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タイを自転車で南下してたときプラチャプキリカーンという町で泊まることになり昼間からレストランでビールを頼んだ。誰も他に客はおらず、なぜかビール瓶を持ったまま私の背後に女給が私のグラスが空き、注ぐのを待っていた。今までで一番緊張した一杯であった。
2003.06.30
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トルコ東部の街エルズルム信号のない横断歩道で車が通り過ぎるのを待っていたら車が止まった。運転手がどうぞどうぞといっている。アジアを陸路で来た限り、それは初めての体験であった。アジアでは歩行者より車のほうが偉い。感激のあまり日記につけたくらいだ。ヨーロッパの香りがするって。ガソリンを入れると65リットル近くも入った。これって人間一人分やなあなんか凄いな
2003.06.29
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今ゆでたまごを食っている。ふと思い出した。フィリピンのバロットというたまご料理。かごに入れてバロットを売り歩く人をよく見かける。値段もそこそこする。皆バロットが大好き。力がつくといって二の腕を指差す。最初少しだけ卵に穴を開ける。そこからチューっと吸う。そして殻をめくっていくと孵化直前の姿が。頭にかぶりつく。何度食べさせられたか。食べることによって仲間入りするのである。通過儀礼なのか。
2003.06.28
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イスタンブールのひつこい絨毯屋で聞いた。「アラジンのような空飛ぶ絨毯は売ってないのかい?」主はいいましたよ「ある」って。そして小さな絨毯を放り投げた。「ほらな」私はこの街が気に入った。
2003.06.27
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確か中国で生まれ、朝鮮戦争でブレインウオッュとそのまま訳された洗脳というもの、他人にそれを操作されると怖いのですが、自己洗脳できると結構凄いものかも知れませんね。世の中の常識ってたいてい洗脳されたものかも知れません。昔、学生の頃、自己啓発セミナーに誘われたことがありました。あの合宿に行けば必ず洗脳されると思ったので止めましたが、何故そう思ったというと、既にその人達の目が危なかったのと、世の中を変える凄い人がいるのですといいつつ、ひつこくひつこく聞いても誰か教えてくれなかったからです。(そら、文鮮明とはいえんわな)まあそれはいいとして我々自身の洗脳社会を楽しむことができればと思いますな。なりたいもの、やりたいことを自分に自己洗脳してやっていけるように。この1年。離婚28.5万件のうち5年~10年が6.5万件、10年~15年が3.6万件、20年以上も4.3万件と長く暮らした後の離婚が急増。我慢して暮らしている夫婦が多いのか。子供が成長して、夫が退職して、我慢が限界になるのだろうか。死亡者は97万人死因はガンが30万人を超える。心疾患、脳血管疾患が3大死因。今後、食べ物や環境で、成人病が益々増えていくのだろう。ウイルス性の死因は昔に比べたら減るよな。でもやはり6位に自殺が来るのは悲しい。住みにくい世の中というのが分かる。特に今後は老人の経済的な原因も増えるのではないかと思う。特にわずかしか年金のもらえない我々の年代は。自殺者が3万人くらいというのは交通事故死因の3倍というのは驚きであるなあ。
2003.06.26
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何を隠そう、私は昨日箕面市に行ったのだが、171号線沿いにあるミスタードーナツは日本1号店として有名な店で、通る度に意味なく「1号店やのう」とつぶやく。ミスタードーナツには偶然にもバランスというものを学ばせていただいた。それは梅田の店であったが、机と椅子のバランスが私の身長座高にぴったりであったのである、そのときはつぶやいたがな。「絶妙なバランスである」と。mm単位で測るのを忘れていたのが今も悔やまれる。そういえば、座高というもの今や測定しないのであろうか。あれは戦後の大間違い迷信であった。座高と健康のパロメーターみたいのがあったようだ。西洋人を基本としたためそれを栄養とからめてしまったのだろうか。座高と健康とは関係ないのであり、座高を測定するのは意味がないのである。あるとすれば座高の高い奴を馬鹿にすることぐらいである。勿論、私は火星人並に進化した人間で歩くことを忘れつつあるので足は短く、頭でっかちで、すなわち座高が高い。しかし小学校のときはそのことに気が付かず、座高を隠す屈辱的な日々であった。(今ここで明かしておく)全国の座高の高いプロレタリアートよ立ち上がれ!話はそれたが、本当はフィリピンのファーストフードであるジョリビーについて書きたかったのである。しかしそれは次回に譲る。次回とはそりゃ10万年彼方のことである。56億7000万年先に再来の弥勒菩薩よりは早いはずだ。
2003.06.25
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ベルリンを出て暫くして、車内販売が始まった。小銭は両替してくれないので、ビールに替えてしまおうと思い、値段を確認した。出てきたのはチェコのブドワイザー。 ホップが無尽蔵に利いており、ここ最近こんなに美味いビールを飲んだことがない、と思わず膝をパチンとたたいてしまった。 外はもう暗くなっていて景色が分からない。列車に乗っている全員が降りた。ドレスデン。私も、乗り換えなのではないかと思って降りてしまう。どうやらベルリンからプラハに行く人が誰もいなかっただけのようであった。エルベ河を渡り、車窓から塔がいくつも見える。 いつになったらチェコに入るのかと思っていたら、道路と平行に走り始め、道路標識を見ると、ドイツ語にはない文字があった。 そうするうちにどかどかと制服を着た三名の男女がパスポートのチェックを始めた。乗客は、一枚の証明書のようなものを見せていた。日本人がビザが不要になってまだ半年たっていないので、少し緊張した。旧共産圏らしい疑い深い態度でのぞまれるのではと思っていたが、その女性は長々とパスポートを眺め、鋭い目つきで「シュプレッヘン ドイチェ?」と尋ねてきたので「ナイン」と答えた。彼女は仕方ないわねという顔をして去って行った。ドイツ語が話せなければ、もういいってことなのか、と私はスタンプも押してくれなかったことに多少の不安を感じた。未成年らしき一群が乗車して来た。舌にピアスをした青年。クリーム色の髪の毛の女の子、白に限りなく近い髪の女の子など、南スラブ系を基本にいろいろ交じっている。ビールをおいしそうに飲み交わし、ワインを回し飲みし、煙草を吸っている。正月祝いが初々しい。若いっていいことだぜ、なんて台詞を思いつくようでは私も寂しい。 プラハ駅。午後九時半。降りる乗客もまばらで、駅も少し寂しい。両替をして、先日コペンハーゲンのネットで予約したホテルの場所を、地図を見て探す。そして、暫く歩いてみるが、石畳ではキャリアを転がしにくい。駅前からして中世的世界が始まった。どうやら遠いことが判明、タクシーに乗る。紙を渡すと、頷き、バルタバ河を越え、川沿いに浮かぶ船がホテルになっているのを発見する。中心から随分離れてしまったようだ。タクシーを降り、フロントへ行くと、目の吊り上ったババアが面倒そうに「部屋はいっぱいだ」といい宿帳を広げて見せた。どこか近くにホテルはないかと尋ねると、ドイツ語で道を説明してくれた。何故か分かった。ホテルを出て歩こうとすると乗ってきたタクシーのおじさんが声をかけてきてくれた。ちゃんと私が無事チェックインしたかどうか、暫く待機してくれていたのだ。これが大人の仕事で当たり前の仕事なのかも知れないが、私は大いに感謝した。今からではどこもホテルはいっぱいだというので、ホテル紹介のある駅に戻ることにする。おじさんは来た道の半額でいいよ、といってくれた。来た道は、しかし、既に群集が出始めていて、警察に止められた。おじさんは食い下がった「この日本人は、わざわざ日本から来てくれたのにホテルがないんだ。ちょっとぐらい通してくれよ」と。警官は我々の車だけを通してくれた。 駅に戻ったが、インフォメーションは既に閉まり、パネルで選んで電話予約できるコーナーへ行って十数本電話してみるが、どこもいっぱいだった。どうやらホテルにありつけなかった旅行者が何十人もいるようだ。一様にホテルは無い、君も同じ問題か、という話しになり、大きな荷物を駅のコインロッカーに仕舞う。宿無し青年が彼の母が作ってくれたというクッキーを一切れ分けてくれ、よい正月をといって街に繰り出して行った。正月まで、あと一時間。時間を追うごとに爆竹の間隔が狭まっていく。ビールを買い、私も駅を出る。ベルリンに向かう列車の中、キースリチャ-ズそっくりの危ないドイツ男に捕まった。彼の席は、既にドイツ語を話せないスエーデン在住のクロアチア人であった。ドイツ男のコートはいろんな派手な布でめったくたに貼りまくられ、ピチピチの皮かなんか原型を留めぬパンツ、これまたピチピチの嬉しくなる程悪趣味の蛇皮ブーツ、目を抑えたくなるほど素敵で安っぽいアクセサリー。どこに置いてもこれ以上汚くなりようのナイ鞄。右ポケットからは無尽蔵に缶ビールが飛び出し、私に勧める。優しい奴で、クロアチア人に席を譲り、自分は床にごろ寝するいい奴だった。アル中なのだが、何故か私を仲間意識で話しかけてきた。三国同盟の名残であろうか??
