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(紙ジャケット仕様)ゴールディ・ホーンゴールディ・ホーン、彼女のお茶目っぷりの面目躍如としているのはデビュー作「サボテンの花」を見ればよくわかる。中年の独身歯科医の恋人になっているうら若きホーンが前途を悲観してガス自殺を企てるところから、このテンヤワンヤのドラマは進行する。ウォルター・マッソー演じる歯科医は妻子がいることを隠れ蓑にして、ホーンの結婚願望を封じ込め、他の女と夜遊びするという食わせ者だ。ホーンの自殺はアパートの隣室に住んでいる作家志望の若い男に助けられ、事なきを得るのだが、決行する前に自殺予告の手紙を歯科医に送っていたから、さあ大変。マッソーはホーンのアパートに駆けつけ、ホーンは約束の結婚を迫る。マッソー医師、臨時の妻に医院の事務員で冴えない中年独身夫人、バーグマンを頼み込むことになる。サボテンの花これからがこの映画の面白いところなのだ。ホーンが次々に出す難問を解決するためにマッソー歯科医は悪戦奮闘させられることとなる。そして、その結末は・・・。彼女は1945年11月21日、ワシントンD.C.で生まれた。父親はイングランド系、母親はハンガリーユダヤ系である。アメリカン大学を卒業後、映画界に入る。彼女はコメディを得意としており、主演のほとんどがコメディ映画であるが、女性の自立をテーマにした明るい作品が多い。お尻に自信があるらしく、多くの作品にお尻のシーンまたはお尻を誉められるセリフがあるのがお約束だと言う。デビュー作、「サボテンの花」でお尻を褒めるセリフがあっただろうか?1969年の「サボテンの花」でアカデミー助演女優賞及びゴールデングローブ賞 助演女優賞を受賞している。他の作品を見ると、「潮風のいたずら」「プライベート・ベンジャミン」「続・激突!/カージャック」「ファースト・ワイフ・クラブ」など多数ある。彼女の作品でお尻を褒めるセリフがどれくらいあるかチェックしてみるのも一興であろうか。しょうもないことと笑うデない。しょうもないことを大真面目でやっているのが人生なんだから。 彼女の私生活では3度の結婚歴があり、1984年共演した俳優のカート・ラッセルとは未結婚のまま同棲中だそうである。4人の子供がおり、娘のケイト・ハドソンは女優になった。
2010.01.31
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ウォルター・ブレナン、彼の名前はアメリカ映画史に燦然と輝き渡るであろう。ハリウッドの名脇役として、善人役を演らせても悪人役を演らせても、彼の右に出る役者はいなかっただろうと私は思う。数多い中でも、印象に残っているのは「リオ・ブラボー」のスタンピー老人だ。「年寄りはひっこんどれ!」と銃撃戦でウェインに怒鳴られながら、それでも悪態をつきながら、拳銃はぶっぱなすはダイナマイトを投げるは大活躍だ。リオ・ブラボー 荒野の決闘「リオ・ブラボー」ではまさにアメリカの好々爺ぶりを見せてくれた。それと悪人役としてはジョン・フォードの名作「荒野の決闘」のクラントン老人であろうか。非情なまでに”悪”に徹しながら、子供たちが死ぬと嘆くという普通の老人の姿を見せる。名脇役がいてこそ主役が映えるのだ。主役を支え続けてきたブレナン老人のような人物がいたればこそ、多くの名作・傑作が生まれたと言えるだろう。彼は36年の「大自然の凱歌」、38年の「ケンタッキー」、40年の「西部の男」で、合計三度のアカデミー助演男優賞を受賞している。彼は1894年7月25日、マサチューセッツ州リンでアイルランド系移民の子として生まれた。父親がエンジニアだったため、自身もエンジニアリングを学ぶが、在学中から演劇に興味を持ち、ヴォードヴィルの舞台に立つ。銀行で働いていた時に軍に入隊し、第一次世界大戦に従軍した。1927年に映画デビュー。特に1930年代は、ブレナンの俳優生活の中で最も多くの映画に出た年でもあったが、名も無い役やクレジットにも表示されないような端役が多かった。そんな苦節時代の1932年に後々のブレナンにとっての転機ともいうべき事故に遭遇する。ある西部劇の撮影中、馬に顔面を蹴られるという事故に遭い、歯のほとんどを失ってしまうという惨劇に見舞われる。しかし、その歯の無い独特の喋り方や顔立ちがコミカルに感じられ、これがブレイクへのきっかけにもなったという。多くの作品で端役を演じているが、時には名バイプレイヤーとしても活躍。1936年の「大自然の凱歌」で初のアカデミー助演男優賞を受賞。その後も「Kentucky」、「西部の男」で同じ助演男優賞を2度も受賞するなど国際的なスターになった。大自然の凱歌 数多い出演作の中でもゲイリー・クーパーとの共演作は7本あるが、「群集」の放浪者、「ヨーク軍曹」の牧師、「打撃王」の新聞記者など、いずれも善人役で好演している。 他の名作には、「赤い河」「スワンプ・ウォーター」「遠い国」など数多い。 遠い国私生活は謎に包まれており、1974年9月21日、肺気腫のため死去した。享年80であった。
2010.01.30
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ヘディ・ラマー、彼女の名を知っている映画ファンはそう多くないだろう。中学生の頃、見た「サムソンとでリラ」で”なんときれいな人だろう”と夢中になったのを覚えている。当時、愛読書だった『映画の友』に投書して「サムソンとデリラ」の映画フィルムの1コマを謝礼に貰い、大事に定期入れにはさんでいたのを思い出した。この映画は、巨匠セシル・B・デミルが巨費を投じたスペクタクル作品で、サムソン(ヴィクター・マチュア)に横恋慕するデリラ(ヘディ・ラマー)の悪女ぶりが光っていた。サムソンとデリラ怪力を取り戻したサムソンが神殿を崩壊させるシーンは映画史に残る名場面だと思う。それと美貌ぶりを遺憾なく発揮したラマーの好演も忘れられない。彼女は1914年11月9日、オーストリア・ウィーンでユダヤ系の両親のもとに生まれた。父親エーミール・キースラー(Emil Kiesler)はレンベルク出身の銀行家、母親ゲルトルート・リヒトヴィッツ(Gertrud n?e Lichtwitz)はブダペシュト出身のピアニストである。女優に憧れ、17歳のときに端役で映画に出演。その2年後にヘディ・キースラーの名前で性の解放を謳ったグスタフ・マハティー監督のチェコ映画「春の調べ(Ext?ze)」に出演し、ヒロインのエヴァ役に扮して映画史上初めての全裸ヌードを披露した。春の調べ当時、この映画はセンセーショナルもので、アメリカでは上映禁止になっている。1933年、年上の兵器製造業者フリッツ・マンドルと結婚するが、嫉妬深い夫(誰も彼女のヌードが見られないようにと、「春の調べ」のプリントを買い占めようとした)に嫌気が差し、ロンドンへ逃亡。ロンドンで映画プロデューサーのルイス・B・メイヤーと出会い、サイレント映画時代の女優バーバラ・ラ・マーから取って"ヘディ・ラマー"と名前を変えてハリウッドに渡った。ハリウッドではセシル・B・デミルの「サムソンとデリラ」などに出演。彼女の黒髪を真ん中分けにした髪型は、「風と共に去りぬ」でヴィヴィアン・リーも真似をしている。また、最初の夫と結婚していた間に得た無線の知識を元に、Hedy Kiesler Markey の名で作曲家のジョージ・アンタイルと共に周波数ホッピングスペクトラム拡散に関する特許を取得している。これは現在、携帯電話・無線LANに応用されており、彼女は大変な発明家だとも言える。取得年:1942年特許番号:2,292,387 名称:"Secret Communications System"私生活では6度の結婚をし、2男1女を残している。2000年1月19日に享年85歳で天国に転居した。彼女はこれまでスクリーンに現れた最も美しい女優の一人として知られている女性だ。
2010.01.29
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ジェームズ・キャグニー、彼ほどユニークな俳優はいないだろう。チビ(偏見語?)、小男で精悍そのもの、大男相手に殴り合いを演じても一歩もひけをとらない、そんな見応えのある男なのだ。私が彼を見たのはジョン・フォードの作品「栄光なにするものぞ」だ。これは面白かった。ダン・デイリーと事あるごとに衝突し、喧嘩を繰り返す、セリフのやりとりは掛け合い漫才を見ているようなおかしさがあったと思う。彼は1930年代隆盛を誇ったギャング映画スターの一人であり、ヴォードヴィル出身であることから唄やダンスもこなした。小柄だが不敵な面構えときびきびとした早口によって強烈な印象を与え、活力に溢れた行動派キャラクターを多く演じて広く親しまれた俳優である。キャグニーは 1899年7月17日、アイルランド系一家の次男としてニューヨークに生まれた。生活は貧しかったが「喧嘩っ早い父親としっかり者の母を中心に仲のいい幸せな家族であった」と後年キャグニー自身が述べている。コロンビア大学に入学したが、1918年に父がスペイン風邪のために死亡すると、彼は幼い弟妹を抱えた家計を助けるため、大学を中退しウェイターや図書館司書のアルバイトに勤しんだ。当時から野球やボクシングに打ち込むスポーツ青年でもあり、特にボクシングでは、賞金が出る試合への出場を依頼されるなど、確かな腕をもっていたようである。その後、より高収入を得ようと芸人に転職し、ヴォードヴィルやブロードウェイの舞台に出演した。なお、彼の芸人としての初仕事は、なんと『コーラスライン』の女性ダンサー役だったそうである。1922年に所属していたヴォードヴィル一座の女優フランシス(愛称「ビル」)と結婚し、彼女と共に全米各地を巡業した。この時期には、同じく下積み生活をおくっていたケーリー・グラントとコンビを組んだこともある。舞台『Sinner's Holiday』の主役に抜擢されたことから、俳優としての活動が本格的に始まった。この舞台がきっかけとなって、1930年に大手映画会社ワーナー・ブラザーズに見出されて映画界入り、同作の映画版で映画デビューをした。1920年代後半から、禁酒法の影響で蔓延していた密造酒の利権を巡ってアル・カポネに代表されるギャング達の抗争が新聞やラジオで連日報じられており、そのような社会の動きに目をつけたのがワーナー・ブラザーズだ。同社はエドワード・G・ロビンソン主演の映画「犯罪王リコ」(1930年)を皮切りに、キャグニーやポール・ムニ、ジョージ・ラフトといった個性派の俳優達を起用して、数々のギャング映画を製作していった。キャグニー主演で製作されたのが1931年の映画「民衆の敵」である。この作品でキャグニーは、酷薄かつ凶暴なギャングのトム・パワーズを見事に演じて大評判となり、一躍トップスターの仲間入りを果たした。民衆の敵汚れた顔の天使彼奴は顔役だ!1938年、キャグニーは「汚れた顔の天使」に出演、この作品では処刑前にわざと臆病に振舞って、少年たちのギャングへの憧れを断ち切ろうとする男を演じ、これまでの冷酷非情なギャング役とは一味違うキャラクターを演じ、ニューヨーク批評家協会賞の男優賞を得た。その後もギャング映画「彼奴は顔役だ!」や西部劇「オクラホマ・キッド」、コメディ「いちごブロンド」などで安定した人気を保っていた。1942年にキャグニーは、「ブロードウェイの父」と呼ばれた作曲家兼俳優の興行師ジョージ・M・コーハンの伝記映画「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」に出演する。当初製作側のワーナーは、この役にフレッド・アステアを考えていたようだが、キャグニーはワーナーを説得してこの役を得、見事なダンスと歌を披露した。第一次世界大戦中の愛国心とアメリカン・スピリットを賞賛したこの映画は、第二次世界大戦中の世相とマッチして興行的にも大ヒットを記録しただけでなく、キャグニーに最初で最後のアカデミー主演男優賞とニューヨーク批評家協会の男優賞をもたらす事となったのである。 白熱ワン・ツー・スリー自身の最高傑作となったラオール・ウォルシュ監督の「白熱」(1949年)では、マザーコンプレックスで異常性格者の凶悪なギャングを演じたが、この作品のすさまじさは話題になったものである。1967年に「アリゾナの勇者」のナレーションを最後に引退を発表。故郷ニューヨークのスタンフォードビルで50年以上連れ添った妻とともに引退生活をおくった。1986年3月30日心臓発作のため死去。享年86歳だった。
