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私たちは所有とか優越とか言う価値観に縛られていて、人より多く持つ事が幸せ、と信じ込んでいる節があります。けれど、所有を巡って人と争うことで本当に幸せになれるのか・・多くの人は既に薄々気づいている事でしょう。モノや金をいくら溜め込んでも必ずしも幸せにはなれないと言う事に。所有や優越はしばしば対立や不信の原因となり、不幸の原因ともなりかねない一面もあります。であれば、その価値観を放棄し、共有・共存の価値観をもっと大切にすればいいのではないかと思います。大切なのはわかち合いではないか・・・ともに幸せをわかちあうこと。痛みや悲しみも分かち合う事。もちろん喜びも分かち合う事。共にある事、分かち合う事の幸せと、奪い合わない争わない事の平穏と・・この幸せを自身のものにするには、今、ご自身の身の回りの人たちと、とりあえず、気持ちを分かち合う事からはじめてはどうでしょう。さて、私ねえ・・私も分かち合える人・・・れれれ、食べ物や痛みを分かち合う事はしばしばだけど喜びを分かち合う人って・・いたっけなぁ・・
2012/03/31
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人は一人では生きていけません。社会と言う関係性の中で自身の意味を確認しつつ、判断していくという、システムですから。それは、数千年前、人類が文字を持ち情報の蓄積と概念の共有ができ、自我と他者との意味付けを始めたころからの現実です。いまも私たちはそのプログラムの中で生きています。他者と自己の関わり・・・孤立する事で自己の存在する意味について、確信が持てなくなり、意味を失い、自我が崩壊していく・・そんな方も少なくないでしょう。多くの人は自我の崩壊を防ぐために無意識に防衛が働き、自我を揺るがす他者を排除したり、強い何かに依存したり、妄想したり、と様々なことを無意識下に行います。自身の存在する意味を喪失し、悩み、苦しんでる方、その方は防衛せずに自身の新たな存在の意味を模索している、人として誠実な人なんでしょう。孤立する事の不安や苦しみ・・とても大きなものです。その苦しみはその人の問題ではなく、その人の存在を無条件に肯定しないという社会のありようが問題の根源なんでしょうけれど。社会は社会を防衛するために、そのような人を様々にラベリングし隔離し排除します。問題は社会にあるにも関わらず。自身の存在の意味について悩み苦しんでいるとすれば、それは自身を産み出すための産みの苦しみでしょう。人の体は260日で産まれうるけれど、人の魂はもっともっと産まれるのに時間がかかります。しかも、大きな力の他者の介添えを要します。魂の産婆が必要です。その産婆に出会うまで、苦しみは続くかもしれません。けれど今は、自身の大きな意味を獲得する未来を思って孤高であってほしいものです。いつかきっと、出会いがあるし、自らを産み出す事もできるでしょね。諦めない事。焦らない事。大丈夫。そうそう、昨日は自分のためにイチゴケーキを作りました。うまかったっすよー
2012/03/31
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昨夜は男のワークでした。12回のセッションの最後の日。参加者はいつもより少なくて語る時間は増えました。ファシリはラブさんと私。私のやったワークは「悪口を言おう」です。とかく男性はアサーティブに自分を語る事もできないし、他人の悪口を言うのもはばかる人も少なくないと思います。結果的に、葛藤や怒りを一人で溜め込んでしまいがちで、暴力に発展したり心病んだりもしやすくなります。そこで、悪口に名を借りた、ネガティブな感情の言語化をしてみようということ。さすがにワーク参加男性は心やさしいのか、家族の悪口を言う人はいなくて、職場とか、一般的な対人関係の方を悪口の対象として語られました。私は精一杯、自分の悪口を語ってみました。世間であれこれ言われてるかもしれない、あるいは訴訟で語られた私のイメージを元に、私のネガティブな事を次々と。スケベだの、物忘れがひどいだの、わがままだの・・・etc ・・・人に言われたら傷つくであろう事を自ら語るとはどう言う事か・・・ある人は私の語りを聴いて、自慢話に聞こえた、なんて話されてましたが・・・自己受容できない(無意識に抑圧された)、ネガティブな自己像をあらわにされると、心は防衛機制を発動する、その情動が、傷つく、と言う事につながるのでしょう。ネガティブな自己像を無意識に閉じ込めず意識化し自己受容し、言語化することで、安定したパーソナリテイーの一部になりうるということでしょう。たぶん。昨夜も実り多いワークでした。で・・・・ワークの後、バイクでいつものシネマに。先日のトロールハンターで騙された分、不全感を解消したくて単純明快な「シャーロックホームズ」を見ました。メインキャストの占い師の女が、どこかで見た顔・・・そーだ、スウェーデン版のドラゴンタトゥーの女のリスベットを演じたノーミ・ラパスでした。主演のロバート・ダウニーははじめて見たけれど、ジュード・ロウやノーミ・ラパスのおかげで、懐かしい思いのなかで、はじめてのシャーロックホームズを見て、すっきり。
2012/03/30
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今日は、メンズカウンセリング学習会でした。テーマはポジティブ還元です。対人関係や心の困難を抱えて苦しんでいる方、辛い思いをされている方・・・心の病とかACとか、あるいは被害者や加害者とか、様々なラベルを貼られてしまうけれどラベルに沿って、投薬されたりセラピーを受けたり・・・決局なかなか解決もせず楽にもなれず・・果たして、病んでるのは当事者なのか、問題の原因は家庭や家族にあるのか・・困難を抱えておられる方の困難はどこからきたのか・・親の暴力だったり、過重労働だったり、いじめやパワハラだったり・・・そのあげくの不安や絶望ならば・・問題は当事者ではなく、当事者を巡る社会にある訳で、ラベリングされるべきは社会の方なのに・・・当事者がラベリングされ当事者が変わるように迫られる。精神医療もカウンセリングも・・・当事者が変わる事ができて、社会に適応する事で社会の問題は隠蔽されたり強化されたり・・・これをネガティブ還元と言ってもいいでしょう。また新たな当事者が生まれ・・苦しみが連鎖する・・変わりきれない当事者は薬付けにされたり、排除されたり・・・ほんとは当事者は変わらなくていいのです。病んでるのは社会だから社会が変わるべきなのに・・・けれど当事者は社会に排除されたり抑圧されて、力を奪われ尊厳も奪われ・・病者として扱われる当事者が回復する事が病理社会に適応する事ではなく、社会の問題に加担する事なく、問題提起しわずかでも社会の闇に光をあてる・・・少しでも新たな当事者が生まれないように・・こんな当事者のエンパワーメントを可能にする回復こそがメンズカウンセリングの定義する回復・・・これをポジティブ還元と言う。社会の抑圧や差別にひるむ事なく、潰される事もなく、したたかにしなやかに・・自分を生き抜く力を・・ともに育てたいもの・・・そのために当事者の苦悩や困難が・・・とてもとても大切な意味を持ちます。苦悩や困難はなくすべきものではなく、それに意味を与え当事者自身の生きる力の源に・・辛ければ辛いほど、苦しければ苦しいほど、大きな意味があり、世界を変える力となるけれど当事者はそのことに気づかない、心を折られているから・・・その心を癒し、心つないで・・当事者自身のあるがままを・・自身の多様な可能性に息吹を与える・・そんなセラピーがメンズカウンセリング・・・と言うような事を話したかな・・今日のメンズカウンセリング学習会・・
2012/03/28