2003.06.24
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車は動けばいい、今までそう思ってきた。それは知らなかったからであろう。私の旅行と一緒だ。高校までは絶対海外なんか行きたくないと思ってたのに、学生時代では年間3、4ヶ月海外にはまりまくった。金がなくなるか必須科目の出席単位が足りなくなるぎりぎりか履修届を出す最終日まで海外でねばった。きっかけはふとしたことだった。大学1年18歳春、「いかへんか」と誘われただけである。車も同じであった。「ちょっと運転してみるか」「ええやんこれ。俺も買うわ」メカに強くもない私は昨日からこういうのである。現金である。「車は安全やでぇ。運転下手やからぶつけても死ににくい車がええで」知らないは怖い。単純は怖い。栄光の私の車履歴18歳。自動車学校に3日だけ行くが途中原付で50キロ以上オーバーで3ヶ月の免停。自動車学校も休み忘れそうになる。自動車学校の期限は6ヶ月で5ヶ月目に学校から電話があり、辞めるのですかといわれ、思い出し、2週間で1段階からやり始めて免許取得。18歳。免許取得した日に喜んで家に帰り、自宅の車を勝手に出し、そのまま家の前の電信棒にぶつける。免許取得2時間後の出来事。修理費18万円。18歳。車が直り、すぐまた勝手に親の車に乗って、またぶつける。親から車乗車禁止令を下される。そのあとインドに1ヶ月行く予定があり修理費を払ったため、残った3万円の現金で旅立つ。19歳。若葉マークがスピード出し過ぎ?で飛んで行く。その後、駅前に住んでいたので車の必要性感じず過ごす。33歳くらい。初めて車を買う。それまで欲しいと思った事がなかったから。ワーゲンゴルフ買ってくるわといって間違ってベントを購入。しかし荷物が沢山入るから気に入った。3ヶ月後、ロボットゲートにぶつかり廃車。中古車屋さんから車を借り、3ヶ月程代車で過ごす。なんかでかい車であった。なかなか乗り心地が良かった。日本製ポルシェをオークションで車を買う。2年後。買い換え。現在の車BMW525となる。しかしこの車も1年で事故で廃車。しかも保険切り替え日で車両保険金額が下がってから4時間しかたっていない。車の涙本日、二年間乗った日本製ポルシェからドイツ製ドイツ車に乗り換えた。勿論衝動買いである。3日前、ポルシェ最後の遠出をしてみたら雨が降り、どこかタイヤあたりが急に泣きだして、あれ少しおかしいなと思った。廃車予定が、その日急遽譲ることに決定。本日、その人に運転してもらいながら、車やサンへ。順調な滑りだしであった。そして、車内の荷物を新車に入れ替え、そのまま車を渡したのであるが、10分後、車が止まってしまった、と連絡があった。一度も止まったことはない車なのだが、ナンということだという事態であった。少なくなったガソリンを入れて何度かセルを回したら動き出したらしいが。持主が変わると急に調子悪くなるという噂は多少本当のことのようであった。
2003.06.23
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アルカイダによって世界最大の仏陀バーミヤンの仏教遺跡が破壊されて久しい。バーミヤンときいて思い出すのは、インドのデカン高原にあるアジャンター石窟遺跡のことです。何百年も深山に埋もれていたこの素晴らしい遺跡群は、植民地時代に英国人が虎狩りの最中に偶然発見したものです。(偶然にも、私の同行者は英国人だった。)そこをさ迷ってしていった頃。そこは個人で行くと辺鄙な所なのだが、日本人団体客も来ている。何か不思議な気がする。私は聖地バラーナスから列車で一晩かけてジャルガオンという駅で降り、そこからバスに乗り、落雷で大木が倒れてて、一本道を塞ぎ、満員バスのまま渋滞を我慢し(そこでイギリス人と一緒になる)夜中にアジャンタ村(遺跡5キロ手前)で宿をとって翌朝辿り着いた訳ですが、そんな所に日本人のじっちゃんばっちゃんがいたら不思議な感じ。しかし不思議よりも、私には便利だった。そこには日本語ガイドがついて回り、私も団体旅行客の尾ひれについて行くことができたので。さっき物売りの子供から買った英語のガイドブック、まあいいかと思いながら。その何窟目にそのインド人ガイドが言いいました。「世界で一番大きな仏像はバーミヤン、一番小さいのはこれです」と天井を指差した。確かに小指先くらいの仏陀が彫られていました。じっちゃんばっちゃんは「はー」と驚嘆の声を出したのでした。私はその感嘆を聞いて「はー」といったのでした。
2003.06.22
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昔、タイ北部のチェンマイに朝に着いたんだ。それも4時位で、もう面倒だったので客引きに付いていって、宿に入ったんだ。その日の仕事は、自転車を買うことぐらいで、用事はものの1時間で済み、宿屋の中庭で一日中何の意味もなくチェアに腰掛けて、知り合った人や宿屋の人と無駄話をしていたんだ。そこに日本語の本が一冊あり、こう書いていた。女が泣いているのを見て、男は何故とかどうしたのと一生懸命まずは原因を探ろうとする動物だ。男が泣いているのを見て、女は馬鹿みたいとかかわいそうとか、まずは感情や感想を抱く動物だ。そんなに分けちゃっていいのかい、おいおいとは思ったけど、確かに、原因はとても大切だが、あまり重要なことではないことも多いと思う。ダーウィン進化論に対抗した京都学派のサル学の権威今西先生の説に、私はいたく共鳴するのである。まるで素人の意見のようだが、ありとあらゆる推考を重ねた結果の説である。人間は何故二本足で立ったのか?立ちたかったから。ある日突然立ち上がったのだ、と。そして理由や根拠を聞かれて、今西先生はこういう。それはわからん。何か京大の日本有数のサル学の権威がこういうのだからかっこいいよね。
2003.06.21
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次は、地図を持って歩き出す。 ヴァポレット(乗合水上バス)24時間乗り放題券を購入。こういうのを買わせたら、もういつまでも乗ってるよ、知らないよ、状態になる。栄華を誇った後に、100年単位をかけて緩やかな右下がりのカーブを描きながら朽ち行く街を細々と持続させているのが、良く分かる。しかし、特殊な街故に、現在を越えて、未来都市のモデルになるような気がする街でもある。カラマツやナラのような硬い木を海中の固い岩盤まで注し込み、コンクリートを流し込んでいる人工地盤沈下都市。世界温暖化で熱心な国や都市は水没してしまう場所、オランダ、モルジブ、そしてベネチア。神が創ったのではなく人間が作った街はこう脆いものなのか。 かつて、フィリピンのミンダナオ島のスールー諸島に住むバジャウ族を訪れたことがあった。海に木の杭を打ち込んで、その上に家を作っている。家の床の隙間からは青い海が見える。私は何十人という子供達に囲まれ、ブルースリーの真似事をし、海の生活のことを村長に聞き、若者達と泳いだ。そこには大家族性があり、老人が尊敬されていた。そんなことを思い出しながら、家賃が高く若者が住めなくなっているベネチアを不憫に思う。 雨が降り、雨風を防ぐ為かヴァポレットの船内が満員になる。地元のおばさんらしき人が、何やら文句をいい、人を押し退け、デッキに出て、雨に濡れながらも本を開いて読み出した。いつも短期間に通り過ぎていく傍若無人の観光客に不満を抱いているのであろうか。特にカーニバル期間は地元の何倍もの観光客が路地という路地を埋め尽くしている。実は、世界三大カーニバルとされているベネチアの仮面カーニバルも復活して20年そこいらである。