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ゴルムド 列車内で服務員から買ったチベット・ラサ行きバスの切符をバス停で見せたが、そのバスはもう何時間も前に出ていっていた。列車内で切符を買った何十人という人々は怒り、バス停の切符売り場を壊しそうな勢いであったのは、昨日のことだ。そして、代替の切符の出発は明日だ。そういえば、列車内の服務員は、ビール瓶を車内に捨てると、烈火のごとく怒っていた。「こんなところに捨てるなあ」といい、窓の外に放り投げた。長時間乗っていると、何度もガラスが割れる音が聞こえてくる。態度は同じようなものだ。砂埃だけが目立つ、興味のそそるものは何もない町で、バス停に引っ付いた宿に泊まっている。太陽は顔をのぞかさず、町は大地も空も区別なくモノラルの写真の様だ。 ラサに強制的に労働に行く漢民族軍団に交じり、飯を食ったり路上ビリヤードをしたが、時間はたたない。三叉路の標識はラサ敦煌蘭洲とそれぞれ何百キロと離れた地名を漠然と書いている。一本道なのかも知れないが、気分はズドーンとなる。広すぎる。「天に定むる歓喜王宮全方勝利」とチベット方面に向かってつぶやく。チベットの正式名称だ。チベット文明はアジアに現存する数少ない(四つ)文明である。ラサ河のほとりにて 歩き疲れて一休みしている。ネパール領事館、人民公園を経由して、屋台でコカコーラを買った。日本を出て以来、初めて買ったコーラは高く、人民元は財布に一角だけとなってしまった。銀行に行かなければと思いつつも、貴重に思えるコカコーラを河のほとりでゆっくり飲みたいと思った。泥の河の流れは速く、河向こうに見える山々には木が生えておらず、人間程の大きさの石が剥き出しにゴロゴロしている。空は遠く、これ以上青くなれば青でなくなってしまうほどの青。空気は相変わらず薄く漂い、昼間の一時期だけ太陽光線を浴び、かろうじて半そでが心地よい。私は、飲み干した缶を河に投げた。浮かんで流れているのは、私の投げた缶だけである。すべての自然の物質を飲み込んで融合していくような泥の色と流れの速さを持つ河は、人工物を拒否しているかのようである。缶は回転も沈みもせず、避けられるように、液体の上を上滑りしていくように、河の上を平行移動するように、まっすぐスススーっと固定されたように川下に運ばれていく。 後ろを振り返る。遠くにポタラ宮。煙草を吸って、仮初めの陽気な天気の中、よどみ、トラックの微かなエンジン音、川下方向にマニ車を回すばあさんの散歩、蝿、川上方向で洗濯する娘、彷徨、荒涼、記念碑、そんな中、ひとつの存在として他人事のように私はここに在る。 歯痛に耐える。歯痛の痛みは、誰もが手軽に体験してしまう痛みのうちで最も不快で重いものである。気分を紛らわすこともできず、気軽に厭世的になる。痛みの慣れもない。歯にかぶせたものと歯の間に僅かな気泡が、高度差のため気圧が変わり、頭痛以上の痛みを伴う。血液が流れ、脈を打つたびに、痛みが頭と右奥歯を往復する。真面目に帰りたいと思うようになった。下界へ。しかし、悟りとは何か分からないが、こういう体験は必要なのだと思った。哲学的閃光はこういうときにやってくる。疼きを和らげるために正露丸を詰め、ツボを押さえ続けてもがく。意を決して、屋台の牙科に行ってみることにした。生々しい入れ歯を置いている屋台を思い出し、頬を押さえながら、出かける。やがて、屋台が見えた。一人の男が口を押さえて苦しそうに俯いている。押さえた口から血がしたたり、無表情な医者の顔を見た瞬間、私は後ずさり、口笛を吹き、愛しいベッドに舞い戻っていくのであった。ここでは歯医者は雑貨屋と感覚が同じなのだろうか。共産圏に神は存在しないのか。ここは中国などではない、神々の土地ではなかったのか。ああ無情、と訳の分からないことを呟く。 呟いたお陰か、次第に痛みが和らぎ始めた。同時に何かから遠ざかり始めた。楽しい世の中が始まりつつあるような気がした。珍しい世界が広がる世界の中で、ただベッドでひたすら痛みに耐えていた私は、耐えることに忙しくて退屈を感じることはなかった。広大雄大なごちごつした石とちょこちょこ生えるいとおしい程青い草。私の意識は朦朧として起きているのだか、死んでいるのか良く解らない状態。バスはただ進んでいるようだ。いずこかの方向に。バスが私を運ぶ。羊。ヤク。牛。群れ。馬。草原。穴。山。崖。峠。雨。暗。雲。細道。停滞。河。泥。崩れ。曲がり。遊牧。ダライラマの写真要求。ブレーキの故障。旗。雪。石に書かれたチベット文字。薄。透。天。単調。そして五千三百メートルの峠を越えた瞬間、私は私なりの詩人になった、と軽い高山病の中で思った。もう少し正確にいうと勘違いした。人間の尊厳とは何ぞや バスは泥地にはまったりスリップして往生するので、二台で走っている。幾度となく峠を超え、高度を上げるにつれ、私は目玉を動かせない程の高山病に悩まされ始め、頭痛の中で、現実に広がる現実離れしたいつまでも続く大平原とキャラバンと紺碧の空と遠方にそびえる山を見ていた、と、思う。素晴らしい景色も過剰なほど単調で、進んでいるのか全く分からない。私は何度も一分でもいいからこの景色を今まで会った人々に見せてあげたいと思っていた。どうせ、一時間一日走っても景色は変わらぬ。そして意識は半分喪失状態で、起きているのか眠っているのかもあやふやになる。この風景を、細切れに分け、毎日一分ずつ見ることができれば、簡単に詩人になってしまう。バスの中は現実の世界で現実的に中国流行歌が流れている。ただ、誰も話をせず、坂道で完全燃焼しきれないエンジン音と振動が激しくなる。 まだ続く天国に近いため広すぎる空の下、六千メートル以上の山々、山麓が数十キロにわたり広がる平原。緑の低草、石、岩。軽い高山病からくる頭痛と吐き気。人工的なものはこのバスだけ。何時間も。いや、石と旗があった。文字を刻まれた石と旗が、大自然の中に所々残されていた。 やがて、村が現れ休憩。コンクリートでできた建物が便所。中に入ると八穴空いた穴に八人しゃがんでいる。便所内には仕切りも便座も金隠しも手洗いもなく、八つの穴が開いているだけで、その八穴からは既に堆積物が富士山のようになっている。そのため、八人はずっしり座れず、半腰になってズボンをずり下ろしている。お互い話している奴もいる。そして、他人のその瞬間を生まれて初めて目撃してしまった。廃棄する姿を八人同時に。人間の尊厳とは?外は大自然。人間の密度が異常に高いこの場。何故、自然の中でしないのか分からぬ。道徳なのか? その後もバスは何度も立ち往生し、我々乗客はバスを押し、もう一台のバスがロープで引っ張る。ようやく五千三百メートルの峠を超え、意識は朦朧とし、一時的に詩人になってしまう。やばいと思い、何を思ったのか体温計で体温を測るが平熱。いつ詩を披露できるのだろうか。下界に降りれば、高山病は治り、詩人は終わってしまう。 三日目。バスは盆地へ下り始め、木々が目立ち始め、家が密集しだし、菜の花のような色の花が咲く畑が増え、ついにポタラ宮殿が現れ、ここがラサだということが分かった。即席詩人、未だ一行も書かず兵舎に泊まった。土間も許そう。星が見えたり雨がが入ってくる天井の穴も許そう。裸電球一つというのも許そう。しかし湿った布団は許せない。宿舎の最低要件である。食事も外国人料金なのに抗議し、飯は抜く。しかし、目に収まりきらないほどの平原の中に人工的なものはここだけ。兵舎にバスにランドクルーザーが数台のみ。出鱈目に暗くなるまで彷徨。高山病からくる軽い朦朧さの中で。羊の親子と一緒に。国境手前十キロの地点でバスは高度を二千メートル下げ、いよいよ下界に突入していく。天から遠ざかっていくというのに緑が現れ、方々の木々から水蒸気がたち込め、木々の間から水が滝となりいくつも落ちて濁流へ注がれていく。まさに天界から俗へ降りていく通過の間である。空気が濃くなり、酸素の重みを感じる。軽い高山病から醒め、意識がはっきりしていくのが少し寂しい気がする。俗の世界でこそ生かされている私を深く認識してしまって。川のせせらぎの音は下界のものだった。濁流でさえ、せせらぎだと思えた。畏怖する程素晴らしい風景とその風景の単調さから離れ、次第に俗なものに安心感を覚えつつあった。長かった天からの暮らしの記憶が急に現実感のないものに変わり、天にも地にも愛おしさを強烈に感じた。中国からネパールへの道は土砂崩れで崩壊し、当分歩かなければならなかった。税関を越え、十メートル先の一件目の茶屋に入ると茶がミルクティーに変った。但し中国製ポットではあったが。雨の中を崖崩れ沿いに歩くこと一時間、友誼橋を渡れば、領土はネパール。橋を渡ってくる人に日本語で叫んでみた。「今何時だい?今から十秒後に三時間二十分戻るぞー」勿論、荷物を運ぶシェルパに国境も時差も関係ない。ここからまだ二日歩かなければ道が通っていない。そう教えてくれたのは、中国の入国を断られたアメリカ人であった。彼の取得したビザはピープルリパブリックオブチャイナではなくリパブリックオブチャイナ(台湾)であった。十二キロ歩き、トラックに乗り数キロ、乗合タクシーで数キロ、再び三キロの歩き。所々の道が決壊し、たまたま決壊した間にあったトラックや乗用車がその決壊から決壊までの間をピストン運転して商売をしているのだ。そして民家に泊めてもらう。電気のない村の闇は濃い。ヘッドランプをつけて暫く散歩する。空に輝く満面の怖いくらいの星の下で哲学的脱糞。人生最高の体外へ不用物を練り出す体験となる。寝る食う出すの基本的欲求が心地よければ、人生はなかなか実りあるものに化ける。また、明日も歩く。家のじいさんが暗闇の中でゆっくり煙草を吸っていた。翌日の夜。カトマンドゥ。ベッドメイキングの資本主義にみすみす涙する。チベットで5300メートルの峠を越えた瞬間、俺は俺なりの詩人になった、と強烈な高山病からくる頭痛と眠気から錯覚を起こした。詩人だからといって詩を作るつもりはさらさらなかった。下界インドに南下して、「詩人になっちゃったんだけどいいかな」と出会った者に宣言してみたが、あざ笑い又は失笑。 一生懸命積み上げてきたものの先が見え始めた時、一気にぶち壊してしまいたくなる衝動に駆られて、その快楽に酔いしれてしまう今宵。本当に必死で守っているものがないなら、捨てちまいな。初期化のボタンを押して過去がスーっと真っ白になるとどんなに愉快だろうか。閑吟の人クプクプは市井の人ピーターと対話を収録した。「そんなこといったっても世界の半分は飢餓状態ですぜ旦那」「このお地蔵サン、国籍は朝鮮だってさ」「人が殺されるのはいつも不当な権力からの弾圧によってです」「環境不適応者の続出です。飛ばし過ぎです。一億総分裂病で二倍、二倍~」「人の毛をとってな、人の毛を取ってな、ホウキにしようと思ったんじゃ」「新種の病気、戦争、人工爆発、ジンルイメツボウの3種の神器です」「どこへいけばいい」「SOMEWHERE OUT THERE」「嬉しい手紙だよ。個人的な小さな喜びだよ。自然に対するいいようのない不安だよ」「幕を開けろ、トリックスター」「もっとバイキンを。消毒し過ぎ、もっとバイキンを!アチョー」裸足の上からスリッパはおって、6日間風呂を抜かして、Tシャツは水色を基調に黒いミミズよ。そいつうの上からGジャンはおって、7日間同じ格好して、Gパンは水色を基礎に花が飛び散るのよ。とても気持ちが良い日差しの日には、部屋にこもって、TシャツもGパンも俺の体もくしゃくしゃになりながら起きることを拒否する。朝には全く起きる必要がなかった。もはや朝には全く寝る必要もなかった。満席。リズムに合わせて、右手を挙げる。左手を挙げる。視線を投げる。櫛は不要。机上の理論。飲みかけのコーヒーが底にたまったマグカップ。内側にワッカができている。不要な櫛。落書用マジックインキ。倒産したブテックから貰ってきた鉛筆削り。開けもしないDM封筒。Dは言っていたな。初めての日本での給料が月300ドル。2回目が月500ドル。2回目は2年間オーバーステイして、その間にヤクザとの間に子供を産んだ。現在その男はは麻薬取締法違反で刑務所在住。そんなDは、祖国に帰ってきて言ってたな「毎日、毎日何もしないで生きているだけだ。疲れる」と。コップは一度しか洗われていない。劇は永遠に続くが、残念ながら私は有限であった。峠は決定を強いる所だが、ゆっくり小便をする所でもある。小学6年のときの新春の決意私の六年生ちゅうのも情けないものであった。時効なので披露する許可を先程自分で得た。原文のまま、文法的間違い多し。新春の決意!整理をしようと思う。いつもぼくの机の上はいろんなものがちらかっていて勉強するとき困る。それでぼくが従兄弟の家にいってる間に母が机をきれいにする。ありがたいとおもうけど、どこになにがいったか分からなくなってわめくときがある「お母さん、あれはどこにいったんや」「あれはそこの引き出しや」「あれは捨てた」とかいって困るから自分で整理をちゃんとしようと思う。でもやっぱり整理をやるとすっきりして気持ちいいから整理をちゃんとやろう。でも時間がかかるから退屈なときにやろうと思う。コメント最後はオチになってますな。退屈なときなんてないもの。あーあ。
2003.05.31
