にも二人のノーベル賞作家がいるが、だからといってこの二人が日本文学の最高峰だなんて、本気で思っている人はほとんどいないのではないか。特に、大江氏などは、憲法9条を守っていれば平和が実現するなどということを本気で唱えているようで、失礼ながらちょっと〇呆が入っているとしか思えない。結局、今年のノーベル文学賞はどっかの国の劇作家に決まったそうだが、賞をもらったからといって読む気が起きないのは、大江氏のときと同じである。
2005年10月24日
コメント(4)
全695件 (695件中 551-600件目)