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ホロヴィッツは、ちょうど高校時代に、あの、伝説の5万円チケット、ボロボロライブ、、、にTVで遭遇して、(あんまりピアノに詳しいわけでは、今でもないですが)やたら、局所的に豪華な音をババンと鳴らすが、曲の原型がわからんなあ、、、、という印象をもったのが、意識した最初でした。(その後、このライブは、彼が薬物投与を受けていた影響が大きく、 また、実際のそのライブは酷評されたとのことですが。)が、その後、過去の録音をいろいろ聞く機会がそれなりにあり、また、「母国」ソヴィエトへの里帰り公演が、きれいな響きを活かした演奏で聴けたりして、やっぱり、「巨匠」というイメージはもっていたのですが、(ただし、ジュリーニとのモーツァルトの協奏曲の録音風景をみて、 どうみても、子供じみた変人、、、、というイメージも、、、)彼のCDは実際には、ラフマニノフのピアノ協奏曲の3番とソナタの入った1枚を持っているのみでした。そんなところへ、このところ、ナマのピアノの響きに圧倒される体験を何度かしてきたところへもってきて、ピアノ曲のCDそのものもあんまり持ってないことから、ホロヴィッツボックス(1枚あたり300円弱)を買ってしまい、昨日から聴き始めています。1枚あたりが昔のLPと同じ、というつくりなので、結構、これが心地よく聴けます。分量が、結構、ちょうどなんですよね。今にしておもえば。昨日聴いたのは、ホロビッツが、ナマ演奏から遠ざかっていて復帰したときの「ヒストリック・リターン」ライブ。これは、バッハ、シューマン、スクリャービン、ショパン、モシュコフスキ、ドビュッシーが履いてます。そして、生演奏から遠ざかっていた頃のステレオのスタジオ録音で、ショパン、ラフマニノフ、リスト、その次が、ボックスの中では最も古い(戦前のは無いから)「展覧会の絵」これは大分、ホロヴィッツが楽譜に手を入れてるのがわかります。で、プロコフエフとカバレフスキー(!)こうして聴くと、もちろん、若い頃の彼は、バリバリ!!度が全開で、後年になると(以前聴いたソヴィエトライブなど)、響きを重視するほうになっていったんやな、、、とわかります。といっても、響きそのものは、ずっと、彼の「名刺」のように特徴的ですが。。。。響きが美しい、、、そして、録音といえども、おそらくはピアニッシモの完璧なバランス、、、などは、内田光子にも、言葉で言えば共通していますが、(リズムの崩れなどテクニック面で、現代の内田光子がはるかに上であることは言ってもしかたない当然のこととして、)しかし、この二人ほど、究極の対極にある人はいないようにも思いました。ホロヴィッツは、(まだこんだけ聴いただけの印象なので、今後変わる可能性はありますが、今の印象、、、として)「響き」と「快速な"指"」を快楽・欲望の対象として、それを、聴衆の欲望に捧げている、、、というような気がしました。低俗という意味ではありません。(←そう言ってもいいかもしれませんが)彼が、長いこと、ナマ演奏を避けていた時期がある、、、というのは、スタジオ録音が活発だったことからすれば、まあ、グールドと似た状況だったのかもしれませんが(どちらも超絶技巧が売り、、という面もあったし)、常に、「客の反応」を意識していたため、それに疲れた、、、のかな、、、と思わせるほど、「リスナー」が悦ぶように、印象に残るように、、、手練手管を使っているようにも思えます。といって、もちろん、フレーズをまとめ弾きするような昔風なところはあるとはいえ、特別に、恣意的なルバートが目立つわけではなく、ある意味「端正」といってもいいかもしれません。が、しかし、古いモノラル録音からですら、聴く者は、響きに欲情してしまう、、響きに淫して溺れてしまう、、、"指"の速さに押し倒されてしまう、、、また、そうしたくなる、、、そんな演奏でした。こう書くと、やたら、退廃的な感じになってしまうのですが、それがまたある意味「健康的」このうえないほど「陽性」でもある、、、のが彼の魅力かもしれません。淫して溺れて欲情しても、でも、後ろめたさ、、、は無い、、、客を喜ばす、、、ということの根っこに、自分自身が、大好きで、音楽に身を浸して生み出すことがうれしくてたのしくて気持ちよくてたまらない!!!というところがあって、客に「合わせてる」というのではないように思います。ありあまるテクニックがあって、彼の好み・欲情があって(音楽的な)、それが時代や大衆の好みや欲情にもぴったり合った、、ということなのかもしれません。ちょうど、響きに執着したにもかかわらず、対照的な音楽家としては、カラヤンとチェリビダッケがいますが、指揮者の場合、「オケ」を得るか否か、、、という社会的背景が影響もするので、ホロヴィッツと内田光子の関係に直接はくらべられないかもしれません。とはいえ、快速にして、響きを重視、、というのは、カラヤンの壮年期までの志向には類似しているような気はしますが、、、また、唐突なのですが、響きをつきつめ、ドラマ性を求め、「客の悦び」を常に得ないと不安で仕方ない、、、という志向性と集中は、桂枝雀の落語を思い出させます。正直、演出過剰かと思わせるほど、これでもか、、と客の反応を引き出しでも、いくら反応を引き出しても、そこに安住せず、また、「次」への不安をずっと無限に抱き、また、そのための訓練を日常、片時もおこたらず、自分をすり減らして、舞台に立てなくなり、、、、という枝雀も、「芸」と「板」に全てを捧げた人生を突っ走った人生だったように思います。最後は、悲劇的な死を遂げられましたが、、、ホロヴィッツも、単なる美音ではなく、ドラマを、世界をつくりあげるための響きを駆使する、、、(とくに"指"の速さでは、「押し倒せなく」なってからは、一層、「響き」で勝負したみたいですし)ただし、そのドラマや世界は「美しいもの」であり、「豊かなもの」である、、、そういった、ある種の「楽天性」を感じさせます。本人が、痛々しいまでに繊細で、努力家で、もしかしたら、ペシミスティックな人だったとしても、、、そういう、表現や客との関係性での志向と、本人の内面(←あくまでも想像ですが)との関係もまた、ホロヴィッツと枝雀にはなにか、通じるものを感じます。
2009.11.28
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社会人になって初めて!といって良いと思いますが、休暇をもらって、内田光子のリサイタルを聴きに福岡までやって来ています。さすがにこの時期に休むために、3時間睡眠になってしまいましたが…福岡のアクロスホールは、当然、初めてですが、堂々たるシューボックス型で両サイドのバルコニー席の雑音は干渉しない、聴きやすいホールです(「兵庫県立」と異なり…)。ピアノソロにはやや広すぎるかな…と最初のモーツァルトのイ短調ソナタでは思いましたが(内田光子には珍しくややバタついた気がしました)、すぐさまホールの響きを身につけて、クルターク、バッハ、モーツァルトを続けて、演奏し、まるで、現代音楽の作曲家が新古典派的のモチーフをコラージュに用いながら作った一つの連作のようにも聞こえます。バッハの構造の普遍性とも言えますが、やはり「響き」を完璧にコントロールする内田光子だからこそ浮き彫りにできた「響きの普遍性」による「構造主義」的な光の当てかた、といえるかもしれません。後半のシューマンの幻想曲もさらにホールの響きを自家薬籠中のものとし、ffからppppまでを精妙な響きで多彩かつ余裕で描ききります。またルツェルンでのコジェナーとのリサイタルでも感心したのですが、シューマンの厚い和音が朗々と鳴り響いて行く中で、進行する全て和音がバランスを保って鳴り響くのはもちろんの事、その響きの中で「浮き」はしないまま、旋律ないし、進行上主たる音のラインがくっきり聞こえます。ピアノという楽器そのものの可能性と素晴らしさをも実感させてくれる、なにより、音楽の素晴らしさを実感させてくれる、コンサートでした!
