全31件 (31件中 1-31件目)
1
今、テレビを久し振りに見ています。多分NHKの映像で綴るニッポンというようなタイトルのものか。満州事変という言い方は日本人の身勝手やなあ。満州戦争やもんなあ。今、ネットで調べたる満州事変→Manchurian Incidentじゃあこれをまた日本語に。Manchurian Incident→満州の出来事じゃあまたこれを英語に満州の出来事→The occurrence of Manchuria続けると、The occurrence of Manchuria→満州の発生→Generating of Manchuria→満州の生成→Generation of Manchuria・・・チャンドラボース。この人はベンガル州(州都カルカッタ)ではガンジーよりも人気があります。今日は年賀状作成と部屋の掃除という任務を遂行しつつある間に買い物に行くと、年末慌しい空気を人々が発していた。人がいつもより多いだけなのに、慌しさを醸し出している。ナンだか取り残された気分になった。日本でアクセスの多いサイト順(ジャンル別もあるよ)http://www.alexa.com/browse/categories?catid=49884 世界でアクセスの多い順http://www.alexa.com/site/ds/top_sites?ts_mode=lang〈=en amazon.comが所有するインターネットアクセス分析結果で、世界中のサイトのランクが分かるために、サイトの流行度合いを知ることができます。どのサイトがみられているかです。パキスタンはぺシャワールの駅前。駅前には大きな道が走っており、ひっきりなしに車が行きかっている。ペシャワールの駅は、ときどきこういう都市があるのだが、駅は街の一番端っこにあり、寂れている。おそらくバス等列車以外の移動手段がメインなのだろう。当然、車最優先の社会に、5分という尊い時間をかけて、道を渡る。中央分離帯を過ぎ、やっと駅側に行くと、笛をピィいいィと鳴らす音がし、振り返ると、警官が、先ほど渡ってきた反対側の側道にいて手招きしていた。「横断歩道渡らなかったからか?」と私は思い、ついてないなーと思いながら車を擦り抜け、5分で警官の元に。「ジャパニ?オー、トキョーイズビグシティ」よくある光景。もうええわ。殺意とは、不条理から生まれてくる。そんなことを思い出しながら、テレビのチャンネルを回してみる。むかついてきたといえば、その後、ペシャワールから夜行列車に乗ったのであるが、夜中寝ている時に、見回りの警官に呼び出された。「ちょっとこい」といわれ連結部分に呼び出される。身体検査は急所までも。麻薬検査と称して何かと調べやがるのだ。ちなみにペシャワールは当時ヘロインが世界一安い場所として有名であった。そしてついにワタシの財布を発見、丁寧に札束を数え、半分よこせと。そこからワタシはおだてたり怒ったり懇願したり、そして寝ている誰かが起きてくることを祈りながら、ついに1銭もとられずに解放、無血帰還(木製寝台ベッドに)。ああよかったと思い、喉を潤すためにガムをかもうとして、乗り込むときに買ったガムを見たら韓国製だった。口内炎になりました。一日中不愉快です・・・
2003.12.31
コメント(2)
今年中に引越しようとしたが、なかなか気に入るところがなく、タイムリミットとなり、来年に持ち越し。世界は巨大な空気のプールである。酸素不足でアップアップしている人々が数多くいる。日本では、政治的経済的というより精神的にアップアップしている人々が多くいる。病気のジャンルをつくる。病名をつくる。そうすると病人が増える。病名がなければ病気と気づかず過ごしてしまうことって多いのカモシレナイ。例えば多重人格という言葉がなかった頃、多重人格者はほとんどいなかった。精神的にワタシも何か問題を抱えているに違いないが、病名がないので、モヤモヤしているだけだ。というより病気でない。例えば、先延ばし病とか整理できない病が医学的に確立されたら、いっぱいの患者が発生するよね。そんなことを考えながら今日の昼食はコチラhttp://www.palashio.com/gourmet/cafe/14.html 今日会った仲間との話の話題1.冒険投資家ジムロジャーズの2冊目(2回目の世界放浪)がでているということ。1冊目はとても面白かった。http://www.tokyoin.com/market_market/bibriography/book6.htm ジョージソロスの相棒として、大活躍の末にアーリーリタイア。その後、各国を20歳から離れた愛人とBMWのバイクで世界旅行、現地で情勢を判断し、投資していく面白い旅行記であった。2.バングラディシュの毎年の洪水の話、砒素の話http://www.ivg-soma.jp/html/Bangra/torikumi.htm 国土の3/4が水没すたこともあるという洪水国家。病気は蔓延する。3.3月に12日間の休みが取れる奴のお奨め旅行先検討ワタシは、自分が今行って見たい国のひとつであるイエメンをプッシュhttp://www9.plala.or.jp/sekai80/yemen/ 結論としてはネパールトレッキングでチョムロンまで。首都カトマンドゥにバンコク経由で来て、翌日ポカラに飛べば1週間のトレッキングが可能ではないかという説。http://www.sp3.com/~katoh/2003ANN/J03APR26.HTM 4.シモネタ少々。話し合った場所。http://www.ohatendori.com/shop/5/pig_hoissule/main.html (時々行きます)ところでジムジョーンズはガイアナの太陽寺院でどえらいことした教祖であったな。有馬温泉ついに新品の給湯器と交換となり、永らく続いた「神戸市灘区銭湯の旅」は暫く中断することとなった。ちなみに給湯器はノーリツ、このメーカーのキッチンはまあまあ好きである。割とスタイリッシュ。http://www.noritz.co.jp/ (企業宣伝になる為見なくてよろしい)温泉の旅締めくくりの一環として有馬温泉を検討中。我が家から、車で150キロも出さずに、六甲山下のトンネルを越えると30分もかからずして有馬温泉街に着く。有馬温泉は、県庁所在地(神戸市)にあるという珍しい温泉でもある。有馬温泉の渋い宿を紹介御所坊カフェド坊というカフェが人気で御所坊のアンテナショップ的役割を果たしている。外観は建築雑誌にも時折登場。20室すべての意匠が違う。ソムリエのいるバーや図書館があってナイス。http://www.goshobo.co.jp/goshobo/index.html 御所の坊の主がリニューアルさせた宿ホテル花小宿温泉宿として面白いのは、食事別というところ。9部屋は稼働率ほぼほぼ100パーセント。http://www.goshobo.co.jp/hanakoyado/index.html 四季の彩 旅籠料理の鉄人酒井に勝った人が料理に腕を振るう。http://arima-hatago.com/ http://www2.pref.shimane.jp/brand/delicious/chef1.html さて計画開始だ今日の昼飯(明石市 朝霧)http://www.kurakura.co.jp/
2003.12.30
コメント(1)

サドゥのことです(ホーリー祭の日のこと)インドのバラナース 夕刻、ガンジス河に行き、沐浴を行い、体を洗った。宿に戻ろうとすると、すぐに色を浴びせられ、結局、河のほとりに座り続ける。 沐浴場の階段で、神の歌を謳う一団。五、六人の男たちは、サドゥ(聖者)を取り囲んでいる。一団の民間人は、こざっぱりした格好をしており、話し方もスマートで、社会において地位の高い職業に就いているものと思われる。私は招き入れられた。サドゥを囲んではいるが、聖職者なのか、彼には何も話し掛けないで、皆、雑談している。隣の男は、ハシシをこねながら、私と日本の話をしていたが、突然、サドゥに向かって話し掛けた。「ババ、用意ができました」彼は、ハシシの入ったチュラムパイプを手渡す。サドゥは、熱さ防止と、煙を冷やして喉に負担をかけないためと、煙以外のものが口に入るのを避けるためのガーゼを取り出し、階段を降りて行き、ひんやりとしたガンジスで清らかにガーゼを濡らした。そのガーゼをパイプの吸い口に巻き、神に祈る。男が火をつける。サドゥは、ほんの一口、それも強力にしなやかに吸うと、ガーゼを取り、男にパイプを渡す。男は改めて、鞄からガーゼを取り出し、水に浸し、パイプの吸い口に丸めて、吸う。後は、輪になった我々にパイプが順番に回ってくる。自分専用のガーゼを持つダンディなサドゥは、最初の一口しか吸わない。何度か、作っては深く一口だけ吸い、トリップした頃、サドゥはようやく私に気づき、英語とも何とも分からない早口で、私に、表情を変えず、二、三言話し掛けてきた。目には特に敵意も親しみもなかった。ただ、鋭く光っていた。大阪の友達の家の前で、餅つきをした。うまかった。飛蚊症目の前の透明な部分に糸くずが流れる。http://www.aramant.com/ARM/HIBUN/hibun.html 愛してますをいっぱいhttp://haradakun.cool.ne.jp/forward/54.htm
2003.12.29
コメント(1)
タイ列車考、その前後アテネを夕方に出発した。その日、シエスタと称して存分に昼寝をしてしまっていた。飛行機内では、一睡もすることなく、パキスタンのカラチに到着。十二時間の待ち時間があったため、空港で一緒になった日本人八人を誘い、一日一人一ドルでタクシーを借切り、一台のタクシーに九人が乗り込み、「どこへでも行ってくれ」といい、存分に回る。前は運転手と女の子三人。後ろは野郎六人。建国者のモスクを経てアラビア海のほとりに。左前方に難破船。荒い波に観光用ラクダ。右前方に小さな島が点在。運転手がさりげなくチャイをご馳走してくれた。支払おうとするが、「ここは俺の庭だ。気にするな」といった。そして空港に戻ると、皆はパキスタンで余ったお金を彼に渡す。彼はなかなか商売がいまいぞ。我々がそんまま去ることを察知していたので九ドルで請け負ったのだな。そしてプラスαを充分に見込んでいた。空港の滑走路から太陽を見上げ、渋く「さらば」といってみるが、その光景を微粒だに動かぬ兵士が何の感慨もなく見られた。夕方、飛行機は出発、お喋りのうちに、夜中、バンコクに。正直、私は、久しぶりの日本語に飢えていたのかも知れない。正直、八人のいち私だけが、アジア体験者で、勝手に隊長に任命されたことが、快感だったのかも知れない。正直、ヨーロッパを巡ってきた彼ら彼女らに、たった十二時間のパキスタンが一番面白かった、それも私がいたからといわれて、少し、勘違い的自負心が芽生えたのかも知れない。空港で夜を明かすが、スリっぽい男がうろうろしているので、目をパチリと開け続ける。駆け引きは朝まで続く。そんなに鋭い物色するような目をしていると、スリ丸出しなのだ。朝、交通機関が動き出し、バスで、街に向かい、ホテル楽宮にチェックインするやいなや、次のチケットの予約に、ビザを取るための、フィリピン大使館と、パスポート増刷のための日本大使館と目まぐるしく回る。道に迷う。トゥクトゥクの兄ちゃんにパキスタンのK2という渋いパッケージの煙草を勧め、「急いでくれ」という。「行くぞ。こうなったら今からビーチに行くぞ」排気ガスを吸いながらヤケクソ気味に意味なく思った。最後に、「駅に直行してくれ」といった。そこで、四十分後の列車の切符を買い、歩いてホテルに戻って、荷物をまとめる。その瞬間、五十七時間不眠の私は気を失った。十五分後、奇跡的に目が覚める。もしかして、扉を開けっ放しにしていて、ホテルの廊下をうろつく娼婦や他の宿泊客の足音に目が覚めたのかも知れない。「危ないところだった」といい、駅に向かう。駅で荷物を半分忘れたことに気がつき、駅員を無条件に信じ、「ちょっと五分だけ」といって、荷物を持ってもらい、走る。そのとき発車十分前。宿で残りの荷物を取り、走る。そのとき発車五分前。汗が吹き出て、列車が既に、ゆっくり動きだしていた。私は顔面蒼白だった駅員から荷物を受け取り、走る。走って、最後尾に飛び乗る。汗をボトボト落としながら、混雑した車内を先頭まで歩いていく外人である私を、皆は不思議そうに見ていた。あってないような指定席に座り、風で汗を蒸発させ、焼き飯を食べる。そうそう、いつも、車内で販売している、ワゴンもお盆もなしに直接皿を持って歩き回る売り子からいつも買うのだった。スプーンは胸ポケットに差している。タイにいて、タイを思い出す。