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リー・レミック、かの有名なオカルト作品「オーメン」での母親役をあなたは覚えているだろうか。恐怖に驚いてカッと見開いた大きな瞳が印象的だった。オーメン「オーメン」は6月6日午前6時に誕生し、頭に「666」のアザを持つ悪魔の子ダミアンを巡る物語だ。アメリカ人外交官であるロバート・ソーンはローマの産院で、死産した我が子の代わりに、同時刻に誕生した孤児である男子を養子として引き取り、ダミアンと名付けた。しかし、その子は悪魔の子だった。愛児の正体を知った母親キャサリン(リー・レミック)の戦慄、恐怖はいかばかりだっただろうか。ダミアンの正体を暴こうとする者たちが、次々と殺される。避雷針で串刺しにされる神父、ガラス板で首を切断されるカメラマン・・・、思わず目を背けたくなるシーンの連続だ。リー・レミックは1935年12月14日、マサチューセッツ州クインシーの生まれ。父親はデパート経営のビジネスマン、母親は女優。アクターズ・スタジオで学び、1953年にブロードウェイ・デビュー。1957年、エリア・カザンの「群衆の中の一つの顔」で映画デビュー。酒とバラの日々1962年、アルコール依存症に陥る主人公の妻を演じた「酒とバラの日々」でアカデミー賞にノミネートされた。1966年には舞台『暗くなるまで待って』でトニー賞にもノミネート。70年代に多くのB級作品に顔を見せていた。76年空前のオカルトブームの中でヒットを飛ばした「オーメン」での母親役は印象深く、恐怖に驚いてカッと見開いた大きな瞳と、華奢な顔立ちの表情は、この作品の象徴となった。彼女のその他出演作品には「メドゥーサ・タッチ/恐怖の魔力」「刑事」「或る殺人」などがある。 1991年7月2日、享年55歳の若さで天国への階段を登って行った。私生活では二度の結婚をしている。
2010.05.30
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ボリス・カーロフ、彼は怪奇映画のトップスターと云えよう。勿論かの有名な「フランケンシュタイン」である。[1931年]フランケンシュタイン手術台に横たわったフランケンが命を吹き込まれ、動き出す場面、人造人間よろしくうごめきあるく怪奇場面などを思い出す方も多いのではないかと思われる。怪奇モノは私の好きなジャンルではないが、ボリスのフランケンは結構よく見ている。あなたは何本見ていらっしゃいますか?彼は1887年11月23日、イギリスのロンドンに生まれる。1909年にカナダに移住。カナダ、アメリカでの演劇活動を経て、1919年に映画界入り。サイレント映画の時代を脇役として多くの映画に出演して過ごしたが、堅実な演技力を徐々に認められ、1930年頃には個性派俳優としての好評価を得るようになっていた。彼は戦前のホラー映画に多く出演し、ロン・チェイニー、ベラ・ルゴシと共に「戦前の三大怪奇スター」として知られる。特に世界中の誰もが「フランケンシュタイン」と聞いて思い浮かべる、面長で頭部が平たく、額が張り出した無表情なモンスター役を最初に演じた俳優だ。それ以降も多くのホラー映画に主演した、この分野最大の伝説的スターである。 1931年、ユニバーサル映画製作の「フランケンシュタイン」のモンスター役に起用された。この役は「魔人ドラキュラ」(1931年)で怪奇スターとなったベラ・ルゴシに配役される予定であったが、ルゴシが台詞のない怪物役を拒否したため、カーロフが代役に指名されたものであった。同作は世界的にヒットし、ホラー映画史上不朽の名作となった。そして、重厚なメイクの奥から、怪物の恐怖と人造人間の哀感を表現したカーロフもまた、世界に知られる怪奇スターとなった。このモンスター役があまりに印象的で存在感が大きかった為、創造者である博士の名フランケンシュタインが、モンスターの名前と混同されるようになってしまった。翌1932年にはミイラ映画の元祖『ミイラ再生』に主演。フランケンシュタイン・モンスターは言葉をしゃべらない怪物役であったが、この映画ではグロテスクなミイラ姿は冒頭のみで、全般では人間の姿に復活した古代の高僧イムホテップ役を貫禄豊かに演じた。素顔で台詞をしゃべっても演技力と存在感が充分であることを示して、怪奇トップスターの地位を更に不動なものとし、更に多くの映画に主演した。第二次世界大戦後も怪奇映画の大御所格として、アメリカのみならずヨーロッパやメキシコの映画にも出演、晩年まで安定した俳優活動を続けた。彼の出演作品には「ミイラ再生」「フランケンシュタインの花嫁」「フランケンシュタインの館」「虹を掴む男」などがある。 1950年代末以降の怪奇プームでは既に老齢に達しており、さすがに大きな活躍はなかったが、戦後の怪奇スターであるヴィンセント・プライスやクリストファー・リー、更には若手時代のジャック・ニコルソンらとも共演し、大いに存在感を示した。最晩年に近い1968年にも、ピーター・ボグダノヴィッチの監督デビュー作「殺人者はライフルを持っている!」において、自身を投影させたかのような往年の怪奇俳優役で印象的な名演を残した。1969年2月2日、享年81歳で死去。私生活はどうであったか、詳細は不明だ。
