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風邪をひいてしまった。なんとなく先週はヘンだった。異常な食欲というものがあった。食べても食べてもお腹が空くから、どうもこれは身体がおかしいなあ、と思っていたのだ。どんな身体だ。一昨日あたりから急激に寒く感じるようになったので、ああこれは風邪ひくな、と覚悟していた。で、案の定という訳だ。急な気温の変化が一番大きな理由だろう。37℃だ38℃だと騒いでいたら、急に11月の気温になってしまうのだから堪ったもんじゃない!とカラダが怒っている。すまぬすまぬといつもの町医者に行って、クスリをもらい横になっているのだ。町医者の先生は、もう先生が医者に掛かる日が近いのでは、と思わせるくらいのおじいちゃん先生である。だが短時間で的確な診断を下すので今も頼っている。聴診器で背中側を私が向けたら、それまでややネムタゲだったおじいちゃん先生が突然「あっつ!!」と叫んだので私が驚いた。どうも熱を抱えこんでしまう体質らしい。今日はこのお医者さんに着いたのが午前10時で、まったく人がいなかった。しかし私が診察を受けている間にあれよあれよと人が来ていたようで、診察から戻ったら5人に増えていた。私はこういうのを「列運」と呼んでいる。例えばレジの並びだ。複数ある場合、少ないほうに並んでいるのに、いつの間にか他のレジに抜かされてしまう。一番最後になってしまう、ということもザラだ。自動改札機では、かなりの確率で前の人が「ピンポーン」と引っ掛かる。流れが悪いところに並んでしまう、というのがよくない点だ。だが今回の病院のように、混雑の直前に入り込む、というケースもとても多いので、まあ五分五分だな、と前向きに考えている。昨日は本当は初フライトの予定だった。だが天候が悪く、飛ばないという判断を教官がしたので、それに従った。天気ばかりはどうにもならない。だがこの教官は、とてもいい人だった、というお話はまたにしよう。ゴホゴホ。
2010年09月28日
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(以下引用)熱海─小田原結んでた、レトロな手押し客車復元読売新聞2010年9月19日(日)14:39 明治時代後半、伊豆国・熱海と相模国・小田原を結び、車夫が人力で手押ししていた「 豆相 ( ずそう ) 人車 ( じんしゃ ) 鉄道」が、神奈川県小田原市根府川の宿泊施設「離れのやど 星ヶ山」の敷地内に、本物さながらに復元された。 客車が走るのは約20メートルほどの区間だが、宿泊客以外にも無料開放され、鉄道ファンや子供らの人気を集めそうだ。 復元された鉄道は、同施設経営の内田昭光さん(68)が施設に出入りしている大工と1年がかりで作った。幅0・61メートルの木製線路の上で、車幅1・3メートル、長さ1・7メートル、高さ1・6メートルの木製客車1台(5~6人乗り)を前後側面の手すりを押して動かす。 内田さんは、曽祖父の代には今の宿泊施設近くを人車鉄道が通っていたと、子供の頃から聞かされていた。約10年前、湯河原町の和菓子店「 味楽庵 ( みらくあん ) 」経営で元国鉄マンの室伏昇さん(89)が同鉄道の客車を復元させたが、普段は店の前に展示されており、実際に走るのは年数回のイベントだけ。 このため内田さんは「実際に走る姿を、いつでも楽しんでもらいたい」と制作を思い立った。今後は、木製線路の上に鋼材を張り、「継ぎ目を拾う音もリアルに再現したい」としている。(引用終わり)人類が発明した、最も偉大なものの一つが「車輪」であろう。あとはなんだろう。目的に沿って使える電気か。電気自体は雷やらがあるもんなあ。他はなんだろう。無線、電球・・・音楽なんかもそうかな。電気関連が多いなあ。音楽はわからないが、電気関連は人類史のなかですごく最近になって登場した。だが車輪は違う。もう圧倒的に古い。どれくらい古いかというと、紀元前3700年頃にまで遡る。コーカサス地方で、その時代の洞窟から荷車のようなものが発見されているそうだ。やがて紀元前2000年頃になると、スポーク構造を用いた車輪も使われるようになる。これが戦闘馬車「チャリオット」になっていく。チャリの語源はこれではないか?などと思ったが、調べてみるとそんなことはないようだ。