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アルバート・フィニー、彼の名を瞬時に思い出せない人でも、八の字ひげの太った名探偵といえば、ああ、あの男と即座に思い出すのではあるまいか。豪華なキャストが話題になったシドニー・ルメット監督によるミステリ映画、アガサ・クリスティ原作の「オリエント急行殺人事件」の私立探偵エルキュール・ポアロがそうである。ポワロはこの人のオハコであろうか、難事件をものの見事に解決するのである。どんなことも彼の手にかかると解決できないものはない。こうなると日本の未解決事件に手を貸してほしいくらいである。しかもこの映画では被害者が極悪人であると知って、大岡越前並の人情裁きを下すのである。なんとも恐れ入った解決法だ。彼は1936年5月9日、イギリスのマンチェスターで生まれた。王立演劇学校を卒業し、舞台で活躍。1960年に映画デビューした。これまで5度アカデミー賞にノミネートされており、1963年の「トム・ジョーンズの華麗な冒険」ではヴェネチア国際映画祭男優賞を、1983年の「ドレッサー」ではベルリン国際映画祭男優賞を受賞、これまでに3度ゴールデングローブ賞も受賞している。トム・ジョーンズの華麗な冒険その他、彼の出演作品には「アニー」「エリン・ブロコビッチ」「プロヴァンスの贈りもの」「ビッグ・フィッシュ」など、その数は多い。 1990年以降は、コーエン兄弟、スティーブン・ソダーバーグ、ティム・バートンなど、スタイリッシュな監督の作品で多く活躍している。私生活では1970年にフランスの女優アヌーク・エーメと結婚したが、1978年に離婚した。1964年(昭和39年)7月に来日している。彼はまだ73歳、元気で頑張ってほしい。
2010.04.30
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ロザリンド・ラッセル、彼女を見たのはジョシュア・ローガンの作品「ピクニック」だ。22歳のキム・ノヴァックを支えて、大スターへの道を踏み出させた。彼女の役は女性教師ローズマリー役で、善良な商人ハワードに結婚を申し込み祭りの翌朝、新婚旅行に旅立ってしまう。お話としてはマッジ(キム・ノヴァック)とハル(ウィリアム・ホールデン)の恋が主体だが、ローズマリーのオールド・ミスの話も忘れがたいものがある。彼女は1907年7月4日、コネティカット州ウォーターバリーで生まれた。カトリック学校に行った後、ニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アート(American Academy of Dramatic Arts)で演技を学んだ。ファッション・モデルやブロードウェイでの経験を経た後、ユニヴァーサル映画と契約したが、すぐにメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに移り1934年にデビュー。コメディでその持ち味を発揮し、特に1940年、ハワード・ホークス監督のスクリューボール・コメディ 「ヒズ・ガール・フライデー」 が有名。その他の作品としては「チャイナ・シー」「ワンダフル・タウン オリジナル・ブロードウェイ・キャスト」がある。 彼女はアカデミー賞ノミネートは4回、ゴールデングローブ賞を5度受賞、トニー賞も受賞しており、映画・舞台の両方で活躍した女優だ。中々の実力派だったと云えるだろう。 惜しむらくは1976年11月28日、死去した。享年69歳だった。
2010.04.28
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リー・J・コッブ、彼の演技には印象に残るものが多い。中でもエリア・カザンの「波止場」は秀逸だったと言えよう。波止場彼は沖仲仕を牛耳るボスのジョニー役を演じ、ボクサー崩れのテリー役を演じたマーロン・ブランドの演技を際立たせた。兄を殺されたテリーがジョニーと対決するシーンの迫力、二人の殴り合いの凄絶さはしびれるものがあった。そして、法廷でジョニーの犯罪をテリーに証言され、がっくりする場面。ブランドのアカデミー賞受賞は彼の存在あってのものだろうと思う。彼は1911年12月8日、ニューヨーク州ニューヨーク市で生まれた。アーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』の主人公ウイリー・ローマンの演技でその名を知られ、舞台と映画の両方で活動した。1954年の映画「波止場」ではギャングのボスを、1958年の「カラマーゾフの兄弟」では家長のフョードルを演じてアカデミー助演男優賞の候補にもなった。彼の出演作品は他に「十二人の怒れる男」「灰色の服を着た男」「マンハッタン無宿」「追跡者」など多数ある。 晩年に演じた役として「エクソシスト」でのキンダーマン警部がある。エクソシスト1976年2月11日、心臓発作で死去。享年64歳であった。
