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昨日は久々の料理教室でした。二十数年続いた仲間たちとの楽しい集いです。一応、私が料理を教えると言う事ですが、レシピを作って、材料を買い出しにいき、調理器具を用意する・・のが私の仕事。みなさんといっても数人ですが、参加者は慣れたもので、レシピを見ながら勝手に作って下さいます。けれど別のメニューになった等と言う事は、今までにはありません。昨日のメニューは玄米ひじきご飯、揚げ豆腐の野菜あんかけ、ジャガ芋のきんぴら、のっぺい汁、白玉ぜんざい、でした。しばらくぶりの玄米ひじきご飯は、とてもおいしくて・・・。もちろん他のメニューもおいしくて・・・感謝・・・二十数年前、仕事を辞めた私は主夫業をしつつ趣味の料理教室を始めましたが、それは当時誰もやってないエコクッキング。環境問題は言われるようになってたけれど、そのことと食事をリンクさせる考えは日本にありませんでした。正食と言う概念で、体にやさしい食事という運動はありましたが、それは結果的にエコでも、エコを目的としているのではありません。当時、ドイツ辺りでは、すでに環境問題と食事をリンクさせる概念はあったようです。で、私は日本にないのなら、私がやってみよう、なんて妄想しつつちまちまと料理教室を始めた訳。環境負荷の少ない素材、調理法を選んで調理します。もちろんヘルシーでおいしく、且つある程度経済的でなければなりません。そんな料理をあれこれ創作しながら教室を楽しんでました。自宅やら青年の家なる施設での出張などで週1~2回は教室を開いてました。その頃からのおつきあいの方達が今も続いていると言う訳。今では、単に料理と言うより、生き方とか働き方について、みんなでわいわい言いながらおしゃべりしつつ食べると言う社交の場にもなっています。そんな食事を続けてきたせいか、私の体は今でもすこぶる元気。銀行預金はほとんどないけれど、体や心、人間関係に投資し続けた結果の今のような気もします。そうそう、先日は映画「ピラミッド5000年の嘘」を見に行ったけれど、その報告はまた明日。
2012/02/29
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深くて暗い川がある~♪なんて昔々歌ってたのは野坂昭如でした。誰も渉れぬ川なれど、えんやこら今夜も船を出す♪とのことです。この歌を出すまでもなく、確かに女と男の間には大きな溝があって、相互交流ができなくなっています。ジェンダーギャップとでも言いましょうか。私はもともと、男街道をひた走るにはどんくさくて、落ちこぼれ組でした。暴力少年で男を恢復しようとしたけれど、暴力では通用しなくなると、たちまち私の「男」は破綻してしまって、アイディンティティークライシスに。かといって、トランスするにはセクシャリティーが邪魔をします。ですからジェンダー領域のみで行ったり来たりするようになりました。男の職場を去り、主夫になり、女子供の世界に暮らしました。やがて金もなくなり、パート主夫となりましたが、そのパート先がオーナーもスタッフも女ばかりのレストラン。ここで四~五年パートをしましたが、ここで学んだ事はとても大きなことでした。ここで私はおばちゃんの生態を理解し、それを自分のものにすることができました。心理、会話、対人関係・・etc。だから今の私はバイリンガル。女語も男語も理解し、通訳もできます。女のずるさも男のバカさもよくわかります。こんな私だから、カップルカウンセリングもさほど難しくはありません。一般的には、女も男もそれぞれの世界でしか生きて行けなくて、それぞれの世界の間の深くて暗い川を超える事はできません。が、私はどちらの世界もよく知ってるし、どちらにも行き来できるので便利と言えば便利です。最近の若い人はバイリンガルも少しずつ増えてきてるけれど・・・自由な女が増えてる割には自由な男はあまり増えてないような気もします。そう言う意味では、まだまだ男受難の時代でしょうかねえ。あなたその暗い川を渡る勇気ありますかぁ(笑)
2012/02/28
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つくづく私はアホだと思うけれど、そんな自分を愛おしく思い、自己一致させているから、アホである事に何の問題もなく、幸せに暮らしている私。けれど世間ではアホではダメ、アホでは不幸、だから賢くならなければ・・という脅迫的な思いが強いようで、みなさん賢くなろうとしたり、賢そうなふりをしたり、大変そう。ほんとはアホと賢いのと、どう違うのか判断する物差しは実はいい加減で、アホも賢いも、妄想でしかないのかもしれない。たまたま記憶力が良くて、成績がいいとか、計算力が優れてて、いい点数がとれるとか、言うだけの事が賢い事のように判断されてしまうけれど、それは単に記憶力がいいとか、計算力が優れている、と言うだけの事でしかなくて、アホとか賢いとかの絶対値ではないような気もします。私の父親は、高卒でたいした仕事もできず、六十五歳で肺がんで死亡したけれど、世間の価値観に流されずに自身の価値観で生きていた、そんな賢さがあったような気がします。私の母親は石女として家を追われた田舎女だけれど、勉強もできず日々バイクに乗ってばかりの馬鹿息子を叱る事なく、受け入れる賢さがありました。おかげで、実存不安を乗り越えたらほとんど無条件に自己一致するほどの自尊感情を持つ事ができて、アホであることを自分の支えにできるほどの私になりました。こんな私からすれば、アホである事に対する不安や脅迫的なほどの恐怖を刷り込まされる多くの子どもたちが、とても痛々しくて・・・腹立たしい。世間の物差しで自分をはかるのではなくて、自身の内側の無限の可能性に気づいてほしい。私自身も世間の価値観とはまったく異なる内なる声に従って生きてきたから自己不一致はなくて、楽で幸せな日々。もちろん、人との関わりの中で、痛みや悲しみを感じる事は当然あるけれど、それを受け入れる知恵もあるから、憎んだり嫉妬に心傷めることもありません。今の私・・・人間、ほどほどにアホである方が幸せになれるよ・・・と確信を持っています。アホを楽しめる知恵を持つ人はある意味賢い人なんかもね。
2012/02/27
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フロイトは人間の生きるエネルギーの要素に性的衝動があると考え、それをリビドーとしました。赤ちゃんが生きて人として成長するためには性的な情動を感じ、それを適切に満たす事が必要と考えました。おっぱいを吸ったりうんちをしたりという当然の行為の中に性的な快感につながるものがあり、それが抑圧を受けると、欲求が満たされず、不全感を残したまま成長し、それが様々な性格を作ったり問題行動や精神病理の原因になったりもすると考えました。これがリビドーの固着です。私の場合、どうも口唇期から肛門期にかけての固着があるのではないか、と感じさせるようなセクシャリテイーや性格なんだけれど、それが特に問題や悩みにはなってはいません。そうそう、この話し、昨日のレターカウンセラーのための研修でのテーマでした。食欲とか睡眠欲に関してあまり社会的な抑圧はありませんが、性欲に関しては社会的な抑圧が強くあります。カレーを食べようがラーメンを食べようが、人に迷惑をかけなければどんな食欲の満たし方をしても誰も文句はいいません。変わり者とかゲテモノ趣味とか言われる事はあっても。けれど、これが性欲になると違います、人に迷惑をかけてなくても、一定の基準を超えた性欲の満たし方は変態とか不倫とか、非常識とか、言われてバッシングされます。ですからそう言う人たちはアンダーでそう言う人たちの世界を作るしかありませんし、そう言う世界につながれない人は、一人悩み苦しむしかありません。こういう人たちを孤立させず、セクシャリテイーを含め性的な抑圧から解放し、自己受容、自己一致して行けるよう、支援するのがーカウンセラーですよっと言う話しでした。そのためには、レターカウンセラー自身が性の抑圧から解放されていないと支援なんてできないよねー、と言う話しです。私自身はスケベで変態と言うけれど(これがけしからんと言う人もいましたが、それはその人の問題であって私の問題ではありません)私はそう言う事をクライアントに話せるから、クライアントは安心して自身の性の問題を語る事ができます。カウンセラーが社会の抑圧構造に加担していてはいいカウンセリングはできません。当事者はその辺りとても敏感に感じますからねえ。で、自分が性的抑圧から開放されるには・・・とてもしんどくてハイリスクな事・・・自分と向き合う作業を強いられます。・・・がさすがに現在のレターカウンセラーはみなさん、このあたりはちゃんとクリアされていて、さすがっと感心した私です。