井上史雄「新方言辞典稿・インターネット版」(1996年版) このサイトに載っているテキストによると、1970年代には東京で普及していたそうだ。子どもによるスリを意味してもいたらしい。うーむ。まあともかく、車輪は偉大な発明だ。小さなエネルギーで、大きなものを動かすことができるからだ。理屈は簡単で、摩擦をとても少なくできるからである。滑らせることと比べれば、想像しやすい。ちょっと前の電車だと、10両編成で400tくらいあった。乗客が満員のラッシュとなると、乗客の重量を合わせると550t以上にも達した。大型の旅客機は、370tくらいの重さになることもある。そんな重たいものが地上をガシガシ走っていられるのも、車輪のおかげである。スペースシャトルだって、宇宙から帰ってくるときは車輪のお世話になるのだ。車輪の効果を最大限に発揮できるようにしたのが、線路である。地面がデコボコだと、車輪があっても動かし難い。また重ければ重いほど、進む方向というのも安定しなくなってくる。地面が弱いところだと、車輪が地面にめり込んでしまう場合もある。それらを一気に解決したのが線路だ。線路はレールだけでなく、マクラギも含めるんだかんね。これで重量を点じゃなく線状に分散できるのだ。私はこれも、人類にとって偉大な発明だと思う。上の記事では、この人車軌道の客車には5、6人乗れたそうだ。5、6人を、1人の人の力だけで進められるのは線路があってこそだろう。その動力は人だけでなく、牛だったり馬だったりもした。やがて内燃機関が発明され、蒸気機関車やガソリン車、ディーゼル車や電車となっていった。より大きな力があれば、より重いものを運ぶことができる。鉄道線路の利点は、幅が狭くてもいい、という点だ。あの大きな新幹線だって、線路の幅自体は1,435mmしかない。多くの鉄道が用いている線路幅は1,067mmで更に狭い。上記の記事の鉄道だと610mmしかない。その幅と車体が通る幅さえあれば、事足りてしまうのが鉄道だ。山のなかに残っている森林鉄道跡を探索するのが私の趣味のひとつだが、殆ど登山道くらいしか幅がない。でもそれでいいのだ。最小の空間で、多くの人やものを運ぶことができる。自動車との最大の違いは、移動の制約、という点だろう。どこへでも道さえあれば自由に行けるのは、自動車ならではだ。鉄道は線路が敷かれたところにしか行けないし、すれ違い設備がないと正面衝突してしまうしなあ。だが用途が(特に区間が)限定的であれば、鉄道はとても「エコ」な手段になり得る。近年世界的に見直されている路面電車も、環境配慮の面からのアプローチだった。一番のネックは動力で、つまり街の道路に架線を用意しなければならないのがネックであったが、バッテリーの性能が向上してきているので、蓄電池でモーターを動かすものが主流になっていくだろう。でも面白いものだよなあ。路面電車だらけだった東京が、自動車が増えていくにつれ邪魔者扱いされ、路面電車の替わりに地下鉄網ができ(地上だと邪魔だからね)、今また路面電車が再考されている。しかしハコがかわっても、車輪はながいながーい歴史のなかで、何もかわっていないのだ。
2010年09月19日
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さて、いわゆる戦前というところまでは特定できた。次に、書かれている「路線」から判断をしてみよう。といっても、現存する路線ではあまり意味がない。その時期にしか存在しなかった路線を、抽出する必要がある。該当する路線を探してみるとしよう。とりあえず埼玉県に、今ではその存在していたことすら忘れ去られそうな路線が描かれている。区間は、蓮田から武州大門となっている。これは武州鉄道だろう。ウィキペディアを読んでいただいたほうが手っ取り早いので、この武州鉄道の歴史は省略する。武州鉄道 - Wikipediaこの武州大門駅で終点となっているのは、略図の時期特定に有効な点だ。蓮田から武州大門まで開通したのが1928年(昭和3年)のことで、武州大門から最後の開業区間である神根まで伸びたのが1936年(昭和11年)である。つまりこの間の図である、というところまで時期の範囲が狭まった。ちなみに、この武州鉄道の計画の一部が埼玉高速鉄道である。周辺の住民なら「蓮田まで延ばそう」というのを看板やら書面やらで見掛けたことがあると思うが、それはこの武州鉄道の名残とも言えるのだ。