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この美しく精巧な時計を作り上げたジャンカルロ・ライニエーリと、その父ジャンパオロが制作終了後に「他の場所で、同じ時計を二度と作れないように」と「ヴェネツィア政府により、目玉をくり抜かれた」という伝説があります。 これがもし本当のことなら、こんな酷い話はありません。傑作を作ったがゆえに、その腕を疎まれ、職人生命と人間としての尊厳を奪われるなんて。 しかしこれは、後々の噂好きの人々が作り上げた、あくまで「お話」であって、事実ではないでしょう。 まず、「ライニエーリ父子は、その後家族でこの時計塔に住み、時計の調節、修理を任された」という記述があります。 傑作といっても、絵画や彫刻と違って、歯車が複雑にからみあった、しかけのある「機械」です。 さらに、時計は風雨や雷などにもさらされる外にあるのでメンテナンスは不可欠だったでしょう。 専門の知識と技術が求められる修理を「失明した」状態で任されたとは、まず考えられません。 もう一つの理由として、ヴェネツィア共和国は「技術立国」であったことです。 魚と塩しか資源のない、この国の豊かさは、様々な分野の徹底した職人達の技術で成り立っていました。 モザイクやガラス職人、土木建築、造船、印刷技術から船乗りや商人まで、あらゆる方面の妥協しない高い技術と発想が、国内外の信用と名声になり、国に富をもたらしていたのです。 この伝説のようなことがもし起これば、職人達は直ちに反発し、優秀な技術を持つ者は、国外に流出し、結果国の衰退につながることを、政府側は十分承知していたはずですから。 彼らも、国の権力が一人の人間や、一家族に集中しないよう、工夫を重ね技を高めた、政治家という職人達でした。 「二つと同じ傑作を作らせないために」失明させるなどという、権力者のとんでもないエゴは、独裁政治の下では起こっても、ヴェネツィア共和国ではリアリティーが、ないと思うのです。
2008/03/29
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ヨーロッパの街角の要所には、必ずといっていいほど古い大時計があります。 内部は複雑なしかけの、外側は芸術性の高い装飾をもつ時計は、15~16世紀には、富と繁栄の象徴だったからです。 サンマルコ広場にある、この時計塔も、ヴェネツィアが国としてもっとも栄華を誇っていた時期に作られました。 1493年、ヴェネツィア政府は、エミリア地方で時計職人として名声を得ていた、ライニエーリ家に時計の制作を依頼します。 時計塔の場所は、リアルトへと続く道に通じているサンマルコ広場北側で、海から船でヴェネツィア入りした際も、正面に見える位置に決定されました。 このため、それまでこの場所にあったビザンティン様式のアーケードが取り壊され、1496年、時計塔の建設が始まりました。 1499年2月1日、完成した時計の文字盤は、直径4.5m、金とブルーのエナメルで星と12宮が散りばめられた大変美しいものでした。 文字盤の上部は、聖母子像の左右に、ローマ数字で時間が、アラビア数字で5分毎の時を告げています。 その上には、ヴェネツィアのシンボル、翼のあるライオンの像があり、隣には当時の総督アゴスティーノ・バルバリゴの像もあったそうですが、1797年のヴェネツィア共和国崩壊時に、破壊されたということです。 最上部には、高さ2.6mのムーア人のブロンズ像が、決まった時刻に鐘を鳴らしています。(その2に続く)
2008/03/22
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「ダリオ館」悲劇の続きです。 70年代の犠牲者は、ロックグループ「WHO」のマネージャークリストファー・ランバートでした。 「ダリオ館」は、すでに「呪われた館」として有名になっていましたが、彼はこれまでの出来事を、くだらない迷信としてまったく気にかけませんでした。 「悪いことは言わないから、あそこは止めた方がいい」という忠告にも「そんな、前近代的な!」と、一笑に付しました。 しかし契約直後、ロンドンの家で階段から転落して亡くなってしまったのです。 80年代の挑戦者は、ヴェネツィアの実業家で、姉とともに移り住んだとたん、彼は破産、姉は事故死してしまいます。 次のイタリア人テノール歌手が、買い取りに向け、契約のためヴェネツィアに赴こうとしたところ、交通事故に遭い、命はとりとめますが、契約は白紙となります。 