市当局の財源確保のためである。もともとは仮面をかぶることによって身分や貧富の差を乗り越えて騒ごうというトリッキーな催しであった。 ベネチアングラスで有名なムラーノ島に行く。店を覗くと派手で愉快、しかし、大量の物量で迫られると、購入意欲は放射線状に萎えていく。世界の財産、私の財産、なんて訳の分からないことを言いつつ、また見たくなればまた来ればいいよねと負け惜しみを言っておく。歴史上よく聞く話だが、このムラーノ島も、ベネチアングラスの技術を守る為に職人をこの島に幽閉していたという。しあわせはいったいどこにあるのだ。才能や特殊技術を他人に利用されるばかりか自由を奪われる。幸福はどこだ。信じられるのは、瞬間的快楽のみである。 なかなか何でもうまいよイタリアよ、であったがベネチアだけは、感心する程美味い店にあたらなかった。サンタルチア駅の大運河反対側に見つけた席が2つしかない店に入る。一度に接客するテーブルが少ない程良い食堂である可能性が高いの法則(例外は多過ぎるが)に則り、ピザを食べた後、駅で切符を購入。イタリア語はできないので紙の切れ端(本当のレシピの語源ですな)に行先や希望を書いて並ぶと、前の西洋人も同じことをしていた。多分、他言語を習う気のないイングリッシュかと思う。 サンマルコ広場周辺は政治の中心であったが、リアルト橋周辺は経済・金融の中心というところだろうか。歩きに歩きまくっても飽きない街である。商店街大学教会路地広場を抜けていく。ベネチアと聞いて何の映像を思い出すのだろうかと考えながら歩いていた。キャサリーンヘプバーン、ビスコンティ、カサノバ…同時に、残念ながら私は、中学校のときの頭の禿げ上がった右翼系の社会の先生を思い出してしまった。授業は脱線し、ベネチアに行った話をしていた。中学生の私には遠い遠い国での夢物語を漠然と聞いていた。現実性のなさ。しかし、先生は先生の歴史において、金、時間、労力を要した一生に一度の大イベントだったのではなかったのか、と思った。私は15歳の頃にそのことを聞き、15年後にここに本当に来て、15年たって初めてその先生の話を思い出した。潜在的な記憶とは不思議なものだなと思った。 夜はフェニーチェ劇場でクラッシックコンサート。こういうシュチェーションで好きなのは、コンサートが始まる前に、立ち飲みで一杯だけひっかけていくということ。それも強いアルコールを一気飲みがシブイ。グラッパをゲロッパしようぜ。良くチケットを見ると、ある教会でのコンサートだった。急いで、人に聞きながら進んでいく。 多分間違いであろうが、何故かヴァイオリンの音が石造りの建物にぴったり合う。バロックは宇宙音楽といわれるが、宇宙が石を通して啓示したのかも知れないなと思った。透き通った音に耳を研ぎ澄ませて聞き入っていたら、終わった。まだ十時半とおいうのに、この街の夜は寂しい。店が空いていないのが寂しいのではなく、一般の家から照明の明かりが漏れてこないというのが寂しい。車はないので、大通りといっても狭く曲がりくねっている。海に面した家の入口も長年開閉がされていない様子で水に浸蝕され腐りかけていたりする。 ホテルの手前にて、前を歩いていたカップルが引き返してきた。そして私に向って、女性が嬉しそうに叫んだ「アックアルタ、アックアルタ~」果たしてカッレ(路地)は高潮で運河から溢れた水で覆われている。あと数十メートルの宿に辿り着けない。今日の雨、アドリア海の温度差、アフリカからのシロッコ風が重なる程、この街は沈む。カッレを曲がった所がいきなり水没しているので多くの人が気がつかずに来てしまうのだ。面白いことに、私の泊まっている部屋の窓からその様子が見えた。そこで時給0円で5分間だけ交通量調査をすることにした。そのまま靴を濡らしてジャボジャボ進んだ人21人。おんぶしてもらった人2人。横の壁にはいつくばって伝って行った人5人。迂回して来た道を戻って行った人11人。靴を脱いで行った人1人。ちなみに私は壁にはいつくばりコース。ちなみに水没した前に店があり、そこの従業員は平然と水の中に入り、店のシャッターを下ろした。30分程度で水は引いて、歩けるようになったようだ。これで私も安心して眠れる。この街は、水と土地の境界線を、月の引力や様々な戯れによって曖昧にしてしまう。 石畳は走る為ことには馴染まない。しかし、ヴァポレット24時間券はあと5分で終わるので、とりあえず、チェックされないけど走って乗り込む。石畳にハイヒールは何となく似合う。元々、ヨーロッパは汚物で埋め尽くされており、それを避ける為ハイヒールが開発されたという話を聞いたことがあるが、そういう意味ではベネチアは海にゴミや汚物を捨てていただろうから、まだ街は清潔だったのだろうかと思っていたら、目的地に着いた。折角だからと顔にペインティングをしてもらったまま、ニューヨークの姉妹店グッゲンハイム美術館も覗く。アバンギャルドか、と思いながら外に出た瞬間犬の糞を踏み、やたらイヌネコの多い街だなと呟く。車がないので安全なのは分かるが、海に落ちないのだろうか。ちなみにヴァポレットの乗船料はドッグとバッグは人間の3分の1。 グッゲンハイムでは、思わずレストランでワインを1本開けてしまったので、宿に戻り、ベッドに寝そべりテレビ観賞する。イタリアのテレビはコマーシャルからバラエティから面白い。思わず夜中まで見てしまう。急いで、キヨスクでまたワインを買ってきて。時折窓の下の運河に小船が通り、エンジン音を残していき、街の静寂を乱す。まだ私はイタリアテレビに夢中。 実は宿はベネチアを代表する美術館アカデミア美術館の隣であったが、いつも行列になっていたのを見ていたので入場をためらっていたのだが、朝一番に通りがかると、開店直前で並んでいるのが2人、思わず入っていく。期待せずに入ったのだが、素晴らしい美術館であった。 祭の終わった日、列車にはコスチュームの入った大箱を車内に運び込む人々でいっぱいであった。予定していた列車に乗り遅れた私は、駅構内のバルでビールを飲んでいる。モニュメント都市よ。適当に列車に乗る。潟を超え、5分後に本土の駅に。カーニバル基間はこの駅の宿でも団体客でいっぱいになるそうだ。車掌がやってきて、切符をチェック「この列車はインターシティだから追加料金だよ」といわれて、「なんだそりゃ、どうやら特急のようなものかも知れない」と思いながら金を払うと、手元に100リラ(7円)だけが残った。ビールの追加注文しなくて良かった、ガム買わなくて良かったと安堵する。
2003.06.20
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今もアホやけど、こんなアホなときもあった。1.人間アイロン。温度が上がってしまうまでに背中などアイロンをあててやる。冬しかできないが、結構気持ちいいなー。2.銀紙テレビ。ブラウン管を銀紙で覆い、銀紙にプチプチ穴をあけて、テレビをつけて、照明を消す。すると、銀河がテレビから流れる。きれいだなー。3.部屋の4スミにラジカセを4台置き、同じ曲をずらして流し、真ん中に座る。風流だなー。民族、気候、名詞イヌイット、四万年も北極圏に住む民族。戦争という単語のない凄い民族。氷や雪ばかりの中でいろんな名詞を持っている。日本では雪ひとつとっても粉雪や細雪ドカ雪など10もあればいいほうだが、いくらでも雪の表現がある。同様、アラビア、沙漠の民は、ラクダひとつとってもいろんな単語がある。妊娠中のラクダ、弐番目に生まれて生後1年未満の男ラクダ、などひとつの名詞がある。逆に例えば英語のブラザーは兄でも弟でもよい。これって、兄えあろうが弟であろうが、あまり問題でない社会っていうことかしらん。あなたは空の民?大地の民?
