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もしも、好きな人がいたとして、でも、その人には好きな人がいたとして、二人が共に幸せに、たとえば夜を幸せに過ごしたとして、なおさらに、幸せになったとするならば、その人の幸せを心から、願っているにもかかわらず、どうしてさびしくなるのでせう。なぜにくるしくなるのでせう。だいたいなんにもしらぬのに、どうしてこんなことばかり、あたまにうかんでくるのでせう。われら役者は影法師、皆様がたのお眼がもし、お気に召さずばただ夢を、見たと思ってお許しを。つたない芝居でありますが、夢にすぎないものですが、皆様がたが大目に見、おとがめなくば身のはげみ。妖精パックは正直者。さいわいにして皆様の、おとがめなくば、私も、はげみますゆえ、皆様も、みていてやってくださいまし。それでは、おやすみなさいまし。皆様お手を願います。パックがお礼を申し上げます。
2007.08.24
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メンデルスゾーンの音楽でも有名なこの作品。シェイクスピアの作品の中でも比較的よく上演されるもののようには思いますが、映画となると設定が超自然的すぎて、それほど名作といわれるようなものは知りません。また、ロミオとジュリエットのように、ウエストサイドストーリーなどほかの作品にリメイクされる、、、ということもありません。全く興味の無い人は別とすれば、まあ大まかにメルヘンチックなお話が展開するお話かなあ、、、というくらいの印象なのかもしれません。すくなくとも、僕としては、「面白い」上演は可能かもしれないけど、「感動する」上演はなかなか現代となっては難しい作品なのではないか、、、と思っていました。なにか、別の設定とか加えて別のハナシにするのはナシなら。。というわけで、面白く、活き活きとした舞台をどう、「子供のためのシェイクスピア」の名手の方々が展開してくれるか、を楽しみに観に行ったのが、もう1ヶ月近く前の7月29日。しかし、良い意味で、ショックを受けるほど、すばらしく、また感動し、考えもさせられた舞台でした。そしてスゴいのが、アドリブや演出はもちろん加えながらも、彼ららしく、根幹のセリフやストーリーや設定はそのまま、というか、むしろ「忠実」に上演したうえで、、、というのですから、本当にすばらしいものを見せていただきました。あえて、夏の夜の夢 という作品について、、、なのですが、このお話、魔術というか、妖精の魔術が出てきて、超自然の力で、人が人を好きになる、というなんとも理不尽なお話です。そしてそれが、このオハナシを、メルヘンの出来事、という印象にもさせているのです。とにかく、登場人物は、妖精パックの滴らせた「恋の三色スミレ」の汁(これもキューピッドの矢が月の光に阻まれて落ちたところに咲いていたスミレ)の力によって、全く突然に、狂おしいばかりに恋に落ち、品格も人格もおとしめられんばかりになります。「そんなアホな」、、、なんですが、、、、そして、なんのリアリティもない、古典的な「ほれ薬」のハナシやな、、、って思うところなんですが、、、しかし、上演を実際に見て感じたのは「リアリティ」でした。もう、この上ないほど、、、もちろん、随所に笑いとユーモアがちりばめられ、日本語訳にしながらも、原作のリズム感と、現代の感覚の言葉のリズム感も巧みに織り成し(野田秀樹のように、技巧的耽美的に難解な韻を踏むとかではなく)、シェイクスピア上演として、可能な限り、「シェイクスピア」体験が現在のリアリティの下で、ほぼ「娯楽」として楽しめる、、のは、もう、子供のためのシェイクスピアの皆さんにとっては、定評のあるところです。それはもう「当然」として、、、この400年も前のオハナシが、本当にリアリティをもって、響いてきたのでした。人が人を好きになる、、、って、本当に、こんな「魔術」というか、超自然の偶然というか、とにかく、およそ合理的でも、論理的でも、必然ですらない、、しかも、本人にとっては、時折、制御不能、、、って、ホントに思います。理知的で、論理的で、社会性に富み、倫理的な人間が、恋に落ちてしまい、人知れず、悩み、もだえ苦しむ、、、これはもう病気でなければ、本当に超自然の偶然、、とでもいったものでしょう。「神の意思」や「万能の魔法」でもありません。それほど、第三者にせよ、完成されコントロールされたものでもありません。時として、何の生産性もなく、かといって、のろいの類でもない。。。こんな、甘美にして残酷で、超越的な強力さと儚さ脆さ、そして首尾一貫しつつ支離滅裂、、、そういう、「恋に落ちること」を、これほど、説得力をもって、描いたドラマを僕は知りません。恋がもたらすさまざまな出来事を描いたドラマ(映画・戯曲)は数多くあります。また、「恋に落ちる過程」を描いたものはさらに数あまたあると思います。大変のラブストーリーはこちらかもしれません。しかし、恋に落ちることそのものは、ホントに、そんなに、起承転結、由来、理由がある、、ってことでもないことは、もうよくご存知のこと。。。魔法ではなく、せいぜい魔術、、しかも魔王でも魔女でも神でも悪魔でもない、おっちょこちょいでいたずら好きの妖精が、あわてふためきながら、、、、そして、アテネの名士の子弟・男女が、ただ狂わんばかりに、恋に落ちる。(ついでに、妖精の女王も)なので、場面やセリフごとにみれば、かなり冷酷でヒヤっとするようなものも多く、人間の利己的でワガママで、一方猜疑心と被害者意識も強い、という側面も赤裸々に描きながら、しっかりと、ドラマにしたてていくあたり、シェイクスピア、さすがです。子供のためのシェイクスピアの皆さんは、このどうしようもない真実に満ちた恋のありさまを描いた作品の面白さを、キャラクターの描き分けから、セリフのリズム感とテンポの緩急という、きっとシェイクスピアの原作で楽しめる要素としてあるものをも感じさせてくれつつ、胸に刻み込んでくれました。