2020.02.07
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抽象的な内容で難解な文章や詩歌を読む時に漠然としたイメージを持つ必要がある、と前回書いた。それをひとつ実践してみようと思う。

2.万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
3.仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
4.しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
道元の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の「現成公案(げんじょうこうあん)」巻の冒頭である。番号は便宜上つけた。道元思想や仏教の考え方についてほとんど知らないので、このままでは理解に苦しむ。そこでまず文章の構成を調べてみよう。文1「諸法の仏法なる時節・・・」と文2「万法ともにわれにあらざる時節・・・」が対照的に書かれているのは確かだ。文1では、迷悟、修行、生、死、諸仏、衆生が「あり」、文2では修行を除いたそれらが「なし」となる。さて文3で再び「あり」に戻るが、この文はある「時節」のことではなく、「もとより」つまり「本来は・・・」という内容だ。文4では、これらすべてを受けて、そうはいっても花は散るし草は嫌われると締めくくっている。

文1と文2のもう一つの対は「諸法」と「万法」だ。「法」は仏教用語では多様に使われるそうだが、主として存在そのものと存在の法則だという。「諸法」と「万法」に使われている「法」は前者の意味で、「諸法」は個々の存在、「万法」は全ての存在、と捉えてよさそうだ。この二つは対ではあるが対照ではなくほぼ同じものを指しているのではないだろうか。「仏法なる時節」と「ともにわれにあらざる時節」という二つの鍵になる部分も対になっているが、意味はよくわからない。

よく見ると他にも対になっているものがある。迷いと悟り、生と死(または滅)、諸仏と衆生。さらに、文3にある豊倹も豊かなことと不足していることという対を為している、と辞書にはある。仏教用語では、もっと一般的に相対立する物のことだそうだ。そうすると、文1では二項対立が存在し、文2ではそれが消滅し、文3では、本来的に二項対立から「跳出」しているので二項対立がある、としている。「跳出」の意味が不明なので、文3の意味自体がよくわからない。いずれにしても、二項対立が重要な意味を占めている。

以上の構成分析から作り出せるイメージは次のような感じだ。世俗の世界には二項対立的にものをみる「我」のある意識が存在して、これを克服することで世界は二項的に区別される以前の状態を回復する。もう少し文章に即して言い換えると次のようになる。迷悟、生死、諸仏と衆生と物事を二つに対立的に区別する意識からわれわれは出発する。この意識は「我」に毒されていると言える。世界から「我」という意識が無くなれば、そこにはもはや二項対立は存在せず、迷悟、生死、諸仏と衆生などの区別は無くなる。仏道がそこから生まれ出た現実には、豊かさと不足さという意識があり、迷悟、生死、諸仏と衆生という二項に区別する意識が存在している。にもかかわらず(区別しようとしまいと)、華は惜しまれながらもただ散り、草は嫌われながらも生い茂るだけなのだ。

さて、仏教についてのほんの少しの知識と国語辞典を頼りにできたこのイメージが、専門家の読みからどれだけずれているのか、見てみよう。道元思想専門家、頼住光子の「正法眼蔵入門」(角川ソフィア文庫、2014年)と彼女の論文「道元における「さとり」と修行 : 『正法眼蔵、現成公案』巻をてがかりとして」(神田外語大学日本研究所紀要、2009年、ネットで閲覧)から拾い読みしてまとめてみる。

仏教では、事物現象の中に不滅の本質(アートマン)があるという見方を否定して無我を説く。我と執着こそが苦の原因であり、無我の体得を目指すのが修行である。無我ではない心は、事物現象を実体化し、分節化し、序列化し、構造化する。こうすることで価値の序列化が可能になり、欲望の体系を作り上げることができる。これが世俗世界の存在把握である。これに対して、仏教の観点からする本来の世界は無我であり、無分節である。さまざまな因縁(直接原因と関節原因)が寄り集まった結果、世俗的世界として仮に成り立たせられているに過ぎない。これが縁起的観点である。縁起の連鎖が少しでも違えば、事物現象はまったく違うものになり得る、ということだ。

文1の「諸法が仏法なる時節」に、人は次のように気付く、本来「無我」であり「空-縁起」であるはずなのに、現在の自分の在り方や物事の捉え方は、迷悟、生死、諸仏衆生が分節化されているではないか、と。この時、つまり発心(悟りを得ようとする心を起こすこと)の時、こういう二元対立的分節化の生き方から脱却したいと思い、真実なるものを得たいと望むのだ。これが文1の状態だ。これに対して、文2は「さとり」の時であり、分節の意識を克服している。だから、迷悟、生死、諸仏衆生がないのだ。

文3の冒頭は次のように訳されている。「仏道とは、本来、多い少ないといったような二元対立的な分節化を遥かに超え出ているものである。そして、このような二元対立を超えた無分節を源としてこそ・・・。」頼住によると「跳出」は「超え出る」という意味である。僕はこの言葉が「そこから発生している」とイメージしたが、それは間違っていたようだ。僕には全く思い浮かばなかった考えだ。二元対立的分節を克服したところに横たわっている無分節の状態、その上にもう一度分節的状態を乗せる、という考え方。世俗的現実を一度乗り越え無分節のさとりに達する、その上でもう一度分節していく、という手続き。確かに、こう読むと文3が整合的に理解できる。頼住は更に続けて、「しかもこのように源を無分節にもつとはいうものの、我々の眼前では、花は惜しまれつつ散り、草は嫌われつつ生い茂るのである。」なるほど、文4の「しかもかくのごとくなりといへども」を、「豊倹より跳出」しているとは言っても、と解釈している。こうすることで、花と草に関する現実描写の意味が理解できる。






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最終更新日  2020.02.07 05:23:04
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