2003.06.19
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オランダでは結婚はスタートではなくまさしくゴールである。まずは同棲から入るのが当たり前で、学生も国からの特別支給があるため問題ない。まず二人がすることは契約書作りである。二人で集めた財産を円満に分ける取り決め、その都度所有権を決めます。子供の養育費以外で揉めることはありません、万一の時。そして、二人が精神的に成長して行くと共に、時折というより大抵?別れる結果となるのですが、充分納得いったらめでたく結婚です。10年の同棲の末もありますし、一生しないというのもありで、社会が認知しているので、パーティでも配偶者またはパートナーとなっております。そりゃなかなか合理的ではないか、ええわーと思うが、自分もそうしろといわれると、ええわと思います。自分勝手ですね。ちなみに、さぞかし結婚後はうまくいくのかと思いきや、離婚率は他のヨーロッパと変わらないという所が悲しい。なんだ~。なんだかな~
2003.06.17
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時効だから隠者の告白をするが、小学6年の時、仲良くしていた友達がいた。彼には、ほとんど話したことがない好きなクラスメートの女の子がいて、その子のことをよく聞かされていた。私は、たまたまその子の隣の席で、まあまあ仲良くしていたし、それとなく好きな人はいるのかなあ、なんて聞いてみたりした。彼女は「私は青木昆陽が好きです」なんて文学者を出すから、全く困ったもんだなあ、と思って「もっと同じクラスではいないのかいな」と尋ね続けた。彼女は学級副委員長か何かで、前に出て司会進行しているある日、私は彼女のカバンにお守りがついているのを見つけた。「お守りって中味見たこと無いなあ。バチ当たっても一回見たろか」といって、教壇から見えるように、お守りを取り出して中味を開けた。彼女は、こちらを見て、凄い照れ笑いをしている。中には、ナンと、新聞の切り抜きで文字を作り(犯罪者みたいやなあ)「○○君(私の友達)好き」と貼られていたのだ。私はずっこけた。「ありゃー、相思相愛かいなー(いや、小学生でそんな言葉知らないな)、好きどおしかいなー、今までの悩みはナンだった」という青春の苦いこともない思い出です。あっそうそう流れ星に願えば叶うというのは本当です。なぜなら願い事を流れる0.1秒の間に思えるのですから、普段ずっとそのことを考えているはず。思いは叶う。
2003.06.16
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シンガポールを三日間滞在した後、高速艇はインドネシアのタンジュンピナンにたった三十分で到着した。空路以外の入国はビザがいると聞いていたので、イミグレーションオフィサーが何かいう前に、有り金を全部見せるという子供だましの手段に訴えた。笑いながら、パスポートにスタンプを押してくれた。木の突堤に足を踏み入れると、ガラム煙草の丁子の匂いが国を充満しているのが分かった。暑い国では甘さを許容してしまう。その匂いに加え、土の湿った臭いがしてくる。八十六年夏、生まれて初めて水を買った。先の船旅に備えて。異郷の地で食べ物が合わないのは我慢できるが、水が合わないのは致命的だ。いくら慣れ親しんだ料理でも味付け以前に味が違う。浴びる水に対する体の反応も。全長十メートルの船は体操座りが辛うじてできる程の乗客を乗せて出港した。マラッカ海峡の上で、私は同じ質問を何度も受け、延々と答える。朝、起きると河に入っており、私は同じ質問を何度も受け、延々と答える。二回目の夜はついにたまらなくなり屋根に登り、寝袋に潜って眠る。三日目の朝、靄がかかり両脇の陸から木々がかすかに見える。寝袋は朝露でべったりしている。円錐形の葉をぎっしり詰められた両切りの煙草の煙は、船の速度にぴったりだ。一メートル下では重なって人々がまだ眠っており、もはや、質問はなかった。昼。石油の出るだけの退屈な町で。個人経営のパン屋兼八百屋兼冷凍食品店兼お菓子屋といった感じの店があった。ザリガニ釣りのために、いつも竹輪一つ買って、ザリガニも嫌うと信じられていた皮だけ食べて赤いバケツに放り込んで、池に向かうという少年達の一人が私だった。それから十年近くの間に、町は奥へと造成されていき、その中にスーパーができ始めた。また、我々の古い家周辺も庭を壊してガレージを造り、車やバイクを購入し、行動範囲を次第に広げていった。私は高校生になっていた。文化祭の用意のために急遽林檎がひとつ必要になり、その店を思い出し、十年ぶりにその店に訪れた。店の面積は縮小され、奥は食堂になっており、引き戸の隙間からちゃぶ台のようなものと家族が見えた。何かいけないものを見たような気がした。奥からきっちり十年分年をとったおばさんが出てきた。林檎は三つセットで売っているものが一つだけあった。私は恐縮して自信なさそうに「ひとつだけ欲しいのですけど」とおばさんの目を避けて林檎を注視したままいった。おばさんのため息が聞こえてきたような気がした。そして、おばさんの手がためらう様に、林檎に伸び、ゆっくりパックからひとつだけもぎ取り、素早く価格から三を割り、端数切り捨ての値段をいい、私に林檎をゆっくり差し出した。それから暫くして、店仕舞いと同時に家族さえも引っ越していった。時代の速度は、相変わらず速いままだ。意識でさえも。そんなことを考えながら、六時間後に出るバスを待ちつつ、街の小さな市場を歩いていた。小さいながら等身大の市場だ。サランラップに巻かれて窒息しそうな綺麗なだけの食料が並ぶスーパーマーケットと違い、ドリアンの強烈な臭いを筆頭に、濃厚な空気が充満している。時折、子供にからかわれてみたり、店の人に呼ばれて試食してみたりする。短期のバイトで「スーパーマーケット徹夜改装工事」というのをよくやった。肉体的には結構しんどい仕事ではあるが、作業中、頭の中は違うことを考えられることが好きだった。その夜は、少し遠方で仕事があるということで、バイクを飛ばして、現場に向かっていた。爆音は嫌いだが、スピード感はたまらない。「ロック・アラウンド・ザ・ロック」が頭の中を流れる。そこに車が飛び出す。転がる私。「とにかく、止まってくれよ、俺の体よ」と念じつつ、「対向車線の車も止まってくれよ」と願いつつ、「うわー。修理代たまらんなあ」と悔やみつつ、私の頭の中では幼い頃からの成長過程がスローモーションで流れ、鮮明な映像として流れ、おまけにBGMとして微かに「夕焼け小焼け」が流れていた。パノラマ現象は終わった。対向車と私の距離が三十センチの距離を残して。正気に戻った瞬間、強烈に恥ずかしくなり、対向車に向かって「なんちゃって」ポーズをして笑顔で答え、バイクに向かって「情けねえよな」とつぶやき、面倒くさそうに余裕のふりをしてバイクを立て直し、脇道に寄せる。車に乗っていたおっさんから金を巻き上げ、バイト先を急ぐ。ミラーのないハンドルの若干歪んだバイクで。人生は実は、いや時間というものは実に主観的なもので、かなり疑わしいものではないだろうか?と再認識しながら。時間枠のなくなる夢のようなものではないだろうか?今、八時間待ったバスに乗って、うとうとしているけど、もしかして起きると、まだ小学生だったり、もう老人だったりすることはないだろうか?長い夢も一瞬なのだ。バスはまだ走っていた。スマトラ島中腹の曲がりくねった道を、まだ走っていた。途中止った休憩地で、濃厚な卵と、濁った水を飲んでしまった。腹を壊せば、現実を確認できるのでは、と何となく思ったからなのかも知れない。朝には海沿いの町パダンに到着した。シャツはすっかりバスシートを掃除して黒ずんだ。顔は汗を何度も流しては乾かし、その度に夜風を受けたために塩と砂を交えてざらついていた。潮で体を拭きたいと思った。そのまま泳いでみたいと思った。とにかく町外れまで歩いてみた。川があった。幅十メートル程の濁った川。橋はなかった。渡し舟が一艘あった。当然商売なんかになる筈のなさそうな人通りのない道端。川向こうにはあぜ道が続いているのが見える。一日いったい何人がこの舟を利用するというのだ、とは思ったが、船頭のおやじは苦虫を潰したような顔を一向に崩そうともせず、私を獲物と見据えると、「乗れ」と合図した。乗船時間十秒、三漕ぎ。運悪く、私は五百ルピア(四十円)札しか持っていなかったので仕方なく渡すと、そのままくしゃくしゃにお札を丸めて、苦虫おやじのポケットの中に吸い込まれていった。その表情を崩さぬまま「早く行け」と手で追い払われる。「おいおい、お釣、お釣をくれ」と私は呆れながら手を出すと、「ぼったくってやったぜ」という後の急に優しくなったり怒りっぽくなったりした態度にはならずに、「道はあっちだ」と私を追い払う。もう一度催促してみたが、相変わらず苦虫を潰し続けている。「参ったよ。苦虫ポーカーフェイスじいさんよ」私は頭の中で、頭をポーンと叩いてあぜ道を歩き出した。すぐ丘の上に中国人墓地に辿り着いた。剥げ落ちた水色の墓が急斜面に散在し、その先の絶壁の向こうは荒波の迫るインド洋が広がっていた。