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いやー、何やらドキュメンテリーかと思って、期待していったら何の事はない、ドキュメンタリー風に扱ったB級映画でした。ノルウェー映画の「トロールハンター」はじめから、そうとわかってたらまだ楽しめたんかもしれんけれど。過日に見た「ピラミッド5000年の嘘」がそこそこしっかりしたドキュメンタリーだったので、そのノリで期待してしまった私がバカでした。(笑)まあ、今更ながらに思うけれど、私はほんとバカですねえ。アホだとは思ってたけれど、バカでもありました。簡単に騙されるのだもの。トロールだけでなくて、私の人生、いろんな人に騙されてきたなぁ。あの人にも、あの人にも・・・騙されたり裏切られたり。ほんと、私のバカさ加減には我ながら笑っちゃいます。私は、関係者のプライバシーに関わる事は一切語る事はありません。けれど、私の事をああだのこうだの勝手に妄想してそれを真実かのごとく語る人たちもいます。あげくにセクハラだのと提訴したり。私は自身の事は「スケベで変態」と言ってるけれど、人の性的自己決定を侵害するようなことは一切することはありません。セクハラなんてとんでもないことです。けれど、妄想する人には、私がとんでもない事をやる極悪非道な人間のように思えるのかもしれません。私に事実確認すればいいのにね。とはいうものの、セクハラと言う嘘の物語で提訴されたけれど、こいつには騙される訳にはいきません。それが嘘であると言う事を言い続けるしかありません。私を信頼してくださる多くの方達の信頼を傷つけないためにね。その判決もあと少し、来月の二十日が判決です。どのような判決になるにしても、私は私の真実を知ってますし、それを言い続けるしかありません。提訴の内容は一切が嘘であると。まあ、このあたり、真実を知りたい方、私に言ってくだされば、裁判資料はすべてお見せします。誰がどのような陳述をし、証言をしたか。私は関係者の事を語る事は一切ないけれど、証拠にあげられた言葉とその言葉を発した方の責任はその方自身のもの。それらを含めすべてお見せします。しっかり見ていただいて、私の真実を判断してくださればと思います。私は変態でスケベとはいうけれど、誰がどんなセクシャリティーで私とどんな事をしたか、と言う事について私は語る事はなかったし、これからも語る事はありません。こんな私からすれば、他人のセクシャリテイーをあれこれ流布したり、妄想したりするなんて、なんてお下品でお粗末。そんな人たちと同じにはなりたくありません。騙されても裏切られても。まあ、こんな私だから、これからも騙されたり、裏切られたりもするんでしょうかねえ(爆笑)まっいいか。騙すよりも騙されるひとでいいよね。騙されても私は私、こんな私を信頼し支えてくれる人はたくさんいるのだから。ほんと有り難い話しです。私を裏切る事も騙す事もない多くの方に支えられている私です。そうそう、今日も久々にお電話くださった方がいました。家族問題が決着し一段落ついたとの報告です。困難な次期を私とともにやり過ごしてくれたその方にすれば、問題が解決したと言う喜びを私にもお裾分けしたくなったのでしょう。うれしく有り難い事です。
2012/03/27
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子どもの頃の私は教師に対してはかなりの嫌悪感を感じてたけれど、それは教師が私をコントロールしようとする事に対する抵抗から起こる心理だったんでしよう。今でも私をコントロールしようとする人には嫌悪感を感じますが・・(笑)けれど、私が嫌悪感を感じなかったセンセもいる訳で、それは私が小学一年の時の徳本先生でした。なんと52年前の話し。当時の年齢で彼女は50代くらいのそこそこの年配の女性教師でした。彼女はノートなどを忘れた子どもにその教材を販売していました。善意なのか単なるビジネスなのかわからないけれど、ビジネスと言えるほどの収入にはなるはずもないから、おそらく善意だったんでしょう。額の多少に関わらず、今では、教師が児童に直接教材を販売することは許されないでしょうけれど・・・たぶん。ある日、ノートを忘れた私に徳本先生はノートを渡してくれました。そのとき明日十円持ってくるように言われました。で、私は次の日十円を持ってくるのを忘れました。怒られるかなと心配したけれど、先生に怒られる事はありませんでした。そして次の日も十円を忘れてしまいました。その日も先生は何も言いませんでした。私は家に帰ると十円の事はすっかり忘れてしまうけれど、学校に行ったら思い出す、ということをしばらく繰り返しましたが、それでも先生は何も言いませんでした。やがて、もう先生も忘れているに違いないと思う事にして、いつしかその事自体思い出す事もなくなっていきました。が、記憶から無くなることはなくて、52年たった今も、十円を返さなければ・・という記憶は学校の事を考えるとよみがえってきます。徳本先生がいまもご存命なことはないでしょうけれど、返済しなかった事については一言、ごめんね、と言いたい気分。将来、私があちらの世界に旅立ては、あちらの世界で、ちゃんと謝罪はしようと思います。
2012/03/26
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先週末びわこキャンパーズのキャンプ大会に参加しました。今回は山城地域の某キャンプ場です。大会には地元のボーイスカウトグループ等も参加していました。私たちのグループは仕事の都合等あって、遅れての参加、深夜の参加などがあって、大番狂わせですが・・・深夜に全員集合でスタートでした。深夜前の夕食は鶏肉の霜降りてこね寿司と、野草のてんぷら、お味噌汁、と和食にしました。今回はバタバタで準備してたら、食器やらまな板やら、ガスボンベやら、あれこれ忘れ物・・・嗚呼・・ボンベは買い出しでなんとかなりました。その他はあれこれ工夫してやり過ごすのもキャンプの面白さ。常識に縛られていてはこの難局は乗り越えられません。深夜からの全員集合で話しは一気に華僑に・・・家族問題などの困難を抱えた当事者たちの集まりだから、普通は誰にも話せない事を、一気に語ります。話しは続いて夜三時ころまで盛り上がり・・・一人ずつスリープダウンしつつも中には、盛り上がったまま、夜があけるまで話し込んでたり・・。で、朝になればなったで、早朝散歩する人もいたりして・・・朝ご飯を全員で済ませたら、こんどはみんなで近くの山に登山です。写真は山頂からの風景。お宿のバンガローと、霊気の写る杉林・・みなさんもしっかり自然に触れてくださいねー
2012/03/25
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昨夜の「女と男の非暴力ワーク」は自己不一致をテーマに自身の抑圧された「影」を探る内容としました。 暴力の本質についてかなり突っ込んだ語りとなりました。加害・被害は性別に関わりなくあるし、身体的な暴力で傷つくのは見えやすいけれど、心理的な暴力は傷が見えにくいから、存在がわかりにくい事、弱者の立場に身を置いて相手をコントロールしようとする事も暴力的な事、などなど、暴力も単純ではなく、関係や状況によって意味が変わってくる事などが、しっかり語られました。ここまで、語り合えて話しを深める事ができるのは、やはり、女と男が自由に語り合えると言う状況があればこそでしょう。単純に男=加害者=悪、女=被害者、とファシリが押し付けていては、本音が出てこないし、自身の暴力性や被害者性にも気づかないままになりかねません。それにしても、暴力の当事者である男女が語り合って、笑いこけている姿は、なかなか見られない光景だろうなあって感慨深いものがあります。
2012/03/23
