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大フィルと大植英次氏の野外コンサートも今年が2回目。 去年は行けなかったので初参加です。4時半頃から、既に本丸の中まで伸びていた行列に参加、無事、5時すぎに、西の丸庭園に入場、TV櫓より後ろに、陣取りました。 乳幼児連れ、家族連れ、母子、老夫婦、会社の若い衆を連れたおっちゃんたち、もちろん、「カップル」など、少し以前のクラシックコンサートだったらよく見られた(幼児はいなかったけど)風景が、ごくあたりまえに広がります。もちろん、お弁当をいろいろ広げるところも、イイ感じです。 音楽もとても楽しく、盛り上がって、またちょっと昔の、大フィルからは想像しにくいことですが、とても、音楽が伸縮自在で、柔軟性に富んだイキイキとした音楽が、オケ全体がうごめくように、雄弁に聴こえてくる、まさに、大植時代の(オケ自身の研鑽によるところ大でもあるのですが)大フィルの充実を思わせる、イイことづくめなのですが、 (大植氏は良い意味で「欧米」の「ショウマン」のプロフェショナルな流儀と、地元オケとしての振る舞いを身に着けておられます。) こういう「大成功イベント」の難点を言うのは無粋なことですけども、 1万人以上を集めた大イベントだっただけに、実をいうと、その裏返しで残念なことがあります。 僕らのようないわば「マニア」は実はどうでもよいのですが、今回のようなイベントで一番大事なのは、「あまり知らないけど」「クラシックというものに来てみた」とか、「生まれて初めてクラシックをみてみた」という人たちなのだと思います。 そういう方たちが、「ホンマにクラシックって、実はスゴいね」って思ってもらうには、 あまりにも、音響が不備で、かなり前の方でしっかり「聴くぞ!」って思っている方たち以外は、 「そこそこ、大きい音で、ラジオくらいの音質の音楽が、聞こえてきて、周りの人たちも楽しそうだった」というくらいのもので、僕らでも正面方向ゾーンでは半分よりくらい、 また、直角方向の芝生広場にもたくさんの人たちがいましたから、もっと「遠く」に「ラジオっぽい音」で聴くことになった人たちがいっぱい居たと思います。 「大阪市や放送局のイベント」としては、1万人も集めたら、超超大大成功!!!!!であることは全くまちがいないのですが、 昨日くらいの「音」を聴いて、「クラシックも迫力あって面白いやん」って思う人は、 かなり、間近に座った数百人くらい(千数百人)ではないかな、というのが率直な感想ではありました。 逆に、僕らのように、ナマのオケを聴き慣れてる者は、かなり「想像」で埋めることはできるので、 こうした機会にムリして、「良い音」を求めなくても(求めたいけど500円やし)、まあエエのですが。 ホント、水をさすようですが、 折角の超大人数の「はじめて組!!」の方たちが、今回の体験で、かえって、 「クラシックって、以前、大阪城で聞いたけど、外で聞いたら気持ちエエし、クラシック好きの人たちも喜んではったけど、 そんなに音楽は迫力はなかったで…」 という逆効果を生じないためには、 「音」と「絵」は、出来る限り、「伝えたい」 と思っていただきたいのでした。今でも大変なのでしょうが、他のジャンルの野外コンサートと比べても。。です。 とくに 「メインの客」=「後ろのほうで」「試しに聴きに来た」お客 に対してこそ、 できるだけ、「伝えたい」と思っていただけたら、よりすばらしい、、と思った次第です。 「大阪市のイベントとして大成功だった」のですが、 そして、それはものすごい、素晴らしいことですが、 (しかも、かなり難しい、リスクを超えた、大変なことであることはよく理解しておりますが) 「クラシックファンから見て」ではなく、 むしろ、 クラシックに縁のない人に、クラシックの面白さ・良さを「体験」してもらうにあたって、 「1万人以上集まったから大成功」というのは、「本当かな?」と、 マジで、考えていただけると、「より良い仕事(それも今までの到達点からすれば手の届く!)」が目指していただけるのではないかと思います。 これは、生まれて初めて、僕が「オーケストラ」を聴いたときの、 「音に包まれる衝撃」 のいくぶんかでも、 これからも、別に、クラシックもええかなあ くらいの位置づけになられる方々にも、 体験していただきたい!!と思うからです。 たとえば、大植氏がいなくなっても、「大フィル聴きにいこう!!」っていう土壌が根付くためには、 また、 朝日放送や大阪市が、「続けよう!!」とそのときにも、 言うのかどうか? それが、今回の僕の問いかけへの答えになるか、、、と思います。 本当に、関係者の方々、ここまでのご苦労、ありがとうございます。 あくまでも、これまでのご苦労と成果の「次」についてのことですので、 ご無礼の段、お許しくださいますようお願いします。
