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【西日本新聞 春秋】米紙ニューヨーク・タイムズは名物記者を何人も生んできた。84歳で現役のカメラマンもいる。写真をたくさん載せる人気ファッションコラムなどを50年以上担当している。仕事も私生活も謎めいて語られてきた。 朝、アパートを出るとそこから先の路上がすべて仕事場になる。行き交う人のファッションスナップを撮りまくる。カメラを提げて自転車に乗ってどこにでも行く。 四季を問わずに着ている青い上着と黒い雨がっぱも仕事道具に含まれる。上着は量販店で20ドル程度で購入した作業着だ。雨がっぱは、破れても黒いビニールテープで補修して使っている。 その人、ビル・カニンガムさんは、青い作業着でファッションショーや社交界のパーティーにも行く。パーティー会場では水一杯さえ口にしない。客観的立場を保つためという。求道者を思わせる。 着るものと同様に食べるものなどにも頓着しない。質素なアパート暮らしものぞいたドキュメンタリー映画「ビル・カニンガム&ニューヨーク」が日本でも順次公開されている。製作に10年かかった。うち8年は写真家を被写体にすることに彼自身が同意するための交渉に費やされた。 収められた言葉もシンプルだ。「最高のファッションショーは常にストリートにある」「重要なのは感想ではない。見たものを伝えることだ」。彼の紙面が多くのファンを持ち続ける理由も、そんな言葉のなかにあるのだろう。(5月30日付)~~~~~~~~はじめてニューヨークに行ったとき、五番街を歩きながら「ビル・カニンガムに会ったらどうしよう」と本気で考えていた。一週間の滞在中はマンハッタンをくまなく歩き回った。いつも心の片隅で「ビル・カニンガムに会ったらどうしよう」そう思っていた。残念ながらビル・カニンガムに会うことも、写真を撮られることもなかったが(笑)今思えば我が事ながら笑止千万。誠に持って人様にお話できるものでもないが、ビル・カニンガムの記事に触れ、思わず恥を承知で記した次第。彼のドキュメンタリー映画が上映されている。これは必見だ。このごろのドキュメンタリー映画は、どうも思想的或いは政治的なプロパガンダがプンプンただよい見る気が起きなかったが、久々に見たいという思いにかきたてられた。それにしてさすがはビル・カニンガム。『重要なのは感想ではない。見たものを伝えることだ』行間には、さらに『正確に』のひと言が見えてくる。見たものを正確に伝える。報道やルポルタージュでは最も基本なことであり、それを死守することが記者やライターの矜持であるはずだ。だからこそ、彼らには言論の自由が与えられているというわけだ。ところが『見たものを正確に伝える』という最も大切な事が、どうも忘れ去られているとしか思えない昨今の状況なのである。願わくは、マスコミ関係者は揃って「ビル・カニンガム&ニューヨーク」を見てもらいたい。そして、行間も含めて(笑)『見たものを正確に伝える。』というビル・カニンガムの思いを感じてもらいたい、そう思った。ビル・カニンガム万歳
2013.05.31
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【ヒアアフター】「死んだらどうなるの?」「急に何だ? 電気が消えておしまい」「それだけ? ただそれだけなの?」「真っ暗闇だ。電気は点かない。永遠の暗闇さ」クリント・イーストウッドがメガホンを取った映画は、これまでにも何本かあるが、実際イーストウッドの得意とする分野は、ラブ・ストーリーであろう。それも道ならぬ恋的な、何かを背負った、あるいは孤独の影を感じるとでも言おうか。 そういういわく付きのラブである。『ヒアアフター』もその一つで、ラブ・ストーリーに完結している。内容は三つのストーリーが交叉する構成となっていて、ラストで上手い具合に融合する。この作品の見どころは、ズバリ、明と暗のギャップだ。例えば、リゾート地でバカンスを楽しむ有名ジャーナリストが、津波にのまれるまでを“明”とすると、その後、番組を降板し、自分がデカデカと掲載された看板から別の女性キャスターの看板に取替えられ、恋人の心が別の女性に移っていくところは“暗”となる。また、料理教室に通い始めたジョージが、隣の女性とペアを組んで二人仲良く料理を作るところを“明”とすると、女性がジョージの霊能力に引いてしまい料理教室に来なくなり、ジョージが一人ポツンと料理を作るシーンは“暗”となる。この対比が見事に表現されていて、これこそ正にイーストウッドのラブの世界観とも言える。1.パリを拠点に活躍するジャーナリストのマリーは、東南アジアでバカンスを楽しんでいた。その際、突然の津波に見舞われ、一時は死に掛けてしまう。だが、どうにか水を吐き出し、九死に一生を得る。2.ジョージは、兄に頼まれ、気のすすまない死者との対話を引き受けた。これが最後だと約束しながらも、霊能力を持つジョージを頼って来る者が後を絶たない。だがジョージは、霊能者としての自分が忌わしく、人生を変えたいと思い、イタリア料理の教室に通うことにした。3.ロンドンで、薬物中毒の母親とまだ小学生の双子の兄弟が細々と暮らしていた。ある日、双子の兄は薬局へお使いに出掛けたところ、不良グループに追いかけられ、交通事故に遭い亡くなってしまう。これまでずっと兄に頼りきりだった弟のマーカスは、ショックの余り兄の死を受け入れられない。その後、母親は立ち直るために施設へ入所。マーカスは里親に預けられることになった。この作品のラストは、何とも言えない、甘美でメランコリックな演出となっている。煽るような音楽もなければ、突出した演技にこだわっているわけでもない。ロンドンの街角にあるオープンカフェで、ジョージがマリーを見つけるという、とてもナチュラルな、それでいて胸がときめくようなロマンスを感じるから不思議だ。イーストウッド監督の十八番を、改めて認識した作品だ。2010年(米)、2011年(日)公開【監督】クリント・イーストウッド【出演】マット・デイモン、セシル・ドゥ・フランス
2013.05.30
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【阿刀田高/楽しい古事記】◆堅苦しい古典を現代的にわかりやすくした入門書友人から聞いたところによると、最近、『古事記』が静かなブームを呼んでいるらしい。 私は小・中学校時代、岩波少年文庫を愛読していたので、それなら『古事記物語』が読み易いだろうと思いついた。なにしろ古典文学は、現代人が楽しむには労力が必要で、だが原文を古語辞典を引きながらだと読む気も失せる。それにしたって若年者向けの『古事記物語』だと今一つ物足りなさもある。そんな中、阿刀田高の著書を思い出した。この作家は、有名な古典文学を分かりやすい現代的な言葉に直してくれて、古典を親しみやすいものにしてくれた人だ。『楽しい古事記』の他にも、『新約聖書を知っていますか』や『やさしいダンテ』『新トロイア物語』などがあり、どれも入門には最適の著書である。『古事記』というのは簡単に言ってしまえば、日本の神話であり、古い伝説と捉えてしまって問題ないと思う。その国造りのプロセスが、舌を噛みそうな長々しい神さまの名前とともに語られている。阿刀田高の著書が有難いのは、『古事記』の中でも読んでいて退屈な箇所は端折っていて、有名な場面をわかりやすく解説してくれることだ。これは入門者にとっては本当に助かる。作中、興味深いところは様々あるが、物語として面白いのは、“悲劇の人・・・ヤマトタケル伝説”の章だろう。話はこうだ。ヤマトタケルはとにかく荒っぽい。若いころ、父である景行天皇から、「お前の兄さんはなんで食事時にいっしょに食べないのか? お前が行って説教して来い」と言われたので、すぐに実行した。だがそのやり方が乱暴だ。ヤマトタケルは、兄がトイレに入っている時、捕まえて手足を折り、こもに包んで投げ捨ててしまったのだ。それを聞いた天皇は驚愕を隠せない。「危険人物」と見なしてしまう。その後、天皇はことあるごとにヤマトタケルを西へ東へと征伐に行かせる。それもそのはず、とにかく戦には強く、片っ端から征服してしまったのだ。だがそんなヤマトタケルも薄々気がつき始める。「父上は私に死ねと言うのだな」と。 つまり、戦に行って戦死してしまえば、危険人物を難なく抹殺できるという天皇の魂胆に気づいてしまったわけだ。とまぁ原文で読んだらさぞかし時間もかかるであろう古典文学を、阿刀田高のくだけた現代語訳で、おもしろおかしく読むことができる。文庫本の巻末の解説にもあるように、『古事記』は殺して、歌って、まぐわる、人間臭さにまみれた神さまのお話である。時の権力者によって、かなり都合の良いお話に変えられてしまってもいるだろうが、古代日本に武士道的倫理などなく、だまし討ちや裏切り行為は日常茶飯事だったのだ。そしてそれがれっきとした我々の先祖の辿った道でもある。それを踏まえた上で『楽しい古事記』を読むことは、ある意味、大和民族としてのルーツを知るのにとても重要なことなのではと思った。『楽しい古事記』阿刀田高・著☆次回(読書案内No.73)は藤原伊織の『テロリストのパラソル』を予定しています。コチラ
2013.05.29