2010.04.26
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フランソワーズ・ドルレアック、彼女の名を覚えておいでの方はいるでしょうか。まだ25歳の若さで突然の事故のため、天国に駆け上がった女性。「ロシュフォールの恋人たち」で見事な演技を見せてくれた彼女の姿は忘れられないものがある。この作品はジャック・ドゥミ監督のミュージカル映画で、カトリーヌ・ドヌーヴと実の姉であるフランソワーズ・ドルレアックを始め、ジーン・ケリー、ジョージ・チャキリス、ジャック・ペラン、ダニエル・ダリュー、ミシェル・ピコリといった仏米の豪華な出演者が登場している。 ロシュフォールの恋人たちフランス西南部の海辺の街ロシュフォールは、年に一度の祭を二日後に控え、賑わっていた。その街にはソランジュとデルフィーヌという美しい双子姉妹が住んでおり、ソランジュは音楽家を、デルフィーヌはバレリーナを志し、いつの日かこのロシュフォールから飛び出し、花の都パリで自分達の力を試してみたいと思っていた。また彼女たちは、いつの日か素晴らしい恋人にめぐり逢いたいという夢を抱いていた。そして祭りの日がやってきた。広場にはたくさんの舞台が組立てられ、様々なショウが繰り広げられた。とあるきっかけで、エチエンヌとビルの二人組みにショウの出演を頼まれたソランジュとデルフィーヌの姉妹も舞台に立ち、歌と踊りを披露した。この歌と踊りの見応え充分なことよ。ショウは大成功だった。ショウの後でエチエンヌとビルは、これからも自分達と一緒に仕事をして歩けばパリにも行くことが出来ると、姉妹を誘った。そして彼女らは、「パリへ行って大芸術家になろう。素晴らしい恋人にめぐりあえるかもしれないし・・・」と同行を承知する。だが、”素晴らしい恋人”はすぐ近くにいた。そして姉妹二人は・・・彼女は1942年3月21日、パリで生まれた。父親は俳優のモーリス・ドルレアック、妹は女優のカトリーヌ・ドヌーヴ。10歳の時から舞台に立ち、コンセルヴァトワールで演技を学び、後にディオールのモデルを務めるなど知名度を上げた。そして1964年に封切られた映画「リオの男」と「柔らかい肌」でスターとなる。1967年の映画「ロシュフォールの恋人たち」ではカトリーヌと共演した。他に出演作品としてはロマン・ポランスキーの「袋小路」がある。 妹がやや大顔でスタイルも日本人的だったのに比べると、小顔で手足の長い今風の陰のある美女であった。更なる活躍が期待されていたが、1967年6月26日、ニース空港に向かう運転中に事故にあい、25歳の若さで死去した。身長171cm、体重55kg。髪はブロンド、瞳はブラウン。
2010.04.24
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テリー・サヴァラス、ツンツルテンのピカピカ頭で有名、演技の方も中々達者である。強烈な悪役や不気味なキャラクターにしびれた人も多いのではないだろうか。その典型は「女王陛下の007」だろうと思う。彼はジョージ・レーゼンビー演じる007の敵役ブロフェルドで抜群の存在感を見せてくれた。女王陛下の007アルプスのピッツ・グロリアにあるブロフェルドの山荘に潜入した007は、彼がそこでアレルギー研究所を営んで10人のイギリス人女性たちに治療を施していることを知る。ブロフェルドの計画は被験者の女性たちに催眠術をかけ、殺人ウィルスを世界中にばら撒かせることであった。正体がばれた007は山頂からスキーで滑り降りる。ブロフェルド一味が跡を追う。このシーンは迫力満点である。華麗なるアクション・シーンと言えるだろう。彼は1922年1月21日、ニューヨーク州ロングアイランド生まれ。父はギリシャ移民でタバコの輸出入業者。コロンビア大学で心理学を専攻し、その後劇団を経て1959年に舞台デビュー。同じ年、「明日なき十代」で映画にもデビュー。続く「終身犯」ではアカデミー助演男優賞候補となった。禿頭がトレードマークで、日本では特にテレビドラマ『刑事コジャック』(1973年 - 1990年)の主演で有名。刑事コジャック シーズン1 サヴァラスはダンディで颯爽としたヒーローを演じ、お茶の間で親しまれた。70年代後半になるとその個性を逆手にとって強烈な悪役や不気味なキャラクターを演じた。1994年「バック・ファイヤー!」でも健在ぶりを披露し元気な姿を見せていたが、すでに前立腺癌に冒されていた。1994年1月22日癌で死亡。70歳没。惜しみて余りある死であった。私生活では結婚は3回である。彼の作品には、「ダイヤモンドの犬たち」「狼の挽歌」「ボーダー・コップ 狙われた国境線」「戦略大作戦」など多数。 親友は俳優のジョン・アニストンで、彼の娘でテレビドラマ『フレンズ』に出演している女優のジェニファー・アニストン(Jennifer Aniston)の名付け親でもある。
2010.04.22