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アフガニスタンからカイバル峠を超えた国境の街ぺシャワール。インド首都デリーで世界地図を広げていたら、やたら響きのいい街があった。それも国境。私はそこがなかなかの紛争地帯であることを知らず、早速、パキスタン北部のこの街に行くことにした。ぺシャワールは、涼しい街だった。純正ヘロインが世界で一番安い街ということも知った。市場で女性を一度しか見なかった。車が先程歩いて来た道、100メートル後ろで爆発した。静かだった。冷静に壊れた車を見ていた。いい街だったなあ。(チベット)天・石・穴・雨・青・崖・暗・晴・緑・旗・停滞(チベット)ゴルムド 列車内で服務員から買ったチベット・ラサ行きバスの切符をバス停で見せたが、そのバスはもう何時間も前に出ていっていた。列車内で切符を買った何十人という人々は怒り、バス停の切符売り場を壊しそうな勢いであったのは、昨日のことだ。そして、代替の切符の出発は明日だ。そういえば、列車内の服務員は、ビール瓶を車内に捨てると、烈火のごとく怒っていた。「こんなところに捨てるなあ」といい、窓の外に放り投げた。長時間乗っていると、何度もガラスが割れる音が聞こえてくる。態度は同じようなものだ。砂埃だけが目立つ、興味のそそるものは何もない町で、バス停に引っ付いた宿に泊まっている。太陽は顔をのぞかさず、町は大地も空も区別なくモノラルの写真の様だ。 ラサに強制的に労働に行く漢民族軍団に交じり、飯を食ったり路上ビリヤードをしたが、時間はたたない。三叉路の標識はラサ敦煌蘭洲とそれぞれ何百キロと離れた地名を漠然と書いている。一本道なのかも知れないが、気分はズドーンとなる。広すぎる。「天に定むる歓喜王宮全方勝利」とチベット方面に向かってつぶやく。チベットの正式名称だ。チベット文明はアジアに現存する数少ない(四つ)文明である。ラサ河のほとりにて 歩き疲れて一休みしている。ネパール領事館、人民公園を経由して、屋台でコカコーラを買った。日本を出て以来、初めて買ったコーラは高く、人民元は財布に一角だけとなってしまった。銀行に行かなければと思いつつも、貴重に思えるコカコーラを河のほとりでゆっくり飲みたいと思った。泥の河の流れは速く、河向こうに見える山々には木が生えておらず、人間程の大きさの石が剥き出しにゴロゴロしている。空は遠く、これ以上青くなれば青でなくなってしまうほどの青。空気は相変わらず薄く漂い、昼間の一時期だけ太陽光線を浴び、かろうじて半そでが心地よい。私は、飲み干した缶を河に投げた。浮かんで流れているのは、私の投げた缶だけである。すべての自然の物質を飲み込んで融合していくような泥の色と流れの速さを持つ河は、人工物を拒否しているかのようである。缶は回転も沈みもせず、避けられるように、液体の上を上滑りしていくように、河の上を平行移動するように、まっすぐスススーっと固定されたように川下に運ばれていく。 後ろを振り返る。遠くにポタラ宮。煙草を吸って、仮初めの陽気な天気の中、よどみ、トラックの微かなエンジン音、川下方向にマニ車を回すばあさんの散歩、蝿、川上方向で洗濯する娘、彷徨、荒涼、記念碑、そんな中、ひとつの存在として他人事のように私はここに在る。 歯痛に耐える。歯痛の痛みは、誰もが手軽に体験してしまう痛みのうちで最も不快で重いものである。気分を紛らわすこともできず、気軽に厭世的になる。痛みの慣れもない。歯にかぶせたものと歯の間に僅かな気泡が、高度差のため気圧が変わり、頭痛以上の痛みを伴う。血液が流れ、脈を打つたびに、痛みが頭と右奥歯を往復する。真面目に帰りたいと思うようになった。下界へ。しかし、悟りとは何か分からないが、こういう体験は必要なのだと思った。哲学的閃光はこういうときにやってくる。疼きを和らげるために正露丸を詰め、ツボを押さえ続けてもがく。意を決して、屋台の牙科に行ってみることにした。生々しい入れ歯を置いている屋台を思い出し、頬を押さえながら、出かける。やがて、屋台が見えた。一人の男が口を押さえて苦しそうに俯いている。押さえた口から血がしたたり、無表情な医者の顔を見た瞬間、私は後ずさり、口笛を吹き、愛しいベッドに舞い戻っていくのであった。ここでは歯医者は雑貨屋と感覚が同じなのだろうか。共産圏に神は存在しないのか。ここは中国などではない、神々の土地ではなかったのか。ああ無情、と訳の分からないことを呟く。 呟いたお陰か、次第に痛みが和らぎ始めた。同時に何かから遠ざかり始めた。楽しい世の中が始まりつつあるような気がした。珍しい世界が広がる世界の中で、ただベッドでひたすら痛みに耐えていた私は、耐えることに忙しくて退屈を感じることはなかった。広大雄大なごちごつした石とちょこちょこ生えるいとおしい程青い草。私の意識は朦朧として起きているのだか、死んでいるのか良く解らない状態。バスはただ進んでいるようだ。いずこかの方向に。バスが私を運ぶ。羊。ヤク。牛。群れ。馬。草原。穴。山。崖。峠。雨。暗。雲。細道。停滞。河。泥。崩れ。曲がり。遊牧。ダライラマの写真要求。ブレーキの故障。旗。雪。石に書かれたチベット文字。薄。透。天。単調。そして五千三百メートルの峠を越えた瞬間、私は私なりの詩人になった、と軽い高山病の中で思った。もう少し正確にいうと勘違いした。人間の尊厳とは何ぞや バスは泥地にはまったりスリップして往生するので、二台で走っている。幾度となく峠を超え、高度を上げるにつれ、私は目玉を動かせない程の高山病に悩まされ始め、頭痛の中で、現実に広がる現実離れしたいつまでも続く大平原とキャラバンと紺碧の空と遠方にそびえる山を見ていた、と、思う。素晴らしい景色も過剰なほど単調で、進んでいるのか全く分からない。私は何度も一分でもいいからこの景色を今まで会った人々に見せてあげたいと思っていた。どうせ、一時間一日走っても景色は変わらぬ。そして意識は半分喪失状態で、起きているのか眠っているのかもあやふやになる。この風景を、細切れに分け、毎日一分ずつ見ることができれば、簡単に詩人になってしまう。バスの中は現実の世界で現実的に中国流行歌が流れている。ただ、誰も話をせず、坂道で完全燃焼しきれないエンジン音と振動が激しくなる。 まだ続く天国に近いため広すぎる空の下、六千メートル以上の山々、山麓が数十キロにわたり広がる平原。緑の低草、石、岩。軽い高山病からくる頭痛と吐き気。人工的なものはこのバスだけ。何時間も。いや、石と旗があった。文字を刻まれた石と旗が、大自然の中に所々残されていた。 やがて、村が現れ休憩。コンクリートでできた建物が便所。中に入ると八穴空いた穴に八人しゃがんでいる。便所内には仕切りも便座も金隠しも手洗いもなく、八つの穴が開いているだけで、その八穴からは既に堆積物が富士山のようになっている。そのため、八人はずっしり座れず、半腰になってズボンをずり下ろしている。お互い話している奴もいる。そして、他人のその瞬間を生まれて初めて目撃してしまった。廃棄する姿を八人同時に。人間の尊厳とは?外は大自然。人間の密度が異常に高いこの場。何故、自然の中でしないのか分からぬ。道徳なのか? その後もバスは何度も立ち往生し、我々乗客はバスを押し、もう一台のバスがロープで引っ張る。ようやく五千三百メートルの峠を超え、意識は朦朧とし、一時的に詩人になってしまう。やばいと思い、何を思ったのか体温計で体温を測るが平熱。いつ詩を披露できるのだろうか。下界に降りれば、高山病は治り、詩人は終わってしまう。 三日目。バスは盆地へ下り始め、木々が目立ち始め、家が密集しだし、菜の花のような色の花が咲く畑が増え、ついにポタラ宮殿が現れ、ここがラサだということが分かった。即席詩人、未だ一行も書かず兵舎に泊まった。土間も許そう。星が見えたり雨がが入ってくる天井の穴も許そう。裸電球一つというのも許そう。しかし湿った布団は許せない。宿舎の最低要件である。食事も外国人料金なのに抗議し、飯は抜く。しかし、目に収まりきらないほどの平原の中に人工的なものはここだけ。兵舎にバスにランドクルーザーが数台のみ。出鱈目に暗くなるまで彷徨。高山病からくる軽い朦朧さの中で。羊の親子と一緒に。国境手前十キロの地点でバスは高度を二千メートル下げ、いよいよ下界に突入していく。天から遠ざかっていくというのに緑が現れ、方々の木々から水蒸気がたち込め、木々の間から水が滝となりいくつも落ちて濁流へ注がれていく。まさに天界から俗へ降りていく通過の間である。空気が濃くなり、酸素の重みを感じる。軽い高山病から醒め、意識がはっきりしていくのが少し寂しい気がする。俗の世界でこそ生かされている私を深く認識してしまって。川のせせらぎの音は下界のものだった。濁流でさえ、せせらぎだと思えた。畏怖する程素晴らしい風景とその風景の単調さから離れ、次第に俗なものに安心感を覚えつつあった。長かった天からの暮らしの記憶が急に現実感のないものに変わり、天にも地にも愛おしさを強烈に感じた。中国からネパールへの道は土砂崩れで崩壊し、当分歩かなければならなかった。税関を越え、十メートル先の一件目の茶屋に入ると茶がミルクティーに変った。但し中国製ポットではあったが。雨の中を崖崩れ沿いに歩くこと一時間、友誼橋を渡れば、領土はネパール。橋を渡ってくる人に日本語で叫んでみた。「今何時だい?今から十秒後に三時間二十分戻るぞー」勿論、荷物を運ぶシェルパに国境も時差も関係ない。ここからまだ二日歩かなければ道が通っていない。そう教えてくれたのは、中国の入国を断られたアメリカ人であった。彼の取得したビザはピープルリパブリックオブチャイナではなくリパブリックオブチャイナ(台湾)であった。十二キロ歩き、トラックに乗り数キロ、乗合タクシーで数キロ、再び三キロの歩き。所々の道が決壊し、たまたま決壊した間にあったトラックや乗用車がその決壊から決壊までの間をピストン運転して商売をしているのだ。そして民家に泊めてもらう。電気のない村の闇は濃い。ヘッドランプをつけて暫く散歩する。空に輝く満面の怖いくらいの星の下で哲学的脱糞。人生最高の体外へ不用物を練り出す体験となる。寝る食う出すの基本的欲求が心地よければ、人生はなかなか実りあるものに化ける。また、明日も歩く。家のじいさんが暗闇の中でゆっくり煙草を吸っていた。翌日の夜。カトマンドゥ。ベッドメイキングの資本主義にみすみす涙する。チベットで5300メートルの峠を越えた瞬間、俺は俺なりの詩人になった、と強烈な高山病からくる頭痛と眠気から錯覚を起こした。詩人だからといって詩を作るつもりはさらさらなかった。下界インドに南下して、「詩人になっちゃったんだけどいいかな」と出会った者に宣言してみたが、あざ笑い又は失笑。 一生懸命積み上げてきたものの先が見え始めた時、一気にぶち壊してしまいたくなる衝動に駆られて、その快楽に酔いしれてしまう今宵。本当に必死で守っているものがないなら、捨てちまいな。初期化のボタンを押して過去がスーっと真っ白になるとどんなに愉快だろうか。閑吟の人クプクプは市井の人ピーターと対話を収録した。「そんなこといったっても世界の半分は飢餓状態ですぜ旦那」「このお地蔵サン、国籍は朝鮮だってさ」「人が殺されるのはいつも不当な権力からの弾圧によってです」「環境不適応者の続出です。飛ばし過ぎです。一億総分裂病で二倍、二倍~」「人の毛をとってな、人の毛を取ってな、ホウキにしようと思ったんじゃ」「新種の病気、戦争、人工爆発、ジンルイメツボウの3種の神器です」「どこへいけばいい」「SOMEWHERE OUT THERE」「嬉しい手紙だよ。個人的な小さな喜びだよ。自然に対するいいようのない不安だよ」「幕を開けろ、トリックスター」「もっとバイキンを。消毒し過ぎ、もっとバイキンを!アチョー」裸足の上からスリッパはおって、6日間風呂を抜かして、Tシャツは水色を基調に黒いミミズよ。そいつうの上からGジャンはおって、7日間同じ格好して、Gパンは水色を基礎に花が飛び散るのよ。とても気持ちが良い日差しの日には、部屋にこもって、TシャツもGパンも俺の体もくしゃくしゃになりながら起きることを拒否する。朝には全く起きる必要がなかった。もはや朝には全く寝る必要もなかった。満席。リズムに合わせて、右手を挙げる。左手を挙げる。視線を投げる。櫛は不要。机上の理論。飲みかけのコーヒーが底にたまったマグカップ。内側にワッカができている。不要な櫛。落書用マジックインキ。倒産したブテックから貰ってきた鉛筆削り。開けもしないDM封筒。Dは言っていたな。初めての日本での給料が月300ドル。2回目が月500ドル。2回目は2年間オーバーステイして、その間にヤクザとの間に子供を産んだ。現在その男はは麻薬取締法違反で刑務所在住。そんなDは、祖国に帰ってきて言ってたな「毎日、毎日何もしないで生きているだけだ。疲れる」と。コップは一度しか洗われていない。劇は永遠に続くが、残念ながら私は有限であった。峠は決定を強いる所だが、ゆっくり小便をする所でもある
2003.05.30
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イラン国境に向かう最後の街クエッタ。アフガニスタンの国境の街ぺシャワールからすぐの距離にあるにもかかわらず、その地域はゲリラ頻発地帯であり、旅行者進入禁止地域である。そんな訳でぺシャワールからクエッタまでほんの列車で40時間なのであった。アフガン難民キャンプを越したら、そこは駅。埃っぽくだだっぴろいだけの面白みに欠ける街だ。ここからイラン国境までのバスがアジア3大厳しいバスといわれており、旅行者にとって英気を養う街なのだ。残念ながら、私のしたことも中央郵便局と意味なし散歩しか覚えがないのである。(タリバン、テロ事件で頻繁に情報発信地としてでてくるぺシャワールとクエッタであるが、これで皆様にはおおよそのイメージはできたのではないかと確信しておらん)今、この瞬間が永遠に続けば、ということがある。いとおしくてたまらない瞬間、時間だ。そんな瞬間を求めて日々生きているのだろうか。私の悩みや苦労は、私のとっては深刻なものであるが、ここで生き延びている人のことを思えば、きっとなんてことない筈。そして比べる自分が恥かしい。
2003.05.29
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宿確保ゲームやはり重要なのはどこに泊まるかである。ワタシは1泊300円から80000円まで泊まった。宿飾りつけゲームビールの空き瓶や貝殻などで日々コテジの装飾は増殖していく。室内火遊びゲーム室内をアートするのは大事だ。特に意味はないが何故だかピン球を買ってきたり、コップに水を入れたり、ムヒを置いてみたりなんかして楽しむつもり。カメラを持って海に入るゲームカメラを濡らさないように気をつけるのがスリリングでこの怠けたセイカツに緊張感を与えてくれる。カメラを持って海に入るゲームカメラを濡らさないように気をつけるのがスリリングでこの怠けたセイカツに緊張感を与えてくれる。カニ取りゲームえさもやりもなくカニを捕獲。カニの名誉の為にレストランでカラアゲにしてもらう。ビール蝋燭をあちこちに灯し、それを眺めながら、波の音、風の音を聞きながらビールを飲む。煙物語はここから始まる。昼間も煙気分はスカイハイ。音楽このときはラジカセをも購入、荷物の3分の1がカセットテープに。果物やはり南国は果物だ。手を伸ばせば果物が取れてしまうため発展の必要がないと感じてしまう。ドリアン、果物の王様、その季節野生の動物も大人しくなるという。花火夜は常夏は花、火が似合います。手伝い現地の人の仕事を奪います。ボランティアで手伝います。地獄の黙示録ゲームヘッドホンでドアーズのジエンドを大音量で聞きながら、意味なく奥の椰子の密林を歩く。木登り椰子の実のジュースを取りに登る。買うと高いので。宿作り日々見学するだけ~。夜も散歩驚くべきことに月と椰子は似合うのだ。冷やかしコテジのテラスに一日寝転んでいると何人もの物売りがよってくる。うっとうしいけど、時々食べ物買ったり、子供だったら駄賃を与えてお使いに行かせたりしていた。チェック荷物チェック、しても、あまり、意味はないんだけど・・・・。昆虫を奴隷にトンボを飼いならしたりして。夕日に涙する感激屋さんになってみる。レンタルバイク快楽のおもちゃです。そして、何よりも、メシ注文からメシが出てくるまでだいたい90分かかります。