2009.11.19
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もうひとつ、強く印象に残ったのは、彼の「舞台人」としての本性、、、です。無条件で、とにかく、「お客」を満足させる、、、喜ばせる、、、、そのことが、「あたりまえ」であり、そのために、できることを全てやる、、、のが、自分の使命であり、存在意義そのものである。そして、お客がどうしたら喜ぶのか、、、自分の何を見に来るのか、聴きにくるのか、、、それも、十分に判っており、感じている。そんな「舞台人」のようです。むろん、お客が見に来るもの、、、は、過去のマイケルの全ての時期の彼のベストの状態を「最低限」として、かつ、それにsomethingが魔法のようにプラスアルファされたもの。。。。と、痛いほど理解しているがゆえに、おそらくは、この映画で豊富に使われている、今の「全力以上」を出し切ったかのような、過酷なダンスに歌唱であったのかもしれません。自らの完成型のイメージの完全な「像」に忠実であったばかりでなく、お客が求める「像」にも、100%忠実であらねばならない、、、という残酷さ、、、まさに、ネバーランドの住人、ピーターパンのように、老いること、、歳を重ねること、、、が許されない、、、また、自分で許さない、、、彼が、舞台になかなか立たなくなり、また、今回が最後、、、と言ったのも、このリハでの一見、「若い頃のようなキレ」のある演技・歌唱からすれば、もったいない、、、とも思えるかもしれませんが、逆に、それほどのムリをして、ようやく、「最後のカーテンコール」の舞台を、マイケル・ジャクソンとして、行おう、、という決心をしたようです。演出や振付、キューのタイミングなど、自分の中の像は、また、お客の喜ぶツボであり、それを、はずすことなどありえない、、、、という信念と指導のもとに、舞台が徐々に、まとまり形をなしていきます。実際には、主に、2~3回の総練習(ゲネラル・プローベ)の映像を主に用いて、あと、オフステージの映像をとりまぜて、構成しているようです。ちなみに、当然のことながら、マイケル無しのリハが相当に重ねられた後、マイケルが登場したようです。(このあたりは、アマチュアオケや合同演奏会などの客演指揮とかでも同じです、、よね。)その「原型」にどこまでマイケルが関与したか、は定かではないですが、もしかしたら、もう何年も前から、そうした「構成」などは、考えていたのかもしれません。。。資金集めやプロモーター手配なども、思い立ってスグできる規模のものではないでしょうから。。。マイケル自身が実際に、どの段階で、どの程度、疲弊していたのか、、はわかりませんが、時系列としてはおそらく相当にランダムに構成された映像ではあるものの、映画としては後半あたりに、イヤフォンによる音声モニターを通じて自分の歌声を聴くことが困難である、、と訴えたり、リハではフルヴォイスで初めから歌わず温存しときたい、、、と訴えながらもスタッフや若手アーティストの希望に応じて全力で歌ったり、踊りがしっかりと決まらずに焦りやいら立ちをおそらくは持ちながらも、そのたびに、「God breath you」を相手に繰り返したり、、、、決して全盛期ではない自分、、、をおそらくは誰よりも思い知っているであろうことを想像しながら見ると、胸が痛くもなります。もしかしたら、実際、疲労困憊で、ミスが出てきたのかもしれないし、逆に、全然そうは見えなかったのかもしれないし、、、それはわかりません。ただ、本人が、マイベスト!!とは到底思えるはずがないことは、想像に難くありません。 目指すリファレンスが、老練で熟練した、ナイス・ミドル路線、、ではなく、全ての世代を冷凍保存したかのような「ベスト」なのですから、、、そうした、人間としての痛み、、、焦り、、、そして、それをオモテに出さないように、、、また、客の満足のみならず、全てのスタッフやクルーやメンバーもまた、彼にとっては、「喜ばせるべき相手」であったようです。機嫌をとる、、、という意味ではなく、彼の芸によって、感動させ、圧倒し、喜ばせるべき相手、、、マイケルの身体は、すでに、このとき、マイケル自身のものではなくなっていたのかもしれません。こうした本能的な「舞台人」としてのマイケルの姿をみて、これまた、思い浮かべたのが、あのモーツァルトでした。モーツァルトも、幼少の頃より、音楽「芸」をひっさげて、ヨーロッパ各地を周り、行く先々で、ヨーロッパ中の「お客さん」を、演奏や自作の曲で、驚かせ、喜ばせ、、、何が人を喜ばせ、関心を持たせ、驚かせるのか、、、を肌身で感じ、骨の髄まで、幼少期から、幾重にも刷り込んだ人なのでした。そして、やがては、片田舎ローカル出身ながら、ヨーロッパ各地の文化セクションに触れることで、「ヨーロッパ」文化を自らのうちに統合していくほどの吸収を重ね、それが、それまで存在しなかった、「ヨーロッパ音楽」の初めての作曲家への成長の基礎としていった人なのでした。こうした「幼少期からの舞台人」としての刷り込み、、、は、二人の天才に、似た影響を与えたように思いますし、彼らの音楽や芸(オペラもダンスも)が、先端を行きながらも、同時に、非常な人気を獲得したことも、そうした舞台人としての本能が人生の全てに作用していたから、、、ということも大きいように思います。すなわち、もともと持っている大きな才能の全てに対して、舞台人としてのセンスが働くように、デフォルトで設定されていた、といえるかもしれません。ちなみに、そうした本質的な面とは別に、おそらく結果論、、ではあるのでしょうが、経歴としても相似したところが見られるように思いました。モーツァルトは、そうした「ヨーロッパ音楽の天才作曲家」になるに至る前には、まず、「天才子役!!」から、「単なる、大きくなった子供」扱いによる人気・関心の消失、、、就職難、、、という苦渋と失望と落胆に満ちた日々を送らざるをえず、。その後、ウィーンという当時の「文化首都」で活動の場を得て、ダ・ポンテの台本と出会い、、、オペラ作曲家として存分な作品を生み出し、当時のウィーンに集まる各名奏者・名歌手と交流し、彼らの求めに応じて、または宮廷の求めに応じて曲をつくり、当時としては、非常な高額の収入も得るまでに至ったという人です。