次に、現在の東武野田線をみてみよう。東武野田線は、前身が千葉県営鉄道で、その後、北総鉄道→総武鉄道と経営母体がどんどん変わっていった路線だ。現在の北総鉄道とは無関係であり、総武本線を敷いた総武鉄道とも無関係である。この大正~昭和初期の時代は、日本の鉄道における群雄割拠時代であるから、非常にややこしいことになっている。東武野田線 - Wikipedia この東武野田線の船橋側に、「海神」というところまで路線が延びている。1934年(昭和9年)にこの区間は廃止されているので、これも時期の特定に繋がる。つまり、武州鉄道から1928年(昭和3年)以降であることがわかり、海神駅が記載されているから1934年(昭和9年)よりも前のものである、というところまでわかった。かなり絞れたなあ。もうちょっと絞ってみようか。現在「流山(ながれやま)線」と呼ばれる路線が近くにある。JR常磐線馬橋駅から流山までを結ぶこの路線は、2008年まで「総武流山線」と呼ばれていた。社名も流山電鉄だったのが「流鉄(りゅうてつ)」という名称に変更されている。この会社はPASMOにも加盟しておらず、またその予定もなく、日本で唯一鉄道事業者として公式のホームページを持たない、非常に小さな会社である。つくばエクスプレスが2005年に開業してから、利用者が一気に減った。前年比50%くらいの減少であるから、廃止にならないのが不思議なくらいの会社だ。この路線に、現在「平和台」とされている駅が図に表記されていない。この平和台駅は、1933年(昭和8年)に赤城駅として開業した。これで、1928年(昭和3年)から1933年(昭和8年)以内となった。まだいけるか。京王線に目を移すと「北沢」という駅がある。これは現在の上北沢駅のことだ。開業当初「上北沢」だったのが一旦「北沢」となり、再び「上北沢」に戻ったというよくわからない経緯の駅名である。この北沢駅が上北沢駅に名称を戻したのが、1932年(昭和7年)のことだった。また1年絞れたなあ。と思いつつ京王線を辿っていたら、呆気ない結末が訪れた。分倍河原という駅が、今もある。だがこの図では、京王線と接続していない。そのかわりに府中と中河原の間に「屋敷分」という駅が書かれている。やしきぶん、と読むこの駅が、のちの京王線分倍河原駅に相当するのだ。この屋敷分駅が分倍河原駅に改称したのが、1928年(昭和3年)12月11日の出来事だったのだ。またこれと併せて、同じく現在の京王線千歳烏山駅が、この図では烏山となっている。千歳烏山駅に改称したのが1928年(昭和4年)8月7日だ。つまりこの間の略図ということが断定できたのだ。1年以内、という幅なら許容であろう。それにしても、今と違うところがたくさん描かれていて、飽きない略図だなあ。という訳で、図からヒントを探しつつある条件を特定する作業、という内容でした。
2010年09月14日
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ちょっと違う話題になる。息抜きだ。今回は、むかーしの東京近郊における鉄道網の略図を眺めたときのお話だ。むかーしの路線図、というモノである。しかしそのむかーしがいつ頃なのか、発行年数などが書かれていないからわからない。なので今回のテーマは、「この地図は、いつ頃のモノなのか?」という考察をしてみようと思う。いつ頃のモノなのか、ということを考えるのに、まず目が行くのは「タイトル」である。この図は、「大東京交通略図」となっていて、図の字が古い「圖」の旧漢字となっている。この時点で第二次大戦よりも前のものと特定できた。これは、旧字体と新字体の違いによって判断できる。昭和21年(1946年)に、GHQの占領政策の一環として実施された国語国字改革の際、当用漢字として「図」の字を用いることが決まったのだ。当用漢字は、昭和21年内閣告示第32号の「当用漢字表」というものに記されていた。昭和21年11月16日発行で、当時の内閣総理大臣は吉田茂である。面白いのは、この告示のまえがきに「字体と音訓との整理については、調査中である。 」と書かれていることだ。新旧の字体が入り混じっている、いい加減な漢字表だったのである。いい加減だったので何度か改訂されていったのだが、漢字はそれ自体が意味を持っているものなので、もうちょっと大事にしていこうよ、というのが昭和56年(1981年)に決まった「常用漢字」というものだ。