全3件 (3件中 1-3件目)
1

『空気頭・欣求浄土』藤枝静男(講談社文庫) 以前に一度、藤枝静男の小説は読書報告しました。 その時の私の感想の中心は『田紳有楽』という、これまた突拍子のない作品でしたが、『空気頭』についても少し触れていました。 ただそれは、一言で言えば、現代の私小説作家は攻撃的な内容になる必然があるんじゃないかという感想だったと思います。 それは今でも間違っているとは思わないんですが、ただ、『空気頭』という作品は、そんな簡単な構造のものではないと、今回再読して特に思いました。 例えば冒頭にこんな事が書いてあります。 私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う。 私は、ひとり考えで、私小説にはふたとおりあると思っている。そのひとつは、瀧井氏が云われたとおり、自分の考えや生活を一分一厘も歪めることなく写して行って、それを手掛かりとして、自分にもよく解らなかった自己を他と識別するというやり方で、つまり本来から云えば完全な独言で、他人の同感を期待せぬものである。もうひとつの私小説というのは、材料としては自分の生活を用いるが、それに一応の決着をつけ、気持ちのうえでも区切りをつけたうえで、わかりいいように嘘を加えて組みたてて「こういう気持ちでもいいと思うが、どうだろうか」と人に同感を求めるために書くやり方である。つまり解決ずみだから、他人のことを書いているようなものである。訴えとか告白とか云えば多少聞こえはいいが、もともとの気持ちから云えば弁解のようなもので、本心は女々しいものである。 私自身は、今までこの後者の方を書いてきた。しかし無論ほんとうは前のようなものを書きたい欲望のほうが強いから、これからそれを試みてみたいと思うのである。 (これは、閑話みたいなものですが、上記の文に示されている「私小説」の説明はとっても興味深いですね。「自分にもよく解らなかった自己を他と識別する」なんて表現には、もちろんわざと書いているんでしょうが、思わずにやりとしてしまいます。) 引用最後の段落に、これから「自分の考えや生活を一分一厘も歪めることなく写」すほうの「私小説」を試みると書いてありますね。 ところが、なるほどそうなんだなと思って読み進めていきますと、この先拡がっていく話は、一言でいいますと、とても信じられないような「強精剤」の話であります。 実は上記引用文のすぐ後に、これから書く「文体」について触れた部分があるのですが、そこには「酔っぱらいのクダみたいな文章の方が自分に適しているような気がしている。」と書いてあります。しかしそれがどんな文体かといえば、例えばこんな感じなんですね。 十数年前、私は妻や子供たちの可愛がっていた飼犬を殺した。人間から見て殺さねばならぬ理由はあったが、犬にはなかった。子供にそのことを告げると泣いた。 勿論誰にもやらせるわけには行かなかったので、自分の手で始末することにして硝酸ストリキニーネを牛乳にまぜて与えると、喜んでさも甘そうに飲みつくした。凝っと見ていると、二分ばかりたったころピクリとしたような身体の表情があらわれ、同時に、不審そうな、うるんだ眼つきをして私を見た。そして家に入ってその場を避けた私の耳に、ガタガタと懸命に小屋を引っぱる音と、鎖のすれる音と、低い唸り声とが聞こえてきた。二時間ばかりして行った時、鎖につながれたまま四肢をのばして扁平に硬直した彼の死体が、小屋の後ろのせまい間隙に転がっていた。 犬の死体を描写した最後の一文などは、懐にドスを呑んだような、ぞっとするクールな明晰な文体ではありませんか。 実は筆者は、お医者さんなんですね。眼科医でいらっしゃったようです。 この『空気頭』というタイトルも、眼球に管を突き刺して眼窩の奥にどんどん差し込んでいき、脳底にまで到達させてそこから頭の中に「空気」を送り込むという治療(というのか何というのか、まぁ、わけわかりませんがー)から来ているんですね。(ついでに書いておきますと、主人公はその治療を、眼球部に局部麻酔を掛けて自分で行うという、これもまた、なんといーますか、そーとーなものであります。) ともあれ、私の挙げた二つのエピソードからこの作品について解ることは、この作品は徹頭徹尾「嘘」ばかり書いているということではないかと思うのですが、どうでしょう。 「嘘」ばかり書くというのは、勿論小説にとっては最大の褒め言葉であります。 嘘を通して真実にたどり着くというのが小説の本来の理想型でありましょうから、小説内ではどんな角度から「嘘」をついても、それは全然問題ではありません。大切なのは、いかに読者をその嘘の中に引きずり込んでいくかということであり、その意味では、本作は、構造を十重二十重に作り上げた、極めてしたたかな作品となっています。 もう一作の『欣求浄土』という連作小説も、極めて本道的「私小説」的な書き出しから話は始まり、終末近くになって初めて、そのスリリングで複雑な構造が姿を現すという仕掛けになっております。 こんな一筋縄でいかない作品を書く作家は、近代日本文学には実はそんなにたくさんいらっしゃるわけではなく、既に亡くなっていらっしゃいますが、とても貴重な小説家であられたと、わたくしは思うのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.12.31
