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朝飯食うために朝起きたが、10時までよー、終わっているよーであった。暫く仕方ないので敷地内を少しぶらつく。じゃあ、まあ、町に出るかということになった。ウエスティンをご紹介差し上げる。がっつり肉食べましょうよ、ということで、がっつりでリーズナブルなところをSAGASU とベイビューホテルの一階がいいと思い、行くとすげえボリュームでがっつり30ドルぐらいで、満足。年を取ると肉食いたくなるものだねえ。ウエイトレスはフィリピン人で、客は誰もいなかったが、招き猫となり、その後4組ほど厳かに入ってきた。何故か、グアムだが、バリ島のハードロックカフェTシャツで唸る。ビーチでは、わしは、日焼けしたいから卒業して30年以上経過しており、それでも、海外に行けばにほんの季節外だと、なんだか焼けてしまったりして、お前何黒くなってんねんといわれるのも面倒な小心者なので、日陰にこもる。しかしかれは、子供は風の子太陽の子みたいに、ちょくしゃにっこうを浴び、勝手にウエスティンのビーチボンボンに寝そべっていた。それでも30分だか1じかんだか経過し、彼も戻ってきたのであるが、なんでといもいさん、オウム関連の本読んでいるんですか!といわれ、確かに何でや!であった。割とやることないなーとだらだらしてたらすぐ時間がたってしまったが、彼はまじめに早朝からマラソン、昼間にはスイミングプールで水泳、夜は飲みながらアマゾンプライムでゆ―チューブをテレビに写し、このホテルに来たオリンピック水泳強化選手や野球選手のものを映していた。おれは、キングカズしか知らなかったけど。そこは余興だ。2019GWグアム取引先招待じゃない旅行・グアム2泊目・グアムラストナイト成田→ハワイ・ハワイ1泊ハワイ→タヒチ・パペーテ・タヒチ島首都パペーテは落書き帝国だった・タヒチ島アモーレ島、ボラボラ島推敲・タヒチ島の休日・タヒチ島 マーケット・タヒチ島 グルメの旅タヒチ・パペーテ→チリ・イースター島・イースター島 ハンガロア村墓地・イースター島 ハンガロア村は雨・イースター島 朝・イースター島 ラパヌイ到着・イースター島 タハイ・イースター島 ラノ・ララク1(モアイ石切り場)・イースター島 ラノ・ララク2(モアイ石切り場)・イースター島 ラノ・ララク3(モアイ石切り場)・イースター島 ラノ・ララク火山・イースター島 アフ・トンガリキ・イースター島 アフ・トンガリキ2・イースター島 アフ・トンガリキ15人衆・イースター島 テ・ピト・クラ・イースター島 アカハンガ・イースター島 アナケナ・イースター島 アナケナビーチ・イースター島 グルメイースター島→サンチアゴ・イースター島→サンチアゴ2・Chileバルバライソ・Chileバルバライソ2・Chileバルバライソ3チリ サンチアゴ→ヒューストン・ヒューストン→帰国・GW荷物
2019.04.30
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中尊寺金色堂は、まあ北の金閣寺だ。それで保護のためにその建物の上から建物が覆いかぶさっている。例によってけち臭く写真撮影禁止だ、何を守るのだろうか。今やるーぶるでもだいえいはくぶつかんでもOKだ。国宝第一号らしい。 金箔の建物を守るために、建物で寺を覆っているのだ。なるほど、雨が降っても大丈夫だね。風情はないけど。何で昔から中尊寺知っているか分からないが、はじめてきたとき、こんなところにあったんだね、と思った次第。まあ、バブルのころ、中尊寺ゆつこって漫画家いたよねえ。それで覚えているのかも、関係ないのに。この人、寺の名前の人?って思っていたのかも知れないなあ。なんと2005年に40代でなくなっているじゃん、今、検索して知った。オヤジギャルの海の親だよねえ。2019岩手岩手 花巻往復岩手 佐原硝子岩手 空飛ぶ団子、佐原硝子達岩窟毘沙門堂毛越寺 中尊寺金色堂中尊寺再訪デクノボーの道デクノボーの道2幽玄洞幽玄洞2花巻 温泉郷
2019.04.29
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今年は正月にドミニカ共和国に行った後、3月末までに、ひっそりと、ベトナム、ネパール、台湾、フィリピンと行ってきたが、飽きないし、,落ち着く場所が、不謹慎ながらネパール、カトマンドウの火葬場だった。2019年ネパールバンコクカトマンドゥ30年ぶりにネパールへモンキーテンプルモンキーテンプル2モンキーテンプル3モンキーテンプル4、ボダナートボダナートボダナートから戻るパテュシティナートに向かうパテュシティナートガートの火葬場パテュシティナートガートの火葬場2古都パタン古都パタン2古都パタン3インドラチョーク王宮王宮21987年ネパール訪問1987年チベットからネパール入国1989年ネパール訪問1989年ネパール訪問21987年2019年ネパール訪問王宮周辺王宮周辺の小さな神々王宮周辺の寺ネパールgourmetの旅ネパールから帰国
2019.04.28
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中正公園を出て、数分歩く。このあたりにも数件民家があり、何か不思議な気がする。中元祭祀文物館前に着くと、なぜか誰もいない。賑わい時期や時間が違うのかも知れない。何故か西洋人青年2人が歩いて来て、一人は上半身裸であった。最近、ちうごくメインランドが台湾に随分ちょっかいを出していて(軍事介入も辞さない、サイエイブン流石に反論、アメリカも応援状態、もしかして、トランプ電撃訪問?)まあ、だいたい、中国は正統は台湾だものね、国民党負けて台湾に逃れたけど、国民党もムチャクチャ酷い奴らだったけど。まあ、共産党は前の世界大戦とは関係ないよね。2,3年前に日本と闘って何年記念式典やってたけど、戦争してないちゅうの。基隆港の眺望もいいスポットともいえるし、1階は歴史的資料も展示されているし、上階へは地震の復興工事も進んでいなくていけないよというナイススポットのようだ。さて、タクシーでここまで来たが、どうやって山を下りるのだ。タクシーが通りがかり客をおろすのを待つものあるが、ここは普通に歩いて下ろう。道を探して適当に下っていく。車道がなくなり、路地を抜けていく。2019台湾フィリピン台北へ基隆へ野柳地質公園野柳地質公園2野柳地質公園3野柳地質公園4野柳地質公園5基隆 仙洞巌台湾残りの基隆基隆 中山公園基隆 中山公園2台湾基隆夜市台湾基隆夜市2台北 アニメ化龍山寺台北 華西街観夜市台北のホテルへ戻る台北→マニラマニラ20時間マニラ→帰国
2019.04.27
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最近、変な外国人受け入れでは、自国賃金の上がったちうごくに変わり、ベトナム人が一番多くなった。安く雇えるからって一時的な企業側のリクエストに応えているだけでいいんだろうか。よーろっぱの移民問題みていないのだろうか。単純労働だけいれたら、日本人と競合して、賃金上がらないじゃん、である。逆に専門職技術職はやたら外人にハードルが高く、ここは技能ある外国人は入れていかないといかないんじゃないか。あべこべになっている。日本の美容学校ででも美容師として日本で働けない、在外資格が下りない仕組みになているからだ。看護師や医師も日本語の試験に突破しないといけない。外人向けに働いてもらってもいいんじゃないか。ベトナムから日本に送り出すブローカーに対しても日本は無関心で、もういいことばかり言われ騙されっぱなしだ。手数料上限決まっているのに、3倍ぐらい取ったり、聞いていた収入が3分の1だったり。 ベトナムに来たら、前述したがGRABがライドシェアとして大活躍だ。盗難アジアではそのようだ。アメリカ発ではウーバーやリフト、ちうごくではDIDI、indiaはOla、しかし日本も岩盤規制、既存特権でこういうのも阻まれている。(あるけど、既存のタクシー会社との提携)初めて海外に行って、そこはフィリピンで、ジプニーがって、ルート上であれば、手を上げたらどこからでも乗れて、どこでも降りられる乗合タクシーである。これ日本にあればいいだろうなーと思って何でないんだと思ったのだが、そういうのはタクシー業界やバス業界を圧迫するから駄目なんだな。運転といえば、自動運転になるのだろうが、もしもの最終判断プログラムはどうするんだろう。例えば前の車がキュブレーキかけたとか、反対車線から車が突っ込んできた、瞬時に判断し、右か左に避けなければならない。右に人が2人、左は3人歩いている、右に曲がれ!なのか。それが、実は右に若いカップルが2人、左にヨボヨボ老人3人、左に曲がれなのか、それとも右に左にも人がいたら私は直進して死ぬ!なのか。プログラムを車購入のときに選択できるようになったりして。よし、俺は直進する!というプログラムの車を選んだら、初心者マークならぬ優良ドライバーマークが車に貼り付けられたり、車代が下がったりその分保険代が上がったりして。或いは、車買うとき、自動運転でもし事故起こしたとき機械のせいにする、自分の管理ミス(監視ミス)のせいもあるなどのコースを選ばされ車のせいにするときは車代が保険で倍になったりしたりなんかして。何せ、人間が運転するより事故は断然減るだろうが、ゼロにはならないからねえ。2019年ベトナム関空→ハノイハノイチェックインロンビエン橋ハノイ散歩ホアンキエム湖1ホアンキエム湖2ベトナムナイト線路沿いカフェサーカスへハノイ交通ホアロー収容所ホアロー収容所2ホアロー収容所3公安博物館タイロン皇城タイロン皇城2ハノイgourmetの旅軍事歴史博物館軍事歴史博物館2フォン寺へフォン寺 川フォン寺 川2フォン寺 川から寺へフォン寺 寺から洞窟、登山へフォン寺 洞窟寺から戻るフォン寺 寺の一部ハノイ→関空
2019.04.26
