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国際ナマ中継!!だというのに、テーマ音楽もなく(ユーロビジョンとかの)、いきなり、フィルハーモニーザールが映って、ラトルが入ってきて、「だったん人の踊り」です。先日、N響をサンティが振ったのを聴いたばかり、あれも、充分によかった気がしたけど、コチラはもう色気が違います。木管も弦も、、、モノを言ってます。もう、スゴすぎ!!!向こうは、大晦日なんですが。まあ、言うたら、通俗名曲の極みみたいな、「だったん人の踊り」ですが、各パートも、スゴく敏感に反応しあって、触発しあってます。とおもえば、全体で、夢見るように歌ったり、、、自在、、、歌、うた、、、、ああ、きれいです。なんとも。ちなみに、このぶっきらぼうな国際生中継の始まり、結構好きです。最近NHK、ユニバーサルデザインかなにかで、必ず、語りを入れるようになりましたが、TV音声的には、オーケストラのフォルテくらいの音量で、アナウンサーがしゃべるのは、かなりウルさい、、、ので。しかし、もう慣れた、、、とはいえ、こんな映像と音質で、ナマが見られるなんて。。。ありがたい時代です。
2007.12.31
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コンドルズ(CONDORS)の京都での公演に金曜夜行って来ました。 (「2008年ツタンカーメン」@京都 三条 アートコンプレックス1928)サラリーマンNEOがきっかけで、あと、職場の友人が熱心なファンだったのがきっかけで、コンドルズのライブにこの夏、試しに行って見たのでした。もともと演劇や落語(大分違いますが)を中心に、バレエやダンスは少々(ナマはホンマに少々)と、舞台でのパフォーマンスはワリと好きなほうなのですすが、そのつながりで、フィギュアスケートに限らず、スポーツを眺めたりすることもあり(「勝ち負け」よりも・・・)、 また、 自分がそのまま「できる」わけではないのですが、 「身体表現、身体を意識したうえでそれにより表現する」 ということには、 楽器や歌をすることとも密接につながっていますし、舞台や、また欧米の映画の一部や舞台などで、それらが明確にトレーニングされて活かされているのを(即席の一部の日本のTVドラマと違って)みたりするのはとてもおもしろく、また「ひとの身体の可能性」みたいなものを感じられて、分不相応ながら、少しでもやってみたい、、と思ったりするほどです。 そもそも、暮らしの中に「踊り」というものが失われてから久しいですし。本当は普段の会話の中でも、身体表現というものはあってしかるべきなんですけども。 そんなところへもってきての「コンドルズ」なのでした。 「サラリーマン体操」での彼らは、内容はパロディ、それも本質に触れつつも本質に深く迫り過ぎないやや「通俗的な理解」あたりのところで、軽く笑いに持っていくセンスと、それを「さりげなく」または逆にあえて「とてもムリがアリアリ」な身体表現でもって、流れるように矢継ぎ早やに表現していくのが面白く楽しみにしています。(音楽も雄弁で「爽やかにしてアグレッシブ」)。 ただ、実際の舞台はどんなものなのか? 正直、「サラリーマン体操」と「こんどうさんちのたいそう」だけでは想像もつきません。 で、百聞は一見に如かず、、ということで、夏、そこそこ大きなホールでの公演に行ってきたのでした。 場所は、あの「夏の夜の夢」を「子供のためのシェイクスピアカンパニー」が上演したIMPホール。 すでに、コンドルズ、公演を重ね、熱心な固定ファンも集め、「応用」ないし「脱構築」の世界に遊ぶ余裕もあったようで、夏の公演は「沈黙の夏」というテーマを設定して、ほとんどセリフや言葉を入れないパフォーマンスの連続でした(さまざまなパフォーマンスの連続、、、というのがコンドルズの舞台の基本ではあるようです。)。 結果、「洗練されていない、マイムを基本にした、ややシュールネタも加えた、創作っぽい舞台の、ウマいもの」みたいな印象も正直ありました。 距離があるため、そもそも、身体表現として「スケール感」は、僕とはつながって実感できず「あっちとこっち」として受け取られましたし。 もちろん、すでに、彼らの舞台を見て親しんでいる人ならば、こうしたちょっとしたギャップ・距離感は、充分に、イメージで補えるものなのでしょうが、初めてで、またいろんなほかのジャンルの舞台を見てきた僕からするとそれらとの比較になるので、この「距離感のある身体表現を核とした舞台」は「共感」できるまでにはいたりませんでした。 (逆に、これまで見てきた舞台から「逆算」して、この距離感がなければ、、、と思いもしましたが。) といっても、すでに安定期に来ているパフォーマンスの集団からすれば、 そもそも、すでに「定番」ではない舞台、都度都度、試み・実験・挑戦を交えていくのは当然のこと。 いつも、落語が枝雀の「子ほめ」、歌舞伎が「忠臣蔵」で、クラシックが「新世界より」で、ジャズが「ワルツフォーデビイ」で、映画が「ローマの休日」、シェイクスピアが「ハムレット」、演劇はニール・サイモン、というワケには行かないのはむしろ当然です。 夏見た折には、多彩で「ごった煮」ながら、とくに身体表現を核にしている、という点からしても、小さい小屋で見るのが一番だろうなあ、、と思ったのでした。これは「落語」ともかなり共通します。座敷などで見るのと、ホールやTVとではまったく違うもんといってもいいくらいに印象も「来かた」も違います。クラシックではオーケストラの迫力もさることながら、「弦楽四重奏」のバリバリに巧い演奏(アルバン・ベルク四重奏団」を聴いたときは鳥肌でした。音量だけならCDを大きくかけたらそんなに変わらないはずなのに、目の前で4人が、今この瞬間瞬間にものすごい音楽を産み出していく、独特の迫力にビビったのでした。 あ、身体のスケールとはちょっと違いますね。 身体のスケールではバレエでもそうでしょうね(バレエは残念ながら遠くからした見たことがないですが)。ちなみにスポーツではサッカーがそうでした。熱心なファンではないですが。 というわけで、京都の小さいところでライブをやる、、というので、楽しみにしてたのですが、このところ余裕が無くて、気づいたらSOLDOUTでした、、と思ったら、平日夜の公演だけ、追加発券があったので、思い切ってとることにしました。 場所は、京都三条のもともと毎日新聞社があった建物。以前は現役だったのですが、もう何年も前に、「講堂」をパフォーマンスをする小屋にして、企画する人たちが意欲的に活動を続けておられます。 ちなみに、「小屋」だけではなんにもならなくて(無いとだめですが)、企画し準備し宣伝しチケットを売って客を集める、、まですることが、不可欠に重要であり、ここのとりくみは敬服に値します。コンドルズに限れば今となってはチケットを売ることはカンタンでしょうが。それ以外も含めて、、、(大阪はこの機能がどのジャンルも衰退している。) やはり、小さいところで間近に見ると、印象はまったく異なりました。 