2003.05.28
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選挙権は住民票を異動してから3ヶ月かなにがしまでは、前の住民票のあった場所に選挙権がある。私は、二十歳になると、すぐさま、選挙権を行使した。そして26歳位までは、会社に遅れようと選挙権を欠かさず行使し続けたのである。その結果分かったことであるが、私の投票する人物は1名を除き、誰も当選しないという事実であった。勿論、私は日本出鱈目党や世界メデタイ党や麻原何某や砂糖等、おふざけで出ている党におふざけで投票している訳ではない。つまり民意は反映されているかも知れないが、私の意見は政治に何も反映していないという恐るべき事実が判明した26歳の春であった。一度は、投票用紙に「適任者なし」と書いたこともあるのだが、適任者なしさんも当然当選しなかったのである。失意のうちに私は投票をそれ以来やめている。おまけに、引っ越してからも、親元に私の選挙の通知が届いて、親から「あんた!住民票移してないんかいな」とモロばれてしまった苦い経験もあるのである。ところでよく同時に最高裁判官の罷免の有無もある時があるが、あれはデータ的に一番左端から罷免の希望者が多いのである。人間の心理として一人か二人くらい罷免しとかなくっちゃと思うのであろう。だいたい最高裁判官の事例や経歴がこちらから積極的に情報をとらないと何も分からないのである。これは業務怠慢であろう。何もしない方が罷免される確率が減る訳だからね。もう10年も選挙に行っていないのである。頼むから私の名前を書かないでくれと候補者は私に言ってこないんだろうか。誰が当選しようが私は死なないけど。死ぬような事がない限り。帰る所があるから出掛ける・・・私にはいっぱいの欠点があるが、そのひとつを披露。私は30十数ヶ国巡った中で、悪い癖をつけた。どこでも寝れる癖。そして熟睡できない癖。変に警戒して眠れない、しかし体力温存の為の力。そうして、私は一人眠る時も、すぐには眠れず、必ず寝床で読書をする。そしてやがて30分経過して眠る。しかし、反動は大きい。たまには完全に安心してしまうときもある。そういったとき私は思い切り眠りに陥る。とても自分勝手である。私は面白いことに何度も駅で眠った。私は面白いことに何度か危険な目にあったり、手持ち金を奪われた。それでも私は愉快だったに違いない。だって私には帰るところがあったから。帰るところは欲しい。帰るところはね。
2003.05.27
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「ボンジヨルノ」と車掌がパスポートを持ってやってきた。これで、私の知っているイタリア語はすべてだった。 やがて列車はラグーナ(干潟)に入り、「ウーム、アドリア海!」と唸っている間に終点ベネチア・サンタルチア駅のホームに収まった。 過去、陸路、海路での国境越え十ヶ国程度になるが、朝、起きればそこは違う国であったというのは初めてであるかも知れない。トンネルを抜ければ通貨が変ってしまっていた状態となり午前七時では銀行も当然開いてはいない。パスポートにも当然スタンプは押されておらず、スタンプを押すということはとりもなおさず、そのオフィサーがその国に入国することに責任を持つということで、こんなに大量に行き来あるのに責任なんか取れるかよ、という免責事項なのであろう。 昇降口を二段降りるとプラットホーム。フランスのニースから夜行列車でコートダジュール沿いにベネチアに来たは良いが、イタリアリラがない。駅前以外は人通りはまだない。駅前は大運河。駅から出てきた人々はそのまま前の大運河の船着場でバポレット(水上バス)にどんどん乗りこんで行き、駅前だけが興奮状態にある。その興奮状態を分散させていくがごとく人々は散らばって行く。 この街は、駅を降りて、目的地に一直線に向わなければならない、という街ではないと直感的に思う。駅前の雰囲気からして愉快。朝もやに水、水、水。教会に館。水上バスに人々の移動。悦楽の駅。 この街は、本島から直接つながった駅裏のローマ広場等一部を除けば車がないという、特異な街だ。それが人間等身大を醸し出している。勿論移動手段として、水上タクシー、水上バス、水上パトロール船、水上ゴミ収集船、水上消防船、ゴンドラ、水上救急船…エンジン音はあるので、車がないから静かという訳ではないが、少なくとも、注意散漫状態で歩ける街だ。せいぜい川にはまるぐらいだ。キャサリーンヘプバーンのように。 この街の富裕層は週末に本土にドライブに出かけるという。二十世紀が生み出した最大の快楽と発明と大衆化の一つに車があるだろう。車がないからこの街は鐘の音が一番大きな音だ、と思いながら歩き始めるが、エンジン音が一番うるさいことに気づくのに数分を要しなかった。 昨晩買っていたサンドイッチをぱくつきながら、リラがないのでホテルまでゆっくり散歩がてら橋を渡り、路地を抜けていくことにした。直線距離にしてたった一キロ。これが甘かった。 曲がっても曲がってもまた曲り、路地、橋、小さな広場を越え、何度も人に道を聞き、骨董品のような街を愉快に迷っている状態を続ける。それも、すこぶる保存状態の悪い骨董品だ。 初めて訪れる街に、人がまだ歩いてない状態の早朝に到着して、朝から始められるというのは旅としては気持ちが良い。頭の中が寝不足からくる軽い眩暈のまま、肌寒い中、重い荷物を背負ったり転がしたりして、夜にカラカラに乾いた喉を潤す為にお茶屋で一服するのが気持ち良い。朝のエネルギーを感じるのが心地よい。 歩きながらイランからトルコに入る手前の国境のことを思いだしていた。夜行バスと乗合タクシーで国境に来たときに、山から浮かんできた朝日を拝むことができた。お茶屋に入り、イラン式に角砂糖をかじり、チャイ(紅茶)を飲む。隣席に座っていた村のおじさんが、旅の記念にしてくれと自分がはめていたリングをくれた。透明で純粋な空気が辺りを覆っていた。ノアの箱舟で有名なアララット山の麓だからなのか。神聖な山が神々しく見える。朝の哲学ニーチェやなあ、と私はつぶやいた。 そして今日の朝も澄み切っている。 鐘の音が純粋に響き、歩く足音が気だるく路地にこだまする。一時間かかりベネチア三大橋のひとつアカデミア橋に着く。今、ベネチアでは世界三大カーニバルのひとつである仮面カーニバル中で三十というホテルをあたってやっとひとつだけ空き部屋を見つけたのであった。 東洋のベニス、バンコク。北のベニス、アムステルダム(本当はヒートホルム)、そして本場ベニス。しかしここだけは運河を造ったのではなく陸地を造った結果運河ができてしまったというのが正しい。行き止まりは、運河ときどき壁、ときにはアドリア海。そしてここでは歩く位置と水との距離が近い。満潮では水没しいてしまう場所もある。水と人との距離が近いというのは木浴場に似ている。水に向って階段が進むというのは、聖なるにおいがする。 ホテルを見つけ、とりあえず、お茶代程度のみホテルで両替してもらい、最寄のバルに急ぐ。立ち飲みと座って飲むのでは値段が違うのであるが、疲れているので座ることにする。大勢の人を掻き分けると、席はすべて空席であった。朝なのでアルコールはやめて、エスプレッソでもなく「アールグレイ」といってみたもののミルクに何種類もあるティーバッグをポットと共にトレイに乗せて、機関車のごとく持ってきてくれた。窓から大運河が見える。音楽がいきなり何故かティナターナーに変わる。人口七万人という死に行く街は、観光化のせいか家賃は高騰を続け若者は住むことが難しく人口流出が激しい。確かに夜歩いてみると、民家らしいところは明かりが漏れてこない。通りは祭りで派手と言うのに建物はひっそりしている。 大運河には三本しか橋がかかっていない。その1本であるアカデミア橋を渡り、仮面行列に出くわし始める。地図を忘れてきたので遠慮なく楽しい迷子になる。小さな広場(カンポ)に出る度に路地がいろんな方向に暗く細くまた延びている。行き止まりは壁。行き止まりは運河。 出鱈目に歩いて三時間。急に空が広がった。ベネチア唯一のピアッツアと呼ばれる大きな広場、サンマルコ広場に出た。そこにはひとひと人、仮面かめんかめんいの嵐。 そこにあるサンマルコ寺院もドゥカーレ宮殿と鐘楼にすぐには気がつかない程であった。凡そ気がつくのに五秒は要した筈である。そしてヨーロッパ最初のカフェらしいカフェ「フローリアン」に入ってみる。創業二百七十年。ゴルドーニが劇作をつくり、カサノバが回想録を書き、その後、バイロン、ルソー、モンテスキュー、ゲーテが訪れ、更にトーマスマン、マーラー、プルーストが訪れたこのカフェには「ワシもスノッブになりたい」と出国以前から目をつけていたのであった。しかし空席探すだけで大変で、慌しいだけであった。 また迷い、歩き過ぎ疲労は高まり、それに未知に対する不安も混ざり合わさった状態が、旅にはつきものだ。そんな時には最も近くで安そうで見晴らしのいい店に入り、飲み物を頼み、ただひたすら歩く人を眺め、天井の模様を眺め、従業員の働き振りを眺め、床の筋を眺める。それでも、絶対的な空腹感を感じなくなってきた。不安感と脱力感を感じなくなってきた。そうやって少し年をとった気分を感じてしまう。消え行くペシミズム。
2003.05.26
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そういえば、ある秋の頃、暑い国から帰ってきたとき成田からの京成線に乗りすがら、私は叫んだ。「何時の間にか日本中冷房かかっとるやんけ」「冷房代かかってしゃあない」上野駅に着く頃に秋と気がついた。簡単にいえば阿呆になってた。暑い国に行くのに、日本が冬だった場合、空港までとても寒い格好をしていく。上野駅で早朝ぶらぶらして震えていたら手配師のおじさんが寄って来た。「仕事あるよ」「いや、今からインドに行くんで」「ん?そうか。よく分からんけど仕事あるで」「いや、暑い国に今から長く行くから今は寒い格好してるの」「ん?そうか」といいおじさんは何処かに消えたが、三十分程して戻ってきてこういった。「いい仕事あるよ」社会的距離有名なことですが、対人距離というのがありますね。50センチ内外の密接な距離なら恋人や家族、1メートル内外なら親しい友人、2mなら仕事の同僚や近所の人、それ以上なら赤の他人。それ以内に入って来られると不快感を覚えるというもの。満員電車は多分他人を人格あるものと認めていないのである。外国ではもっと間隔の感覚が違うのであろう。昔、女性の友達どうしが普通に話しているのを見た。30センチくらいの距離で話しているのだ。レズビアンではない。私は思わず、声をかけてしまった。「西洋人みたいですなー」と。満員電車で友達と一緒になった時は話するのが恥かしい。急に回りの人が人格を持った人間になり聞いているのではと思うからなのかな。昔一度、よく知らないくせに、「老子がなあ・・・」という議論を酔っ払い同士満員電車で話してて、帰ってからえらく恥かしかったのを覚えている。満員電車でも本を読むのだが、何を読んでいるのか見られるのは恥ずかしい。でもカバーするのが何か紙がもったいなくて嫌で、角度を決めて読んでいる。「おい、何読んでるか見るなよ」と私は多分心の中で主張しているのである。きっと誰も気にしてない筈なのにね。
2003.05.25
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ビジネスマンとしての私は、旅行中もビジネスのことが心配で心配で仕方なかったというのは、嘘で、もう空港から全く忘れていて、凧糸の切れた凧状態になった。街を颯爽と歩いていると、これが本当の私なのだ、と、昨日までビジネスビジネスしていたのは夢か悪い冗談だったのだという錯覚に捕われる。 四年程前、インドのカルカッタの街を歩いていた時も、雑踏の中でそんなことを考えていた。一週間前と一週間後、私は、仕事している。人生のひとこまの中で、一周間だけインドが挟まっている、不思議なものだと思った。 たいてい、旅は暇なものだ。着いた日から何もすることがなく、スケジュール表が真っ白というのが気に入っている。いつもスケジュール表を埋める為だけに生きているのはまっぴらだ。いや癖というものは怖い、白紙、というスケジュールがここに入っているのであった。 何でもカンでもモノに対してクン付けする変な日本語の傾向がある。カラアゲクンから積みたてクン、無人クン、勘弁してくれよ、と思っているが、実は私も十年以上前からクン付して一人ではやっているものがある。それは「乗り物クン」 そういった訳で、今回も暇なので、一週間バス地下鉄乗り放題券を購入し、早速「地下鉄クン」になったのである。要は無意味に乗り物に乗って、どこまでも行くのさ。しかし、地下鉄に乗ってから大変重要なことに気が付いた。「風景が見えないではないか、これじゃ意味ないじゃん」と横浜弁で呟いたのである。車内には、ノースモーキングのステッカーの下に、ノーラジカセとある。私は、マンハッタンの南端で降り、バッテリーパークに行った。そう、自由の女神が見える所だ。私はニューヨークは二回目だが、誓いを密かひそひそたてている。「死んでも自由の女神とエンパイヤーステートビルには登らないぜ、何か訳分からんけど、俺のポリシーが許さないぜ」ということである。そんな訳で、危うく、自由の女神のあるエリス島チケットを買いそうになった瞬間に、危ない危ない信念をもう少しで曲げる所であった、と思い、引き返すが、それならどうしようかと思案していると、そうだ、庶民の足、ニューヨークの対岸の島シテタン島のフェリーに乗ればいいのだ、と思い、フェリー乗り場を探す。 フェリーは二五分の乗船で料金はタダで、自由の女神の横を通っていく。我ながらナイスなアイデアであると思ったのであるが、やはりセコイ旅行者はどこにでもいるもので、数人のみデッキに出て離れ行くマンハッタンと自由の女神を写真に収めているのであった。こんなに寒いのに馬鹿じゃないかと思いながら、私も馬鹿の一員となり写真を撮る。 来てから数日間、私は一枚も写真を摂っていなかった。写真の気分が湧いてこなかった為だ。