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■第七章 矢倉沢■ 【嬉しはずかしWeb拍手v】 本日はちょっとコーヒーブレーク的な更新を──気に入っていただけると嬉^^ 『箱根』を始めて以来、必然的に『青木』について話題にする機会が減っていた わけですが、皆さま、私たちのことを忘れないでいてくださって、本当に ありがとうございます。「青木ネタ、ないですか~」なるリクエストをいただき、 この度、突発的に製作してみました☆ (ミズキさん、見てるかな) きっかけとしては、手前味噌で恐縮ながら、先日のコメント欄の“一部”が、 意味不明ながら、読んでいて個人的に愉快だったので、ここだけ取り上げて Web拍手などに編集できればなぁ…Web拍手の技術のある方、羨ましいなぁ などと思っていましたら、渡りに船、ならぬ、渡りにクイーンエリザベス! 編集者が現れました!!! ありがとう☆ 他、最近のネタを加えて二編。 お楽しみください。 今回は試みに白地に文字のみ。 質実剛健系(←ものは言いよう)Web拍手v ◆『ひーたん劇場』─自転車編─ ◆『ひーたん劇場』─エアコン編─ 他方、本編には、ぞくぞくと物語の要が集まってくるようです── ■第七章 矢倉沢■◆応援ありがとうございます! 次回更新は、8月15日(金)●友野与一●です。 ご期待ください。次回、与一が出づっぱります。 今回の夏旅行のレポートもさせてください☆
2008年07月31日
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与一の示した絵図(リメイク版) ■第六章 江戸幕府■ 【与一の語ること─後編─】(前回より続いております) 友野与一。 歴史に埋もれたはずのこの少年の生涯を、私は不思議な縁で知ることになるのです──。 時は変わって平成の世。 私は大学院生になっていました。高校も卒業し、静岡という土地とのご縁も薄れ始めていました。ある時、私は静岡の何処かに、仲間達のグループでドライブしに行くことになりました。 この日は晴天でしたが、目的地(それは忘れた)があったのになかなかたどり着けず、私たちは近くにたまたま見つけた小さくはないお寺の境内に車を停めて、いったん休憩することにしました。 吸い込まれるように──などという自覚はその時はありませんでした。 私はつい歴代のお坊さんたちが眠っているとおぼしき丸い塔のあるお墓の方に足を向けていました。古い古いお墓が並んでいます。その列のさらに奥まったところに、なかば崩れかけた塔頭があるのを、私は見つけました。 無縁墓か──ひと目で思ってしまう、それほどの破れよう。 石にかろうじて刻まれた文字を見るともなしに見た私は、自分の目が動かなくなるのをはっきりと感じました。 寛文□□年□□延宝□□□□□友野与一郎水仁□□… 深良用水の開削は寛文年間のことです。 そして、友野与一郎とは、友野座のひとり息子、与一。 至極当然のように私は思い当たりました。 長崎に流されたはずの少年の墓が、なぜ静岡にあるのか。 彼は静岡に戻ってきたのか──もしそうならば、手足の指が失われ、額に烙印を持つ者が自力で戻ったとは考えにくい。彼の身を憐れんだ誰かが戻したというのか? 中学生の折に読んだ古文書によると、友野が沼津で斬首された後、与一は両手両足の指を切られ、額に焼印を押されて母親のりつとともに長崎に流された後、あとを見ないとされています。 友野が斬首に至るまでには、キリシタンバテレンの法を使ったやら、天狗の呪法を使ったやら、およそいいがかりとしかいいようのない理由をつけられたのですが、これはとりもなおさず与一に関わる嫌疑であるわけです。 けれども、与一は当時前髪おろしであって元服していなかったため、かろうじて斬首はまぬがれました。