タイの列車について。一、 二等列車は三等の倍の値段だが、不快さは半分以下ということは、いつも三等に乗っていれば分かる。二、 車掌が銃を持っている。もしかして車掌ではないのかも知れない。鉄道公安官を兼ねているのかも知れない。三、 風に一晩中吹かれると、流石に冷える。四、 バスと違って歩けるので、尻の皮の薄い私のような奴にはピッタリだ。五、 車内は人口密度が高い。一人が忙しくすると、連鎖反応か共振か分からないが、結構近くの人も忙しくする。ウォークマンの最大音でさえ、列車のきしむ音には勝てない。そのため、夜中というのに、人々は大声で話をしているのが笑える。しかし、列車が止まったときには、不必要に静寂となり、ビニール袋をクシャクシャ丸める音や本のページをめくる音さえ聞こえてくる。人々は機敏に声の音量を調節し、コソコソ喋っているのが、笑える。が、ときどき、環境調節の鈍い人が、走っているときと同じ大声で喋っているのが、更に笑える。それにしても、その音の差を調節し、使い分ける鼓膜は、自己防衛とはいえ、偉い。六、 列車の揺れは人間のバイオリズムを研究して作られておるのか。波長が合えば、心地よさのため、眠ってしまう。あの排他的爆音と、エアコンデショナーカーのモーター音さえなければ。七、 走行中も昇降口が開きっぱなしというのは、画期的に良い。自分の責任は自分でとるという明確な意思の現れであるし、早く降りたい人や飛び乗る人の危険度を省みない自由がある。第一、安全に閉じ込められるのが、基本的につまらない。責任擦り付け合いの保護第一主義ではひ弱になる一方である。車内放送など、ない。降りる奴は降りるのだ。白線などない。自分がどれほど危ないか分かっているのだ。八、 列車の揺れや音や風にも負けず、或いはボロ負けしてか、座ったまま不快そうにも 寝てしまう人間とは、素晴らしき生理的欲求だる。その環境への順応さは、悲しい かな、爆音の時に不快そうに眠りながらも、列車が急停車して静寂が訪れると、変 化に対応しきれず、起きてしまう。そして、また列車が動き出し、不快度が増すに つれて、安堵も増し、眉間に皺を寄せて眠っていくのである。そんな訳で、六十時間中十五分睡眠を除く不眠状態は、焼き飯を食べ終えた瞬間に途切れる。初めて題目のついた夢をみる。「流星になったポケット」それは地域には、その地域のやり方と伝統があるという国籍不明の長老のつぶやきと、太古からの宇宙的渦巻きの中心に収束されて、天文学的時間をかけ長老の談話と共にポケットに吸い込まれ、それが流星になっていくというメタファーを含んだ夢であった。汗をかきながら、列車の硬い席にうなだれる私を、第三者の私が、近くから見ている感覚になる。列車が走り、止まり、そのたびに、その変化に気がつき、目を覚まし、スラタニー駅はまだだと、思い、眠る。1秒で起きることができるほどの浅い眠りだが、簡単には起きることができないぐらいに眠いのだ。砂風に当たる不快と、戦いながらも起きることができないのだ。朝、列車を下り、バスに乗り換え、船に乗り換え、ジープに乗り換え、正月のビジネス街より十分静かなビーチに到着した。波は薄かった。海から一番近い一番安い一番狭い朝日を拝めるバンガローを与えてもらう。海水に濡れるまで十六歩。草履を投げ出し、衣服を全部洗濯し、着る服がなくなってしまった。1週間、もう誰も、何も、関係ない。もう生まれたままの姿で気を失った。
2003.12.28
コメント(1)
日本男児の意地を見せるため、私は、兎に角、行って、飯食って帰ることのできる場所を選択したのである。勿論、機内で飯を食うことはなく、水を一杯貰って、ワインを1本速攻で開けて、バク睡である。台北空港に到着するやいなや、人々を押しのけ、もう、一番に、飛行機の機内から出て、そのまま、バスに乗り(大富豪が故、その辺はタクシーを使わなかった)、チェックイン後、急いで、背広をジーンズに着替え、5分でまた外に出て、地下鉄に乗り、夜一に向かい、その後、飯も食い、マッサージ(足裏がへたくそで死にそうになる)も行き、夜市が2時頃に終わりそうになると、また違う、繁華街に行き、ビールをしばきながらも、つまみをぱくつき、午前4時に戻り、シャワーを浴び、セブンイレブンで買ってきたビールを再び開け、4時半に眠り、6時前に置き、6時半の空港バスに乗り、バスの中で首が直角になる程熟睡し、飛行機も爆睡5分で凱旋帰国したのであった。機内では、確か水を1杯飲んだ気がする。檳榔(台湾式かみタバコ)・・口の中で噛むと覚せい作用があるため18歳未満には販売禁止となっているが、煙草屋に売っている。売られている檳榔というのは、檳榔樹(ビンロウジ)の果実を加工したもので、檳榔樹の果実をキンマの葉で包むものとか檳榔樹の果実を切ってその中にキンマの果実を入れるものとか、添加物として石灰とか色素が入っている。まあ、インドのパンと同じである。檳榔をかむことは喫煙と似ていて、習慣性や常用性が高いそうだが、パンと同じで、兎に角マズイ。癖になるまでは相当の覚悟と時間がかかると思われる。檳榔の中に入っている物質が副交感神経を興奮させる作用があり、陶酔効果があって、飲酒みたいな感じになるというが、じぇんじぇん駄目であった。このビンロウ屋であるが、何故だか、近年、これを売る為に、セクシー姉ちゃんが売ってたりなんかして、それを見て交通事故が多発し、そんな服装で売ってはイケマセン、と規制されたりなんかしているよく分からない商品なのである。 それにしても台北の夜は遅い。結局、宿はとったものの、1時間睡眠にて、再び空港に戻るのであった。苦いんだ。
2003.12.27
コメント(1)
少しばかり散歩してきた。車のショールームが続く。ポルシェ、マセラティ、ミニ。http://www.porsche.co.jp/dealers/kobe/default.htm クリスマスの昼飯を思い出した。http://www.yoshinoya-dc.com/ クリスマスイブの夕食を思い出した。http://www.osaka-ohsho.com/ クリスマスにロンドンヒースロー空港に着いた。日本からの直通便のためほとんどの乗客が日本人であった。私の右隣に座っていたおばあちゃんはウィーンに何度も音楽関係で訪れている。私の左側に座っていたおじいちゃんはディケンズとオースチンを研究する教授或いは助教授或いは先生。空港内も歩きながらお互いの今後の旅行を祈願しあって別れる。イミグレーションに。入国カードに泊まり先を「日本大使館」と書いていたら「ちょっと待った。本当なのか」「働く気かね」「帰りの航空券と有り金すべて見せろ」「じゃあ日本ではどこで働いているのか」「会社員なら何と言う企業だ」「やたらインドとオランダに入国しているな」他の客は去った。座っているのは私と、違う便で来たアフリカの青年。尋問の末、入国できたのは2時間後。空港内に人通りがない。クリスマスで列車が休みだ。その後、ユーロスターでイギリスに入るときもトラウマとなり、決してイミグレオフィサーの気分と心証を悪くしないよう努めた。メガクリスマスチベット仏教では、すべてがあるといういいかたで終わる。今日は特に何もしなかったことがあった。そういうことはできないということがある。分からないことが在る。考えれば、ポジティブシンキング?http://www.geocities.com/yokatonian/megamac/megamac.htm http://www4.plala.or.jp/hiro_k/Report/Present/p081_top.htm http://www007.upp.so-net.ne.jp/fukuda/diary/yotta.html ある期間、物価の安い国に行った者は、その絶対的な経済価格差に愕然とし、思い悩んだことがあると思う。その次に来るのが諦めである者も多いと思う。そしてその次の段階まで深い関わりを持ち続け、考え続けることはなかなか難しい。そんな中、それを諦めの延長線のまま楽しく乗り越えてしまった方法を模索している。日本人は、明らかに貧富の少ない国であり、問題は山積みで、それが弊害になっている所も多々あるけれども、世界に冠たる平等の国である。大抵の人間は、普通の人間だから、急激に貨幣価値を変えてしまうことはタブーである。大航海時代の使命感に燃えた愚直な宣教師ではないのだから。間違えていれば、すんませんです。
2003.12.26
コメント(1)
「ちょっとまてよ」私は、飛行機がアルプスを越える頃に思っていた。浅ましい私は緻密で完璧な計画を立て始めた。 「アムステルダムでの大阪行きの待ち時間は2時間20分である。街に出て、ひとときのハイタイムが過ごせるのではないか。荷物はイタリアから日本までそのまま持っていってくれることだし。」 決心を固めた頃、アルプス山脈は終わり、青かった空が、雪の街が現れてくる。世界はあなたのもの・・・ アムステルダム、スキポール空港に到着すると、私は一番に席を立ち、長いロビーを勢いよく直線的にズンズン進み、イミグレーションも税関も強張った笑顔で通り過ぎ、まずは空港を出た。そのまま、振り返ることも迷うこともなく、速攻で駅に向かう。 ロッテルダムからやってきた列車はビジネスマンで溢れかえっており、よりよく私は、シャキっとした。ここまで15分。「アムステルダム中央駅まで4駅20分、往復40分、列車は1時間に4本、列車の駅での待ち時間15分、空港から飛行機まで20分、予備時間20分、つまりアムステルダム市内滞在時間は、許されるところ、30分!」私は飛行機の中でこの計算ばかりをしていた。大学の試験のように計算するごとに合計が変わるという一抹の不安を抱えながらも、兎に角市内滞在は30分以内なのだ、と呟いた。 家庭で父親に暴力を振るわれ、絶対こんな感じの人とは結婚しないと反面教師にしながらも、父親のような人と一緒になってしまい、暴力夫に悩まされる女の気分になりつつも、車窓から余裕をかますふりをする。 アムステルダムセントラルステーション13時20分着。駅の構内で、3,000円を両替し、いざ街へ!と駅から出た瞬間に、ジャンキーコカインプッシャーにまとわりつかれる。そいつを何とか振りほどき、駅前の信号待ちをする。 そして、駅から一番近い喫茶店に直行し、カウンターにズンズンと一直線に行き、「コーヒーとこれ下さい」と間一発注文謎の滅法興奮気味の東洋人は注文する。注文を終え、店を見渡すと、昼間からヘロヘロした黒人3人組と、白人男女5人組。ウエイターの若いねえちゃんは「イエース」と何か間延びした返事をくれる。こっちは事情があって結構ノンビリできないんだ、そんなスロオな返事をしないでくれ、と私は小さく思う。日本から持参していたベネチアで読んだ「紺色のベネチア」(塩野七生)を取り出し、カバーを剥ぎ取る。焦ってはイケナイ、飛行機はきっと私の帰りを待っている、ロール、ロール、ローリング。店内は甘ったるい。私は深呼吸し、その匂いをかいだ。コーヒーのプラステックの細いマドラーでコーヒーを混ぜ、気分はプラステックス。 ふと、時計を見ると、私の緻密な計画より5分早い。私はテーブルのものをポケットに無造作に詰め込み、いい感じだと呟き、多少の余裕をみせて、ウエイトレスに笑顔を送り席を立つ。ウエイトレスは「ハーイ、バーイ」と相変わらず間延びしていた。勿論、支払いはキャッシュオンデリバリーで済ませてある。 外は、10日前よりは暖かくなった気がする、そんなことを感じる心の余裕さえみせた私は、ふと運河を見る。まだ凍っている。市内運河スケートマラソンの日程も近い。歩道は広く取ってあるが、歩道の横にある赤い自転車専用道で危うく自転車にひかれそうになる。 駅に戻り、まず最初にすることは、お金の札をコインに替えて、自動販売機で切符を買う作業である。本屋に入り、原色のチューリップの絵葉書が派手に目にボヨヨーンと入ってきたので、それを購入することにした。キオスクの太った女性店員が笑顔を振りまきながら、日本語で「アリガト」といってくれて、両国の過去には非常に古い歴史がございますなあ、と思い、私もニヤニコした。しかし、店員はすかさず「あといくらいくらのコインを持っていないか」と尋ねてきているようだが、私はコインをお釣りで作るために絵葉書を買ったのである。それに非常に複雑な計算をさせられているような気分に陥り、何故か、財布を意味なく見ているのであった。いや違う違う、コインを作るのであった。私は再び店員を見て「コインはないのよ」とヘラヘラ答えた。 よし、コインはできた。自動販売機である。行き先の数字を押せば、金額が出てくるので、その金額を入れれば切符が出て来るという仕組みなので、えいや!と私は気合を入れて番号を入力する。