2007.04.29
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大阪府が昔つくったオーケストラ「大阪センチュリー交響楽団」のコンサートに久々に行ってきました。コンサートそのものが大分久しぶりです。 平日の前売りは基本リスク高すぎなのでここ十数年買ってないのですが、この日はちょうど外の仕事が定時に終わったので、衝動的に飛び込みました(終演後、ちょっとまた職場戻ったけども)。 関西のオケは、関西のエラい財界の人や、自称文化通の役人の一部からは、「財界の援助が大変で、非効率だから統合しろ」とか言われてますが、かなりよく工夫して意欲的に頑張っています。関西フィルなんてたった一晩しか公演できないのにリヒャルトシュトラウスの楽劇(ナクソス島のアリアドネ)での名演をなしとげたり、意欲的なソリスト起用とプログラミングなど、その辺の企業の初任給以下でも、また学校周りなど依頼演奏の嵐でも(この依頼演奏も財界や行政はアマチュアオケに流し勝ちだそうですが)多忙を極めていても、がんばったりしているのです。 もともと大阪に3つのプロオケがある中で、大阪府がさらに新しくこのオケを作ったのですが、その号令をした側や実行した側の人が、「合併しろ」の声に加わっているのか、それとも自らの職責を持って説明しているのかは寡聞にして知りませんが、実際に現場で苦労して意欲的に「関西に残って」がんばっている「灯」をどのように考えているのか、知りたいものです。たまたま、財界人やお役人の一部の人と「知り合い」になった「自称芸術家」は、官製イベントでもいろいろ起用される傾向にはあるようですが。(中身がなく「保守的」な人ほど「先見の明」を誇示したがる???) それはそうと、このセンチュリー交響楽団、発足以来、折々で聞いてきましたが、当時の関西のオケの水準からすれば、キメ細やかな演奏をするオケとして始まりましたが、他のオケの技術水準が大分挙がってきたこと、また運営やプログラミングに各々工夫がなされてきたこと、「顔」の見える音楽監督が各々定着したこと、などから、だんだん「きっちりしているが、ただ、今ひとつ安全運転のオケ」というイメージも否めない傾向がありました。 これはただ、 このオーケストラが本来「室内管弦楽団」の規模なのに、レパートリーやオケの特徴の焦点をしぼりかねていることとも関係するように思います。 佐渡裕氏の一頃の多用や現音楽監督の小泉和裕氏のようにむしろ「後期ロマン派」志向すらあるとなると、「迫力に乏しい」となりがちです(とくに前者は、好き嫌いはあるにせよ、キツめのリズム感やテンポを追い込んで迫力をつくるタイプではなく大柄な曲づくりですから。後者はよくもわるくも基本線をキチっと鳴らす方ですけども。) ベルリン・フィルですらピリオド奏法をとりいれるこの時代、とくに室内オーケストラ規模であれば、ピリオド奏法のマスターは必須と思うのですが、それを始めかけた、金聖響氏は(好き嫌いはあるにせよ)、役所の意向かなにかわかりませんが、短期間で、成果を見るまえに「縁切り」をしてしまい、彼はその後関東で大活躍です(関西は「完成品」が好きなようです)。 で、その後期ロマン派の最たる、ワーグナーの「タンホイザー序曲(パリ版)とヴェヌスブルクの音楽」(←実演はとても珍しくありがたい) と ブルックナーの交響曲の3番(第3稿)という、この夜のプログラム。 このオケでのこれまでの印象からして、鬼門ではあったのですが、こちらのスケジュールがたまたま合う、という、あらゆる条件の中で第一条件があった当夜、しかも、大好きな「タンホイザー」となると、いそいそと、出かけるに如くなしです! で、なんのかんの書いてきましたが、 「よかった!!」です。 