全23件 (23件中 1-23件目)
1
![]()
ドロシー・マクガイア、彼女の作品で印象に残るモノと言えば、グレゴリー・ペックと共演した「紳士協定」だろうか。この映画はエリア・カザンが人種偏見を真っ向から取り上げた問題作で、アカデミー3部門を制覇した作品である。これはアメリカ社会に巣食う反ユダヤ主義を調査し、そのルポを書こうとするジャーナリストの姿を描いた社会派ドラマだ。「赤狩り」の圧力の中でハリウッドの良心として作られたのがこの映画「紳士協定」だ。妻に先立たれ、幼い息子と老いた母と暮らす人気ライタのフィル(ペック)が、週刊”スミス”の編集長の招きで、反ユダヤ主義の記事を依頼される。記事の発案者は編集長の姪、キャシー(ドロシー)だ。キャシーとフィルの愛を軸にドラマは展開していく。フィルは自分をユダヤ人だと偽って反ユダヤ主義の本質を探ろうとする。そのため、予約したホテルからはキャンセルされ、息子のトミーは学校でイヤガラセをされ仲間はづれにされる始末。でも、フィルはへこたれない。だが、それに次第についていけなくなるキャシー。結婚目前の二人の仲に暗雲が立ちこめ、破局を迎える。が、それを救ったのはフィルの幼馴染のユダヤ人、デイブ(ジョン・ガーフィールド)だった。彼はキャシーに語る。「ある男が食事の席で冗談を言った。皆がその男を軽蔑した。だが、何もしなかった。それがホテルのことやトミーのことを引き起こす」「その冗談を止めなければ、そういうこと?」「そうだ」「それだったのね、フィルが望んでいた事はーー。そういう人に対して闘う事だったのね」「その男だけじゃない、その場にいて黙って聞いていた人たちもだ」「彼らも私も何もしなかった。何もしないことが問題なのね、理解したわ。フィルは闘うわ、これからもずっと。もし私がただ座ってたらーー、彼の妻として失格だわ。私たちの争いの根本が、それだったのね、初めてわかった」「そうさ、男が妻に求めるのは、只の同伴者以上の事だ。単なる愛する女でも子供の母親でもない。困難を一緒に闘える相棒なんだ。そして、その問題を一緒に乗り切らないと、うまくはいかない。君は頭の固い頑固者じゃない、優しくて柔軟で意志を通せる女性だ。自分の望んだ事をやり遂げればいい」「私でも、出来るのね?言葉よりも行動なのね」長い引用になったが、この作品のテーマが語られていると思ったからだ。彼女は知的な女性を見事に演じていた。 ドロシー・マクガイア、彼女は1913年6月14日、ネブラスカ州オマハで生まれた。ラジオや舞台からキャリアをスタートさせ、ブロードウェイで成功する。プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックに招かれて1943年に映画デビュー。1947年の「紳士協定」ではアカデミー賞にノミネートされた。映画では知的で誠実な役柄を多くこなしたと言えよう。彼女の出演作品としては、「愛の泉」「ブルックリン横丁」「スイスファミリー ロビンソン」「かもめのジョナサン」などである。 私生活では写真家と1943年に結婚し、夫の死まで連れ添った。子供が二人いる。彼女は2001年9月13日、享年88歳で天国の住人となった。
2010.03.31
コメント(0)
![]()
フレドリック・マーチ、この名優の名をご存知でしょうか。アカデミー主演男優賞を2回獲得した演技派である。彼のアカデミー受賞作品、それは「我等の生涯の最良の年」であった。これは復員兵の物語であるが、傷つきながらも社会復帰に挑む男たちを支える女たちの愛の物語である。我等の生涯の最良の年軍曹だったアル(フレドリック・マーチ)、空軍大尉として故郷に凱旋したフレッド(ダナ・アンドリュース)、恋人の愛を憐憫としか捉えられない両手首を失い義手の水兵ホーマー(ハロルド・ラッセル)、元兵士3者3様の姿が描かれていく。この三人を支え励ます女たちの愛が実に感動的だ。愛の力は不変だということをしみじみとかんじさせてくれる映画である。オスカー俳優のマーチは若き日の銀行員の経験を生かし、見事な演技を見せてくれる。アルの妻ミリー役のマーナ・ロイ、娘役のテレサ・ライトも実にいい。最近の心がささくれだった世相に、この映画で、ぜひとも”愛の不変”を再認識してほしいと思うのは私だけではなかろうと思う。彼は1897年8月31日、ウィスコンシン州で生まれた。子どもの頃から芝居好きで、14歳でアマチュア劇団に参加。ラシーン・ハイスクールを経て、ウィスコンシン州立大学に入学し、経済学を専攻するも、折からの第一次世界大戦によって砲兵隊に中尉として従軍。帰還後は同校を卒業。この頃からジョン・バリモアに憧れて本格的に俳優を目指すようになる。1920年にナショナル銀行の行員となるが、結局は俳優の夢を捨てきれず、盲腸の手術をうけたこともあって、銀行を退職して病院の臨時職員を勤めながら、モデルや舞台の端役出演などで暮らす。1929年、「ダミイ」で本格的に映画デビュー。トーキー時代の最初のスターになった。31年製作の「ジキル博士とハイド氏」でアカデミー男優賞を獲得する。これはホラー映画の主役が得た唯一の主演賞である。その後、映画の役柄に不満を感じていたマーチは、映画界から離れて舞台に戻ったが、大きな成功は得られなかった。マーチが再び日の当る場所に返り咲いたのは「我等が生涯の最良の年」の銀行員アル役であったのだ。そして、49歳で再びアカデミー主演男優賞に輝いたのであった。この映画で単なる二枚目から苦悩に満ちた中年男へと見事に変身し、さらなる人気を呼ぶ。翌年は舞台でもルース・ゴードン作の『Years Ago』でこの年に創設されたトニー賞の最優秀男優賞を獲得。1951年には劇作家アーサー・ミラーの代表作の映画化「セールスマンの死」(アカデミー主演男優賞ノミネート)でヴェネチア国際映画祭の男優賞を受賞、1955年のサスペンス映画「必死の逃亡者」ではハンフリー・ボガート扮する脱獄犯相手に迫真の名演技を残し、1957年には再びユージン・オニール作の舞台『夜への長い旅路』でトニー賞に輝いた。 1960年には社会派映画の第一人者であるスタンリー・クレイマー監督の意欲作「風の遺産」にライバルのスペンサー・トレイシーと共演、二人とも同じウィスコンシン州出身、2度のアカデミー賞を獲得、そして『ジキル博士とハイド氏』で主役を演じていたことなど彼らには共通点も多く、実際、二人は私生活でも仲が良かったという。私生活では1923年にエリザベス・ベイカーと結婚するが、のちに離婚。1927年に結婚したフローレンスとは映画に共演作も多くおしどり俳優夫婦として知られた。1972年に前立腺癌の手術を受けるも3年後に帰らぬ人となった。1975年4月14日、享年77歳で没した。アカデミー主演男優賞を2度も受賞した俳優はマーチをはじめ、スペンサー・トレイシー、ゲーリー・クーパー、マーロン・ブランド、ダスティン・ホフマン、ジャック・ニコルソン、トム・ハンクス、ダニエル・デイ=ルイスとわずかしかいないが、現在、彼らに比べて日本は勿論、アメリカ本国でもフレドリック・マーチの知名度は低い。主な出演作には、「ジキル博士とハイド氏」「トコリの橋」「奥様は魔女」「生活の設計」 などがある。