一方、いうまでもなく、マイケルはジャクソン・ファミリーの大人気の天才末っ子で、その後、大人になるにつれ、人気は一旦、凋落しかけたところへ、クインシー・ジョーンズとのコラボレーションにより、マイケル・ジャクソンは「再創造」されたといってよいわけで、 (・・・といってよいですよね?)世界的なベストセラー・ミリオンセラーを連発し、やがて、キング・オブ・ポップとまで言われ、巨万の富を手にいれながら、借金だの事業の失敗だの、またありとあらゆるゴシップの対象にされ、晩年の10年はほぼ「変質者扱い」(←もしかして日本だけ?)だった、、、、といえるでしょう。ちなみに、ご承知のとおり、モーツァルトも、高額な収入を得ながら、晩年には、人気の凋落(戦争のための不景気のせいともいわれてますが)に苦しみつつ、ありえないほど多額の借金をして、生活苦の中で(というか借金しまくって)晩年を迎えています。まあ、最後のところはあまり関係ないですが、この映画、そうした「天才」の面と、一方で、僕らの普段の仕事にもつうじる、「イメージ・目的・目標」を「人間」が作り出し、それを、具体的に提示し、交換し、相互に影響させあい、「実」にしていく、、、という営み、、、「諦めないこと」による仕事の研鑽、、、そうした、まさに、毎日の僕らの生き方そのものに「等身大」で感じられること、、、その両面がみられた映画のようにも思いました。(その両面の狭間にみられた、天才の人間としての苦悩・不安・焦りなどの弱さも、、、)
2009.11.15
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一昨日、木曜日になりますが、ちょうど9時すぎからのレイトショーに間に合う時間(@1200円!)に帰宅となったので、マイケル・ジャクソンのThis is itを観に行きました。多忙であったり、または油断して見損ない続ける僕としては珍しい快挙です。マイケルは、ちょうど全盛期が僕の高校・大学時代とほぼ重なるのですが、大学時代には、下宿にTVがなかったせいで、主に、洋楽をよく聴いていた僕は、マイケルも音だけで、接していたので、正直、「旋律の息の短い曲を(←ダンス系だったせいですね、、)裏声で歌う兄ちゃん」くらいの印象しかありませんでした。雑誌のインタビューは見たりしてたので、色が白くなってるのは、整形じゃなくって、病気だってことは知ってたのですが、その後、児童虐待の裁判沙汰になってからというもの、一般報道では、整形バナシや、変質者扱い、、、、って感じでずっと扱われてた気がします。5か月前まで、、、、皮肉にも亡くなってから、まとまって、彼の映像作品、、というよりは、ダンスを含めた彼のライブやPVが放映され、いまさらながらに、彼のスゴさを思い知った次第です。「身体表現」というものに、20歳前後の頃はあまり興味をもってなかったというか、意識する機会がなかったので、当時、スゴい!!と思えたかどうか、、はわかりませんが、、、で、本来、コレは、ライブで見ておくべき芸であると思いつつも(できれば、等身大で見られるステージで、、、←あと10年長生きしててもムリ、、、)、かなわぬ今、映画は、劇場でみておこうと赴いた次第です。以下、長年のマイケル・ファンの方には「あたりまえちゃうん、、」みたいな話が続くとおもいますが、、、この映画、遺作ともいえるし、本人の未公認映像、、ともいえるし、また、カテゴリーとしては、「メイキングもの」となるものでしょう。非常によく、映像素材を構成して、効果的な「作品」としています。マイケルのプライヴェート録画を素材としている、、とありますが、ゆくゆくは、メイキングのドキュメンタリーも意図していたのかもしれません。素材はまさに、「メイキング」そのものであり、映画単体でみたら「メイキング」と言い切ってよいものです。が、しかし、非常に特殊な構成の作品となっています。映画は全編を通して(もちろん彼が死んだ、、ということを前提にしていますが)「世紀の本番」に向かっての期待と興奮が高まっていくものとなっています。「ヤマあり、谷あり、、しかし、ご覧のとおりのマイケルの類まれなる天才と意思と努力そして”愛”のもと、スタッフ&メンバーがそれぞれインスパイアされ、力を合わせて、最後に輝かしい本番へ!!!」ほぼ、そういう、メイキングものの王道ともいえる構成になっています。ふつうであれば、その「クレッシェンド」に身を任せていけばよい、、のが、メイキングの常です。しかし、同時に、全ての人が、彼は、そして彼らはこの「本番」を迎えることがない、、ということを知ってみなければなりません。また、「それ」、、すなわち「彼の死」は、突然訪れるものであり、演出し再構成しているとはいえ(つまり、時系列に映像が流されているわけではない)、この「本番」への全力の営み、そして、刻一刻と近づく本番への高まりの中で、「いつ」この物語が、この映画が、中断され、「終わる」のか、、、それには、何の「伏線」もない、、、のです。(映画の中では、彼の超人的なパワーや能力を見せ付けた場面を連続させたあとで、 彼の迷いや、焦りや、疲れ、、、を後半、意識的にちりばめていってはいましたが)現実の「死」の多くはそうしたものでしょう。このmixiでも、長く更新しなければ、それは単なるご無沙汰か、それとも本人はこの世に居ないのか、、、それは誰にもわかりません。。。リアルでももちろんのこと、、、よほどの天寿以外、死とは、理不尽なもの、、、したがって、主題として、生と未来を志向している場面のみで構成されながら、「死」を意識しないといけない映画、、、ですし、また、構成として、「クライマックス」または「エンディング」がどこに来るのか、、、(ハッキリ言えば、今見ている映画の場面が、映画の全編の中で、どのあたりまで来ている場面なのか、、、)が、測りかねる、、、次の場面では死んでるかもしれない、、、そんな映画、、という2つの意味で特殊な映画であろうと思います。とくに、後者については、彼が死んだショックもさめやらぬ今の時期のほぼ「リアルタイム」上映だからよいですが、何年もたってから見た場合に、かなり、映画としては特殊な印象を持つことになるかもしれません。