一応「ストレートプレイ(?)」の「寸劇:ケンタとドラエンタのエジプト旅行」は、まあ、舞台全体の中での、インターミッション的に、一昔前の「小劇場ブーム」のころの「学生劇団」のノリのパロディかな、、、と思いながら見てたので、おくとして、、、 身体を完全にコントロールしてる!!!、、という印象がどんな「見せ方」の場面でも感じ取れます。それこそあえて「ヘタウマ」みたいな洗練しすぎない「人間パズル」的なパフォーマンス(人間で、棒つかみ みたいなことをするとか)から、重力を感じさせないほどのパフォーマンス、、、また、間近で見ると指先まで「踊っている」生命力にあふれたパワーのつたわって来る集団ダンスまで、また多分、演劇での身体表現の部分のみを使ったコントっぽいパフォーマンス(結構笑えます。ネタが一部夏とダブってましたが)まで、文字通り、「多彩な側面」を堪能することができました。(「空耳アワー」すら、リアル身体化!!)洗練度が異なるパフォーマンスをみることで、一種の「メイキング」的な面白さも感じることができましたし、 二人一組になって、身体動作を重ねて行くパフォーマンスでは、想像するには「動作の法則」か「キーとなる動作」かなにかを決めていて、あとは、舞台上で、偶発性と法則性を楽しみつつ、「形」にしていってるのかな、、、と思ったりでした。 (コチラから見ていると、動作のパーツは数種類なのに、それらが「ランダム」に繰り返したり、繰り返さなかったりして、それが何とは無しに「ストーリーっぽい方向性」がたちのぼってくるみたいな感じ) 夏に見た折には、かえって、大勢で狭い舞台で苦労してゴチャゴチャしながら踊っている(一人一人の踊りの印象があいまい)と思った、クライマックスでの「全員のダンス」でも、 もっと狭い、京都の舞台では、かえって、一人一人の踊りが、「立って」見え、その上で、全体でのパワーのようなものも湧き出してきて、 「踊る楽しさ!!!!!!よろこびいいいい!!!」が バシバシ、伝わってきました。もちろん、楽しさ・よろこびといっても、アマチュアのそれではなく、プロとしての、、、でもアマチュアと線を引く意味でのプロではない、、そんな「楽しさ」であり「よろこび」でした。 繰り返しになりますが、本当に、指先からまた、動作のはじめから最後までが「ダンス」なのでした。 そして、いわゆる「群舞」のパフォーマンスではなく、基本はやはり「ひとりひとり」の振り付け・ダンスにある、パフォーマンスなんだということも、よくわかりました。ネタ的には、むしろ僕よりまだ上の世代のネタもある感じです。 また、野田秀樹ほどではないけど、引用ネタもそこそこ。。。 世代でいえば、水森亜土なんてファンの中心層を占めている若い女性の方たちは知らないんじゃないか、、とか、バブルネタもそうですし、また、「小劇場風。。。」もどうなんやろう、、、とか思いますが、それもふくめて「やるひとがやりたいこと」をヤル、、ということを基本にしてるようですね。 固定ファンのついたパフォーマンス全般にいえるのかもしれませんが、 反応がやや過剰というか、 ほんのくすぐり程度のしぐさや、もしかしたら笑うようなところではないところまで、「ひとつひとつ全部しっかり笑う!!」みたいな感じが 一部にあったような気がしないでもなく、それはチョット落ち着かなさを感じたのは事実です。 (寸劇でも、主人公が死ぬというハナシが出たとたんに笑いが一部で起こったり、、、(もしかしたら、日本の笑いもティム・バートンの世界にまで行きつつあるのか、、、と思ったり)) これは、どのジャンルでも、その「入り込み方」の違いで、反応や感じ方が異なる、、ということなのかもしれません。 また「笑い」を通じて「演者」とのコミュニケーションを図りたい、、ということもあるのかもしれません。 こんなように、 なかなか、ほかに、類が無い種類の「安定してしまわない」でも高度なパフォーマンスであり、「また、次もみてみたい」と思わせてくれる機会でした。といって「世界最高」を目指すでもない、「バナキュラーさ」加減を保持しているところが、かえって、外国からも受け入れられ、評価される大きな持ち味なのかもしれません。 また、僕としては、使われる音楽と身体表現の絶妙な相乗効果も、とても楽しく観せて(聴かせて)いただきました!! (人形(?!)と近藤良平氏の非常に趣味のよいかつ素朴なアコーディオン(手風琴?)の競演も含めて)。 PS コンドルズそのもの、、というより、 「送り手」と「受け手」の関係、、、ということで、 まったくほかのことも含めて、連想したことなのですが、、、、 演劇ブームのころ、あえて難解で引用に満ちた上演をしまくっていた野田秀樹が当時のファンについてやや否定的なことを言ってたのを思い出しましたが、コンドルズは野田秀樹と比べようもないほど基本姿勢がWELLCOME!!ですからね。というか、排他的で「高尚」な現代芸術の世界のみにとどまることが面白くなくて、いろんな断面を露出させて見せる、、というのがもともと趣旨ですしね。 ただ、コレも少しだけ皮肉に思うのですが、そんな「ありのまま」を演じようと研鑽し、それを愛するファンも集まっているのに、そしてその舞台で目の当たりにする「ありのまま」をこそ価値を感じ取ればよいのでしょうが、意外と、 「実はあのひと、こんなことやってるけど、芸大の教授」とか「実は現代舞踊でも世界級」とか、「絵画の世界では第一人者」とか、、、 紹介文には書かれてることがけっこうあって、 「ブランド志向を排除する資格」としてのブランド、、を、受け手側が案外もとめてしまってるところ、、、は、 これまた、どのジャンルに限らずですが("実は”東大卒、とか京大卒とか、、)、あるような気がします。 これも、「本宮ひろ志作品("実は"コンツェルンの御曹司、、とか)」や「水戸黄門」以来の、本能なんですね。。。。
2007.12.21
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滅多に無いことなのですが、風邪をひいてしまい、この日は一日休みました。前日も調子はよくなかったのですが、前日と次の日は絶対に休めないので、今日のうちになんとかしないと、、、と一日おやすみしました。家でもし元気で、なんにもせずに時間があったら、音楽やら映画やら、、、、とのはずなのですが、しんどいとなにもする気力が湧かず、ただ、横たわって、まどろむ、、といった感じの一日でした。咳と関節痛と皮膚感覚の違和感、、典型的な風邪の症状です。ただ、職場から相談が入って昼間2時間ほどは、臨時でONモードでした。。。。さすがに、「一旦休んで回復モード」になっているところから、ムリヤリ出すパワーは、なかなか大変でしたが、後輩もよくやってくれていて、「逃げない」でとりくんでくれていることがうれしかったです。相談もただ「どうしましょう」ではなく、「私は、コレコレこういう理由で、こう思う」ということを書いていたもので、その姿もうれしかったのでした。 (養成中の新人なので。 