工事ではのべ八十万もの人間を動員した少年を殺すことを、地元の民の一揆を恐れた幕府が躊躇したとも伝えられています。 長崎に流されたはずの少年の墓が、なぜ静岡にあるのか。 彼は静岡に戻ってきたのか──もしそうならば、手足の指が失われ、額に烙印を持つ者が自力で戻ったとは考えにくい。彼の身を憐れんだ誰かが戻したというのか? 私はこのお寺のことを、俄然調べてみる気になりました。 見れば、臨済宗のお寺です。静岡に臨済宗──私はなんとなく違和感を感じました。 そして、すぐさまご住職をつかまえて、お寺の沿革を尋ねました。すると、ご住職は大変に不思議なことを言い出したのです。 「たしかに、この寺は今は臨済宗ですが、江戸時代初期までは曹洞宗だったのです。曹洞宗だった頃の僧侶が、手足を切られた隠れキリシタンの者をかくまっていた咎でいったん廃寺にされたのです。それから七十三年後に別の宗派である臨済宗が新たに開寺して、今日に至っています──」 手足を切られた隠れキリシタンをかくまった…。 この時の私の驚愕が、皆さまにはおわかりいただけるでしょうか。 しかし、私は別のことにも思い至っていました。 七十三年も時を経て、誰も所以を知らなくなった頃、なおも宗派を変えて改開しなければならなかったほど、このことは当時は大事件──言ってみればスキャンダルだったのだ…。 「かくまわれていたキリシタンのお墓は、あちらですね」 私はご住職にかの破れ墓を指しました。ご住職はいぶかしみ、 「キリシタンの墓はここにはないと思います。なぜならその咎でここは廃寺になったわけですから…当時かくまった僧侶とそのキリシタンは江戸の品川に引いていかれ、同日、高輪の札所で火刑に処されて死んだと伝えられています」 それでも、誰かがまたこの寺に与一の墓を作ったのだ──私は震撼しました。 罪人に処されたために、友野座の墓はもとよりありません。 しかし、友野とその息子を、水神のような信心でもって見上げていた当時の駿東の衆が、その命あるかぎり、友野座の末裔を守ろうとしたのではないか…。 不二の麓に、いわれなき仕置きを受けた与一を長崎から戻し、灯台もと暗しと言わんばかりの隠すに最適な場所、仏閣にかくまい、それをすすんで許容した僧侶すらいた。不幸にもそれが明るみになり、与一が品川で処刑された後も、誰かが、いや皆してひっそりとその菩提を弔ったのではないか──今は誰も知る人もいないままに。 浅草に生まれ、父とともに駿東に赴き、江戸で捕らえられ、長崎に流され、さらに駿府に匿われ、最期に品川で処刑される──長かった旅が終わろうとしたその時、十七歳になっていた与一は何を見たのか。身体を焼く熱風と焔、いっときの苦しみ、懐かしい人の顔、父と母の、友の顔、見ることのなかった恋人、得ることのなかったわが子の顔…。 一介のキリシタンとして死んでいく者を見物する人々の中には、「その昔、水神と崇められた友野与一とはこの人のことだ」と胸の内で叫んでいる者もあっただろう。 帰宅の後、私は単独で史料を集め始めました。 郷土史家の知遇を得たこともさいわいし、不思議なことに、ひとつ史料を見い出すと、まるで仲間を呼ぶかのように次々と古文書が見つかっていきました。 そのひとつ、『駿河志料』によると、この廃寺について── 「洞家禅寺なるが、何れなる由にかありけん済家に転じ…」とあり、 『駿府政事録』には「寛文七年九月十三日、今日与一郎、関東より捕らえらる。両手の指を切断、焼印を額に押す。この者を助けた者は罰せられるとの制令を添え、これを長崎に追放す。彦坂九兵衛これを承る…延宝元年正月十七日、駿府の僧、件の与一郎を匿い処罰さる」 また、『修訂駿河国新風土記』の著者新庄通雄は深良用水の通水から百年後、十八世紀の駿府の国学者ですが、彼はその中でこの寺のことを、 「寺之事、もとは曹禅師の末寺なり。いつより今の宗になりしや…」と記し、 「通雄(作者)案ずるに、駿府政事録(前述の書)に記載さる与一郎なる一件が関わるかと──」と推測しています。 