エラー。少し焦り、その間に何番線から空港行き列車が出るか時刻表で確認する。そっか、機械が壊れているのかと思い、違う機械に向かい、番号を押す。キャンセル。おかしい。すると先程の機械でちゃんと人は切符を買っているではないか。何故、私だけがキャンセルされるのだ、ああ、ラリルレミゼラブル!落ち着け落ち着け、ここには何か問題を見落としているに違いない。私は全集中力をかけて考えた。そしてついに答えを出すに至った。私は、アムステルダムにいるのに、アムステルダムの番号1000を押していたのである。空港で1000を押して、切符を買ったのであった。そりゃキャンセルされるはずである。オーマイガデムアットンブリケエである。スキポールだった!しかし、またスキポールの綴りが良く分からなくなり、カバンを何故か空け、本を出し、綴りを確認した。頭は一気にスパークし、スキポール空港1117番を押したら、速攻で機械的に、料金を表示し、無事購入することができた。勿論、ここで予定の時間を10分オーバーしていたのであった。 すっかり出発時刻と何番線か忘れてしまった私は、再度、時刻表でを確認しに行った。そして、駅を余裕であるいていると、やたらいろんな人種がいて面白いなあ、としばし路上観察してしまった。しまった、また何番線か忘れてしまった。もう適当でいいやと、最寄のプラットフォームに上がってみた。するとそこには列車があり、行き先を見たらスキポールと書いてあるようにみえたが、どうも綴りが違うような気もした。心配なので、近くにいた人に聞いてみたが、やはり違うとのことであった。仕方ないので、もう一度地下の時刻表を見に行き、時計を見ると、乗る予定の列車が今、まさに出発しようとするところであった。いけないやばい、私は走りに走った、が、無情にも列車の扉は閉まった。 15分後に出発する列車に乗り込み、出発を待った。もうこれ以上のミスは許されないという非常に厳しい状態であった。ましてやイミグレーションが混んでいれば終わりである。列車の出発するあと7分間が異常に長く感じられた。 一心不乱の状態でX線を通過し、異常に広い空港の端まで歩いていくと考えれば気が重くなった。列車は静かに出発した。運河とメルヘンな風景が見え始めた。空港まで4駅だが、2駅目で既に田舎の風景になる。20分がまた異常に長い。流れる風景はせわしく、乗ってきた子供達の声が煩わしい。 スキポール空港駅に到着し、何人かの背広姿の人たちが立ち上がる。ともかく私も立ち上がり、右手右足を同時に出しながら、通路を進み、列車を降りる。神からの導きにより、すべて、スムーズに進み、X線検査、イミグレをやり過ごし、遠くの搭乗口まで進んだ。まさに、機内に人が入っていくところであった。 余裕だ。私は、それを確認して、引き返し、からからになった喉を潤す為に、バーに寄り、一杯を一気飲みして、飛行機に最後の客として入っていくのであった。 自分のシートが見つかり、座った。本当に大阪行きか不安になってきたが、何も言われなかったし、日本人も多い。何と言う平和な気分。後は、私の体を東洋の果てに自動的に連れて行ってくれるだけである。行け行け!グッドとリップ!(優雅で感傷的なイタリア紀行を終えた「私」は、途中で飛行機乗り換えのアムステルダム2時間の間にアムスの香りを嗅ぐために、厳しく辛い時間旅行に出掛けたのであった。そして35分後に離陸というのに、まだアムステルダム中央駅で、乗るべき電車を探している紳士状態であった) 細い機内の通路を歩く間、随分前から座っている日本人団体旅行者たちに何かジロジロ見られている気になり、やたら自意識過剰状態になり、一番後ろに自分のシートを見つけ、隣の空席に荷物を置いて、どっしりと座った。本当に大阪行きか不安になってきたが、何も言われなかったし、日本人も多い。何と言う平和な気分。一応、もう一度、搭乗券の半券を確かめる。後は、私の体を東洋の果てに自動的に連れて行ってくれるだけである。大魔術である。1万キロの彼方へ。矢鱈滅鱈、リラックスし、心の平穏が訪れた。行け行け!グッドとリップ! 飛行機は滑走路を離れた。前の方の団体客は、ぎっしり座っている。客室乗務員が私のところにやってきて、「前の方のシートが空いてますのでお越しになりませんか」と他人に聞こえないように小声で言った。ビジネスクラスへのお誘いだ。今や大王に限りになく近い私は、小声で返した。「結構です」何故なら、私の列は全部空席なのである。これから私は5席ぶち抜きにして、フルフラットで眠るのである。全てのアームを上げ、私は寝転がった。そして90分が経過した。勿論、私はグッドトリップ中である。機内放送があった。「ただ今、コペンハーゲン上空ですが、当機に異常が発生しました。ただ今、地上との連絡を取っています。90パーセントはこのまま行きますが、10パーセントは日本に行く自信がありません」と機長がきっぱり言った。続いて日本語の放送が入った。「皆様、当機に異常が発生しましたが、全く問題ありませんのでご安心下さい」その日本語を聞いた日本人観光客が団体でどよめきだした。「当機は、スキポール空港に戻ります」そのとき日本人が叫んだ「見ろ!エンジンから燃料が漏れているぞ!バクハツするぞ!」と叫んだのである。数人が何故かカメラを持ち出し、翼近くに集まり、「ホンマや!」と叫ぶ。日本人たちは団体で更にどよめき、パニック状態になった。私は、寝転がって、ノートにリラックスの心情を書きとめていたところであった。バッドトリップ・・・私はノートに「幸せな人生だった」と書く内容を変えた。大変、バッドトリップである。10パーセントの確率で落ちるのではなく、10パーセントの確率で引き返すってことだよね、と自分を慰め、着陸の為、機体を軽くする為に燃料を捨てなければならないんだよね、と自分を励まし、飛行機墜落なんか何十万回に1回も落ちないからね、と自分を高揚させ、阪神大震災にももう直撃したし、と訳の分からないことも考えた。考えれば考えるほどバッドな方向に進んでいく自分がベリィバッドであった。 大抵の日本人は知り合いや友達と来ているので、お互いワメキあって、相乗効果を高め、余計に怖い怖いゴッコをしている。私は、一人なので、もはや仙人モドキである。体は動かないが、しかしながら心臓が口から出そうになる。心臓音が五月蝿い。外見と中身のギャップが激しいものだな、と静かに思っていると、もうアムステルダム駅前喫茶店から3時間が過ぎようとしていたので、もはや平静であるはずだと、急速に覚めていく気がするのであった。アアあぁああいあぁあぁあああっぁあああああ・・・頭の中は真っ黒になり、大きな「あ」や小さな「あ」が滅茶苦茶に暴れまわっていた。 今日2度目のスキポール空港ランディング。密かに、このまま、航空会社持ちで、豪華ホテルにお小遣い、出発は明日というコースを期待するほどに、私は余裕の酔っちゃン振りを発揮していたのであるが、90分も機内に押し込め、悪い部分だけ交換して再び離陸した。90分は伸びきったカップヌードルで誤魔化された。結局18時間のフライト、しかし、フルフラットの私は全く疲れず、大阪へ。税関。「どこへ行ってきましたか」私は胸を張っていった。勿論オランダとは言わない。「イタリアです」「じゃあ買い物されましたか」「勿論です」「買い物は、いくらぐらいされましたか」「えっ?」「はっ?」「あ、その5,000円ぐらいですかねえ」「えっ?」「あれっ?」「少なくないですか?」「はっ?」「まあ、いいでしょう」 何がいいのか分からなかったが、まだキテイルのかと一瞬思ったぐらいであった。しかし、無事税関を通ったことは、快挙である。歓喜である。寛容である。自慢である。頭脳の勝利である。チョットダケグッドトリップであった。
2003.12.25
コメント(1)
神戸市灘区の銭湯は何を隠そう14箇所あると噂されている。既に、私は8箇所を踏査しており前人未踏の14箇所まで鉛筆舐め舐め日めくりをめくるだけで達成しそうな破竹の勢いである。http://www.ne.jp/asahi/world/hopper/sento/kobenada/nada.htm 今日の私の昼飯はコチラhttp://www.harijyu.co.jp/ 若い頃はいかに安く早く酔っ払うかが課題であった。アクエリアスやポカリスエットなどのスポーツドリンクに焼酎を割って飲む。血液の塩分濃度に近いこれからのスポーツ飲料は、体内への吸収を助けるためのようだ。但し、味はまずくなる事は保障する。「明日にのばせることを今日するな」ハンフリー・ボガート主演《アフリカの女王 19520812 America》イランのことわざ 何かいまいちいい言葉とは思えないが惹かれてしまう言葉ではアル。http://www.kt.rim.or.jp/~anono/word/words.html 都合のいい時に数字のマジックを使ってしまいますすみません。「ご主人様こちらにすると100万円アップするといいますが、何年住みますか仮に20年住んでみてください。年間とまりもあるとして300日家にいるとして下さいよ、6000日ですよ一日170円弱ですよ、たったの」「缶コーヒーですか、100円としてくださいよ、月20本飲むとして下さいよ、30年で72万円にもなりますよ、凄いですね」http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/tokei/hojin/03/index.html ネクタイ「それベルサーチやんか」とベルサーチにから縁遠そうなおじさんに言われた。確かに、金黄色の派手目のネクタイではあった。これは、イタリアのミラノで購入した1000円のネクタイであった。さすがは一流またはそれらしい人物がつけると、安いものでさえ一流に見えるから不思議なものだと自分を慰めた。不思議なことに、私以外の人間は、まだ私が一流の人間だということに気がついていないので、おそらく私以外はこの偽ベルサーチネクタイを似合わないかと思っているだろう。 そう思いながら、ネクタイのタグを見ると、メイドインUKと書いてあった。きっと昨晩誰かがタグを付け替えたのであろう。そうでなければ、6年前のファシズム建築ミラノ駅近くのデパートで購入したときからメイドインUKだったのであろう。 その時気がつこうが、6年後の今気がつこうが、私の人生にさほどの影響がないことは、多分まだ誰も知らない。
2003.12.24
コメント(2)
フィンランドに行った時、「フィニッシュクリスマス」と何度も言われた。笑顔で。数十回目にやっと気がついた。「何も終わりじゃないんだ、フィンランドのクリスマスだね」といってくれていたんだ。私馬鹿ね。大学1年の時に、インドのジャイプルで知り合った西洋人がアイム イングリッシュといった。咄嗟に私は思った。なんでこいつ英語やねん。数十回頭の中で反芻したら分かった。ああ、なんだ英国人か。私馬鹿ね。今日変わったメガネをかけた女の子を見た。薄い青が入っていて、それが黒目の所に反射して黒目が青くなっているのだ。それはDリンチ映画の「デューン」みたいであった。http://www.urban.ne.jp/home/ubik/cinema/cinema085.html (別にみなくていいよ)今日、一億円のものを売る為の広告媒体で高級雑誌からの紹介があった。(以前から何度かあるのだが)その雑誌は「ナイルスナイル」というのだが、購読者の平均年収は3000万円。5万部発行で、購読者は勝手に審査されて無料送付という書店で売っていない雑誌だ。年収2000万円以上が90%を占めて、関西でも18000部送付されているという。http://www.a-nb.com/nilesnile/ (別にみなくていいよ)中味もお金持ち~っていう広告類、車家ジュエリー記事は旅行、文化、趣味としては金のかかるもの、パラパラと見るには目の保養になる雑誌だ。http://www.o-wave.or.jp/4omise/4_98.htm (晩飯今日はここで食った)
2003.12.23
コメント(1)
1997年はパリで迎えた。大晦日にバカラ博物館に行くと、そこに勤めるマダム日本人が笑いながら行った。「正月にシャンゼリゼ大通に集まるのは田舎者だけですよ」と。私は、ビール片手にシャンゼリゼに。凱旋門がライトアップ、大通りの木々がライトアップ、歩行者天国、どちらかというと若いマナー知らずの田舎者が多い。道端は割れたビール瓶で危ない。私の後ろは、有名なカフェ、フーケ。カウントダウンが始まると、着飾った紳士淑女がシャンペン持って立ち上がり、時を刻むのを楽しんでいる。華やかであった。ガラス越しに、そっちの世界にいつかは行こうと思って、ビールを飲んだ。雪の中。カウントダウンが終了し、新年を迎え、ドサクサに紛れて、若者たちは、誰彼なしにキスをお見舞いした。カフェフーケ、ガラスの向こうでは紳士淑女がキスをしていた。フランス人のキスの音、割とうるさいんだよね。チュバって感じ。