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垂水の滝(タルミノタキ) 石川県輪島市町野町海に直接落ちる滝。風がきつく、滝の水しぶきが天に向かって逆流している。ちょと荒々しい。⑪せっぷんとんねる 石川県珠洲市片岩町⑫窓岩 石川県輪島市町野町曽々木2メートルの穴吹雪いてきたと思っていたら3分程で止んだ。蛙夫婦岩波の花(ナミノハナ) 石川県珠洲市真浦町カ 石川県輪島市曽々木海岸・鴨ヶ浦海岸では、気温が約2度以下、約7メートル程度の風速、また波がやや高く荒れていることが、泡泡が海岸や道を覆う波の花が生まれる条件だが、条件合っているのに見られず。⑬白米千枚田(ハクマイセンマイダ) 石川県輪島市白米町ここは日本農業遺産、日本の棚田100選らしいが、棚田といえば、フィリピン・コルディリェーラの棚田群が世界遺産で、私はバナウエしか知らなかったが、どうやら一群のなかの最大の所のようだ。18歳の時、ルソン島の北部、バギオまで行ったあと、ここから10時間かけてライステラス見に行くか迷った覚えがある。つまり世界遺産に登録される前の話だ。ライステラス一群にボントックというのがあり、ボントック族が髪の毛を束ねていることをフィリピン人から聞いた。今気が付いたが18歳のときに聞いた私は、それはおもしろい、とそれから4年間、一束だけ髪の毛を切らずに伸ばした。今画像検索すると、一部ではなく、長髪を後ろで束ねているだけだった。2019能登半島能登半島行能登半島 恋路海岸、見附神社能登半島 逆さ杉等能登半島 青い洞窟能登半島最北端 狼煙能登半島最西側に入る能登半島から帰る
2019.04.25
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タクシーは山の頂上付近にある中正公園で止まった。基隆が見渡せるという。別に見渡さなくてもいいのだが、来たからには見渡そうではないか。それは大きな金〇かと思った。大きな〇玉を担いで何するぞ。不意に何故かブルックシールズを思い出した。10代にして艶妖というか、今思えばそうだけど、さすがに私よりちょとだけ年上、私が10代のときはそう思わなかったが、今は思う。というか、30年ぶりぐらいにブルックシールズをいきなり思い出してしまった。青いサンゴ礁やエンドレスラブは同じ年代として、住む世界が全く違うのだなあ、と思ったのであった。エンドレスラブは映画試写会が当たって、あれは中学校の頃だったが、映画館に出かけ、たまたま隣に何だか色っぽいお姉さんというか、もしかしたらおばさんだったかもしれないが、中学生の俺を見ると、ねえジュース買ってきてくれない?二人分といわれ、おねえさんの分だけ買って来たら、エーっ買いに行かせたみたいでごめんと謝られたのだが、本当に喉も乾いてなくって申し訳ない気になった。映画が始まり、ほんまに同級生なのか、とエロチックシーンにえろくなったのではなく、アメリカちゅうところはすごいなあと思ったのであった。こっちは部活帰りに急いで電車乗ったジャージ姿のままのチュー坊である、というか、電車乗って繁華街行くこと自体意味の分からない校則で禁止されていたかもしれない。それで帰国して初めてブルックシールズを検索してみた。今も50代にして綺麗だが、昔の画像もでてくるが、今風の美人でもあった。しかし、下まで降りるのにどうするんだ、まあ、歩いてだな。幸い台北行きバスは15分に1本ぐらい出ているので、目測1時間程度の散歩だろう。(途中スーパーあってビール買って飲み歩きしてしまう) 基隆に来る民間バスの無料ワイファイの検索によると、中正公園が基隆ナンバル1の観光地なのだが、来てみると地元の人に工事の人寺の人以外に観光客らしいカップルが2組ほど、以上、大変混んでいた。皆さん雄大な狛犬2匹と観音さんには興味がなかったか、来る時間を間違えたのかも知れない。しかし、一介のしがない観光客にとって客が少なければ少ないほど空いていていいものなのだ。まあ、世界共通認識である。中正公園、今考えると、ブルックシールズって美しかったんだなあ、当時気が付かなかったなあということであった。俺も弱くなった、ボブスキャッグスなんか虫唾が走ったのにいまじゃ聞き流せる鈍感力を身に着けた。でもシカゴの素直になれなくては、今の時代、ストーカーの歌だなあ、時代だわ。そんな感じの平成の終わりかけの頃。2019台湾フィリピン台北へ基隆へ野柳地質公園野柳地質公園2野柳地質公園3野柳地質公園4野柳地質公園5基隆 仙洞巌台湾残りの基隆基隆 中山公園基隆 中山公園2台湾基隆夜市台湾基隆夜市2台北 アニメ化龍山寺台北 華西街観夜市台北のホテルへ戻る台北→マニラマニラ20時間マニラ→帰国
2019.04.24
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ダルバート広場とか、スワヤンブナートとかモンキーテンプルとか。初めてネパールに来たのは32年前のことだったんだな。2019年ネパールバンコクカトマンドゥ30年ぶりにネパールへモンキーテンプルモンキーテンプル2モンキーテンプル3モンキーテンプル4、ボダナートボダナートボダナートから戻るパテュシティナートに向かうパテュシティナートガートの火葬場パテュシティナートガートの火葬場2古都パタン古都パタン2古都パタン3インドラチョーク王宮王宮21987年ネパール訪問1987年チベットからネパール入国1989年ネパール訪問1989年ネパール訪問21987年2019年ネパール訪問王宮周辺王宮周辺の小さな神々王宮周辺の寺ネパールgourmetの旅ネパールから帰国
2019.04.23
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幽玄洞は、土産物屋さんから入るシステムで一人だけしかいなかった。見学者も他にいなかった。一旦外に出て階段を上がると、建物に入る。いきなり入り口ではなく、建物に入ると、建物の中に入り口。一通りの説明の館を出るとまた上り始める。そして、洞窟が始まる。洞窟も飽きて来たかなあ・・・。でもウミユリ化石見られるよ。幽玄洞は3.5億年前の生代中期の地層を持つ化石の重鎮、最古級の鍾乳洞。海洋底拡大説の資料となるウミユリの化石は、日本の岩盤上では初めて発見されたようだ。また三葉虫の化石の完全体、フズリナ、古代サンゴなど、生物学上の貴重な解明資料が数多く発見されまさに、化石のパラダイス!か。まあ、山奥なのに昔は海底やったわけだ。流行りのライティングは、頑としてやっていいない硬派である。入場料は高いが人の少なさと維持費考えるとまあ、そうなっちゃうんだろうなあ。残念!斬り!2019岩手岩手 花巻往復岩手 佐原硝子岩手 空飛ぶ団子、佐原硝子達岩窟毘沙門堂毛越寺 中尊寺金色堂中尊寺再訪デクノボーの道デクノボーの道2幽玄洞幽玄洞2花巻 温泉郷
2019.04.22
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3月もおわりころ、4月3週目にグアム行きませんか、マイル使いますので、という与太話が浮上してきたが、翌週からゴールデンウイークに突入するので、前週は全力で行先を調査しなければならないので、前週は忙しいから駄目だと一度はお断り差し上げたが、度重なる説得により(もう一回言われた)行くことになった。それで、今回は宿泊費も浮かしてしまおうというところで、不便なところにあるリゾートマンション宿泊券1泊350円で入手である。そんな値段なら別の部屋にしようということで、チケット入手後は、それぞれが勝手に予約したのであった。ウエブ上から予約できるのだが、あと2部屋とかなっていて、急いで、アクセスしなさいとお伝えした日から2週間後、集合は、搭乗ゲート前ということにしたが、(私がそんなに早く行きとうないと駄々をこねたので)1時間以上先に到着しているはずの彼は、ファイナルコールで名前を呼ばれていた。仕方ないな、先に機内入っておくわ。なんでも、プライオリティパスで出発便をチェックインしたら、ぼてじゅうで3500円分まで無料で飲み食いできるとのことだった。ソレガプライオリティパスの人で行列でなかなか大変だったとのことであった。なにや、2種類のお好み焼き系とビール大を飲んできたようで、ぎりぎり機内に入ってきたが、そのまま、寝てしまっていた。向こうは3列、ことらは隣の2席空いているので、隣来たら?といおうとしたのだが・・・。まあ、それでも、昼ご飯出てやっと起きたようなので、こっちの席おいでよ、と来てもらい、ビール呑もう、社内旅行の定番ビール祭りだ。なんせ金払ってでも社内旅行ならビール飲みが一般的だが、ユナイテッド航空グアム線はアメリカにとって国内線扱いになっていてアルコール有料、ドリンク無料チケットを6枚持っていたので、1リットルずつ飲み、だらだらおとなしくもしていると、3時間半で到着。彼は3年ぶりということだったが、私は昨年2,3回来てしまっているなあ。イミグレは、私はグローバルエントリーなんで、ホテル行きバスで待っているよ。ということで、入国は3分。はやいなー。さすが、5年で100ドル。しかし、ほてるかうんたーで名前をチェックされ、ちょとまってそこでと待っていたが10分ほどすると、バス来ましたと案内があり、じゃあバス内で待っとくかと乗り込んだら、大阪便でない団体老人客が乗り込んできて、と思ったら、出発した。あれ、出っちゃったよ、それに、前はバスにいっぱい乗ったのに、今回バンで7人しか乗ってないねえ。意外と早く20分ぐらいでホテルに到着したので、チェックインして、コンビニでビールを買ってまたフロントに戻ると彼は到着した。30分後であった。それも送迎は1人、あの関空便で当ホテルの利用は2人だったってことか。しかし、彼も外に出ると俺がいないので、デスクで聞いたら、あああの人30分前に行っちゃいましたよ、とのことだった、まあ適当。