2010.05.28
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[直筆サイン] (映画 エクソシスト) リンダ・ブレアリンダ・ブレア、1971年公開の「エクソシスト」で悪魔にとりつかれた12歳の少女を覚えておいでだろうか。少女の首が180度回転する衝撃のシーンには度肝を抜かれた人はさぞや多かっただろう。上の写真を見るだけでぞっとし、肌が粟立つ感じがするようだ。この映画は悪魔ばらい師と悪魔の壮烈な死闘を描き、世界中が恐怖で氷ついたオカルト映画の金字塔である。 リンダは少女リーガン役で迫真の演技を披露し、アカデミー助演女優賞にノミネートされた。エクソシスト彼女は1959年1月22日、ミズーリ州セントルイスで生まれた。子役としてキャリアを始め、1970年に映画デビュー。約600人の中から1971年公開の「エクソシスト」で悪魔バズズにとり憑かれた少女リーガン役に選ばれる。この作品でゴールデングローブ賞 助演女優賞を受賞、アカデミー助演女優賞にノミネートされた。1977年には続編にも出演。出演作品には「エクソシスト2」「裸の十字架を持つ男」「エアポート'75」「戦慄の夏」「チェーンヒート」などがある。 肉体的に成熟した80年代、「チェーンヒート」(1983年)のヒット等でセクシー女優としてのキャリアも開拓した。しかし、それ以降は伸び悩み、作品にも恵まれず、1985年公開の「ナイト・パトロール」ではゴールデンラズベリー賞ワースト主演女優賞を受賞する。私生活では1977年に麻薬所持で逮捕された。Linda Blair World Heart Foundationというチャリティ団体を設立。ベジタリアンでもある。彼女はまだ51歳、これからだろう。
2010.05.26
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ダーク・ボガード、彼の演技で印象に残るのはなんといっても「ベニスに死す」であろう。これはまさにルキノ・ヴィスコンティの退廃の美の究極の一篇と言うべき作品である。ベニスに死すヴェネツィアに療養にやって来た音楽家アッシェンバッハ(ダーク・バガード)は滞在先のホテルで美少年タッジオ(ビョルン・アンドレセン)に出会う。少年に魅了された音楽家は毎日のようにタッジオ一家を追いかける。美を信奉する音楽家の破滅に至る道程を延々と描いたこの作品、ダーク・ボガートも演技にさぞや戸惑っただろうと思われる。表情だけで演じるという難しい役をこなした彼は、役作りについて「死刑囚のように辛かった」と云ったそうだ。少年とは言葉を交わすこともなく、付かず離れず少年の動向を見守るだけで映画は進行していく。作曲家グスタフ・マーラーの「交響曲第5番」が劇中ふんだんに散りばめられ、大作曲家マーラーを主人公のモデルにしていることを匂わせている。サハラ砂漠から熱風シロッコが吹きつけ、コレラが流行し始めるこの街で、アッシェンバッハは惨めな死を迎えるのだ。海に立つ美少年を遠望しながら・・・。これは果たして芸術作品なのだろうか。正直言って私には理解しがたい作品の部類に入るだろう。ダーク・ボガートは1921年3月28日、イギリス・ロンドン・ハムステッドで生まれた。本名、デレク・ファン・デン・ボガール。父親はオランダ人でタイムズの編集者、母親は元女優・マーガレット・リーヴェン。美術学校で舞台美術などを学び、1939年にはロンドンの舞台で裏方として働いていた。ある時、俳優の一人が急遽出演出来なくなったため代役として舞台に立って俳優としてのキャリアをスタートさせた。しかし同年、第二次世界大戦に従軍、ベルゲン・ベルゼン強制収容所に辿り着いた最初の連合国将校の一人でもあった。また公式命令により戦争画を描き、そのうち二点は大英博物館に保存されているという。大戦終了後の1947年に再び俳優として活動を始め、舞台出演が高い評価を得て、同年映画デビュー。