海は遠くに行く程青さを増し、空と海との境界線をあやふやにしていた。近くに亀のような島がひとつ。直径三十メートル程で、木が覆い茂って地肌を隠していた。脇道から砂浜まで降りてゆき、十数キロある荷物を降ろし、椰子の側に置き、全服をその上に置き、荒波に向かって行った。そして、ジャワ島へスマトラ島を南下し、ジャワ島に入ることにした。道は年々良くなっているのだろうが、相変わらずスマトラバスは世界有数の厳しいバスだぞ、と聞いていた。バス会社は多くあちらこちらで客引きをしている。世界六番目の島(七番目が本州)というのが、何となく親近感が持ててしまうのだが、赤道直下のジャングルの島で、山がインド洋まで迫っているという瑞穂の日本とは趣をかなり異にする。瑞穂っていうのも恥ずかしいものだ。ジャングルというのも木材や鉱山乱伐で恥ずかしいものだ。もともとプランテーションや木材を運ぶための道路を改造したに過ぎない道路は雨季乾季の繰返しで凹凸し、ジャングルのせいでカーブばかり。遠方を見渡せるという景色はなく、ただバスは一晩中カーブを続け、ひたすら頭をぶつけながら何かを考えるしかない。初め少なかった乗客も、徐々に増え、通路に人が無理矢理座っている。私の足元には私の足を枕に子供が寝ている。足の組み替えさえできない私の足には、お漏らしでべたべたになり、おまけに通路に座っている母親はそれに気づきながらも、「私達も耐えているのだから、あなたも耐えなさい」という目で訴えてきた。道はいつまでもくねっているが、私の体力は続かず、不快のまま、カーブの度に体をフラフラ動かしながら自分が眠っているのが分かる。右に頭が寄る度に、隣の母の手によって頭をポーンと押し戻されているのは分かっているのだが、体は寝てしまっていて、自由にならない。左に頭が寄る度に窓枠に頭をぶつけているようだが、割れないことをひたすら祈っている。窓ガラスは片面しかなく前後の客で数分ごとに罵詈雑言と共に引っ張り合いをしているようで、数分間風は入らず熱く、あとの数分間は砂埃が入ってくる。旅行者として一番バス慣れしている私でもこの状態である。カーブの連続によって半数の人々は既に嘔吐し、バスに積まれている鶏と穀物とガラムの臭いと交じって、いよいよ終末感を醸し出していった。私の目は、既に魚の目。一方、運転手は二人、車掌は三人、車掌の一人は休憩。二人はバス昇降口前後に身を乗り出し、カーブする度にバスの側面を叩き、奇声をあげて安全を確認する。運転手は一人は睡眠、一人は目を血走らせねがら、大音響で夜中の三時であろうがテープをかける。それに応え、車掌達はバスの側面を叩いてリズムをとったり奇声をあげる。つまり安全確認なのかノリノリなのかは不明だ。不快な夢の入口で音の割れたインドネシアンポップスが流れている。眠れないのに起きられない状態を続け、カーブで頭を打ち、目を開けると運転手もハンドルを切りながら、ハンドルを叩いてリズムをとっている。食事時間だけが休憩時間で、交代する二人の運転手の疲労度の都合で停車する。一日三食。朝食は朝の四時だったり、夕食が昼食の三時間後であったりする。夜中の三時。暗い食事以外に止ったのは、スマトラ島ジャワ島間スンダ海峡のフェリーと、バスのすれ違いどきにお互いの後部がぶつかって運転手同士の喧嘩が長引いた時だけであった。第一次欲求というのは強い。どんなに不快でも眠気には勝てない。常に振動があって頭を打ったり座席から尻が浮いたところで、脂汗をかきながら眠ってしまう。そんな中だからこそ、自分が眠っていると強く意識する。自分の不快そうに眠っている姿も容易に想像できる。起きることができない状態から起きる理由がないという状態に変っていく。七十時間後、朝のラッシュに少しだけ巻き込まれた末に、バスはジャカルタ。私の頭の中は、多少、ネジが狂い始めていたのかも知れない。あんなに厳しかったバスの移動も終点に近づけば、少し残念な気になってきた。赤道を超え、さらにかせいでいく旅。私はそのまま、バスチケットを購入した。そして、ジャワ島バスステーションの端で洗濯をした後、バスを乗り継いだ。運転手の許可を得て、洗濯物を運転手の横で干させてもらった。八月十七日独立記念日が近づき、旗が至る所で見受けられる。ここ数日、何度も「俺は日本を許しているよ」といわれた。戦争責任。戸惑う。もし、責任者としての申し子ならば片腕を切り落とさなければならない。例えば、インドネシアで何をしたのか、何も教えてもらったことはない。どんな時代だったのか、自分で本等を読むまで知らなかった。知らないことに対して、「そんなこといわれてもねえ」と思ってしまうのは正直なところなのだが、無知は罪である、ということは何となく分かってきた。もうひとつ。例えばどの国でも「チノー」とか「チニー」とかいって中国人と間違えられて、馬鹿にされる。はじめ、「ノー、ジャパン」「ジャパニ」なんていちいち反論していた。それって、私自身、そう思っているから言い返していたに違いない。次第に何といわれてもいいや、って感覚に陥ってゆく。具体的被害にあいそうなら別かも知れないが、何人でもいいではないかという諦めに似た境地が訪れ始めた。素晴らしい奴はどこにだっているし、下らない奴もどこにだっていることを理解するには結構実感がいると思うし、できた奴や下らない奴がいるからこそ、面白いってことはなかなか分からないことではないだろうか。夕暮れのドライブイン。賑やかであった。私はその中に静かに座り、人々の表情や情景を見ながらゆっくり飯を食っていた。ついつい出発時間を聞くのを忘れていた。バスが目の前を通りすぎた。私はまだ静かなままだった。今日から荷物のなくなる現実を受け入れなければならないのか?夕暮れの道は寂しい。少なくとも、私は運転手横、最前列に座っていた。バスは軍艦マーチのテーマと共に、ライトをアップにして戻って来た。車掌は身を乗り出して、私を見つけると、「オー、コリアー」と叫んだ。午前二時。ジャワの中部の主要都市マゲラン。バスの終点と知ったのは乗客が全員降りていった後だった。こうなったらジャワ島を抜けてバリまでいってやる、何て更にやけくそな気分になっていた。そこで登場したのが、自称天文学者ボビー。中年太りのインテリにしてホモセクシュアル。インドネシア各地を毛布と十数冊の書物と共に流浪している。国の奨学金で旧宗主国オランダにまで留学していたこともあるという。おまけに、ほぼ文無し。「宇宙が二つあるという説の話はこれくらいにして、疲れただろうから、僕の肩を枕にして眠るといいよ」と優しく揺れるバスの中でいった。そう、興味深々で彼にしばらく同行することに急遽決定したのであった。そして、そうやら枕にされたのは私の肩のようであった。ジャワの中部、スカンでバスを降り、夜が明けるまで彼の朝の講義をコーヒー一杯で聞いた後、彼の導きで山に入ってゆく。彼は太っているからか、徐々に遅れ始めた。宇宙を駆け巡る思想を持ちながら息を切らして歩いている男を何故か寂しく思った。インテリに完璧を求めるのも変なことだが、痩せ我慢して歩いて欲しいと思ってしまった。インテリは、穴があるからこそ突出している部分がある天才とは違い、完璧性が欲しかった。人は見栄だけでも結構やっていける筈だ。いい訳はよして、歩け。恥ずかながら命令口調で思ってしまった。せめて、優雅に歩いて欲しい。インテリなら。村人が迎えてくれた。天文学者と村人との関係は分からなかったが知り合いのようであった。私は納屋で一週間ぶりに動かぬ大地の上で、巨木の香油の下、昼寝をした。天文学者は隣で持参の毛布で寝ていて危険ではあるが、生理的欲求を優先せざる得ない。熟睡は夢をもみせてくれることはなかった。村。コルト。タンガー。バス。町。村で、泊めさせてもらった家の子供に、持参の花火をした。その農家には子供がいて、夜は当然電気はなくて、私は、そこで、その子供に、花火をしてあげた。何故かフィルムのおまけに花火がついていたのだ。花火は二本あった。その一本を驚かす為にライターで子供の前で火をつけた。子供の目がすごい喜びになった。十数秒の花火は真っ暗な田舎の家の土間で綺麗に一瞬を終えた。子供の目の輝きをもう一回みたくて二本目に花火に火をつけようとしたら、子供は花火を隠してしまった。大人が訳してくれた。子供が何をいったのか。明日、ほかの子供達と一緒にみるためにとっておきます。と。村で、泊めさせてもらった家のじいさんに、日本軍との壮絶な戦いをした湖のほとりに連れていってもらった。「俺と君の間には悲惨な過去があった。でも今は友達だ。握手しよう」と厳しい目をしたまま手を差し伸べられたので、私は手を出す。「この村にまでやってきたんですね。あなたがたは、直接、敵を見てきたんですね」といった。「敵国破れて、湖有り」と波のない静かな池。殴られたほうは、孫の代まで伝え、殴ったほうは、教科書に一行。ウノソボという町。夜、全寮制の身体障害者の学校へ招待され、のこのこ出掛ける。比較的軽度の子供たちが卓球をしている。「かかってこい」私はラケットを握る。あまり容赦しない私、大人、外国人、という三要素が彼らの闘争心に火をつけたようだ。子供たち列を成す。私は変化球なしで、徹底的に彼らを叩きのめした。負けるのは失礼だから。真剣な彼らの眼差しに敬意を示し、スマシュ、はい次、スマッシュ、はい次。中国人の家に泊めてもらっていたのだが、その前の道で万屋を営むマレー人がいた。幅二メートル奥行き一メートル程度の小屋には洗剤やらガムなどがぎっしり詰っていた。ある夜、小屋を隙間から覗くと、そのマレー人主がキョウツケの姿勢のまま眠っていた。中国人によると、彼の家はこれで、トイレはその中国人の家を拝借しているそうだ。そのあとで、「中国人が店を開くと(但し漢字は御法度)その前にすぐマレー人が屋台を開くのさ」と付け加えた。海抜二千メートルのディエン高原に散歩に出掛けた。ボロブドゥールより古いチャンディ(寺院)が点在。空を見ながら歩いていると泥沼に足をつっこみ、抜くのに苦労する。
