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『海峡の光』辻仁成(新潮文庫) 私はこの文庫本を、古本屋さんで見つけました。筆者については少しは知っていたのですが、裏表紙の文章に、芥川賞受賞作と書いてあって、私は芥川賞受賞作にも少々興味があったので買ったんですね。で、その時もなんとなーく、変なカバー表紙の絵だなあと思っていたのですが、読み終えて改めてその絵を見ると、なるほど、内容にふさわしいといえばふさわしい、やはり何とも気持ちの悪い変なカバー絵になっているな、と。 一言でいえば、この小説は、少し気持ちの悪い変な小説です。 まず、読んでいて、よくわからないところが、かなりありました。それは、ある部分の描写や説明がよくわからないというのではなくて、展開そのもののつじつまが合わない、あるいは、普通に読むにはあまりに説明がなさすぎるというレベルのわからなさであります。 しかし、読んでいると途中からなんとなく気が付くんですね。筆者はわざとそんなお話を書いているんだと。 遡っていけば、わざとだとなぜ気が付くかというと、そもそもの作品の設定が、説明ができない構造になっているからであります。 刑務所刑務官が「私」という一人称で、本当の主人公「花井」はそこの受刑者です。 そこでは、刑務官は不必要に受刑者に話しかけないし、受刑者同士も不必要な会話をしてはならないことになっています。つまり、作品本文の中にほとんど会話文がありません。 こういった設定では、主人公「花井」の行動は(見て)描けても、心理は描けません。そして、「花井」の行動と心理(これは推測するしかないのですが)の乖離(非論理性)こそが、多分、本作のテーマでありましょう。 例えば、一般的な非論理的な行動というものを考えてみます。 我々(人間)の、理屈が付かない非論理的な行動というものは、実は日常的にけっこうたくさんありますよね。ついカッとなってとか、そんなつもりはなかったのについふらふらととか、後になって後悔する、過ちや犯罪系の行動に多いですね。 また、お酒やある種の薬によって、あるいは病気のせいで、理性的なものが弱っていた、そんなケースもあると思います。 でも、そんなケースは、このようにまとめてしまうと、それなりに納得がいきます。 非論理的な行動だけど、一定の論理が成立するんですね。 しかし、私が本作について理解したのは、本書は、そういったケースではない、いわばもっと「純粋な」非論理的行動についてのケーススタディではないかということであります。 でもそんな作品は、例えばシュールレアリスムの文学として他にも書かれてはいないか、そんな気が私もしました。 で、少し、じーと考えたんですね。 まー、もの知らずなわたくしの知識ですので、そうでもない例もあるかとは思いますが、いわゆるシュールレアリスム文学に描かれるのは、主人公を取り巻く状況がそうなのであって、主人公の心の動き自体がシュールなのではない、と。 本作のシュールさは、むしろ絵画的な感じ、例えばダリやポール・デルヴォーの絵のような感じがします。 さて、では我々読者は、そんなお話を、どういったものを手掛かりに読んでいけばいいのでしょうか。 主人公の心理描写がなく、それを類推させるものもなく、いえ、それを類推させるはずの言動(「言」はきわめて少なく)からの類推がほぼできない(わたくしには非論理的すぎてどうも理解できない)という「読書環境」であります。 んんーー、と、まぁわたくしは、少し困ったんですね。 で、ちょっと考えたのですが、ふと、こんなことに気が付きました。 実は本書を読んでいて引っかかったのは、上記のような構造的な不可解と、もう一つあったんですね。 それは、いきなり出てくる、それまでの用語とは異なった、かなり違和感を感じさせる「古臭い」漢語であります。 例えば、下記は「私」が高校時代を振り返った時の女性関係の話の部分ですが…。 負けず嫌いの真知子と交接を持った後も、君子を手放したくなくて彼女の気を引くような振る舞いを取り続けた。 下記は、「花井」について「私」が考えている部分。 ただ、あの温和な顔つきの裏側には、依然として人倫の道を超える企みが隠されている気がしてならなかった。 いかがでしょう。どちらも短い抜き出しなのでよくわからないかもしれませんが、前文の「交接」、後文の「人倫」の漢語について、私は前後の文の流れとまるでトーンの合わない奇妙な(取ってつけたような)用語だと思いました。 極め付きは、物語のほぼラストシーンのこの部分です。 シャベルで土を掘り起こし、そこに植物の種を万遍なく蒔く花井の姿からは、超俗した者の間雲孤鶴な静けさのみが滲み出ていた。 この四字熟語の用い方って、何よ? ……例えば、喜劇のせりふや落語などで、いきなり文脈を越えて不似合いな漢語表現を出してくるというのは、一つの笑いのテクニックとして割とよく用いられているように思います。(今は亡き桂枝雀師匠は、得意の英会話をいきなり落語の中にぶち込んで、しばしば大爆笑を買っていました。) また、流行歌の歌詞にも時にその技法に似たものが用いられ、その相応しくない言葉の部分に、一種異化効果的な「華やかさ」を引き出したりします。 ……「流行歌の歌詞」。……確か筆者は、ロックシンガーで……。 さて、なんとなく私の理屈の落としどころが見えてきたかなと思いますが、ひょっとしたら、本書理解の手がかりについて、筆者は、我々読者にこうアドバイスしているのかもしれません。 そんな、額にしわを寄せて理屈を探して読んでいても仕方ないですよ。例えばポール・デルヴォーの、あのヌードの女性が静謐の町を飛び跳ねる不思議な絵は、そんな不思議な世界のものなのだと、そのまま興味津々に味わえばいいんじゃないですか、と。 いえ、わたくしの妄想でありますが……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.01.25