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ミレーヌ・ドモンジョ、彼女は「サレムの魔女」で脚光を浴びたが、大ベストセラー小説フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」で彼女を初めて見た。悲しみよこんにちはミレーヌは主人公セシル(ジーン・セバーグ)の父レイモン(デヴィッド・ニーヴン)の愛人エルザ役。カラッとした南仏リビエラでの楽しいバカンス。中性的なセバーグと違い肉体美を誇るミレーヌは中々の見ものとは云えた。彼女は愛くるしさと豊麗な肢体で第二のBB(べべ)=(ブリジット・バルドー)と呼ばれていた。続く「お嬢さん、お手やわらかに」では本領発揮をしてみせた。彼女は1936年9月28日、フランス・ニースで生まれた。17歳で映画デビューし、魔女狩りを描いたアーサー・ミラー作『るつぼ』を映画化したレイモン・ルーロー監督作「サレムの魔女」(1956)で邪悪な娘アビゲイル・ウィリアムズを演じて脚光を浴び、翌57年カルロヴィ・ヴァリ映画祭の最優秀女優賞を受賞。1958年には英国アカデミー賞の有望若手女優賞の候補となる。以来、「悲しみよこんにちは」「女は一回勝負する」(1957)、「お嬢さん、お手やわらかに!」(1958)、「黙って抱いて」「狂った夜」「上と下」(1959)、「ローマの恋」「サビーヌの掠奪」「全戦艦を撃沈せよ」「マラソンの戦い」「黒い狼」(1960)といった映画に次々と出演してフランス本国のみならず、日本でも大人気となる。その後、「ファントマ」シリーズなどにも出演したが、再婚後の出産などで活動をセーブし、舞台やTVにも出演するようになった。 親日家であり、日本映画「ヨーロッパ特急」「東京タワー」に出演したり、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭のゲストなど来日回数も多い。夫は作家ジョルジュ・シムノンの息子で監督のマルク・シムノンで、彼の演出したTV映画にも度々出演している。彼女は私と同年生まれの73歳、これからも頑張ってほしいと思う。
2010.04.20
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レイ・ミランド、この人の名を覚えておいでの方は今ではほとんどいらっしゃらないのではあるまいか。「失われた週末」でアルコール依存症の作家を演じ、アカデミー主演男優賞をゲットした。それよりも私に恐怖を与えたヒッチコックの「ダイヤルMを廻せ」の方がいつまでも印象に残った。良き夫を装いながら、少しずつ冷酷な正体を現していくレイ・ミランド、襲われる妻役のグレイス・ケリーの美貌と恐怖の演技。ダイヤルMを廻せ!息詰まる緊張感の連続、そして胸のすくようなラスト、ヒッチコックの魔術にかかったのは私だけではあるまい。中でも外出した夫が無言電話をかけ、電話を取るグレイスの背後からストッキングを手にじわじわと忍び寄る男・・・。まさにサスペンスの極致だ。グレイスの演技もさることながら、冷徹なレイ・ミランドの演技は見事だったと言えよう。彼は1905年1月3日、イギリス・ウェールズで生まれた。父は溶鉱炉の設計士。ロンドンのキングズ・カレッジ卒業後、近衛騎兵連隊に入るが、たまたま映画スタジオにいる女友達のエステル・ブロディを訪れたところスカウトされる。1929年にスパイク・ミランドの芸名で英国映画界入り。数度芸名を変えている。数本を撮ったあと、脚本家のアニタ・ルースの勧めで1930年にハリウッドに進出。1931年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約した。1932年までに8本の映画に出演したがクビになり、一度英国に戻るが、もう一度ハリウッドで勝負しようと再び渡米して、本格的にデビューする。1930年代から1940年代半ばまでは明るいロマンチックな役柄が多かった。1935年にフレッド・マクマレー、クローデット・コルベールと共演した「輝ける百合」でスターの足がかりを掴み、1940年の「French Without Tears」で大スターの仲間入りを果たす。二枚目ながらもしばしば大根役者と揶揄されていたが、1945年、ビリー・ワイルダーの「失われた週末」でアルコール依存症に苦しむ作家を熱演、アカデミー主演男優賞を獲得。ハリウッドでの地位を決定付けた。彼は「失われた週末」でアカデミー賞を受賞した際、受賞スピーチで一言も言わず、ただ深々とお辞儀をしただけであった。また、オスカーをもらった最初のウェールズ出身の人間である。失われた週末1954年にはアルフレッド・ヒッチコック監督の「ダイヤルMを廻せ!」に主演。自身の代表作の1つとなった。その後は1955年の「白昼の対決」を機に監督業にも乗り出している。1960年代以降はあまり作品に恵まれずB級映画とテレビ出演が主となっていったが、1970年の「ある愛の詩」で主役のライアン・オニールの父親を演じて印象を残した。その他、彼の作品には、「絶海の嵐」「X線の目を持つ男」「恐怖省」「星の国から来た仲間」などがある。 彼は1986年3月10日 カリフォルニア州トーランスで肺癌の為死去。享年81歳だった。私生活では只1度だけの結婚である。