2012/02/26
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昨日は一件のカウンセリングとシェルター利用の方の準備だけだったので、比較的ゆっくり仕事しました・・・というより午前中はぼーとしつつも、オーディオがらみでの作業してました。ダイニングルームの音響の音源をUSBメモリにして、その中身をネットから拾ってきて入れると言う作業です。メモリの容量が大きいので、何時間分でも入れられるし、こうしてると、途中でさわる必要もありません。昔のように二十分聞いたらレコードをひっくり返し、なんてしなくてもいいのでらくちんです。CDも便利だけれど、これも一枚三十分ていどかな。午後のカウンセリングのあとは、のんびり料理を楽しみました。天ぷらです。ふつう天ぷらは難しいしコンロ回りが汚れるので、うちでは作らない、と言う人も少なくありません。たしかになあ、慣れれば簡単な料理なんだけれど、料理の技術がない人には難しいのかもしれません。油の温度と水蒸気圧、素材の熱変成と水分量・・理屈でいえばこのあたりの事が直感的に感じられないと、さらっとしてさくさくっとした天ぷらにはなりませんからねえ。私はそれに加え、いい油・・・菜種一番搾りの香り高い油をブレントしているので、ふつうの大豆サラダ油を使っているのとはまったく違う風味になります。こんな油は高すぎてまあどこの天ぷら屋さんでもこんな油は営業的には使えません。だもんで、自分が作った天ぷらは最高にうまい、と自画自賛しつつ、ゲストや家人に食べてもらってます。私の贅沢のひとつです。そうそう、先日も少しゆとりがあったので寿司定食をつくりました。たまに無性に寿司が食べたくなる事がありますが、私は外食はしないので、当然寿司も手作りです。寿司屋に行くには金がありませんし、回転寿司だと、落ち着かなくて、くるくる回るのをみてると目が回ります。やはり自分で作って食べるのがいちばん。と言う訳で、先日も作ったけれど、新鮮なネタがなかったので、巻き寿司、いなり、ビンチョーのにぎりのセットにしました。まあさすがに、握りは何年も握ってる職人にはかなうはずもなく、かなり落ちるものとは思いますが、値段を考えれば充分満足・・・・で腹一杯たべて・・・食べ過ぎちまいました。反省・・たぶん私が日々、幸せを感じられるのも、人や金に頼らなくても、毎日おいしいものを食べられているから、ということもあるのだろうと思います。おいしい食べ物に感謝。
2012/02/25
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時は金なり、という諺があるけれど、今夜見てきた映画は、時は命なり、という設定の世界のお話でした。その世界では、生まれながらに人は生命操作されていて、25歳までしか生きられないのですが、25歳以上の命は時間を通貨として買い取る事で生きながらえます。残り時間が無くなると死亡するのです。恵まれた人は老化する事なく永遠に生きて行けます。時間を買うために働いたり、誰かにもらったり、中には人の時間を盗む輩もでてきたり。一番酷いヤツは人の時間の売買から利ざやを稼いで、大儲けしているヤツです。こいつらはいわゆる富裕層で贅沢な暮らしをし、時間をかすめ取られて貧しい暮らしをするか死ぬかする人たちはスラムに暮らします。命とは何か、人が人を助けると言う事は何か、わかりやすく表現していました。人は人と分かち合う事でしか豊かになれないし、自他を超えて思いを伝える事で自らの死を超えて希望が伝えられると言う、ごく当たり前の事だけれど、現代には忘れられてしまった事をしっかり描いていました。その映画「タイム」でした。命の時が通貨として売買されるという設定は、実はほとんど現代の金で何でも買えるという価値観のわかりやすい比喩でしかありません。既に私たちは金に縛られてほんとの自分を生きてないのではないかと映画は訴えます。家族に縛られて倦怠と不自由の中に生きてた金持ち娘が主人公の男に出合って、人生を変えます。彼女は父親に「一日でも本当の人生を生きた事があるのか」と問いかけますが、この言葉、現代にいきる私たち一人一人の胸に深く突き刺さる鋭さを持っています。ハラハラドキドキのあとに、ほわっと暖かさの残る映画でした。おすすめのシネマです。
2012/02/24
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今日は女ワークと男ワークの日でした。女ワークには久々の参加者があったり、男ワークには新しい参加者が複数名あったりして、嬉しいワークの時間でした。課題対策委員会なるワークを行いました。今、参加者が抱えている困難や悩みなどを出し合います。その課題について、みんなで対策を考えあうと言うもの。ひとりで悩みあれこれ考えていても、思いは堂々巡り、事態はなかなか改善されることもなく、頭の中はパニックになったり思考停止に陥ったり。それより、みんなに話して、苦しみや辛さをわかってもらえるだけでも、損にはならないし、みんなの助言に気づかされることも少なくありません。また人の悩みを聞く事で、自身の悩みが相対化され、客観視できるということもあります。そもそも悩みとか不安とか言うのは、認知や価値観が状況をどう理解するか、という事と無関係ではありません。状況を変えられなくても、認知や価値観を変える事ができたら、不安や悩みが少なくなったりなくなったりもあり得ます。このあたりが、カウンセリングやグループワークの面白さです。私の課題?・・裁判も終わったし・・・特に問題もなく・・・・金もなく・・暇もなく・・・・名声も地位も無関係・・・男のかい性もなく・・・あるのはこんな自分が大好きっていう、自己満足(笑)こんなアホなおっさんが、素っ裸で、らくちんに生きてる事・・・わかったら、たぶんみなさん、多かれ少なかれ少しは楽になれるんじゃないかな・・
2012/02/23