さて、内容というか、内容の中に映しだされている、マイケルやクルーたちの「しごとぶり」「生き様」ですが、、、50歳と到底思えないダンスの切れや、全ての曲をおそらくオリジナルのキー(原調)で、またオリジナルに近いアレンジで歌っているのにも、驚かされることは言うまでもありません。あの記者会見が笑顔で開けるようになるまで、ありえないほどの研鑽を積んできたのでしょう、、、きっと、、、次に、映画の中で、「マイケルは完璧主義者だから」というようなセリフがありましたが、完璧"主義"というよりは、彼の頭の中には、歌・サウンド・歌詞そしてダンス(身体の動き)・ステージの全ての「完成型」のイメージが、完全に、像を結んでいるようです。ないし、完全に像を結ぶまで準備をして臨んでいる、、、ようです。なので、「そのイメージを、形にせずに諦める」理由が何もない、、、形にしようとするのがアタリマエごく普通にそうしている、、という気がします。像を結んでいないひと、違いがわからないひと、、にとっては、なぜ??? 何のこと???と思うのでしょうが。振付の細部や、キューについて、スタッフに提案し、監修する、、、全てをスーパーヴァイズする、天才マイケル、、、が描かれていますが、「天才」というよりも、プロフェッショナルを感じました。そして、注意深くみれば、実は、「天才、ただ一人の頭の中で生まれいずるアイデアを、凡人が形にする」のではなく、多くのスタッフからのイメージの提供ややりとりを通じて、「像」を形作り磨いていることも伺いしれます。それこそ何十年間もの共同作業なども含んでのことでしょうけども、映画では、「最後のノミをふるうマイスター」的なマイケルの姿があります。天才かもしれないけど、職人であり、親方でもありながら、顧問的でもある、、、この姿をみて、連想したのは、カラヤンでした。カラヤンも多くの面を持つ指揮者ですが、その1つとして、オペラや映像の演出を自らが行ったことでも知られています。その多くは正直、彼の傑出した音楽のセンスとは比べ物にならないほど、陳腐で通俗的でウソモノ臭い、、ものが多いのですが、しかし、その評価は別として、やはり、彼のアタマのなかでは、オペラの音楽や歌詞や台本が完璧に入っていたとともに、舞台の見え方、演技、動きの全てが、「完成型」として「像」を結んでいて、やはり、「それ」から離れたものをとりおこなうことは、ありえなかったのだろうと思います。音楽そのものに対しても、もちろん、具体的な「像」を結んでいて、それを、オケのメンバーに適確に伝え、多数のオケのメンバーに「像」を共有させたうえで、本番は、インスパイアする役に徹する、、、というやり方で、空前の効果を挙げた、まさにプロフェッショナルな人ですが、それを、「当然のように」、舞台の演出や映像にも適用したのでした。とくに映像にいたっては、たくさんのカメラで流しどりして、適宜自分自身で編集する、、というまでになってしまったようです。 (また、「口パク」で好きな角度・照明での映像だけ撮ってあてはめるとかも非常に多いですよね。)マイケルとのセンスの違い、、といってしまえばそれまでですが、やはり、マイケルの場合、かなりの「言い分」が通る、、、まさに全員が「大切にし崇拝する」存在ではあったものの、多くの経験豊富なスタッフとの共同作業であり、また、かなりな他の人のスキルが、存分に活かされたステージであったようです。 彼のキャリアをつくりあげてきた人たちや、彼のキャリアに影響を受けた人たちによる、そうした仕事は、彼のイメージを知悉しており、悪く言えば「自己模倣」もまた「延長線上」も先回りして、「型」を提供できるまでのレベルであったようです。なので、非常に「マイケルらしい」ステージであり、かつ、「これまでにない初めての興奮」も上乗せされたステージが計画されていたようです。これは、「天才一人」に自他ともに、こだわっていなかったからこそ、、、ないしは、「一人の天才」の活かし方を、自他ともに知っていた、、、ということのように思いました。そしてその上での、マイケルの「完璧主義」が、「これくらいやれば十分だろう」「もうこれ以上はできないだろう」と思うメンバーやスタッフに対して、「いや、こうすれば、もっとよくなる!」「もっと、こうデキるよ!!」というイメージと目標を与えることで、「磨き」がかかり、さらに一皮向けた舞台に向かう、、、そういう営みをこの映画は映しだしています。 (「実際」がどうだったかは知りませんが)まさに指揮者のリハさながらに、または、役者に向かう演出家さながらに、マイケルとミュージシャンやコレオグラファーとの対話がなされ、それが、音楽や動きに活かされていく様は、「リハーサル風景」であり、メイキングの面目躍如たるところがあります。 (でも、、、本番は、、、、無い、、、)そうした「営み」の過程を映し取ったものであるがゆえに、映画の中で、マイケルの「スゴさ」を如実に示す場面として使っているダンスや歌のシーンの数々も、マイケル自身にとってはあくまでも「試作品」の段階で、直したいところ、改良したいところだらけ、、の「仕事場風景」だったはずです、、、なので、本当は、「マイケルのスゴさ」を示す映像、、として受け取るのは、彼のプロ根性からすれば、不本意なのでしょう。これは、「未発表テイク集、、、」でもあるのです。(生前、録音を認めなかったチェリビダッケが、死後、ライブ録音集が大量に発売されたことも、すこし思いおこされます、、、)
2009.11.15
