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今年の頭に新しいパソコンを購入し、いろいろなソフトを数週間かけて再インストールした。数週間とは大げさな、と思うだろうが、退職者は忙しい、優先順位をこなしていたら数週間かかるのだ。ソフトの一つがアマゾン・キンドルのパソコン版、インストールは簡単だが、問題が発生した。購入済みの電子本がダウンロードできないのだ。ダウンロードを開始してしばらくすると、ビックリマーク(!)が出て、ストップする。再々インストールなど思いつくことをいくつか試したが、無駄だった。しかし僕には、7インチのキンドルもあるし、タブレットにインストールしたアンドロイド版もある、あるいはクラウド・リーダーを使ってもいいので、パソコン版のことはこの時点でいったん諦めた。そして数か月が過ぎた。昨日試してみたが相変わらずダウンロードができない。昔から夏休みの宿題は新学期の始まる前の週まで手を付けないのが得意だった僕も、さすがに堪忍袋の緒が切れた。アマゾンのサポートでチャットを要求することにした。そして1時間半が流れた。問題が解決しないので、能力の高いサポーターに順次回されるのだろう、5人くらいのサポーターとチャットした。最後はこちらも疲れ、相手も限界に達し、「これは本に問題があるかもしれないので、その部門に回しますね」と最後通牒を突き付けられた。とその時、天啓、閃いたのだ。ダウンロード先のフォルダーに問題があるんじゃないか、と。実は、この新パソコンにしたときに、マイ・ドキュメント・フォルダーをマイクロソフトのクラウド・ストーレッジと同期させることにした。そうすれば、パソコンのハードディスクが壊れても、全てがクラウドに保存されているから、失うことはない。そして、キンドル本の保存先は、デフォルトでマイ・ドキュメント・フォルダー内に作成される。ということは、キンドル本をダウンロードするときには、おそらくこのマイクロソフトのクラウドに送られてくるのだろう。クラウドがアマゾンからの送信を拒否するか、あるいはアマゾンがクラウドへ送ることを拒否すれば、ダウンロードは失敗する。早速、キンドルのパソコン版でキンドル本の保存先を変更した。パソコン上のフォルダーでクラウドと同期していないものに。すると、期待通り、ダウンロードができたのだった。おそらく、アマゾンがクラウドに送ることを嫌ったのだろう、著作権の問題があるから、クラウドに載せて他のユーザーと共有されるのは困るから。それなら、どうしてチャットに出てきたどのサポーターもそういう可能性があることに気が付かなかったのだろう。サポートの質は、相変わらず低いのだなー、というのが今日の教訓である。
2023.12.04
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3年ほど前の「道元で試してみよう」という記事で、「正法眼蔵」の「現成公案」の巻から一節を現代語に訳してみた。「正法眼蔵」についてほとんど何も知らなかったので、頼住光子氏の著作を参考にした。その後、「現成公案」の訳をいくつか眼にして、その解釈が一様でないことを知った。手持ちのものとプレビューのできる電子本から、いくつか紹介してみよう(書籍情報は<参考>にまとめた)。まず原文と振り仮名(増谷文雄による)を載せる、便宜的に文章に番号を付けさらに問題となる部分に下線を引いておく。1.諸法(しょほう)の仏法なる時節、すなはち迷悟(めいご)あり修行(しゅぎょう)あり、生(しょう)あり死あり、諸仏あり衆生(しゅじょう)あり。2.万法(ばんぽう)ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅(めつ)なし。3.仏道もとより豊倹(ほうけん)より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏(しょうぶつ)あり。4.しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜(あいじゃく)にちり、草は棄嫌(きけん)におふるのみなり。次に、手持ちの本とプレビューで読むことのできた本から、各文章の下線部分の訳を列挙する。1. 諸法の仏法なる時節(すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり) (増谷文雄)もろもろのことどもを仏法にあてていうとき、・・・(奥村正博)すべての法が仏法である場合に、・・・(ひろさちや)われわれが仏教を学ぼうとして現実世界を眺めるなら、・・・(頼住光子)諸の事物事象が仏法上におけるそれとして把握される時節には、・・・(Tanahashi)As all things are buddha dharma、・・・2. 万法ともにわれにあらざる時節(まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし)(増谷文雄)よろずのことどものいまだ我にかかわらぬ時には、・・・(奥村正博)万法が(固定された)自己なしでいる場合、・・・(ひろさちや)ところが、このちっぽけな自己、自我意識を捨ててしまったとき、・・・(頼住光子)万法すべてに「我」(自性)がない時節、・・・(Tanahashi)As myriad things are without an abiding self、・・・3. 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに(生滅あり、迷悟あり、生仏あり)(増谷文雄)だが仏道はもとより世間の常軌をはるかに超えたものであるから、・・・(奥村正博)仏道はそもそも豊かさと乏しさ(の二分法)を超越しているので、・・・(ひろさちや)仏道を歩むということは、どこまで到達すれば合格、そうでなければ不合格というようなものではないのだが、それでもやはり歩んでいるときには、・・・(頼住光子)仏道とは、本来、多い少ないといったような二元対立的な分節化を遥に超え出ているものである。そして、このような二元対立を超えた無分節を源としてこそ、二元対立的な・・・(Tanahashi)The buddha way, in essence, is leaping clear of abundance and lack; thus、・・・4. しかもかくのごとくなりといへども(華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり)(増谷文雄)[衆生・生仏があっても]なおかつ、・・・と知る(奥村正博)(プレビュー可能部分に訳なし)(ひろさちや)要するに、われわれは・・・それはそれでいいのだ。それを変えることなんてできやしない(頼住光子)しかも、このようにその源を無分節にもつとはいうものの、我々の眼前では・・・(Tanahashi)Yet ・・・参考<問題の箇所の訳に使った文献>増谷文雄 「正法眼蔵」(講談社学術文庫、2004年、底本は1973年)奥村正博 Realizing Genjokoan(和訳:「現成公按」を現成する: 『正法眼蔵』を開く鍵」、宮川敬之訳、春秋社、2021年)ひろさちや 「新訳:正法眼蔵 迷いのなかに悟りがあり、悟りのなかに迷いがある」(PHP研究所、2013年)頼住光子 「道元における『さとり』と修行:『正法眼蔵』『現成公案』巻をてがかりとして」(神田外語大学日本研究所紀要、2009年)Tanahashi, Kazuaki(棚橋一晃)et al., Treasury of the True Dharma Eye, Zen Master Dogen's Shobo Genzo, 2010 San Fracisco Zen Center. なおTanahashiの訳は、1985年に出版されたMoon in a Dewdrop: Writings of Zen Master Dogen (Tanahashi, et al.)に収録されているものとほぼ同じ。<その他の参考文献>田上大秀 「仏陀のいいたかったこと」(講談社学術文庫、2000年、底本は1983年)
2023.11.13
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楽天ブログの記事内には、「キーワード検索」機能が付いている(「ブログ管理」の「デザインの変更」で付け加えることができる)。自分の書いた過去の記事で、~についての記事を探したいことが時々あって、今日も「道元で試してみよう」というタイトルの記事を探そうと、検索機能を使ったが、全く見つからなかった。仕方がないので、記事一覧を辿って見つけることができた。2020年7月、つい3年ほど前の記事だった。検索結果をリストするページを見ると、検索機能にはグーグルを使っていることがわかる。ということは、グーグルが何らかの理由で道元に関するこの記事を検索対象から落としてるんだな。さもありなん。おそらく、こんな誰も読まないような3年前の記事をいつまでも検索項目のプールに置いておくわけがない。と同時に、僕たちネットユーザーの好奇心や調べものの対象は無尽蔵ではないしコントロールされているということを思い知らされた。たとえば、数十年たったら、ウクライナ侵略の記事が検索対象から消されているかもしれない。あるいは、ハッキング集団がグーグルのデータベースを改竄するかもしれない。そういえば、伊坂幸太郎の小説「モダンタイムス」に、検索の言葉で監視されているという状況があった。ためしに、マイクロソフトのbingの検索機能を使ってみた。「ブログ 道元で試」と入れると、なんとトップに僕の記事がリストされた。そうかbing君は僕の記事を落としてなかったんだね。じゃあ、これからキミのことも大事にするからね、となるのは人の情というものだ。
2023.11.10
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1980年代半ばごろ、一日12時間前後は自分のオフィス(あるいは独房)で過ごしていた。ほぼ毎夕方、一息つきたいころになると、同僚の誰かが雑談のために僕のオフィスを訪れる。訪問者の中に、中国系アメリカ人の年下の女性がいた。最初のうちはありふれた恋の話の聞き役を探していただけの彼女だったが、アジア人同士で親近感を抱いたのかあるいは僕の聞き役ぶりに満足したのか、やがて足繫く訪れるようになった。僕は、ティーバッグや音楽で彼女をもてなした。ラジオ付きカセットテープ・プレーヤー、いわゆるラジカセで、イーグルス(Eagles)やキャロル・キング(Carole King)を流した。You've Got a Friend、Lyin' Eyes、Hotel California。二人のお気に入りはイーグルスのTake It to the Limitという三拍子の曲だった。僕は英語の歌詞をよく理解できなかったので、ネイティブの彼女に聞き取りをしてもらった。ある日の黄昏時、なんとなくある女性のことを思い出していた、僕のことを好きだったかもしれない女性。僕はずっと夢想するのが好きだった、現実の人生からは逃げ出して。変わろうとしても変われない、腰を落ち着けることのできない自分。でも最近見る夢はいつも同じような結末なのだ。だから、どこかハイウェイに連れてって標識を見せてくれ、そしてもう一度限界まで連れてってくれ。内省的な主人公の心に浮かぶ想念をあまり前後の繋がりなく並べた詩句だった。しかし、夕刻の青い光、女性の不確かな心情、現実に根を下ろせない夢想家、時間と金と愛の相互関係、粉々になりそうな心、それを誰かに救って欲しい、自由を求めながら孤立したくない自分。節ごとのこういったイメージは青春の曖昧で脆弱な方向性をうまく表現していた。そしてサビだ、So, put me on a highway, show me a sign, take it to the limit one more time。突然、ハイウェイにやってきて標識を見せろ、そして限界まで連れてけ、と昂揚感たっぷりに歌っている。ここは隠喩として読んで、自分の限界を試せとか限界に至るまで努力しろとか解釈するのが普通だろう。この曲の歌詞を書いた、そして歌っている、イーグルスのベーシスト、ランディ・マイズナー(Randy Meisner)自身は、人生哲学を込めたと発言している。何かの目的に向かう飽くなき努力を励ますことだとか。南カリフォルニア、ウェスト・ハリウッドにあるTroubadourという生演奏クラブで、1971年にリンダ・ロンシュタットが結成を促したイーグルス、マイズナーはその設立メンバーの一人だった。数日前(2023年7月26日)、77歳でこの世を去った。この曲についてのネットのコメントを読むと、ほとんどだれもがマイズナーの高音の美しさに触れている。どれだけ高い声なのか見てみよう。88鍵ピアノの真ん中のドは普通C3(0から数えて3オクターブ目のC)と表される(注意:西欧では0からではなく1から始めるのでC3ではなくC4となるようだ)。普通の男性の場合、地声(チェストボイス)での高音の限界はF4あるいはG4(4オクターブ目のファとソ)くらいだろう。マイズナーが歌うサビの「テイク・イット」のところはG#4・B4となっていて、多くの男性の高音限界を超えている。それをさらっと歌いきる。さらに、この曲のエンディングに近づくと、他のメンバーのバック・コーラスが「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」と繰り返す間を縫って、マイズナーが(裏声だろう)D#5・C#5・B4の音を挿入してくる。そしてとうとうG#5からF#5と不可能とも思える頂に上り詰め、F#5を長く伸ばしてエンディングに至る、まさにTake It to the Limitである。マイズナーは1977年にイーグルスから去った。その理由については、二人の主要メンバー、ヘンリー(Don Henley)とフライ(Glenn Frey)のバージョン(ドキュメンタリー「イーグルスの歴史」などで語られている)とマイズナーのバージョンでは若干異なる。ここでは深入りしないが、ひとつだけ確かなこと:1977年6月、テネシー州ノックスヴィルのコンサートの時、マイズナーが健康上の理由(胃潰瘍の悪化とインフルそして前夜の深酒)から、三度目のアンコールはもう無理だと告げたときに、頭にきたフライがマイズナーに侮辱的な言葉を浴びせた。切れたマイズナーはフライを殴り、掴み合いに発展した。マイズナーはHotel California Tourと名付けられたこの長期ツアーの最後までバンドにとどまったが、このいざこざ後、他のメンバーから無視される苛めを受け、耐え切れずにバンドを去った。壊れた関係が元通りに戻ることはなく二人ともこの世を去った、マイズナーは2023年に享年77歳で、フライはこれより早く2016年享年67歳だった。二人の関係が爆発するまでには、おそらく政治的・経済的嫉妬や競争があったのだろう。根は深く、単にその晩の衝動だけが原因ではなかったと思われる。現在のところまだ聴くことのできるユーチューブのリンクを付けておく。Take It to the Limit #1 Take It to the Limit #2
2023.08.01
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あるZoomの会議までに1時間ほど余裕があったので、暇つぶしにChatGPTの日本文学の教養度がどんなものか、次のような質問で試してみた。永井荷風の書いた短編「深川の唄」の中で、「秋の夜」という端唄が出てきます。歌詞は、「秋の夜は長いものとは、まんまるな月見る人の心かも、更けて待てども来ぬ人の 訪(おと)ずるものは鐘ばかり、数(かぞ)うる指も寝つ起きつ、わしゃ照らされているわいな」というものです。荷風は、どういう心境でこの端唄に引き込まれたのでしょう?一年ほど前の僕のブログに書いたように(「深川の唄」)、質問の文章は正確ではない。作品の中には、端唄の断片しか出てこないし、それが「秋の夜」と特定されてもいない。さてChatGPTはそんな間違いを指摘できるだろうか。あっという間に十数行の回答が生成された。その書き出しはこうである。「『深川の唄』は、深川の花街を舞台にした物語であり、主人公の女性と男性の禁断の恋愛を描いています。物語の中で、女性が夜の深川でこの端唄を歌う場面があります。」質問の文章の間違いを指摘するどころか、自信に満ちた調子で書かれたAIの回答は、顎が外れるほどに驚愕的な捏造だった。「深川の唄」に禁断の恋愛なんか出てこないし、主人公の女性が夜の深川でこの端唄を歌う場面なんかあるわけがない。深川という江戸情緒あふれた場所で、日本と西欧との両方に惹かれる荷風の心境を描いたものだ。その点を指摘すると、ChatGPTは間髪を入れず、「申し訳ありません。私の回答に誤りがありました。ご指摘いただきありがとうございます。確認の不足で誤った情報を提供してしまい、大変失礼いたしました」と謝罪の連発である。ひょっとして、永井荷風の別の作品で「秋の夜」を主人公が歌う場面があるのかも知れないと、確認してみた、「それとも、永井荷風の他の作品で『秋の夜』を女性が歌う場面があるのですか?」と。すると、AIの再回答は私の知る限り、永井荷風が執筆した作品の中で、女性が「秋の夜」という歌を歌う場面が描かれたものはありません。ただ、「秋の夜」という歌は、古くから日本の歌謡曲や浪曲などで歌われてきた伝統的な曲であり、永井荷風が深川で聴いたり、風情を愛でたりした可能性はあります。そのため、「秋の夜」という歌が永井荷風の作品に登場することはあっても、特定の場面や作品に限定されたものではないと思われます。一つ前の自分の回答で、「女性が夜の深川でこの端唄を歌う」と書いているではないか、なのに今度は「女性が『秋の夜』という歌を歌う場面が描かれたものはありません」と来た。この生成型AIは、自分の発言の歴史的な一貫性ということをまったく念頭に入れていないのだろうか。まるで政治家たちのようではないか。AIのいう「秋の夜」という曲が何なのかを探るため、続けて尋ねてみた、ちょっと意地悪く。「へえそうなんですか。その伝統的な『秋の夜』の歌詞を教えてください」と。しっちゃかめっちゃかなAIの回答の全文は「秋の夜」という曲には、複数のバージョンがありますが、代表的な歌詞を紹介します。秋の夜は 長いものとはまん丸の月 見る人の心更けて待てど 来ぬ人の訪ずるものは 鐘ばかりこの歌詞は、永井荷風の小説「深川の唄」にも登場するものと同じです。また、この歌詞以外にも、「秋の夜」という題名で、異なる歌詞の曲が存在することもあります。代表的な歌手としては、市川春代や森進一、美空ひばり、五木ひろし、北山修などが挙げられます。また、最近では、ポルノグラフィティがカバーしたバージョンもあります。いちいちこれらの歌手の「秋の夜」という曲を検証する暇もないので、ポルノグラフィティだけ検索してみたが、そんな曲はないようだ。あまりのちゃらんぽらんさに苛立ち始めた僕は、ポルノグラフィティに「秋の夜」という曲はないようです、と断定的に入力してみた。この捏造AIは「おっしゃる通りです。お答えが誤っていました。誤りをお詫び申し上げます。ポルノグラフィティは『秋の空』という曲を発表しており、混同してしまいました。申し訳ありませんでした」とすぐに前言を引っ込めた。何なんだこいつは、だいたい自分の答えに『お答え』とは何だ、もうこれ以上検証する気も失せ、Zoomの会議に参加することにした。現時点の生成型AIは驚くほどいい加減だ。知識の源泉としては役に立たない。感情を持たないし意見もないのだから話し相手にはならない。プログラミングを書く能力という点で可能性があるように世間では言われているが、試したことがないので不明だ。しかし、こいつの書くプログラムを信用していいのか、バグに塗れているんじゃないだろうか。
2023.05.02
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人工知能について研究するOpenAIが2022年11月に提供を開始したChatGPTを試してみた。https://openai.com/blog/chatgpt このサイトでアカウントを作り、チャット画面で日本語をタイプすれば、自動的に言語を判別して日本語で対応してくれる。まず「前アメリカ大統領トランプ氏について話をしましょう」と話しかけてみた。すると、AIは10行近くにわたって、トランプは「極めて議論を呼ぶ人物で・・・国内外で多くの批判を浴び・・・2021年1月の大統領選挙後、トランプ氏は選挙結果に対する不正を主張し、自身の支持者を激励する言動を取ったことで、1月6日に起こった議会襲撃事件に関して批判されることとなりました・・・今でもアメリカの政治に強い影響力を持っています」とネットの情報を集めて手際よくまとめた。僕がさらに「彼が起訴されましたね」と続けると、AIは最近の大陪審の起訴には触れず、議会襲撃事件やビジネス関係の税務申告について語り始めた。そこで、やや詰問調で「違いますよ。彼が起訴されたのは、ダニエルズ氏に口止め料を払ったことに関連してです」と告げると、AIはすぐに非を認め「すみません、私の回答に誤りがありました」と前言を撤回した。僕は続いて「あなたは、トランプ氏が好きですか?」と挑発してみた。するとAIは「私は人工知能であり、個人的な好みを持つことはできません。私は事実を提示し、彼の行動や政策について客観的な情報を提供することを目的としています」と答えた。そしてAIは「つまり、彼に対する評価は人それぞれであり、その評価は彼の政策や行動に対する個人の信念や価値観に基づくものとなるでしょう」と締めくくり、あくまで価値判断あるいは倫理判断を避ける態度を変えなかった。なんとかこの壁を崩そうと、「彼の社会的な言動には問題があるということですね?」と追いつめてみた。そうすると驚いたことに、予期せぬエラーが発生した、とかでチャットは停止した。追いつめようとすると黙り込んでしまうようにできているらしい。次に、「ビートルズの曲でバックコーラスが美しい曲を探しているのですが、なかなか見つかりません」と話しかけてみた。すると、確かにハーモニーの美しい「Because」、「I Will」、「In My Life」、「Nowhere Man」、「This Boy」の5曲をリストしてきた。AIにとってはこんなことはお茶の子さいさいなんだろう。しかし、その美しさの形容には「美しい」という言葉しか使っていない。もう少し突っ込んだ描写はできないようだ。他に、ポールのベースラインについてジョージのギターソロについても話をしてみたが、表面的な事実はちゃんと把握しているものの、それ以上の深い話はできないようだ。たとえば、「Taxman」のソロで、ジョージがアイデアをまとめることができなかったので、代わりにポールが弾いたことについては、ジョージの限界だとするような見方はせずに、メンバー同士が協力し合う曲作りとして美化している。ここでもAIは価値判断を控える態度を崩さない。他にもいくつか話題を振ってみたが、今は割愛する。短時間の経験だがいくつか分かったことを挙げる。価値判断や倫理的な判断はしない。あくまで人それぞれという態度を貫く。法的な問題に対してはどう判断するのかそのうち試してみたい。美的判断を表現する語彙力が不足しているように感じる。こちらが少し語気を強めたり反論したりすると、すぐさま非を認めて謝る。ある場合には、こちらの使用した言葉をそのまま使って迎合するような態度をとる。ChatGPTを追いつめると思考停止してしまうようである。
2023.04.03
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テレビドラマ「ひきこもり先生2」、第二回「言えなかったこと」のエンディングに流れていた曲がいいなあと思い、探してみた。行き着いたのはbaobab + haruka nakamuraの「カナタ」だった。ユーチューブではここにある。三つのパートから成り、最初のパート(およそ1分)はギター(古楽器のギターのようだ)だけの伴奏で女性ボーカルがAA"BB"構成(各4小節)のシンプルなメロディを透明に歌う。さらにAはaa'、A"はaa"、Bはba'そしてB"はba"から成っている、つまり2小節ずつ表すと、aa' aa" ba' ba"となり、a、a'、a"はほぼ同じメロディなので、バリエーションらしいバリエーションはbだけということになる。Bの部分ではホルンのような音も入っている。続いて、パート2(およそ4分)は、最初のパートの4分音符を3拍子に変えて12/8の曲にしている。ピアノとギターのアンサンブルで、ボーカルは明るく控えめに弾むように歌っている。パート2の間奏からフィドルとリズムセクションが加わる。僕の限られた民俗音楽の知識では、ケルティックの音楽のように聞こえる。パート2が終わると最初のパートに戻るが、AA"だけで終わる。A"では男性ボーカルのハーモニーが加わっている。「海は光の先のあなたを隠してしまう、おぼろげな夢の中であの日のよう笑ってみせて」ある音楽サイト(rateyourmusic.com)によると、haruka nakamuraの音楽ジャンルは、Modern Classical, Chamber Music, Ambient, Instrumental Hip Hop, Contemporary Folk, Impressionismとある。音楽家やバンドにレッテルを張る必要はないかもしれないが、はじめて聴く人にはある程度の指針になるだろう。「カナタ」という曲に僕が感じるイメージは、平和に浸る、自然との親和、言葉に出せない懐かしさ、スピリチュアルへの憧れ、流れて行った感情の切れ端を追いかける、子供の頃の無邪気な遊び。ユーチューブの彼のページに掲載されたbiographyを張り付けておく。青森出身 / 音楽家15歳で音楽をするため上京。2008年1stアルバム「grace」を発表。それまで主にギターを弾いていたが、2ndアルバム「twilight」以降、ピアノを主体に音楽を作るようになる。ミュート・ピアノソロアルバム「スティルライフ」「Nujabes Pray Reflections」など、いくつかのオリジナル・アルバムを発表。最新作はTHE NORTH FACEとのコラボレーションで原宿の新店舗ビルSphereのために四季を通じて四枚のアルバムをリリースするシリーズ「Light years」2020年より自主レーベル「灯台」を立ち上げ、「灯台通信」で手紙のように自身の言葉を伝える発信を行う。北海道の馬だけが取り残された島「ユルリ島」とのMVや、ナチュール・ワイン「BEAU PAYSAGE」とのワイン、画家ミロコマチコとのライブペインティングなど多岐にわたるコラボレーションがある。杉本博司「江之浦測候所オープニング特別映像」、CITIZEN「BASEL WORLD」などの映像音楽を手掛け、「早稲田大学特別映像」では大隈講堂で早稲田交響楽団と共演。NHK「ひきこもり先生」「ひきこもり先生シーズン2」、中川龍太郎監督Huluドラマ「息をひそめて」、TVドキュメンタリー「安藤忠雄・次世代へ告ぐ」、任天堂「どうぶつの森」、ポカリスエット「NEO合唱 ボクらの夏」など、ドラマ、映画、CMなどの音楽を担当。敬愛する写真家・星野道夫の東京都写真美術館写真展にて、星野の写真とピアノによる演奏会「旅をする音楽」を開催。長い間、旅をしながら音楽を続けていたが、2021年より故郷・北国に帰り音楽をすることにした。「カナタ」という曲は、haruka nakamuraとbaobabのコラボレーションだ。baobabのホームページからも貼り付けておこう。2004年結成。Maika (歌 / fiddle) 、古楽器製作家でもある松本未來を中心としたアコースティックサウンドを奏でる兄妹ユニット。結成当初より大分県山香町を活動の拠点とし、小さな場から発信する音楽表現、ものづくりや土に根ざした生活の中から生まれる音づくりを続け、二人の音楽的ルーツであるトラッド、古楽、フォークを自由なアレンジとスタイルで生み出している。2007年のニュージーランド全20公演の海外ツアーを経て4枚のアルバムをリリース。自主制作でつくられたアルバムはインディーシーンでロングセラーを記録。CM、映画への楽曲制作も行う。これまでに数多くのミュージシャンとも共演を重ねる。カテリーナの森で、森全体を自らデザインし、自然環境と人、音楽やアートと暮らしの融合をテーマにした音楽祭”Sing Bird Concert"を14年間主催してきた。その活動は多くの共感者を集め、地域からの表現発信の核となっている。写真家・川内倫子とともに映像作品を制作。2019年、baobab+haruka nakamura名義で「カナタ」を発表。2022年5月、スコットランドツアーを敢行。ユーチューブの「カナタ」の解説によると、兄の松本未來(みらい)がギター、妹のMaikaがボーカルとフィドル、そして、haruka nakamuraがピアノ。作詞・作曲はこの3人のリレー方式だったとある。この曲が生まれたのは、baobabの拠点であるカテリーナの森だった。ちなみに、haruka nakamuraには「カテリーナの讃美歌」という曲もあり、これも「ひきこもり先生」の前のシーズンで使われた。