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昨日はメンズカウンセリング学習会の日でした。受講者は若干名の小さなゼミ形式です。テーマは「マイクロカウンセリングとメンズカウンセリング」でした。マイクロカウンセリングでは基本的な技法を前提に、その上により高度な技法を積み上げて最終的に技法の統合と言うステージでは、クライアントの状況に合わせて様々な技法を用いつつ、カウンセリングを深めて行くようです。メンズカウンセリングでも基本的な技法は常に用いられるし、その上に高度な技法を重ねます。さらに技法の統合ということもあり得ます。が、さらに技法の統合と連用されるのがナラティブの技法です。クライアントの語りを物語として聴くだけでなく、セラピストもその物語世界を共有し、ともに物語を紡ぐのです。セラピストとクライアントが対等な関係で相互に影響しあうのです。クライアントはセラピーを受ける客体、受動的な存在ではなく、自らの意思で判断し人生を自己決定していく主体としてあるだけでなく、セラピストにも影響を与えうる存在として自らを自己認知して行く事で、自らを癒し、世界にポジティブに関わる能力も育てて行きます。この内発的な成長、あるいは癒しの力を引き出すには、抑圧された成長の可能性にクライアントが気づく必要があります。そのためにセラピストはクライアントとの物語世界の中で自らのイメージを比喩として語らなければなりません。が、セラピストにとってこれはある意味、怖い事、リスクのある事で、簡単ではないでしょう。共犯者になったり傷つけられたりという可能性も考えられますからねえ。けれど、その恐怖はクライアントの問題ではなく、セラピストの防衛の問題ですよ、と受講生に語りました。自分を守るために知識や技法、権威を知らん間に利用してしまう・・それがカウンセラーの病だよーって。ですから、技法や知識をいくら頭の中にデータとして取り込んでも、自身の内からの情動や妄想が言語化されなければ、クライアントとの物語の共有はできません。このあたりが世間で流通するカウンセリングと私のメンズカウンセリングの違いでしょうか。そうそう、昨夜の来談者はDVの当事者の方ですが、すでにあちこち行かれてたようでした。でカウンセリングのあとで、一番すっきりできました、ということと、料金を聞いて、安ぅー、と話されてました。確かに夜に一時間三千円で話しを聞かせてもらうカウンセラーってなかなかいないでしょうし、被害者支援も加害者支援も平行してやってるカウンセラーもあまりいませんよねえ。
2012/02/22
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光市母子殺人事件、の最高裁判決がでて、被告は死刑が確定しました。被害者の夫がマスコミに出てましたが、彼の活動が判決に影響したかどうかはよくわかりません。いずれにしても彼は被害者の遺族として被告に極刑を求め続けてきました。被害者支援団体の関係者らしき人が彼におめでとうなんて話すシーンも映ってましたが、極悪犯人に鉄槌を下せて、おめでたいのかしらん。彼自身は判決に勝者はいない、犯罪が起きた段階でみんなが敗者だ、とか言ってたけれど。そして、もうこういう悲惨な事件が起きてほしくないし、そのために死刑になったのも意味はあるのではないか、とも言ってたように思います。彼の感情は被害者遺族としては当然の事とは思いますし、被害者の権利擁護と言う意味でも彼の活動がある部分では大切な事とも思います。が・・・死刑で事件が防げると言う根拠も事実もないということ、死刑で被告が反省したり謝罪するばかりでもない事、死刑は結局理由があれば人が人を殺していいと言う事を国家が認めると言う事にすぎない事、死刑が殺人者をヒーローにしてしまう可能性があること、死刑によって、事件の本質が解明できなくなる事、などから、私は世界の死刑廃止の流れに逆行した日本の厳罰化には賛成できません。元々日本は殺人事件は多い国ではありません。とても安全な国です。特に最近凶悪事件が増えた訳でもないでしょう。なのになぜ死刑を増やそうとするのか・・・・そこには怖い国家の意図があるように感じてなりません。一人一人の人権よりも国家秩序の維持が優先されると言う思想の強化です。厳罰化で犯罪抑止はできないと言う事は権力は百も承知でしょう。けれど、人々の不安や怒りを死刑で昇華する事は可能でしょう。また厳罰化で犯罪が抑止できるとお気楽に考える国民の権力に対する信頼感は得られます。けれどねー、当事者の視点で考えると、怖い事ですねえ。国は人が人を二人殺したら死刑だ、と言ってるけれど、五人十人殺したら、被告一人を死刑にしても数では追いつかなくなります。そのときは被告の勝ちなんでしょうねえ。それを実行したのが、池田事件の宅間死刑囚でした。かれは、もっとやればよかった、ダンプで突っ込んだら、もっといけたのに、と豪語して死んで行きました。その後を次いだのが秋葉事件です。6/18ですかねえ。秋葉の犯人は車で突っ込んで包丁を振り回すと言う、宅間くんの遺言を実行したのでしょう。広島でも車でひき殺す事件が後に起こります。これは6/18ではなかったけれど、それに近い月日だったように思います。殺人事件が起こる理由は様々ですが、要因は複雑で単純ではありません。一般市民は死刑が恐いから人は人を殺さない、と考えていると思いますが、当事者は死刑は怖くないから人が殺せるのでしょう。中には死刑になりたいから人を殺すと言う人も出てきます。当事者がどう言う心理状況でどういう犯罪を犯したか、と言う事を理解し、その生育から犯罪に至るまでのプロセスの中に犯罪を予防する情報を得る事も可能でしょう。当事者と社会の関係の洗い直しです。ナイフを持って生まれてくる人はいません。ナイフで自己防衛したり、社会にリベンジするために人を殺すと言う価値観を作り出したのは社会の仕組みによる所も大きいでしょう。その所に蓋をして死刑を乱発しても、人が人を殺す事を模倣する、あるいは殺人でリベンジする人が増えるだけかもしれません。となると、先ほどの被害者遺族の方の、事件が減ってほしいと言う願いとは裏腹に死刑が事件を増やす事になってしまうかもしれません。もしそういう現実が見えてきたとしたら、そのとき彼は自身の活動が願いとは逆の結果をもたらしたと言う現実に苛まれる可能性も出てきます。また彼自身、法律と言う手段を用いながらも憎い人を殺したいと願い、動いた、という事実を自身で背負わなくてはならなくなります。いずれにしても彼のこれまでの苦悩もこれからの苦悩も終わる事はないだろうと危惧する私です。そうそう、私の裁判ですが今朝、最終口頭弁論を終えて結審しました。判決は二ヶ月後です。私は自身の人生に何らやましい事も矛盾も感じずに生きてきたし、これからもそれは変わりません。判決がどうであれ、私のプライドが傷つく事もありません。私は私の無実を主張するためにこの九ヶ月最大限の努力を重ねてきました。原告の提訴の理由も裁判の中で理解できたし、原告やその支援者の心理も理解できました。自身の価値観と違う者を悪人と断罪し法的制裁を加える事が正義に叶うとする単純な判断なのでしょう。この思考様式はセクハラも殺人も変わりません。私は法律屋ではありません。心理世界で人の問題を解決するのが仕事です。事件の本質はやはり人の心であって、その心のありように寄り添い、誰もが傷つかず問題解決しながら成長して行く、そんな思考様式で事件を見て行きました。いまはこの訴訟に関わったすべての人が、訴訟を通じて自身の問題と向き合いつつ、成長の機会としてくれる事を望むばかりです。もちろん私はこの訴訟の中で大きなものを失いもしたけれど、得たもの学んだものも大きく、今後の人生はもちろん、今後の対人援助の中でもこの体験を活かせるものと確信しています。二ヶ月後の判決がどのようなものになるのかわからないけれど、司法の尊厳のためにもより深い人間の真実に沿った判決である事を願うばかりです。私は私なりに自身の無実については当初より確信を持っているのですから、迷いも不安もありません。
2012/02/21
