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1.横断歩道の聴覚困難者向けの待ち時間の機械音はさかされるようで何とかして欲しい。2.街がやたらごみが落ちておらずきれい。大罰金制度を導入してかららしいが、なんだかキレイすぎて少しつまらない。3.車は100パーセント以上の関税がかかるとのこと。ベンツやBMWは140パーセントらしい。日本で500万円の車でも香港では1200万円、おまけにガソリンも高く1リットル180円ぐらい。土地がないので駐車場も高いらしい。車検は5年ぐらいはないがあとは毎年らしい。兵庫県民並の6,700万人の人口の10%ぐらいの60万台の車があるらしい。ちなみに車にナンバープレートが二つついている車は中国本土もその車でいけるらしい。4.不動産の仲介手数料は日本では3パーセントであるが香港では1パーセント。背広を着た若い男数人が道行く人に何か見せている。間取り図だ。キャッチで売るみたい。すげえ。ちなみに民間での賃貸はほとんどないらしい。賃貸は公団、分譲は民間のようである。5.地下街が1箇所しかない。何でや。6.名物のそそりでた看板、しかしチカチカしてないのは飛行機が間違えないように。7.韓国人おばはんツアーのあつかましさには参った。国の品位を落としてはいかん!大阪おばはん以上。8.ディスコに行ったが、なんとなくださかった。多分私がださいからであろう。9.香港島の都会から離れたエリアにも行ったが大変落ち着ける感じで、いいホテルがあれば連泊したいものだ。
2003.10.31
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子供の時からそうであるが、もう何時間も前からもよおしていたり、または逆に全くもよおす気配もないときでさえ、家が見えたり近づくと、冷や汗をかくほどに我慢できなくなり、小走りに走り、とにかく家について便器に座った瞬間。・・・つくづくあと10秒帰るのが遅ければ終わってたと思うことしばし。生理現象でさえ精神的なウエイトは高いものだなとつくづく思う。チベットからネパールに抜けた時、土砂崩れで、バス停まで2日間歩かねばならなかった。つまり、道沿いの民家に1泊お世話になるということであった。電気は通ってないので夜になると、外は1歩先まで見えない。闇がすぐそこに。旅行者必携のヘッドランプをつけ、川沿いに行く。そしてヘッドランプを消す。聞こえるのは虫と川の流れのみ。見えるのは怖いくらいの星の明かり。それはそれは、最高の野グソでした。今日の朝、ヤフーオークションで買った映画のチケットで復刻版「ローマの休日」を鑑賞した。ストーリーは何てことないのだが、映画の力、50年代の力、女優(オードリヘプバーン)の力、凄いね。感動した!と思わなかったのに、自然と不思議に涙がたまるのであった。運命、USA上流階級概ねUSA上流階級はこういうのみたいね太っていない。自分の冗談を自分で笑わない。クレジットカードを集めない。仕事着とよそ行きが変わらない。文字入りの服を着ない。パリっとし過ぎない服。襟ぐりの隙間がない。時計に秒針がない。居間にテレビがない。ウオッカの水割り。ミステリーを読む。などなどところで、私達もややもすると、将来が決まってしまうと思わないですか?1.出身地、出身校(環境)2.頭の良さ3.親の財力、地位。この3つを聞くだけで、占いよりもよっぽど当ると思いませんか?それが嫌だから、努力したり、勝負にでたり、或いは占いに走ったり。からまったり、あがいたりもがいたりあえいだり・・・もういいか・・・
2003.10.30
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かつてのつぶやき1穴あきコインってめずらしいんで喜んでくれますね。デンマークにもありましたなー。彼らも世界各地でいばっているのかなー。「どや~珍しいコインやろ~!」壮大なる夢です。日々是毎日です。それにしても日本紙幣の印刷技術は今日の世界最高の芸術品ではないでしょうか。透かしといい、そうそう、1000円札の鶴面のNIPPON GINKOの始めのNの右側にローマ字で日本銀行って入ってますよね。凄いですね。かつてのつぶやき2ロシアの密告制やスパイまがいの仕事についていた人々は、まだましらしいです。崩壊と共に国を失った(合併)東ドイツのシュタージは、もはやウヤムヤも転職もあったもんじゃなく、その数も多すぎてドエライ問題になってしまったようですね。おまけに国がなくなっったら、弁護士等の知能職も何の役にも立たない知識に過ぎなくなり、失職ですね。私達は、まだ日本を少しは信じ、資本主義を少しは信じ、愛のごとく永遠を求めざる得ないのでしょうか。懐疑的でも信じられるものがあるって幸せさ。勘違いでもね。かつてのつぶやき3会田雄次さん「アーロン収容所」によると、捕虜として収容所に入っていた彼ら(日本人・アジア人)の前で、西洋人の女性達は、まるで犬の前で服を脱ぐように平気だったと書いていました。今を以って、まだそういう感覚を何となく感じることはありますね。まあ、でも文化の違いもあるのでしょうけど、ビーチなんかで、すっぽんぽん、っていうのは、秘すれば花、の日本人にはちょっと苦手かな。かつてのつぶやき4地球が滅びると多くの人が思ってしまったら滅びちゃうかも。オプチミストは地球を救う。そういえば、ヒロポンって私、昔、特攻隊が出陣の前に使っていたから、「ヒロヒト、ニッポン」の略かと思ってたのですが、ラテン語で「楽しい労働」なんですね。これで地球も大丈夫だ。ウン!かつてのつぶやき5昔ねー、海外で宿屋や観光地等に置いてあったスタンプを勝手にパスポートに押して怒られたわー。(インドネシア)そのもっちょっと昔は、運転免許証の裏に「ばははーい」と落書きしていて、警察の方に「公文書に勝手に書くとは何事か」と怒られたわー。国家権力というものは恐ろしいものである。国家とはあ催眠であり脅迫でありぶったくりであり兵役義務であると、アナーキストのプルードン先生はおっしゃってました。かつてのつぶやき6日本は酒文化です。酔っ払って看板を蹴飛ばすのです。ちなみに韓国でも蹴っ飛ばして看板壊した人見ました。ネクタイしてました。かつてのつぶやき7時効なので告白致します。高校生のとき、スルメに切手貼って友達に送りました。私は友達に怒られ、友達はその母に怒られ、その母は郵便配達屋さんに怒られました。かつていのつぶやき8(お金持ちになったら)If we become very rich men someday, we can go a good restarunt.how to order.BlueRareMedium to rareMediumMedium to wellwell-grilled or well-doneRuinedかつてのつぶやき9ゾロアスターの神はアーリーマズダですね。これって、あの車のMAZDAの元になったらしいすね。何故かこのことを思い出すと、イランのペルセポリスを一緒に思い出す。ペルセポリスでそんな話(企業名の由来言い合いごっこ)したから。アケメネス朝ペルシャの大王ダリウスI世が完成させた宮殿を、侵略したアレクサンダー大王が酔って燃やしてしまえと命令して、素に戻ってこんな素晴らしい宮殿を燃やしてしまったなんてと後悔したとか・・・ほんまかいな。かつてのつぶやき10私は、昔、ボーイスカウトに入ってましたが、母方のことをデンマザーと呼んでました。いったいどういう意味なんだろう。ご存知の方お知らせ下さい。つぶやき11バンコクのチェラロンコン大学(私立NO1のところですね。学食が安い)の病院内にタイ国内初の「性転換総合クリニック」がオープンしたとのこと。タイで性転換手術を受ける外国人が多いのは、費用が 先進国で約1万4千ドルだが、タイでは10万バーツ(約 33万円)でできるからという。ちなみに私はおかまではない。それから学食が安いのは国立ナンバーワンのタマサートであった、訂正。