優秀で真面目なので、その能力を自らの価値判断と倫理観(善悪も)に根ざして、 自分で自分の仕事の目的を持って、仕事を組み立てていく、、ことができるか、 それとも、便利に使われるか、 それは、今後の彼女自身の「自分の生き方」、、です。)ただ、無論、僕が指示した仕事ですので、相談に乗ることは、そしてまたこの機会に仕事の「視点」を教えることは、とてもよい機会なのですが、、、ただ、この体調で、家で急遽まとめた、要点メモや電話での指示が、ベストのクオリティにあったかどうか、、、ではあります。。。電話の向こうでの緊張したそして少し焦った声を聞くと(かわいそうなことをしました)、余計、そう思います。やはり仕事もひとつのコミュニケーション、、、「空気」を読む、、、ことが親しいなかにも必要ですし、それにも、それなりの、パワーが必要なんだ、、普段、知らぬ間に結構、パワーを投入しているんや、、、と弱ったときは、改めて感じます。症状はどちらかといえば、悪化してるような感じですが、ウイルス感染なんでしょうから、数日は経過をたどらないと仕方ない、、、ですね。。。。明日は絶対抜けられない調整ごとで、、、せめて、ノドだけでも、、です。
2007.12.20
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肝心の歌ですが、どの曲も安定し、それでいながら、それこそ、「今歌いたいように歌って」いるかのようで、ライブ感もいっぱいでした。決して、CDの自己模倣にはなっていません。声は先に書いたとおり、そして、音程もリズムもピシっと決まっていて、聴くものは「安心して、興奮または感動していられる」、、、これはジャンルを超えて、最高級の「サービス」といえるでしょう。そして、ずっと文字通り「舞台をところせまし」と動き回り、踊りまわり、、、、の連続です。本当に連続。 ただただ、自由奔放で一生懸命、、というようにも見えるだけの自在かつ闊達な舞台上の姿なのですが、しかし、おそらくは、身体にせよ声にせよ、おそるべき「プロ」としてのトレーニングを合理的かつ熱心に行ったんだろうなあ、、、とつくづく思いました。「見えないところで、必死の努力をしている」んやろうなあ、、、、と。あと本人の気持ちとして、「今はとにかく、自分の歌を歌って聴いてもらいたい!!」「このライブを成功させたい」という思いが、ストレートに伝わってきます。夢中で自分の「最高水準」を出すため、これまで準備したもの、身に着けたもの全てを、舞台の上で、ほとばしるように、尽きぬ泉のように、次々とあふれ出して、ホール全体へと放射してくるかのようです。CDも先日買って、ひととおり聴いたものの、その後やはり、お気に入りなのは2曲なので、あとそれほど繰り返しは聴かずに本番やったのですが、CDの演奏のコピーではもちろんなく、はるかにライブ感があって、「わざわざ来てよかった」と思えるものばかりでした。歌詞そのものはさすがに聴き取りづらかった場合もありましたが。また、「新曲」もいくつか交えたのですが、なにせ、「今、のぼっている最中」のひとですから、昔のヒット曲に比べ、「新曲」が小粒、、、というようなことはありません。「新しい面白そうな曲がまた聴けた!」という感じです。基本、「BELIEVE」や「三日月」路線を目指すワケではないようですが。最後の最後、CDでも入っているmessageというごく短く曲(レチタティーヴォに近いかな)を、マイク無しで、歌ったのですが、それがまさに「聴かせる」ものになっていたのも、今の彼女の勢いと実力を如実に示していた、、といえるでしょう。エフェクト無し、、、どころか、ほぼ「響かない」、、無響室に近いような大阪城ホールで、マイク無しで歌うことは、「聴こえる」ということについては、案外、静かにしていれば聴こえるのですけども、それが「歌の声」として、しかも「プロの歌の声」として、そして「歌」として聴こえるように歌うことは、ましてや、大音量・大アレンジを2時間続けてきたあとで、それを聞き続けてきた聴衆に聴かせることは、さらにいえば、「2時間の締めくくりとして」歌うことは、並大抵のことではないと思います。ましてや、本人の疲労もあるでしょうし。当日のそのときのコンディションを自分でも計って「ヤレる!」との判断も含めてではあるのでしょうが、いや、本当にたいしたものですし、ナマの声を聴く、、という、絶対にライブに行ってしかありえない体験を「プレゼント」してくれる、、、20歳にして、プロの舞台人として、尊敬にも値する、、と思いましたし、素直に感動しました。 はい、やっぱり、ナマの声聴けたのは、本当にうれしいです!! ただ、コンサート全体の最後で歌った新曲は、歌詞があまりに直接的かつやや幼稚な感があり、いくら才能があっても、曲・詩・そしてもちろん歌唱力、の3つが全て揃うことが「前提」とされるなかでは、やはり、「充電」「学習」が必要な気もしました。とくに個人的な恋愛・友情以外のことを題材にする場合以外は、、、「平和」とか「みんなの幸せ」とか、、、、そんな題材にしたいのなら、、、まあ、その曲はそんな題材やったわけですが・・・そのあたりは、プロのプロデューサーがアドバイスをしてやれよ!!と正直思いました。そりゃ今は人気絶頂だから何出しても売れるでしょうが、、、、将来の基礎を固める時期でもある、、ことを考えると。とまあ、そんなやや「青い」「若い」部分もまじえながらも、全体として、本当に楽しめる舞台であり、とてもすばらしい出来事に立ち会えた、、と思います。そして、若い輝く才能がまさに輝いている「そのとき」を共有できた!!とも。なお、PAもさすが優秀で、たとえば、西の丸庭園の星空コンサートのようなことは当然ありません。克明に聞こえ、また、「時差」によって不明瞭になったりはしません。何気なしに聴いてますが、この大きさの会場で、明瞭に聞こえるという、、ことはそれだけで、ものすごいノウハウ!!だと、本当に感心しました。最後の方で、どんな仕組みかしりませんが、クライマックスの瞬間、「紙ふぶき」状に、アルミリボン(実際には蒸着したプラスティック)が広大なホール一面に打ち上げられ、降って来る、、、という演出もあり、そのリボン、単なる「紙ふぶき」でなくて、ちゃんと、絢香のメッセージが書かれてある、、という凝った演出でした。あくまでも本当に「人間同士」の交流が成立するわけではないのですけども、「人間同士の交流」の場の体験、、、というイメージを仮託して、全体を、「もっと笑顔が咲きますように」というコンサートとしてまとめあげるにあたり、ディテールにもぬかりなく、プロの仕事ぶりに感心しました。ところで、クラシックのコンサートは堅苦しくて、、、というひとが多く、その都度、「そんなことないよ。音楽はどのジャンルも結局"本能"なんやし、そのときどきで、楽しめばそれでいいんで、音楽に高級も低級も無い、、、、、、、」と思ってたし、また言ってたのですが、そして「音楽を楽しむ」という意味では、本当に、僕の中ではさほどの差も無いのですが(興奮も感動も)ただ、すくなくとも、コンサートの形式では、たしかに、大きな相違があるなあ、、、と実感しました。どっちが良いとかではなく、どっちもよい、、ですが。(りんけんバンドでも、最後はホール全体で「カチャーシータイム」ですし、「はにわオールスターズ」なんかもう筆舌に尽くしがたいほどの深い熱狂と興奮と感動がありましたが、でも、全体通して、ある意味、良い意味で「深すぎない」燃焼、良い意味で「お祭り」的な明るいパワーの連続燃焼、、、というのとはまた違ったので。)いまさらながらの、超メジャーコンサート初参加ですが、、、、、また、今、上り続けている真っ最中の輝く才能に立ち会えた一夜でした。