何故か、ばれていたのか、部屋は隣であり、おまけにコネクティングルームであり、じゃあ、宴会も自由出入りだな、ということになったが、中心のタモンに出て晩御飯食べに行こうや、ということになった。タモンまでは少し混んでて50分(翌日は40分)でguamplazaに到着。いやあ、前、ここに泊まっていて、嫁と知り合った(ナンパした)場所なんです!と喜々と写真に収めていた。何食べますか、地元のがいいです、ちゃもろびれっじはどうでえかであったが、それはとおいので、チャモロ亭ならいったことあるよ、というとそんな変な名前のレストランあるんですか、あ、ありますねえー。前にオカンと泊まったコンド型ホテルの1階にあるのであり、割と宣伝にも熱心である。2回目のチャモロ亭。店に入ると7時ころだったが、誰もいなかったが、その後我々まねきねこは招いた。チャモロとフィリピンが多いが、ウエイトレスは韓国人か。歩いて20数分先のマイクロネシアモールを歩いて目指す、片手に缶ビール、誰も歩いてないやないか、暗いやないか、でも良く食ったからちょと運動だ。(というか、彼は、私の2倍も食べる)マイクロネシアモールでアルコールを購入し、床に置いたら1瓶割れた。Guamプラザホテルまでタクシー14ドルで戻り、22時のバスに持ってホテルに戻る。明日は、朝から走りますから!と言いながら睡眠限界まで飲んで1日目は終わり。2019GWグアム取引先招待じゃない旅行・グアム2泊目・グアムラストナイト成田→ハワイ・ハワイ1泊ハワイ→タヒチ・パペーテ・タヒチ島首都パペーテは落書き帝国だった・タヒチ島アモーレ島、ボラボラ島推敲・タヒチ島の休日・タヒチ島 マーケット・タヒチ島 グルメの旅タヒチ・パペーテ→チリ・イースター島・イースター島 ハンガロア村墓地・イースター島 ハンガロア村は雨・イースター島 朝・イースター島 ラパヌイ到着・イースター島 タハイ・イースター島 ラノ・ララク1(モアイ石切り場)・イースター島 ラノ・ララク2(モアイ石切り場)・イースター島 ラノ・ララク3(モアイ石切り場)・イースター島 ラノ・ララク火山・イースター島 アフ・トンガリキ・イースター島 アフ・トンガリキ2・イースター島 アフ・トンガリキ15人衆・イースター島 テ・ピト・クラ・イースター島 アカハンガ・イースター島 アナケナ・イースター島 アナケナビーチ・イースター島 グルメイースター島→サンチアゴ・イースター島→サンチアゴ2・Chileバルバライソ・Chileバルバライソ2・Chileバルバライソ3チリ サンチアゴ→ヒューストン・ヒューストン→帰国・GW荷物
2019.04.21
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なんか、ついついライダイハンを思い出してしまった。何かのベトナム人へのインタビューで、ベトナム戦争で韓国人がやった極悪非道についてどうおもうか質問していて、許せない気持ちはあるが過去は仕方ない賠償なんて求めないよ、と言っていた。実際に賠償も謝罪も求めていない。韓国も賠償どころか謝罪もしていない。「ライダイハン」に対して語ることは、韓国軍の強kanや買syun、韓国人労働者の無責任な養育放棄に触れることにほかならず、都合が悪いので韓国は調査もしない。ホーチミンの戦争博物館でも、戦後のアメリカ兵の苦しみ(精神的な、そして枯葉剤)にも言及していた。ベトナム人のしたたかさはあるにしても、戦争や国家は紛糾していても、一般人(一般兵士)には紛糾しないということなのかもしれない。韓国の戦争博物館では、ベトナムで韓国兵が活躍したことだけが展示されている。まあ、にほんみたいな自虐史観はないんだろうが。3月にはフィリピンにも行ったが、まあ、ジャピーノとか人のこといえないが、ここもコピノ問題あるけど。韓国は、日本ほどに自虐史観ないし、自国民を貶める売国奴は少ないかもしれないので、韓国内で取り上げられることは少ないのかもねえ。憶測でしかないけど。そんなことしたら逮捕されるのかも。フィリピンにはコピノのほかにも先進国の外国人との混血児がいるが、福祉会によると、父親の態度が違うという。米国人や日本人の父親は子どもの存在を知ると、養育費を送ったり自国に連れて行ったりするケースが少なくとも半分を占めるが、韓国人の父親のほとんどは子どもの存在を知らないか、または否定をするという。韓国の評判悪いよ、俺が見聞きした限りだけど。まあ、学生時代には、ベトナムといえば、もう10数年前の75年にサイゴン陥落しているのに、ベトナム戦争だった。タイは普通にノービザで旅行できたのに、インドシナ3国は共産圏の全く闇の世界で、特にカンボジアは行けば地雷で死ぬなんていわれていたが、実際、団体旅行でベトナムには行けるようになりつつあった時代であった。ビルマも空路だけビザは1週間だけ強制両替で1日50ドルかいくらか払わなければ行けなかった。逆にバングラデッュやパキスタンはノービザで行けたのだが、パキスタン人が大挙して日本に来るようになってから行くにはビザが必要になった。バングラは、ここ数年でふたたびビザが不要というかアライバルビザに変わった。そんな訳で、私の周りでベトナム最初に行ったのは、団体旅行で行っていて普段旅行いろいろ行きまくっている人ではなかった。90年代入った頃だったか。その後、バックパッカーもベトナムに行けるのではないかという黎明期がやってきて、もう私も働き始めたころで、休息にバンコクの来て安宿に到着した夜に、何人かの日本人にずっとバンコクにいる日本人旅行者と間違われて、ベトナムどうやったらいけますか、VISAどうやって取るのですかと聞かれた。さっき日本から来たから分からないですよ、バンコクも2,3年ぶりですよ、と思ったのであった。1990年代半ば頃から10年間ぐらいバンコクには行っていなかったが、またここ10年ぐらいは年間2回も3回も行っているが、そこもまた経由地としてが多く、1泊多いなあ。いやはやバンコクとマニラだけは地図も不要で飲みに行くという感じだなあ(そら深いところはしらんけど).あれ、ハノイ交通どこいった?2019年ベトナム関空→ハノイハノイチェックインロンビエン橋ハノイ散歩ホアンキエム湖1ホアンキエム湖2ベトナムナイト線路沿いカフェサーカスへハノイ交通ホアロー収容所ホアロー収容所2ホアロー収容所3公安博物館タイロン皇城タイロン皇城2ハノイgourmetの旅軍事歴史博物館軍事歴史博物館2フォン寺へフォン寺 川フォン寺 川2フォン寺 川から寺へフォン寺 寺から洞窟、登山へフォン寺 洞窟寺から戻るフォン寺 寺の一部ハノイ→関空
2019.04.20
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豆ニュー時ランドのチョコと言えば、ウタカ。でもニカラグアも。まあ、何でもカレーんできるんだよ。愛と誠おれの人生の大きなテーマの一つ、カレー対ラーメン。やばいなナンとなく窮屈な世の中になったのか、ちょと飲む量が増えている気もする。行列になったチョコのみせらしいが、甘くないのがいいわ。イチゴのクラッシュをまとったオードリーの丸くて赤いシャンパントリュフ。香り高いシャンパンを贅沢にあわせたガナッシュチョコレートと甘酸っぱいベリーのソースは相性ぴったりで、フレッシュな味わい、特別な葡萄畑のみが名乗ることを許されるフランスの「グラン・クリュ」。そんな最高峰の畑で収穫されたブドウを使って作られるシャンパン「レ・エシャンソン」を使ったガナッシュチョコレートが「スペシャルストロベリーシャンパントリュフ」です。口どけが良く、芳醇な香りと風味が魅力とのこと。ところで、NHKは単純に払わない人にスクランブルかけたら終わりなのに、そうしなよ。まあ収入10分の1くらいになるとは思うけど、今の変なみかじめ集金やめようよね。まあ、もう3分の1おわったけど。速いな。
2019.04.19
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1っ回目の大阪万博はオールジャパン、広告代理店がちゃんとおせっかいで口出ししなかったため大成功に終わった。細身のユニフォームウッドストック模型各種万博シアター映像入場料出産1人ベストオブ万博エルサルバドル頑張ってるなスタッフ概要1日最高83万人2019年の大阪・兵庫・奈良自宅正月平成最後の正月自宅2自宅36月7月有馬温泉の定宿三田市、有馬不二梅田大丸さざえさん0梅田大丸さざえさん1梅田大丸さざえさん2梅田大丸さざえさん32度目のアサヒビール工場見学もうすぐ万博だよ全員集合もうすぐ万博だよ全員集合2万博だよ全員集合太陽の塔内側だよ全員集合1太陽の塔内側だよ全員集合2万博だよ全員集合2万博公園無料ディ大阪国立民俗博物館メキシコ大阪国立民俗博物館日本インドネシア大阪国立民俗博物館シタール万博公園日本庭園吹田市長肝煎カフェ吹田蛍見に行く吹田ダスキンミュージアム吹田ダスキンミュージアム2豊中キャンドルロード大阪市内の清水寺大阪南港めんたいパーク見学大阪南港ツーリズムエキスポジャパン1大阪南港ツーリズムエキスポジャパン2大阪gourmetの秋奈良新大宮金魚1奈良新大宮金魚2奈良鹿公園奈良 頭塔
2019.04.18