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アルタミラの洞窟の絵を書く「原始人」があらわれると、それが、パンして、それを描いている絵になり、、、と「マンガ」のオマージュから始まるNHKの「マンガノゲンバ」実はこの番組を見るのは初めてでした。今日は、別の番組をBShivisionで見ていたのですが、寝入ってしまって、ふと眼をさますと、中島美嘉のスタジオライブをやっていました。(水曜夜、全国ナマ中継だったらしく、気の毒なほどアガっていて(るように僕には聴こえた) 歌声も震えていたので、正直、歌唱には、没入できなかったのですが、 一方、トークでは、素の田舎で育った実年齢の感性と人柄が表れていて、 むしろ、好感度と親しみ(←勝手に親しむな!というfanの方のご批判はご容赦)を 感じました。)で、そのままぼうっとしていると始まったのが、冒頭のシーンから始まる番組でした。で、いきなり、「今日は、島本和彦スペシャル!!!!」と言っているところをみると、普段は、一人の作家を集中的に取り上げる番組ではないのかもしれません。僕は、マンガは小さいころからそれなりには親しんできましたが、そんなに、コミックファンということもなく、その時代にそれなりに人気のあったものは、読んでる、、というくらいです。(アニメはさらに疎い、、、ガンダムには完全に乗りそこなっています、、、←ガンダムで検索してくれた方、ごめんなさい。)幼稚園~小学校低学年時代に、近所の散髪屋さんで借りて読んだ「少年マガジン」に連載していた「天才バカボン」が、「読むマンガ」の最初やったかもしれません。(当時「少年サンデー」に連載されてた「仮面ライダー」はTV版と違っていて、当時の僕には理解不能な晦渋さだった記憶があります。) 小学校ですから、学校で友達に借りて、、とかまあそれなりに人並みには触れてきて、あとのピークは、大学時代。クラブのボックスやみんなでいく定食屋や研究室に転がっている、当時全盛だった「スピリッツ」や「サンデー」(←これは「うる星やつら」が、スピリッツの「めぞん一刻」と隔週で載っていたから、、という理由も大きい)を読む、、という感じでした。当時は、まあ、マンガ雑誌全盛期で、ちょうど、「少年ジャンプの発行部数が、毎日新聞を抜いた!!」という話題が、渋谷陽一のFMホットラインで語られていた!!という時代でした。今は、マンガも「みんなが読むもの」ではなくなったようですね。そんなもんなので、その時期の特定の雑誌に連載されたものは結構記憶に残っているものの(時間があったから(?)、はたまた若かったから、選り好みせずにその雑誌のマンガは全部読んでいた、、)、それ以外は大して知りません。その後は、「いしいひさいち」(これももともと研究室の「蔵書」以来ハマりまいた)は例外とすれば、「のだめカンタービレ」に至るまで「マンガ」から縁遠くなっています。そのような人間ですので、島本和彦さんという名前すら知りませんでした。番組の中で紹介された、出世作「炎の転校生」も、「吼えろペン」も存在すら知りませんでした。 題名からすぐ判るとおり、パロディ風味をベースにしたものではあるのですが、(ちょうど、「忠臣蔵」と「監三五大切」の関係みたいに)紹介されている内容からすると、「ひと(自他)」に対する冷静な観察眼(それもあえて、肯定も否定も承認も疑問視もしてみよう、、というような自在な視点)と、それを「おもしろがってやる!!」というベースが横溢している作品であり、人柄のようでした。なので、トークが(きっと倍以上の分量を編集しまくったのでしょうがそれでも)とても面白く、「達観」しつつ「熱い」(押しつけがましくない熱さ、、というか、「湧き出る」感)というおはなしがきけました。マンガ家として、自分で「これ!」と思うもの(いわく「若いころのマンガ大好きだった"自分"を納得させる」)を出し、それが、読者から支持されているのに、編集担当に理解されず「否定」され続け、落ち込む、、、そしてつい「あわせよう」としてしまう、、、(あなたの「おもしろい」は、ちっともおもしろくない、、、とまで言われたそうです)でも、それは「おもしろくない」独立自営業で、クリエイターである「マンガ家」が、まさに、問題のある組織に就職して無理解な上司の下で働かざるをえない「サラリーマン」と同じ思いをし、心や自尊心までをすり潰されるような中で、「それでも、なお」と自分を奮い立たせて、自分の視座をもって、かつ、その「逆境」をまた、自分を新たに展開させる「シチュエーション」に展開することで、「次の機会」とする、、、、という営みをされてきたということ、とても、共感できました。自らが描くキャラクターに励まされる、、、こともあったそうです。それはちょうど「夢」の分析かなにかで、自我や抑圧を意識化し、かつ解放していく、、ような作業なのかもしれません。(島本さんが、本当に心がつぶれそうなほど苦しんでいたときに、「逆境ナイン」というマンガのなかで、主人公が行き詰まり絶望し切れて暴れる、、、というシーンを書いたら、自然と主人公の家族が勢ぞろいして(←それまで作中でまったく出て来させてなかったそうです)、「判る」「そのとおり」と口ぐちに理解と共感を示したとともに、「お父さん(どこの爺ぢゃ、、みたいなキャラ)」が、「大きな目的の前には、小さな逆境にいちいちとらわれるな。そんなことしてたら時間がいくらあってもたりん。受け流せ!!」と言うシーンを書いて、とても、自分自身がその創作の1時間の間に、心がずいぶんと軽くなった、、とのことでした。僕は、そうした創作をしませんので、そうした体験はできませんが、きっと、島本さんのマンガを読んだ人は、島本さん自身がした体験と同じ作用を、心の中にできただろうと思います。とにかく、自分自身を含めて、にんげんを「客観視」して、その上で「共感する」という感じが、楽しいトークの連続のなかに浮かんできたような気がします。なんでも、この「マンガノゲンバ」のキャラクターデザインもした方だそうなのですが、そのキャラクターを2つ提供したそうで、「もともと依頼されたのは1つだけで、2つめはサービスです」とのこと、そのサービス精神の根源は何か?と聴かれると、「うーーーん、、、、自信のなさ、、、ですね」との答えにまずは、びっくり(&感心)しました。いわく、「まあ、1つじゃ自信ないけど、2つ出しときゃまあなんとかなるかな、、」冗談半分ではあるんでしょうけども、ちょっとしたトークに真理や心理、それも「カッコわるい部分」を直視したようなコメントが続いてとても面白かったです。もともと、マンガ大好きで、マンガの読者の嗜好も熟知し、その嗜好を反応させる技法や構造もコントロールできる!!という、「三谷幸喜」に似た能力とアプローチを持った人のようなのですが、三谷幸喜さん自身は、どこまでも、本当に「自分と一体化」するようなアプローチは無く、そう見えつつ、あくまでも、「演出家」である(ひと、、とのかかわりという意味です。三谷氏はもちろん脚本家ですが)のに対し、島本和彦さんは、一体になったり、離れたり、、、といった立場というか、感覚をもっておられる人のように思いました。それは「自分自身」という「ひと」に対しても。こうした僕の感想は、番組で紹介されたごくわずかな事例と、なによりも、島本和彦さん自身がいろんなことをしゃべっておられた内容や印象からのものなので、実際に、作品を読んでみようと思います。(最後に、熱心な、マンガの読者の方々や、島本和彦さんの愛読者の方々、、、「実際の作品を読みもしてない」人間が、番組に感動した、、というだけで、アレコレ書いた不明、、、お許しください。 あ、あと、「中島美嘉」で検索してくれはった方もごめんなさい。)