戦後直後、漢字なんぞ敗戦国のよくわからん字だから適当に変えてしまえ!とGHQがいじったものが、ようやく変わったのが昭和56年だったのだ。当用漢字は強制力があったため、日本国憲法もこの表に則って書かれた。この憲法の大本がかわっていないから、当用漢字をある程度引き継いだ常用漢字において、「普段全く常用していないよ!」という字も常用漢字に含まれているのである。漢字は色々タイヘンな扱いを受けているのだなあ。それも戦後において、なのだから、そんなに昔の話じゃないのだ。《このテーマも、時間をみつけて徐々に続きを書いていきます。》
2010年09月12日
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先日、飛ばすための講習課程をこなしてきた。教官は私と同じくらいの歳の男だった。中くらいの背丈、まあほっそりとしているが、自衛隊員にいるような眼の鋭さと内に秘めた堅牢な肉体、というものが伺える。ああ、同じだなあ、と直感的に思った。お互い旅客輸送の乗り物を扱う者としての、なんとなく「通じるところ」というものがあるのだ。こうなると話ははやく、業種は違えど職種が似ているからこその、お互いの経験や喩えを持ち出しながら、講習はどんどん進んでいった。機材の基本的な諸元からはじまり、コントロールの理論的な説明を受けたりする。しかし教官は何か抑えているような雰囲気を醸し出していた。それは私も、業種は違うが指導操縦者の資格を持っているから、よくわかる。簡単にいうと、今は体育会系の教え方は禁物、となっているからだ。だがもともと育った環境が体育会系なので、どう教えたらいいのか、そこのところのさじ加減にとても気を遣うんである。しかし似た職業であるからこそ、徐々に且つ確実にリラックス度は進行し、やがて教官はどこかホッとしたように笑顔になった。いい笑顔だ。教官もどこか緊張していたのだろう。だが私の場合は緊張どころではなく、必死なのだ。私が操縦することになる、セスナ172S型は、小型機なので、地上走行時のステアリングがない。クルマでいうハンドル操作を、足のペダルで行う。この点がまず気になった。大型機の旅客機などは、ステアリングがあるらしい。次に気になったのは、出力を調整するスロットルレバーである。クルマでいえばアクセルに相当するものなのだが、これが鉄道車両とは正反対の動きをするのだ。鉄道車両の場合手前に引くと出力が「上がる」。航空機は手前に引くと出力が「下がる」。この操作が逆になってしまうのは、ちょっと怖い。咄嗟のとき、我々はどうしてもレバーを押せば出力を抑えられると思っているからだ。しかし航空機はそれだと加速してしまう操作なので、講習の段階から緊張することになった。次に空港の説明を受ける。私がお世話になっているのは、ホンダ・エアポートというところで、自動車メーカーのホンダのプライベート空港である。このプライベート空港というものは、日本でここにしかないそうだ。夜間用の灯火類も備えてあるので、夜でも離発着できる。小さいのに大したものだ。また、ホンダフライングクラブというのもあって、初代会長は本田宗一郎が就いていた。よくヘリに乗っては「あの新幹線を追い越せ!」などと追いかけっこしたりしてたらしい。まあそんな話を交えつつ、規定の6時間の最後は、実機に行くことになった。ここまではよかった。実機は全長8m、全幅11m、高さ2.5mというものだ。まあ小さいといえば小さい。機体の後部から近づいていく。これはエンジンが始動したときの事故を防ぐためだそうだ。あと、たぶんだが、バックできないから後ろのほうからのほうが安全、というものもあるのだろう。まず機体外部の点検を行う。翼の状態、フラップの状態、外板の状態、タイヤ圧、オイル漏れの有無、燃料の状態、エンジンが収まっているカウル部分の点検などなど、まあとにかく全般を確認する。次に乗り込んで、エンジンの始動を行うための手順をこなす。これがまたとにかく項目の多いこと。電子機器の電源関係を確認し、混合気を調整したりと、忙しい。だがエンジンをスタートさせるのは鍵を捻るという、クルマのような操作なのでちょっと面白い。周囲に人がいないか、また気付かない場合を想定して、手で合図を出しつつ外に向かい大声で「clear!」