2023.01.09
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中国生まれアメリカ育ちのデスクトップパソコン、バツイチの彼女と僕が一緒に暮らし始めてちょうど7年になる(購入2015年11月)。半年ほどして、英語版のWindows7から日本語版に変更し、日本語の会話もすっかり上手になり、朝昼晩、時には四六時中、よく働いてくれたのだが・・・。ここのところ彼女が体調を崩した。僕が何かを問いかけても、仕事を言い付けても、反応が鈍く、やがてとうとう立ち上がることが出来ない状態になってしまった。来る時が来たのだ、「ハードディスクの問題が検出されました・・・コンピューターの製造元に連絡してディスクの修理または交換が必要かどうか確認してください」という内容のエラーメッセージが画面に出始めた。ということは、彼女の頭脳であるCPU(プロセッサー)や短期記憶であるメモリーチップスが悪いのではなく、長期記憶とも言えるハードディスクが崩壊し始めたのだ。彼女には、大切な文書をたくさん管理してもらっていたので、由々しき事態である。時々バックアップしてあるものの、ここ1年ほどはしてないと思う。災難は忘れた頃にやって来るとはね。大急ぎで重要文書、ポッドキャスト、ビデオなどをノートパソコンにコピーした。さて、この後どうすべきか?新しいパソコンを買うべきか、いまどきWindows7なんて使っているとアップデートもしてくれないし、友人たちからは蔑まれるだろうし、ウィルスなんかにも狙われやすいかもしれない。確かにそうなのだが、年末で忙しいし買い物の決断は時間がかかるし、ここはとりあえずハードディスクを新しいものにしてシステムを含めた全ファイルを移し替えようではないか。ということで、短期的に日本語版Windows7をそのまま使えるようにすることにした。以下は、ハードディスク交換に必要なものと、プロセスの概略である。いろいろな方法があるだろうが、過去に使った方法を思い出しながらもう一度試みることにした。この方法の利点は、システムを含めて今の状況をそのまま移し替えることが出来る点だ。つまり、プログラムの再インストールは原則必要がない。必要なもの:1. DriveImage XML(バージョン2.60)という無料のソフト。ビジネス用は有料であるが、個人が非商用に使う場合は無料である。過去に数度使ったことがある。ハードディスクのセクターごとにバイナリ―データをコピーしていき、ファイル名やセクターの場所などを別個に保存してくれる。ブートセクターもコピーしてくれるので、バックアップした情報を戻せば、そのままウィンドウズが立ち上がってくれるはずだ。2. DriveImage XMLで作成されるバックアップファイルを保存する場所。バックアップ時に使用するノートパソコンあるいは別のPCに1TB前後のスペースがあればそれでいいし、なければ1TBくらいのポータブル・ハードディスクが必要だ。1TBくらい、というのは、壊れかけのハードディスクで現在使用されている容量がそのくらいだからだ。幸い空き容量が1TBあるポータブル・ハードディスクの手持ちがあった。3. 新しいハードディスク。壊れかけのハードディスクと同規格(3.5インチSATA)で、同じくらいの容量(2TB)が必要だ。(厳密には、壊れかけのハードディスクは分割してあるので1TBでも足りるはずだが、ここは同じ容量にしておいた方が安全だ。)地元のオフィス用品の店に出かけて、2TBのSATAハードディスクをくれと頼んだら、「ハードディスク」という単語が通じないのには驚いた。いまどき、そんなものを買う人はいないようで、もう死語になっていた。結局在庫にあったのはWestern Digitalの2TBのハードディスク(7200 RPM)で、74.99ドルだった。4. 外付けハードディスクケース、3.5インチSATA対応、USB。新しいハードディスクをここに挿入し、バックアップした情報を再インストールする時に使う。アマゾンで販売されてるものだとこんなのがある。ロジテックLGB-EKU35. あとは、PCからハードディスクを取り出す時にネジを取る必要があるので、プラスのドライバーがいる。昔に比べるとハードディスクの容量が大きいので時間がかかった。バックアップするのにほぼ24時間、新しいディスクにコピー(restore)するのに15時間、この二つのステップの間に新しいハードディスクを購入しに出かけて1、2時間、更に新しいディスクをPCに装填し立ち上げるのに1、2時間、なんだかんだでWindows7が再び立ち上がるまでに丸三日かかった。ほとんどの仕事はノートパソコンに入れたDriveImage XMLが一人で勝手にやってくれるので、僕の役目は気を揉みながら眺めてるだけだ。バックアップの過程で一ヵ所だけ読み取りができずエラーが出たが大事には至らなかった。(後にWindows7のインストールDVDを使って修復することが出来た。)他にも一つ二つ厄介な問題があったが、一番の問題は新しいハードディスクの(正確にはパーティションの)属性をactiveにすることだった。ディスクの属性がactiveじゃないと、パソコンに装填しても立ち上がらない。この属性変更は、通常Windows Disk Managementというプログラム(Windowsに入っているので別途買う必要はない)を使って簡単にできるはずだ。理由は不明だが、今回はそれが出来なかった。インターネットを検索してようやく見つけた方法は、コマンド・プロンプトのスクリーンに行き、diskpartというコマンドを使用することだった。(Windows7でコマンド・プロンプトを出すためには windows キーとrキーを押し、cmdというコマンドを入れOKを押す。具体的には以下のコマンドを使って属性を変更する。diskpart / list disk / select disk # / list partition / select partition # / active。#は、それぞれ該当するdiskとpartitionの番号。)こうして無事、デスクトップちゃんの体調は回復した。それにしても7年くらいでハードディスクが壊れるとはね、ちょっと無理をさせ過ぎたんだろうか。いずれにしても彼女とはもうすぐお別れして(といっても廃棄するわけではなく側に置いておく)、後妻さんをもらわなくてはと考えてる。
2022.12.30
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2022年米国中間選挙 上院の最新状況(灰色の州は、今回改選議席無し)米国時間 2022年11月12日現在POLITICOオンラインより引用
2022.11.13
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ヤフー・ジャパンのニュースでビートルズの「リボルバー スペシャル・エディション」が、10月28日にリリースされる、とあった。「リボルバー」とは、1966年4月から6月に録音され、アメリカで同年8月、日本では10月に発売された、ビートルズ中期の作品「Revolver」のこと。1965年12月に発売されたアルバム「Rubber Soul」とともに、最高傑作だと押すビートルズ愛好家も少なくない。ここに至るまでのビートルズは、黒人音楽を中心としたカバー曲とオリジナルの曲を巧みにミックスして成長してきた。Rubber Soul/Revolver以前のオリジナル曲はまだ成長の途上にあったともいえる。しかし、Revolver制作の頃には、メンバー各人の個性が徐々に別方向に向かっていくのが感じ取れるようになってきた。バンドとしての創造性が成熟した時に、バンドの瓦解が始まったのかも知れない。10月28日に発売されるRevolver Special Editionをアマゾンで調べてみると、販売の仕方が複雑で、(1) CD5枚組セット、(2) LPレコード7枚+EPレコード1枚セット、(3) CD2枚組セット、更に (4) アマゾンのみで販売されている1LP+ターンテーブルマットと、少なくとも4通りがある。(1)と(2)には100頁の、(3)には40頁のブックレットが付いている。(1)の場合でいうと、その内容は、CD#1に全14曲のリミックス・バージョン、CD#2から#4には各曲の様々なテイクやモノラルのバージョンがぎっしり詰まっている。CD#5にはEPで発売したPaperback WriterとRainのリミックスが入っている。10月28日の発売を前に、「Taxman」、「Got to Get You into My Life」、 「Yellow Submarine」の3曲がストリーミングで配信されている。「Got to Get You into My Life」(以下、GGYMLと略す)で、ビートルズは初めてバックにホーン・セクションを導入した。ホーン・セクション(トランペット、サックス、トロンボーンなど)を使うジャズロック風のバンドが登場するのは1967年頃で、有名なのはBlood Sweat & Tearsや Chicago、ビートルズはそれを先取りしていた。ところが、配信されたGGYMLのセカンド・バージョンは、まだホーン・セクションをミックスしていない段階のものだった。ホーンのメロディはギターの単音で弾かれていた。また、サビ風のところ「Ooh, and I suddenly see you, ooh, did I tell you I need you, every single day of my life」で下線の部分がハーモニーで歌われていた。GGYMLを聴いただけであるが、僕のようなあまり違いの分からない人間には、1966年のバージョンで十分、あるいは1978年にEarth Wind & Fire(アメリカのジャズ・ロック・フュージョン・バンド)がカバーした超ダンサブルなバージョンでもうお腹は一杯、Revolver Special Editionの他のリミックスにはあまり興味が湧かない。基本的に、古い材料を切ったり貼ったりして違ったフレーバーを付け加え新しいものにし、古いファンや若い層の気を引こうという商業主義だと思う。これで若い人たちがビートルズに触れる気になるのならそれもいいか、と思うくらいだ。ひとつ面白いのは、Special Edition のプロデューサーをしているGiles Martinが採用したde-mixと呼ばれる新しい技術のことだ。ちなみに、Gilesは、ビートルズのプロデューサーだったGeorge Martinの息子である。レコーディングはいくつかのトラックあるいはチャネルに別々に録音される(multitrack recording)。具体的にはよく知らないが、たとえばベースはトラック1、ドラムスはトラック2、ギターはトラック3、ボーカルはトラック4、という具合に。これらのトラックを一つの作品にすることをミキシング(audio mixing)という。いろいろな調味料の混ぜ方が微妙で技術を要するように、ミキシングも難しい。音のバランス、あるトラックの音をフェードさせたりブーストしたり、おそらく今では音程なども調整出来るのではないかと思う。一旦発売された曲の音源トラックを削除したり追加したりして新しい曲にすることがリミックス(re-mix)だ。古い音源のレコードは、マルチ・トラック録音でなかったりトラックの数が少ないものが多い。こういう音源からトラックを技術的に抽出する技術がde-mixだ。AI(人工知能)のアルゴリズムを使っているに違いない。抽出されたトラックを使って新たなリミックスが可能になる。GGYMLの2009年リミックスをユーチューブで聴くSpecialEditionのセカンド・バージョンをユーチューブで聴くついでにEarth Wind & Fireのカバーバージョンをユーチューブで聴く
2022.10.22
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僕の使っているデジタル大辞泉によると「癒(い)やす」とは「病気や傷をなおす。苦痛や飢えなどをなおしたりやわらげたりする」とある。苦痛や飢えには精神的な要素もあるとはいえ、癒やす対象の主眼は身体的な変調といえる。ところが、「心を癒やす」のような使用法が一般に浸透している現代では、身体的な癒やしを意味する使い方は姿を消しつつあるように思う。たとえば、僕が女性の医者に向って「この膝の痛みを癒やしてもらえませんか」とお願いしたら、警備員を呼ばれるかもしれない。青空文庫を使って、夏目漱石の「こころ」(1914年)と「それから」(1909年)のテクストの「癒」を検索をしてみた。意外なことに、「癒」は「なおる」と振り仮名されて使われていて、「いやす」という読みは一ヵ所もなかった。ひとつだけ別の読みがあって「病気はもう癒(いい)のか」と使われていた。森鴎外の「舞姫」(1890年)では「病は全く癒(い)えぬ」、「寒山拾得」(1916年)では「癒(なお)りました」と両方の読みがある。谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」には予想に反して「癒」は使われていないが、「細雪」(1947~1948年)では「一生癒(いや)し難い悔恨」、「一休みしては渇きを癒(いや)さねばならなかった」、「痒みが癒(い)えて来た」などがある。漱石と鴎外の用法はこれらの作品に関する限りすべて身体的な病に対して使われていて、その読みでもほとんどが「なおる」である。戦後の谷崎では、「癒やしがたい悔恨」のように、ようやく精神的な癒やしが使われている。さらに時を下って、三島由紀夫の「春の雪」(1966年連載)になると随分違ってくる。「心を占めていた贋物の感じを、残りなく癒やすものであった」、「別離の悲しみを幾分か癒やした」、「彼の目もとの郷愁は癒やされていた」、「心残りが、六年後の今はじめて癒やされて」、「御腹立ちが癒えませんなら」、「どんな悲哀をも癒やし」、「彼の優柔不断の性格が・・・明るく癒やされるような気がした」。ここにあるのは精神的な癒やしばかりで、身体的なものは全くない。それどころか、三島の用法は凝りすぎていて、苦痛や悲しみだけでなく、精神に宿るあらゆるネガティブなあるいは望ましくない状態が薄れていく意味に使われている:贋物だと感じている「劣等感」、六年前の「心残り」、「優柔不断の性格」、「腹立ち」そして「目もとの郷愁」。優柔不断の性格が「明るく」癒やされるという表現は、相当に詩的だ。「目もとの郷愁が」癒やされるという使い方は、「郷愁が目もとに宿っていた」のような表現から発想されたのだろう。三島的用法を真似すると、「沈鬱に奏でる黒人ギタリストのアドリブには、世界に蔓延る差別と抑圧を癒やそうとする響きがあった」なんていう表現も十分可能だろう。ここで精神的な癒やしがどういうことなのか考えてみよう。もちろんネガティブな状態が薄れていくというのが現象面で表れることなのだが、この現象の内部を具体化してみる。以下、僕の勝手な妄想仮説である。心は意識と感情から成る。感情は意識を包んで心全体に躍動感や鬱屈感といった動きを与える。感情の弾力性がなくなったり、表面がざらざらしてくると、それに包まれた意識そして統一体としての心の動きが悪くなる。無気力、孤独、疎外、離散、絶望などの心の望ましくない状態は感情の表面がなんらかの理由でその滑らかさを失ったことで引き起こされる。こんな時、心は癒やされたい。つまり癒やすとは、感情の弾力性を取り戻させ、表面のざらつきなどを取り除くことだ。感情の修復。化粧品のことはよく知らないが、保湿クリームみたいなものだろうか。癒やしは、ペットや自然、音楽、文学、映画・ドラマなどに接することで与えられる。もちろん、人に癒やしてもらってもいいのだが、人間関係にはギブ・アンド・テイクのバランスがあったり、恋愛感情のもつれに発展する場合もあり、かえって感情の荒みを増してしまう可能性もある。だから癒やしを求めて人に頼るのは控えた方がいいだろう。
2022.10.17
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2022年2月24日に始まった、ロシアによる一方的なウクライナ侵略。侵略開始直後と9月13日現在のウクライナ領の状況の地図。赤がロシアの侵略・占領地域。上の地図で示されているように、北部では首都のキーウ(英Kyiv)の間近まで迫っていたベラルーシから侵入したロシア軍。北東部のハルキウ(英Kharkiv)までの広い地域がロシア軍にコントロールされていた。東部のルハンスク(英Luhansk)とドネツク(英Donetsk)はもともとロシア人の分離主義者の多い地域、ここも真っ赤に染まっている。そして南部のヘルソン州は全面的にロシアに侵攻された地域。この地図ではヘルソンの名前は書かれていないが、クリミア(英Crimea)半島の北でマリウポリ(英Mariupo)とオデッサ(英Odesa)に挟まれた部分。もちろん、2014年に不法占領されたクリミア半島もウクライナ領。下の地図は、9月13日までのウクライナ軍の反後の状況。大きな違いは、北部の赤が払拭されたこと、北東部のハルキウ周辺からロシア国境に至るまでの地域の赤が緑に置き換えられたこと(ウクライナがコントロール)、そして3月以降広がってきた赤の部分が食い止められていること。この地図は、Institute for the Study of War(ISW)のデータを元に、Newsweekが作成したもの。ニュースサイトmsn.comに掲載された。
2022.09.16
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ポール・サイモンが「American Tune」を書いたのは1972年(発表は1973年)。彼自身が「あまり政治的な歌詞は書かない、でもこの曲はかなりそれに近いものだった」とインタビューで語っている。アメリカは国内的にも国際的にも苦難の時代を通りすぎていた。ベトナム戦争はまだ終わっていなかった、ランド研究所の研究者がペンタゴン・ペーパーズを新聞社に流した、ニクソン大統領のウォーターゲート事件は深く静かに進行していた、人種差別撤廃の為のバス通学が連邦政府によって強制されることも可能になった。「American Tune」の歌詞には、そういったアメリカの苦悩の歴史と、と同時に民主主義を守ろうとする折れそうで折れない意志が刻まれている。しかし、この曲の歌詞が多くのアメリカ人に今でも受け入れられているのは、それ以上の何かがあるからだ。この詞には、個々のアメリカ人、あるいはどこの国の人でも、が時代を越えて共感することのできる人生の試行錯誤が象徴的に描かれている。人々はそこに自分の夢を、苦悩を、誤解を、疲労を、孤独を読み取って、深くうなだれる。それでも、一休みしたらまた立ち上がって仕事に向かうしかない。そんな時にふと口ずさむ、そんな歌だから愛されてきた。Many's the time I've been mistakenAnd many times confusedYes, and I've often felt forsakenAnd certainly misusedBut I'm all right, I'm all rightI'm just weary to my bonesStill, you don't expect to be bright and bon vivantSo far away from home, so far away from homeしょっちゅう誤解を受け、心はぐちゃぐちゃに乱れた人から見捨てられたし、もちろん利用もされたそれでもなんとかボクは大丈夫だけどさぁ、疲れたよ、骨の髄までそれでもって明るく元気にしてろってのは無理な話さそりゃそうだろ、心の故郷はここにはないんだ、遠く離れてるんだAnd I don't know a soul who's not been batteredI don't have a friend who feels at easeI don't know a dream that's not been shatteredor driven to its kneesBut it's all right, it's all rightFor we've lived so well so longStill, when I think of the road we're traveling onI wonder what's gone wrongI can't help it, I wonder what's gone wrong誰だって打ちのめされたことがある友達はいるけどなんかみんな距離を置いてるしね夢なんてさいずれは打ち砕かれ押しつぶされるものさそれでも大丈夫だよだって僕たちは長い間まあ申し分なく生きてきたんだからとはいうものの、振り返ってみるとどこで道を誤ったんだろうと思うそう思わざるをえないんだよねAnd I dreamed I was dyingI dreamed that my soul rose unexpectedlyAnd looking back down at meSmiled reassuringly自分が死んでゆく夢を見た驚いたことに自分の魂が空中高く昇って行くんだそこから自分を見下ろしてる、安心させるように微笑んでねAnd I dreamed I was flyingAnd high up above my eyes could clearly seeThe Statue of LibertySailing away to sea自分が天空を翔んでいる夢を見たずっと高いところから自由の女神がはっきりと見えるまるで海の上を走り去っていくようなんだ自分が天空を翔んでいる夢を見たWe come on the ship they call the MayflowerWe come on the ship that sailed the moonWe come in the age's most uncertain hourand sing an American tuneBut it's all right, it's all rightYou can't be forever blessedStill, tomorrow's going to be another working dayAnd I'm trying to get some restThat's all, I'm trying to get some rest僕たちはメイフラワー号という船でやって来る月面を走った船に乗ってやって来る歴史上もっとも不確かな時にやって来るそして、アメリカの歌を歌うんだそれでも大丈夫さ、うんうん大丈夫永遠に祝福されるなんてことはないんだしねでもね、明日もまた仕事に行かなくちゃいけないんだだから、今はもう少し休もうと思うそれだけだよ、もう少し休もうとね最後にもう一度、ユーチューブでサイモンとガーファンクルの「American Tune」を聴く。彼らが解散したのは、どこにでもあるエゴのぶつかり合いで仕方がなかった。それでもやはり、ガーファンクルの<天使のような声>は美しい。この演奏は、1981年9月19日、ニューヨーク、セントラル・パークでのコンサートでのコンサートのものらしい。
2022.04.29
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実は、讃美歌「O Sacred Head・・・」は、「American Tune」以前に別のポピュラー曲で使われていた。1947年、アメリカのフォーク・シンガー、トム・グレイザー(Tom Glazer)がこのメロディに乗せて「Because All Men Are Brothers」という曲を発表していた。みんな兄弟・姉妹なんだから一つになろうよ、という社会的な抗議の歌としてだった。このバージョンは、アメリカのフォーク・グループ、ピーター・ポール&マリー(いわゆるPPM)も1965年に取り上げている。西欧では、讃美歌がポピュラー音楽化されてヒットすることはそう珍しいことではないようだ。よく知られたものを二つ挙げると、「Amazing Grace」、僕のよく聴いたバージョンはAretha FranklinやRod Stewartのもの。もうひとつ、「Morning Has Broken」、これはCat Stevensがヒットさせた。これらのヒット曲は讃美歌の歌詞をそのまま使っている。Tom Glazerの「Because All Men Are Brothers」は歌詞を変えた作品で、その点で珍しい部類に入るのではないだろうか。ユーチューブでピーター・ポール&マリーの「Because All Men Are Brothers」を聴く「O Sacred Head・・・」の楽譜(4声の上2つのみ表示)を参照してほしい。主旋律(一番上)ではほとんど4分音符、たまに8分音符、が連続し、それぞれの音符に歌詞の1つの音節(シラブル)が充てられている。1947年のTom Glazerバージョンの歌詞も、多かれ少なかれ同じである。音階的にはほぼ全て高低2度づつしか動かない。曲の構成は<A・A・B・C>の4つのセクションが4小節ずつ、合計16小節という型に嵌ったものである。近代のポピュラー音楽としては刺激が少ない。ポール・サイモンはこの曲を見事に加工した。僕のような素人にもわかる点をいくつリストする。▶ 符割の堅苦しさを崩すためにシンコペーションを幾つか入れて裏ビートにアクセントが来るようにしている。「American Tune」の最初の1小節「Many is the time I've been mistaken」の部分で見ると、2拍目と4拍目のアクセントを裏ビートに移している。つまりアクセント・強拍の位置は2.5拍目の「been」と4.5拍目の「(mis)taken」に動いている。結果的に2小節目の第1拍はアクセントを失っている。▶ 原曲の構成では上に示した最初の<A>セクションと二度目の<A>セクションは全く同じメロディだが、サイモンの場合、二度目の<A>セクションではメロディを若干変えて、<A・A>ではなく<A・A'> としてバリエーションを付けてある。具体的には、後半の旋律を3度上げて盛り上がりを持たせている。「American Tune」の一連目の歌詞でいうと、「certainly misused」の部分が該当する。▶ <A・A'・B・C>の<B>セクションの部分の歌詞に「oh, but I'm alright, I'm alright」という慣用表現を挿入して、歌が語るように自由に流れるようにしてある。▶ <B>セクションの部分の終結は、原曲ではキーCでいうとAの和音を使っているが、これだと(宗教的な)高揚感が出過ぎて曲がここで立ち止まってしまう。そこで、サイモンはごく普通のAm/A7からD7で<C>セクションに流れていくコード進行を使っている。▶ <C>セクションの3小節目、第1連の歌詞でいうと「・・・bright and bon vivant」という小節は通常の4拍ではなく6拍になっている。楽譜上は、6/4を1小節入れてあると考えても4/4に2/4を1小節足してあると考えてもどっちでもいいと思う。歌詞の都合上か旋律の必然からか、サイモンはどうしてもここで2拍足して、次に来る「so far away from home, so far away from」という部分を4小節にして締めくくりたかったようだ。結果的には、これが新たなセクションDになり、全体が<A・A'・B・C・D>という元の讃美歌よりやや複雑な構成になっている。小節の数でいうと<4, 4, 4, 6, 4>となっている。 これらの工夫に加えて、サイモンはサビ部分を足している。メロディも歌詞もドラマチックなこの部分は、6拍子や3拍子の変則小節を交えながら、<A・A'・B・C・D>へと立ち戻っていく。というわけで、ポール・サイモンが讃美歌を大改造して作り上げた「American Tune」は、彼の巧みなテクニックで独自の楽曲になっている。しかし、サイモンの独創性が本当に輝いているのは、この曲の歌詞だと僕は思っている。ユーチューブでMeg & Lucaの「American Tune」を聴く。Megのハスキーボイスによる独特なAmerican Tune。(注)ユーチューブは広告が多いので、僕の場合、広告が順次消えるまで30秒ほど再生ボタンを押さずに待ってから、始めるようにしている。自動再生のオプションをオフにしておかないといけない。「広告をスキップ」というボタンを押すのもありかも知れないが、どんな悪影響があるのかもわからないので、押さない。