2003.06.15
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朝起きたのは10時30分でありました。何故かというと、特に何故というのはないのですが、昨日は、仕事のまとめや遊びのまとめや事務処理等で朝の6時15分に寝たからであります。今日は昼間仕事が休みということがありますが、休みでもなくとも時々徹夜をして、翌日に支障をきたしていますが本人はあまり気にしていません。(効率が落ちて周りの方々にご迷惑をおかけしています)シャワーを浴びて自家製コーンポタージュスープを飲む。何せ4人分を作って一人で飲んでいるので長持ちするのです。うまいです。1=コーンクリーム缶1缶230グラム、2=コンソメ1個、3=牛乳500ミリリットル、4=バター大1、5=生クリーム100ミリリットル 1をフードプロセッサで五分。ソースパンにこれと234入れて温める。あったまったら5入れる。以上包丁もいらんです。そして部屋を軽く整理するかと思ったのですが、雑誌ニューズウイーク(年間購読者です)をめくっていると時間が経過。ついに昼を越え、愛車525を転がして(なんかシブイ)六甲アイランドのコンプレックスシアターへ。マトリックスリローテッド鑑賞。評判どおり斬新な映像は凄い。しかし、物語性は、やはり一作目を越えることはできてない。一作目同等以上というのはゴッドファーザーとフレンチコネクションぐらいか。そういえばグレゴリーペック亡くなったか。映画が終了し、何故かスシローまで出かけ、寿司13皿を食する。1300円。これが本日唯一の飯になろうとは誰が想像したであろうか・・・既に時間は17時を越えていた。家に戻り、1週間分の洗濯をしてクリーニング出しに行ったついでに本屋で新刊を覗く。3冊だけ買う。作家名だけで内容関係なしに買う本は何人かいる。米原万理というロシア語通訳の大一人者の本はいつも買う。今回も文集文庫から出ており、大変面白いエッセイを書く人で、早速読み始める。パソコンをネットから購入。デルは性能からしたら、店頭販売してない分だけ安い。デル革命という本を読んだことがあるがパソコンのダイレクトセリングで成功した若干40歳くらいの成功者です。ちなみに欲しい方は言って下さい。(6月30日までのキャンペーン)整理をしようかと思ったが、この前コンビニで衝動買いしてしまった昔読んだ、手塚治虫の「アドルフに告ぐ」を読み始めてしまう。ZOO私は、海外に出かけたとき結構暇で、道草食うのが面白くて、動物園にはよく行ったよ。でもアジアの動物園は結構劣悪な環境で動物が飼われていて、すごく寂しい気分になるのです。バンコク、スラバヤ、カルカッタ・・・・この前、ニューヨークのセントラルパークのミニ動物園にも行ったら、何か豊か。経済状況はこういうところにも及ぶのですね。幸福とは、本来無自覚の中に存在するものなのですね。
2003.06.14
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「スタンプを押してくれるカードを貰ってくるのよ」と私は、夏休みの初日、母に言われ、近くの公園に妹を連れて、ラジオ体操に出かけた。公園に着くと、朝礼台のような台の所に子供たちが集まっていた。遠巻きにぼやっと見ていると、何かカードを配っている模様。何かに記帳しながら、せわしく大人の係りの人が、子供達に渡していく。しかしそのうち、係りの人は、せわしくしたままで、撤収の準備を始めたので、ぼさっと見ていた私は、思い切って聞いてみた。「それ、なに?」文法も言葉遣いも知らない私はこう答えが返ってくると思っていた。「君もラジオ体操カードの登録だね。ハイ、これカード」と優しい元気な言葉を。しかし、係員は私を一瞥しただけだった。 ラジオ体操は終わった。子供達は、何故か得意気にカードにヒモを通して首にかけて家路につく。とても誇らしげに見えた。私は家に帰るまで、いかにもカードを脇に挟んでいるような仕草をして早足で家に向かう。早く家に帰りたい。妹は「おにいちゃん、何でそんなに早く歩くのよ」といった。三歳の妹は訳も分からず、私の後ろをついてきた。家に戻ると母はこういった。「なんや、カードもらってこんかったん?」翌日、玄関に新しいラジオ体操カードが二枚置いてあった。昨日の日付のところにスタンプは押されてなかった。しばらくして、ラジオ体操には行かなくなった。それっきりずっと行かなくなった。建前なんか信じない。本音なんか信じない。その狭間にあるズレしか信じない。
2003.06.13
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私は、子供のとき海と山に近い所に住んでいました。で、趣味の一つは危ないけど、台風の日に泳ぎにいくこと。勿論、波の状態見てからですけど。小学6年の台風の日に泳ぎに行った。流石に誰も泳いでいる筈がなく、波はかなりたかかった。水中メガネをつけて、波に向かった瞬間に波にいきなり飲まれてしまい、勢いで、水中メガネが外れた。もがき苦しんで、手をばたばたさせたら、水中メガネが偶然手に当たり、つかんだ。わあ、良かった水中メガネ無くさなかったと思った。頭から取れて10秒位たっているのに。そして、波に押されて陸に上がって手を見ると、自分の水中メガネではなかった。この広い海で、水中メガネをつかんだのだった。誰も泳いでなんかいないのに。怖くなってすぐに家に帰った。怖いくせに、その水中メガネ手にとったまま次回から使っていたのであった。私の人生七不思議です。偶然。南京虫つい最近判明したことであるが、私は3歳まで住んでいた所から5分の所に住んでいた事が判明した。当時は、1階が銭湯で、その上に住んでおり、熱気ムンムンで、無防備な私は順調に南京虫に噛まれながら、育ったようである。(母談)南京虫にそれから再会するまでに15年の月日が必要となった。まさにインドの安宿ドミトリールーム一泊100円は、どのベッドに南京虫がいるかロシアンルーレットのようであった。(そういえば映画のディアハンターはアホな映画だったと思う。誰が、ベトナム戦争さなかにロシアンルーレットなんかするねん)痒くて痒くてたまらん。昼間は我慢しても夜にはしっかりかきまくりかさぶたができた。(そういえば、友達のかさぶたをとるのが趣味である友達がいたなあ。私のかさぶたみて、身震いしながらかさぶたはがしてもええか、という高尚なご趣味を持った輩の気持ち、分からないでもないけど、やっぱり自分で剥いた方がしびれるぅ)まあそれはいいとして、30年後生まれた近くに住んでいるのも運命ですなあ。
2003.06.12
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それをノスタルジーといわれても別に構わない。だが、その光景は私の幼い頃には既になかったものであった。経験していないのに懐かしい?遺伝的記憶?映画の映像や書物の描写に自己同化させているから?下町の光景。 それは今をもってアジア各地で見ることができ、どこか懐かしいと感じずにはおれまい。経験もないのに何故か心が和むのはどうしてか、日常的なものに。 夕刻、常夏の国の下町、グラデーションをかけるようにスローモーションのように薄暗くなっていき、セピア色になる。人々が、ボコボコになっている舗装道路の道端に出てくる。椅子を持ち出す者、蚊にかまれて腕を掻いている者、佇むだけの者、世間話をするおばちゃん連中や若い女ども、怪し気にたむろする若い男達。サンミゲルビール片手に上半身裸で取り留めのない話をする親父。まだ走り回る子供達。1本からばら売りで売っている煙草売りの兄ちゃんや駄菓子売りのあんちゃん。たむろする人数分の煙草だけを買う男、子供に買い与える駄菓子を買う女。もうエンジンがいかれちまったバイクはスピードも出ず、爆音だけを鳴らしてゆっくり進む。 子供が裸足のまま萬屋(サリサリストア)で1本の煙草を求め、火をつけてもらって、親父の元に走る。近くで見ていた女どもが、「あんなに小さい子が煙草買って」と驚き、数十メートル離れた親父に煙草を渡すのを確認して「なーんだ」と笑みをこぼす。 排気ガスの為、空気は暑さに混じり、モワモアで息苦しく、おまけに澱んでいる。町の壁は煤がついて黒く汚れている。混沌として危険な雰囲気を漂わせている。