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法王庁からの戒告が届いた日から、19日後の1606年5月6日ヴェネツィア政府は「神以外の、地上の誰であれ、我が国の尊厳を傷つけることはできない」と宣言し、領土内の聖職者に対し、法王の通達を無視し、宗教行事は通常通り行うこと。通達の張り紙を見た者は、直ちに破り捨てること、を命令しました。 この19日間、ヴェネツィア共和国が何をしていたかというと、戦争に備えての、物資の調達をしていたのでした。法王の勅書を無視することは、法王庁に対する宣戦布告も同然であったからです。 さて、このヴェネツィア共和国の理論的な後ろ盾には、もちろんサルピがいました。彼はまず、「神を崇めるのに、法王の許可は不要である」とし、「法王庁の権限は、教会法によって制限されているはずである。しかし、今回のヴェネツィア共和国に対する措置は、その乱用にあたる。これは、あらゆる混乱とスキャンダルの元であり、ひいてはキリスト教精神の危機にもつながる重大な問題であり、明白な教会法違反である」と法王庁を非難しました。 サルピの理論は、支持者からはさらなる賞賛を得、反対に法王庁からは怒りを買いました。ヨーロッパ各国はというと、オランダは、明確にヴェネツィアの支持を表明。狂信的カトリック国スペインは、法王側。ドイツ、フランス、イギリスは、曖昧な態度もしくは、ヴェネツィアよりの姿勢でした。 1606年9月、サルピの仕事に満足したヴェネツィア政府は、年俸を倍の400ドゥカーティに昇給することを決定します。こう書くと、大企業やVIPの利益を守るために、契約で雇われた有能な弁護士のようなイメージになってしまいますが、決してそうではありません。 神学者として、またキリスト教の信仰を持つ者の理想と信念に基づく理論が、ヴェネツィアという国の誇り高い姿勢と一致していたのです。その共通点は「人間の尊厳」と言い換えてもいいかもしれません。 キリスト教の原点である、福音書の教えに戻った上で、教会のあらゆる世俗性(昇進、財産、権力など)を取り払い、霊的な関心だけが唯一最大のモチベーションであるのが彼の理想とする教会の姿でした。その慈悲の中にこそ、宗教の神髄があるのであって、形式を重んじること、法王庁の認可、恩赦をとりつけることは、本質からははずれているとしました。教会が本来の誠実さを取り戻し、本当の意味で人々の心の支えになるような宗教が広がってゆくことを、彼は強く望んでいたのです。 1606年10月20日、サルピは3人の弟子とともに、ローマ法王庁に召喚されますが、サルピは、身の安全が保障されていないとして、これを拒否。年が明けた1607年1月5日、これによりサルピらは破門されます。(その7に続く)
2008/06/28
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1591年、ヴェネツィアに戻ったサルピは、研究に没頭し、異端裁判についての本を執筆、出版します。しかし、気鋭の神学者としてもはや名の知られた彼は、司教など高位の教会関係者から依頼された、いくつかのややこしい係争を常に抱えてもいました。 その頃ヴェネツィアとローマ法王庁の関係は、二つの事件をめぐって険悪なものになっていました。ヴェネツィアの自国運営の方法と法律に、ローマ法王庁が強い不快感を表していたのです。(以前「ヴェネツィアとイエズス会(その3)(2007/12/12)」の記事で、この二つに事件に触れました) それは、教会財産に対する規制法(市民は、ヴェネツィア政府の許可なしに、一定以上の財産を教会に贈与してはいけないという法律)と、重犯罪をおかした聖職者二人を、ローマの宗教裁判所に送らずに、自国の法律で裁いたこと、の二点です。 ローマ法王庁にとってヴェネツィアは、以前からずっと一度叩いておきたい国でした。人文主義、宗教改革、啓蒙思想などという言葉の出回るずっと昔から、ヴェネツィア共和国は、ローマ法王庁の「神の権威」を笠に着た「脅し」が通用しない場所だったからです。 禁書に指定されたはずの本が、ヴェネツィアでは街角の本屋で普通に売られていたし、ガリレオのような「危険な」科学者達も、この街の知識人のサロンで歓迎されていました。「いまいましいヴェネツィア人め。好き勝手なことをしよって!」当時の法王パウロ5世(1552-1621)はそう言ったに違いありません。 1605年頃よりヴェネツィア政府は、サルピにアドヴァイスを求めるようになります。そして、これは早晩大きな政治的衝突になると読んだヴェネツィア政府は、自国の法的、宗教的立場の正当性を、論理的に専門的な見地からかためようと、パオロ・サルピにヴェネツィア政府の法学顧問となることを要請します。 サルピは、承諾の前にある一つの条件を出します。その条件とは、「ヴェネツィア政府は、私を死ぬまで守ること」というものでした。 自分も教会法学者として信念をもって戦うから、 政府も現在の観点を最後まで貫いてくれ、つまり、「腹をくくってくれ」という意味だと思います。 ヴェネツィア共和国が政治的妥協等で、立場を微妙に変えるようなことなく、一枚岩でのぞむ覚悟の有無を見極める必要があったのでしょう。自分が任されようとしている仕事が、学者、修道士としての生命だけでなく、まさに命そのものを危険にさらす熾烈な戦争であることをサルピはよく自覚していたのです。 法王庁は1605年12月、教会財産規制法の法律を撤廃すること、罪を犯した聖職者を法王庁に引き渡すこと、この二つをただちに実行するようにという、警告にあたる勅書を出します。これを受けたヴェネツィア政府は、さる要求は一国の独立国の土台を揺るがす重大な問題であり、内政干渉であると反発します。 ここで法王庁は、枢機卿会議を開き、ヴェネツィア共和国に「戒告」を出すことを決めます。「24日以内にこの二つの件が解決されない場合は、破門も視野に入れた聖務禁止令に処す」この文書がヴェネツィアに届いたのは、1606年4月17日のことでした。(その6に続く)(写真は、当時の第90代ヴェネツィア総督レオナルド・ドナ1536-1612)
