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2007.05.19
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落ち着いた、でもメロディアスな美しさと、寂しさに充ちたシューベルトの遺作のソナタが、第21番(ドイチュ整理番号960番)です。先日「ぴあのピア」でもやっていましたね。 この曲、4楽章からなります。 曲の冒頭から、すぐ第一主題がはじまり、すぐさま心が魅入られます。。。 やさしくつぶやくように、しかしとても美しく始まる第一主題です。シューベルトの常ですが、優しく静かで美しいつぶやきが、繰り返し、主題が戻るたびに徐々に熱を帯びてきて、熱にうかされたかのような情熱をみせるのです。そこへ、クールな肌触りの短調の憂いを帯びた第2主題も絡んで、押しては返す波のように、たかまり、しずまっていきます。 第2楽章は、ひと言、ひと言、昔話を語るがごとく、、、。短調から途中光があたりそうになりながら、また夕暮れていく、そんな感じの楽章です。 第3楽章は、一転、軽妙に駆け抜ける、立ち止まることのない明るさ、これもまた、シューベルトのもつ、もうひとつの顔です。肖像画からは想像しがたいですが、残っているピアノ曲をみても、彼は、運動神経は抜群だったのかもしれません。中間部は、短い、短調でのスパイスといった部分になるでしょうか。 最後の第4楽章は「ザ・グレート」を思わせる、もう初めから「コーダ」です。独特の明るい、やさしい、しかし、スポーティな快活さも湛えた楽章です。シューベルトはもうここでは、旋律の伸び縮むは自由自在であるかのようで、4小節単位とか、ではなく、一続きのフレーズに、細かい起伏や表情を織り込みながら、長大な楽章を綴っていきます。このあたりは、ブルックナーにも通じるものがあるような気がします。 で、このソナタ、たぶん聴き始めは、ポリーニが録音したCDのはずなのですが、ワリとよく演奏される名曲なので、いろんな演奏家で昔からよく聴いてきた大好きな曲です。アラウ、ゼルキン、ブレンデルなどなど、、たぶん。 今までしかし、曲の美しさにいつも気をとられて、「ああ、きれいやなあ、ちょっと寂しさや懐かしさが募るなあ」と思って聴いていたのですが、 で、今日、久々にポリーニのCDを取り出して聴いてみると、以前何度も聞いたCDなのに「え、こんな演奏やったけ?」っていう以外な印象でした。(もちろん、「録音」の音質や音作りもコミのハナシですが) なんというか、音の一つ一つの間に「隙間」感のある「風通しのよい」演奏で、各パート(どの指かなのでしょうが)が、案外、はっきりと対立させて弾いているなあ、、、と。 記憶にある「完璧できれいな演奏」というよりも、「説明的」な印象もあります。特に伴奏音型が割りと粒立ちをハッキリさせていることや音量のバランスが対等な感じで弾いていることもあり「大柄」という感じ、ないしは「大きな(鍵盤の)ピアノを使ってる」というような(?)イメージといえるでしょうか。しかし、実際、実演ではかなり音が大きいんやろうなあ、、、と思ったりもしました。 そのかわり、曲の組み立て、パート間の関係はすごく意識されますし、聞き取りやすいともいえます。 また、高音の音の美しさは印象に残ります。 ポリーニといえば、流暢にして、軽快で、完璧、という先入観で聴いてきたのかもしれません。 混ざりモノが無い純粋な美しさを、硬質に提示、というよりは、より「ライブ」に近いというか、ちょっと「ガンバッテル」姿も垣間見られるような気がする録音です。 曲によらないですが、いろいろ他の演奏を、正面からワリと連続して聴いて、その上で帰ってくると、旅立つ前には気づきもしなかった、新しいカオに気づくこともある、、といったところでしょうか。(SV)
2007.05.11