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あなたのものは大変大変面白いと思います。【ほめられた:芥川龍之介 ほめた:夏目漱石】~~~~~~~~『ほめ言葉大事典』著者の清水義範氏は言う。ほめられれば、人は成長し、子供はよい子になり、奥さんは優しくなる。わかっているのだが、でも人をほめるのは難しいのだ。人をほめるというのは、プラスのエネルギーがいることである。ほめるよりけなすほうが絶対に楽だ。ほめるには実際の行動がともなう。しかも我慢や無理を強いられるというわけだ。でも、人が成長し、子供がよい子になり、奥さんが優しくなるならおおいにほめようではあるまいか(^o^)~~~~~~~~芥川龍之介の『鼻』を読んだ夏目漱石は、こうしたため手紙を送ったそうだ。『あなたのものは大変大変面白いと思います。』芥川と夏目、野球で言ったら高校球児と松井秀喜、サッカーで言ったら高校イレブンと香川真司といったところか。グランドで黙々と投球練習に励む球児が、あの松井さんから「君のカーブは大変大変効果的だと思うよ。」そう言われたら、きっと彼は最後までカーブを投げ続けるかもしれない。芥川にとって夏目は、それくらいの人であった。「上品な趣があります」「文章が要領を得て能く整つてゐます」手紙が一部であり、また読みにくいので文献を紐解いてみた。すると手紙にはさらに漱石のほめ言が羅列されており、さながらほめ言葉のデパートといったところなのだ。漱石の社交家ぶりを垣間見るようで興味深い。それにつけても芥川の狂喜乱舞を想像するに難くはない。いの一番は菊池寛。芥川は意気揚々と伝えたことであろう。「おい君、菊池君。夏目先生から僕の『鼻』をほめる手紙をもらったよ!」芥川は、ひと言ひと言かみしめるように漱石の手紙を読み上げた。人のよい菊池は、友人の武勇を目の当たりにして、感涙にむせんだことであろう。さめざめと泣いた後で、芥川の手をとりこう言うのだ。「芥川君、これで君の将来は約束された!」文学の本道を目指す芥川と、ビジネスに道を見出しつつある菊池の、根本的なずれを想像するのは楽しい。それにしても、夏目漱石はほめ上手なのである。夏目門弟から一角の人物が多出した所以であろう。人はほめるべし。おおいにほめるべし(^^)そういうことなのだ。ほめられれば、人は成長し、子供はよい子になり、奥さんは優しくなる。ときに先日の話。野球中継を見ていて途中でやめた。試合に興味がなかったわけではない。解説者に閉口したのだ。いわく「ここがダメ」「あそこがダメ」選手のマイナス面ばかりを語るのだ。とどめは「だから勝てない」まことにもって興醒めした。(※参考まで、私はどちらのチームを応援しているわけでもない。)解説者には選手を貶すつもりはないであろうが、貶していると感じた人もあったであろう。ほめ言葉と反対に貶し言葉は聞き苦しい。ほめられ、のせられ努力を重ねる人はあろうが、貶されて発奮する人は少ないはずだ。やはり人を育てるにはほめるに限る、おおいにそう思った。
2013.05.28
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【新潟日報 日報抄】若いときに遠回りした道は、実は夢実現への最短ルートにつながっていたのだろう。26年前の本紙で、冒険家三浦雄一郎さんが自身の少年時代を振り返った記事を読み返し、そんな感慨を深くした。 小学4年生から5年生にかけ、胸膜炎を患った。学校に半分も通えず、中学受験に失敗した。浪人中の1年間を岩手の山奥で過ごす。畑を耕し、いかだに乗る。冬は一日中スキーに興じた。遊ぶだけではない。この間に、芥川や漱石の全集を読破した。 そういうことが許される環境に恵まれたこともあろう。少年は「どん底の思い」から復活し、「人生焦ることはない」と確信した。北海道大学の獣医学部助手からプロ・スキーヤーに転進してからの数々の活躍はご存じの通りだ。 80歳にして「冒険家」の肩書が不自然でないその人が、史上最高齢でエベレスト登頂に成功した。標高8848メートルのてっぺんに至る道は、岩手の山裾から第一歩が始まっていたに違いない。北大といえば頭に浮かぶ「少年よ大志を抱け」の文句を、文字通り実践してきたといえる。 県内には講演などで何度も訪れている。語り掛けるのは、目標を持って生きることの大切さである。5年前、上越市に来た際、健康の源として三つを挙げた。「食事、運動、生きがい」―これを体現した山の鉄人は今回も元気いっぱいだった。 3人の子供たちは義務教育を1、2年遅れて終えている。三浦さんの特大スケールの生き方は、お年寄りだけでなく、悩み多き若者たちにも励みとなる。遠回りは、財産だよ。(5月24日付)~~~~~~~~まずもって、史上最高齢登頂の偉業を成し遂げられた三浦さんに謹んで敬意を表したい。一定以上の年齢の方は、久しぶりに血が沸き肉が踊る想いに浸られたのではあるまいか。誠に壮挙なり快挙なり万々歳なりだ。『人生焦ることはない』私としては三浦さんの壮挙もさることながら、氏のこのひと言が本当にありがたい(^o^)ご同輩も多いのでは(笑)?周りを見て、来し方を振り返っては、少なからず焦燥し何かしらの疑問を感じはじめた近年だ。三浦氏のひと言は、真冬の陽だまりのように身も心もあたためてくれる。ご同輩の合の手が聞こえるようだ。「そうだ、その通り!」そしてコラムの結びが何ともオツではないか!『遠回りは、財産だよ』ま、要は遠回りして『何を』するかですね(笑)ご参考まで、三浦さんの快挙を扱ったコラム各紙の結びをご紹介する。■北國新聞 時鐘三浦流の「人生の数え方」を教われば、気分が晴れやかになる。「まだまだいける」と快挙にあやかりたくなる。■産経新聞 産経抄どんな状況に陥っても、高い頂に挑み続ける気持ちを忘れてはならない。それは国も人も同じではないか。三浦さんの喜びの声を聞いて、そう確信する。■静岡新聞 大自在自分なりの目標、ライフワークさえあれば困難や苦労も味わいとなる。超人から学ぶことは多い。■佐賀新聞 有明抄三浦さんの講演録にこんな一節を見つけた。「それぞれの夢に向かっての人生というのは、あきらめないで一歩ずつの精神が大切。そしていつか頂上に立ったら、次の夢に向かい、歩みを繰り返す」■高知新聞 小社会傘寿の快挙を喜ぶとともに、次の夢をどんなふうに語るのかも楽しみだ。■山形新聞 談話室今回の登頂成功は中高年に限らず、全ての世代を励まし背中を強く押してくれた。そう思う。■徳島新聞 鳴潮周りを見渡せば登山、フルマラソン、ボランティア活動―と、達者な「三浦さん」はたくさんいる。自分にとっての「エベレスト」をしっかり持つことの大切さを教えられる。■上毛新聞 三山春秋三浦さんは登頂後、「80歳でもまだまだいける」と述べたという。目標を持ち、挑戦する気概と行動があれば、老いを感じることはないのかもしれない。■福島民報 あぶくま抄〈年齢と向き合いながら挑戦するのは楽しい〉。三浦さんの声がヒマラヤ山脈から聞こえてきそうだ。■神戸新聞 正平調 三浦さんの登頂をまねることはできない。でも、手の届く世界で手の届く挑戦ならできる。せめて九掛けでも…と、あの笑顔に刺激された人は多かろう。■長崎新聞 水や空人類のフロントランナーの快挙に、「もう年だから」と、自分で線を引いてしまっていた心の中の境界が吹き飛ぶ思いをした高齢者も多いだろう。フロンティア・スピリットあふれる高齢化社会は楽しそうだ。■東京新聞 筆洗三浦さんが登頂で伝えたいのは、広い意味での冒険だという。家で打ちひしがれている人が、ちょっと外に出てみる。きのうまで通ったことのない道を、歩いてみる。自分の世界を日々少しずつ広げてみる。〈その先につながっている可能性は、何歳であろうと無限大〉だと。
2013.05.27
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【マッドマックス】「おい、何事だ?」「釈放だ」「釈放だと? なぜなんだ?」「被害者も誰も現れないんだ」「何が誰も現れないだと?!」「だから誰も来ないんだ! 被害に遭った女も、町の連中も、誰も来ないんだ! 一人もな! お手上げなんだよ」「ふざけるな! それが何だ?!」「裁判はない。不起訴だ」この作品は、無名のメル・ギブソンをスターに押し上げた出世作でもあるので、あまり酷なことは言えないけれど、低予算で製作されたせいか、全体的にB級的なムードが漂っている。だがカー・アクションはずば抜けている。臨場感があって、スリル感はたっぷりと味わえる。(女性にはいかがなものかと思う内容だが)オーストラリア映画であるこの作品は、日本でブレイクしたらしい。(ウィキペディア参照)何が日本人にウケたのかは分からない。私だってれっきとした日本国籍を有する者だが、あまり胸に響くものはなかった。だから『マッドマックス』がその後シリーズ化されたことに、驚かずにはいられない。 友人に訊いたところによると、「カワサキ」やら「ホンダ」などのバイクが登場していてカッコイイと言うので、きっとそういう乗り物好きのやんちゃな大人が興奮するアクション映画なのかもしれない。主人公マックス役に扮したメル・ギブソンが、実に若々しい。シワ一つないし、真っ直ぐ見つめる瞳が正義感に燃える警官役としてピッタリだ。今や敬虔なカトリック信徒としては有名な話だが、この映画のストーリーだって悪の中枢でもある暴走族を壊滅状態にしてくれるのだから、胸のすくような気持ちになる。ストーリーはこうだ。ちまたでは、暴走族による凶悪事件が横行していた。ある日、凶悪なナイトライダーが女を助手席に乗せ、いいところを見せようとスピードを出してパトカーの追跡を逃れていた。また、ナイトライダーは追跡して来るパトカーを次々と転倒させ、警官を殺した。無線で応援要請を受けたのはマックス。暴走族を追跡するのを専門とする警官マックスは、黒皮の上下服に身を包み、肩にはマグナム44、足にはショットガンを装備。ナイトライダーの運転する車にピタリと張り付き、隙を見せないでいた。いよいよ追い詰められたと知ったナイトライダーは、運転操作を誤り死亡する。ところがこのことをきっかけに、ナイトライダーの暴走族仲間の怒りを買い、マックスと同僚のジムは命を狙われる身となってしまったのだ。ベタだなとは思うが、マックスの愛する妻と子どもが暴走族の手にかかった時、復讐を誓う正義の男に変わっていく展開が良かった。怒りの沸点に達したマックスが、我を失い、たった一人でも立ち向かっていく姿は、カッコイイを通り越して狂気の沙汰だ。腕を撃たれたりして重傷を負いながらも、執念で暴走族を追い詰めていくのだからスゴイ。メル・ギブソンの初々しい演技と、何やら本物の暴走族を集めたとかいうエキストラと、様々な名車に注目だ。1979年公開 【監督】ジョージ・ミラー【出演】メル・ギブソン
2013.05.26