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九十九湾、お、あ、運行しとらん。遊覧船はあろうことは調べていたが、運休まで調べてなかったわ。恋路海岸恋路海岸(ラブロード)は、能登町の1kmの海岸。沖には弁天島が浮かぶ。毎年7月の海の日の前日には、恋路のキリコ火祭りが行われ、大松明が夜の海を赤く染まるらしい。 まあ、ロミオトジュリエット能登版って感じだ。その昔、恋人ドオシの若者、鍋乃と助三郎がいましたと。鍋乃に思いを寄せる恋仇の男源次の罠のため、助三郎は海に飲み込まれ命を落としてしまいました。鍋乃も助三郎の後を追って海に身を投げ死んでしまうというそれはそれは悲しい恋の伝説。源次はすみまんと反省し坊主になった。海水浴場は、海水浴客で賑わう。今日は天気の悪い風の強い冬の日、それでも賑わっていた、私以外は誰もおらん。見附島(珠洲市)から恋路海岸までの3.5kmの海岸線は、「えんむすビーチ」と言われている。見附島一方、見附島は、島の形から別名「軍艦島」とも呼ばれる高さ28メートル周囲400メートル、海岸から150メートルの奇岩。見附島から昇る朝日は絶景ということらしいが、今は昼だ。縁結びの鐘がある。空気の澄んだ晴れた日には、はるか遠くの北アルプスを望めるようだが、今日は天気の悪い風の強い冬の日、雨も降ってきた。見附島という島名は、空海が佐渡島から当地方に渡った際、最初に見付けた島であることに由来する。しかし、ここも人がいっぱいだたわ、私以外誰もいないなあ。これから行くところを確認。えんむすびーち仏像の家。あー。ロマンチックだったわー。2019能登半島能登半島行能登半島 恋路海岸、見附神社能登半島 逆さ杉等能登半島 青い洞窟能登半島最北端 狼煙能登半島最西側に入る能登半島から帰る
2019.04.17
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それは御堂筋esaka駅から,まあ10分ぐらいあるいたところにある。帰りはフォルクスでランチを食べるのである。ヤサイバイキングである。フォルクスは、ダイエーがやっていた肉のファミリーレストランである。3パーセントぐらい欲しいかなこのとけい。このポンデイスはいらんけど、ネットで売れそうだから値段次第では買ってもいいかもね、転売するけど。カベドーナツカビ顕微鏡でみてもなあポンデリングモップ、これいいね。頭柔らかいねガキは。5個持って帰ったドーナツ、3日たって3個余っている。揚げたて油チーズではないと思う。ほ、ダスキンの由来分かった。こんなコマーシャルあった。きんさんぎんさんしらんCMやなあ。きんさんぎんさん、コマーシャルに入ったお金どうしますか?って聞かれて、将来のために預金しますって。大物やなあ、100歳でも。平成に入った頃、100歳以上は全国で5せんにんぐらいだったのに、30年後、7万人に。感覚的にで間違っているかもしれないが、死んじゃっているのに生きていることにして、年金不正受給しているひとが増えているのではないか?って感じもする。少子化については、だからもう日本経済だめになるって思うことがダメにするのだねえ。。だめなところに投資しないから。世界中をみると少子化しても経済発展している国はいくらでもあるからね。2019年の大阪・兵庫・奈良自宅正月平成最後の正月自宅2自宅36月7月有馬温泉の定宿三田市、有馬不二梅田大丸さざえさん0梅田大丸さざえさん1梅田大丸さざえさん2梅田大丸さざえさん32度目のアサヒビール工場見学もうすぐ万博だよ全員集合もうすぐ万博だよ全員集合2万博だよ全員集合太陽の塔内側だよ全員集合1太陽の塔内側だよ全員集合2万博だよ全員集合2万博公園無料ディ大阪国立民俗博物館メキシコ大阪国立民俗博物館日本インドネシア大阪国立民俗博物館シタール万博公園日本庭園吹田市長肝煎カフェ吹田蛍見に行く吹田ダスキンミュージアム吹田ダスキンミュージアム2豊中キャンドルロード大阪市内の清水寺大阪南港めんたいパーク見学大阪南港ツーリズムエキスポジャパン1大阪南港ツーリズムエキスポジャパン2大阪gourmetの秋奈良新大宮金魚1奈良新大宮金魚2奈良鹿公園奈良 頭塔
2019.04.16
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台湾基隆中山區仁安街11號野柳地質公園からは基隆にバスで戻ることにしていて、バスを待っているがなかなか来ないので、ウムーと思っていると、タクシーが客を乗せてやって来て降りた。これで帰るかと安易に決定。お金持ちは安易なのである。貯めるより稼ぐことに力を注ぐ人種である。しかし本当は会社員なので、稼ぎが増えるはずがないのである。普段質素な生活をしていると金が溜まるのである、というか、旅行という思い出資金にお金を出しているため、日常生活は何もないのである。海沿いを走ると、きれいだろまるでコートダジュールのようだ。と運転手は言った。運転手の風体とコートダジュールが妙に似合ってなかった。まあ、私とコートダジュールの相性はばっちりだ、だから3回も4回も行っているのだと思いながら、他人が見たらただのおっさんである。やがて、基隆の貨物港そばまでやってきた。海蝕洞窟寺院である仙洞巖。運転手も初めて来たと言っていた。運転手が何かと話好きだったので、時間あるの?と聞いたらあるあるありまくる、みたなことをいうので、じゃあ、30分ぐらい待ててくれない?次のとこも行くから、というと、待つ待つ私待つわ、であった。とにかく、私以外は信心深い人々が参拝し、線香をあげる。細い道、肩やカバンが当たり不安になる。ガンガン当たりながら80メートル進むとやがて少しだけ広いところに出てきて終点。車に戻ると、運転手は、え?15分で終わり?と苦笑いしていたので、生き急いでいるから仕方ないのである、と仕方なく答えておく。2019台湾フィリピン台北へ基隆へ野柳地質公園野柳地質公園2野柳地質公園3野柳地質公園4野柳地質公園5基隆 仙洞巌台湾残りの基隆基隆 中山公園基隆 中山公園2台湾基隆夜市台湾基隆夜市2台北 アニメ化龍山寺台北 華西街観夜市台北のホテルへ戻る台北→マニラマニラ20時間マニラ→帰国
2019.04.15
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サンヨー掃除機埃を持て。蜂起にこんな呼び名があるとは。放棄も同じく。竹ホウキの竹抜き取って、竹筒をバットにしたな、こりゃしなってムチャ飛ぶ。小学校高学年には竹ぼうきなくなった。高校卒業するまで、たしかに自分たちで掃除した。他国じゃあ考えられないだろうなあ。昔から掃除帝国だったんだ。昔から精神修行と同意語だ。用務員っていて、いまもいるか、ごみ焼却場が学校にあって、燃やしてたよなあ、にせじょうほうのダイオキシン問題でなくなったんだっけ。あれは罪だなあ。今でも焼却場は困っているんだろ?立花隆もあれは罪だったなあ。確かに、掃除を学校でやらせるのは、なかなか悪くない。雇用を減らすかもしれないが、みなでやればすぐ終わる。そしてやらなくてもいいが汚くなる、我が高校の理系は、確かにほぼだれも掃除をせず、埃が溜まっていたが誰も気にしてなかった、気になったら、ああ、まあ掃除だ。中学校の時は、ステンレスの掃除入れ人閉じ込め遊びがいじめではなく流行り、これがなかなかおもしろく、俺もおれもとみな入った。仕舞に掃除箱壊れて首謀者として怒られた記憶あり。密室で自分のコントロール外であちこち揺らされるのがおもろかったのだろう。小学校は、床が木だった。神戸市特有らしいが、数カ月に一回ぐらい、油引きってのがあって、油撒いてモップで伸ばして最期は、皆で滑るのが定番であった。(あら、ネット検索したら今もあるみたい。てか神戸の小学校は土足だったわ。中学校もやけど。)外の廊下の掃除もあって、教員室から茶の出がらし撒いて掃除したよなあ。今となってはそういう経験もあり、私は、大きな声では言えないが我が家の掃除大臣だ。いや、総理大臣でもあり、大蔵大臣でもあり経済産業国土交通大臣も兼ねている。そんな訳で我が家では私が一番有名人であり、我が家は私中心に我が家が回っていることはここだけの話である。簡単に言えば絶対君主状態である。ただ、掃除活動については半分引退状態にあり、掃除機もモップも床を這わすことができないほど、床に本が散乱しているのである。その間にチリ埃が集結しつつあるが、床面がないために、床の掃除ができないのである。どうしようもなくなったら、引っ越しするつもりである。ルンバも無理である。1秒以内に壁に当たって止まるだろう。まあ、生ごみがほぼないのが救いだ。
2019.04.14
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岩に白い服。野柳地質公園行き方。こういうところには、誰と来たらいいんだろうか。団体旅行が多く、カップルやファミリーも多い。おや一人はあまりいないな。いや、全然いないな。記念撮影一人では撮れないから一人で来るところではないのか?客家が来てる?客家は鄧小平が有名だが、台湾の李登輝やサイエイブンもシンガポールのリークワンユーもフィリピンのアキノ(コファンコ)もタイのタクシンも客家だ。元々ち動く北部に住んでいたが、福建省とか南部に追いやられて、周り誰も言葉通じないやんけ、どこでもじゃあ一緒じゃと華僑になったりアメリゴにいったりして、ユダヤ人みたいな感じである。あれ、何の話だ。多分客家か不可思議公園か誰とどこに行くかという話だ。2019台湾フィリピン台北へ基隆へ野柳地質公園野柳地質公園2野柳地質公園3野柳地質公園4野柳地質公園5基隆 仙洞巌台湾残りの基隆基隆 中山公園基隆 中山公園2台湾基隆夜市台湾基隆夜市2台北 アニメ化龍山寺台北 華西街観夜市台北のホテルへ戻る台北→マニラマニラ20時間マニラ→帰国
2019.04.13