2022.04.22
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大学受験を終えた日、その町まで一緒に来た友人二人と僕は、長い長い精神の拘束から解き放たれた無謀さを振り回し、学生服と革靴のまま山歩きを敢行した。ほぼ遭難しかけたものの悪運強く町まで下りてきた僕たちは、そのまま映画館に入り、監督マイク・ニコルズ、主演ダスティン・ホフマン(ベン)とキャサリン・ロス(エレーン)、そしてベンを誘惑する中年女性にアン・バンクロフトを配した「卒業」(The Graduate)を観た。その映画で流れたSimon & Garfunkelのサウンドトラックは秀逸で、「Sound of Silence」やイギリスの伝統歌謡に由来する「Scarborough Fair」が描くたどたどしい青春の甘味さはもちろんのこと、「Mrs. Robinson」の軽妙な使い方も抜群で、ベンがエレーンを略奪するために真っ赤なアルファロメオで結婚式場に駆けつける数分のシーン、ガソリンが徐々になくなっていくとともに、ギターの<タンタタ、ウッタン、ッタンタン>というバッキングのテンポが落ちて行き、遂に車が止まってしまう時の一所懸命の滑稽さは、僕たちのその日の心情と行動に申し分なく合っていた。そのSimon & Garfunkelは1970年にいったん解散し、ソロに転じたポール・サイモン(Paul Simon)が1973年に発表したのが「American Tune」で、アルバム「There Goes Rhymin' Simon」のB面1曲目に入っていた。日本ではアルバム・タイトルが「ひとりごと」、「American Tune」は「アメリカの歌」として発売された。僕は、ポール・サイモンの熱狂的なファンではなかったので、ソロになってから発表された「American Tune」のことはまるで知らなかった。たまたまユーチューブを散策していて、Josh Turnerというミュージシャンと女性ボーカリストがこの曲をカバーしてるのに出会い、単純な音の動きが醸し出すスピリチュアルな雰囲気、歌詞の方も理解できる限りでは人生を思索するような内容、全体として僕の好みだった。ユーチューブでJosh Turner+Lea TaubのAmerican Tuneを聴くJosh Turnerの動画には注がついていて「ギター伴奏の和声はバッハのマタイ受難曲による」とあった。なんのことか興味を惹かれて調べてみると、「American Tune」のメロディにはかなり複雑な歴史があった。英語版のウィキペディアなどによると、サビを除く「American Tune」のメロディは、「O Sacred Head, Now Wounded」というキリスト教の讃美歌にもとづいているとある。そしてバッハの「マタイ受難曲」にもこの讃美歌が数回取り入れられているらしい。つまり、サイモンもバッハも、この讃美歌を拝借していたということだ。一方、讃美歌「O Sacred Head・・・」の出自も解明されていた。詞の方は、ドイツの牧師、パウル・ゲルハルト(Paul Gerhardt)が11-12世紀のラテン語の詩をもとにして1656年に讃美歌にした。原語のドイツ語では「O Haupt voll Blut und Wunden」という。メロディの方は、それより前の1600年頃、バロック初期のドイツ人オルガン奏者、作曲家のハンス・レオ・ヘスラー(Hans Leo Hassler)が当時のポピュラー音楽として作ったものだった。讃美歌の英語訳が登場したのは1752年のこと。日本語訳は「血しおしたたる」もしくは「おお、血と涙にまみれた御頭(みかしら)よ」とされている。ユーチューブで讃美歌「血しおしたたる」を聴く細かいことが気になる僕は、「マタイ受難曲」(英 St Matthew Passion)のどこでこの讃美歌が使われているのかを確認したくなった。「マタイ受難曲」は通常2時間30分を超える長大な作品、2部構成、全部で68の曲またはセクションから成っている。幸いユーチューブで見つけた、イヴァン・フィッシャー(Iván Fischer)指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(蘭Concertgebouworkest)演奏(2012年、リンクはここ)の説明欄には、68セクションすべての時間位置、演奏形式(chorus, chorale, aria, arioso, recitative)そして始まりの詩句が書かれてあった。勉強不足でよくわからないが、chorusは一般的な合唱でchoraleは讃美歌の為の独特の4声合唱形式ではないかと思う。よって、68曲のうちchorale形式のものだけを確認すればいいわけだ。(あとでわかったことだが、英語版ウィキペディアの「St Matthew Passion」の項には、全choraleの作曲者、題名、冒頭のドイツ語詩句、セクション番号などが表になっていた。これを使ってPaul Gerhardtの「O Haupt voll Blut und Wunden」だけを確認すればよかったのに。)件の讃美歌は全部で4回使われていた。セクション番号と時間位置(時:分:秒で表示)そして冒頭のドイツ語詩句は次の通り。それぞれ1分から2分程度の演奏時間。#15 00:33:47 Erkenne mich, mein Hüter#17 00:35:55 Ich will hier bei dich stehen#54 02:04:05 O Haupt voll Blut und Wunden#62 02:24:32 Wenn ich einmalここまで書いてもう長くなった。讃美歌「O Sacred Head・・・」と「American Tune」にメロディや符割の違いがあるのかを検討しようと思うが、それは次回の話にしよう。
2022.04.21
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深川でテニス会に参加する予定で前日夜北国から東京に戻ってきた、にもかかわらず雨で流れた。まるで誰かが嫌がらせをしているとしか言いようのないタイミングで、会の始まる2時間前にそれまで泣きそうになりながらも堪えていた空がとうとう二筋三筋零しだした。泣くなら泣くでちゃんと泣いてくれよ、じゃないと諦めがつかないだろ、こちとらテニスの後は雨になるのはほぼ確実、それなら自転車で帰るのにテニス用具が濡れては困ると先を読み、100円ショップで雨合羽とバッグカバーを買ってきたのだぞ、たいした出費ではないにしても、すべてを無駄にしてくれるとはいい度胸してるじゃないか。と脅してみたところで仕方がない。雨粒は取り返しのつかないほどに落ちてきた。深川に行くときは永代橋を渡っていくことが多い。橋を東に渡り切ったところで大横川沿いの細い道に入る。永代通りを行った方が距離的には近いのだろうが、門前仲町の人通りの多い歩道を避けるために小道を走ることにしている。川沿いを数分行くと突き当たるので、左折して北上すれば深川テニス場にすぐ着く。テニス場の裏には深川不動堂が、向かいには数年前に宮司の家督問題に起因する殺人事件のあった富岡八幡宮がある。100年ほど前、永井荷風が何処へ行くという当てもなく四谷見附から築地両国行の電車に乗った時のことを書いている。地方出身の車掌が「スントミ町」と発音する新富町を過ぎ茅場町の手前で、当時はよくあったのだろうか停電の所為らしく、先の見えないほどの数の電車が立ち往生していた。深川行きの乗換切符を車掌から渡され、そのつもりはなかったが「自分は浅ましいこの都会の中心から一飛びに深川へ行こうーー深川へ逃げていこうと云う押えられぬ欲望に迫(せ)められ」、電車を乗換え永代橋を渡った。短編「深川の唄」の荷風は、ここで深川の思い出に浸る。アメリカやフランスを訪れる前の荷風には、深川は存在を癒してくれる場所だった。「水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた処であった。」まだ深川行きの電車はなく、永代橋は工事中、小さな蒸気船や櫓船(ろぶね)で行くしかない。深川不動の賑わい、根下りの銀杏返し(銀杏返しの一変形だろうか?)や印半纏(しるしばんてん)の頭、水に映る人々の衣服や玩具や提灯の色など絵画的な眺め。洲崎(すさき)の遊郭に夜おそく船で通ったころ(深川の一部、今の東陽町あたりだろうか、吉原と共に東京の二大遊郭として有名だった)、料理屋の二階から聞こえる芸者の唄、酒に酔って喧嘩している裸の船頭、水に映る月、男と酒を飲んでいる女、それらの景色に美しく悲しい詩情を感じていた。尾崎紅葉たち硯友社の江戸情緒あふれる芸術に溺れていた。「音波の動揺、色彩の濃淡、空気の軽重」といった西欧の芸術には心を惹かれなかった。荷風は永代橋の向こう岸で電車を降り、深川の通りを歩き(今の門前仲町あたりだろうか)、とある横町に幟(のぼり)のようにつるされた紺と黒と柿色の手拭に目を惹かれた。深川不動の社だと気付きその方向に曲がった。不動尊の入り口には「内陣 新吉原講」と金字で書かれた鉄門がある。(写真を売っているサイトのようなのでコピーをすることは控えるが、ここで鉄門の写真を見ることができる。洲崎の遊郭の主人たちが寄進したものだろうか。)堂に上がる石段の下には易者の机や露店が二三出ていた。その傍に人だかりができていて覗いてみると、坊主頭の老人が阿呆陀羅経(あほだらきょう)をやっている(江戸時代末期から現れた大道芸人のような物乞い、木魚をたたきながら経文まがいの文句と節で語る)。となりには盲目(めくら)の男が三味線を抱えてしゃがんでいた。やがて男がチントンシャンと弾き出した。荷風は、その男の歌沢節(端唄をもとにした俗曲の一つ)に引込まれた、声は枯れているし、三味線の一の糸には聞くべきものもないが(荷風は「少しのさわりもない」と書いている)、その節回しと拍子の間取りが山の手の芸者にはない確かなものだった。尊敬の念さえ感じながら、荷風はその男の生い立ちに想像を巡らせた。生まれついての盲目ではないだろう、ある程度の教育があったに違いない。しかし江戸伝来の趣味性と「明治」という時代がうまく嚙み合わず、不運にもやがて家産を失い盲目になった。不運だが不幸ではない、眼は光を失ったが、却って電車や電線や薄っぺらな西洋づくりを打ち仰ぐ不幸は知らないのだから。たとえ不幸と感じるときがあったとしても、江戸の人は我ら近代人のように嫌悪憤怒を感じることもなく煩悶に苦しむような執着心もない、やがて諦めて自分で自分を冷笑する心の余裕がある。夕日がこの盲目の男の横顔を照らしている。ふと振り返ると西の空に紺色の夕雲が棚引き沈む夕日が生血の滴るように燃えている。荷風は一種の悲壮感を感じた、夕日の沈む西の方向には早稲田の森があり本郷の岡がある、そこは日本の学問の中心、東洋のカルチェラタンだ。ここはなんと遠く離れているのだろう。荷風は端唄を聴きながら、江戸の情緒から離れたくないという感覚の世界と、それに比べてどれだけ安っぽく薄っぺらに思えようとも、知と美の最先端を行く西洋の文化をもっと吸収しなければならない、という義務感に引き裂かれていた。永代橋は東と西の狭間、荷風自身の象徴かもしれない。家の書斎ではワグナーとニーチェが待っている、と荷風は結ぶ。荷風が「深川の唄」を発表したのは1909年2月(30歳)、アメリカに渡ったのが1903年9月、フランスは1907年7月とある。洲崎遊郭に通っていたのはそれ以前、1902、03年頃のようだ。盲目の男の唄った端唄の句を、作品の中で荷風はちらりと見せてくれている。歌いだしの「秋の夜は~」と三味線の三の糸が頻りに響く「おとするものは~鐘ばかり」という部分だ。今の時代、これだけあれば検索できる。案の定、「秋の夜」という端唄に行き着いた。桃山晴衣(ももやまはるえ)の弾き唄いをここで聴くことができる。もとは「月見ぬ」だったのを桃山晴衣は「月見る」と変えて歌っているそうだ。秋の夜は長いものとはまんまるな月見る人の心かも更けて待てども来ぬ人の訪(おと)ずるものは鐘ばかり数(かぞ)うる指も寝つ起きつわしゃ照らされているわいな普通に読めば男を待つ女の心情だが、別の読みもあるそうで、佐渡金山に流された男が指を折って月日を数えながら、赦免の船を待ち月光に照らされている、とか。荷風はどちらの読みでこの端唄に感動していたのだろう。
2022.03.20
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大泉洋司会のSongsという歌番組に出演していた、二人組のユニット、Yoasobiをはじめて聴いた。ここのところ売れに売れているグループらしい。2年前に発表されたデビュー曲の「夜に駆ける」は、2020年の紅白でテレビ初披露となる前にすでにそのストリーミング視聴回数が1億回に達し、今年の8月頃には6億回を超えたとかいう怪物的ヒットだ。「夜に駆ける」は確かにすばらしい。特にすごいと思ったのは、Ayaseの書いたメロディと曲構成そしてキーボードのアドリブ、ベースの(多分)やまもとひかる、ギターの(多分)Assh。やまもとひかるのユーチューブのビデオを聴くと、ほんとにすごい、こんなに速く、スラッピング奏法を交えて5弦ベースを自由に操る、これが現代のベースなのかと感心する。Ikuraの歌も音程がしっかりしていて細かく変化するメロディを見事にこなしている。彼女の声は、たとえばミーシャのように聴く者を圧倒するようなタイプではないが、このバンドのサウンドに溶け込んでいてとても心地よい。曲構成は、通常のA-A-B-Aではなく、前半はA-Aを終えたところで、16分音符を散りばめたBが入り(いつだってチックタックと鳴る世界で何度だってさ、触れる心無い言葉うるさい声に涙が零れそうでも)、自然にCというサビに流れ込む。前半が終わるとキーボードのアドリブが入り、後半のAメロが一度流れ、そのあとに新しいラップ調のDメロが挿入される。もう一度アドリブとDメロが繰り返され、再び「チックタックと」のBメロに戻る。そしてCのサビが来るのだが、半音下げの転調が施され歌詞の流れに合わせてある。この後Cのサビがもう一度転調され、今度は短3度上げて登場しエンディングへと転がり込む。最後の2小節の歌詞は「二人今夜に駆けだしてく」だが、最終小節の3拍目でバッキングはピタッと止み、4拍目はIkuraの声だけで「てく」と意味深に呟かれ、次の小節でインストのバッキングが再開されエンディングで終了する。全般に短調のペンタトニックが使われて和の雰囲気を出している。Yoasobiの面白さはその音楽と演奏だけではない。制作のコンセプトにある。ユーチューブにあるインタビューやウィキペディアの記事によると、AyaseとIkuraからなるYoasobiが結成されたのは2019年10月。始まりは、「monogatary.com(モノガタリー)」(注1)のスタッフが、小説を音楽にするユニットを作ってみたいと発案し、Ayaseに声をかけてプロジェクトが始動したという。ボカロイド・プロデューサー(ボカロP、注2)だったAyaseは、シンガーソングライターとして活動していた幾多りらを発見し声をかけた。幾多りらはIkuraとして参加を決めYoasobiが生まれた。ユニット名のYoasobiはAyaseの命名で、二人のいままでの活動は「昼の仕事」として継続し、夜は遊び心でこのユニットのコンセプトを追求しよう、という発想だった。映画音楽の場合だと、映画という媒体に従属する音、つまり映画が主で音楽は映画の効果を高めるための従という関係になる。小説を音楽にするというYoasobiのコンセプトは、小説の内容から新しく想像・創造される想念(心に浮かぶ思いの塊)を音楽化したものであると言える。原作に従属するものではなく、ある意味独立した想念だ。この音楽を聴く人は、もちろんそれ自体として聴くこともできるのだが、きっかけとなった小説を読むことで、二つの媒体(あるいは二つの想念)の相互関係から生み出される別の経験をすることが出来る。僕たちの心的生活では、これは珍しいことではなく、たとえば小説ダビンチ・コードの舞台になった寺院や彫像を訪れることで本の内容に現実の肉づけができ、逆に寺院や彫像を見方が変わるといった、相互作用によって読者の体験は変貌する。Yoasobiの場合、これを意図的に、システマティックに提供することで、視聴者の心的体験とSNSのコミュニケーションは誰も想定していなかった発展増殖を生み出すと考えられる(未知の領域を獲得する視聴者)。商業的にも成功することは間違いない。「夜に駆ける」は星野舞夜の小説「タナトスの誘惑」を原作として発想された作品だ。小説というよりも、僕のような古典的な頭にはショート・ストーリーというほどの長さである(このサイトで読める)。タナトスとはギリシア神話の擬人化された死のことで、フロイトの精神分析では性の本能に対する死への衝動である。主人公の青年・僕はLINEで「さよなら」というメッセージを彼女から受け取る。飛び降り自殺を予告する連絡で、これが初めてではない、もう四度目だ。そのたびに僕が思いとどまらせていた。彼女はタナトス、死の衝動に冒されている人間だった。なぜ必ず僕に連絡をくれるのか、もしかしたら僕に自殺を止めて欲しいのだろうか。「なんでキミはそんなに死にたいの」と訊ねる僕に、彼女は「死神さんが呼んでいるから」と答える。「もう嫌なの、早く死にたいの」と彼女は僕を突っぱねる。彼女の自殺を押しとどめようと繰り返されるやりとりに辟易した僕はとうとう、「僕も疲れた、僕だって死にたいよ」と思わず口にする。すると彼女が顔を上げてニッコリと笑った。心の中でどす黒いものが消える感覚がした。ああ、そうなのか、彼女が僕に求めていたのは、自殺を止めて欲しかったんじゃなくて、僕を一緒に連れて行きたかったんだ。そうして二人は夜空に向って駆けだした。そう、少女はタナトスに冒されていた人間ではなくタナトスそのもの、つまり死神だったのだ。原作から誘発されたAyaseの詞を読んでみると、前半では「騒がしい日々に笑えないキミに思いつく限り眩しい明日を・・・怖くないよいつか日が昇るまで二人でいよう」と少女に希望を与えて守ろうとする僕がいた。ところが後半では「変わらない日々に泣いていた僕をキミは優しく終わりへと誘う・・・繋いだ手を離さないでよ、二人今、夜に駆けだしてく」、と僕はやっと理解する、毎日泣いていたのは自分だ、タナトスが優しくここから抜け出す道へと誘ってくれている、さあ夜に駆けだして行こう。僕の自殺、これがストーリーの結末だ。ハリウッドの映画のパターンではよくこういうことが起きる。というか、ハリウッドの脚本家はどんでん返しの処方箋を知っていて、そのパターンに則ってシナリオを書いていることが多い。Yoasobiプロジェクトの元になっているショートストーリーは、ハリウッドのシナリオを小規模にしたものとも言える。Yoasobiの作業は、それをいわば音楽的に言い換える(paraphrase)ことのように思える。普通、シンガーソングライター(あるいはプロの作詞家でもいいが)がストーリーや情景を書く場合、彼・彼女は自分の経験と読み聞きしたものそして自分の限られた想像力を踏み台とするしかない。これをもとにできた作品を広い層の視聴者に配信する、いわばトップダウンの配信スタイルだ。ところが、Yoasobiのプロジェクトでは、ストーリーの源は無限である、年齢も経験も関心も異なる広い層がどこかに投稿したものであり、ボトムアップ方式と言える。たとえば、13作目の曲「ツバメ」の原作は、全国の子供たちから送られてきた中から選ばれた、乙月ななの「小さなツバメの大きな夢」だった。子供らしいピュアな理想主義で差別や所得格差を否定し小さな愛情で世界を変えよう、という主張が微笑ましく語られている。「僕らは求めるものも描いてる未来も違うけれど、手と手を取りあえたならきっと笑い合える日が来るから、僕には今何ができるかな。誰かが手に入れた豊かさの裏で、帰る場所を奪われた仲間、ほんとは彼も寄り添い合って生きてたいだけなのに。悲しい気持ちに呑み込まれて心が黒く染まりかけても、許すことで認めることで僕らは繋がりあえる・・・」ツバメ夜に駆ける注1 monogatary.comは、ソニー・ミュージックエンターテインメントが運営する小説やイラストを中心とするソーシャル・ネットワーキング・サービス。注2 ボカロPとは、これまた耳慣れない言葉だが、大雑把に言うと、自分の作ったメロディを音声合成ソフトに歌わせて曲をプロデュースし、それを動画投稿サイトに投稿する作曲家のことらしい。ボーカロイドはもともとヤマハが開発した音声合成技術だが、その技術を使った様々な応用製品のことも総称的に指すそうだ。
2021.12.13
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気候モデルの研究でノーベル物理学賞が出たとは驚きだ。天文、数学、地球科学、環境、進化などの分野はノーベル賞の対象にはならない(あるいは、かなり難しい?)ので、そういう分野の為に1980年にクラフォード賞がクラフォード夫妻によって設立され、クラフォード財団とスウェーデン王立科学アカデミーが共同で運営している。今回ノーベル賞を受賞した眞鍋淑郎氏も2018年にクラフォード賞を受賞している。気候モデルについて、トロント大学のコンピューター科学教授のSteve Easterbrookのブログポストを参考にして(注1)、少し覚書を書いておこうと思う。なにしろ歳なので、どこかに書いておかないとすぐに忘れてしまう。どこに書いたのかも忘れてしまうので、楽天ブログが、今のところ、一番便利なのだ。気候モデルの開拓者的存在はプリンストン大学高等研究所のNorman Phillipsで、彼が1955年に発表した数値モデルは、今日「General Circulation Model(GCM、大気循環モデルと日本語版Wikipediaでは訳されている)」と呼ばれるものの嚆矢である。Phillipsのモデルは、太陽からの熱と地球の回転の影響で、地球上の272地点での気圧がどう変化するかを数値的に予測する、比較的単純なものだった。しかし、この数値モデルがきっかけとなって1960年までに、アメリカ、日本、スウェーデンで数値的気象予報の活動が始まった。日本気象庁の数値予報業務の開始は1959年とある。一方、1950年代後半から1960年代にかけて、Phillipsのモデルに触発されて、より長期の変化を予想するための気候モデルの研究が始まった。現代のモデルにつながる先駆的な研究に3つあり(注2)、それぞれに日本人研究者が関わっている。・ US Weather Bureau(現在のNational Weather Service、連邦気象局)のGeneral Circulation Research Laboratory(大気循環モデル研究所)のモデル(1963年頃)。所長Joseph Smagorinskyと東京大学から引き抜かれた(?)眞鍋淑郎が主役。この研究所は後にプリンストン大学に移って、Geophysical Fluid Dynamics Laboratory(GFDL、地球物理学流体力学研究所)となる。・ UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)のモデル(1963年頃)。Yale Mintzと気象庁から引き抜かれた荒川昭夫が主役。・ National Center for Atmospheric Research(NCAR、国立大気研究センター)のモデル(1967年頃?)。Warren Washingtonと笠原彰が主役。・ 実は、この3つに加えて、Lawrence Radiation Laboratory(後のLawrence Livermore National Laboratory)のCecil Leithがほぼ単独で開発したモデルが1960年頃には一応完成していて、おそらくこのモデルが本格的な気候モデルの最初のものだという話もある(注3)。しかし、Leithはこの研究を熱心に発表しなかったようで、ほとんど知られていない。これらのモデルはそれぞれに特徴がある。(専門的な詳細は理解できないが)たとえば、眞鍋らのモデルは大気圏を9層に分割してありその点では(当時としては)よりリアリスティックであるが、地表面は一様な平面として扱われている。これに対して、荒川らのモデルでは、大気圏は2層のみであるが、地表は実際の地形が取り入れられている。今回の眞鍋の(そしてHasselmannの)受賞は、通常の理論モデルだけでは容易に予想できない気候変動の理解に向けて、数値的シミュレーションによる方法で起動力を与えた、ということに対する評価であるとともに、気候変動への警鐘を激しく鳴らすことが目的だったのだろう。(まだ受賞理由を読んでいないので僕の勝手な推測である。)上に述べた初期の研究で功績のあった他の研究者たちの多くはすでに亡くなっている。Norman Phillips(2019年)、Joseph Smagorinsky(2005年)、荒川昭夫(2021年3月)、Cecil Leith(2016年)。なお、眞鍋が2001年に日本を去った理由を日本語版Wikipediaは次に様に書いている。「当時のマスメディア報道によれば、地球シミュレータを利用しての他研究機関との共同研究が、所管元である科学技術庁の官僚から難色を示されたことが辞任のきっかけとされ、日本の縦割り行政が学術研究を阻害していることへの不満による「頭脳流出」であると報じられた。」注1 "Nobel Prize for Climate Modeling"、http://www.easterbrook.ca/steve/2021/10/nobel-prize-for-climate-modeling/注2 "The evolution of complexity in general circulation models" by David Randall.注3 " At the dawn of global climate modeling: the strange case of the Leith atmosphere model" by Kevin Hamilton in Hist. Geo Space Sci., 11, 93–103, 2020.