2010.03.29
コメント(0)
![]()
メアリー・アスター、彼女を見たのはハンフリー・ボガート主演の「マルタの鷹」が初めてだった。彼女はタフな探偵サム・スペードを相手に翻弄する”謎の女”を演じていた。「孔雀夫人」「ハリケーン」では、清楚な役柄を好演していたが、私生活ではスキャンダルも多かったようだ。マルタの鷹孔雀夫人 ハリケーン 「マルタの鷹」は彫像”マルタの鷹”の争奪戦を描いたミステリー作品の傑作だ。ボギーがサム・スペード役で人気俳優の座を確保したことは有名である。彼女は1906年5月3日、イリノイ州クインシーで生まれた。ドイツ人、ポルトガル人、アイルランド人の血を引く。美人コンテストに入賞したことがきっかけで映画界入りを果たし、14歳でデビュー。「ボー・ブラムメル」(1924年)でジョン・バリモアの相手役に抜擢され、スターへのきっかけを掴む。当初はお姫さま的な役柄が多かったが、30年代に入ると「紅塵」(1932年)、「孔雀夫人」(1936年)などで演じたような貞淑な女性役を得意とした。しかし私生活では不幸やトラブルが続き、最初の夫は結婚2年目に飛行機事故で墜落死。1936年、2番目の夫との離婚訴訟の際に、浮気相手との秘め事を書き記していた日記が暴露され大きなスキャンダルを巻き起こした。また、実の両親から生活費の援助が少ないと訴えを起こされた事もある。一方で仕事面は順調で、1941年には「偉大な嘘」でアカデミー助演女優賞を受賞。同年ハンフリー・ボガートと共演した「マルタの鷹」もヒットする。戦後の代表作には「若草物語」(1949年)の母親役などがあるが、アルコール依存症が悪化し、自殺未遂を図ったりもしている。主な出演作には、「結婚五年目」「若草の頃」「若草物語」などがある。 その後はTVでの仕事が主となり、1959年に波瀾万丈の人生を綴った自伝を出版しベストセラーとなった。「ふるえて眠れ」(1964年)を最後に引退。1987年9月25日にロサンゼルスで亡くなった。
2010.03.27
コメント(0)
![]()
ジャン・マレー、若い人には馴染みのない名前だが、フランス映画の美男俳優の一人だった。彼の日本初登場となった作品は「美女と野獣」である。美女と野獣私がこの映画に出会ったのは大学生のとき、フランスの天才詩人ジャン・コクトーの生み出したファンタジックな画面に引き込まれた。恋に苦悩するあまり、死に瀕した哀れな野獣、その魔法を解いて美しい王子の姿に戻したのは美女ベルの優しい心だった。彼の彫刻のような美貌、乱暴者の青年、野獣、王子の3役を演じ分けた演技力。日本初公開でジャン・マレーの虜になった女性はきっと多かったに違いない。「ぼくは本職の監督ではないし、おそらく決してそうなれないだろう。夢中になって、つなぎ用のカットのことなど忘れてしまうからだ」こういうコクトーのために、この映画の技術顧問を担当したのは、のちに「禁じられた遊び」を監督したルネ・クレマンだった。彼の助けもあって、優美な「詩の映画」が完成したのである。彼は1913年12月11日、フランス・シェルブールで生まれた。1933年に映画デビュー。1937年にコクトーと知り合う。舞台『恐るべき親達』で主役を演じ、俳優としての地歩を固める。第二次世界大戦に出征後、舞台と映画で活躍。戦後は1945年「美女と野獣」、1949年「オルフェ」などほとんどのコクトー作品に出演した。コクトー没後は、アクション映画にも進出し、コクトー没後20周年に当たる1983年には、コクトーの生涯を一人芝居で演じ、好評を得、1985年には来日上演している。彼の出演作品としては、他に「オルフェ」「悲恋」「ロバと王女」「ルイ・ブラス」などがある。 コクトー作品でもう一本、忘れられないものがある。それは自分の名作戯曲「双頭の鷲」だ。豪華絢爛たるこの映画、見応え充分だ。マレーは80代になっても積極的に演劇活動をする傍ら、彫刻家としても活動した。1998年11月8日、血液系疾患のためカンヌで死去。84歳だった。
2010.03.25
コメント(1)
![]()
ウルスラ・アンドレス、彼女の極め付きはなんといってもコレ、ショーン・コネリーの007第1作「007 ドクター・ノオ」。初代ボンドガールに選ばれた彼女、素晴らしい肢体をお披露目してくれた。007 ドクター・ノオ1954年に映画デビューしていたが、長い間くすぶっていた。それが62年にボンドガールに選ばれてからは、一躍人気に火がついた。大型グラマー美人として演技よりも肉体美に惚れた御仁も多かったのではないかと思える。彼女は1936年3月19日、スイスのベルン出身。外交官の父ロルフ・アンドレス、母アンナはともにドイツ人。5人の姉弟がある。16歳の時、美術留学生としてパリへ渡る。翌年、ローマへの旅行中に映画関係者にスカウトされ、1954年の「Le Avventure Di Giacomo Casanova 」で映画デビュー。イタリアで何本かの低予算映画に出演した後、ハリウッドへ招かれたが、当初は英語が不自由でしばらくは役がつかないまま、1957年に俳優のジョン・デレクと結婚した。筋肉質な大型グラマーぶりと独特の美貌を買われ、彼女の声のみ吹き替えで1962年に「007 ドクター・ノオ」の初代ボンドガールのハニー・ライダー役に抜擢されてから人気が出る。1964年度の「Most Promising Newcomer - Female Golden Globe」に選ばれ、PLAYBOY誌でヌードになるなど、セックス・シンボルの地位を確立した。1965年に「カトマンズの男」で共演したジャン=ポール・ベルモンドと熱い仲になり、1966年にはジョン・デレクと離婚。その後もドイツ語、イタリア語、フランス語、英語の4カ国後を操る語学力を活かして、ハリウッドのみならずヨーロッパ映画にも多数出演している。出演作には、「アカプルコの海」「ピンクのルージュ」「サファリ特急」「レッド・サン」などがある。 1980年の「タイタンの戦い」で共演したハリー・ハムリンとの間に1982年に未婚のまま男児ディミトリを生む。現在、イタリアに在住。2008年、自分が骨粗鬆症であることを公表した。タイタンの戦いロマンスも多彩で、前述のジョン・デレク、ハリー・ハムリン、ジャン=ポール・ベルモンド以外にも、マーロン・ブランド、ジェームス・ディーン、ショーン・コネリー、ジョン・デローン、デニス・ホッパー、マルチェロ・マストロヤンニ、ライアン・オニール、ウォーレン・ベイティ、ピーター・オトゥール、ヘルムート・バーガー等の数々の男性遍歴がある。まさに男性遍歴も怱々たる男優ばかりだ。彼女の交友ぶりが窺える。結婚は1回、あとはフリーだ。彼女も今年74才、老後を元気に送ってほしい。
2010.03.23
コメント(0)
![]()