2003.12.22
コメント(0)
今日は今年一番の寒さと思われる。朝、急いで、銭湯に行く。既に神戸市灘区の銭湯を6箇所制覇しているがまだ倍程銭湯がありそうだ。早朝から小原ショウスケサン並に朝寝朝酒(はしてない)朝風呂しててふと考えた。もしかして銭湯、それも温泉多くないか?そりゃそうや六甲山系のいいお湯が沸いているのだ、考えれば有馬温泉の六甲山を隔てて反対側にある。そうかもしかして神戸市灘区は宿泊のない温泉街だったのだ。今更に気がついた。昼間は雪まで降ってきた。寒空を歩いていたら思い出した。正月も近い。ミレニアム世紀末2001年はニューヨークで迎えた。(世紀末は2000年でなく2001年である。0年がないから)私は12月31日は朝の9時から夕方の6時までウォールストリートからバッテリーパークからレキシントン、アッパーイーストまで歩きに歩いて、体の芯から冷えていた。頭の中はガラクタをひっくり返したように混乱し、昔は馬鹿にしていたが、人間、行くべき時期というのはあるのだなあ、今回は来る時期を間違えたのかも知れないなあと思い、棒になった足をホテルの一室でさすっていた。(三島由紀夫がインドには行く時期があるといったのだった。多分、どんな場所にも行くべきタイミングのある時期があるのかもしれない。勿論、タイミングはこちらからも合わせることはできるとは思う)私は、ブルックリンラガービールを部屋でぐびぐびやっている。暫くしてから飲むビールは窓の外に置いてある。ただただテレビをつけている。ここからほんの2ブロック先7ブロック南のタイムズスクエアの高揚がテレビから伝わってくる。確か6年前は私もあの中にいた。世紀末は、ホテルでなんとなくみみっちくいくのがおつなものよ、何となくいじけてるみたいだよ、そんなことをつぶやきながら、デリでトッピングしてきた5ドル分のおつまみをぱくつく。部屋の中ではTシャツ一枚。考えれば、私は日本で生まれた訳なので、20世紀は時差分14時間多くを過ごした。その3年前、パリで正月を迎えた時、ワインどころかビールさえ買うのを忘れていたことを思い出し、今回はばっちりだ。日本からもちゃんとソムリエナイフは持ってきている。パリのギャルリーラファイエットだったかどこかで渋いいいソムリエナイフがあったのだけど高くて、迷った末やめたのだが日本に帰ったらすぐ雑貨屋でクズ値ちゃうかと思われる程の値段で同じソムリエナイフを見つけたのであった。そんなこともあって胡坐をかいてワイン開けて26階から乾杯。2001年。町中には2001の真ん中の00がメガネの枠になっている愉快なプラステックのメガネをかけた連中がうろうろ。ミレニアム私は書き出した。パッションについてワークについて暴力について笑いについて共感について将来について限界について経済についてさあて、考えるぞ、何せニューヨークは明るい、景気がよい。しかし酔った。考えるのは来年にしよう。まだ366日ある。きっとその頃には書き出したことも忘れている。人類の得意技、とりあえず先延ばし。延ばした期間だけ、遠のく。ニューヨークはピカピカだ。
2003.12.21
コメント(2)
一晩中、砂漠の一本道を鉄道は走り、朝にジョードプルに着いた。 駅には、極菜色のサリー姿が幻想的である。服の輪郭が、朝焼けに照らされてぼやけている。手や首に巻きついたリングが美しい。インドでは、どこでだって、朝は掘っ立て小屋で1杯のチャイから始まり、朝の営みを眺めることから始まる。 どこまでいっても、時間はのんびり流れる。砂漠の灼熱の時間まであと、数分、今は肌寒いぐらいだ。次のデリー行きまでの列車まで、12時間待ち。 泊りではないが、100円程度の部屋を1室とった。3階のバルコニーから人通りを見ていると、結婚式の行列が始まった。国際結婚華やかであるが、ヒンドゥー教徒と他の宗教の者と結婚することはまずないし、まだまだ、自由恋愛はなく、結婚式当日初めて二人が顔合わせということが多いようだ。国際的な仕事をしているビジネスエリートだって例外ではない。 踊りながら、道行く行列の人々が、面白がって写真を撮っている私を見つけ、こっち来いこっち来いと手招きし、私は降りていく。そして、写真班のカメラと、私のニコンの一眼レフを見比べて、オマエもこの写真班の横についてバンバン写真を撮ってくれと、何故か俄か写真班に組み込まれ、一番いい席を確保したのであった。 その後、まだ時間があったので、冷房を楽しむ為、映画館に行った。映画は長く、途中休憩があり、例によってインド人に囲まれ「インド映画は最高だ」を大声で主張された。インドは世界一映画を量産している映画大国であり、一本の映画にアクション、ラブ、コメディなどが網羅されており、すべてが凝縮されていなければインド人も満足しない。そして、辛い現実を忘れられる貴重な夢の時間帯なのである。
2003.12.20
コメント(2)
威嚇発砲したら危ないやんなあということを考えていたら、やっぱこうであった。http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Poplar/1899/news1/07news/news142.html 自衛隊でイラク派遣志願者を募集したところ、予想をくつがえして、ものすごい数の応募があったと、テレビで、言っていた。士気が高いのではないだろう。イラクに行けば一日当たり4万円の危険手当が出るらしく月に100万円稼げるとうことですな。しかし、お金になっても命がなくなったら意味がないし、士気が高いのはいいが死期を早めないようにして欲しいものである。それにしても外交努力もギリギリまでせずに、武力行使も国連の承認も得ず、復興計画も立てずにやってしまいよったUSAの傲慢さに日本も怒ればよかったのに。そりゃ貢献したらええけど、派遣することないやろ。おまけにこの前は戦争に反対したロシアやフランスやドイツといった国を復興事業にいれたらへんといいよった。国家あげてのマッチポンプやな。はじめから金儲け図星。商売には神様がいる。「おかげさま」という神様ライト兄弟が空中を飛んで100年。この人類が初めて空中を飛んだ人類史上の快挙の時ライト兄弟はこういいました。「興奮はていないよ。飛ぶと思っていたから飛んだまでさ」意外にも飛行時間は12秒。100フィート。今日の昼食したところ(何度も行っているが950円の豆腐ランチなかなかうまいです。雰囲気もいいが12時に行くと必ず並ぶのでご注意)http://www.shushinkan.co.jp/ 「ひさしぶり」という同窓会専科の居酒屋の宣伝が地下鉄の広告にあった。同窓会のアポとりますだの恩師は無料なぞ書いてある。「久しぶりー、ゴメンネ、連絡しなくて」女性は、暫く会っていないと、罪悪感のようなものを感じるのではないか。久しぶりに会った友人に対してゴメンネと謝るのではないか。連絡しないくらいで謝ってしまうのか。男性同士が久しぶりに会ったのであれば、「おっ、久しぶり。飲みにでも行くか~」とでもなるのが自然で、謝るという要素はない。女性は常にコミュニケーションを取っておかないと忘れて違和感感じるようになるのかも知れない。コミュニケーションの頻度が、相手方の大切度なのかもしれない。ゴメンネとは、あなたのこと大切なのに疎遠で連絡もせず悪いなと思っているのかも知れない。反面男は、お胸コミュニケーション自体は単なる目的に過ぎず、謝るという考えはでてこない。きっとそうだ、世の中の男性諸君、パートナーにはひつこいほどにコミュニケーションをしてあげましょう。さもないとどこかの私みたいになるよ。以下デザインが面白い(ナローバンドの方は見ないでいいです)http://www.adametrope.com/indexs.html (すべったあ)http://www.sodaplay.com/zoo/index.htm (マウスをドラッグさせると約2分は楽しい)http://www.romiglia.com/esenciales/ (これ見たらセットアップの仕方分かります)http://www.adagio-fc.com/ (今度は1分ぐらいかな楽しいのは)http://www.centrifuga.net/centro.html (思いがけず、忙しい)http://www.cube2.jp/ (映画のHPだって負けてはしない)http://www.saburi.com/v2/ (なんか凄い感じ)http://www.xiaoxiaomovie.com/ (シュールな漫画なんでみないほうがよい)
2003.12.19
コメント(2)
久し振りにコカコーラを飲んだ。 タイの山岳民族アカ族の村を訪ねた時、そこにもコカコーラがあった。冷蔵庫はないし、アカ族の人々は飲まない。値段は市中の倍。この村まで2日歩いてきた。勿論、交通手段は徒歩しかない。つまりケースをこの村の人が運び込んできたのだ。ここまで来て世界制覇のコカコーラが欲しいか。どうだ飲みたいかと尋ねられ、いやいらないというのは簡単であったが、ついつい貴重な現金収入源に応えなきゃと思ってしまう。温いコカコーラ。割と不味い。何故かフランスのニースで飲んだコカコーラは旨かった。気候も多いに関係あるかもしれない。ヨーロッパ文化はキリスト教文化そしてギリシャ文化を基に成り立ってきた。そもそもヘレニズムとは世界のギリシア化させるという意味だ。これはアレキサンダー大王の意図そのものである。この人物がいなかったら現在のようなヨーロッパの文化ではなかったんだなあ。考えれば、後世に名前をまったく残していない重要人物はいっぱいいるのだろうな。その人がいなかったら今のような文化ではないというようなエポックメーキング的な人はいっぱいいたんだろうな。ちなみに、アレキサンダー後約300年。また世界国家ではなく世界化を目指した人物がいる。その人、イエスキリストは武器ではなく思想、神の愛をもってして図ろうとした。そこにはアレクサンダーが敷いたギリシア化、ギリシア語があったからこそ、この新興宗教は広がっていったのだなあ。
2003.12.18
コメント(6)

フィリピンの首都マニラのあるルソン島から一番近い南の大きな島はミンドロ島だ。昔、小野田さんが発見されたルバング島の横の大きな島だ。そうそう戦争の終わらない小野田さんを説得して連れ帰ったのはヒッピーだった。そのヒッピーはネパールのイエティ(雪男)にその後魅せられ、何度も探しているうちに遭難して帰らぬ人となった。まあそれはいい。その島にはご機嫌のビーチがあるのだが、ビーチというもの、これは堕落である。朝日を眺めて暗くなるまでにおよそ3時間もないと思われる。時間スピードが加速度的に増し、そして行動範囲が加速度的に狭まりバンガローのテラスで一日が終わる。その日も朝におばはんがやってきて「テンプラ食べたくないか?」といわれ、私とマニラで集合した友人は「食べたい食べたい」といった。そして夕方運ばれてきたのはテンプラではなく(コロモがない)単に油であげただけのえびであった。そのえびの量たるや、勘弁してくれというほどの山盛りである。バンガローの床下には、匂いをかぎつけ多数の犬が集まりだした。我々だけでは食っても食ってもなくならない。しまいには、そのまま犬に投げつける有様。(最初は皮だけだったが)それをみた現地の女の子は「それは犬が食べるものじゃありません」と涙ながらに怒られた。辛かった。申し訳なかった。でも胃は限界だった・・・・3度目か4度目のプエルトガレラであった。港からジプニーでサバン村に着いた。宿屋のおばさんはワタシを覚えていて、再来を喜び、彼女の家の隣のバンガロウを貸してくれた。もっとも便利なのだが、夜になると、波の音と風の音がが心地よく響くわけがなく、50メートル先のディスコの音がガンガン漏れてくる。勿論、ワタシは毎晩少しだけビールを飲みに行き、舞台でビキニで踊る女性たちと訳の分からないトークをして、一人、静かなビーチを波際沿いに歩く。朝は、子供たちがワタシのバンガロウをノックしてきた音で起き、とりあえずその子供にビールと煙草を買ってくるよう命令し、駄賃をあげる。適当に起き、テラスでぼけっとしていると、ややもすると夕方になってしまうので、海に浮かぶイカダのレストランまでボートで渡っていく。ビールを飲んで、海を覗くと十数メートル下まで見え、珊瑚で埋め尽くされている。飛び込むと怖いぐらいの海。 もう死んでもいいや、と思う瞬間。 