2021.10.06
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(聞き手、私)全米(US)オープンテニスの二週間があっという間に終わりました。波乱万丈千状万態無常迅速の試合の数々でしたが、今日はテニス解説者のムダガミさんにお越しいただきましたので、感想の一つ二つをお願いしたいと思います。(ムダガミ)いやー興奮したね、観客の歓声がぶんぶん渦巻いてるし、それに電子線審(electronic line calling)だからさ、セリーナと口喧嘩する線審もいない、線審の方々には申し訳ないけど、これで選手たちが文句を言う無駄な時間が無くなった。文句を言ってもひっくり返ることはまずないからね。人間ていうのは不思議なもんでさ、同胞の人間に言われると腹を立てるくせに、機械に判定されると従順なんだからね。会社の上司とかも全部AIにすればいいんじゃない?上司に対するモラハラとかパワハラの訴えがなくなるんじゃない。(聞き手)すみません、ムダガミさん、セリーナのことはいいんですよ、出場してないんですから。(まったく余計なことを言うオヤジだな)それにムダガミさんの人間論を聞きたいわけじゃないんですから。(ムダガミ)メンゴメンゴ、え~と、まずオレにはあまり興味のない女子の話はとばそうか。だいたいさ、女子のシングルスは3セットの2セットを取った方が勝ち、男子は5セットの3セットだよ、試合時間が段違いなんだよ、女子の場合はほとんどが2時間以内、長くても3時間ちょっとでしょ、男子は4時間以上の試合がごろごろしてるわけよ、もちろん長けりゃいいってもんでもないけどね、プレーの質だって男子の方が上でしょ。(聞き手)でもですね、女子シングルス決勝なんか、観客もかなり盛り上がってましたよ。(ムダガミ)シンデレラ・ストーリーに酔ってんじゃないの?予選から勝ち上がってきた18歳ともう一人の19歳の新人の顔合わせだったからね。エンタメだからストーリーが金になればいいわけだけどね、試合としてはいまいちじゃない?あれでもって、賞金額は男子と同額なんだよね。それが解せない。労働量というものを考えたら男子の時給は半分か?まあこれは社会の流れの問題だからオレが口を出したところで、何が変わるわけじゃないんだけどさ。(聞き手)(当たり前でしょう、あんたみたいな時代遅れの保守ガチガチはそんなことには口を出さないこと。)そういえば、決勝に進出したカナダのフェルナンデスは大坂を倒したんでしたね。(ムダガミ)フェルナンデスは第3シードの大坂に始まり、16シードのケルバー、5シードのスビトリーナ、2シードのサバレンカを破ったわけだから、大物食いの18歳(途中で19歳になった)だったのはすごい。大坂はかなりショックを受けてまた鬱が悪化したいみたいだけどさ、オレの考えではね、彼女の問題は頂上に上り詰めたことですごいプレッシャーを受けてるんだね、自分も含めた世界の期待に適う成果を上げないといけない、という風圧ね。下にいて挑戦している時はある意味楽なんだよ、上に立った時にそれを維持しなきゃいけないという責任に押しつぶされてるんじゃないの。それに挑戦する方は、たとえば今回のフェルナンデスのようにさ、失うものがないわけだから、がむしゃらに向ってくるしね。大坂はこの精神的な問題をどう解決するかに、今後がかかってるね。テニスはプレッシャーをうまくコントロールできた方が勝つわけよ。それと、もう一つの面は、トップレベルの選手と30位とか50位以下の選手の間のテニスの力量の差がね、女子の方はあまり開きがないんじゃないかな、男子に比べて。だからいつでもどこでも番狂わせが起きるのよ。(聞き手)そうですね。男子の場合は、不動のビッグ3が長年居座っていましたしね。フェデラー、ナダル、ジョコビッチの強さは桁外れでしたからね。(ムダガミ)アンビリーバボーだよ、2003年のフェデラーのウィンブルドン優勝を先駆けとして、2004年から2021年まで全部で71回のグランドスラム(四大大会、昨年のウィンブルドンはキャンセルされた)があったわけだけどさ、ビッグ3がこのうち何回優勝したか知ってるかい?(聞き手)数えたことないですけど、半分くらいですか?71のうち35回くらい?(ムダガミ)あま~い、キミ何勉強してんの、この3人で59回、つまり83パーセントほどだぜ。とにかくね、ビッグ3の強さはこの18年間異常にだったのさ。なかでも全仏のナダルなんて、向うところ敵なし、18年間で13回優勝してるんだよ。怪我さえなかったらもっと優勝してただろうね。あの無敵のフェデラーがどうしても全仏で勝てなくて、2006年から3年連続で決勝でナダルに屈した、あの時は確か涙してたなー。そのフェデラーも2009年にようやく全仏を獲ったけどね。まあ、全仏は赤土のコートだから、球速は遅くなるし、バウンドすると跳ね上がるから、これがナダルのトップスピンを主体とするスタイルにピッタリだったわけ。「頬に赤土、右に左に、すっぴんナダル」なんていう川柳があるくらいだからね。(聞き手)何なんですか、それ?ムダガミさんの即興ですか?(ムダガミ)まあ、聞き流してちょうだ~い。それにしても、この18年間にけっこう実力のあった他の選手は可哀そうだよね、この3人がスクラム組んで立ちはだかってたわけだから。錦織もその犠牲者の一人だね、別の時代に活躍していればグランドスラムの一つか二つ取ってたかもな。アンディ・マレーも一時はビッグ4の一人と言われたけど、今怪我から復帰しようとしている姿は勇気をもらえるね。(聞き手)しかし、今年のUSオープンでとうとう、新時代の到来が垣間見えたんじゃないですか。(ムダガミ)ナダルもフェデラーも出場してなかったから、年間グランドスラムを狙っていたジョコビッチにとっては千載一遇のチャンスだったのにね。その夢がガラガラと崩れ落ちて、最後のコートチェンジの時にジョコビも泣いてたね、2セットダウンの第3セット、もうこれまでと感無量になったんだろうね、この日の為に努力してきたのについに夢潰えたり、という脱力感かねー。「限りなく透明なブルー」を見つめるような虚ろな眼差しも見せてたな。(聞き手)そのフレーズはどこから来たんですか?(ムダガミ)オレの名前から察してほしいな。これも聞き流してちょうだ~い。それにしても、決勝の相手が悪かった、ロシアの怪童・メドベージェフ、今大会ここまで落としたセットはたったひとつ、あとは全てストレート勝ち、スタミナたっぷり余ってたもんな。対するジョコビは結構セットを落としてたからね、準々決勝のベレッティニ戦が3時間半、ズベレフとも3時間半戦ってきたから、スタミナ的に大分消耗してたのかな。メドベは、とにかくインクレディブルな選手だ、身長198センチなのに、前後左右驚異的なスピードで走り回り、ジョコビのドロップショットなんか屁の河童だよ。オレの直感だと、こいつの天下が来るかもな。メドベとズベレフとチチパス、これが新御三家になるかな?彼らはさ、3人ともロシアの血を引いてるんだよ。あるいは、イタリアン・ピザコンボが躍進するか、カナダやアメリカも若手がのびてきてるから2022年は楽しみだね。(聞き手)ジョコビの準優勝スピーチはどうでしたか?(ムダガミ)メドベの方は妻への愛を語ってたけどね、ジョコビはこの決勝で負けて、観客の愛を勝ち取ったんじゃない?どっちかというと、ニューヨークではあまり好かれている選手ではなかったんだけど、決勝で苦戦しているジョコビにみんながガンバレと声援を送った、これにはジョコビも感動したようだよ。(聞き手)他にもいろんなドラマがあったんですが、もう時間になってしまいました。(まったく無駄話ばかりするからだよ、ムダガミ!)今日はどうもありがとうございました、ムダガミさん。(ムダガミ)どうもどうも、次はオーストラリア・オープンだね。(だから~どうした?もう呼ばないよ)
2021.09.13
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今西錦司をちょっと脇に置いてダーウィンの「種の起源」(Origin of Species)をパラパラとめくっていて、ふと気になりはじめた、evolution(「進化」)という言葉はいったいどこで使われてるんだろう。テキスト検索をしたところ、面白いことがわかった(注1)。「種の起源」初版(1859年)にevolutionという言葉は全く使われていない、evolveという動詞がただ一度だけ、最後の最後で次のように出てくる。「・・・from so simple a beginning endless forms most beautiful and most wonderful have been, and are being, evolved.」 Evolutionの代わりに、descent with modification(修正しながらの世代継承)もしくはtransmutation of species(種の変容)という句が使われている。1872年の第6版にはようやくevolutionやevolutionistという言葉も数カ所で使われている。ということは、「evolution=進化」という言葉自体は、ダーウィンが使ったから広まったものではなく19世紀後半の西欧社会一般にじわじわ普及していたもので、ダーウィンも第6版になって一部にそれを採用した、ということのようだ。その間の歴史については、あまりにも込み入っていて全貌は見渡せない。いくつか目についた点だけを以下に書きとめておこう。19世紀中ごろまでは、evolutionという言葉は主として胎児が徐々に形を成していくことに使われていた。語源であるラテン語の意味は、巻物状のものを開く(unroll)とか折り畳んであるものを開く(unfold)、というもので、胎児の形成に使用するのは納得がいく。もっとも、胎児の形成は当時の発生学(embryology)では、既に存在しているミニチュアが成長していくという考え方もあれば(こちらの方がラテン語の原義に近いか)、卵が徐々に分化して部分が形成されていくという理論もあり、そのどちらにもevolveが充てられていた(注2)。ダーウィンの友人でもあった地質学者のライエル(Charles Lyell)が、その著「地質学原理(Principles of Geology)」の第2巻で、evolveとevolutionを数回使っている。「・・・in support of the hypothesis of a progressive scheme, but none whatever in favour of the fancied evolution of one species out of another (下線は引用者、2nd ed.、1832年、p.63)」 種は斬新的に変化していくが、一つの種から別の種が分岐するようなevolutionという現象には証拠がない、とライエルは書いている。evolutionのここでの意味はtransmutation of species(種が別の種へ変異していくこと)だった。ライエルは、1832年の時点ではダーウィンのtransmutation of species説を否定していた(注3)。一方、19世紀中ごろから活躍した社会思想家にハーバート・スペンサーがいた(Herbert Spencer、1820-1903年)。1851年の著作「Social Statistics(社会静学)」は、日本でも1884年に松島剛訳「社会平権論」として紹介され、自由民権運動に大きな影響を与えたことで知られている。スペンサーの1852年のエッセー「The Development Hypothesis」(注4)には、「Theory of Evolution」という言葉が、transmutation of speciesと同義で使われている。どうやらこの頃には、evolution = transmutation of speciesという同義関係は比較的広く受け入れられていたようだ。スペンサーは次のように主張する。世の中には何百万という数の生物の種が神によって創造されたと考える人もいるようだが、たとえ一つの種であってもどうやって創造されたのか、知っているのなら教えて欲しい。これに対して development仮説では、有機的自然の全体が生物に影響を及ぼしそれに適応するため生物は変わっていく、徐々に起きる長期的な変化がやがて別の種を産みだす、あるいは単細胞生物が哺乳類へと変化していく、とこのように考える。スペンサーの development hypothesis は、ラマルク(Lamarck、1744-1829年)が1809年頃に提唱した「用不用」説と「獲得形質の遺伝」説に依拠している。(ラマルクについては、別の機会に紹介したい。)つまり、スペンサーの evolution はダーウィンの自然淘汰というメカニズムを含む evolution とは異なる。しかし、スペンサーがevolutionという言葉を種の変化のプロセスを表すのに使用し、一般に広めたことはたぶん間違いない。(ちなみに、survival of fittest、適者の生存、という言葉の造語者もスペンサーである。)スペンサー達の広めた言葉がまずます日常化されてしまったため、ダーウィンの理論も「evolutionary theory、進化論」と呼ばれるようになったのではないだろうか。注1 その後いろいろ調べてみると、1859年のダーウィンがevolutionという言葉を使っていないという事実は、進化論を扱っている人たちにとっては常識のようだ。たとえば、Jacques Barzun 「Darwin-Marx-Wagner」 2nd ed. 1958, p.38とか中原英臣、佐川峻 「新・進化論が変わる」(講談社ブルーバックス 2008年) p.97などあちこちで指摘されていた。そりゃそうだよね、ダーウィンのことは何万何十万という人たちが研究してきたんだから、これくらいのことは指摘されているはずだ。注2 単語evolve/evolutionの歴史については、Peter Bowler "Changing Meaning of Evolution" Journal of the History of Ideas 1975 pp. 95-114が一番役に立った。注3 ダーウィンがビーグル号(イギリス海軍の測量船)に乗って学術調査に参加した時(1831-1836年)、ライエルの「地質学原理」を読んでいたことはよく知られている。 注4 1852年に週刊新聞The Leader、3月20日、に匿名で掲載された短いエッセー。後にEssays Scientific, Political & Speculative, Williams and Norgate (3 vols 1891)に再掲された。このサイトで読むことが出来る。
2021.09.04
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11時を少し過ぎた京橋のオフィス街の交差点、横断歩道の脇にリヤカーを小さくしたような手押し二輪車で弁当を売る人がランチ販売の準備を始めていた。その価格驚愕の380円だ。用事を済ませて同じ交差点を通り過ぎると、横断歩道を挟んで別の二輪車が出現していて、こちらはいまどき平均的な500円で弁当を販売していた。大通りの向こう側に目をやると、そこにも一台いる。彼らはどうやって自分の場所を決めるのだろう、早い者勝ちか、誰か(行政、自治会)の指示か、あるいは業者たちが話し合って決めたのか、でもそうすると新規参入者にどう対処するのか。人通りの多さが売り上げを左右する重要な要因だろうから、なんらかの決定方法があるはずだ。街角のこの現象に心が向いたのは、いま読んでいる進化論についての本の中で紹介されていた今西錦司の「棲みわけ」原理/理論のことが頭にあったからだ。ランチ二輪車の四つ角の占有的使用は、人間社会のある種の棲みわけだなーと感じた。日本霊長類学の礎を築いた生態学者の今西錦司(1902-1992年)は、1941年の「生物の世界」や1964年の「正統派進化論にたいする反逆」などの著作でダーウィン的な進化論批判を展開した、そうだ。と言われても、僕は進化論の正統派がなにかも知らないし、ましてや今西進化論については無知である。進化論というと、突然変異と自然淘汰を通じて環境により適応した生物が生き残っていき、結果的にそれが進化である、とこの程度の理解しか持っていないのだ。となるともう少しわかりたいと思うのが、退職してブラブラしている老人の悪い癖。ダーウィン以前の進化論はあったのか、そもそもダーウィンの「種の起源」の内容はどうなの、当時(初版は1859年)の西欧社会にどう受け入れられたのか、それが20世紀のネオ・ダーウィニズムにどう変貌するのか、今西錦司はいったいダーウィンの考え方の何が気に入らなかったのか、そして今西自身の進化論は、などなどいろいろ知りたい。しかし欲張ってはいけない、このすべてを学習するのは余生を使い尽くしても不可能だ。まあせめて今西進化論について学びながら二、三回書いてみようと思う。さて、「棲みわけ」について上で触れたことだし、今西の初期の発見から始めよう。1930年代に加茂川のカゲロウの幼虫の観察をしていた京都大学の今西錦司(当時はまだ無給の講師だったようだ)、可児藤吉達は、やがて「棲みわけ」原理を提唱するに至った(注1)。今西グループが発見したのは、具体的にはウエノヒラタカゲロウ、ユミモンヒラタカゲロウ、エルモンヒラタカゲロウ、シロタニガワカゲロウという四種類のヒラタカゲロウの幼虫が、川の流れの速さに応じて生息域を並んで分布していた棲みわけ現象だった。はじめは棲みわけというようなことは気がつかずに、加茂川でカゲロウの幼虫を採集していました。そしてある日、突然棲みわけということに気がついた。私が見たのは、流速に即応した棲みわけですけれども、夏になりますと、川の水をたんぼへ引くので、川の水がずっと減ってしまう。そうすると、流速ももうもとのような流速ではなくなる。水温も夏になると上がってきますわね。しかるにカゲロウの棲みわけは、春のおわりごろからちっとも変っとらぬのやね。そうするとこの配列は、流速とか水温とかいうものが、直接の原因になっているのではない。そこでそのころの環境決定論的な立場を、棄てることになるのです。(今西の発言、「ダーウィンを超えて、今西進化論講義」今西錦司+吉本隆明、朝日出版社、1978年、p.67。)近似的な種が隣接した地域に棲みわけをする現象自体は、ダーウィン自身も観察しているし、他の研究者もさまざまな生物についてそれを報告しているようだ。ダーウィンその他の通常の解釈では、流速や水温などのその場の環境に最も適応した種が(より正確には、その種に属している個体が平均的に最も適応していることで)、それぞれ棲みわけている、と考える。引用箇所の最後の文で今西自身が触れているように、これが環境決定論的理解である。今西はこの考え方を棄て自らの理論を編み出す。そこには少なくとも三つ、彼独自の視点がある。一つは、個体中心の見方ではなく、個体より上位の種という組織に目を向けること。二つ目は、環境が決定するのではなく、環境の制約を受けながらも、種が近似種との相互関係のなかで主体的に棲みわけをする、と考える。そして三つ目、闘争ではなく種の間の共存に重点を置く。類比を使うと分かりやすいかもしれない。種と個体の代わりに、国と個人を考えてみよう。国々が地球上のあれこれの場所を棲みわけている。個人はこの棲みわけに主体的にかかわっているのではなく、国という上位組織の時間的な進化の過程の結果、現在の場所に落ち着いている。その際、それぞれの土地の気候や肥沃度あるいは海洋資源の豊かさなどに一番適応した個人と文化を持つ国が棲みわけをした、というのがいわば環境決定的見方である。そうではなく、戦争も含めた国の主体的な行動の結果、棲みわけが決まってき、と見做すのが今西的見方か。戦争という共存からは若干外れる手段が含まれている点、そして国は政府という別の組織にコントロールされているという点で今西のモデルには当て嵌まらない。しかし、少なくとも個人の上位組織の主体的選択ということで、今西の考え方を理解する助けになると思う。・・・二つの近似種が棲みわけをとおして成りたたせている分布の境界線というようなものは、個体の生理的ないしは生態的な問題をこえた種の問題であり、ここで種社会という概念をもってくると、それは二つの相似た種社会がその接触をとおして、お互いに入りまじることを調整するために生じた、一種の社会的な境界線である、ということになるのである。(今西錦司 「私の進化論の生い立ち」 1974年、p.165、「進化とは何か」 講談社学術文庫、1976年に所収)すなわち、種社会というものは、生物全体社会の構成単位ではあるけれども、単独でバラバラに存在しているのではなく、相似た種社会との棲みわけをとおして、そこに構造上からいえば、種社会を超えた別の社会を構成している。そしてこれが私のいう「同位社会」なのです。(今西の発言、前掲 「ダーウィンを超えて、今西進化論講義」 p.69)今西は種を「種社会(specia)」と呼び換え、それを実体化している。種社会というひとつの概念がまるで事物として存在するもののように、さらに意識や意志を持つ生きた存在であるかのように、理論を構築していく。個体は種社会の中に、種社会は同位社会の中に、さらに生物全体社会の中に位置づけられる。僕は仕事でデータ分析をした経験があるが、分析というのはある時点から解釈で、解釈というのはストーリー(あるいは結論)を引き出すことだ。データと解釈の関係は検証が出来なければ科学的ではなく、ある意味哲学的なものになる。今西の場合、膨大なフィールドワークがデータで、彼の種社会論はその解釈だ。彼のデータと解釈の間には、大きなギャップがあり、(種社会論に関する限りは)現在手に入るデータを使って検証することはかなり難しい。現時点では、今西の種社会論は科学的には広く受け入れられていない。今西の種社会論は実体化された概念の独り歩きの傾向が強い。この傾向は、今西が強く影響を受けたという西田幾多郎(たとえば、彼の「場」という概念)や、その西田が影響を受けたヘーゲル(この人は多分概念の独り歩きの極にいる)の思想に典型的に表れている。今西の種社会論について、僕もストーリーを作ってみよう。西田・ヘーゲルのロマン的な観念論を下敷きに、個体よりも種、闘争よりも共存、そして種の主体性、という日本的で自分にピッタリ合った観念を組み合わせて、理論を構築した。さて次は今西進化論(種社会論と密接に関わっているのだけれど)について書こうと思うが、千鳥足の行く先は予想できない。注1 あるブログで引用されていた大串龍一の「日本の生態学―今西錦司とその周辺」によると、当時京都大学で今西と一緒に活動していたのは岩田久二雄、可児藤吉、森下正明、渋谷寿夫で、「棲み分け」という考え方はこのグループの討論の中で生まれたという。なかでも可児藤吉の貢献が大きかったとある。論文の発表は1939年。
2021.08.18
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2021年6月に数か月ぶりに帰国した。この時点で海外から帰国する日本人はざっと次のような水際対策を経験することになる。まずアメリカで、出発前72時間以内の陰性証明を取得しなければならない。日米間でワクチン・パスポートの相互乗り入れができるようになればいいのだが、現状ではワクチンを接種済みであろうとなかろうと関係なく必要になる。日本政府の指定する検査方法と様式を満たす陰性証明書を発行してもらうためには1人につき2万円前後かかる。アメリカに戻るときにも必要なので、往復1人当たり4万円。アメリカ出発前に厚労省の指定するスマホアプリ(後述)を3つインストールしておかなければならない。もうひとつ、日本政府のサイトで個人情報と入国日などを登録してQRコードを取得し、スマホに保存しておかなければならない。前回の帰国の時は、この登録制度について知らされていなかったので、アメリカ出発時に航空会社職員の人に登録・QRコード取得について教えてもらった。これら出発前のアプリや登録はアメリカで済ませておかないと、入国時に余計に時間がかかることになる。次に日本の空港(成田、羽田)から滞在先までのハイヤーの事前予約が必要。厚労省のルールで、空港から滞在場所までの移動には公共交通機関(タクシーを含む)を使用できないので、僕のように迎えに来てくれる人のいない入国者は、予約のできるハイヤーを使うしかない。半年前まではこの料金が2万円前後だったが、現在は1万2千円まで下がった(成田か羽田か、また滞在場所の地域によって値段は異なる)。いよいよ日本の空港に到着してからが以前にもまして大変だった。正確な数は覚えてないが、少なくとも6か所のチェックポイントで(おそらく)厚労省の職員による審査を受けなければならなかった。唾液検体の提出、事前登録で受け取ったQRコードの提示、健康に関するアンケートの提出、そして3つのアプリのインストールの確認と設定、これらをひとつひとつ別の検問所でチェックされる。スマホを持っていない人は、スマホをレンタルすることを強制される。この審査の方法は入国者にとっては必要以上の負担だと思う。多くの人がいるのでその流れを促すためにいくつもの検問所を設けて処理しているのだろうか。あるいは幾人もの職員がチェックすることで見落としを少なくしようとしているのか。時に数10メートル歩き、時に列で待ち、書類とパスポートとスマホを抱えていくつもの検問所に行かせられるのは、あまり効率的とは思えない。たとえば、入国した順に、あるいは検体を提出した順でもいい、整理番号を渡し、その番号順にひとりひとり(あるいは一家族ずつ)ひとつの検問で全てを済ませてくれる方がいいと思う。自分の番が来るまで入国者は一か所で待つことができるので、ずっと楽だし書類や持ち物を失くす可能性も低くなるはずだ。書類とアプリのチェックが終わるころには検査結果が出る。陰性とわかればようやく荷物を受け取ることができる。ここまでおよそ3時間。予約していたハイヤーは飛行機着陸の2時間後に来る予定になっていたので、1時間余分に待ってもらったことになる。到着の翌日から14日間は自主隔離である。その間、前述した3つのうちの2つのアプリで<監視>される。アプリは「位置情報確認アプリ(OEL、Overseas Entrance Locator)」とビデオ通話アプリ(MySOS)。1日に2から3回、OELアプリが位置情報ボタンを押すように通知してくる。これで入国者が現在どこにいるのか確認される。(空港でチェックの際、職員が位置情報通知の許可を設定してある。)もうひとつのアプリMySOSを使って、入国者健康管理センターがビデオ通話を入れてくる。これは1日最低1回のはずだが、僕たちの場合最初の4日はかからなかった。着信履歴は2度あったが、着信音はしなかった。アプリの機能障害、スマホの低性能、あるいは管理センターの発信の不具合?どれが原因かはわからない。これに加えて、毎朝11時ごろ「健康状態確認のお願い」という電子メールが届き、家族と本人に「37.5度以上の発熱をしている人はいるか」、「せき、のどの痛み、強いだるさなどある人はいるか」という二つの質問についてウェッブで回答することが求められる。ところで、「自主隔離」というのが完全な外出禁止なのか不要不急の外出を控えることなのか、どこにもはっきり書かれていない。入国の時にもらった厚労省のパンフレットには、「14日間、宿泊場所又は自宅で待機し、他者との接触を行わないでください」、さらに続けて「14日間、公共交通機関を使用しないでください」と書いてある。つまり「公共交通機関を使わなければ外出してもいい」、という含意があるように読めるのだがどうなのだろう。「自主隔離のルール 2021最新版」(2021年2月末日)というのがあるサイトにリンクされていたので、ダウンロードした。これによると、自主隔離の要件の一つに「不要不急の外出はしない」と書いてあるし「健康維持の為に、外に散歩に出かけることは禁止されていません」ともある。ということは、自主隔離とは完全な外出禁止ではないようなのだ。ただし、この文書は政府の正式な文書ではなく、厚労省のガイドラインをまとめたものとある。これが「自主隔離」の公式な定義だとは断定できない。