一旦廃寺になったこのお寺が再興されるのは、七十三年後です。 禁制のキリシタンを匿うことはお上に逆らうこと。与一がキリシタンであったかどうかは疑いがあるとはいえ、その嫌疑をかけられて仕置きにあった者を、宗教的にも敵対する仏僧が匿った──この奇怪な出来事を記憶する人々がこの世からいなくなるまで、七十三年もの“時”を要したのです。 それでも風聞は息づきます。宗旨替えは再興の条件だったのでしょうか。 一説によると、この駿府の僧は、その昔、箱根権現の稚児職にあった者だったとも伝えられています。 私は今、歴史小説とは、招魂と鎮魂の業であると感じています。 私が抱える史実は、いわば歴史の暗部。 闇に葬られた魂たちは、いつか召喚されることを願って生者を呼ぶのか── 誰にも記録されずに消えた命のために、小さく、静かな声で歌う鎮魂歌でありたい。 ご期待ください。 今年も夏が巡ってきます。 物語が私に降りてくる夏が。 ■第六章 江戸幕府■ ◆応援ありがとうございます! 次回更新は、8月1日(金)●矢倉沢●です。 物語の要が、深良の里にぞくぞくと集まってまいります。 ◆山渡る人々と唯一接触できるすべを持つ兄貴連とともに、来週木曜日より 山に入ります。深山を流れる渓流で、自炊の生活が始まります。 山の中で、ウライ(梁:やな)を仕掛けて鮎を採っているものを見かけたら、 それが私たちですv 本日は我がソウルメイト、カーチンさんのお誕生日です☆ おめでとうございます!!! 皆さまも、どうぞよい夏休みの始まりを──
2008年07月17日
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箱根権現(現:箱根神社)1986年当時 2008年暮れ、透子さんが詣でてくださった箱根権現の現在はこちら。 四半世紀の時を超え、映像の妙です。 ありがとうございます透子さん。 ■第五章 人柱■ 【与一の語ること─前編─】 現在、静岡県の三島市は湧き水にあふれる美しい町として有名ですが、これは富士山の湧き水ではなく、実は芦ノ湖から人工的に引かれた水であることを知る人はいません。 三島市は江戸時代中期までは水資源の少ない土地で、農民たちは貧困にあえぎながら毎日を暮らしていました。けれども、山をひとつ越えればそこは芦ノ湖が満々と水をたたえているのです。 あの水が引けないものか──その一帯の名主であった大庭源之丞は、幕府になんども直訴をしましたが受け入れられず、失意のうちに江戸から帰る折り、浅草の豪商に最後の賭けをしてみようと思い立ち、友野のもとを訪ねました。 浅草に屋敷を構える生粋の江戸っ子であった友野は義侠心にかられ、この通水計画に私財を投じることを、ふたつ返事で承諾します。 その後の数々の艱難はここに書くことはできません。 ここでは、三島からは湧き水が噴き出し、水田は毎年五百町歩の勢いで増えていき──最終的には29ヶ村が潤ったとだけ書いておきましょう。 しかし、箱根用水の通水成功を見た幕府は、友野の威光をよく思わないようになりました。 友野は捕らえられ、工事にキリシタンの秘法を使った罪で、沼津の牢獄であっさりと斬首されます。 時に友野与右衛門四十歳。 妻りつとひとり息子であった十七歳の与一は手足の指を切られ、額に烙印を押されて長崎に流されたと伝えられています。現在の価値で十億を超えた友野座の禄は、幕府の取り崩しに遭い、その後、歴史に名を残すことはありませんでした──。 さて、箱根用水の通水成功の影には、この一人息子の与一の存在が大であった、と私は睨んでいます。 箱根用水について調べ始めたのは、私が十四歳の時でした。当時、私がこの年端もいかない少年に気を取られたのは、同じ年頃の少年が史実に顔をのぞかせたからばかりではありません。