以降イギリスを代表する名優として活躍した。1963年の「召使」と1965年の「ダーリング」で英国アカデミー賞を受賞。ハリウッドから誘われ続けたが、アメリカ映画は「わが恋は終りぬ」一本のみ。イギリス・フランス・イタリアなどヨーロッパ映画で活躍した。上記以外では、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「地獄に堕ちた勇者ども」「ベニスに死す」や「愛の嵐」などが有名。 1958年の映画「風は知らない」では日本の女優・谷洋子と共演した。ボガードは長い間マネージャーのアンソニー・フォーウッドと同居し、一度も結婚しなかったため、ゲイであると噂されていた。ボガード自身は常に、フォーウッドは単なる友人関係にあると語っていた。また、「わが恋は終りぬ」で共演した女優のキャプシーヌと交際していたことがある。その他、彼の出演作品には「唇からナイフ」「わたしのお医者さま」「二都物語」などがある。 そして1999年5月8日、彼は享年78歳で天国に迎えられた。
2010.05.24
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アヌーク・エーメ、彼女の魅力の核はけだるい横顔と物憂げな視線にひそむ大人の女の色香にある。「モンパルナスの灯」で魅せたモジリアニ夫人の深い陰影のある演技はとても魅惑的だったと思う。モンパルナスの灯彼女は1932年4月27日、フランスのパリで生まれた。両親はともにユダヤ系の俳優。1947年、14歳の時にアンリ・カレフ監督の「密会」で映画デビュー。1958年の「モンパルナスの灯」ではアメデオ・モディリアーニの妻ジャンヌ・エビュテルヌを演じ、その美貌で世界的な人気を博した。その後、フェデリコ・フェリーニ作品などで活躍した。1966年に、クロード・ルルーシュ監督のロマンス映画「男と女」でヒロインを演じ、ゴールデングローブ賞を受賞した。また、アカデミー主演女優賞にもノミネートされた。男と女男と女2その他、出演作品には「8 1/2」「甘い生活」「キング・オブ・キングス エピソード1」「メランコリー」などがある。 その後、1980年には"Salto nel vuoto"でカンヌ国際映画祭女優賞を受賞した。プライベートでは、俳優のアルバート・フィニーを含め、4回の結婚歴がある。彼女は今年78歳、健在である。
2010.05.22
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ヴィットリオ・ガスマン、彼の名をおぼえておいでの方はいらっしゃるだろうか。イタリア映画の名作「にがい米」で、警察に追われる泥棒のワルテルを演じていた俳優だ。にがい米この映画では当時18歳の肉感的なシルヴァーナ・マンガーノの魅力が前面に出て、ガスマンはさほど話題にならなかったように思う。その頃、まだ若かった私はマンガーノの肢体ばかりに目がいき、ただただ圧倒されていたように思う。主人公シルヴァーナ(シルヴァーナ・マンガーノ)は、踊りの得意な泥棒ワルテルと出会い、悪党と知りながら洗練された魅力に引き込まれていく。そして、ワルテルの愛を得ようとして、悪事に手を貸してしまうのだ。悲劇的な最後を迎えるとも知らず、言葉巧みにワルテルに誘い込まれて行くシルヴァーナ。ヴィットリオ・ガスマンは確かに適役だったと云えるだろう。彼は1922年9月1日、イタリア・ジェノヴァの裕福な家庭に生まれ、ローマの演劇学校で学ぶ。1942年にミラノで舞台デビュー。1946年に映画デビューし、ヴィットリオ・デ・シーカ、エットーレ・スコラ、ディノ・リージ等の作品で幅広く活躍した。主な出演作品には、「戦争と平和」「デザート・オブ・ファイアー」「美女の中の美女」「星降る夜のリストランテ」などがある。 また、チャールズ・ヴィダーやリチャード・フライシャー作品などアメリカ映画にも出演した。息子のアレッサンドロ・ガスマンは俳優となった。結婚は3回、シェリー・ウインタースとも短いながら生活を共にしている。2000年6月29日、77歳で没した。
2010.05.20