オケは、大分、たくさんのエキストラを入れていて(これで大分予算大変だったでしょうが)、大編成オケとなっており、その分、合奏精度は下がってはいたものの、迫力は十分でした。 ナマで聴く「タンホイザー」(全曲ではないしオペラでもなかったけど)は本当に、それだけでもう、ウレシイです。特に聴くに不備もなく、また、とても実演では珍しい「パリ版」の演奏。続く、ヴェヌスブルクの音楽も、演奏会ではそうそう聴けないものですが、ステージ裏で一応女性合唱もアリでした。月並みですが、こうやって聴くと、やっぱりオペラが聞きたくなる(序曲ひとつでも、暗闇の中で冒頭のファゴット&ホルンが聞こえると、もうそれは演奏会で聴くのとは異世界の「鳥肌ッモノ」の体験です!!)。 そう思えるくらい、よかった!!です。 ブルックナーも、以前、朝比奈さん=大フィルで聞いたよなあ、と思い出しながら、ブルックナーの交響曲の中でも、良い意味で「歌謡性」に富んだ曲、全曲楽しめました。 アタリマエといえばアタリマエなのですが、こうした大編成の曲はもちろん、古典派の曲や、耳ダコのような超有名曲でも、実演で聴くと、普段、CDとかで聴いてるときには、意識しなかったようないろんな音が、しかも「今ココで」生まれていくさまを体験できるので、こうやって久々に実演に接する喜びはなにものにも変えがたいなあ、と、こうやって聴きに行くたびに実感します。 こうした機会を提供してくださる関係者の努力には、本当に感謝です。 ブルックナーも、小泉和裕氏らしい、インテンポのスリムな演奏でしたが、各パートの受け渡しや「交わし合い」もよく見え(対抗配置ならもっと面白かったでしょうが、コレは好みの問題…ということで)、曲の姿がよくわかり、面白かったです。 この指揮者、高名で、実績もあり、いつも、違和感のない形での演奏をきかせてくれるのですが(京都市交響楽団以来、これまた折々で聴かせていただく機会が意外と多かった指揮者なのですが)、際立った「この人らしさ」といった特徴はあまりよくわからないのですが、決して平凡とか退屈と感じたことはありません。その意味では「大好きな指揮者」とはいえないまでも、「信頼できる指揮者」(一聴衆として)とはいえると思います。(といっても、この方の基本志向は、ロマン派!!なので、このオケがわざわざ呼んだ理由はわからないのですが)。
2007.04.27
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リヒャルト・シュトラウスの交響詩です。 先の日曜に録画したラトル=ベルリンフィルのジルベスターコンサートのライヴで、見ていることろです。 このドン・ファンという曲、冒頭から、もやもやを吹き飛ばしてくれます。また、ベルリンフィルの元気いっぱいの弦楽器(とその弓をたっぷり使いまくったまさに小気味良い演奏風景)が、この曲のメリハリのついた面を、ハッキリと示してくれます。 ラトルの演奏は全般にメリハリがハッキリしていて、どの楽器もイントネーションがしっかりとられ、また「フレーズ毎のまとまり」を意識した演奏なのですが、ベルリンフィルの各々のソリストの演奏が、またこの曲の入れ替わり立ち代り「登場人物」が出入りする風の陰影をよく示します。 映像は、一昔というか二昔前の映画(またはスターウォーズの最近作!)のようなオーバーラップを多用するコマ割に、手持ちカメラを揺らせて「躍動感?」を出そうとしたり、あえて水平を崩したりするなど、ちょっとガンバリが却ってシラケるところもありますが、まあ、昔のカラヤンのアフレコとかよりは大分よいでしょう。 ホルンのトップは、バボラクです。ドールは最近どうしてるのでしょう?そういや昔カラヤンが日本(大阪)来た時の放送では、ザイフェルトがホルンのトップでデン!!と構えていて、クラリネットがライスターだったなあ、、、と、ラトルと比べて、風通しはよくないかわりに、濃厚な「物語」を聴く風だった演奏に、もう一度触れたいなあ、とちょっと思いました。 このドン・ファン、最初が「超溌剌!!!」に始まって、途中、片思いあり(?)、ロマンスありの波乱万丈のような音楽が展開し、少々落ち込んだり悩んだりしたのち、また、「元気復活!!」となるのですが(ソナタ形式??)、最後に向かって、「締めくくりの準備に手間取る」風がちょっとある気がします。