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昔々、私がエコクッキングの料理教室をしてた頃、関係団体のミニコミにエッセイを書いてたりしてましたが、そこでのキーワードは楽貧(らっぴん)でした。当時経済界のあるお偉いさんが、めざしを食って清貧のすすめを説いていたのがどうも気に入らなくて、楽貧なる言葉を作り出した私ですが、その心は、金も地位も権力もある人間がめざしを食って、エラそうにすんなという意味です。貧乏人は言われなくても金持ちより清らかなものですから、清貧なんて言葉は不要です。むしろ貧乏人は金なくして如何に人生を楽しむかということでしょう。と言う訳で、貧乏人が幸せに生きるために楽貧生活のすすめを説いた私でした。二十年ほどの昔の事です。とかく金がないと不幸、惨めと言う呪いをかけられやすい私たちは、あくせく働いて、豊かな暮らしをもとめて幸せになろうとしますが、結局労働をピンハネする連中は幸せになっても、ピンハネされる方は、いつまでたっても欠乏感に苛まれ、働き続けるしかありません。この呪いを解くには、貧乏でも幸せになれる、金がなくても楽しく暮らせる、という思想を取り入れればいいのです。「社を捨てよ、家に帰ろう」なのです。楽貧・・それは人権問題と経済問題、環境問題をグローバルに解決へ導く概念ですが、まだ世界の知識人も財界人も政治家も、そのことに気づきません。気づいた時にはもう遅いのかもしれませんが(笑)ところで、写真は私が東京などに出向くときに作るおにぎりです。市販のおにぎりを買ってもいいのですが、一食三個食べても三百五十円ほどかかります。お茶も合わせると五百円。二食分で千円。この千円をケチるための工夫が手作りおにぎりです。もちろん、こんな事を他人に勧める事はありません。市販のおにぎりで充分ですし、お金のある人はまともなレストランでお食事してください。その方が落ち着きます。私はおにぎりを作る事は苦でもないし、あっという間の事なので面倒でもありません。また、私は一人ではまともなレストランでは落ち着いて食事ができないという変わった、心情の人間で、おにぎりを歩きながら食べるとか、公園のベンチで食べるとかの方が、気楽なのです・・なんと。ほんととことん貧乏に適応した人間なんやねえ、とあらためて実感です。貧乏でも幸せになれる・・いや貧乏こそ、ほんとの幸せになれる・・・貧しきものは幸いなり・・・ちょっとちがうか・・ま、にたようなもんでしょ
2012/03/22
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昨日もけつこう忙しい一日でした。朝は久々のシュークリームづくり。お昼からティータイムでおしゃべり。その後は、晩ご飯作りですが、寿司に野菜天ぷら、と、結構手間ひまかけました。その後は突然のゲストの来訪で、夜遅くまでおしゃべり。一日中、手と口がフル回転。あかんあかん、体全体を使わねば・・・ということで、通勤の行き帰りは、てくてくです。
2012/03/21
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今日はレターカウンセリングの研修で一日がすぎました。中身の濃い一日でした。レターカウンセリングは開設以来十二年になりますが、扱い件数は二千百件ほどになります。まったくのボランティア活動で、研修にも研修費が必要です。お金と手間ひまかけてボランティアのカウンセリングレターを維持するのは、それぞれのワーカーにそれなりのモチベーションがないとできるものではありません。研修の中でしばしばかわされる会話に、よそのカウンセリング講座は値段ばかり高くて中身はぺらいのに参加者がいっぱいで、参加者もそれなりに納得している、というもの。引き替え、味沢の主催する講座は安くて中身は濃いのに、参加者はいつも少ないのが不思議だ、ということです。で、そのことを考えるに、私は無資格を謳うということ。世間では、◯◯資格が取れます、という宣伝文句を使います。さらに、私は専門家の権威を否定しますが、世間では◯◯大学の◎◎先生の講義です、と謳います。さらにさらに、資格を獲得するとカウンセラーになれます、という言い方もします。巷ではファシリテーターなんとか、という団体の講座もあって、その団体の講座を受講した方の体験談も聴いたりしましたが、内容的には、私が言ってる事、やってる事と何ら変わりない事で、特に変わったものではないのに、キャリアカウンセラーとか産業カウンセラーとかの資格を持っている方が受講していた、とのことでした。実は、カウンセラー業界では、一時ブームになってた自己啓発講座のように、講座で資格を取ると言う事を売りにして、集客する講座ビジネスが盛んなようで、心に問題を抱えている人や、対人関係に問題がある人を、カウンセラーになれるとうそぶいて食い物にしているのが実態のようです。もちろん、法的にカウンセラーと名乗る事はまったく自由な事なので、誰でもカウンセラーになれるのですが、世間では資格がないとカウンセラーになれないと思い込んでいる方が多いと言うか、逆に資格をとればカウンセラーになれると信じ込んでいる人が多いのも事実です。大学から大学院六年かけないと取れない臨床心理士から得体の知れない、レターカウンセリングあのねと言う団体の認定するレターカウンセラー資格まで、ピンからキリまでさまざまな資格があります。一部、臨床心理士の国家資格化という流れもありますが、「カウンセラー免許」という資格はありません。で、世間の人はカウンセラーで飯を食おうとして、仕事につながる資格を取ると言う意味で、各種カウンセラー講座にバカ高い受講料を払って、受講しているようです。臨床心理士にしても、産業カウンセラーにしてもキャリアカウンセラーにしても、それで飯を食える人は一握りです。大学に残って、教員になれるのはほんのわずかですし、そのためには学閥に組み込まれなければ仕事にはつなげられません。企業や公務員に入るにはそれなりの人脈も必要ですから、関係学会に入って、先生方のご機嫌を伺う事も大切な仕事になります。私のように、専門家批判を繰り返し、学会では先生方に噛み付いたあげくに退会するなんて輩がその業界で仕事を取れるはずがありません。男性問題を始めた仲間と思ってた男がフェミニストのご機嫌取りを繰り返したあげくに◯◯センターの館長になったりするのも、その人の対人スキルとか人徳ということとはまったく違う要因で、それなりのポストを獲得するという社会の仕組みがあるからでしよう。おっと、私がこんな事を書いてるからって、私が僻んで書いている、ほんとはその人がうらやましいんではないか、と、詰まらん詮索はするのは自由だけれど、そんなつまらんコメントは書かないでくださいね。私の周辺では、カウンセリング業界で飯を食ってる人食いたい人はあれこれいるので、そう言う人たちの思考様式もわかっているつもりです。彼らは行政や権威に逆らう事はしませんし、手間ひまかかる支援には関わろうとせず、カウンセリングという狭い枠の中で、自分の安全を確保しつつ、できるだけ実入りのいい仕事につながりたい、という動機で動いています。それが悪いと言う訳ではありません、それがまあ世間と言うものですし、常識というものでしょう。ですから、心理屋が精神科医療の枠組みに組み込まれることで職域獲得していこうとする流れが、国家資格化と言う形になっています。ようするにどうやって「心のケア」で飯を食うか、ということを考えるのがカウンセラー業界の動機でしょう。世の中の状況が悪いから鬱が増えていると言う現実の前で、どうやって世の中を良くして鬱を減らすか、ではなくて、増えた鬱を治療して飯を食うにはどうすればいいか、という発想にたっています。DVも同じ、どうやってDVを減らすかではなくて、どうやって支援を業務にして金を引っ張るか、ということが目的化しているから、被害者をなくす事ではなくて、被害者を支援するための支援に成り果てています。ですから、当事者の加害者をなんとかしてほしい、と言う声には一切耳を傾けず、「加害者は変わらない、プログラムは無意味」と言い続ける事で、予算を自分たちの支援に振り向ける努力を続けます。このように、カウンセリング業界あるいは心理業界が私の活動のスタンスと決定的に違うのは当事者主義であるか、権威主義であるかということ。私は徹底的に権威・権力構造を排しますから、既存の社会システムに適応するはずがありません。またそんな社会の常識的な価値観でしか考えられない人たちを集客することもまた難しい。けれど、社会システムから排除された人たち、いわゆる当事者や、当事者性を理解する人にすれば、何故当事者になったのか、そこから回復して何が変わったのか、を私の支援を受ける事で身を以て理解できるから、当事者主義の支援の重要性が身にしみてわかります。そう言う人たちが、ボランティアスタッフとして、二千百件のカウンセリングレターを書いてくださいました。自分の時間をかけ、お金を出し合い、真摯に学びあい、利用者とともに成長する事を何よりの糧として、活動を続けてくださってます。レターカウンセラーとしての権威は、エライセンセに与えられたものでも、国家に与えられたものでもなく、利用者の成長や回復、スタッフ同士の支え合いからうまれる権威です。自身の内発的な動機そのものが支援のための権威になっていると言っても過言ではありません。こんな、ピュアでプアな資格、レターカウンセラー資格がどんなものか学んでみたい、と言う方、来月22日に啓発講座がありますから、ぜひ覗いてみてくださいね。参加費は五百円です。午後から四時間ほどの講座ですが、たったの五百円ぽつきり。ワンコインです。騙されたと思っていちど覗いてみてくださいね。お待ちしています。