2021.07.04
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その昔、アンドレ・アガシがウィンブルドンの<白以外はダメ>ルールに反抗して、この伝統的なテニス行事への参加を数年間拒んだことがあった(1988-90年)。白づくめのテニスウェアは、階級社会イギリスでエリート層のスポーツであることの象徴だったとも言われている。アガシの反旗は階級社会の残滓への反体制行動だったのかも知れない、あるいは単に長髪でネオンカラーの好きな若者の逸脱行動だったのかも知れない。いずれにせよ、1991年にはアガシはウィンブルドンに戻ってきた、白づくめで。反抗がテニス界を大きく変えたこともある。Women's Tennis Association(女子テニス協会)、通称WTA、女子プロテニスを運営・統括する組織が1973年に設立されたのは、賞金金額の男女格差是正を訴えて、数人のトップ女子プロ選手が1970年の全米オープンをボイコットすると脅したからだ。当時の男女賞金格差はひどいものでは12:1にも開いたことがあるそうだ。ビリー・ジーン・キングなど9人のプロ選手が、元プロテニス選手でテニス雑誌「World Tennis」の出版社社長Gladys Heldmanの支持を得て成し遂げた。現在四大大会の男女賞金額が同じなのは、WTAの存在と影響力による。大坂なおみが反抗の一石を投じた記者会見ボイコットは、今後のテニス界にどのような影響を及ぼすだろうか。数日前に大坂は、全仏オープンの期間中は記者会見に応じないことを、彼女のツイッターで宣言した。「・・・時々感じていたことですが、選手の精神状態が考慮されていないなと、それは他の選手のでも自分のでも記者会見の度に感じていました。過去にされた質問と同じことを何度も訊かれたり、質問の内容が”この人は何を考えてるんだろう”と思わせるようなものだったり、私に対して疑念を抱いている人たちの前に出るつもりはありません。選手が負けた後の記者会見で泣き崩れている映像を何度も眼にしたことがあります。皆さんもあるでしょう。落ち込んでいる人を更に傷つけるようなことで、私にはそんなことをする理由がわかりません。私が今回記者会見をしないことは、この大会(全仏オープン)自体に対する批判ではありません・・・ただ、大会組織側が相も変わらず選手の精神状態を無視して、”記者会見はする義務がある、しなければ罰金が下される”と言い続けるのなら、私はただ笑うだけです。」というようなメッセージだった。四大大会での彼女の記者会見は何度か見たことがある。彼女の記者会見での対応から感じるのは、質問の意味を吟味し非常に誠実に答えているようだという点だ。相撲の勝者インタビューなどでよくある、決まり文句を言っている(たとえば、一日一番頑張るだけです、みたいな)という感じは全く受けない。大坂のような対応をする人は、質問によっては時に傷つき、時に苛立つだろう。攻撃的性格の人が失礼な質問を受けた時は、相手を睨めつけたり、威嚇する(それはどういう意味?というように聞き返すことで質問者は委縮する)。大坂はあまり攻撃的な性格の持ち主ではないのだろう。むしろ、繊細で打たれ弱い性格だと思う。時に泣き崩れてしまう。そういうことが続くと、落ち込み自信を無くし、テニスの内容に影響する、だからこそ今回の宣言だと思う。ざっと反応を眺めると、ほとんどの選手たちが一応の理解は示しながらも、仕事の一部なのだからインタビューは受けなければならないとするのがほとんどで、大坂を強く支持するという見解はまだないようだ。大会関係者は、大坂の第一戦の後、早速15,000ドルの罰金を科した。更に、今後も会見拒否を続けるのであれば、罰金額は増えるだろうし、今後の四大大会への参加も受け入れない、というかなり厳しい言明を出した。この点では、四大大会主催者の結束が固いようだ。この先、ファンや選手たちの意見の流れが大きく変わるとは、僕には思えない。となると、どうやって事態を収拾するのかが焦点になる。大坂と大会側は水面下で接触して、なんとかお互いのメンツを守れる形で納めなければならない。たとえば、敗戦後のインタビューはすぐにではなく、時間を置いて受けることが出来るとか、ある種の質問は拒否することが出来るとか(今でも、拒否している選手はいる)。何らかの改善を出口戦略として解決することが必要だ。できれば、大坂が勝ち進まないうちに解決することが望ましい。感情に流されれば、大坂の引退ということにもなりかねない。
2021.05.31
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「懐徳堂で学んだ蟠桃と仲基」を書いた時に、日系アメリカ人のナジタ・テツオという人の「懐徳堂:18世紀日本の『徳』の諸相」を参考にした。そのナジタ氏が2021年1月11日に84歳で他界していた。驚くことに(日米の時差の関係で)その翌日に僕がブログを公開していたことになる。ひょっとしたら僕が彼の本を読みながら文章を書いていた時に亡くなったのかも知れない。奇しくも、という言葉を使いたくなる。御冥福をお祈りする(RIP)。ナジタ氏は日系二世で両親は広島県出身、漢字の表記は「奈地田」らしい(日本語版ウィキペディアによる)。生まれたのはハワイ州のハワイ島、退職後はハワイ島に戻っていて、亡くなったのもハワイ島のワイメア(カムエラとも呼ばれているようだ)という町だそうだ。吉田玲雄の「ホノカアボーイ」という佳品(映画にもなった)があったが、その舞台のホノカアはワイメアから20キロほどのところだ。ナジタ氏の専門は日本思想史で、邦訳されているものには「原敬―政治技術の巨匠」(読売選書、1974年)、「明治維新の遺産―近代日本の政治抗争と知的緊張」(中公新書、1979年、講談社学術文庫、2013年)、「相互扶助の経済」(みすず書房、2015年)などがある。1969年から2002年の退官までシカゴ大学教授を務めた。英語で1987年に「Visions of Virtue in Tokugawa Japan: The Kaitokudo Merchant Academy of Osaka」として出版されたこの本、邦訳が出たのは1992年で、訳者は近世・近代思想研究でよく知られている子安宣邦(こやすのぶくに)氏。僕が読んでいるのは子安氏の邦訳版だ。邦訳の数章を読んだ限りでは、研究書らしく仮説を詳細に裏付けしていく充実した作品で、訳もかなり緻密に訳されている印象を受けた。子安氏の「あとがき」には、訳は数人の研究者(?)が担当し、子安氏が原稿と校正刷りの段階で修正・補訂した、とある。シカゴ大学ニュースのナジタ・テツオ氏についての追悼記事
2021.05.14
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楽天ブログには検索機能が付いていて、自分が書いた内容をよく覚えてない僕は、この機能を使って自分の書いた記事を検索することが時々ある。今日も、テニスの線審判定システム、ホークアイについて昔書いた記事を読もうと、探したのだが、出てこない。その時カタカナで「ホークアイ」と書いたのか英語で「Hawk-Eye」としたか、あるいは「鷹の眼」と訳したのか覚えてなかったので、いろいろ試したが、どれもヒットしなかった。仕方がない、全部探しても600件の記事だ、ブログを始めた2004年から順番に見て行こうと、リストを原始的に探してすぐ見つかった。2007年6月のこと、「ウィンブルドンでの鷹の眼」という題、記事内では「Hawk-Eye(鷹の眼)と名づけられた」としてあった。何でこれが見つからなかったのだろう。楽天ブログの検索はグーグルの検索エンジンを借りてることはわかっている。ということはグーグルでも見つからないのかと検索してみたら、案の定見つからなかった。10年以上も前の記事だからなのかと考え、いくつか古い記事のキーワードを検索したがそれは見つかった。ということは「鷹の眼」という単語が何らかの理由で検索できないということだ。グーグル検索の方法がどういう仕組みなのか、これは今や人類最大の謎であり、解明することなどできない。(ちなみに、別の検索エンジンBingでは「cozycoach 鷹の眼」でちゃんと検索できた。)とにもかくにも、この「鷹の眼」の記事は今後ちょっと必要なので下に張り付けておく。ウィンブルドンの鷹の眼 (2007年6月16日)テニスにもリプレー制度を取り入れるべきだ、他のスポーツではみんな導入されている、技術的には可能で、「サーブの軌跡を複数のカメラ?からデジタイズしてPCに取り込みIn/Outの判断をする・・・」(Jawsさん、2004年10月20日の僕の日記へのコメントより)、という話をしていたのがつい3年ほど前、そのコンピューター画像によるリプレー制度がついに伝統を守るウィンブルドンにもやってきた(センターとコート1だけ導入)。Hawk-Eye(鷹の眼)と名づけられた、コンピューター画像による線審判定システムは、2006年の全米(US)オープンでグランドスラム・デビュー、それに続くオーストラリアン・オープンでも使用され、いよいよウィンブルドンに登場するわけだが、そもそも開発したのはイギリスの会社(Dr. Paul Hawkins)で、クリケットでは2001年から使用されている。もっとも、クリケットでの使用はテレビ放映時のコメンテーター用で、フィールドでの判定のためではないようだ。BBCのサイトの説明によると、屋根に据え付けられた5台の高速カメラでボールを撮影し、そのビデオ画像をコンピューターで計算処理して、三次元での位置を特定するらしい。誤差は3ミリほどだという。費用的には、一面のコート一週間でおよそ2万ドルから2万5千ドルほど、サービス・ラインの判定をするCyclopsが一面一週間で1万5千ドルから2万ドルだから、妥当なところだろう。 これで、グランド・スラム中 Hawk-Eye を使わないのはフレンチ・オープンだけとなるが、フレンチはクレー・コートだから、ボールの痕がはっきりと赤土に残る。興味深いのは、Hawk-Eyeと球の痕が一致しなかった場合にはどうなるか、という点で、これは技術に対する信頼度とも関わるわけだから、あそこで導入するのはかなり困難なことだろう。Hawk-Eye技術を開発したのはRoke Manor Research Limitedだったが、2021年の現在はHawk-Eye Innovationsと名前を変えているようだ。
2021.04.30
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モデルナのワクチン、二度目の接種は前回にも増して副反応がきつかった。注射針を刺した部分の筋肉痛は辛いというほどではなかったものの、その日の夜は38度前後の発熱と吐き気(ほとんど食べてなかったので吐くことはしなかった)そして身体のだるさで熟睡ができなかった。副反応は24時間後から徐々に治まり始め、およそ48時間ですべてが平常に戻った。アメリカのワクチン接種はかなりスムースに実施されているようだ。バイデン氏が大統領に就任してからおよそ100日で、公約のおよそ二倍の接種2億回を達成した。アメリカで今のところ主として使われているファイザーとモデルナのワクチンは二度の接種を必要とする。接種2億回という数字には一度しか受けていない人たちが含まれている。二度接種した人(あるいは少数ではあるが一度で済むワクチンを接種した人)は9,680万人、人口のおよそ28.9%と推定されている(4月27日現在)。世界ではイスラエルの58.6%、チリ33.1%、バーレーン31.1%などが人口比30%を超えていて、その他の国々では英国、セルビア、ハンガリーが15%~20%だ(データを提供している国々のみの数字)。具体的に接種がどのように行われているかは、州ごとに接種計画というのが昨年から準備されていて、各州で多少の違いがあるのだろう。僕の現在住んでいる州では、接種(すべて無料)は大きく三つの経路で行われている。1.病院やクリニックなどの医療施設、2.大規模ワクチン接種会場、3.処方のできる薬局を施設内にもつスーパーマーケットやドラッグストアあるいは独立系薬局のネットワーク。どの経路も、それぞれのネット予約システムがあり、比較的簡単に予約をすることが出来る。いくつかのサイトを見てみたが、サイトに行くと接種可能な日時がずらりと表示される。日時を選び、氏名、生年月日、連絡先、健康保険情報、性別、Eメールアドレスなどを入れることで予約が完了する。前もって健康状態などについてアンケートがあるが、比較的シンプルなものである。いくつかのサイトでは、直接出向いて予約する方法も設けられているが、日時は限定されている。病院やクリニックでは電話予約も可能かもしれないが、試したことはないので不明。僕の場合、当初自分の属する病院システムの予約を試みたが、直近の予約可能日が5月上旬だったので、経路3を試してみた。日本でいえばマツモトキヨシのような薬局風のドラッグストアでの予約にしたところ、数日後に可能だった。こんなに簡単にワクチン接種ができるんだ、と感心してこの仕組みを少し調べてみた。薬局チェーンと連邦政府のパートナーシップは昨年11月頃から本格的に話が進められ、今年の2月11日に正式に始動した。4月19日までに全米で40,000店舗が参加することを目標にしていた。目標が達成されたかどうか定かではないが、この州でもいくつかのドラッグストア・チェーン、スーパーマーケット・チェーン、コストコ、サムズクラブなどがすでに参加している。パートナーシップに加わるためにはある程度の資格条件(規模、データ報告をする能力、ワクチンを貯蔵できる施設、一日当たりの接種可能数、など)を満たさなければならない。各薬局チェーンは連邦政府に直接ワクチンを注文することが出来る。ワクチンは無料で配給されるが、各チェーンは前もって決められた必要データをCDCに送らなければならない。薬局や薬局を持つドラッグストアなどの店舗はアメリカ人にとっては距離的にも心理的にも身近な存在だ。その上、薬剤師は資格上ワクチン注射を打つことが出来るし、副反応などについてカウンセリングをすることもできる。だから、薬局チェーンでワクチンを接種できることは、接種拡大につながる重要な戦略だと思う。
2021.04.29
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昨日のテニスは散々だった。朝家を出るときから空は今にも泣き出しそうで、それでも家から小一時間かかる場所なので、開催中止のメールが入るまではその方向に動いておかないことには、決行されたときに間に合わないことになるので仕方がない。地下鉄に乗ってメールをチェックすると同時に「本日は中止になりました」と通知が来た。ええそんなとがっかりしたが、主催者としても難しい判断をぎりぎりまで待って下したわけで、文句を言ってはいけない。次の駅で降り歩いて帰宅しようと、地下鉄の長い階段を昇りつめると、最悪のタイミングで雨が降り出していた。今朝家を出ると同時に傘を忘れたことに気付きながらも戻る時間を惜しんだ自分の決断力のスバラシサよ、家までの30分ほどの道のり、徐々に激しさを増す雨にずぶ濡れになりながら反省しよう!それにしてもテニスオフというこのシステムを見つけたのは幸運だった。東京で仮の宿としている家から10キロ以内の開催場所を検索すると、地下鉄・バス・自転車を使って1時間弱で行ける所が5、6か所見つかる。公共のテニスコートを(多くの場合2時間枠で)予約した主催者が、このサイトを使って人数を募る、レベルは初級、初中級、中級、中上級などの用語を使って指定し、なかには女ダブ、つまり女性だけのダブルスを希望する人もいるし、男女募集とする人もいる。さらに、募集の詳細が記載されていて、レベル、内容(ダブルスゲームなのか練習なのか、ゲームならどのように進行するのか)、人数と会費(一人当たり500円~1000円、有明インドアは高いよ)などの必要事項のほかに、「レベル差に拘らず楽しくできる方なら、老若男女国籍年齢問いません」のようなリラックスしたものから「自己中心の方は申し込まないで下さい、中級の下の方は申し込まないで下さい」とか「ベンチであまり騒ぐ方はご遠慮願います」など細かく指定する場合もある。主催者が過去のイベントで嫌な思いをした結果の条件指定なんだろう。募集方式には二つあって、募集した人から順番に承認されていく場合と主催者が承認するかどうかを任意に決定できる方法とがある。後者の場合にも、承認・非承認の決定を開催日の直近まで引き延ばす人がいる。申込者を横並びにして吟味して決めるのだろうが、申込者にとってはこれが一番困る。他の開催に申し込みたくても、非承認されるまでは申し込み難いではないか。僕も「お断り」の通知を受けたことがあるが、申し込んでから1週間ほど決定されず挙句非承認された。その時のメッセージは「緊急事態宣言の延長もあり、また夜もかなり冷え込む日が続いておりますので、参加者様の安全を最優先に考えて、今回はお断りさせていただきます。大変申し訳ございません」だった。要するに高齢者だから感染してはいけないので、ということを回りくどく書いたのだろう。顔写真付きで応募しているわけではないので理由としては年齢とレベルくらいしか思いつかない。理由はどうあれ、早めに非承認してほしいものだ。2度参加させてもらった主催者でメアドを交換するくらいになった人がいる。その方は、参加の条件の書き方にしても穏やかで、実際に会ってみると人柄が親しみやすく誠実そうで、こちらから投げかけるメッセージにも素直に応じてくれる、もちろんまだ友人と呼べるほどに近いわけではないが、こういう主催者の会にはできるだけ参加したいものだ。僕のように感じている人が大勢いるのだろう、この方の開催はあっという間に埋まってしまう(承認タイプの開催ではないので、原則早いもの順である)。今日は運悪く雨で流れてしまったが、このシステムを利用し始めてから、日本に来るのも一層楽しくなった。後は、肩を痛めてからすっかりダメになったサーブを早く復活させることだ。
2021.02.16
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富永仲基(1715-1746)の著作で残っているものは「出定後語」(しゅつじょうこうご又はしゅつじょうごご、1745年出版)と「翁の文」(おきなのふみ、1738年出版)、そして自筆清稿本で伝わっている「律略」と「楽律考」だけだ。もうひとつ「説蔽」(せつへい)という著作があった(と「翁の文」の中に書かれてある)ようなのだが、現存しない。仲基が「説蔽」を書いたのは15~18歳の頃だと推定されている。「翁の文」に書かれた要約から推測すると、「説蔽」は儒教批判と見做されるものだった。当時の懐徳堂の学主・三宅石庵は「説蔽」の出版を許さず、その上仲基を破門した、という風説が残っている(注1)。この破門の伝説と仲基の墓が富永一族の墓所にないことに因果関係を読み取る憶測が、いまもちらほら語られている。「出定後語」と「翁の文」の現代語訳は中央公論社・日本の名著18巻「富永仲基、石田梅岩」(中央公論社、1978年)またはその中公バックス版(1984年)に収録されている。「出定後語」の原文(漢文)とその訓読文は、日本思想体系43巻「富永仲基、山片蟠桃」(岩波書店、1973年)に収録されている。その補注には「翁の文」の第6、7、8節が掲載されている。また関儀一郎という人が編纂し、儒学・漢学関係の著作を集めた「日本儒林叢書」全14巻(1924年~1938年)の中に「翁の文」が入っている。その全集はデジタル化され無料で公開されている。このサイト(http://www2.sal.tohoku.ac.jp/jurin/)で「富永仲基」を検索すると、「翁の文」のPDF版をダウンロードできる。また昨年9月には「天才 富永仲基 独創の町人学者」(釈徹宗著、新潮新書)が出版されていて、「出定後語」の現代語訳が読めるようである(確かめていない)。富永仲基の思想的方法をもう少し詳しく見る前に、彼の思想の概要を見ておこう。加藤周一の次のようなまとめがほどよく具体的でいいと思う。富永仲基は・・・知的領域では徳川時代の学者の中でもっとも激しく因習に挑戦した人で、当時の三つのイデオロギー、すなわち神道・仏教・儒教のすべてを真向から批判した・・・徳川時代の儒教的世界の中で、おそらくは西洋思想と何の接触もなしに、富永仲基が最近まで誰も予想もしなかった新しい学問の可能性を、ともかくも予測し、しかもある程度まで発展させたということは、驚嘆に値する。その新しい学問とは、過去のさまざまな思想の連続をいくつかの大きな流れに沿った歴史的発展としてとらえる厳密に経験的な科学で、それらの流れはまた思想そのものの展開に内在的な法則、言語の歴史的発展、それぞれの文化の環境的特質によって規定されるものである。(「日本の名著」第18巻、p.10)自分の生きている<世界>(家庭、仕事場、共同体、宗教、国)の慣習・規範・きまりごとといったものを、そこにあり続けるものとして、その正当性を疑うことはあまりない。これはいわば、それらを<絶対化>している、つまり<相対化>できていない、ということだ。富永仲基が生きた18世紀前半は、朱子学への批判はあったものの、孔孟の儒教そのものを疑うことはなかったようだ。そんな時代に、仲基は儒教、仏教、神道に歴史的分析を加えて<相対化>した、これはすごいことだった。仲基の「出定後語」は、本居宣長などの国学者からは快哉を叫ばれたが、それは単に国学者たちが仲基の著作を仏教批判と読んだからだろう。それ以外では、時代を先取した仲基の独創性が同時代もそれ以降も正しく評価されたという話はあまり聞かない。「出定後語」出版の翌年、仲基がわずか32歳で世を去ったということも、彼にたいする過小評価の一因だったかもしれない。明治になってから富永仲基のことを<発掘>したのは、内藤湖南(1866-1934)だった。1896年に大阪毎日新聞に連載した「関西文運論」で湖南は、徳川300年間独創的見解の説を作り上げたのは富永仲基、三浦梅園、山片蟠桃だと書いている(注2)。湖南の「⼤阪の町⼈学者富永仲基」と題した講演」(1925年)を青空文庫で読むことができる。注1 加藤周一「富永仲基異聞 消えた版木」(1998年、かもがわ出版)に収められている加藤の戯曲草稿第一幕に、「説蔽」についての仲基と三宅石庵の対話がある。まったくのフィクションであるが、可能性として読むのも一興かと。注2 公益財団法人・大阪21世紀協会のウェブサイトを参照。https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/082.html
2021.02.07