2010.01.28
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ミシェル・モルガン、に初めてスクリーンで出会ったのは。ジェラール・フィリップ主演の「夜の騎士道」だった。これは名匠ルネ・クレール初のカラー映画で、田舎町にやって来たフランス軍のプレイ・ボーイがパリ生まれの美女(モルガン)を1ヶ月で口説き落とすと賭けをするお話だ。軽妙なタッチで綴られた恋の駆け引きが見者だったように記憶している。この作品は確か大学生のときに見たと思う。次に見たのは、ジャン・ギャバンとの共演作「霧の波止場」である。後に恋人同士、理想のカップルと噂された二人だったが、結婚することはなかった。一説に彼女の”瞳”に惚れたという噂もある。霧の波止場」はモルガンの出世作だ。 彼女は1920年2月29日、イル=ド=フランス地域圏オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌで生まれた。日本語では他にミッシェル・モルガン、ミシェール・モルガンとも表記されている。主に1930年代後半から1960年代後半まで活躍した。「氷の仮面」と謳われた、研ぎ澄まされたクールな品格を持つ女優だ。15歳で女優になる決心をしてパリへ行く。映画のエキストラをしながら、演劇学校で演技を学び、当時の著名なフランスの俳優レーミュ主演の映画“Gribouille”(1937年)でスクリーン・デビューをする。そして、ジャン・ギャバンと共に2つの映画「霧の波止場」(1938年)と「曳き舟」(1941年)に主演し、スターの座に上った。第二次世界大戦中には渡米し、アメリカ人俳優ウィリアム・マーシャルと結婚、一男を産んだが、離婚。1946年の映画「田園交響楽」では第1回カンヌ国際映画祭 女優賞を受賞した。他の主な出演作は、ジェラール・フィリップと共演した2作「狂熱の孤独」(1953年)と「夜の騎士道」(1955年)、ギャバンと共演した「愛情の瞬間」等、多数ある。 狂熱の孤独愛情の瞬間1970年代以降はほとんど映画出演はなく、時折テレビと劇場に出演しつつ、趣味の絵画と詩作に耽って平穏な生活を送った。ダニエル・ダリュー、ミシェリーヌ・プレール等と同様の、古典的な女優とよく評される毅然とした美しさは、晩年もあまり変わらなかった。1969年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章を、1992年にはセザール賞の名誉賞を、1996年にはヴェネツィア国際映画祭で栄誉金獅子賞を授与された。1977年に自伝を出版している。結婚は3回、現在89歳の高齢だが、健在である。
2010.01.27
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マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶マルチェロ・マストロヤンニ、彼の本領を見せてくれたのはフェリーにの傑作「甘い生活」だろう。ゴシップ記者役のマルチェロを案内役に爛れたブルジョワの乱痴気パーティを描き、異次元の世界に誘い込み、世界に衝撃を与えた。甘い生活フェリーニがこの作品で訴えたかったのは、退廃的な世を自覚しながらそこから抜け出せない人々の魂の迷いだと言う。アニタ・エクバーグ演じる快楽と愛の象徴、アメリカ人女優シルヴィアに惹かれるマルチェロもそんな魂の持主だ。マルチェロはこの映画で世界的スターへと飛躍を遂げたのである。マルチェロは1924年9月28日、イタリア北部の小都市、フォンターナ・リーリの家具職人の家に生まれた。彼は、イタリアの首都・ローマと北部の工業都市トリノで育ち、その後第二次世界大戦にイタリア軍の兵士として参戦した。1943年9月8日にイタリアが連合国軍に降伏し、その後、北部がドイツ軍の占領下に入るとドイツ軍の捕虜収容所に入れられたものの、からくも脱出し、その後1945年までの間イタリア北部のヴェネツィアで地下生活を送る。第二次世界大戦が終結した1945年に演劇の世界に入り、ローマで映画の制作スタッフとして働くとともに、ローマ大学の演劇センターで俳優のレッスンを受け始める。その後イタリアを代表する巨匠、ルキノ・ヴィスコンティ監督に才能を認められ、1947年にイタリアで公開された「ル・ミゼラブル」で俳優としてのキャリアをスタートさせた。その後は「バストで勝負」や「女と男」、 ルキノ・ヴィスコンティ監督の「白夜」などに出演し、1959年に公開されたフェデリコ・フェリーニ監督の名作「甘い生活」で、世界的な名声を得た。その後もフェリーニ作品に頻繁に出演し、「8 1/2」や「女の都」など、多くの名作を残している。8 1 / 2女の都また、多くの映画で典型的なイタリア美女を演じている女優、ソフィア・ローレンとの共演も多く、ヴィットリオ・デ・シーカ監督のコメディ「昨日・今日・明日」、「ひまわり」、「あゝ結婚」、カトリーヌ・ドヌーブと共演した奇抜な喜劇「モン・パリ」など多数の映画がある。昨日・今日・明日ひまわりあゝ結婚モン・パリ「甘い生活」の新聞記者役に代表されるような、典型的な「イタリア人プレイボーイ」的な役を演じさせたら右に出るものはいないと言われ、2枚目ながら3枚目的な雰囲気を漂わせた、人間味溢れる演技が光る性格俳優としても評価が高く、「イタリア式離婚狂想曲」(1963年)で初のアカデミー主演男優賞にノミネートされ、その後も「特別な一日」(1978年)で同じく主演男優賞にノミネートされている。「黒い瞳」(1988年)では同賞とカンヌ国際映画祭主演男優賞の両方にノミネートされ、アカデミー賞は惜しくも逃したものの「ジェラシー」(1970年)に次いで2度目のカンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞した。他にもゴールデングローブ賞各賞を2回、ヴェネツィア国際映画祭各賞を3回受賞している。私生活は、若いときからアニタ・エクバーグ、ソフィア・ローレン、フェイ・ダナウェイ、カトリーヌ・ドヌーヴなど多くの女優と浮名を流したが、結婚は生涯で1回、1948年にイタリア人女優のフローラ・カラベッラと結婚したのみである。しかし後年マストロヤンニはマスコミのインタビューで、「本当に自分が心底愛した女はエクバーグとドヌーブの二人だけだった」と語っている。子供は妻のフローラとの間に一女をもうけたほか、長年の愛人でフランス人女優のカトリーヌ・ドヌーヴとの間にも一女(女優のキアラ・マストロヤンニ)をもうけている。なお、「プレタポルテ」(1994年)など複数の作品でキアラと共演を行った上、ドヌーブとキアラの母子は晩年のマストロヤンニの看護も行い、臨終にも立会ったそうである。1996年12月19日、フランス・パリの自宅ですい臓ガンで死去した。72歳没。遺作はポルトガルの巨匠、マノエル・デ・オリヴェイラ監督の「世界の始まりへの旅」(1997年)であった。葬儀はローマの教会で国葬扱いで行われ、多くの共演者やファンが世界中から駆けつけた。
2010.01.26
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アン・シェリダン、彼女の名をスッと思い出せる人はそういないだろう。”ウンフ・ガール”の異名をとって一時期圧倒的人気を得ていたセクシー女優である。私が中学生の頃、見たのは西部劇の名作と謳われている「無法者の群」だ。この映画はエロール・フリン主演アン・シェリダン共演で酒と女と暴力の町ダッジシティを描いたものだ。エロール・フリンの拳銃さばきに夢中になったが、アンの美貌にも見惚れたものだったように思う。もう一人、美人が出ていた。確かオリヴィア・デ・ハビラントではなかったか。無法者の群中学生、高校生の時に見た映画の題名は自分でも感心するほど(寒心かも)よく覚えているものだ。アン・シェリダンは、1915年2月21日、テキサス州デントンで生まれた。学生時代に美人コンテストで優勝し、パラマウント映画と契約。1934年に映画デビューしたが、しばらくはごく小さな役しか回ってこなかった。1936年にワーナー・ブラザーズと契約し、名前を"アン・シェリダン"と改め、ジェームズ・キャグニー、ハンフリー・ボガート主演の「汚れた顔の天使」や、エロール・フリン主演の「無法者の群」などに出演して人気スターとなる。汚れた顔の天使僕は戦争花嫁他に「僕は戦争花嫁」がある。これはあのケイリー・グラントが何と女装するという珍しくもおかしい作品だ。本人は「嵐の青春」を代表作としている。彼女は1967年1月21日、まだ若い51歳の年齢であの世へ向かう船に乗ってしまった。私生活では三度の結婚をした。
2010.01.25
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ウォルター・マッソー、最近、大笑いしながら彼の映画を見た。映画の題名は「サボテンの花」。艶笑喜劇の部類に入る作品といえようか。サボテンの花共演はイングリッド・バーグマンとこれがデビュー作になるゴールディ・ホーンだ。マッソー扮する独身売れっ子歯科医が若い娘に惚れられ、女房子持ちとウソをつき、その場逃れをしている。よくあるパターンだ。絶望のあまり、ホーンはガス自殺を企てる。ところが隣室の作家志望の男が気がつき、窓を割って中に入り、事なきを得る。前もって自殺予告の手紙を歯医者に送っていたことから、ドタバタ喜劇の幕が開く。女性看護士兼事務員のバーグマンの存在が楽しい。お堅い独身の中年夫人の彼女、先生から妻の役を演じてくれと頼まれOKするのだが・・・。彼女の変身ぶりが面白い。ミスマッチとしか思えないブルーの夜会服を着て奇抜なダンスを踊る彼女は見ているだけで楽しくなってくる。一方、恋のお相手役のホーンは、妻が離婚を望んでいると言うと、喜ぶと思いきや別れた後の生活やら、子供のことなどを心配する苦労性で、それが何ともおかしい。ゴールディ・ホーンは大きな目をくりくりさせて、次々に難問を出し、マッソーを困惑させるのである。難しい問題を抱えて悩んでいるときに見る映画としては最高の作品だと私は思う。マッソーは、1920年10月1日、ニューヨーク州ニューヨーク生まれのマンハッタン育ち。祖先はロシア系ユダヤ人だ。コロンビア大学でジャーナリズムを学び、第二次世界大戦中は空軍に従軍した。除隊後に演技を学んで舞台で活躍し、1955年に映画デビュー。ジャック・レモンと組んだコメディ映画が有名である。初共演作は「恋人よ帰れわが胸に」で他に「フロント・ページ」「ラブリー・オールドメン」「カリブは最高!」などがある。 1966年の「恋人よ帰れ!わが胸に」でアカデミー助演男優賞を受賞している。その他の作品には「コッチおじさん」「がんばれ!ベアーズ」「ハロー・ドーリー!」「サブウェイ・パニック」「電話で抱きしめて」など多数の作品がある。 私生活では二度結婚している。そして、2000年7月1日、満79歳でこの世に別れを告げた。