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昨夜、BSで、フィッシャー(イヴァン)が、ピリオド演奏(エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団)で、このオペラをやっていました。「女はみんなこうしたもの」(女なんて、みんな、こんなもん)という、恐ろしく、問題アリまくり、の題名を持つこのオペラは、まあ、しかし、演出によってどうとでもなるのでしょうが、女性がどうとかいうより、「男女関係」をからかったものともいえるでしょう。シェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」において時として行われる演出のように精神病理的な解釈をほどこしたりすることもなく、(登場人物が「異常」である、という設定は受け付けにくいので)口説いてるほうも、口説かれてるほうも、傍から見てると、本人が真剣なほど、間抜け、、、、でも、人として愛すべき間抜けぶり、、、というユーモアがみてとれるオペラといえるでしょう。とてつもない、変な設定のオペラですが、(変装してスワッピングを試す、、、ようなものなので)ドラマとしては、劇でいえば、「会話劇」とも言えるもので、これを、オペラにする、というセンスと力量は、劇場人モーツァルトならではといえるでしょう。その分、アリアそのものや、重唱の美しさと、それらが次々出てくる、という音楽の構成を、だらだらさせずに、聴き手を巻き込んでいく、という演奏上のセンスと工夫と力量が要求される曲でもあります。ただ、名歌手たちの名唱 の豪華な連続ということで、皆が納得していた時代もあるのかもしれませんが。そんなわけで、モーツァルトのオペラを愛好する方々が特別に絶賛するオペラなわけですが、このオペラは、僕にとっては、かなり、敷居が高かったというか、楽しめるまでに時間のかかったオペラでした。熟達した聴き手であれば、きっとこのオペラのアリアや重唱の数々を聞き比べながら、、、という形ででも愉しむのでしょうが、僕は、このオペラ、序曲から1幕の1場の弾むようなところまで以降、結構、「聴き詰まり」してしまいがちでした。もともとはCDで、有名なベームの誕生日にウィーンフィルと行ったザルツブルクでのライブを入手して、音だけで、入ったのですが、見たこと無いオペラを対訳と首っ引きというのは結構大変で。。。このオペラを「愉しむ」ことができたのは、大分あとになってから、映像とセットで見ることができるようになってからだったのです。(やはり映像(字幕)つきだと、オペラは大分敷居が低くなります。)また、どうも、このオペラについては、僕としては大分「大人」になってから聴く機会がやっとできたものだったので、デフォルトで慣れ親しんだ演奏、というものが無いままですので、「新しい」演奏を聴く耳としては、比較的、どうとでもなる、状態です。で、ピリオド演奏系が、僕としてはピンとくるようです。その正反対のバレンボイムがシュターツカペレ・ベルリンを振った映像は、音楽そのものというより、演出が面白く、映像ドラマとしてまあ、見て楽しめましたが、音楽としては、ピリオド演奏で、フレーズを切れ味よくまとめながら、かつ、きれいに重唱をハモらせていく、というタイプがピッタリくるようです。僕の今の好みとしては。昨日のフィッシャーたちの演奏、とても面白かったです。(といっても、今まだ1幕を聴いてる最中です。。。が)弾力性(リズム感)に富むフレージングと、ピリオド楽器の多彩な音色、フィッシャーの特徴もあるのでしょう、とても活き活きとした演奏です。テンポはかなり速めですが、音ひとつひとつの「形」がすでに表情を持っているので、いわゆる快速で大味というようなタイプの演奏とは対極にある演奏です。最後まで聴いてないので、あんまり「商品紹介」的な意味では申し上げられませんが、歌手たちの声も、きれいにハモる声です。「オペラ バリバリ」のような声ではないのが、とくにモーツァルトのこの作品では、僕としてはとても好ましくおもえます。いわゆる「世話物」であり、しかも、フィガロのような、ある意味ドラマティックな「事件」が積みあがるというオペラでもないので。。。ナンセンスオペラというジャンルがあれば、それに間違いなく入るものでしょう。演出も、舞台装置こそ、いわゆる古典演劇のそれではなく、照明とホリゾントを有効に使った簡潔なものですが、衣装や演技も含めて、時代設定や立場についても、オリジナルを変更するでなく、(だから、ロックミュージシャン崩れや、ドラッグ依存症や、インフォマニアが登場するような演出ではない)音楽および脚本からして、「必然性」を自然に感じられる演出となっていることも、やはりありがたいです。「おやつ」と、「ご飯」は違いますからね。ときには、「おやつ」もよいけれども。。1幕までで、感想を書いていることについてはご容赦ください。聴いていて、とても、心が軽く、うれしくなったので。。。