2007.12.18
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絢香のコンサートに行ってきました。横断的に、いろんなジャンルの音楽を聴くし、ライブやコンサートにも行きますが、ただ、超どメジャーなコンサートは初めてです。ゆえに、大阪城ホールも初めてでした。絢香はBELIEVEと三日月が流行った当時から好感は持っていましたが、衝撃を受けたのは昨年の「紅白」でした。ニュース明けの後半冒頭、ノーイントロで、三日月のサビから、歌い始めたその声と、また「入り込んでるパフォーマンスそのもの」に圧倒されました。で、まさに「今」の人だ!!と思ったのでした。「今」がひとつのピークに向かいつつあると。どんなに才能がある人にも、一生に今しかない時期の輝きだと(成熟には成熟の別の形の輝きはありますが)。良い意味で「若い」のです。そして、生命力そのものが迸っている。。クラシック、落語、演劇と、同じことはあります。なので「また、今度、聴きに行こう」と油断してると、運よく「次」があったとしても、成熟したものには触れられても、「そのとき」のパフォーマンスは、二度と戻ってこない、、、そういうもののような気がします。大阪城ホールの外周廊下をまわっていると、ふと夏に行った「コロセウム」をリアルに思い出しました。アリーナ席なので、降りて中に入ると、場内はうっすらスモークがたかれています。演劇とかでもおなじみの「スモークの匂い」とともに、薄く白く曇っています。アリーナの真ん中が、「舞台」で、それを(当然)取り囲んで、アリーナ席とスタジアム席があるのですが、一体、演奏は、どっちにむいて、どうするのやら、、、だから、自分達が一体、ウラに居るのか、ヨコに居るのか、オモテに居るのか、、、??でした。スケール感としては、たとえば、ザ・シンフォニーホールは当然、、、フェスティバルホールやNHKホールとかと比べても、まったく比べ物にならない大きさなワケですが、案外、「法外に」大きい感じがしないのは、すでに、別のモノであることが明白だからで、おおまかにいえば、大きい体育館、、屋根のかかったスタジアムの類、、まさに、コロッセオです。(とまあ、こんな、大阪城ホールの感想を、今頃嬉々として書いているヤツも珍しいでしょうが)なので、3階席ならかなり遠いはずなのですが、それほど気にもなりません。印象としては、むしろ、たとえば、「みなとみらいホール」や「兵庫芸術劇場大ホールの3階席」とかの方がよほど、「威圧的に大きい」気がしました。真ん中の舞台にはバックバンドの楽器が据えてあります。席には赤い紙バッグが置いてあって、中に白い画用紙が二つ折りで入っていて、「今日は、絢香の20歳の誕生日です。本人には内緒でお祝いするため、アンコールの時にバンドがハッピーバースデイを演奏しはじめたら、人文字にするので、この画用紙を掲げてください」とのこと。ん、、、、舞台はそれほど高い位置に無いけど、人文字にするんやったら、絢香は、舞台終盤で、宙吊りにでもなるのか、、、とマジに思ったりしつつも、らしい企画やなあ、、、と。。。照明が変わって、バイオリンと男性ボーカルがかけあいをしはじめます。落語で言えば「出囃子」です。ひとしきりおわったあと、大きな拍手!!!!そう、絢香の登場です!!なのですが、幾何学的な位置関係で、ちょうど、バイオリン奏者の陰になって全く見えなかったので、初めなにがおこったのかわかりませんでした。照明が落ちて、絢香だけにスポットがあたり、ちょうど僕からは「日食」の状態でした。もちろん「月」がバイオリン奏者です。初めの曲が「三日月」だったらもっとシャレ、、なのですが、BELIEVEでした。今日、ずっと、このままバイオリン奏者の陰から聞こえる声だけ聴くのか、、、と少々心配になりましたが、当然、下の舞台まで降りてきたあと、あとは、2時間の間、ほぼ歌い続けで、かつ、動き(踊り)続け、、、という状態でしたので、当然ながら、杞憂におわりました。本当に、生来のものプラス、トレーニングが行き届いているのでしょう。歌い続けてもまったく声がそのまま前へ出続けます。まだ、CD1枚分しか出していないので、そんなに大量に曲があるわけではないのですが、各々、多分、それなりにアレンジを拡大したり、またカバー曲を入れ、さらに、MCであちこちちょっと前のディスクジョッキー的なノリでつないで(といってもこの場合、本人が声を出してつないでるわけで、やはり驚異的ですが)いく、という形でした。でも、MCはそんなにずっと長いとか多いとかでもなく、全体を通しても、たくさん歌ったなあ、、、という感じはあります。本当に声が魅力的でツヤもあり曲調にピッタリ沿った歌い方が天性のもののようにできる人のようです。「BELIEVE」や「三日月」が好きなのですが、本人は、どうも、もうちょっとハードなまたは「ソウルフル」な感じの曲が実は好みのようで、カバーの選曲も含めて、バラードっぽい曲は比較的少なく、また歌い方も、パンチを効かせたような歌い方を好まれるようです。ちょっと、このあたり、吉田美和とやはり通じる志向を感じました。ただ、「巧い」というだけでは、「巧い」歌手などたくさん居ますし、ましてや、アメリカとかに行ってしまえば(吉田美和の場合)、さらにツラい立場であることは想像に難くないですけども、絢香の場合、すくなくとも、よく書けた曲については、「巧さ」がギラつかず、曲の持ち味や起伏とひきたてあっていて、良い感じです。ただ、よほどのトラブルが無い限り、しばらくは、この「巧さ」は保たれるでしょうが、やはり、魅力は、合った曲 との相乗効果なんだとも思いました。このあたりが自分で曲も詩も、という人は大変だろうとも思います。※と思ってたら、misiaも育て、絢香も育てた、西尾芳彦氏が大分曲を書いているんですね。I believe と 三日月 は絢香との共作、これもクレジットは絢香があとになっている、、、自作にこだわりすぎない、、、のは極端に才能ある歌手の場合、大事ですね。ただ、この2曲は特にやっぱり良いとおもうので、絢香自信の作曲の才能ももしもっとひらけるのなら、自分らしいもの、、を出してもらえたら、、、とも思います。また、他の作曲家の歌を歌うのなら、より幅広いコンポーザーからの提供を受けて、自分のイメージをまた依頼していけるレベルにまで育ってほしいです。全てに「これから」の無限の可能性(方向の選択やリスクも含めてですが)がある「才能」ですね。