ある日、宿のおばさんは、西洋人たちが無人島にピクニックにバンカボート( バンカ ジプニー http://www.ccwa.or.jp/hiroba/p_norimono.htm )で出掛けるからあなたも便乗しないかと声をかけてきた。 断る理由もないので、ワタシは、ピクニックセットを持つのを手伝い、おばさんの後についていった。西洋人が3人に多分マニラから連れてきたのであろうにわか恋人の女性が3人。おばさんに、バンカボート運転手、そしてワタシ。 ワタシはそのときラジカセを持って旅を続けていたので、珊瑚礁の上を滑る様にボートが進みだすやいなや、音楽を流した。ポリス。フィリピン女性2人が叫んだ「ワォー、ロッキシー」そうして、バンカボートの上でリズムを取った。西洋人もガハハと下品に笑う。私も調子に乗って立ち上がってリズムをとろ、、、うと、し、たが、海に落ちた。もうそのまま落ちていってもいいと思った。幸せの絶頂でもなんでもない。エンジン音が消え、西洋人が真面目に心配そうな顔をしてくれて、申し訳ない気分になった。若いフィリピン人女性が古びた一眼レフをワタシに向けてピシャリと情けない姿を撮った。ワタシもボートによじ登り、自分の荷物を開け、照れながら一眼レフを取り出し、彼女をパシャリと撮った。皆が笑った。南国の太陽が熱かった。バンカを見たイルカが併走していた。○月○日 朝早く、ミンドロ島に。何故ならIDLE LAZYだから。○月○日 涼しい海風。その風の流れを肌でひとつひとつ感じる。昔、フィルムの中の世界。この海と、椰子と、海に浮かぶ椰子が数本生えただけの小さな無人島、こいつらはまとめて映画のセットという噂。こんな嘘っぱち、とっくに見破っている。昔、原色の風景。こいつらは模型に過ぎない。そう思っていたら日が暮れる。○月○日 夜になった一日何をしていたか不明。○月○日 起床11時50分。風邪をひいたか。寝すぎたか。椰子が見えることは知っている。何故、島の老若男女は私の名前を知っているのであろう。もう皆に覚えられた。○月○日 「そろそろいましょう」「ちょとまて」「どのくらいですか」「あと5分や」「5分たちました」「曲が終わってからや」「曲は終わりました」「俺がいいというまでや」「いいと聞こえました」「エヘヘ」「エヘヘではありません」「Mいわく・・」「Mさんがどうしたんですか」「Mと俺はどちらが差別主義者や」「それはあなたです」「馬鹿なことをいうな、Mと一緒にするな情けない」「しゃーないな」「訳分からんな、どいつもこいつも」「何が訳分からないのですか」「思想的に誰から一番影響受けたと思うんや」「それはあなたです」「ホンマか、アホかおまえは」「本当ですよ」「何を馬鹿なことを、俺はコンピュータソフトちゃうぞ」「ちゃいますね」「人を石ころみたいにゆうな、何かおもろい話ないんか?」「そんなのないですよ」「オマエは頭はいいが運が全くないのお」「そうですか」「利口やのう」「何をおっしゃいますか」「俺よりは利口やな、ところでオマエ何書いてんねん」「文字です」「蝿みたいな文字書いて何のこと書いてんねん」「いや、あの、この会話を書いてます」「何で、何でそんな固いこと書いてんねん」「だいぶ、きてますね」「オマエもしかして、俺を酔わして吐かせるつもりちゃうんか」「いやいや」「オマエの考えそうなこっちゃ」「下世話な話はやめてもっと夢のある話しましょうよ」「フン、宇宙に果てはあるんか」「その前にもっといかがですか」「ちょっと待て、先を急ぐな、夜は長い」そうやって押し問答が永遠と続く・・・○月○日 さて、めし、吸引、ビール、ウンチ、シャワー、バー、海、急遽結婚式に参列、パイナップル、ココヤシ、ダンサー、砂、バンガロー、イス、ディスコ、レストラン、イヤリング、褐色、犬、タガログ、サリサリストア、OK,サンセット、マッチ、服、太陽、タバコ、フロートボート、眠る、蚊帳、猫、時間、ジャングル、バンカ、スパゲティ、ESQ、よっぱらい、ハーフスパニッシュブラッド・・・○月○日 踊っている、快楽という時間を買い捲り、今や曲だけが流れているアアアアアアアア、オンリーマイドリーム。んー、サンミゲルビールラッパのみ。足元のビールケースには空箱には空瓶が1ダース。鏡を覗くと、ああ、もうヤバイ。目をトロンとさせなくたっていいよ。
2003.12.17
コメント(2)
鶴橋駅は珍しい駅だ。焼肉の匂いが充満している駅は、日本中探してもそうそうない。寒いのでもう布団に入りたく思いますが、寝て、動かなくなれば、人もモノと同じになる。何故存在するのか、人は問う。何の責任もないだらしない奴。人の言ってることをハートで理解できない奴。約束をまもるどころか忘れる奴。決断力も勇気もない奴。自分で決めた期限も守れない奴。都合悪くなったらコロコロ方針を変える奴。言い訳人生…いかん、自分のことばかり言っている・・・西日本一番背の高いマンション西日本で一番背の高い(50階建て)の分譲マンションを見学した。(オノボリサン状態であった)http://www.ct-osaka.com/index2.html (別に見なくていいよ)最上階を購入したのは島田真助という噂が以前から流言飛語していたが、違うとのこと。しかも西日本一というのはしばしで、弁天町のほうでまた抜かれるらしい。ちなみに世界一高層分譲マンションはニューヨーク摩天楼にあるトランプワールドタワー、90階。考えれば、一番高い建築物の所に行ったのは、上海グランドハイアット(世界3位)ということになるだろうか。地上87階のピアノバーでは、ピアノがピアピアしていた。http://www.analatte.com/shanghai/pudong/pudongh_h1.html せこいことに、そのバーでは最低2杯ので下さいとウエイターにささやかれる。耳障りなんだよ、2杯ぐらい飲むわいなと冷静に思った。ちなみに私はこのトイレで大きい方をしてしまった。つまり自分史の中で、今までで建築物の中で最も高いところから出した場所ということにもなるであった。馬鹿と煙は高いところがすきというが、私はニューヨークで今はなくツインタワーも上ったことがないし(下までは行ったが行列だからやめたのが真相)ベルリンではラジオタワーにも上らなかったし(道に迷ったというのが真相)クアラルンプールでは世界一超高層のペトロナスツインタワーに上らなかった(まだできていなかったのが真相)http://www.asahi-net.or.jp/~cj4n-nkmc/d-data-k1.htm
2003.12.16
コメント(1)
何を隠そう、本日は兵庫県中部加西市に行った。http://www1.ocn.ne.jp/~harima/ (別に見なくていいよ)今日パイロットの方に聞いた話であるが、ジャンボジェット機を1時間飛ばすと、燃料代やメンテやなんやで250万円かかるという。ロサンゼルス10時間なら2500万円か。ちなみに確かジャンボジェット機は灯油で飛ぶ。ジャンボジェットの燃費は1リットルあたり60m。東京→ロサンゼルスが約1万キロとして、166,667リットル必要。リットル35円として燃費は580万円。乗客450人で割れば一人あたり1万3千円くらいだから採算は取れるか。ん?何か計算合わないな。研修が1時間250万円カモシレナイ。訓練生は20時間飛んで本番らしい。つまり5000万円かけるわけだ。それで使い物にならなければクビらしい。ちなみにあのシュミレーターでさえ1時間50万円かかるらしい。チビシイのう
2003.12.15
コメント(2)
タイのバンコクの大丸の地下で散髪してもらったことがある(もしかしたらそごうかも)まあまあの高級サロンで、私は部屋に通された。個室散髪。何故だ。鏡張りの部屋に散髪台。とりあえず散髪台に座っていると、渋い男がハサミを持って入ってきた。私はゼスチャーで髭を剃ってくれることと、ばっさり短く切ってくれということを伝えた(が、全然伝わっていない)男は片手をひじにやり考えるポーズをとった。なるほどワシの頭をどうカットするのか考えておる訳ゃなふぉふぉふぉ、と思っていたのだが、よく見ると、考えるポーズで固まっている理容師は自分の顔を見ていた。何故だ。鏡張りの部屋にて自分の顔を見て嬉しいか。バンコク1日目 当時まだタイの地球の歩き方も出ておらず、バンコクのドンムアン空港も、現在の横にある小さな国際空港であった。 とにかく私は、まだ良く分からず、安いことが無条件に良いことだと信じており、日本人のたまるチャイナタウンのヤワラートも西洋人のたまるカオサンロードも知らず、サイアムスクエアのナショナルスタジアムに併設されているナショナルスカウトホステルという所に行った。ドミトリー1泊150円。しかし私はふと思った。こんなに安いのなら、公園にテント張る必要なんかナンもないやないかと。2ヵ月後に戻ってくることだからと勝手に荷物入れにテントを入れ、無断でチャイナタウンの泥棒市の路上で買ってきた南京錠を閉めた7月22日であった。 ボクは、何度か海外でお金がすってんてんになったことがあるが(正確に言えば三度だけだけど)、そのうちの最後が卒業旅行であった。それもボクが破産したのではなく、ボクの後輩が2度にわたって破産したのだ。 そのときやっとバンコクに着いて、一人が帰国し、その後輩と二人になった。持ち金は宿代を払えば自由に使えるお金はあと二日で二人で百円というところか。 仕方ないので、ボクはモノを売ることにした。ボクは何とウォークマンを売り、三千円を手にし、一挙に金持ちになった。ボクの後輩はボクの所持品を勝手に売った。ボクのベルトを三十円で。ボクのランボー「地獄の季節」とサリンジャーの「フラニーとゾーイ」を三十円で。ボクの余ったフィルムと、運動靴。ボクはちょっと激怒。後輩は反省したのか、日本人をつかまえてボクの千円のテレホンカードを売ってきた。でも売った時は既にチャックインしていた。馬鹿者!ボクは激怒を越え呆れた。 空港税のことをすっかり忘れていて、なんと20バーツ空港税を負けてもらったというのに・・・なんとなくバンコク1980年代、オイラは、初めてバンコクに来ました。バンコクの空港は今の空港の隣にあって、レーダーがくるくる回るのが見える小さな空港でした。まだ「地球の騙し方タイ編」がなかったので、小富豪旅行者向けのガイドブックはオーストラリア人の書いたロンリープラネットしかありませんでした。それによると、空港からは29番バスか列車で行けると書いてました。今ほどの大富豪でもエグゼクティブでもなかったので、タクシーはつかまえずに、駅に行きました。列車を待っていた坊さんにファラポーン中央駅行を聞いたのですが、英語が通じませんでした。もしかしたら、オイラが英語ができなかったともいえます。駅員に聞いてもニヤニヤ笑うだけで要領を得ないので、バスに乗ることにしました。29番バスはどんどんいくらでもやってきますので、2、3本意味なく見過ごした後、バスに乗りました。2バーツでした。当時は1バーツ10円なので、10円です。(後年、少しエグゼクティブ度が増し、冷房にも乗りました)交通渋滞で、終点につくまで90分程度かかり、これで10円ならなんとなく得した気がしましたが、交通渋滞だっただけでした。オイラは、経済学部だったので、いくらプチ富豪といえども、経済的な宿を選択するしかありませんでした。念入りに調べ上げた結果、サイアムスクエア近くの競技場のユースホステルが30バーツ(150円)だったので、駅からサイアムスクエアまで歩きました。勿論、タクシーかバスで行ってもよかったのですが、空港からのバスが実はここを通り過ぎていたのに、むかついて歩いていったのです。1時間も歩かないうちに宿に到着しました。途中、屋台に何となく座り、バーミーナムを食べました(その名前を知ったのはずっとあとです)。屋台の中国人が、紙を持ってきて、「日本」と書き、私を指差し、「中国」と書き、自分を指差し、微笑みました。何となく旅情はじまったじゃん、心の交流、なんて結構勝手なこと思った純情なオイラでした。宿に着き、外へ出ると、早速、散歩中のタイ人おっさんに声をかけられ、ビールを飲むことにしました。いい人だなあと思っていると、いつの間にかオイラが勘定していました。タイでビールはとても高かったので、オイラはここで一気に意気消沈しましたが、まだパッポンもカオサンロードの存在も知りませんでした。マレーシアホテル周辺かチャイナタウン周辺にしか宿はないと思っていたのです(カオサンは多分まだロンリープラネットでさえ1行ぐらいしか書かれてなかったと思います。