2010.01.24
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メリナ・メルクーリ、彼女の女優としての魅力は「日曜はダメよ」に尽きるだろう。陽光まぶしいギリシャの港町で、生きる歓びを快活に謳い上げる娼婦イリヤの生き様を描いたこの映画はジュールス・ダッシン監督の傑作である。日曜はダメよ開巻早々、ギリシャの港町で、豊満な肢体の娼婦イリヤ(メリナ・メルクーリ)がビキニ姿でいきなり海に飛び込む。港の男たちも次々後を追って海中へ。見事な出だしという他ない。見る者の心を掴んだダッシンの演出である。このショットでイリヤが娼婦でありながらも港の男たちに好かれ、愛されるマドンナ的な女性であることがよく分かる。この作品で監督、製作、原作、脚本、主演の5役をこなしたのは、アメリカ人のジュールス・ダッシンだ。彼はヒッチコックの助監督を経て、「裸の町」「真昼の暴動」などセミ・ドキュメンタリータッチの作品で監督として名前を上げた。だが、50年に”赤狩り”によってハリウッドを追われ、ヨーロッパに活動の場を移した。「日曜はダメよ」は新天地でギリシャ人女優メルクーリと出会い、彼女の大らかな生き方に感銘したダッシンが創り上げた記念碑的作品と言えるだろう。この映画の撮影時、二人は恋仲で、66年に結婚したそうだ。いずれにせよ、この作品には暗い陰など全く見当らない。貧困もSEXの問題も全て笑いの中に埋没させてしまうのである。最近、これくらい楽しい映画を私は見たことがない。もし未見ならば、一度見られるといい。映画の面白さがよく分かる。メリナ・メルクーリは1920年10月18日、ギリシャ・アテネで生まれた。祖父、父親共に政治家の家庭である。女優として、「宿命」「トプカピ」などジュールス・ダッシン監督の作品に出演している。1965年には「太陽が目にしみる」で日本女優岸恵子と共演している。後にギリシャの文化大臣を務めた。パルテノン・スキャンダル1997年には彼女に因んで、文化景観保護および保護活動の促進に貢献した施設・団体を表彰する「文化景観保護と管理に関するメリナ・メルクーリ国際賞」が設置され、2003年に古河総合公園が同賞を受賞している。2003年にメリナ・メルクーリ国際賞を受賞した古河総合公園には、受賞記念碑が設置されている。夫は映画監督のジュールズ・ダッシンだ。彼女は1994年3月6日、73歳で天国へ旅立った。
2010.01.23
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フェルナンデル、フランス映画ファンなら覚えていることだろう。ひょうきんな馬面の彼のことを。「ドン・カミロ」シリーズは何本か見ているが、あの馬面だけは忘れられない。日本の俳優伊藤雄之助の顔とどっちが長いか真剣に考えたものである。陽気なドン・カミロドン・カミロ頑張る彼は1903年5月8日、フランスのマルセイユで生まれた。父はパートでカフェやミュージック・ホールで歌っていたシャンソン歌手で、その縁もあって少年時代から舞台に出演しては得意の物真似などをしながらコメディアンになることを夢見ていた。学校を卒業してからは、銀行に勤めるも1922年になって退職し、ニースのキャバレーで漫才や寸劇を演じ、またシャンソンを歌うなどして生計を立てる。1928年にはパリに出てポリノ座でデビュー。この頃コメディアンとしての人気も高まり、1930年に主役として「Le blanc et le noir」にて映画デビューを果たし、特にマルセル・パニョル監督の諸作品で一躍有名となる。また喜劇のみならずジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「舞踏会の手帖」のようなシリアスなドラマにも出演。ほかに「アリババと四十人の盗賊」のような作品もある。舞踏会の手帖アリババと四十人の盗賊1939年に兵役につき、除隊後は再び映画入りし、パニョル監督の作品で人気を盛り返し、1952年からは「ドン・カミロ」シリーズに出演、彼の当たり役となりシリーズはその後6本も作られた。死後に授与されたレジオン・ドヌール勲章を初め、1964年にはフランス・シネマ大賞、同年のオレンジ賞などを受賞している。また1964年にはジャン・ギャバンと共同プロダクション・ギャフェルを設立、「バター料理騒動」などを製作・監督・主演した。1970年、「ドン・カミロ」シリーズの6作目の撮影中に倒れ、映画の完成を待たずして、1971年2月26日に149本の映画と10本のオペレッタ、そして数々のシャンソンを残し惜しまれつつ、癌の為に死去した。オペレッタ『かまとと娘』この前年にはブールヴィルが急死しており、フランスは立て続けに2人の国民的コメディアンを失ったことになった。芸名のフェルナンデルの由来は1925年に結婚したアリエット夫人が“私のフェルナンド”(le Fernand d'Elle)と呼んでいたことからついたもの。その夫人との間に子どもが3人おり、そのひとりフランコも俳優となった。
2010.01.22
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アンジー・ディッキンソン、彼女のクレジットが印象に残ったのは「リオブラボー」だった。脚線美とクールなお色気にムラムラっとしたものだ。セクシーさ抜群と見ほれたことを告白しておこう。特に花瓶投げのシーンと編みタイツ姿での立ち姿には忘れられないものがある。脳裏に焼きついてしまったような気がするくらいだ。「リオ・ブラボー」では保安官のジョン・ウエィンに惚れる女賭博師という大役を掴み、スレンダーな脚線美でウエィンを翻弄したものである。リオ・ブラボー彼女は1931年9月30日、ノースダコタ州クルムで生まれた。大学卒業後、美人コンテストに出場し優勝する。TV業界に入り、54年端役で映画デビュー。「リオ・ブラボー」の抜擢によりスターとなった。52年にフットボールのジーン・ディキンソンと結婚していたが、離婚。65年、作曲家のバート・バカラックと再婚したが、80年に離婚した。出演作品には、「リオ・ブラボー」の他、「殺しのドレス」「ビッグ・バッド・ママ」「カウガール・ブルース」「殺しの分け前」など多数ある。中でも「ビッグ・バッド・ママ」は怪作と云えるのではあるまいか。 他に大作と言える作品にも顔を出している。「巨大なる戦場」「オーシャンと11人の仲間」がそうだ。「幸せの記憶」は日本未公開作品である。 TVシリーズ「女刑事ペパー」(Police Woman、1974)の主人公ペパー役で知られる。これも見ておきたい作品であろうか。彼女は78歳、老後生活を楽しく過ごしてほしいものである。
2010.01.21
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ジャン・ポール・ベルモンド、フランス映画ファンで彼の名を知らない人はいないだろう。日本で人気沸騰したのは、1960年(昭和35年)のこと、映画はヌーベル・ヴァーグの代名詞となった映画「勝手にしやがれ」だった。 勝手にしやがれ(’59仏)この映画は衝撃的な作品で、私たち映画青年は夜を徹して夢中で論じ合ったものである。ヌーヴェル・ヴァーグのこと、時代の寵児ゴダールのこと、ジャン・ポール・ベルモンドのことなど、話は尽きなかったものだ。「田舎は美しい。俺はフランスが好きだ。海が嫌いなら、山が嫌いなら、都会が嫌いなら、勝手にしやがれ!」自動車泥棒で盗んだ車をぶっ飛ばしながら、主人公ミシェルが喚くセリフだ。演技指導も台詞もなく恐らく手持ちカメラで撮影したであろう映像にしびれたものだった。「とにかく走れるだけ走れ。いやになったら倒れてくれ」ミシェルが銃弾を受けて死ぬラストシーンで29歳の新人監督ジャン=リュック・ゴダールはまだ無名の俳優に過ぎなかったベルモンドにこう云ったそうだ。ベルモンドはよろけながら走り、そして倒れた。道行く人はただの酔っ払いと思ったそうである。ともかくゴダールの斬新な手法は日活の若手監督や松竹の若手監督に大きな影響を与えたと言えるだろう、ベルモンドは1933年4月9日パリ郊外のヌイイ・スュル・セーヌで生まれた。父のポール・ベルモンドは、フランス美術アカデミーの会長もつとめた彫刻家で画家、母も画家だった。子どもの頃はよく遊んだが、体が弱く、静養のために田舎の農家に預けられた。健康を取り戻して家に帰ってからは、サッカーに熱中し、ゴールキーパーを担当。15歳の時にボクサーになる夢を見たことをきっかけに、今度はボクシングに熱中する。両親に無断でボクシング・クラブに入り、練習を積むが、父に反対されてボクサーになる夢は諦めた。1949年、16歳のベルモンドは演劇に興味を持ち、コンセルヴァトワールの入学テストを受けるも落ちる。しかし、別の演劇学校で学び、コンセルヴァトワールに入る準備を始めた。1950年7月3日、パリの病院を巡回する一座のメンバーとして、初舞台に立つ。演目は『眠れる森の美女』で、ベルモンドの役は王子様だった。その後ピレネー地方での夏期巡業にも参加。ここでコメディアンのギィ・ブドスと知り合った。翌1951年に念願のコンセルヴァトワール入りを果たし、アルバイトをしながら演技を学ぶ。やがて舞台に出演する機会を得たベルモンドは、1953年には代役ながら主役をつとめることとなる。またこの年に、ルネ・コンスタンス(愛称エロディー)と結婚、翌年には子供が生まれた。その後も舞台の経験を積むにつれ、次第に演技派との評価が高まった。1956年7月1日にコンセルヴァトワールを卒業。このころには演劇批評家からも注目されるようになり、卒業直後の公演では優秀な賞を獲得した。演技力を高く評価されたベルモンドを映画界も注目した。1957年に端役で映画出演するようになり、マルク・アレグレ監督の「黙って抱いて」には、やはり無名時代のアラン・ドロンも出演していた。1958年にはジャン=リュック・ゴダール監督の短篇映画「シャルロットと彼女のジュール」に出演。ちなみにこの映画撮影後ベルモンドが兵役に出てしまったので、ベルモンドの声はゴダール自身が吹き込んでいる。パリに戻った1959年、ベルモンドはクロード・シャブロル監督「二重の鍵」に出演、これまでのチョイ役に比べると重要な役で、その存在感を示したベルモンドは映画でも注目された。そして同年、ふたたびジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」に主演。ヌーヴェルヴァーグの代表作として大ヒットするとともに、ベルモンドを一躍映画スターの座に押し上げた。こうして、年に数本の映画に出演するようになり、それらはドラマ性の高いシリアスなものが多く、成功した作品ばかりではないが、ベルモンドは着実な演技力に支えられて、ヤクザから貴族に至るまでの幅広い役をこなした。1963年、「リオの男」に出演、財宝のありかを示す像をめぐる冒険物語で、危険なアクションシーンも多いが、スポーツマンのベルモンドはスタントマンなしでやってのけた。この映画は大ヒットし、ベルモンドも新しくアクション俳優というイメージを持たれるようになる。1965年には同傾向の「カトマンズの男」に出演するが、これで共演したウルスラ・アンドレスと恋に落ち、行動を共にするようになる。そして翌年にアンドレスが離婚したのを受けて、ベルモンドも9月19日に離婚する。また65年には、またもやゴダール監督の「気狂いピエロ」に主演する。しかし、ベルモンドはシナリオを使わないゴダールのやり方を批評し、「二度とゴダールとは仕事をしない」と宣言した。一方のゴダールも、1970年に商業主義の映画を嫌うと宣言し、もっとも使いたくない俳優の筆頭にベルモンドを挙げている。1969年にはアラン・ドロンからの申し込みを受けて、初めての本格的な共演映画「ボルサリーノ」に出演。85万人を動員する大ヒット作となった。また他の作品に「いぬ」「警部」「パリの大泥棒」など多数ある。ボルサリーノ2いぬ警部パリの大泥棒その後、1974年からはプロデューサー業にもせいを出し、76歳の現在もかくしゃくたるもののようだ。私生活では結婚を2回している。
