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そろそろ今年の流行語が話題になりつつある。たぶん改元のご祝儀もあって「令和」が一位にくるのかもしれないが、そのほか思いつくままにこんなのはどうだろうか。「埼玉県民にはそこらの草でも食わせておけ」強烈だが、これって選挙にも使われたくらいインパクトがある。それにディスっても笑えるというのは、それだけ埼玉よいところなのではないか。「パクリやがって」これは犯罪関係なのでまず選ばれないが、川崎通り魔、京アニ放火殺人、けん銃強奪と無職やそれに近い人々の通り魔的な犯罪が続発したのも印象的だった。農水省の元次官の息子殺人もその類縁にある事件なのだろう。「ノーサイド」あまり思いつかないが、ラグビー関連の言葉も入るだろう。個人的にはあまり関心もないし、別にみてもいなかったのだが。台風による大被害、リチウムイオンのなんとかでのノーベル賞受賞、首里城の火災、キャンプ場の女児失踪、一家殺傷など、様々なことがあったが、あまり流行語となると思いつかない。あ、もう一つこんなのもあった。「身の丈にあわせて」この言葉は自分に対して使うと謙虚に聞こえるのに、他人に対して使うとこんなに嫌な言葉になるとは。入試など受験期の親子でもないと正直関心もないテーマなのだが、それが失言一つでいっきに政治問題になっている。金持ち有利もさることながら、教育行政が利権にまみれているようにみえるのが、なんともやりきれない。あと、教育といえば、森友学園の元校長夫婦に補助金詐欺で懲役7年求刑って重すぎないのだろうか。もともと逮捕自体国策捜査にみえる上、この夫婦も総理をヨイショしていた頃には総理夫人と親しく写真をとったり、今をときめ総理周辺の論客を講演によんだりして、自分ではそうした人々と親しくお付き合いしているつもりでいただろうに…。それが今では重刑を課されるかもしれぬ身の上、なんか哀れというか無情というか。
2019年11月07日
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商業施設ではさまざまなイヴェントがあり、歌や音楽を無料で視聴できる機会も多い。昨日はそんなイヴェントを二か所ほどめぐってきた。まず、最初に行ったのは、埼玉の大型商業施設のイヴェントで歌っていたのはアイドルタイプの女性で、ミニスカートの衣装が清純ぽくて可愛らしかった。ところが年齢を見ると、なんともうすぐ大台に届く年齢で、デビューして10年近くなるが、大ブレークとまではいかないのだという。もちろんブレークしていたら商業施設の無料のイヴェントなどパンクしてしまうのだろうけど。顔もそこそこ、歌もそこそこで、ならばあとは運しだいという世界なのだろう。曲は若い子向きということもあるのだろうけど、あまり印象に残らなかった。次に行ったのは千葉県のこれも大型商業施設のイヴェントで、歌っているのは四人組の女性アイドルグループなのだが、こちらは子供向け番組にもでているということで親子連れがけっこう多かった。それとも、若い夫婦が多いという土地柄もあるのだろうか。デビューまもないということで、勢いはあったのだが、こういうグループがどこまで伸びていくかは未知数なのだろう。なにしろやりたい人はいくらでもいるという世界なのだから。そういえば、こうしたところでよく無料のイヴェントをやっていたアイドルグループでさる四人組の地域アイドルグループがあった。二人卒業した後、その後の活動は聞いていない。頂点は光り輝いているけど、すそ野は途方もなく広いというのがこの世界なのかもしれない。
2019年11月06日
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狼少年のようなものも含め、過去にも様々な〇〇年問題というものが提議されていたが、最近では2040年問題というものがあるらしい。これは団塊ジュニア世代(1971~74年生まれ)が高齢者となり、65歳以上が約4000万人に達することにより生じる問題である。単に高齢者人口の比率が増えるというのであれば、目新しさはないのだが、問題はその高齢者の中身である。この世代は、就職氷河期世代やロスジェネともいわれ、非正規が多く、年金の受給額も低く、貯蓄額も低いという傾向がある。今は若者に比べ高齢者が貧しいという印象を持つ人は少ないと思うのだが、その頃になると「貧しい高齢者」が急増する。高齢化の議論では、必ず年金の切り下げが議論になる。しかし、非正規雇用者の年金を考えると、そうした議論以前に、年金制度自体がそもそも老後を賄える額ではないという問題がある。もともとサラリーマンは厚生年金、自営業者は国民年金という形で年金制度はできており、この国民年金の額自体、自営業者が家業へのかかわりを縮小した後、なんとか暮らせる額を念頭においている。借家住まいだと、国民年金を満額貰っても生活は難しいのではないか。その時、何が起きるだろうか。生活保護受給者の急増である。まだまだ「生活保護受給」は特別なことという意識が強く、心理的な躊躇も大きいが、それがある閾値を超え、生活保護受給もありふれたことになると、生活保護受給の申請は急増するだろう。もちろんこうした高齢者にも仕事は選ばなければある、働けばよいという議論はあるが、健康寿命と生活水準はかなり相関があるのも冷厳な事実である。生活が苦しい人ほど、今までの過酷な生活や医療へのアクセスのなさから、高齢期に入るころには稼得能力を失っている人が多いのではないか。白内障の手術をすれば目がよくなる、関節の手術をすれば動けるようになるのかもしれないが、そんな費用はとても出せないという人も多い。そんなこんなを考えると団塊ジュニアの高齢者はだいたい三種類になっていくのではないか。一つは生活保護受給を頼りとする人々。もう一つは団塊ジュニアの中の勝ち組で自力で豊かな老後を送る人々。そしてもう一つは自分は勝ち組ではないが、親が持ち家や貯金を残してくれたため、それと自分の年金とでなんとか暮らす人々。実際には最後の類型の人々もけっこういるのかもしれない。かくしてニッポンは黄昏てゆき、再び極東の小国に戻っていく…
2019年11月05日
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韓国ドラマ「光と影」にこんな場面があった。主人公である興行師はさることでヤクザに生命を狙われ危機に陥る。で、ここに定番の三角関係であるが、主人公を愛するスター歌手と新人女優(ヒロイン)がいて、スター歌手は自身の政財界へのコネを使って主人公を救うのだが、ヒロインは何もできない自分の立場を悲しく思っている。そんな中で主人公のいうセリフがすごく古臭くて面白い。「君は男の心をまるでわかっていない。男が好きなのは守りたくなる女性なんだ。君は君であるだけで俺の元気の素さ。俺がぜひ成功したいと思うのは君がいるからなんだよ。」と。ここでは女は「守られる存在」であればよいという価値観で、こうしたものを望む女性は多いだろう。そしてもう一人ドラマには、主人公のライバルに思いをよせる妹が出てくる。彼女も家の没落後は、令嬢から働きながらデザイナーを目指す女性に変貌していくのだが、こんなセリフがある。「なぜ、私が頑張っているのか兄さんは知っている?いつの日かスヒョクオッパ(主人公のライバル、オッパは敬愛する年長の男性につける語)の前に堂々と立ちたいからよ。」女性は「守られる存在」であればよいという主人公と、恋をエネルギーに向上していこうという女性達との対比が面白い。もちろん当世風なのは後者であろう。ただ、一方で、そうでない考えの女性たちも少なからずいる。韓国の事情は知らないが、日本の婚活市場では自身は低収入でなんのキャリアアップの算段もしていないのに、相手にはとんでもない高収入を求める女性もいるという。たしかにある時代まではそれは普通だった。専業主婦というゴールに向けて、少しでもよい相手を見つけるのが普通の女性の生き方だったし、よい相手をみつけるためには自身が高い給料をとることもきちんとした職業をもつことも必要ではなかった。どうせ専業主婦を目指すのだから…。けれども時代は変わり、専業主婦と子供を養い、外食だの旅行だのの機会まで提供できる男性と結婚する可能性なんてのは極めて少なくなっている。しかも、未婚化社会では結婚も不安定で、せっかく捕まえた稼ぎのよい旦那だっていつ略奪されるかわからない。今の時代、女性も大変な時代だと思う。「光と影」の女性たちのように自身の才覚と努力で駆け上がっていける女性ばかりではないのだから。
2019年11月04日
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昔々二人の探検家が広い広い海に浮かぶさる島についたときのことでした。探検家A おい、なんだこの騒ぎは…。探検家B なんでもあたらしい王が位につくというのでお祭りをやっているようだ。調査によれば、島民は王を太陽の神だと思っているらしいよ。探検家A 自然崇拝か。よくみられることだな。それにしてもひどい天気だ。そういえばこの島は熱帯低気圧の通り道だからなあ。(島民の間から一斉に歓呼の声があがり、空を見上げて感きわまって泣き出す人も…)探検家A いったい何なんだ。おい、調べてこいよ。探検家B わかりました。ほら、雨が少しやみましたね。それがちょうど王が位につくのを宣言するときだったので、人々は王の神秘的な力で雨がやんだと大騒ぎしているのです。神官がそう宣言したというので島民はもう大感激のようですよ。ほらほら、あっちには虹まで…。島民はやはり自分たちの島は神の島だ、王様は神だと騒いでいますよ。そしてその夜、探検家Aはこんなことを日記に書いたということです。私たちはこの島の住民について最初はなんて原始的で遅れたやつらかと思っていた。しかし本当にそうなのだろうか。人にもし宗教というものが必要なものなのだとしたら、彼らの宗教は我々の宗教に比べて劣っているのだろうか。我々の宗教は複雑な経典解釈や理論の上になりたっているが、科学の進歩や時代の流れとともに、無神論や不可知論も勢いをましてきている。あと何百年、いや何十年もしたら、人々が信仰を捨てる時代が来るのかもしれない。それにくらべてこの島の人々はどうなのだろうか。自然崇拝の多神教…それは宗教の最も原始的な形なのかもしれないが、時代を超えて信仰として残っていくのは案外こういうもののような気がする。島民はこの島は神々に守られた島であり、王は神だと素朴に信じている。けれども、そう信じていることで誰かが不幸になるのだろうか。この島の中で平和に暮らしている限りでは、誰も不幸にならない。ならばそれでよいではないか…と。
2019年10月27日
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本日予定されていた即位記念パレードは延期されるという。思えば即位記念パレードは平成改元のときが最初で、昭和改元のときには馬車列。大正改元はよくわからないし、明治改元のときにはこうしたものはなかったのだろう。天皇というと、すぐに伝統をもちだす人がいるが、即位記念パレードは伝統とはあまり関係ない。それに明治天皇までは側室がいるのが普通だったので、ご夫妻そろって公式の場に出てくること自体あまりなかったのではないか。これに限らず今日では伝統と考えられているものも、意外に新しいというものも多い。神前結婚式だって普及は明治以降だし、初もうでや年賀状の風習も、交通機関や郵便制度が発達した近代以降に始まった。京都の古い祭りの葵祭りも、たしかにそういう名称の祭りが続いているのだが、ミスコンテストのように斎王代が選ばれ、皆の見ているところを斎王代を乗せた山車がねりあるくなんていう方式はきわめて新しい。さて、さきほどNHKのニュースをみていたら即位礼に使う高御座がいかに古くからあったかという説明があったが、これも明治時代に古式にのっとって復活させたものだ。あの高御座が古代から連綿とつづいてきたというわけではない。人の記憶はたかだか数十年。昔からの伝統と信じているものも案外と新しかったり、内実は変容しているというものも多い。よきものは伝統、悪きものは因習として、よいものだから受け入れていく、よいものだから残していくということでよいのだろう。
2019年10月22日