(安いからって私学食に通っていてんな~、かわいいね)つぶやき12カルマでございますか?昔から思ってたのですが、ノルマ(多分、ロシアの語源だったような)との 相関関係はないのでしょうか。現代人にとっては、似た言葉に見えちゃいます。*ノスタルジー、そいつもロシア語源だったような、あータルコフスキー つぶやき13 それにしても、アメリカちゅう国はドブネズミを世界最大のキャラクターにのしあげてしまうという驚異の国ですねえ。20世紀最大の産物のひとつでしょうか。しかし、あれがユートピアなら、全く退屈な天国です。つぶやき14トイレットペーパーに切れ目の入った奴があるねん。ここまで管理されていると考えたら悲しいわ。しかし心を入れ替えて切れ目が便利と考えましょう。そして切れ目を断然無視して使いましょう。つぶやき15大阪老舗として天王寺ってのがあります。最近、よくとおるのですが、地下鉄には、多くの浮浪者が寝ています。アイリン地区(ドヤガイ釜が崎)の近くだからなんですけど、今日、ふと何か本読んでる人みたら、英和辞典読んでました。風流だった。*浮浪者が英和辞典読んでもいいじゃないか。ガラスコップの底に顔があってもいいじゃないか(古い)つぶやき19渋谷に行ったときのこと。私は、ふとそのとき「スンダ」という店の名前を思い出した。NHKの近くということも。*なかなか洒落た店でした。インドネシアはパダン料理。(スマトラのパダン料理は辛い。テーブルにいっぱい皿を並べられて初めてのときにこんなん頼んでないわいといいながらちょっとづつ食べると、口をつけたのだけ勘定された。そう、食べたのだけ金払えばいいのだった)つぶやき20ちょっと飛ばしたな・・・阪神のユニホームに着替えた大阪道頓堀のグリコの看板、あれは実はフィリピン人なんですよね。オリンピック選手なのさ、大正時代のフィリピンのマラソン選手のゴールのときの姿をとったものである。
2003.10.29
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学生時代から、香港とバンコクは交通の拠点になっていて、そこからアジア各地に散っていくという何となくの構図が出来上がっていたように思う。東京の友達にはたまたまであるが香港派が多かったように思う。地名や香港でのことを時々聞き、幾許かの知識がまだ頭の片隅に残ってはいた。そうして何やかんや香港にやってきた。1.香港島というのは香港のほんの一部に過ぎない、香港はバックにある多分農村地帯である新界、摩天楼金融センターの九龍と対岸の香港島、そして島々の3部構成になっている。2.安宿重慶マンション(複数の宿がこのマンションに何十も入っている)はなかなか便利なところにある香港一といわれるペニンシュラホテルの斜め後ろに存在する。インド人やアフリカ人も多くたむろしているが、他の地域と同様に危なくもなく安全でもないという感じ。3.「ほんとうに偽物の時計見ない?」と擦り寄ってくる贋物ロレックス売り人々。4.物価は日本の8掛けというところか。5.ビクトリアピーク(300メートル程度)から見る夜景よりか渡し舟スターフェリー(2.2ドル、乗船時間5分)から見る夜景のほうがクッキリ。6.・・・続く・・・
2003.10.28
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先日、開いた時間に、インファナル・アフェア(トニーレオン・アンディらう主演)の香港映画を見たら、以外と無茶良かった。昨日は香港からもどってきたばかりで、夜中すぐ眠るつもりがついついトニーレオン金城武主演の「恋する惑星」を見てしまった。映像美。映画が終わっても、主題歌のパパスアンドママスの夢のカルフォルニアが頭から離れず、眠れなかった。大学の時、大学に小田実が講演会に来て、いちびって前に座っていたら「君、ペルーは日本に来る前どこにいたんだ?」と聞いてきて「知りません」と答えると、「君は何年生だ?大学生活はいったい何をしているのかね」と怒られた。「浦賀に来る前は琉球国、その前は香港だ。」とそこから長い話に入っていった。そういえばその講演会の前座がピースボート主催、辻本清美だったなあ。そうそうあの人が一冊目の本を出して売り出していた。1989年「きよみやるでぇ~」サイン入り。残念ながら買わなかった・・・
2003.10.27
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ヘルシンキの夜、ホテルでテレヴィを見ながら、ウォッカをチビチビやっていた。映画ばかりやっているチャンネルがあり、夜中に「パピヨン」が始まった。実は「パピヨン」を見るのは3回目だ。内容はスティーブマックイ-ン扮する主人公がガイアナのほうの孤島の監獄に入れられ、何度も脱獄を繰り返し、失敗し、最後に老人になり、それでもあきらめずについに成功するというなかなかシブイ映画だ。実は、中学生のとき、私は一年間に映画を100本見るという楽勝のノルマを課し、ついでに受験勉強をおまけにするといった3年生。ただ、ビデオもなかったので、テレヴィの映画を頑張って見るって世界。その年の12月、冬休みで受験追込み等という私は、その日4本目の映画を見た。3本目はメルビルの「白鯨」そして4本目が「パピヨン」この映画でもう一人の主人公ダスティンホフマン、彼の演技に感激した。そして、何故か台詞まで憶えていたりなんかして。「どれだけ、誘惑に耐え切れるかによってその人の価値は決まる」ヤンソンのムーミン、フィンランドのお土産に今日ムーミン漫画の入ったキシリトールガム。フィンランドで「キシリトール知ってる?」と数人に聞いたが誰も知らなかった。あのコマーシャルではフィンランドでは当り前みたいに宣伝しておりましたが。北極圏に行ったのですが、そこではちょうどクリスマス、皆に「フィニッシュクリスマス」で乾杯。フィンランドを離れるまで、何で終わりのクリスマスやねんと思っていた。ちゃう、フィンランドのクリスマス!そういえばタイ人のことを英語でタイランダーというんだよね何かおかしい。フィンランドは自らをスオミといい(パスポートもそう書いている)それは「湖の人」という意味でなんかいい感じ。実際、日本人とメンタリティが似ていて精霊が割と受け入れられる土地がらで、会話のふしぶしにでてきたりするのであった。サンタクロースの原形は、4世紀頃に生きてたのニコラス司教という人に始まるらしい。彼はとてもお金持ちで、寛大で子供たちが大好きで、貧しい子供たちには時々窓からプレゼントを差し入れ、喜ぶ姿をそっと見ていたらしい。何とも今考えればMジャクソンみたいなものかも知れない。現在、サンタは現在フィンランドのロバニエミの近くに住んでいる。サンタビレジという。ちょうど村を北極圏がはしっていた。はっきりいって私はあまり楽しくなかった。しかし北極圏を踏んでいる身体が何となく喜んでいた。http://www.finnair.co.jp/santa/santa_hist.htmlhttp://www.santagreeting.fi/
2003.10.25
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あと3時間で起きて、空港に行く。ヨーロッパやアメリカはたいてい徹夜する。したところであまり意味ないが機内でよく眠れる。思い出深い出発の朝。韓国版。あれは会社員になってから。出発の前日、仕事の途中で韓国領事館に行きビザを受けた。そのまま、夜は飲みに行き、結局はカプセルホテルにイン!そうして二日酔いのまま、空港へ。荷物はないし、背広のまま。片手には日経新聞。荷物はそれだけ。どこ出勤すんねんて感じでしたね。手ぶらで海外、気楽な2泊3日旅行、当然翌日ソウルで下着とついでに背広を買ったのさ。
2003.10.23