こうしたコンサートははじめてだったのですが(「りんけんバンド」とか「ネーネーズ」とか「中島みゆき」とか「はにわオールスターズ」とか、また昔の「マウントフジジャズフェスティバル」とか、クラシック以外も行きますが、こんなメジャーなのは)、スタンディング状態には、2曲目からいきなり、、でした。どうも、別に今回、狂熱的にもりあがった、、、とかでなく、そういうもんらしいです。「スタンディンブオベイション」という意味ではないのですね。みんなでノろう、、とそういうことみたいです。あと、案外、アーティスト自身から、「手をたたいて」「手を上げて行こう」「ジャンプ」とかリズムの指示とか、いろいろ言うんですね。微妙に「指示されて、全員が従う、、」というのは、ややニガテではあります。「甲子園」に長いこと行ってない理由のひとつでもあります(コチラは最大の理由は大学以降、阪神という球団に興味が持ちにくくなったせい、、ですが)。でもまあ、ここは郷に入れば郷に従え、、、楽しみに来たんやからここの流儀に乗って楽しまないと、、、です。結局、コンサートのほとんどの時間、手を叩いていたことになります。「踊る」とまではいわないまでも、身体を動かしたりしながら、手も叩いて、、で、なんというか、集団催眠に入りやすい、または、自分自身が熱中・集中しやすい、、という効果はありました。仕事帰りにかけつけてじっと座って聴いていたら、眠くなったり、逆に、仕事のことが浮かんできたり、、、、、というのとは対照的です。また、途中、コーラス部分を客席にゆだねてみたり、ごくカンタンなフレーズを客席で3声(というほどでもないけど)でハモってみたり、、と、「場内一丸」「客席参加」もあって、なかなか工夫されたステージでした(それほど企画内容そのものが驚くべきことではないですが)。しかし、1万人以上の聴衆を前に基本一人でそれだけのことを進行しているわけです。プロダクション全体での企画力とサポートあって、、にはもちろん違いないわけすけど、それでも、20歳で一人でコレを仕切ってしまっている彼女は、今やはり、本当に勢いよく「上っている」そのまっただなかに居るんやなあ、、と本当に感心しました。また「照明」も、よくDVDなりテレビでも見るものではあるのですが、ナマで、ホリゾントや背景またはプロセニアムの全く無いところでの、演出効果抜群の舞台、、というものは観たことがないので、とても面白かったです。バックライト(反照)は、ホリゾントがあるときでももちろんよく使う手法ですが、高い屋根(天井)からも何通りにも回転するサーチライトが数色あり、ほか前後左右からもそうしたものがあり、音楽のリズムなりフレーズに合わせて、演出が細かく施されて、多彩かつ効果的なことこのうえなし、、です。また、スモークを常時たちこめさせることで、「光線」を「舞台」や舞台の周りの空間を生成させるのにつかっているのも、とても効果的でした。もちろん、自在な「スポットライト」は、自在であることを忘れてしまうほど自然につけています。大阪城ホールという大空間の中に、「舞台空間」をスケール感を含めて現出させ、そこでさらに、常に「焦点」と、背景を光によってつくりだす、、、これは確かにノウハウだ、、と思いました。(つづく)
2007.12.18
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ずっと、霧が覆っていたのですが、少し、自分で自分の周りを覆っていた霧が少し晴れたような気がします。去年から、、、、その人のことを育て思う気持ちが本当に無私の気持ちからあって、独占や占有や、そうしたことから離れた純粋な、後ろめたさの無い「愛情」に基づいて、自分自身を明確にコントロールしながら、厳しくも信頼に満ちた関係を築いて来たはずだったのに、周囲の「その人への同情」を装った、僕に対する誹謗や中傷なんかによる風評被害から、いつしか、相手を育てたことが崩され、相手が遠ざかり、裏切られる恐れや不安に苛まれ、相手の関心や確かな好意の確証(男女のという意味ではなく)を得たい、、、、というような、本来のプロとしての厳しさをもった育成・指導からは、矛盾した気持ちの矛盾にのたうちまわっていたような気がします。ちょうど、親が「子供に好かれよう」として、躾をおろそかにしがちになるように、、、でも、そうした心の動きや態度は、結局、その人を、きっと混乱させ、困らせ、やがては、不審へとすらつながりかねない、、、ことである、、、と、、、それが、現実のことになりかねない、、、そうしたら、これまでの、本当の、後ろめたさのない真実までもが、曇って、壊れてしまう、、、、さあ、どっちをとるのか、、、自分の存在の不安から来る、「今の関心&歓心」をとろうとするのか、それとも、これまで行ってきた、その人への精神を伝え、トレーニングや教育を施してきたそのことをとろうとするのか、、、どっちか、、、答えは、僕の中では、はっきりしてきました。後者をこそ、大事に思っているし、後者によってこそ、自分の誠意を通じて、その人との関係を築いてきたのだ、、ということも。これらは、言葉にすれば、「愛情」ですし、また、人間としての「信頼関係」を築きたい、、人間としての「信頼関係」に基づいてこその「教育」である、、のですが、それならば、、、信頼するのであれば、風評などによって、その人が変心することを恐れる、、、怯える、、、、そうしたことを思って、その人と接してはいけないし、接するべきではないのでしょう。自分が何を大事にするのか、そして、相手に、どのような気持ちで過ごしてほしいのか、とりくんでほしいのか、どうも、相手のことを思う気持ちが深く大きいことについては、否定する気はありませんが、それを覆うくらいに、、、自分のこと、自分の思い、、、に、僕自身が足元を脅かされ、掬われかけていたのかもしれません。本当の意味で、その人のため、、その人自身がよかれとなること、、、そして、その人のことを、心から信頼すること、、、、(その人の、こころの動きも、、、揺れも含めて、、、)それが今僕に必要なことのような気がします。僕があれこれ、本来とはちがう「もうひとつ」の要因で悩んで、怯えて、、、そのことで、その人が、不安になったり、困ったり、混乱したりさせることは、決して、僕は望んでいないことなのですから。そして、そうなる蓋然性が高いことを、やる、、、ことは、まさに、愚の骨頂でもあり、また、逆効果であり、本意ではないことなのですから。。。。この際大事なのは、「周り」にどう思われるか、、、どう言われてるか、、、、への不安を「その人との関係」や「その人の反応」のアピールによって、解消しよう、、とするべきでない、、ということです。悪意のある、または妬みのある「周り」は、そもそも、実際のことは知らず、また理解しようともしないわけですから。。。
2007.12.15