2012/03/20
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たくさんの方に誕生日のメッセージを頂きました。感謝です。なんと今日の誕生日で私も58歳になりました。あと二年で還暦のじーさんですよー。私は老化の常識に抵抗しつつ、新しい老化のイメージを探ってみたいと考えています。私の妄想だけれど、老化は意識から進むと考えています。年寄りは年寄りらしく・・なんて考えではなく、自分の心の欲するままに、心や体を動かせばいいとの考えです。もちろん非常識とか破廉恥とか言われるのも覚悟の上。顰蹙かってなんぼ、ですから(笑)おいしいもの食べて、しっかり体を動かして、楽しい事、充実した事をして、心ときめかせ、エロいことも忘れずに、喜びと感謝に満たされた日々を過ごしてれば、きっとよぼよぼのじーさんではなくて、元気はつらつ若じーさんとして暮らしていけるのではないかな。とは言っても、運動とか食事に関しては自分でコントロールできるけれど、恋愛関係となると相手があってこその事だから、じーさんとしてはこれは難しい。このあたりが今後の課題かな(笑)
2012/03/19
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昨日はメンズカウンセリング協会の認証研修会と理事会と連続で行われました。メンズカウンセリングは徹底的に権力構造を排除する価値観を持っています。ですから、一般の資格のような、権威が認定する資格、のような形にはしていません。メンカンの権威は当事者であるクライアントの回復と言う事実でしかありません。ちまたには臨床心理士とかキャリアカウンセラーとか、産業カウンセラーとか、いろいろあるけれど、講義をうけて、試験を合格すれば、取得できるものです。が、それらは、カウンセリングができるかどうかと言うこととはまた別の事です。まともなカウンセリングもできない、有資格者が山ほどいます。毎年、何百、何千と言う人たちがいろんな資格を取っているのですから。メンズカウンセリングでは、そんな資格のための資格という事にはしたくありません。ですから、援助実践を事例検討するなかで、相互認証する認証制度としています。現在、全国で十名ほどの認証メンズカウンセラーが誕生しています。メンズカウンセリング協会の講座に二講座以上参加しメンズカウンセリング協会の会員となり、援助実践を重ね、その実践を事例検討会で発表し、メンズカウンセリングの理念に基づいた援助実践と認められれば、認証されるということになります。当事者主義のカウンセリングはメンズカウンセリングだけ。魂のカウンセリングを学びたいなら、メンズカウンセリングを学ぶ事をお薦めします。
2012/03/18
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幼い子どもを閉じ込めて餓死させたとして、24歳の母親が大阪地裁で懲役30年を言い渡されました。有期刑としては最長の刑期です。司法の厳罰化がさらに進んでいるのでしょうか。私には疑問のある判決です。事件は酷い事件であり、許されるべきではありませんが、厳罰に処しても虐待事件が無くなる訳ではありません。厳罰によって何が得られるのでしょう。国民の処罰感情でしょうか。抑止効果でしょうか。問題のすり替えでしょうか。少なくとも虐待防止法ができて十年と少しだけれど、罰則が強化されても虐待事件は減る事はありません。ネグレクトを含む虐待に対して法的制裁が必要なのは当然ですが、抑止効果はないということと、問題の本質から国民の目をそらすだけに終わる、とすれば厳罰は無意味と考える私です。そもそも、何故あの事件が起こったのか、その心理的背景や社会学的な背景をしっかりと見つめなければ事件何度でも繰り返されます。今から9年ほど前に尼崎で子どもを虐待死させ運河に捨てたと言う事件の裁判の傍聴に行きましたが、事件の経緯を見ると、起こるべくして起こった事件であった事がよくわかりました。被告の生育の問題、夫との問題、児相の対応の不手際、など様々な要因が重なって起こるべくして起こっており、弁護士は行政の重なる不手際がなければ起こりえなかった事件だと主張していました。けれど、虐待防止法ができて直近の事件であったばかりに、それまでの判例では刑期四年の相場が一気に倍の8年の実刑となりました。行政の不手際については判決では一切ふれることなく、本人の責任のみが厳しく問われる結果になりました。厳罰で満たされるのは国民の処罰感情だけであり、それは問題の本質から国民の目をそらす事になりかねません。24歳で二人の子どもを引き取り離婚し風俗店に勤めている、という状況に対して、少なくとも共同親権とか面会交流の確保、シングルで子育てする親に対する偏見のない支援、行政の適切な支援や介入があれば、防げたはずであり、被告だけの責任とするべきではありません。子育ては親だけましてや母親だけの責任ではありません。母親をめぐる様々な大人たちがすべて何らかの責任を有していると私は考えます。酷い母親だ許せない、と考える人に私が言いたいのは、怒りを向けるのは母親ではなくて、そういう母親を産み出す社会構造や、人々の家族意識、であり、他人事で当事者に怒りを向けてもなんの解決にもならない、と言う事です。ほんとに事件の再発を防ぎたいと思うなら、怒りを自身の行動のエネルギーにしてほしいものです。事件を起こす当事者は社会的孤立や心理的な依存や逃避という状況があります。彼らに怒りを向ければ、その問題はより深化し、事件を起こしやすい状況が加速されます。当事者を孤立させない、対人不安を強化させない、そのための何らかのアクションをするために怒りのエネルギーを使ってほしいものです。さて、そんな私・・何ができるんでしょうねえ。加害者プログラムを普及させるということは目下の目標ではあるけれど、できれば虐待加害当事者のための自助的な集まりも作りたいな・・ともかんがえているけれど・・・子育てに悩んだり辛い思いをしている親の自助的なグループができたらいいな、と・・・あなたも一緒にやりませんか。
2012/03/17
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昨夜はグルメナイト。男の客はほとんどなくて、「女子ども」の世界でした。その女の子たちのにぎやかな事。幼い子もいたりして、ケンカモード満載。さわればケンカ、話せばケンカって感じ。女の子だから女の子らしくしなさいとは誰も言うつもりもないし・・・それでも、ケンカが終わればふつーにしてるし。特に問題はないでしょう。そんな女の子たちがとてもいとおしくて、よしよししてあげたい気持ち。そんな思いはちゃんと伝わっていると思うし、子どもたちは、機嫌良く、私にあれこれ話してくれます。そうそう、昨夜はグルメナイトの後に緊急の仕事が入って、過後片付けやらなんやら、あれこれしてたら、あっと言うまに三時半に。その後、自宅まで徒歩で25分。自宅に着いたらほぼ四時。そこから息子の弁当作ったら四時半。ああ、朝になっちゃったよー・・・まいっか。
2012/03/16
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昨夜は某NPOの心理学講座に出講でした。エリクソンの発達課題で言う成人期です。人は成長とともに、個別性を理解し、わかりあえなさを理解できるようになりますが、さらにその個の違いを理解しながらも、相手を理解し、共感することも可能になつていきます。他者との違いを受け入れ、孤独を受け入れることで、真に自立した個人として他者との自由な関係も可能になります。エリクソンは成人期として18~30歳までの発達課題ととらえました。けれど、どうも私の感じるに、他者との個別性を受け入れ自立した個人に・・・・なっていない人が多いのではないかと。世間体を気にしたり、自己主張できなかったり、自由な生き方考え方を我が侭と否定したり、そんな人が多すぎるように思うのは私だけではないでしょう。人と同じ事がいい人で、人と違う事をする人はおかしな人、まちがった考えの人、との価値観を子どもの頃から植え付けられるのでしょう。学校や家庭の中で。みんなが一斉に先生の方を向いて、同じ事を毎日するのだから。私のように授業が理解できずに、机の下で手遊びして、退屈をしのいでいたり、授業を拒否して、廊下に机を出して遊んでたりした人は、授業妨害をする悪い子、と扱われてしまいます。一人一人の個性や発達に見合った授業をすべきなんでしょうけれど、そのためには教育コストがかかるから、日本の政府は、そんな文教政策はとらなかった、ということでしよう。そのあげく、個性を失い新たな価値観を見いだせない、不安大国に成り果てた日本、ということなんでしょう。私はほんと今では、LD(学習障害)児であっただろう私の子ども時代が、とても愛おしくて、誇らしく思えます。勉強できなくて、毎日先生ともめ事を起こしてた、そんな私でよかった、と。