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最近、嫉妬がらみの相談を受ける事がしばしばありました。夫婦間であるとないとに関わらず、特別な関係にある人は相手が誰かと何かしているのではないかと疑い、心ざわめき、事実を知ろうとしたり、事実を知って相手を束縛しようとしたり・・・その行為そのものがもともとの特別な関係を破綻させてしまうと言う事にもなりかねません。にもかかわらず、その嫉妬心が実は自分の心の問題と考えることは難しく、嫉妬させる相手、及び相手につながる他者の問題と認識し、その両者をコントロールしようとします。この嫉妬心、ほんとに厄介で荒れれば家族を壊しもするし、人の命を奪いかねない事にもなりえます。そんな激しい感情ですが、いったいどこからくるんでしょうねえ。私はこの感情が性的所有意識から生まれるのではないかと考えます。相手を性的な所有物と認識しコントロールできるものと無意識に判断している所から、その感情が生まれるものと考えます。人は人を所有できない、支配もできない、という考えに立てば、嫉妬の感情にはならないのではないかと思うのですが、恋愛とか決婚とか言う関係の中で、相手を自分のモノと思い込んでしまうのでしょう。いわゆる対幻想というやつです。嫉妬心に苦しむ人には、相手を所有しない支配しないで、関係を作って行く考え方もある事を伝えたり、嫉妬されて悩んでいる人には、嫉妬する人の心の問題であると言う考え方もある事を伝えます。人は人に支配されない、所有もされない、人は自由、性的な所有関係は契約としてはあり得るけれど、人の心までは縛れないと言う事。ただできる事は自身の心を自身でちゃんとコントロールし、対等で自由な関係を喜ぶ事、これなら相手の言動に関わらず、自身でやれるし、関係を破綻させたり傷つけあったりする事も少ないのかもしれません。自分の心は誰にも奪われずにも済みます。とはいうものの、心奪われてしまうっていうのが恋でもあるからなあ・・・ああ難しい・・(笑)私? 私はねえ・・・嫉妬心は多少はあるけれど、それに振り回されたり、人を縛ろうとしたりもないし、それで人を傷つけたくもありません。嫉妬される事も少なくないみたいだけれどねー・・
2012/02/20
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昨日も多忙でした。午前中のカウンセリングの後、お昼からは西宮に移動して親子ネット関西の集会に。理由はどうあれ、不本意に家庭を壊され、親子を引き離された人たちの話しは聞くたびに胸痛みます。そして、その集まりには来る事もない、引き離されたもう一方の当事者である子どもたちの事を思うとなおさら胸痛みます。子ども本人の意思と無関係に、親と引き離され、あう事も話す事もできない状況に置かれた子どもにとって、自分の存在の根源の一つである親を失う事が、どれだけ、不安にさせ、自身の存在や世界に対する信頼感を喪失させるか・・私に関わるある家族もやはり夫婦でもめていますが、一方的強硬な分離はせず、時間をかけつつ、合意を作ろうと努力されています。その努力の中に、夫婦だけでなく、子どもたちも含めて家族会議をしたとのことです。子どもたちにも状況を説明し、子どもたちの希望も述べて親はその意見も尊重するという家族離婚会議です。しばしば、夫婦の親が出てきて親戚を巻き込んだ家族会議は聞きますが、親族ではなく、家族の本質である親子が意見を述べあうと言う家族会議はあまり聞きません。たいてい、一番尊重されるべき子どもたちは排除され、責任はないのに一番傷ついてしまいます。欧米では子どもの意見に法的根拠を持たせるためにチャイルドコート(子ども裁判所)を設けてたり、子どもの意見が裁判で根拠を持つよう、こどもの意見を専門に聞き取る専門家がいたりします。日本ではそのような仕組みも価値観もありません。日本では子どもたちが大切にされているという百数十年前の欧米人のレポートは嘘のようです。明治以来の近代化の中で、子どもたちを大切にする価値観がなくなり、子どもは家のモノ親のモノ、こどもは親の意見に従うべきと言う価値観に染まってしまったようです。いつまでこんな酷い状況が続くのでしょう。もちろん引き離されてなくても、いつも親にコントロールされて辛い思いをしているのはどの家庭の子どもたちも似たようなものでしょう。子どもの幸福感を調べたら、日本の子どもたちは世界でももっとも低いところに位置するのかもしれません。胸痛む話しです。・・・・私に何ができるでしょう・・・みなさんは何ができるでしょう。と言う事をつらつら考えつつ、事務所に帰って、またカウンセリングでした。こちらも胸痛む話し・・・こちらの事はまたいつか。
2012/02/20
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昨夜のグルナイの後はしんしんと雪の中、なんとかバイクで帰ったものの、さすがに朝は万一を考えて、歩いて事務所まで。写真は自宅前。幸い高速道路は渋滞もなく、スムーズに四国は某県に。会場でおベント食べて、ワークの会場で時間待ち。時間になってもなかなか参加者も少なく、少しさびしくワーク開始。ワークは近況報告からスタート。一人一人が最近の体験や思いを他の参加者に伝えます。近況報告しているうちに、遅れてきた参加者も入ります。その報告を受けて、こんどは一人一人に対して全員が、メッセージを届けます。そのメッセージを受けて、その方はみんなに何かすてきなプレゼントのメッセージを返します。こうしてみんながみんなと言葉のプレゼントを交換し合う事で、一人一人が一人一人を大切にしあうと言う事の、意味や心地よさを実感できます。世間の風邪は冷たくて、なかなか楽にはならないけれど、このワークの場にくれば、ほんとの事を語り合い、気持ちを分かち合えるそんな仲間がいてくれる、だからまた生きて行ける・・そんな一人一人がいてはじめてワークの場が成り立ちます。結局、今日のワークは全員で8名だったけれど、久々に参加してくれた人もいたりして、私もとても心癒されました。理解しあえていると思ってた人との間にに超えられぬ大きな谷をみたり、仕事を見つけるにも見つけられない、でも諦める事もできない私たちにとって、今の自分を認めてあるがままの自分を表現できる・・・それがワークの場・・新しい自分を発見したり、痛む心を癒したり、自由で豊かな未来の物語を紡いで行くことができる、それがワークの場の力・・・私もやめられません。ありがたいものです。
2012/02/18
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昨夜のグルメナイトはご新規のゲストさんも何人かこられて、いい感じでした。はじめは、今日は誰も来ないんちゃうか、なんて話してたから、久しぶりにこられた方やはじめての方も来られて、それなりに楽しくにぎやかな夜になりました。忙しくて、メニューの数はいつもより少し少なかったけれど、45品くらいは用意しました。実際によく出たのは、タコライス。なんか定番になりそう。もちろんどのメニューにも自信はありますが、グルナイの一番の自慢は、ゲストたちの楽しい会話と絶えない笑い声です。ほんとみなさんよく笑ってくださいます。何がそんなに面白いかって、世間でははばかられて話せない事でも、グルナイは心の解放区、誰がどんな話しをしても、みんなでその言葉を受け止め、きちんと返しますから、心のキャッチボールが楽しくできるのでしょう。そんなこんなで、ゲストは午前になりそうな頃、帰られました。私はその後も片付けものして、午前一時半、外に出てみると雪がしんしんと。すでに15センチほどつもってました。
2012/02/18