いわゆる「大団円」と思われているあとの、劇中劇上演までの全編を活き活きとみせてくれました。そして原作の「古典劇」としての面白さを際立たせる工夫として、「パック」がほぼオリジナルのセリフながら、全編を通して、スーパーバイザー的に舞台に立ち現れ、時間と空気をシェイクスピアの世界へ引き寄せる、という「改変」を行うことで、さらに「シェイクスピアらしい」舞台となるととも、魅力的で面白い舞台になっていたことは、彼らの高水準の舞台をもう何度も見て知っている僕としても、やはり、すばらしかったです。メルヘンチックな伝説っぽい「出来事」を描いただけのオハナシにみせて、むしろ、「人のこころ」そのものを「リアルに」描いたシェイクスピア。。。ホンマにヤルなあ、、、、です。すくなくとも、今の僕には、余りにも、心に突き刺さりすぎなほど、感じ入った、そんな舞台でした。それではおやすみなさいまし。皆様お手を願います。パックがお礼を申します。。。
2007.08.24
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2007.08.23
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イタリアに行って思ったのは、英語が書いてなかったら不便(判らない!!)というもっとも切実なことだったのですが、一方で、絵のサイン(ピクトサイン)がかなり多用されていることが特徴的でした。僕にとって便利だったのは、「i」のサイン。これは案内所です。ほか、実にさまざまなサインがあります。(撮影しなかったのが悔やまれますが、 まあ、こんな写真はあちこちにあるでしょう)日本も実はたくさんあるのですが、ここまであちこちで多用していないような気がします。ちなみに、日本では、「バリアフリー」ということがよく言われていて、障害者対応とか、「福祉」とか、人にやさしい、といった「弱者に対する、高徳なイメージ」がありましたが、最近では、それがさらに、「ススんだ」考え方、ということで、「全ての人に、、、」という、ユニバーサルデザイン という方が、「意識が高い!!」というような雰囲気が文化人知識人などにありそうな気がします。そんな例としてよく出るのは、シャンプーとリンスのボトルのギザギザとかで、「障害者に便利なものは、結局、健常者も便利」という美しい考え方です。ただ、技術的&物理的なことですから、そうとも限らないこともあるでしょう。障害者どうしですら、よく言われるのが、点字ブロックが車椅子にはジャマとかいうもんです。で、じゃあ、「ユニバーサルデザイン」って?ということになると、観念的な思想としては、「弱者対策でなく、"みんな"のため!!ってこと」ということなんですが、イマイチ、具体的には判りません。。。例のピクトサインも、日本でよく言われるのは、「文字の読めない、知的障害者へのバリアフリー」というようなもんですが、一般に抽象化された図柄の理解は、かなり高度な知的作業となります。「暗記」よりも。「女便所」のマークを、およそ160~170cmの人体とスカートを想像するよりは、「鍵穴」を想像するほうが、直接的というもんでしょう。で、イタリアなんですが、イタリアでの「ユニバーサルデザイン」は「障害者対策」に限りません。上と、同じこと言ってるではないか??と思われると思いますが、要は、「じゃあ、誰に対してなの?」という答えが、「そりゃ、”みんな”だよ!」というすばらしく"美しい"答えではないように思ったのでした。そう、イタリアでは、というか少なくともEUでは、「外国人」は常時活動するのがアタリマエ(観光都市という面もあるでしょうが)、したがって、「イタリア語をしゃべらない人」「言語理解しあいがたい外国人」に対する、案内というのは、非常にリアルかつプラクティカルな課題であり、それに素直に対応してるんだなあ、、と感心したしだいです。これは「人権対策」といったようなものとは、また違った角度だあな、、、と。でも、良い悪いはべつにして、「ユニバーサル」ということを考えるときに、「ふつう」「ぼくら」という前提に対する、「それ以外」という枠をどう考えるか?ということを問われているような気がします。もちろん美しい理想としては、「みな同じ」でしょうが、身長の高い低いだけでも、使いやすさは変わります。なので、「よくもわるくも、標準とするもの」がまずある、ことは認めざるをえません。たとえば、日本で日本語をしゃべる、目でモノを見る耳で音を聞く足で歩く・・・です。でもそれぞれがしがたいときに (同じ「ひと」でもときによってしがたいときがあります。 たとえば夕暮れ時、混雑時の足元・・見えません)どうするか、という具体的かつ技術的な解決が「ユニバーサルデザイン」なのだと思います。そう考えると、障害者のみ(といっても障害の種類も個性と呼べるほど多様ですが)のことを考えていたら、なかなか、「バリアフリー」との相違は出てこない気がします。トップの写真、、イタリアでよく見かける、「段差注意!!」です。 (マジで、落っことるやんけ!!)日本ではこんなのはありません。床に点状ブロックを敷設するからです。実際、点状ブロックの触感も、眼が見えていても、結構知らぬ間に認知しているなあ、と、ワリと無いことが多いイタリア(無い訳では決して無い)で実感はしましたが、発想として気をつけないといけないのは、日本の点状ブロックのみ を考えていると、どうしても、「眼の見えない人のため」=「階段を踏み外すのは眼の見えない人」という前提を置いてしまいそうになります。そんな知らぬ間の「発想」「前提」を考えるきっかけとして、たとえば、この「痛い」サイン、興味深かったです。このように、「外国語しか解さない人」および「健常者そのもの」に対して、リアルに対応していること、は、ごく微妙ですが、日本との向きあっているものの相違を感じさせてくれたと思います。
2007.08.15
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