しかし、そうだ、折角こうやって通りを北上している訳だから、通りの標識を写真に撮って擬似アートするのだあと、思い浮かび、通りの標識ばかり写真に順番に撮っていったのである。アーチストは便利だ。自分が宣言したら、アーチストだから。 散髪したのである。何故?時間があったから。基本的に私は服や格好に興味はそんなにないんだけど、姿格好程度で勝手に人間性を判断されても問題ない程度には身なりを整えておく必要があると、考えるようになったのである。私の理想は、すっごく似合った同じ服とシャツと靴を十着揃えることである。毎日同じ格好なのだが、実は毎日着替えているのだよってところが渋い。 地下鉄から上がると、そこはウォール街だった。明日は正月、閑散とした通りを歩いてみる。思ったより小さな通りで、何か将来の関連性を感じることができるか?と思ったが、何も感じることがなく、俺って金が金を生むという最も儲かる商売に縁がないのかいな、としばし呆然とした。そこに台湾人バス団体ツアーがやってきて写真をバチバチ撮って何か説明を受けて去って行った。夢、夢の後。 地下鉄から上がると、そこはハーレムだった。年々安全な場所になりつつある様だ。 地下鉄から上がると、そこはチャイナタウンだった。年越しラーメンである。 地下鉄から上がると、そこはリトルイタリーだった。前より更にチャイナタウンに侵食されている。 地下鉄から上がると、そこはソーホーだった。地下鉄から上がると、そこはイーストビレッジだった。地下鉄から上がると、そこはトライベッカだった。地下鉄から上がると、そこはチェルシーだった。地下鉄から上がると、そこはアッパーイーストサイドだった。アッパーウエストサイドだった。まあ、どこにでも出没したってことがいいたかった訳ね。 いよいよ、大晦日、船乗り場からジャズボートが出航。ワイン片手に、摩天楼と自由の女神を見ている。ジャズは神妙に計算されたようにテンポが速くなっていき、乗船客も盛り上がっていく。ついにカウントダウン。そしてハッピーニューイヤー、摩天楼の夜景の上に花火がバンバン上がり出した。というのは七年前のニューヨークの正月の場合だった。 二年前の大晦日、私はチェコのプラハに入った。ホテルはどこも満員で、駅のコインロッカーに荷物を預けた私は、夜な夜な通りで、乾杯。瓶ビール片手に震えている私の後ろではホテルのホールで演奏会をしている。 四年前の大晦日、私はパリのシャンゼリゼ大通り。乾杯。瓶ワイン片手に震えている私の後ろのカフェでは着飾った紳士淑女がカウントダウンの為にグラス片手に、起立している。 六年前の大晦日、私はスペインのコルドバ。ワイン片手にうろついている私の後ろのホテルではバイオリンの独奏会が進行している。 きっと、私も、向こうの世界に行く時が来る。暖かい正月を。そう思いつつ、新世紀。 今年は、じゃあ、じゃあ、新世紀の始まりってことで、何か大英断をするのが良い!ホテルで乾杯なのだ。外は人だらけ。そうしてベッドが入れば、あとはテレビしかないバストイレ共用のホテルでビールを飲みながら、ベッドにへこたれ、チャンネルをカチャカチャ、これぞ、寝正月である。炬燵もみかんもないけれど、飲み物しかないけれど、数百メートル向こうのタイムズスクエアのカウントダウンをテレビで鑑賞して、無事新世紀を迎えたのであった。何かしょぼい、と脳裏をかすめたような気もするが、きっとかすめただけだろう。余計なことは考えず、寝よう。日はまた昇る。明日は明日の風が吹く。なかなか優雅である。よきにはからえ、つれずれなるままに眠ってゆく。どこにいたっていいんだ、時空を超えたゆとりを。 人に興味を持ちなさい、其の為に自分をアピールしなさい、そうニューヨークの空気は語った。元気でない奴ははじき飛ばしてしまう街だ。世界の中心なのだ。エネルギーの中心。GEのウエルチCEOが語った言葉を思い出しながら歩く。スピードと簡素化と自信、この街に溢れている。無理してでも明るいんだもの、ここは。 実は、ニューヨークに限らずの話であるが、この街に今日は教えられた。「胸を張って歩け」と。私はこう見えても、小学生の頃から、三十年来の猫背なのである。寒さで余計に猫背になりかけるところを、痩せても枯れても無理して胸を張って歩くのである。堂々とビルの谷間風に立ち向かうのである。少なくともニューヨーカーはそうしている。ここでは人種も旅行者の定住者も見ただけでは分からない。私も、いっちょ、ニューヨーカーやったるでぇ、ということで、気が付けば胸を張り張り歩き続けるのボレロなのであった。そうやって、一日十時間の散歩を義務づけ、十日間で百時間マンハッタンを歩いたのであった。結果?うむ、歩いただけ。今回の旅も結局、前回のニューヨークと同様、タクシードライバーのしょぼくれたデニーロの域を脱することができなかったのである。さて、ニューヨークで私は何をした?毎日ハッピーごっこをしただけ。 でも、今度のニューヨークは、もっと豊かで優雅に過ごせるだろう。PS街はビタミン屋さんが大流行り。でも、私は、ベトナム大流行と勘違いしてた。追記 空港にて大雪にて飛行機が止まっているのではないかと危惧し、早目にマンハッタンを出た。橋を渡り、クイーンズに入る。クライスラービルの尖塔の明かりがバックミラーに写っている。「ああ、俺は帰るんだな。帰る?帰る所?何処へ?何処?行く所?」トランジットな人生?どこもが中継地点?どこにいても落ち着き、常に次に行く。旅はこれからも始まる。人生はドラマだった。ドグマではなかった。実は生牡蠣がはじめて美味しいと思ったのはNYだった。NYにはセントラル駅にオイスターバーというとても有名な店があるが、実はそこではなくって、ブルックリン橋が見えるところにシーポートと言う所があってそこの手前あたりのシーフードの店で食った時にカキのうまさが開花した。実は、それから日本ではそう機会もなく過ぎ去り、次にパリでカキ三昧。パリでのカキは昔、ある年に病気でカキが全滅に近くなり急遽日本のカキを輸入したらしい。だから広島かどっかのカキの子孫がいっぱい残っているらしい。確かに半分は日本でみかけるカキであった。それから日本に帰ってきて、テレビにそのパリでの店の番組が一時間かけてやっていた。そこのカキ剥きのおじサン物語であた。カキ剥き一筋数10年、一瞬にしてかきを開き並べる、朝から晩まで。その職人芸は凄かった、が、あまりうらやましくなかった。だってたべるほうがいいから。ミレニアム世紀末2001年はニューヨークで迎えた。(世紀末は2000年でなく2001年である。0年がないから)私は12月31日は朝の9時から夕方の6時までウォールストリートからバッテリーパークからレキシントン、アッパーイーストまで歩きに歩いて、体の芯から冷えていた。頭の中はガラクタをひっくり返したように混乱し、昔は馬鹿にしていたが、人間、行くべき時期というのはあるのだなあ、今回は来る時期を間違えたのかも知れないなあと思い、棒になった足をホテルの一室でさすっていた。(三島由紀夫がインドには行く時期があるといったのだった。多分、どんな場所にも行くべきタイミングのある時期があるのかもしれない。勿論、タイミングはこちらからも合わせることはできるとは思う)私は、ブルックリンラガービールを部屋でぐびぐびやっている。暫くしてから飲むビールは窓の外に置いてある。ただただテレビをつけている。ここからほんの2ブロック先7ブロック南のタイムズスクエアの高揚がテレビから伝わってくる。確か6年前は私もあの中にいた。世紀末は、ホテルでなんとなくみみっちくいくのがおつなものよ、何となくいじけてるみたいだよ、そんなことをつぶやきながら、デリでトッピングしてきた5ドル分のおつまみをぱくつく。部屋の中ではTシャツ一枚。考えれば、私は日本で生まれた訳なので、20世紀は時差分14時間多くを過ごした。その3年前、パリで正月を迎えた時、ワインどころかビールさえ買うのを忘れていたことを思い出し、今回はばっちりだ。日本からもちゃんとソムリエナイフは持ってきている。パリのギャルリーラファイエットだったかどこかで渋いいいソムリエナイフがあったのだけど高くて、迷った末やめたのだが日本に帰ったらすぐ雑貨屋でクズ値ちゃうかと思われる程の値段で同じソムリエナイフを見つけたのであった。そんなこともあって胡坐をかいてワイン開けて26階から乾杯。2001年。町中には2001の真ん中の00がメガネの枠になっている愉快なプラステックのメガネをかけた連中がうろうろ。ミレニアム私は書き出した。パッションについてワークについて暴力について笑いについて共感について将来について限界について経済についてさあて、考えるぞ、何せニューヨークは明るい、景気がよい。しかし酔った。考えるのは来年にしよう。まだ366日ある。きっとその頃には書き出したことも忘れている。人類の得意技、とりあえず先延ばし。延ばした期間だけ、遠のく。ニューヨークはピカピカだ。
2003.05.24
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何を隠そう(といってももう大抵の方々にはばれているが)私は高校のとき(ついでにいえば中学のときも)陸上競技部の長距離ランナーであった。(中距離ともいう)15歳、それは遥か人生の半分以上前の話であるが、実は高校1年生であった(一応ストレートで進級してきた)高校駅伝といえば、難しくいえば7人で42.195キロを走り切るというもので、正直にいえば、日本記録保持者が一人で走るよりよっぽど遅かったのである。私の所属する高校では、開校11年目を迎えるフレッシュな高校であったが、それゆえに(それゆえのはずはないが)長距離で目立った選手もおらず、駅伝は順調に10年連続県大会出場ならずの状態なのであった。大抵の年は7人というメンバーが揃わず、短距離や他部からの助っ人を依頼していたから他ならない(というより県大会なんか目指してなかった。オリンピックに掲げられた目標のように参加することに意義があったようで、意義だけは崇高なレベルにあった)しかし、私の年は違った。何と1年生に長距離が4人も入部してきたのであった。そして栄光の7人が揃ったのであった(補欠はいなかった。怪我は厳禁であった)そこで唯一の3年の先輩(名前をバラすと旧KGBに目をつけられる恐れがあるが、まあ、挙げておくとすれば、その方を松本さんという。氏名をいうと長くなるので、以下まつもっさんと呼ぶ)が俄然張り切ってしまったのである。張り切り過ぎて、針金で靴の模型を作ったぐらいである。(残念ながらその崇高な行動は我々にはリレーションされなかった)まつもっさんは2学期から(つまり9月1日から。1日が日曜なら2日から)強烈かつ猛烈で早朝練習込みのスケジュールを立て、11月3日の大会に焦点を当てて、我々をひっぱっていった。(ただし、2年生の方が実際の走りは速かったので、練習では2年生が先頭にたって皆を引っ張っていった)はっきりいって無茶苦茶しんどかった。それに規則正し過ぎる生活になりトイレの時間まで毎日同じになった。前置きは長くなったがここからが本題である。来たる11月3日に、我々は遠く六甲山の裏側の交通量の少ない(といっても牛はいない)八多という所まで遠征したのである。1区はまつもさんであり、10キロと一番長いコースであり、各校のエースが投入される区間である。(我が学校はどうも年功序列になっていた節があるが、それは別に構わない。それは戦略であった。どこまで後の区でごぼう抜きしていくかという巧妙に練りに練られた戦略であった)神戸からは6校か8校が県大会に出られた。そして何度もシュミレーションを行うのだがその度に順位が違う(まるで共通テストみたいだ)ことを考慮に入れながら、スタートは切られた。まつもっさんは確か12位くらいで帰ってきたのである。(もしかしたら10位だったかもしれない。14位だったかも知れない。参加高校は確か40校くらいだったと思う)中略して、私は6区5キロであった。スタートしてすぐ一人抜いた。中略して、結果的に4位であった。中略して、私も区間3位で区間賞をいただいた。中略して、家路についた。中略して、あれから20年ぐらいが過ぎた。
2003.05.23
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私は今日、驚愕すべき事実を知った。かねてから私は不思議だ何かおかしいと思っていたことなのだが、タックスへイブンという国や地域がありますが、例えばアンドラとかケイマン諸島なんかですが、これが、いろんな訳があって何かふに落ちないと思ってたのですが、避税地区という訳はよくわかるのですが、税金天国というのが何とも税金がかからないのに税金がかかるから天国?というイメージがあったのですが、ですが、ですがの連続ですが、それがまた税金天国とか真面目な本や新聞に載ってたりしてたので、思わず権威に屈して信じてしまってたのですが、綴りはHAVENで決してHEAVENの天国ではないことが判明。HAVENは避難場所という意味。校正部もするりと抜けていった訳であるなあ。十数年ぶりに私はすっきりしたのである。あー、すっきりした。時代やのう・・・ぎりぎり電車に乗ると最終後尾には12人の人間が立っており、そのうち7人が携帯電話をいじっていた。その筋に座っていた16人のうちまたもや7人が携帯をいじっていた。本を開いたのは私を含め3人。風流や
2003.05.22
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何を隠そうポーカーフェイスをしながらも私なりに最近悩み事があるのである。それは歯茎が腫れて痛いのである。よっていっこうに落ち着かないのである。備えよ常にと、ボーイスカウトでは習ったが、唱えよ常にと、般若心経では習ったが、常にソワソワしているのである。歯医者のことは歯医者に聞けという名言は知っているものの、廃車のことは車屋に聞けということは知っているものの、行く時間がなく、仕方なくバッファリンで歯痛を和らげているのである。勿論根本的な解決には至っていないが、回復の方向に向かいつつあると思い込んでいる。これには非ピリン系と印刷されており、18歳のときから常にフィリピン系と読み違えるのである。初めての海外はフィリピンであったが、18歳の純情純粋無垢好青年であった私には、さんご礁、、イルカ、漫画にあるような椰子の木三本の無人島、ディスコ、ポンビキ、そして陽気でチャランポランなラテン系国民等全てが強烈な印象を残した旅であった。そういう訳で(そういう訳ではないが)、非ピリン系の文字をみるたびに、わしはフィリピン系やなと訳の分からないことを思うのである。