その存在は、チェンマイで出会った西洋人に教えてもらったのです) そんな訳で、ここからずっとバリまでの旅が続くのですが、また3ヵ月後バンコクに帰って来た時に最後の宿としてまたこのユースホステル(ナショナルスカウトホステル)に泊まったのですが、最終日は、最終空港行きバスに乗って空港にゴロ寝しにいったのでした。その後、なんとなくバンコク ワシの所持金は3,000円を切っておった。騙されたり、散財したり、ぼられたりし続けたただけである。残りのバンコク滞在日数は3日である。そのまま日本に帰るとは問屋が卸さず、ソウルにストオップオーバー5日が控えておる。勿論、齢10代にシテ、プチ大富豪であった私は、顔パスが効くと思ったので、クレジットカードは1枚も持っていない。学生の分際でカードを作るのも言語道断支離滅裂侃々諤々日々是毎日である。 そんな訳で、私は涙ながらに金の無心をすることにした。ちょうど、この日、先輩が日本に帰るということを覚えていたのである。ワシは、その人がきっと空港で寝ると踏み、最終29番バスで空港に向かったのである。そして、先輩はいた。先輩の名誉のために名前は伏せておくが、通称ガリバーである。本人の前では言えないのが玉に傷なのであるが、身長190センチにして、21歳にしてまだ身長が伸び続けるのボレロなのであった。名誉を殴り捨てて、ワシは、空港に存在感を漂わせながら、床に転がっている先輩に優しく声をかけたのであった。 「センパイ、オカネカシテ」ガリバー先輩は、目を覚まし、目を擦りながら、慎重な顔つきと、高潮させた頬のまま、どことなく元気がなかったのであった。 「ああ、詐欺にあって、金ないんや」ガリバー先輩の話によると、こういうことである。 それは昨日のことであった。最後のチャイナタウンをブラブラ歩いていた所、車から身を乗り出した美人に声をかけられたのだという。1人はシンガポール人、1人は香港人、1人はマレーシア人なのだということで、この時点で怪しい訳だが、旅行者、ハプニングを好むの法則に則り、ついつい観光案内に連れていってくれるという甘い誘いに、全財産をベルトに巻いていることを確認し、取れるわけないよな、と自己弁護しながらも、乗ったのであった。 しかし、車は、観光観光といいながらも、あるモーテルに入っていったというのである。この時点でヤバイ男が出てきて身包みはがされるのでは、と思うのが常時であるが、気分は高揚し平常心はないのである。平易に言えば、スケベ心がでたのではないだろうか。どんな高貴な言葉で語っても、ガリバー先輩の下半身もガリバー状態だったのであろうとワシは予測した。そして、ガリバー先輩は、生まれてはじめての4Pを体験したという寸前であったが、4人が裸になった数秒後には、そのうちの香港人か誰かが、外を見て、「きゃあ、彼氏がいる」とわめき出し、「これからお楽しみだったのにゴメンネ」といわれ、いそいそ服を着出したので、ガリバー先輩も自ら身包みはがされ状態から、馬のぶらさげニンジン状態と変貌し、急いで、Tシャツやパンツを反対に着ながらも(多分)、車に乗り込み、そして元いた場所へ下ろされたのであった。まあそれでも中途半端でもなんとなく得したと思ったガリバー先輩は、そこで、ビールを飲んじゃったりなんかして、いい思い出作ったよなあと感慨深く思ったのであった(と思う)。 しかし、これが作戦であり、そういった砂利金はちゃんと残っているのであったが、ハラマキに巻いた全財産は、驚くことに見事に空っぽなのであった。最後の夜をスリクロンなどの高級ホテルなんかでフィーバーして泊まってやろうといった先輩の企みは無残にも夢破れ、夜、空港に向かったとのことであった。そして、寝袋を床に敷いて、フテ寝、ウトウトというときにワシが出現したというわけである。 まあ、前置きが長くなったが、要約すれば、私はオカネを借りることができなかったということである。仕方なく、私は、チャイナタウンに戻り、7月22日噴水の前で、ただただ時間を潰していたのであった。何故なら、冒頭のとおり、空港税150バーツ(当時750円)を払うことを考えるともはや、ジュース一杯、煙一服も大事にしなければならないのである。 そこに、手ぶらの娼婦がフラフラ寄って来て、私の隣に座った。「スリープ、スリープ」と彼女は言った。ワシは、全財産がいかに少ないことを日本語で熱弁を奮い、これがあさってまで使える全財産であると、100バーツ1枚を見せたのであった。娼婦は、何を思ったのか、噴水の脇に座ったまま、本当にスリープしてしまったのであった。頭が舟を漕いでいた。ワシは、ランドアバウトになっている噴水の周りを回る車やトィクトゥクを眺めていた。 やがて、娼婦は立ち上がり、去っていった。しかし、娼婦は、戻ってきた。ゆで卵を一つ持って。殻を剥き、「あなたオカネないのね」といって卵をくれた。 ワシはタイのやさしさを知った。 ワシは、タイのいい思い出と残金1,000円を持って、韓国5日間の旅に出たのであった。
2003.12.14
コメント(0)
何を隠そう、おでんを食った。それも大阪ミナミ方面でだ。http://www5a.biglobe.ne.jp/~yoriki/shirusei.htm (見なくていいよ。だって違う店だから)何を隠そう、次の月曜日は、焼肉となっている。鶴橋、海南亭に行くので、私を目撃したいか、私を愛してくれているか、私と話をしたいなら来て下さい。http://www.h5.dion.ne.jp/~spark/res/yaki.htm 帰宅したら、一度は直った(ようにみえただけの)給湯器が再び順調に止まり、状況判断を素早く下した私は、戦闘態勢に入り、あっ、違う、銭湯体制に入り、車に乗り23時50分に銭湯に到着。またもやカラスの行水を余儀なくされた。http://www7.ocn.ne.jp/~onsen/ この温泉の面白いのは、外に出ると、大きな道沿いに足湯があることだ。それも10円。朝の10時から翌朝5時までだ。タオルのない方は銭湯の方で販売していますと張り紙があり、申し訳なさそうに80円と書いてある。しんしんと、寒くてたまらない日の学校帰り、ちょっと寄っていこうか10円だしな~と言って缶に10円を入れ、生の足になり、足をちゃぽんとつける。う、たまらない。そして高校生たちは、ゆっくりした気分になり、決して真剣な話や真面目な話はせずに、気持ちいいねと落ち着いてしまっていたりなんかする。そんな情景を思い浮かべながら、車を出す。そういった風呂の問題という厳しい現実を抱えながら生きている状態の私だが、町は私の苦悩とはうらはらにクリスマスの空気だ。私はブデッィストだ。サンタクロースの原形は、4世紀頃に生きてたのニコラス司教という人に始まるらしい。彼はとてもお金持ちで、寛大で子供たちが大好きで、貧しい子供たちには時々窓からプレゼントを差し入れ、喜ぶ姿をそっと見ていたらしい。 何とも今考えればMジャクソンみたいなものかも知れない。現在、サンタは現在フィンランドのロバニエミの近くに住んでいる。サンタビレジという。ちょうど村を北極圏がはしっていた。はっきりいって私はあまり楽しくなかった。しかし北極圏を踏んでいる身体が何となく喜んでいた。http://www.finnair.co.jp/santa/santa_hist.html http://www.santagreeting.fi/ (日本の案内があるちゅうことはわしらはカモや)
2003.12.13
コメント(0)

夢の中の夢。夢の中で、ベッドで寝るシーンがあり、私は本当に寝てしまい、更に夢をみた。夢をみながら、これは夢なんだ、そして起きてもまだ夢を見ているんだよなあと強く意識した。しかし、夢の中の夢の内容は忘れた。まあそれは朝の出来事だ。夜1時から、焼き鳥屋に出掛けてきた。下記。http://www.mediagiga.com/yokocho/toritetsu_3go/ (別にみなくていいからね)そこで私は、突然ハゲの美学のことを考えていた。西洋人は、弁護士や議会、それからモーツアルト等をみれば分かるが音楽家、カツラをかぶっていた。考えれば、ああいう名誉職の方々にはハゲが多かったのかも知れない。日本は、ザン切り頭をたたいてみれば文明開化の音がするなんていって明治維新にばっさばっさとチョンマゲを切っていった。(切られていったのか)あのマゲっちゅうの、てっぺんを剃ってツルツルにするわけですな、ほっとったら浪人ですな、きっちりそってピカピカが侍ですな。そして、剃らなくてもいい人々もいっぱいいたはずだ。それはハゲの人々。もしかしたら日本はハゲに寛容なだけでなく飽くなき誇りを持ってきた歴史があったのかも知れない。それを西洋文明にパラダイムシフトさせられたっちゅう訳なのかも知れない。そうか、きっとそうだ。もし間違っていても、専門家でないのできっと許してもらえるだろう。なぞと言って杏子ハイをチューっと空けるのであった。トルコのイスタンブールのバスターミナルでホゲホゲしていた。近くに城壁があった。そこの前にハゲが通りがかった。「ハゲと城」と私の頭の中にキャッチフレーズが思い浮かび、急いで一眼レフを取り出し、気づかれない様に先回りし、シャッターに収めた。そして帰国後整理したアルバムの中でこの写真の横にちゃんと「ハゲと城」と説明書きを入れてある。めでたし。
2003.12.12
コメント(0)
何を隠そう、今日は朝から宅地建物取引主任者免許更新のための講習会であった。5年に一度更新ということは、以前地震の年に講習にきたと確か思うのだが(それなら5年前じゃないので計算があわないのはさておき)恐らくは私は宅建の免許を取得して10年かと思うと感慨深いなんていっている間に元町宅建協会に来て、講習を受けた。http://www.htk.or.jp/ (見なくていいからね)本を開くと、目が閉じる。消費者法、土壌汚染法、こいつが改正点で一番話題にあがることが多い法律らしい。ということは分かった。短い昼食休みには、歩いて大丸へ行き、大丸ポイントカードで買い物をした。http://www.daimaru.co.jp/kobe/ (見なくていいからね)この積立式のは、毎月1万円で1年12ヶ月で13万円のお買い物券として返ってくる。ゼロコンマの銀行金利とは違い、凄い利率だ。買い物しなくても商品券売っても、結構手元に残りますなあ。でも大丸も馬鹿じゃない、確か月々2,3万円が限度だ。3万なら39万円、金券ショップで売っても3万円弱の儲けになるわけやねんなあ。わっ、しまった昼飯食らう時間なくなってしまった。朝飯も食べてないというのに・・・夕方パーマヤ屋に行くことにした。予約した。カードを見るとなんと4ヶ月近く散髪していないことに気がつく。ここはカット代が5000円以上だが、髪がしっくりくるのは凡そ1ヶ月たってからだ。初めは気に入らなくても、うまく毛が生えるのを計算して、理論的に切ってくれるのだ。店長も、理屈があるんですねえなんか言いながら、車上荒らしにあったことや(私と同じ車友達でもある)正月の温泉旅行の話(私は予定がない)もしっかりしてくれた。カルカッタの路上散髪屋に行った。道端に簡易椅子と小さな鏡に散髪道具がちょろちょろ。数人の散髪屋が並んでいる。その前を私はよく通り、向かい合って髭を整えてもらっている姿を(散髪屋はウンチングスタイル)見ると、どうもしてもらいたくてうずうずしていたのであった。そしてイザやってもらったら、50円もしないが、簡潔に言ってみれば、痛かった。引っ張るな、刃を磨げ!まあそうアドバイスしたかった。きっと散髪屋はこうアドバイスしたかったであろう。もっと皮膚を鍛えろ、ちょっとぐらいでギャーギャー言うなと。今ヒゲと押したら髭髯鬚と出ましたな。「髭」はくちひげ、「鬚」はあごひげ、「髯」はほおひげ、の意で書き分けるってことだそうで。そういえばタイのバンコクの大丸の地下で散髪してもらったことがある(もしかしたらそごうかも)まあまあの高級サロンで、私は部屋に通された。個室散髪。何故だ。鏡張りの部屋に散髪台。とりあえず散髪台に座っていると、渋い男がハサミを持って入ってきた。私はゼスチャーで髭を剃ってくれることと、ばっさり短く切ってくれということを伝えた(が、全然伝わっていない)男は片手をひじにやり考えるポーズをとった。なるほどワシの頭をどうカットするのか考えておる訳じゃなふぉふぉふぉ、と思っていたのだが、よく見ると、考えるポーズで固まっている理容師は自分の顔を見ていた。何故だ。鏡張りの部屋にて自分の顔を見て嬉しいか。
2003.12.11
コメント(0)