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富永仲基(とみながなかもと)という江戸中期の町人学者がいたことは知っていた。4年ほど前、山片蟠桃の「夢の代」を少し読んだ時に日本思想体系第43巻を参考にしたのだが、そのタイトルに山片と並んでいたのが富永仲基だった。富永の代表作「出定後語(しゅつじょうこうご)」のページを少しめくってみたが、原文は漢文でそれを読み下したものでも漢語と仏教用語が多く僕には難しすぎ、その時は放棄した。富永仲基(1715-1746)と山片蟠桃(1748-1821)が並んで日本思想体系の一巻に収められているのは、おそらく二人がほぼ同時代の町人思想家で、かつ懐徳堂という大阪の学問所で学んだことを共通項にしたのだろう。外箱の帯には、「南都大阪が生んだ近世合理主義の極に立つ学問と思想」とある。1660年代以降、江戸時代の経済は資本蓄積時代から商業資本主義時代へと発展し、それとともに商人、特に米問屋の集中する大阪商人の経済的地位は上昇した。やがて金銀の産出量が減少したことから経済は停滞する、それを回復させるため幕府は1695年、1710年に通貨の改鋳を行い、結果バブルとインフレを引き起こした(注1)。この間、商人たちは幕府失政のつけを押し付けられ(1705年、大阪の豪商淀屋が全財産を没収された)、と同時に社会的には金儲けを不道徳とする「賤商感」で見られることになる。社会的には士農工よりも低い地位に置かれながらも、経済的には富を築き、しかし幕府の政策の失敗のツケを払わせられる現実的な圧迫、こうした時代に商人たちは自らの道徳的中心の創出を目指したのだろうか(注2)。塾としての懐徳堂の設立は1724年(享保9年)、大阪の尼崎町(現、中央区今橋)、5人の商人(五同士)が発起人となり、毎月の掛け金を運用した利息で運営費を賄った。1726年(享保11年)には、将軍・吉宗から公認され官許学問所となり幕府から領地を拝領している。1869年(明治2年)に廃校となるが、1916年(大正5年)に、大阪毎日新聞主筆で漢学者の西村天囚らの努力で、重建懐徳堂が建てられた。戦災を経て、蔵書と職員は大阪大学へ移管されたが、1953年(昭和28年)に敷地を大阪府に返還、重建懐徳堂は消滅した。その後大阪大学付属図書館内に懐徳堂記念文庫が置かれ、1999年(平成11年)、大阪大学文学部内に懐徳堂センターが設置された。懐徳堂創設の五同士の一人が北浜の商人・富永芳春で、その三男が富永仲基である。注1 このあたりのことはウィキペディアの「荻原重秀」の項を参照した。また、安田保「懐徳堂精神に学ぶ」(融合文化研究 第1号 64-69、2002年9月)も参照した。通貨改鋳については大塚英樹「江戸時代における改鋳の歴史とその評価」(日本銀行金融研究所/金融研究/1999年9月)を参考にした。注2 テツオ・ナジタ「懐徳堂:18世紀日本の『徳』の諸相」(岩波書店、1987年)
2021.01.30
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どこでどうやって見つけたのか全く記憶にない、Angeliqueというグループの「偶然じゃなかった」という一曲がパソコンのミュージック・フォルダーの片隅にちょこんと座ってる。このmp3ファイルの作成日は2000年12月25日、編集したはずもないのでこの日にどこかからダウンロードした、あるいは誰かから(クリスマスプレゼントとして?)贈られたのだろうか。20年前の話である、覚えているわけがない。ミディアムテンポでありふれた8ビートのこの曲の当時の印象は、可愛い系女子3、4人のアイドルグループかな、女子高生によくありそうな恋歌(夕暮れ帰り道でよく偶然キミと逢った・・・いつも手を振るだけのただの友達だったね、それにキミにみんなが認めてる彼女もいたし、偶然じゃなかったのコンビニで会ったのも、図書館で同じ本すぐ後に借りたのも)をAKB程度の歌唱力で歌ってる、しかしハーモニーはすごくいい、「偶然じゃなかったの」というサビの部分も耳に残る、というか20年間ずっと耳に残ってきた、だから古い曲でも削除せずに今日まで残しておいたんだろう。ふと思い立って、このグループのことを調べてみた。結局大ブレークはしなかったようで、それほど情報量は多くない。ウィキペディアの項目「Angelique」 (リンク)Angeliqueのホームページらしきもの(リンク)これらによると、Angelique(フランス語読みで「アンジェリーク」だそうだ、僕は「アンジェリケ」かと思っていた!)は2000年3月にデビューした中学生ユニットで、メンバーは岸本梓、高橋絵美、小川千尋の3人、シングルが5枚出されている、最後のシングルが2001年8月、いつ解散したのかは不明だが現在はメンバーそれぞれの活動・生活をしている。(東京・旅物語という番組のリポーターをしている岸本梓を見たことがある。)僕がパソコンに保存していた「偶然じゃなかった」は2000年11月に発売されたシングル「雪が降る前に」のB面(2曲目という意味)だった。作詞は多くのヒット曲を書いている康珍化、作曲は松下慎司。偉大なりユーチューブ、昨晩「angelique」を探したところ、このチャンネルに「好きなのに」、「蕾」、「雪が降る前に」、「電話するね」、「F」、「Just wanna be with you」の6曲がリンクされていた。これは偶然なのだろうか、「偶然じゃなかった」だけがない!例によってアナログで録音した以下の5曲からサンプルをつないで載せておく(リンク)。Just wanna be with you電話するね好きなのに雪が降る前に偶然じゃなかった
2021.01.26
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PDTSDから回復するのには時間がかかるだろうが、アメリカ社会はようやく嘘とナルシシズムの独裁から解き放たれた喜びに浸り、前に進もうとしている。政府や議会が、自らの言動に責任を持ち、出来る限り隠し事をせず、もちろん嘘をつかず、科学に基づいた決定をし、意見の違う人たちを貶めたり傷つけたりせず、社会的な規範を守って議論する、要するに<普通の>民主主義社会に戻ろうとしている。(PDTSD=Post Donald Trump Stress Disorder、科学的用語ではない。)昨日の大統領就任式の中で、アマンダ・ゴーマン(Amanda Gorman)という22歳のアフリカ系アメリカ人の女性が自分の詩を朗読した。彼女の詩句が象徴的に語ったのは、希望を失くしそうになるほど暗い時期、民主主義が危うく潰されかけたがなんとか持ちこたえたこと、これから分断を修復していかなければならないこと、違いに捉われるのではなく、異なる人々が心を合わせて国の未来と子供たちの為に建設的に民主主義を進めなければならないこと、だった。控えめな黄色のコートと、あちこちに金の飾りを散りばめた編んだ黒髪を顔の長さほどに高く結い上げ、真紅のバンドで赤道の帯のように髪を囲み留め、褐色の肌と白い歯白いシャツが織りなす絢爛、彼女の詩、朗読のリズム、柔らかく漂うような両手の動きは、多くの人を魅了した。彼女の詩からほんの少し、僕の独断的な意訳を付けて載せておきたい。全部を読みたい人はここを、朗読のパフォーマンスを見たい人はここをクリックすればテキストと動画がある。We are striving to forge a union with purposeTo compose a country committed to all cultures, colors, characters andconditions of manAnd so we lift our gazes not to what stands between usbut what stands before usWe close the divide because we know, to put our future first,we must first put our differences asideWe lay down our armsso we can reach out our armsto one another目的のために一つになろうと私たちは奮闘している、全ての文化、肌の色、様々な見解、与えられた条件の違い、この多様さを包容する国を作り上げようと。私たちを隔てているものに目を向けるのではなく私たちの前に横たわる未来に目を向けよう未来を第一に考えるには、私たちの違いを忘れようそうすれば私たちを隔てている裂け目が閉じていく手にしていた武器を捨てればその手を相手に差し伸べることができるWe've seen a force that would shatter our nationrather than share itWould destroy our country if it meant delaying democracyAnd this effort very nearly succeededBut while democracy can be periodically delayedit can never be permanently defeated私たちの国を皆で分かち合うのではなく、力で潰そうとする試みを、目の当たりにした民主主義を後退させて私たちの国を破壊しようとした彼らの勝利はあと一歩というところまで来ていたのだだが、民主主義は時に後ずさりすることはあっても絶対に押しつぶされて消え去ることはない
2021.01.22
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「自分は音楽家ではない」と自認していたはやり歌作家・筒美京平が、海外のヒット曲のおいしい部分を日本に移植していたことは、いくつかのインタビューで明言していることなので、驚くべきことではないのだろう。しかし、僕がベスト5に考えていた「東京ららばい」(すでに第4位にランク済)と「たそがれマイラブ」(これは2位にと)の2曲に部分移植があったことは、まるで知らなかった。「東京ららばい」のイントロが、アニマルズの1965年ヒット「悲しき願い(Don't Let Me Be Misunderstood)」に似てることは前々回で指摘した。ところが、例の京平友達に新たに聞かされたのは、1977年にサンタ・エスメラルダがカバーした「悲しき願い」に「東京ららばい」がよく似ているという話だった。ユーチューブでサンタ・エスメラルダを聴く何ということだ、イントロだけではなく「東京ららばい」のフラメンコ調はここに由来していたのだ。上に載せたユーチューブのリンクで4分40秒あたりで聴ける間奏部分での、リズムセクション(パルマあるいは手拍子とコンガか何かの打楽器)とフラメンコ・ギターの掛け合い、これも「東京ららばい」に巧みに取り入れられていた。この枠組みの中に京平さんのメロディが入っていたとは。そして大橋純子の「たそがれマイラブ」だ、彼女の抜群の歌唱力とシティポップの洒落たサウンド、この曲についてこんなブログを見つけてしまった。もうイントロからいいんだなあ。さすがは日本が誇るメロウ・マエストロ、筒美京平。弾力性に富んだギターリフや反復性が癖になるリズムパターンがその数ヶ月前に出たカーリー・サイモンの「You Belong To Me」(オリジナルはマイケル・マクドナルド在籍時のドゥービー・ブラザーズ。77年作)の影響下にあることは、この辺の洋楽事情をかじったファンなら容易に指摘できそうなポイントですが、当時はほら、そんな知識もないからさ。松尾潔さんのブログ知らなかったよなー、カーリー・サイモンの「You Belong To Me」というのは聴いたことがなかった、彼女の「You're So Vain」は知っていたんだけど。早速、ユーチューブで聴いてみると、松尾さんは控えめに書いているんでしょうが、これは「影響下」というよりもう少し強い表現をしてもいいかもしれない。ユーチューブでYou Belong to Meを聴くベースの8分音符でラシドド#レ(Amのキーに移した)で始まり、その後のリズムがタンタンタタタが「たそがれマイラブ」のイントロに似てはいるが、微妙に異なっている。「たそがれ」では、ラシドド#レの代わりにミソソ#ラに移してかつ8分音符を一つ減らしてはいる。「You Belong」のベースが頭から入っているところを、「たそがれ」では裏拍子から入っているためだ。加えて、ベースの落ち着くところが、「You Belong」ではDmの和音(サブドミナント)だが、「たそがれ」ではAm(トニック)という違いがある。「たそがれ」のベースのイントロは頭だけで、そのあとはエレキギターとユニゾンでコードを変え、それに合わせてメロディを移して進んでいく。更に、「You Belong」の方は歌が始まるとDm-E7-Amというコード進行が繰り返されてごく普通に進行するのに対して、「たそがれ」ではAm-Dm-Am-E7(1度目)、Am-Dm-G-C(2度目)というイントロの後、主旋律「今は夏・・・」がB7で始まり「そばにあなたの匂い」がE7-Amで落ち着く、というかなり凝ったことをしている。もちろん「たそがれ」の曲構成は「You Belong」よりずっと凝っている、AABAという紋切りのパターンではなく、最初のAの次に来るのは同じコード進行ではあるがAのヴァリエーション、A'の4小節、そしてBの4小節が来て、再びAのコード進行にもどるがまた別のヴァリエーションA''を挿入してサビに流れ込む。シンコペーションがあちこちにちりばめられている。A'の「幸せな夢に」では「ゆーめーに」や、Bの「白い稲妻連れて」でも「(いな)ずーまーつ(れて)」など。このあたりは京平さんの真骨頂で軽やかさを際立たせている。サビではよく見かけるコード進行、(Amのキーで言うと)Dm7-G7-Cmaj7-Fmaj7-Dm6-E7-Am、を使っている(たとえば、「別れの朝」のサビ)。アイディアを「You Belong」から借りてはいるが、総体的に見て「たそがれ」は筒美京平の曲になっている。それも傑作と言っていいと思う。ただ問題なのは、僕自身の複雑な気持ちだ。「東京ららばい」や「たそがれマイラブ」のどこを僕が好きかというと、「ららばい」のフラメンコ調やイントロ、あるいは「たそがれ」のイントロと基調のリズム、これらが大きな比重を占めていることは間違いない。この部分が海外の曲のコピーだとすると、僕はいったい何を愛してきたのか、という、まるで自分の愛してきた女性が実は整形していたのだとわかった時のような、混乱に陥れられる。僕は筒美京平の音楽を愛しているのか、彼が参考にした元の海外のヒット曲を愛しているのか、あるいは彼のコラージュの能力を愛しているのか。筒美京平の曲をあれこれ聴き、インタビューを見、についてのブログを読み、彼の素晴らしさ(たとえば歌い手の声に合わせて曲を作る、どうやったら売れるかを考えて常に進化し続ける、ヒット曲作家の限界も認識していた、など)がよく分かった。と同時に、彼の作った個々の曲について評価するより、そのコラージュ、編集、編曲の能力に光を当てる方がずっと面白い、というように見方を変えた。僕のベスト5も一応第2位まで来たが、その先は1位だ2位だというより、「魅せられて」のイントロのエーゲ海編曲、「人魚」のサビの格調、「木綿のハンカチーフ」の青春小説に合わせた紋切り型ではない構成、「雨だれ」のピアノの合いの手、「飛んでイスタンブール」でトルコ人もびっくりの「イスタンブール」のアクセント「私たち」を岩崎宏美のコンサートの最後で歌われた時に感じる一体感の創出、「野生の風」で今井美樹を最大限に輝かせるゆったり感、「お帰りなさい」や「心の指紋」でシャンソン歌手・クミコが歌う新境地、などなど、これらの部分、発想、切り口の数々を味わうことにしようではないか。
2021.01.02
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筒美京平ベスト5(その3)迷いに迷って、平山三紀(現在は、平山みき)を第3位に持ってくることにした。彼女のどの曲をというのではなく、筒美京平がその声に惚れ、彼女の為にはだれにも負けないいい曲を作る、と人に言っていた「平山三紀」とのコラボに対して敬意を表したい。もちろん作詞家の橋本淳もコラボの一人として入れるべきだと思う。1970年前半に筒美・橋本が作り上げた「平山三紀」のイメージは、恋多き自由な女、という感じだった。「ダウンタウン六本木、いろんな男の眼の前で抱かれたかったのに、愛なんて女の部屋の幻ね」(恋のダウンタウン)とか、「ヨコハマ、素敵な男がいっぱいいるわ、わたしの好きなあの人は一人で海を見ているわ、ビューティフルなお話ね」といった歌詞によく表れている。「真夏の出来事」では、「彼の車に乗って真夏の夜を走り続けた、最果ての町わたしは着いた、悲しい出来事が起こらないように、祈りの気持ちを込めて見つめあう二人を、朝の冷たい海は鏡のように映していた、恋の終わりを知っていた」というように、都会の遊び場の話ではないが、衝動的に一泊旅行に出た二人が見ているのは希望のある未来ではなく、その旅限りの気まぐれな関係である。現実の平山三紀は、いくつかのインタビューによると、とても真面目な女性だったようで、お酒もタバコもやらなかった、とか。(ところで、彼女は1977年に結婚、2005年に離婚、相手は「ばんばひろふみ」というフォーク歌手、バンバンという2人組のグループで「いちご白書をもう一度」をヒットさせている。)現実の平山のことは横に置いておいてイメージに戻ろう。当時の日本では新しい16-ビートのリズムに乗って流れてくる、弾むようなハスキーボイスで描かれる奔放な女のイメージは、一部の男性には堪らなかっただろう。たとえば、もし僕がその頃アメリカの田舎町で精神的に孤立していて「真夏の出来事」を聴いたとしたら、アメリカン・ポップスを思わせるイントロから最初のバースで心が掻き立てられたところへ、サビの「悲しい出来事が」と(Cのキーで)E7に曲調が変化するところで、不安が頭をもたげ、ああ、やっぱり日本に帰りたいなーなんて感情に襲われ、こんな歌を歌っている歌手に恋をする、かも知れない。初期の平山三紀の作品から、次の6曲を選びユーチューブなどからアナログで録ってコラージュしてみた。すべて、作詞・橋本淳、作編曲・筒美京平である。サウンドが凝っているのでおそらく後年のリミックスだろうと思われる。コージーサンプルはここをクリック恋のダウンタウン(1973年11月)ビューティフル・ヨコハマ(1970年11月)フレンズ(1972年3月)麦の匂い(1975年2月)熟れた果実(1974年6月)真夏の出来事(1971年5月)
2020.12.27
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作品の良し悪しとはなんだろう。京平さんは作曲家・編曲家なのだから、そこを重視して選ばなきゃ意味がないんじゃないか、と漠然と思っていたが、いざ実際に選ぶとなると、他の要素を切り捨てることは僕のような素人にとってはほぼ不可能だと分かった。歌詞との重なり具合、歌手の声質や歌い方、加えて自分の好き嫌いなどが意識しようがしまいが介入してくる。たとえば、先日ある人のブログに、僕の好きな曲であると書き込んだリンダ・ロンシュタットの「Blue Bayou」、ロイ・オービソンとジョー・メルソンの1961年頃の曲をリンダが1977年にカバーしたもの。そのメロディは非常に単純で、Cのキーでいうとソラシドシラシラ、ソラシドシララの繰り返す基調部分と、声を張り上げるドドドドシシドシシ、ラシラソというサビだけからだけなる。音と音が2度以上飛ぶことはほとんどなく、符割りもほとんどが8分音符の連続であり、メロディのクリエイティビティがあるとは思えない、しかし曲は感動的だ、これはなぜなのだろう。それは全体的なイメージということに尽きる。リンダが低音で歌う基調部分では、故郷を離れて(おそらく)都会で忙しく慎ましく暮らしている日常が語られ、サビに至って感情が大きく開放される、「何があってもいつかブルー・バイユーに帰るぞ、人も風景も全部私に馴染み深いブルー・バイユー、釣り舟が浅瀬に浮かんでいる、眠気まなこをこすってあの懐かしい朝陽を眼にしたら死ぬほど幸せだろうな」と、この対比が聴く人の心を掻き立てる。これが全体的なイメージによる作品の昇華だろう。御託を並べたが、要するにこの全体的なイメージでベスト5を選んでみた、ということだ。ただし次の3つのタイプはほぼ受け入れることができない:あまりに歌謡曲的なもの、歌の符割が16ビートのもの(メロディも歌詞も味わえなくなる)、そして声の嫌いな歌手のもの。さていよいよ、僕にとって京平ベスト5、その第4位は、中原理恵「東京ららばい」である。1978年3月の曲で、前年の7月に野口五郎の「季節風」、9月に太田裕美の「九月の雨」があり、1978年4月には庄野真代の「飛んでイスタンブール」、7月に岩崎宏美の「シンデレラ・ハネムーン」と庄野真代の「モンテカルロで乾杯」、更に8月には中原理恵の「ディスコ・レディ」と大橋純子の「たそがれマイラブ」、どれもこれも僕の好きなタイプの曲が並んでいる。多分16ビートを基調にして都会風リズムセクションにのせた8分音符の緩やかなメロディが、僕は好きなんだろう。「東京ららばい」は中でも芸が細かい。イントロはギターのコードで(原曲のキーで)Gm-A♭-B♭と上がっていき、そこに1965年のブリティッシュロック・アニマルズの「悲しき願い(Don't Let Me Be Misunderstood)」のイントロとニアミスをするようなエレキギターのフレーズが挿入されている。歌の部分を基調部、結合部(あるいは転移部)、サビに分けると、基調部はごく普通の4小節ずつのA・A・B(「午前3時の東京ベイは・・・」)、それに続く結合部ではフラメンコ風のカスタネットが挿入されて続くサビで昂揚する前のモノローグのような寂しさを漂わせている。実際、間奏の後でこの結合部が繰り返されるときには、ドラムもベースも不在で基調の4ビートだけを残して歌声にフラメンコ風ギターの絡まる作りになっている。そして、結合部の終わり(「ねんねんころり寝転んで眠りましょうか」)に続いてエレキギターとベースの裏ビートでサビに繋げ、「東京ららばい、夢がない明日がない」となる。構成が素晴らしく、フラメンコの彩も巧みで、編曲も過度に装飾的でなく、僕にとっては文句ない4位である。
2020.12.22
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10月7日に作曲家・筒美京平さんが亡くなった。京平さんとは長い付き合いで(もちろんリスナーとしての一方通行の付き合い)、はじまりはビレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」(1967年)、オックスの「ガール・フレンド」や「スワンの涙」(1968年)などのグループサウンズのものだった。日本の歌謡曲に60、70年代の洋楽を取り入れた京平さんのメロディは、折衷文化で育った団塊の世代の感覚に合っていたと思う。驚くことに、京平さんはその後も進化を続け、2019年までおよそ3,000曲を書き、作曲家としてのシングル総売り上げ枚数は日本歴代1位の7,560万枚を記録している(ウィキペディアに拠る)。日本滞在中にいくつか観た京平さんのドキュメンタリーによると、京平さんはレコードが売れるような曲を書くことが自分の使命だと考えていたという。オリジナリティとか美的感動といった芸術家的嗜好よりも大衆性を重視し、そこに自分の香辛料を振り掛けるという感じだったのだろうと想像する。京平さんの曲の中には海の向こうのヒット曲を髣髴とさせるものがある。意図的に海外ヒット曲のイメージを再現しようとしたのだろう。何曲か気付いたものを挙げる。∙ 弘田三枝子の「渚のうわさ」(1967年)、おそらくミーナの「砂に消えた涙」(1964年)のイメージのなぞりだろう。もっともこの曲は弘田三枝子自身が1964年にカバーしている。∙ ジャガーズ「マドモアゼル・ブルース」(1968年)、意図的にビートルズの「Things We Said Today」(1964年)からギターのイントロと最初の8小節の旋律を借りてきている。サビの部分は歌謡曲にして日本人向けにしているが。∙ 南沙織「17歳」(1971年)、京平さんのところに連れてこられた南沙織が、リン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」(リンのバージョンは1970年)を歌ったことから、そのイメージで「17歳」が書かれたそうだ(例えばここで語られている)。出だしの「誰もいない海」という部分はローズ・ガーデンそのものである。僕には40年前から友達がいる。初めてアメリカに渡った時、中西部の田舎町で世話になった10歳ほど年下の日本人男性、その彼が僕など問題にならない京平ファンで、10枚(くらい)組のCDセットやインタビューを収録したDVDを持っている。今回、京平さんの死を悼んでスカイプで長時間話をした。彼にとっての京平ベスト5は、いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」、岩崎宏美「未来」、太田裕美「九月の雨」、「恋のダウンタウン」など平山三紀のいくつかの曲、堺正章「さらば恋人」だそうだ。僕は、というと、60年代後半のグループサウンズ時代に、筒美京平という作曲家は非常に巧妙だな、と思ったくらいで、80年代以降はより歌謡曲臭さの薄いJpopの方に鞍替えしたので、京平さんの曲をそれほど知っているわけではない。限られた範囲でしかも歌謡曲臭の少ない、僕なりのベスト5を挙げてみよう。まず番外、僕にとっての京平初体験ということで(ま、これは歌謡曲寄りだけど初体験に理屈はなしです)、ビレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」を入れよう。編曲は、珍しく京平さん自身ではなく、森岡賢一郎が担当している。実を言うと、ビレッジ・シンガーズが翌年発売した「亜麻色の髪の乙女」の方が、当時は好きだった。「亜麻色の髪」はすぎやま・こういちの作曲で、すぎやま氏は当時フジテレビの音楽番組のディレクターをやりながらグループサウンズの曲を書いていた。「バラ色の雲」のサビで「はじめて見つけた恋の喜び」に続く「キミはーやさしく」の部分、AmのキーでいうとB7を使っているのが当時は新鮮に聞こえた(原曲はFm)。この頃の曲は基本的に歌謡曲チックだった。たとえば、ブルー・コメッツに提供した「さよならのあとで」(1968年)なんかは、ロスプリモスとかロマンチカが歌ってもおかしくない。いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」(1968年)もこの延長線上の歌謡曲で、京平さんの曲の中でも大売れした曲だが、僕としてはベスト5には入れない。第5位、やはりこの曲は入れないわけにはいかないでしょう、尾崎紀世彦「また逢う日まで」(1971年)。あの印象的なイントロ、管でパッパンパパンパパンードンを二回、そしてCのキーでソーミードーラーソと降りてくる、これは斬新だったと思う。結構知られている話をひとつ。この曲はもとはあるCMの為に書かれたが、それがボツになり、それを残念に思ったプロデューサー・村上司氏(この曲を管理していた音楽出版社・日音所属)が働きかけて、ズーニーヴ―の「ひとりの悲しみ」として1970年に発表された。ズーニーヴ―は1969年に村井邦彦作曲の「白い珊瑚礁」をヒットさせたわりと実力のあるグループだったが、なぜか「ひとりの悲しみ」は不発に終わった。この曲はヒットするはずだと信じていた村上氏はそれでも諦めず、自身がプロデュースを手掛けていた尾崎紀世彦に歌わせたいと考え、「ひとりの悲しみ」の詞を書いた阿久悠に書き直しを依頼、出来上がったのが「また逢う日まで」だった。( このエピソードのネタ元)話があちこちに逸れて長くなったので、4位から上は次回にしよう。実を言うと4位から上はまだ決めていないので、5位に「また逢う日まで」を入れてしまった結果、曲が足りなくなるんじゃないかと心配だ。