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江戸は、土地取引活発だったようだね。大名や旗本が幕府から貸し出された武家地、寺院や寺、そしてその他町人、その外は農地。武家も借りているのに裏をかいて売買したり、なかなか、活発だったようだ。地方の豪農も江戸の土地投資していたようだ。江戸は火事が多いので、建物はだいたいどうせ燃えるからと粗末で、貸主も建物より土地の方が価値があったわけで、もしかしてそのためいまも日本は建物より土地に価値がある振興をやめないのかも知れない。地震もあるし。10年ぐらい前に実家で砂糖のごはんをもらったが、レトルト何かうまくないと思っていたが、(今思い出したが、食べた記憶も捨てた記憶もないぞ・・・ということは・・・)白ご飯食べたくなり、砂糖のごはんを買って食べたら、あれ、意外と旨いじゃないか、いけるなと、舌が喜んだ。長年使った高級電磁調理器でご飯を炊いていたが、壊れたので、たまたま5,000円の調理器を発券し、買ってみたら飯も焚けないただの熱するだけの代物だった。そういうわけで、家で米を炊くことも暫く引退だ。これが壊れるまで。20代の頃、米をあまり家で食べない生活が続き、1年に1回しか米を買わなかった時期が5年程続いたが、またそういう時期になってきたということである。(もちろん外の昼飯では食う))そういえば、ドロリッチも販売終了したなあ。そういえば、惜しまれて販売終了になった物件もいっぱいあるんだ。森永チョコフレーク、少年時代の味だ。100円みぞれかき氷も終わり、よっちゃんイカも消えた。江戸時代も終わり、参勤交代も廃れていって、江戸の人口も減っていき、もはや江戸の土地の価値はなくなり、柵を設ける(ごみすてられないように)ならただであげる、みたいになっても、土地欲しい人が現れず、三井や岩崎に無理やり広大な土地を買い取らせたのだが、それから10年もしないうちにまた人口が増え始め、土地は急騰、そこからいまの三菱地所や三井不動産がある。
2019.04.12
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1回目の中尊寺は時間がなく、前を通っただけなので、正確には1回目といえよう。ここから登っていく。め組の人状態黄金のぶた状態まあ、日本の寺って一般的に、トイレこちら、順序こちら、重要文化財、土足厳禁、禁煙、火気厳禁、撮影禁止、柵外に出ないでください、売店はこちら、祈祷はこちら、とまあ、看板がうるさく、なかなか景観を頑張って全力で台無しにしてくれている。命令と商売が清らかさをしっかり打ち消してくれている。まあ、日本人も外人もマナー悪いんだろうなあ。これでマナー向上するとは思えないけど。フラッシュ焚かなければ撮影禁止ってのはどうなのよ。それに、寺にはゆるキャラいらんけど。そうだなあ、入場前にマナー講習3分でもしたらどう?で受けてない人は入場料倍にする。それで公害看板撤去。2019岩手岩手 花巻往復岩手 佐原硝子岩手 空飛ぶ団子、佐原硝子達岩窟毘沙門堂毛越寺 中尊寺金色堂中尊寺再訪デクノボーの道デクノボーの道2幽玄洞幽玄洞2花巻 温泉郷
2019.04.11
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いよいよ勝負開始である。ドーナツ造りに命をかけるように、命がけの説明が始まる。記事をウスーク、ウスーク伸ばす。ウンコを伸ばすように。これくらいかな、というのを簡単にかたどりする。型を取って外していく。外したものを油にそのまま沈められるように網にのせていく。余ったものは遊んでくといわれたので、捏ねてみるが。裏返してまた数十秒。何だか、挙げるまで揚げ人は踊りを披露。油から取り出し、参加者に戻される。揚げたドーナツにシロップをかけなければならないが、そこは甘くてはいけないので、ちょとだけ。箱のお絵かきしましょうねっていわれたけど、そこはミスド関連スタンプで余白を網羅する。何かしてるが。珈琲飲んでください、はい。ポンデリングオリジナル勝手に完成1番に。10秒で。フレンチクルーラーができるまで。ポンデリングオリジナルに、チョコとトッピングが用意される、さああ、スキにしてくださいと。それで完成。その場で食べてもいいし、箱詰めOK.、1個だけだべて、4個詰める、いつ食べるんだろう。・・・帽子持って帰って下さい。。。ウーン、使うかなあ。」それでシェフにりっぱになりました。2019年の大阪・兵庫・奈良自宅正月平成最後の正月自宅2自宅36月7月有馬温泉の定宿三田市、有馬不二梅田大丸さざえさん0梅田大丸さざえさん1梅田大丸さざえさん2梅田大丸さざえさん32度目のアサヒビール工場見学もうすぐ万博だよ全員集合もうすぐ万博だよ全員集合2万博だよ全員集合太陽の塔内側だよ全員集合1太陽の塔内側だよ全員集合2万博だよ全員集合2万博公園無料ディ大阪国立民俗博物館メキシコ大阪国立民俗博物館日本インドネシア大阪国立民俗博物館シタール万博公園日本庭園吹田市長肝煎カフェ吹田蛍見に行く吹田ダスキンミュージアム吹田ダスキンミュージアム2豊中キャンドルロード大阪市内の清水寺大阪南港めんたいパーク見学大阪南港ツーリズムエキスポジャパン1大阪南港ツーリズムエキスポジャパン2大阪gourmetの秋奈良新大宮金魚1奈良新大宮金魚2奈良鹿公園奈良 頭塔
2019.04.10
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台北から基隆までバスでたったの30分、200円少々である。勿論列車でも行けるが駅の横にあるバス停からのバスの方が頻繁に出ていて、早いのである。バスはバス内で最後に料金を払う。直線距離では九分より遠いが、九分より1時間ぐらい早く到着する。30分で着くなら市内と同じだ。バスはWIFIにUSBコンセントがある。(MRTも30分のフリーワイファイありだったわ)1980年代、台湾で私が知っていた地名は台北と高雄と基隆だけだった。何故なら基隆は沖縄まで船を出していたのだ。バンコクでバンコク・ブルネイ・台北のエアチケットを予約したことがあって、台湾からは那覇まで船で渡り、船で大阪に帰るプランを立てたのであった。金を払いに行く前日に大量の金を諸事情で失って(まあ、盗られて)、キャンセルしたなあ。キャンセルどころか、実は日本に帰る金がなくなった訳で、カードも持ってないし、途方にくれたというか、たまたま俺には親がいたんで、コレクトコールで実家に電話して、送金してもらうしかないかと思ていたら、ほんまに偶然に前から大学の後輩が歩いてきたので、「お前、金持ってない?数万円」彼が、1年休学して世界旅行に出かけることを知っていて予算は70万円ってことも知っていたので金持っているだろってことも分かっていた。「ああ、いいですよ」彼は簡単に貸してくれた。(勿論、律儀なので後で、ちゃんと返した)ちなみに、彼は世界旅行といって1年間の休学で世界に出かる!と思ったら彼の意思に反して、彼はバンコクとバラナシだけしか行かず、あとはビザの関係でマレーシアやネパールにちょっとだけ1回出国しているだけに終わってしまった。ソレデ、涙ヲ飲みながらも、何故かマニラ経由成田行きのチケットを購入してフィリピンで2週間過ごして、成田から群馬県など関東に留まって(さすがに日本に帰ったら銀行カード持ってて金下ろした)、神戸に帰ったのは1週間後であった(その1週間は泊めさせてもらうか、森で眠るか、夜行であった)。しかし、台湾とかタイとかフィリピンとか、地方に来てもラクチンだなあ。そういえば、韓国は本当は庶民はそんなことないんだけど、国としては離れつつあるなあ。可哀そうな人々だわ。まあ、そういうことはいいとして、台湾最北部、台北の次の大きな港、日本航路、ノスタルジアの基隆、行こうと思ってから30年経過して、やっと来た。もう10年前に基隆那覇航路は採算とれず、有村産業は運休となった。今となってはLCCもあって高くなっちゃんだな。遂に基隆に来た、来たって、こんなに簡単に来れるんだったんだ。台湾に毎年来てて、何だ、基隆まで台北から30分かよ、という感じだった。しかし、まあ、地名的としてやたら懐かしい初めて来る都市であった。バス終点で降りると目の前は港であり、整備されていた。しかし、来てみて、まあ、基隆は、ハリウッドだった。港町で育った私は、やっぱり港町に来ると、いや港町の港に来ると、姉妹都市!って感情を抱く。(まあ、ほんまの神戸の姉妹と市はシアトルとかロテルダムとかバルセロナとかマルセイユとかリガとかリオとか。)いや、情緒あふれる港町ではなく、貿易港か。神戸は1980年代は世界4番(日本一)のコンテナ取扱量だったが・・・。当時のニューヨークもロッテルダムも高雄もハンブルグもどこかに行き、上海やシンガポール、しんせんか。香港だけは生き残り。しかも、その量は過去30年で10倍ぐらいに増えている。不思議に感じるのは、前にも何度か書いているが、台北も含め基隆は石垣島より北にあり、宮古島と同じぐらいの緯度である。与那国島までざっくり100キロである。中国本土よりちょっと近いのである。取り敢えず、遅い朝食、なに食べるか、通りを歩きながら迷うが、お粥をメインにトッピングをいくつか選ぶという店に入った。150円ぐらいで、そのあと、コーヒー飲んだら200円。ウオっ。飯代よりコーヒーの方が高いね、台湾も韓国もタイ(屋台除く)もベトナムも。さて少量の飯食って、もう一件飯屋入るか何かつまむかと思ったが、コーヒー片手にタクシー乗っちゃおう。2019台湾フィリピン台北へ基隆へ野柳地質公園野柳地質公園2野柳地質公園3野柳地質公園4野柳地質公園5基隆 仙洞巌台湾残りの基隆基隆 中山公園基隆 中山公園2台湾基隆夜市台湾基隆夜市2台北 アニメ化龍山寺台北 華西街観夜市台北のホテルへ戻る台北→マニラマニラ20時間マニラ→帰国
2019.04.09