2010.01.20
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ブルー・ガーディニアアン・バクスター、彼女の出演作品で群を抜く映画は「イブの総て」だと思う。毎晩のように楽屋の出入り口でスターのマーゴを待つ田舎娘が、マーゴに接近し、劇評家や演出家に媚を売り、スターを蹴落とす女優に変身していくさまを巧妙に演じた彼女の小悪魔的な愛らしさは鮮烈だった。イヴの総てこの作品はまさに彼女の”総て”だったのではないだろうか。女の持ついやらしさ、ずる賢さをいやというほど見せてくれた映画は他にそうあるものではないと思う。圧巻だったのはスターに成り上ったイブの楽屋へこっそり入りこむ2代目イブの出現だろうか。デヴュー間もないマリリン・モンローが実にういういしかったのを覚えている。彼女は1923年5月7日、インディアナ州ミシガンシティで生まれた。祖父は建築家のフランク・ロイド・ライト。この人は帝国ホテル旧館の設計者で、彼女はライトの孫娘だ。アンは裕福な家庭に生まれたこともあって、10歳でヘレン・ヘイズの舞台を見て女優になることを決意し、11歳の時にニューヨーク市ブロンクスヴィルに移った。セオドラ・アーヴィン演劇学校でロシア出身の女優マリア・アウスペンスカヤに師事し演技の勉強をする。13歳の頃にはブロードウェイの舞台でデビューし、1940年には17歳で20世紀フォックスと契約し映画でもデビューを飾る。なおデビュー作の「20 Mule Team」は「レベッカ」のスクリーンテストを受けた結果、代わりに割り振られた役だった。1941年の「スワンプ・ウォーター」、1942年の「偉大なるアンバーソン家の人々」での演技が高く評価され、ついに1946年の「剃刀の刃」でアルコール中毒症の娘を演じてアカデミー助演女優賞を受賞した。 剃刀の刃更に1950年の「イヴの総て」では、ベティ・デイヴィス演じる大女優マーゴ・チャニングを踏み台にのし上がる新人女優イヴ・ハリントンを演じて名実共に彼女の代表作となった。この作品では共演したベティ・デイヴィスと共にアカデミー主演女優賞にノミネートされたが惜しくも賞を逃した。その後はセシル・B・デミルの超大作「十戒」でエジプトの王女を演じているが、1960年代以降は舞台やテレビ出演が多くなった。他に見るべき作品としては「私は告白する」「廃墟の群盗」などがある。 1971年にローレン・バコールの後を受けて、「イヴの総て」の舞台版『Applause』で今度はマーゴ役を演じ、思い出に自ら華を添えたのである。私生活では結婚が3度。2度目の結婚の際、オーストラリアの牧場主である夫に付き添って、1961年から数年間オーストラリアのキャトル・ステーションに生活の拠点を移した。1973年に『刑事コロンボ』シリーズの『偶像のレクイエム』で今はテレビしか活躍していないかつての大女優役という、実生活さながらの犯人を演じる。1976年には自伝を発表し、批評家から絶賛された。そして、1985年12月12日、享年62歳の若さで、心臓発作のためにニューヨークで死去した。
2010.01.19
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ハワード・キール、その名はミュージカル映画の数々の名場面と共に、脳裏に甦ってくるようである。まず思い出すのは「掠奪された七人の花嫁」だ。これくらい楽しい作品はなかったと思う。掠奪された七人の花嫁1850年代の頃、長兄ハワード・キールを筆頭に七人の兄弟たちがオレゴンの山奥に棲んでいる。山奥から町に買物におりてきたキールがまずジェーン・パウエルを連れて帰る。ジェーンは妻になることをOKしたが、山に来て見てあきれ果てる。なんと残りの弟たちは、礼儀もろくにわきまえない野蛮人のような兄弟である。彼らの教育からしなければならず、食事の支度から洗濯、掃除とジェーンは大童である。嫁さんが欲しい弟たち、「ローマの故事に倣って、町から好きな嫁さんを浚ってこい」と長兄に炊きつけられ、全員で町へ出かけていく。兄弟たちと町の若者たちとの争いもユーモラスだ。MGMミュージカルの真骨頂というところである。ラス・タンブリンの見事な踊りは見ものであろう。そして、それぞれ目当ての女の子を拉致して馬車で家に逃げ帰る。銃を持ち、後を追いかけてくる娘たちの親、銃声一発・・・雪崩が起こり、町に通じる道は閉ざされるのだ。ジェーンは連れ帰った娘たちを保護、兄弟たちの防波堤になる。と同時に弟たちをけしかけたハワードを家から追い出してしまうのだ。 そして、やがて雪解けの春が来て・・・。アメリカの開拓農民の生活を笑いと歌と踊りで見せてくれた抜群の映画だった。その他にミュージカルとして良かった作品は、「アニ-よ銃をとれ」「ショウボート」「カラミティ・ジェーン」「キス・ミー・ケイト」などである。 彼は1919年4月13日、イリノイ州ギレスピーで生まれた。本名はハリー・クリフォード・キール(Harry Clifford Keel)。趣味はゴルフで、70前半で回る腕前を持っていた(1951年当時)。オスカー・ハマースタイン2世に認められ、ショウビジネス界に入る。1947年、ロジャース&ハマースタインによるミュージカル、『オクラホマ!』のロンドン公演で成功を収めた彼は、1949年にハリウッドに招かれ、翌年「アニーよ銃を取れ」に出演した。ハンサムなルックスと193cmの長身、豊かなバリトンで1950年代を代表するミュージカルスターとして映画界に羽ばたいた。しかしミュージカル映画の衰退に伴って、キャリアは低迷するのだ。1950年後半からはブロードウェイや地方の舞台を踏む傍ら、B級映画に出演していた。1981年になって、1978年から放映されていたテレビ番組『ダラス』への出演依頼を受ける。この番組は13年間に渡って放送される人気番組となり、60代にして人気スターへと返り咲いたのだ。またこの番組の撮影と平行して、アメリカ、イギリスの各地でコンサートを行った。80歳を過ぎてもなおミュージカルの舞台に立ち続け、生涯に渡ってショウビジネスに携わった。私生活では3回結婚し、一生を賭けてミュージカルに貢献したのは立派である。2004年11月7日、彼は享年85歳で没した。
2010.01.18
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ロッサナ・ポデスタ、彼女の名を聞いてすぐにピンと来る人はよほどのファンだった人だろう。高名な彫刻家を父に持ったからか、「トロイのヘレン」で世界一の美女と折り紙をつけられた彼女の美しさはまさに彫刻の美だったといえよう。ヘレン・オブ・トロイどうも題名に変更があったようだ。確か公開時には「トロイのヘレン」だったのが、「ヘレン・オブ・トロイ」に変わっている。DVD再作成にあわせて題名変更をしたのかもしれない。それはともかく彼女の美しさは絶品・完全無欠と言えた。透き通るような白い肌、美しい黒い瞳、美女の中の美女、女一人のためにギリシャとトロイが国を挙げて10年戦ったのも納得できるというものだ。これはもう全ての男をひざまづかせる女神以外の何者でもないと、私は思う。それと「黄金の七人」シリーズだ。彼女が紅一点として花を添えたおかげで、この映画はヒットしたのではあるまいか。むくつけき男だけの泥棒物ではこれほど人気は出なかっただろう。黄金の七人続・黄金の七人/レインボー作戦彼女は1934年8月20日、イタリア領リビア(当時)のトリポリで生まれた。本名は、カルラ・ポデスタ。父親は元トリポリ市長で有名な彫刻家でもある。5歳の時にイタリアのリグーリア州ラ・スペツィア県ラ・スペツィアに移り住んだ。学生時代は水泳選手だった。1950年に映画デビューを果たし、その後アメリカ・フランス映画にも出演し国際的に活躍した。1959年(昭和34年)4月1日から1週間、東京・有楽町の読売ホールと大阪のABCホールでも開催された第2回イタリア映画祭のため来日したことがある。彼女の出演作品には、「ソドムとゴモラ」「映画はおそろしい アントニオ・マルゲリーティ篇」「顔のない殺人鬼」などがある。 映画はおそろしい 顔のない殺人鬼1985年の「女テロリストの秘密」を最後に映画には出演していない。以後は多分引退をしたのだろう。私生活では53年マルコ・ヴィカリオ監督と結婚、63年に離婚している。マルコ・ヴィカリオ監督は「黄金の七人」の監督である。
2010.01.17