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毎年発表される都道府県魅力度ランキングと言うのがある。魅力と言っても、住む魅力、訪れる魅力といろいろあるので、わかりにくいのだが、このランキングで茨城県がいつも最下位というのは不思議である。実際に茨城に住んでいる人が住みにくいと言っているという話も聞かないし、人口が顕著に減少しているという話も聞かない。気候も特に厳しいというわけでもないし、所得水準は、年収ランキングでみると、全国五位とかなり高い。まあ、この平均年収というものは極端な数字に引っ張られがちであるので、東京都がぶっちぎりで一位だとしても、それは大企業の役員や成功した経営者が多く住んでいるということによる。それと同様、茨城県もつくばなどのエリート研究者が所得を引き上げているのかもしれないけど、ただ、それでも平均的な茨城県民が他府県民に比べて生活水準が低いというわけではないだろう。むしろ鹿島あたりから東京に行くバスがいつも盛況なのを見ると、かなり高いのではないか。それにまた、観光という面でみても茨城県に魅力がないとも思えない。つくば山は個人的には気に入っている観光スポットで、特に足を悪くしてからはロープウェイでいつでも上ることができて展望を楽しむことができる女体山の峰はありがたい。霞ケ浦の夕陽も印象的だし、その夕陽を眺めながら露天風呂に入ることのできる温泉施設(700円)もある。つくば研究学園都市には希少な鉱物標本を展示している資料館など、無料で学習のできる施設がいくつもあるし、特に勉強好きのお子さんのいる人にはお勧めである。水戸の偕楽園は梅だけではなく、秋の萩もみごとだし、袋田の滝は四季折々のよさがある。ただ、こうした観光スポットは、それぞれが多彩すぎて茨城県としての観光の共通のイメージというのがないのが、ランキングでは下位になる理由なのかもしれない。それにこうしたランキングの回答者をどうやって抽出したのかは知らないが、人口比で分けると、大都市住民が多くなり、そういう人に観光地として魅力的な都道府県を聞けば、比較的近くていつでも行けそうなところよりも、ちょっと遠い県に人気が集まる傾向もあるのかもしれない。さらに言えば、茨城県には観光と言う意味では欠けているものがある。それは温泉であり、昼は観光、夜は温泉を念頭に置けば、どうしてもランキングが下がる。それにしても、この都道府県魅力度ランキング。まじめな調査というよりも、ネタ程度に話題にすればよいだけのものなのかもしれない。そうでなければ、歌手はなわさんの歌の次のテーマは茨城県とするとか、「翔んで埼玉」の続編は茨城にするとか…。
2019年10月20日
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今、風土記を読んでいるが、その多くは地名の由来を記したものである。そしてその地名には、姫路や行方など、現代でもそのまま使われているものも多い。人が集落をつくればその集落の場所に必ず名をつけ、その名によって自分たちと他の集落のものとを区別する。風土記は奈良時代に口承をまとめたものなので、その地名は、もしかしたら弥生時代にまでさかのぼれるものもあるかもしれない。このように地名というものには、長い歴史があるものだが、近代以降、特に戦後は急速にその地名が変わってきているように思う。一つは明治期の町村合併によって、旧来の集落名に変わり、その合併の元となった集落の名を合成した地名が増えた。例えば長野県の豊科町はそれまでの鳥羽村、吉田村、新田村、名寄村の最初の一文字を合わせた町名で、それに豊かな科野という瑞祥地名の意味もこめたのだろう。今では、そのあたりも平成の市町村合併で安曇野市になっているが、これもこのあたりの古くからの地名で、安曇という名も古代の安曇族に由来する。また、町村合併以外にも古くからの地名を意図的に変えることがある。蛇が窪は東京の品川のさる地区の地名だったが、昭和初期に「わが国民性の蛇を嫌悪する感情」を理由に改称されている。世田谷にあった蛇崩なんていう地名も同様の理由で改称されたのかもしれない。このほか、不動産価値への思惑、住居表示の整備、政令市への昇格なども地名の変更の理由になる。低湿地なのに丘や台がついたり、人気のある軽井沢のような地名がどんどん広がっていったり、青葉区や若葉区、緑区なんてのがあちこちの政令市にできたりするなどはそうであろう。地名にはそれぞれに深い歴史があることを思えば、簡単に地名を変えるのもどうかと思う。蛇が窪とか蛇崩だって、なかなか味わい深い地名ではないか。
2019年10月15日
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人生観には大きく分けて「運命論」と「なせばなる」がある。前者に傾くと達観するが無気力になる、後者に傾くと意欲的だが傲慢になる。宗教の影響が薄れ、身分の桎梏もなくなってくると、次第に前者よりも後者が強くなってゆくのは仕方のないことだろう。「なせばなる」というのは言葉を変えて言えば努力信仰であり、成功した人にはなんらかの秘訣なり方法なりがあるに違いない。自分はただそのやり方を知らないだけだという考えに傾きやすい。だから子供たちをみな難関大学に合格させた母親とかいつまでも美貌を保っている芸能人の手記などが売れるのかもしれないが、ありていにいえば子供の学才は父親と母親のDNAによる部分が大きいだろうし、美貌を保っているのは本人の体質によるところが強いのではないか。それにそうした考えを敷衍していけば、貧乏なのはたいていが自己責任ということになり、問題にすべきは、どうみても本人の責任とはいえない「子供の貧困」だけということになる。病気も、生活習慣病ということばが普及し、成人病にかかるのは本人の生活習慣に原因があるかのように喧伝されている。なにしろ有名な政治家までが人工透析は本人の不摂生によるものだなんて発言するくらいである。けれども身の回りをみただけでも、そうした病気と本人の生活ぶりなどさほど関係がないということはすぐわかる。経済的困窮などによる医療へのアクセスの困難さが病気を深刻化させることはあっても、不摂生によって病気になったというひとはあまり知らない。人間は努力とやり方を間違えなければ金も健康も手に入る。それができないのは本人の自己責任であるという考え方は実はけっこう危険なのかもしれない。
2019年10月09日
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さる知人の御子息のことである。父親はエリートであり、母親は専業主婦。その息子は大学まではまあまあ普通に成長してきたのだが、異変は就職活動を始めた頃に起きた。いつものように登校したのだが、鍵をかけたかどうかがどうにも気になる。確認をして、再度駅に向かったのだが、再び鍵のことが気にかかり、とうとう学校を休んだ。そしてその次の日も、そのまた次の日も…。大学は授業料だけ払ってもらえば後は知らないよというところなので、試験にかわるレポート提出とかでなんとか卒業はできたのだが、その後は、当然のようにひきこもる生活が続いているという。家庭内のことなので、詳細は知りようもないが、母親は溺愛型で、息子の就職面接にもついていきかねないような人なのだが、父親はかなり厳しく、小さい頃から彼にきつく当たっていたようである。あくまでも一般論であるのだが、学歴エリートの父親というのは、息子に望んでいるような能力がない場合、どうしても厳しい目で見る傾向があるのではないか。自分は能力がある、優秀だと自負しているにもかかわらず、目の前にいる自分によく似た姿をした息子と言う別人格者はどうしようもない。母親から見ればそれでも「可愛い子供」であるが、父親の目には「情けない奴」にしか見えない。知人の子息の場合も、幼い頃から叱責され否定されてきたため、自分に対する自信とかそういうものが育たず、それが就職や社会に出る不安とあいまって、強い恐怖となって噴出したのではないか。まあ、エリート家庭の重圧というものである。そこで思い出すのは農水省元次官の息子殺しである。息子からの家庭内暴力に苦しんでいた、息子が暴発して近隣の小学校に対して犯罪を犯すのが不安でならなかったなどの理由には嘘はないだろうし、量刑も軽い、もしかしたら執行猶予がつくようなものになるのかもしれない。けれども、殺人の手法が刃物を使っての刺殺というのが気になる。エリートだった元次官の心の中に「情けない息子」に対する憎しみはなかったのだろうか。
2019年10月07日
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山にまつわる怪談は多い。よく聞くのは遭難者の霊の話で、テントを張って寝ていると大勢の人の話し声が聞こえてきたと言ったような話である。これは高名な登山家がこんな話をラジオで語っていたという。また、直接聞いた話にも、川の傍で家族でキャンプをしていたらそんな声を聴いたという話もある。遭難者の霊に関する話はもっともらしいのだが、なにか変だ。昔から日本列島には人が住んでいて、人が死んだ場所も数えきれないくらいある。そうした中で、山というのは、住んでいる人は極めて少ないので、そこで死んだという人も他の場所に比べて少ないはずだ。また、死因についても、他殺とか若くしての病死、絶望の果ての自殺に比べると、遭難死というのは、自分から望んで好きな山に行って死んだのだから、特に迷って出る理由があるとも思えない。単に大勢の人が死んだ場所ということであれば、山よりも都会こそ多くの人が無念の死を遂げている。先の大戦での空襲被害である。東京だけをとっても3月10日の大空襲だけでなく、何度も空襲被害があり、さるお寺の慰霊碑には、重度の火傷を負った人に「苦しいのは今のうちだけだよ」と慰めたということが記録されている。そして、焼け野原となってもはや焼くものがなくなった東京の後は地方都市が次々と被害に遭っている。それでも、怪談話は都会よりも山が似合う。それは、日常を離れた森閑とした空間で、人の耳も、ひょっとしたら霊感も含めた感覚も鋭敏になっているからなのかもしれない。
2019年09月29日
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昔々のことだがトイレットペーパーの買い付け騒ぎと言うのがあった。狂乱物価の中で皆がいっせいにトイレットペーパーを買いだめしようとしたのだが、実際にそうした製品の不足があったというわけではない。また、これと前後してだろうか、魚のPCB騒ぎとか、地震予知騒ぎとかもあった。そうしたものはいつのまにか収束していったが、魚に含まれるとかいうPCBがなくなったというわけでもないし、地震がいつくるかわからないという状況が変わったわけでもない。世の中が高度成長から安定成長に変わる時期の漠然とした不安がパニックのような形であらわれたのではないか。今、地球温暖化の話がマスコミをにぎわせているのにも、なぜ今なのか…という疑問がある。温暖化と二酸化炭素排出の問題は今に始まったことではないし、しいていえば、今年は欧州が異様な暑さであったことと、シンボルになりやすい少女の発信力があるということなのだろうか。これから北半球が冬に向かえば温暖化の議論は収束してゆくのかもしれない。そしてまた、地球温暖化の議論に原発の問題がでてこないのも不思議だ。二酸化炭素排出が問題だというのなら、電力も火力から原子力に替えてゆくべきだという議論があってもおかしくないのだが、これを言う人は少ない。個人的には古来文明と共にあった二酸化炭素排出よりも、太陽が行っている核融合反応を地球上で起こし、コントロールできない核廃物を生み出す原発の方が環境上の問題ははるかに大きいと思うのだが。
2019年09月27日
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買い物には「選ぶ買い物」と「探す買い物」がある。この間、古くなった卓上ライトの電球がきれたので、メーカーや機種で検索し、ネット通販で申し込んだら、翌日か翌々日に届いた。これがもし、普通に買い物に出たらどうなのだろうか。大手の量販店に行って、機種を書いたメモを店員に見せて探してもらう。そこになければ他の店に行く。こういう手間暇と交通費を考えると、特定の機種の部品を探すなどの「探す買い物」はネット通販の方がだんぜん効率がよい。しかし、考えてみれば、今まではこういう探す買い物をしながら、電気量販店に行くと、他の製品もついでに買うということがよくあった。電気量販店もネット通販にかなりおされているのではないか。そしてまた、「選ぶ買い物」、つまり選ぶ楽しみも目当てで店にいくような買い物である書籍や衣服もネット販売が人気だ。そうでなくとも、本なら中古書店や図書館、衣服なら古着や倉庫などを使った廉価販売というライバルもある。商店街の衰退には店主の高齢化やモータリゼーションだけでなく、小商店が淘汰されていくという流れもあるのかもしれない。消費税増税を前にして、今までのような駆け込み需要は起きていないというし、電子マネーのポイント制などもわかりにくい。個人経営の喫茶店には、値上げを余儀なくされることにより、廃業を考えているところが多いという新聞記事があったが、消費税増税は喫茶店に限らず、多くの個人商店にとっての最後の一撃になるのかもしれない。これも時代の流れでしかたないことなのだろうか?