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【Ali/十五】◆十五歳の思春期を思い出し、ケータイ小説に綴った作品本屋で買うつもりもなくぶらぶらしていると、今どきらしくヨコガキの本を見つけた。帯のコピーには“もしも今、あなたに逢えたら「ありがとう」と言いたい”とある。これは絶対、誰かが病気で死んじゃう話だなと見当をつけながらも、私は手に取ってみた。ケータイ小説で話題を呼び、講談社から出版にまでこぎつけた作品というものが、どの程度のレベルなのか知りたかったこともあった。いや驚いた。最初の数ページを読んだら止まらなくなってしまい、結局、購入してしまったのだから。これは実話系ストーリーだ。名前はさすがに変えられているが、読んでいくうちに、あの俳優がモデルになっているなぁと見当がつく。そう、これは松田優作との馴れ初めを包み隠さず描写した私小説である。著者はAliというペンネームを使用しているが、本当は元女優で作家の前川麻子だ。代表作に『鞄屋の娘』などがあり、小説新潮(長編部門)新人賞を受賞し、作家としてデビューを果たしている。しかし、それより前に『センチメンタル・アマレット・ポジティブ』という戯曲も手掛けているので、女優業のかたわら、書くことを続けていたのかもしれない。破天荒な思春期の体験がある人物と言えば、柳美里あたりを思い浮かべるところだが、この前川麻子もなかなかどうして負けてはいない。「おそるべし十五歳」と言った衝撃の体験談である。話はこうだ。私立中学3年になる中川有(アリ)は、広告代理店に勤務する業界人の父と、専業主婦である母との間に生まれた一人娘。マンションは2つ分を改装工事でくっつけた広さで、玄関も2つあり、両親とアリがそれぞれに使用している。なのでアリの部屋に年頃の男子が遊びに来ていても、親は気づかない。なるべくしてアリは自分の部屋で、ゲーセンで知り合った少年に、処女を奪われた。学校の宿題で、親の職場見学をするというものが出された。アリは、父親のスケジュールに合わせ、スタジオRにつれて行ってもらうことにする。そこで偶然にも出逢ったのが有名俳優の岸田多喜雄(タキオ)だった。タキオは、アリの父親がプロデュースした広告のナレーションを担当していたのだ。タキオはアリに、「電話番号、教えろよ」と言い、そこから二人の関係が始まるのだった。タキオはすでに妻帯者だったが、時折、アリの部屋に来ては、たっぷり時間をかけてアリを愛撫した。一方、アリはバーでアルバイトを始める。そこで知り合った大学生の信ちゃんと仲良くなる。ある日、信ちゃんが風邪をひき、下宿先に見舞いに出向くのだが、その夜、二人は関係を持つ。信ちゃんの方は静岡出身の田舎者で童貞だったため、初めての男女の営みに感激をする。その後、何度か関係を持つのだが、アリは避妊していなかったため妊娠。信ちゃんは「結婚しよう」というが、アリは拒否。そして中絶。それは十五歳の出来事だった。作中、登場する岸田多喜雄という俳優が松田優作である。ここに出て来る松田優作は格好良いが、その分、好色でもある。十五歳の少女と交わりながら男の欲望を満たしていたのかと思うと、複雑な気持ちにもなる。だが著者は、十五歳でありながらも女としての悦びを得ていたようだ。それは、ギブ&テイクでこそあれ、一方的なものではなかったと。飲み会の席で、松田優作が「おしっこ、出ないんだよ・・・」と言って何度か中座する場面が出て来るのだが、このくだりを読むと切なくなる。すでにこの頃から体調に変化があったのかと思うと、やはり俳優業という過密で多忙なスケジュールを恨まずにはいられない。この小説はいろんな意味で衝撃的だ。発信したのは昭和世代なのに、読者はケータイ世代(平成の若者)で、ヨコガキ小説として出版もされた。十五歳の少女の体験を赤裸々に綴ることで、平成のティーンから多くの共感を得たのだ。さすがは天下の松田優作が目をかけた少女ではある。早熟の少女も、今や四十代。これから益々執筆に余念がないことだろう。ケータイ小説を侮る、頭のカタイ大人に、一石を投じる作品だ。『十五』Ali・著☆次回(読書案内No.72)は阿刀田高の『楽しい古事記』を予定しています。コチラ
2013.05.25
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【日本経済新聞 春秋】滋養豊富、風味絶佳――と毛筆調で書いた菓子といえば? わかる人は多いだろう。「森永ミルクキャラメル」が発売されてから来月10日で100年になる。最初は缶入りやバラ売りで、翌年に現在のようなポケットサイズの紙の箱入りが登場した。大正初めのことだ。 改めてこの菓子を手に取ると、滋養の文字から思い浮かぶことがある。製造元の森永製菓は関東大震災のとき、被災者の栄養補給にと、ビスケットなどの菓子を6万袋、練乳を1万5千缶、手分けして配った。「女工哀史」が描いた過酷な長時間労働の時代に社員の健康を考え、一日8時間労働を先駆けて取り入れもした。 企業が大事にしていることや理念が、キャラメルの宣伝文句にも表れているように思える。創業者の森永太一郎は渡米して菓子職人を志すが、日本人は差別され、なかなかかなわなかった。そんなとき親切な老夫婦と出会って熱心なキリスト教信者になり、晩年は伝道に励む。慈愛の心は創業の精神といえるかもしれない。 売れる商品が出てこないと悩む企業は多い。消費者ニーズの分析が足りない、世の中の変化に対応できていないと反省する企業がたくさんある。もちろんそうした改善は欠かせないが、うちはどんな会社かというメッセージをもっと発信する手もあるだろう。ファンづくりの道の一つが長寿キャラメルからみえる気がする。(5月21日付)~~~~~~~~「幼少の頃に森永キャラメルはありましたか?」森永が創業100年と知り、齢85の老父にそう尋ねてみた。「ずいぶん懐かしいなぁ。たまに買ってもらってなめたよ。当時は特上の菓子だった。そうそう、箱に何とか漢字で書いてあったな。」遠くを眺めるようなそぶりをしながら、父は来し方の日々を思い浮かべているようであった。「キャラメルを売っていたのは○○商店だけだった。そこの長男は一郎さんと言って二つ先輩だったが、苦労して戦(いくさ)から帰ったと思ったのがつかの間、肺を患ってあっけなく亡くなってしまった。」「『滋養豊富』も肺腑の病には勝ることがなかったわけですね。」父は何も答えることなく、変わらずに遠くを眺めていた。私は愚にもならぬひと言が、とても場違いな不謹慎に感じ、父にたいそう申し訳なく思った。「○○商店はずいぶん前に店をたたんだ事は人づてに聞いたが、その後どうなったのだろう。もう長いこと行っていないなぁ。お前は知っているかい?」父の故郷である■■町は市町村の合併で隣の市に組み込まれている。縁者がいなくなって久しく、そして仕事の接点があるわけでもないので、私は■■町には不案内だ。私の知っているのは合併のことだけで、だから○○商店の存在もましてその顛末を知る由もない。父もそのあたりの事情は理解しているとは思うのだが、このごろは自分の記憶が優先される時は、回りの状況は曖昧になってしまうことがあるようなのだ。きっと、遠くの景色に私の存在はないのであろう。「父さんどうでしょうか。明日も上々の天気になるようですから、ドライブがてら出かけてみませんか?」父の過去に二人で出かけるのも悪くはない。そして私は不謹慎を詫びる意味も込め、そう父に声をかけた。「それは有難いな。お前に一郎さんを紹介しよう。」肺を患って亡くなった一郎さんは、はたして父の中では青年のままであろうか。明日のタイムトラベルで、父が一郎さんと再会できることを私は心から願った。はからずも、新聞のコラムが縁で、父の故郷を訪ねることになった。創業者と宗旨は違うが、慈愛の心は人間の最も美しいものだと思う。森永キャラメルに感謝、そしてコラム氏に大感謝(^人^)
2013.05.24
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【高知新聞 小社会】今月6日に亡くなった演劇研究・評論家の河竹登志夫さんは、江戸末期から明治にかけて活躍した狂言作者の河竹黙阿弥のひ孫に当たる。歌舞伎に少しでも興味がある日本人で、黙阿弥の名を知らない人はまずいまい。 生涯に360を超す作品を書いた。幾多の名作は今の歌舞伎座でも上演されている。ひ孫の訃報に「江戸歌舞伎の大問屋」と評された曽祖父の名が浮かんだのは、その辞世の魅力による。 黙阿弥が最後に残したことばは「きょうはいよいよゆくぜ」。赤瀬川原平さん監修の「生き方の鑑(かがみ) 辞世のことば」にある。いかにもさっぱりとした江戸っ子らしい大往生。やりたいことをやった70代後半までの人生はうらやましいほど見事、と筆を結んでいる。 実は黙阿弥は65歳ぐらいのころ、いったん引退を表明した。が、そろそろ楽隠居をと思っても、ひいき筋が許さない。請われて最晩年まで書き続け、家人に「いよいよゆくぜ」と名せりふを残したあと、眠るように息を引き取ったという。 古い文人の話を持ち出したのは、現代日本の高齢化事情に照らしてだ。希望者は65歳まで働ける。介護や病気による世話を必要としない「健康寿命」という考え方も浸透してきた。長い老年期をどう心豊かに過ごすかが問われる。 みながそうとはいえないが、黙阿弥が悠然と世を去った明治の時代。せかせかと追い立てられるような現代との落差は、やはり気になる。(5月20日付)~~~~~~~~『ふだん着なれし振り袖から、髷も島田に由比ヶ浜、うちこむ浪にしっぽりと、女に化けて美人局、油断のならねえ小娘の、島に育ってその名せえ、弁天小僧菊之助ぇ』「知らざぁ言って聞かせやしょう!」お馴染み「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」の名台詞である。といっても歌舞伎は不見識で、これは落語の小さん師(先代)の十八番『湯屋番』で覚えたものなのだ(汗)つまり、落語のくだりになるほど、河竹黙阿弥という御仁は素晴らしい作品を残したということなのである。それにしても、「きょうはいよいよゆくぜ」はなんとも粋ではないか!達者な俳句もいいが、こういう辞世は飛び抜けた感じがして、それだけで物語になる気がする。人生を端的に表現している。我々はそこからめくるめく想像をかきたてるのだ。超一流である。本物とはこういうものだ、そう思った。この辞世は知らなかった。近来稀に見る喜びなのだ!新聞のコラムはこうでなくてはね♪コラム氏に大感謝(^人^)蛇足であるが小さん師の「湯屋番」は歌舞伎の台詞をもじってこう続く。『お湯ゥ屋の奉公人に住みこんで、ふだん着なれしメリヤスの、シャツ股引きも穴だらけぇ、打ちこむ薪のそのそばで、油断のならねぇ釜番の黒く染まったその名せえ、煙突小僧スス之助ぇ』放蕩の末に勘当となった若旦那の大見得や見事!そして抱腹絶倒!!是非一度お聞きあれ(^o^)/もちろん五代目柳家小さん師でね♪
2013.05.23