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ジュリエッタ・マシーナ、彼女の素晴らしさは「道」のジェルソミーナに尽きる。大道芸人ザンパノ(アンソニー・クイン)を嫌いながらもくっついて歩く知的障害者の彼女。道化の化粧をしたジェルソミーナの顔の下に深い悲しみを宿した姿は、見るものの心を抉るようである。これは聖なる心を持った女と野獣のような男が織りなすフェリーニの傑作だ。サーカス団の綱渡り芸人イル・マット(リチャード・ベースハート)がジェルソミーナに云うセリフにこんなのがあった。「この世の中にあるものは何かの役に立つ。たとえばこの石。どれでもいい、こんな小石でも何かの役に立っている」「自分なんかいない方がいい」と自己否定の言葉を吐くジェルソミーナを諭す場面だ。ザンパノをからかったイル・マットは後に彼に殴り殺されるのだ。そのショックでジェルソミーナはふさぎこむようになり、ザンパノは眠っている彼女を残して去っていく。ニノ・ロータの名曲「ジェルソミーナのテーマ」は物悲しい旋律で全編を貫いている。これはもう見事という他ない。彼女は1921年2月22日、イタリアのボローニャで生まれた。文学を学んでいたが演劇に転向、ローマ大学で学ぶ。1943年、ラジオに出演していた時、そのラジオドラマの脚本を書いたフェデリコ・フェリーニと出会い、同年結婚。映画初出演はロベルト・ロッセリーニ監督作品の「戦火のかなた」。その後「道」などのフェリーニ作品だけでなく幅広く活躍したが、やはりマシーナの魅力はフェリーニ作品、特に「道」の知的障害を抱えた女性大道芸人ジェルソミーナ、「カビリアの夜」の娼婦カビリアなど人間、とくに弱い(立場の)愚かな女性の内面を見事なまでにスクリーンに表現しえた演技と個性(決して美人でプロポーションも良いといえないが、小柄で愛嬌のある顔立ち)にあった。カビリアの夜1957年の「カビリアの夜」でカンヌ国際映画祭 女優賞を受賞している。1970年代以降、長く女優活動から遠ざかっていたが、1980年代に「ジンジャーとフレッド」などで達者な姿をスクリーンに見せてくれた。ジンジャーとフレッド彼女の他の作品には、「崖」「魂のジュリエッタ」「白い酋長」などがある。 フェリーニとは1993年フェリーニが病死するまで連れ添った。マシーナが肺癌で他界したのはフェリーニの死から5ヶ月後の1994年3月23日のことであった。
2010.05.18
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フレッド・マクマレイ、「アパートの鍵貸します」の彼を覚えておいでの方はいるだろうか。大きな会社で出世を夢見る男バクスター(ジャック・レモン)が、念願の昇進を果たした理由、その訳は自分の部屋をホテル代わりに上司の妻子ある部長に貸したためであった。部長(フレッド・マクマレイ)は離婚をエサにエレベーター・ガールのフラン(シャーリー・マックレーン)と密会する。自分の思いを寄せるフランが浮気の相手と知ったバクスターは寒空の下で震えながらヤキモキ・・・。挙句、部長は妻に浮気がばれ、家を出てフランと結婚する気になるが・・・。彼は1908年8月30日、イリノイ州カンカキーで生まれた。ヴァイオリニストの父からヴァイオリンを習い、5歳の時にはステージで共演した。将来はジャズ奏者になるのが夢で、大学を中退した後、シカゴの楽団にサックス奏者として加わった。その後、ロサンゼルスで楽団に入って歌手も兼ねて出演するかたわら映画のエキストラなどしていた。歌唱力が認められ、カリフォルニア・カレッジアンズのグループの一員としてブロードウェイのミュージカルに出演。1934年にパラマウントにスカウトされ、1935年に「輝ける百合」でトップスターのクローデット・コルベールの相手役を務める。1930年代後半から1940年代にかけてミッチェル・ライゼン監督の作品に多く出演。1950年代後半からは明るい二枚目の役どころで一連のディズニー映画の家族向けのコメディーに活路を見出す。コメディーを中心に人気を博した俳優だが、ビリー・ワイルダー作品の「深夜の告白」や「アパートの鍵貸します」では殺人に手を染める保険外交員や浮気している会社の上役を演じ、それまでのイメージとは全然違う役柄で印象を残す。その後は1960年に始まったテレビシリーズ『パパ大好き』で典型的なアメリカのよき父親を演じ、ドラマは大好評を博しシリーズは12年も続いた。1954年に女優のジェーン・ヘイヴァと結婚。1978年に引退。浮き沈みのあまり無い長い人気と、賢明な投資で成功しハリウッドでも最も裕福な市民の一人といわれた。彼の出演作品には他に、「ケイン号の叛乱」「フラバー うっかり博士の大発明」「絞首台の決闘」「奇跡の鐘」などがある。 1991年11月5日、肺炎の為、カリフォルニア州サンタモニカにある聖ジョンズ病院健康センターにて死去。享年83歳だった。
2010.05.16