2019年09月22日
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我が世代の多くがそうであったように子供の頃は手塚治虫の漫画やアニメに夢中であった。手塚漫画にはいろいろな特徴があるが絵柄の印象ほどには明るく楽天的な話ばかりではないような気がする。というよりも、・出てくるのは善人ばかり・必ずハッピーエンドに終わる…という童話のお約束どおりでない話もけっこうあり、それがかえって印象に残る。そういえば、鉄腕アトムの話でも漫画版では悲しい結末になっていたものが、テレビ版ではちょっと結末を変えているのもあった。具体的には愛し合う二人のロボットが最後は両方との壊れて一つの鉄の塊になってしまうという話なのだが、テレビ版ではそれから修理されて二人とも幸せになるというように変えてあり、さすがに漫画版では悲しすぎるものねと妙に納得した。子供向けの漫画ではなく、大人向けの漫画を描くようになってからは、こうした物語の悲劇性や救いのなさはますますすすんだように思う。「わが生涯の最大の傑作」というように作者が気に入っていたという「きりひと賛歌」は主な登場人物が皆一般的な基準でいえばこれ以上はないというほど不幸になる話だし、「アドルフに告ぐ」も個人を超えた歴史の渦の中での悲劇の話である。フィクションの世界に期待するような勧善懲悪や因果報応というものはほとんどない。なんて不条理な…でもまあそれが現実の世界なのだろう。もう一つ、手塚治虫の漫画の大きな特徴として人間に似ていて人間以外のものの存在が大きなテーマになっているものが多い。それはロボットだけではなく、地球上に住む人類以外の知的生物だったり、宇宙人だったり、異次元人だったり。人間に似ていて人間以外のものというのは異人種や異民族の暗喩のようでもあり、人と人が民族や人種を違い故に反目することはばからしいというメッセージを秘めているようでもある。それはつきつめると国家主義や民族主義への懐疑にもなり、そのあたりが国民栄誉賞にならなかった理由なのかもしれない。「鉄腕アトム」のアニメは毎週夢中でみていたのだが、アトムの物語に登場するその回かぎりの宇宙人やロボットが好きだった。特に印象に残っているのは絶滅した星からやってきて、ただ一人地球の残されたアルソワ12星人の物語で、最後に「幸いにして私たちがどこにいても目立たぬ姿をしていますから」と言い残して植物に姿を変えるところは今でも覚えている。アルソワ12星人は植物が進化した知的生命体であったという結末なのだが、それからは植物も長い年月がたつと知性を持つように進化するかもしれない…なんていう空想をしたものだった。
2019年09月18日
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医療はなんのためにあるのだろうか。人の健康、そして究極的には人の幸福のためにある。それは決して医師の生活や病院の金もうけのためにあるものではない。だから一見すると昔に比べて病気とされる症状が拡大し、検診が普及したとしても、それは結局は人々の健康の増進のためにある。自覚症状のない高血圧や高血糖の治療が普及したことで卒中や糖尿病による重篤な症状もずいぶんと予防されるようになった。昔に比べ、検診が普及してきたため、やっかいな病気も早期発見できるようになった。こうして医療の進歩は大いに喜ばしいことだと思うのだが、ただ疑問に思う分野もある。精神科という領域である。ここ10年くらいの間に精神科医の数は他の診療分野に比べて増加し、それに比例するように患者も増えている。それも高齢化を背景にした認知症患者の増加だけではなく、それ以外の患者も増えているようだ。発達障害、アスペ、自閉症型スペクトラムとか、昔なら聞いたこともない病名も現れ、それが普通の会話にもでてくるほどに人口に膾炙している。うつ病となると今ではどこの職場でも見かける病気になっている。それではこうした精神医療の進歩は人を幸福にしているのだろうか。どうも逆ではないかと思う。発達障害とかアスペとかいう診断で、むしろ、病名がわかって治療への道筋ができるというよりも、絶望する場合の方が多いのではないか。しかもそうした診断は他の診療科のように画像や細菌の検出など客観的なデータで行うのではなく、問診が中心である。うつ病という人を知っているが、その人は実際に家族の病気などの問題をかかえていて、症状の淵源は本人の心よりも家族の病気と言う外部の状況にあるのではないかと思えてならない。同様に、強迫神経症などの症状で障碍者枠で勤務している若者がおり、不安感や不眠を訴えているというが、どうも、その不安の原因は本人の心と言うよりも、自らの不安定な境遇にあるようにみえる。全部が全部そうだというのではないが、精神科の病気は他分野に比べ、治療法が確立していないものが多い。最近話題の「発達障害」にしても、発達障害という診断を受けて生きづらさの理由がわかってほっとしたという感想もあるようだが、こんなのは例外であり、普通はショックを受けたり絶望したりする。あなたは「発達障害」です。社会的適応力を欠くのは病気故で治療法はありません。あなたは「自閉症スペクトラム」という心の病で、これも直せません。…と言うのと、霊媒師が「あなたには祖先が殺した落ち武者の霊がついていてこの世では不幸続きです」と言うのとどこが違うのだろう。どうも同じようなものにしかみえないんだけど。
2019年09月11日
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韓国には恨五百年という言葉があり、同名の民謡などもあって人口に膾炙している。ところでこの恨(ハン)は日本語の恨みともちょっと意味が違うようで、「恨が解ける」(ハンプリ)という韓国語表現と日本語の仇討などでよく出る「恨みを晴らす」という意味はかなり違う。この「恨が解ける」という表現は韓流時代劇で聞いたことがあり、それは、身分が低いために官途を断たれ、刻苦勉励のはてに宮廷医官となった主人公が、息子が科挙に合格し、高い地位の役人として地方に赴任するのを見送った時につぶやいた台詞である。日本語で似た意味を挙げると「気が晴れた」とか「わだかまりが解けた」というのに近いのかもしれない。それにしても恨が五百年とは理解しがたい。五百年というのは自分の経験を超えた何代も前の先祖に行きつかなければならない時間だ。日本人の感覚では、もうそういうのは歴史上のことでどうでもよいのではないかということになるのだが、韓国では文禄慶長の役を扱った映画やドラマも「反日映画」になっているので、そのあたりの感覚が違う。日本では恨(ハン)に該当する言葉はないし、恨みも「水に流す」のを良しとする感覚がある。映画「この世界のかたすみに」では終戦直後の広島で嬉々として米兵からチョコレートを貰う子供や米軍のお下がりの食料をおいしそうに食べる家族の場面がでてくる。戦争で辛酸をなめたにもかかわらず、米国に対する恨みも大日本帝国に対する恨みも憲兵に対する恨みもでてこない。外国人が見たらちょっと不思議に思う人もいるかもしれない。
2019年09月08日
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「パヨクなんていらない」とある方のブログにあった。100%同感である。韓国とか北朝鮮とかいうと条件反射のように贖罪史観がでてくる。日本はこんな酷いことをやったのだからなんでも日本が悪いというワンパな発想。少年犯罪とか死刑制度というと、これも「厳罰だけでは解決しない」、「死刑には犯罪抑止力がない」、「世界の潮流は死刑廃止に向かっている」とこれまたワンパな発想。事件なんてものは100件あればその内実は100通りである。個々の犯罪、個々の事件を見ないで、教条主義的な理想論に凝り固まっているのはなんとかならないのだろうか。19歳の女子学生を拉致して林に連れ込み、〇〇した上、生きたまま焼殺した男の死刑が執行されたとき、某野党党首はその執行に抗議をした。だからあんたの党はミニ政党化して消滅寸前なんだよ、その教条主義をやめないかぎりはねえ…と言いたいよ。もっといやなのは9条教。改憲の流れに抗するためには「憲法の思想をさらにひろめるための運動を行う」とどなたかが書いていた。いやだねえ、こういう上から目線。大衆は9条の価値がわかんないから教えてやるという発想には反吐が出る。小さな寂れた町にいくと「自衛官募集」の広告がやけに目につくし、就職先がないから自衛官を目指す人もいる。そうした人の目線にたてば、もっと別のアプローチもあるのではないのだろうか。単に理想を言うだけではなくてね。あるサイトによれば「れいわ新選組」の支持者は若年の非正規雇用者が多いという。これが本当なら今までの政党が掬わなかった部分である。今まで政治をあきらめていた層、蔓延する自己責任論の中で希望をもてなかった層が動いたとしたら、これはこれで大きなことだと思う。「れいわ新選組」という新たな政党が火花で終わるか、野火の始まりとなるか、さて、どうなのだろう。
2019年09月05日
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日本総理が米国からトウモロコシを爆買いする約束をしたというニュースについて、さるコメンテーターが「ここで米国に恩を売っておいて…」と言ったのには笑ってしまう。漫画で弱い奴が強い奴にビビッて逃げ出すときに「今日のところは勘弁しておいてやる」と言っているようなものではないか。韓国大統領側近がスキャンダルで揺れているという。娘の不正入学疑惑なのだが、これがまたよくわからない。二週間のインターンだけで論文の筆頭執筆者として名を載せ、それで大学に不正入学したというのだが、論文の筆頭執筆者となっても実際に書いていなければすぐにばれるものである。それにそもそもそんな能力もないのに、高度な学校に入っても困るのは本人ではないか。息子の兵役逃れの方はわかりやすいけど、こちらも韓国ではたびたびある話のようである。兵役免除が金メダルのご褒美になったり、要人の子弟の兵役逃れが問題になったりと…韓国では兵役はかほどに人気がなく嫌われている。他の国ではどうなのだろうか。職場はカクテルのようなものだと思う。様々な能力や個性のある人々が集い、一つの職場の雰囲気を構成していく。個々人は職場の構成要素として貢献できるようであればよい。ただそうでなくともせめて「水」であってほしい。「泥水」であっては困る。カクテルに水を交ぜたとしても、味が薄くなるくらいの弊害ですむが、これが泥水となると全てをぶち壊してしまう。…とそんなことを思う今日この頃。映画「ワイルドスピード」を観に行った。典型的な娯楽作品でカーチェイス場面がみもので、ほのぼのとした家族の絆も描いていることが、新味があるといえばあるだろう。マッチョでパワフルな主人公に母親が登場するなんてのはあまりなかったから。危険なウィルスがテロ組織に渡ってどうこうという大筋のストーリーはあまり考えずに、その時の場面を楽しめばよいという映画のように思う。
2019年09月01日
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かつては社会問題に鋭く切り込み「ワーキングプア」、「ネットカフェ難民」、「名ばかり管理職」などの用語を普及させた「クローズアップ現代」であるが、最近ではすっかり様相を変えたように思われる。これもどっかに忖度しているのではないかと思ってしまう。この間、この番組では「ギフテッド」と呼ばれる優秀児童が学校になじめないという問題を扱っていたが正直よくわからなかった。たしかに優秀な子が変わり者扱いされ、学校になじめないという例は昔からなかったわけではないが、じゃあ、優秀児がすべてそうかといえばもちろんそういうことはない。今の指導的立場についている方々、そしてまたノーベル賞受賞者も含め知的分野で業績を上げている方々のほとんどはクラスで一目も二目も置かれ、学校生活も充実したものだったのではないか。学校になじめない優秀児というのは、優秀児の中ではむしろ例外のように思う。そしてまた、学校になじめない子供や登校拒否になる子供というのもいたが、それは勉強ができすぎて退屈している子供よりも、逆に勉強についていけない子供が多かったし、成績に問題のない子供であっても、どっか自己中心的だったり、社会的訓練のできていない子、要するに人に対してこういうことは言ってはいけないとかやってはいけないという暗黙知が身についていない場合がほとんどだったように思う。だから、優秀児童≒ギフテッド≒学校になじめず問題がある≒対策が必要という番組の作り方は、なにか誘導的な感じがする。授業がつまらないという点についても、今では情報があふれているので、その気になれば高度な学問的な成果にもアクセスできる。大学の図書館や公開講座を年齢を問わずに地域住民に開放するだけでも、そうした優秀児の需要には十分に対処できるのではないか。さらに言ってしまえば優秀の定義をIQ〇〇以上としているのもどうなのだろうか。国語の成績と算数の成績が相関があるように知能指数と各学科の成績も相関があるがそれだけのことではないか。個別にみると機転が利く部分があるが通常人と変わらないIQ130という人も知っている。その人は小学校時代からIQはよいのだからと周囲から叱咤激励されていたが、最後まで成績の急上昇はなかったし、今でも平凡に幸福に生きている。IQの数字がよいから特別なギフテッド、ギフテッドだから学校にはなじめない…という妙な感違いをする人もでてきそうである。いずれにしても、かっては鋭く時代に切り込んでいたこの番組も、今回ばかりはなんだかな〜という印象である。