ベン・ジョンソン、彼を初めて見たのは「黄色いリボン」だった。昭和26年(1951年)、中学生の時だ。タイリー軍曹を演じ、オリヴィア(ジョーン・ドルー)を巡って恋の鞘当をする役だったと思う。中々のハンサムな青年を演じていた。「黄色いリボン」は監督ジョン・フォード、ジョン・ウェイン主演の永遠の名作西部劇だ。彼は1918年6月13日、オクラホマ州出身のアイルランド系だ。父はカウボーイであり、ジョンソン自身もロデオのチャンピオンになったこともある。ロデオの達人だそうだ。ハワード・ヒューズに馬の調教師として雇われたことが映画界に入るきっかけとなった。その後、スタントマンとして西部劇に出演、ジョン・ウェインやゲイリー・クーパーのスタントを務めた。フォードがほれ込み、ジョン・フォード作品の常連となった。1971年の「ラスト・ショー」でアカデミー助演男優賞を受賞した。主な出演作品には、「ラスト・ショー」「幌馬車」「ハンター」「軍用列車」「続・激突」など多数ある。私生活では結婚1回、1996年4月8日、享年77歳で天国の住人となった。
2010.03.21
コメント(0)
![]()
◆一生涯保証付・一点もの◆[直筆サイン入り写真] テイタム・オニールテイタム・オニール、子役時代の彼女はまさに天才だった。代表作と云えるのは父、ライアン・オニールと共演した「ペーパー・ムーン」である。ペーパー・ムーン新聞の死亡記事を見て聖書を売りつける詐欺師と事故で母をなくした9歳の女の子が旅をする面白くもせつない物語だ。ちょっと寓話めいたものを感じる。舞台は1930年代、禁酒法施工下のアメリカ中部、カンザス州の田舎町だ。母と付き合っていたモーゼ(ライアン・オニール)がオンボロ車で葬式にやってくる。むっつり顔の娘アディ(テイタム・オニール)が自分の娘かどうかわからない。だが、行きがかり上、ミシシッピの叔母の家まで送ることになる。無愛想で笑顔ひとつみせないアディだが、頭の切れること、モーゼは道中振り回される羽目になる。ピーター・ボグダノヴィッチが監督を引き受けた時の条件はオニール父娘ならということだったそうだ。監督の期待通り、映画初出演でありながら、テイタムは父親顔負けの演技を披露、史上最年少で73年度アカデミー助演女優賞を獲得したのだ。彼女は1963年11月5日、カリフォルニア州ロサンゼルス市で生まれた。父親は俳優のライアン・オニール、母親は女優のジョアンナ・ムーア。1967年に両親は離婚。弟グリフィン・オニールも俳優である。9歳の時に父親と共に映画「ペーパー・ムーン」に出演、最年少(10歳)でアカデミー助演女優賞を受賞。シャーリー・テンプルの再来かと騒がれる。1976年の「がんばれ!ベアーズ」、「ニッケルオデオン」 の頃は最も稼ぐ子役スターだったが、以後は役に恵まれず次第にスクリーンから遠ざかってゆく。 近年は『セックス・アンド・ザ・シティ』や『LAW & ORDER』などのテレビシリーズに出演している。1970年代にはマイケル・ジャクソンと交際していたといわれている。1986年にテニス選手のジョン・マッケンローと結婚して一時引退。3人の子供に恵まれるが1992年に離婚して復帰した。離婚時にはテータムがヘロイン中毒だったので、3人の子供の養育権は父親が持った。2008年6月、ニューヨーク市内でコカインを購入しようとした疑いで逮捕され、有罪となって2日間の薬物治療の講習会受講と罰金95ドルを科せられた。テイタムはまだ46歳の若さだ。気持ちを切り替えてなんとか再起してほしいものである。
2010.03.19
コメント(0)
![]()
アドルフ・マンジュー、彼の名はおかしな名前だなと思い、一発で頭の整理棚に収納された。最初に見た映画はトーキー初期の名作「モロッコ」だ。モロッコこの映画はハリウッドに進出し、第1作で世界の映画ファンを席捲したマレーネ・ディートリッヒの映画史に残る名作である。アドルフ・マンジューはマレーネ扮する歌姫アミーの楽屋で、クーパーが顔を合わせる恋敵、富豪の紳士ラ・ペシェールに扮していた。中年紳士の中々の色男という風貌だなと思ったものだ。クーパーは砂漠の戦いに出陣するときにアミーをマンジューに譲って出て行く。有名な鏡に置いてあったアミーの口紅でアミーへ別れの言葉をクーパーが書き残す場面を思い出した。そして、出陣となるなだが・・・。マンジューは1890年2月18日、フランス人とアイルランド人の血を引き、ペンシルベニア州ピッツバーグに生まれた。彼はカトリック教会を信仰する一家に育てられ、Culver Military Academyを出て、 コーネル大学でエンジニアリングの学位を取得して卒業する。その後、ヴォードヴィルの魅力に引き付けられ、1916年The Blue Envelope Mysteryで俳優デビューを果たす。当時は第一次世界大戦のさなかで、彼は救護班のリーダーとして活躍した。1947年、マンジュー はハリウッドで赤狩りが猛威を振るった時、非米活動調査委員会と手を組み、Motion Picture Alliance for the Preservation of American Idealsという、ハリウッドにおける共産主義対策の自己流パトリオティズム団体の主要メンバーを務めていた。この団体には1939年に「ゴールデン・ボーイ」で共演した バーバラ・スタンウィックとその夫 ロバート・テイラーもいた。政治的信念のためにキャサリン・ヘップバーンとは対立していた。マンジュー は「ステージ・ドア」と「愛の立候補宣言」に、 スペンサー・トレイシーと共に出演したが、へプバーンが共産主義者と疑われた際、彼女は激怒、マンジューとはほとんど口を利かなかったそうだ。彼はサイレント映画からトーキーの移り変わりに活躍を開始し 「シーク」、「巴里の女性」、「モロッコ」、「スタア誕生」と言った作品に出演した。また、1931年に「犯罪都市」に出演したことでアカデミー賞にノミネートされた。巴里の女性その他、主な作品には、「勝利の朝」「武器よさらば」「ロイドの牛乳屋」「突撃」「結婚哲学」など多数ある。 彼は1963年10月29日、肝炎のため死亡。天国への道を辿った。享年73歳であった。私生活は不明である。
2010.03.17
コメント(0)
人の世はいつどんな用事が出来て、その用事に振り回されることになるか分からない。前もって予測できないことだけに、参ってしまう。私の場合は高齢の義姉の思いがけぬ検査だった。今年87歳になるやや認知症気味の義姉のこと、妻が妹なので病院の検査には私が世話を焼いてやらなければならない。それにしてもいつも思うことだが、病院というところはヤケに時間がかかる。あっちこっちとまわらせられ、ほとんど1日仕事だ。そして、付き添っているというだけなのに、無茶苦茶疲れるのだ。家に戻ったときには、ブログを書き続ける気力を失っていた。折角1日も休むことなく281日間書いてきたのだが、いい加減に書くわけにはいかない。遂に282日目の休日とは相成った。今後は義姉のこともあり、隔日おきに書いてゆくつもりである。どうか御容赦をお願いしたい。
2010.03.15
コメント(0)
![]()