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【大岡昇平/花影】◆三十代独身、子なし、囲われ者として生きる女の生涯今までいろんな純文学に触れて来たが、『花影』はまた独特なオーラを放つ作品である。 現代では、三十代後半の女性と言ったらまだまだ瑞々しく、年齢のことを気にするような世代とは言えないが、戦後のまだ貧しかった社会を生きる女の三十代後半というのは、何となく心寂しいものがあった。とくに、家庭を持たない独身女性の境遇は、現代とは比べものにならないほどの暗いイメージがつきまとった。(無論、明るくたくましく暮らしている方々もいたと思うが)この小説は、そんな三十代後半の女性が、愛人であることを解消した後から自殺するまでのプロセスを追うものだ。とはいえ、そんな俗っぽいことが話の中心になっているにもかかわらず、色恋にまつわるエロスからは程遠く、主人公の女の、月日とともに衰えゆく容姿や、酒で孤独を紛らす心寂しさに作品全体が覆われている。おそらく、著者である大岡昇平のカラーがこの作風に大きく影響しているのであろう。代表作である『レイテ戦記』に見られるような歴史小説としての筆致が見られ、しがない女の歴史の点みたいな晩年を淡々と綴っている。しかもこの主人公の女は実在しており、著者・大岡昇平の愛人がモデルとなっている。(文庫本巻末の解説に記述あり)あらすじを紹介しておこう。葉子は、大学の教師・松崎に囲われの身となり3年が経つ。ところが最近、松崎がどうやら自分とは別れたがっているような素振りに勘付く。小児麻痺かもしれない娘のことをつらつらと話したりして、同情を引こうとする様子が見受けられるからだ。結局、別れ話をはっきりと言い出せないでいる松崎に代わり、自分の方から別れを告げ、生活費が入らなくなることから古巣の銀座のバーに再び戻ることにした。だが、もともと松崎とは嫌いで別れたわけではないので、いつも葉子の胸にしこりのようにわだかまっていた。とはいえ、ホステスとしての宿命なのか、酒と色と金に彩られた夜の世界を渡っていくには、自分に寄せられる男の欲望を利用せずにはいられなかった。次から次へと男に抱かれ、虚しい色恋を繰り返す他なかったのだ。今でこそシングル・ライフを楽しむアラフォー世代がもてはやされるところだが、『花影』を読むと、何やら複雑な心境でいっぱいになる。40歳を目前にした女性が結婚もしておらず、もちろん子どももいない。手に職がなく、頼るものは男の懐のみ、という境遇に陥った時、一体どんな心境なのだろう? 想像を絶する。人生の目的が結婚ではないと頭では理解できても、それに代わるやりがいのある仕事とか、研究とか、何か生きがいが見つからないと、空恐ろしい末路が脳裏を過ぎるのも致し方ない。独身女性の方も、既婚女性の方も、『花影』を読んで、己の女性としての生き様に今一度目を向けてみてはいかがであろうか?私自身、主人公・葉子の孤独に、涙せずにはいられなかった。『花影』大岡昇平・著☆次回(読書案内No.71)はAliの『十五』を予定しています。コチラ
2013.05.22
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お前は一番になれる。絶対になれる。世界一になれる。【ほめられた:高橋尚子 ほめた:小出義雄】~~~~~~~~『ほめ言葉大事典』著者の清水義範氏は言う。ほめられれば、人は成長し、子供はよい子になり、奥さんは優しくなる。わかっているのだが、でも人をほめるのは難しいのだ。人をほめるというのは、プラスのエネルギーがいることである。ほめるよりけなすほうが絶対に楽だ。ほめるには実際の行動がともなう。しかも我慢や無理を強いられるというわけだ。でも、人が成長し、子供がよい子になり、奥さんが優しくなるならおおいにほめようではあるまいか(^o^)~~~~~~~~Qちゃんことマラソンの高橋尚子さんは小出監督に褒めちぎられて実力を発揮したという。『お前は一番になれる。絶対になれる。世界一になれる。』きっと耳元で呪文のように言われたのだろう。そして外にむかってはこう言ったそうだ。『この子は並の選手とは違うんです。絶対に優勝できます、そう決まってるんです。』Qちゃんスイッチはそうして切りかわったのだろう。親御さんは一度試す価値あり!かもね(笑)ただし清水氏がいうには『毎日のように言わないといけない』ということです(^o^)
2013.05.21
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【西日本新聞 春秋】日本人を元気にした戦後のスポーツの原風景は、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた男に代表される競泳での世界記録ラッシュにさかのぼる。東京五輪で日の丸をセンターポールに揚げた女子バレーの「東洋の魔女」なども、高度成長で世界を驚かせたころの日本を象徴する一コマになった。 世紀が変わってからは、経済が陰った国に活を入れるかのように野球の日本代表や女子サッカーのなでしこジャパンが世界一になった。 元気をくれたのはヒトだけではない。モータースポーツからも、と振り返って思う。日本経済の最盛期と重なる1980年代の「F1」ブームが忘れられない。世界最高峰の自動車レースで日本製エンジンが最速を誇った。16戦15勝した年もある。 焼け跡の小さな工場からスタートしたホンダがやってのけたから痛快さが増した。この会社が最初に作ったのは、通信機用を改造したエンジンと湯たんぽの燃料タンクを付けた自転車バイクだった。 二輪のレースで世界を制し、次に四輪レースで世界を制した。世界に挑戦し続けてその結果を製品に生かせ、と創業者の本田宗一郎さん(91年没)はスパナを手に現場を回って従業員に言い続けた。 F1レースに2015年から復帰することが、きのう発表された。F1の舞台は4度目だ。創業者から継いだ「初心」を、後輩たちが繰り返し形にしていく企業があることが、なんだかうらやましくもなる。(5月17日付)~~~~~~~~ホンダのF1復帰はまことに喜ばしいことだ。そして、それ以上にうれしいのが伊東社長の復帰会見でのコメントだ。『若い技術者が自らの技術を試し世界で磨く場が必要。これからのF1はそれを実現するのに最適な場であると考えた。』聞きながらホンダの社是を想った。『常に夢と若さを保つこと』私は創業者である本田宗一郎氏が実際に語った言葉であると信じる。だから私は、F1復帰を成し得たものは、ホンダという企業(従業員)の創業者への熱い想いに他ならないと思うのである。コラム氏同様に、ホンダという企業がうらやましく感じた次第(^o^)ときに、ホンダが世界に誇る名車NSXの新型が具体的になってきた。これまたうれしい話ではないか!日本のGTレースで勇姿を見られる日を楽しみに待ちたいものである。『レースはホンダの企業文化』でありホンダのDNAなのだ!!
2013.05.20
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【裏窓】「まったくこの世はのぞき魔だらけね。皆、家を出て気分転換に人の家をのぞく・・・。ちょっとした哲学でしょ?」「リーダーズ・ダイジェスト1939年4月号だね」「いいのよ、名言は引用するものなんだから」 ヒッチコック作品のほとんどをDVDでコレクションしているにもかかわらず、この『裏窓』は購入して間もない。ヒッチコックの代表作の一つでもあるので、本来ならとっくに所持していてもおかしくはないはずなのに・・・。幼いころ、日曜洋画劇場で何度か放送されたのを見ていたためか、DVDの購入が後回しになってしまったのかもしれない。それはともかく、この作品もまたサスペンスとしては秀逸だ。ヒッチコックは、同一の場所でずっとカメラを回し続ける手法を何度となく試みている。つまり場所を限定するので、例えば『裏窓』で言うなら、ほとんど主人公ジェフの住むアパートの室内限定の撮影というものだ。似たような手法は、過去にも『ロープ』という作品でも行われている。ところがこれは(素人の私から生意気なことを言わせてもらうが)失敗作だったのでは・・・? というのも、『ロープ』ではまるで舞台劇を客席から記録映画のようにして撮影したキライがあって、サスペンス性が薄れ、むしろ退屈すら覚えたからだ。だがヒッチコックはこの実験的な試みにより、少人数のキャスティングで、しかも狭い室内セットのもとで撮影することにより、やがて質の高い映画作りに成功するのだ。それがこの『裏窓』である。ストーリーはこうだ。ニューヨークのダウン・タウンにあるアパートの一室に、フリー・カメラマンのジェフが住んでいた。ジェフは、事故で足を骨折し、身動きの取れない生活を余儀なくされていた。仕方がないので暇つぶしに商売道具の望遠鏡で、窓から見える向こうの棟のアパートの様子を覗き見ていた。そんなある日、病気で寝たきりの妻とセールスマンらしい夫の二人の部屋に、目が留まる。この二人はいつも口喧嘩が絶えなかったのだが、いつのまにか病気の妻の姿が見えなくなってしまった。ジェフは長年のカンが働き、夫の動向を観察し始める。その結果、セールスマンらしい夫は病気で寝たきりの妻が邪魔になり、妻を殺して死体をどこかへ運んだのではないかと推理する。ジェフはそのことを恋人であるリザや、訪問看護婦であるステラにも相談し、調査することにした。出演は、ヒッチコック作品ではおなじみのジェームズ・ステュアート、それにグレース・ケリーである。グレース・ケリーと言えば、言わずと知れたモナコ公妃だ。“クール・ビューティー”という言葉は、このグレース・ケリーを讃えたところから生まれたらしい。余談だが、ヒッチコック作品におけるヒロインは、セクシー女優が起用されたことがない。たいてい、イングリッド・バーグマンやグレース・ケリーのような、知的で気品のある女優がヒロインを飾っている。今でこそハリウッドの女優さんはセクシー系が幅を利かせているけれど、私個人の好みで言わせてもらうなら、エレガントな女優さんの方が断然好きだ。『裏窓』においても、気品に溢れるグレース・ケリーの出演で、作品全体が明るく、しかも格調高く優雅なムードさえ漂うのだから不思議だ。ヒッチコック作品は、サスペンス映画でありながら、随所に盛り込まれた知的な側面に、いつも圧倒される。古い映画だが、若い人たちにもぜひともおすすめしたい作品である。1954年(米)、1955年(日)公開【監督】アルフレッド・ヒッチコック【出演】ジェームズ・ステュアート、グレース・ケリーヒッチコックの『サイコ』 コチラヒッチコックの『白い恐怖』 コチラヒッチコックの『レベッカ』 コチラ
2013.05.19