白い制服の女学生の服が煤で汚れていくのを見るのは忍びない。口にハンカチを。「汚れ」に基準はない。「清潔」には標準がない。生活が見える、剥き出しの生活が。武器の不携帯を証明し、草履に下着姿が無防備を包容する。 「汚れ」に基準は必要ない。「清潔」に標準の必要はない。そこでは、家から1分以内にお店があり、家から1分以内に交通手段があり、家から1分以内に同級生が住んでいる。 呆然としていようが、ぐずぐずしていようが叱られることはない。私はそういうところで育った覚えはない。しかしながら懐かしい。懐かしいという意味は心和ませる何かという意味ならば正しい。 人気のない整備された閑静な住宅街で育った。それが日本が発展してきた恩恵だった。そこから噴出す問題は数値化されないことばかりだったので、問題はなかったと見なされた。現風景はどこか。どこへ。学生時代の数回目のマニラのソドムとゴモラ背徳の日々は以下の通りである。フィリピンのイケナイところは、アジア唯一のラテン系(一部擬似ラテンの韓国)であり、ビールが安すぎることである。(屋台で1瓶2、30円である) 1.夕方、起床、迷彩服という正装にバッチリ着替え、水は危ないので、ビールで歯を磨く。 2・歩いて、20秒のレストランにて、ビールと軽い食事を胃袋に収める。 3.そのまま、ジプニー(乗り合いタクシー)に乗り、乗り換えしながらもマビニストリート&ツーリストベルトを目差す。4. ゴーゴーバーとディスコでビールを一本ずづ飲み、はしごする(10件ぐらい回る) 疲れて、間の公園にある野外屋台でビールを飲み一休みする。(学生と称する娼婦が寄って来るが無視する) 5.夜中の3時ぐらいになり、屋台で飯を食ったあと、場末のバーに行く。またビールを飲む。 6.5時頃になり、退散する。泊まっている近所のレッドハウスという娼婦がうろうろするバーで最後のビールとする。 7.6時になり、最後最後といいながら、最初に夕方に寄ったレストランに入り、最終ビールを飲み、もはやヘベレケというより、目が黄色くなっている。8.飲み代の総予算は2~3000円と富豪並に飲みまくって、そのまま迷彩服を脱ぎ、扇風機に当たりながら夕方まで寝る。ビールの目方でいうと、おおよそ6リットルである。(他の国では予算は500円であるので、大盤振る舞いである。昔で言う旦那衆状態である。)9.夕方、昨日の繰り返し。まあ、そんなところなのであるが、ある下町のパサイシティに民家に泊めさせてもらっているときに、歩いて2,3分のところに、日本人がいると聞き、冷やかしに行く。彼は、モシモシパーラーというカット屋を経営し、休日なしで働くオカマ10人を雇って、暇そうにしていた。彼は、例に漏れず、日本のフィリピンパブで今の奥さんと結婚し、フィリピンに渡り、彼の資金を叩いて(奥さんに叩かれてだが)店をオープンしたのである。私の予想によると、1年以内にガイコクジンは持てない不動産名義はきっと奥さんになっているので、そのうちお払い箱だな、という感想はおくびにも出さず、彼の人生遍路を聞いていた。彼は数ヶ月前からフィリピンに来ているのだが、家とこの店の往復しかしたことがなく、どこにも行ったことがないという。奥さんの厳しい監視の下、若干ながら、結婚したこと、フィリピンに来たこと、お金を出して店を出したこと(流行ってない)を後悔しているように見受けられた。ボクはフィリピンに来たけど、何もみてないし、毎日暇で仕方ないし、奥さんが怖くて、ブラブラもできないんだよと、力説するので、正義感の強い私は、では、ちょっと飲みに行きましょうか、フィリピンの一部を見せてあげますよと、鼻高々ではなく、胸を張って、奥さんを説得し、ちょと飲みに行きますからねと、言った。奥さんはすんごく不機嫌な顔をしていて、まるで私が旦那に悪い遊びを教えるのではないかと疑っているようであった。(実はその通りであった)GO,GO,GO~。タクシーなんかに乗っていかないぜ、相変わらず貧乏学生ブリを発揮し、10円のジープを乗り継ぎ、歓楽街へ。トリンクトリンク酔狂である、が、メニメニガールダンシングにモシモシパーラーオーナーは、俄然、興奮、フィリピンにこんなところあったんですねえ、来たよかったですよ、を連発、純情ブリを発揮した。純情、まるで私の為にある言葉なのにである。それから飯を食いにいきましょうとディスコに行った。周りを見渡すと、家族ずれやカップルがいっぱいいて、スコブル健康的ではある、が、しかし、ここがフィリピンの摩訶不思議で、ステージでは、全裸の女性ストリッパーが踊っている。何故かにこやかに眺めるカップル、全く無視して飯食う家族、私も普通に飯食っていて、何かやってるねって感じだったのであるが、モシモシパーラーオーナーは、俄然、興奮、フィリピンにこんなところあったんですねえ、来たよかったですよ、を連発、純情ブリを発揮した。純情、まるで私の為にある言葉なのにである。それから、最後に退廃的ところで、デカダンビールでも飲みましょうかといい、娼婦の館へ。前述のこのレッドハウスは、真ん中にいっぱいテーブルがあり、そこで、客がただただビールをガブガブ飲み、飯をパクパク食っている。ちょっと普通のレストランと違う所は、ここがフィリピンの摩訶不思議で、壁沿い四方に壁に引っ付いた長椅子があり、そこに、何十人という娼婦が暇そうにお喋りしたり、爪をいじっていたり、化粧をしているのである。こんな世界もあるんですよね、生活って大変なんですよね、と私はコメントし、ビールを飲んでいたのだが、モシモシパーラーオーナーは、俄然、興奮、フィリピンにこんなところあったんですねえ、来たよかったですよ、を連発、純情ブリを発揮した。純情、まるで私の為にある言葉なのにである。満面笑顔でモシモシパーラーに戻ると、奥さんがスンゴク疑わしい目でアナタどこいってたの?と言った。オーナーはとってもおどおどしながら、ちょっと飲みにいっただけだよ、といった。それは本当だった。ちょっと飲みにいっただけだよ、でもオーナーには刺激がキツスギタみたいであった。もう、私にそんなに感謝しないでよ、と私は何度も言った。1年後、モシモシパーラーはなくなっていた。
2003.06.11
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昔、私はその頃イランにいて、どこにもホメニイの肖像がかかっていたのであるが、イランからトルコの国境の話であるが、国境は荒涼とした丘の上にあり、向こうにノアの箱舟のアララット山がそびえていて、丘の上に建物があり、その建物の半分がイラン半分がトルコである。イラン側にはホメニイ師の肖像画、そしてトルコ側にはケマルパシャの肖像。トルコ建国の父である。二十世紀最も優れた政治家の一人である。私はアタチュルク(トルコの父)と呼ばれるこの頑固おやじのことをよく知らなかった。彼は、かつてのチャーチル連合軍を破り、帝政廃止を実行し、政教分離し女性にベールを止めさせ、アラビア語からローマ字に書き言葉を替えて識字率を上げた。国の力は何といっても教育だと知っていたのである。彼は、今でも人気抜群の英雄である。
2003.06.10
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朝。何じゃコリャ、と海を見て叫んだ。どっしりとではあるが鉄の錆びた血生臭い海と波の色。小石ごろごろの浜辺に座り、コップ一杯いくらのヤシの酒を飲む。ポルトガル時代の要塞が見え、ミンダナオ島のスペイン城塞を彷彿させる。機械より人件費のほうが安いというインド的理屈作業で砂運びをしている人海戦術軍団や漁の網を修繕する漁師軍団をぼんやり見ていると、ひとりの青年が寄ってきて何かを話し掛けてくる。素朴でもなく興味深そうでもなく、淡々と世間話らしきものを海を見ながら話し掛けてくる。裸足の足を貝殻で切った様で、意味もなく砂を塗りつぶしている。薬を塗りつけるように。町は静かだ。戦火の中の束の間の休日という感じもするし、圧政者が去っていった後の静けさという感じもするが、実際、日曜日の小学校以上に静かである。車さえない。ときどきベスパ。雀の囀りと、子供のおしゃべりと、歩いて道を擦る音ばかり。レストランとバーとホテルとアイスクリーム屋ばかりなのである。禁酒のグジャラートで唯一解禁されているこの町は海以外の三方を鉄線で囲まれた、囚われのオアシス。外国人は見掛けないが、酒飲みツアーに来たグジャラート人が昼間から、時間が惜しいとばかりに飲んでいる。遠慮深く親切な現地の人。 そういえば、ダーマン駅からの道中、有刺鉄線にはさまれた1本道をやってきた。両脇は荒涼とした沙漠地帯であった。グジャラート州は大麻には大目に見ても、禁酒の州である。ここと、ディウという街だけは飲めるらしく、時間を惜しんでインド人旅行者は飲んでいる。ヌボーッと夕日は海にはまる。波内際ぎりぎりを歩くサリーの女性。茶色に金色の入った高貴なサリーが砂浜に足音を残して、夕日に映える。美しい。美しくて切ない。砂浜に来る人、帰る人。星が遠い。海がどす黒くなっていく。良きノスタルジーのために。故郷に二度と帰らない決意を込めたロシアで生まれた言葉に誘われる。寝て回復するような疲れであってはならない。そこに救いがあってはならない。それ以上衰えのない状態で、ただ時間を潰す無気力を維持し続けるアウトローのために。精力的に怠慢なアイロニーが旅の魅力なのだ。などと呟いてみて、私はホテルに意味もなく戻って行く。ショルダーバッグひとつの旅を終えようとしている。