2019年08月30日
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昔、こんな投書を読んだことがある。さる高齢者の意見であるが敬老の日の前後になると「元気なお年寄り」を紹介する番組ばかりが放映されるのでいやになるという。だからこうした番組が集中する時期がすぎるとほっとするのだとも…。自分もこんな年齢に近づいたせいかこうした気持ちがわからないでもない。誰しも元気でいたいのは事実だが、人それぞれに体質も健康状態も異なる。節制とか鍛錬とかでなんとかなる部分もあれば、いかんともしがたい面もある。そしてそんないかんともしがたい不調をかかえる高齢者にとって、「こんな元気な高齢者がいます」という番組はどううつるのだろうか。まあ、うまい例えも思い浮かばないが、健康上の理由で水泳のできない人が水泳を楽しむ人々を紹介した番組をみた気分、あるいは大学進学のかなわない人がキャンパスライフの素晴らしさをたたえる番組をみた気分。そんなのに近いのではないか。元気な高齢者の番組を見て勇気づけられ前向きな気分になる人々というのは、決して同世代の高齢者ではなく、これから高齢期を迎える人々、もっといってしまえば高齢期などはるか先と思っている人々ではないか。たぶん同じようなことはパラスポーツにもいえる。パラスポーツが最近非常に超人化してきて、一般の障碍者とはずいぶんかけ離れたものになっているように思う。障害を持つ人がそれを克服して高度な競技に挑戦する姿は感動的なのかもしれないが、それで感動し、勇気をもらうのは、同じような障害を持つ人々ではなく、健常者なのではないか。障害をもっているあの人だってあんなに頑張っている、自分にもまだまだやれることがあるはずだ…というように。
2019年08月27日
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関西在住の人から聞いた話である。その人は無料と言うこともあって高校野球の時期にはよく外野席で観戦をしていた。真夏の時期なので観戦者の中には気分のわるくなる人もいるわけなのだが、救急車は直接に呼ばず、かならずスタッフを通じてよぶように注意があるという。おそらく救急車のお世話になる人がいたとしても他の観客に目立たぬように誘導されるのだろうか。実際に救急車の来ているところも見たことがあるという。真夏の甲子園。選手はともかく、観戦者は屈強なひとばかりではない。涼しいところから孫の応援にやってきた老人だっているだろう。けっこう熱中症になる人もいると思うのだが、そうしたものはあまり報道されない。本当は今年の甲子園、熱中症何人なんていう記事があってもおかしくないのだが。これにかぎらずだが、世の中には存在しても報道されないことってけっこうあるように思う。
2019年08月23日
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最近の二世政治家はどうも学歴とか試験とかそういったものにコンプレックスやルサンチマンをもっているのかもしれない。ここ20年くらいの改革の方向をみてると、世の秀才どもが殺到するような試験とか学歴の有名無実化に励んでいるように思えてならないから。まず公務員については「人物本位の採用」という名目で今まで以上に面接が重視されるようになった。そのため、面接の倍率は2倍以上になり、公務員試験は筆記試験で合格しても採用されるかどうかわからない試験になった。だから理論的には一種で採用されたAさんよりも一種は面接で落ちて二種で採用されたBさんの方が一種の筆記の成績は良いなんてことも、今ではありうるのではないか。司法試験も合格者を増やすことによって、合格しても食えるかどうかわからない資格になった。昔はよくハンディを負っている人が苦学して合格したということが社会面のニュースになったものだが、今ではそういうニュースはきかない。これはそうした事実がなくなったというよりも、資格そのものの性質が変わり、ハンディを負った人が合格しても人生逆転とはいかなくなっただけであろう。仕事がなく生活できない弁護士がいても誰も驚かない時代である。そして国立大学も授業料高騰(それはかなり前からなのだが)に加え、昨今では面接試験導入の議論が絶えないようである。昔々のことだが従兄弟が国立大学に合格して伯父が有頂天になっていたことがある。国費により教育を受け、公平な試験で選抜されることは国立大学の誇りの根底なのではないか…と思う。ルサンチマンを持つ政治家連中は試験や学歴を有名無実化するだけでは満足しないらしい。次の目標は国民のおしなべての低学力化である。高校の国語の授業に契約書の読み方を取り入れる反面、詩や小説を選択科目にするという。契約書も含めて法文をすいすいと正確に読みこなす人は、別に高校時代からそんな文章を読んで慣れていたわけではない。小説も含めた読書全般に慣れていて、その日本語力がすそ野になっているからこそ、ややこしい法文も読めるのである。国語の勉強として駐車場の契約文などを読ませたら国語嫌いを量産するだけだろう。そのうち数学の授業も複素数や三角関数も選択になって、利息計算だけができればよいとかいうことになるのだろうか。そうなったら数学という教科に抱くリスペクトのようなものも失われ、頂上も含めた全体のレベルも低下していくだけであろう。低学力で外国の情報にもうとく、ただ「日本スゴイ」と思っているだけのような、そんなバカな国民を量産したいのだろうか。
2019年08月18日
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韓国で合計特殊出生率が急減し、今年は0.9を下回るという。日本でもこの数字は1.4くらいなので、これと比べても韓国ではいかに低いかがわかる。世界的に見ても、韓国以外に出生率ぼ低い国は香港、台湾1.13、プエルトリコ1.10であり、プエルトリコを別にすればいずれも東アジアの国である。東アジアといえば儒教文化圏に分類されるが、韓国では特に儒教の影響が強いという。こうした文化的風土と低出生率は連動しているのだろうか。しかし儒教といえば祖先崇拝と共に子孫への血の継承を重視する。子孫を絶やせば死後の祀りをする人はいなくなるので、それは親や祖先に対する最大の親不孝とされる。だから儒教文化圏では、子供、特に男児を生むのが至上命題であるので、むしろ出生率は高くあるべきだろう。それなのに出生率が異様に低いのはなぜなのだろうか。儒教は祖先崇拝だけでなく、男尊女卑という価値観がある。男尊女卑とは男が自動的に女よりも偉いということではなく、男は女よりも、学歴、知力、体力、身長、家柄、財産とすべてに上であるべきだという価値観も含む。だから結婚となると、結婚相手には自分よりも上の能力だけではなく、妻子を悠々と扶養できる収入や財産も要件となる。そしてもちろん生まれてくる子供も立派に育てなければならないので教育費も潤沢にかける必要がある。「わたしの好きなダメ男。ふたりで稼げばなんとかなるわ。子供を作って楽しく暮らしましょう」といったラテン?ののりは儒教文化圏では考えにくいように思う。さらに言えば儒教文化圏では学問や教育を重視する。だから学歴社会になりやすいし、その学歴、試験という階梯を登れば道は開けるので、意外に高い地位につく女性も多い。ただこうした学歴をみにつけた女性は伴侶には高いレベルを求めるので、どうしても結婚が遅くなりがちであるし、そうした女性にはじかれていった男もまた結婚しにくくなっていく。というわけで、韓国の極端に低い合計特殊出生率をかってに解釈してみたが、地球規模ではまだまだ人口爆発が続いており、低出生率は人類全体という面では好都合なのかもしれない。
2019年08月17日
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厚労省の調査によると,1996年から2010年にかけて、医師総数は22.1万人から28.0万人と1.3倍に増加している。これを精神科医に限ると、9千5百人から2010年の1万4千人と1.5倍に増加しており、精神科は医師の中でも増加率が大きい分野だといえる。昔から優秀な人で医師を志す人は多かったが、単に成績が良いからという理由で医学部を目指す人が増えれば、必然、「血をみるのが大嫌いな」医学部生の比率も高くなる。そういう医師は精神科志向が高いのではないか。その上、偏見かもしれないが、精神科医療に昔あったような暗いイメージはだいぶ影をひそめているし、論客としてスター的な地位を得ている精神科医の存在もイメージアップに貢献している。卵と鶏のようなものなのかもしれないが、医師が増えれば患者も増える。精神疾患で治療を受ける人も増加傾向だという。病気の範疇は時代とともに変わる。自覚症状のない高血圧や糖尿、緑内障などは今では「病気」とされ、治療を受けるようになっている。これと同じように精神科の領域でも昔は病気とされていなかったものが、新たに病気と認識されるようになっているように思う。アスペルガー症候群だの発達障害だのという言葉は昔は聞いたこともないし、強迫神経症やうつ病についても、こんなに数多くはいなかった。医療はそもそも何のためにあるのだろうか。医師の生活のためではなく、患者やその周囲の人々がよりよい人生をおくるためにあるのではないか。少なくともそう思えばこそ、人々は医療機関の門をたたく。たしかに自覚症状のない高血圧や糖尿、緑内障は、早期に治療をするからこそ重篤な症状を予防でき、それが平均寿命や健康寿命の伸長につながっている。これに対して精神科での診断や治療はどうなのだろうか。幻覚や妄想に支配され、自身のみならず、周囲にも危害を加えるおそれのあるような古典的な精神疾患については、患者本人や周囲の幸福のために、なんらかの隔離や治療が必要だというのは分かるのだが、発達障害だの脅迫神経症だのアスペだのの診断がそんなに本人のよりよい人生につながっているとも思えない。もっと言ってしまえば人生を潰しているようなケースもあると感じるのは自分だけだろうか。知人の子息に強迫神経症という診断を受けた人がいる。就職に失敗して、求職中にでた症状だという。素人考えかもしれないが、こうした症状は別に不安の根源があって、それが、別のところに強迫症状となってでてくる場合がほとんどなのではないか。就職活動中の不安感や焦燥は体験したことがあるのでよくわかる。うつ病も同様に親族との死別、経済的な困窮、健康悪化など外的な要因があって、それが「うつ症状」という形ででてくるもので、それは病気と言うよりもうれしければ興奮し悲しければ沈み込むという人間の心の反応のように思う。こういうものは精神科医の治療や投薬よりも、外部の根源の除去や改善、それが不可能なら、伝統宗教による法話(新興宗教には危険も多いので)や座禅などの方が効果があるように思う。
2019年08月15日
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事件で話題になった京都アニメーションの作品の一つである「けいおん!」を見た。第1話と第2話で、女子高に入った少女が軽音楽部に入り、ギターを購入する顛末が描かれている。会話などに笑える個所はあるが、等身大の主人公のゆったりとした生活を描いたもので、特に大きな事件が起きるとかいうわけでもない。社会現象になるほどヒットしたアニメだというが何がそんなによいのだろうか。原作は四コマ漫画であるが、このアニメの作画がなければ、面白さは半減したのではないか。主人公たち四人はいずれもかわいらしく、ボーイッシュ、おっとり、活発と性格もかきわけられている。そしてその主人公たちがうごきまわる校舎や街の情景が非常に丁寧に、そして現実の世界以上に詩的に描かれている。夕陽の照らす廊下や校舎上の空。自分の高校時代にもこんな情景はあったのかもしれないし、今よりもずっと感受性豊かであったあの頃にはこんなふうに見えていたのかもしれない。幸せな高校生たちのゆるゆるまったりした終わりなき日常の物語をみながら、自身の高校時代を追憶する。主なファン層は同世代の女子高生ではなく、上の世代の男性が多いようで、主人公たちの絵もちょっと男性好みに描かれているようなのだが、それも女性がみても抵抗はない程度のものだ。ただ思うのだが、こうしたものを観ている20代以上の人達というのはどうなのだろうか。仕事や家庭に忙しい人々は中学や高校時代の想い出にひたる時間はあまりない。最近の事件…どうしても、そっちの方へ目がいってしまうが、元次官による殺人事件の被害者はアニメヲタだったようだし、今度の放火殺人犯もアニメとの接点があった。そして両者とも実人生では家庭もなく職もなく、友人もいない。それだけでなく、いじめを受けていたり、孤立していたりして中学や高校の楽しい想い出というものもあまりなさそうだ。それが、こうした少女たちのきらきらした青春風景の物語を好んでいたとしたら、ちょっと悲しい。もちろんこう書いたからといってアニメファンには索漠たる人生を送っている人が多いなんてことをいうつもりはさらさらない。