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ジョアンナ・シムカス、彼女の魅力は清純な美貌と挑発的のボディのアンバランスにある。その中性的、少年的、妖精的魅力に多くのファンは魅了されたに違いない。1967年公開の「冒険者たち」は、そんな彼女の代表作であろうと思う。パリで出会った男女三人の夢と冒険が描かれたこの映画はフランス青春映画の金字塔である。冒険者たち 前衛芸術家のレティシア(ジョアンナ・シムカス)はパリでカーエンジニアのローラン(リノ・ヴァンチュラ)、飛行気乗りのマヌー(アラン・ドロン)と知り合う。「気分転換が必要だな。旅行がいい」「俺たちと一緒に?」「どこへ?」「当てて」「赤道近くだ。日陰でも気温は16℃」強烈な太陽の日差しが降り注ぐアフリカの海。1艘の船の上で、若い娘と男二人が海水をかけあって子供のように無邪気にはしゃぐ。一攫千金を夢みた財宝探し、そして、思いがけぬ悲劇。潜水服を棺にして海中深く沈んで行ったヒロイン・レティシアの姿は今も瞼に浮かんでくる。永遠の美であろうか。彼女は1943年10月10日、カナダ・ノバスコシア州のハリファックスで生まれた。1960年代に活躍。「失われた男」で共演したバハマ・アフリカ系の俳優シドニー・ポワチエと1976年に結婚し、女優を引退。現在はインテリアデザイナーであるという。ポワチエは、ナイトに叙せられたので、彼女は「レディ・ポワチエ」と呼ばれることになった。二人の間には娘が二人おり、そのうちのシドニー・ターミア・ポワチエは女優となった。主な作品としては、「若草の萌えるころ」「オー!」「夕なぎ」「離愁」などがある。 彼女は現在66歳、映画に出ることはもうないだろうが、いつまでも元気でいて欲しいと思う。
2010.05.14
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ロバート・ライアン、彼の名は西部劇の傑作「誇り高き男」で今も記憶に刻みつけられている。映画の内容はこうだ。テキサスから運ばれた牛の集積地カンザス州の町フラットストーン。発展する町に開店したサルーンにやってきた保安官のキャス(ロバート・ライアン)はイカサマ賭博師をみつけ銃撃戦になる。挙句、頭部に傷を負ったキャスはそれ以来一時的な失明状態に陥るようになってしまう。以前キャスといざこざのあったサルーンの主人バレットは殺し屋を雇ってキャスをつけ狙わせる。不穏な雰囲気に怖気づいた保安官補は辞職、キャスは二挺拳銃のカウボーイ・タッドを雇う。だが、彼はキャスのことを父親の仇と考えていた。哀調を帯びた口笛に乗せた、スリー・サンズの演奏による同名主題歌は日本でも大ヒット、若かった私も口笛を吹いて映画の余韻に浸ったものだった。名誉と誇りのために命を賭ける孤高の男、そして戦いの場で目がかすみ、見えなくなる不運。彼の命は風前の灯火・・・。彼は1909年11月11日、イリノイ州シカゴに生まれた。父親は建築会社の重役だった。アカデミー・ダートマス・カレッジではスポーツ選手として活躍、特にボクシングでは4年間カレッジ・ヘビー級チャンピオンだった。卒業後はカウボーイ、水夫、モデル、セールスマン、借金の取り立て屋など職を転々とし、その後はハリウッド・マックス・ラインハルト・シアトリカル・ワークショップで演技を学び、1939年に舞台デビュー。翌年、端役として映画デビューし、ブロードウェイで経験を重ね、1942年にRKOと契約した。1949年にロバート・ワイズ監督の「罠」で主人公のボクサーを熱演する。私生活では赤狩りに真っ向から反対するなどリベラリストであった。1962年に超大作「史上最大の作戦」にて政治的にタカ派であったジョン・ウェインと共演した際、スタッフは政治の話を持ち出さないように、かなり気を遣ったというが、本人たちはさほど気まずい関係では無かったという。その他、彼の出演作は多数ある。主なものに「最前線」「ワイルドバンチ」「プロフェッショナル」「バルジ大作戦」「浜辺の女」などがある。 後年はUCLAのシアター・グループに基金を設けるだけでは飽き足らず、自らカリフォルニア州に無宗派の私学校を設立するなど、後進の指導にも熱心に取り組んだ。晩年は愛妻とほぼ同時にガンを宣告される不幸に見舞われ、1972年に妻が亡くなった後を追うように翌年に死去、1973年7月11日、享年63歳、早すぎる死であった。
2010.05.12