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初めてインドに行ったとき、エアインディアの料金がなんと16万円。香港、バンコク経由で降りることもできない。鼻血でそう。その後1ヶ月の滞在費が3万円(しかもってきてない)というつらい18歳であった。ジャンシーという村でデリー行きの列車を待つまで数時間の時間がありブラブラ歩くがすぐ闇。闇って本当に暗いんだ、すごいなと感動した18歳。もう日本でなかなか闇をみることができない。
2003.10.22
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ベルリンを出て暫くして、車内販売が始まった。小銭は両替してくれないので、ビールに替えてしまおうと思い、値段を確認した。出てきたのはチェコのバドワイザー。 ホップが無尽蔵に利いており、ここ最近こんなに美味いビールを飲んだことがない、と思わず膝をパチンとたたいてしまった。 外はもう暗くなっていて景色が分からない。列車に乗っている全員が降りた。ドレスデン。私も、乗り換えなのではないかと思って降りてしまう。どうやらベルリンからプラハに行く人が誰もいなかっただけのようであった。エルベ河を渡り、車窓から塔がいくつも見える。 いつになったらチェコに入るのかと思っていたら、道路と平行に走り始め、道路標識を見ると、ドイツ語にはない文字があった。 そうするうちにどかどかと制服を着た三名の男女がパスポートのチェックを始めた。乗客は、一枚の証明書のようなものを見せていた。日本人がビザが不要になってまだ半年たっていないので、少し緊張した。旧共産圏らしい疑い深い態度でのぞまれるのではと思っていたが、その女性は長々とパスポートを眺め、鋭い目つきで「シュプレッヘン ドイチェ?」と尋ねてきたので「ナイン」と答えた。彼女は仕方ないわねという顔をして去って行った。ドイツ語が話せなければ、もういいってことなのか、と私はスタンプも押してくれなかったことに多少の不安を感じた。未成年らしき一群が乗車して来た。舌にピアスをした青年。クリーム色の髪の毛の女の子、白に限りなく近い髪の女の子など、南スラブ系を基本にいろいろ交じっている。ビールをおいしそうに飲み交わし、ワインを回し飲みし、煙草を吸っている。正月祝いが初々しい。若いっていいことだぜ、なんて台詞を思いつくようでは私も寂しい。 プラハ駅。午後九時半。降りる乗客もまばらで、駅も少し寂しい。両替をして、先日コペンハーゲンのネットで予約したホテルの場所を、地図を見て探す。そして、暫く歩いてみるが、石畳ではキャリアを転がしにくい。駅前からして中世的世界が始まった。どうやら遠いことが判明、タクシーに乗る。紙を渡すと、頷き、バルタバ河を越え、川沿いに浮かぶ船がホテルになっているのを発見する。中心から随分離れてしまったようだ。タクシーを降り、フロントへ行くと、目の吊り上ったババアが面倒そうに「部屋はいっぱいだ」といい宿帳を広げて見せた。どこか近くにホテルはないかと尋ねると、ドイツ語で道を説明してくれた。何故か分かった。ホテルを出て歩こうとすると乗ってきたタクシーのおじさんが声をかけてきてくれた。ちゃんと私が無事チェックインしたかどうか、暫く待機してくれていたのだ。これが大人の仕事で当たり前の仕事なのかも知れないが、私は大いに感謝した。今からではどこもホテルはいっぱいだというので、ホテル紹介のある駅に戻ることにする。おじさんは来た道の半額でいいよ、といってくれた。来た道は、しかし、既に群集が出始めていて、警察に止められた。おじさんは食い下がった「この日本人は、わざわざ日本から来てくれたのにホテルがないんだ。ちょっとぐらい通してくれよ」と。警官は我々の車だけを通してくれた。 駅に戻ったが、インフォメーションは既に閉まり、パネルで選んで電話予約できるコーナーへ行って十数本電話してみるが、どこもいっぱいだった。どうやらホテルにありつけなかった旅行者が何十人もいるようだ。一様にホテルは無い、君も同じ問題か、という話しになり、大きな荷物を駅のコインロッカーに仕舞う。宿無し青年が彼の母が作ってくれたというクッキーを一切れ分けてくれ、よい正月をといって街に繰り出して行った。正月まで、あと一時間。時間を追うごとに爆竹の間隔が狭まっていく。ビールを買い、私も駅を出る。(つづく)
2003.10.21
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何を隠そう私はカラオケがあまり好きではないが、初めて歌った曲のひとつとして考えられるのが「異邦人」である。私の川口市のイメージといえば、キューポラであるが、そこにチベットで出会った5人が北海道から神戸(しかし私はマニラから直行で来た。その日その便に乗ろうとしていた日本人がタクシーノックアウト強盗に殺害されていてびっくりした)まあそのチベットメンバーの一人の見舞いに(骨折中であった)川口市に行き、店で歌を歌うことになり苦し紛れに歌った覚えがある。まあそれはそれとして、翌日は違う友達と知りもしないのに新宿アルタ前に待ち合わせをした。川口市新宿間は近い近いものやと思い、90分の遅刻・・・そういえば、インドのアグラのタージマハル前にて友達と○月○日正午待ち合わせというのにジャイプルからバスを飛ばしたのであるが、順調に4時間遅刻した。彼はいなかった。が、そこには安ホテルで働くサーバント約1名が近寄ってきて、手を見せた。その手には私の名前と彼の名前がボールペンで書かれてあった。4時間という間、東洋人が現れると、片っ端から手を振りかざしていた様子が想像され、私が本人であると分かると、やっと見つけたという顔をして友達がチェックインしたホテルへ彼は連れて行ってくれたのであった。そういえば、その2年後、はたまた今度はインドのデリーで集合となった。チベット経由で中国から陸路で来た私は、ほんの1週間ジャスト遅れた。待ち合わせのホテルに待ち人はおらずであったが、スローなペースで違う宿で待ち人はぼさっとしていた。「もう一週間も遅刻しているからそろそろネパールでも行こうかと思ってましたよ~」といって。責められることもなく、私も詫びることもなく。あ~いい加減。飛行機が大幅に遅れ、夜遅くの帰還となりました。香港っていったい何があるのだろうかその辺りがよく分からず、とりあえず金融の街、買い物とご飯がメインの街なんだろうか。(めしうまかった~)高層建築物一群は見るだけの価値はある。もう限界、寝ます、詳しくは明日以降。(冷凍庫を開けたらビスケットが入っていた何故だ!鍵は私以外持ってない筈。変だ)
2003.10.20
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ベトナムといえば、戦争が終結して22年。考えれば、私も戦争が終結して20年少々たった頃に生まれている。考えれば、学生の頃は、タイの本より、ベトナム戦争の本の方が多く読んだと思う。しかし、当時は、やっとツアー観光客に少し門戸が開かれた程度であった。勿論、カンボジアに関しては、外国のガイドブックでさえ3行、とても入国は難しいとしか書かれていなかったのであった。 サイゴンの空港を降りると、東南アジアの香りが押し寄せてくる。時間もないので、空港でホテルを予約することにする。私が、物色していたのは、ベトナム戦争時に、報道陣がたむろしていたというマジェステックホテルであるが、これは今はもう5星の格式あるコロニアルホテルとなり、値段も100ドル以上となり、ネットで事前に予約する時間もなく、出国してきたので、地図で中心部を指差し、お手頃ホテルを勧めてもらった。そんなとき、多分、特定のホテルを勧めると彼女にコミッションが入るのだろうと思いつつも、まあ、いいよ、と思い、そこに決めた。何とも、3日前にオープンしたホテルであった。ホテルまでタクシー配車しましょうか、10ドルですといわれて、断ると、即、彼女は、外に出ると、市内にタクシーで5ドルで行けます、とニコニコしながら言った。彼女の中には何の矛盾もないようであった。 タクシーにぼられないように、乗ると、すでにしっかりメーター制であり、10000ドン80円程度という馴れない数字とメーターを確認し、街まで、40円なのか400円なのか4000円なのかよく分からないが、まあ、5ドル程度なら400円というところかと思いながらも、20年前のバンコクのような気分で流れ行く風景を見ていた。 工事中で、躍進しているところが、似ているのだが、勿論、違いもある。途上国の段階は、途中をすっとばす。車道は舗装されているが、歩道は土のままの道が続き、喧騒はお得意のものであり、人々がうごめき、バイクの洪水が走るが、そこには、所々に、インターネットカフェや衛星放送があり、日本企業でなく、サムスンのような韓国系企業のネオンも目立ちつつも、クモンの看板があったりして、怒涛である。