2009.11.06
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大阪府と橋下知事のことを書くのが続いてしまっていて、根本的には同じ問題点を抱えたことなので、もういい加減、いちいち、指摘するのが面倒になってくるのですが、橋下知事と大阪府が、伊丹空港を廃止して、そこを「新都心」にするとの「構想」だとのことです。<空港について>空港そのものに関しては、最も利便性の高いものを最優先にすることが、「関西」「近畿」のアクセス性を高めることになる=国内外に対するポテンシャルが高まることになると思いますが、そうした議論抜きに、「"民間"の航空会社は、関空を選ばず、伊丹を選ぶから、伊丹を無くしてしまえ」というのは、いかにも「役所」または、昔ながらの固定的な計画経済を信奉するバリバリの共産主義者の考えとも言えそうです。(または、供給が需要を創出するというセイの法則の信奉者?)伊丹を廃止したら、ある程度、関空の発着が増えるだろうとは思いますが、関西・近畿全体の発着は減少することでしょう。そして、関西・近畿のアクセス性が今より低下することになり、経済競争力も長期的に失われていくことと思います。もちろん、「関空が伊丹よりも利便性が高い!!」のならそうはなりませんが、"民間"は伊丹のほうが利便性が高いから、伊丹に利用が寄ったのでしょうから。。。「民間なら」が口癖で、共産主義者大嫌いの橋下知事が、なぜ、そうした発想になるのか、わかりません。100歩譲って「24時間空港だから」ということはあるでしょうが、「24時間である」ことのメリットが関空でこれまでもどれだけ活かされているでしょう?今までも「24時間の国際空港」は関西では関空だけだったのですから、すくなくとも、夜間の発着は活発だった、、、はず、、、ということになりますが、、、都市・都市圏の機能を言うのなら、この関西・近畿がどんな機能を担うのが一番効果的か?_を考えて「投資」をすべき、、、さらに100歩譲って、関空も活かす可能性を探りつつ、関西の空港の重複・ムダをなくす、、、ということならば、すべて「市場」に任せる。つまりは、伊丹も神戸も関空もどれでも自由に選ばせる。各空港も自由に競争する、、、それこそが「自由主義経済」「資本主義」の合理性追求能力を活かすことになるのでは?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・注:関西空港ができた経緯そのものは、伊丹空港の騒音問題に端を発した、空港廃止が前提であったのですが、「埋め立て工法」と「浮体工法」でモメて、また場所も大阪湾と泉州沖でモメて、、、で、「都市の分散・拡大」を選んだものだったようです。経緯だけからすれば、「伊丹を廃止しなかったから、関空が干上がってる」という言説は正しいのですし、僕もずっと「筋論」としてそう思ってきましたが(ましてや神戸空港を新設したときは空いた口が塞がりませんでしたが、、、)、今となっては、場所の問題・都市の機能配置の問題から、3空港とも「今ある空港」として捉え、「これから」どうするか、、をクールに考えるべきかと思います。また、伊丹の場所は確かに、場合によっては、「転用」が魅力的な場所かもしれません。しかし、「新都心」、、、では、次項に述べるとおり、はなはだ非現実と思います。また、橋下知事と大阪府のプロジェクトは、どれもこれも「跡地」を大量に作りすぎ、、とも思います。単なる勉強・研究の間はそれでも別に良いのですが、現実となると実際に大きな問題になると思いますし、大阪という都市をさらに衰退させかねないと懸念します。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<新都心・副都心・再開発の乱立、過剰供給の恐れ>計画経済!!といえば、大阪府や、橋下知事、そして、大阪市と平松市長は、いったい、これから、どれだけの「新都心」「副都心」を再開発しようというのでしょう。オフィス床もすでに、ダブついているうえに、大阪市は、梅田と阿倍野で大々的な再開発による大規模な床供給を行おうとして必死なのに、、、この (1)梅田 (2)阿倍野に加えて、橋下知事と大阪府(大阪市も?)が言う「構想」が本当に実現しようと思うのなら、 (3)今回の「伊丹」 (4)WTC周りのベイエリア (これは新たなアクセス整備も不可欠 & 国の合同庁舎の移転費も誰が出す?というか移転するメリットは国はゼロでは?) (5)天満橋・大手前周辺(府庁と国の合同庁舎がゴッソリ抜けるので。一応、病院は1つ移転するとしても) (6)森之宮周辺(病院が移転して、他にも府の機関を売り払うとのこと、、、 「最後の一等地」との橋下知事のご発言もあるようで。)を、同時に、再開発して、今以上のものにしないといけなくなります。まるで、WTC周りに沸いた「不良債権のウイルス」を、広くまきちらすようです。投資効果・回収期待度の低いところへの、需要を上回る供給をもたらす「投資」をさらにしようということになるように思えます。それに、 (7)りんくうタウンも、ありましたね。。。。 <都市・産業に対するビジョン、真のポテンシャルの活用>肝心の産業構造の強化、都市経営の戦略を出さずに、こうした、耳目を引くようなことばかりが前面に出てしまっていて、大阪府は(大阪市も、、、ですよね、、、)、いったいどこへ行こうとしているのでしょうか。