2012/03/15
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量子力学の基本に不確定性原理って言うものがあるらしい。たとえば物質を構成する原子は原子核と電子からできていて、この電子がどんなものか測定するとき、その位置を正確にはかろうとするほど、運動量が曖昧になるし、運動量を正確に量ろうとすると位置が曖昧になる、両方を同時に正確に測ることはもともと不可能な事、というのが不確定性原理。これと似たような概念が観測者効果。ある物理量を測定しようとした時に、測定すると言う行為そのものが、測定対象に影響を与えて、もともとの物理量を変化させてしまうというもの。私たちは、マクロな世界に生きていて、物質を実感しつつ存在として言葉で意味付けて世界を認識しています。意識的には実感と存在があって現実世界として認識されています。それは私たちが世界を言葉で意味付けつつ頭の中で構成しているからでしょう。けれど、ミクロな世界では、物質は究極にはエネルギーであってそれが振動としてあるいは粒子として観測されます。この世界では私たちは何も実感する事はできません。こんな事がセラピーとどう関係するんじゃー、と言う事ですよねえ。まあまあ・・焦らず・・・・私たちは単なるS-R反応、(脊髄蛙の反射のような)刺激と反応の世界を生きているのではなく、刺激を分析し理解し、意味付け、その意味に基づいて反応します。いわゆる認知の問題です。このインプットから行動というアウトプットまでの流れは人それぞれ。それは遺伝の問題と体験の問題があるから。実は遺伝と体験及びその記憶は、神経シナプスあるいは細胞のレセプターの物理量として保存されています。ここです。この究極の物理量はあるがままの実態をそもそも測定できないとうこと。様々な心理測定尺度を用いて、さもその個人の心理を分析可能かのごとく思い込んでいる人もいるでしようけれど、それは古典物理学の概念でしょう。その個人がどういう時にどのような反応をするか、それはその時にならないとわからないと言う事。いわゆるシュレディンガーの猫に近い事かな。またその反応にどういう意味があるのかも、その現場にならないとわからないと言う事。ということは究極のセラピーには分析は不要不可能、と言う事。では、そもそもセラピーができないではないか、と言いたくなりますかねえ。大丈夫・・クライアントを分析しなくていいのです。メンズセラピーでは、観察者にも分析者にも治療者にもならなくていいのです。実はクライアントもカウンセラーを観察していますが、カウンセラーが観察の態度を放棄し、あるがままを開示することで、クライアントも観察の態度を放棄し、あるがままを開示し始めます。この関係は相互の防衛を解いた状況となり、それぞれの深い個の実在を前提とした交流がはじまり、いわゆる「相互作用」が起こります。この相互作用は、シナプスやレセプターの隅々に行き渡り、フリーズしてたそのミクロスイッチを活性化し始めます。ここから真実のセラピー・・・再生の物語の序章がはじまるのです。ああ、今夜はもう眠くなってきました。そうそう、昨日は珍しく家族福祉にかなりの時間を費やしました。実は、京都の映画館の老舗「祇園会館」が今月いっぱいで閉館となるとのことで、連れ合いが割引チケットをもらっていました。祇園会館では半年遅れの映画を二本立てで放映してますが、今回は「三銃士」と「猿の惑星、創世記」でした。どちらも見てなかったので、祇園会館とのお別れ会をかねて、連れ合いと映画に行く事になりました。で、あさから昼過ぎまで、映画を見てたと言う訳。相変わらずジョボビッチの美しい事・・・で、二時半すぎに事務所に入って、いきなり晩ご飯の支度をしました。他には仕事らしい仕事をしませんでしたが、たまにはこーゆー日があってもいいですよね。
2012/03/14
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量子力学の基本に不確定性原理って言うものがあるらしい。たとえば物質を構成する原子は原子核と電子からできていて、この電子がどんなものか測定するとき、その位置を正確にはかろうとするほど、運動量が曖昧になるし、運動量を正確に量ろうとすると位置が曖昧になる、両方を同時に正確に測ることはもともと不可能な事、というのが不確定性原理。これと似たような概念が観測者効果。ある物理量を測定しようとした時に、測定すると言う行為そのものが、測定対象に影響を与えて、もともとの物理量を変化させてしまうというもの。私たちは、マクロな世界に生きていて、物質を実感しつつ存在として言葉で意味付けて世界を認識しています。意識的には実感と存在があって現実世界として認識されています。それは私たちが世界を言葉で意味付けつつ頭の中で構成しているからでしょう。けれど、ミクロな世界では、物質は究極にはエネルギーであってそれが振動としてあるいは粒子として観測されます。この世界では私たちは何も実感する事はできません。こんな事がセラピーとどう関係するんじゃー、と言う事ですよねえ。まあまあ・・焦らず・・・・私たちは単なるS-R反応、(脊髄蛙の反射のような)刺激と反応の世界を生きているのではなく、刺激を分析し理解し、意味付け、その意味に基づいて反応します。いわゆる認知の問題です。このインプットから行動というアウトプットまでの流れは人それぞれ。それは遺伝の問題と体験の問題があるから。実は遺伝と体験及びその記憶は、神経シナプスあるいは細胞のレセプターの物理量として保存されています。ここです。この究極の物理量はあるがままの実態をそもそも測定できないとうこと。様々な心理測定尺度を用いて、さもその個人の心理を分析可能かのごとく思い込んでいる人もいるでしようけれど、それは古典物理学の概念でしょう。その個人がどういう時にどのような反応をするか、それはその時にならないとわからないと言う事。いわゆるシュレディンガーの猫に近い事かな。またその反応にどういう意味があるのかも、その現場にならないとわからないと言う事。ということは究極のセラピーには分析は不要不可能、と言う事。では、そもそもセラピーができないではないか、と言いたくなりますかねえ。大丈夫・・クライアントを分析しなくていいのです。メンズセラピーでは、観察者にも分析者にも治療者にもならなくていいのです。実はクライアントもカウンセラーを観察していますが、カウンセラーが観察の態度を放棄し、あるがままを開示することで、クライアントも観察の態度を放棄し、あるがままを開示し始めます。この関係は相互の防衛を解いた状況となり、それぞれの深い個の実在を前提とした交流がはじまり、いわゆる「相互作用」が起こります。この相互作用は、シナプスやレセプターの隅々に行き渡り、フリーズしてたそのミクロスイッチを活性化し始めます。ここから真実のセラピー・・・再生の物語の序章がはじまるのです。ああ、今夜はもう眠くなってきました。そうそう、昨日は珍しく家族福祉にかなりの時間を費やしました。実は、京都の映画館の老舗「祇園会館」が今月いっぱいで閉館となるとのことで、連れ合いが割引チケットをもらっていました。祇園会館では半年遅れの映画を二本立てで放映してますが、今回は「三銃士」と「猿の惑星、創世記」でした。どちらも見てなかったので、祇園会館とのお別れ会をかねて、連れ合いと映画に行く事になりました。で、あさから昼過ぎまで、映画を見てたと言う訳。相変わらずジョボビッチの美しい事・・・で、二時半すぎに事務所に入って、いきなり晩ご飯の支度をしました。他には仕事らしい仕事をしませんでしたが、たまにはこーゆー日があってもいいですよね。
2012/03/14