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【宮部みゆき/理由】◆分相応な生活の奨励と物質至上主義への警鐘本格ルポルタージュ、ノンフィクション小説と言えば、佐野眞一の『東電OL殺人事件』であり、沢木耕太郎の『テロルの決算』である。宮部みゆきの『理由』という作品があくまでフィクションにもかかわらず、作品のそこかしこから重厚なリアリズムを感じるのはなぜか?あれこれ考えたのだが、この、ルポ形式を取っている作風が成功したのではなかろうか? 著者がその事件を追うルポライターとしての役目を担い、事件の一部始終を語り尽くすのだ。『理由』はあくまでもフィクションであり、宮部みゆきの創作ミステリーであるはずなのに、これほどまでに読者を惹きつけて止まない魅力に溢れているとは、やっぱりスゴイ。著者のプロフィールなどを読むと、法律事務所に勤務していた経験もあるとのこと。特殊な事情を抱えたクライアントの悩みを小耳に挟むうちに、めくるめく創作意欲が湧いたのかもしれない。作中の事件が決してウソっぽくなく、リアリティーに溢れていることから言っても、宮部みゆきの作家としての技巧的な能力以上に、事実から着想を得た(かもしれない)ことは有利に働いていると思われる。『理由』は、ルポライターが「荒川の一家四人殺し」の真相に迫るために、当事者やそれにまつわる親族らに取材し、事件の一部始終を記事にした、という形式を取っている。事件は雨の晩に起きる。荒川区にある高層マンションのヴァンダール千住北ニューシティ・二〇二五号室で、3人の惨殺死体とベランダから転落した1人を合わせ4人の遺体が発見された。二〇二五号室の入居者は、小糸信治とその妻、それに小学生の息子であるはずなのだが、捜査の結果、殺された4人は小糸一家ではないことが判明。小糸一家はマンションのローンが支払えず、部屋は競売にかけられており、すでに夜逃げ同然に他へ引っ越していた。では、殺された4人は一体どこの誰なのか?事件の真相を追っていくうちに、意外なことが次々と明らかになっていくのだった。私はこれまで、都会の高層マンション(億ション)と言えば、富裕層に与えられた特権的な象徴のように捉えていた。だが、世の中には身の丈以上の物へのあこがれからか、低所得者でも何十年ものローンを組んで購入しようとする人がいることを知った。さらに、その行為によって自らの首を絞めることとなり、ローン返済も頓挫し、いかがわしい不動産屋との共謀で犯罪にまで手を染めてしまう例もあるようだ。そこからは、物質至上主義がいかに虚しいものであるかが窺える。著者はこの作品を通して、大切なのは「分相応」であることなのだと言おうとしているに違いない。その一方で、低所得者に対する同情的な眼差しを向けているのも否めない。お金がないということは、ここまで人間を荒んだ生きものにしてしまうのだという警鐘にも思えるし、そんな低所得者を生み出したのは、この歪んだ社会なのだと痛罵しているようにも捉えられる。ところで、この小説のタイトルにもなっている「理由」だが、殺人を犯したその理由は一体何だったのだろう?とはいえ、読後はいかなる理由があろうとも、殺人など犯してはならないのだと痛感する。ベストセラー小説の名に相応しい一冊である。『理由』宮部みゆき・著 〔直木賞受賞作品〕☆次回(読書案内No.70)は大岡昇平の『花影』を予定しています。コチラ
2013.05.18
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【北國新聞 時鐘】いま話題の会津若松城で、維新の城攻めを語る地元ガイドに「薩摩・長州の官軍」と言いかけて、叱られた。 「官軍、賊軍ではない。敵は西軍、我らは東軍である」。「忠臣蔵」の悪役・吉良上野介ゆかりの三河では、タクシー運転手が律義に「吉良さん」と言い続けた。地元では名君として慕われている。 またぞろ「歴史認識」が騒々しい。対立する双方が「正しい歴史」を主張し、加えて「幅広い視野」での「公正な論議」を口にする。この常套句が、歴史の門外漢にはまるで分からない。双方が言うそんな歴史なるものが、果たして注文通りに手に入るのか。 諸説を引きずる歴史なら、当地にもある。前田利家と宿敵の佐々成政、2人に敵対した一向一揆。遠い昔の歴史評価が、いまも時に猫の目みたいに変わる。誰からも異論の出ない「正当」や「公正」な歴史など、ひょっとして無い物ねだりではないのか。 「歴史認識」騒ぎには、別の狙いがありそうである。高尚な理屈と飯粒は、どこにでも付く。フーテンの寅さんの口癖が浮かぶ。「てめえ、さしずめインテリだな」。インテリも善し悪しか。(5月15日付)~~~~~~~~コラム氏の見識と勇気と筆力と何より大人の振る舞いに、まずは大敬意を表したい。「騒々しい」話題を取り上げるコラムは数多あれど、正義を語って真理をかたらず。時鐘は唯一、真理をついている。真理はひとつなり、されど正義はひとつならず。「双方が言うそんな歴史なるものが、果たして注文通りに手に入るのか。」「歴史認識」は当事者の数だけあり、それが当事者の正義である。されば真理とは何か。それは「歴史」の事実だけである。そも、認識とは感情に基づくものでありそれを議論するのはむなしい事なのである。行間にコラム氏の知見たるを見た。ときに寅さんが出たので蛇足まで。「それを言っちゃぁ、おしめいよ」も寅さんの口癖。成熟した人間は「高尚な理屈」や正義を振りかざしたりはしないものなのだ。それはそれとして、会津のガイドさんの心意気や見事!願わくは、子々孫々まで受け継いで欲しいものだと思います。心ある読者は中公新書から出ている『ある明治人の記録』をご一読されたし。会津の情念をご理解いただけるであろう。
2013.05.17
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【朝日新聞 天声人語】自分のことを大切に思う。自分自身に価値を見いだす。そんな心の動きを自尊感情という。多少なりともそれを持てないと生きづらいが、往々「自分はダメだ」と落ち込むのもまた人間である。 といったことを考えたのは、最近ヘイトスピーチ(憎悪表現)が議論の的になっているからだ。人種や国籍で人を差別し、侮蔑し、貶(おとし)める。例えば「韓国人を殺せ」などと、どぎつい言葉を発しながら在日韓国・朝鮮人の多い街中を練り歩く。 あまりのエスカレートに国会の論戦でも取り上げられた。谷垣法相は「品格ある国家、成熟した社会」という方向と正反対だと嘆いた。安倍首相も言った。彼らは「結果として自分たちを辱めている」。 仲間うちと違う属性を持つ人たちを攻撃し、その尊厳を傷つけることで優越感を持つ。満足を覚える。それは彼らの自尊感情の歪(ゆが)みのなせる業か。それともそれを持てないが故に代償を求めているのか。 司馬遼太郎の短いエッセーに「常人の国」がある。わが母校、わが社、わが民族……。「わが」と限定されると〈人間の情念はにわかに揮発性のガスを帯びる〉。ガスの素(もと)になるのは自己愛である。〈人はそれを共有して吸うとき、甘美になる〉。 ヘイトスピーチをたしなめる首相も、歴史認識をめぐる問題ではこの気体を吸い込んでいないだろうか。本当の誇り、自尊の心は、過去を謙虚に直視するところから生まれるだろう。常人の国であるためには「勇気と英知」がいると司馬は書いている。(5月12日付)~~~~~~~~コラムの内容は別にして、文中の司馬さんについて付け加えます。ご参考まで♪「日本人は、常人の国である。それが、私どもの誇りでもある。常人の国は、つねづね非・常人の思想とどうつきあうかを、愛としたたかさをもって考えておかねばならない。」『常人の国』で、司馬さんはこうしめくくっています。※「常人の国」は司馬遼太郎氏の『風塵抄』にあり。加えて、『風塵抄』の中で、司馬さんは『平和』というエッセイで、平和をこう定義づけています。「平和とは、まことにはかない概念である。単に戦争の対語にすぎず、戦争のない状態、をさすだけのこと。」その上で平和を守るためにどうすればいいか、それを説くのです。「平和を維持するためには、人脂のべとつくような手練手管が要る。平和維持にはしばしば犯罪まがいのおどしや、商人が利をおうような懸命の奔走も要る。さらには複雑な方法や計算を積みかさねるために、好悪の評判までとりかねないものである。」我々は、まず(最初に)平和についてよくよく考え、その上で(次に)我々が今何をすべきか、真剣に考えたいと思った次第です。概念や空論を語っても、何も解決はしない。(残念ながら、粘り強く説得する、だけでは何も状況が変わらないことを我々は知ってしまったのだ!)「人脂のべとつくような」現実に即した実のある議論を期待したいものです。蛇足であるが、『風塵抄』は司馬氏が古巣 産経新聞に長く綴られたエッセーである。
2013.05.16
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【西村京太郎/天使の傷痕】◆初期の作品にして本格推理小説の形式を取る十津川警部シリーズでおなじみの西村京太郎だが、この作家の息の長いことと言ったらどうだ。私が幼いころから土曜ワイド劇場やら火曜サスペンスなどで、必ずやエンディングタイトルにその名を見つけた記憶がある。西村京太郎と言えば、鉄道ミステリーに定評のある作家のせいか、鉄道ファンがこぞって入会したのではと思える(?)西村京太郎ファンクラブというのがあるらしい。また、西村京太郎記念館というものが湯河原にあるので、時間とお金に余裕ができたら、ぜひとも行ってみたいものだ。とにかく安定した人気を誇る作家の書く小説にまずハズレはなく、安心して楽しめること請け合いだ。特に私が高評価するのは初期の作品なのだが、『天使の傷痕』である。これは鉄道モノではないが、本格推理小説の形式を取っている。読者は、読んでいるうちにおおよその犯人に目星をつけるのだが、この作品に限っては、良い意味で裏切られるのだ。さらに、思いもつかないトリックに新鮮味とか意外性を味わうことができる。だが何と言ってもこの作品が社会派の域にまで達するほどの仕上がりを見せたのは、日本の根強い家制度、つまり封建主義的な村社会にメスを入れたことかもしれない。もちろん、この小説の舞台となっているのは1970年代なので、2013年現在読むには時代性を感じてしまうのも否めない。それでも尚、本格推理小説として充分に読み応えのある作品となっている。あらすじはあえて言うまい。物語のきっかけとなる出来事だけ紹介しよう。日東新聞社会部の記者である田島は、休日を取って山崎昌子と三角山にハイキングに出かけた。ところが途中、男の悲鳴が聞こえ、その後、田島と昌子の行く手を塞ぐように男が飛び出して来た。男の顔は苦痛に歪み、胸には短剣のようなものが突き刺さっている。そして、力尽きたように、山道の崖を転がり落ちてしまった。田島にしがみつく昌子をかばいながら、まずは警察に届けることを思案し、二人は登って来た道を引き返し、駐在所へ急ぐことにした。こうして、田島はデートの最中ではあったが、新聞記者としてのプロ根性が猛然と漲るのだった。この小説のキーワードとなるのは、殺された男が虫の息で発した「テン・・・」という最後の言葉にある。それを聞き届けた田島が、あれこれ推理するところから、やがてこれが天使の「テン」であることに気づく。一体天使とは何を示すものなのか?こういう謎解きがミステリー小説の醍醐味でもあるから、あれこれ想像を膨らませながら読み進めていくのが楽しい。ラストでは、アルドリン睡眠薬を服用した妊婦から生まれた奇形児についての記述がある。これは当時、社会問題ともなったサリドマイド事件から着想を得たのかもしれない。次から次へと消耗品のように出版されては消えていく業界の現状で、この『天使の傷痕』はどれだけ版を重ねたことだろう?西村京太郎というネーミングにだまされたと思って(?)読んでいただきたい。時の経つのも忘れて読了してしまうに違いない。『天使の傷痕』西村京太郎・著 〔江戸川乱歩賞受賞作品〕☆次回(読書案内No.69)は宮部みゆきの『理由』を予定しています。コチラ