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リチャード・バートン、彼はエリザベス・テイラーと共演した大作「クレオパトラ」でその名前を大いに売った。夫を持つテイラーと妻あるバートンとの”禁断の恋”というおまけまでつけて・・・。絶世の美女クレオパトラを演じたリズの出演料は当時の史上最高額100万ドル(約3億6000万円)、バートンの出演料は25万ドルだった。リズの撮影に同行した夫のエディ・フィシャーとのロケ地ローマでの滞在費は大邸宅の賃料だけで15万ドルだったと云われている。クレオパトラ60年9月にロンドンで開始された撮影は難航、監督交代劇まで発展し、1年後にイタリアに広大なセットを移築、63年ようやく撮影終了したときにはリズは31歳になっていた。彼女はこの映画で大女優の地位を確立したのである。「女王も裸にすればただの女だ。将軍もただの男です」バートン演じるアントニー歓迎の宴に並んで座ったクレオパトラにこう話しかけるアントニー。バートンは相手のセリフまで正確に覚えていたという。彼は1925年11月10日、イギリス・ウェールズで炭坑作業員の息子に生まれた、16歳で学校をやめて働かなければいけなくなったが、彼の教師であったフィリップ・バートンが彼を養子に取り、18歳でオックスフォード大学で学ぶようになる。1943年にリヴァプールの舞台でデビュー、その後、舞台俳優として活躍した。1944年から3年間、英空軍のパイロットとして従軍し、1949年に映画デビューをする。そして、同年、映画で共演した女優シビル・ウィリアムズと結婚した。1952年にはハリウッドに招かれ、「謎の佳人レイチェル」でオリヴィア・デ・ハヴィランドと共演、アカデミー助演男優賞にノミネートされる。舞台ではオールド・ヴィク座の『ハムレット』『オセロ』やブロードウェイのミュージカル『キャメロット』などに主演、英米の垣根を越えて活躍し、特に『キャメロット』では1961年のトニー賞ミュージカル部門の俳優賞を受賞した。映画では「聖衣」「荒鷲の要塞」「イグアナの夜」「ワイルド・ギース」などに出演、「寒い国から帰ったスパイ」や「暗殺者のメロディ」で名演技を見せた。しかし「謎の佳人レイチェル」を初めアカデミー賞に計7回もノミネートされたものの、一度も受賞はしなかった。「クレオパトラ」でスキャンダルとなったリズとの恋は、その後ウィリアムズと離婚し、一方エディ・フィッシャーと別れたテイラーと結婚する。その後は夫婦して、「予期せぬ出来事」「いそしぎ」「バージニア・ウルフなんて怖くない」「じゃじゃ馬ならし」「夕なぎ」などで共演した。 夕なぎその後、バートンはアルコール依存症にかかり、1973年にテレビ映画『離婚』に夫婦共演中に本当に二人の離婚が取り沙汰されるようになり、ついに翌年離婚してしまった。その後1975年10月10日に二人は再婚するが、翌年、再び離婚。1983年のブロードウェイの舞台が二人の最後の共演となった。1966年にテイラーとの関係を綴った本を出版している。テイラーとの離婚後は2度結婚を繰り返し、1984年8月5日にジュネーヴ郊外の自宅で脳溢血により倒れ、市内の病院に搬送されたが遂に天国に召された。享年まだ働き盛りの58歳であった。
2010.01.16
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アニタ・エクバーグ、彼女が印象に残ったのはフェデリコ・フェリーニの名作「甘い生活」だった。キリスト像を吊り下げてヴァチカンに運ぶヘリコプターのシーンから幕が開き、ブルジョワ上流階級の乱痴気パーティを徹底して描き出す。アニタ・エクバーグは快楽と愛の象徴として、アメリカ人女優シルヴィアを演じ、ゴシップ記者役のマルチェロ・マストロヤンニが案内役だ。毎晩のように夜遊びに繰り出すマルチェロと同僚カメラマンのパパラッツオ。図々しいカメラマンを指す「パパラッチ」という造語はここから生まれたそうである。甘い生活マルチェロはシルヴィアに接近、夜のトレヴィの泉に誘い出す。黒い着衣のまま泉に入り、ずぶぬれの演技をするアニタの姿は圧巻だ。この映画で唯一、ロケーション撮影されたトレヴィの泉のシーンは、3月の寒い時期に9日間かけて行なわれ、アニタもマルチェロも凍えそうになっていたそうである。フェリーニに気に入られたアニタはこの映画で一躍スターになったのだ。彼女は1931年9月29日、スウェーデンのマルメで生まれた。ミス・ユニバースのスウェーデン代表になったことがきっかけでアメリカに渡り女優となった。最初はお色気要員として「ミシシッピーの賭博師」(1953)、「凸凹火星探検」(1953)、「熱砂の舞」(1956)、「底抜けコンビのるかそるか」(1956)など、B級映画やコメディに出演、ややまともな作品は「戦争と平和」(1956)ぐらいだろうか。底抜けのるかそるか戦争と平和その後、フェデリコ・フェリーニに気に入られてイタリアに渡り、「甘い生活」に出演しグラマー女優として一躍スターになった。黒いドレスを着た彼女が滝に打たれるシーンはあまりに有名だ。その後フェリーニの作品に何本か出演しているがあまりぱっとせず、1970年以降はほとんど引退した状態である。「甘い生活」で共演したマルチェロ・マストロヤンニと恋愛関係にあった時期がある。ボッカチオ1・2 インテルビスタ彼女の作品には他に「ボッカチオ1・2」「インテルビスタ」などがある。私生活では婚姻暦はなく、独身を貫いていたのかもしれない。現在78歳の老後生活を楽しんでいてくれればいいのだが・・・。
2010.01.15
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オマー・シャリフ、彼の出演映画を初めて見たのは、デヴィッド・リーンの名作「アラビアのロレンス」だった。”砂漠の英雄”を描いた美しくも壮大な映像叙事詩の傑作である。オマー・シャリフは精悍で誠実な砂漠の民の族長を演じていた。当時30歳でエジプトの人気俳優だった彼は、この映画で国際的スターとなったのである。アラビアのロレンスドクトル・ジバゴそして、3年後、続いてリーンが世に問うた「ドクトル・ジバゴ」では、シャリフは主役に抜擢された。「革命」の嵐が吹き荒れるロシアの凍土で怒涛の時代に遭遇しながら、真摯に生きようとする純粋な男ジバゴ。歴史の波に翻弄されながら愛を燃焼させる男女の姿が見事なまでに描き出されている。これは革命を背景に語られる一個人の「愛情物語」である。監督リーンはこう語っている。この映画の最大の難関は冷戦下のためソ連での撮影が不可能なことだった。セット・デザイナーのジョン・ボックスは1年間かけてロシアの大草原や大雪原に似た風景を探し求め、世界各地をロケハンした。撮影は結局スペイン、フィンランド、カナダで行なわれたのである。”内省の人”ジバゴを抑制した演技で演じきったシャリフは誠に見事なものがあったと思う。彼は1932年4月10日、エジプト・アレクサンドリアで、エジプトの裕福な材木商の家庭に生まれた。カイロの大学を卒業後、イギリスへ留学し、ロンドンの王立演劇アカデミーで演技を学ぶ。帰国後1955年にエジプト映画でデビュー。アラブ映画界の人気を確実なものにし、同年エジプト人女優ファーティン・ハママと結婚(1974年に離婚)。1962年に「アラビアのロレンス」のベドウィン族長アリを演じ、ハリウッドデビュー。アカデミー助演男優賞候補にもなり一躍知名度を上げ国際俳優になる。その後「ドクトル・ジバゴ」や「革命戦士ゲバラ」、吉永小百合と共演した「天国の大罪」、「華麗なる相続人」など出演作が続いたが、1980年代は映画から遠ざかっていた。革命戦士ゲバラ! 華麗なる相続人2003年に、「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」でセザール賞最優秀男優賞受賞。「オーシャン・オブ・ファイヤー」などにも出演し、俳優として再活動している。アラビア語、英語、ギリシャ語、フランス語を話す。 彼は現在77歳だ。最初の妻と別れてから特定の人はいないようだ。
2010.01.14
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ピア・アンジェリ、彼女の名を覚えておいでの方は、今でもいるだろうか。そう、事故死したジェームズ・ディーンが唯一心を許した恋人である。可憐な花が咲いたのはデビュー作「明日では遅すぎる」でだった。第2次大戦が終わって5年目、まだ至る所に貧困が見え隠れしていた。そんな時代、共学高校で性に目覚めていく女生徒を演じたピアは、戦前派の教師の眉をひそめさせる振る舞いを見せながら、中のいい男子生徒と嵐の夜を小屋で送る。二人は手を握っただけで何もせずそのままで眠るのだ。今なら間違いなく露骨なシーンになり、ピアの清純なイメージは消えうせていたであろう。ピアは1932年6月19日、イタリアのサルデーニャ島で生まれた。双子の姉妹のマリサ・パヴァンも女優である。16歳のとき、ローマの美術学校卒業後、イタリア映画「明日では遅すぎる」でデビュー。この映画はイタリアンネオ・レアリスモ運動の大きな原動力となり、ヒット作となった。一躍注目された彼女はハリウッド入りし、MGMと契約する。MGMではポール・ニューマンの「傷だらけの栄光」でヒロインを演じるなど清純派女優としてハリウッドで活躍。傷だらけの栄光「エデンの東」撮影中だったジェームズ・ディーンは、隣りのスタジオで撮影中だった1歳年下のイタリア人女優ピア・アンジェリと知り合い、真面目で信心深い彼女にたちまち惹かれ、二人は恋仲になる。傷心 ジェームス・ディーン愛の伝説海岸を歩くなど慎ましやかなデートを続けていた二人だが、僅か数ヶ月で破局を迎える。ピアが突如別人との婚約を発表したのだ。ディーンとの交際を両親から強く反対されたため、あきらめたピアがその反動から急な結婚を決意したらしい。相手は歌手兼俳優のビック・ダモンだった。11月のピアの結婚式を、ディーンは遠くから涙を浮かべて見守っていたという噂まで流れたそうだ。それから10ヶ月後、ディーンは事故死したのであった。彼女の出演作品には「ソドムとゴモラ」などの大作もある。 その後、彼女は二度の結婚に失敗、米国映画の作風の変化(暴力・性的表現の過激化など)についていけなくなったことから歌手としてアルバムなど作品リリースを行なうなどするも人気・仕事では低迷・不遇が続いていたといわれる。ピアの悲劇は「懐かしの映画女優101」に書かれているようだ。1971年9月10日、彼女は睡眠薬バルビツールの過剰服用(自殺説もあり)により急逝、39歳で人生を終えた。可哀相な彼女を悼むほかあるまい。
2010.01.13
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ロッサノ・ブラッツィ、彼の名を永遠に残したのはデヴィッド・リーン監督の名作「旅情」だったのではあるまいか。恋に臆病なため婚期を逸したキャリア・ウーマンのキャサリン・ヘップバーンの相手役を演じ、中年の揺れる女心を見事に描き出した作品だ。旅情彼女が運河に落としたくちなしの花を、彼が手を伸ばして拾い上げようとする。その僅か数センチ先を流れ去る花・・・。小島の浜で語らうふたりの向こうに見える真っ赤な夕焼け、そして、夜明けのサン・マルコ広場を手をつないで歩く二人の姿、胸にしみいる大人の恋の切なさが見事なまでに描かれるのだ。この映画の恋の仲立ちをする”赤いゴブレット”、これをベニスのお土産に手に入れた方も、結構多いのではあるまいか。そして旅立つジェーンを見送りに駆けつけるレナート。人にぶつかり、箱からこぼれ落ちるくちなしの花。ホームの突端でくちなしの花を手にかざして見せるレナートにジェーンは列車の窓から身を乗り出すようにして投げキッスをしてみせる。永遠の別れになるだろう二人を、これほど見事に映像化した作品はそんなにないだろうと私は思う。彼は1916年9月18日、イタリアのエミリア・ロマーニャ州ボローニャで生まれた。4歳の時にボローニャからトスカーナ州フィレンツェに移住し、サンマルコ大学に進学した。学生時代に演劇に関心を持ち、大学卒業後、弁護士事務所に勤務する傍ら、舞台に出演する。その一方でラジオやアメリカ映画のイタリア語版吹替の声優としても活躍していた。1939年にイタリア映画で映画デビュー。1947年に渡米し、マーヴィン・ルロイ監督の「若草物語」(1949年)に出演するが脚光を浴びることなく、帰伊する。その後、再度渡米し、「裸足の伯爵夫人」(1954年)に出演して再出発を果たし、以後、人気を博して国際的に活躍した。ロッサノ・ブラッツィの主な作品を記しておこう。「愛の泉」「裸足の伯爵夫人」「南太平洋」「オーメン/最後の闘争」「女と女と女たち」などである。中でも個人的には「南太平洋」が好きな作品だ。 彼は1994年12月24日、享年78歳で没した。結婚は2回である。