2010.04.18
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シルヴァ・コシナ、彼女のデビュー作品であり、出世作は何といっても「鉄道員」であろう。この映画で23歳のコシナはスター女優の座を獲得した。鉄道員「鉄道員」は監督ピエトロ・ジェルミが主演、機関手を演じ、人生の哀歓と家族の再生を謳い上げた作品だ。日本では末っ子のサンドロ少年の愛らしさが評判を呼び、大ヒットした。昭和33年(1958)のことである。コシナは機関手の父、アンドレアの長女ジュリアを演じ、頑固一徹な父に反発する。そして近所の青年レナートと恋仲になり、妊娠していまう。父は無理やりレナートとジュリアを結婚させる。披露宴の席で見せるジュリアの憂い顔が印象に残る。この1作でシルヴァ・コシナはイタリア映画界のスターになったのだった。彼女は1933年8月22日、クロアチア(旧ユーゴスラビア王国)のザグレブ出身だ。11歳の時、姉を訪ねて渡伊し、その後イタリアで高校を卒業してナポリ大学医学部に入学した。1952年にミス・ディ・タッパの栄冠に輝き、1954年、イタリア一周自転車レースの優勝者に花束を渡す役を務め、その時、容姿が耳目を集めて映画界入りしたが、あまり注目され無かった。しかし、1956年にピエトロ・ジェルミ監督の「鉄道員」の長女・ジュリア役に抜擢されて、彼女の映画女優人生が始まった。その後はイタリアのみならずアメリカ・ドイツ等の映画に出演し、国際派女優として活躍した。一時期、映画プロデューサーのライモンド・カステッリと結婚していた。主な出演作品には、「魂のジュリエッタ」「新・エクソシスト 死肉のダンス」「黄金の七人1+6エロチカ大作戦」 彼女は1994年12月26日、乳癌のため61歳で死去。「鉄道員」以外に代表作といえる作品が無かったのが惜しまれる。
2010.04.16
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チャールズ・ロートン、この名優の名を覚えておいでだろうか。私が彼を知ったのは、かの有名な映画「戦艦バウンティ号の叛乱」である。戦艦バウンティ号の叛乱この映画は18世紀末近く、タヒチ島からジャマイカ島に向かって南海を航行中のイギリス軍艦バウンティ号のプライ艦長に船員たちが反乱を起こした事件をもとにチャールズ・ノードホフとジェームズ・ノーマン・ホールが書いたベストセラー小説の映画化である。バウンティ号のブライ艦長(チャールズ・ロートン)はサディスティックなまでに非情な男で、部下を絶対服従させることに生きがいを見出しているような人物だ。何をするかと云えば鞭打ちの刑、手枷足枷をして船底に閉じ込め水も与えないのは序の口、死んだ部下にまで鞭打ちをするという異常さだ。大嵐の中で態度が生意気だと言う理由でマストのてっぺんに登らせられる下級士官、船員たちに人望がある一等航海士クリスチャン(クラーク・ゲーブル)は彼の身を案じ、助け下ろして船医に診せ介護する。「誰が下ろせと命じた? すぐに元に戻せ」と、ブライはクリスチャンに向かって怒鳴る。そして事ある毎にクリスをいびる。船長の私刑でまた一人犠牲者が出た。我慢に我慢を重ねてきたクリスチャンは遂に叛乱を起こしブライ船長以下船長派をボートに乗せて海に追放、船を乗っ取る。だが、その段階で彼らの運命は決まっていた。英国軍に見つかれば死刑、二度と故国には戻れないのだ。ブライはクリスチャンを絶対に見つけ、クビに縄をかけてやると飽くなき執念で生き抜き、新しい軍艦で彼の所在を追い求める。そして・・・。この映画で見せたロートンの演技たるやすさまじいものがあった。彼は1899年6月1日、イギリスのヨークシャー州スカーボロで生まれた。父はロバート・ロートン、母はエリザベス・コンロン。王立演劇学校で学び、金メダルを得ている。1926年、初舞台を踏む。1928年の劇『アリバイ』において、史上初めてアガサ・クリスティの探偵エルキュール・ポワロを演じた。1929年に「ピカデリィ」で映画デビューをする。1932年にハリウッドに招かれて以来、米国では専ら映画俳優として、英国では舞台俳優として活躍した。自身の映画会社であるメイフラワー・ピクチャー・コーポレーションを立ち上げ、1937年にはエーリッヒ・ポマーを招いた。1933年の「ヘンリー八世の私生活」(日本劇場未公開、DVD発売)ではアカデミー賞男優賞を獲得。また史実に名高いバウンティ号の叛乱事件を扱った1935年の大作映画「南海征服(戦艦バウンティ号の叛乱)」では、艦長ウィリアム・プライ役でサディスティックな人間像を見せた。ヘンリー八世の私生活狩人の夜1950年に米国市民になった。