世界中が深刻な状態のときに、「自社ビルの移転」と「そのための大量追加投資」を、株主総会でアレコレやりまくる、、、って場合じゃないような気がしますが、、、すくなくとも、橋下知事と大阪府は、 ・大阪の街を、今よりも、分散させて拡大投資をするのか?(この40年間、大阪がしてきたこと) ・それとも、集約して、有力な資産を活かして、再生させようとするのか?大きな道筋を、もう一度、冷静になって、提示すべきと思います。橋下氏を支えるブレインの方々は、なぜ、こうしたことを直言しないのか?また、20年前・30年前に失敗したのと変わらぬ、いえ、それ以上に検討の浅い「プロジェクト」をなぜ大阪府民は支持するのか? (っていうか、支持してるのか?)本当に、橋下知事の好き嫌いとか、「抵抗勢力かどうか」とかではなく、知事ご自身も含めて、ぜひ、考えていただきたいと思います。今なら、まだ間に合います。橋下知事もまだ若く経験をこれからつもうとする政治家・行政の長なのですから、、、、
2009.11.05
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大阪の街が、「同時再開発」を行うことで栄える!!という論理をもとにした、府庁WTC移転への反対は、ここ何度か続けて書いたところですが、 http://plaza.rakuten.co.jp/classical/diary/200910270000/ http://plaza.rakuten.co.jp/classical/diary/200910250000/今日、和邇吉師さんから、それ以前のオーケストラ補助金カットに対する「江戸の敵を長崎で討とうとしているのでは?」とのコメントをいただきました。それは、とても大きな誤解なのですが、ただそうしたコメントをいただいて、そういう誤解をされる方もおられるだろうな、ということ、そして、大切なことに気付いたこと、について、改めて、ここに記させていただきます。橋下知事は、ご本人は、実は、政治とくに経済についてはそれほど特別なポリシーをお持ちの方ではなく、その分、「周り」に大きく影響をうけながら、機をみるに敏な独特の感覚と運動神経(←これは悪い意味ではありません)や利害感覚で、いろいろな判断をしておられると、僕は思っています。そして、そうした「周り」が実に巧妙に誘導しているのが今回のWTCである、と思います。もちろん、もともとは素朴なご本人の悪気の無い発想だったのだろうとは思いますし、TV界出身の「ビジュアルで訴える象徴」がほしかったという純粋な気持ちであろうとも思っていますが。ですので、良きブレインを持てば、良い花も咲かせられる人だと、実際に僕は思っていて、単なる好き嫌いで意見を言ってるのではありません。ただ、現知事になるよりも前から、大阪は文化についての力が弱まってしまっていて、コレは在阪企業の多くが、大阪へ金を落とすくらいなら、東京へ、、となってしまったため、どんどん、大阪の文化への投資を削っていったためが半分、そして、「文化の受け手」を育ててなかった、、ということが半分と思っています。オケへの補助金の一方的なカット反対は、そうした文脈のなかで、むしろいかにも役人が考えそうな一時的な話題づくりのイベント(イルミネーション(しかも大阪市とダブる)や水都2009など)に傾斜してることを反対したものです。とはいえ、このことをもって「反対派」になった人間が、府庁移転も反対してる、と、続けて読むと思われるかもしれない、、ということを、和邇さんは率直に気付かせてくれました。これは、ある程度は、橋下氏の政治というか「試合」の手法によるところも大きいと思いますし、彼を選んだ「雰囲気」にもよると思います。つまりは、「キミは、橋下知事の賛成派か? それとも反対派・抵抗勢力か?」という文脈におきかえられがち、、ということです。このことは、結構、これからの冷静かつ論理的な判断を、この大阪という街や、ひいては日本国民が行っていく上で、重大な点かもしれないと思いました。このような「試合形式」は、小泉氏がとくに「効果」を挙げた手法ですが、「敵」を決めて、みんなでタタくような「試合形式」を好むところは、言論の活発化による知恵や理性のパワーの集約、、という民主主義の利点を削ぐと懸念しています。これは、古今東西ありとあらゆる政治家にとって、抗いがたい魅力を持つ甘い蜜であるとは思います。毛沢東、ポルポト、ヒトラー、W.ブッシュ(9.11以後の)など、小泉純一郎氏を挙げるまでもなく、こうした手法を効果的に使った極端な例は枚挙にいとまがありません。橋下氏はまだ若いですし、もともと、「政治家」キャラではあるので、どうか、こうした甘い蜜にひたるクセを直して、より正しい意味での政治家になっていただきたいと思います。末尾で失礼してすみませんが、和邇さんからいただいたコメントと、その返事を引用します。(和邇さんは、礼をしっかり踏まえたうえで、懸念を言っていただいているので、僕の意見に賛同いただく方も、和邇さんに対して、誤解なきようお願いします。)>和邇吉師さんクラシカさん、はじめまして。私はWTCへの府庁移転に賛成ですし、今回の流れにはとりあえず“大阪冬の陣”完了ということで十分満足しています。意地悪な見方ですが、クラシカさんは江戸の敵を長崎で討とうとしていませんか。ここで“江戸の敵”とは、もちろん交響楽団への補助金見直しのことです。私の勘違いでしたら謝ります。交響楽は西洋文化ですから、税金よりも支援者からの寄付に頼るのが筋だと私は思います。(2009.11.03 20:24:40)これに対しての僕の返事は>クラシカ和邇吉師さん率直な感想ありがとうございます。オケの腹いせでは決してありません。ただ以前の記事からそう読む方がおられることはご感想をいただいて気付きました。和邇さんが決して悪意ではないことも十分によくわかりますので、決して皮肉ではなく、お礼を申し上げます。オケの補助金のこととは比べ物にならないほど、はるかに大阪の都市の問題のことが深刻です。