2010.01.12
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モイラ・シアラー、彼女は私が生まれて初めて夢中になった女優兼バレリーナである。中学1年頃のことだったと覚えている。学校の講堂で見たのか、劇場まで連れて行ってもらったかは定かではない。映画は「赤い靴」で、学校推薦の映画だった。ともかく、これが私の人生で最初に見た劇映画だ。1950年(昭和25年)頃のこと、当然テレビもない、ビデオ屋などかけらもない時代である。カラーの美しさとバレエシーンの華やかさに陶然となった。赤い靴映画の終わる頃には主演のモイラ・シアラーにもうメロメロに参っていた。バレエ映画でありながら、悲恋映画でもあるこの作品は芸術と現実という二つの世界を卓越した映像美で描き出したものである。名手ジャック・カーディフのカメラは見事というほかない。時代を経るごとに画面は美しく甦るようである。「観客が君を待っている。悲しみは過ぎる、人生は取るに足りない。踊るんだ、ただ、踊り続けるんだ」バレエ団のレールモントフは主人公のバレリーナ、ヴィクトリアに向かってこういうのだ。それに応えるようにヴィクトリアは見事かつ繊細な踊りを見せるのである。彼女は1926年1月17日、スコットランド・ファイフのダンファームリンで生まれた。本名はモイラ・シアラー・キング。1941年にデビューし、翌年からサドラーズ・ウェルズ・バレエ団(現ロイヤル・バレエ団)へ在籍。この映画の主役に選ばれたのは、46年に「眠れる森の美女」のプリマとして舞台に立っていたモイラ・シアラーだった。彼女の名前を世界へ知らしめたのは、この映画の功績である。1950年、スコットランドのジャーナリスト・作家のルドヴィク・ケネディーと結婚。彼との間には1男3女が生まれ、幸福な結婚生活を全うする。彼女の他の出演作品としては、「ホフマン物語」「三つの恋の物語」などがある。歌劇『ホフマン物語』クラシック名画セレクション1953年、バレエダンサーを引退。俳優を続けるが、年齢とともにバレエ評論などに軸足を移していき、デイリー・テレグラフ誌に執筆もしていた。2006年、オックスフォードの病院で病没した。享年80歳、彼女は天国への階段を優雅に踊りながら昇ったのだろうか。バレエ書籍バレリーナの肖像バレエ界でプリマを目指す人は、ぜひ一度はこの映画を見ておいていただきたい。
2010.01.11
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Fred Astaire フレッド・アステア / Fred Astaire: Jukebox Memories 輸入盤 【CD】 フレッド・アステア、彼ほどミュージカル映画に偉大な足跡を残した人物はいないだろう。こう書くとジーン・ケリーがいるじゃないかという人もいるだろう。ジーンも優れた踊り手だったが、アステアは別格だ。水が流れるような踊りとは彼の踊りを云うのだろうか。それに何といってもエレガントだった。ジンジャー・ロジャースと組んで踊ったナンバーの数々、だが、私にとって特筆すべきナンバーは、「バンド・ワゴン」でシド・チャリシーと馬車を下りて公園で踊る場面だ。あの優雅さは絶品を通り過ぎてもう神技以外の何物でもあるまいと思う。バンド・ワゴンそれと、「恋愛準決勝戦」だ。これには度肝を抜かされた。単なる撮影のテクニックに過ぎないのだが、踊りながら壁面から天井まで逆さになってタップを踏むのである。これも映画の可能性を見せてくれた作品として長く記憶に残る映画である。アステアは本当に踊りの名手だったと云えるだろう。彼は1899年5月10日、ネブラスカ州オマハで生まれた。本名フレデリック・オースターリッツ。母ジョハナ・"アン"(旧姓ガイラス)はルター派のプロテスタントで、東プロイセンとアルザスからの移民二世。父フレデリック・"フリッツ"(旧姓名はフリードリヒ・エマヌエル・アウスターリッツ)はカトリックに改宗したユダヤ人を両親としてオーストリアのリンツに生まれた移民一世だ。4歳からダンス・スクールに学んだアステアは、2歳上の姉のアデールとコンビで全米のヴォードヴィル劇場を巡演し、人気を得た。17歳でブロードウェイにダンサーとして進出を果たし、20歳で名声を確立。1921年には、22歳で姉・アデールと舞台『バンド・ワゴン』を大成功させた。しかし、1931年にアデールは結婚を機に芸能界から引退したため、弟のアステアは新たな活路を模索する。映画界への転進を目指し、ハリウッドでカメラ・テストを受けたが、当初の評価は散々だった。それでもステージで培われた実力でスクリーンへの道を拓き、1933年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー映画「ダンシング・レディ」へのゲスト出演でスクリーンデビューする。続いて当時の大手映画会社の1つで経営難にあったRKOと契約しジンジャー・ロジャースとコンビを結成、1933年以降、主演映画作品において華麗なダンスを披露した。アステアとロジャースは1939年までRKOで数々のドル箱ヒット作を生み出し、RKOは二人のダンス・コメディ映画シリーズによって経営を立て直した。トップハットに燕尾服、ホワイトタイというエレガントなスタイルで、当時最高の作詞家・作曲家たちの手になるナンバーを歌い踊るアステアは、不況下のアメリカの大衆を熱狂させた。アステアとロジャースは、映画史上最高のダンシング・ペアとされ、二人の一連の主演作は「アステア=ロジャース映画」と半ばジャンル的な扱いをされ、現在に至るも評価されている。アステア&ロジャース GOLDEN BOXだが、アステア=ロジャース映画も終りを見せ、アステアは、1940年からはフリーで映画出演をする。この頃、タップ・ダンサーのエレノア・パウエルやリタ・ヘイワースらとコンビを組み、タップダンスで競演を見せた。特に1940年の「踊るニュウ・ヨーク(踊る紐育)」でのタップシーンは秀逸であり、エレノアとの名人どうしの火花散るようなステップが、この映画の底抜けの楽しさを引き出すことに成功しているが、興行的にはロジャースとのコンビには及ばなかった。1948年、「ポスト・アステア」の地位にあった同じMGM所属のジーン・ケリーが撮影中に怪我を負ったため、代わってアステアが「イースター・パレード」の主役を引き受けた。イースター・パレードアステアの相手役は当時26歳のジュディ・ガーランド、彼女はアステアに一歩も引けを取らず、洒落た歌と練達の踊りを披露した。この「イースター・パレード」が世界的なヒットと成功をおさめ、”過去の人”となりかけていたアステアの人気は三たび急上昇する。MGMの二枚看板としてジーン・ケリーと共に活躍したが、二人の共演は「ジーグフェルド・フォリーズ」と「ザッツ・エンタテインメント」の2作にとどまっている。 1953年には、ヴィンセント・ミネリ監督の豪華な大作「バンド・ワゴン」に主演してミュージカル映画の最高峰との評価を得た。本作はアステアの長いキャリアにおける一つの頂点と云えるだろう。アステアのエレガントなダンスには「洗練」という言葉が最も当てはまる。彼はダンスに洗練と品格の両方を備えさせることに成功した、二十世紀を代表するダンサーであり不世出の天才と言えるだろう。正統派のダンス・ファッション共々「粋」を極めたダンサーだった。プライベートでのアステアは、ボストンの富豪の娘のフィリス・ポッターと1933年に結婚した。約21年間彼女と結婚生活を送るも、フィリスは脳腫瘍に罹り、46歳の若さで急逝した。愛妻の死で悲嘆に暮れたアステアは長年を独り身で過ごしたが、晩年に女性騎手のロビン・スミス(当時35歳)と出会い、1980年に再婚。アステアが1987年6月22日に88歳で亡くなるまで、彼女と幸せに過ごしたという。フレッド・アステア自伝
2010.01.10
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◆一生涯保証付・一点もの◆[直筆サイン入り写真] ローレン・バコール (Lauren Bacall)ローレン・バコール、彼女は云わずと知れたボギー(ハンフリー・ボガート)の賢夫人である。いや、あったというべきか。記憶に残っている彼女の映画は、デビュー作「脱出」だ。フランスがドイツに降伏した直後の港町を舞台に、ボガート演じる釣り用クルーザーの船長モーガンは、反ナチ運動の同志脱出に力を貸してほしいと云われて引き受けるかどうか迷う。だが、金に惹かれて引き受けようとする。モーガンを愛しているマリーはモーガンに会いにきて、「金が必要で引き受けたのならやめて、金ならここにあるわ」という。彼女はモーガンを危険な目に遭わせたくないのだ。モーガンにキスするマリー。「なんで、そんなことをする?」「どんな気持ちになるか知りたかったのよ」「どうだった?」「1回じゃ分からないわ。・・・あんたがその気になるとずっとよくなるわ。・・・気持ちは変わらないのね。あんたは誰からも貰わない主義?」「その通りだ」「お金も、この唇も、どっちも私のもの。同じことだと思うけど・・・、いいわ。OK。用があったら口笛を吹いてね。口笛の吹き方、知っているでしょ?」脱出二人の洒落た会話が弾むのだ。1年後、ボギーは口笛を吹いた・・・かどうかは知らないが、バコールはボギーと結婚した。25歳も年齢差がありながらだ。あと一本はバコールらしい作品、カーク・ダグラスと共演した「情熱の狂想曲」である。トランペットに人生を賭けた主人公を徹底的にいじめ、破滅に追い込む悪女役だ。これは余りの憎たらしさに震えそうになったくらいである。情熱の狂想曲彼女は1924年9月16日、ニューヨーク・ブルックリンで、ユダヤ系ドイツ人及びルーマニアユダヤ人の移民家庭に生まれた。イスラエル大統領シモン・ペレスとは従兄弟同士である。ファッションモデルのかたわら、舞台に端役出演していたところ、ハーパース・バザー誌に載っていた彼女の写真がハワード・ホークス夫人の目にとまり、1944年「脱出」で映画デビューした。共演したハンフリー・ボガートとは翌年結婚。25歳の年の差があったが、二人の仲は終始円満で、ボガートが癌で亡くなるまで続いた。彼女はバレエで培った抜群のプロポーションを持ち、「The look(ザ・ルック)」と呼ばれる上目遣いの表情と、ハスキーボイスが特徴。決して美人ではないが、威厳に満ちた眼差しで、ボギーに引けを取らない”格”のあるカッコいい女性だった。1960年代以降は、主として舞台で活躍し、1970年にはトニー賞を受賞した。バコールの作品には、「三つ数えろ」「潜行者」「風と共に散る」「ミザリー」「百万長者と結婚する方法」など多数ある。 私生活は1957年ボガートと死別後、1961年に俳優のジェイソン・ロバーズと再婚したが1969年に離婚。ロバーズとの間に生まれたサム・ロバーズも俳優となり、「アメリカン・ビューティー」「A.I.」などに出演している。1979年に発刊された自伝『ローレン・ バコール/私一人』はベスト・セラーになった。2009年11月、第82回アカデミー賞(翌年3月授賞式)名誉賞授賞式「ガヴァナー・アワード」が開催され、彼女は名誉賞を受賞している。フォクシー ローレンバコールバック
2010.01.09