2003.05.21
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コンビニで5000円渡したら9千何某の御釣りをくれようとしたので、返してあげると店員は喜んでいた。マクルーハンといえばメディア思想家の大御所。彼には現在社会を予感するいろんな示唆されるメッセージを残しているが、メディアを分類しているのが面白い。ホットなメディアはラジオ・活字・写真・映画・講演。クールなメディアは電話・話し言葉・漫画・テレビ・セミナーといっている。参加度の低い高い、情報が身につく身体感覚、過熱していくと更に盛りあがると冷めていくとかの違いがあり、うまく使い分ければなあと思います。米ディズニー、業績不振で会長と社長のボーナスはなしらしい。そうなんか。それにしてもディズニー映画のアニメの動き方はイッテルぜ。ちょっと映画見にいって貢献するかいな。ちなみにこの前NYリンカーンセンター近くのでSONYアイマックスシアターでファンタジア2000をみたが、映像迫力もあり、でっかい劇場は空いていたのはいいのだが、ポップコーンの量の多さにもびびったのであった。映画の終わりかけまで食べていたのだからね。
2003.05.20
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インド40日間の旅の荷物タイ北部チェンマイで購入した民族刺繍の施された財布。お金(腹巻に入っている)ネパールで購入したライター1個及びマッチ箱(中味マッチ棒3本)及びパイプ。派手なトランクス2枚(1枚は当然、身につけている)ネパールで購入しした小学生児童用ノート(日記帳として)及びボールペン、サインペン各1本。歯ブラシ1本及び歯磨き粉。石鹸とタオル1枚。(及びそれを入れるビニル袋)インドバラナシで買ったフンドシ1枚。ネパールで買った手紙用紙とまだ出せていない手紙6通。日本から持ち込んでいる帰国時に必要な銀行カード1枚。(腹巻に入っている)知合った日本人に貰ったコルゲンワーク1錠。インドアウウランガバードで貰ったインド風邪薬19錠(副作用あるが無茶苦茶効く)アジャンタ石窟寺院の英文ガイドブック全14ページ。(無料)インドバラナシで拾ったカッターナイフ1個。カルカッタで購入した腰巻(ルンギー)1枚。(身につけている)青春18切符1枚及びテレホンカード1枚。(腹巻に入っている)文庫本2冊。(ヘッセ「シャダルタ」阿部公房「終わりし道の標に」)イラク航空オシボリ及び航空券。(腹巻に入っている)パスポート。(腹巻に入っている)腹巻(貴重品入れ。常に身につけている。)ビニール袋(シャワー浴びるときにはビニール袋に腹巻入れてバスルームに入る)顔写真2枚(腹巻に入っている)草履(常に履いている)テッシュ1袋。Tシャツ2枚(1枚は当然、身につけている)高校のときに購入したヨットパーカー1枚(身につけている)→最終乞食に喜捨。飛び道具。手提げ袋1つ。(ショッピングバッグ)以上。この旅では、荷物が1キロにも満たない為、大変気楽で心地よい旅であった。できるだけ郷に従いながら(トイレは左手でお尻を洗う等)お金で解決できるものはそうして(洗濯はしてもらう、タオルは乞食に喜捨しながら数日置きに交換していく等)帰国時には、ズボンを購入したり、散髪した。インドへおじいちゃんが死んだ日の夕日 そもそも、私が、インドに行ったのは、やはりそれなりに理由があって、きっかけがあったわけである。高校を卒業するまで、絶対に海外には行かないと決めていた私であるが、理由は、外国語が話せないということ以外大きな理由はなかったのである。「インドで飲めるのはフレッシュジュースだけだ」という友達の嘘の金言を信じ感動し是非行ってみたいと思った18歳であったし、金持ちと貧乏の距離が1秒というのを聞いて見てみたいと思った18歳であった。(こちらは本当であった。カルカッタの高級ホテルオベロイやボンベイの高級ホテルタージマハルホテルを1歩出ると、もはやそこには、水溜りに乞食の大群であった) 三島由紀夫が「インドは人それぞれに行く時期がある」なんて名言を無視し、嘲笑い、早く行けば行くほど良いと思い、ひたすら、アルバイトに性を出し、旅行代金を稼ぐ18歳であった。おじいちゃんが燃えて小さくなった翌日の夕日 そんな中、一族郎党でインドに行ったことがある人物がいた。おじいちゃんであった。おじいちゃんは仏壇店を経営していたので、70年代ぐらいに、巡礼のインドの旅に出ているのであった。なんていえばかっこいいかもしれないが、70年代といってももう年齢は60代後半であったので、当然バスの団体旅行である。そんでもって、おじいちゃんは、「インドにいったぞ」という以外のエピソードは何も無いのである。たった一枚とても下手糞なインド絵巻物を写した写真を引き伸ばして置いていただけだった。おじいちゃんは、とにかく町一番の新し物好きで、万年筆や一眼レフカメラや電卓など、新しいものがでると兎に角すぐに買うという癖があった。周りは農家であり、収穫期には皆忙しくしており、世間体が悪いからと、一家で外にも出ず、家ごもりをしていたようである。母は、同級生が農作業に借り出されている時に、意味もなく世界文学全集や、サルトルを家にこもって読んでいたのであった。そんな訳で、18歳の私は、70歳代のおじいちゃんに「インドに行くよ」と報告したら、「そっか」とだけいい、ビールジョッキに日本酒を入れて飲んだだけだった。
2003.05.19
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ところで、北欧は結構酒が税金で高いのか、船とか乗って国境を越えようとすると免税店があって、乗客の荷物があっちこっちでビールや酒の瓶の音がガチャガチャ鳴ってました。耳に残っています。デンマークのコペンハーゲンからスエーデンのマルメという都市まで船で30分なのですが免税店があって皆酒買ってるのですよ。また、マルメからベルリンまでの列車は、途中船に乗るのですが、それが、船の中に列車(車両)を直接入れるのでびっくりでした。トンネル掘らずの発想にたまげました。勿論免税店はありました。マンボーの卵と人生経験今日、マンボーをみた。小学生のとき図鑑で魚で一番卵を産むのはマンボウその数3億個、というのを覚えていた。その知識が何の役にたっているかというと、特別何の役にもたっていない。今日まで知らなかった人との差はない。そこが面白い。
2003.05.18
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そういえばバーゲンが終わって、更に安くなるとは私は知らなかった。バーゲンが終わっているのも知らずに、神戸に背広を買いにでかけたら、バーゲン売れ残りバーゲン。私が掘り出し物を熱心に探す程熱心な人物ではないのが、熱心に呼び込みをしているコムサデモードの兄ちゃんの声に反応した次第であります。「今から更に7割引ィー」なんてほとんど客のいない大丸紳士服売り場平日午前中。「それって私に言ってる訳?」と周りを見渡したが紳士らしいのは私しかいないので、やっぱり私だろうと思い、挑発についつい乗ってしまったら、なかなかいい生地であった。というより私の背が低かったのがプラスに働いた様で、SとM寸のみが2着づつ余っていたようであった。背が低いメリットは天井の低い所に頭をぶつけないということだけではなかったのである。ましてや交通機関に子供料金で乗れるということだけではなかったのである。そういう訳で私は、兄ちゃんの口車に順調に乗る訳でなく、的確なプロのアドバイスを素直に聞き入れ、瞬時に購入に結びついたのであった。私の服購入の決断の渋い決め言葉はいつもこうである。「じゃあコレ」それだけでなく、思わずコートもいいのがあり買ったのである。いい買物をした。また服を買うのは半年後である。
2003.05.17
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空気が澄んでいる。静かな印象は、細い直線的な緊迫した空気が張り巡らされているためなのだろうか。体が不具になり乞食になり、道端に座りこむ若者達にこまめにお布施をする市民。おだやかに軍服で歩く男。煙草の配給所に群がる人々。壁に描かれた戦争シーンの絵とホメイニ師。検問。 インドから東に国を進める程に、乞食が減り、子供の労働を見るのが減ってくる。 バス、止められる。全員荷物と共に外に一列に並ばされることが何回もある。銃を持った兵士達。検問の順番が回ってくる。他の国のように、そしていつものようにニコニコして、心から最大限の友好を示し、友達でーすとノー天気になる。すると、彼らはニコニコ笑って対応してくれるどころか、銃を貸してくれたり戦車に乗せてくれたりという国があるというのに。イランの兵士は、ピクリとも笑わない。苛立ちながらペルシア語を捲くし立てる。戦時下の国。 否応無しの認識を持たされる。相手のいっていることをびびりながら、相手のいっていることを勝手に予測して、私もまくしたてる。「ジャパン(国籍)」{テヘラン(行先)}「サイトシーング(観光)」三点セットのいずれかが該当したのであろう、怖い顔のまま頷いた。そして。荷物の手を緩めることはない。闘争は真面目だ。末端の兵士になればなる程。その日、三大出来事。一.竜巻を見た。石油の国イランのバスは豪華だ。一列三席。主要道の舗装状況もしっかりしている。休憩所についても、どのバスもエンジンなんか切りはしない。戦争してて、財政大変だけど、油ならなんぼでもあるでぇ、と主張しているかの様だ。闇両替のため、バスはそれで、八時間走って、一ドル。塩湖、砂漠の中の舗装の一本道、竜巻を見た。バスは平然と走っている。巻き込まれる心配はないのだろうか。紙や木くずのようなものがぐるぐる回っている。今までのバスからは考えられない近代的なバスの中から、改めて自然の猛威を見せつけられた。二.五ドルで高級ホテルに泊まった。(闇両替のため)宮殿。バスタブを真っ黒にする快感。三.イラン女性に微笑まれた。レストランのテラスで夕食を採る。ひとつ隔てたテーブルに女性達が食事をしていた。イランは案外、若い女性はチャドルの下にジーンズをはいていたり、ヒールをはいていたりと、パキスタンより服装に関して緩いのだろうか?と思っていた。その中の紫のスカーフを羽織った女性と目が合って、微笑みあってしまう。ペルシャ人の女の目はすこぶる怪しくて魅力的だ。彫りの深い顔だ。あの目に一目惚れしてしまった。四.橋の下にある渋い茶店に行った。太陽は沈みつつある。もう二時間太陽を見ている。河の橋の下。水パイプで肺の中を煙で充満させてから二時間、太陽は本日最後の断末魔的美を空に描きながら、雲を褐色に染め抜き、河の向こうの都市の向こうの山の向こうに消えてゆく。私は、下品に腰に手をやり、足を蟹股にして突っ立っている。私の花柄のズボンが少しずつ闇に消えてゆく。チャドルの女性達の黒が、闇に紛れ、分かりにくくなってゆく。 イランはかなり楽しかった。親切だった。しかし、イランを抜けるとホッとした。 翌年、イランイラク戦争の終結ニュースをタイの田舎町で知った。
2003.05.16
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嫉妬というのは他者と比べるからあるのであって、それがない人は人間でないわけですね。何故比べるかというと、他者がいないと自分が存在しないからですね。それを何ていうの自我っていうのかな。他者によって自分の位置が決まり、他者に支えられて生きている訳ですよね。他人と比較したってしゃあないやんっていうのはあまり説得力はないですね。自分より優れているのは誰?それは実は、自分なのかも知れない。それも過去の自分。栄光の時代、それは遠い昔の赤ん坊の時代、天上天下唯我独尊君の時代、他者やモノと自分との区別がつかない自我の無い時代。目標と期限ハーバード大に行っても、成功者は卒業後自分でいかに目標をたてたかの人に限るし、宝くじ当った人の9割以上が逆に借金地獄に陥ってしまうという現実。アメリカの子供の文集、将来は何になりたいか、でほとんど誰も職業は書かないのですからね。こういった生活をしたいと書くそうです。とかなんとか、神戸大学の近くに引っ越してきて、学生を見てそうとりとめもないことを思うのです。(神戸大学落ちたので根にもっているだけです私は)
2003.05.15
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18歳、夏、海へ。ではない。18歳、6月、学生会館前で。前から悪友が歩いてきた。おもむろに彼は行った「オー、夏にフィリピン行かんか ?」おもむろに私は即答した。「オー、行く」国名とマルコスしか聞いたことのないままに。1カ月後、私は空港に近い彼の親戚の家に前泊した。彼は私の荷物を見て馬鹿笑い。 パジャマにジャージ、石鹸3個に下着10枚、私の荷物はゆうに20キロを超えていたような気がする。その場に預けて出発したのだが、よく考えたらまだ取りに行ってない。 22歳、インド40日、私の主な荷物は日記帳にタオル1枚にトランクスとシャツ1枚に歯磨き歯ブラシに貴重品の入ったショルダーバッグ1キロもない。着る物は都度喜捨。
2003.05.14