2019年08月13日
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最近よく若者の〇〇離れと言う言葉を聞く。食関連だけで、酒離れ、外食離れ、調味料離れ、お茶離れ、梅干離れ、ガム離れ、刺身にワサビ、おでんに辛子離れ…とこんなにある。これにスキー離れ、旅行離れ、映画離れ、風俗離れ、恋愛離れとなるといったい若い人って何をやっているのだろうかと思う。こうした離れの要因にはいくつかのものが考えられる。一つは若年層が減ったことによるもので若者の嗜好は変わらないもの。たしかに海外旅行など昔よりも安く行けるようになっているのに、若者が減っているというのにはこの要因があるのかもしれない。こうしたものは、全体の数字をみながら若者と他の年齢層を比較しないとなんともいえないのかもしれない。二つは若者に限らず全年齢層で起きているが、過去の生活習慣に縛られない若者層で顕著というものがある。「テレビ離れ、ラジオ離れ、新聞離れ、雑誌離れ」などはこれで、こうしたものは全体に需要が減っているだけなのではないか。車離れや腕時計離れも、小さい頃から都会に育った人の比率が高い若者世代では車の必要性は感じないだろうし、腕時計もスマホを持っていれば必要とも思えない。三つは時代による趣味嗜好の変化である。食生活は貧しかった時代、情報機器が普及していなかった時代に好まれたものが時代と共にみむきもされなくなることはよくある。過去にはきっと若者の浪曲離れ、切り干し大根離れなんてのもあったことだろう。梅干し離れ、お茶離れなどはそういうものだろう。そして四つは時代による生き方の変化だろう。古い戸籍をみると、けっこう庶子が記載されているものがある。妾などは金持ちの甲斐性道楽であり、貧しい女性が這い上がる手段であり、社会的に認知されていた時代もあったのだ。結婚離れも独身という生き方が社会的に認知されてきたということなのかもしれない。今では独身の中年男性を「変な人」とみる人はいないだろう。最後は若者に金が回らないことが背景にある変化である。これが実は一番問題なのかもしれない。金がないので「映画離れ」、「外食離れ」、「スキー離れ」というように。こういうのは若者の〇〇離れではなく、金の若者離れというべきなのかもしれない。
2019年08月10日
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帰省シーズンということで東京駅は大きなカバンをもった人々でにぎわっている。お土産店も列ができているのだが、いつも不思議に思うのだが、東京みやげとしてよくみかけるアレだ。そもそもアレは駅にしか売っているのをみたことがないし、世論調査で確認はできていないが、東京の人で食べたことがあるという人はあまりいないのではないか。それに大々的にみかけるようになったのは、ここ10年ほどなのであまり伝統もなさそうである。それなのに東京〇〇〇というように、東京を冠したお土産がアレしかないという不思議…。まあ、東京の伝統的なお菓子といえば△△おこしや◇◇焼きもあるが、もともとは庶民のものだったので、いまいち豪華さにかける。◇◇焼きときたら、よくいえば庶民的で素朴な菓子なので、わざわざお土産だといってわたすと違和感がある。そんなわけで東京〇〇〇が人気となったのかもしれない。よく考えてみると、有名なお土産というのは地元の人はあまり食べないのかもしれない。仙台銘菓萩の月を仙台の人がしょっちゅう食べているというわけでもなさそうだし、博多美人とかいうカステラの菓子ももっぱら売れているのは土産としてではないか。この両者とも・配りやすい・軽い・日持ちがする・価格がリーズナブルという特徴があり、職場などへのばら撒き土産に最適である。この伝でいえば、鳩サブレはちょっと大きすぎて割れやすいし、ういろうは最近のものは小分けになっているのはありがたいが重いのが難点だ。信玄餅は高いし、重いのだが、職場でこれを配る人が心から感謝する。赤福は配るなどは考えずに家に持って帰って家族で楽しみに食べれば良い。そしてカーリング娘のもぐもぐで有名になったあのお菓子…あれはまだ売れているのだろうか。北海道土産はやっぱり白い恋人が大変な傑作のように思う。職場に撒いても良いし、家で食べてもよい。あと、レーズンサンドがあるが、これは高価で美味しいので単なるつきあいでばら撒くのはもったいない。
2019年08月09日
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こんな話をきいたことがある。戦前、特別高等警察に勤務していた人が、戦争が終わったとたんどんな復讐をされるかと戦々恐々としていた。ところがいっこうにそんな気配もないのでようやく安心したという。これに限らず、戦争で苦労をしたはずの人々がその復讐を戦後行ったという話はあまりきかない。特別高等警察の弾圧だけでなく、戦前の徴兵や徴用、大陸開拓という名で送り出した棄民政策などで、誰かが責任を取ったという話もないし、そうした責任者で戦後も高い地位にとどまりつづけた人もいる。公職追放にしても、平和条約発効までにほとんど解除されているし、そもそも公職違法それ自体が占領政策によるもので、日本人の間から自発的にわきあがったものではなかった。慰安婦とか徴用と言うと、それ自体、「反日」のキーワードのように扱われている。しかし、よく考えてみると日本人にも慰安婦はいたし、日本人の徴用もあった。韓国の独立記念館に行くと日本人憲兵による拷問を再現した蝋人形があると言うが、これだって憲兵の拷問は日本人にも行われていた。ねちっこくねちっこく日本の旧悪を追及する半島の人々に比べて日本人はおとなしい。これは同民族内のことだから仕方がないと思っているのか、慰安婦だったこと、特高に狙われるような「非国民」だったことをいまだに恥じて秘すべきことと思っているのか、持って生まれた穏やかで温和な国民性の故なのか…。また、8月15日がやってくる。そして今日は8月9日…長崎と満州が地獄と化した日だ。
2019年08月09日
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国家が興隆するときは若者から豊かになり、衰退するときは若者から貧しくなる。そういえば高度成長期は、若者の海や山のレジャーがニュースの定番であったし、海外旅行も若者が中心で「そんな旅行はまず親を行かせてから自分が行くべきだ」という評論家の苦言があったくらいだ。今とは隔世の感がある。今、30代や40代の非正規雇用や低所得者の比率が高く問題視する意見もあるが、そうした人々の多くに、豊かな時代を生き、そこそこの持ち家と資産を残した親世代がいる。子供部屋おじさんという未婚で親と同居する30代や40代の男性が増えているというが、そうした人々も親がある程度広い持ち家をもっているからこそ同居できるのではないか。子供部屋おじさんはやがて子供部屋おじいさんになり、金のかからない娯楽をみつけて楽しく平和に暮らすのかもしれない。もしそうであるならば、非正規雇用者や低所得者の相当数は不満層というよりも、それなりに現状に満足している層、だから投票に行かないか、行っても与党支持…という可能性もある。とにかく現状よりも悪くなっては困るのである。国家は興隆し衰退する。ただし、衰退局面であったとしても、マクロでみれば、一世代くらいはなんとかなるものなのだろう。
2019年08月06日
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さる方のブログに某新聞にのったコラムが引用されていた。著者はかなり著名な方で自公政権に批判的な立場から、今回の選挙について「…憲法改悪の野望には待ったがかかった…いのちを護るためには、いまの憲法を大事にする運動をさらに広げるしかない。…」と結んでいる。なんだろうか。この不快感。そういえば昔は〇〇運動というものがよくあった。新生活運動、小さな親切運動、交通安全運動などなど。いずれも行政などが上から旗をふって、国民を一定の方向に導くという色彩が強かった。交通安全運動は今でもあるようだが、これは「交通安全」という異論のだしようがない目標についてのものであって、他の運動とは色彩が違う。そこまで考えてみてわかった。「今の憲法を大事にする運動をさらに広げる」ってあんた何様なんだ?大衆は憲法の素晴らしさをわかってないので啓もうしてやるというのだろうか。言葉が人々に伝わるには、人々の間に燃料があって、それに火矢のように言葉がつきささるということだ。燃料とは、生活の不満、それはオレの給料親父の年金より安いってどういうことよでもよいし、今の暮らしでやっとなのに消費税増税とはあり得ないとかでもよい。これに対して、「今の憲法を大事にする」というのは生活実感とは距離のある価値観とか理想とかそういう領域のもので、「今の憲法を大事にする運動」というものはどうしても上から目線になる。そしてそういう上から目線では決して支持は広がらない。
2019年08月05日
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学生ローンで金を借りる学生が急増しているという。背景には親世代の苦しさがあり、少ない仕送りを補填するためには借金に頼らざるを得ないというわけである。もちろん借りた金というものは返さなければならず、それもまた負担となっていく。これをもって学生への給付型奨学金を充実しろとかいう議論がでてきそうなのだが、ちょっとまてよとも思う。今では日本の大学の数は700もある。そんなに大学生が増えていけば、中には分数の四則計算もできない者もいるという。分数の四則計算ができないというのはさすがに例外であっても、因数分解や二次方程式などの中学程度の基礎的学力すらも足りない者はかなりいるのではないか。そうなると大学教育などはいったい何のためにあるのだろうか。一頃、4年間のモラトリアムという議論があり、それはそれで一理ある気もしたのだが、借金をこさえてアルバイトにおわれてというのでは、モラトリアムの意味すらもない。そしてまた、冷静に考えてみると、大学に行ったために失うものもある。18歳から20代前半という人生で最も吸収力に富む時間と、その時間を他の事に使う可能性である。苦しく、また、危険もあるのだが、ワーキングホリディで外国に行けば相当程度の外国語を身に着けることができるだろう。専門学校で手に職をつければ、より手堅い就職ができるかもしれない。公務員の職種でも高卒の方が入りやすい職種もあり、そうした形で入ってから自力で大卒資格を得る途もある。大卒は恵まれているように見えても、それは上から下までをいっしょくたにみるからであって、正直、一定レベル以下の大学を出たとしても、それほどの利点があるとも思えない。むしろ大卒故に高卒資格の職種から排除されることもあるし、中小企業では逆に大卒故に敬遠するところもあるかもしれない。直接の知り合いではないのだが、某私大を出た後、民間企業に勤めたのだが、短期間で退職し、その後はひきこもっているという人の話も聞く。民間企業では「新卒切り」といって形だけ新人を採用しながら、極端な叱責を繰り返すなどして短期間で退職においやるところもあるというが、そうした企業にあたったのだろうか。そういう例をきくと、なにがなんでも大学に行くばかりがすべてではないという気がしてくる。
2019年07月13日