アンナ・マニャーニ、彼女の名はこの1場面で映画史に永遠の光を放つに違いない。1950年(昭和25年)に封切られたイタリアン・ネオリアリズモの傑作「無防備都市」の1シーンである。無防備都市ロベルト・ロッセリーニ監督のこの作品、レジスタンスの指導者や、それを支持する神父、そして彼等に関わった人々の悲惨な末路が冷徹な目で描かれる。地下運動家の妻(マニャーニ)が、車に乗せられ連行される夫の後を追いかける。夫の名を叫びながら、執拗に追いかける。車と彼女の間隔は広がる。だが、彼女は決して諦めない。必死に手を伸ばして絶叫するのだ。次の瞬間、「ダダダ・・・」と走る車から機銃が発射される。路上につんのめるように倒れる妻、手を伸ばした状態のまま、コト切れる。ファシズムへの痛烈な批判がこのカットから読み取れる。まさに名作だ。彼女は1908年3月7日、イタリアのローマで生まれた。父はエジプト人。15歳から大衆演芸の舞台に立つ。1934年映画デビュー。彫りが深い顔立ち、線の太いいかにも「イタリア女」の風貌で、ロッセリーニ、ルノワール、ヴィスコンティらの作品に出演。特にロッセリーニの「無防備都市」では、鮮烈な印象を残した。1955年の「バラの刺青」でアカデミー主演女優賞、ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)を受賞。出演作品はさして多くはないが、良品が多い。「アモーレ」「黄金の馬車」「ベリッシマ」「蛇皮の服を着た男」「われら女性」などがある。晩年に「ふたりの女」の出演以来がきたとき、マニャーニは母親役をよしとせず蹴ったところ、代役はソフィア・ローレンになり、ローレンはその演技でアカデミー主演女優賞を獲得した。そのため、「私の役はみんなソフィアが持っていってしまう。」と、後輩の活躍をうらやんだという。第二次世界大戦中、ムッソリーニ失脚後、北イタリアはドイツ軍に占領され、ドイツ軍は占領軍使用のため、市民の自動車を徴発した。自動車を取られたマニャーニは怒って、農家の使う大八車を持ち出し、ドイツ兵に怒鳴りながら、ヴィア・デル・コルソなどの目抜き通りを突っ走ったという逸話の持主だ。彼女は1973年9月26日、まだ若い65歳で天国に呼ばれた。結婚は1回だった。
2010.03.14
コメント(0)
![]()
メル・ファーラー、最初に見たのは人形芝居の一座を描いた、心温まるミュージカル「リリー」だったと記憶している。(ハイリリー ハイロー~)の歌で思い出される人も多いと思う。公開が1953年(昭和28年)だから、私が高校生の時だ。梅田か難波の劇場で見たようだ。メル扮する人形遣いが、見世物小屋の給仕係のリリーに人形を使ってやさしく話しかける。目を輝かせながら人形を見守るリリー。メルはリリーを深く愛しているのだが、リリーの心は魔術師へ。51年の「巴里のアメリカ人」でデビューしたばかりのレスリー・キャロンが実に愛らしい。当時、キャロンは22歳だった。もう一本はキング・ヴィダーが全魂を傾けて壮大な映像で描いたトルストイの名作「戦争と平和」。イタリアの大プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスは云う。「この作品のナターシャ役はオードリー・ヘプバーン以外に考えられなかった。そこでメル・ファーラーをアンドレイ公爵に起用することで、オードリーの出演承諾を取り付けたんだ」この頃、人気絶頂のオードリーはメルと結婚していたが、夫のメルを口説くことでオードリーを納得させたようだ。戦争と平和アンドレイの死を看取るナターシャの哀切極まりない表情は誠に見事なものだ。夫婦協力しての撮影現場が目に浮かぶようである。それにしてもイタリアで撮影されたこの作品は大変だったそうだ。エキストラには、1万8000人のイタリア陸軍兵士が動員され、馬は3000頭。さらに事故が多発した戦闘シーンでは、兵士に扮装させた医師約60人を救急看護のためエキストラとして紛れ込ませた。だが、もっと大変だったのは、ナポレオン軍が猛吹雪の中を敗走する場面だ。7月のイタリアの猛暑の中、石膏粉に浸したコーンフレークを送風機で吹き飛ばし、夏のローマのテベレ河畔をロシアに変貌させたのである。映画では真夏のシーンを真冬に撮影したり、真冬に真夏を撮ったりということが多い。スタッフの苦労はともかく、役者さんの苦労は想像を絶するものがある。彼は1917年8月25日、ニュージャージー州エルベロンで生まれた。プリンストン大学在学中から、夏はマサチューセッツ州デニスの劇団ケイプ・コッド・プレイハウスに参加。その後はヴァーモント州で出版社に勤めていた。プレイハウスで主役をつとめるまでになってからは出版社を退社し、ブロードウェイに進出する。数々の舞台を経験後、さらに地方の放送局に見習いとして入って、DJなどを担当後、NBCのプロデューサー兼ディレクターとなる。1945年に映画入り、当初はダイアログ・ディレクターとしてコロムビア社と契約。俳優としても映画に出演した後、再びブロードウェイに戻るなど、舞台や映画に俳優として活躍し、1950年の「狙われた結婚」で監督にも進出した。主な出演作品には、「女帝キャサリン」「フランス式十戒」「恋多き女」「陽はまた昇る」などがある。 1960年代はヨーロッパでの活躍が多くなり、低予算映画の出演がほとんどとなった。監督作品にはオードリー主演のファンタジーもの「緑の館」がある。私生活で結婚は5度。1937年に小説家のフランセス・ピルチャードと結婚し一男を儲けるが離婚。1940年に彫刻家のバーバラ・C・トリップスと結婚、二男一女を儲けるが離婚。1942年に再びフランセス・ピルチャードと結婚。4度目は女優のオードリー・ヘプバーンと1954年のブロードウェイの舞台『オンディーヌ』共演後に結婚。共演作に1956年の「戦争と平和」、監督作に1959年の「緑の館」、プロデュース作に1967年の「暗くなるまで待って」など夫婦一緒の仕事も多かったが、1960年に子どもを儲けたのち、1967年に別居、翌年には離婚した。原因は彼の派手な女性関係だといわれている。1971年にエリザベス・スコーティンと結婚。1980年代後半以降は公に姿を見せることがほとんどなかった。但し、1993年に元妻であるオードリー・ヘプバーンが死去した際には彼女の葬儀に訪れており、公式には1998年まで芸能界に籍を置いていた。2008年6月2日、カリフォルニア州サンタバーバラ郊外の自宅で死去。享年90歳だった。死去の半年ほど前から療養所と自宅を往復していたという。死因は未公表。
2010.03.13
コメント(1)
![]()
セレステ・ホルム、彼女の名前を記憶しておいでの方はいらっしゃるだろうか。彼女は脇を固める重要な役を演じる演技派女優の一人だ。最初にスクリーンで目に止めたのは、「イブの総て」だった。劇作家アディスンの妻カレンを演じ、大女優マーゴを蹴落とすイブに力を貸してやる。マーゴが別荘からの帰路、車のガソリン切れを起こす。そのため舞台に遅れ、イブが代役として舞台に立つ。そう仕組んだのはカレンだった。美貌の仮面のウラに隠した計算、狐と狸のばかしあい、そんな演劇界の人間模様を描き出した一端を担った重要な役だった。イブの総て上流社会もう一本はグレース・ケリーの「上流社会」である。彼女はこの作品で結婚式の取材にやって来たゴシップ雑誌のカメラマン、リズの役だ。リズはトレイシーの邸内を歩き廻り、グレイス扮するトレイシーを巡る混乱に拍車をかける。ホルムはブロードウェイ出身の女優だけあって、その演技たるや見事なものがある。この作品でも、シナトラと歌の掛け合いを披露してくれるのが実に楽しい。彼女は1919年4月29日にニューヨークで生まれた。 父親はノルウェー人である。シカゴ大学で学び、ブロードウェイの舞台に立つようになった。『オクラホマ!』などに出演した後、1946年に20世紀FOXと契約し、映画にも出演するようになる。翌年の「紳士協定」でアカデミー助演女優賞を受賞。他の作品には「蛇の穴」「三人の妻への手紙」「トム・ソーヤーの冒険」「スリーメン&ベビー」などがある。 1950年代以降は舞台に戻っている。生涯で5回結婚し、長男のテッド・ネルソンは社会学者となった。彼女は現在90歳、お元気であってほしい。