2003.10.19
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タイの北部チェンマイにはドーイスティ-プという寺院がある。タイ語でドーイとは山のことらしい。私の本名はドイである。それからタイを旅行しているときは私の名前は「山」なんて馬鹿なことをいっていた。偶然そのときずっとしていた腕輪にもドーイとタイ語で書かれていたのを教えてもらった。そのチェンマイに(正確には行く道中に)初めていったときに私は金をとられて破産状態となったのであった。(数えたら3回チェンマイに行ってた)
2003.10.18
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中国人が宇宙から帰ってきた、すごいエリートなんだろうかと思う。外からいとおしい地球を見た宇宙飛行士のその後はさまざまで伝道師や牧師になったり精神に異常をきたしたりする方々も結構いるという。以前、数年後の宇宙旅行ツアー予約がブームになったが、私も1000万円で行けるなら是非行きたい。ある宇宙飛行士の言葉をよく覚えている。「地球には国境線が引かれてなかったよ」(終)今日の月は結構、美しかった。そしてでかかった。葬儀やは満月の夜に忙しい。亡くなられる方が比較的多いから。警察は満月と新月の日に、事故が多くて忙しい。分からないが、月の満ち引きと人間の7割が水であることが影響するのでは、という報告もある。引かれると気分が高揚するのかどうかは知らないけど。満月の夜の事件例;本能寺の変、(ヘンなの)、イギリスの切り裂きジャック事件(犯人はあるアメリカ人だったみたいね)佐川パリ人食事件(彼は私と同じ大学出身)、セナの事故など。なんかよく分からないけど、そういったことが(月やウイルスや)人類の歴史に影響を及ぼしていたのかもね。時代は急に変わるですね。100年前、ライト兄弟は多いに馬鹿にされましたね。それで、今や月や火星に行ってタリなんかして。あと、20年たったら火星に移住する人が、でてきても、実はおかしくないのですよね。
2003.10.17
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オオサンショウは天然記念物です。昔、部長刑事という30分モノ番組で、オオサンショウを食って逮捕されるというなかなかしょぼい番組の日があって、何か血なまぐさい刑事モノ番組ではほんわかした記憶があります。血なまぐさいといえば、最近の映画でザトウイチがありこれがまた渋い映画でした。かつて私の友がゆうてました。(彼はアフリカのレソトという国で死んじゃったけど)現在の3人の天才ゆうたらキタノタケシとクワタケイスケとサカモトリュウイチやでええと。最近読んだ本で目からうろこ説といえば、朝食はよくないちゅうの。正確には飯食ってすぐ動くのがよくない、胃がんの原因になるんっちゃうかという説。朝はあわただしい。飯を食うと胃腸に血液とかいって消化活動を始めたいのに動けば筋肉に血液が集中していって、ちゃんと消化されないと。なるほど、これは朝食を採らない私に都合ええでと思いました。目からうろこといえば、Lワトソンの本に書いていたのですが、オックスフォード大学の生徒がラグビー中ぶつかって脳震盪を起こして、レントゲンとったらびっくり!なんと脳がなかった。正確には頭骸骨になんかペラペラの肉片がへばりついていて、それが脳機能を果たしていたというもの。
2003.10.16
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今夜、二百万人はいるというわれるこの迷惑メール受信者T山君と会った。T山君は「あれコミットメントはずしたのですか?それ夏物の新調背広ではないのではないですか?昨夜のメールでは今年買った背広を今日必ず着ますという誓いであったのだが、朝の忙しさに背広にタグがついていてはさみを取り出す時間もなく、仕方なく昨日と同じブレザーを着たのであった。本気度の簡単な調査方法はいたって簡単。朝起きて、「よっしゃ今日もやるで~」本気じゃないと朝起きて、「今日も頑張らんとあかんなんなあ・・・」「起きるの嫌やなあ」駄目だ、夕方以降にならないと本気になれん・・・それにしても朝食はゆっくり採りたいものだ。普段朝食は採っていなかったのに、ネパールのポカラ等では、迫り来る8000メートル級の山々を神々しく見ながらチャイを数杯すするテラスははっきりいって最高やね。
2003.10.15
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訳分からん、と本日思ったが、何に関して訳分からなくなったか忘れてしまったので、そのとき思い出したことを書きます。パキスタンから陸路でイランに入ったザヘダン村。そこからペルセポリスのあるシラーズ行きバスに乗る。バスは国境に止まっており、国境を越えてくる人々でバスがやがて満員になったとき出発する。散々バスの中で出発を待ち、やっとのことでバスは出発し、そして予想外に綺麗に立派に舗装された道を行く、が、5分後バスは軍隊に止められる。イランイラク戦争中であったので、何か検査しまくるのかと思ったら、まくしたてるだけまくしたててバスはまた村に戻ってきた。いったい何が悪いのだろうと思っていると、すぐにバスは出発。5分後、例の検問所に先程のの兵士たち。またもや、村に戻される。5分後、また出発。すると何故か検問所はフリーパス。先程駄目で、今回フリーパスなのか訳が分からんかった。しかしやがてまたバスは止まり、今度は乗客全員が外に大急ぎで出て行ってしまった。運転手までもが。こりゃあなにごとじゃあ、と私は思ったが、皆さんはメッカに向かって礼拝をしていた。
2003.10.14
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旅行には本を厳選して持って行きます。かつて私は「ブッダのことば」(中岡元)を携えてアジアに向かった。小乗仏教の大国タイでは何故か誘惑が多すぎて読めない。しかし現在ほとんど仏教徒のいない仏教の発祥の地インドではすらすら読めるのですね。それもすう~っと入り込んでいく。そういえば、ヘッセの「シャダールタ」も読めた。日本では読めなかったのに。昨日古本100円でヘッセ詩集を買った。ちょっと恥ずかしい・・・・ライヤルワトソン先生は面白いです先日の脳なしの話はどことの問い合わせが多かったので、ここです。http://www3.justnet.ne.jp/~ryouhan/word/word06/word06.htm
2003.10.13
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1997年に書いた文章が出てきた。大人の条件、を書いてある。大人の条件軟球で子供とキャッチボールしても素手で受け止める。男の子向き女の子向きのおまけにあるお菓子を男女間違えて買ってもびくともしない。いざとなったら王冠を歯で開ける。酔っ払うと、少し、弱気になることがある。うーむ真理だ・・・
2003.10.12