急いで帰宅し、ネットをつなぎ、近隣で24時以降もやっている銭湯を探した。なんて便利なんだなんて思いながら、ほとんどが24時までという事実に焦る。急いで駐車場に行き、車に乗ると、ブレーキランプをチェックランプが出た、クーラントも確認しいやとも表示された(日本語訳私)。うわコリャ変えナあかんとつぶやきつつも銭湯に到着。http://www.ne.jp/asahi/world/hopper/onsen/hyogo/nadasuido/nadasuido.html 車を停め、23時50分受付に行くと主は「今日はもう終わりや」といった。その横から女将さんが登場して、「ええやん、ばーっと急いで洗ろてな」といった。私は「寒いから」と言ったが、会話がつながってないことに気がついた。案内には24時半と書かれているのに24時までか、もはやこれまでか、という気持ちと裏腹に、340円を払った。私は10分ですべてをした・・・時計の針は既に0時10分に達しており、客はもはやまばらであった。急いで灘区の銭湯を昨日本日と巡ったが、よく考えたら私は東灘区区民であった。越境銭湯であった。そうなんだ大阪市旭区では、「させない越境入学」なんていって学校の外側にベタベタ、わりと貼っているんですよ。学力は国境を越える。人間は胃袋で国境を越える。そうつぶやいたのはフィリピンのセブ島であった。セブシティに宿泊していた私は、せっかくのリゾート地なのだからビーチに行かねばと思い、そくさく出掛けたらバンカに乗ったフィリピン人4人組が海に浮かんでいた。海が透き通り珊瑚礁が見え、宙に浮いているようだった。胃袋は、究極には、その内部を満たすために、どこへだっていってしまう人々がいる。今日行った風呂屋は、最寄り駅が頑張れば王子公園駅。これは、昔「西灘」駅といった。その北側にアールウエザー型の陸上競技場があり、よくマジかけっこしたものであった。私は1500メートルにも何度か出場したが、皆さん出だしから速い速い、びびるで。(かろうじて市の第1次予選ぐらいならびびらない)そうやって試合はどんどん消化されていくものですから、いちいち誰も見ていないのだが、一度だけ、競技場場内を歓声で沸き立たせた男がいた。私の高校の時のクラブに。 3000メートル障害という種目が高校生にはある。水郷と、ハードルを何度か飛ぶのである。勿論、ハードルは倒しても構わないし、水郷で足先が少し濡れようが問題はない。しかし我が同級生は違う。水郷にはまって泳いだのである。場内は一瞬静まり返り、そして笑いと驚愕の渦が。彼が出てきた時、我々でさえ、彼が彼と一瞬気がつかなかった。何せユニフォームの色が変わっていたから。その彼はその後東京の大学に進学し、私は新潟経由成田(関西から新潟まで青春18切符そして成田まで青春18切符でいった)青春18切符は特急急行料金のかからない列車なら1日なんぼでものってもいいよ実は年齢制限もないいんよ自分が青春18歳の気分やったら売ってあげるよ1枚辺り2200円という渋い売り物で、新潟最終電車まで、神戸から金沢じゃ福井じゃで途中で降りてもいけます)すげえ新潟まで2200円で来たぜといきりたって目的地まで新潟駅からタクシーに乗れば6000円かかかり、ちょっとだけ泣いた記憶がある。そんなことはどうでもよかった。成田から海外に行く前日、彼の家に泊めてもらうという約束をしていて、私は経堂駅から何度も電話し、家の前に雑誌を置いてみたりなんかしたが彼は何故か不在。冬の寒空の中ブランコに乗って一夜を過ごしたのであった。まだ分からないが急遽年内引越を検討中。今のところに住んで2年、まだ家具類は買っていない。(或いは、前の家に置いて来た)ソファは心地よくなっちゃいそうで戒めている。問題はどこに住むかである。それにまだここの大家さんには言ってない。しかし引越屋は仮押さえしている12月30日。本当に引越するかはお楽しみ・・・私の夢のひとつは2年おきに引越するというものだ。やっぱり現実化させていかないとね。
2003.12.10
コメント(2)
12月8日はジョンの命日。http://www.st.rim.or.jp/~success/lenon_ye.html ジョンは撃たれた時、「撃たれた」と言った。あの犯人はサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」をバイブルにしていたらしい。ニューヨークに初めて行った時、この前を歩きながら、「ここがジョンレノンの撃たれたところか、ここがローズマリーの赤ちゃん撮影場所か、なんだって無茶広くて家賃が高いだけじゃなく、人物審査だって厳しいっていうではないかここに入居しようと思えば。おっ、地下の窓にライトがついたやないか、いくら地下のほうの部屋いうても、無茶高いんやろ賃料、いやそれより入居人物査定をパスした輩だ、きっと人格者に違いない!」と思ったが、もしかしたらそれは単なる思い過ごしだったのかも知れない。そのダコタハウスの前はセントラルパークで、すぐに記念したストロベリーフィールズがあり、イマジンと彫られたコンクリートのサークルがある。大雪の日でさえ訪れる人が多いのであろう、イマジンと掘られた部分だけ、雪は払いのけられて、見える。俗に言うなら写真が撮るために雪を動かしたとも言える。イマジン、考えてごらん・・・もし所有というものがないならば、なんて歌詞は何とも原始共産制であるわなあと思う。
2003.12.09
コメント(0)
先程銭湯に行ってった。ネットで検索して、おおよその地図を頭脳にインプットして、車で乗り付けたのだ。何のことはない、ガスが何故かつかなかったのだ。水風呂の勇気がこの12月ではさすがに挑戦する気もなかった。 ドイツのバーデンバーデン(だっけ)、イギリスのバース(バス発祥の由来)、ブダペスト、台湾韓国、チェコはプラハの近くのカルロなんちゃら、やらロシアやらにちょこちょこあるが、それは温水プールみたいなものもあるし、あるし、で日本の温泉は、割と、独特である。 いや温泉の話でなく銭湯の話であった。詳しく言えば、さっき行ってきた銭湯の話であった。秘密にしても仕方ない、いってきたのはココ。http://www.ne.jp/asahi/world/hopper/onsen/hyogo/otomeduka/otomeduka.html 驚いたことに、そこの風呂は、3階まで上がっていけるのだが、3階2階と、かつて行った大阪市港区弁天町付近の43号線沿いにある銭湯と同じ作りであった。 何故、君が大阪市港区弁天町付近の銭湯に行くのだそちらの方が驚きだ、という意見も聞こえてくるが、多分空耳だ。小学生5年のとき、自分のお金で初めて銭湯に行った。銭湯に行くことも記憶の中では初めてだった。風呂のない長屋に住んでいた悪がきに誘われたのだ。今どきこんな悪がきはいない。貧乏がすべてを許してくれる~みたいな。ともかく、私は子供料金50円を払い、そうかこれが世の男性が憧れる番頭ちゅうやつか、なんやおばちゃんが座ってるやないか何でや、と思いながら(ませてるな)悪がきの友達と男湯へ入っていった。それからだ。私の体は湿疹。何故かそれがもとで、ショッチュウ私が銭湯に行っていることが母親にばれた。今では考えられないがデリケートな皮膚、いや免疫のない皮膚だったのであろう。その後、インドでレプラ(ライ病)の乞食に喜捨するようになるとは思いもしなかった。
2003.12.08
コメント(0)
12月に入って、町中が急にクリスマス商戦に入り、先程から急激に寒くなりだした。今日はこれに行きたかったのだがいけず。http://www.kahitsukan.or.jp/frame.html 私の敬愛する、つまり大抵の著作は持っている藤原新也。確かに、旅はバイブルであった。根無し草で、定住しているという感覚が今もない。私はソファを買ったことがない。欲しいのだが、動かすのが大変なのではないかと思ってしまうのである。寒くなったとはいえ、友達は北海道にいくのにまだ雪ないよとぼやいていた。私は北極圏でスキーをした。それも夜スキーだ。ゲレンデを見れば、見渡す限り2組のスキーヤーしか見当たらない。私もレンタルスキーを借りて、いざ一歩踏み出す、が、寒い。いや、痛い。私は、ボーゲンをして、次にパラレルの体制に入った瞬間に、頭が割れそうになった。カキ氷をいっき食いしたときの、気の遠くなるような割れそうな頭の痛さ。体感温度が低すぎるのであろう。ボーゲンしかできない。それ以上スピードを出すと、頭が割れる。そうして私は20分でスキーを終了。そうして私は急いで、ロッジのコーヒーショップへ。そしてトイレへ。そしたら、縮こまりすぎて、思春期以前、小学生低学年並みのアレになっていて、一瞬探した程であった。
2003.12.07
コメント(3)
手を染める。足を洗う。何でや、手を染めてんから手洗ったらええやないか!私は歩きながら静かに憤慨してみた。人生は8割方ネガティブなものだ。ポジティブなものや考え方はいいけど、ネガティブなことに対処していきたいものだと思っていたのは1時間後。人に2人会って、さて帰ろうかというときに駅かぶりつき本屋に入ってしまい7冊衝動買いしてしまい、定価170円の切符を土日昼間特割切符を更にディスカウントストアで1枚120円幾許で12日前に購入していたのを使用。電車の中で早速本を開いて目を通してたら、降りるべき駅を降り過ごしたのは3時間後。アマゾンドットコムでまたもや本を購入。不動産経営関係の本。だって不動産会社勤めより、不動産オーナーの方がええやん、と思いながら、まあ金のことは最後に考えようと思いながら、それにしても何千万も借金をして家を購入した人は、たいてい、失敗したとか、買わなきゃよかったとは思わないなあと思う(バブル時購入の不幸な方除く)家を買って良かったという満足感は、支払った代償が大きすぎて、自己正当化するしか仕方ない人も多いのではないだろうかと思っていたのは1時間後。それにしても土地というのは価格は変われど、たいてい、世の中のものは古くなるけど、こいつだけは古くならない(土の質は変わるかもしれないが)のが何か凄いなあと、車を走らせながら思っていた1時間後。曲は何故かベルベットアンダーグラウンド。何故かではなかった、私がCD車に積んだから自己意思他ならなかった・・・そういえば最近夢日記つけていない。あれはなかなか苦痛な作業だ。朝起きていきなりペンを握りノートに書く(ペンとノートはいつも枕元にある)作業が眠気との戦いであり、書くより早く夢の記憶が消えていくのだ。追いかけて追いかけて夢、夢のあと。今、そんなことを思っている。
2003.12.06
コメント(0)
昔、平安時代に神戸の福原が日本の首都になったことがある。平清盛時代だ。京都は僧兵が多くうっとうしいので、辺鄙の地に逃げたという。しかし貴族がたいそう辺鄙さを嫌がってこの首都は半年で遷都らしい。どこに面影があるのかなあ、とそんなことを思い出しながら、大阪ヒルトンホテルで待ち人となっていた。待ち人が現れ、2階のカルタという喫茶に行った。中学生の時、毎年の冬、寒々しい講堂で学年一同大カルタ大会が催されていて、とある女性の「ハイ、バシィ」という素早い奇声と床板を殴る音が思い出される。私は彼にこう質問する予定だった。「そこそこ楽しくやっているけど面白くないのか?面白くはないけどそこそこ楽しくやっているのかどっちなん?」しかし現実の私はこう質問しただけだった。「旅行とかするの?子供さんはどう?車は好き?どんな家に住んでいるの?」私はリアリストやのう(意味ちゃうか)これでも昔はニヒルなロマンチストのつもりやってんけどなあ、そう思いながら会話は進んでいったのであった。待っている。何を待っているかというと、言葉がやってくるのを待っている。思えば最近、気忙しくて、待っている状態がない。何もしないで座っている状態がない。久し振りに今座っているだけだ。座っている椅子というものは非常に重要だ。心地よい椅子を買うつもりで、それまでの間、パイプ椅子でいいやと思ってたら、2年の歳月が過ぎた。意味はないのだが、自分の家や部屋にいたらここちよい。しかし私は家に帰らない修行をしているがごとく、部屋の居心地を悪くしている。本当に良く見ると、いろんな顔の人がいる。しかし、たいていは面白い顔だ。先程三ノ宮に2時間程度行ってきた。
2003.12.05
コメント(1)