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フランソワーズ・ロゼー、彼女の映画で記憶に残っているのは、ジュリアン・デュヴィヴィエの名作「舞踏会の手帖」である。舞踏会の手帖未亡人クリスティーヌ(マリー・ベル)は、ある日20年前の手帖を見つける。それは彼女が舞踏会にデビューした時の相手の名前を記した手帖だった。彼女に愛を囁いた10人の男たち、彼らは今どうなっているのだろうか。クリスティーヌは”青春探し”の旅に出る。そこで彼女は息子の死を信じようとしない狂気の母親(フランソワーズ・ロゼー)と出会う。ロゼーの演じる錯乱した母は生と死の狭間にあって鬼気迫る見事な演技を見せてくれた。ロゼーは1891年4月19日、パリに生まれた。父は伯爵、母は有名なコメディアンであった。不器量で不器用だからという母の反対に背き、コンセルヴァトワール(Conservatoire)を卒業して舞台に立ち、オデオン座、オペラ座に出ていた。第一次世界大戦直前にはリュシアン・ギトリーの巡業団に加わりロシアへも行った。1913年の「ファルスタッフ」で、映画へのデビューをはたし、次第に名を上げた。夫は、1917年に出会った映画作家のジャック・フェデーである。彼女はその主要な作品に出演した。彼女は多くの名監督の多くの種類の映画に出演した。叙情的ドラマから大道芸的喜劇までをこなし、大粒の涙を流し、あごが外れるほどに笑った。鍛え上げられた演技力による堂々たる風格を持っている。第二次世界大戦時には、一家はドイツ軍に占領されたパリから、スイスの リヴ・ド・プランガン(Rive-de-Prangins)に難を避け、彼女はジュネーヴの国立音楽芸術学校(Conservatoire de Gen?ve)で演劇を教えた。彼女の出演作品には、「女だけの都」「ジェニイの家」「勝負師」「外人部隊」など多数ある。 夫フェデーは、その地で1948年に没した。3人の息子、マルク、ポール、ベルナールとともに喪に服したのち、彼女は、国際的な活動を再会した。英語とドイツ語とが自在であった。1974年3月28日、パリの南、オルリー空港のすぐ東、モンジュロン(Montgeron)で没した。83歳であった。「100までは生きたくないわ。お品がないもの」(Je n'ai pas du tout envie de vivre centenaire. Ce ne serait pas poli.)と言い残したという。
2010.05.10
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モーリス・シュヴァリエ、この名優の名をご存知の方も、今では少なくなって来ただろうと思う。私の記憶に残るシュヴァリエは「昼下がりの情事」の探偵だ。親子ほど年の違うクーパーが音楽学校の生徒、オードリーに恋をした。小娘に翻弄される自分が情けなくなったクーパーは私立探偵に「彼女が何者か」調べるように依頼する。話を聞いただけで娘のことだと気が付いた父親シュヴァリエは、こうクーパーに言うのである。「黙ってこのままアメリカへ帰って下さい。あの娘はまだ恋も知らないネンネです。ものにするのは、あなたにとっては、赤子の手を捻るようなものでしょう。だけど彼女は私の娘なんです」と。父親の真情が訥々と語られるこのシーンを私は好きだ。娘を思う父親の気持ちに、クーパーは黙ってパリを去る決心をするのだ。そして、走り出す列車を追ってホームを駆け出すオードリー。これでエンド・マークと思いきや、クーパーが長い腕を延ばして車内に抱き寄せる・・・、グッとくる憎い演出だ。彼は1888年9月12日、フランスはパリで生まれた。生粋のパリっ子。父はアルコール依存症のため、母が毎日身を粉にして働いて家計を立てるという貧しい家庭に育つ。10歳のときにアクロバットの芸人としてデビューした後、カジノ・ド・トゥールネルに移って当時の有名俳優の物真似をしながら週給10フランを稼ぐ。1904年にエデン・コールセンに出演して日給12フラン、さらにブリュッセルのスカラ座に移って日給20フランの芸人となる。1907年にエルドラドでアンリ・クリスティ作詞による最初のシャンソン「美少年」を歌う。1908年、フォリー・ベルジェールの舞台『びっくりさせられるワルツ』でミスタンゲットと共演したのがきっかけで、恋に落ち、その後、交際は10年近く続いた。1910年ごろから映画には端役として出る。1913年に徴兵猶予の期間が切れたので軍隊に入隊。翌1914年には「びっくりさせられるワルツ」の映画化でミスタンゲットと共演。しかし第一次世界大戦が勃発して、前線に動員されたが戦闘中に負傷し、捕虜として中央ドイツのアルテン=クラボウの捕虜収容所に収容される。