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パスポート申請していたものを受取りに行く。前回は迷彩服とゲバラ髭の顔写真で、常にイミグレーションある所、親切にも徹底尋問というイニシエーションを受けていったが、今回はネクタイに笑顔の写真。これで各国の心証は六百パーセントアップである。 パスポートを受取った足で旅行代理店に行く。「あさってから行ける航空券、空港受取りでどこか席空いてないですか」検索してもらった結果、ソウルなら数席とシンガポールとヨーロッパなら1席空いてるということが分かった。「じゃあ、バルセロナに行きます」 以前、アジア踏査を終え、ギリシアのアテネで資金が切れたので旅行代理店に行き、日本行きのチケットを求めた。「キミ、5時間後にアエロフロートが1席あるぞ、ラッキーだ」といい「じゃあそれ」とお願いしたことがある。しかし、電話を掛けてもらったが一足先に埋まってしまった。3日後のパキスタン航空で帰ることにした。ヤバイヤバイと思いながら、カラチ、バンコク、マニラのストップオーバーをリクエストしてしまう。ヤバイヤバイと思いながら、金を捻出し、帰国はそれから3週間後。それも東京、ヤバイヤバイと思いながら信越方面へ。 そんなこともあったなあ、と思いながら発券作業を待つ。「ヨーロッパ歴史探索の旅」は老人になってからでいいよ、ケッと思いながらも飛行機内では屈伸運動をしている3日後であった。 バルセロナ 私は、ガウディのサグラダファミリア大聖堂を見学しなかった唯一の日本人観光客という立場を目指していた。が、安いバルだけでなく、この骸骨のような建築途上の建物を見ながらビールやワインを飲んだ。バルセロナ、飲みまくっただけであった。 数日後、アルハンブラ宮殿のあるグラナダ行きの列車に乗る。列車は進む。高校生のとき、きっと日本で唯一の地平線が見えるという北海道の平原に立てば大いに人生観が変ると漠然と信じていた。今、車窓には180度分の地平線がある。人間を寄せ付けぬ怒涛の如く立ちはだかる自然に対し、人間関係が入り混じって病んでいる都会。その対照が愉快で魅力的だ。しかし単体としての地平線に感動はあったか。例えば高原。チベット高原、デカン高原、イラン高原を目のあたりにして、「ああこういうものなんだな」と思う。感動はない、その時は。 360度地平線は、ゆっくりと圧倒されるものである。その単調さは思考内容を緩慢にさせ、思考速度を弛緩させる。感動よりも退屈さを助長させる。想像できる許容範囲を超えたものに対し、無反応になり、言葉を失うのである。 無理に感動を表現すれば陳腐になり、数字に直したところで、身体感覚以上に想像できない(東京ドーム何個分とか積み上げると何メートルとか) 列車の窓から単調さを眺めながら、パキスタンで出会った昔スペインに暮らしていたとう男の言葉を思い出していた。「あの国はいろんな景色があるんですよ。砂漠も森も平原も海も。だからよく映画撮影に使われるんです」と。グラナダ グラナダには列車で到着した。3時間列車遅れ。 ヨーロッパは高校生の時に知識が止まったままの知識のオンパレードである。私の知識にはレコンキスタとアルハンブウラ宮殿しかない。アルハンブラ宮殿では日本人団体観光客の後についていった。現地に住む男は、毎回同じコースを案内していささか飽きている感じが表情ににじみ出ている。 そして、アルハンブラから対岸の丘、白い家が並ぶアルバイシンへ。アルバイシンからアルハンブラ宮殿を何時間も眺めている実は30時間、飯を食っていない。10時間水分を採っていない。バルでチョリソーにビールを流し込む。適度な断食は体に良いようだ。頭にも良いように思われる。そういえば風邪の時、食欲がなくなるが無理して食べる必要がないのは、体が風邪を治すことに集中するからか。消化活動は後回しにして。一時的な空腹感に耐えれば、後は楽である。コルドバ コルドバにはバスで到着した。バスの着いた場所は分からない。知らない町なのに、今日は道を尋ねたくない気分。バスを降りた一番近いバルにまず入り、「セルベッソ(ビール)」といって指を1本上げるお馴染みのポーズ。親父は大きいグラスと小さいグラスを見せて、どちらだいとゼスチャアしてくれた。 大きなグラスを数分でやっつけた私は、店を出て、暫く迷子を楽しんだ。まだ市内地図も手に入れていない。私の知っているコルドバの場所は「メスキータ」だけだ。私は停めてあったタクシーに乗り込み「メスキータ」と力強く固有名詞を叫んだ。運転手は助手席に散らかしていた書類を慌ててたたみ、「メスキータ」と呼応してくれた。 そして数分後、運転手はメスキータのどこで停まるのかと尋ねてきたが、その長方形の建物を1周してくれと頼んだ。繰り返しコルドバはかつてすごい街だったのだ。 メスキータ。イスラム教とキリスト教の混合建築物。「お地蔵サンよ、いつまでも色付きでいてくれよ」と私は意味不明のことを呟き、建物に触れた。コルドバは中世、ヨーロッパ最大級の都市であったこともある。 女ジプシーがハポネ火を貸してくれと寄って来た。煙草もくれというのが普通ではないかと邪推しながらライターを渡す。土産物屋の店頭で市内地図を物色していたら奥から主が出てきたのをいいことに、「雨で少し濡れているから安くしてえ」と言ってみたが、笑顔でラべルに貼られた定価で売ってくれた。その横のバルで地図を広げた。今後の傾向と対策だ。どうも荷物がほとんどないと急ぐ感覚を鈍らせてしまう。宿の確保?そんなものは後だ!傲慢になってしまうのが後から問題を生む。しかし考えれば今日は、12月31日、今日のテーマは決まった!「正月を五つ星ホテルで一人しょぼくれて迎える!シブイ!」計画はシブかったが、部屋は全然空いてなかった。4つ星、3つ星と落として行き、ついに1つ星で部屋を確保。はっきりいってあまりシブクない。スーパーマーケットでワインとチーズを買ってきて、しょぼくれた正月に備えた。 22時、外へ出ていくが、人通りがほとんどない。何だか時化てるなあと思いながら、部屋に戻る。しかし、それは間違えであった。アンダルシア、シエスタのある地域。メインは夜ではなく、夜中なのである。花火があがり着飾った男女がうようよ町を徘徊するのは夜中から朝まであのであった。夏場40度を越える暑さを避けるためにシエスタ(昼休み)という制度を夏に作ったという理由は言い訳のような気がした。夜中に遊ぶラテンの血が抑えられないのだ。 ある日本の研究者が、カディスやセビリアではまだ見世物でなく、夜の町で流しの恋歌が残っていると聞き、毎晩2時頃まで町中を探しまわったが、一度も聞くことができなかったという。間違っていたのだ、2時はまだ早すぎるということに。ヨーロッパのキリスト教徒たちは、この2世紀、習慣にアラブ化が大きな危険をもたらした。イスラムに支配されたヨーロッパ諸国では、若者が「ムスリムの官能性に染まってしまう」のではないかと憂慮された。ヨーロッパではイスラムの習慣の放縦さを腐敗として非難した。アラブの官能主義がキリスト教徒を好色と淫乱の道へ導き、キリスト教徒の中に致命的な災厄を引き起こしたのだ。この2世紀というのは10世紀と11世紀のことです。その頃のイスラムとは放蕩無頼の醍醐味を堪能する酒池肉林の世界であいました。その中心地はコルドバであったそうな。コルドバって今はそんな面影さえ残してませんでした。いい雰囲気の小道に、派手なメスキータって感じだったけど、当時は、ロンドンなんて片田舎の田舎やったらしい。もっかい、スペインに行きたくなったわ。しかしまあ、1000年経つと、単語を入れ替えなければならないとはおかしなものですね。セビージャ セビージャには、スペインの新幹線で到着した。近年、スペインでは万博が催され、新駅は中心街から遠く離れたところになり、事前の旧駅の地図を見ながら歩いたので、あらぬ方向へと歩いた。私は立ち止まり、何となくそこにいた。そこにいる意味は特になく、意味を見出しもせず、漠然とした不安を抱えながら右往左往したい時があるものだ。 セビリアの観光の中心はヒラルダの塔や世界3番目に大きいという大聖堂は観光用馬車が残した馬糞の臭いで充満していた。バルのテラスで臭いのを気にせず飲む。ここ数日は、朝からアルコール漬けで、それも酔うほどではなくダラダラ続けているので、胃腸の調子が狂ってきている。もう1杯かねと尋ねられもう結構と手を振ったつもりが、しっかりもう1杯笑顔で運ばれてくる。冬場でもアンダルシアの太陽は眩しすぎる。ア・プリオリ。帰国して印象を整理するまでに1月17日がきてしまった。すべてふきとんだ。
2003.05.13
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パソコンデータを消去した情報はいったいどこへ行くのだ?失われた記憶はいったいどこに消えるのだ?脳もパソコンデータみたいに不都合を消去したりチューンナップできるボタンは何処にあるのだ?質量はないのか?頭が重い時は何が詰まっているのだ?屁理屈文句私は、チェックするために今光熱費をコンビニ払いにしている。が、チェックしていないことに気がついた。しっかり水道代を2重払いしていたのであった。何で請求書が2回来たのかは覚えていないが、何か電気ガス水道電話(携帯だけは何故か自動引き落とし)がバラバラに払っても払ってもしょちゅう来るので、ややこしくなってきた。そろそろ自動引き落としにしますか。自動引き落としはぼったくりやねんで。早収期日となってるが早目に収める訳で、これが何百万世帯にも及ぶと数日だけでも金利丸儲けなんですよ、大阪ガスよ、関西電力よ。それがちょっとだけ腹立たしいわ。
2003.05.12
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1.コンビニのお釣り一円単位はよくそのまま寄付する。いいことをした自己満足に浸れる2.今日は携帯電話の機種変更をした。2年11ヶ月ぶりに変えた。これで「お宅モネンダイモノ使ってますなあ」と誉められることもないであろう。3.最近見た映画でよかったのは「シカゴ」4.トヨタの車って最近までCで始まるのばっかだったんだよね、セリカやクラウンやセルシオや。前も車に興味なかったからスエーデンに行った時にボルボばっかりだったかは覚えていない。しかし身体障害者は多くそれは、例えば車椅子でも一人で乗れる昇降機付バスが走っていたり、ということなのだろう。嫉妬。昔の人より現代人の方が劣等感を抱き易いだろう。何故なら建前かもしれないが平等主義だから。昔の庶民が貴族に劣等感を抱くことはなかっただろう。また年齢を比べると、多分、夢の多い分だけ若い方が劣等感は大きいだろう。年をとるとは諦めることを知ってしまうことが多くなるだろうから。でも、すべて諦めてしまって劣等感がなくなったらどうなるんだろう。きっとやることがなくなってしまう。嫉妬は人間の最も強い感情の一つで、これがパワーの根源になることが多いのも事実。劣等感や嫉妬はしんどいものだけれども、退屈な人生をまぎらわす効用を持っているのかも知れない。
2003.05.11
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チェンマイ女が泣いている、原因を探る男。男が泣いている、その状態を観察する女。男は「何故泣いているの?」と声をかけ、女は「泣いちゃったりなんかして、もう嫌だわ」と感想を述べた。案外そうなのかも知れないなと思ったら夢だった。昼過ぎに起き、テラスでコーヒーを飲みながら、そのことを考えていた。何故か水槽があり、案外自由そうに金魚が泳いでいた。市場をうろつき、何となく自転車を探し求めた。二時間半のふらつきの末、程良くない自転車を見つけ、ついでに、地図と電池を買った。夜はバザールをうろつき、アカ族の村の女の子の店で佇んでいた。「ところで、明日からバンコクまで自転車で行くんだよ」と私はつぶやいてみた。「どうしてなの。そんなのバスでいけば早いし安いんじゃないの?」と彼女は全く解せない顔をして尋ねてきた。金を払って、しんどいことして喜ぶ人種のことは想像もできないだろう。金払ってスポーツしたりダイエットしたりする人種との格差はどうしようもない。金を持つということは、自分を律する必要があると思う。成り上がりは嫌いじゃないが、金の使い方を知らないのは寂しいものだ。こんな馬鹿げた話を彼女にしたことを、少し悔いた。私は少し、少しだけ酒が飲みたくなった。街を歩いたが日曜なのか、ほとんどの店が閉まっていて、何かボーっと光るやる気のなさそうな店をやっと見つけて入った。中央に席があり、壁伝いにぐるりと安いビニールシートの席には娼婦が三十人ばかり座っていた。客は三人程で、恥ずかしい程の視線を浴びる。同席した男の話によると中国雲南からの少女達が多いらしい。彼女達は自分がいったいどこにいるのか分かっているのだろうか。それでも私達に笑顔を送ってくる女の子達。隣の男の人が解説してくれた。「ほら、あの一人だけ笑わない女の子を見なさい。手首を何度も切っているのですよ」結局、しこたま酔って、下を向いてばかりいた彼女のことを思いながら、家路に向かってとぼとぼ歩いて帰った。翌日、あまり眠れず、朝の五時に起きたが、当然ゲストハウスの人は見当たらない。急遽、私は出発することにした。枕の下に三日分の宿泊料とチップを置いて、初めての荷造りを始めた。前の籠に空気枕を敷き、バンコクで買ったラジカセを入れ、スコールに備えてビニールをかぶせた。後のキャリアには体積の半分がカセットテープで占められているという荷物をゴムロープでくくりつけ、真ん中には私が勢い良く乗り、ペダル初一漕ぎ。出発の音楽はボブディランの「チェンジン・イン・ザ・ガード」進む。が、自転車気侭お気楽旅行企画を怨むのに一時間を要しなかった。黒塗りの渋い豆腐屋専用おやじ自転車のペダルが元来無茶苦茶重く、仮にも多少の山岳地帯のこの辺り、少しの坂だけで、撃沈寸前。「俺はただ限界を楽しんでいるのだ。このために運動をして鍛えてきた訳でもないし、死に場所を探して生きている訳でもなくて、当然、死ぬために生きている訳ではないのだあ。せいぜい、最低限他人に迷惑をかけないように野垂れ死にするだけなのだあ」と結構やけくそ気味に叫んでみたが、当然誰も聞いていなかった。次に、私は既に坂道を押して歩いていた。直射日光が麦わら帽子を通して、二十五パーセント程の日射病にやられ、その横を無情に通過していくトラックに意味もなく手を振る。インドの田舎道でバスに乗っている私に向かって手を振ってくれていたウンチをしている男の子のことを思い出した。アスファルトに垂れる下痢状の糞に罪悪感も羞恥心も持たず、ただひたすら無垢に手を振ってくれた男の子よ、その後元気にしているのだろうか?子供は大きな労働力だ。彼は自分が何故、生きているのか考えているのだろうか?人間以外は自由だから、そのようなことは考えない。男の子よ、どうしてる?休む。若い女性三姉妹(と勝手に名命する)道端の簡易レストラン。酒を飲んでいる男達、その中の男の一人になびいている女一人。招待され、から揚げを食べる。コウロギの。メコンウイスキーで流し込む。少し嫌な顔して、頑張って食べると受けるということが分かっていて、そのようにしてしまう芝居屋の私。出発する。ノー天気に行けますように。チェンマイから十二時間走行距離百十キロ平均時速十キロ。一キロにビートルズ二曲でランパン着。ホテル探しに手間取り、ホテルもじめじめしていて、もう日はどっぷり暮れて、歴史のある街の割には侘びしい気になった。部屋に入るとボーイにひつこく女を勧められ、金もらってもいらないよ、といい、シャワーを浴びる。復活!はしなかった。尻が痛くて、尻を確認するが四つに割れていなかったので少し安心する。