2010.03.12
コメント(2)
![]()
ジョージ・ラフト、彼は血も涙も出ない冷血感を漂わせるギャング映画の大物役者だ。車から降り立つスパッツを履いた足のUP。ばらばらと降りるギャングの手下たち。マシンガンを敵対するギャングに突きつけ壁に向かって並ばせる。スパッツを履いた男が合図する。「バリバリバリ・・・!」マシーンガンが火を噴く。倒れる男たち。”聖バレンタインデー”の虐殺シーンである。車の陰から見ていた二人のバンドマン、震え上がって逃げ出す。見つけたギャングが銃撃する。パトカーのサイレンの音が響く。急発進するギャングの車。九死に一生を得た男二人、ギャングの目を眩ませるため、女装して女性楽団に身を隠す。お熱いのがお好きご存知、「お熱いのがお好き」の重要場面である。この映画は喜劇だ。でも見方を変えれば、恐怖映画であり、サスペンス映画であるともいえるだろう。この作品で監督のビリー・ワイルダーはギャングのボス役、ジョージ・ラフトの不気味さとダンディさを強調するためにスパッツを印象づけているようだ。靴カバー”スパッツ”は「暗黒街の顔役」でラフトが共演したポール・ムニがつけていたもので、ダンディな男の象徴だったという。また映画の中でギャングの手下がコインを指ではじく仕草は「暗黒街の顔役」でラフトをスターにした芝居を取り入れたそうである。冒頭、もぐり酒場の取締りシーンで酔っ払いがラフトのスパッツに酒をひっかけ汚してしまう場面があるが、手下のギャングにつまみ出された酔っ払いの運命はどうなるのだろう。不気味だ。また、ホテルでギャング団の会議があるが、「ハッピー バースデー・・・」の歌で大きなケーキから出てきた機銃の男、居並ぶボスどもをつるべ撃ちする。平然と見ているラフト。ホテル2階の部屋から植木を伝わってホテル脱出を企てるジョーとジェリー、だが、窓からギャングの目がハイヒールに吸いつけられる。二人の命は風前の灯・・・。ジョージ・ラフト、彼は1903年9月24日、ニューヨーク・マンハッタンのヘルズ・キッチン生まれ。両親はドイツ系アメリカ人。オウニー・マドゥンやベンジャミン・シーゲル、マイヤー・ランスキーといった後にギャングとなった人物たちと共に育つ。若いころからダンスをしており、ニューヨークのナイトクラブで踊るようになる。それがきっかけで舞台に立つようになり、ブロードウェイにも出演した。1929年にハリウッドに移り、映画に出演するようになる。特に1930年代、ジェームズ・キャグニーやエドワード・G・ロビンソンと並んでギャング映画に多く出演した。出演作品には、「暗黒街の顔役」「ボレロ」「皆殺しのバラード」「殺しのミッション」などがある。 結婚は1回、1980年11月24日、77歳で天国に上った。
2010.03.11
コメント(0)
![]()
ヴェラ・クルーゾー、まさに肌が粟立ち戦慄する恐怖に捉われた「悪魔のような女」。この映画が公開された当時、50年以上前のことだが、本当に震える思いで作品を見た。横暴な夫に耐え切れなくなった妻と愛人が、夫の殺害を企てる。ヴェラ扮する妻は病気がちでしかも心臓が悪い女。シモーヌ・シニヨレ扮する愛人が実行犯を引き受ける。風呂に漬け込んでの殺しの場面、学校のプールに死体を投げ込み、プール掃除でプールが乾されるのを待つシーン、だが、乾されたプールに死体はない。恐るべきサスペンスの連続。死体はどこに消えたのか。緊迫感溢れる描写に唸らせられる。ラスト近く、2階を歩き回る物音に怯える妻、そして、風呂桶に沈んだ死体が起き上がる場面の恐怖・・・。ヴェラは目を恐怖にカッと見開き、そして絶命・・・。この場面の演技は実に見応え充分であった。アルフレッド・ヒッチコック監督も大いに影響を受けたそうである。悪魔のような女ラストの意外性は公開当時、大いに話題を呼んだ。映画を見た人はまだの人に喋らないでほしいと言う映画会社からのお達しがあったと記憶している。彼女は1913年12月30日、ブラジルのリオデジャネイロに生まれ、第二次世界大戦前にフランスのパリに移住した。その後、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーが監督する映画にスクリプターとして参加し、それがきっかけで1950年に結婚した。アンリ=ジョルジュは自分の映画製作会社を、彼女にちなんでヴェラ・フィルムと名付け、ヴェラを自分の監督作品「恐怖の報酬」(1952)、「悪魔のような女」(1955)、「スパイ」(1957)に出演させた。恐怖の報酬また、「真実」(1960)では、共同脚色者として参加している。「真実」の撮影中、監督のアンリ=ジョルジュと主演のブリジット・バルドーの仲が取り沙汰され、ヴェラは神経衰弱に陥った。1960年12月15日、ヴェラはパリのホテルの浴室で心臓発作を起こして急死した。46歳。服毒自殺という説もある。遺体はモンマルトルの墓地に葬られた。ヴェラの死は何ともいたましい。それもアンリの浮気が原因とは・・・。悲しすぎる。
2010.03.10
コメント(2)
![]()
ドナルド・オコーナー、名前はあまりメジャーな方ではない。しかし、踊りの才能にかけては抜群の能力保持者である。あなたもきっと感嘆されたことがおありだろう。映画はミュージカル映画の最高峰「雨に唄えば」。表舞台はジーン・ケリーに浚われてしまっているが、この人の演技も中々のものだ。雨に唄えば舞台裏のセット構築現場で大道具さん、小道具さんが忙しそうに動きまわる中で、彼が抜群の踊りを見せる一人芝居は、大向こうを唸らせるに充分だ。セットを使っての踊り、走り、跳ぶ、まさに”ドナルド・オコーナーここにあり”といわんばかりのダンスシーンである。中でも極め付きは人形を使っての踊りだ。モノに過ぎない人形なのだが、彼にかかると命を吹き込まれたように、人形まで立派なパートナーに変身する。至芸とでも云おうか、彼の凄さに舌を巻いたのはわたし独りではなかっただろうと思う。彼は1925年8月28日、ボードビリアンの両親ジョン・エドワードとエフィの七番目の子供として生まれた。一家はドナルドの生まれたころ「オコーナー・ファミリー」として活動を行い、ドナルド自身も1歳で初舞台を踏んだ。11歳にして兄弟とともに「二人のメロディ」で映画デビュー。パラマウントと契約して、「ポー・ジェスト」「シング・ユー・シナーズ」などに子役として出演する。兄の病死により、一時ボードヴィルに戻ったが、1942年にユニバーサルからスカウトされ、ペギー・ライアンとのダンス・コンビを組んだ。グウェン・カーターと結婚、軍役を経て、映画界に復帰した後はコメディ作品「フランシス」(1950年~)シリーズでコメディアンとしての人気を確立した。1951年にはジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンの指名によってMGM社に貸し出され、名作「雨に唄えば」でジーンの相手役を務めた。さらに翌1953年には「アイ・ラブ・メルビン」、「ショーほど素敵な商売はない」(1954年)などの作品出演を重ねたが、ミュージカル映画が次第に下火になってゆくなかで活動の軸足をTVに移していった。「ザッツ・エンタテインメント」はミュージカルの記念碑的作品と言えるだろう。ザッツ・エンタテインメント1956年、グロリア・ノーブルと再婚。晩年まで映画、TV、音楽などで活動をつづけ、2003年9月27日、心臓麻痺で死去。享年78歳で没した。