2013.05.15
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【ヒート】「俺はムショへは戻らん」「じゃ、もうヤマを踏むな」「俺はヤマを踏むプロ、あんたはそれを阻止するプロ」正統派のハード・ボイルド、それこそが本作「ヒート」である。日本のハード・ボイルドがどうやっても敵わないのは、こういうハリウッドの正統派を突きつけられた時だ。アル・パチーノとロバート・デ・ニーロのハリウッドの二大スターが、同じスクリーンに映っているのを目の当たりにしたら、それはもう否が応でも釘付けにされてしまう。役者の演技の良し悪しなんか語るのは、無粋だ。往年のスターというものは、ただもうそこにいるだけでインパクトがあるのだから。いわば、圧倒的な存在感、それがアル・パチーノであり、ロバート・デ・ニーロなのである。メガホンを取ったのはマイケル・マン監督で、代表作に「コラテラル」がある。思ったとおり、この監督は、ハード・ボイルド作品を得意とする傾向があるらしい。「コラテラル」などは、正に、ハリウッドにおける模範的映画で、正統派ハード・ボイルドの代名詞になっているとか。ニール率いる強盗団は、巧みなチームワークで現金輸送車を狙った。その際、新参者のウェイングローが警備員を射殺してしまう。ニールは、無用の血を流したことに怒りを隠せないが、その場はいったん引き上げることで成功した。だがその後、ニールはウェイングローを危険視して殺害を試みるが、わずかな隙に逃げられてしまう。一方、凶悪事件を担当するロス市警のヴィンセント・ハナは、現場に残された手掛かりや目撃者の証言から、執拗にニールたちを追跡するのだった。脇役だが強盗団のメンバーであるクリス役に扮するヴィル・キルマー。この役者さんは、調べたところ、名門ジュリアード音楽院演劇科卒のエリートで、本来ならハリウッドに通じる役者を育てる先生的存在なのだ。また、「レオン」のマルチダ役で名子役として一世を風靡したナタリー・ポートマンも、チョイ役で出演しているが、これまたいい味を出している。薄幸な少女役は、彼女の十八番と言っても差し支えない。そんなナタリー・ポートマンも、今は立派なハリウッドのドル箱スターだ。一昨年には「ブラック・スワン」で、アカデミー賞主演女優賞を受賞し、飛ぶ鳥を落とす勢いなのだ。「ヒート」は、そんな名優たちに支えられた、男の美学を体現した作品なのかもしれない。1995年(米)、1996年(日)公開【監督】マイケル・マン【出演】アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ、ヴィル・キルマー
2013.05.14
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【京都新聞 凡語】~陶芸の印象派~印象派という言い方は、絵画だけではなく陶芸の世界にもあるそうだ。甲賀市信楽町の陶芸の森・陶芸館で開催中の展覧会で知った。19世紀後半、フランスで広がったジャポニスム(日本趣味)の陶磁器を紹介している。 なるほど絵付けは器肌を画布に見立てた油絵のようだ。印象派絵画の影響を受けた荒い筆致の色化粧を重ねて、自然風景や人物を描いている。 モネやルノワールら印象派の多くの画家が日本美術、特に浮世絵に触発されたことはよく知られている。その美をいち早く発見した一人と言われるのが印象派の画家で版画家でもあったフェリックス・ブラックモンだ。 日本の陶磁器が輸入された際に、詰め物になっていた葛飾北斎の絵手本スケッチ集「北斎漫画」に目を奪われ、浮世絵のとりこになったという。 後に陶磁器会社の美術監督になり、北斎漫画を生かした器類も数多くデザインしているから、かなりの心酔ぶりだったようだ。印象派陶器なども手がけて、この国の伝統的な陶芸を革新する大きな力になった。 ジャポニスムは現代で言えば、漫画やアニメに代表される「クール・ジャパン」だろうか。それぞれ浮世絵、漫画という大衆芸術が深くからんでいる点が面白い。「通俗性の力」ということを考えさせられる。展示は6月9日まで。(5月10日付)~~~~~~~~陶芸の印象派をさっそく見てみた。もちろんおいそれとは信楽まで出かけられない(涙)我が身なれば、ホームページで閲覧したのだが、なるほど美しい。『器肌を画布に見立てた油絵のようだ。』画面で見る限り、まさにその通り。しばし見とれた。ジャポニスムは今でいう「クール・ジャパン」。それは「通俗性の力」とな。通俗性は好悪による賛否両論となる。だがそれは大衆に根ざしたものだから強い。余談まで。週刊新潮を創刊した斉藤十一氏は、その編集方針を「俗物(読者)が興味をもつのはカネと女と事件」としたという。新聞広告を見ると、目を覆うような記事に辟易することもあるが、週刊誌は確実に売れているという。また記事が「カネと女と事件」に見事にはまった時はテキメンに売上げが伸びるそうだ。通俗性=俗物というわけでもないが、大衆に根ざしたものは強いのである。
2013.05.13
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【藤原てい/旅路】◆敗戦下、飢えと寒さの極限を生き抜く母子の旅路この小説を手に取って一読し、胸を熱くさせたPさんが、私の友人であるSさんに勧めた。「この本を読んでとても感動したので、ぜひどうぞ」と。Sさんは多忙だったこともあるのだろう、最後までは通読できずじまいだったようだ。その後、Sさんが「良かったら読んでみて」と、私に貸してくれたという経緯。これが私にとってはとても不思議な因縁に思えて仕方がない。私は、少なくとも同じ感性を持つPさんと、ある意味においてつながっていると思ったのだ。過酷な試練の連続なんて、それほどあるものではないが、藤原ていの敗戦下の辛い体験は、辛酸を嘗め尽くしたものだ。その記録を目の当たりにした時、常人なら涙なしには読めない半生記なのだから。私はPさんとは面識がなく、直接には知らない方だが、Sさんを通じて聞いた話によると、Pさんは読書の習慣がなく、活字には疎いとのこと。また、学歴にコンプレックスを抱えているようで、大卒のSさんを羨んだこともあったそうだ。そんなPさんが、仕事の合間を縫ってページをめくり、たどたどしく活字を追い、やがて読了し、思わず誰かに勧めたくなってしまうほどの名著が、つまらないわけがない。前置きが長くなってしまい恐縮だが、そういう経緯でこの著書に出合えた喜びは、私にとってこの上もない。この小説には、敗戦下の苦難に耐える人々の血と汗と涙が凝縮されており、今を生きる人々への熱いメッセージにも感じられる。話はこうだ。県立諏訪高女に通う“てい”は、家が貧しく、いじめられっ子だった。封建主義的な父親から、女子には教育など必要がないと、卒業間近となりながらも授業料を納めてもらえなくなるという不幸に見舞われる。その後、気の弱い母親の勧めで、28歳の気象庁に勤める役人とお見合い結婚をする。(この人物が後の新田次郎である)二人の間に子どもも恵まれ、万事、順風満帆かと思いきや、日本はアメリカと戦争を始めることとなった。昭和16年12月8日の朝、ラジオから、開戦を伝える勇ましいアナウンスが流れた。それからしばらくして、夫に満州の観象台へ長期出張の辞令が降りた。満州に渡ってから、二人目、三人目と子どもにも恵まれたが、少しずつ食糧事情が悪くなりつつあった。そして、来るべき時が来てしまった。日本の敗戦宣告。それまで日本人街で働く中国人労働者たちは、誰もが親切で、日本語を流暢に話したものだが、日本の敗戦が知れ渡るやいなや日本人に石を投げつけ、軽蔑とからかいの意味を込めて罵倒した。夫婦と子どもたちは日本に帰国しようと必死で南下する汽車に乗ろうとするが、結局、朝鮮の収容所に押し込められ、夫はソ連兵に連れ去られてしまうのだった。ていは、心細さから何度もくじけそうになるが、まだ乳飲み子を含めた三人の我が子を、女手一つで守り抜くことを決意する。藤原ていという一人の女性の旅路は、とても長い道のりだ。飢えと寒さの極限の最中を、物乞いまでして何とか命をつないで来た。奇跡的に朝鮮から脱出したものの、その体は心身ともにボロボロで、日本に帰国してからも後遺症に悩まされた。(今でいうPTSDであろう)軍国主義を貫いた一部の軍人たちの先導によって、第二次世界大戦は始まった。それは日本にとって、世界に類を見ないほどの大きな痛手となり、手足を?がれ、徹底的な挫折を味わうものとなった。しかし、それで目が覚めた。戦争を放棄した日本は、全精力を経済の立て直しに向けることでこれほどの経済大国となったのだ。平成を生きる我々は、もはや“戦後の生まれ”とは言わない。だが先人たちの苦痛と苦闘から得たこの平和を、必ず死守しなければならない。この著書は、暗黒の戦時下を決して美化することのないよう、全ての国民の皆様に一読をおすすめしたい、名著なのです。『旅路』藤原てい・著☆次回(読書案内No.68)は西村京太郎の『天使の傷痕』を予定しています。コチラ
2013.05.11
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さまざまの情のもつれ暮の春 高浜虚子なんとなく怪しげな句(笑)淫靡な雰囲気を感じるのは我が中年のなせる業でしょうか(汗)いずれにしても、こういうのは酸いも甘きもがわかった大人の句でしょう。先日の子規でに書きましたが(コチラ)、人が生きるということは何かと苦労がともなうもの、そういうことです。ときに、虚子先生は師の子規ほどに達観は得られていない感じがして、そこに好感がもてるのです(^o^)私事で恐縮ですが、大叔父が高浜虚子山脈の末席にあったこともあり、私は虚子先生の句には親しみを感じるのです。惜しむらくは我が大叔父は虚子先生の直接の薫陶を受けているにもかかわらず、つまらない句ばかり残しているということです、嗚呼。さらに惜しむらくは、小甥の私は、つまらない句さえひねり出せない始末ということです(涙)つまり、人が生きるということは何かと苦労がともなうもの、そういうことなのです(笑)
2013.05.10