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『さようなら、ギャングたち』高橋源一郎(講談社文芸文庫) 筆者高橋源一郎氏については、私は拙ブログで再三とっても好きな作家と述べています。本書も、単行本が出版されてほぼ直後に買いました。裏表紙に、オーバーオール・ジーンズをはいた若き日の高橋氏の写真があったのを覚えています。 覚えていると書いたのは、その本はすでに我が家の本棚にないからです。まー、売ったか棄てたんでしょうねー。 と、やや無責任なことを書きましたが、私は時々発作的に本棚の整理をするんですね。どんな本を整理するかといえば、これも、まー、その「発作」時に残した本こそが我が文学的評価においてベストである、つまり、棄てた本は、我が文学的評価において本棚の空間の一部を占めるに及ばないと考えた、……と、まどろっこしい書き方をしてしまったのは、大概いつも、書物大整理イベントが終わった後、なぜ私はあの本を捨ててしまったのだろうと、激しく反省するからであります。 さて、そんなこんなで本書が手元にないものですから、図書館で借りてきました。で、読みました。今までにたぶん、2.3回は読んだいると思うのですが、やはり今回もそれなりに面白かったです。 ただ、なぜ面白かったのかについて、やはり少しはかつてより成長した読書力を示さねばならぬという気が、まー、起こりました。そんなつまらないものを起こす必要は、実はなかったのかもしれませんが、このような文章を書いている以上、私としては、それしか手掛かりはなく、ぼつぼつぼそぼそと以下に書いてみます。 まず本書が、いわゆる「ポストモダン」小説である、と。 これはウィキなんかにもそう書いてあります。ところが、この「ポストモダン」というものの説明が、かなりアバウトな頭の作りの私には読んでもよくわかりません。そもそも私は思想とか哲学とかとは没交渉の人生をずっと送ってきたんですね。(と、最近はちゃっかり居直ったりしています。) 仕方がないので、ウィキの説明中、これは本書の特徴といえそうだなー、と思われる表現をいくつか拾い出すにとどめました。こんな感じ。 大きな物語への不信・モザイク・遊び心 挙げようと思えばまだ挙げられるでしょうが、とりあえずここまでにしておきます。 ところがえらいもので、この3つの短い表現だけで、本作のほとんどは説明されてしまうんですね。ここは、これです。こちらはこれに当たります。あれはそれですね。……。 で、私は少しあきれました。 しかし、そんなことはないだろう。たった三表現だけで、本書の魅力がすべて説明しきれるというのは錯覚だろうと、思い直しました。で、考えました。 確かに、レッテルはそれで貼れたとしても、それはその内容を全く説明していない、と。 うーん、これも当たり前ではありますねえ。 たとえば、これはウィスキーです。これも、こちらも、あれも、別々の会社が製造したウィスキーです、と、決して間違ってはいないことを言っても、個々のウィスキーの一番大切な部分についてはなにも説明していないのと同じであります。 で、あれこれ考えまして、最後にたどり着いたのは、結局最初の問いの堂々巡りになりますが、私にとって本小説の一番好きな部分はどこだ、とぱらぱらと読み直すと、ふたつ、出てきました。 SBとの愛の生活・キャラウェイの話 じーと睨んで、そのあと私なりにまとめてみますと、結局のところ本書は、この二つの明らかな意味と構造のあるストーリーを、詩についての様々な逸話による説明と共に、多くのモザイクの中に紛れ込ませて描いたものである、と。 まずそのモザイクに描かれているものは、固有名詞と隠喩(「ギャング」は最大の隠喩でしょう)の氾濫・言葉の誤選択・文脈のすり替えなどであり、そして、中心にある二つの物語とは、みずみずしさと圧倒的な哀感の漂う物語らしい物語である、と。(そんな意味でいえば、高橋作品は「大きな物語」は否定しても、物語性そのものについては全く否定していないことがわかります。) さてこうまとめてみると、結局、高橋作品についてよく言われる特徴の読書報告になってしまいました。 しかし、本小説は、筆者のデビュー作であります。ということは、小説を書き出した時点から筆者はすでに、いつまでも色あせない、完成度の高い独創的なフォルムを持っていたということでありませんか。 やはりそれは、驚くべき才能でありましょう。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.01.11
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