大戦後はミュージック・ホールにカムバックし、もっぱら舞台中心に活躍、やがてその評判は遠く海外まで及び、フランスで最も有名な寄席芸人の一人となる。1926年、当時出演していたブーフ・パリジャンの踊り子イヴォンヌ・ヴァレと愛し合うようになり、この頃、シュヴァリエが神経衰弱に陥っていたのを彼女が看病していたこともあって、母の勧めで結婚する。1927年には夫婦で舞台共演したこともあった。1928年、シュヴァリエの魅力に目をつけたハリウッドに招かれ、1929年にリチャード・ウォーレスの「レビューの巴里っ子」、エルンスト・ルビッチの「ラヴ・パレード」に出演、パリジャンの洗練された身のこなしで大変な人気を呼ぶ。瞬く間に世界中で最も出演料の高いスターとなった。その後もルビッチの「陽気な中尉さん」「君とひととき」「メリイ・ウィドウ」、ルーベン・マムーリアンの「今晩は愛して頂戴ナ」に出演、ジャネット・マクドナルドとの名コンビぶりでアメリカの大衆をも魅了した。 1936年にジュリアン・デュヴィヴィエの「シュヴァリエの流行児」などフランス映画に出演、その一方でニタ・ラヤを相手役にカジノ・ド・パリに出演してシャンソンを歌い、またエディット・ピアフをはじめ多くの若い才能のある歌手に活動の場を与えた。第二次世界大戦後はルネ・クレールの「沈黙は金」に出演、1950年にはヴァリテ座の舞台に立って、芸歴50年に及ぶその集大成ともいうべきワンマン・ショーを開催、大成功を収める。1957年から再びアメリカ映画にも出演、ビリー・ワイルダーのラブロマンスの傑作「昼下りの情事」、翌1958年のヴィンセント・ミネリのアカデミー作品賞受賞作のミュージカル「恋の手ほどき」に出演した。1959年にアカデミー特別賞を受賞。恋の手ほどき1968年に、80歳の誕生日を迎えることから、パリのシャンゼリゼ一座で引退リサイタルを上演、パリ中の喝采を浴びたのを最後に、70年に及ぶ芸能生活に幕を閉じた。その後はパリ郊外の別荘で静かな余生を送っていたが、1972年1月1日、83歳の天寿を全うし稀代のエンターテイナーは世を去った。私生活では結婚は2回である。
2010.05.08
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セルマ・リッター、彼女の出演作で印象に残っているのは、ヒッチコック監督の「裏窓」だ。骨折した報道カメラマン(ジェームス・スチュアート)の世話を焼く看護師兼家政婦の役で存在感を見せてくれた。裏窓又、ドリス・デイ主演の「夜を楽しく」でドリスの家政婦役を演じ、喜劇の味を出していたように思う。夜を楽しく 彼女は貴重な脇役だったと言えるだろう。セルマは 1905年2月14日、ニューヨーク市ブルックリンに生まれた。幼い頃から演劇に興味を持ち、小学校時代から舞台に立っていた。ハイスクールを卒業後、AADA(アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツ)で本格的に演技を学ぶ。舞台でさまざまな経験を積んだが、一時引退し子育てに専念した。1940年代に仕事を再開し、ラジオで活躍するようになる。映画初出演は1947年の「三十四丁目の奇蹟」(ジョージ・シートン)で、端役だがプロの注目を集めた。翌1949年の「三人の妻への手紙」(ジョゼフ・L・マンキーウィッツ)ではかなり重要な役が与えられ、さらに同監督の「イヴの総て」(1950年)でアカデミー賞の助演女優賞にノミネートされた。その他の出演作品には、「34丁目の奇蹟」「足ながおじさん 」「終身犯」などがある。 「裏窓」(アルフレッド・ヒッチコック)の看護婦役など、1950-60年代を通じて個性的な脇役として映画ファンに親しまれた。アカデミー賞のノミネートも通算6回にわたったが、結局オスカーを手にすることはなかった。1957年、ブロードウェイ・ミュージカル『New Girl In Town』に出演したリッターは、共演のグウェン・ヴァードンと共にトニー賞を受賞している。私生活では結婚1回、1969年2月4日、ニューヨークで心臓発作により死去。享年63歳だった。
2010.05.06