で結構「お調子」の良い曲なのに、最後に悲劇っぽくして「純文学」風な仮面をかぶせたというか。なので、通して聴くと、イマイチ爽快な終結感は得られないです(今、そういう気分)。でも、途中いろんな「エピソード」の数々が魅力的なんですよね。ホルンの咆哮に、オーボエのむせび泣く慕情に、、。 でも、ナマで聴いたらものすごいんでしょうけども。。。腕利きのオケで聞いたら。。 とみていたら、客席に、ドイツのメルケル首相が映ってました。 次はモーツァルトのピアノ協奏曲の20番。オケはややピリオドの手法も入れつつ、結構「ロマンティック」という、結果、「緩急」の差、「表情」の濃さ、が目立つ演奏です。内田光子は常に「攻め」の姿勢、「突き詰める」姿勢、「正しさ」の追求、が徹底しているように思うピアニストで、こちらのメンタルがしんどいときに接するのはツラいので、実は結構今ツラいのですが、オケが案外即物的というか、楽天的なので、曲そのもの美しさ、それに美しいという意味では音もリズムも美しい(「正しい!!」)内田光子のモーツァルトは、stopをしがたくします。内田光子の顔の独特の「行ってシマッタ」表情を見ると、STOPしたくなりますが。これもこちらの気持ちが余裕があれば、その「全体表現」を受け入れることができるのでしょうけども。この曲も、悲劇的に始まり、陰をひきながらも、「ひなた」に出たり入ったりしながら、ひたむきに美しい音楽が続いて、第2楽章では、まさに、夢の中で出会った「春」「陽だまり」といった風情の、多分誰でも知ってるメロディが登場して、、、と変化と美しさに充ちた曲ですね。 このあと、「バラの騎士」も続くのですが、それを見る体力は今無いです(精神的に)。 「表現者!!!」たる、ラトルと内田光子、しかも両者とも、プロとしての技術を最高レベルで見につけ、惜しげもなく、繰り広げる、 そういう「ハレ」のパワーは、とても魅力的で、素晴らしいのですが、日によって、そうしたものについていきづらい、、、、そんな日もあります。。。 でも、モーツァルトのピアノ協奏曲は、多分、交響曲(たとえば1番から41番までとして)よりも「打率」はかなり良い佳曲ぞろいと思います。 ああ、やっぱり内田光子の研ぎ澄まされた音楽は、音だけでよいかもしれません。表情や動作と音楽は見事に一致しているのですが、その相乗効果に、今夜は、受け付けることが難しそうです。
2007.04.25
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ベートーヴェンの交響曲第3番エロイカは、テンションと刺激に満ちた大層な曲です。 ときとして、「うるさい」「やかましい」「大げさ」という印象で、「ああ、ついてけない」という気持ちになるときもあります。決して嫌いな曲ではないのですが、気持ちがついていけないことが多いです。ノリ切れないというか。 今日は、比較的早く帰宅できたこともあり、久々にエロイカを聴きました。 今の心境は、特に怒りも何も無いのですが、そうしたものとは全く異なる、不思議な気持ちのなか、ふと聞きたくなったのです。 なにか、心の中に得体の知れないものが湧き上がってきて押さえがたい、とでもいうようなそんな状態だったのですが、そんなときに聴いたエロイカは、珍しく、ピッタリと心と波長が合いました。そもそも「ながら聴き」ではなく正面で聴くのもちょっと久しぶりかもしれません。 いろいろな楽器が入れ替わり立ち代り、現われては、どんどん、高揚して行き、とどまることを知らない、「過剰」にして、饒舌な音楽、それがエロイカの第一楽章だと思います。そんな音楽が自分の心の波(荒波?)を手荒く燃焼してくれる、そんな感覚でした。 本当、いろいろな場面や響きや旋律が大好きなところいっぱいなのですが、この音楽の独特の「濃さ」には、滅多に「ピッタリ」来ることがないのですが(そもそも「家庭」で聴くためにつくったわけではなく「ホール」で聴くためのものやし)、今日は本当に心の中にしみこんできました。 僕にとっては、音楽がしみこんでくるか、それともどうしても心の周りの数ミリの殻に阻まれてしみこんでこないか、それは、心の鏡であるのですが、「高揚を強いる」音楽を受け入れた今日の自分の心がとても意外でした。
2007.04.24