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私たちは現実の世界がひとつあって、その一つの世界をそれぞれが見ている、と認識しています。みんな同じ世界を見ているし、同じ世界に生きていると。そして同じ世界を見ながらも、違う世界だと言い張る人は、病者としてラベリングされます。私はいろんな方のお話を聴かせてもらうけれど、それぞれの語りの世界はそれぞれです。すべて真実であり、その世界の中で、みんなけなげに生きています。その語りの中に私も入らせてもらって、対話しつつ、その世界を共有します。その面白さ、学びの多さ。その対話の中から、クライアント自身が自分で自分の未来を決め、成長していく様子がみえて、とても勇気づけられる私です。しばしばその世界が社会の基準からズレている場合、カウンセラーは入るのをためらうのだろうと思います。巻き込まれたり、エネルギーを消耗したりする事が少なくありませんから。けれど私は好奇心旺盛なのか、人好きなのか、で、世界を分かち合う事にためらう事はありません。真摯に語り合い、分かち合えば、酷い事にはなりません。世間がどう言おうと、クライアント自身が自分に自信と信念を持ち、自己決定していければ、ほとんど問題はないのではないか、と私は考えます。カウンセラーはその世界を共有する事ができるかどうか・・が問われます。異常な世界、破廉恥な世界、犯罪的な世界・・etc
2012/03/13
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趣味でお菓子を焼くような男は女々しい、と言われるのだろうか・・・職人としてお菓子を作るのは立派だけれど、趣味としてなら、みっともない、ということかな。趣味として車を修理するのは女々しくないけれど、と言う事であれば、男らしい趣味とそうでない趣味とがあることになります。私はやりたい事をしたいので、それが男らしかろうが、女らしかろうが、関係ありません。楽しくて、おいしくて、みんなに喜んでもらえたら、もうハッピー。実は、先日息子の誕生日だったけれど、バタバタしててプレゼントを買う暇もないし、お菓子をつくる暇もなくて、またいつかお菓子焼くわ、ということにしてたままでした。で、昨日少し時間にゆとりがあったので、ケーキを焼いた訳。ほんとはイチゴケーキにしたかったけれど、イチゴがけっこう高いのでチョコレートケーキにしました。味はそこそこでした。ケーキだけではないけれど、料理ができる男は、柔軟で、バイアスが少なく、生活力がある、と私は思うのですが、世間では息子に、勉強しろとは言っても、料理しろと言う親はあまりいないのではないかとも思います。成績はほどほどでも、それより、料理できる方が、これからはサバイバルには役に立つと思うけれどねえ。金があってもサービスが買えないとか、金の値打ちが無くなったと言う時代では、料理を含めた生活力がある方が、サバイバルに資するように思う私です。これからは、男は生活力を持てた方が、生きていきやすいし、豊かになるのではないかな、と予感する私です。
2012/03/12
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昨日も忙しかったぁ。一昨日、バイクのクラッチワイヤーがぷっつん切れて動けなくなり、朝は徒歩で事務所まで、てくてく。まあ健康にはいいんだけれど朝の25分はちと痛い。ささっと事務所を掃除して、ビジテーションがスタート。突然の来談があって半時間ほどお話を聴いたら事務所を出て、新幹線に。東海の某市での男性相談などの相談員に対するスーパービジョンです。昨年よりも、相談員のスキルアツプがあったのでしょうけれど、私の問いかけに対して、建設的な反応が返ってきて、私も随分元気を頂きました。スーパービジョンの後はすぐに新幹線でとんぼ返り。事務所に帰り着いたら即晩ご飯つくって自宅に配達です。私もささっと食事をして、また事務所に帰って、カウンセリングです。その後はまた自宅までてくてくと25分。ああーなんとまあ忙しい一日でした。
2012/03/11
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昨夜は大阪での女と男の非暴力グループワークでした。新しいセッションのスタートでした。いったい何人の参加があるのかわからずにいましたが、あけてみるとちょうどいいくらいの人数になりました。新しい参加者もいて、けっこうにぎやかなスタートになりました。初回と言う事もあってイントロ型ワークの自己紹介ワークをやりましたが、妄想の自己紹介です。暴力がらみとか離婚問題とか抱えている男女当事者が出会う場ですが、多くの人が心配するような事は、実は、まったくありません。DV被害者と加害者が同席して大丈夫かと。大丈夫です。そもそも極端な男性不信、女性不信の方はそもそも参加しませんし。もちろん、それぞれの個人的な関係の中では相手に対する怒りや恐怖はあるのですが、関係のない第三者にその感情が向くはずはありません。むしろ、第三者としてのいろんな異性と、話したり聴いたりすることで、自身の認識が広がり、気持ちは楽なっていく方もすくなくありません。とはいうものの、いきなりリアルな話しも難しいだろうからと、昨夜は妄想の自分を語る事に徹してもらいました。無責任に非常識に、自身を制約する様々な現実の枠をきれいに取っ払って、思いつくままの妄想の自分を語ってもらいました。実はまったく架空の話しをしていても、所詮その人の頭の中からでてくる言葉だから、やはりその人らしさがでてきて、むしろ雄弁に自身の生の姿を語る事になつてしまいます。そう、いつもは抑圧されて表に出てこない自分ですら、妄想の名を借りたら、けっこう大胆に出てきます。このあたりがとても面白い・・・。参加されたみなさんも、言いたい放題をけっこう楽しんでくださったようで、とてもとても笑い声の絶えないにぎやかな二時間でした。もちろん私も語りました。私は「妄想家」としての自分を語りましたが、実はほんとの私そのものを語ったにすぎません。私は妄想が好きだけれど、世間は私の妄想を理解する事ができず、ただの奇人変人変態オヤジなのかもしれません。だいたい三十年経たないと私の言葉は世間には理解されないようです。世間のみなさんも、結局妄想を見てるだけなのに、みなさんはそのことに気づいてなくて、しっかりとした現実を見ているかのような錯覚に陥ってます。しんどいだろうに・・・・
2012/03/09
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もうすぐ、3/11でテレビも新聞もそのことばかりが伝えられるけれど、なんか違和感を感じてしまう私はやはり、世間の人たちと感性も価値観も違うんでしょうねえ。確かに地震や津波で亡くなられた方やご遺族の方にはご冥福やお悔やみを伝えたいと言う気持ちはあるけれど、そのこととマスコミが一方的、画一的なイメージを流すのは別問題と思うのです。スマトラ沖地震では20万人が一瞬にしてなくなってるし、日本の自殺は年間三万人を超えてます。そのことで胸痛めている人がどれだけいるのでしょう。私たちは3/11以前も以後も人の命を軽んじていると思うのです。たまたま目の届く所で起こった私たちに近い人たちの不幸だから、胸痛むのか、マスコミが大々的に流すから胸痛むのか。命を大切に思うなら、悲劇を痛ましく思うなら・・・防災に予算を使うだろうし、原発なんかもってのほか、途上国の飢餓や内戦にも平和的に関わるだろうし・・・私たちは人の命よりも目先の利益の方が大切と言う判断で政策決定させてきたのではないか・・・教育してきたのではないか人の苦しみや絶望に向き合う事なく、すべて他人事、自分の家族、自分の知り合いが幸せならいいではないか、という価値観が溢れていて、そんな価値観で生きてる私たちが、津波で亡くなった人たちを悼むことが・・・どうも・・私には違和感を感じさせるのです。人の苦しみや悲しみにもっともっとセンシティブであってほしいし、たとえ地球の裏側であっても、社会の片隅であっても、死ぬほどの苦しみの中で生きている人、耐えられず死ぬ人殺される人が、たくさんいる事に思いを馳せてほしいと思うのです。だもんで、私は途上国並みの生活水準で充分と思うし、苦悩する人たちに寄り添いささやかでも支援したいと思うのです。自分の息子を大学にやる金があったら、それは途上国の子どもたちのために使いたいと思うし、息子には大学と言う学歴がなくても自信をもって生きていく自己信頼感を与えてやりたいと思うのです。もちろん、それは人のためにやる慈善ではありません。自己満足のようだけれど、ちょっと違います。他者とそして死者とともに生きている事が私の存在する意味そのものだからでしょうか。そしてそれは、私にとって一番楽な生き方でもあるのです。やっぱし私は、世間とはずいぶん違ってるよねえ。だから嫌われる・・・ははは (笑)
