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少し前に、取手の利根川河川敷でみた夕焼け。本当に燃えているようで、最初は火事かと思ったくらいだ。5分くらいもわっと焼けた光を放ったお日さまは、その後直ちに寝てしまった。
2004年01月30日
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日本エアシステムのMD-81で使われているエンジン内部の部品に、亀裂が生じているという。それもかなりの数に及んでいることから、どうもこれは設計段階のミス、などと報じているが、どうだろうか。日本の国内における、航空機による移動は世界でも稀なほど多い。同じ機体を1日中、日本のあちこちに飛ばす。機体は飛んでいるほうが効率はいいからだ。ハブとなる空港から地方空港まで行って、40~50分くらいの時間でまた戻っていく、ということを繰り返す。MD-81は確か85年頃に導入されているから、年数も経ってきている。機体そのものの設計はDC-9-81と同じで、エンジンを換装し内装や計器類をかえたものがMD-81シリーズだ。つまり古い(設計の)機体に(新しい)強いエンジンを搭載していることになるので、ガタとしては稼動部分の多いエンジンに負担がいきやすい。機体とエンジンとは、相性というものが絶対にあると私は思うのだが、貧乏な会社だと予備のエンジンをあまり持っていないから、機体の検査、エンジンの検査の年数のズレによりそれまでと違うツガイになる場合がある。馴染む、という言葉があるが、これは機械モンであってもそうで、電車でもそうなんだが動力となるものとボディーは男女のような相性がある。その組み合わせを途中でかえたりすると、大体不具合が生じる。「あたしこのヒトと仲良くやっていたのに、どうしてどうして・・・ヨシオさん!」「ああ、アイツとなら最高の仕事ができたのに・・・ユウコー!」「ヨシオさんあたしを忘れないで!」「ユウコ!」「ヨシオさん!」ひっくひっくと涙を流しながらも、強制的にペアを変えられてしまったヨシオとユウコ、じゃなかった。なんでこうなるのだ。他人が使い親しんでいる自転車って、ちょっと違和感があるでしょう。それと同じで、人間なら適応してくるのだがエンジンやボディーはそうはいかず、最初のペアに合わせて不具合が出て修復をしたりしているから、実は同じ製品でも別物のような変化を遂げていく。このツガイの関係を途中で変えるものだから、つまり「そのボディーに合わせた変化をしていたエンジンが、違うボディーに取り付けられる」事になるから、不具合が生じるのだ。MD-81に使われているエンジンはJT8Dシリーズで、世界のベストセラーに間違いなく入る名作エンジンである。自衛隊でもC-1がこのシリーズのエンジンを使っている。MD-81も機材としては世界で2番目に多いのではないだろうか。1番はB737シリーズだ。そしてMD-81は不憫な飛行機で、ダグラス社がボーイング社と合併したものだから、もともとボーイング社にあったB737と機材の狙っていたマーケットが完全にダブることから、消滅されられてしまったのである。どちらも150席程度で短距離、というマーケットを狙っていたのだ。だが外見は全く異なっており、私はT尾翼ですらりとしたボディーのMD-81のほうが好きだ。魚でいうとまるでサンマそっくりなのだ。しかし消滅したので、今後新しいシリーズは出ない。私が子どもの頃、唯一実機で握ったことのある操縦桿がこのシリーズの機体だった。そのとき座った席は、今も憧れのままだ。
2004年01月24日
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今日は6時ちょっと過ぎに家を出ればいいので、5時頃起きた。目覚めにシャワーは、自宅ならいつもだ。熱い湯を浴び、目を覚ます。珈琲かお茶をいれ、テレビでニュースを探す。5時46分、その時間の前後、NHKでは黙祷の光景を中継していた。ものすごくたくさんの人が死んだ。ものすごく大きな地震だったから、というのもわからないでもないが、倒壊したビルのコンクリートのなかから大量の空き缶がみつかった光景は、今も強く目の奥に焼き付いている。針金のような、数が素人目にもわかるくらいに少ない鉄筋。シャブコンということがはっきりわかる、崩れた破片。コスト優先の結果だと思う。安いことは、いいことだけじゃない。必要なところには必要なだけ使わないと、その報いは乗で増えて反発してくる。そしてこの年は、あの事件があった年でもあった。黙祷の中継には、たくさんのろうそくの火が風のなかでゆらゆらと動いている光景がひろがっていた。ひとつひとつが、その瞬間まであった命で、その数ぶんだけの炎が、まだ明けない暗がりのなかで、揺られていた。
2004年01月17日