2020.12.18
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アメリカでの超過死亡とCOVID-19の関連についてCDCのレポートが出ているので、要約してみる。( CDCのレポートのリンク)「超過死亡(excess death)」とは、歴史的平均に基づく死亡者数に比べて何らかの事情(現在の文脈ではCOVID-19の影響)で死亡者数が増加した度合いを表す数値。どのように算出するか、その方法については本稿の最後にまとめる。レポートを発表したのはアメリカ連邦政府のCDCという機関、正式名称はCenters for Disease Control and Prevention、日本語Wikipediaによると邦訳はアメリカ疾病予防管理センターとなっている。クイズに出そうな点が二つ、一つは略語のCDCには反映されていないPrevention(予防)という単語が末尾に付いていること、もう一つ、CDCはおよそ15,000人が従事する巨大組織なので中にはいくつものセンターと呼ばれる部門があり、名称に入っている「センター」は複数形になっている。CDCはセンターやオフィスの集合体である。レポートの結論を先に言うと、今年の1月26日から10月3日のおよそ8か月間のアメリカの超過死者数は224,173から299,028人と推定される。超過死亡者数の推移の図をレポートからコピーした。細かい点は無視して二つの波を見てほしい。3月後半から5月後半にかけての第一波、7月中旬から8月下旬かけての第二波がはっきりわかる。超過死亡者数が過去の平均の死者数に比べてどのくらい多いのか、年齢グループ別にパーセント増加率をリストする。25歳未満: -2%25-44歳: +26.5%45-64歳: +14.4%65-74歳: +24.1%75-84歳: +21.5%85歳以上: +14.7%人種・民族グループ別の同様の比較も載せる。(アメリカの統計はrace・ethnicity別にとるのが慣例で、この場合のethnicityの用語に該当する主グループは「ヒスパニック」である。スペイン語を話す祖先をもつ人たちのことで、ラテンアメリカからの移民が大部分を占める。ヒスパニックの中には人種的に白人、黒人、アジア系などがいるが、人種の如何に関わらずヒスパニック・グループに算入される。以下、ヒスパニック以外の人種はすべて「非ヒスパニック」とする。またAI・ANはアメリカンインディアンとアラスカネイティブの略。)白人: +11.9%黒人: +32.9%ヒスパニック:+53.6%アジア系: +36.6%AI・AN: +28.9%その他: +34.6%これらの数字から読み取れることは少なくとも三つある。まず、公式な発表ではCOVID-19が原因で亡くなった人の数は216,025(10月」15日現在)とされているが、このレポートの推計からすると実際にはもっと多い可能性がある(224,173から299,028)。どうして公式発表がレポートの推計を下回るか。たとえば、死亡診断書を書く場合に、COVID-19による死亡であってもそれを見落とせば(ウィルス検査が不正確など)公式の発表ではCOVID-19に数えられない。というようなことが考えられる。二つ目、年齢グループ別の数字から明らかなように、COVID-19による影響は高齢者だけではない。25歳未満のグループを除いたすべての年齢グループで、過去の平均に比べた死者の数が15パーセントから25パーセントくらい増加している。三つ目は、白人(11.9パーセント増加)以外の人種・民族グループの死者の数が軒並み30パーセント以上増えている点だ(AI・ANは28.9パーセント)。特にヒスパニックの53.6パーセント増加がどうして起きているのか解明される必要がある。貧困率に関係するのか、文化的な慣習に関係するのか、この時点でははっきりしていない。最後に、このレポートで使われた推計方法について、重要と思われるものだけ見ておく。超過死亡者数を出すうえで基準になっている過去の平均死者数は、2015年から2019年までの週ごとの死者数をもとにして、統計モデルを使って季節変動などを調整して出された期待値である。統計的な期待値なので推計誤差をともなう。超過死亡者数を算出するには、<実際の>死者数から過去の死者数をもとに出した期待値を引く、その際一番ありそうな期待値(平均)と最大でもこれくらいだろうという期待値(95%上限値)の二つの場合を考慮した。算出された超過死亡者数のうち299,028は平均期待値を引いた場合、224,173かは上限期待値を引いた場合である。上の段落で<実際の>と括弧を付けたのは、死亡者数の統計は常に時間的な遅れがあり、遅れ分を埋めるために統計的な処理をしているため、厳密には実際の数字ではない。また、この遅れの度合いは死亡統計を管轄する地域(全部で53ある)によって異なり、よって遅れを埋めるための調整は地域ごとに行われる。
2020.10.22
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前回、他者をモノと見る例をいくつか見た。そこで共通していたのは、他者がその全体性・個別性・独立性を失って捉えられていることだった。今回は、どうして人間の心がそういう方向に向かってしまうのか、考えてみたい。まず注目したいのは、心あるいは意識が自分の外にある対象を捉える時、それは対象そのものではなく対象の像だということ。対象が人間である場合、その内面を(正確であろうと間違っていようと)再現するには、想像力に似た心の能力が必要になる。思うに、empathy(共感とか感情移入)がその能力ではないか。sympathy、compassionも似たような言葉だが、sympathyは特に他者の悲しみや困窮などに同情を示す時に使われることが多く、compassionは他者の不幸を気遣って手を差し伸べたいと思う時などに使われるのが主なのに対し、empathyは他者の状況や感情を感じ取ることを指す。本居宣長の主張した「もののあはれ」を知る心について以前取り上げたことがあるが、empathyに通ずると思う(本居宣長)。empathyをここでは共感力と訳そう。人間(や一部の生物)が世界の中で社会的に生きるために、共感力は進化してきたと考えられている。ある外的なモノが心のようなものを持っていて、私やその他の存在物に対して何らかの意図的な態度(intentionality)を示すかどうか、これを判断する必要があった。意図的態度は音声や言葉、表情、涙、身振り、などから推測される。内容は、敵意や親しみのこともあれば、何かを欲しがっているかも知れない、あるいは、私がそのモノに何らかの願をかけた時にそれを適えてくれること、それも意図的態度と言える(注1)。このように他者の行動の意味を探ること、それが共感力の起源だと考えられる。共感力に欠けている人というのは、もちろんたくさんいる。たとえば、ナルシシズムの強い人、つまり、自分のことしか考えることができない、常に自分が褒められることを求める、自分を守るために自らの非は絶対に認めない、自分のイメージを壊さないことを重要視する、そういう人は共感力が薄い。また、あるレベルの自閉症スペクトラム障害(autism spectrum disorder、ASD)を持っている人は、共感力が低いと観察されている。これは共感力が脳の特定部位に備わっていて、その部位の機能的な問題が共感力を低めている、と仮説されている。様々な原因で、共感力の少ない人、共感力を十分に育てることができなかった人が、世界にはたくさんいるに違いない。彼らはおそらく他者をモノと同列に置いてしまう傾向があるのだろう。他者の表情などのシグナルを読めない、他者の心を推測できない、それゆえ、自分だけの世界に閉じこもってしまうかもしれない。しかし共感力が不足しているだけでは、他者を利用したり、意志を無視したり、あるいは危害を加えるような領域に足を踏み入れることはないだろう。つまり、他者のモノ化を社会的なリスクのレベルにまで高めるような心理的要因が他にもあるに違いない。たとえば、心理学には暗黒的心理の三要素、dark triad of personality、という概念がある。いろいろな反社会的な、攻撃的なパーソナリティから抽出されたもので、ナルシシズム、マキアベリ的発想(machiavellianism)、そして精神病質的心理(psychopathy)の三つの軸から成る。マキアベリ的発想は他者を欺き戦略的に利用するような心理、精神病質的心理は無感情の冷淡さと皮肉さに特徴がある。共感力の無さは三つのパーソナリティのどれにもある程度含まれている。共感力の欠如とこの三つのパーソナリティが重なった時、社会的に最も危険な他者のモノ化を起こす可能性がある。暗黒的心理の三要素はこのリンク先の記事で紹介されている(注2)。自分の暗黒心理度を知りたい人は、記事に埋め込まれたサイトで計測してくれる。ちなみに、僕も測ってみたが、予想通りナルシシズムと感情の希薄さがやや目立つが、マキアベリ的発想はあまりない。社会的リスクはそれほど高くない、と信じたい。注1 現代のようなAIの時代になって、意図的態度があるのかどうかの境界は曖昧になっている。高度のAIでなくとも、たとえばロボット掃除機などは意図的態度を示しているかのように見える。注2 The Light Triad vs. Dark Triad of Personality: Researchers contrast two very different profiles of human nature. Scott Barry Kaufman
2020.07.28
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その人と僕はただのテニス友達だったが、二人は仕事帰りのシングルスで死闘を演じた後、時に車の中で話し込むこともあり、ある時その人が「男の人は、女をobjectifyするのよね」と、腹立たしそうに呟いた、ことが記憶に残っている。文脈はまるで覚えていないが、男女関係の一つの問題点に不平を唱えていたのだった。Objectifyという言葉、対象化するとか客体として捉える、という必ずしも否定的ではない意味で使われることもあるが、社会学や心理学の用法では、他者をまるでモノのように見做す、取り扱うことを指すようだ。特に、フェミニストの間では、sexual objectification論というのがあり、男性が女性の身体をモノとして見做すことのさまざまな社会的影響を分析している(たとえば、女性が容貌や身体的な美を気にし過ぎるようになること)。これが彼女の言葉の意味だろう、美的性的欲求を満たすためだけのモノとして女性を見做す男性への非難。意味を拡げて、一般的に他者をモノと見做す場合のいくつかを見てみよう。小椋佳の作詞した「白い一日」にこんな部分があった、「真っ白な陶磁器を眺めては飽きもせず、かといって触れもせず、そんな風にキミのまわりで僕の一日が過ぎてゆく」。主人公の男はその女のことをモノ(陶磁器)として眺めている。この手の片思いは昔からよくあるもので、極度に恥ずかしがり屋の男がある女に憧れる余り、触れることも話しかけることもできずただ見ている状況。僕たちが他者と関係を結ぶときには多かれ少なかれイメージを介在させる、(後で触れるように)これを避けることはできない。ただこの歌詞の男の場合は、作り上げたイメージがあまりに独りよがりなので、実際に存在する女から遠く離れてしまっている。一歩間違えばストーカーになりそうなイメージを独り弄ぶ行為だ。かって取り上げたことのあるフェティシズムという性癖も、他者のモノ化のひとつだろう(ブログ)。人間関係でもモノとの関係でも見られるこの性癖は、その元々の性質、使用価値、有益性全体性などから離れたところに成立する心の執着、と要約することができる。最近TVジャパンで見た「凪のお暇」というドラマで、凪のストレートの長い髪が好きだった元カレが、会社を辞めて変身した彼女の短い縮れ髪を詰る場面がある。元カレは、恋人関係だった時にはフェティシズムに囚われていて、凪という他者そのものを見ていなかったことは明白だ。凪自身がそれを受け入れていた(望んでいた?)、ある意味相互依存の状況にあったのも事実だが。人種、性別、国籍など、他者をその所属するグループで一括りにすることを、僕たちはしがちだ。おそらく、生物はみんな敵と味方を区別するためにいわゆるプロファイリングをしてきたのだろう。その頃の名残が他者をある特徴でまとめることではないだろうか。別の見方をすると、物事を幾つかの特徴でグループに分けるのは、人間が概念化や抽象化をするのに欠かせない能力で、他者のグループ化もそのひとつの派生かも知れない。だとしても、この他者のグループ化は、現代社会ではあまり褒められない性癖だ。グループに括ることも他者のモノ化の一つのタイプだと思う。他者から遊離した独りよがりのイメージを作る、他者をある属性でグループ化する、これらよりもっと残酷な他者のモノ化が、宗教戦争やホロコーストなどで発生する大量殺戮だ。その時、僕たちは「優秀な」兵隊や役人になっているか、あるいはイデオロギー(宗派、思想主義)にずっぽりと嵌ってしまっている。個人性を跡形もなく剥ぎ取られた他者は、(たとえば、ユダヤ人という)レッテルを張られた生き物、または敵対する宗派・主義を信奉する群れ、と化している。他者のモノ化の極地にいると言える。これらの例で共通しているのは、他者そのもの、その性格、感情、声、容貌、身体などの統合された全体性が、そしてその他者が一人の独立した存在であることが、忘れられていることだ。どうしてこうなってしまうのだろう?
2020.07.22
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アメリカ時間7月9日、米最高裁(Supreme Court of the United State, 略してSCOTUS)が、トランプ氏(一部は彼の家族の財務情報も含む)の財務情報開示に関して二つの重要な判断を下した。たとえ大統領であろうと財務情報開示を拒否することはできないとする、一つは民主党多数の議会そしてもう一つは連邦地検ニューヨーク郡の検事たちの要求に対して、裁判という手段で抵抗してきたトランプ氏とその陣営、その対決の結果は、僕の解釈では引き分けだ。一方で、大統領と雖も絶対の免責で守られているわけではないと最高裁が判断したことは、原則としての開示要求側の勝利だ。しかし、実質的あるいは短期的に見ると、トランプ側の勝利である。なぜかというと、今年の11月の大統領選までにトランプ氏の財務情報が国民の目に触れることは、時間的に見て恐らくないだろう。同様に、11月までにトランプ氏が脱税あるいは政治資金規正法違反などの罪で告訴されることもないだろう、と予想できるからだ。つまり、財務情報を開示を強いられる前に、そして会計上の罪で告訴される前に、トランプ氏は大統領選を迎えることができ、あわよくば勝利することができる。再選されてしまえば、今まで同様、嘘と権力の濫用であと4年を乗り切ることができる。そう読めば、この最高裁の判断は原則論で負けたもののトランプ氏側の実質的な勝利ということになる。つまるところJustice delayed, justice denied、遅すぎた正義は、正義が拒まれたと同じことだ。二つの最高裁判断について簡単に紹介しておこう。判決を精読したわけではないし、法律的な知識も不足しているので、誤読があるかも知れない。一つは下院(民主党が多数を占める)の3つの委員会から出された、トランプ氏の財務情報などを開示せよと要求する4通の召喚状(に対してのトランプ陣営からの法律的な挑戦)に関する判断だ。召喚状は、トランプ氏や彼の関与する組織の資金や会計を扱う、ドイツ銀行(Deutsche Bank)、Capital One、Mazars USAなどの企業に出されている。議会の召喚状に対する最高裁の判決は非常に注意深く書かれている。というのも、議会からの召喚状に対してここまで徹底的に拒否した大統領は、ほとんど前例がないらしく、前例がない分最高裁は慎重にならざるを得ない。大統領府と議会は三権分立のカギとなる機関であり、その権力のバランスが崩れることを最高裁は望まない。よって、召喚状に応じるべきかどうかについては、開示要求の目的と内容による。どういう情報開示が妥当かについて最高裁が原則を提示するから、具体的な召喚状ついてはその原則に基づいてもう一度下級裁判所で争え、と判決を下した。つまり差し戻しである。もう一つは、ニューヨーク州ニューヨーク郡の連邦地方検察が、トランプ氏の財務会計を行っているMazars USAにたいして出した召喚状に関してのものだ。召喚状は、現在進行中の刑事事件、例のトランプ氏が関係を女性たちに口止め料を支払った、その事件に関連して出されている。結論だけ言うと、トランプ氏はこの召喚状には応じなければならないと判断された。トランプ氏の主張した大統領の免責(immunity)は認められなかった。たとえ大統領でも法律の上に立つことはできない、というのが最高裁の結論である。なぜトランプ氏はこれほどまでに財務情報の開示を拒むのか?トランプ氏の父親の時代から行ってきた数々の脱税が明るみに出るから、トランプ氏と海外(特にロシア)の企業や政治家との財務的なつながりが暴露されるから、トランプ氏が自分で吹聴するほど経済的に成功してこなかったことが国民に知られてしまうから、などの憶測が飛び交っている。このうちのどれか(あるいはいくつか)が真実であると仮定すれば、それが白日の下に晒されることはナルシシストのトランプ氏には耐えられないことだろう。
2020.07.11
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Black Lives Matter運動はアメリカの社会問題だと思っていたら、この2日ほどで世界中に広がっているようだ。ニュースで見る限り、参加者の多くは20代から30代の若者、多様な人種から構成されている。なぜ突然世界中に広がったのか、よくわからない。たとえば、アジアの国々で人種差別の軋轢が社会問題になっているとは思えないのだが・・・。運動のグローバル化の原因はさておいて、アメリカのスポーツ界で一つの変化が起きた。Black Lives Matter運動の盛り上がりが影響していることは間違いないだろう。ほぼ4年間にわたって、試合前の国歌斉唱時に選手たちが人種差別に抗議することに難色を示してきたNFL(アメリカのプロフットボール・リーグ)だが、6月6日、初めて自らの非を認め、選手たちの抗議を容認することを発表した。2016年8月に、当時サンフランシスコ49ersのクォーターバックだったコリン・ケーパニック(Colin Kaepernick)が、片膝をついて人種差別と警察の暴行に抗議した。当初、NFLコミッショナーは、国歌斉唱中の行為には同意することはできないが、社会問題に対する選手に対しては支持を表明する、という「政治家」的発言をしていた。しかし、翌年大統領に就任したトランプからの圧力もあり(彼の支持層はかなり右寄りなので、国歌斉唱や国旗への敬意は神聖なものとされる)、2018年5月にNFLは国歌斉唱時に抗議する選手がいるチームには罰金を科す、という規則を導入した(この規則は同年7月に執行一時停止にされた)。その一方、ケーパニックは2017年以来どのチームからも声がかからない、干された状態にあった。もちろんチームのオーナーたちが共謀してケーパニックとの契約を避けたのだろう。NFLがここに来て「我々は間違っていた」と自らの非を認めたことは、社会変革の一歩としてかなり大きい。NFLが怖れていたのは、選手の抗議行動を許すことで多くの保守的な観客を失うことだったのだろう。しかし、もうそんなことは言っていられないほど変革への圧力が大きくなっている、と感じたに違いない。この変革の嵐、次は警察制度の改革に向かうだろう。
2020.06.09
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「凡人」とは、自分も含めて、世界の80から90パーセントがそうではないかと想像する普通の人間のことである。何が限界かというと、知見の狭さ、それに伴って幅広く物事を受け入れ比較判断する姿勢・能力に欠けることだ。僕自身の場合でいうと、本を読んだりビデオで話・講演を聴いたりすることでしか世界について知ることができないし、言語は日本語とせいぜい英語に限られ、読む速度はかなり遅く、聴く時の集中力もあまりなく、一人でパソコンに向かっているので偏狭になりがちで、おまけに記憶力が悪いと来ているので、持っている情報量は非常に少ない。そしてここからが問題なのだ。限られた情報量にしか触れずかつ保持できないとすると、どうしてもある一定の見方・捉え方・視点に固執してしまう。これは人間の自己防衛機能でそうなるのだろう。たとえば、狩猟を営む原始人だとして、いくつかの特定の場所で猟をするのが最も安全で長期的に生産的だと思うのが普通だ。それはグループや家族で言い伝えられてきた場所かもしれないし、自分でたまたま見つけた場所かもしれない。だから、ある著者の思想に感服したり、ある映画や音楽に感動すると、それに固執し過大評価することになる。その思想や作品をつぶさに比較・分析する情報の蓄えも能力も限られているので、そこに留まることが一番の安定・平穏であり、ある意味自尊心の保全にもなる。この殻を破るには相当の決意とエネルギーがいる。他人から思想や作品を勧められることが誰にでもあるだろう。これに対して心を開いて挑戦する人はそれほど多くない。仮に試みても、それを受け入れるのは更に困難だ。勧めたその人を尊敬していたり、恋していたりすると、受容する動機があるので別であるが。僕自身、ひとから勧められた場合は、出来るだけ挑戦するように心がけている。しかし、意識ではどうすることもできないブレーキがかかるらしく、やっぱり好きになれない、ということも少なくない。こういった頭ごなしの拒否、あるいは試みても受け入れることのできない無意識の規制、これが凡人の限界だ。凡人の限界は、コミュニケーションをうわべだけのものにしてしまう見えない壁でもある。だから僕たちは、この壁に少しでも多くの風穴を開けて、他人の考え方や進めるものを受け入れる努力をしないといけない。限界があるということを認識することが第一歩だ。もっとも宗教的・政治的に凝り固まっている人たちは、凡人どころではない限界を抱えている。育った家庭や共同体で純粋培養され塗り固められた壁は、ほとんど打ち壊すことができない。なので、こういう人たちとは話すだけ無駄である。(似たようなことを書いた昔のブログ、「壁コミュ」と「開かれた議論」。)
2020.05.31
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戦争映画でよく描かれる行動倫理、戦友が傷を負った時にはできるだけ見捨ててはならない。アメリカのプロスポーツで、チーム・メイトが相手チームに傷つけられたら(たとえば、野球の死球やバスケのハード・ファウル)、そのチーム・メイトを守る、これも同じものだ。同胞は守らなければならない、という行動倫理は、多分古代の共同体を維持するために築きあげられた規範で、それが共同幻想となり、文化となり、遺伝子に刷り込まれてきたのだろう。僕と同い年で最近ガンが見つかった友人が、ある日突然、奥さんから離婚を言い渡された。20数年、仕事上も協力し合って、順調なカップルだと思っていた僕は、言葉を失った。現時点では命に別状はないものの、手術を受けたばかりの<同胞>をなぜこの時期に見捨ててしまうのか。僕が仮に同じような状況になったとしたら(憎み合っているとか暴力を受けているとかではないと仮定して)、とても相手を棄てることはできない、と思う。たとえ、その人を思う気持ちが薄れていたとしてもだ。しかし、こんな感傷はゴミ箱に投げ捨てて蓋をする時代が来たのかも知れない。なにしろ、コロナが広がる前にすでに、現アメリカ大統領は新しい行動倫理を「提唱」していた。一つ、ホントとウソの境目はもともと曖昧なものだったが、いまやその違いは完全に消滅した。諸君、もう気にすることはない、嘘は堂々とつけば真実となるのだ、昨日のウソは今日のホント、豹変しない君子はもはや君子ではない。二つ、キミたち国民の利益は私の利益であり、私の利益は私と私の家族の利益である。名分は国民、大義は私にある。その三、権力の構造というのは神の恩寵による存在の連鎖であるからして、下から上への忠誠は絶対であり、諫臣は処刑され、忠臣は大義(つまり私)の犠牲になるのが使命である。大統領が模範を示しているのだから、このミーイズムこそがこれからの時代を牽引する原動力となること間違いない。ここにコロナというピリ辛味を加えてみよう。もはや、共同体の同胞は、守らなければならない対象ではなく、感染のリスクでしかない。私たちはお互い慣れ親しんではいけない、握手はもちろんハグなどというものは前時代的なセクハラもどきである(セクハラはもどきではなく毅然としてやらなくてはいけない)、マスクをして歩けば道ですれ違う他人に笑顔を見せる必要もない、オキシトシンが出るような行動は極力避けなければならない。ミーイズムに加えて共同体のメンバー同士を疎遠にさせる、新たな行動規範が形成されつつあるのだ。これを進化と呼ぶ。進化とは種族を維持し・繁栄させるためにある、というか、突然変異した部分の中で残っていくものだけが進化なのだ。そこに善悪はなく、美醜があるのみ。何億という人々と多くの国々が醜にまみれる。ガンを患う僕の友人は、同居人にとっては老後の生活における経済的リスクかつ介護リスクでしかない。ミーイズムとコロナ・モードが席巻する世界では、捨て去られる運命にある。いや、僕だって同じことだ、古い行動規範を期待して横柄な口を叩いていると、ぬれ落ち葉だか散り椿だか知らないが家庭ゴミとして処分されかねない。戦々恐々、暗雲低迷。