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マーラーの交響曲4番。初めて耳にしたのは大昔、佐々木昭一郎氏の製作したドラマ(映像作品)「四季・ユートピアノ」ででした。繰り返し繰り返し、この第一楽章が使われていました。ドラマは当時の僕には難解なものでしたが、前衛的という訳ではなく、ただ、ドキュメンタリー風に、説明的なセリフは全くなく、回想と現在を行き来しながら、北海道の寒村から出てきて都会で調律師だったかになるかなろうとするか、そうした流れのドラマをつむいでいく、というものだったように記憶しています。 中学生の頃に見たものなので、ぜひ今、再度見てみたいものですが、音と音楽それに佐々木作品の「顔」とも言うべき中尾幸世さんの演技を超えた表情(今で言えばチャン・イーモウ監督の演技指導に似ているかもしれません。作品そのものは全く異なりますが)が大変印象に残っています。 当時、マーラーの交響曲など聴いたことがなかったのですが、ちょうどその頃、「レコード」市場では、当時のインド人大スター指揮者ズービン・メータがこの曲の新録音を出したところだったので、曲名を眼にすることが多かったのも、記憶に残る一因だったのかもしれませんが、悦びに満ちた音の後ろで、必ずしも明るいとはいえない風景、または今は失われてしまった過去の明るい様子などが描かれていた、「詩的」なドラマというか映像作品だったと思います。 マーラーといえば、長大、重たい、深刻という中で、この曲は一応、明るい・のどか・軽い というイメージが強い曲です。 でも、マーラーの曲に共通してるのは、常に「変化」していくということ。もちろん、モーツァルトでもベートーヴェンでも変化は多彩にしているのですが、マーラーの場合、特に、どこかへ向かって変化していく、というよりは、まるで道端の花をつんだり、遠くの山を眺めたかと思ったら、ふと、カバンの中の宝石箱の石を眺めたり、かと思えば、また、思い立って、雑誌の立ち読みを始めたり、というような風なのです。 それでいて、「交響曲」という、いろんな音楽の形式の中でも、かなり「起承転結」が求められる形式の音楽にこだわった、というのは興味深いことです。 マーラーも、この曲も含めて長いですし、たとえばエロイカが求める緊張と高揚とは、また異なりますが、響きの変化、次々現われる旋律の変化、そして、「感情」の起伏、を楽しみたい、と思うときと、「すっと、ひとりで静かにさせて」と思うときとでは、大分、心の中へのしみこみ方が異なります。(ホンマに静かにしたかったら、音楽を聴かなければよいのですし、実際、そういう日もあります。心が弱ってたら。) その意味では、今日は、なにか、心の中にずっとある不安はかかえたままなのですが、それでも、ちょっと、自分の心の襟を緩められる、というそんな気分のせいか、マーラーのこの曲が与えてくれる、時間の色の変化・移り変わりに寄り添うことができてます。自分という存在がいまだにfeeling smallな状態からは抜け出せないのですが(一生かもしれません)、そんな中でも音楽とよりそって心を遊ばせることができる、本当にありがたいことです。 「そりすべり」なのか「馬車」なのか、冒頭の「鈴の音」から始まって、すぐ、はしゃいだり、懐かしく過ぎた日を思いたっぷりに思い出したりしながらすぎていく、そんな第1楽章、 おどけた死神の踊りなのか、飲みすぎて眠ったときの夢なのか、ざわざわとうごめきながら、途中、ちょっとひとやすみも交えながら、動いて終わる第2楽章、 朝方眼が覚めて、ふと窓の外を見ると、星空に風が吹いて、遠くからちょっと何かの気配が感じられそうななか、昔のことを思い出してるうちに、ふとまた、まどろみ、今は会えなくなった友人や親しい人たちと楽しんだり悲しんだりしながら過ごした日々などが悲喜交々思い出され、夢にとらわれているにもかかわらず、感情が激しく高ぶっては波打ち、夜明けの直前の沈んだ空気の中、また静かに眠りにつく、といった風情の第3楽章、 天国に迷い込んだのか、天国の夢を見ているのか、春の陽射しに満ちた高原に、妙にリアルにあれこれ動きまくる登場人物が、ちょっとした事件まで巻き起こるさまを、薄い透明の幕を通して眺めているのですが、あたかも、夢ではないかのようにそれぞれが立ち現われ、やがてそれらが薄くだんだん消えていく、といった趣きの第4楽章(最終楽章)。 (まあ、この終楽章だけは、僕ら日本人やからともかく、 ドイツ人からすれば、ドイツ語(地元の言葉)で 天国がどうとか言う「歌」が付いてるのだから、 そりゃリアルというか「そのもの過ぎる」というか… …な訳ですが) 音楽も、ウマくいけば、「心の旅」なのかもしれません。 清らかとかそんなんじゃないけど、なんとなく、天上からあちこちの世界や、哀しい時間、楽しい時間、懐かしい時間、興奮している時間など、いろんなところへ連れて行ってくれる、そんな旅に出られるときは、とても、自分としても、ラッキーなことです。(今日聴いたCDは、クーベリックがバイエルン放送交響楽団を振ったもの。大げさな表現は皆無ですが、各楽器のフレーズがきれいで、音も澄んでいて、気持ちよく聴ける演奏だと思います。)
2007.04.20
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BLOGも、極端に放置すると、実際にはBLOGの意味をなさなくなってしまうし、そもそも、リアルの本人の生死すら不明なまま・・・ということになってしまうのが、ネット上の世界の恐ろしさである。このところも、音楽は、それなりに聴いて感動したものもありながら、なかなか、文章にしようという「気」と「体力(精神的な)」が伴わないままだった。。なので、音楽そのものは、「久々」では決して無いのだが、今日聴いてる、カール・ベームがウィーンフィルを振った、亡くなる直前のベートーヴェンの第9 は、聴くのが本当に久々だ。実は、まだCDが3200円が普通だった時代、といってもCDプレイヤーはかなり世間で普及していた時代、経済的事情で、ようやくCDプレイヤーを購入した僕が、残った2000円少しの現金で、衝動的に初めて買った1枚のCDが、このCDだった。この盤は、ベームが亡くなった直後に、豪華装丁LPで、追悼盤として売り出され、例によって、エアチェックしたものをよく聴いたものだったが、そのデザインとともに、大きな「憧れ」盤でもあり、ちょうど、CDプレイヤーを購入した折に、「特別限定価格2500円」と赤字で特筆したCDが眼に入ったのだった。(今なら、むしろ高価な価格設定であるが)演奏は、ベームの晩年らしい演奏、というよりは、ベームの最晩年の来日公演のベートーヴェンの2番&7番に近い演奏といえるかもしれない。どこまでが、ベームの頭の中に鳴っていた音楽なのかは、定かではなく、聴こえて来るのは、ベームのぎこちない、直線的かつ唐突で、斎藤指揮法とはほぼ無関係の、「要点」のみ示すような動きから生まれる、「オケの反応」である。そもそも、今日、なぜこれを聴いているかといえば、昼間、頭の中に、第9 が鳴っていたのではあるが、普通の流れる演奏や、往年のフルトヴェングラーの演奏のような不明瞭な音質の中でアインザッツも乱れながらも音楽が常にどこかへの「引力」に動かされているような演奏ではなく、また、バーンスタインのような、とても美しくかつバランスはとれていて、(バーンスタインの第九は、全集の中でも特によく出来ており、すばらしい)かつ、指揮者の表現意図がフレーズの納め方ひとつひとつについてしっかり音になっている演奏でもなく、近い演奏・・・を思い起こしてみて、この盤を思い出したのであった。フレーズの中で、柔軟に伸び縮みして、感情やドラマを構築する、という演奏と対極の、フレーズ1つ1つの中で、ドラマティックなテンポ変化や伸び縮みを見せない、という意味で(結果的に、ひきずったり、走ったり、はあるのだが)この演奏は、独自の位置にある演奏かもしれない。晩年のクレンペラーに似たところがあるといえば、熱心なクレンペラーファンの抗議を受けるだろうが、この点についてのみ言えば、実際そうである。この盤、注意深く聴くと、そもそも、テンポキープそのものが怪しく、「ベートーヴェンの第九」という曲を知り、理解しようとするのには、かなり不向きである。そもそも、曲全体がもつ、「躍動感」や「ドラマ性」は感じ取りにくいし、旋律の美しさも、フレーズの区切りを確めるように(つながりが切れてるとも言う)演奏しているため、きっと、「長く」感じてしまうだろうとも思う。初めての方はやはり、バーンスタイン盤か、カラヤンあたり(カラヤン盤合唱は下手やけど、まあ第九の合唱やから・・)の方が、曲のオーソドックスな良さがわかると思う。