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今日はほんとうっかりしてて、大阪まで二往復してしまいました。夜の出講なのに、朝の講座と間違えてて、ゆとりをもって堂々と部屋に入ったら、みなさんぽかんと、・・・れれれ、私の講座ではなかった・・・あっちゃーと言う訳で、いったん事務所に帰って、チラシの折り作業やら、住所のタックシール作りやら・・・あれこれやって、晩ご飯をつくって・・また出直し。その夜の講座では幼児期の発達についてのおしゃべりでした。リビドーの発達と言う意味では、肛門期から男根期のあたり、ピアジェの言う前操作期のあたりの心理的な課題やら学習やらについて。人の成長やら発達は幼児期はほとんど記憶にも残らず、無意識の中で学習が進んで行きます。まあ私たち日本語をいつ学んだか、という記憶はたいていありません。英語は中学で習ったと記憶してますが。それと同じように幼児期の学習は知らない間に行われるので、ある意味空気のようなもの。その内容を価値判断なしに無条件にインプットし自分のシェマ・・・ある意味個性として定着させて行きます。親や周囲の大人たちからどのような対応を受けるか、どのような環境に置かれるか、によって、その人のパーソナリティーが様々な形に形成されて行きます。で、私自身振り返るに、私の個性がどのようにしてできたのか、今でこそ、記憶を辿りつつ、多少は理解できるようになりましたが、根源的な所までは発達の理論では理解できないのも事実です。私は何者でどこからどこに行こうとしているのか。この世界で何をしようとしているのか、実存的な問いかけの答えが出せたのは、結局すべてを諦め委ねるという体験を通してです。大いなる他力に任せつつ、自身のうちに宿るメッセージを言葉にする事・・その言葉に従って生きる事・・そのことからくる喜びも痛みも、すべて受け入れること・・・そのことでしか、言葉に魂を吹き入れる事はできません。今日の受講生が伝えてくださいました。体験に基づいて語ってくれたので腑に落ちた、と。これまでの体験もこれからの体験もすべて私の体験は意味があって、人に命の真実を伝えるための私の痛みや喜びなのでしょう。だからそれらは決して不安ではありません。絶望でもなく、妄想でもありません。ただねえ、私の言動はかなりモードが世間の常識とは異なるし、私の意図するように読みとるのも難しいのだろうと思います。ほんとうっかり朝と夜と間違えるおっさんの言葉だから、私の中の「母としての私」がセラピーにとても役立つ、なんて言っても、なかなか通じないけれど・・・じっくり話し合えば・・わかってもらえるかな。まあ、フロイトとかピアジェとかの理屈を使って説明したから、少しは通じたのだろうと思います。皆さん熱心に聞いてくださってたから。世間ではなかなか通じないけれどね。
2012/02/16
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先日最終準備書面を提出してきて、後は来週の最終口頭弁論で結審となり、判決を待つだけとなります。それにしても長かった。昨年五月にいきなりマスコミがわんさか事務所に来て、あなたセクハラで訴えられた、原告は◯◯されたと言ってるが本当か、などと取材され、夕方のテレビで、セクハラで訴えられたカウンセラーとして大写しとなりました。あれから九ヶ月。ほんといろいろありましたが、いい学びとなりました。私を支えてくれた人たちには深く感謝です。それにしても、自分がセクハラの被告席に立とうなんて、ねえ、考えてもいませんでした。(もちろん刑事ではなくて民事ですけれど。)セクハラは私の趣味ではありませんからねえ。前回の公判では証人尋問が行われ、原告側、被告側、それぞれ証人と本人が順番に証人席に立ち、主尋問と相手側からの反対尋問に答えて証言して行く訳です。証人尋問に先立ち、それぞれが陳述書を提出している訳ですが、陳述書は所詮書面なのでなんとでも書けます。が、その陳述を前提に質問された時に、事実に基づいて話していれば、矛盾は起こらないけれど、陳述が虚偽であれば、証言を重ねて行くうちに矛盾が出てきます。この矛盾を引き出すのが反対尋問をする弁護士の仕事ですが、私は弁護士を雇ってないので、自分で相手方証人や原告に質問をして行く訳です。答える方も緊張していて、間違って答えたり、忘れてしまって答えられなかったりもする訳ですが、嘘を前提に話しを進めていたら、うっかり本当の事を話してしまう、ということもある訳です。私は原告が虚偽のセクハラをねつ造して提訴したと考えていますから、原告側の嘘を暴き真実を語らせる必要がある訳です。逆に原告側は私を潰すために提訴している訳で、裁判官が「この男ならセクハラをしてるだろう」と思うような証言を私から引き出さなくてはなりません。ですから、原告側弁護士の私への人格攻撃も激しいものがありましたが、私は人格攻撃と言う意味では、昔っから毎度の事なので、特にそのことで、動揺したり、感情的になったりもなく、たんたんと答えはしたものの・・・なんせ一年半の昔の事で、覚えてない事もたくさんあって、質問に答えられない場面もあった訳です。その辺り、私が都合悪い事を黙秘してるのか、単に記憶がなくなってるのか、傍目にはわかりません。そのびみょーな所をついてくるのが相手方弁護士です。証言している時は、あれこれ答えているけれど、その証言を記録し文章に起こしたのが尋問調書です。この尋問調書を見ながら最終準備書面を作成する訳です。で、全員の尋問調書を読んでみた訳ですが・・・・じっくり読んでみると、なるほどなるほど・・・矛盾があれこれ見えてきて面白いものでした。原告自身が、それを言っちゃあかんでしょ、と言うような事まで発言してたり。私の証言や質問も、焦ってて、肝心の事を忘れてたり・・・まあ、はじめての体験だから仕方ないか・・それにしても一時から六時までの五時間近くをよー、一人で被告席で闘いました。これもいろいろ、私を支え勇気づけてくれた仲間たちの努力があったればこそです。有り難い事です。
2012/02/15
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今夜はさっぶい中バイクでドラゴンタトゥーの女を見に行きました。なんと、09年のノーミ・ラパス主演のスウェーデン映画のハリウッド?リメイク版でした。くっそー、期待してたのにぃー。新しい話しかと思ってたもんなあ。ストーリーはまったく一緒だから、面白くはないですねぇ。ノーミのイメージはドラゴンタトゥーシリーズで定着してたから、ルーニー・マーラーではちょっとものたりません。とはいうものの、ドラゴンタトゥーの女「リスベット」のようなタフな女には憧れてしまう私です。自分の意志で動く女、誰にもコントロールされない女はとても魅力的。暴力的であっても魅力的。そうねえ、男らしい女がいいんでしょうねえ。もちろん身体的には女でないとダメな訳ですけれど、性格的には男性的っていうかんじの人ですねえ、魅力感じるのは。この前見たアンジェラも良かったし、ニキータや、バイオハザードのアリスなんかも・・・ジョボビッチのジャンヌダルクも良かったし。となるとなんかリュックベッソンの映画が多いですねえ。そう言えばフィフスエレメントも彼の作品かあ。リュックベッソンの描く女は、どうも私を刺激してしまいます。リスベットもしかり。男に支配されたり、従属する女より、誰にも支配されない、従属しない女が好きなんだね、私って。
2012/02/14
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せっかく、書いたブログなのにアップできなくて、せっかく書いたページがなくなってしまったぁー。写真が重かったのかなぁ。写真はこの二日間シェルターを利用していた米国人当事者 Rei Rose さんです。彼の話も胸が痛みます。彼の将来がいい方向に向かうよう願いつつ、彼を慌ただしく送りだしました。
2012/02/13
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いやー、ほんと忙しい・・・後数日がヤマかな。ケース記録やカウンセリング、料理に掃除に、最終準備書面の作成とか、もうやる事がいっぱいあって、頭の中は混乱気味。昨日のカウンセリングはクライアント中心雑談法、三人でとりとめもなくおしゃべりして行く中で、いろんなキーワードやイメージができてくるというもの。グループワークのダイナミズムと対面でのカウンセリングの深まりと、両方のよさが出てきてるようでそれなりに面白いものです。一昨夜は六人での雑談法でした。この人数だと多様性が出てくるし、進行もテンポが速いけれど、ゆっくりが好きな人には少しつらいかもしれません。語りの中で、頭が真っ白と言う言葉がでて、子どもの頃しばしばそう言う事があったよねえ、と共感しあいました。だから勉強もできずに、センセからも嫌われます。いまはそれでいいんだって自分に言えるけれど、当時の私は辛かったなあ。(笑)
2012/02/12