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日本の人口減少がとまらない。こうした人口の増減は有史以来繰り返されてきたもので、増加傾向にしろ減少傾向にしろ永久に続くことはない。最近でこそ少子化が議論になっているが、日本では明治以降昭和40年代頃まではむしろ人口の過剰が問題になっており、その過剰な人口を食わせるために大陸への開拓移民を国策として行ったし、それが戦後は南米への移民政策となったことは周知のところだ。そんな時代はそう遠い昔のことではないし、そうした時代を思えば人口が減るのは僥倖なのかもしれない。それにもし「日本人」がいなくなったとしても、近隣から多くの人々がやってきて定住するだろうし、現に定住外国人人口は増えている。従って少子高齢化と人口減少自体はさほど問題とも思えないが、その背景には興味がある。日本の少子化はだいたい三段階にかけて起きているのではないかと思う。第一段階は戦後豊かになっていくなかでの出生数の減少である。先進国共通にみられる現象で、乳幼児死亡率が低下し、一方で高等教育が普及していけば、少なく生んで充実した教育を与えようということになる。第二段階は女性の社会進出が進み、経済的になんとか自立できる人が増えれば結婚も人生の選択の一つになる。「オールドミス」といった結婚しない女性を差別するような言葉が死語になっていったのもこの頃だ。女性の晩婚化が進み、出生数はさらに減った。第三段階が女性だけでなく男性でも非正規雇用で勤務する人が多くなり、結婚についての二つのあたりまえが消えていった時代である。それは・結婚すれば男性が妻子を扶養するのがあたりまえ、・子供が生まれればまともに育つのはあたりまえということである。前者については、女性の寄生虫根性という見方もあるが、出産によって何が起こるかわからない女性にとっては、十分な経済力のない相手との結婚は不安要因でしかない。そうした結婚相手として選択できる男性が減れば、経済力ある女性はふさわしい相手を求めて、経済力のない女性は人生の一発逆転をかけて、結婚相手探しに必死になる。「婚活」や「妊活」という言葉が生まれたのは時代の趨勢だろう。しかし、一方で、子供が生まれても、自分と同じように就職で苦労するとなれば、子供を持つことに二の足を踏む人も増える。昨今の親子をめぐる不幸な事件は、子供が無職や不安定雇用になる危険はエリート家庭も例外ではないことを知らしめた。子供を持つことに不安を感じるような社会であれば結婚したいと思う人も減る。最近の少子化は夫婦間の子供が減っているのではなく、婚姻率そのものが減っているのが大きな要因である。将来の生涯未婚率は4分の1ともいわれ、未婚もまた普通の生き方になっていく。社会を本当に意味で変えていくのは少子高齢化ではなく、この未婚化という現象ではないのだろうか。人類にとって前人未到の領域である。
2019年07月12日
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最近、人生百年時代という言葉をよく聞く。平均寿命が延びたのは事実だが、人生百年というのはいくらなんでもおおげさだろう。やはり90代で寿命の壁があって、喪中欠礼通知をみても、100歳以上で亡くなったという通知はあまりない。そしてまた、一方では、比較的若い年令でも志望もあるので、「人生百年時代」なんてのは、上の方がいいだしたのを、マスコミが広めているだけではないか。人生70年はもはや古来希なりとはいえないが、人生100年は今でもやはりまれである。街は選挙戦たけなわで普通に歩いていても演説にぶつかる。成長とか景気回復とか日本の競争力とかいう言葉がそんな中でよく聞こえてくる。こういうのを聞くと、ついつい、それでウチラの暮らしはどうなるの?と訊き返したくなる。いくら株価が上がったと言ったって、株をもっていなければ関係のない話だし。同じように「美しい日本」とか「世界の真ん中で輝く日本w」とか言っても、じゃあ、その中で自分の暮らしはどうなんだと思う。具体的にどんな社会がよいのか、どんな世の中がよいのか、その中で自分や家族はどう暮らしていきたいのか…そのあたりのイメージが重要だろう。
2019年07月09日
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お気に入りに登録している天地はるなさんが「あさきゆめみし」について書かれていたので、最後にこんなコメントを書いてみた。宇治十帖についての感想である。宇治十帖は本編とは違ってどことなく現代ドラマのような趣があります。三角関係、出生の秘密、記憶喪失…。脇役なのですが、最後に浮舟に想いをよせる少将がすごくよいです。道心がありながら現世への責任感故に出家はできない、亡き妻を忘れずに供養を続ける、浮舟を見初めるが無理だとわかるとせめて友人として生涯の面倒はみたいと考える。身勝手な男ばかりの中で誠実な男性のように思えます。源氏物語本編も傑作なのだが、宇治十帖もそれに劣らないように思う。何よりも古さを感じさせず、その分、通俗的で、本編の古典的美意識の世界とは異なる。これをもし現代風に書き直すとしたら尼となり老境を前にした浮舟が法友として生活の支援も行ってくれた少将に対して述懐の手紙を書くという構成にするのだろうか。私の生ももう長くはありませんので、若き日のことなどをつつみかくさず申し上げます。どうかこの手紙はお読みになった後は焼き捨ててください…といったように。考えてみたら宇治十帖にでてくる人間は本編よりも醜く描かれている。妻を亡くした寂しさから女房に子を産ませたがすぐに母子を捨てた八宮も勝手なら、出自の分からぬゆえの寂しさを頼りない境遇にある大君で埋めようとし、その大君を失った後、姿の似た浮舟を大君の代わりにしようとする薫も勝手だ。その薫とはりあって浮舟を奪う匂宮ももちろんだろう。光源氏という理想像が消えてから、人間の醜い現実が浮き彫りになった世界が宇治十帖であり、そして浮舟の入水と出家も道心というよりも逃避のようにみえる。それゆえに、最後にでてくる誠実そうな少将がちょっと救いのようにもみえてくるのだ。まったくの脇役だが、かなり印象的な脇役のように思う。そしてもう一つ源氏物語には気になる脇役がいる。源氏物語の最高の「勝ち組ヒロイン」といえば明石の上だろう。源氏物語自体が中流貴族出身で絶世の美女と言うほどでもない(よきかたちならねど)明石の上が光源氏に見初められ、その後も手習いなどの研鑽を怠らずに、最後は中宮の母として宮中に入る成功物語とも読める。作者も属し、読者層の多くがそうであっただろう中流貴族の女性たちが喜びそうな話である。そしてもう一人、大変な勝ち組女性の脇役がいる。光源氏の従者である惟光の娘の五節の内侍。舞姫に選ばれるほどの美貌と内侍が務まるほどの才気があり、そしてのちに太政大臣になる夕霧の側室として多くの子供をもうける。その子供たちについては正妻の雲居雁の子供たちよりも皆少しずつ姿もよく優秀だとある。才色兼備で宮中でさっそうと活躍し、立派な男との間によい子を多くもうける。この五節の内侍もまた中流貴族の娘である。
2019年07月05日
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最近よく聞く言葉に「子供部屋おじさん」や「子供部屋おばさん」という言葉がある。おじさん、おばさんという年齢になっても親とともに暮らしている独身者をいうらしい。似たような言葉で「パラサイトシングル」というのがあるが、この言い方はパラサイト(寄生虫)よりももっと悪意に満ちているように思う。もしかしてこの言葉をひろめているのはマンションアパート業界だったりしてw。たしかに「子供部屋おじさん」は増えている。母子世帯や核家族世帯は相当な数になるが、その中身はかつてのような未成年の子と親ではなく、成人した子と老親という組み合わせの比率が高くなっている。地方から都会への大規模な人口移動があった時代はすぎ、親世代から都会で暮らしていたという人が多くなり、さらに結婚年齢の上昇や未婚化の進展で、都会で育ち、都会に就職した息子娘がそのまま親の家に住み続けるという例が増えているのだろう。昔から都会では就職しても結婚するまでは親と同居するのが珍しくなかった。住居費は高いし、特に敷金や必要最小限の家具や電気製品をそろえるとなると、新入社員にはあまりにも負担が大きい。独身寮などを備えたところもあったかもしれないが、そういうものはたいてい地方出身者限定だったように思う。そして「子供部屋おじさん」なんていう差別語はなかったが、職場での雰囲気は親元から通勤する独身者には揶揄的だったように思う。家庭を築いて一人前という当時の意識の裏返しだったのかもしれないが、同じ独身でも、親元から通っているというだけでなんか独立していないような半人前のような視線があった。まあ、当時は結婚年齢もいまよりも低かったし、そういう時期はあまり長くはなかったのだが、今ではそれが長くなったということなのだろう。けれども、「子供部屋おじさん」のいったい何が問題なのだろう。ネットでみていると「我が子を子供部屋おじさんにする親の特徴」などと、それが悪いことのように認識する人もいるようだが、高齢社会の中で高齢世帯の問題を防いでいるのが親と同居する未婚の子供たちではないか。介護が必要でなくとも、「見守り」を必要とする高齢者は多い。親の急な心身の不調ですぐに病院に連れて行ったり、あやしげな勧誘や電話があったときにストップをかけたり、こまめに戸締りや火の始末に気を配ったりと、老親と同居する子供はそれなりに役割を果たしている。経済的に自立できずに親の老後の資金をくいつぶすのは問題だが、そうではなく、ちゃんと仕事をして経済的に自立している独身者なら全く問題がないように思う。いったいなんで独身で親と同居していてはいけないのだろうか。
2019年06月29日
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ここ数年ずいぶんとお金を使わなくなっている。お金を使わない第一歩は不要不急の出費を減らすということだろう。衝動買いを避けるためにカードは使わない。お札も一万円札以上は財布に入れず、カバンの別のところに保管しておく。ほしい…と思ったものでも一晩寝るとさしてほしくもなくなることがよくある。そのほか節約方法としては…こんなのもある。本は図書館を活用する。どうせ人生で読書に費やす時間は限られているのだから、その時々のベストセラーよりも、時の篩を潜り抜けてきたものの方が読むべきものは多いし、そうしたものは本屋よりも図書館にある。運動には公的な施設を利用する。東京ならどこでも区民向けのスポーツ施設があり、高いお金でジムに入会するよりも、ずっと安く済む。着るものは店によって価格が違うので安い店を探す。東京なら三軒茶屋とか大森にそうした店があるように思う。固有名詞はあげないけど…。また、適宜、古着も活用する。古着と言っても誰かさんの着たものではなく、倉庫から流れてきたものもあるので、季節をずらして買うとお得だし、なんとなく、その服を着る季節を心待ちにするのもよい。家具についても、最近は中古品交換のための掲示板もあり、そこで需要と供給が一致すれば実質無料で必要な家具をそろえることができる。家具に限らず、最近ではずいぶん中古品の市場が発達しており、それも、ネットを使った直接の個人間の取引が増えているように思う。そのほかにも、庭がある人は庭も家庭菜園に活用したり、ふるさと納税の返礼品など実質負担なしに受け取れるものはできるだけ利用したり、庭で栽培しすぎたゴーヤーなどすこしでも余っている者は知り合い同士極力交換しあったり、いろいろなやり方があるように思う。そしてなによりも、重要なのは、節制と適度な運動による健康維持と金をかけなくとも楽しみを見つける感性なのかもしれない。
2019年06月28日
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あるクラスでは二人の子がいつも成績のトップを争っていた…とする。1人はA君、もう一人はB君である。A君は勉強だけでなくスポーツも万能。男子にも女子にも人気があり、学級委員などにはいつも真っ先におされていた。これに対してB君。勉強はできるけど、友達がいないので勉強しかやることがないのではないか。休み時間は一人で本を読んでいるか、たまに級友の中に入っても、無神経なことを平気で言うし、突然、会話の流れとは外れた話題をもちだしてしらけさせたり…なんかあいつを交ぜるといやなんだよな。中学卒業後、A君もB君も同じ一番手の進学校に入り、その後も、同じ大学に行ったという。ここまではA君とB君の差はあまりない。ただその先の就職、そして社会の中ではA君とB君の人生はかなり違ったものになるのではないか。たぶん多くの人がA君のような人にもB君のような人にも出会っている。前途洋々のA君に比べ、問題はB君である。その後、B君はどうなっただろうか。おおまかにいって三つの可能性が考えられる。第一は、中学時代から自分の性格に悩んでいた彼は周囲の勧めもあり、専門職としての道を目指す。第二は、なんとか会社に入った後、必死で周囲に適応しようとする。第三は、就職はいつも面接で落とされ、次第に自信を失ってひきこもり気味になるか、消息を絶つかする。できれば第一か第二の道をいければよいのだが。何十年かぶりのクラス会で変人で変わり者だった級友がすっかり丸くなり、ビールをついでまわるなんていう光景はよくある。ただ、これだけは言える。B君のような子に「障害」というレッテルを貼り、本人や家族に絶望を植え付け、周囲から隔離することは、こうした道をとざすことになるのではないか?変わり者など昔からいたし、そんなものを誰も「障害」だなんて思っていなかった。
