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ヴェネツィア本島南東のラグーナ上、リド島の手前にある「アルメニア人のサン・ラザロ島」は、島全体が、アルメニア教会のメキタル会の修道院です。 18世紀の初めに、アルメニア人の修道院になる前は、9世紀頃からハンセン病患者や、巡礼者、貧しい人々のための病院がありました。 ハンセン病の原因となる細菌は、古来から湿度の高いアジアにあり、中東を超えアジアへも行き来していた、ヴェネツィアの商人たちが感染することもあり、他の地域よりもこのための病院が比較的多いのです。 14世紀半ばには、聖ラザロ(ハンセン病患者や行き倒れた人の守護聖人)に捧げられた現在の修道院が建てられています。 1601年に、病院がヴェネツィア本島に移転された後は、島は放棄され、難民状態にある修道会の、一時的な避難場所となっていました。 1717年、ヴェネツィア政府は、アルメニア教会メキタル会の創立者である、ピエトロ・マヌーク修道士を中心とする、アルメニア人修道士たちに、この島を提供します。 それ以前の1701年に、オスマントルコ支配下で宗教的迫害を受けて、当時ヴェネツィア帝国領であった、モドーネ(現ギリシャ、ペロポネソス半島)に逃げて来ていました。そこで、メキタル(ピエトロ・マヌーク)は、現地の監督長官であるヴェネツィア人、アンジェロ・エモや、後に共和国総督となるモチェニーゴなどの有力人物と知り合い、彼らの安住の土地への道が開けたのでした。(その2に続く)
2008/01/29
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1284年に鋳造されはじめたドゥカート金貨ですが、流通の主な貨幣はそれまでもヴェネツィアで鋳造していた、大銀貨と小銀貨と呼ばれるものでした。銀の供給量が減り、金と銀の位置が逆転して金貨が主流になっていったのです。 15世紀半ば頃、ドゥカート金貨はゼッキーノ金貨と呼ばれるようになり、貨幣としての信用と名声はもちろん、「ゼッキーノ」という言葉は、「純金」の同義語にもなったのでした。 またヴェネツィアは、ヨーロッパの中で「国債」特に、「長期国債」を考えついた最初の国であると言われています。「モンテヴェッキオ」と呼ばれる、長期国債の利子は5%で、ヴェネツィア人だけでなく、外国の王族や貴族の間でも、この長期国債は人気がありました。何よりも価値が安定していたため、確実な投資や貯金の対象になっていったのです。 こうして、度重なるジェノヴァやトルコとの戦争による、大きな出費にもかかわらず、ヴェネツィア共和国は他のどこの国よりも、安定した財政運営を行っていました。 貨幣や国債の発行などに関する、その財政と政治運営にヴェネツィアの本当の「ヴェネツィアらしさ」が集約されていると言えます。つまり、最新の流行溢れるきらびやかな都、誇り高く法王にも「ノー」という大胆不敵な国は、実は地道な努力と知恵によって築き上げられた「堅実」な国であったことが、「ゼッキーノ金貨」ひとつにも体現されていると思うのです。 それは水に浮かんでいるような、あぶなげな印象のこの街が、水面下の何千万本の「杭」で支えられている、堅牢な土台を持っていることにも似ているでしょう。(写真はゼッキーノ金貨。左側は聖マルコにひざまづく総督、右側はイエス・キリスト)
2008/01/23
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ヴェネツィア最初の造幣局は、9世紀にリアルト地区に造られていました。13世紀にサンマルコ広場に移され、写真の建物は1540年頃、ヤコポ・サンソヴィーノの設計で建てられたものです。 現在イタリアで、「ゼッキーノドーロ」(ゼッキーノ金貨)というと、ボローニャで行われる「ゼッキーノドーロ児童歌謡音楽祭」のことになります。古くは、『黒猫のタンゴ』など、この音楽祭の入賞曲が、幼児番組の先進国である日本でも歌われ、有名になったものもいくつか出している、児童音楽祭の名前です。 しかし、昔ヨーロッパで、「ゼッキーノ金貨」もしくは「ドゥカート金貨」と言えば、ヴェネツィア共和国の貨幣で、それは確実さの代名詞とも言える国際通貨でした。金の純度、均一の重量は、あらゆる鑑定の基準点であり、ゼッキーノ金貨で支払うことは、即「信用」を意味し、ヨーロッパだけでなく、アフリカやアジアでも歓迎され流通していたのです。 金貨や銀貨の鋳造では、時間とともにその「純度」が落ちてゆくことは、昔はいわば当たり前でした。その時の政府の不安定さと比例していたからです。ヴェネツィアより30年ほど早く、フィレンツェが鋳造していたフィオリーノ金貨も、江戸時代の慶長小判(1601年、純分86.8%)なども例外ではありません。 これに対して、ヴェネツィアの「ゼッキーノ金貨」は、重さ3.56g、純分99.7%の24金の金貨を、1284年10月31日、ジョヴァンニ・ダンドロ48代目総督の時から、1797年(ヴェネツィア共和国終焉)ルドヴィコ・マニン120代目総督の時代まで、驚くべきほどの安定性で鋳造し続けたのです。 時代が様々に変わっていく中で、もちろんヴェネツィアもあらがい翻弄されながら、500年以上変わらぬ貨幣の「質」を維持する政治体制をつくった、このことにヴェネツィアというかつての国の、真骨頂が実はあるのです。(その2に続く)
2008/01/18