2020.05.16
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なぜランボーの詩集をその人にあげたんだろう?「地獄の季節」の詩を一つ二つ読んだことしかなく、たいして好きでもない、そんな詩集を彼女に渡して何を意図していたんだろう?その人は、僕の4畳半の下宿を突然訪れた部活の先輩だったが、どうやら僕に、人生のことなどまだ何も知らない僕に、話を聞いてほしかったようだ。日が暮れかけて部屋の中がうす暗くなったころに、どこかの大学生の子供を堕ろしたことがある、という過去を話してくれた。その時の僕には、誰かをそうさせた経験もなく、友人がそうなったこともなかった。ただ言葉を失った。だからだろう、彼女が自宅に帰る電車の駅までの道すがら、何かをしてあげたいという思いが募って、芸術的な本が並んでいる本屋に入り、その本を選び渡したのだ。それにしても、ランボーとはあまりに不適切な選択だった、とランボーを知っている人は思うかもしれないな。僕自身は、その時の状況にあっていたかどうか未だに判断できないのだが。その後その人は、実家に帰省していた僕を、友人と二人泊りがけで訪ねてくれた。ということは、彼女はきっとランボーの詩集を手渡した僕にあまり腹を立てていなかったのだろう。ランボーの「地獄の季節」よりまたそれが現われた!それって何?永遠さ.海と太陽が混じりあっているこの光景.ボクの永遠の魂よ、厳粛な誓いを守れよたった一人の夜で燃えるような昼だけど.だからキミは自分を解き放つ人間の承認からも、共同の慣性からも!キミは飛んでいく・・・に乗って希望なんて一度もなかったし目指すものもなかった.科学をしても耐え忍んでも、苦痛があるだけだ.明日はもうない、繻子の残り火、あなたの情熱は務め.またそれが現われた!それって何?永遠さ.海と太陽が混じりあっているこの光景.(仏語原文と英訳を参考にして、韻文的に訳することはせず、意味が少しでも通じるように訳した。もちろん、僕の理解する意味なので、まったく見当違いかもしれない。現に、小林秀雄訳とはかなり違う。たとえば、冒頭の句を小林は「また見つかった」と訳しているのだけど、原文はElle est retrouvéeと受け身になっている。僕の浅学では、これは主体的な「見つける」という行為ではなく、なにか自然に目に入ってくる感じじゃないのかな、と思い「現われた」と訳した。)
2020.05.14
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数あるDAW(ディジタル・オーディオ・ワークステーション)ソフトからどれを選ぶか。Macでしか動かないソフトは無視しなきゃね。音楽制作に関してはMacの方が優れている、というのが一般的な評価なのだが、PCも追いついてきているし、40年近くPC派の僕がいまさら寝返るのもね。Macはだいたい秘密主義で、PCのようにあっけらかんとオープンではない、と聞く。とにかく、音楽だけの為に10万円から15万円の追加投資(Mac一台)はしたくない。PCでも走るDWAの中でおよそ次の6つが定番のようだ。名称の後の数字は現在のバージョン・ナンバー、そしてドル価格。Ableton Live 10、$800FL Studio 20、$900Studio One 4、$315Reaper 6、$60Reason 11、$500Steinberg's Cubase 10.5、$580ほとんどのソフトは、ベーシック、中位、プロと三段階の価格が設定されていて、ここに記したのは一番高いプロの値段である。ただし、Reaperだけは、一般の消費者とプロの音楽家が使う場合で値段が違い、$60というのは一般人の値段。この他にもほぼ定番としてDigital Performer、Acoustica Mixcraftというのがあるようだが、これ以上候補者を増やすのはよそう。御覧の通りとにかく値段が高い。ベーシックあるいは中位の製品を買えばいいじゃないか、とも思うのだが。各ソフトの特徴を比べた表を見ると、できることできないこと、音のループの数など、これもあった方がいいよな-と欲が出てしまう、というか、後になって上位版を買っておけばよかったと悔いるのも嫌だな、と後悔を先に立ててしまうのだ。いくらまでなら許せるか?プロ・バージョンで5万円以上のものは、初心者としてはやはり手を出したくない。Reaperはどうなの?$60という驚異的な低価格だよ。ところが、いろいろと読んでみると、このソフトは、いろいろなプラグインを自分で探し、付け足して、システムを構築していく、そういうタイプのものらしいのだ。音の編集に特化したAudacityというソフトがあるが、あんな感じで、能力のある人なら、どんなことでもできるように作り上げることのできる、そういうタイプのソフトであるようだ。初心者の僕には無理だろう、と判断した。そうすると残されたソフトの中で、3万円ちょっとのStudio Oneと5万円のReasonだけがぎりぎり可能性の枠内に納まる。Reasonの強みの一つは、組み込まれたVirtual Instruments(シンセサイザーで合成された音のあれこれ)であるらしい。サンプル音を聴いてみると、かなりいい、アコースティック風のピアノや人声のハーモニーあるいは機械音ではないベースギターなど。他のDAWではできないのか、それは不明だ。他のソフトがサンプル音を公開しているわけではないので比較できない。一方、Studio Oneの(僕の理解できる範囲での)目玉は二つあって、一つはMelodyneという機能、Celemony社のソフトで、いわゆるプラグインという方式でStudio Oneに組み込んだものだが、この機能がすごい。音程を修正したり、音の長さを編集したり、テンポを合わせたり、その他の微調整をするための道具のようだ。Studio Oneのもう一つの目玉は、Chord Trackと名付けられた機能。それがどんなものなのか、解説を読んで理解できた限りで説明する。まず、Chord Trackに曲のコードを付ける、直接コード名を入れるかMIDIや他の楽器で演奏することで出来る。最大で4音のコードまで検出できるそうだ。コード挿入が終わったら、次は編集をすることができる。たとえば、C-Em-Amというコード進行の部分で、EmをE7に変更して曲想がどう変化するのかリアルタイムで検証したりできるそうだ。明らかにStudio Oneに魅かれている自分がいる。値段的にもこれ以上は出したくないし(だって結局ドブに捨てる可能性だってあるでしょ)、機能的にも試してみたいものが付いている。えっと、この辺に清水寺はありましたっけ?
2020.05.07
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DAW(ディジタル・オーディオ・ワークステーションの略)を中心に据えて<音楽制作システム>を築くためには、一方にMIDI電子機器グループ、他方にオーディオ関連機器グループを配置する、と読書中の解説書に書いてある。つまり、現代のDAWはMIDI信号とオーディオ信号、後者をわかりやすいように<生音>と呼ぼう、を両方処理することができるのだ。1980年代にヤマハのキーボードを使ってMIDIで遊んだ頃は、そんな器用なことのできるソフトは手の届く値段ではなかったと思う。上図で、中央にあるノートパソコンの画面に見えているのがDAWの一例、DAWの上にある一群がMIDI電子機器、MIDIキーボードやドラムマシーンが並んでる、すべてMIDI接続インプット・アウトプット(時にスル―プットも)が付いている、多くはUSBであるらしいが。DAWの下にあるのがオーディオもしくは生音関連の機器、マイク、スピーカー、ミキサーなどである。これだけそろえるには多分20万円近くかかりそうだ。揃えたところで使いこなせるかどうかわかったものじゃない。とすると途中放棄のリスクを考えて、やはりまずはDAWソフト(1万から2万円)、マイク(これも1万から2万円+スタンド)、MIDIキーボード(2万円前後の安いやつ)、あ、それと先日触れたギター用のMIDI変換アダプター、これも数千円で買わないと、合計6万円くらい使って最低限を揃えるか。そうと決まったら、次はそれぞれどの商品を買うかを調査しなければならない。これが時間かかるんだよね、夏までに調査終了できるかどうか。
2020.05.05
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前回、MIDIキーボードについて触れた時にMIDIの意味を説明するのを適当に飛ばしたので、もう一度書く。MIDIはMusical Instrument Digital Interfaceの略で、電子音楽機器の間で情報(データ)を交換する時に使われるプロトコル、規格だ。1980年代には、MIDI情報の交換にはMIDIジャックが使われていた。下の写真にあるような5ピンのプラグで、たとえば電子キーボード(ヤマハ、カシオなど)の後ろにこのジャック(差込口)が付いていた。現在の電子キーボード、一例としてカシオのPX-S1000の説明を読んでみたところ、MIDIジャックは付いていず、USBタイプBメスが付いている。この端子でMIDIのINとOUTの両方ができるのかどうか、確かではない。その内にMIDIキーボードを買うので、それから報告する。そんなことを調べていてふと思いついたのは、僕の持っているエレキギターの音をMIDIデータに変換することはできないのか、ということだ。ギターには6.35mm径のプラグがついているので、片側がギタープラグのオスで反対側がUSBのケーブルがあればいいのではないだろうか。オンライで調べると、あるある、そういったケーブルが。これでコンピューターに信号が入るはずだから、それをMIDIに変換するソフトがあればいいはずだ。あるいは、ギター側に付けるハードがあるかもしれない。もう少し調べてみよう。こんなことは音楽をやっている若者には常識なんだろうけど、まわりにそういう人がいないので、自分でコツコツやるしかない。
2020.04.29
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そろそろ、いわゆるバケット・リスト(死ぬ前にやっておきたいこと)の中から一つ一つつぶしていかないと、あっという間にその時が来る、いやこの状況では、その時が来たと思う間もなく去る可能性も高い、なんて切実に感じているわけではないが、棚上げにしてきたウィッシュ・リストから一つ二つ実行してもいいのではないかな。そのひとつ、コンピューターとMIDIキーボードを使って音楽を作ること、その伴奏の上に自分の歌を乗せてみるのもいいかもしれない、この作業を今の用語で何というのだろう、デジタル・ミュージック・プロダクション、ととりあえず呼んでおこう。これをするために必要なのは、まずコンピューター・ソフトで、これはデジタル・オーディオ・ワークステーション(DAW)というのが今の通称らしい。あとはMIDIを出力できるキーボードがあればいいかな。MIDIというのは1980年代からある、いろいろな電子機器間で情報を交換するための規格で、音声データそのものではなく演奏の情報をディジタル化したもの。MIDI規格は2019年にバージョン2が発表された、バージョン1からなんと38年ぶりだ。この作業がなぜバケット・リスト化してしまったか、その言い訳を書くと、まずDAW、つまりコンピューター・ソフトは価格も機能も様々あって、どれを買っていいかわからなかった、機能についても何の機能が最低限必要か、高級ソフトに付いている余分の機能がどんな役に立つのか、更に、DAWソフトの進化が速く、去年は4星だったものがもう存在していない、とかそういうことも見受けられた。いわば、結婚できない男、あるいは女でもいいが、状態にあったのだろう。決めることができない。二つ目の言い訳は、ソフトを買ったとして使いこなせるか、自信がなかった。よさそうなものは5万円とかそれ以上した、少なくとも数年前までは、(現在は2万円弱でもいいものがありそうだ)、5万円使って埃を被らせるのはなー。コンピューター・ソフトは、仕事をしていた時にはヘルプデスク化していたくらいなのでほどほどの自信があった。しかし、頭脳の老化・硬化の年齢である、できるかな、という危惧があった。先日スカイプ仲間のアルゼンチンの若者に教えてもらった、無料のDAWソフト、Anvil Studioというのがあると。さっそくダウンロードして少しずつ始めてみた。機能的には限定されていそうなので、少し慣れたら市販のソフトを買ってみようと思う。DAW一般についての書物も手に入れた。これを読むと、一般的なコンセプトがよくわかる。たとえば、DAWで曲を作る時、いくつかのトラックを独立に作成することができる。ボーカル、リズムギター、シンセサイザー、ベースやドラムなど。別々に作成したトラックは時にテンポがずれていたりする。それらを同期させる(シンクロナイズ)ことが、一つのボタンで出来る、とそういうことが書かれてある。あとは、MIDIキーボードを買えばいい。とりあえずはなくても音楽は作成できる。どうせもう一月ほどテニスもできない、外出も限定されている、DAWを勉強するチャンスだ。
2020.04.28
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遊月遊日 諦めるしかない残念ながら、おそらく今年の11月の選挙は現職の勝利になることだろう。コロナ禍がもたらす壊滅的経済を救うのは連邦政府は巨額の支出を含めた大手術しかない。多分アメリカ経済は復活するだろう。その時、つまり今年の後半、中国はもはや2019年のそれではなく(イタリア、イランなどへの巨大投資をどうやって回収するのか)、イランは存在しないかもしれず、EUはもがき苦しんでいるだろう。アメリカ、イギリスそして日本が唯一よろめきながらも前進できる状態にあるのじゃないだろうか。復活したアメリカ経済は現職以外の大統領を望まない、望めない。感覚的には鳥肌が立つほど嫌なことだが、コロナ禍の残滓として受け止めるしかない。棒月棒日 サビーナ・シュピールライン(Sabina Spielrein)その映画を観ていないので詳細はわからないが、フロイトとユングの友情と絶縁の話に、サビーナ・シュピールラインという女性を絡ませたのが、クローネンバーグの映画「危険なメソッド」(A Dangerous Method、2011年、日本では2012年)であるらしい。映画の種本はJohn Kerrが1993年に出したほぼ同題のノンフィクション。更に遡って1977年にAldo Carotenutoというイタリアのユング派精神分析家がシュピールラインの日記と書簡を発見し、それをもとに1980年にイタリア語で、1982年に英訳「A Secret Symmetry」を出版した。これらの著作に依拠して、ドキュメンタリー「My Name Was Sabina Spielrein」(2002年)、映画「Soul Keeper」(2002年)が製作されている。ユングとシュピールラインの関係がプラトニックだったのかそれ以上だったのか、という議論はネットのあちこちで見かける。どうでもいいと思うのだけどね。学者達も週刊誌の読者とたいして違わないということだ。シュピールラインという女性、最初はユングの患者だったが(1904-1905年)、やがてチューリッヒ大学の医学部を卒業(その時の論文は統合失調症患者の言葉について)、1912年頃にウィーン精神分析学会のメンバーに選ばれている。ロシア生まれのユダヤ人シュピールラインは1923年ロシアに戻り、精神分析、児童心理学、幼稚園の設立・運営に携わった。1942年、ロシアに侵攻してきたナチによって殺害された。
2020.03.30
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某月某日 無意味あれはまだ同僚のKさんと仕事帰りにテニスをしていた頃だから、15年前くらいのことだろうか、ある晩ラリーの途中にドサッと言う音が聞こえて振り返ると、テニス場の管理人の老人がフェンスの外で倒れていた。肥満気味でチェーンスモーカーの彼とは別に親しい間柄でもない、ただある程度挨拶を交わしておかないとあれこれ融通を効かせてもらえないからという程度の関係だった。誰かが救急車を呼んだのだろう、すぐに救急員が駆けつけ彼の状態を確かめた後担架で運んで行った。その一切を眺めながら、僕たちは二人は結構ショックを受けしばらく立ち竦んでいた。どういう心理的な筋道でそういう話になったのかは覚えていない。ただなんとなく自分たちの存在が無意味だなあ、と二人とも感じていた。毎日仕事はしているものの、いったいどれだけ社会の役に立っているんだろう、正直、ほとんど貢献していないのじゃないだろうか、ある健康分野のプログラムの成果の検証などを手掛けていたが、そんなもので政府のプログラムなんて何の変更もされるもんじゃない、僕たちの仕事なんて予算の獲得と防衛に使われるくらいのものだ。その後僕は退職し、非営利団体の古本屋のボランティアなどをして幾分かの存在意義を恵んでもらっていたが、その町から引っ越した今ではそういう時間的に気儘なボランティアの口も探すことができず、以前よりももっと無意味な存在になり下がっている。忘月忘日 テニスこの町に移り住んでからのテニスは、週二回夜の何時から何時までという定住型のものではなく、適当な時にコートに行って居合わせた人たちとする遊牧型のものに変わった。どちらのスタイルがいいか、一長一短なので簡単には断定できないが、それがここの事情だから合わせるしかない。そんな中、今回日本に行く前に知り合った二人とは、週一ではあるがわりと定着タイプになりそうな雰囲気であった。一月後、さてテニスをしようと連絡したら、例のCOVID騒ぎで町の公園は全て閉鎖されてしまった、もちろん町が管理するテニスコートもである。もう一月テニスはお預けということになりそうだ。×月×日 自由な消費という幻想いつの頃からか、ある会社のある商品が、たとえばスパゲッティ・ソースをとると、いくつもの味で売られるようになった、伝統のトマト味、トマト+バジル+ニンニク味、4種のチーズが入った味、ぶつ切りマッシュルーム入り、などなど。想像するに、製造する方には大した手間がかからないのだろう、すべて機械がしてくれる、ベースになるソースにあるものはバジル、別のラインはチーズ、こちらはマッシュルームと放り込んでいけばいい。買う方は、自分の好みに合わせて、この場合好みが単に思い込みなのか実際に味の違いが分かる舌なのかは不問に付すが、今週はあの味次の週はこの味と変化のある消費をしているという充実感を抱ける。バラエティが充実しているというイメージのブランドがよく売れるに違いない。要は、消費資本主義のマーケティング戦略にすぎない。いままでは画一的な商品を買わざるを得なかった消費者が、自分の選ぶモノを買うことができているという自由と差別化の幻想。
2020.03.25
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抽象的な内容で難解な文章や詩歌を読む時に漠然としたイメージを持つ必要がある、と前回書いた。それをひとつ実践してみようと思う。1.諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。2.万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。3.仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。4.しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。道元の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の「現成公案(げんじょうこうあん)」巻の冒頭である。番号は便宜上つけた。道元思想や仏教の考え方についてほとんど知らないので、このままでは理解に苦しむ。そこでまず文章の構成を調べてみよう。文1「諸法の仏法なる時節・・・」と文2「万法ともにわれにあらざる時節・・・」が対照的に書かれているのは確かだ。文1では、迷悟、修行、生、死、諸仏、衆生が「あり」、文2では修行を除いたそれらが「なし」となる。さて文3で再び「あり」に戻るが、この文はある「時節」のことではなく、「もとより」つまり「本来は・・・」という内容だ。文4では、これらすべてを受けて、そうはいっても花は散るし草は嫌われると締めくくっている。文1と文2のもう一つの対は「諸法」と「万法」だ。「法」は仏教用語では多様に使われるそうだが、主として存在そのものと存在の法則だという。「諸法」と「万法」に使われている「法」は前者の意味で、「諸法」は個々の存在、「万法」は全ての存在、と捉えてよさそうだ。この二つは対ではあるが対照ではなくほぼ同じものを指しているのではないだろうか。「仏法なる時節」と「ともにわれにあらざる時節」という二つの鍵になる部分も対になっているが、意味はよくわからない。よく見ると他にも対になっているものがある。迷いと悟り、生と死(または滅)、諸仏と衆生。さらに、文3にある豊倹も豊かなことと不足していることという対を為している、と辞書にはある。仏教用語では、もっと一般的に相対立する物のことだそうだ。そうすると、文1では二項対立が存在し、文2ではそれが消滅し、文3では、本来的に二項対立から「跳出」しているので二項対立がある、としている。「跳出」の意味が不明なので、文3の意味自体がよくわからない。いずれにしても、二項対立が重要な意味を占めている。以上の構成分析から作り出せるイメージは次のような感じだ。世俗の世界には二項対立的にものをみる「我」のある意識が存在して、これを克服することで世界は二項的に区別される以前の状態を回復する。もう少し文章に即して言い換えると次のようになる。迷悟、生死、諸仏と衆生と物事を二つに対立的に区別する意識からわれわれは出発する。この意識は「我」に毒されていると言える。世界から「我」という意識が無くなれば、そこにはもはや二項対立は存在せず、迷悟、生死、諸仏と衆生などの区別は無くなる。仏道がそこから生まれ出た現実には、豊かさと不足さという意識があり、迷悟、生死、諸仏と衆生という二項に区別する意識が存在している。にもかかわらず(区別しようとしまいと)、華は惜しまれながらもただ散り、草は嫌われながらも生い茂るだけなのだ。さて、仏教についてのほんの少しの知識と国語辞典を頼りにできたこのイメージが、専門家の読みからどれだけずれているのか、見てみよう。道元思想専門家、頼住光子の「正法眼蔵入門」(角川ソフィア文庫、2014年)と彼女の論文「道元における「さとり」と修行 : 『正法眼蔵、現成公案』巻をてがかりとして」(神田外語大学日本研究所紀要、2009年、ネットで閲覧)から拾い読みしてまとめてみる。仏教では、事物現象の中に不滅の本質(アートマン)があるという見方を否定して無我を説く。我と執着こそが苦の原因であり、無我の体得を目指すのが修行である。無我ではない心は、事物現象を実体化し、分節化し、序列化し、構造化する。こうすることで価値の序列化が可能になり、欲望の体系を作り上げることができる。これが世俗世界の存在把握である。これに対して、仏教の観点からする本来の世界は無我であり、無分節である。さまざまな因縁(直接原因と関節原因)が寄り集まった結果、世俗的世界として仮に成り立たせられているに過ぎない。これが縁起的観点である。縁起の連鎖が少しでも違えば、事物現象はまったく違うものになり得る、ということだ。文1の「諸法が仏法なる時節」に、人は次のように気付く、本来「無我」であり「空-縁起」であるはずなのに、現在の自分の在り方や物事の捉え方は、迷悟、生死、諸仏衆生が分節化されているではないか、と。この時、つまり発心(悟りを得ようとする心を起こすこと)の時、こういう二元対立的分節化の生き方から脱却したいと思い、真実なるものを得たいと望むのだ。これが文1の状態だ。これに対して、文2は「さとり」の時であり、分節の意識を克服している。だから、迷悟、生死、諸仏衆生がないのだ。文3の冒頭は次のように訳されている。「仏道とは、本来、多い少ないといったような二元対立的な分節化を遥かに超え出ているものである。そして、このような二元対立を超えた無分節を源としてこそ・・・。」頼住によると「跳出」は「超え出る」という意味である。僕はこの言葉が「そこから発生している」とイメージしたが、それは間違っていたようだ。僕には全く思い浮かばなかった考えだ。二元対立的分節を克服したところに横たわっている無分節の状態、その上にもう一度分節的状態を乗せる、という考え方。世俗的現実を一度乗り越え無分節のさとりに達する、その上でもう一度分節していく、という手続き。確かに、こう読むと文3が整合的に理解できる。頼住は更に続けて、「しかもこのように源を無分節にもつとはいうものの、我々の眼前では、花は惜しまれつつ散り、草は嫌われつつ生い茂るのである。」なるほど、文4の「しかもかくのごとくなりといへども」を、「豊倹より跳出」しているとは言っても、と解釈している。こうすることで、花と草に関する現実描写の意味が理解できる。以上が、「現成公案」冒頭の文章についての漠然としたイメージの構築とその検証の一例。世に訳注書は多く出ていると思う。しかし仏教のことをほとんど知らない僕のような人間には、訳注書だけで理解するのは困難だ。頼住の解釈のようなものがあると少しは納得できる。
2020.02.07
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