2010.03.09
コメント(0)
![]()
ロンダ・フレミング / Rhonda 輸入盤 【CD】 ロンダ・フレーミング、彼女に初めて出会ったのは、勿論スクリーンの上、なんときれいな人なんだろうと見ほれてしまった。映画は「OK牧場の決斗」だった。ロンダは赤い髪が特徴の女優で”天然色女優”と呼ばれていた。だが、テクニカラー映画の本家赤い髪の女優はやはりモーリン・オハラと決まっていたと思う。果たしてテクニカラークイーンはどちら?なのだろうか。どちらもカラーに美しく映える美人だ。勝負なしとしておこう。「OKコラル・・・」フランキー・レインの歌が流れるなか、大草原の彼方に3人の馬上の男が現われ、男たちは町に入ってくる。そして、ドラマの幕が開くという次第。ヨーロッパ帰りの美人賭博師に扮したロンダは流石に美しさに溢れていた。OK牧場の決斗彼女は1923年8月10日、カリフォルニア州ハリウッドで生まれた。そして1940年、ビバリーヒルズにあるビバリーヒルズ・ハイスクール在学中の17歳の時に街でエージェントからスカウトされる。その後、デヴィッド・O・セルズニックと契約を結び、芸名をロンダ・フレミングと命名。端役で数本の映画に出演し、1945年、デヴィッド・O・セルズニック制作、アルフレッド・ヒッチコック監督の「白い恐怖」で本格的な役を獲得する。白い恐怖赤い髪、緑色の眼と白い肌がカラー作品に映えることからテクニカラーの女王と呼ばれた女性の一人というのは事実である。他の出演作品には、「静かなる対決」「【ポスター】0086笑いの番号ドン・アダムス」「らせん階段」などがある。 1991年にテッド・マンと共にUCLAメディカルセンターにロンダ・フレミング・マン クリニック(Rhonda Fleming Mann Clinic For Women's Comprehensive Care)を開設した。現在の伴侶を含めて6回の結婚歴がある。(5番目の夫・テッド・マンとは1978年より22年連れ添った後、2001年1月に死別している。)彼女ももう86歳である。無理せず長生きしてほしいものだ。
2010.03.08
コメント(0)
![]()
フランコ・ネロ、ご存知、マカロニ・ウエスターンの雄だ。メキシコ国境の小さな村へ棺桶を引っ張って現われた一人の男、一匹狼のジャンゴである。彼が村の無法グループに向かって棺桶を開けて持ち出したのは、何と一挺の機関銃。次の瞬間、カタカタカタと機関銃が火を噴く。無法者の群れは瞬く間に倒れて行く。なんとも痛快な場面といえようか・・・マカロニの見せ場のひとつであろう。カタルシスも吹っ飛ばしてくれそうな勢いだ。フランコ・ネロ主演「続・荒野の用心棒」の一場面である。続・荒野の用心棒彼は1941年11月23日、イタリアのサン・プロスペロ出身だ。父親は警察官で、ミラノの大学で経済学を勉強しているときに、写真のモデルとしてスカウトされた。1964年に映画デビューし、マカロニ・ウェスタンで活躍、スターになった。100本以上の映画に出演している。主な出演作品には「ガンマン大連合」「ガンマン無頼」「天地創造」「ヒッチハイク」「真昼の用心棒」など、多数ある。 1967年の「キャメロット」で共演したヴァネッサ・レッドグレイヴとの間に息子がいるが、二人は2006年に正式に結婚した。キャメロット1982年、南米ペルーの首都リマで開催されたミス・ユニバース世界大会で審査員を務めた。彼はまだ68歳、もう一働きして貰いたいものである。
2010.03.07
コメント(2)
![]()
◆一生涯保証付◆[直筆サイン入写真] ウーピー・ゴールドバーグウーピー・ゴールドバーグ、彼女は中々パワーのある女性だ。映画で初めて彼女を見たのは「天使にラブ・ソングを・・・」だった。しがないクラブ歌手のデロリスは殺人現場を目撃し、ギャングに命を狙われる。身を隠すために彼女が選んだ場所は、なんと、お堅い修道院。命惜しさにじっと我慢の子だったが、なんともミスマッチ。ところが聖歌隊のリーダーに任命されてからは、歌の実力を発揮。ヘタクソなコーラスに変わって教会から流れて来たのはソウルやロックの”賛美歌!?”なのだからオドロキ。たちまち、町中の人気となり、全国に報道される。テレビに映った尼さん姿のデロリスをギャングが見逃すワケがなく、デロリスに危険が迫る。危うしデロリス!?天使にラブ・ソングを…実にユーモアたっぷりな演技が笑いを誘う。歌あり、笑いあり、涙あり、コメディを堪能できる上々の作品だ。彼女は1955年11月13日、アメリカ合衆国ニューヨークで生まれた。アフリカ系アメリカ人である。ニューヨーク大学卒業。『スタートレック』に登場する黒人士官、ウフーラを演じるニシェル・ニコルズに強く影響され女優を志す。放映当時、黒人女性がSFのTVシリーズのレギュラーを、しかも軍隊(に準じる組織)の士官を演じる事は極めて異例であり、彼女の他にも多くのアメリカの黒人女性に大きな希望を与えたという(当時のSFドラマを含むTVドラマに黒人がレギュラー出演することはまれだった)。また、本人の希望もありSFドラマ『新スタートレック』シリーズに『ガイナン』役で準レギュラー出演している。子供のころから劇団に参加し、若くして劇団を設立したり、スタンダップ・コメディの舞台やテレビにも出るようになった。サンフランシスコの舞台に立っていたのを、アリス・ウォーカーが見て「カラーパープル」の主役として映画デビューした。ゴースト ニューヨークの幻「ゴースト/ニューヨークの幻」でアカデミー助演女優賞を受賞。「天使にラブ・ソングを…」で主役を務め、女優としての名を世界に広めた。女性として初めてアカデミー賞授賞式の司会を務め、その後も数回、司会を務めている。彼女の他の出演作品には、「マイフレンド、クララ」「ロング ウォーク ホーム」「カモン・ヘブン!」「ザ・テレホン」など面白そうなコメディや感動作が多数ある。 ウーピーには3度の結婚歴がある。俳優のテッド・ダンソンやフランク・ランジェラと交際していた時もあった。また、彼女は文字を左右逆に書いてしまう障害を持っていた。2007年、ゲスト出演したCNN『ラリー・キング・ライブ』にて、女優を引退しトークショー等の司会に専念すると宣言。現在は朝のラジオ番組『Wake Up With Whoopi』でメインを務め、2007年9月からはアメリカABCのトーク番組『The View』の共同ホストの一人となっている。彼女はまだ54歳、元気で頑張って欲しい。