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リアルト橋のすぐそばにある「ドイツ人商館」は、元々1228年に建てられたもので、このリアルト地区は当時、すでに国際都市となっていたこの街の、経済活動の拠点でした。地階は倉庫で、大運河から直接舟をつけて商品が出し入れ出来るようになっていました。 1300年代にはドイツ人(オーストリア、ハンガリー、フランドル人なども含む)のための商館として使われ始めていましたが、火災により消失したため、1505年から1508年のわずか3年間で、5階建て部屋数200以上の建物につくり直されました。 先日「トルコ人商館」でも書いたように、政府は商取引の多い外国の商人に、倉庫兼営業所であり住居でもある拠点を提供することによって、関税のための取扱高、品目のチェックから、習慣や政治動向までを調査していたのです。 どこそこで戦争が始まった、エジプトからの船が海賊に襲われた、などの情報はもちろん、ヨーロッパ上流階級の女性の流行まで把握する必要がありました。 ヴェネツィアは、まだよそに「外交官」の概念さえないときから、各国に大使を派遣して治安や政治動向などの情報収集に当たらせていました。外国を頻繁に行き来するヴェネツィア商人(しばしば貴族階級)にも帰国後の各種の報告を義務づけていたのです。 こういった外国人用の商館は、今でいう商工会や貿易振興会のような面もあり、彼ら外国の商人にとってもメリットがあったのでした。 外国人を規制、監視する目的だったとは言え、「トルコ人商館」との決定的な違いは、ヴェネツィアとドイツの関係が非常に良好だったことです。商品だけでなく、文化や芸術、思想の交流がこの界隈を中心におこなわれていました。 かつて大運河に面したファサードに描かれたジョルジョーネとティツィアーノのフレスコ画は今はなく、中央郵便局としてひっそりと使われている現在の内部からは、昔日の活気に溢れていただろう空気を想像するのは難しいものがあります。
2008/01/12
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サンタルチア駅から大運河をゆくと、右手側に見えてくるのが「トルコ人商館」と呼ばれている建物です。このヴェネト-ビザンチン建築の館は、1227年ペーザロ家の始祖、ジャコモ・パルミエーリによって建てられたもので、その後1381年ヴェネツィア政府によって買い上げられました。キオッジャ戦争での貢献に対する報償として、フェラーラ候に与えるためでした。その後、何度か持ち主が変わった後、1621年ヴェネツィア政府が、トルコ人のために商用の拠点として指定します。 そのため、館内部の噴水のある中庭やベンチ、大理石の階段や柱など、貴族の住居であり迎賓の場としての様相は取り払われ、上階はトルコ商人用の宿泊施設、商談用の部屋、地階は倉庫になりました。また、広い部屋はモスク(イスラム教寺院)となり、ローマ時代の遺産でイスラム人達の習慣になっていた熱気浴の風呂、バザール(市場)なども設けられました。 トルコ人達はヴェネツィアに、主に蝋、オイル、羊毛、なめし革、1700年代になるとタバコも持ち込んでいました。ヴェネツィア政府は、それらの商品をすべてヴェネツィアで完売しなくてはならないなど、トルコ商人と商品を規制、管理するために商館を貸与していたのでした。しかし、オリエント方面との交易が次第に衰退し、1838年には誰にも使用されなくなり館は廃墟となりました。 1858年から1869年に、オーストリア政府の援助により、同じマテリアルで全面修復が行われました。1924年から「自然史博物館」となり、動物の剥製、甲殻類や恐竜の化石の他、鰐の先祖といわれる「オウラノサウルス・ニゲリエンシス」のみごとな骨格(高さ3.6m、長さ7m)が展示されています。
2008/01/07
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元旦の昨日、ヴェネツィア本島の北側のラグーナに出て初日の出を待ちました。7時50分、サン・ミケーレ島とヴェネツィアとの間に、2008年の太陽が昇り始めました。光の迫力とその昇る勢いに、出てくるのは「すごい」か「きれい」とかの平凡な言葉だけです。自分の表現の貧しさもさりながら、言葉で分析する余裕さえ与えない、圧倒的な存在感がそこにあるからでしょう。 こちらでは、初日の出がどうだった、今年は曇ってて残念だった、などと話題になることはありません。イタリア人も、山好きのヴェネツィア人も自然の美しさは十分感じているのですが、彼等にとって太陽は、あくまで太陽であり日光です。「お日様」や「お月さん」などと、「様」や「さん」付けで呼んだりする、擬人法的な日本人の愛着を、欧米では「こどもじみた」とか「幼稚な」感じ方として受け取られがちです。 イタリア人の知人が、ぼやきながら話してくれました。彼はある日バスで帰路につく途中、車窓からとても美しい夕日を見たそうです。まわりの雲を、オレンジから赤紫のグラデーションに変えながら沈んでゆく夕日に釘付けになっていました。バスがカーブした後も、首をひねって見ていると、隣の婦人は、何をそんなに見ているのだろうと気になったのでしょう。同じ方を見て、ただの夕日だと知り、すぐに向きを戻し、逆にその「ただの夕日」をひたすら見ていた知人をいぶかし気に見たそうです。『バスに乗ってる誰もが、信じられないくらい無関心だったんだ。でもきっと乗客が日本人なら、多くがあの夕日に心を動かされたと思うよ。』と。そうかもしれません。少なくとも、朝日や夕日、月や花を愛でる心は「こどもっぽい」のではなく、それ自体が感受性という文化であるからだと思います。
2008/01/02
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