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【北國新聞 時鐘】「来てみれば聞くより低し富士の山。釈迦も孔子もかくやあらん」。幕末、長州藩の重臣の言葉だという。 どんな大人物でも世間の評価で判断せず自分の目と頭で考える。人間は似たようなものだから自信をもって事に当たれば道は開けると解釈される。なめてかかれというのではない。謙虚さの大切さが陰に隠れている。 首相日誌で富士山ろくに安倍家の別荘があることを知った。外遊から帰国した日に向かい、翌日の国民栄誉賞授与式に出るまで短い休息をとっていた。今は成すことすべてがうまく回転している感がする首相の一日だった。 富士山の世界遺産も長嶋さん松井さんへの国民栄誉賞もアベノミクスの追い風になっているとの見方が強い。一方で「好事魔多し」と危惧する声も目立つ。だが、追い風をむりやり逆風にする必要もなかろう。頭っから安倍さんの失敗を期待している評論家もいないではない。 富士山や孔子に例えられると腰が引けるだろうが、足元を固め謙虚に偉人の足跡を学べば自分もいつかそこに近づける。そう気楽に思えば先の言葉も生きてはこないか。(5月8日付)~~~~~~~~私は石川の出身ではなく、残念ながら北陸には縁もゆかりもない。だが北國新聞のコラムは数多の新聞コラムの名で一番好きだ。スマホの「たてコラム」で、全国のコラムを一読することを午後の最大の楽しみ(笑)にしているのだが、北國新聞は一番最初に目を通す。まず悪意ある皮肉、そして本質の裏側ばかりを綴る新聞コラムが目立つ中で、良心の土台と格調という骨組みで組み立てられた記事は、安心して読むことができるのだ。だから私にとって時鐘は、午後に最善を尽くすための、一服の清涼剤に等しいのだ(^^)敬愛するジャーナリストの三宅久之さんは、褒めるところは褒め叱るところは叱り温かい目を持って、と記事に起す時の心得を生前に述べておられた。北國新聞の時鐘を読むとき三宅さんの言葉を思い出す。『富士山の世界遺産も長嶋さん松井さんへの国民栄誉賞もアベノミクスの追い風になっているとの見方が強い。』私は、追い風も実力のうち、そう安倍さんの実力を評価しているコラム氏が見えるのだがどうであろう。だからこそ『足元を固め謙虚に偉人の足跡を学べば自分もいつかそこに近づける。』と諭している気がするのだ。そして名コラムの面目躍如だが、読者が謙虚になれば自分への戒めとして心に響くのである。読後に「よし!」と次の一歩を踏み出せるようなコラムを、多くの新聞に書いてもらいたいものだ。だがくれぐれも謙虚と皮肉を取り違えないように願いたい。
2013.05.09
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【夏目漱石/坊っちゃん】◆今や絶滅危惧種の坊ちゃん気質日本人なら誰もが知っている定番中の定番の読み物と言ったらこれ、『坊っちゃん』だ。 発表されたのが明治なので、すでに古典の域にある近代小説だが、平成の世にあってもいまだ愛され続けるのには訳がある。それは、やんちゃで真直ぐの江戸っ子気質を持つ主人公“坊っちゃん”が、四国の中学校教師に赴任してわずかな期間に様々な体験をするお話だ。しかも、坊っちゃんに対して嫌がらせをした赤シャツや野だに仕返しをしてやるのだから痛快と言ったらない。また、幼い頃より坊っちゃんを溺愛する女中の清の存在も忘れてはならない。両親から厄介者扱いされていた坊っちゃんに、こっそり小遣いを与えたり菓子を与えたりして、まるで我が子のように可愛がる様子が微笑ましい。この二人の関係は、まるで『しろばんば』の主人公・洪作と、その洪作を溺愛してやまないおぬい婆さんにも似ている。誰よりも洪作を愛し、洪作を守り抜くおぬい婆さんの姿が、坊っちゃんにピタリと寄り添う清にも重なって、何とも言えない郷愁すら覚える。さて、『坊っちゃん』の話はこうだ。幼い頃からやんちゃで利かん気の強い坊っちゃんは、両親から厄介者扱いされ、坊っちゃんの兄ばかりが贔屓された。家族には爪弾きにされていた坊っちゃんだが、女中の清だけはいつも味方になってくれた。しかも「あなたは真っ直ぐでよい御気性だ」と褒めてさえくれる。病気で母親が亡くなってからは、ますます坊っちゃんを可愛がり、菓子や小遣いまで与えた。その後、父親も亡くなり、屋敷を売り払った金を兄と折半すると、兄は商業学校を卒業後、九州の会社へ、坊っちゃんは東京の物理学校で学問をすることにした。女中の清はどこまでも坊っちゃんについて行く気でいたが、坊っちゃんが一人前になって屋敷を持つまでは、甥の厄介になることに決めた。こうして坊っちゃんは物理学校に行き、卒業後は数学の教師として四国へ赴任することになった。私は考えたのだが、もしもこの平成の世に坊っちゃんが存在したら、単なる融通の利かない強情張りではなかったかと。今は、その場の空気を読めなかったりすると“KY”だと悪口を言われ、臨機応変に適応できなければ“使えない奴”だと見下されてしまう。現代人もそんな世知辛い時世を知っているから、尚更坊っちゃんのような真っ直ぐな気性を愛おしく思う。すでに絶滅危惧種のような坊っちゃんタイプは、小説の中でこそ生き生きと存在感を示し、読者を楽しませる。不正に対し、猛然と立ち向かう姿はいまや見られなくなってしまった。無気力、無関心がまかり通る現代こそ、『坊っちゃん』を愛読する方が一人でも増えてくれたら嬉しい。まだまだ世の中捨てた物ではないと思えるように、『坊っちゃん』が永遠のベストセラーであり続けることを願ってやまない。『坊っちゃん』夏目漱石・著☆次回(読書案内No.67)は藤原ていの『旅路』を予定しています。コチラ
2013.05.08
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行く春ややぶれかぶれの迎酒 正岡子規子規の胸中いかばかりや。子規の痛飲する姿を想像するに難くはありません。お察し申し上げます。人が生きるということは、何かと苦労がともなうものなのです。連休も終わり我々も浮かれてばかりはいられませんよぉ~それにしても、子規の痛飲は潔さを感じるから不思議です。これも子規の人徳でしょうかねぇ(^^)
2013.05.07
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【秋田魁新報 北斗星】~大人が自問する日~弱々しい明かりが暗い廊下を照らしていた。午前4時半、秋田市の病院で一つの命が生まれた。小さくて柔らかい手と足。長女誕生の場面は今も鮮明に記憶に残っている。 親なら子どもの誕生を生き生きと思い出すだろう。生まれてくれて「ありがとう」。その思いも次第に薄れて要求は高まる。はいはいして大喜びしたのは昔。家事を手伝え、もっと勉強しろと、子どもには口うるさい存在か。 王子さまとキツネとの出会いなどを通じ、人生で大切なことを語り掛ける物語がある。サンテグジュペリ「星の王子さま」(新潮社)。キツネが言う。「いちばんたいせつなことは、目に見えない」「絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ」。 外観にとらわれず心で物事を見る、関係を築いた相手への責任を全うするということだろう。耳が痛い。小言ばかりで本質的なことを伝えるのをおろそかにしては、子どもは肝心なことを見失う。 権威にこだわる王様、称賛されたい大物気取り、管理が大好きな実業家。王子さまの目に映る大人は身近にいそうな人物像だ。子どもの方が、大人の矛盾やおかしさを見抜いている。 物語は第2次世界大戦中に書かれた。個々の尊厳を大切にする社会を求めて、次代を担う子どもに希望を託したのだろう。王子さまは「まったくどうかしてるな」と、大人社会に疑問を投げ掛ける。どう答えるか。きょう「こどもの日」は子の成長を喜ぶとともに、大人が自問する日でもある。(5月5日付)~~~~~~~~さすがは秋田の新聞だ。身内話は遠慮がちになる新聞のコラムで、敢えて書かれたものと推察する。淡々とした文章に、コラム氏の真摯たるを見て感激した。読者の大半は人の親である。きっと胸を熱くしたことであろう。そしてまたコラム氏のおかげで『星の王子さま』を久々に読み返すことができた(^^)何度読んでも、その都度、忘れ物に気づかせてくれる名著なのだ。寒い日の風呂の効果のように、心が潤わされ満たされていくのが実感できた。素晴らしいコラムと、再読の機会をいただいたことに感謝(^人^)「いちばんたいせつなことは、目に見えない」何かと騒々しい世の中で、目に見えない大切なことをいつも考えていたい、そう思ったこどもの日である。
2013.05.06
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【レベッカ】「ニューヨークへ行くのと、マンダリーに行くのと、どっちがいい?」「冗談はやめて下さい。ホッパー夫人が待ってるから、もう行かないと・・・」「私とマンダリーに来ればいいじゃないか」「私に秘書にでもなれとおっしゃるの?」「結婚しよう」 様々なヒッチコック作品を楽しむ私だが、この作品のスケールの大きさには更に度肝を抜いた。“ザ・ハリウッド”と呼ぶに相応しいアメリカ映画として完成されているからだ。『レベッカ』は、それまでイギリスを拠点に活動していたヒッチコックが、初めてハリウッドからヘッド・ハンティングされて大舞台を踏んだ作品なのだ。そのため、大掛かりなセット、美術で、すっかりハリウッドカラーに染められている。それもそのはず、プロデューサーが『風と共に去りぬ』のセルズニックということもあり、完璧なまでの構成・編集・脚本となっている。ヒッチコックは、好きなカメラワーク、好きな女優さん、好きな演出というものを明確に持つ監督だったので、それはもうやり辛い現場だったようだ。だが、名プロデューサーであるセルズニックのセンスに狂いはなく、アカデミー賞作品賞を受賞している。この時のヒッチコックは、あまりに素っ気ないコメントだが、「この賞はセルズニックに与えられたものだ」と述べているに過ぎない。一方、セルズニックは、「ヒッチコックは私が信頼して映画を任せられるただ一人の監督だ」と激賞している。『レベッカ』のストーリーはこうだ。モンテカルロのホテルが舞台。ホッパー夫人の話し相手、兼付き人として雇われている“私”は、大富豪のマキシム・ド・ウィンターと知り合い、結婚を申し込まれる。身分違いではあったが、“私”はマキシムの愛を信じ、イギリスのマンダリーにある屋敷で暮らすことにした。マキシムには婚歴があった。レベッカという美貌に恵まれた先妻だが、船の事故で亡くなっていたのだ。マンダリーの屋敷には、何十人もの使用人たちがいて、その中でも先妻・レベッカ付きの女中頭・デンヴァー夫人は、ことのほか“私”を敵視している。心の支えでもあるマキシムは、どうやらレベッカのことがなかなか忘れられないのか、時折ぼんやりしたり、癇癪を起こしたり、“私”は心休まる時がない。そんな中、近くの海岸に船が座礁したとの知らせが入る。そして、その船室からレベッカの死体が発見されたのだ。『レベッカ』の見どころは、主人公の“私”が、先妻レベッカの圧倒的な存在感に脅え、萎縮していくプロセスだろう。誰もがレベッカの美貌と社交性を褒め称え、レベッカの使っていた部屋を在りし日のように整え、守り抜いている。枕カバーから文具品、ハンカチに至るまでレベッカの頭文字が刺繍され、当たり前のように屋敷のあちこちに先妻の名残りを感じさせられる。そんな環境に“私”はどんどん追い詰められていく。主人公“私”を演じたジョーン・フォンテーンの迫真の演技に、思わず胸が潰れそうなほどの切なさを覚えた。役どころとはいえ、反って、夫役のローレンシ・オリヴィエの、短気で癇癪持ちなキャラクターに一言文句をつけてやりたい気持ちになった。つまり、それほど視聴者を作品にのめり込ませるのに成功しているということだ。ヒッチコックは、慣れないハリウッドに不自由な思いを余儀なくされたようだが、作品としては実に洗練された、大衆向けのスリラー映画として完成度の高いものに仕上げられている。公開は1940年ということは、すでに70年もの月日が経過していることになるが、全く違和感なく、スリラー・サスペンスとして楽しめる。本物のミステリーを味わいたいという方にお勧めの映画だ。1940年(米)、1951年(日)公開【監督】アルフレッド・ヒッチコック【出演】ジョーン・フォンテーン、ローレンス・オリヴィエヒッチコックの『サイコ』 コチラヒッチコックの『白い恐怖』 コチラ