夕刻、ガンジス河に行き、沐浴を行い、体を洗った。宿に戻ろうとすると、すぐに色を浴びせられ、結局、河のほとりに座り続ける。 沐浴場の階段で、神の歌を謳う一団。五、六人の男たちは、サドゥ(聖者)を取り囲んでいる。一団の民間人は、こざっぱりした格好をしており、話し方もスマートで、社会において地位の高い職業に就いているものと思われる。私は招き入れられた。サドゥを囲んではいるが、聖職者なのか、彼には何も話し掛けないで、皆、雑談している。隣の男は、ハシシをこねながら、私と日本の話をしていたが、突然、サドゥに向かって話し掛けた。「ババ、用意ができました」彼は、ハシシの入ったチュラムパイプを手渡す。サドゥは、熱さ防止と、煙を冷やして喉に負担をかけないためと、煙以外のものが口に入るのを避けるためのガーゼを取り出し、階段を降りて行き、ひんやりとしたガンジスで清らかにガーゼを濡らした。そのガーゼをパイプの吸い口に巻き、神に祈る。男が火をつける。サドゥは、ほんの一口、それも強力にしなやかに吸うと、ガーゼを取り、男にパイプを渡す。男は改めて、鞄からガーゼを取り出し、水に浸し、パイプの吸い口に丸めて、吸う。後は、輪になった我々にパイプが順番に回ってくる。自分専用のガーゼを持つダンディなサドゥは、最初の一口しか吸わない。何度か、作っては深く一口だけ吸い、トリップした頃、サドゥはようやく私に気づき、英語とも何とも分からない早口で、私に、表情を変えず、二、三言話し掛けてきた。目には特に敵意も親しみもなかった。ただ、鋭く光っていた。ネパール→インド ホーリーいつまでも絶えることなくトモダチでいよう、また会う暇で ポカラ。ポカラの宿街は湖に沿っての一本道であった。朝の4時、インド国境行きのバスが出るというが、バス停はないという。その1本道に立っていれば、バスは来ると言われ、真っ暗な中、4時前から宿の前の1本道でバスを待っていた。誰も歩いてないし、車のひとつも通らない。本当だろうか、と不安になっていたころ、バスは来て、手を上げた私を見つけたバスは、停まった。また会う暇で その日は、ホーリー祭であった。子供たちが何度も、道を塞いでバスを止める。ホーリー祭は色掛け祭りである。バスに色水を掛け、バスがとまるたびに、子供たちが、バクシーシ(喜捨)を叫ぶ。 夕方、ボーダーを超え、夜に、列車に乗る。いつまでも絶えることなくトモダチでいよう、また会う暇で バラーナスに近づくにつれ、ゆっくりと明るくなってきた。私は悪さを思いついた。コップに水を入れ、踏み切りで待っている男に、水を掛けたのだった。愉快だった。いつまでも絶えることなくトモダチでいよう、また会う暇で しかし、問題は、バナーラスの駅を一歩で手からであった。私は、一番背の高いタンガー(馬車)に乗り、少し荷物に隠れるようにした。しかし、色水は、外国人を容赦しない。私をみるやいなや、総攻撃である。私が、やがて、バングラッシーのあるゴトーリアを超え、適当な、一番の大通り沿いの宿に逃げ込んだ。勿論、宿は、厳重に鍵が閉められており、私を旅行者と見るや、即効で開け、私を招きいれ、即効で閉めた。そして「何でこんな日に来るんだ!今日は、外出禁止だぞ」と言われた。いつまでも絶えることなくトモダチでいよう、また会う暇で しかし、ここは大通り沿いに、でかいルーフバルコニーがあり、そこから旅行者たちが、祭りの馬鹿騒ぎを楽しんでいた。私も急いで、バケツに水を入れ、通りに向かって水を一気に撒き散らした。それを3回も繰り返すと、通りには、暴徒寸前の人だかりとなり、色水をかけられないので、投石や、牛糞、馬糞が飛んできた。宿の主は危険を察知し、我々にもうやめてくれといった。私は、また煙に日をつけて、充血した目で、ゆっくりと、「オゲー、オゲー(OK,OK)」と言った。言ったが、暴徒は、宿の鉄錠門をガンガン叩き、大声でわめき散らしている。ルーフバルコニーは、石と、糞と、水でべちょべちょ状態で、ある。これで、ナチュラルハイしない奴はいないというぐらいの、緊張感で、ホンマモンのハイになっている旅行者の暴走は止められない。平気で、バルコニーにゲロっている旅行者、なんだか、わけもわからず、部屋にしけこむ男女を尻目に私は静かであった。ポエテックでもあった。路上の親父たちの髭からぽっかり口が開き、罵声が投げかけられ、手で招いてこちらに来いという。親しみある目の奴もいるが、危険な目の奴もいる。私は、煙をくゆらせながら、時折飛んでくる牛糞の塊を避け、相変わらず、時々、バケツの水を路上にぶちまける。そのたびに、歓喜の声と、怒涛の声の嵐。いつまでも絶えることなくトモダチでいよう、また会う暇で そんなことを何時間も繰り返したあと、ネパールから夜行列車とバス26時間の旅に疲れていたので、じっくり眠り、起きると、もう夕方であった。ルーフバルコニーに出ると、暴徒は既にいなくなり、一旦、私はシャワーを浴びて念入りに洗うが、色は取れない。特に、歯についた色は、なかなか取れない。いつまでも絶えることなくトモダチでいよう、また会う暇で そして、私は外に出た。川沿いのガートに行くためだ。そして、宿を出たところで、即効でインド人に絡まれ、Tシャツが破れ、パンツも危うく破れる寸前でまた宿屋に戻った。まだまだギラギラであった。そして、愛玉からすっかり、色水でドロドロになり、宿屋の主にも、「自殺行為だ」とやじられた。 また私は、シャワーを浴び、休む。外に出ても大丈夫になったのは、日もすっかり暮れた後であった。ああ、クローネバーグとバロウズの世界こちらに続くインド バナーラスの火葬場いつまでも絶えることなくトモダチでいよう、また会う暇でバナーラスでは、というか、インドでは、少なくとも、良くも悪しくも、油断すると、ついつい詩人になってしまう、あるいは、詩人と勘違いしてしまう瞬間がある。たまにそのまま詩人になってしまう場合もある。詩人の問題点は、単純で、食えないということだけだ。いつまでも絶えることなくトモダチでいよう、また会う暇で 聖地バラーナスでは、ガンジスの川沿いに火葬場がある。火葬場遠方。 いつも、することもない旅行者は、火葬場に行き、人が燃える行程を眺める。 聖地に死ねるとは幸せなことだ。祭の日に死ぬことができればダンディである。ちょうど、手持ち金が無くなった日に死ぬことができればジェントルである。いつまでも絶えることなくトモダチでいよう、また会う暇で 火葬場で、死んだ人が焼かれる光景は、日常であり、特に、焼き場で働く人間にとってはまったくの日常であり、死が隠されている日本人にとっては、その人が焼かれるということ自体が日常であるということに、驚かされる。死が管理されて隠蔽されていないところに、自由を感じることができる。 人が焼かれると、時々、水分が鉄砲水のように飛ぶこともあり、腕などが硬直して、ギギギギっと生きているように動くこともある。そして、焼き場で働く男たちは、次の死者を焼くために、川に無造作に、焼けた骨や焼け残った肉を川に放り込む。死体になんて邪険に扱うのだ、と思うと思ったが、そう思わなかった。 西洋人たちも、一日、川沿いで焼かれる死体を見ている。私は気がついた。焼かれる死者を見る目が、西洋人全員が同じ目をして見ているのだ。きっと、私もああいう目で見ているに違いない。死体が焼かれる光景を見る死者を隠す社会から来た人間の目は皆、同じ目をしている。 それは、どこも見ていない。焦点があっていないのだ。ただただ、燃える肉体を見ており、恐らくだが、何も考えていない。何も考えず、受け入れているのである。許容しているかどうかは、分からないが、そのままを受け入れているのである。肯定も否定もない。いつまでも絶えることなくトモダチでいよう、また会う暇で 子供とか、人生まっとうせず死んだ人間は、焼かれずにガンジス河に流される。そんな、ブヨブヨに太った死体が時折、河の中央を流れる。大きく膨れた腹の上にカラスが乗っている。あるいは、淀みに、巻き込まれ、ガート(沐浴場)の端に、漂っている石鹸状の死体。死ねばモノになってしまうのだなと、思う。人間は肉でできていたのだなと、思う。いつまでも絶えることなくトモダチでいよう、また会う暇で 今、気がついたが、もしかしたら、私の行動判断は、この光景で変わったのかも知れない。「これは死ぬこともなさそうだからやってみよう」とか「こんなことでは死ぬこともないからたいしたことないよな」とか「死なないから大丈夫」とか。
2003.12.04
コメント(0)
今晩お通夜があり、急いでネクタイ黒を1000円で購入して香典袋買って、行ってきた。不謹慎ながら、ンンミヨウホウレンゲーキョーのりフレイン効果に少し飛んでいってしまった気がした。日蓮はとにかく唱えよといった。その意味がうっすら分かる。たかだかこの言葉を100回200回繰り返しているのを聞くだけで、違う世界に入りかけた。
2003.12.03
コメント(0)
学生時代から、香港とバンコクは交通の拠点になっていて、そこからアジア各地に散っていくという何となくの構図が出来上がっていたように思う。東京の友達にはたまたまであるが香港派が多かったように思う。地名や香港でのことを時々聞き、幾許かの知識がまだ頭の片隅に残ってはいた。そうして何やかんや香港にやってきた。1.香港島というのは香港のほんの一部に過ぎない、香港はバックにある多分農村地帯である新界、摩天楼金融センターの九龍と対岸の香港島、そして島々の3部構成になっている。2.安宿重慶マンション(複数の宿がこのマンションに何十も入っている)はなかなか便利なところにある香港一といわれるペニンシュラホテルの斜め後ろに存在する。インド人やアフリカ人も多くたむろしているが、他の地域と同様に危なくもなく安全でもないという感じ。3.「ほんとうに偽物の時計見ない?」と擦り寄ってくる贋物ロレックス売り人々。4.物価は日本の8掛けというところか。5.ビクトリアピーク(300メートル程度)から見る夜景よりか渡し舟スターフェリー(2.2ドル、乗船時間5分)から見る夜景のほうがクッキリ。6.・・・続く・・・1.横断歩道の聴覚困難者向けの待ち時間の機械音はさかされるようで何とかして欲しい。2.街がやたらごみが落ちておらずきれい。大罰金制度を導入してかららしいが、なんだかキレイすぎて少しつまらない。3.車は100パーセント以上の関税がかかるとのこと。ベンツやBMWは140パーセントらしい。日本で500万円の車でも香港では1200万円、おまけにガソリンも高く1リットル180円ぐらい。土地がないので駐車場も高いらしい。車検は5年ぐらいはないがあとは毎年らしい。兵庫県民並の6,700万人の人口の10%ぐらいの60万台の車があるらしい。ちなみに車にナンバープレートが二つついている車は中国本土もその車でいけるらしい。4.不動産の仲介手数料は日本では3パーセントであるが香港では1パーセント。背広を着た若い男数人が道行く人に何か見せている。間取り図だ。キャッチで売るみたい。すげえ。ちなみに民間での賃貸はほとんどないらしい。賃貸は公団、分譲は民間のようである。5.地下街が1箇所しかない。何でや。6.名物のそそりでた看板、しかしチカチカしてないのは飛行機が間違えないように。7.韓国人おばはんツアーのあつかましさには参った。国の品位を落としてはいかん!大阪おばはん以上。8.ディスコに行ったが、なんとなくださかった。多分私がださいからであろう。9.香港島の都会から離れたエリアにも行ったが大変落ち着ける感じで、いいホテルがあれば連泊したいものだ。
2003.12.02
コメント(1)
することがいっぱいあるのに、何もできていない。時間作るのが下手やでは済まされない。10年後の自分に向かってまっしぐら~。当日で借りてきた韓国映画「ラストプレゼント」をさっき急いで観た(急いでみたが早回しではない)感動を仕掛ける装置が働いていて、リアリティがないが、涙腺は緩む。最近だんだん人生がスキルダウンしてきた気がしてならない。ラストサムライは評判が高いみたいね。ナイキはギリシアの運動の神様ニケから来てんだよなと、今日の夜、考えていた。ディオニソス。今日からJRの新快速電車が芦屋駅にも停まる様になり、久し振りに超満員電車に乗った。満員電車乗った時に、一番会社員辞めたくなる。芦屋駅でドアが開いた時点から既に満員。乗っている乗客は「オイ、オマエラ、こんなに一杯やねんからもう乗ってくるな!押すなよ」という負の光線を撒き散らす。しかしそれを苦渋の思いをしながら無視して押す。次の駅、私はこう思っていた。「オイ、オマエラ、こんなに一杯やねんからもう乗ってくるな!押すなよ」今、ピーナツ食べてんねん。久し振りにテレ……今、ピーナツ食べてんねん。久し振りにテレビをつけてるねん。「ペテルブルグとピヨトール」やってて面白い。噴水は水の高低差のエネルギー移動だけでつくられているとは、すごい、あんなけの水量。小学生低学年の頃、毎日7時から8時まではテレビを観ていた。あのときは不思議だった。父母ともにテレビを見ていないのだ、このゴールデンタイムに。大人にはなれんばいや、テレビを観ないで7時から8時を過ごすことができないもん。そう思っているうちに、めったにテレビを見なくなった。バラエティ番組とCMはイタリアのテレビが圧倒的に面白かった。
2003.12.01
コメント(2)
全31件 (31件中 1-31件目)
1