(二人の演奏そのものが標準というわけではなく、クセも各々あるが、 曲を理解するのに妨げになるほどではないように思う。)ちなみに、有名なフルトヴェングラー指揮のバイロイト祝祭盤は、超ドラマティック盤ではあるが、録音が悪く(その分、聞こえるパートが少ないので、ある意味、 意外と聴きやすいとはいえ、)また、乱れ方も随所にあり、ミス部分も「もともとそういう曲」と誤解してしまうことにもなるので、やはり、普通のステレオ録音で慣れてから、その「危うい面白さ」に触れられるとよいだろう。で、ベーム盤に戻るが、音の入りは、「なにか」を探りながらお互いあわせに行ってるし、音の伸ばし(どこまで延ばすか)や納めは、指揮者がいつ、どうするか、予想がつきかねつつ、音を保っている、というような場面もあちこちで見られる。以前、4楽章のみ、オケの手伝いで、ホルンの2番を吹いたことがあるが、その折に、このCDを、スタディ用に1回聴いて、アマチュアオケの奏者がイメージトレーニング用には絶対に聴いてはならないCDと確信したほどである。(ブレスのタイミングや音の立ち上がりが予想つかなくても、 なんとか形にできるのは、それがウィーンフィルだからで、 アマオケでは、ブレスのタイミングが唐突で不連続、というような イメージをGETするのは、自殺行為に等しい・・ので。)しかし、その上で、やはり、この演奏、他には無いものをやはり持っている。晩年のベームの指揮を見たことがある方はご存知のように(最晩年でなくても)先に書いた、フレーズの立ち上がりとか、納めとか、アクセント「のみ」を腕と眼光で押し込むようなその指揮から出てくる音楽の表情の「ゴツゴツした感じ」や、タテの線を、毎回毎回、仕切りなおしてあわすような(実際に合って無くても)「フレーズ」の単位ごとに、場合によっては、1拍1拍を、確かめて「提示しなおす」ような独特の「オケの現場感」が、よく伝わってくる「録音」となっている。いわゆる固い演奏 であり、バラツキが多く、しかも、探る瞬間が多いので、音としては「緊張感を欠く」演奏ともいえるかもしれないが、この音を入れるために、体力も運動能力も衰えてしまった、超高齢の指揮者を前に、ウィーンフィルが、必死で、「形」にしようと、しかも、勝手にではなく、目の前の、不明瞭かつ唐突な動きの棒(と思う)に逐一反応しようと努力した結果の音として聴くと、非常に面白い、ともいえる。あと、フレーズに一旦入ってしまったら、基本的に「インテンポ」を守ろうとして、パート同士が、ものすごく聴きあっている様も、ひしひしと伝わってくる。そのことが、上記と矛盾するようなのだが、ある意味、清潔なフレーズ感というか、「表情付けや感情表現を交えず、きっちりやろう」という結果につながり(・・アンサンブルとしてきっちりできてないのだが)オケのアンサンブル感、フレーズ感を聞き取れる結果となっているのも、逆説的な結果ではあるが、おもしろい。録音もさすがにデジタル録音であるせいか、(ベームは結局、この曲と、チャイコフスキーの5番のみ デジタルで残したようだ)リマスタリングをする必要がないため(してもよいが)割と、「録った時の状況」をそのまま伝えるような音である。ムジークフェラインザールと思えないほど、各直接音が入りまくっていると受け取るか(ホールのトーンも結構入っているが)あのホールの見るからに手狭な舞台の上で聴く音、と受け取るか、これもまた好みの問題であろう。いわゆる「ポピュラー音楽」のような定位・録音ではなく、「響き」としては、きれいにとらえられている録音とは思う。ライブ録音のような音ではないが。それに、最近、流行している、ピリオド演奏とは正反対で、テンポが遅く確かめるようであるとともに、オケが音をたっぷり鳴らしているので、(弦の「筆圧」が高い!! 気がする)よく鳴らした第9として、よく録れた録音のように思う。実際、弦はセクションの音としてよく録れているように思う。きれいである。ちなみに、自分がオケの団員やったら、この指揮で演奏するのはイヤだったろうなあ(ミスしてもよいならよいが)。というわけで、「トンデモ盤」の紹介という意味ではなく、いろんな聴き方によっては、気づかなかった「良さ」が聴き取れることがある、というお話である。
2007.04.08
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