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おそらく、12時間かけてバラナシからネパールの国境にやって来てバスを降り、入国手続きをした。陸路でもインドからネパールはアライバルビザが適用された。前の西洋人はインドとネパールのビザを何度も確認されおまえ6往復しているが滞在し過ぎ、やばいことしてるのか、みたいに締め上げられた。国境を越えると宿を紹介されるが、違うんだ!このままカトマンドゥ行きのバスに乗るんだ!というと、そうなのか!と何かの案内人は急いでバスを探してくれた。 ネパールに入ってぎゅうぎゅうに混み合った夜行バスに乗り換えると、隣のおじさんがへらへら笑いながら「山の国・ネパール」と一言だけいって、いつまでも私の顔を見ている。「いつまでも」というのは参ってしまうな。でも、何故か永遠性を求めざる得ない、あるいは信じざる得ない社会に生きてしまっている。「参ったなあ、いつまでも」ってのは、とまた揺れるバスの中で私は呟いた。「精神的に向上心のない奴は馬鹿だ」という夏目漱石の「心」の中の言葉は本当だろうか?「内面的自由を得て初めて外面的自由を得る資格がある」というトーマスマンの言葉は本当だろうか?「意見は大して重要ではない」というシャダルタの言葉は本当だろうか?と私は暫く考えていたが、バスは常に揺れているというのに、私の頭の中は次第に思考停止状態へと陥っていった。眠りの世界に引き込まれていく僅かな意識の中で、星が見えた。降ってきそうな星が、必然の様に見えた。窮屈なバスの最後尾にコンパクトにまとまっている私は、結局ロマンチックなニヒリストにはなれなかったな、と決断を下した頃、もう意識停止数秒前であった。24時間後、カトマンドゥに到着。何が嬉しくてか、何が悲しくてか、体力が必要だったインドから、確かに二十四時間かけてカトマンドゥにやってきた。人通りを座って窓から眺められる部屋を頼み、一日揺られてきた体をこのまま癒すのが面倒で、散歩に出掛け、すれ違う人をメモしていく。三輪タクシー。足の悪い乞食。聖者(サドぅ)。珍しく走るネパール人。大根売り。バックパッカー。ジュース売り。売人。赤いサリーの女。宗教道具を持った日本人。ガキ。ズダ袋を持ったおばあさん。べスパ。卵売り。空の籠を運ぶ男。リキシャーを推す男。野菜売り。私は、バナーラスで、急遽、運を掴むことを思った。運はカトマンドゥに有り、と思った。具体的根拠はなかった。急いで、チケットを手配し、二十四時間かけてここまで上って来た。そして、一日目、歩き回った割には、運という程の運はなく、急に珍しく人恋しい気分に陥った。何時の間にか、真っ白なカーテンと真っ白な壁と真っ白なシーツに囲まれた狂いそうなホテルの部屋の中で佇んでいた。落胆の中で何かを考えていた。私は自分が差別主義者ということを何となく認識していた。差別の対象は自分で決めさせてもらわなければ、と思っていた。それでも、生まれてからの環境や教育や噂や常識に惑わされて、差別の対象を選んでしまっている筈だ。不意にこの時代に日本に生まれただけという理由で、経済的優位を謳歌している。六十倍の格差のどこが悪いのだ、と開き直られると困るが、人殺しを祖先から受け継ぎ、次は搾取、といった構図のことを、考える。何故こうなっているのかが、分からないので、単純に輪廻転生のことを考えてしまうと、話が分かりやすく済んでしまう。そこに危険があると思うのだが、昔、虫けらだった頃、いいことしたから人間になったとか、こうこうだったからここに生まれたとか説明しやすくなってしまう。でも、もし歴史的責任を受け継ぐとすれば、次回の転生は芋虫か、殺される側の人間になってしまう。それで、王や貴族といった現在チヤホヤされているロイヤルファミリーっていうもの、昔を辿れば、略奪者のドンだった訳で、そういう人間質を尊敬したり心の拠り所にしたりするって何か変な話の様に思える。で、勝手な分かりやすい転生が事実なら、次回いったいどこへ行くことやら。トホホである。ともかく、精神衛生上、白ずくめの部屋は良くない。時計を持たずに、この旅行を進めている。又は、退いている。朝に白い部屋を飛び出し、バスに乗り、八時間。運は掴めぬまま、ポカラへ。列車のない国ネパールよ。決して忘れないと思っていたことも、記憶が徐々にあやふやとなって、夢や時間が交差し乱雑に絡み、ボーッとなって、印象さえも流され現実から叩き出され、押し退けられた記憶の残りカスが、理想と交じり、加速度的に偶像化されて、美化というとどめ。それが私の内の風景。八千メートル級のアンナプルナ連峰が外の風景。2019年ネパールバンコクカトマンドゥ30年ぶりにネパールへモンキーテンプルモンキーテンプル2モンキーテンプル3モンキーテンプル4、ボダナートボダナートボダナートから戻るパテュシティナートに向かうパテュシティナートガートの火葬場パテュシティナートガートの火葬場2古都パタン古都パタン2古都パタン3インドラチョーク王宮王宮21987年ネパール訪問1987年チベットからネパール入国1989年ネパール訪問1989年ネパール訪問21987年2019年ネパール訪問王宮周辺王宮周辺の小さな神々王宮周辺の寺ネパールgourmetの旅ネパールから帰国
2019.04.08
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しかし、花粉症の人にはつらいが、4がつ7にちは桜も咲いて気温もちょうど良い日本でも1年のうち最良の日のひとつだったような気がする。(出来事が最良ということではないが)龍山寺廣州街夜市青山宮Bangka Qingshan Temple築100年、木と石を用いた寺院。前殿の石柱や石床は日本統治時代、圓山の台湾神社で用いられていた石材とのこと。清水巌祖師廟。龍山寺と並び「台北の三大廟門」に数えられる名刹です。若者があつまるところ西門町台北府城 北門。台北城に5つあった門のうち、現役当時の姿をとどめる唯一の門2019台湾フィリピン台北へ基隆へ野柳地質公園野柳地質公園2野柳地質公園3野柳地質公園4野柳地質公園5基隆 仙洞巌台湾残りの基隆基隆 中山公園基隆 中山公園2台湾基隆夜市台湾基隆夜市2台北 アニメ化龍山寺台北 華西街観夜市台北のホテルへ戻る台北→マニラマニラ20時間マニラ→帰国
2019.04.07
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てっぺん入れないのか、というか、岩か。なんか、なんだかなー。である。上戸彩一宮気多神社。その一之宮鳥居は海中にあるという。海を見るが、見えないなあ。重心塩寺の上の杉ホタテ岩平家さかさ杉真言宗高照寺の門前にある老杉。樹齢900。杉の枝が地面を這うようにして逆さに垂れていることから、「倒さスギ」と呼ばれている。高さが約12m、幅が30m。暴れ杉であった。2019能登半島能登半島行能登半島 恋路海岸、見附神社能登半島 逆さ杉等能登半島 青い洞窟能登半島最北端 狼煙能登半島最西側に入る能登半島から帰る
2019.04.06
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昔、カトマンドゥのどこへ行ったのか調査するため部屋をさらにかき乱してみた。8月14日(金)チベットから3泊でカトマンドゥに到着した。ホテルに到着し、ベッドメーキングしてくれる。資本主義最高やな。シャワーも、実は3週間ぶりだ。上海で温かいシャワーを浴びた記憶が。ホットシャワーは大満足である。今日を振り返ろう。その村の民家で起きたのは5時40分ぐらい。(カトマンドウまでの道が崖崩れで崩壊し、バスが出ているところまで歩いて行く必要があり、夕方になり、交渉で民家に泊めさせてもらった)薄明りの6時外に出て、チャイを飲む。6時15分、次の道が封鎖されている崖までタクシーに乗る。17キロ。そこから歩き始め山沿いや田のあぜ道を歩いて行く。バラビセというところに着いたのが1時間後、そしてチャイ飲んでさらに3時間17キロ歩く。途中トラックに2回便乗した。道が寸断されて寸断されたときにいたトラックが、その間をピストン運転しているのである。(タクシーも同じ)腹が減る。食欲は、でも、ない。道がカトマンドウまで遮断されない地点まで到着したのは14時半、1台だけ道沿いにバスが停まっていて満席になれば出発のようだ。それでも14時45分に出たバスは、バスの上にも人が乗っていて時速20キロである。夢のカトマンドウに到着したのは19時半であった。タクシーに乗りタメル通りに。ところで、たまたま一緒にネパールに入国してカトマンドウまで来たのは日本人4人でそのまま同じホテルへ。交代でホットシャワーの快楽に。いやあ、資本主義は社会主義よりいい!中国を香港に返せ!カレーを食べに行ったのは21時、中国から来たら、サービスがもはやおせっかいに見える、ウマイうまい。冷えたジュースも久しぶりに飲んだ。帰りには皆でビールなんか買っちゃって飲んだ飲んだ。3時就寝。8月15日(土)VISAを取るためにインド大使館に行ったが、月曜に開くからそのとき来いと追い返される。ホテルに戻り洗濯をして、天気も良く、洗濯してなんて気持ちいんだ!という感じであった。そして散歩。楽器屋によってタブラーをポコポコ鳴らしたり、カバン値切ったり、茶を何回も飲んだりしてホテルには19時頃に戻ってきた。本屋に寄り、ロンリープラネット、ウエストアジアオンシュ-ズリングを購入。おどろきの151ルピー1,000円ぐらい。でもこれからヨーロッパまで行くのにさすがにガイドブックはないのは苦しい、勿論、パキスタンやイランの日本語のガイドブックは存在しない。ラム酒(グルカスペシャル)を買い、中国国境から一緒だった4人組と飲みながら就寝4時半。8月16日(日)9時起床。チャイ飲んだ後、チャリンコでボダナート目指す。14時、中国国境から一緒だった4人組と合流し、寺巡り、スワヤンブナート寺院などを訪問。途中、ネパーリ―と上海人と知り合い、ビールをおごってもらい、6人で町の寄り合いに出席し、適当に楽器を鳴らす。8月17日(月)寝過ごして、午前中に行かないと終わってしまうインド大使館ビザ申請。間に合わない!寝すぎて失敗したのに、またベッドでうなだれる。ダルバート食うわ。ポリタンク購入。これからインドの砂漠に行くからなあ。GPO(中央郵便局)まで歩いて行くと疲れてしまい、ホテルに戻ると、中国国境から一緒だった4人組はパタンに行くというが、今回キャンセル、昼寝するといい、起きたら夜、皆が帰ってきたんで、夜な夜な飯食いに行く。夜中は、毎晩のことだが、屋上に行き満面の笑顔を見る。大学の同級生を見つけた。8月18日(火)8時に起きると雨が降って来た。雨季だったなあ。何故だが寂しい雨だ。ブライアンアダムスが流れている。ようやくインド大使館に行く。雨の中のカトマンドゥ、違た風景、しかし、雨は止み、光が差す。待ちを乾かしている。インド大使館に並ぶこと、8時50分から12時40分。51ルピー、でも明日には交渉でビザ出してもらうことに。