2019年06月16日
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女子の大学進学において理系学部が少ない理由としていろいろな分析がなされている。なかには家族がそれを望まないという説もあるようだが、にわかには信じられない。理系女子はかわいくない、縁談で敬遠される…なんてことを考えているのだとしたらいったいいつの時代の話だろう。今の大学受験生の親と言えば1970年代のうまれだろう。このくらいになると、テレビでも漫画でも男女と言う固定観念にとらわれずに、やりたいことをやるヒロインが活躍した時代だ。野球狂の詩とかベルサイユの薔薇とか…。そんな親たちが娘が理系に進学したいというと、「女の子がそんなとこに行くとお嫁の貰い手がなくなる」なんていうのだろうか。学費が高いとか、言いにくいのだが、低偏差値でヤンキーがたくさんいそうなイメージがあるとかならわからないでもないけど。娘は育てたことがないので、なんともいえないけど、男女を問わず、進学については可能であれば理系に行った方がよいと思う。というよりも、世の文系の大部分は文系が好きという理由ではなく、単に理系ができないという理由で文系を選んでいるようにみえる。理系の方が専門と就職がむずび付きやすく、特に就職にハンディがある女子については就職や職業をみすえて理系学部に行く利点がある。医師は狭き門だが、それでも、文系学部から難関資格をめざすよりもよい。弁護士や会計士は昔日のような威光はないし、公務員試験も昨今は面接重視で筆記試験を合格しても採用されないのが珍しくなくなっている。それに基本的には理系の方が頭脳的に優秀である。縁談で敬遠されるどころか、そうした優秀な男性の多い集団の中で学生生活をおくるわけだから良縁の機会はかえって多いのではないか。余計なお世話かもしれないけど。さらに、文系は理系のかわりにはならないが、理系は文系にかわることができる。理系出身で調整能力や事務処理能力にもたけ、組織の中で高いところまでいった人もいる。こうしたことは男女問わずだろうし、もし、女子受験生で文系理系どちらにすすむか迷っている人がいれば、まず、自分のやりたいことを考え、それでも迷うというのなら理系をすすめるだろうと思う。ドラゴンボールのブルマ、エヴァの赤城リツ子、ゴジラの尾頭ヒロミなどかっこいいリケ女キャラは多い。
2019年06月15日
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日本の様々な制度は基本申請主義で権利があっても申請をしなければ恩恵をうけられない。税金の還付など本当は受けられるのに、税務署での手続きが面倒などの理由でやっていない人がけっこういるのではないか。もっと深刻なのは生活保護で、日本での生活保護の捕捉率は低いという。つまり実際には生活ほどを受けられるほど困窮しているにもかかわらず、受けていない人が相当いるということだ。理由としてはいろいろ考えられるが必ずしも「生活保護を恥と考えて受けない」わけではないだろう。制度に対する無知や窓口での職員の態度におそれをなしたというような理由もあるかもしれない。生活保護については不正受給が大問題のように語られるのに、こうした不正受給の逆、権利があるのに受給していない困窮者についてはあまり議論されないのが不思議である。また、年金も複雑きわまるものとなっており、一階部分とか二階部分とかややこしい。そしてこれも所管が違うので、中には二階部分だけもらって、一階部分については請求を忘れているなんていう人もいるかもしれない。
2019年06月13日
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ひきこもりの定義をみていたら、コンビニなど身の回りの用事以外では家にこもっているというものがあった。たしかに最近の事件で注目されているひきこもり事例でもコンビニくらいには行っていたようなので、全く部屋や自宅から出ていなかったというわけではないのだろう。でも、そうした定義では、定年後職についていない人や自宅浪人生なども「ひきこもり」になってしまう。64歳までのひきこもりの人数なんていうものもあるが、少なくとも64歳で自分の年金や貯金で暮らしているまでもひきこもりに入れるのも変だろう。つまりひきこもりの定義を機械的にあてはめてしまうと、自宅浪人、定年退職者、専業主婦(主夫)などなんの問題もない人までも入ってしまうのではないか。そうだとしたら問題のあるひきこもりとは何だろうか。一言でいえば自立しなければならないのに、いつまでも親の扶養に入っている成人ということになる。このうち主に自宅にいるのをひきこもり、自宅にいるとはかぎらないのをニートというのではないか。いずれも問題の核心は仕事をしていないということにあり、ひきこもりの問題は長期失業の問題ではないかと思うのもそこにある。こうした問題の解決策についてはいろいろと議論があるが、BIつまりベーシックインカムの問題と関連させる議論はないのだろうか。すべての国民に対し最低限の金額を支給するという制度が実現できれば、成年後所得がない場合にはBIで最低限の生活をするということが普通になるかもしれないし、親子のもたれあいの構図もかわるかもしれない。BIについては、いわば誰でも生活保護で最低限の生活ができる制度と言うことで財源については疑問に思うのだが、まじめに検討されているということで全く不可能な政策というわけでもないだろう。
2019年06月07日
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高校生の頃、同級生で親が法律家という子がいた。どうでもよい雑談をしているとき、どんな話のついでか忘れたのだが、叔父かなにかで20年以上司法試験の受験勉強をしているという人がいるなんて話をしていた。そういえばかつてはそうした司法試験長期受験生という人々もいて、たまにそうした人の自殺事件などが新聞に報じられたことがあった。そうした人々は今でも世の中にいるのだろうか。弁護士でも職にあぶれたり生活苦に陥ることも珍しくなくなった時代なので、昔日の感がある。また、知り合いの知り合いくらいなのだが、大学を出た後、小説家を目指して仕事をせずに家にいるという人の話も聞いたことがある。こうした小説家志望の青年(そのうち中年)というのは、戦前の小説などにはよくでてくるのだが、今でもときどきいるのかもしれない。それとも、漫画家志望なんて言う方が当世風なのだろうか。法律家をめざすとか、小説家をめざすとかいって、大人になっても働かず、ほとんど家にこもりきりという人は昔からいた。そうしたものと「ひきこもり」とはどう違うのだろうか。昔の司法試験受験生や小説家志望のなかにも、実際には社会に適合しないだけの、今でいう引きこもりに近い人々がいたのかもしれない。
2019年06月05日
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韓国の合計特殊出生率が0.98と1を割り込み、戦乱等の外部的要因なく1を割ったのは世界初らしい。韓国に限らず、生活水準が一定以上に達した東アジアの国はおしなべて出生率が低く、香港、台湾、シンガポールも日本より出生率は低い。これらの国はいずれも儒教の影響が強く、儒教では「子孫繁栄」という価値観が強く、子孫を絶やすことを最大の親不孝とみる。そうした儒教文化圏で出生率が低いというのはなぜなのだろうか。高い教育費負担とか子育て世代の生活の苦しさを背景にあげることが多いようであるが、ならばより貧しい国でより多く子供を産んでいるのになぜだという疑問は依然として残る。思いつくままに勝手に想像してみると、まず「子孫繁栄」という価値観である。これは単に子供の数が多いだけでなく、その子供が自分よりよい生活をしなければ先祖に申し訳ないという価値観を含む。これには教育熱心というよい面もあるが、同時に子供の教育には十分に金をかけなければならない、そして、自分以上の学歴を身に着けさせ、自分以上の収入を得られるようにしなければなたないと望む面もある。社会が貧困から離陸するような時代には生まれてくる子供はおそらく自分よりもよい生活ができると思う。自分はろくに教育も受けられなかったが、息子は高校くらいにはやれるだろうと思えば子育ても張り合いがある。けれども、経済が発展すれば、子供に自分以上の学歴をと望んでも、その競争の激しさや経済負担の多さを知るだけに躊躇してしまう。次は「男尊女卑」という価値観である。これは結婚や恋愛においては、女性は自分以上の学歴や収入を持つ男性を望み、男性は自分以下の学歴や収入の女性を望むという形ででてくる。現代社会では男女問わず、学歴も収入も能力次第なので、高学歴、高収入の女性が増えれば、そこで男女のミスマッチが起こり、結果的に結婚しない人が増える。そして最後は「罪九族に及ぶ」という価値観?である。実際の刑法で罪九族に及ぶわけではないが、親によって子が評価され、子によって親が評価されるということは東アジアではよくあるのではないか。高い公職にある親が子供の不祥事で辞任するという光景は日本だけではなく、東アジアでは多いように思う。親子の絆はそれだけ強く、その重さにおそれをなして子供を持ちたくないという心情もきっとあるように思う。
2019年05月27日
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米国の大統領はいったい何のために日本にやってきたのだろうか。日本だけを訪問するために地球の反対側から夫人をつれてやってきて、数日間の日程を使い、やっているのは酷暑の中でのゴルフや優勝のすでに決まっている相撲の見物。首脳会談の結果の共同声明もださなければ、なにかを決めるというわけでもない。単に蜜月を演出するだけというものも、外交にはあるのだろう。そしてまた日本の方には新天皇での最初の国賓を最重要国元首としたいという思惑があったのかもしれない。
2019年05月27日
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日本霊異記と発心集を読んだことがあるが、同じ仏教説話でも時代が違うとこうも違うものかと驚いた。日本霊異記は平安前期である9世紀前半であるのに対して、発心集は鴨長明の編著でこちらは13世紀初頭だろうか。前者は仏教を信じるとこんな不思議なご利益があったという話が主であるのに対し、後者は無常観が大きなテーマになっている。これだけでどうのというのも軽薄なのだが、長い時間をかけて仏教がご利益信仰から無常観による精神の平穏追及へと性格を変えていったのかもしれない。どうも宗教というものが時間の経過とともに、御利益とか奇跡とかそういったものの色彩を薄め、人生哲学とか道徳とかそうしたものの比重が多くなっていくようである。それはある意味それだけ「無害」なものになっていくのかもしれないけど、別の言い方をすれば勢いを失ったともいえる。だから今でも切実な悩みをもっている人々は新興宗教にはしりやすいし、新興宗教の方もそういう層を受け皿として想定している。病院の前で勧誘なんていうのはみえすいているが、さる新興宗教の機関紙をみると、ほとんどが病苦、貧苦、家庭不和が信仰に入ったことで改善したという体験談で驚いた。ある意味、不幸をくいものにしているともいえるが、別の見方をすれば不幸な人がとにかく信仰で救われたと思っているのであればそれでいいではないかともいえる。こういう点では伝統宗教は受け皿として新興宗教にたちうちできない。なぜなら伝統宗教で現実的な利益を売り物にするところはないのだから。まあ、死後の世界という概念もあるが、宗教者自身、本当に地獄極楽を信じているのか疑わしい。病気、貧困、家庭不和などを背景に新興宗教に入った人々に比べると、オウム信者はどうも異質だ。生きる意味を求めてとかいうことであれば、なぜ伝統宗教がそうしたものに向き合えなかったのだろうか。体質によるのかもしれないけど、禅や普通のヨガでも神秘体験と称するものは起きるという。オウムに入って犯罪者にまでなった人というのは、オウムにぶつかってしまったのが不運だったのかもしれない。
2019年05月19日