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このスタンドを買った。大きさが手ごろで、かつ明る過ぎないのがいい。笠も内側に厚手の紙だろうか、そういうもので補強してあるので、ヨれる心配もない。何よりこのシンプルなデザインがいい。などとまるで雑誌の紹介のような文章になってしまった。グッズプレスあたりなら更に「置く環境もシンプルにして、すっきりとしたなかで使いたい」などと書くのだろうか。この「~たい」という表現はいつも引っ掛かり、好きじゃない。だからナンだ!と言いたくなる。このテの灯かりで一番欲しい機能は、「明るさの調節」である。段階的に2、3程度ならできる、というものならあるのだが、音響機器のボリュームのようにほぼ無段階で調節ができるものは、このサイズでは皆無である。照明の明るさを調整する機械は、ようはボリュームだ。ボリュームというと音の大きさを変えるもの、という認識があると思うのだが、それはもう全くもってその通りである。電気抵抗の抵抗値を変えることによって、電気の流れる量を調整できるのがこの機械だ。音響製品の音も電気信号なので、電気の流れる量を変えることによって、音が大きくなったり小さくしたりできる。などとエラそうに書いてしまったが、まあつまりコイツをコンセントから電球に至るコードのどこかに取り付ければ、明るさの調整ができることになる。実際大型のライトスタンドではそういう機能を設けているものもある。つまりこれはもう単純にコストの問題なんであろうなあ。しかし、手元で使うもののほうが明るさの調整をしたい!と思うことが多いと私は思う。ないなら作ればいいのだ。という訳で、ヒマができたらオリジナル照明「照明くん1号」を作ろうと思ったのであった。うーむ買った意味がないではないか。しかし既にいくつかの構想はできている。デザインはほぼパクリ。今回買ったものをそのまま加工するかもしれない。天井にある照明の調光器は、サイリスタを使った位相制御を用いたものなのだが、これと同様にする。などと書くと難しい感じがするが、電源は交流、電球は直流にて使う白熱球だからこうなるのだ。つまり蛍光灯式の電球では使えない。電流は40Wの電球を使用、となっているので0.4Aだから、まあその程度に耐えられるものを買う。上限が大きいとタイヘンなことになるから、まあそこんところも考えなくてはならないなあ。うーむイメージが揃ってきたぞ。あとは秋葉原の、薄暗くアヤしい電気商店街を歩きまくればいいのだ。などと思いつつネットで調べたら、同じことを考える人が多いのかこういう用途の調光器が売られていることがわかった。なんだよう。せっかく思いつたのによう。しかしそれなら早速これを加工しようか、などと手抜きを考えてみたりするのだった。そのままではデザインがあまりにも無骨過ぎるから、手を加えるということは考えてしまうのだなあ。デザインも大事なのだ。それにしてもこの会社は「消費者ニーズを商品に反映し、ベストシーンを演出する。」といっているが、あまりにも簡単なwebページの全部を見た感想としては、その割にはどうもセンスのない、ヘンな会社のようだ。あとはヒマができるのを待つばかりである。
2004年01月15日
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「自由は、われわれが生きるに欠くべからざる権利だが、だからといって高潔で善的な存在というわけではない。」なんと端的にまとめているのだろう、と思った。これは今読んでいる「喪失の国、日本(M・K・シャルマ)」のなかの一節である。文春文庫から出ている。インド人の商人であるシャルマ氏が日本に派遣されることになり、そのときに感じたことがまったくもって臆することなく書き綴られている。まだ全部を読んだ訳ではないが、のっけからこうもジャブを打たれるとは思わなかった。しかしいいことばかりではない。いや悪いことでもないんだが、この本に出てくる人はあまりに博識が過ぎる点が気になる。シャルマ氏という人物が本当に存在するかどうかも疑問だが、ひょっとするとシャルマ氏の書いた文章を山田さんが訳するさい、まあ本文中にも「補足を加えた」と山田さんは書いているのだけれども、博識過ぎる点といい、どうもこれはシャルマ氏の書いたものを材料とした、山田さんの持論展開の本なのかもしれない。とまあ、そんな疑念を抱かせるところが随所に出てくるのだが、それはまあ箪笥にしまっておいて・・・としても刺激とチカラのある一冊だ。私は椎名誠さんの書いた文が好きで、先日も「インドでわしも考えた(集英社文庫)」という本を読み終えたところだ。彼はインドに行く際、予備知識も先入観も持たずにインドに赴いた。そして本当に驚いていた。ありとあらゆるところにおいて、日本とインドは違うと書いている。