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いやあ、昨日はほんと忙しい一日でした。午前はカップルカウンセリングを済ませ、お昼を済ませてすぐに学習会の準備を。午後からは心理学セミナー第一回を事務所で。このセミナーは様々な困難を乗り越えつつある当事者の方達のセミナーです。当事者が当事者を支援したり、社会にポジティブ還元(社会から受けた差別抑圧をポジティブに変換して返す)するために心理や病理社会学について学ぼうと言う、主体的な集団です。といっても今回はその第一歩で小さな集まり・・・だけれどその会話の中身の濃い事。当事者の体験に基づいた話はやはり本物です。そのセミナーの後はシェルターや家人のための晩ご飯作りを・・・・実は昨夜のゲストは引き離し当事者の米国人で、不本意にも子どもに会えなくなった父親です。話を聞けば、ほんと胸が痛みます。なけなしの金をはたいて子どもに会いにきたとの事で、宿を借りたいとの事でした。ほんと外国人であれ日本人であれ、不条理に親子分離させられ、合う事もできないという現実がまかり通っていて、警察も行政も司法も、それを黙認するどころか、拉致行為を結果的に支援していると言う現実。外国では日本のこの状況を拉致大国日本、と揶揄しています。北朝鮮の拉致を非難する日本自身が諸外国の子どもたちを拉致していると言う現実に対して、諸外国はハーグ条約批准を求めて、かなりの圧力をかけていますが、その事実に対して、マスコミはほとんど報道しません。政治がお粗末なのは、実は国民の意識がその程度であると言う事でもあります。人々の意識をもっと人権について、ひとりひとりの自由と幸せについて、大切に考えるように、私なりに働きかけたいと思います。でー、セミナーのスタッフとゲスト、サポーターみんなで夜遅くまでわいわい・・の間にカウンセリングを一件こなして・・・日替りをすぎて帰ろうとしたセミナー参加者の車がトラブってたりして・・・嗚呼・・・深夜に帰宅して・・また裁判関係の文章を考えてたらまた・・・アドレナリンが・・・・やがて台所のチャボがコケコッコーと鳴き出してしまいましたとさ
2012/02/12
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昨夜の女と男のワークは「不安」をテーマにしました。たいていの人は色んな状況に不安を感じます。不安が嵩じたり持続したりするとストレスになって、心病んだりします。で、不安の状況の脳の生理活性状況を薬物で変化させるのが精神科医のしごと。けれど薬理作用が切れたら元の木阿弥。だから飲み続けなくてはなりません。これが依存になつていき副作用でさらに問題が増えて行きます。薬物ではなく、不安に至る心の有りようを変えるのがメンズカウンセラーである私の仕事。私は不安から逃れる方法と不安に至らない考え方の獲得と、両輪で進めて行きます。そもそも不安は危険を回避する行動を選択するための情動と理解できます。ライオンを見たら食われる前に逃げる、あるいは、完全にフリーズして気づかれないように身を潜めるか。こういった行動をとるための情動が不安として進化したのでしょう。それなりに意味はあります。けれど、人は犬猫と違って、すべてに名前と意味を符合させ世界を理解する事を前提に行動します。言葉と概念の世界を生きていますが、言葉や体験が他者と異なったり現実と異なる言葉の意味を学習した者は、世界を誤って認識し、情報処理が不適切となります。猫がライオンに見えてしまったり、ただの常在菌が危険な病原菌かのごとく信じ込んだりしてしまいます。よーするに妄想に不安しているということ。何の根拠もない無意味な事に不安を感じています。このあたり、ワークの中で色んな人の語りを聞く事で、それぞれの不安がどこからやってきているのか、また、自分の不安に至る認知や体験が、現実とどうズレているのか多少は気づく事ができます。気づけばそのズレを修正して行けるしそうすれば不安が起こりにくくなるということもあるでしょう。私も若い頃パニック発作におびえ、その予期不安や発作時の恐怖から逃れるためにアルコール依存していました。今の私は、世界をかなり深く広く理解できているし、受容できているので、世界の何かで私が不安になる事はほとんどありません。貧乏も、病気も、死も、あるがままでいい、とも思いますから、逃げる必要もないし、恐れる必要もない。だから今の私には不安と言うものはほとんどなくて、楽に生きて行く事ができてます。まあここに至るには、不安障害発症からおよそ20年以上が必要でしたが。今の私、楽で幸せなんだけれど、なんでみんなそこのところに気づかないのか、私には不思議です。みんな不安をあおられてんのかな。
2012/02/10
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昨日の講演は関東の某県某市の人権講座のひとつ、DV問題でした。民生委員の方がたくさんこられていたとか。男性もけっこう参加されてました。DVがなぜ起こるのかとか、その法的位置づけ、防止法に基づく関連の制度、なにより、加害者対応が何もないことや、加害者に対する適切なケアがあれば、加害者も脱暴力して行くことなど・・まあ、私がいつも語っている事を、自身の事を交えながら、笑いを取りながら話しました。それにしても、DVに関して、日本は意識が低く、法律や制度が不十分で、DVが減る様子はありません。なんとかしなくっちゃねぇ。ということで、私は加害者の脱暴力支援を行い始めて、もう十年以上。多くの男たちが何らかの変化を見せてくれるのを確認していますから、加害者は変わらないと言う言説が真実ではないと言う事がわかります。とはいうものの、ケアも何もなくて反省だけで変われるのはとても難しいと思います。やはり、加害者を理解し、脱暴力に向けてサポートできる支援者の存在は不可欠と思います。今日初参加された方も、誰にも語れなかった苦しみを切々と語られていました。これまで語れなかった苦しみが、これからは、何でも語れる楽しみに変わってくれるといいなと思いました。
2012/02/09
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今、東京駅前のバスラウンジです。昨夜のバスも特に辛い事もなく、そこそこ休む事はできました。ラウンジで簡単な朝飯食って、コーヒーも頂いて。しばし休憩。後少しして、電車で二時間ほど移動です。今日の講演は「DVについて」。多少援助に関わる人たちの研修と言った所。日本はDVも問題についてはまったくの後進国。国民の意識も低いし、法律や制度も未整備で中途半端。それをいいことに、当事者を食い物にする離婚ビジネスが大流行り。何も知らない当事者はあおられ、なかば騙され、しゃぶられる。気がついたらとんでもない所まで流されて、もう戻るに戻れないと言う事になりかねない。傷つき、生活基盤も、人間関係も壊れ果てて、憎しみと怒りを相手にぶつけて自分を正当化することでしか支えられないと言う、酷い状況になってしまいます。これは被害者も加害者も同じです。そのあたり、援助する側は、法律や制度が不十分で当事者の安全や安心が得られないということを理解し、悪の権化のような加害者像やかわいそうで弱い被害者像を妄想しないように、助言したいと思います。冷静で丁寧な聞き取り、巻き込まれず、的確な支援なりリファーなりをする必要があれば、当事者の未来をそこそこ明るくできる、と言う事を伝えたいです。先日来談されたカップルも、男性はまだDVに関する理解ができているようではありませんでしたが、女性はかなり冷静に判断できる方のようで、どこの女性相談に行っても役に立たなかった、彼も弁護士にあおられてたけれど、弁護士はこじらせるだけで家族問題を解決するには何の役にも立たなかった、と話されてました。