と言う。この段階で人がいれば「ちょちょちょっと待って待って!」となるらしい。まあそうだろうなあ。キーを捻ると、水平対向4気筒、排気量2700ccのエンジンがブルッブルッと僅かに震えた後、元気よく回りだした。カウルで被せているだけなので、音がほぼダイレクトに伝わってくる。これは楽しい。またプロペラの風も操縦席の窓を開けているので、そよそよと伝わってくる。これもいい。ああ、飛行機って止まってても楽しいなあ、などと思っていた。たぶん私は機械が好きなんだろう。それも、人の操作がきちんと反映されるものを。このセスナ機も、最新鋭のものではあるのだが、基本設計は数十年変わってないらしい。エンジンを始動させるときも、燃料を電動ポンプで少し送り込んで、混合気を調整してからスタートさせる、という何だか昔バイクでそんな手順を踏んだ記憶があるのだが、とにかくその操作を自分で行うというところがいい。こういった「儀式」があると、乗り物の機械を動かすぞ、という気分にさせてくれる。自動化しなくていい部分は、無理にする必要はない、という提言を1988年頃だったか、NASAが提唱していたのを思い出した。このほうが例えばエンジンの調子も、そのときの掛かり具合でわかるのだ。ドッドッドッドッという大きな水平対向の音と、勢いよく回るプロペラを前にして、そんなことを考えつつその後のチェックもこなしていった。ここまではよかった。(続く)
2010年09月09日
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フライト用の教科書を読んでいる。先日飛行機を飛ばすんだ、と書いたが、私は免許を取得することを目的とはしていない。理由は単純に「金が掛かり過ぎる」からだ。国産の高級車が買えるくらいの金額を用意できるはずもないのだ。だが、練習という名目で、教官を同乗すれば操縦桿を握ることができる。ここらへんが自分で操縦してみたい、という夢と金銭的現実の妥協点だろうと思った。だから私が取得したのは「航空機操縦練習許可書」というものだ。これを持ってフライトすれば、正規の飛行記録になる。これはきちんとフライト・ログブックにも記載できるものだ。フライト・ログブックとは、操縦士なら誰でも持っているもので、持ち主の飛行の全てを記録するものである。今ジャンボ機を操縦しているようなラインパイロットであっても、かつてはセスナ機で操縦を覚えたのだ、ということも記録に残っているはずだ。操縦士としての記録にもなるものだから、一生に1冊しか原則発行されないノートなので、失くすと大変なことになる。私はよく物を失くすので、とても心配である。とりあえず教科書を読んでいるが、ふーむこれ結構タイヘンだなあ、というのが正直な感想だ。まず覚えておかなかければならないのは、飛行空域だ。操縦の方法は鉄道に通じるものがあるから、まだ何となくわかる。それよりも「飛んではいけない場所」というものを把握しておかないと色々まずい。例えば東京中心部だと、レインボーブリッジが1つの境界になる。あの橋よりも羽田空港側に、セスナのような機体が進入することはできない。大型機が数分おきに飛んでいる空域だから、まあ当然だ。そういった箇所があちこちにあるので、きちんと把握しておかなければならない。緊急時の対応も頭に入れておくべきものだろう。練習であり、しかも操縦士免許を目的としている訳ではないからといって緊急時の対応を知らなかった、では済まされないと個人的には思う。対応は全て教官がやってくれるが、操縦桿を握っている以上知っておいて損はない。しかし、この教本の内容はとても素晴らしいのだが、表紙はもうちょっとなんとかならなかったのか、と思ってしまう。なんか小学校の文集みたいにみえて、その内容とのギャップについ笑ってしまうのだ。などとほざきつつ、まずは自分自身の操縦をきちんとしなくてはいかんな、と思うのだった。
2010年09月05日
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今月下旬、ぼくは自分の操縦で空を飛ぶ。機材はセスナ172P、だと思った。憧れていた空、その空へ。友人を乗せて、空を楽しみたい。
2010年09月02日
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