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改元ということで、どうしても昭和改元を思いだす。あのときは崩御に伴う自粛ムードの後の改元で、今回のような祝賀一色ではなかったのだが、印象的だったのはテレビが天皇報道ばかりになったことと、それと並行してレンタルビデオが大行列となったことだ。実際、テレビでは見る番組がないと思った人が多かったらしく、特番をおかずに通常番組を放映した教育テレビが記録的な視聴率だったという。今回の改元はどうだろうか。たしかに特番は多かったが、新元号と騒ぐ割には、どこそこで新元号にちなんだメニューをだしたとかという類のどうでもいい話題がほとんどであった。NHKの民放バラエティのような番組はなんか痛々しい。そして、なによりも、あの頃と違うのは、インターネットもあるし、見るものにはことかかないということだろう。レンタルビデオ店も大行列はなく、ネット配信におされているせいか、閑散としている。昭和という元号は長く続いたせいか元号を第一に考え西暦は副次的に使う習慣が身についていた。卒業は昭和何年。入社は昭和何年組というように。けれども平成になってからは、多くの人が西暦で考えるようになったのではないか。だから今回の改元も、何か新しい時代が始まるというよりも、単に一日が過ぎたという感覚の人が多いのかもしれない。10連休といったって、店も通常通りに営業している。ということは連休とは関係なしに勤務している人もそれだけ多いというわけだ。休める人の中にも、生活の心配もなく休める人もいれば、日給がそれだけ減るという人もいる。学校給食が満足できる唯一の食事という子供の中には連休で体重の減るという子もいるそうだ。なお令和は英語ではbeauty and harmony としているがそれは違うように思う。だって令の第一の意味が美というならば、令嬢はみんな美人なのだろうか。そんなことはないだろう。
2019年05月02日
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障碍者の不妊手術について国家賠償の動きが広がっている。こんな手術が行われたのはそんな古い時代のことではない。家族同意のもとに本人にとってもよかれと思ってやったことが、後年非難されているのである。同じようにハンセン病患者の隔離についても、最近まで行われていたが、これもまた批判されている。世の中は日進月歩なのだが、変わりゆくのは価値観なのだろうか、科学的知見なのだろうか。こうしたことはことの性格上うんとぼかしてしか書けないのだが、知人の息子さんで精神障害三級で障碍者枠でさる企業に勤務しているという人がいる。私立大学を出た後、就職したがすぐに会社を辞め、ひきこもっている間に「発達障害」の診断を受けたのだという。ネットで調べると、発達障害の出現率は10%近くにもなり、しかも治癒の方法はないらしい。発達障害という言葉は少なくとも20年前くらいにはなかった。それがいつのまにか発達障害者支援のための法律もでき、障碍者認定までされるようになっている。それも子供の学習支援、成長支援というだけではなく、近頃ではむしろ大人の発達障害というのもよく話題になる。他の科学分野以上に精神医学は変遷が激しい。戦前よくあった「神経衰弱」という診断名はいまではほとんどきかないし、一頃の「心身症」や「ノイローゼ」という言葉も昔ほどには聴かない。医学ではなく、臨床心理学ではもっとはやりすたりが激しいようで、様々な学者や評論家によって〇〇症候群、〇原病など様々な本が書かれ、そして消えていく。精神障害三級は求職活動の際に申告する必要はないのかもしれないが、職歴の際には、障碍者枠での雇用のことは申告せざるを得ないだろう。そうでなくても、いったん、障碍者認定されれば取り消されるのは簡単ではなく、学童期に特別支援学級に入れば普通学級に復帰するのは簡単ではない。「発達障害」と認定されることは本人の利益になる面もあるのかもしれないけど、本人の人生を限定したものにすることも多い。昔も今も、人付き合いの下手な人、生きるのが不器用な人はいる。出現率10%(9.3%※)近くとなると、クラスに3~4人くらいいる「ちょっと変わった子」はたいていこれにあてはまるように思う。何十年か後、「発達障碍者」なる概念をもって障碍者認定したことは不必要なことであったとされる日がくる可能性は否定できないのではないか。※https://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/boshi-hoken07/h7_02a.htmlさらに思う。職場生活をふりかえってみると、上司とあわなかった時期もあった。今だったら「あいつは発達障害だ」と言われたかもしれない。学校や職場で「発達障害」という言葉が魔女狩りのように使われ、排除やいじめの根拠になっていくのだとしたら、それも怖ろしい。
2019年04月30日
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一定以上の年代だったらたいてい「インターナショナル」の歌を何度か聞いたことがある。「たて~うえたるもの~よ」で始まるあの歌詞である。「飢えたる者」の団結で理想の社会が実現する…当時はそう考える人が少なからずいた。でも、なんで「飢えたる者」は団結できるのだろうか。それは「飢えたる者」であることは、本人の誇りとかそういうものとはあまり関係がないからだろう。飢えたる者というのは、文字どおり飢えたという意味ではなく、無産階級といいかえてもよい。無産階級に生まれたというのは親や祖父母がそうだったということで、これは本人によるものではない。俺は労働者の家に生まれたからこんなにハンディを負っている、俺の境遇がこんなに悪いのは労働者の家に生まれたからだ。こんな言葉は呪詛と同時に慰安の言葉にもなっている。だってもっと裕福な家に生まれさえすれば、もっと能力が生かせたはずだとも考えられるのだから。ある意味「貧乏自慢」というのは能力自慢で、実は「俺はこんな貧乏でもここまでこれたくらいに優秀なんだ」と言っているのが透けて見える。昔も今も「貧乏自慢」は自慢の大きなジャンルになっている。貧乏だけではない。女性、人種。そうしたものも本人の誇りとかとは関係ないし、声高に女性差別や人種差別を言う人もまた「貧乏自慢」と同じで、ハンディにかかわらず、ここまでやってこれた自分を自慢したいだけではないのだろうか。人種差別は本当のところよくわからないけど、「女性差別」を言っている人々はぜったいその類だと思う。こうしてみると、日本の無職、低所得、不安定雇用者…こうした人々が団結しないのは逆の意味でよくわかる。本人の不遇は生まれながらの階級によるというよりも、受験や就職の失敗、職場での挫折体験などによるものだからだ。こうしたものには「誇り」を持ちようがない。もし、それでも精神的慰安を得ようとすれば、弱いもの、自分より劣ると思うものを叩くか、自分自身ではなく、自分の属する集団を他の集団よりも優れている、優位にあると考えるしかない。「弱いものが夕暮れ、さらに弱いものを叩く」なんて歌が流行ったのは平成の始め頃だったと思う。まさに平成は自己責任論とバッシングが猛威をふるった時代でもあったし、自らのうっぷんをはらすような多民族や他国人に対するヘイトが顕在化した時代でもあった。
2019年04月26日
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もうすぐ平成の元号も終わる。こうした祝賀ムードの中で、そして世間の関心の中で行われる改元と言うものは最初で最後なのではないのだろうか。なぜなら大正、昭和、平成までは崩御に伴う改元で祝賀という雰囲気ではなかったし、それ以前にも改元は多くの場合、天災のような変事があった場合に平穏を祈って改元する場合であったからである。そして今回の改元で元号離れはさらに進むであろうから、もし、退位に伴う改元が今後あったとしても今回ほど世間の関心はもりあがらないであろうから。令和という元号自体は別に悪くないと思う。ただ梅の花というのは寒々しいし、令というとどうしても冷たいの冷を連想し、また巧言令色を連想する。仁の少ない、冷たい時代にならなければよいのだが。そして英訳のbeautyも違うように思う。令夫人はともなくとして、令嬢がみんな美人なのだろうか。そんなことはない。とはいえ、ゆっくりと衰退の坂道を下ったような平成の時代は終わる。次の時代は普通の人々にとって少しでも暮らしよい時代であってほしいと思う。
2019年04月20日
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山梨の甲府と埼玉深谷を結ぶ道路を西関東道路という。いったいなんで「西関東」なのだろうか。昔習った地理の授業では埼玉は関東地方だったが、山梨はたしか中部地方だったと思うが。でもそれは昔の知識なのかもしれない。今では比例区の南関東ブロックは千葉、神奈川、山梨で埼玉は北関東三県とともに北関東ブロックになっている。それだけではない。首都圏整備法の首都圏の定義には、関東地方一都六県の他に山梨県も首都圏になぜか入っている。甲信越なんていう言葉の方が今や死語で、山梨は首都圏であり、「西関東」と言う方が適切なのだろう。けれども…と一方では思う。東京への通勤圏が拡大していった時代には山梨も通勤圏の外縁にあった。甲府は家庭の事情のある人暗い鹿聞かなかったが、大月からの通勤というのは普通にあったように思う。上野原市四方津にはそうした通勤者用の住宅地もあり、そうした乗客を高台の住宅に運ぶ巨大エレベーターは名物になっている。けれども、今ではそうした「山梨都民」も減っている。人口構成の変化だけではなく、一戸建て指向そのものが減退したせいもあるのだろう。安定した職場と収入があって、専業主婦と複数の子供のいる家庭なら、子供が思いっきり庭で遊べる一戸建てもよいが、今ではそういう家族自体少ない。単身であったり、結婚していても、共働きの妻と一人の子供なら通勤に便利な賃貸の方がよいだろう。それに一戸建てにはリスクがある。子供が成人しても自立できず、ひきこもっているような家と住宅事情との相関をとったらどうなのだろうか。これはあきらかに親が一戸建てを所有しているというケースが多いのではないか。言い換えれば子供の自立を促す意味でも、親は一戸建てなどは持たず、いつでも出て行ける賃貸の方がよい。話を元にもどす。山梨が「首都圏」に入ったのは東京の通勤圏に入ったことだけが理由ではないのかもしれないし、詮索すれば有力政治家の力も背景にあったのかもしれない。けれども、これは将来の道州制の議論にも大いにかかわってきて、関東州に異様に大きくなりすぎるとともに、静岡や新潟の帰属がますます議論をよぶことになりそうである。
2019年04月15日
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元号はもともと中国で始まったもので、皇帝は人のみならず、時間までも支配するという感覚が根底にあるという。皇帝の権威と元号はその意味で切り離せないものである。日本も大君が天皇と呼称するようになり、中国皇帝と同格となれば当然元号が必要になる。日本で最初の元号は大化であり、これは大化の改新で蘇我氏の専横をしりぞけ、天皇に権力が集中したことと無関係ではないだろう。その後、日本の歴史で実際の権力者は移ろっていったが、元号の制定は一貫して天皇が行っていた。中世の歴史で天皇に一度だけ政治権力が戻ったことがあった。建武の中興である。この建武という元号は新の王莽から権力を取り戻した後漢の光武帝が付けた元号で、簒奪者から権力をとりもどし、その政体が永続することをねがった後醍醐天皇の願望が背景にある。ところが建武の新政は周知のとおり短命に終わった。一世一元になったのは明治以降で近代化を急ぐ明治政府は天皇を国家の求心力にしようとした。教育勅語や国家神道の形成とともに、一世一元も天皇と元号とのつながりをより密接にするという意味でその一助となったのだろう。元号を日本の伝統という人は多いが、一世一元は明治以降のもので、江戸時代までは凶事があると元号をくるくると変えていた。明和の元号が「迷惑」に通じるからと8年で終わったのも有名だ。それでも、元号は天皇が決めたということと、中国古典からとるという原則はかわらなかった。ところが、平成の次の元号は「出典を日本古典からとる」とか「有識者の意見を諮る」とかいった今までにないことが行われている。こうなるとどこまでが伝統なのかわからない。そもそも元号って必要なのだろうか。官公庁は法により元号を使うにしても、一般では元号離れが急速に進むような気がする。
2019年03月19日
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