2012/03/08
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今夜は仕事もなくて早く帰れたので、バイクでひとっ走りしてレイトショーに。アカデミー賞候補の「ヒューゴの不思議な発明」。ゴールデン・グローブ賞ほか、いろんな賞を獲得してるだけあって、映画としては完成度も高く、楽しめる映画ではありました。ただ、私には少し毒気が足りなかったかな(笑)映画の表現とか映画に対する人々の意識が映画史黎明期はどんなものだったかを実感するにはとても便利な映画と思います。主人公のヒューゴ少年に「世界は機械のようなもの、どんな部品にもすべて意味がある。壊れて動かなくなった部品を修理したい」と言わしめ、少年は、存在の意味を失った老人の心を修理しようとする。かわいくて純真な少年が言うから説得力もあります。けれどもうすぐ五十八のおっさんが同じような事を言うと、どうもうさんくさいか、きれいごとをたれているようにしか聞こえないのではないか・・なんて、私のひがみかな(笑)人は誰しも自身の存在の意味を確信できる訳ではなくて、むしろ、意味が見つけられなくて右往左往している人が多いのではないかと思います。そんな人はしばしば、誰かのためにしてやってる私とか、人の役にたってる私であることで、そのアリバイを作ろうとします。けれどそれは結構危険です。自分の心の穴を埋める事が目的であつて、人の心の穴を埋める事はその道具になってしまいます。自分の心が埋められないと思ったら、人の事はほったらかしにしたり、自分の価値観を押し付けたりしがちです。それではほんとの癒しにはなりません。自分の心の穴をしっかり見つめ、誰かに助けてもらいながらその穴をまず埋めて、自身の問題を解決する事です。その次に人様の心の手助けをする方が無難と思います。私?、私はねぇ・・・
2012/03/07
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昨日の講演でも、若干咳き込む場面があって、失礼はしたけれど、その後も咳が収まらず喉の痛みに頭痛までし始めるしまつ。これはどうも風邪っぽいなあ、と実感したのが今朝。今の所生活に支障はないので、何の対策もしてませんが。まあそのうち治るでしょう、さほど悪化する事もないでしょう、との私の判断です。世間の人がやたら心配して薬飲んだり、医者に通ったりするのとは逆の発想です。私には病気に対する不安はほとんどないし、ある程度は健康管理も自分でできてるし、何も恐れる事はありません。とはいうものの、とりあえず今夜は早く寝るかな・・
2012/03/06
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今日は島根県の某市でDVがらみの講演でした。新幹線と在来線を乗り継いでの移動は五時間半という長丁場。さすがに日帰りはきついので仕事の後はお宿で一服。今日のおしゃべりはDV一般ですが、加害者の脱暴力支援の必要性や有効性、そしてなぜDVがおこるかという心理的な背景、社会的な構造などについて、話しました。与えられた時間は一時間半というわずかな時間。ほんとはじつくり笑いを取りながら話したかったけれど、短時間ですから、あまりゆっくり脱線しながらは・・難しい。それとハーグ条約がらみで、単独親権の問題、面接交流の問題も話しました。リスナーは八十人くらいでしたが主催者側のスタッフに、相談員やら調停員の方等もいて、ビジテーションサポートの必要性等も質問ででたりして、少しずつだけれど、地方の街でもビジテーションだの共同親権だのということが、話題になる時代になりつつあるのを実感しました。お宿は駅前のホテルですが、大浴場があって、客はほとんどなくて私一人。サウナも私一人で使い放題。あまり風呂とかサウナとかに時間をかけないと言うか、ほとんど利用しない私だけれど、今日は贅沢気分でゆっくり堪能させていただきました。それでも出るまでに三十分ていどでしたが。そうそう、長い車中でうつらうつらしながらもおもしろく読み始めたのがフレッド・アラン・ウルフの「聖なる量子力学・九つの旅」理論物理学者で平行宇宙の第一人者がシャーマンからの学びを元に量子力学の概念で精神世界を解説するような内容です。以前紹介した、ディーパック・チョプラの「クォンタム・ヒーリング」が二十年前に一度読んだ本で、今度の「聖なる・・・」は12年前に購入した本で、ほとんど読まずに積んどくしてました。どちらも量子力学を基本に医療や精神世界を語っています。二十年前に「クォンタム・・・」でインスピレーションを受けた私ですが、「聖なる・・・」では、ほとんど私がカウンセリングを行う基本的な考え方が既にしっかりと理論的に書かれていて、とても面白く読んでいます。以前量子人生論なんて書いたけれど、クォンタム・セラピーあるいは、量子心理学と書いた方がより適切なのかもしれません。メンズカウンセリングをさらに補強する理論です。古典物理学だと観察者と観察対象は、別物で、主体と客体とに別れます。観察者の態度の如何に関わらず、対象は一定の現実を存在しています。けれど量子力学では、対象は観察するまで実態は存在しないし観察者の態度に応じて存在するということです。電子は波でもあり粒でもあり、どちらとして観察するかとか、位置をしれば速度がわからず速度を測れば位置がわからない、実態としての電子は存在しないなとどか、量子力学の基本です。精神分析では分析者がクライアントを分析してラベリングします。客体と主体がはっきりしています。しかし実はクライアントは分析者を観察しています。分析者の求めに応じて、あるいは分析者の求めに反発して、反応します。もちろん関与しながらの観察ということは心理学業界では既に言われていますが、あくまで観察者と披検者という権力構造は保ちながら、と言う事では同じです。ですから、分析者が求める状況を分析者が観察してしまうということです。(DV男は怖い、と思えば、目の前のDV男が怖い事をするのです。DV男が可愛い、と思えばDV男は可愛い事をするのです。人は善人でもあり悪人でもあります。どちらを引き出すか、それはその人に向きあ会う人次第でしょうか)ではどうするか・・・ナラティブではここを超えています。セラピストをクライアントに観察させるという手法をとった人もいます。さらにともに物語を紡ぐと言うこともやります。私はさらに、セラピストとクライアントとが「相互作用」し世界の中で新しい存在としての意味を作り出す事を目指します。クライアントは自身の過去の意味を変えるだけでなく、自身の人生の物語を書き直し、未来を新たな人生の物語にしていくだけでなく、世界に関わる自身の存在の意味をも変えていきます。これまでに私が言ってたポジティブ還元もその一部に入ります。このあたり・・・かなりのキワモノですが、カウンセリングとしてはとても有効性があるだろうと直感しています。私のこれまでの方法論をさらに一歩前進させてくれそうです。楽しみ楽しみ・・・
2012/03/05
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今日は学びの1日でした。ビジテーションサポーターを目指す当事者の方達のための講座と、当事者のための心理学セミナーを連続で行いました。心理学セミナーではフロイトの考えた無意識の概念を説明し、イドと超自我の間に挟まれた自我は葛藤しつつ行動していくというもの。その葛藤から自我が崩壊するのを防ぐために、無意識に自我を守る仕組みを発動させる、これが防衛機制と言うヤツ。様々な事例を例えながら、その防衛機制のあれこれを説明していきました。本人も意識しないレベルで無意識が自動的に防衛するのだから、本人にもわからず、本人は相手のせい、状況のせいと理解してしまいます。カウンセラーはクライアント本人の意識ではなく、無意識がそういう行動をさせていると考える事で、冷静にクライアントを理解できますし、より根本的な対策を講ずる事が可能になります。このあたりの事を理解できると、当事者も自身や家族の行動をより客観的に理解できるし、冷静に判断できるようになるみたいです。随分と、ゼミ生自身の体験が語られましたし、自己洞察が深まったようです。当事者としての体験と、その心理を冷静に理解する知識と自身に対する信頼があれば、とても優れた援助者になるものと確信しています。自身を知る事、自身を語る事、防衛なくして自身を守る力を持つ事・・・これらの暁にはゼミ生もとても有能な援助者やカウンセラーになるものと確信しています。