なんせデリーで砂漠踏査隊隊員(大学後輩)たちが待っているからな。もう待ち合わせ日時から1週間遅れているのであいつらいるのだろうか。ホテルに戻ったあとは、チャウメン食べにいったが、料理が出るまで1時間。疲れたが、旨かった。ホテルに戻り、部屋でごろごろの後、買い物して、偶然2,3日前に知り合った香港人と出会って軽く一緒にモモを食いに行った。それにしても、毎日シャワー浴びている。夜10時、屋上から通りを見ていた。独り言をいっているようだ。人々はゆっくり歩き、誰も荷物を持っていない、手ぶらだ。そのうち、また雨が降り始めた。3月19日(水)8時に起きる。チャイを飲んでまた寝る。11時頃再度起き、パッキングを始める。12時チェックアウトし、4人組の2人はティミへ。1人は宿替え、そして俺はインドへ。最後の晩餐で、人気店のモモ(餃子)を食べに行く、10個4ルピー(30円)。蒸したモモにカレー味のスープをかけ、旨い。レモンティも今回何度飲んだか。バス停まで見送りに行ったあと、友達のホテルに行き、決める。そのあと、インド大使館に行き、VISAを受け取る。ホテルからすぐなのに、わざわざリキシャーで行く。19時、GPO近くのバス停に行き、インドを目指す。8月20日(木)バスは国境、5時半ソウノリ到着。飯食い、歯ブラシ買う。7時入国、ゴラクプル10時45分着、13時半ラクナウ行き列車に乗り、17時半到着。22時ラクナウ発、翌日7時40分デリー着。2019年ネパールバンコクカトマンドゥ30年ぶりにネパールへモンキーテンプルモンキーテンプル2モンキーテンプル3モンキーテンプル4、ボダナートボダナートボダナートから戻るパテュシティナートに向かうパテュシティナートガートの火葬場パテュシティナートガートの火葬場2古都パタン古都パタン2古都パタン3インドラチョーク王宮王宮21987年ネパール訪問1987年チベットからネパール入国1989年ネパール訪問1989年ネパール訪問21987年2019年ネパール訪問王宮周辺王宮周辺の小さな神々王宮周辺の寺ネパールgourmetの旅ネパールから帰国
2019.04.05
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昔、カトマンドゥのどこへ行ったのか調査するため部屋をさらにかき乱してみた。3月9日(木)わしは時計がないので困る。わしは6ルピーでリキシャ―であるホテルに行った。わしは8時半に出発した。あああーあー。ネパール、来るとは思わなかった。解説:確か、このとき、インドのバラナシから24時間かけてカトマンドゥにバスでやってきたのであった。多分、バスターミナルからホテルに向かったのであるが、あるホテルとは、多分、前回泊まったホテルに行ったのであろう。いや、違うな。前に泊まったホテルから少し離れたホテルに泊まったなア、白っぽいホテル。ということは、リキシャワーラーに連れて行ってもらって、値段も納得して部屋もチェックして納得したのおであったと思う。8時半に出発したのは、どこに向かって出発したか不明であるが、徒歩ではある。解説2:その前に友達がネパールからバラナシに飛んでくるというので、日程併せてバラナシに行ったのだが、その日来なかった。連絡の取りようがないので、そして時間もあったので、じゃあ、カトマンドゥに行ってみるか、もしかしたら、道端で出会えるかもしれないからなあ。3月10日(金)24時間の移動には疲れたようで、タメル(ストリート)に来た。レストランで2分間観察すると、目の前を通過したのは、男34人、女16人、ガキ2人、自転車7台、リキシャー1代、車0、オートリキシャー0、西洋人7人、日本人0、野菜売り1人、藁持ち1人、サドゥ1人、2人乗り自転車1台、走るネパール人2人、大根売り1人、ベスパ1台、卵売り1人、箱持った人1人、リキシャー押す人1人、頭陀袋でくるまったおばちゃん1人、足を摺って歩く子供1人。何やってんだ。解説;暇、というか、やる気ない。当時は東洋人旅行者は基本日本人だけだった。ついでに、友達が、そのうち通り過ぎるかも知れないので、だらだら道沿いの店から通りの人を眺めていたのであった。東アジア人は目立つ、というかチベッタンやネパーリも日本人に顔つき似た人多いが、旅行者の雰囲気が違うので東アジア人=日本人の姿は目立つのだ。3月11日(土)夕方5時、ストゥーパゲストハウスから出てきたのは友達だった。あ、なんてこった、2年前におれが泊まっていたホテルだ!この計画的犯行我の勝利なり!「オー!」と笑いながら大声で声をかけるつもりだったが、「あのう・・・」足がフルフル感動で震えていた、再会の感動ではなく、フラフラしているから、超スローで、自分がポン引きのような気分がした。「あ、あれ・・・トイモイさん、え、なんでここに・・・」どうやら友達は飛行機をキャンセルしなければならないほど、下痢に悩まされていたとのことだった。「下痢でバラナシに行けなくなりました」って日本に手紙出したところだよ、と言われたが、それ見るの1か月後やん、といって笑った。18か月ぶり2回目の再会であった。前に会ったのがカラチ経由バンコク経由マニラ経由日本に帰るパキスタン航空でであった (私はバンコクでトランジットしたので、そこで別れたが) 。それだけで良く知る知り合いになったというのもあるが、実家が近かったからなのだ。まあ、明日には日本に向かうというが、時間を惜しんで話し続けるのだが、私はどうやらスロースロー、飛んでいる。君もだろ!解説:この旅行は一つの実験もあった。荷物を極限に少なくする旅行だった。ノートにペン、パスポートに財布。その他もろもろであるが、要はショッピングバック旅行であった。友達通るかな、とホテルから外に出るのだが、すべての荷物を持って出て行くものなので、宿代払わず逃げた感じになっちゃうじゃん状態であった。3月12日(日)7時1分起床。朝食をとり、空港に送っていった。18か月前に、「またきっと会いましょう」と言われ、そしてあったが、今度は地元で会いましょうといいながら別れた。私は、見送り、くるりと向きを変え、日本から来た女性3人組を捕らえ、ホテル探してますか、一緒にタクシー便乗させてもらえませんかと頼んだ。そして自分が泊まるストゥーパホテルを案内し、私はチェックアウトした。ネパーリミュージックが流れている。そして飯を食う。あ、客俺だけだ。解説;今回、国際空港トカトマンドウ市内が数キロしかないことヲ思い出した。とめどなく、時間がないので話したんだろうけど、内容は当然何も覚えてない。3人女性に声を掛けタクシーに乗ったことは記憶になし。3月13日(月)16時間睡眠。(18時から10時)暇なんで日本人捕まえて、散歩した。香港人も捕らえ、散歩した。解説:普通は自分から声を掛けることはしないが、珍しく声を掛けた。早稲田大学の学生だった。お互いの本を交換したが、SFファンタジーだったので、結局、読めないじゃないか。それで、また本を交換した。インドのアジャンタの安宿に本が数十冊置いてあり、日本語の本があったので、勝手に交換した。それがヘッセのシャダルタであった。一番後ろに住所が書かれていたので、日本に帰ってから手紙出してみたが勿論返事はなかった。それからも今に至るまで、海外でどんどん文庫本は置いてきている。3ガツ14ニチ(火)珍しく、真っ白で病院みないな部屋で起きたら気持ちいい朝だった。ん、時計がないからわからないが、実際は正午を超えていた。ああ、それじゃあ、あまり気持ちよくない。あちらもこちらもカトマンドゥうるさいな。なんだか、そろそろ居場所ないわ。ホテルの1階は中華レストランであった。丁寧だなあ。流れる音楽あまり好きじゃないなあ。お茶でたな、熱いお茶だ。お茶がおいしいもんだって、ここ1,2年で知り始めて居る気がする。コカコーラも頼んでみたら、外まで買いに行ってくれた。そう何だか外国製品であふれるネパールなのだが、この机は山小屋風居酒屋でお茶とコーラを交互に飲む間抜け野郎な感じになっている。顔を上げると他に客いないわ。まったくどこにいるんだか。ローカル中国演歌が流れ、バッチン!とブチャーの音。ああ、山小屋炉端だったんだ。色の悪い照明、擦り切れ汚れたメニュー表。コーラ瓶とお茶の入ったグラスを眺めていると、注がないといけないのか?みたいな気分になってくる。うわ、凄く早いネパーリ―太鼓の登場だ。速いなあ聞いていると、オーダーしたものと違う料理が出てきた。そういえば、さっき、ミニバーでエッグフライドライス食べたんだったのに、また飯かよ。おれがカトマンドウを歩こうが走ろうが、何も変わらぬ、裸電球が暗い、すっかり冷めた22時半、白い壁、ベットも白い、シーツも白い、わしの服も白い、茶色のテーブルがあってよかった。白い色一色はやめてくれ。3月14日の夜、肺にたまった煙。人の歩く姿に気が付いたカトマンドゥ。めっきり途方に暮れた。バツが悪い。明日はカトマンドゥを離れよう。3月15日(水)時計はないけど、朝起きた。8時のバスに乗った。これがネパールの主要道路なのかと思うほど凄まじいガタガタ道のノロイバス。4時間半でポカラに到着。200キロ。雨がちょうど上がって、バスを降りるとアンナプルナ連邦が拝めた。バスを降りると、日本人3人がバス停で待っていた。勿論私を待っていたのではなく、他の日本人を待っていたようだ。そこに彼ら曰く、ルンギー(腰巻き)を肩から回し、小さなショルダーしか荷物がない日本人がふらりとバスから降りてきて、スナフキンがやってきたと思ったと言っていた。それで、結局彼らが待っていた日本人はカトマンドゥから現れず、ピンチヒッターで私が勝手に合流ということになった。3人とは来月からNHKに就職するNHK君と、立教大学水泳部と、紅一点の女性が、私の大学と同級生であった。(彼女は京都の銀行に就職が決まっていたが、私は何故かもう1年学生延長)(日本に帰ってから1回だけ会った。何故か年賀状のやり取りは数年した記憶がある。)それで彼ら3人が泊っているホテルに向かったのであった。2019年ネパールバンコクカトマンドゥ30年ぶりにネパールへモンキーテンプルモンキーテンプル2モンキーテンプル3モンキーテンプル4、ボダナートボダナートボダナートから戻るパテュシティナートに向かうパテュシティナートガートの火葬場パテュシティナートガートの火葬場2古都パタン古都パタン2古都パタン3インドラチョーク王宮王宮21987年ネパール訪問1987年チベットからネパール入国1989年ネパール訪問1989年ネパール訪問21987年2019年ネパール訪問王宮周辺王宮周辺の小さな神々王宮周辺の寺ネパールgourmetの旅ネパールから帰国