1955年に「狩人の夜」で映画監督デビューを果たすが、公開当時は不評であった。結局ロートンの監督作品はこの1本だけに留まった。その後は再び俳優としての活動に専念した。その他、彼の出演作品には、「情婦」「スパルタカス」「人生模様」「ノートルダムのせむし男」などがある。特にビリー・ワイルダーのサスペンス映画「情婦」のラストシーンは見ものだ。映画史に残る傑作と云えるだろう。 『狩人の夜』(1955年)に主演したロバート・ミッチャムは、ロートンは最も素晴らしい映画監督だと褒め称えた。また、ロートンは素晴らしい舞台監督でもあった。例えばジョージ・バーナード・ショーのオリジナル劇『地獄のドン・ファン』のブロードウエイ初演(彼も演じていた)なども高く評価された。英国の新作舞台劇をブロードウエイに紹介した役割は非常に大きい。ロートンは子供がとても嫌いであった。「狩人の夜」(1955年)では、子供の扱いを軽視した。子供の登場シーンはほとんどロバート・ミッチャムが演出していた。ミッチャムは3人の子持ちであったからである。女優のモーリン・オハラは18歳の時にロートンに見出された。ロートンの死後、彼の回顧録を執筆したロートンの未亡人エルザ・ランチェスターによると、彼はホモセクシャルのため子供を持たなかったという。しかしながら、女優のモーリン・オハラによると、ロートンはゲイではなく、子供を持たなかったことを後悔していたという。オハラはまた、子供ができなかったのは、エルザがバーレスクを演じていた頃、堕胎を経験したからだとロートンが語ったと言っている。エルザ自身が堕胎(当時は非合法であった)の経験があると語っているが、それが原因で子供が持てなかったのかどうかについては語っていない。彼は戦前戦後を通してイギリスの舞台俳優らしい演技を全うし、1962年12月15日に死去した。私生活では結婚はエルザ・ランチェスター只一人だった。
2010.04.14
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ケティ・フラド、彼女の名前を覚えておいでの方はいるだろうか。メキシコの女優さんで数々の映画で印象に残る作品を残している。私が思い出すのは、マーロン・ブランド監督、主演の「片目のジャック」だ。見る前には題名どおり主人公が片目で出てくるのだろうと思っていたが、片目というのは裏切りを意味する比喩で、見事にしてやられた気ガしたものである。官憲に追われ逃げる途中、自分を裏切って逃亡した相棒、そのおかげで自分ひとり刑務所暮らしになる。3年後、刑務所を脱走し、復讐に向かう。だが、元の相棒はある町の保安官に収まっていた。奪った金を持ち逃げしメキシコ人の妻(ケティ・フラド)と娘のいる家庭を持って・・・。そこへブランドがやってきた。おだやかな保安官の家庭に嵐が立ち込める。妻はやがて夫の昔の悪事を知ることになり・・・。この映画のケティの演技は印象に残るモノだったと思う。彼女は1924年1月16日、グアダラハラで生まれた。16歳の時に見出されてメキシコでデビュ。1951年からハリウッド映画にも出演しはじめ、1954年の「折れた槍」でメキシコ人俳優として初めてアカデミー助演女優賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞 助演女優賞を受賞した。他の出演作品には、「真昼の決闘」「ビリー・ザ・キッド 21才の生涯」「折れた槍」などがある。 彼女は、メキシコの女優として、ハリウッドとメキシコの両方で活躍した。私生活では二度の結婚、アーネスト・ボーグナインとも一時結婚していた。そして、2002年7月5日、享年78歳で天国の人となった。
2010.04.12
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クロード・レインズ、この人は実にユニークな登場をした。デビュー作品が、あの「透明人間」である。彼はこの映画の主役で映画界に現われたのだが、これが何とセリフだけの役、顔を見せたのはラストの1カットだけだった。無理もない、透明人間の役だから顔の包帯を取ると何も見えないガランドウである。死んで初めて素顔が見れるという次第。透明人間この作品はトーキー初期のSFホラーの快作で、公開(1933)当時オドロキをもって迎えられレインズは人気者になったそうである。彼は1889年11月10日、ロンドンで生まれ、10歳でロンドンの舞台『Nell of Old Drury』にエキストラとして出演したことから俳優を志し、俳優の呼び出し係となる。1911年にヘイマーケットで端役として初舞台を踏む。その後、舞台監督として『青い鳥』のオーストラリア巡業に参加、1914年から一年間、メルボルン、シドニーを回り、自身も時折舞台に出演する。帰国後は折からの第一次世界大戦のためイギリス陸軍に従軍、その際、戦闘中に敵の毒ガス攻撃により片目を失明する不幸にあう。