コメント(2)

『ある女の遠景』舟橋聖一(講談社文芸文庫) ……うーん、と、最近本を読むたびに何か唸っているような気がするのですが、ひょっとすると、今回も本の選択のポイントが少しずれているのかも知れません。 どーも、なんだか腑に落ちない、……いえ、腑に落ちないってのは、少しヘンですが、どこか違和感のある読後感に、この度もなってしまったんですが……。 こんな場面が出てくるんですね。 …昨日今日出来た仲ではなし、泉中に一言のことわりもなしに、アパートを引き払うということは、明らかに暴力沙汰である。少なくとも、常識を逸脱している。これが程度の低い匹夫匹婦のばあいなら、仕方もあるまい。維子のような女が、一季半季の雇人のするようなことを、恥かしくもなくやったところに、泉中の驚きと怒りをつくった。 本小説は昭和36年から38年にかけて、雑誌「群像」に断片的に発表された作品であります。だから現代小説ということで、舞台は昭和30年代くらいの日本ですね。 泉中というのが、50代後半くらいの二流政治家(文中にも同様な言葉が出てきます)で、20代前半の女性「維子」をアパートに囲っているんですね。 「昨日今日出来た仲ではなし」という表現は、実はこの泉中は、最初に維子の叔母の「伊勢子」という女性を愛人として囲い、伊勢子のところに遊びに来た9歳だった維子を膝の上に抱いてキスをするという事をしているんですね。 ところがキスされた維子が成人後、たまたま泉中に再び会う機会ができると、泉中は臆面もなく彼女に言い寄ります。 この言い寄り方が、まぁ、なんといいますか、こんなんです。 「然し、あなたの唇を最初に盗んだ花盗人は私だよ。一度盗まれたものなら、もう一度私に与えたっていいじゃないか」 このなんとも時代がかった厚かましい口説きに対し、維子は、あろう事か、こんなんになっちゃうんですね。 …維子はポロポロ、大粒の涙を流しながら、どうすることも出来なかった。彼が自分に接吻したい以上に、自分のほうでも、彼に接吻してもらいたいのだった。あのむかしの感覚の再生が、維子の心をかり立てる。それに抗すべき力はなかった。 というわけで、あっさり維子は泉中の愛人になるわけですが、維子の両親はこのことに反対するんですね。特に父親が猛反対します。 まー、娘が自分の年齢ほどの脂ぎった政治家の愛人になることに賛成する父親がさほどいるとはもちろん思いませんが、それに加え、上述の伊勢子とは彼の妹であり、そして伊勢子は実は、泉中の愛人になった後、原因不明の自殺をしています。 つまり父親にとっては、妹と娘二人が同じ男のどす黒い性欲の犠牲になる、ってところでありますかね。 そんなこんなで、たまたま維子の体調が悪くなったことを切っ掛けにし、父親が維子を説得してアパートを引き払わせた直後の描写が冒頭のものであります。 実は私は、この個所を読んでいて、「匹夫匹婦」じゃないのにという表現にあっけにとられたのであります。 えー、これは「匹夫匹婦」の話ではなかったのか。 男は世間の良識をなめきっているような二流どころの女たらし政治家だし、女は己の性欲にだけいたずらに正直な知性の極めて弱い軽薄娘だし、その上、その親父までが内弁慶でありながらプライドだけは高い軟弱者の事大主義者ときている、およそ感情移入の出来そうな登場人物がいない小説として、実は私はかなり苦労しながら読んでいたのでありました。 それに加えて、というか、本小説には和泉式部の伝記が突然あちこちに現れてきます。 これがまたなんといいますか、ちょっととってもわざとらしい。 和泉式部は夫がありながら、為尊親王、敦道親王に愛され、当時の宮廷随一のスキャンダラスな女性であったことは有名な話ではありますが、本作では彼女と維子を微妙にオーバーラップさせているんですね。 しかしねー、それってちょっと、ムリがありすぎませんかー。 まず時代が全然違う上に、かたや天皇の息子と、和歌においては紫式部や清少納言をも凌ぐ天才女流歌人の恋愛に、まー、「匹夫匹婦」の爛れた肉欲のオーバーラップですからー。 そもそも、自殺した伊勢子の愛読したのが『和泉式部日記』である、ってのもちょっとどんなリアリティなんでしょーかねー。 と、はっと気が付けば、そんなことはしないつもりでいたのに、ほぼ全編苦情の読書報告になってしまいました。 ……うーん、と、最近本を読むたびに何か唸っているような気がするのですが、ひょっとすると、今回も本の選択のポイントが少しずれているのかも知れません。 ……と冒頭に戻る。うーん、全く困ったもので……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.12.15