2012/03/04
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昨日は東京でワークとカウンセリングを行ってきました。このところ、鬱病などで長期間精神薬の服用を続けている方のお話を聴かせてもらう事が増えています。以前、鬱は心の風邪、早めに治療し治しましょう。と言うキャンペーンのもと心療内科が増え、精神薬の投与量も増えました。それと平行して、自殺も増えました。その因果関係についてあまりマスコミは言いたがりませんし、行政も調査しようとはしません。特にSSRI系の抗鬱剤は有効性もさることながら、副作用の事故の可能性も以前から言われていました。銃連射事件の犯人が抗鬱剤を用いてたとかいう話しも聴いています。もちろん、脳内の生理活性物質を調整して精神状況を変えると言うのも、対症療法としては有効ですし、時には必要な事でしょう。けれど、それは脳内の状況を変えるだけで、病理に至った周囲の状況や本人の認知、体験は何ら変わることはありません。となると、状況や認知からくる辛さを薬でごまかすと言う事になりかねません。だからアルコール依存や薬物依存と同じくと言うより、薬物依存の状況そのものになります。合法的だから逮捕も処罰もありませんが・・・・ここが怖い所。ですから、対症療法とあわせて根本療法としてのセラピーが不可欠、と私は考えます。すなわち、状況や認知に関わる問題についてアプローチし、心理的に鬱を治していく行くと言う事。そのあたり、最近は多くの精神科医はカウンセラーと連携するようにはなってきてますが、カウンセラーがカウンセラーとしての仕事をちゃんとできてるかどうか、カウンセラーの独自性をドクターが認めているかどうか、で、いい連携となるか無意味なものになるか・・・状況はいろいろあるようです。長年薬を服薬してきた人にとって、いきなり薬を抜くのは危険ですし辛いものです。ですから、状況をみながらカウンセリングとあわせて少しずつ負担なく薬を減らしていく必要があります。そう言う意味では減薬のステージでは精神科医よりもカウンセラーのイニシアティブが重要になるのでしょう。ということをつらつら感じるこのごろです。私につながったいろんな方たちがはやく薬から離脱し自由で楽しい生活を獲得してほしいな、と思います。
2012/03/04
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私がずっと以前に感じてた孤独は、他者との関係が一切遮断された宇宙空間に一人漂う絶望感でした。人とつながれない事からくる不安や悲しみ・・・それは巨大な絶望となって、自身の存在に対する疑問を投げかけます。このあたりで私の心は壊れかかって、発作が始まるのですが、いい具合にアルコールで意識を沈殿させてしまうという技も覚えて、とりあえず人格崩壊は防ぐ事ができました。青年期の苦しみでした。やがてアルコール依存も深まり、ごまかす事にも限界が見え始めてた頃、絶望と言う底に落ち込みました。もう、命も何も諦めて、なるに任せるしかありません。すべてを他力に任せたのが三十少しまえ。あとはすべてを他力に任せたきり、悩まずにゴーインにマイウェイを疾走中。人の作り出した価値観や歴史の遺物に惑わされる事もなく、うちなるメッセージに従い、語り行動するばかり。他者につながれないと言う事より、絶対的な他力につながる私は宇宙という子宮の中でまどろむ胎児・・スターチャイルド・・・のような存在として自己を感じるようになりました。2001年宇宙の旅でボーマンが神の意志によってスターチャイルドになったように。ただ私はボーマンのように宇宙から地球と言うおもちゃを眺めるという立場にはたたないけれど。私の意思は地上にあって、世界に向かってメッセージを言語化するということが、私に与えられたささやかな使命のように感じています。この天命に従ううちはたぶん万年の平安が得られるのだろうと思います、千年の孤独を超えてなお(笑)そうそう、明日は東京は銀座でのワークです、お気軽に参加くださいね。たのしくおしゃべりやワークをしたいと思います。
2012/03/02
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先日見た映画は「ピラミッド5000年の嘘」ドキュメンタリー映画で、建築工学、物理学、等様々な専門家による長年のピラミッドの調査を元に、現代の学者の定説が誤りである事を示して行く。数十トンの石材を精度0.1ミリの単位で正確にしかも複雑な形に加工しくみ上げて行った巨石文明の人たち。定説ではクフ王のピラミッドは20年で作られたとの事であるが、そうであれば200万個の数トンの石材を複雑な形状に加工し組み合わせたのが一個あたり数分と言う事になる。世界各地にある巨石文明は遠隔地にありながら共通した技術が用いられており、それは現代の石材加工技術に匹敵する技術であるとのこと。簡単なノミと打ち石だけで、それらの加工を行ったと言う定説にはどうにも無理があるとしか言えない、というのが映画作者の考え。ピラミッドに見られる数学的な意味、天文学的な意味は現代になってはじめてわかる事で、ピラミッドの作者は現代人にそれを伝えるべくそれを作ったとの確信である。πとかφとか光速度、黄金比、地軸の歳差運動、などすべての要素が盛り込まれて建造されているのは、現代の人類に対する警告であると。この映画では誰が何のために作ったか、という点について曖昧なままで終わらせている。で、現在その続編を製作中との事、期待したい所である。映画の最後あたりで、警告の一つとしてポールシフト・・磁極反転・・と言う現象も盛り込まれているらしいとの場面もある。過去の地球の歴史ではこの現象がしばしば起こっている事が確認されているけれど、地球内部の磁極が大きく移動すると、地球の磁場が無くなったりするので、太陽風などの宇宙エネルギーが直接降り注ぐとか、大地震や大洪水が起こるのではないかという可能性である。私たちの意識は数十年の記憶が前提だけれど、天災は数百年単位でやってくるものもある。これらは歴史的記述として人々に伝えられる。けれど数千年あるいは数万年単位の天災に対しては、歴史も伝えきれない。わずかに、世界各地に残る洪水伝説がそれを物語る程度である。小惑星の衝突やポールシフトの確率に関しては、人類の歴史では伝えきれないスパンである。それを伝えるためにどんな地震でも崩れる事はなくもちろん1ミリもズレないし、大洪水や灼熱の嵐にも埋もれる事のない存在を作った。だが、誰が・・・この謎は残るままである。そこで、作者が言いたかっただろう事を私の妄想として語れば、そこにあるのは宇宙人・・あるいは神・・・私たち人類は地球を数ミリの単位で計測し、核反応を利用し、人類を絶滅させるだけの能力や、遺伝子工学によって、生命を操る力を持ち、神の領域に踏み込んでしまった。けれど、その能力をコントロールしきれずに迷走してもいる。貧困や暴力もなくせず、憎悪や対立が世界に蔓延するとすれば、私たちが知識や能力を持つ存在である事にどれだけの意味があるのだろうか。人類の意味について人類自らが理解する事を神が願っているなら、様々なメッセージを今読み取らねばならないのではないか、とも私は妄想する。ピラミッドはその一つにすぎない。私たちの身体の中にもそのメッセージが込められているのではないか、とも。ああ、誇大妄想狂・・・といわれちまうなあ。そうそう、この映画を見終わってバイクで帰る途中、リュックをとなりのシートに置きっぱなしにしてしまった事に気づきました。あちゃー途中で引き返すには寒いし、遠いしで、とりあえず自宅に帰って映画館に電話して、忘れ物を確認し、翌朝一番にとりにいったと言う訳。ほんと私の頭はどんどん記憶力が落ちて行ってます。まあそのぶん妄想力は増していってるかな(笑)
2012/03/01
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