食欲もなく道路マップを眺める。疲れ過ぎて、精神が高ぶりすぎ、寝付けない。高校時代は激しい運動の後の、麻薬的心地よさがあったのだが、こうも急に体を酷使しるといけない。そういえば、高校時代、急に運動を止めて、体調を崩したこともあったことを思い出しながら、起きているのか寝ているのか分からない夜をやり過ごした。タークという町 六時三十分。窓から外を見ると、水滴がコンクリートに当たって跳ね返るのが見える程の雨。出発は見合わせるかどうかと思案していると、次第に小雨になってきたので、出発。自転車に乗り込み、ビニール袋に荷物を入れ、グルグルに巻き、前にビニール袋パックになったラジカセを乗せる。キングクリムゾンをかけ、のんびりしている宿屋の主に手を振り、田舎道に入り、田を耕す老若男女に手を振り、パンクしてガソリンスタンドで直し、バーミーナム(うどん)を屋台で食べ、益々ノー天気になる。が、常夏の直射日光とコンクリートやアスファルトの照り返しに、次第に力を奪われ始めた。毎日、昼にはばて始める。 生命の危機感という程の心配は全くない安全な状態である筈なのに、疲れはやたら惨めな気分になっていき、過去の楽しい思い出を反芻してしまう情けない状態に陥っていく。「思い出を作るために、生きているんじゃないぞ」と叫ぶ。「自転車を単調に単調な風景の中を走って、暇なだけなんだ」とも叫ぶ。「誰か、俺を見てちょうだい」という孤独感に不思議と陥ってゆく。 雨が降っていた。ふと、西洋人の運転するバイクと擦れ違った。歯を噛み締めていた。多分レンタルバイクで数百キロのツーリングをしているのだろう。馬鹿みたいだ、と思った。馬鹿みたいのは自分だった。ギアチェンジのない自転車は六時間、七十キロ進み、カンパンペット市に入る。 小さな村でも結構ホテルはあるが、それはたいてい娼館であるので、できるだけ女の人に宿を尋ねるようにしている。先日のある村でも同じであった。村で宿を聞くと、にやりと笑い、連いてこいのポーズ。高床式のお寺みたいなホテルがあった。女が出迎えてくれた。私は、分からず入ってみた。にやりと笑った男の意味が分かった。そして、村に宿泊施設はここしかない。民家にも泊めさせてもらうこともあるが、案外これは疲れる。仕方ない。交渉で女性なしで女性付と同価格で泊めさせてもらう。 ホテル探しに市内を三十分。部屋に入り、乾ききっていない服を再度洗った後、鏡を見る。毎日激しく動いていると、そして自分以外には無価値なことに対して動いていると、顔が引き締まってきているのが分かる。久しぶりに、昼間からビールを一本飲むことにした。少し高そうな中庭のレストランに入る。客はいない。ビールを頼むと、ビールを持ってきてくれたウェイトレスが、私の斜め後ろに立っている。グラスを開けるごとに、スッと注ぎに来てくれる。何故だ、何故なんだ、そういう店なのか。私は困ってしまい、遠くと景色を見るふりをする。 夜、メコンウィスキーを部屋で飲んだが、飲み足りず、ロビーに出ると、昼間と変わって娼婦がうろうろしている。ロビーのテレビではイランイラク戦争終結に関するのニュースが流れていた。アントンという町 毎日の、昼間の太陽熱を体に溜め込み過ぎた様で、発散できぬまま、長々強い夜を終えたが、他人に強制されない体は、疲労を溜めていようが、単なる肉体的疲れなのでムクリと起き上がり、チェックアウトし、コースを外れ、田舎の赤土の道を、フラフラとペダルを漕いでいる。 突然、犬がよそ者の私を鋭く見つけた。吠えた。そして追いかけて来た。その一匹につられ、茂みから十数匹の犬が私を目掛けて走って来た。やばい、慟哭状態の私は、ペダルを必死に漕ぐ。しかし、三十キロ以上の荷物を搭載した豆腐屋おやじ自転車の速度は、牙剥き出しの犬が追い付く速度に比べると赤子の手を捻るようなものであった。何とか引きずり落とそうと、敵意剥き出しに噛み付こうとする。私は何とか蹴落とそうと、蛇行運転を繰り返しながらペダルを漕ぎつつ足蹴りを繰り返す。 格闘も我慢も、限界が近付く。そこに救世主が現れた。あと一分もあれば餌食になってしまうと思われた頃、救世主は反対車線から現れた。大きなクラクションと共に。野犬が私から離れるのが早いか、私が進行車線に戻るのが早いか、それが問題であった。 バスは私の横三十センチのところを時速約九十キロで擦りぬけていった。磨り潰しを免れた野犬大群の姿が遠方になってゆく。恨めしそうに道路に立ち尽くす姿が確認された。威勢のいい奴がまだ吠えていた。雨の降りそうな澱んだ天気であった。 暫く進み、村に入り、小学校を通りがかった時、八時か九時の時報が流れた。校庭に並んだ生徒達は、国歌の流れる拡声器に向かって直立不動となった。走って来た車も止まった。バンコクのファランポーン中央駅五時にも見受けられる風景が村にもあった。物売りも車も一斉に不動となり、国歌が終了すると、何事もなかったように一斉に動き出す。私も自転車を降り、不謹慎にも恥ずかしそうに、じっとする。 市場で飯を食い、バンダナを買う。通り掛かった男が、自転車を見て、壊れているといい、工具を持ち出してくれ直してくれた。もう二度と会わないからこそ、こちらは正直になり、さらけ出すことができる。関係の中で生きてくことを避ける、楽で少し寂しい世界。皆がセラピストに思える。 五時、夕刻、九十四キロの道程を経てアントンという町に着く。ホアヒンという町 下ではタイ式蹴鞠をしているようだ。やたら迷っている。起きるかどうかさえ迷っている。昨日、標にと私は自転車を海に沈めた。揺れていた。自転車は短い付き合いと短い人生を嘆いて泣いていた。私は、引き上げ、暫く自転車で波際を乗りまわす。車輪は水を割る。そして、宿に持って帰り、宿の主に、どこで売れるか聞いてみた。数泊の宿代と相殺してもらうことになった。何故自転車がいるのだろうか分からないまま、昼、駅前の市場を散歩した。 宿屋の主が客待ちをしていた。彼は、念願の宿を開いたばかりで、西洋人向けコテジというのに、まだほとんど英語が話せず、資金も足りないのか昼間はリキシャの運転手をしていたのであった。自転車を引き取ってもらった意味が少し分かった。 その後、ほんの少し泳ぎに出かける。四時間程。 意外と早く夕方になり、コテジの二階から卵屋の行商を呼び、二つ買った。そして、メコンウイスキーをドイツ人と飲む。スコールが激しくなり、これが止めんでも急ぐことは何もなかった。ドイツ人はタイ語をひとつしか知らなかった。これが止めば、飯も食おう。狂気の処女よこんにちは。狂気の処女よこんにちは。陶酔のときよ来給え。歪んだ顔がくるくる回ってる回ってる。 渋味のある男に出会った。若さだけが私の勝るものであった。完敗でなくて良かった。味にある人になりたい。味付けできる人になりたい。安泰な生活ぶっ壊してえ。不必要に清潔なのは許容できない。危険だ。そのときが来れば、一番にくたばってしまう。臆病は長生きの素で、引き下がらぬは早死に、頭のいい奴は生き延び、筋を通す奴は死に、狡猾な奴は生き延び、正直な奴は死に絶える。それはそれで良かった。何もしてくれるな、おせっかいを。時代の流れが速すぎて付いていけないなら、早目に抜けたほうがいい。不良は格好よくなければ、不良とはいえない。少しひねくれて、少し反抗する奴には、少し優しくしてやれ。少し反抗するから、少し優しくしてくれ。少しつけあがるから、少しおとなしくしていてくれ。結局、優しさに嫌気がさして収拾がつかなくなったら、暫く、ほっておいてくれ。しばらくして、ニコニコしていれば、それでイッツオーケーだ。すまない。安全という無菌の管理下で育ったお陰で、すっかり洗脳されているものだから、ここで少し唱えるよ。利用されないように。断固、愛すべきもの以外のために死なないように。生命の危機を刺激的に、結局、安全な中で求めたがっている。退屈な天国で。欲望が少なければ、パワーの方向を有り余らせている状態で、満足も少ないのか。楽あれば、更に楽あり、苦あれば、更に苦あり、というのが我侭でよい。よい、というより現実か。美の欠点は美し過ぎて一点の曇りが目立ち過ぎることか。美しくあり続けなければならないことか。差異に、落差に人は笑う。 南へ。あと、四日ある。地図を広げて、マレー半島を見る。百キロ先にプラチュアプキリカーンという海沿いの街がある。明日はここに行くことにする。今は頑張らなくてもいい。夜になった。海と空の境界線を今から見に行く。
2003.05.10
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何度目かのマニラに行った時のこと。パサイ市の友達に会いに行ったら、彼は結婚して新居を構えたとのことだった。「まあ、俺んちに泊まれよ」と案内されると、まずまず大きい家かと思いきや、その中に入り、更に、階段の下の鍵を開けた。「狭いけどなんとかやってるよ」と彼は言った。三畳の部屋にベッドが入り、私が寝るとすれば、キョウツケーの状態である。奥さんはニコニコして迎えてくれた。バンコクから飛んできたばかりだったので、少し寝てもいいかというと、どうぞどうぞだった。私が持っていたラジカセをひとつしかないコンセントにつないで聞き始めた様である。私は夢の中に、エリッククラプトンが何度も流れてくる。そして何時間かして静かになった。やっと目が開いて、寝ぼけながらベッドを見ると、奥さんが泣きながら「I LOVE YOU」といい、彼の耳たぶを噛んでいた。状況はよく分からなかったが、何か見てはいけないものを見たようで、もう一度寝た。今は故郷ミンダナオ島のダバオに帰ったそうである。
2003.05.09
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希望を持ちたいと思うときはたいてい希望を失いかけている時。希望が必要なとき程、希望が持てないもの。希望さえ持てれば今どんなに辛くても耐えることができる。アウシュビッツ収容所で心理学者が書いた「夜と霧」という名作に学生時代心打たれたものです。いったいどのようにして希望を持って生き延びることができたのか。生きて出ることは不可能に近いといわれた、いつまでそこにいなければならないのか分からない状態で。人々はガス室に送られるのが日常となり自殺しないで済むという意味合いでしかなくなっていた。またクリスマスから正月にかけて大量の方が亡くなった。この間に家に帰れるとかすかな希望を抱いていた人が多かったから、絶望が生命の抵抗力を奪ったといえる。そんなエピソードが続く。作者は、は発想の転換が必要だという。私達が絶望しても、まだ何か人生に期待する、というのではなく、人生が私達に何を期待しているのかが問われるという。人生の意味を考えるのではなく、問われている者として人生を体験していかなければならないという。人生とは、人生の意味の問題に正しく答えることであるという。人生は私達に期待している。最愛の子供がいる、やるべき仕事が待っている、自分にしかできないことが自覚できたとき生命を放棄することはできないと。いかに苦悩から逃れたり、死を避けるかではなく、いかに苦悩や死を含めた全体の中に人生の意味を見出すかを問うべきだと主張している。苦悩や死は無意味なことではなく何らかの意味を持つ、この問いを立てることにより苦悩を抑圧したり安易な楽観を避けることができるという。・・・・続く、多分。ギリギリで生きてきた人の言葉や考えたことは重いです。
2003.05.08
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ベルギーのアントワープに行った時にゴディバの本社を見たと思っていたが、本社はアントワープなのか、今疑問に思った。アントワープといえば、港町!ダイヤモンド!ルーベンス!となるのですが、日本人にとってはフランダースの犬。ネロがパトラッシュとノートルダム大聖堂のルーベンスの絵を見て死んでいくんだよね。数年前までは、地元ではこの物語ほとんど知られてなかった。英国作家がここを旅行した時にこの地を題材にして書いたものだから。地元ではよく知られていないということはよくありますね。そういや、私だって神戸の異人館んことはほとんど知らないしね。いやいや自分のことだってよく知らないんですぜ、旦那。
2003.05.07
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何故だか最近、あの風景を思い出す。私がパキスタン北部の街ぺシャワールを訪れた時。その街にさよならを告げるまで、列車の待ち時間が三時間。私は、荷物を駅に預け、近くを彷徨。泥の小さな川、少し臭ってくる。そこにアフガニスタンの難民の子供達がたくさん泳いでいた。飛びこんでみたり、歓喜の声。誰かが私を見つけた。写真を撮ってくれと、子供達は大合唱し、飛びこむ勇姿を撮ってくれだの、空手ポーズを撮ってくれだの大騒ぎ。アジアでよく見られる風景ではある。何であんなに生き生きした目なんだろう。いつまでたっても忘れられない子供達の目。
2003.05.05
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ミツバチは刺したら死んでしまうのは有名な話ですが、何故死ぬかというと、針は釣り針のように、逆さに向いたフックがついていて、ミツバチは、刺した後、外そうともがくんですよ。もがいてもがいて、やっと取れた、と思ったら内臓も一緒に取れちゃった。それで死んじゃうの。もがけばもがくほど辛い目に合うって事って多いんでしょうね。
2003.05.04