コメント(0)

『女ざかり』丸谷才一(文春文庫) 以前同作家の『裏声で歌へ君が代』の読書報告をした時も同様の感想が書いてあることに、今回本書を読み終えてそして少し本ブログの過去の文章を読み返してみて、気が付きました。 これは一体どういう事なんでしょうかね。 なんて書いてあるかと言いますと、えーっと、かなり失礼な書き方になってしまいそうでちょっと逡巡するんですが、よーするに簡単にかつ、何と言いますか、読んだ本について、読者はあらゆる感想を抱くことができる(ただし、「あらゆる」の部分については、以前村上春樹の報告をした時に述べましたが、全くの「あらゆる」とは、私は思っていません。まー、個人的なモラルとして)、という考え方に乗っかって言いますと、再読めは今ひとつ面白くないなー、と、まー、そんな申し訳ない感想であります。すみません。 しかしそもそも、そんな小説は、多分たくさんあるのでしょうね。 というか、もう少しじっくり考えますと私の場合、一冊の小説を読み終えれば、結構たくさんの割合で、もう一度後日読み直してみようかと思うみたいであります。 でも、おわかりのように、その「後日」は基本的に一向に訪れず、再読はあまり無い、と。 ただ、好みの作家については、再読三読の機会は結構偏って行われています。 村上春樹とか夏目漱石とか谷崎潤一郎とか太宰治とかがそれにあたるんですが、要は自分がフェイヴァレットだと思っている作家ですね。 で、丸谷才一は私としてはフェイヴァレットだと今まで思っていたのですが、うーん、ひょっとしたらそうじゃないのかしら。(こんな時の「かしら」なんて書き方は、モロに丸谷随筆文体の剽窃であるんですがねー。) しかしこれも以前どこかに少し書いたように思いますが、内田百けん(「けん」が出ません)が、生涯尊敬し続け、師の「遺毛」として鼻毛を持っていることを随筆に書いたら、少なくない人々から顰蹙をかったと、また別の随筆に書いていた夏目漱石の事を、晩年、もちろん座興でありましょうが、「五十知らずの漱石が」と言っていたそうです。 これは、漱石が四十九歳(満年齢で)で亡くなったことを指しているんですね。 しかし、改めて考えてみたら、漱石は五十歳にもならずにあんな、ある意味年よりじみたことを、なおかつ、登場人物としてはほぼ「青年」と言っていいような人物を使って書いていたんですねー。 うーん、何となく、どこが凄いかよく分からないながら、やっぱり、凄いですねー。 これも別件の連想ですが、村上春樹も、いまだ小説の登場人物は「青年」ばかりですね。 このことについては批判もあるようですが、でもこちらの方は、ご存命中のお方であります故、今後の展開を固唾を飲んで見守りたいものであります。 さて、一応あるか無きかの本線に戻りますが、例えばこんな部分ですが……。 三十を過ぎたころ新劇の役者と関係が生じ、これは二年近くつづいたが、切符を押付けられるので厭気がさしてゐたところ、別の女がよく切符を引受けてくれると自慢したのがきつかけで、縁を切つた。それからしばらくして、哲学者の豊崎と知りあひ、哲学の本など読んだことがなかつたせいか言ふことにいちいち感心して、つい恋仲になつた。もちろん最初から何となく気に入つてはゐたけれど。 どうですか。うまく抜き出せているかどうかよく分からないのですが、私が注目したいところは最後の「もちろん最初から何となく気に入つてはゐたけれど」の個所で、何と言いますか、もちろんとっても上手でありましょうが、見方によるとなんだか、「余裕綽々」という感じを、ふと覚えるんですがねー。 作家が作品を、「余裕綽々」で書いてはいけないのかと考えますと、もちろんそんなことはないですよね。 例えば、中年以降の谷崎潤一郎なんて、まさにそんな書きぶり(『吉野葛』とか『少将滋幹の母』とか、もう少し遡ってあの名作『春琴抄』だって言われればそんな感じがします)でありました。 でも、やはり谷崎の諸作品とは、どこか違いますね。 どこが違うんでしょうかね。 うーん、うまく言えませんが、ふと私は思いだしたことがありました。 こんな事を私が思い出したのは、関連があるのかないのか、あるならかなり失礼なことかなとも思うのですが、思い出したのは、芥川の文章であります。 誰であったかよく知らないのですがある評論家が、芥川の小説を「うますぎる」と評したことに対して、芥川が、「うますぎる」とは例えば技巧が先走っている等のことであり、作品としてはうまくないことをいっているのだ、と書いていたことであります。 ……うーん、どうしましょうか。 ここはまぁ、ペンディング、ということで……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.12.01
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1


![]()