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中学校1年の春休み、私は、外出もままならないという施設(親が不在の)の同級生が、抜け出して映画を一緒に見に行った。外出はできないんだ、ばれるとやばいしばかれる、と何度も連発していた。彼にはこづかいはないから私が映画代1000円幾許か貸した。彼は「働いたら返すから」といった。私にも痛い出費ではあったが、そこは、自分をかばって死んでしまった彼の母の話を聞いた後では何とも言えなかった。やっぱり、そして返してもらっていない。かつて、マニラの下町パサイ市に数週間いたことがある。そこでよく話をしていたフィリピン人A君は私にいった。「なあ、俺ニュービジネスを始めたいんだよ。300ペソ貸してくれないか(当時3000円くらいか)」「何をするのも勝手だがいつ返してくれるんだい?」(この国では貸す=あげると思った方がよいだろうと思いながら)「サムディ」(でた!とは思いながら)「いいよあげるから」そして数日後彼に尋ねたら「これさ!」といってマリファナを見せてくれた。「なんや~。50~100グラムってとこやね。なんや売人かいな」とは言わず、「で、それで商売していつ返してくれるねん」といえば彼はにっこり笑い、「SOMEDAY」といった。そしてさらに数日後「どうだい、全部さばけたか」と尋ねると、彼は満面笑顔のまま答えた。「いや実はあれまたまとめて売って、女の子数人はべらせてビール飲みまくっておごりまくって一晩でなくなってしまったソーリー」私は「でた!」と思いながらも口にはださず、「で、それで散財した金を返してくれるねん」といえば彼はにっこり笑い、「さむでい」といった。今、テレビつけたら「トムとジェリー」やってた。インドのムンバイにインド最高級ホテルのひとつ「タージマハルホテル」にて私がつけたテレビでは「トムとジェリー」エアコンが効いて最高。30日分にバスタブにつかり快感。しかしドアを開けると20階というのに、下町の喧騒がモワーっと上がってきて、等身大のモロインドとまた直面してしまった。
2003.10.11
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地下鉄乗っていたら、あらく仲むずまじくいちゃついているカップルがいたのですが、女性が、人権侵害になると困るので言いにくいのですが、推定100キロオーバーの身体の不自由な人。(男は普通)後ろからそれをみて、「世間体なんかくそ食らえ、選択の自由に拍手」と一種の感激を覚えたのであった。頭の中ではマドンナの「クレイジーフォーユー」が買ってに流れた。何を隠そう、私はマドンナで一番好きな曲でもあった。この曲といえばこれが流行っていた頃、マニラにいて、よくお世話になったファミリーを誘って飲みに連れて行ってあげたのだが、ある日、一緒に行った面子が若い女の子、そのお母さんと弟と、私とで飲みに行った(勿論、一番金持ちの私の支払いだが)連れて行ってもらったところのステージではストリップ。平気で女の子と母は見ていた。私はいったいどこに目をやればいいかとりあえず照れて、ひたすらビールを飲んだ。アジアではたいがい日本も含めビールは高いものだが、中国とフィリピンは異常に安い。フィリピンでは、コカコーラと同じ値段なのでついついアルコールのある方をオーダー。当時はミネラルウォ-ターを買う概念もなく、危ない水道水もまずいので、ビールで歯を磨いたりしてて馬鹿だったな。そんなわけでフィリピンでは1本30円やそこらのビールを飲みすぎオンリーの日々であったが、コーヒーも一回だけ飲んだ。ミンナダオ島のザンボアンガという、海賊バジャウ族、モロ解放戦線のはじまりの所からマニラ行飛行機を空港で待っているときであった。地方の芝生の上にあるような空港で、一歩建物を出れば、モーと牛が出てくる世界。すぐ横の屋台に座り、何故かその朝、ビールを頼まずコーヒーを頼んだ。そいつがうまかった。そりゃ水分がビールからだけの日々を送れば、確かにうまいわ。確かにインスタントコーヒーだったけど。
2003.10.10
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今日は世界のホテルシリーズ1ですが1で終わりかも知れません。イランの古都イスファーンでは元キャラバン隊のオアシスであった「シャーアッバースホテル」に滞在。当時(今もかも)パキスタンから陸路で入り、闇両替が正規レートの10倍!つうことで当時はイランイラク戦争にもかかわらずエグザイルの間では「イランに行って闇両替してヒルトンホテルに泊まろう」が合言葉であった。(勿論テヘランのヒルトンホテルという名称はシャー(皇帝)時代のものであり、ホメイニ師のイラン革命によりアメリカ資本は追い出されるどころか没収!ホテル名は当然変えられたのであった)前置きが長くなって、ホテルの説明が面倒になってきたので、何となく写真で雰囲気の分かるHP見つけたのでみてくだされ。http://happygina.hp.infoseek.co.jp/Iran12.html こちらはホテルのHPhttp://www.abbasihotel.com/ そんな訳で、この豪華ホテルをまんまと5USドルで泊まったわけであるが、そのほてるで生まれて初めてルームサービスたるものを頼んだ。(何を隠そうオーダーしている電話姿をオートで写真に収めたりなんかして)そこで頼んだ茶が2ドル、何やねんそれはちゅうかんじ。おまけに、バスタブ(お湯)につかるのは数ヶ月ぶり、そりゃ真っ黒になる。テレビまでついていたんだから、今までどんなところに泊まってたんやわしゃ。そういえば、自転車でタイを縦断中のバンコクから数十キロ南下した街で泊まったホテルなんか、わしが日本人やと分かると、さっさと部屋にあったテレビを引っこ抜いて違う部屋に持っていったその従業員は何やってん!
2003.10.09
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今日オープンのなんばパークスを通った。会社が横ナモノで。人通りいっぱいだった。いつまで流行ってるか心配になった。そういえば、朝出勤途中で、なんばパークス前に停まったタクシーから浮浪者がでてきた。おお~、といってよくみたらはかせたろうだった。http://www.nambaparks.com/ 昨日4時まで頑張ったパスポート探しを本日も再開。しかしこここで気がついた。犯人は犯行現場に戻るっちゅうやつだ。全然違うが、前回海外に持っていったカバンは何だったかを思い出す作業に没頭。カバンの横ポケットから出てきた。苦節6時間の格闘はここで終焉を迎えた。終わった感想は整理の悪さに虚無感が漂っただけであった。そういえば空港などにいる麻薬犬ってどんな性格の犬がいいかというと、飼い主ももてあます不良犬。犬が飼い主に慣れないってことあるねんなあ。と驚きであるが、何か渋いな不服従の犬。そして独占欲が強くハングリーで好奇心旺盛で物怖じしない協調性のない痩せ犬がよいらしい。約70匹の訓練でも探知犬になれるのは2,3匹だという狭き門。面白いことに、優しさがあって落第した犬でも盲導犬としてトラバーユすることもあるそうな。ちなみに鼻が悪くなるという意味で虚勢されます。
2003.10.08
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先日野暮用が合って一日中寂れた商店街に佇んでいた。先日といっても、土曜日日曜日のことである。そこには120円190円530円といった格安でどうしようもない程度の婦人服屋さんがある。そこには、あまり客をみることができない。しかしそこには恐怖のマーケッチングが存在していたのである。それらの派手で素材の悪そうな格安の服は、ただ派手なだけで、流行がない。流行がないということは、流行がないので廃れない。そしてたいていは昔から商売をしていて地代というものがほとんど存在しない。出て行く出費やローン返済もなさそうなので、店主もゆっくり構え、そして年をとっていく。人は、多くの人は結婚したり子供を産んだりして、生活レベルが下がってくる。衣食住何からけちっていくか予想のとおりである。もはや流行や自分にあったものを追い求めなくなったつまり精神的ババアになってしまった方々が買い求めるのである。店主は、そういった人をあり地獄のカゲロウよろしくただひたすらゆっくり奥の部屋で日本茶を飲んだり、タバコをくゆらしたりして、じっとしている。