1919年に除隊、シェフィールドの劇団を経てロンドンの舞台に立ち、働きながら王立演劇学校に学び、この頃にジョン・ギールグッドやローレンス・オリヴィエと知遇を得る。1920年にサイレント映画に出演、1926年には当時の妻だった女優のビアトリクス・トムソンを伴いニューヨークに行き、妻が主役で彼が端役として夫妻で舞台出演する。しかしこのアメリカ巡業で実力が認められ、1928年にブロードウェイに主役として出演。1933年にボリス・カーロフの代役として映画『透明人間』に主役の透明人間役として出演。透明ゆえにレインズの顔はスクリーンには出てこなかったが、映画が大当たりし、これによりレインズの名も一躍有名となる。その後ブロードウェイに一度戻るも、ハリウッドに呼ばれ、1934年に「情熱なき犯罪」に殺人に手を染める辣腕弁護士役で主演、本格的な映画俳優としてのキャリアがスタートする。1935年にワーナー・ブラザーズ社と長期契約、以来個性の強い演技で、準主役ながらも常に主役をも食ってしまうような存在感で人気を得てきた。1939年に「スミス都へ行く」のラストには汚職議員役でアカデミー助演男優賞にノミネート、1943年に「カサブランカ」で要領のいい粋な警察署長役で二度目のノミネート、1945年の「愛の終幕」、1946年の「汚名」でも同賞にノミネートされたが、一度も受賞には至らなかった。 第二次世界大戦後はジョージ・バーナード・ショー自らが脚色した歴史喜劇「シーザーとクレオパトラ」でクレオパトラ役のヴィヴィアン・リー相手にジュリアス・シーザー役で主演。その他、出演作品には、「オペラの怪人」「狼男」「幽霊紐育を歩く」などがある。 1947年にフリーとなり、映画出演のかたわらニューヨークの舞台に立ち、1951年には舞台『Darkness at Noon』でトニー賞を受賞した。その後は1962年の「アラビアのロレンス」、1964年の「偉大な王の物語」に映画出演、舞台は1963年の出演を最後に退き、1967年5月30日に内臓疾患のために世を去った。生涯で結婚は7回、4人目の妻との間に一女をもうけた。
2010.04.10
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グロリア・スワンソン、彼女の名を覚えておいでの方はどれくらいいるだろうか。無声映画時代の大スターである。その彼女の作品を見たのは高校生の頃だった。映画の題名は「サンセット大通り」だ。ビリー・ワイルダーが、忘れ去られたハリウッド大女優の哀しくもすさまじいまでの末路を描いた傑作である。サンセット大通り当時56歳のスワンソンは、久々に主演したこの作品で鬼気迫る演技を見せ絶賛を浴びた。過去の栄光にすがって虚構の世界に生きる大女優の姿は観る者を圧倒せずにはおかない。「二度と映画を捨てません・・・映画こそ私の人生、それ以外ないんですもの」劇中のノーマ・デズモンド(グロリア・スワンソン)のセリフが私の心に響いたことを今でも思い出す。ハリウッドの非情さを見事にあぶり出したこの映画は名作だと言えよう。その後、彼女をスクリーンで見たのは、「エアポート’75」だった。エアポート'75彼女は1899年3月27日、イリノイ州シカゴにて、スウェーデン系の父親とポーランド系の母親の間に生まれる。出生名はGloria Mae Josephine Swanson (or Svensson)。プエルトリコ、シカゴ、キー・ウエストなどで育つ。学校を終えた後はデパートで販売員として働くようになる。特にショービジネスに興味はなかったが、1914年からエキストラとして映画に出演するようになる。1916年にロサンゼルスに移り、マック・セネット(Mack Sennett)のコメディなどに出演。1919年にパラマウント映画と契約。セシル・B・デミルに見いだされる。身長約150センチと小柄ながら、豪華なセット、衣装を用いたゴージャスな作品で、人気を博す。週に100万ドル稼ぎ、100万ドル使うスターと呼ばれた。1916年に俳優のウォーレス・ビアリーと結婚するが3年後に離婚。二度目の夫、実業家ソンボーン(Herbert K. Somborn)との間に娘グロリア(Gloria)を出産。出産後もスターとしての人気は衰えず、初めての子持ちのスターでもあった。三度目の夫は、「在りし日のナポレオン」撮影中、フランスで通訳を務めたド・ラ・ファレーズ侯爵(Marquis de la Falaise)。貴族と結婚した初めてのハリウッド女優だった。(貴族と結婚したポーラ・ネグリと張り合ったと言われる。)この結婚と同時期に、ケネディ大統領の父親であるジョセフ・P・ケネディと不倫の関係にあったことを、50年後に出版した自伝で初めて明かした。関係は3年続き、カトリックであるため離婚のできない彼のため、身を引いたという。4度めにはマイケル・ファーマーという男性と結婚し、二人目の娘ミシェル(Michele)をもうけるが3年で離婚。5番目の夫とは45日間しか共に生活しなかったという。