TVドラマ「駅路」を観た。
昔読んだ松本清張の短編で題名を思い出すのもやっと、忘れていたから今日再読してみた。清張らしいなじみのストーリー。
銀行を定年退職した夫(小塚)が大金を持って蒸発してしまった。捜索を願い出る冷たそうな美人妻。家庭の不幸を抱えながらも捜査を続ける定年間近の刑事(呼野)は執念を燃やす。影に女あり、事件ありと。
「何の不足もない、平和な余生を楽しんでもいいのに」失踪の夫が思いめぐらしたのだろう「ゴーギャンのようにに生きたい!」と
ゴーギャンはいったという「人間は絶えず子供の犠牲になる、それを繰り返してゆく、それでどこに新しい芸術が出来、どこに創造があるか」に呼野も共鳴した。
人生終点に近い駅路に立った時、「ゴーギャンは南の島で絵を描いた」小塚には 「好きな女性がいた」
そんな松本清張の短編に向田邦子脚本がこころに沁みるものを醸してくれたと思う。
それは向田邦子が事故で突然亡くなりセンセーションを引き起こし、しかも華々しく関連本が出版され、いまなお魅力的なその生きかた暮らし方が現代の女性のお手本ともてはやされ、そのなかの残された彼女の美しい写真の数々が秘めているものの影響。
その美しい写真の数々はそこに愛をかぎとり、おどろきと哀切に浸される。
このTVドラマの最後の場面、湖に浮かび散らばる愛人の女性の美しい写真が印象深い。あたかものその後にわたし達が向田邦子の写真を見たように。それがこのドラマでも鍵になって琴線にふれた。
人生線路をひた走って最終の「駅路」に立った時、何をするのか?どう思ったらいいんだろうか。
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