正直海外のオケも寄付金と補助金で成り立っており、関西の財界が立ち直ればおっしゃるとおり解決することですし、とりたてて、「オケだけ」をひいきにすべきとも思ってません。(だからといって、水都2009やイルミネーションがどれだけサステイナブルかも怪しいですし、一方、邦楽を育成してるとも思えませんが。)僕が、「WTC&大手前&森之宮 同時再開発」を前提とした「府庁移転」に反対する理由は日記に書いたとおりです。WTCやATCが並ぶ、市場が見放した場所に府庁が移ったら栄える!という論理も、現在の「天満橋界隈」以上のものがなぜできるのか?不明ですし、(そもそも国の合同庁舎が「不便なところへ金をかけて引っ越しする」理由も資本主義経済では考え難いですし)大阪の業務・商業都心の規模から言って、「同時再開発」などありえず、梅田と阿倍野がコケないようにするのでも危うい、、のが今の大阪市だと思っています。意見は相違するようですが、賛同くださらないまでも、単なる好き嫌いや「橋下氏の反対派・賛成派」という「色分け」で大阪の街を見ないで頂けるとうれしいです。とはいえ、礼を踏まえた上でのご感想ありがとうございます。(2009.11.03 21:06:32)
2009.11.03
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朝ドラといえば、何回か一度アタリはあるものの、かなりの勢いで撮り進める必要があることや、単位時間あたりの会話量が多いことなどもあってか、かなり、コケる率が高いというか、また、視聴率狙いをしてさらにコケる率が高いというか、やたら、明るくて、ポジティブ志向の「おんなのこ」が、困ってる人たちをみつけては介入していって、幸せにしていくながら、自身も成長する!!みたいなパターンか、田舎から出てきて、、、(以下同文)みたいなパターンが比較的多く、また、にんげん よりも、出来事 を描いて済ませようとする(脚本の負担が大変なので、そういうラクな方に逃げてしまうのかも)ことも多いため、登場人物がおよそ、ありえない思考や行動を示す、、、ということもおおいのですが、今回のクールで始まった、ウェルかめ、、、設定そのものが、びっくりするほど特殊ではないんですが、主人公の「にんげん」の描き方、また、周りの人間、そして、周りとの相互のかかわり方など、なかなか、よく「にんげん」を描いているドラマのようです。主人公は、文字通り、成長していく過程の、社会に出たばっかりの「おんなのこ」ではあるのですが、若さゆえの、未経験ゆえの、まっすぐさとともに、肝心なものが見えていない、また見えていないゆえの残酷さ、不寛容さ、偏狭さ、、、、などもかなりストレートに描かれています。といって、それは、人間の悪さ、、、とかではなく、まさに、成長していく過程の「成長しろ」であって、「ありえない」ようなものでなく、むしろ、皆若いころは、そして、若くなくなっても、ときおり、人間の核のところで疼く、、、そんな部分を上手に描いています。きっと同年代の同じ「若さ」を生きている人たちがみたら、自分の恥部をみせつけられるような不快感さえもつのでは、、、と思うほど、ある意味「突き離した」脚本と演出になっています。本当の意味での相手の受容・興味・理解、、、すなわち「愛」なのかもしれません。(男女にもちろん限りません。)が、その意味では、やさしいかもしれないが「愛」を知らない「おんなのこ」の状態から主人公をスタートさせています。人格そのものが未発達、、、、これは、数々の「成長物語」を描いているかにみえる朝ドラにして、実は、あまりそうではない(例外は、「ちりとてちん」と「ファイト!」くらいか、、でも「ファイト」はかなりすでに完成された人格でした、、、)ことを改めて思い起こしました。そしてまた、「仕事」「社会人として」「プロフェッショナルとして」という視点でも、主人公に対し、あたたかくも辛らつな言葉を、上司が投げかける場面が多くあるのですが、それは、単なるイジメでもなければ、「実は良い人」の伏線でもなく、実際、単なる自己承認要求や、固定された興味や、自分だけの順位付け、、、などから陥る、「眼の前で実際に起こっていること」「実際に眼の前に存在している者・物」への正しい興味と理解の欠落 (アレは関係ないもん、とか、あんなのは私のスルことじゃない、、とか)を、シナリオの中で実際に主人公が行って、それを戒める、、という場面だったりしていて、「成長」や「生き方」という面からみても、とても共感できる内容になってます。もしかしたら、「学習塾の優等生タイプ(=絶対者からの評価と、他者への相対的優位に自分のアイデンティティを預けてる人たち)」などには(主人公はそれとは違うけど)、耳の痛いハナシもおおいかもしれませんが、きっとそういうタイプは自分とは重ね合わさないので気付かないでしょう。友人も、また、ちょっと協調性の無い友人が、辛らつな言葉を投げかけるのが、これまたなんの悪意もなく、図星であることが多く、それがまたドラマを進めていくのもよくできています。これらが、しかも、ユーモラスで、おかしみを常にたたえていて、深刻だったり、愁嘆場であったりはまったくせず、ノリ的には「ちゅらさん」的なノリで展開するようになってるという、非常に秀逸な脚本と演出がなされています。なにぶん、脚本も書きながら、撮影を進め、放映もしている、、という番組ですから、今後どうなるかは保証の限りではありませんが、かなり、見ごたえのある、かつ、朝にサラっとみても重たくならない(僕は毎日録画して帰宅後、15分みるのを楽しみにしてますが)、面白いドラマになっています。主人公は新人で、顔立ちやスタイルだけでいえば、「かわいい系」なんですが、これまた、役者としてよく演技しておられると思います。また、よい作品に出られてよかった、、とも思います。相乗効果、、ですね。室井滋が上司なんですが、これまた、良い味を出しています。脚本をもらって、文字で読んで、、、それを、どんな過程を経て、あんな「役」を自らの中に立ち上げて、形にするのか、、、と考えると、やはり、一流の役者ってすごいなあ、、、と思います。
2009.11.03
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