最後の夫となったウィリアム・ダフティは作家・脚本家で、彼女の死まで共に暮らした。1950年のビリー・ワイルダー監督作品「サンセット大通り」において、サイレント時代に活躍し忘れ去られた女優という、彼女自身を投影した役でカムバックした。この作品でゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)を受賞、アカデミー主演女優賞にもノミネートされた。彼女の出演作品はサイレント作品だが、「男性と女性【淀川長治解説映像付き】」「クィーン・ケリー」がある。「世界の名画DVDコレクション5<2枚組>」はオトク版だ。 希代の女優は数多くのゴシップを残し1983年4月4日に天国へと飛び立った。
2010.04.08
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コーネル・ワイルド、大した役者と思っていなかった彼の演奏技に圧倒され、演技を見直したのは「楽聖ショパン」を観た時だ。「楽聖ショパン」ショパンの生涯を描いた感動ストーリー病弱にも拘わらず祖国の救援のために世界各地で演奏旅行を実施し義捐金を作るショパン(コーネル・ワイルド)。愛人のジョルジュ・サンド(マール・オベロン)から「自殺行為だわ」と反対されても、彼は命を賭けて決然と実行する。この演奏旅行のシーンは実に見事だった。彼の弾くピアノの連弾はさながら決闘のようだ。プレスコ(音を先録りして、撮影現場ではその音を流して演奏場面を撮影する方式)か、シンクロか分らなかったが、鬼気迫る演奏である。手のアップは当然プロが見せる指の動きだろうが、彼も相当練習を積んだに違いあるまい。見事に作曲家になりきっていた。この映画で彼はアカデミー主演男優賞にノミネートされたのも頷ける。コーネル・ワイルドは1915年10月13日、ニューヨークの中心街マンハッタンで生まれた。両親はスロヴァキア共和国(旧オーストリア・ハンガリー帝国)出身。1933年にニューヨーク市立大学シティカレッジに入学するが1年で中退。その後、あらゆる職業に就きながら、1936年にベルリンで開催された第11回夏季オリンピック(ベルリンオリンピック)にフェンシングアメリカ代表男子選手として出場する。同年に端役で映画デビュー。1940年に舞台『ロミオとジュリエット』で俳優ローレンス・オリヴィエのフェンシングのコーチをしながらティボルト役で出演しているところを認められて1941年本格的に映画デビューを果たす。数本の映画に小さな役で出演した後、チャールズ・ヴィダー監督の「楽聖ショパン」(1945年)でフレデリック・ショパンを演じ、アカデミー主演男優賞候補に選出される。以降、ハリウッドにおいて、恋愛映画、活劇並びにフィルム・ノワール等の映画作品でハンサムなタフガイとして、尚且つ、ハンガリー語、フランス語、ドイツ語、英語、イタリア語とロシア語に堪能なことから国際的スターとして活躍する。彼の出演作としては、「地上最大のショウ」「哀愁の湖」「ビッグ・コンボ」などがある。 また、1950年代に映画制作会社を設立し、自ら映画製作に乗り出し、「大雪原の死闘」(1955年)等では出演のみならず、監督・製作・脚本を手掛けている。私生活では2回の結婚、1989年10月16日、享年74歳で天国の住人となった。
2010.04.06
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激レア『キャスリン・グレイソン』直筆サイン/オートグラフ保証書付キャスリン・グレイソン、ミュージカル映画ファンの方なら彼女の名前を覚えておいでだろうと思う。彼女は私にとって忘れられないあの作品、「ショウ・ボート」で見たのが最初だ。ショウ・ボートハワード・キールと熱唱する彼女の美声が耳の奥に甦ってくるようだ。「オールマン・リバー」などの名曲に乗って、ミシシッピー川を巡業するショウ・ボート、彼女は座長の娘を演じていた。ダンサーの混血女性を演じたエヴァ・ガードナーとの間に起きる人間ドラマ。南部で働く黒人の哀感などを描いた絢爛豪華かつ感動的ななミュージカル映画だったと思う。製作は1951年だ。彼女は1922年2月9日、ノースカロライナ州ウィンストン・セーラムで生まれた。12歳から声楽を学び始め、1941年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)から映画デビューを果たす。彼女はユニバーサル専属のディアナ・ダービンに匹敵するミュージカル映画のソプラノ歌手として売り出され、フランク・シナトラやマリオ・ランツァ、ハワード・キールという男性シンガーとの共演を重ねた。出演作品はさして多くはないが、印象度の強い女優さんだったように思う。出演作は、「キス・ミー・ケイト」「世界名作映画音楽集 ミュージカル映画篇 (1) 」「錨を上げて」、歌としては「My Heart Sings For You 輸入盤 【CD】」などがある。 50年代半ば以降はレコーディング・テレビ・ラジオ・舞台への出演を中心に活動している。私生活では、2回結婚、娘が一人いる。歌手兼女優として活躍していた彼女だが、2010年2月17日、ロサンゼルスの自宅で亡くなった。享年88歳だった。