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リノ・ヴァンチュラ、彼は精悍な風貌の男だ。「現金(げんなま)に手を出すな」のギャング役でデビューし、フィルム・ノワールの名優として知られた人物である。パリで出会った男女三人の夢と冒険を描いた1960年代のフランス青春映画の金字塔である「冒険者たち」は見事な傑作だった。冒険者たちヴァンチュラは人間味のあるローランをユーモアを交えて演じている。それはフィルム・ノアールで見せた冷酷さとは対極にあるものだった。ローランが買った島に財宝を狙ってやってきたギャングたちにマヌー(アラン・ドロン)は撃たれて死んでいく。「マヌー、レティシア(ジョアンナ・シムカス)は云ったぞ。お前と暮らすって・・・この嘘つきめ」ローランはマヌーの身体を揺すりながら、呟くのだ。その目からこぼれる熱い涙・・・。それは胸が熱くなるような演技だったと思う。彼は1919年7月14日、イタリア・パルマ出身の俳優で、フランス映画界で活躍した。18歳で学業を止め、様々な仕事に就いた。そのうちレスリングをはじめ、1950年にはヨーロッパチャンピオンにまでなり、前途は洋々たるものだったが、怪我が元で選手としてのキャリアを断念せざるを得なくなった。そんな時、次回作のためのギャング役を探していたジャック・ベッケルに見出され、1954年にジャン・ギャバン主演の「現金に手を出すな」で映画デビュー。ヴァンチュラに感銘を受けたギャバンは、そのまま演技を続けるように助言、彼はギャバンの言葉を素直に受け入れ、フィルム・ノワールやギャング映画に多く出演し、1980年代まで活躍したのである。彼の作品には「情報(ネタ)は俺が貰った」「レ・ミゼラブル」「【ポスター】影の軍隊」「最後のアドレス」など、フィルム・ノワール作品が多く見られる。 私生活は妻一人を守り続けた。そして、1987年10月22日、享年68歳であの世に迎えられた。
2010.01.08
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アリダ・ヴァリ、彼女の名前は名画「第三の男」のラスト・シーンで永久に映画史に語り継がれるであろうと思う。それくらう強烈なラストだった。ハリー(オーソン・ウェルズ)の二度目の葬式のあと、並木道をわき目もふらず歩き去るアンナ(アリダ・ヴァリ)。一人道端でアンナを待っているハリーの友人だった男、ホリー(ジョセフ・コットン)。その眼前をただ前を向いて通り過ぎていくアンナの姿ははっきりと拒絶の意思を現わしているのだ。チター一本で「第三の男」の映画音楽を完成させたアントン・カラスの作曲は実に見事なものであった。ロンドンのキャロル・リードの家に呼ばれたカラスは半年間、監督の家に”軟禁”され、作曲のためにラッシュ・フィルムを500回も観たという。闇に刺す一条の光がハリーの顔を一瞬映し出す。事故死が偽装だったことがわかる衝撃的なこのシーンは、名場面の多いこの映画の中でも忘れられない場面だ。だが、それ以上に並木道を歩き去るヴァリの姿は私たちの脳裏に永久に残ることであろう。そして、もうひとつ、ヴァリの魅力を描き出した作品はヴィスコンティの映画「夏の嵐」と思う。官能の渦に飲み込まれ、不倫の愛にのめりこんでいく伯爵夫人の姿を描き出し、”女の業”を見せてくれた。どちらの作品も長く映画ファンの記憶に止められることだろうと思う。ヴァリは1921年5月31日、イタリア・イストリア半島のポーラ(現クロアチアのプーラ)で生まれた。両親共複数のルーツを持つ。 父方の祖父ルイージ・アルテンブルガー男爵はトレント出身オーストリア系イタリア人で、ジャンバプティスト・コントダルコの子孫。父方の祖母エリーサ・トマシはトレント生まれで、ローマ上院議員エットレ・トロメイの従姉妹。ポーラ出身の母シルビア・オーベレッケル・デッラ・マルティナはライバハ(オーストリア)(現スロベニアのリュブリャナ)出身ドイツ系オーストリア人フェリクス・オーベレッケルが父、母ヴァージニア・デッラ・マルティナがポーラ出身。本名は神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)アリダ・マリア・ローラ・アルテンブルガー・フォン・メルケンステイン・フラウエンベルク男爵夫人。ローマ第3大学博士号授与、フランス文化勲章受賞、イタリア騎士勲位受賞。ジャズ・ピアニストで作曲家、画家のオスカル・デ・メーヨと結婚し、2児に恵まれるも8年で離婚。 なんと言う凄い出自だろうか。読むだけで頭がクラクラして来そうだ。15歳からローマの映画センターで演技を学び、1935年から映画に出るようになった。1941年の"Piccolo mondo antico"に出演、ヴェネチア国際映画祭で賞を受けるなど高い評価を受けた。戦時中はファシスト政権を嫌って出演を断ったために逮捕されそうになったこともあったという。その後デヴィッド・O・セルズニックと契約してハリウッド映画にも出演、だが、強い訛りのためか成功はしなかった。しかし、イタリアでは100本以上の映画に出演し、舞台にも出ており晩年まで活躍した。ヴァリの作品を見てみよう。「パラダイン夫人の恋」「さすらい」「アポロンの地獄」「われら女性」などがある。 彼女は2006年4月22日、享年84歳で天国からのお迎えに従い、天使と階段を上って行った。
2010.01.07
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ジェームス・メイスン、彼の作品で記憶に残っているのは「砂漠の鬼将軍」と「海底2万哩」だ。「砂漠の鬼将軍」は”砂漠の狐”と呼ばれたドイツ軍の猛将ロンメル元帥の悲劇的な生涯を描いたもので、彼の神出鬼没な戦闘ぶりを余すところなく映し出している。「海底2万哩」はジュール・ベルヌ原作の映画化で、潜水艦ノーティラス号を使って理想の国を造ろうとするネモ船長を描いた傑作と云えよう。「砂漠の鬼将軍」の激烈な戦闘場面、「海底2万哩」の化け物イカとの戦いなど、どちらもみるべきものは多い。砂漠の鬼将軍海底2万マイル ジェームズ・メイソンは1909年5月15日、イングランドのウエストヨークシャー州で生まれた。毛皮商人の家に生まれたが、建築士を目指してケンブリッジ大学で建築を専攻し学位も取る。だが、折からの不況で仕事を軌道に乗せられず、もう一つの夢であった演劇に関わるようになる。学生劇の舞台に立った後、ある舞台劇の地方公演の主演者に応募、その芝居の公演でプロとしてスタートを切った。そして、クロイドンの舞台をへて、1933年にロンドンにデビュー。舞台から1935年には映画にもデビューし、1943年に変質者の主人公を演じた「灰色の男」や、1945年の女の横っ面をひっぱたくシーンが物議を醸した「第七のヴェール」が出世作となり、さらに1946年にはキャロル・リードの「邪魔者を殺せ」で人気は決定的なものとなった。 ベルベット・ボイスと呼ばれた柔らかい声が激情と共に太く変化していく怖さと几帳面な演技は批評家に絶賛され、この頃にデイリー・メール紙によって最もポピュラーなイギリス俳優として選出された。1947年にはブロードウェイにデビューし、ハリウッドにも進出。「砂漠の鬼将軍」「ジュリアス・シーザー」「スタア誕生」などで幅広いファンをつかんだ。自分の気に入らない役は絶対に引き受けないと公言するほどの自信家で、役の善悪を問わず、主役から脇役まで自由自在に演じ、1984年の死去までに出演作が100本以上に及ぶ息の長い俳優人生だった。だが彼はローレンス・オリビエと並び称されるイギリス人俳優でありながら、大きな賞とは縁のない俳優人生を送ったのである。メイスンの主な出演作品としては、「ロリータ」「北北西に進路を取れ」「華麗なる相続人」「パンドラ」など多数ある。 私生活では1940年に共同で脚本を執筆したことのあるパメラ・ケリノと結婚、一男一女を儲け、二人して1949年と1957年に本も出版したが、1964年に離婚。1969年に「としごろ」で共演した女優クレリッサ・ケイと1971年に再婚した。晩年はスイスに移住していたが、1984年7月27日にローザンヌの自宅にて心臓発作で亡くなった。
2010.01.06
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ヴェラ=エレン、彼女の名をミュージカル映画ファンなら、忘れることはないだろう。「ホワイト・クリスマス」ではローズマリー・クルーニーと演じた姉妹役で見事な踊りを見せてくれた。ホワイト・クリスマス この映画のラスト・シーンは感動的だった。大戸を開けると雪、雪、雪の一面の銀世界、その雪が私には美しく輝いて見えた。彼女は1921年2月16日、シンシナティの郊外、オハイオ州ノーウッドでドイツの移民の子孫であるマーティン・ローエとアルマ・キャサリン・ウエストメイヤーの間で生まれた。本名はヴェラ・エレン・ウエストマイヤー・ローエ。 彼女は9才でダンスを始め、上達が早かった。16歳の時Major Bowes Amateur Hourで勝ち抜き、プロとして活動を始めた。1939年、18才でジェローム・カーンとオスカー・ハマースタイン2世のミュージカル『Very Warm for May 』でブロードウェー劇場でデビューした。彼女は背が高くなかったが、ラジオシティ・ミュージックホールのThe Rockettesで最も若いメンバーの1人となった。それくらい彼女の踊りには迫力が漲っていた。ブロードウェイの『パナマ・ハッティー』、『バイ・ジュピター』、『コネティカット・ヤンキー』で演じていた所をサミュエル・ゴールドウィンに見出され、1945年の映画「ダニー・ケイの天国と地獄」に出演。ダニー・ケイとヴァージニア・メイヨの敵役を演じることになる。 作品は好評で彼女は「ワーズ&ミュージック」(1948年)、「オン・ザ・タウン」(1949年)とジーンケリーの相手を務め見事なデュエットを踊って見せてくれた。また、「銀の靴」、マルクス兄弟の最後の映画「ラヴ・ハッピー」(1949年)にも出演している。「土曜は貴方に」(1950年)と「ベル・オブ・ニューヨーク」(1952年)でフレッド・アステアと並び主役となり、彼のダンス・パートナーになった。「ホワイト・クリスマス」(1954年)でビング・クロスビーと、「Call Me Madam 」(1953年)、「Let's Be Happy 」(1957年)でドナルド・オコーナーと共演している。1950年代、彼女は「ハリウッドの最も細いウエスト」と言われ拒食症で苦しんだと言われる。摂食障害により彼女の実際の年齢より上に見えるため、「ホワイト・クリスマス」の彼女の衣装はローブとナイトウェアを含み全て首を覆うようになっていた。彼女は1957年に映画界を引退した。私生活ではヴェラ=エレンは二回結婚。1941年から1946年までの最初の夫はダンサー仲間のロバート・ハイタワー。1954年から1966年までの2番めの夫は、大富豪ビクター・ロスチャイルド。どちらの結婚も離婚で終わったのは不幸である。ロスチャイルドとの結婚中、娘を出産しビクトリア・エレン・ロスチャイルドと名付けたが、1963年乳幼児突然死症候群で死亡。彼女は子供の死後、公の場から姿を消した。ショックで自身の姿を見せるに忍びなかったのであろうか。1981年8月30日、彼女は失意のうちにロサンゼルス州カリフォルニアでガンで死亡した。60歳の末期だった。
2010.01.05