彼女は賢い方だったから自分の意志が貫けて、私の所をネットで探しあてたけれど、多くの被害女性はいろんな相談窓口で、DV男は変わらない、逃げるしかない、何されるかわからない、と同じように言われたら、それを信じてしまうのも仕方ない事でしょう。ほんと痛ましい事です。ちゃんとした支援があれば、多くの加害者と言われる男たちも変化して行くのにね。離婚するにしても、傷つきを少なくお互いが納得できる修復的離婚も可能なのにね。無理矢理暴力的に家族を引きはがしても、安全も安心も確保できず、かえってリスクは高くなるだけなのに、日本の政治も専門家もセンセも、当事者の事をしらない素人ばかりだから、やるべき法改正ができず、リスクを高める逆行した法改悪を繰り返してきました。話はかわるけれど、ハーグ条約がらみで政府は批准に向けて、DVや虐待がある場合は子の返還を拒否する、なんて、被害者団体を気にした結論にしたようですが、日本政府にDVや虐待のまともな判定ができるはずがないのに・・・・笑っちゃいます。欧米でははるかに日本より厳しい且つ公正なDV虐待対応の法律や制度が機能しているのに、素人の日本人が法律を歪んで用いるのは笑止千万。欧米政府は、ハーグ批准だけでなく日本の引き離し問題、えん罪多発のDV問題をなんとかしろと、すぐに噛み付いてくるだろうねえ。ほんと日本の外交力はB級、人権意識はC級、ジェンダー意識は最低級なんだから・・・こまったもんです。せめて、困難に直面した当事者が一人でも傷つきが少なくて済むよう、私につながってほしいと願うばかり。嗚呼
2012/02/08
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今日は久々に心理学講座に出講。ユングの精神分析、投影法についてがテーマ。ユングの基本的な考えとしてある、集合無意識とか、抑圧された無意識の投影とかについて説明した後、セラピーの本質がどういうものか、私の経験も含めて説明しました。自分の抑圧された無意識に気づかないと、問題は他者の問題と認識しますから、解決がより困難になってしまいます。セラピーとしては、無意識の扉を開いて意識化して行く事で、(クライアントが)自分の中のパーソナリテイーを広げて行く事でしょうか。そうすることで、問題が解決されたり、問題が問題で無くなったりします。講義の中で私は私の無意識を意識化して行って、他者と私の境目が無くなる所まで受け入れているので、他者との葛藤が起きにくいとか、多様な選択肢を持てるので問題が起きにくいとか言う事をはなしました。で、こんな私は人に好かれやすく、また嫌われやすいということも。「スケベな私」と言ったとき、スケベを抑圧している人は私を嫌うだろうし、抑圧から解放されている人は私に好感を感じてくれるだろうし。ただ、投影法は主観をどう見るかなので、客観的な判断材料としては限界があります。絶対的なものではありません。技法としてあれこれ制約をつけたがる人も多いようですが、とどのつまりはクライアントとセラピストが、セラピーを進めて行く上で、都合良く使える道具にしかすぎません。その時々で状況に応じた使い方ができなくては、こころという生ものを扱う事はできないと、私は考えるけれど・・・エライセンセはそうではないんでしょうねえ。(笑)
2012/02/06
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私は昔っから走るのが苦手で・・というよりスポーツ全般がだめ、もちろんスポーツだけでなく、勉強もだめ、音楽もダメ、ダメダメダーメ。何をやってもダーメ。と言う訳で、立派なLD児だつたんでしょう。どれか人並みにできればよかったけれど何をやってもだめで、運動会も大嫌い。負ける競争をなんで人前でやんなくちゃならんのか。私の足は土踏まずがなくて扁平足というやつ。速く走れる訳がない。実際遅かった。走るだけでなくてバットを振ってもあたらないし、野球のルールもよくわからんし。こんな私が十キロ、二十キロを走れるなんてあの頃は考えても見なかった。だけど今は現実に走ってます。なぜかって?・・それは、無理をやめたから。闘いや競争から降りて、自分の体と相談するようになったからかな。人との争いではなく、自分の体の心地よい走り方を自分の体に聞いてみる事ができるようになったから。まあ、そのことに気づかせてくれた人がいるのだけれど、その人には深く感謝です。人体を構成する細胞には様々な形や大きさや機能があって、みんな違っているから人体ができるのであって、社会も同じ事、一人一人の性格も能力も千差万別。その人の能力は生まれ持ったものやその人の意思や体験も作用して出来上がります。人と比べる事にはさほど意味があるとは思えません。なのに。近代化された社会では、能力を測定され、評価され、序列づけられます。ほんとつまらない一面だけで人を比べます。私はそんな仕組みにノーと言い続けました。子どもの頃から。あれは小六のとき、国語の漢字テストを毎回ボイコットして白紙で出してました。獲得点数を棒グラフで表して競わせていたのだもの。魚住先生ですねえ確か。私は漢字を覚えようともしなかったし、私の棒グラフは止まったままでした。毎回零点だったもの。(爆笑)今から思えば、痛快痛快。よくやった。人と競わせて不安をあおり多少漢字を覚えても何になるっていうの。その心に染み付いた不安やら自信のなさ、人に対する不信感は一生拭えないんですからねえ。それくらいの事が小学生の私にわかるのに、大の大人が気がつかないなんて・・困ったもんです。ほんと、扁平足でよかった、LDでよかった、と確信する私です。やがて体と相談して体のメッセージのままに健康でそこそこの体力をこの年でも維持できるようになったんだものねえ。記憶力が悪い分、直感力や共感力は超能力的なものができたものねえ。
2012/02/05
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大津絵のタイルの張られた道標?近江神宮鳥居小関峠では山水が凍ってます昨夜のバスは隣席が空席でラッキー体を横にできたのでけっこう眠れました。朝六時半に事務所に帰り着いて、自宅には七時過ぎ。少しゆっくりして、十時から久々のランニングに。今日はほとんど一日仕事が入ってないので、なんか、数ヶ月ぶりの休日の雰囲気。なんかうれしくて、のんびり走って距離を伸ばそうとしました。十キロくらいまではそこそこのペースで走れましたが、十二キロほどから疲れが出始めて、16キロくらいからはふくらはぎがけいれんし始めました。えっぇーっ。なんでこんな距離でと不思議でしたが、とにかく筋肉がけいれんし始めて痛みます。仕方なく途中休みながらなんとか二十キロまでは走りました。25キロくらいはいきたいねと考えていたのに、休み休み二十キロが精一杯と言うのは、なんとも不思議です。こんなことは今までなかった事ですからねえ。二連ちゃんの夜バスで睡眠不足というのも確かにあるだろうけれど、こんなに酷い状態になるなんて、理由がもひとつわかりません。ほんと不思議です。
2012/02/05
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昨夜のバスは暖房が効きすぎてて、どんどん脱ぐけど暑くてたまりません。休憩時間に設定を変えてくれるよう、お願いしたらちょうどいい温度になりました。その間三時間・・辛かった・・・幸い、となりの兄ちゃんは小柄な人で、シートが狭い割に楽に過ごせて、二時半から五時くらいまで、うつらうつら仮眠する事ができました。六時前に東京についたけれど、バス会社の運営する待合室に直行しました。以前はマクドに入って時間潰してたけれど、マクドでは突っ伏して仮眠してると店員が起こしにきます。ラウンジでは仮眠しやすいように深めのソファがあったり、無料のドリンクもあったりして。なかなか過ごしやいすいです。私にとっては・・・感謝感謝・・
2012/02/04