2003.10.07
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USAではソーシャルセキュリティナンバーという国民総背番号制を敷いていて一生を管理されています。スパコンで。その集計をもとに政府機関から一部の情報が公開されています。その統計によると、平均的アメリカ人は26歳に仕事につき、65歳まで働くのが平均で、サラリーマンなら週40時間、自営業者なら倍の80時間働くようです。この65歳で引退した人々がその後どのような経済的な暮らしをしたかといいますと、1パーセントの人々は経済的に自立していて、誰からの援助もなしに何不自由なく暮らしていける。4パーセントの人々は悠々自適な生活ができる。しかし何不自由なくというほどではない。59パーセントの人々は国(年金)や家族親族からの援助なしには生活できない。36パーセントの人々はすでに他界。週に40時間40年間働いた結果がこれですか。確実に1パーセントの人々は家賃収入や利子収入、印税や商権等何らか入り続ける収入を持った人々がほとんどです。ヒマが懐かしい神戸の三ノ宮の繁華街にはコリアン八百屋というかデリのようなものがあってかろうじてアジアの臭いを残している。うっと少しむせ返っては、懐かしいと思い、何故日本から臭いが消えたのかと思う。シンガポールから高速艇で約30分でインドネシア領のバタム島というのがある。いまやここはリゾートビーチであるが、15年前といえばなかなか静かな島であった。インドネシアの桟橋を渡るとガラム(丁子)のにおいがした。ここから私は、スマトラ島の何も面白みのない石油の町ペカンバルに向かった。船はポンポン船で2泊かかった(先程ネットで調べたらいまや高速艇が走り、エアコンガンガンで数時間でつくみたいだ)この町が、なかなか何もすることのない町で、同行していたブラジル人も「することがない」といって市場を歩き回っていた。でもバスはまだ12時間来ない。あんなヒマが欲しいのお・・・ちなみにヒマで仕方なかった場所は、中国ゴルムド(チベット行きバスを50時間待ち)インドポカラン(バス街の砂漠の中継地点だが気温が55度を超え、動くことさえできない)
2003.10.06
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初めての椰子を見た日、18歳だった。次の日、船にイルカがなついてきた。珊瑚が見える。御機嫌なビーチでの御機嫌な過ごし方を知らなかった頃、ビールを飲み、シュノーケルをし、体を焼いた。夜は浜辺に2件あるディスコを何度も往復。踊る阿呆に見る阿呆。そんなことを思い出しながら車に乗っていた。車は、まるでメリーゴーランドのようだった。運転しているの筈なのに、自動的に動いているようで、景色が変わり過ぎ、情報が一遍に入ってくる。よくも、こんなけ、情報をさばいて普段は運転してるのだなあ。頭の中は、必要のない情報は遮断して、うまく混乱しないようになっているのだなあ。新今宮を歩いた。公園は、足の踏み場もない程であった。ラーメン路上で作っていて、美味そうだった。ビクトリアルシークレットカタログを見ていたらフリースが売っていた。実はここだけの話で、トップシークレットなのだが、昨年の今頃に「フリース」という言葉を知った。それで、そのままフィンランドに行ったら、子供が「ママー、フリース」といっていた。私より30年も早く、言葉を知っていたとは、時代も早いものだ。
2003.10.05
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サンフランサンフラン(以下「SF」と略す。勿論、セクスフレンドではない)もいよいよ、最終編になるのである。驚いたであろうか、書いている本人はちっとも驚いていないのは周知の事実である。 チャイナタウンの端にあるワシントンスクエア。君たち、そんなに、日光が好きかね。今日、74年ぶりぐらいに、日本最高気温が出たよ。死ぬよ。人間だもの・・・(小学校のとき、豆辞典で日本の最高気温が山形県だと書かれていたことを思い出した)SANFRAN髪の毛染めるけSANFRAN鮫、売ってます。硬そうです。死しても、鋭利な歯が開き、満面笑顔の鮫です。SANFRANチャイナタウンを主張。鮫の笑顔に敗れる。SANFRANバスの先頭に自転車を搭載。何か正面衝突事故を起こせば、自転車が真っ先に壊れてしまうのが、心配といえば、心配の種でもある。SANFRAN日本料理「三船」・・・。前に、飛行機に乗ると、三船夫婦が乗っていたのであるが、当然、周りの外人乗客や外人客室乗務員は知らない。何となく、あれは、「世界のミフネの娘なんだよー」と教えたくなったが、はしたないのでじつと我慢したのであった、しかし、ミフネ娘はなかなか周りに気を遣っていい人であるが、だんなはちょっと育ちが悪そうに、ちょっと傲慢なんだなあ・・・。これ秘密。SANFRAN日本人街はこれね。SANFRANポストがあるからポスト街かい?SANFRAN歌っていってもいいんだけどさ・・・SANFRANマサルヂに行きたくなってきたと、ふと、思った、思ったので、明日、実行することにした。SANFRAN今日、SFで初めてとなる食事(そして最後となる食事)はズバリ、インド料理である。ナンにダルカレーにマンゴージュースで8ドルぐらいの無茶安で、激混みである。しかし、一人で来ているのは、私と、前にいるシク教徒ぐらいである。チャイが飲み放題である。驚きである。SANFRAN大道芸をして、逆立ちを続けている、黒人に、彼の友達が通りがかり、声をかける。「オイ、タバコもってないか?」「今手が離せないんだよ、バロー」SANFRAN地下溝には、雨水だけよ、蟹を流しちゃだめよ。SANFRANSF地獄である。ウエエエヴェ~。SANFRAN寄っていくか?イイエ。AM5:00 サンフランサンポなにげにアメリカらしく、ノースリーブからコートの人間まで歩く街も、朝の5時、ビルの軒先で眠る宿無しと、サングラスをしたランニングの親父、そして徹夜で飲んだくれた黒人が道の真ん中で眠っていた。 既に、都市機能は胎動し始め、バス、地上を走るメトロが走り始めている。ケーブルカーもこの時間なら待ち時間なしで乗れる。チケット売り場も閉まっており、その前に切符売りの親父が一人ぽつりと立っている。SANFRAN風が心地よい。風景と私の感情が、映画のセットのように陳腐だ。それほど高いビルはないが、ビルの上空あたりは霧で隠れている。 バスが、ふらふら歩いている酔っ払いの肩に当たり、酔っ払いの黒人は倒れ大声で文句を言っている。泣き言のようだ。運転手はバスを止め、すまないという顔はせず、大丈夫か、と彼を抱き起こし、バスに乗せた。乗っている数人の乗客は、あまり関心なさそうに、その光景をチラっと見ただけであった。SANFRAN ベイブリッジまで徒歩40分。交通量が世界一多い橋らしく、瀬戸大橋が出来るまでは世界最長の吊橋であったということである。その脇にあるフェリー乗り場では、マーケットの準備をする人々で多少賑わいかけていた。その脇にある公園では、相変わらず何人かの人が夜を明かして眠っており、頭のいかれた奴が、私の方を向きながらも、私ではない誰かに怒鳴りかけていた。早朝である。SANFRAN都市に植えられた整ったパームツリーは不自然に思えて好きになれない。好みの問題に過ぎないのであるが、ビーチに自然にメクラ滅法に生えた椰子に生命力を感じ、それが美しいと思う。SANFRAN その後、チャイナタウンに入り、公園で体操をする世界中華街共通の風景を見つつ、先に進む。