2013.05.05
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【山崎豊子/花のれん】◆成功の秘訣はたゆまぬ努力となりふり構わぬ商売根性この小説を読むきっかけとなったのは、私がもともと大阪のお笑いが好きで、吉本興業の創業者である吉本せいがモデルとなっているのを知り、興味を持ったわけだ。モデル小説なので完全なフィクションとは違い、ところどころ実在の人物や本当にあったエピソードなどに驚かされる。それにしても大阪の女性はスゴイ。転んでもタダでは起きないというのは、大阪で生まれた言葉なのではとさえ思った。たくましい女の生涯を小説にすると、下手をしたら男性社会への批判とか、弱者擁護の主義主張の強い作風になってしまう。ところが『花のれん』にはそういう社会風刺的な要素はなく、純粋に一人の女性が女手一つで商売を成功させるまでの紆余曲折を描いている。それを、なりふり構わぬ金儲けと捉えるか、大阪商人のど根性と捉えるかは読者の自由だが、少なくともその生き様には脱帽だ。私も様々な伝記やエッセイなど目にして来たが、どれも共通して言えるのは、成功者のたゆまぬ努力と、やはり目標を一つにしぼることがポイントとなっているようだ。「二兎追う者は一兎も得ず」とは言ったもので、『花のれん』における主人公・河島多加は、夫を早くに亡くしてからというもの商売一筋に生きた人である。だから、可愛いはずの長男の育児も、女としての恋愛も、潔くあきらめた。とにかく、片時も商売のことを忘れないのだ。逆を言えば、そのぐらいでなければビジネスで成功などできるものではないというお手本でもある。話はこうだ。大阪の船場の商家町に嫁いだ多加は、師走の支払いの時期だというのに、金庫には金がなかった。夫の吉三郎はどこかへ雲隠れしてしまい、取引先には夫に代わって多加がひたすら謝るしかない。吉三郎の父・吉太が始めた河島屋呉服店は、父の代では繁盛したが、吉三郎の代となってすっかり落ちぶれてしまい、今は借金ばかりが重なった。そんな状況にもかかわらず、吉三郎は花街に入り浸り、商売を省みなかった。吉三郎の体たらくを見かねた多加が提案したのは、吉三郎が三度の飯より好きな落語や芸事を、飽きるほど見ることのできる寄席を開くことであった。そうと決まると話は早く、それまでの呉服屋を引き払い、その資金を元手に小さな寄席を買い取った。最初こそ客入りは悪かったが、なりふり構わぬ多加の采配により寄席は段々と軌道に乗っていく。一方、吉三郎に商売の才はなく、寄席は多加に全て任せきりにして、自分は妾を囲って小料理屋を持たせていた。そのことが多加にバレてからは、反って居直るようになり、度々家を空けることが多くなるのだった。多加の生涯はそれこそ苦労の連続で、女としての幸せは放棄し、ひたすら商売に没頭した印象さえ残る。一人息子の面倒も女中に任せ、夫の女遊びにも片目をつむり、来る日も来る日も銭勘定に明け暮れる。それはきっと、二度とどん底生活を味わいたくないという切なる思いと、自分には商売しかないという自己実現への限りない欲求と願望に違いない。ラストは、激動の生涯を送った女に相応しい、宿命的な孤独を感じさせるものだ。直木賞受賞作に恥じない、名著である。『花のれん』山崎豊子・著☆次回(読書案内No.66)は夏目漱石の『坊っちゃん』を予定しています。コチラ
2013.05.04
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【長崎新聞 水や空】~5月~大型連休の前半は、どこも人と車であふれていたようだ。喧騒(けんそう)から逃れたい年齢でもあるのだが、田舎の里山を歩いた。 正岡子規の句がある。〈故郷やどちらを見ても山笑ふ〉。山々の草木が芽吹き、明るくなった山のたたずまいを「山笑う」というが、子規が詠んだのは今ごろの山の装いであろう。ちなみに、夏は「山滴(したた)る」、秋は「山粧(よそお)う」、冬は「山眠る」という。 木々の新芽が湧き出るような中をのんびり歩く。ふと思い付いて子どものころ、お別れ遠足や歓迎遠足で行った海辺を目指した。遠い昔に通った小学校がこの春廃校となり、統合されたと知ったからでもあった。 古い山道をたどり、山を越えれば1時間あまりで行けるはずだ。ところが、記憶にあるかつての道は、すっかりわからなくなっていた。高い雑木や草、つるに覆われ、イノシシが走り回った跡だけがあった。こずえの間から海が見えてきたが、引き返した。 きょうから5月。季節は新緑から万緑に変わる。その5月をうたった詩人に寺山修司がいる。有名な「五月の詩」の一節だ。〈二十才僕は五月に誕生した/僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる/いまこそ時僕は季節の入口で/はにかみながら鳥たちへ/手をあげてみる/二十才僕は五月に誕生した〉。 長き病を得て詩人が47歳で逝ったのは、1983(昭和58)年5月4日。ことし没後30年である。(憲)(4月29日付)~~~~~~~~泰然自若のコラム氏ではあるけれど記者魂が疼いたか。里山散歩も記事にしてしまう、その姿は見事なり。転んでもただでは起きないのが一流の記者なのだ!それにしても、一定以上の年齢の方で、いわゆるお約束の読書をしてきた方は、この時期になると、皆、寺山修司を思い出すのだ。とうに寺山の逝った年を上回ったが、我々にとって寺山は永遠の先輩であり兄貴なのだ。そして寺山修司といえばこれに尽きるのではないか。『書を捨てよ、町へ出よう』風薫る五月、旅に出るにはもってこいだ。でもコラム氏なら、きっと書を持って町へでることであろう(笑)しかしコチラもそうか。『さて、どちらへ行かう 風がふく』山頭火急く心を静めるには、「さて」の妙を得心するのに尽きる。次に「どうしたものか」と考えると山頭火の胸中おもんぱかる句も、我が気ままなる旅を夢想する句に変わるのだ。我は皐月の旅人なり(^^)明日は寺山の命日、寺山を偲びつつ風のむくまま気のむくまま出かけようか。『人も旅人 われも旅人 春惜しむ』山口青邨
2013.05.03
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【松浦理英子/ナチュラル・ウーマン】◆生殖行為から解放された進化形の恋愛これまでボーイズ・ラブ的な小説は何冊か読んで来た。映画(イギリス映画)においても、フォースター原作の『モーリス』など、それはもう耽美的で、うっとりしてしまったものだ。だが年齢とともに、そういう同性愛のお話には限界を感じて来た。自分なりにあれこれ考えてみたのだが、やはり友情としての域を超えてしまった時点で、それは異空間のお話になるのだ。人は、作中の登場人物に何らかのシンパシーを感じないと、なかなかその作品に入って行くことができない。つまり、私に同性愛嗜好がない限り、その小説は私にとっての恋愛小説とはなり得ず、ファンタジーかオカルト的な作品に思えてしまうわけだ。なぜそれが若いうちには受け入れられたのかは、今ならなんとなく分かる。おそらく女性としての性からの逃避ではなかっただろうか?もちろん、興味本位もあったことは確かだが。そんな中、『ナチュラル・ウーマン』を読んでみた。これはボーイズ・ラブとは対極にある、女性の同性愛を扱った小説である。いや、これには驚いた。自分がいかにその方面(?)に疎いか、思い知らされた。女性が女性のまま女性を愛するプロセスを小説にしたものだが、友情とはベクトルの向きが全く違うのだ。つまり、正真正銘の恋愛なのだ。だが私は、つまらない疑問を抱いてしまった。そもそも女性同士が愛し合う(?)ことって、あり得るのだろうかと。心配無用。その疑問は、読了後にすっかり払拭された(笑)話はこうだ。22歳の容子は、サークルで知り合った花世に夢中だ。ある時、容子は花世のアパートに一緒に帰ることになった。そしてそこで、二人は官能的な愉しみを覚えることになった。花世はクールで知的で誰にもたやすく心を明け渡すことのない、誇り高い女性だ。そんな花世を好きになる男は多く、何人か交際したが、長続きしなかった。一方、容子もそれなりに男から声をかけられ、一応付き合ってみたものの、余りの退屈さにうんざりしてしまった。友人たちの恋愛話を聞いても、羨ましさを感じることはなく、おそらく自分は一生恋愛しないに違いないと思い込んでいた。ところがサークルに入会し、花世と出逢ったことで、恋愛の対象が同性である花世であることに気付いてしまったのだ。この作品は官能小説ではなく、性愛小説だ。ものすごく実験的なものを感じるし、男女間では感じにくい、耽美的で、しかし貪欲な性の愉しみを垣間見ることができる。また作中、男性の登場人物は皆無で、ほとんどが女性だ。生殖を伴わない、生殖行為からの解放は、女性解放にもつながる。何やら私は物凄く進化形の恋愛を見たような気がするのだが、みなさんはこの異色の作品をどう捉えるでしょうか?『ナチュラル・ウーマン』・松浦理英子著☆次回(読書案内No.65)は山崎豊子の『花のれん』を予定しています。コチラ
2013.05.01
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