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【一生涯保証付・一点もの】[直筆サイン] (映画 マイ・フェア・レディ) レックス・ハリソン レックス・ハリソン、彼はなんと言ってもオードリー・ヘップバーンが演じた「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授役に尽きる。一介の花売り娘を優雅なレディに仕立て上げるヒギンズ教授の悪戦奮闘ぶりが何とも見事だ。舞台で1000回もヒギンズを演じてきたハリソンだけに、お手の物の役だっただろうが、舞台と映画の違いに苦労したであろうと思える。そして、結果は見事アカデミー主演男優賞の獲得になった。マイ・フェア・レディ「おまえは腐れキャベツだ。だが私なら女王に仕立てられる」花売り娘イライザに、ヒギンズ教授がこう言い放つところから、物語の幕が開く。この作品の見どころは、みすぼらしいあひるから白鳥に成長するヘップバーンの変身ぶりであろう。当初、イライザ役の最有力候補は、ブロードウエィの舞台でイライザ役を好演していたイギリス人女優、ジュリー・アンドリュースだった。ところが白羽の矢が立ったのは、オードリーだった。その理由は、「アンドリュースは実力のある舞台女優だが、ヘップバーンほどの知名度はない」とワーナーの製作者は述べている。ヒロインに選ばれたヘップバーンは、その知らせを受けて、歓声をあげ家中を跳び回ったそうである。実はこの役はどうしてもやってみたかった役であったのだ。ヘップバーンと組んだレックス・ハリソンは華麗なる”現代のシンデレラ物語”を完成させたのである。ハリソンは1908年3月5日、イギリス・ランカシャー州出身である。父は絹仲買人。リヴァプールカレッジに進んだが、16歳の時に巡業劇団に入って、リヴァプールのレパートリー劇場で初舞台を踏んだ。1930年にロンドンの舞台に進出、1936年にはブロードウェイの舞台に立つ。主に都会派コメディで活躍。1940年代には『陽気な幽霊』、『アンナとシャム王』、『幽霊と未亡人』といった名作に出演、上品で洗練された個性で多くの女性ファンを獲得した。1949年と1957年にトニー賞を受賞。1964年公開の「マイ・フェア・レディ」では、1956年にブロードウェイで初演したヒギンズ教授役でアカデミー主演男優賞およびゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞。自身最高の当り役となった。彼の映画作品には、舞台劇の映画化作品が多い。「アンナとシャム王」「幽霊と未亡人」「陽気な幽霊」「殺人幻想曲」などがそうだ。 ほかにも「黄色いロールスロイス」「華麗なる激情」「クレオパトラ」など、優れた作品にも彼は出演している。単なる舞台俳優ではないのである。 彼はプレイボーイとしても名を馳せ、リリー・パーマー、ケイ・ケンドール、レイチェル・ロバーツなど生涯に6度の結婚をしている。レクシー・ハリソン(レックスとセクシーを合成させた)の異名をとったことでも有名だ。やがて、1990年6月2日、天国から迎えがやって来た。82歳で彼の地の住人となったのである。
2010.01.04
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Dorothy Lamour / Lovelight In The Starlight 輸入盤 【CD】ドロシー・ラムーア、といえば「珍道中もの」の紅一点だろう。ボブ・ホープ、ビング・クロスビーとトリオを組んで世界各地を渡り歩いた。さしずめ日活の「渡り鳥シリーズ」のハリウッド版といってもよかろうと思う。「シンガポール珍道中」を皮切りに続々と公開され、絶大な人気を保ったものである。ボブとビングの陰に隠れていたものの、ドロシーの人気はうなぎ登り、そのエキゾチックな色気は、「珍道中シリーズ」には無くてはならない存在となった。ドロシーは1914年12月10日、ルイジアナ州ニューオリンズで生まれた。1931年にミス・ニューオリンズに選ばれた後、歌手を目指してシカゴに移り、バンドで歌ったりラジオに出演するようになった。1936年にハリウッドに移り、パラマウント映画と契約し「ジャングルの女王」で映画デビューする。1940年からはビング・クロスビー、ボブ・ホープ主演の「珍道中シリーズ」に出演し、人気女優になった。彼女の作品には、「ハリケーン」「地上最大のショウ」「ハリウッド玉手箱」「フレッド・アステア PART2」などがある。 私生活では2回結婚、1996年9月22日、享年81歳で天国から迎えがやってきた。
2010.01.03
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ボブ・ホープ / Thanks For The Memories 輸入盤 【CD】ボブ・ホープ、喜劇役者として有名な彼の名を忘れてはなるまい。私が初めて彼の映画を見たのは中学2年生のとき、学校の帰りだったと思う。映画は「腰抜け二挺拳銃」だった。今見返すと面白くも何ともないのだが、当時の館内は爆笑に次ぐ爆笑だったように思う。私も大口開いて笑っていた。面白かったのはボブがインディアンに捕まり、股裂きの刑に処せられル場面だ。2本の樹の枝に脚をくくりつけ、インディアンが斧で縄を切る。宙を飛んで消えるボブ、「ヘルプ~ヘルプ~」と樹のてっぺんから声がする。今にも折れそうな木にしがみついて喚いているボブのおかしさ。「バッテンボ~」の歌は大流行したものだ。ラストシーンは馬車に乗ったボブとジェーン・ラッセルが鞭を当てると、ジェーンだけが馬に引きずられて行くシーンでENDが出る。彼はボブ・ホープ(Bob Hope)の名でよく知られるイギリス生まれのアメリカのコメディアンである。ボブは1903年5月29日、ロンドンのエルサムで、七人兄弟の五番目として生まれた。父親のウィリアム・ヘンリー・ホープはウェストン・スーパーメア出身の石工で、母親のエイヴィス・タウンズはウェールズ出身のライトオペラ歌手だった。一家はウェストン・スーパーメア、ホワイトホール、ブリストルのセント・ジョージで暮らし、その後1907年にアメリカ合衆国のオハイオ州クリーブランドに移住する。ボブは1920年にアメリカ合衆国の市民権を得たそうである。ボブは最初の妻グレース・ルイーズ・トロクセルと1933年1月25日に結婚した。彼女はホープの1928年からのヴォードヴィルのパートナーだったが、二人はすぐに離婚。そして二番目の妻ドローレス・デフィーナと、1934年2月19日に結婚している。彼女はブロンクス出身で、ドローレス・リーデという芸名でナイトクラブで歌っていた。ドローレスの出演していたマンハッタンのナイトクラブ、ザ・ヴォーグで出会った彼らは、二ヶ月後には結婚していたそうである。二人はイリノイ州エヴァンストンの孤児院から四人の子供を引き取り、子どもたちはホープの死まで共に暮らしたという。彼が映画界で名を上げたのは、1938年のミュージカル映画 「百万弗大放送」で演じた、豪華客船の船内放送アナウンサー役が最初である。ボブの最も有名な作品としては、ビング・クロスビー、ドロシー・ラムーアと競演したパラマウント映画のドタバタロードムービー「珍道中シリーズ」 (1941-) があげられる。「珍道中」シリーズには、「アラスカ珍道中」「バリ島珍道中」「アフリカ珍道中」「ミサイル珍道中」など多数あり、ボブとクロスビーの掛け合い、楽屋落ちギャグを連発したことで人気を博し、また歴史に残るスタンダードナンバーを数多く生み出している。 彼は第二次世界大戦勃発以後、朝鮮戦争、ベトナム戦争から、湾岸戦争まで、約60年間に亘っておよそ60回の慰問ツアーを行っている。この慰問活動は、軍隊に志願入隊しようとしたところ、「エンターテイナーとして兵士を楽しませることがより役に立つ」と諭されたことに始まる。おそらくは、史上もっとも熱心に軍人慰問活動に取り組んだ芸能人の一人だろう。 彼の他の作品には「腰抜け二挺拳銃の息子」「腰抜けモロッコ騒動」などがある。 また、ボブ・ホープは熱心なスポーツファンとして有名で、プロ・ボクサーの経験があり、ハスラーでもあり、フットボールは見るだけでは飽きたらず、クリーブランド・インディアンズおよびロサンジェルス・ラムズを共同所有すらしたという。ゴルフファンとしても有名で、PGAツアーの出場経験もあり、彼にちなんで命名されたボブ・ホープ・クラシックはなんと44年の歴史を刻んでいる。さらに、アイゼンハウアーからジョージ・W・ブッシュまで、アメリカのほぼすべての大統領とゴルフをプレーしている。1983年に世界ゴルフ殿堂入りしたというのだから、大変なものである。ボブは非常な長寿であったので、生前の死亡記事という類い希な経験を2回もしている。1回目は、1989年、AP通信社により誤報がなされ、アメリカ下院で追悼演説が行われる椿事となった。2回目は、有名人の死亡記事の準備稿が、ミスにより出稿になってしまったそうだ。だが、当のボブは一向に「くたばる」こともなく、2003年5月29日には、100歳の誕生日を祝った。それから2か月後の2003年7月27日、午後9時28分に、肺炎のため自宅で死去した。娘のうちの一人によれば、臨終にあたって埋葬法を尋ねられた時、彼は「何かびっくりさせてくれ。"Surprise me." 」と妻に伝えたとのことであった。まさに巨星落つという感じであっただろうか。
2010.01.02
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今年もどうぞよろしくお願い致します。これまで男女優合わせて208名の俳優人生を書いてきました。俳優も人の子、まさに百花繚乱、さまざまな人生模様を描き出してくれたと思います。歴史にその名を刻んだ俳優たちも多くいました。最後まで諦めることなく、失敗をも成功に変えるまで頑張り続けた彼ら、彼女たちの生き様は見事です。私たちも彼らに負けずに美しいシュプールを描こうではありませんか。今年が皆様にとって、サイコーの1年でありますように、心よりお祈りしつつ。 (作者) 今年の最初は無声映画の俳優たちを紹介します。* バスター・キートン(1895.10.4~1966.2.1)* ハロルド・ロイド(1893.4.20~1971.3.8)* ダグラス・フェアバンクス(1883.5.23~1939.12.12) ”笑わぬ喜劇王”と呼ばれたキートンの笑殺長編「荒武者キートン」、”ロイド眼鏡”がトレードマークになったロイドのアクション決定版「ロイドの牛乳屋」、それにハリウッドの王様といわれたダグラス・フェアバンクスの連続アクション作品「バクダットの盗賊」など、無声映画の一級品ばかりです。女優陣には・・・* リリアン・ギッシュ(1893.10.14~1993.2.27)* ノーマ・シアラー(1902.8.10~1983.6.12)* クララ・ボウ(1905.8.25~1965.9.27) リリアン・ギッシュのガラス細工のように繊細な美貌と名演技が紡ぎ出した傑作「散り行く花」、MGMの看板女優ノーマ・シアラーの「マリー・アントワネットの生涯」、健康的な色気で一世を風靡したクララ・ボウの名作「つばさ」など、20年代に活躍した名花たちの数々をごらんください。
2010.01.01
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