何かを食べようかと思うが、まだ、準備している状況で、店は開いていない。SANFRANSANFRANSANFRAN ここの住人ではないというよそ者的感覚が何故そんなに楽しいか。責務責任義務を逃避しているように思えるのだが、多分、そうなのだろう。誰にも怒られず、誰からも無関心にされ、記憶を買い、街に金を落とすだけだ。少し寂しいな、という感覚があれば、旅は、尚、いい感じだ。SANFRAN掃除してくれている人、ありがとう、少し、そう思えれば、それは、それでいい。 サンフランシスコ(以下「サンフラン」と略す) カンコアンナイ(77)アルカトラス島:アルカトラスといえば、昔、機内で「ザ・ロック」を見たり、アルカトラズからの脱出を見たりしつつも、昔、レインボーにいたグラハムボネット(ボーカリスト)が作ったバンド名でもある。高校生のころ、あの声にしびれて、思わず、全部アルバムは揃えていたのであるが、あのギタリスト、イングウエイマルムステーンはどうしているのか。まるで、グラハムを無視しているようかのプレイで、ちょとだけむかついていた高校生時代であった。以下、ウディキペデシアより抜粋;1983年、マイケル・シェンカー・グループを解雇されたグラハムは元ニュー・イングランドのゲイリーとジミーと共にバンドを結成する。グラハムはレインボーで共演したリッチー・ブラックモアに良く似たギタリストを探すためオーディションを行い、元スティーラーのイングヴェイ・マルムスティーンを獲得。(イングヴェイ本人の話ではUFOの誘いも受けていたが、グラハムの方が歌が上手いと言う理由でアルカトラスに加入したという。)イングヴェイを獲得したバンドはまだ正式なドラムが決まっていなかった為、スケジュールの都合で加入できなかったコージー・パウエルの推薦でクイーンのロジャー・テイラーと元アイアン・メイデンのクライヴ・バーを紹介してもらったが、ロジャーとはスケジュールの都合で断られ、クライヴに至ってはイングヴェイが拒否したため、加入にはいたらなかった。バンドは元アリス・クーパーのヤン・ウヴェナを加入させ、レコーディングに突入。1983年12月にはデビューアルバム『NO PAROLE FROM ROCK'N'ROLL』をリリース。グラハムの凄まじいボーカル、イングヴェイの強烈なギタープレイとそれまで聴いたことないようなメロディアスな楽曲は世界中のヘヴィメタルファンに衝撃を与え、数年後の速弾き戦国時代突入のきっかけとなった。また、日本盤の伊藤政則のキャッチコピー「泣くがいい。声をあげて泣くがいい。」は日本のヘヴィメタルファンの間では有名な名言(迷言?)になっている。1984年1月には初来日を果たした。イングヴェイはリッチーに憧れているとはいえ黒い衣装、白いストラトキャスター、ギターを壊すパフォーマンスと全てリッチーのコピーであるため客から失笑がもれた。しかし「テープの速回しじゃないか?」と噂されていたイングヴェイのメロディアスかつ強烈な速弾きは紛れもない本物であった。そして、この初来日の東京公演を収録されたアルバム『LIVE SENTENCE』をリリースされるも、グラハムとの関係が悪化したのを理由にイングヴェイは脱退してしまう。後任にはイングヴェイとはギタースタイルが極端に違うスティーヴ・ヴァイを加入させ、1984年10月に再来日を果たした。初来日公演も再来日公演もライブ・ビデオが発売され好評であった。1985年にはスティーヴを迎えての傑作「Disturbing The Peace」をリリースしたが、同年、スティーヴが当時ヴァン・ヘイレンを脱退したばかりのデイヴィッド・リー・ロスの誘いを受け脱退、後任にダニー・ジョンソンを迎え、3rdアルバム「Dangerous Games」をリリースするも鳴かず飛ばずで1987年に解散した。 SANFRANSANFRANSANFRANトランスアメリカピラミッド:金融街にある48階建ての三角錐の建物。内部一般非公開のため、内部ではどんなインサイダー取引が行われているかは不明。以上。SANFRAN グレース大聖堂:丘の上のほうにあるノブヒルというエリアはお金持ちと高級ホテルがあり、景色がまあよいということなのである。SANFRANノブヒルといえば、小売の微笑の、シャロンストーンにマイケルダグラスだが、ダグラス、セックス中毒は治ったか?SANFRANコイトタワー:丘の上にある。勿論、コイトさんが作ったのだ。手前は、性ペテロパウロ教会。サンフランが一望ということだが、私は、一応、コイトタワーを一望して終了。SANFRANSANFRANSANFRANチャイナタウン。急に人通りが増える。どうやら市場にでたようだ。ここでやっとチンツーナイチャー(タピオカミルクティー)を流暢なマンダリンでオーダー。(このチャイナタウンは広東系らしいが)。世界一広い、アジア以外のチャイナタウンはここかバンクーバーか、ニューヨークか。それにしても、80年代に行ったシンガポールのチャイナタウンを思い出してしまう。SANFRANジャパンタウン:益子、五重の塔に、大阪城はいかがかな、近鉄経営よ、私がここで飯を食うと思いきや大間違いである。夜、歩いていって、むちゃくちゃ疲れたのだからね。しかし、考えれば、ここの人たちは強制収容所に入れられたのだねえ。同じ、敵国ドイツ系は野放しだったというのにねえ。ジャパンタウンといっても、実際はコリア系や中華系が多そうだ。ジャパンタウンのピークは過ぎたのであろう。3,4世はもう日本語も分からず、店も継ぎたくない訳だ。SANFRANしかし、まあ、サンフランといえば、ここか。そんな訳で、清く正しく美しいカンコー案内を終了します。規則正しい急遽シスコカンコー 1 そんな訳で、わが夏は、終わったのであった・・・とは、言わせず、気を取り直して、涼しいサンフランシスコ(以下「シスコ」と略す)を探索することにするのである。いつまでも空港にしがみついている訳にはいかないのである。SANFRAN 空港に置いてある、市内マップを見ると、市内に行く方法として、シスコからはここ数年でできたというバートという結構速度を出す(加速力があった)列車があり、それに乗る。風景を見ながら、下を見ると、まるで、仕事をしにきたみたいだぜ、フッと悲しい横顔が旅愁をそそるというものである。 SANFRAN それにしても、私は、用意周到なのである。シスコには行く予定はなかったのではあるが、半年ぐらい前に「地球の迷い方、シスコ&シリコンバレー編」の最新版が105円で売られていたので、とりあえず、意味なく大人買いしていたのである。そして、出かける寸前に買ったことを思い出し、趣味で集めている世界ガイドブックコーナーINマイルームを散策すると、出てきたので、まあ、重いけど、一応念の為に入れておくか・・・なんて荷物の底に入れておいたのであった。そんな、もしもシスコに行くはめになってしまったらと一瞬1パーセント程度思ってしまったのが、ポジティブシンキングから外れてしまったのか、最悪を考えると、それが現実になってしまったのか、大変複雑な心境になっていたのである。SANFRANそんな心境になり続けること30分で、メインの駅であるパウエル駅に到着したのであった。パウエルストリートのパウエルの由来は知らないが、多分、コージーパウエルでも、ベーデンパウエルでもないとは思う。そういえば、ボーイスカウトの創始者ベーデンパウエルってさ、スパイだったんだねえ。 まあそんなことを思いながら、まずは、宿を取り、荷物を置くことにしようと、駅の近くから、外観を見ながら、宿を探す。宿だらけである。SANFRAN しかしである、観光シーズンなのか、10数件回っても全部満室、または、居住者長期滞在者向けのホテルばかりで、だんだん、どこでもよくなってきたのも事実である。SANFRAN 16件目にやっと1室探し当てる。中心の広場ユニオンスクエアから奇しくも50メートルぐらいしか(1ブロックも離れていない)ない便利なロケーションなのであった、というか、もうどこでもよかった、値段以外はどうでもよかったというのが正直な感想だったりなんかもするのである。