2010.04.04
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スターリング・ヘイドン、彼の名前をクレジットで見たのは、中学生の時だったと思う。映画は「第七機動部隊」である。第七機動部隊ストーリーはこうだ。1944年秋、アメリカの精鋭空母プリンストンの上甲板で、隊員の信頼も厚い副隊長ジョー・ロジャース大尉(リチャード・カールソン)を始め、個性豊かな隊員らの着艦を見守る、指揮官赴任直後のダン・コリアー中佐(スターリング・ヘイドン)。 だが、元カーレーサーのバーニー・スミス少尉(キース・ラーセン)は危うい着艦により、着任早々の指揮官から謹慎処分を受ける。大空を飛びたいために空軍を志願したスミスは翼を奪われ、甲板勤務にされ、悲嘆に呉れる。だが、ダンは「編隊は個人プレーじゃない。一人が勝手な真似をしているとゼロ戦の餌食にされる。戦闘は遊びじゃない、命がかかっているんだ」と諭すのだ。この映画は全てに厳しい上官とチームを組む兵士との心の交流がテーマになっている。会社の上司と社員の関係に似ている。チームを束ねる上司が部下に厳しく接するか、不問にして人気を得るかだ。厳しくしすぎると部下は反発する。だが、目的を達成するには鬼にもならなければならない。司令官のダンは空軍で第3位の撃墜実績を持つ歴戦の勇士だ。彼の語る言葉には経験の裏づけがある。反発していた部下たちも次第に彼に心服していくのだ。映画はいろいろなことを教えてくれる。どんなBC級の作品でも1箇所は勉強させてもらえることがあると思う。彼は1916年3月26日、ニュージャージー州出身の男優だ。生まれた時の名前はスターリング・レルイエア・ウォルター(Sterling Relyea Walter)だったが、父と死別し、母が再婚したことから、以後継父の姓であるヘイドンを名乗ることになる。銀行のメッセンジャーボーイ、船員、消防士などの職を転々とし、友人の紹介でパラマウント・ピクチャーズと俳優として契約を結ぶ。デビュー時のキャッチコピーは「映画史上最も美しい男優」だったが、彼自身は映画界に長くとどまるつもりはなかった。第二次世界大戦が始まると、COI(後のOSS)に志願して映画界から離れることになる。COIでは偽名を名乗り、ユーゴスラビアでパルチザンのゲリラ活動を支援する任務につく。戦後、マッカーシズムが台頭して非米活動委員会が結成され、ハリウッドにおける共産主義者のリストアップを開始すると、大戦中にユーゴスラビアのチトーなど共産主義者たちと交流を持っていたヘイドンにも追及の手が伸びる。ヨットを購入した借金の返済をするために映画界への復帰を願っていたヘイドンは、追及をのがれるために協力的密告者として証言台に立ち、そのことが後の彼の人生に暗い影を落すことになる。ターザン役をオファーされたが断り、ジョン・ヒューストン監督の「アスファルト・ジャングル」に主演。以後、1950年代アメリカ映画を象徴するフィルム・ノワールと西部劇のスターとして活躍するようになり、スタンリー・キューブリックやニコラス・レイといったこの時代を代表する監督たちの作品にも主演した。 1960年代に入ると「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」に独断で核戦争を始める精神異常のリッパー将軍役で出演して、従来のスターイメージからの脱却を目指すが、フィルム・ノワールや西部劇もこの頃から衰退しはじめ、ヘイドンもまた活躍の場を徐々に失っていくことになる。1970年代にはフランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」で、アル・パチーノ扮するマイケルが初めて殺人を犯す場面において殺される悪徳警官や、ベルナルド・ベルトルッチ監督「1900年」の第一部で誇り高い小作人頭を演じるなど、渋い名演技を残している。また「ジョーズ」の主役にも抜擢されたが、この役は結局最終的にロバート・ショウに取って代わられた。その他、彼の作品としては、「現金に体を張れ」「三人の狙撃者」「ロング・グッドバイ」「カンサス大平原」などがある。 船員時代に船長の資格も取っており、船に対する執着は激しいものがあった。生涯に3回離婚し、うち1回の離婚で元妻と揉めた時は、妻子の移転先であるタヒチへヨットで押しかけたというエピソードも残している。波乱に富んだ生涯を自伝にして、1963年に出版した。晩年も脇役として映画出演を続けたが、1986年5月23日、癌で死去。70歳だった。
2010.04.02
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