これは椎名誠という日本人がみたインドについてであって、ではインド人からみた日本の場合はどうなのか、ということを咄嗟にこの本を読み終えたときに思ったら、タイミングよく「喪失の国、日本」が出たので貪るように読んでいる。シャルマ氏曰く「同じ仏の国でありながら、この違いは一体何なのか。」それは例えば、国旗の掲揚についてだが、次の文からもわかる。「インドの学校にはそのようなものは一切ない。国旗などわざわざ揚げずとも、そこがインドという国であることを疑う者は誰一人いない。(中略)公の祝日のたびにすべての家が、門戸に国旗を掲げたという。そういう風景を私ならずとも外国人が見たら、震え上がってしまうそうである。国を祝っているつもりでも、外国人の目には日本人以外の人間を拒絶しているように映るからである。」このことについて、シャルマ氏を案内している佐藤氏という人物は、国体と政体について述べていた。新明解国語辞典によると、国体は「その成立の事情や主権の在り方などによって異なる国家形態の特質」とある。この時点で既に日本語として難しいなあ。これに対し政体というのは「国家の主権が誰にあり、どのように運用されるかの別から見た政治形態」とある。佐藤氏は日本は国体の国であると説明している。ちょっと違うと思うが、まあ大体のいいたいところというのはわかる。考えてみると、日本という国は長いこと君主国であった。天皇然り、幕府然り。勿論専門的になれば深いこと限りないのだが、民衆が主権ということはまずなかったのではないだろうか。いやまあ、世界もそうか。にしても民衆が主権ということは、その個人個人が主権者である自覚と、その背景にある責任というものを感じるはずだ。世界で政策に対し、民衆が大規模なデモを繰り広げるというのは、つまり「オレたちはそう思ってないぞ!」という明確な意思表明のカタチのひとつであると思う。だが今、いったいどれだけの日本人が、そうであるだろうか。第二次大戦を経験した人たちが、学校の国旗掲揚について異論を唱えることが多いように感じるのだが、それはつまり当時の国家主体に繋がると考えているからではないだろうか。支配される、という言葉ではなく、帰属する感覚というのが、心のどこかにあるのかもしれない。それは権力を握る者などに対してであり、権力を握る者は私が権力者なのだ、ということを誇示したい、しておきたい。国を愛するのは国民の自由であり、愛される国であるならば自発的にそうなる。象徴である国旗の掲揚を強制するような事態というのは、いわば国家権力を握る者たちの不安のあらわれ、という面もあるのではないか。愛してくれない国民に対し、強制力で愛させる、というのはいささか、いやかなり不気味で異常な関係のように私は思う。では自発的に愛されるのはいいのか、というと必ずしもそうではない。愛の団結というのは異なる思考などをえてして排除するものだ。こういうのはアメリカをみれば一目瞭然でとってもわかりやすいし、これもなかなかにキモチワルイ。つまり両面が常に背中合わせであるのだ。そして国旗の掲揚は仏教とは関係なく、神道(明治以降の国家神道)に通じるものだし、ヒンドゥー教(おお、通っぽいぞ)の仏と日本のそれとはかなり異なるものだから、同じ仏ではないのだな。ところで、最初に書いた文には続きがある。「それは身体の一部を構成する手や足のように、過度に振り回されれば迷惑千万で、社会的エチケットと共に扱わなければならない性格のものである。」成人式でなにをするのも自由だが、今日もいたんだろうなあ。成人式は社会的「公」の場だ。無礼講というのは仲間内だけの席でやれることであり、他者の視線、他人の感情を思慮にいれない者はもはや成人でもなんでもない幼稚なガキでしかない。だがこういうガキを生み出す背景というものを、親を中心とした大人たちはもっと考えるべきじゃないのかなあ。彼らの責任に押し付けるのは簡単だが、それじゃそういうガキらとあんましかわんないと私は思うのだ。成長させることのできなかった背景というのが、絶対にどこかにあるはずだと思うからだ。それにしても、女の着物にあの白いふわふわしたのは何だ。だが新成人の言葉にも一理あると私は思う。挨拶が長いとか、言っていることがわからない、なんていうの俺もときどき思うものなあ。つまりこれは現在の成人式の流れとかやり方というものに問題があるともいえる。アタマのなかが凝り固まったゲヘヘヘオヤジの「自分のほうが偉いのだ」的式の進行というニオイがしているんじゃないのかなあ。そのニオイがみんな嫌なんではないかなあ。というようなことを、思ったりするのも考えるのも言うのも自由なのだ。自由によって喪失したものとはなにか、それを考えさせられる本であるから、細かいところは気にせずガシガシ読んでいくとハッとさせられる。刺激とチカラのある本であった。
2004年01月12日
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