2007.05.07
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人の一生にはいろいろな面があり、その人にはその人としてのかけがえのなさがあり、また、その人にしかわからないことは多いのですが、ましてや、漫才界随一の師匠格であり、また、国会議員と知事を歴任した方となれば、さらに、その方が実際どのような人なのかは、すべてマスメディア経由の方向付けのある情報しかない、ということも仕方ないのですが、ただ、亡くなると、「良い人」「良い面」「功績」が強調されるのですが、知事としては、たぶん、大阪府の歴代知事の中で最も強力な方だったとはいえ、 (政党や利害関係団体に頼らなくても、 独力で票を集めて当選できるから)しかし、明確に、特定の被害者に対して犯罪を行った方であり、しかも、その被害者は、余りにも、一般の若い方であったわけですから、ここで、あんまり「良い人」扱いという情緒的扱いをおこなう風潮は、その被害者の方にとって、想像を絶する苦痛だろうと思います。そもそもあの事件のことについて、僕の身の回りの人間でも、ワケ知り顔の人間の一部には、結局、新聞報道しか知らないクセに、憶測と悪意をないまぜにして、被害者の方のことを面白おかしくクサすような感覚で差別的発言までするような人間もいました。(そういう人間は、 何によらず「自分より下」を 探して、あるいはつくって生きようとする人間なので、 この件に限らないのですが。「自称エリート」であろうとも。)それは、犯罪を働いても、その犯罪を「たいした犯罪」とはおもってなかった、ノック氏の感覚と全く同じではないか、と思うとき、その被害者の方が、この数年間過ごしてきた辛い時を想像せずにはいられません。(本人のことは全く存じ上げませんが)そこへきての今の扱い、、、、しんどいと思いますが、「人のうわさは75日」ともいいます。これが最後のヤマと、なんとか、被害者の方にはしのいでもらいたいものです。報道にしろ話題にしろ、こういうハナシは、仮にその被害者の方の、性格のよしあし、美貌の有無、などとは何の関係もない、個人の生きる尊厳そのものである、ということは、肝に銘じるべきと思います。どうもこのところ、「被害者の人権」が声高に言われるくせにこんな肝心なところで、「別儀」とされている気がします。また、報道する側も、「死者をムチ打つ」ことは、客のニーズに合わない、というのはわかりますが、芸人としての功罪、国会議員としての功罪、知事としての功罪、そして、性犯罪者としての罪それらをハッキリと分けて、報道すべき(または報道しないべき)と思います。とくに、ノック氏の「知事としての功罪・特徴」を考えることは、地方自治体の知事がどんな立場と条件にあるのか、を考えるにあたっては、かなり、典型的な例であるように思います。これは、首都東京の青島知事(後任が、首相を呼び捨てにできる知事)とかなり違うと思います。大阪などの「地方大都市」の知事は、大都市の知事なので「権限」は大きいけども、巨大な利害関係に対しては弱い「権力」しかない。。。そんな地方大都市の知事の姿(しかもこちらは、 後任が、中央の与党から押されて、 財界にも支えてもらっている中央官僚・・ これも全国でよくある話)の中で、異彩を放った氏の「状況」は、地方自治のあり方を考えることにつながるので。その意味では、ノック氏は、たぶん、もっとも「大阪府知事」らしくない知事だったのではないでしょうか。何をなさったのか、また何をしようとしたのかは、結局よくはわからないですが。利害調整型知事 ではない知事 となる「可能性」は少なくとも、政治的にはあったろうと思います。それは氏個人がどういう人か、というよりも、地方自治がどんな仕組みの力で動かされているのか、を考えるにはよい「極論」になることでしょう。(s.v.)
2007.05.05
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