そして最後のオーナーは、投資家ガルディーニで彼もまた破産した上、贈収賄容疑のスキャンダルに巻き込まれ、自殺しています。 そして15年以上の沈黙の後、この「ダリオ館」をアメリカ人企業家が購入し、再び光が当てられようとしています。 15世紀にこの館が計画される以前、この場所は墓地だったという話があり、そこに建てたのが、第一の過ちである?とする説などもありますが・・・。 ゴシックの建築様式で、ファサードはルネサンス風の少し傾斜しているこの美しい館に、「滞留した負のエネルギー」のようなものがあるのでしょうか。 だとしたら、今回の変化で新しい風と光が入りそうした「負の連鎖」のようなものが、一掃できるといいのですが。
2008/03/15
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アカデミア橋を過ぎ、グッゲンハイム美術館近くに「ダリオ館」(カ・ダリオ)はあります。 1487年に、ヴェネツィア政府の評議員であったジョヴァンニ・ダリオの依頼で、建築家ピエトロ・ロンバルドが手がけた、ルネサンス様式のファサードをもつ、色大理石がとても美しい館です。 この館は2年ほど前、アメリカ人企業家によってたったの800万ユーロ(約12億8千万円)で落札されました。 大運河に面している上、この建物の歴史的価値を考えると、市価の、おそらく10分の1程度の値段だったと言えるでしょう。 長い間買い手がつかず、素晴らしいルネサンスの宝が15年以上ホコリだけを住人とし、最近ようやく決まった取引は、破格の安さであったのには、訳があります。 「ダリオ館」の、代々の所有者のほとんどが、なぜか悲惨な死を遂げている、ヴェネツィア一の「呪われた館」と言われているからです。 1494年にジョヴァンニ・ダリオが亡くなった後遺産として、娘夫婦に受け継がれます。 しかし、夫婦は破産し、夫が刺されて亡くなった後妻は自殺し、息子はクレタ島で戦死します。 その後アルメニア人の富豪がこの館を買い取りますが直後に破産。 次の持ち主は、不倫スキャンダルを苦にして愛人とともにこの館で自殺。 次のアメリカ人の購入者は、ホモセクシャルであると噂されることに耐えきれず、メキシコに逃避しますがそこで愛人が自殺。 次のイタリア人オーナーは、この館で同棲していたクロアチア人の18歳の若者に、この館で殴殺されこの若者は殺人の後ロンドンに逃亡しますが、そこで何者かに殺されています。 悲劇はまだ続きます。(その2に続く)
2008/03/08
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サンマルコ広場の南からラグーナを望むと、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島があります。 この島にあるサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の鐘楼は、遠くから見ると、サンマルコの鐘楼と色合いが似ていて見間違えることがありますが、サンマルコの鐘楼は角錐で高さ97m、サンジョルジョのそれは、円錐で高さは63mです。 987年に、聖ジョルジョに捧げられた教会が建てられます。1443年には、コジモ・ディ・メディチ(1389-1464)が、政敵によりフィレンツェから一時追放されていた時、この教会で逗留しました。 そのもてなしを感謝して、図書館を建てています。 その後16世紀から17世紀にかけて、パッラーディオやロンゲーナといった当時の一流建築家が、増築や修復を任されています。 鐘楼は、1442年の嵐で崩落し、再建されましたが、1774年に再び倒壊しています。 現在のは、1791年に建替えられたもので、鐘付き部屋の部分にはイストリア産の白い大理石がつかわれています。 1951年には、企業家で郵政大臣もつとめたヴィットリオ・チーニが、この島に文化財団を設立しました。 飛行機事故で亡くなった息子を記した、ジョルジョ・チーニ財団は、文化、歴史、芸術、音楽、演劇、ヴェネツィアの歴史など多岐にわたる活動を支援する拠点となっています。 木製の、鉛と銀でメッキされた、鐘楼のてっぺんの天使の風向計は、1994年の落雷で焼け落ち、その後修復されています。
2008/03/01
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