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連休から、さっぱり更新できなくてすみません。私は何度も、教育の「押しつけ」のいやらしさと、危険性を書いています。先日、森の声さんから、教育とは何かという羅針盤が必要だ、とコメントをいただきましたが、全くその通りだと思います。 教育とは何か、人は人をなぜ教育するのか?人が教育されるとは、どういうころなのか? これを根本から問いなおしていくと近代国家が作ってきた「学校」というものの意味を根っこから問い直すことになります。 近代国家の学校では、どんなにキレイ言を並べても成績で子どもを評価する一定の尺度があります。そして、それは、国家建設のために有益な基準につながっています。(実は、その実態は、すごく薄っぺらなものなんですが) その尺度から言えば、知恵遅れなどのハンディキャップをもった子は、役に立たない子という評価をどうしても与えられてしまいます。(表立っては言ってはいませんが)そして、福祉の世界に飛ばされてしまいます。 こんなのは、本来の教育ではないことは、明々白々です。根っこから間違っています。(と言っても、明らかだと思うのは、この科学寅さんだけ?) 学校は、これこれを学びなさいと、一定の課題を与えるわけです。その選定自体に、大人の価値観や効果評価が、 当然入ります。しかし、この全体、複雑にすべてにつながった「ホール」の宇宙において、より善いカリキュラムの基準なんて、無限大にあるわけです。 少なくとも、子どもの数以上にあります。それなのに、全国一律なんて、押しつけでないわけがないでしょう? 自然な人類の成長から観れば、学校というのは、と~っても特殊な色眼鏡で子どもを見るところです。そして、大人たちは眼鏡をかけていることに気づきません。これこそ、最大級の押しつけです。 なぜ、押しつけが危険なのか? まず、押し付けられたものは、やる気を奪うからです。また、一つの色眼鏡だけで、子どもを見ることは子どもの潜在力を殺し、成長する力を奪うからです。それぞれの子どもの固有の成長力に沿っていません。 偶然、(突然ですが)youtubeで、「特攻隊」の映像を見てしまいました。讃美する人が多いんですね。深く、深く考えさせられます。 あれを飛ばさせた指導者も、乗り組んで行った若者も、みんな近代国家の学校が作ったのです。彼らの悲劇を無駄にしてはいけない義務を私たちはもっています。(彼らに続けという意味ではありません!) 特攻隊は、決して、現代には関係ないこととは思えません。 一人一人の国民を幸せにするために、国家を強くしようとしたはずが、いつの間にか、本末転倒になってしまったのです。 国を守るのは、当然と言えば当然ですが、 (単純な戦争反対は言いません)国力が劣っていれば、特攻しかないという何と貧困な単一発想しか浮かばない、そういう教育を学校はしてきたわけです。 もし、本当の教育力があれば、非常事態に際して、さまざまな解決策を出し、また、多様な議論をしたはずです。 実際、戦争に負けて、日本は実質的に勝ったようなものです。勝利の道は無限なのです。 押しつけを基本とする学校教育は、優等生に、自分は「物事がわかっている」という錯覚を与えます。これは、このように見るべきだ、と一つの基準をもって安心させてしまうのです。 学問の基本は何でしょうか?それは「ソクラテス」の言うように「無知の知」です。自分は何も分かっていないことを認識することです。だからこそ、いろんな意見を求めるのです。自省をして、多角的な意見を求めるのです。 ところが、学校秀才になると、自分の判断に自信をもち、それにとらわれ、多角的なものの見方ができなくなります。そして、他人にも、それを「押し付ける」ようになります。 私は、明治国家が、軍備拡張に励んだことを非難はしません。世界情勢から、日本の置かれた立場を考えれば致し方なかった。しかし、一つの成功体験から、単一思考になっていく姿そして、そのお先棒をかつぐ「教育」 そもそも、(話は前後しますが) 教育は国家や政治と切り離されるべきことです。教育は、人が人として生きる意味そのものです。もちろん、国家の影響を拭うことはできません。しかし、国家は、あくまで個人のサポートに徹するべきであって、国家のためというテイストを出した途端に、おかしくなります。「学問の独立」は、お題目ではありません。重大な理由があるのです。 