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朝ドラ、、膨大な台本量を猛スピードでこなすためか、アタリハズレが多く、一般に人気が出るのは、どちらかといえば、人格や心情はさておき、「筋書き」と「ヒロインの特徴」でむりやりすすめる式のものだったりしますが、、、(大阪局でも、てるてる家族、芋たこなんきん、、は秀逸でした。東京なら「ファイト!」が別格、、でしたね。どれも、NHKの広告のポイントがズレていて、人気は上がらなかったかもしれませんが。)今回の「ちりとてちん」、、江戸とちがって、非常に地位の低い上方落語(質が低いという意味では全くありません!!!)ですが、落語の修行という、とても珍しい題材をとりあげてくれていて、期待半分、懸念半分ながら、みているのですが、、、落語そのものの面白さは、きっとほとんど、落語を見たこと無い人からすれば、伝わらないかなあ、、、とは思います 。残念ながら。(落語はそもそも「おもしろいはなし・ストーリーやオチ」そのものよりも、描写そのもの、キャラクターや心情のおかしさ・滑稽さ、、がとても面白いのですが、それは「ドラマ」の中ではムリで、「有名落語のストーリー紹介」がむしろ逆効果かと、、、)でも、まず落語好きからするとツマラナイかといえばそうでもなく、特に、桂吉弥が唯一ホンモノの落語家では出演しているので(俳優としての演技も絶品!)、ほんのちょっとの「稽古」のシーンや、下座(ソデの三味線、笛、太鼓、鉦、、)でのホンの三味線の数音が、急にリアルな「ホンモノ」で、それが、他の出演者(俳優)の大健闘(皮肉じゃなく)の中で、絶妙な「色」を見せてくれるのが、普段聞きなれ、見慣れて親しんでるもののスゴさを改めて感じさせてくれます。とはいえ、このドラマ、実は、ものすごく見ごたえがある、、と思うようになりました。初めの頃の「設定」段階ではいろいろ苦労した感もありましたが、家族が家族を想う気持ち、先輩や後輩、弟子や師匠、友達、そして、恋焦がれる気持ち、いろんな気持ちややりとりが、やさしく、厳しく、ときには切なく、描かれています。そして、そのときそのとき、自分を振り返る、、、また、落語そのものの楽しさ、、、を伝えるのは難しいものの、「プロの仕事」「生きること」へ真剣に向き合うこと、その厳しさが、ユーモラスななかにもリアルに描かれていて、とくにこのところ、落語修行とプライベートそして、若い者とベテラン、愛情に溢れた厳しさ、どうしようもない気持ちが、細やかに各登場人物をおろそかにせず、案外きめこまかく描いていて、朝ドラのくせに(見るのは週末まとめての場合が多いですが)胸にグっとくることが多いです。見ていると、自分自身の個人的な思いのこと、また、仕事のこと、そして、仕事で指導している後輩(弟子)のこと、、、それに、人を思いやる気持ちとそのあらわし方のこと、、、意外なほど重なることだらけ、、です。このなかのどの登場人物にも、少しずつ、自分が居るような、、、。語り手は、上沼恵美子が、主人公の「今」から振り返る形ですすめています。もちろん達者ですが、最終的に、成熟した落語家になる、、わけですから、何故本物の優秀な女性の落語家が居るのに、、、と、はじめ正直疑問に思っていたのですが、このドラマ、やはり、落語を題材にはしていますが、あくまでも、人間ドラマ、、微妙な気持ちの揺れをあらわすのに、上沼さんの天才的な語りはすばらしく、他に替え難い、、と思うようになりました。今週は、主人公が自分のどうしようも無い思いをつのらせて、自己嫌悪に陥るようなことばかりしてしまい、、、叱られ、、そして、先輩や師匠にアドバイスと愛情を受けて、「自分と向き合い、そして、相手と向き合う」、また彼女を見守る先輩も、全力であたり自分自身も成長する。落語だけでなく、「人から人へ伝えてきたもの、、、そして、人へ伝えていくもの。 その流れに自分も居る」それは、こころでも、、僕の仕事でも、、生き方や思いでも、、、
2007.12.15
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亀田親子ではなく、サイモンとガーファンクルです。本来、S&G世代ではないのですが、高校の頃、「再結成」して歴史的なセントラルパークコンサートを皮切りに、大阪球場にもやってきたので(僕は行ってませんが、クラスで行ったヤツが居て結構大騒ぎ)、隔世ブーマーです。完璧に「高校2年」を思い出す、、という、関東ローム層というか、RIというか、そういう、「時代マーカー」な存在でもあります。サイモンとガーファンクルの曲と歌詞(曲としてはポール・サイモンの曲と歌詞)は、几帳面なまでに韻を踏んで、しかも、結構、理屈っぽく描写が進むクセに、意味はかなり象徴的で、いろんな意味にもとれる(意味がわかりにくい場合も)陰影に富むものが多いように思います。「ボクサー」という題名、曲を聴いたことなかったら、アリスの「チャンピオン」かロッキーのテーマみたいなものを想像するでしょうから、くじけ、ふりかえり、なぐさめるようなこの曲に触れることはひとつの「おどろき」だと思います。すくなくとも初めて聴いたときの僕はそうでした。優しい、しみじみとした、それでいて、親しみやすい旋律の曲ですが、この歌詞は、感傷的で屈折した青年像を描いたイメージ、、、くらいに思っていました。今日、久々に「A Bridge over troubled water」を聴きたくなって、アルバム(といってもカセットテープ(これも久々))をとりだしたら、A面の最後がこの曲で、何度も何度も聞きなれている曲なのに、なぜか、シンクロしました。歌詞に。まあ英語はあんまり得意じゃないですが。そもそもが、この曲の「主人公」は、人との距離を感じていて、もう期待もさほどにはしていない、孤独なようです。Still, a man hears what he wants to hear and disregards the restぶちのめされて、泣き叫ぶまで切り裂かれて、でも、、、"I am leaving, I am leaving."But the fighter still remains「ボクサー」という語は、この最後の節で初めて出てきますが、これは、比喩ともとれます。(どっちともとれる)ただ、比喩ととると、余りに直接的な比喩な気もしますが(実際今までそう思っていた)僕の今は、しかし、そんなことより、この叫びというよりは、ほとんどすすり泣き、つぶやくような、"I am leaving, I am leaving."でも、But the fighter still remains・・・・なんか、自分をつい重ね合わせてしまいました。http://jp.youtube.com/watch?v=tywEnVjPUUQ(大分、歳を召されてからのライブ。 元の特徴のフレーズを続けて、言葉を立て続けにハメこむ快感はありません。 でも、声は経年を考えれば、驚くほど若いです。 ちなみに、間奏に「テルミン」が用いられてて、びっくりです。 どうも、電子ドラムも、テルミン? また、歌詞は、LPには無かった節が一節あります。 きっと収録時間の関係でLPでは省略されていたのでしょう。 セントラルパークライブではありますので。)
2007.12.12