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ジョージ・C・スコット、彼を意識して見たのは「パットン大戦車軍団」である。この映画の開巻、舞台の上で長広舌をふるうパットンには圧倒された。パットン大戦車軍団第二次大戦のアフリカ戦線で活躍したアメリカのジョージ・パットン将軍。彼は類まれな戦略家として恐れられながらも、激しい気性と名誉欲、奇行によって失脚を繰り返した波乱の生涯を送った。これは人物一代記としても出色の作品だろうと私は思う。パットンを演じたジョージ・C・スコットはアカデミー最優秀主演男優賞を受賞し、「史上最高の演技の一つ」と賞賛されたが、スコットはオスカーの授賞式を辞退した。彼は1927年10月18日、バージニア州で生まれた。1945年から1948年まで海兵隊に参加。その後、ミズーリ大学でジャーナリズムを学ぶが、演劇に興味を持つようになり、1年で大学を去る。ブロードウェイの舞台に出演するようになり、『The Andersonville Trial』などで高い評価を得る。1959年に映画デビューし、ジェームズ・スチュワートと共演した「或る殺人」ではアカデミー賞にノミネート。1970年には「パットン大戦車軍団」でアカデミー主演男優賞を受賞するも、これを辞退して(これはアカデミー賞史上初であった)話題になった。 更に続く「ホスピタル」でも主演賞にノミネートされたものの、これを再び辞退。マーロン・ブランドと共にアカデミー賞に縁があった俳優であったが、彼の場合は、ついに最後まで一度も壇上に現れることはなかった。彼の出演作品には他に「ハスラー」「ヒンデンブルグ」「イルカの日」「グロリア」など多数ある。 1980年代初頭までは、リベラルで、時に重厚かつ正統派の演技者として厳格な存在感を示していた。しかし、1984年の「クリスマス・キャロル」以降は性格俳優として不気味な悪役や、ホラー映画でのヒーローなど別の一面を披露。同時に大型テレビシリーズ『ムッソリーニ』では、20世紀初頭のイタリアを統率したムッソリーニを熱演し、いぶし銀の魅力に箔をかけていた。また「ジェネシスを追え」ではブランドと共演し、演技合戦に火花を散らせたことで話題になる。1990年代も主に大作映画では脇役で存在感を示し、B級作品での主演などでも第一線であった。晩年は、テレビドラマでの活躍が主だった。「博士の異常な愛情」のタージドソン将軍役について、スタンリー・キューブリック監督はアドリブで強い印象を残したピーター・セラーズと対比して「同じ演技を何度でも繰り返せる俳優」とコメントしている。私生活では生涯で5度結婚しており、2度結婚した女優のコリーン・デューハーストとの間の息子キャンベル・スコットは俳優になった。晩年、最後に連れ添ったトリッシュ・ヴァン・ディヴァーとは幾度か共演作を残している。彼は1999年9月22日に死去した。
2010.05.04
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アンジェラ・ランズベリー、と言ってもほとんどの方は、はて?と思う人がほとんどらろう。テレビドラマ「ジェシカおばさんの事件簿」のジェシカ叔母さんといえば、思い出す人もいるかもしれない。彼女が19歳で映画デビュした作品は、サスペンス映画の傑作「ガス燈」だった。確か召使いのナンシーを溌剌と演じていた。そして、いきなりアカデミー助演女優賞にノミネートされた。それから40年後、「ジェシカおばさん」になったのである。 ジェシカおばさんの事件簿 シーズン1彼女は1925年10月16日、イギリス・ロンドンの出身。祖父は労働党の党首だったジョージ・ランズベリー(Lansbury)、父親は政治家のエドガー・ランズベリー(Edgar Lansbury)、母親は貴族の血を引く女優のモイナ・マクギル(Moyna MacGill)。毛並みの良さは文句なしだ。1940年にアメリカ合衆国に渡り、1951年にアメリカ市民になった。当初は歌手としてデビューしたが、「ガス燈(1944年)」で映画俳優に転向し、同作品でアカデミー助演女優賞にノミネートされる。翌年も『ドリアン・グレイの肖像』で同賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞 助演女優賞を受賞する。60年代には舞台に活動の中心を移し、トニー賞を計4回受賞。70年代終盤からは再び映画界での活動に戻り、1984年から始まったテレビドラマ『ジェシカおばさんの事件簿』で主人公のミステリー作家ジェシカ・フレッチャーを好演した。他の出演作品には、「レディ・バニッシュ 暗号を歌う女」「クリスタル殺人事件」「捨身の一撃」「狼の血族」「ブルー・ハワイ」など多数ある。 私生活では二度の結婚、84歳の今も健在である。
2010.05.02
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