それは、私が箱根用水に関する多くの古文書をひもとくたびに、かの少年の記述についてのみ、不思議なことばかりが書かれてあったからなのです。 ひとつに、友野は江戸の豪商であるわけですから、そのひとり息子は生まれた時から都会っ子であるべきです。けれども、与一は父に伴って深良村に居を移すなり、神懸り的な言動をよくするようになります。書にいわく、隧道内の掘削の際、明かり取りから煙が出て人夫が困っていた折り、与一がその寄り合いで「茅の実から油を取って、それに明かりを灯せば煙は出ません」と突如言い出し、みな不審に思いながらも言われたとおりにすると、不思議に煙で難儀することは以降になくなった──。 また、隧道は芦ノ湖側と三島側の二箇所から掘り抜いたのですが、この二つの隧道がぴたりと合わなければ、さらに何本もの試坑を掘らなければならなくなるわけです。これを避けるために測量には相当の技術を要したはずのですが、当時の古文書には測量術についての記述はありません。 ただ、「同じ長さの松明を隧道内に一直線上に焚き、火が一箇所から見てすべてひとつに重なって見えるように掘り抜いてゆけ」との与一の言により工事を進め、隧道は1mの落差でぴたりとつながったのです。 これは、当時のヨーロッパの技術から鑑みても決してあり得ない、いわば世界一の精密さでもって運んだ事業でした。 十四歳の与一が、どこでかような知識を得たのか──誰しもが疑問に思うはずです。当時の古文書の内容からも、周囲がこのことを不審に思っていたことが伺えます。 やがて、そこここから噂が立ち始めます。 与一は夜な夜な権現様の磐倉に通って天狗に会っている──これが、与一が箱根の山中深くに隠れ棲んでいた「何者か」と接触していた可能性を唯一示す根拠です。 そのあたりは箱根連山に囲まれ、山賊も多く出没する土地でした。 危険を賭して、夜な夜な山中に消える与一。村人たちはその姿に何を見たのでしょう。 ただし、日中は至極聡明に工事に助言する少年の持つ独特な霊性と、神仏との交感を演じるその所作が、民に与える心理的効果は決して小さくはありませんでした。 折りしも、島原の乱において十字架をかざして戦った少年が討ち死にして二十年も経っていない頃のこと、噂が噂を呼び、与一がその姿を現すと人夫の数が倍増、ひいては周辺の村々からのべ八十万人を動員し、十七年かかると予想されていた工事は、わずか三年半で完成してしまいます。 芦ノ湖より上の地形にあって、深良村の幸運を始めからよく思っていなかった小田原側のよそ村の者の口から、これらの“不可思議”が次々に幕府に注進されていきます。 友野が斬首にあったことは申し上げましたが、与一はそれからさらに数奇な運命をたどることになります。そして、歴史に埋もれたはずのこの少年の生涯を、私は不思議な縁で知ることになるのです──。 さて。字数の関係で、この後はまた、次回の更新でお話しさせてください。 与一は、本当にキリシタンだったのでしょうか。 与一は、箱根山中で誰に会っていたのでしょう。 さあ、かれ自身が、語り始めます── ■第五章 人柱■ ◆応援ありがとうございます! いつも本当にありがとうございます。励みになります。 次回更新は7月17日(木)●江戸幕府●です。 次回更新までの間に、私にとって待ちきれないイベントがふたつ── あさって7月6日(日)、浅草花川戸から屋形船に乗せていただきます^^ 天麩羅食べ放題だそうです☆ (私は穴子といも天が好き) 本当はすごく高いんじゃないかなぁ。 この経験もまた、今後の一章分の糧となりそうです。 7月13日(日)は、親子で富士登山を計画しています。 今回は河口湖口から入ります。どこまで登るやら── ちなみに。 来週7月8日、9日は美祝の初めての「お泊り保育」で、 パパは今から号泣しています(しょうもねぇ…)。
2008年07月04日
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