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チェ・ゲバラといえば、カストロを精悍にしてヒゲ面にした、ゲリラ活動の戦士、、みたいなイメージがビジュアル的にはあって、http://www.classicajapan.com/wn/archives/000387.html歴史的には、キューバ革命(もともとは「共産主義革命」ではなかった)をカストロと共に成功させたあと、独裁とアメリカの傀儡政権の支配にくわえ国家同士の軍事対立もつづく南アメリカを、北アメリカと同じく民主化して統一国家にしようとしている最中、CIAによって殺された「闘志」というような感じでしょうか(時代は違いますが、シモン・ボリバールと少し重なりますか。。。でもカストロとシンクロするヒゲ面が、、、http://www.classicajapan.com/wn/archives/000387.htmlもういい、、、って。。この映画、モーターサイクルダイアリーズ、、、公開前に予告編を見て、絶対行きたい映画やったのですが、例によって、行けなかったのでした。梅田のガーデンシネマの開館10周年ということでの記念上映シリーズです。(旧プリントなので、画質にこだわる方はもしかしたら、、、なのかもしれませんが、 映画館で見る映画はやはり音も画も格別です。あと見る側の「態勢」も)その後、DVDでも出て(たぶん)、BSとかでも放送された(たぶん)とは思うのですが、見そびれてました。映画は基本、映画館で見たい派、、、ですが、TVで見たくない、とまで強固に思ってたわけでもなく、まあ「縁」がなかったわけです。しかし、公開、去年くらい、、と思ってたのですが、もう3年も前、2004年なんですね。昨日映画見終わったあと、映画館前のクリスマスツリーの写メールに合わせて、「"去年"見そびれた」のを見たよ!と、プライベートメールには基本返事はくれない前提になっている職場の入社3年目の子に送ったのですが、ようかんがえたら、2004年にはまだその子は学生、、、でした。。。閑話休題、、"チェ"ゲバラが、アルゼンチンの人であったこと。比較的裕福な家庭に育ち、医学生であったこと、、、は知りませんでした。ましてや、喘息の発作に常に悩まされていただなんて。。。。一般的に、周恩来とかホーチミンやガンジーでもそうですが、「高等教育」を受ける機会のある者が指導者になるわけで、戦前の場合など多くは「宗主国への留学生」なくらいですし、キューバ革命の立役者扱いではあるものの、その後、南米解放(といってよいでしょう、当時の状況を考えたら)にとりくんで殺されたことをかんがえても、意外でもなんでもないのですが。。。この映画、声高なメッセージはありません。ゲバラ(エルネスト)とその友人アルベルト(この年代での6つ歳上は本来大きいハズ!)の2人が、本当に、好奇心と冒険心から、「国境を越えて」、「南米」をこの眼で見て周りたい!!その思いを実行!!!するハナシです。狂おしくもどかしいような、恋人との再会と現実的な別れをずっと心の内にひきずりながら、ひとっとびの目的地への移動ではなく、自分達のバイクでアシでヒッチハイクで筏で、、、草原、高山、砂漠、鉱山、河、街、町、、、、とたどって、アルゼンチンからチリ、ペルーをたどっていきます。僕らは、チリのバルパライソ(ガルシアマルケスが軍政時代に潜入したドキュメンタリー映画と同じケーブルカーも出てきてハッとさせられます)にせよ、チュキカマタ銅山にせよ、アマゾンにせよ、ペルーのクスコやマチュピチュにせよ、スポットか「事項」としては知っているものの、「たどる」ことなんてそうそう体験していないわけですが、この映画、大胆に旅程の描写を省略しながらも(1000キロ単位で)、アルゼンチンから国境を越えて、チリ、そしてペルーへ、、また、都市部から高地へ、、、そのつながりと関係もよく実感させてくれます。元々先住民の土地だったところをアメリカ系企業が"買い取り"、また小作も追い出し、居場所を高地へとおいやる。またあぶれて低賃金労働力化した者たちを家畜のように集めて、銅山経営を行う。僕らが地理で「特産品」とか言って習った「事項」も、実際には、どんなひとがどんな状況で生み出していたのか、その一端を実感しました。もちろん彼らを過酷に扱う白人労働者も個人としては必死で生活のため働いてるワケで、、、ものすごい貧乏旅行ではあるけれども、とにもかくにも、「旅」をしている二人が、銅山へ向かう砂漠で、先住民の夫婦と出会う場面は、ついゲバラ本人の「そのときの気持ち」と重なってしまうようなリアルな息遣いにあふれた描写でした。夫婦は自分の土地を追われ、また反対運動をしたため共産主義者として正規労働につけず定住もできず、過酷な銅山労働に従事しようと「旅」をしているのですがその夫婦に、「あなたたちは、何故、旅をしているの? (どんなやむをえない事情があるの?)」と問われ、この命をかけてやむをえず、「追われて、旅をしている」夫婦に対して、「冒険心」から「旅」をしている医学生と生化学生の健康な若者二人は、本当に悲痛なもどかしい、自らの恵まれた立場を思いやりつつ、「旅をするために、、、です」と答えるシーン。。それに対して、夫婦がやさしく「そう、、旅が無事であることを祈ってるわ」という、この言葉少なな場面は、全体の中でも大きな心の動きがつたわってくる場面でした。(翌朝、その夫婦とともに銅山に行き、夫は、家畜のセリのように、選ばれて、トラックに載せされて、鉱山労働へと向かうのでした。)また、ゲバラとその友人、それぞれのキャラクターの違いと、あいおぎない、ブツかりながらも尊重しあう関係も、見ていてとても、共感できるものでした。映画の(原作の?)性格上、とくにゲバラの方のキャラが立ちますが、実際には、同等、そして当時大きく年長だった、友人アルベルトは「頼れる存在」だったはずですし、実際、現実的な対処は彼によるところが大きかったのでしょう。でも、二人はただ「夢見る若者」というのみでもなく、アルベルトはカラカスの病院への採用が決まりそこでのわかれで一応この映画のストーリーは終わります。映画では、二人のその後(8年後再会しアルベルトはキューバの医大を創設したとのこと)が簡単に紹介されて、現在のアルベルト(本人)が以前ゲバラと別れた空港をふたたび無言でみやっている、、というシーンでしめくくり、あとは、南米の音楽に載せて、本人2人の旅の写真をいくつかバックにしながら、全編がしめくくられます。いろんな場面で出てくる音楽も面白く、また、南米諸国、言葉は基本的には同じスペイン語なので(ブラジルには行ってないので)、先住民を除いて、国境を感じずにコミュニケーションがとれるものの、やはり、ちょっとした表現や、たとえば、ダンスの仕方ひとつとっても(アルゼンチンはタンゴ、ペルーはマンボ)ちょっとくいちがったり、、と、共通点と食い違いの両方が描かれています。それにしても、当時の南米において、アルゼンチンは「西洋化」された「先進国」の位置づけが強かったのですね。ブエノスアイレスのテアトロコロン(コロン劇場)が、ヨーロッパの指揮者にとっても、重要な桧舞台の一つであったことをも、納得しつつ思い出しました(今、、、)。ナイーブな若い医学生だった彼が見た眼を通して、「南アメリカ」が「スポット」ではなく、つながって見えてきます。