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7時25分。小学生全員に見送られながらパドルを漕ぐ。特に子供たちの笑顔もなく。河の難易度レベル1。快適なる速度で流れていく。緊張と興奮の楽しみは3分で終了する。最大の敵は20本ぐうらいも束ねられた流木であった。流木と岸にボートが挟まれたら、沈没どころか我々の今そこにある生命の危機状態になってしまう。 危機は2度来た。しかし、やがて、加速度的に河の流れが緩やかになっていき、危険と舵取りの必要がなくなった頃、隊長の私は高らかに宣言したのであった。「無銭、未開、身内、ジャングルリゾート!」勿論他の3人の有閑、イヤ、勇敢たる隊員達は聞いてはいなかった。泥の河で泳ぐことこそリゾートの醍醐味、泳げ~と命令するまでもなく副隊長Yがボートから河に落下。気のいい私はすかさず叫んだ。「Y~!!ワ、ワニだあ~」0.3秒後には、彼の顔から血の気が全て失せ、0.5秒後には全身全霊渾身の力を振り絞って、かつての水泳部現役時代より速い速度でボートに向ってクロールしてきた。潜在意識とは凄い力を発揮するものだ。下準備でこの河にワニがいないことなど調査しているにもかかわらず、彼は私を恨んだ。ロングピラ到着。村の人に、持参している昼食であるマギーラーメンを作ってもらった。そして子供たちが見守ってくれる中、我々は笑顔でパドルを漕いだ。そして河が曲がりくねり、子供達の姿が見えなくなると、我々の満面笑顔も消え、パドルを置いて、昼寝に入った。こんなことでいいのか。川幅現在50メートル。両脇は鬱蒼としたジャングル。誰かが前方を指して叫ぶ。「か、河が二つに分かれてます」私は、アバウト過ぎる地図を取り出し、どちらに流れていくべきか確認ししょうとした。「分からん、とにかく岸につけろ。何、間に合わない、エーと、エーと、右だ!漕げ漕げ、右だ」しかし時は既に遅市、無情にも左の支流にボートは流れ込む。「岸につけろ、岸づたいにボートを戻して右側に入っていこう」支流に入りこんでしまってから約30メートルのところで端に寄せ、岸から垂れ下がる木の枝をつかむ。枝をつかんだ私の体をHがつかむ。とりあえずボートは止まったが、止まっただけだ。まずYとOがボートを降り、片手に岸の木々、片手にボートを持つ。足は泳いでいる。続いて残り二人も降り、草や枝をつかみながら足は泳いでいる。4人は協力し合って、手をつなぎ合って、学生になってから風化していた根性と努力というものを持ってして河の流れに逆らって引っ張る。団体旅行初めての連帯感がここに生まれる。私の左手は草を持ち、Yの右手はボートの綱を持っている、私の右手と彼の左手の距離は5センチ。「あともう少しだけ手を伸ばしてくれ~」と罵声を飛ばす。テレビドラマのワンシーンのようで、なんか笑ってしまう「ファイト~イッパーツ」頭の中はグルグッルそういうフレーズが回るが、足は泥水に徐々に飲み込まれていく感覚である。そのときであった、木の枝が急に跳ね返ってOの体にピシャリと当る。「いてえ」手が離れまた元の場所まで流される。擦り傷、切り傷の中、1時間の悪戦苦闘の末、10メートル程戻ることができた。しかしもはや体力の限界であると同時に、このままコースを離れた所で命の危険はないと優等生的判断を下した。「えエーい、ままよ、食料もある1週間分はある、どこにでも流れて行こうや、いつか海に着くしS、その前にどこかの村に辿り着く、乗れ」我々はボートに乗った。1時間かけて逆上した10メートルは2秒で通り過ぎていった。激務の後の5分間は虚脱感と何故か爽快感。6分後、Oが不安そうに言った。「ボク達どこに行くんでしょうか」そういいつつ、Oはびしょびしょに濡れたお金とパスポートを乾かした。10分後、右側の陸地が消え、急に川幅が3倍以上になった。「中洲だった…」 夕刻には狂った暑さも収まり、スコール前の不気味は薄暗さが辺りを覆い始めた。パドルを漕いでスピードを上げる。薄暗さが音を吸収しているように嵐の前の静けさである。陰湿で潜在意識に死をイメージを植え付けられるような静けさであった。 村に到着し、首長の空き部屋に泊めてもらう。スコールがきた。お決まりの子供達へのお菓子類を渡す。日焼けが酷く、寝付けない者もいるようである。正確に言えば、全員寝つけないようである。夕食は、昼食と同じマギーラーメンだ。但し、卵入り。ついでにどこから忍び込んだか蟻も20数匹入り。 気温が最適なのは朝夕の1時間だけである。ジャングル太陽の無差別攻撃に毎日やられっぱなしだが、対抗策として、雨傘としてジョホールバルで買った傘が、日傘として大活躍。それと水泳の繰り返し。昼食は村によることもあるが、ボートの上でビスケットと缶詰と水。暑さも音を吸収する。ビスケットの音だけが耳の奥に響く。 100メートル程度に及ぶ丸太を数百本つなげたタグボートに抜かされる。その最後尾にボートをくくりつけ、丸太を飛び跳ねて遊ぶ。幼稚で優雅な遊び。陸地を失った蝿が数匹たかっている。変った鳴き声の蝉や鳥、概ね、平和だ。タグボートのエンジン音が聞こえる。100メートル先で黒い煙を吐いている。いずれ日本等へ行く木の上で暑さに耐える。蝿はこそばく、水は冷たく。空と雲の色彩の配列が見事。 夜。1分間の脈拍は90。まだ昼間の熱が体内に蓄積されている。タイガーバームを体に塗り、少し動くたびに「アー」とか「ウー」と唸る程度の日焼けとなる。両肩は猛烈に水ぶくれ炸裂、内股は爆裂ただれ。両腕にに至ってはパドルを漕ぐ筋肉痛はなく劇裂。腹は少し下し気味。海水パンツで隠された美尻方面は生まれたままの純白を保っている。歩き方はガニマタ。背中はモノに当ると痛いので、横になるのが苦痛。右耳は水が抜けず聞こえにくい。右耳たぶは吹き出物。頭の中はもともとない思考力が更に減退するが、第一時欲求(メシ、ネル、ダス)のみ高ぶる。素晴らしいことに草履の鼻緒焼けが消える。裸足の生活。似非ジャングルマン、別名4分の3病人。今日卒業式、まだ卒業できたか分からない。卒業できていたら2週間後には怪しいエリートビジネスマン、1ヶ月程度活字をまともに読んでいない、今読んでいるサリンジャーの「フラニーとゾーイ」全然進まない。そしてディケンズの「クリスマスカロル」何でジャングルやのに!選択ミス。おまけに濡れてページ引っ付いた。寝返りを打って痛みで目が覚める。洒落ではない断固。朝、持参の味噌汁に、たまねぎやしいたけを入れて飲んだ後は、サロン用の生地を3メートル購入して体に巻きつける。はじめからこうしとけちゅーうのといいながら、あり余る時間が欲しいとまだ甘えたことを考えている。 川沿いに石切り場を横切った。洞窟があったのでボートごとは入ると50メートル程度進んだがこうもりの大群と幅の狭さで断念。外に出ると泥でドロドロ。旅行の必須道具はヘッドランプだ。でもすぐ出た本当の理由は副隊長のYは閉症恐怖症で「すぐ出ましょうもうやめましょう」を30連発したからであった。そんな彼なのに、彼とは岡山の八墓村のモデルになった洞窟等に行ったのになあ。彼は何億年もかけてできた鍾乳洞第二生成物を切れてパンチして折った大罪を背負ったままである。 こうやっているうちに、やがて皆、ジャングルリゾートにも板ががついてきて、読書や音楽鑑賞、水泳に昼寝(4つしかない)のどれかを各々にやっていて会話も極端に減ってきていた。下流になればなるほど禿山が増えてきた。申し訳なさそうにリスが朽ちた木に登っていった。村に着き、首長の部屋に(毎回だが)泊めてもらうことに。今までの旅行とは違い、何とも歓迎も避けることもない人々なのだ。笑顔がない。イバン族はほんの何十年か前まで首刈族で有名であった。でもそういう名残でこのような冷めた態度になったのではなさそうだった。皮肉にもこの豊かなジャングルのせいであった。「君達は、環境団体の人なのか?それとも企業の人なのか?」その一言で虐げられてきたやるせなさを感じた。「チープスリルです…」村人達は困惑した顔をする。20年前までは水は澄んでおり、そのまま飲料水にしていたが、今は雨水が飲料水。どこの村も子供が多い。当然、走り回ってこけて擦りむいて泣いてツバつけて。食事の招待は微妙な立場上、辞退し、豪華なマギーラーメンを食す。(もやし、しいたけ、ニンジン、玉ねぎ、味噌入り)ちゃらんぽらんな多様性を求めているに過ぎない。冒険とは限りなく死に近い行為であるがゆえ、冒険ではない。徹夜で船舵を取るタグボートの兄ちゃんの表情や仕事の観察、森の人(オランウータン)の行方、副業でツバメの巣を取る男の物語、一歩も踏み出せない自分を歯軋りしながら苛々しながらやはりフラフラしているだけ。電気なき場所では、眠りは早い。早朝、朝もやの中、ボートを進める。水面辺りの境界がふやけておぼろげ、そこから朝日が優しく輪郭をあやふやにさせながら出現。時間とともに、我々を苛めるだろう。太陽は神の鬼の化身である。 涼しいときにだけパドルを漕ぐ。今度は200メートル以上の木を連ねたタグボートの一番後ろの木にボートをくくりつける。毎日これだけの木が送りこまれていくということは禿山帝国になる日も近いという。毎年、四国分のジャングルがボルネオでは消滅して禿山になっていくと聞いている。ゴムボートも50度は越えており、水を含ませたタオルで3度は拭いてからでないと座らせてもらえない。ゴムボートの空気も少なめにしておかないと、昼間は膨張してパンパンになり破裂しそうになる。昼、いかなる方法をもってしても暑さを避けることはできない。1日100回「アツイ」と平仮名やカタカナで叫んだり呟いたり命令したりするが、自然の摂理には逆らえない。それにこの蝉のキチガイじみた大合唱、ここの蝉は夜も昼もない。闇夜でも泣き、私を苛立たせる。頭の中は、相変わらず思考がない。酸素不足の魚のように口をパクパクさせたい気分だ。影をどうやって作るか、定期的に水につかる、つかりぱなしで体がふやける。夕刻、我々の最も期待っししていた時刻がやってきた。僅か1日数十分の時間帯。激しいスコール。無数の大粒の雨が河に跳ね返える様子が美しい。スコールは止み、そして、完璧な虹が現れた。生涯3度目であった。美しい半円。そして日が暮れて3分間だけ、世界が朱色に染まり、フィルター越しに幻想をみている。美しさに囚われ、我々は心を奪われ、言葉を失った。あれだけ忌み嫌っていた太陽に惜しみを込めて、切なさと共に、寒く、暗くなっていく。ボルネオ虹 夜、平均速度2キロを割っており、徹夜で流れていくタグボートに繋がれたまま夜行運行を決行。涼しいのはヨイヨイ等言っていると、蚊の大量発生。ありとあらゆるところを噛まれ始めて、急いでパドルを立てて、蚊帳を吊る。眠るには4人はきつ過ぎるので、2人は200メートル先のタグボートまで丸太を何度も飛び越えていく決死隊を構成した(民主主義の原則に乗っ取ってじゃんけんで決めた)結局、私とHが真っ暗な中、シェラフと歯ブラシを持って丸太を越えていった。二人とも、たった一度しか河にはまらず、無事タグボートに到着。運転手に挨拶、デッキにて睡眠。 北朝鮮にスパイとして密入国する夢をみる。翌朝、遠く彼方、最後尾に白いテント状になったボートを見る。生が感じられない。大丈夫だろうかとデッキから歯を磨きながら思う。後から分かったことだが、二人は爆睡していただけであった。運転手よりマギーラーメンをご馳走になる。ボート航行連続24時間を超えて。 ボートの旅が終わり、始めて、この河の魚料理を食べる。両脇の陸地がなくなる。クアラバラム河口。Hは、このままブルネイ、コタキナバルに向う。残り3名はミリより飛行機でクアラルンプールへ。しまった、団体旅行というのに「おはよう」を一度も使わなかった。しまった、スケッチブックの冒頭に趣旨が書かれていたが皆にいうのを忘れていた。「緩やかな流れの中に、パドルを持たず淀みと流れの中に身を委ね、自己浄化とパフォーマンスに励む」誰も実行しなかった。その後、バンコクにてOが第二次自己破産宣告。翌々日、入社式が東京であるという副隊長Y帰国。宿代を払わずして。時世の言葉「やけに金のない旅でししたね。やけに区切りのない旅でしたね。何本作ったのですか?」そして私の金も尽きる。部屋代と空港税その他諸々の金額を捻出するために行商を始める。ウオークマン等売却。帰国。Oと私の合計財産0円。銀行口座にも0円のため、友達に電話をして来月返すからと、成田郵便局受け取り払いで一万円送金してもらう。(関西までは青春18切符あり)自宅に電話して卒業できたか確認する。明日入社式。帰宅、熱が出る。入社式は出たが、翌日から休む。デング熱、41度まで上がる。完全に飛んでいる。1週間後会社に行くと皆が辞めたと思っていた。共同装備 ポリタンク大、温度計、浄化剤含むファーストエイドキット、岡本理研16万円35キロのボート、時計、コンパス、ラジカセ、空気入れ、旗、非常食、針と糸、蚊帳、現地の子供達へのお土産、地図等。個人装備 万能ナイフ、筆記用具、大量のビニル袋、傘、着替え、カメラ、シェラフ、草履、本、洗面具、ヘッドランプ、軍手、蝋燭、ライター、バンダナ、帽子、楽器、食器、爪きり、電池、カセットテープ等
2003.05.03
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ロッテルダムで途中下車したことがある。何故かというと、たわいないことだけど、神戸と姉妹都市であるということだけだった。小学生の頃、確か神戸は横浜に次いで2番目に輸出入量の多い港だったと思う。ロッテルダムも大きな港を持っており何か港にたたずんでみたい気分になったのだ。駅前はヨーロッパに似合わず近代的な建物であまり面白くなく、とにかく港を目指した。港でこんな言葉を思い出した。オランダの6割か八割は干拓地で埋めたてられた土地だ。ポルダーっていったなあ確か。「世界は神様が創った。でもオランダはオランダ人が造った」今でもオランダはその気になれば国土を何割か増やすことができる。そうなんだなーといいながら港でタバコを吸っていた。ロッテルダムを6時間訳もなく無言で歩き続けて、疲れた。
2003.05.02
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小さい頃の冬はえらく寒かったような気がする。半ズボンはいていたからかも知れない。よく母に怒られたものだ。何せ、ジャンパー着たまま眠り、そのまま起きて学校に行った事が何度もある。何で、フロ入って明日の服着てジャンパーまで着て布団の中に入っていたのか不可解。そんなことを思い出すことはなかったのですが、今日は昼間から風景を四時間眺めていた。ときおり鳥が垂直に横切って行く。それ以外は変わらぬ風景。空を眺めていた。四時間、空を眺めていたのは多分10年以上なかったことだった。何を考えたのか、それは秘密です。何もしてないことはいえます。大予言!は簡単m!今後の世の中や自分がどうなっていくか予測予言することは言い方によっては難しくない。その法則。ノストラダムスの法則とでもいおうか。(ナンとでも解釈できる)テクニック1.とにかくたくさん予言すること。テクニック2.期限を明確にしないこと。テクニック3.当たり前のことを予言すること。テクニック4.あいまいにすること。 例)世界の東より生まれた者はは世界を統治するだろう。 *世界中どこでも東である。西でも世界一周すれば東である。 例)私は、死ぬであろう。 *この類の予測って多いような気がする。この逆を言えば、恥かしいからやらなければならないんでしょうね。
2003.05.01
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