国家は、いろんな多彩な教育を自由に選べるようにサポートするだけでいいのです。 それは、結局、国家のためにもなるのです。なぜか?戦時中の硬直的な単一思考が招いた悲劇を思い浮かべれば わかるように、あの当時以上に、現代は、問題が複雑です。何が正義かなんて、簡単に割り切れません。多面的なものの見方ができることすなわち、多様な考えの人材を豊富にもっていることこそ、危機対策なのです。すなわち国力なのです。 何が正しいのか、専門家でもわからないのですから、人それぞれが、それぞれの天分において、それぞれの道を歩むべきなのです。 そうでないと、みんなが同じ方向に歩むと、「全滅」の危険性が増大するのです。 話は、最初の問題にもどります。教育とは何か?私もまだ、一言では言えません。が、少なくとも、ハンデキャップをもった子どもたちを、劣った人たちと見る世界ではないことは、確かですね。(キレイゴトではなくですよ)福祉政策の問題にしている限り、教育は教育とは言えないはずです。 当然、社会の金銭面からの尺度からも自由であるべきです。 確か、ねむの木の宮城まり子さんも、この怒りから、思わず学園を作ったのでしたっけ。 私は、多様な意見の大切さに気づいてもらうために、科学実験教室を今日もやっております。
2022.05.11
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教師こそ、ストーリーテラーでなければならない、と思います。子どもの「現実」を分析するのではなく、子どもの未来の物語を、いくつも語ってあげるのです。物語を創ってあげるのです。 実は、科学者もストーリーテラーです。現実から、物語をつむいでいるのです。 しかし、物理理論と教室での物語が違うのは、素粒子は科学者の物語りに影響されて、行動を変えたりしませんが、教室では、生徒は物語に影響を受けて、その行動を変えるところです。 教師の物語は、天気予報では良くないと思います。子どもたちの統計上の予測、確率的な予測をしてもその子たちにとっては、実存的に意味が無いどころか、害になるだけだと思います。天気予報によって、雲はその動きを変えたりしませんが、子どもは、どんどん変えていくのです。ですから、予報自体が成り立ちません。 もともと可能性の無い子はいませんが、たとえ、そう見える子でも、 ほんのちょっとの可能性でもあるなら、十分に語る意義はあるのです。 「素晴らしい物語」は、目の前のテストの100点より、何倍も意義があります。 その子の人生の素晴らしさは、テストの評価とは比較にならないのです。常に教師は、テストを突きぬけたところに焦点を合わせておかなければなりません。 大丈夫です。素晴らしい物語に焦点を向けることができたなら、テストの結果もみるみる良くなります。子どもが元気になるので、教師の評価も高まります。 しかし、テストに焦点を合わせても、素晴らしい物語は生まれてきません。 テストに焦点を合わせると、どうしても点数を気にします。点数が良くても、悪くても、です。 本当は、テストから、知恵を得ること、が重要なのに、せっかくの知恵のきっかけを、点数稼ぎのテクニックにしてしまうのです。子どもの想像力の翼を折ってしまうのです。 指導者は、少なくとも、点数にとらわれないように気をつけるべきです。そうじゃなく、子どもの思考の流れを褒め称えることに精力を集中しましょう。 たとえ、正解でも不正解でもです。たとえ、なげやりな解答でもです。100のうち、1の思考が入っていたら、それを顕微鏡で拡大して、ほめたたえましょう。 私は、悪いところを批判して、良くなった子どもを見たことがありません。悪いところは、無視するのです。そして、良いところだけを注目するのです。 さらには、可能性が見えない場合でも、つまり、現実から切り離されているような物語でも、無駄だと思わずに、素敵な話をしてあげましょう。もし、子どもに、隠れた素敵な素質があるのなら、その現実離れした話にも、きっと反応するはずです。反応するかどうかは、教師の責任ではなく、すべて子どものタレントです。 ただ、教師の側からできることは、お話をすることだけです。素敵なお話をしてもらった子どもの心には、教師はずっと生き続けます。しかし、点数の取り方を教えてもらっても、それっきりです。 これが、私が生徒と接して、つくづく感じてきたことです。
2022.05.10
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