2007.12.08
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久々に、連続して、CD聴取。部屋は外気温と同じ温度で寒いのですが、今朝届いた、デスクヒーター(屏風状)を机の下に仕込んで、コタツかけをかけると、簡易なコタツです。というか、これって、昔、ばあちゃんが、店番に使ってた、アンカ入れた箱にヒザ突っ込むのとおんなじですね。何週間か前に届いてたのに、全然聴く間がなかった、、というか、聴く気がおきなかった(・・・じゃあ、何故買ってん、、、というツッコミはおいといて)チャイコフスキーの交響曲全6曲入りから、6番「悲愴」そもそも、全集を買ったのは、チャイコフスキーの交響曲としては、ドマイナーな(短調という意味じゃなく)1から3番を、愉しく聴きたいから、、、でした。選んだのは、アンタール・ドラティがロンドン交響楽団を指揮したものです。ステレオ録音ながら、録音は恐ろしく古く、1958年から65年です。でも、最新録音と同様とはいかないまでも、聴いていて古さを感じさせはしません。悲愴は、他にも当然ながら、CDはいくつか持っていて、なかでも、バーンスタインが晩年に録音したものなど、やりたい放題の、彼らしい「理屈っぽく分析しつつ、耽溺する」異形の悲愴でした。で、このところ、悲愴をそもそも、聴きたい気分にならず、また、全集を買った主目的でもなかったこともあり、届いたときに、1から3番を1週間くらいかけて、チビチビ聞いたまま手出ししそびれてたものです。まあ、このところ、CDそのものを聴いてませんでしたが。で、ひさびさに聴きながら、この日記を書き始めたのですが、分析的に解説する気分ではなく、ただ、音楽におぼれたい、、そんな感じの気分で聴き始めました。(酒がのめたら、ぐでんぐでんによっぱらいたいところなのですが、、、 その遺伝子がそなわってないので、、、、)ただまあ、ドラティの演奏、「おぼれさせてくれる」というよりは、かなり、プロフェッショナルな「良い仕事」を感じさせる演奏です。きっちり楽譜を意識してる、、、ことがよく伝わる演奏です。 (楽譜どおりとか、楽譜をなぞってる、、、にあらず)意外と演奏って、偶発的にテンポが決まってたり、勝手にオケが急いだのでは、、、??というものにでくわすこともあるのですが、この演奏、指揮者がテンポを意識的に設定して、変化つけているところ、はっきりと表れていますし、各小節の小節線、そして、小節の中の拍の割付け具合、、、などが見えるよう、、、きめ細かく、丁寧に演奏しているな、、と思います。といって、おそるおそるとかではなく、キッパリと方向性が決まって音を出している感じ。また、全てのフレーズ感が、はっきりしていて、各々のフレーズが、どこの音に向かって設定されているか、そのフレーズのアタマの音の段階で、ちゃんとわかって音が紡がれていきます。自然だけど、偶発的じゃない、、、そんな演奏。古い録音ながら、昔の「ハイファイ」録音、、、金管楽器が、これでもか、とばかりに、出てきます。イギリスのオケですから、もともと、トランペットやトロンボーンなどの直管系は、キッパリと音が出ますし、ホルンも、ベルを高く持ち上げて吹いているのが見えるような、「金管的」な音です。このドラティという、アーティキュレーションのハッキリとした指揮者とイギリスのオケ、特徴をお互いによく活かしあってます。ああ、ちょっと油断すると、気持ちがまた音楽の外にもどってきてしまいます。今ごろ、何をしてるのかなあ、、、とか。この精神状態で、4楽章を聴くのは危険な気がします。今、2楽章。複合拍子の変則的な「ワルツ」(?)優美で歌謡性に富んだ楽章ですが、ドライで、早めのテンポで演奏すると、かえって、急き立てられるかのような切迫感と脅迫感にもにたある種の「怖さ」すら感じます。この楽章で、こんな気分になるのは初めてです。。。片時もどこかで落ち着くことが無い、決して、テンポが「走ってる」わけではなく、ほぼインテンポなのに、心の隙間をキリでひっかかれるようななんともいえない、第2楽章でした。2楽章を通常ゆったり演奏する指揮者が多いのは続く、第3楽章が劇場的な行進曲だから、、、対比つけたいので。。。でしょう。第3楽章については、この演奏は、特にテンポ面では聴きなれた程度のものです。最後と最後から2番目の主題回帰で思いっきりテンポを落とすのだけが、当時の「慣習」を感じさせます(今でもヤル人結構いますが)。ただ、全体にインテンポな演奏な分、このテンポ変化は目立つかも、、、です。最後はややテンポを上げて追い込みます。ホルンが低音から高音に受け渡していく、ダイナミックスの変化も楽譜どおりな感じで、ピアニッシモのうちから、ほえたりしません。録音のせいもあるのでしょうが、チャイコフスキー特有の高音から低音まで弦が順番に、細かいリズムを受け渡していく、その様子が手にとるようにわかり、あいまいな音型がありません。フォーカスのシャープな演奏といえるでしょう。さあ、第4楽章です。夢中になって「実況」しながら聴いてるとおかげさまで、ちょっと音楽に、気持ちが沿っていけてる感じもします。こうやって我に帰ったらダメなんですよね。ホルンのリズム打ちのイントネーションが明快です。弦楽器がおりかさなり、クライマックスを形作ります。でも、この演奏、勢いでぶちかましたりはしません。正確に狙いを定めて、クライマックスをつくります。その分、書かれている音符がしっかりと音になってる感じ。テンポを思いっきり加速するところでも、なっている音全てが同じ率で速くなっていってる気がします。最後のホルンの低音のゲシュトップもハッキリ。。。それから終結までの、弦の各パートが、寄せては返すところも、音量バランスがとてもよくコントロールされていて、ほぼ同じ音量で引き続ける、低弦の音の並びの列を、越したり、くぐったりと、「織物」のようです。純音楽的でありながら、ロマン的でドラマティックな演奏。いえやはり、そんな曲なのでしょう、「悲愴」は。なんとか、曲から振り落とされずに、聴くことができました。まだちょっと「懸命に」、なっている音にしがみついてる気持ちではありますが。なかなか、「忘れて」はしまえません。CD聴取だけでは、、、、ああ、また、我に帰ってしまった。ちなみに今は、「幻想序曲ロメオとジュリエット」が流れてます。こちらは、ミネアポリス交響楽団、、今のミネソタ交響楽団です。おんなじ傾向の演奏なんですが、フレーズが途切れる感じがちょっとあるかな。楽譜もキッチリ「なぞろう」としてる様子もちらほら。いえ、これも十分な演奏なんですが、やっぱり、「自在」まではいかないかも。といっても、曲を楽しむのに問題は無しです。では、、、、また。
2007.12.05
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