2003.06.09
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マリリンモンローは自分の気持ちをうまく伝えるのが下手な人間で、どうしたら相手を愛したらいいのかいつも悩んでいたそうだ。いつもまわりに余計な心配をして、黙ってられなくて、誰かに与えてばかりの人だった。15年前の今日、私はマレーシアのペナンにいた。前日夜行フェリーでインドネシアのスマトラ島のメダンからやってきたばかり。その船のデッキで星を眺めながら、8月1日から毎日どこにいて何をして何を考えていたか、誰と出会ったか、何に気が付いたか、4時間思い出していた。バリ島の何かの案内書に1行だけ書かれていた文言。「メダンからペナンまで週2階夜行フェリーが出ています」それだけを頼りに、赤道を越え、北上してきた。誰に聞いても知らないという。本当にあったのが分かったのが数日前、数百キロ南のトバ湖という所で。トバ湖の中にはサンシモール島という淡路島やシンガポール位の島があり、そこに渡る船着場に案内の張り紙がしてあったのだ。そんなことはどうでもいいのだが、身勝手で気楽なものだなあと4時間かけて思っただけ。疲れることを避けていただけ。必要な情報が安心の力の一端になると思っただけ。信じるものはときどき救われると思っただけ。人に助けられてばかりと思っただけ。
2003.06.07
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昨晩遅く、私は突堤にいて、人工島がゆらゆら見えていて、黒い波の緩やかなうねりが、何となく吸いこまれそうな気分になった。対岸の明かり、どこかでみた風景のような懐かしさがあった。摩天楼にしてはビル群が少なく低いし。ああ、スエーデンに向かう夜行フェリーから見た、エストニアのタリンの街に似てるかも知れない。それか、スエーデンのマルメに向かうたった四十分のフェリーから見たデンマークの対岸の町に似てるかも。マレーシアのペナン島から本島マレー半島に向かうフェリーから見た景色に似てるかも。
2003.06.06
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昔、韓国の空港で泊まるつもりで、OBビールと焼肉を知り合った軍人におごってもらってたらふく食ったのであるが、その後の宿泊代が当然無くって、いやもともとなくって、空港に夜中の最終バスで到着して入ろうとしたら、駄目と言われた。準戦時国家では空港に入れないのだ。警備員に金(ウォン)はないといっても通じず、追い返された。しかし私には武器があった。テントという。しかし、私は鳥目なのか周りが良く見えず、テントを張るスペースがどこにもなくて道端で困っていると雨が降ってきて余計に困って、ありゃーというと見事に空間が現れ、そこにテントを張った。大雨が降り、蚊に悩まされた。それに臭いもなんか強烈。朝方、私はおじさんにテントをこずかれ、起きた。そこは壮大なる金浦空港のゴミ焼却場であった。夏だというのに寒い空に感じた。いそいそとテントをたたみ、歩いて空港に向かい、バンコクへと旅だったということを思い出した。
2003.06.05
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かつて1週間連続バスと列車の旅を続けて、いい加減どこか移動しない地面に泊まりたくなった頃。私は、インドネシアのジャワ島北部の漁港スマランから隣に乗り合わせた自称天文学者と共に、中部の都市ウノソボ郊外の村に泊めてもらったことがある。その農家には子供がいて、夜は当然電気はなくて、私は、そこで、その子供に、花火をしてあげた。何故かフィルムのおまけに花火がついていたのだ。花火は二本あった。その一本を驚かす為にライターで子供の前で火をつけた。子供の目がすごい喜びになった。十数秒の花火は真っ暗な田舎の家の土間で綺麗に一瞬を終えた。子供の目の輝きをもう一回みたくて二本目に花火に火をつけようとしたら、子供は花火を隠してしまった。大人が訳してくれた。子供が何をいったのか。明日、ほかの子供達と一緒にみるためにとっておきます。と。そういう感動と素朴さが忘れられない。
2003.06.04
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母の手記抜粋運動会をみて 10月3日 全体として小学生の行事の集大成としてちんまり消化したとう感じがした。運動会が待ち遠しいとか楽しみだという言葉を聞いたことがなく、それどころか、リレーは面倒だなあという息子に、「ナンだ、元気のない」と内心舌打ちしていました。そして迎えた運動会は多数の観客の中に子供達は臆することもなく立派に日頃の訓練の成果を見せてくれました。リレーも力いっぱい走ってました。応援も熱が入ってました。組体操も厳しくしてました。しかし、元気さや覇気に欠けたと思ったのは私だけだろうか。最後の演技、「棒たおし」は最たるもので、駆け足どころか、裸足でノコノコといった様子は、まるで力の抜けた操り人形のようで、おのずと、応援側も「ホレ、モットセメロ、モットシッカリ」と叱咤激励のものではなかったか。ともあれ六年間小学校の運動会は終わった。子供自身が力いっぱいという思い出になってくれれば幸いである。先生の返事 わざわざ時間を作っていただきありがとうございました。元気という点では日頃から問題になる所で、とくにたくましさがだんだんなくなってきています。裸足で走り回ったことのない子供達ですから運動会でやってみてもしっかり歩けない情けない状態です。子供達が思い切ったことができるだけの広さが欲しいと思ってます。現在私のコメント 私には子供がいない。コーヒー大国フィンランドどういう理由で人はモノを買うのかということを道々考えていたのであるが、ふと思い出した。一番安かった飲み物は。イランとの国境にあるパキスタンの村ザへダン。徹夜で世界3大しんどいバスの旅というクエッタからイラン国境までの沙漠横断のバスの旅を終え、ふらふらになりながら頼んだチャイがヤカン一杯15杯で15円。ちなみにコーヒー一人当たり一番飲む国は意外やフィンランドである。ただし欧州南部の国々はエスプレッソやカプチーノをよく飲むので粉の量が少ないだけとも考えられる。私の記憶によるとフィンランドでは順調にビールとワインとウオッカとアクアビットしか体内に注入されていない。オーロラも見ず酔った酔った~。
2003.06.03
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オランダのアムステルダムスキポール国際空港からセントラルステーションまで4駅20分という近さだ。前に行った時、自動販売機で切符を買ったのだが、オランダ語でよく分からず、前回より安いなあと思っていたのだが、その4駅の間に運悪く検札に来た。(改札はない)そして車掌は行った。君は居住者?私は行った、いいえ、旅行者。ふーん、じゃあ、間違いね、はい3倍の料金ね。乗り越しという概念もミスという概念もないのか、不正乗車ということで無条件で3倍取られた。大人の国やなあ。しかしバス(トラム)は私はどう切符を買っていいか分からず、取り敢えず乗った。そして検問がまたたまたま来た。(実はそれまでもそうやって切符を買っていいんか知らずに、検問も来ずにずっと無賃乗車していた悪者です)切符持ってないの?そりゃ困るね、最初に買ってもらわないと。もういいや、次回からね。なかなか話の分かる車掌もいるのであった
2003.06.02
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私は、本日、大きな勘違いをしていることに気が付きました。ウイスキーのVSOPはVery Special Old Paleの略だったんですね。べりイスペシャルワンパターンかと思ってました。先日、知人のマンションに行くと小さな犬がいてなかなか無邪気で吠えなくていい感じでした。ゴールデンレトリバー 取り戻すという意味だそうで。鳥猟犬だったから。ハスキー イヌイットのことをカナダの方言でハスキーと読んでいたから。ブルドッグ ブルは雄牛ですね。分かりやすい。シェパード 羊飼い。ドイツ原産の牧羊犬。なんかドイツって感じです。ポインター 立ち止まって鼻を獲物の方向に向けて前足を上げるから。マルチーズ 地中海のマルタ島から。ポメラニアン ドイツとポーランドにまたがる地名から。なになにテリア ヨークーシャテリアはヨークーシャの土地。スヌーピー こそこそのぞきまわる、詮索好きという意味。スプーキー
2003.06.01
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