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今夜はこれから夜バスで東京に移動です。夜バスは最近値崩れしているのか、随分値下がりしてました。最低の値段は片道2500円程度でした。私が買ったのは、この最低値段のバスではなくて、待合室のラウンジのある会社のバスです。それでも往復で6500円程度。以前は往復8000~9000円だったから、随分安くなってます。これが単に季節的一時的なものか、長期的な下落傾向にあるものなのか、私にはよくわかりません。夜バスは、どれもたいてい満席で、毎夜次々出発するバス待ちにたくさんの若者が集まります。どれだけの人数が夜バスで移動しているのか定かではありませんが・・。確かに新幹線で移動すれば楽なんだけれど、往復26000円というのは痛いです。四分の一と言う値段にはかないません。新幹線だとゆったり二時間半、夜バスだと七時間きちきち。四時間半の差としんどさと。この忍耐が二万円近くのコストダウンになります。とはいうものの、なんだか慣れてくると、狭いバスの連夜の移動もさほど苦にならなくなりました。そして私には修行として自分の身体的苦痛を如何に受け入れるかという時間に変わって行きました。やはりこう考えるのは私がMだからですかねぇ(笑)さて今夜のバスの座席の隣席は・・・でっかいにいちゃんだったら・・・こわいなぁ・・・いってきまぁす
2012/02/03
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このところやけに眠い。朝が起きられない。寒くてか夜半に目覚めたりする事が多いからか、眠りが浅くて夢見が多いからか、夜明けが遅いからか・・・睡眠時間が長くなってます。といっても七時間ですが。以前は4~5時間で六時間も寝れば充分すぎるくらいだったのに、最近は七時間も眠ってしまうことがしばしばあって、私もびっくり。冬用の布団出せばいいのだけれど、めんどうだというのと、寒いといってもさほど苦痛は感じないし・・・よく聞くのは、年寄りになると睡眠時間が短くなるということで、私も随分睡眠時間が短くなったなぁ、と実感してたものだから、いざ長くなると、不思議な感じ。まあ、生理的には睡眠中に成長ホルモンが作用して組織の活性化が起こるから、まあ睡眠が長くても悪い訳ではないので、特に心配している訳ではありません。ここ数日、朝トレをお休みしてますが、さすがにこの寒さ、早朝トレはトライする勇気がありませーん。昼間に走る時間があればいいのだけれど・・・・・と言う訳で、今日も早めに・・おやすみなさーい
2012/02/02
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ジュリアン・ジェインの「神々の沈黙」も睡眠剤として読み進んでいるけれど、今やっと半分くらいまできました。現在のような人間の意識がいつ頃、どのようにしてできたか、というテーマの大胆な仮説です。人は文字を持つ事で、記憶し概念を共有する事ができ、文明が発生する、ということと、共有される概念と自己像を組み合わせて自己概念を意識し、神の声という妄想の支配を受けなくなった、という事と。人が神の支配を受け、神の声に従っているうちは悩む必要はないけれど、神が不在になれば、従うべき神の声もなく、自身の行動は神以外の動機・・支配者の声・・シャーマンの声・・法律や倫理に従う・・・など、自身の行動を委ねる指針を求めます。要するに個々人は行動に意味付けを必要とするようになつたということ。正しい事をしなさい、法律は犯してはいけません。先生の指示に従いなさい。みんなに笑われる事はしてはいけません・・・etc合理性、一貫性、モラル、社会的評価など、と自己概念や行動が一致していればいいけれど、現実の自己が不一致な場合、動機が達成されなくなると言う現実が予測されるために、新たな行動をとらなければならないけれど、神の声はない訳だから、自身で考え判断しなければなりません。けれど、自身の判断は先述の様々な価値観によるものだから、答えは出ず、堂々巡りになってフリーズするしか無くなります。これを解決するのが、心理的依存でしょうか。酒で意識が弱まれば堂々巡りは止まります。依存相手に決めてもらえたら、自分は責任からは逃れられます。薬物で高揚すれば、荒唐無稽な判断もリアルに感じられて悩まなくて済みます。あるいは妄想の世界にはまり込んで再び神の声に従うか。私は半分神の世界に足を突っ込んでいるので、責任はすべて神に任せているし、判断も神まかせなので、まあ、悩む事はほとんどありません。昔はアルコールに依存して自分を支えていましたが。多くのクライアントは無意識に不一致を抱えていますから、その無意識の中のシェマをいったん脱構築しつつ、新たな自己概念を再構築して行く作業のお手伝いが私の仕事。そのために、身体の中に伝えられた様々な情報や神や宇宙のメッセージにクライアントが触れるのはラセピーにはとても有効のように感じる私です。こんな私ですから、世間の枠なんかには入りきらないですよねえ。(納得)そうそう、今度の四日、土曜銀座でワークです。午前は女ワークを午後は男ワークを行います。お気軽にご参加くださいね。
2012/02/02
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セクハラ裁判の中で原告は私が無資格ででたらめな仕事をしている、などの人格攻撃を繰り返します。私は臨床心理士でもないし、産業カウンセラーの資格も、キャリアカウンセラーの資格もありません。社会的に認知された資格がない・・・そう言う意味では、そのとおり無資格です。にもかかわらず、自信を持ってカウンセラーとして仕事をし、看板をあげているのもそれなりの確信があるからです。一般に、資格は権威が認定します。臨床心理士も含めすべて任意資格です。認定するのはそれなりの団体です。団体は背後に文部省だったり、学術団体だったりとかのいわゆる権威があります。けれどカウンセラー資格と言うものは今の所公的には何もなくて、資格がなくてもカウンセラーと名乗るのに法的に問題はありません。そのうち臨床心理士については国家資格と言う事になるのかもしれません。それでもそれはカウンセラー資格と言うものではありません。私はそれらの資格をことごとく拒否して、自分でメンズカウンセラーとして名乗っています。私がそうするのは、実はクライアントの存在があります。クライアントが回復し、いいカウンセリング結果である事を証明してくれます。クライアントの回復と言う事実こそが何よりの権威と私は考えます。立派な資格を持っていても、いいカウンセリングができなくては無意味です。何の地位も名誉もない、そんな裸の私だからこそ人の尊厳の真実を伝えられると考えます。権威や地位、それらは傷つき苦しむクライアントには、抑圧の一部にしかなりません。私が裸でもためらわず存在している事、この事実にクライアントは安心と安全を感じ勇気を自身のうちに見いだす事もできるのでしょう。私には無資格であると言う事の積極的な意味があります。へたに資格を持つ事でその意味を失うのは馬鹿げています。これからカウンセラーになりたいと言う方がおられたら、社会に適応してカウンセリングを飯のタネにしたいのか、クライアントの回復や成長のためにカウンセリングをしたいのか、その所をはっきり見定めて、もし後者なら、資格をとるために金と時間を使うのはやめた方がいいかもしれません。そんな方は時間と金を、私からの学びに使った方がはるかに有効と思います。本物になるには何年もかかりますが費用は、一桁あるいは二桁ほど安上がりになることは間違いなし・・ですよ、ほんと。魂のカウンセリング、世界で最先端のセラピーを行っている、と自負する私・・・妄想なんですけれどね(笑)・・妄想が世界を作るのだから・・私はためらいませんよ
2012/02/01
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