2008/06/20
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今回も、知の巨人パオロ・サルピが生きた時代背景を少し書いておきます。 ローマ法王庁の、〈我々が認めないものは、すべて「邪」である〉という、絶対主義的なやり方、「信仰」「善行」の解釈の仕方(特に資金集めのための)に対して、各地の知識人が批判するようになります。 寄進や寄付、その他の「善行」ではなく、「信仰心」だけで人々は救われるべきなのに、救済が売買されているとして、ルターや他の宗教家、神学者たちが非難していたのです。 科学の分野でも時代は変わりつつありました。万能レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)が登場し、コペルニクス(1473-1543)が地動説を発見し、コロンブス(1451-1506)の新大陸発見などもあり、それまでの古典崇拝(ギリシャ、ローマ学説の盲信)ではなく、自然現象を観察することで、新しい事実を発見しようとする姿勢がでてきたのです。 一方、保守カトリックの牙城、ローマ法王庁は、ルターのような、新しい信仰の解釈を危険思想とし、提唱する人間が「過ちだった」と認めない場合は破門に処しました。異端審問を強化し、該当されるとする人物を、投獄や火刑にし、書物は禁書に指定するなど、弾圧を徹底させていきました。 法王やカトリック教義の批判をしたわけではない、科学者たちも「異端視」されていました。コペルニクスは教会からの圧力を恐れ、存命中は地動説の理論を発表しなかったと言われています。ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)も、宗教裁判で地動説を捨てることを誓わされました。(ローマ法王庁が誤りを認め、ガリレオの名誉回復がなされたのは、前法王のヨハネ・パウロ2世時の1992年のことでした) さて、パオロ・サルピは、カトリックの修道士であり神学者、法学者として、徹底的にローマ法王庁、法王の姿勢、解釈を批判した上に最先端の科学者でもありました。またローマ法王庁にとっての「問題児」であるヴェネツィアを完全に擁護し、法王に「ノー」と言ったのですから、睨まれない訳がありません。(写真の絵は、ガリレオの宗教裁判の様子 クリスティアーノ・バンティ画1824-1904)その5に続く
2008/06/14
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パオロ・サルピの後半生を書く前に、14-15世紀のヨーロッパの状況に触れておきましょう。 14世紀初頭から、ヨーロッパの人口は増加していきますが、食物生産量はそれに伴わず、穀物の価格上昇をまねきます。貧富の差がさらに著しくなり、各地で、貧困層による、暴動や蜂起が頻発しました。それにペスト(黒死病)の蔓延が追い打ちをかけ、大きな社会的不安が広がっていました。 人間の意志だけではどうにも出来ない、未曾有の疫病や天災を前にした時、いつの時代も、人々が頼りたくなるのが宗教というものです。 それらの人々の、せめてもの心の平安に一役買うべき教会は、機能不全どころか、背景にある社会不安を利用する形で、堕落、腐敗していたのです。聖職者による賄賂はあたりまえ、窃盗や殺人などの重犯罪も珍しいことではありませんでした。 全ヨーロッパの教会を統括すべきローマ法王も、権力の座を手にした後は極端な縁者贔屓の人事で、法王の一族が主要なポストを独占し潤う、愛人や子供を設けるのも普通のことになっていました。 そういった時代背景に登場したのが、マルティン・ルター(1483-1546)に代表される宗教改革運動です。プロテスタント誕生の機となったルターの、ローマ法王庁への批判のポイントはいくつもあったのですが、とりわけ徹底的に非難されたのが、サンピエトロ寺院建設費用確保のための、免罪符の大量発行でした。 ローマ教会は、「天国」という場所への予約席を取り扱う、特約代理店と化していました。教会に寄進をするという「善行」を行うことによって、過去の罪が償われ、大小の罪悪感は一掃され、天国行きのビザがもらえる(購入できる)のですから、人々は喜んで寄付や財産の贈与という「善行」を積みました。 「地獄の沙汰も金しだい」とはまさにこのことですが、お客は満足、代理店は大繁盛でこんないい商売はありません。オーバーブッキングやクレームとも無縁です。「ビザ」をもって出発した人は、二度と戻っては来ないからです。(その4に続く 写真はローマ、サンピエトロ寺院)
2008/06/06
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