ホテル探しに、90分という長い年月を費やした私は、早速チェックインし、地球のだまし方を開いた、と思うと同時に目が閉じたのであった。 SANFRANいかん、いかん、時差ぼけに負けてはいかん、と意識を回復したのは90分後であった。とりあえず、もう夕刻である。アメリカ本土に到着してから観光に出かけるまで、すでに、8時間という長い年月を費やしていることに気がつき、そういえば、寝てたので機内で朝飯も食ってないので、神妙な計算をすると16時間ぐらい飲まず食わずの状態であることにも、気がついたのである。SANFRANまずは、メインのユニオンスクエアに出てみる。ここで有名なのは、ここの地下が世界初の地下駐車場であるということぐらいである。ちょうど、フィリピン人バンドによる催し物が開催されていたのであるが、奇しくも、中央の円柱は、米西戦争時代、米軍がフィリピンのマニラを陥落させた記念に建てられたものだということなのである。勿論、フィリピン人にとっては、為政者が代わっただけである、というか島国なので、国という概念もなかったはずである。SANFRANそんな訳で、呆然とむちゃでかい消防車を見て、アメリカはでかいのお、とカッペになる。SANFRANそうして、坂を歩き始めるのである。私のシスコの知識は、何か坂が多い街なのだという程度である。SANFRANそれから世界一古いケーブルカーがあるということだが、街中を走っているとはしらなんだ。SANFRANしらなんだというついでに、いくつも丘があり、起伏の激しい街ということもしらなんだ。一つの丘があるだけかと思っていたが、これはなかなか珍しい街だなあと思う。いくつもの丘まるごと都市なのである。丘を越えてテッペンかと思えば、また下り、また上るのである。勿論、地図からは分からなかったのである。SANFRANよく、日本でも西洋人が意味のないところで、街中へたり込んでいることがあるが、あれはよく分かる。私も各都市で、歩き過ぎて、意味ないところでへたり込んで休憩することがあるのだ。そんな訳で、休憩ついでにアルコール度10パーセントのフルーツビールのようなもの500CCを買って、へたり込んで飲んでいるが、これが非常に不味く、休憩中も、修行中のような気分なのであった。(以下明日以降続く・・・と思われる。誰も期待していない。)おはようございました。 朝、私は、サンフランシスコ(以下「SFO」と略す)に到着した。到着したが、今回、私は、アメリカには用がない。そのまま、1時間半後のメキシコ行きに乗り継ぎのだ。だから気分はアミーゴ!4日前に、すでにヤフオクで300円で「アミーゴ、地球の迷い方」を落札し、メール宅急便で送ってもらい、急いで、1日でいろいろチェックし、ネットでメキシコ関係を調べ上げ、ノートにいくつか、危ない行く場所や、夜の盛り場情報や、危ないもの販売事務所などいろいろチェックをばしており、すでに、気分と実態もろともアミーゴなのであった。 しかしである、現在、アメリカでは、トランジットであろうとも、乗り継ぎであろうとも(あ、意味一緒だった)いったん、アメリカに入国しないといけない決まりになっているのである。そんな訳で、神経質になっているアメリカイミグレーションは指紋を採ったり写真を撮ったりして、大忙しで、長蛇の列なのである。飛行機も順調に30分ぐらいは遅れて到着なのである。 そんな訳で、いらいらしながら行列に並ぶのである。並んでいる間にも、一向に列は進まないのである。比較的日本人は早く進みそうなものであるが、その前の便の働かれそうな国から来た飛行機を降りた列が、嬉々として進まないアミーゴ状態なのである。まだ1時間もあるさと、余裕かましまくりプープーのエグゼクテイィブな私も、多少、動揺を隠しきれなくなってきているのであった。すでに、昨日にして、1日延長してもらっているぐらいである。日本から到着した機内から、全員ごぼう抜きしてきた私さえも、すでに、入国を果たしたときは、非常にやばい状態であった。アメリカは、出国はスタンプ押さず、セキュリティは厳しいだけであるが、SFOもなかなか広く、どこじゃあここじゃあ、走れなんとか言っている間に、すぐにセキュリティを抜け、アミーゴ行きの搭乗口に到着したのである。 そこには、同様に、呆然としているメキシコ人らしき老夫婦と、アメリカ人レズカップルが閉まったゲートで相変わらず呆然としていた。私も、急いで呆然とした。 しかし、何時間も呆然としている訳にはいかず、早速、明日のメヒコ行きを予約しに行こうと折り返し、カウンターに直行すると、満席オーバーブッキング、明後日もオーバーブッキング!明日、また空港で空席待ちしてもいいけど、空席待ちが、えーっと20人ね・・・と言われる。 そんな訳で、アミーゴ紀行は、幻と化し、気を取り直して、アメリカ、サンフランシスコ紀行となり、アメリカナイズされてしまったのであった。 すでに、時間も、入国を果たしてから4時間が過ぎ、我、未だ、山麓にありいや、空港にあり状態であった。
2003.10.04
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昔、といっても1987年。いまやヒッピービーチで有名なタイのパンガン島も当時は暇ぷーな奴しかいけない、島であった。車道のない島であった。対岸のサムイ島から10人乗りくらいのボートに乗って私はビーチに渡った(港で知り合ったマレーシア人に教えてもらったので知った)そして1週間ぐらいがたち(何もしてないのに1週間がたち)荷物をまとめてフロントへ。(マスター及び従業員の住む家兼フロント兼レストラン兼コテジ15件程しかないのだが)フロントの女の子が笑った。大声で。この子は朝は日の出から夜は21時バッテリーの切る時間までまじめに働いていた)何故笑ったかというと、ボートは3日に一回しかない今日はボートはない明日もない、からだ。そうして私は滞在を3日延ばした。優雅な話だ。しかし考えたら、ボートの出る時刻も知らずに荷物をまとめてしまう私も私だ。気をつけな、ビーチは頭を阿呆にする。3日もあれば。
2003.10.03
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ヤンソンのムーミン、フィンランドのお土産に今日ムーミン漫画の入ったキシリトールガムをもらった。みなさんだまされてはいけない、私はフィンランドで「キシリトール知ってる?」と数人に聞いたが誰も知らなかった。あのコマーシャルではフィンランドでは当り前みたいに宣伝しておりましたが。フィンランドでは北極圏に行ったのですが、そこではちょうどクリスマス、皆に「フィニッシュクリスマス」で乾杯。フィンランドを離れるまで、何で終わりのクリスマスやねんと思っていた。ちゃう、フィンランドのクリスマス!そういえばタイ人のことを英語でタイランダーというんだよね何かおかしい。フィンランドは自らをスオミといい(パスポートもそう書いている)それは「湖の人」という意味でなんかいい感じ。実際、日本人とメンタリティが似ていて精霊が割と受け入れられる土地がらで、会話のふしぶしにでてきたりするのであった。
2003.10.02
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くそ~こんな国昔はよくそう思った。でも昨日も本を読んでいて思った。O-157をカイワレダイコンのせいにした免疫学者は実はイタイイタイ病を担当し、原因カドミウムか分からないとと報告し、森永砒素事件では企業を無罪と弁護し、チェルノブイリ原発事故では調査団団長を務め、たいしたことなかったと報告している御用学者だった。なんでこんなの放置するのかなあ、くそ~こんな国!危うく23時台の電車内で叫びそうになったのであった。
2003.10.01
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