2010.03.06
コメント(1)
![]()
Danny Kaye / Best Of 輸入盤ダニー・ケイ、彼は中学生の頃から私の大好きな役者の一人だった。ポケタポケタ・・・で始まる白昼夢、いきなりだから困りもの、でも夢の中で彼はしがないサラリーマンからヒーローに変身するのだ。それにしても彼の早口言葉は圧巻だった。「虹を掴む男」この映画を何度見たことだろう。彼のような白昼夢を一度見てみたいと真剣に考えたこともある。でも幸か不幸か白昼夢はおろか、夢の中でヒーローになることも出来なかった。その代わり、夢の中の美女ヴァージニア・メイヨに”ホの字傘”になり、彼女の出演映画を追いかける羽目に陥った。虹を掴む男ポケタポケタの次に彼を見直したのは「5つの銅貨」だった。これはでジャズ・トランペッター/レッド・ニコルスの伝記映画でいつものひょうきんさは姿を消し、ダニーにしては極めてシリアスな演技をしていた。レッド・ニコルスは演奏旅行に次ぐ演奏力旅行で娘が重傷の小児マヒにかかる。彼はペットを捨て、夫婦で娘のリハビリに全力を注ぐ。そして舞台復帰したニコルスに娘が杖なしで歩み寄るシーンは感動が胸に突き上げてくる。 5つの銅貨ダニーの作品であと一本感動的な映画は「ホワイト・クリスマス」だろう。ダニーがビングと組み、ローズマリー・クルーニーとヴェラ・エレンのシスターズと退役軍人の上官を救うという筋立てだ。これも中々良く出来た心温まる作品だった。彼は1913年1月18日、ニューヨーク州のブルックリンにて、ウクライナからのユダヤ系移民の親の元に生まれる。幼い頃から歌とおしゃべりが好きで、高校中退後劇団に入り下積みを経験し、1939年の『The Straw Hat Revue』でブロードウェイデビューを果たす。その後、1941年のブロードウェイ・ミュージカル『レイディ・イン・ザ・ダーク(Lady in the Dark)』に出演し、さらにわずか39秒で50人のロシア人作曲家を早口で暗唱する『チャイコフスキー(Tchaikovsky and Other Russians)』という曲で大絶賛を浴びた。さらに、彼の才能に注目した映画製作者サミュエル・ゴールドウィンの誘いにより映画界入りを果たし、1944年に「ダニー・ケイの新兵さん」で映画デビューを飾る。 以降、「ダニー・ケイの天国と地獄」や「虹を掴む男」、「ホワイト・クリスマス」、「五つの銅貨」等、数々の映画に出演。独特の早口で歌う様やコミカルな演技で人気を博した。彼の他の作品には他に「夫は偽者」「ダニー・ケイの検察官閣下」「ダニー・ケイの天国と地獄」「アンデルセン物語」などがある。 アメリカでは、1981年9月に行なったニューヨーク・フィルハーモニックとの演奏会が語り継がれている。同楽団の常任指揮者であったズービン・メータの物真似をしたり、ハエ叩きを持ってリムスキー=コルサコフの『熊蜂の飛行』を指揮したりと、得意のコミカルな演技で聴衆を楽しませた(尚、この演奏会の模様は『ダニー・ケイとニューヨーク・フィルの夕べ』というタイトルでビデオやレーザーディスクが発売されていたが、現在は廃盤であり、中古品が高値で取り引きされている)。1981年のアカデミー賞では、長年のユニセフの活動に対してジーン・ハーショルト友愛賞を授与された。1987年3月3日、ロサンゼルスにて心臓発作で死去。享年74歳で天国の住人になった。余談だが俳優の谷啓が芸名の参考にしたそうである。
2010.03.05
コメント(2)
![]()
リタ・モレノ、彼女の踊りは他を圧していた。ロバート・ワイズ監督の傑作「ウエスト・サイド物語」のダンスシーンである。開巻、『アメリカ』の曲に乗って踊るジェット団の女たち、中でもアニタ役のリタ・モレノのダンスはずば抜けていた。まさしく”花のように蝶のように”舞っていたと言えよう。彼女が本作でアカデミー助演女優賞を受賞したのもうなずけるところである。ウエスト・サイド物語彼女は1931年12月11日、プエルトリコのウマカオ生まれ。5歳で母親とともにニューヨークに移る。13歳の時にブロードウェイの舞台に初出演し、ハリウッドのスカウトに注目された。「ウエスト・サイド物語」でアカデミー助演女優賞及びゴールデングローブ賞 助演女優賞を受賞した。彼女はアカデミー賞、トニー賞、グラミー賞、エミー賞を受賞した女優としてギネスブックにも載っている。70年代以降は、テレビ出演が主になっている。彼女の出演作には、「王様と私」「カーサ・エスペランサ~赤ちゃんたちの家~・オリジナル・サウンドトラック」「ピニェロ」「愛の狩人」などがある。 私生活では1回の結婚、78歳の今も元気なのはなによりだ。
2010.03.04
コメント(0)
![]()
ミッキー・ルーニー、彼の珍妙な日本人の姿を見てズッコケた。オードリー・ヘップバーンの「ティファニーで朝食を」に登場してくるユニヨシという男がそれだ。いつも鍵を忘れるヘップバーン演じるホリーにベルでたたき起こされ、布団から身を起こすたびに、提灯のような電灯に頭をしたたかにぶつける。出っ歯にメガネ、着物姿のクニヨシは”芸術写真家”を名乗る人物だが、あまりに紋切り型に描かれている。明らかに日本人への偏見が感じられるのだ。もう少しましな扮装をして欲しかったと思う。ティファニーで朝食を彼は1920年9月23日、ニューヨーク州のブルックリンでボードヴィル芸人の親の元に生まれた。なお、生名は「ジョセフ・ユール Jr.(Joseph Yule Jr.)」であった。幼少時からボードヴィル・ショーに出演し、初舞台は僅か15か月の時、その後両親の離婚に伴いカリフォルニア州のハリウッドに移り、4歳の時に映画デビューした。ハリウッドに移った後は、10歳で当時隆盛を誇ったメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの専属となり、1933年に公開された「紐育・ハリウッド」を皮切りにミュージカル作品を中心に人気子役として活躍をつづけた。その後同じく子役として人気が高かったジュディ・ガーランドとペアを組み数々の作品に出演し大ヒット作を連発し、一躍スターダムにのし上がり、1939年にはアカデミー賞特別賞を受賞した。彼の子役時代の作品にはエリザベス・テイラーと共演した「緑園の天使」、「ブロードウェイ」では子役のジュディ・ガーランドと達者なタップを踏んでいる。緑園の天使1941年12月にアメリカが第二次世界大戦に参戦した後、1944年にアメリカ陸軍に入隊し終戦までの間軍隊生活を送る。なお、入隊に先立つ1942年に肉体派女優として知られたエヴァ・ガードナーと結婚するも、間もなく破局した。なお、ルーニーは現在までのところ8回結婚している。第二次世界大戦から復員後映画界に戻るものの、その後子役時代のイメージが抜けず、一時期スランプに落ちいることとなる。しかし、1950年代に入り性格俳優としてイメージチェンジしたことや、テレビショーに出たことで人気が持ち直し再び人気俳優となる。その後は1950年代から1960年代にかけていくつかの映画製作に携わった他、「ティファニーで朝食を」などの名作に重要な脇役として出演し、数回にわたりアカデミー助演男優賞の候補に挙がる。彼の作品には「ナイト ミュージアム」「コナン ザ・アドベンチャー」「トコリの橋」「ドミノ・ターゲット」などがある。 ミュージカルからコメディ、シリアスドラマまでをこなすその高い演技力は称賛の的となり、1983年には映画界への貢献を称えられてアカデミー賞名誉賞を受賞した。80歳を超えた現在も現役俳優として数々の映画やテレビドラマ、ショーに出演し活躍を続けている。彼は現在89才、90歳の大台に乗ることになる。頑張れ、ミッキー!。