2019.04.04
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一言でいえば、8年前から行こうと思っていた場所であったが、えらくマイルドになってしまった感じだった。台北の他の夜市と少し趣が違うディープだーくさいどの華西街観光夜市、ヘビ料理や、スッポン料理が食べられる、食べないけど。台北でもっとも古い夜市。海産物のお店や、女性下着の店、やたらマッサージ店が多い。しかし、10年前に調べたときは、もっとやばいところだったが、初めてやっと来てみると、時代は変わったようである。一番古い夜市って、オサレになってにほんじん女性がガンガン行くようになる前の台湾のイメーッジなのだろう。あ怪しいイメーッジ時代の。ほんのこの前まで、韓国や台湾に若いキャピキャピ女性たちが行くようなところではなかったものなあ。LCCができてからか、治安が不安なフィリピンでさえ、ビーチ直行かもしれんが、女性増えている。昔調べたときとエライちゃいますなー。健全化ってか、普通化しているてか、ほのかに怪しさ残しているくらいかなー。すっぽんとか蛇料理店腹減ってきたから飯たべるかな。路地はちょと怪しい店か?一番北側一番来たから30メートルぐらいあるいたらアーケードはじまり、南側メイン入り口まで屋根は続く。雨も安心か。結局屋台で麺を食う。おばちゃん一人でやっている店で、あとビールあるかなというと(屋台だが冷蔵庫が見えたから)、英語で、あなた日本人?びーる?えっ?ビール?だめ、外でビール買ったら高い!ダメ、ファミリーマートで後で買ってから飲みなさい!と意味なく注意され、ちょとびびってハイという。あー、うま。2019台湾フィリピン台北へ基隆へ野柳地質公園野柳地質公園2野柳地質公園3野柳地質公園4野柳地質公園5基隆 仙洞巌台湾残りの基隆基隆 中山公園基隆 中山公園2台湾基隆夜市台湾基隆夜市2台北 アニメ化龍山寺台北 華西街観夜市台北のホテルへ戻る台北→マニラマニラ20時間マニラ→帰国
2019.04.03
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2015年の地震の影響は、まだまだ続く。あとは、何故かなにかビップの出入りでダルバード広場が1時間ぐらい閉鎖されたのだ。祈りたい人々がじっと、待っているし、不思議にも敷地に入りたがる牛数頭が何度も追い返されていた。それで牛もバリケードが解除されるまでぶらぶら待っている。牛も居心地のいいところがあるのだろうなあ。今考えたら、ダルバード広場は、タメルストリートから1,2キロしかないのに、今まで2週間以上はKatmanduにいたのに、無料だったのに、多分1回しか来ていない気がする。来てみたら、予想以上にカトマンドウのことを忘れている気がした。断片的で切れているし、ここが王宮だという意識もなかったし、だいたい、宿から出ろよなって話かもしれないな。インドと比べどんあけ快適か、ましてや中国に比べたら、そんな感じだたかな。覚えているかな、30年前は外人の兌換券と人民元と別だったこと、すべての料金が違ったってか、屋台でご飯食べるのは兌換券では、なんだこの金って感じでこんな偽札ダメだといわれる、要は、闇両替で人民元に交換しなければならかった逆に、外国製品とか友諠商店の買い物は兌換券だぞ、と交換の需要はあって1.6倍ぐらいで交換したっけな。とにかく旅行者は建前、一般庶民とは交流がないことになっていた。団体旅行からあふれた不良バックパッカー的な奴らだけが訳の分からないことをしていた気がする。そして移動が大変だ。外人は基本国指定の旅行代理店のCITSだったかなんかを通して宿とったり列車や航空券帰ってことだったか、本土の人の数倍になるんで、とにかく、中国人のふりしたりして列車窓口に1時間並んだりするわけだった。それで、おまえ外人だろっとチケット購入拒否されたりして、慣れない外人の私は大変で、上海では学生を見つけて飯食わせて買ってもらったり、他の都市では必死にちうごくじんのふりして「ダオゴルムーインツューおイーガー(ゴルムドまで1枚)」とかいって購入した。(お前、外人だろ!この窓口では売れない!と失敗もした)そんなわけで、中国から来て、何でも安く、いうことを聞いてくれるネパールに感動していた。いや、当時は中国のほうが安いぐらいだったけど、安さを享受するためには、前途多難な道だった。思い出した。ネパールに向かうチベットからのバスの中で2泊目、基地みたいなところで野営になって、くそまずそうな飯が外人だけ500円ぐらいで、地元の人は2,30円、もう、怒ってしまって、飯食うんやめたなあ。並んで食料配られて値段言われて、え、は?差別しやがって!食えるか!と食べるのをやめたなあ。ひどい宿で、星が見えた、ロマンチック、いや、屋根に穴が開いてて。そんでもって、多分、持っていたビスケットかなんだか、ちょと食べてその夜は終わったのかも知れない。牛はどこに行きたかったんだろう。 2019年ネパールバンコクカトマンドゥ30年ぶりにネパールへモンキーテンプルモンキーテンプル2モンキーテンプル3モンキーテンプル4、ボダナートボダナートボダナートから戻るパテュシティナートに向かうパテュシティナートガートの火葬場パテュシティナートガートの火葬場2古都パタン古都パタン2古都パタン3インドラチョーク王宮王宮21987年ネパール訪問1987年チベットからネパール入国1989年ネパール訪問1989年ネパール訪問21987年2019年ネパール訪問王宮周辺王宮周辺の小さな神々王宮周辺の寺ネパールgourmetの旅ネパールから帰国
2019.04.02
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通り過ぎようとしたら、なんかデカイ寺がある、それに世界遺産の一環だと。ほう。2分程通り過ぎたが、やっぱ、寄っていくかということになった。わりと時間がないから迷ったのだが。30分ぶちこむことにした。天台宗 別格本山である。Bekkaku?もうつじ、と呼ぶ。珍しく、チケット売りの方が若い女性だった。ウキペディアによると。毛越寺(もうつうじ)は、日本の岩手県西磐井郡平泉町(創建時は陸奥国磐井郡平泉)に所在する、天台宗の寺院。山号は医王山(いおうざん)。開山は円仁(慈覚大師)と伝える。現在の本尊は薬師如来立像(平安時代後期の作。脇侍は日光菩薩・月光菩薩)。建築は平安様式。 境内は「毛越寺境内 附 鎮守社跡」として国の特別史跡、庭園は「毛越寺庭園」として特別名勝に指定されている。2011年6月26日、「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された。 平泉中尊寺、松島瑞巌寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。あ、知らない間に四寺巡礼してた。更に、よみながら要約すると・・・寺伝によれば850年、中尊寺と同年に円仁が創建。その後、大火で焼失後、奥州藤原氏らが壮大な伽藍を再興した。鎌倉時代には鎌倉幕府にも保護されたが、1226年火災に遭い、戦国時代の1573年には兵火に遭って、長年の間、土壇と礎石を残すだけとなっていた。江戸時代は仙台藩領内となり、伊達政宗の死去に際して、当時の本尊は政宗の霊廟として創建された瑞鳳寺(宮城県仙台市)に遷された。 明治の後半には新しい本堂や庫裏を南大門の外側に建て、1921年山門も移転してきた。1922年(大正11年)史跡に指定された。 毛越寺境内遺跡は、1954年(昭和29年)より発掘調査がなされ、その規模や構造などの全容がほぼ解明されている。1989年(平成元年)に平安様式に則って本堂が再建され、現在に至っている。 2011年(平成23年)5月に国際記念物遺跡会議が世界遺産への登録を勧告し、同年6月25日に世界遺産に登録された。 浄土庭園型である。平等院(宇治)もそうである。しかし、駐車場には割と車も停まってたのだが、だれもおらん。ぐるりと、この前のネパールとは違い、入場料のかかる中は取り囲んでいる。考えたら民度高いのでそういうのいらないのじゃないの?地のひとはさーっと散歩で横から入れば?寺に侵入される?そうかもねえ。でも寺に坊主いないのか?まあ先日のネパールの緩さでついついもったったけど。まあ日本は土地の権利意識高いからねえ、すぐに壁建てるからねえ。跡地ばかりですなあ。おわり東北って昔どうだったんだ。かんとうも東北も関西も九州も言葉は通じなかったはずだ。日本という概念もなかったように思うし。書物か。いまじゃ、1日で往復できるが。行けない。日数だけでなく関所もあったから。もっと昔は関所もないか?そういえば、関所があってそんなに自由に移動できない時代に自由に、それも驚異的速度で移動した人、それは松尾芭蕉。だから松尾芭蕉は、自由になれた往年の元忍者、服部半蔵という伝説もある。広大な敷地、遠くにひとり観光客が歩いているのが見えた。さすが世界遺産、人が多くすごくこんでいた。2019岩手岩手 花巻往復岩手 佐原硝子岩手 空飛ぶ団子、佐原硝子達岩窟毘沙門堂毛越寺 中尊寺金色堂中尊寺再訪デクノボーの道デクノボーの道2幽玄洞幽玄洞2花巻 温泉郷
2019.04.01
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