2010.03.03
コメント(3)
![]()
◆一生涯保証付・一点もの◆[直筆サイン入り写真] ブルック・シールズ (Brooke Shields)ブルック・シールズ、彼女の作品では「プリティ・ベビー」で見せた色香にびっくりさせられた。これは俊英ルイ・マルがアメリカで初めて撮った作品である。ニューオーリンズの娼婦の子に生まれた少女バイオレットが辿る数奇な運命を描いたものだ。少女役のシールズが幼さの中に妖しい色気を漂わせて、けだるい南部の景色を捉えたカメラと共に印象に残る。シールズの演じた12歳の娼婦は映画界にセンセーショナルな話題を生んだのである。この時、彼女は実年齢も12歳だったそうだ。プリティ・ベビー続く「青い珊瑚礁」では漂着した南太平洋の島でいとこ同士愛し合うようになり、まぶしい肢体を夏の陽光に惜しげもなくさらけ出したシールズの魅力は多くの男性を魅了したに違いない。彼女は70年代を彩った名花であることは云うまでもあるまいと思う。その美貌は少女時代のエリザベス・テイラーをしのぐほどだったという。青い珊瑚礁彼女は1965年5月31日、ニューヨーク市出身のモデル、女優。本名はクリスタ・ブルック・カミール・シールズ(Christa Brooke Camille Shields)で、身長183cm。元女優である母親のマネジメントで、わずか生後11ヶ月歳の時にアイヴォリー石鹸のモデルに起用され、その後アメリカで一番の高額ギャラを得る人気子供モデルとなる。1977年、ホラー映画の「Alice, Sweet Alice」の端役で映画デビュー。1978年にルイ・マル監督の「プリティ・ベビー」で12歳の娼婦を演じセンセーショナルな話題を呼んだ。1980年の「青い珊瑚礁」や1981年の「エンドレス・ラブ」などにより、世界的に人気を集め美人の代名詞とされるようになる。エンドレス・ラブまた20歳の時には『私のライフ・スタイル』を出版。プリンストン大学在学中は学業に専念し、首席で卒業した。1997年4月19日、男子プロテニス選手のアンドレ・アガシと4年間の交際の後に結婚。この頃シールズはテレビ・シリーズの「ハロー・スーザン」(原題“Suddenly Susan”)に出演中で、女優業は再び充実していた。ところが夫のアガシのテニスは不調に陥る。結局、2人は2年後の1999年4月に離婚した。アガシとの離婚後、2001年4月にテレビ・プロデューサーのクリス・ヘンチー(Chris Henchy)と再婚。最近はバーンスタインのミュージカル『ワンダフル・タウン』(Wonderful Town)の主演などがあり、好評を博した。アガシとの離婚後、2001年4月にテレビ・プロデューサーのクリス・ヘンチー(Chris Henchy)と再婚。最近はバーンスタインのミュージカル『ワンダフル・タウン』(Wonderful Town)の主演などがあり、好評を博した。彼女の出演作には他に、「キャノンボール 新しき挑戦者たち」「黄金の誘惑」「サバンナの詩」「フリーウェイ」などがある。 2003年に長女(ローワン)を出産した後うつ症状になり、抗うつ薬を使用したことを公表したが、2005年5月にサイエントロジー信者であるトム・クルーズがこれを名指しで批判したことがある。クルーズの発言はいわれのない中傷といった類のものであり、彼の評判を著しく下げる結果となったが、後日クルーズ自身から謝罪を受け、2人の仲は回復している。(奇しくも、シールズの二女(グリア)とクルーズの二女(実子)は同日に同じ病院で誕生した。)成人してからの女優活動は華々しい成功を収めたと言えるほどではないが、親日家であり日本ではテレビCMなどで親しまれている。彼女はまだ44歳の女ざかりだ。スクリーンで成長した成果を見たいものである。
2010.03.02
コメント(2)
![]()
マーク・レスター、この名を忘れても「小さな恋のメロディ」を忘れることは大多数の人はあるまいと思う。瑞々しい初恋の行方を追いかけたドキュメンタリータッチのラブロマンスだが、1971年(昭和46年)公開時、日本では爆発的なヒットを飛ばした。11歳の少年ダニエルは同い年の少女メロディに恋をする。ままごとのような愛だが、ダニエルとメロディは真剣だ。墓地でリンゴをかじりながらのデート、学校をボイコットして海でのデート。波とたわむれ、砂遊びをする中で愛が確かめられていく。そんな二人の愛を大人たちは理解しない。二人の両親も学校の先生も、よってたかって”愛”をぶち壊そうとする。メロディは叫ぶ。「幸福になりたいって、そんなに難しいことなの!」ダニエルも言う。「僕たちはただ、いつも一緒にいたいと思っているだけです。結婚って、そういう気持ちのことでしょう?」そして、愛を語り合うふたり。「50年ってどれくらい?」「休みをぬかして150学期だ」「そんなに愛せる? ムリよね」「愛せるさ、もう1週間も愛してる」石頭の大人たちと反対に学友たちは二人を応援、廃墟で二人の結婚式が挙げられる。ところが先生たちに追いかけられて逃げ出し、二人はトロッコにのって愛の旅路へ出発していくのである。トロッコは草原をどこまでも走り続ける。二人の”愛”を乗せて、どこまでも・・・。小さな恋のメロディこの映画は絶賛された。若者たちは二人の”無垢の愛”に共感した。私もその一人だった。彼は1958年7月11日、イングランド、オックスフォードシャーで女優の母親と俳優兼プロデューサーの父親のもとに生まれた。両親の影響で自然に子役として活動をはじめ、いくつかのTVシリーズに出演。その後9歳でチャールズ・ディケンズの小説「オリバー・ツイスト」をもとにした1968年の映画「オリバー!」に主演。この作品はアカデミー賞で作品賞、監督賞など6部門を受賞した。オリバー!この作品で共演したジャック・ワイルドとは非常に親密になり、その後「小さな恋のメロディ」でも共演を果たした。その後もいくつかの映画に出演するが、28歳の時に俳優を辞め、学校で資格を取得し整体師に転身。チェルトナムでcarlton clinicという病院を開いている。出演作品には他に、「小さな目撃者」がある。彼は1960年代から1970年代にかけて、イギリスまたはヨーロッパの映画で子役として活躍した。小さな目撃者私生活では1993年に結婚するも、2005年に離婚。その後看護婦と結婚した。4人の子供の父親である。(いずれも前妻との間の子供)。
2010.03.01
コメント(0)
全23件 (23件中 1-23件目)
1


![]()